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ローゼンベルク家の食卓

【4-5-3】君だけの優しい俺

2008/10/08 2:47 四話十海
 夕暮れの帰り道。歩いているうちに次第に仕事明けの高揚感が冷めてきた。
 それにつれて物悲しい風景に誘われでもしたか、今日一日の不運の連鎖が次第にひしひしと胸に迫ってきた。

 まったくもってついてない一日だった。

 女難、水難と来たが次は何だ? 男難か? せいぜいオティアにそっぽ向れるぐらいだろうか。なまじ両親のことなんか調べたのが裏目に出て嫌われるかもしれないが、いいさ。慣れてる。

 帰り際にジョーイからもらった煙草を一本取り出し、くわえて火をつけた。
 深々と吸い込む。メンソールの香りが体内を満たして行く。
 ふーっと吐き出し、気づいた。ああ、まだ火難があったな、と。

 一応、携帯灰皿は持ち歩いちゃいるが、やっぱ歩き煙草はやばいか。消した方がいいのかな。ああ、でも、この一本だけ。
 つけちゃったものはしょうがないし。

 言い訳しながら、ぽぽぽぽっと煙を輪っかにして吐き出していると……。

「ヒウェル!」

 いきなり背後から声をかけられた。聞き覚えのある声だ。

「メンソールのにおいがするから、ひょっとしたらと思ったんだ……」

 振り向くと、ウェーブのかかった赤みを帯びたブロンドに鮮やかな忘れな草色の瞳。ほっそりした腰にすんなりとした手足。雌鹿のような青年が立っていた。
 石膏の彫刻さながらのなめらかな喉が美しい。
 
「フィル…………」
「うれしいな。覚えていてくれたんだ」

 忘れもしない十一月生まれのフィル。
 去年の秋、電話越しにさよならを言われたのが最後だった。俺は双子の事件を追いかけるのに夢中になって、君の誕生日すら忘れていた。

 指先で白い喉をくすぐるたびに可愛い声をたてて笑っていたね。唇を這わせると微かに吐息をもらし、軽く歯を立てると小さく震えた。甘えん坊で、気まぐれで、そのくせ寂しがり。
 腕を組んでぴったり寄り添って来る君の体はしなやかで、あったかくて……。
 しみじみ思ったもんだ。他人に触れるのはこんなに嬉しいことなんだと。

「元気か?」
「うん、元気」

 とことこと近づいてくると、フィルは俺の腕にそっと触れてきた。忘れな草色の瞳がすがるように見上げてきた。

「ねえ、ヒウェル」
「何だい?」
「俺たち、もう終わっちゃった……のかな……」
 
 ああ、君って人は相変わらずだな。予想外のタイミングでいきなり、核心をついてくる。こっちの心構えや精神状態なんかおかまい無しに。

 君が今、何を思い何を望んでいるか……よくわかるよ。
 こんな言い方をするときは、否定を期待してるんだ。引き留めてほしいのだ。察するに今の彼氏と喧嘩でもしたのかい?
 君と別れてからそろそろ1年。程よく思い出が熟成している頃合いだ。楽しいことは鮮明に浮び上がり、悲しいこと、腹立たしいことは曖昧な記憶の薄やみに沈む。

 あさましいとは思わない。自然なことだ。さみしくてすがりたい、けれどプライドを捨てられない。
 だからこうして俺から引き出そうとする。
 自分の望む答えを。
 
『そんなことないよ』

 そう言って、抱きしめて欲しいんだよな。
 わかってる。よくわかってるよ、フィル。1年前の俺なら喜んで君を抱きしめたろう。その白くなめらかな頬を手のひらで包み込んで、煙草なんか放り出してキスしていただろう。

 でも……なぁ。

 今、俺の心に住んでいるのはただ一人。紫の瞳にややくすんだ金髪の少年。猫よりも猫らしく、口を開けば棘が出る。
 その棘さえも愛おしい。
 ちらとでもこっちを見てくれれば幸せ、言葉を返してくれれば幸せ、話しかけてくれたらそれだけで、生きている喜びを噛みしめたくなる。柄にもなくひたひたと、胸の奥を温かな波が満たして行く。

「うん。終わりだね」

 ガツン!

 揺れた。

 頬から顎にかけて衝撃が走り、目から火花が散った。
 遠心力で眼鏡がずれる。
 思いっきりグーで殴られた。まあしょうがないさ、それだけのことはした。

「ひどい人! だいっきらい!」

 鮮やかなブルーの瞳に透明な雫が盛り上がり、ぽろりとこぼれる。後から、後から、とめどなく。
 一瞬、目を奪われた。
 が。

「あ"ぢぃっ」

 じわじわと二の腕から焦げ臭いにおいが立ちのぼる。
 殴られた拍子に煙草が飛んで、腕に落ちたんだ。
 シャツが焦げてその下の皮膚も真っ赤に腫れている。ついてない。このタイミングで火難が来やがったか。
 元カレの涙を拭いてやることすらできぬまま、大慌てで煙草を払い除けた。むき出しになった右腕の火傷に夕暮れの冷たい風が針金みたいにつき刺さる。顔をしかめ、かろうじて悲鳴の第二段をかみ殺した。

(しまらねぇなあ……)

 この期に及んでもまだ、可能性は残ってる。

『ごめんよ、さっきのは嘘だ』

 そう言って抱き寄せて、キスで涙を拭ってやればいい。おそらく向こうもわずかだがそいつを期待している。
 ずれた眼鏡を整えて、じりっと足元の吸い殻を踏み消し、拾い上げて携帯灰皿に突っ込んだ。
 ぼろぼろ涙をこぼしながら、フィルは呆然として俺の動きを目で追っていた。
 くしゃっと顔が歪み、白鳥のような喉が震え………押し殺した嗚咽が漏れる。自分より吸い殻を優先されたのがよっぽどショックだったらしい。

 ごめんな。俺はもう、君だけの優しいヒウェルにはなれないんだ。おそらくはもう、二度と。

 肩をすくめて歩き出し、三歩進んで振り返る。
 彼は泣きながら電話をかけていた。おそらく相手は今の恋人。
 そうだ、それでいい。
 思う存分泣きつき、抱きつけ。君がすがるべき相手をまちがえちゃいけない。

 男難、これだったのか。

(さあ、これで一通り全部来たぞ。次は何だ?)

 そのまま2ブロック歩き続け、角二つ曲がってフィルの姿が見えなくなった所でようやく立ち止まる。
 ごそごそとポケットをまさぐり、煙草を取り出しかけてやっぱりやめた。代わりに昨日、中華街でもらった菓子を取り出してみる。
 落ち込んでる時は甘い物が一番って言ってたよな……今こそこれを食うのにふさわしい時だ。

 ぺりぺりとセロファンの包み紙を剥がした。炸其馬。蜜をからめたしっとりやわらかい中華風のライスクッキーだった。キャラメルポップコーンを四角く固めたような感じだが、元が米だけにもっと小粒でしっとりしている。

「あー、甘いな……なんか、ほっとする……」

 一口食って、二口目を食おうとしたらぽろりと崩れて手からこぼれおちた。
 まあ、相当ハードな一日だったからなあ。もろくなってても仕方ない。

 グルッポー。グルッポー。

 足元には、せわしなく頭を上下させながら地面を歩く奴らが待ち構えていた。
 地面に落ちた菓子の欠片は、ばさばさ寄って来た鳩どもが、あっと言う間にひとかけらも残さずついばんでくれた。

 まあ、一口は食えた……さ。アイスよりはマシだ。

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