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ローゼンベルク家の食卓

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2008年9月の日記

【4-2】ねこさがし

2008/09/08 22:13 四話十海
  • 2006年9月初旬の出来事。
  • 50000ヒット御礼企画、オティアを中心としたエピソードです。
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【4-2-0】登場人物紹介

2008/09/08 22:15 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 フリーの記者。26歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
 オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
 最近だいぶ影が薄くなってきた本編の主な語り手。

【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
 告白の際に著しく心を傷つけられ、今はひたすら『空気』扱い。
 観察力に優れ、また記憶力は驚異的に良い。
 ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。
 動物には優しい。猫が好き。
 ディフの探偵事務所で助手をしている。

【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
 外見はオティアとほぼ同じ。
 オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
 また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
 ディフになついている。
 自覚のないままヒウェルに片想いしている。
 その一方で、オティアとのこじれた仲を取り持とうとする複雑な立ち位置に。
 レオンの法律事務所で秘書見習いをしている。
 動物はちょっと苦手。
 
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 ふと気がつくと今回出番が無い。

【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 頑丈そうな体格だが無自覚に色気をふりまく困った体質(ゲイ相手限定)。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 でも仕事モードの時は強面探偵所長。

【結城朔也】
 通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。
 ディフやヒウェルの同級生だったヨーコ(羊子)の従弟。
 サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
 動物病院では水色の白衣を着ている。
 実家は神社。

【エドワード・エヴェン・エドワーズ/Edward-Even-Edwars】
 通称EEE、もしくはエディ。英国生まれ、カリフォルニア育ち。
 濃いめの金髪にライムグリーンの瞳。
 元サンフランシスコ市警察の内勤巡査でディフとレオンの友人。
 現在は父親から受け継いだ古書店の店主。やや引きこもり気味。
 飼い猫のリズは家族であり、よき相談相手。
 サリー先生のことが何かと気になる36歳。

【リズ】
 本名エリザベス。
 真っ白で瞳はブルー、手足と尻尾が薄い茶色のほっそりした美人猫。
 エドワーズ古書店の本を代々ネズミから守ってきた由緒正しい書店猫。
 現在、6匹の子持ち。
 エドワーズのよき相談相手。

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【4-2-1】リズの子どもたち

2008/09/08 22:17 四話十海
 
 その日、いつもと同じ様に5:00かっきりに目を覚ますと、エドワード・エヴェン・エドワーズは朝食後に庭に出て薔薇を摘んだ。

 こじんまりとした砂岩作りの建物の裏に広がるささやかな庭には大小色とりどりの夏薔薇が今を盛りと咲き誇り、とろりとした香りを朝の空気の中に漂わせていた。
 
 さて、あの人にはどんな花が似合うだろう?

 いつもより心持ち入念に手入れをしながら薔薇の花を品定めして行く。

 緑滴る朝の庭で目を引くのは、まず、おとぎ話のお姫様のドレスのようなひらひらした花びらを幾重にも重ねた大輪の薔薇……ゴージャスだが、いささかかさばる。香りも強い。外で香る分には佳いけれど、部屋の中では少しきつそうだ。
 花の中心から花弁の縁にかけてピンク色のグラデーションのかかった小花の薔薇と、同じ大きさのクリーム色のを合わせることにした。
 
 開いたばかりの花と、まだ開いていない蕾を選んでガーデニング用のハサミでちょきん、ちょきんと切って行く。贈る相手に思いを馳せながら、心をこめて、丁寧に。

 仕事場に持って行くのだから、あまりかさばらない方がいいだろう。花だけでは寂しいから、緑のシダの葉っぱも交ぜた方がいいかな……。

 朝露をふくんだ薔薇のトゲを丹念にとると、改めて丈を短く切りそろえる。母のやり方を思い出しながら、丁寧に。
 根本を濡らしたティッシュでくるみ、輪ゴムで留める。さらにその上からラップを巻いて水漏れを防ぐ。
 仕上げに薄紙でくるりと巻いて、薄いピンクと青の細いリボンの2本どりで結わえる。
 幸い、ラッピング用の薄紙とリボンは豊富にあった。

 贈り物として本を買い求めるお客も多いのだ。

 じっくりと時間をかけて小ぶりな薔薇の花束を作り上げるとエドワーズは満足げにうなずき、中にタオルをしいたピクニックバスケットを準備した。
 さて、どうやって誘導しようかと考えていると、子猫たちは自主的に近づいてきた。
 目をきらきら輝かせ、ヒゲをぴーんっと前倒しにして。

「みうー」
「にう、にう、にう」
「みゃ」

 助かった。
 この所、めっきり移動速度の早くなってきたこの6匹のにごにご動く毛玉どもを追いかけて、確保して、バスケットに詰め込むなんて……。
 想像しただけで目眩がする。
 できればそんな難易度の高い追いかけっこには参加したくないものだ。

 バスケットのにおいをくんくん嗅いでる子猫たちを、ひょい、ひょい、とつまみあげて中に入れる。しっかりとフタを閉めて留め具をかけた。
 準備をしている間中、リズはずっと足元にまとわりつき、何か言いたげに青い瞳で飼い主の動きの一つ一つを見守っていた。

「大丈夫、心配ないよ。サリー先生がどんなに優しいかお前も良く知ってるだろう?」

 手をのばして頭をなでると、ひゅうんと長いしっぽが巻き付いてきた。
 
「それじゃ、リズ。行ってくるよ」


 ※ ※ ※ ※


 20分後、エドワーズは大学付属の動物病院の待合室にいた。薄桃色とクリーム色の小さな薔薇をコンパクトにまとめた花束と、子猫の入ったピクニックバスケットを抱えて。
 さっきまでは、ごそごそ、もそもそと動き回る気配がしたが今は静かだ。フタをあけて様子を確かめる。

 初めての病院で緊張してはいないだろうか。
 怖がってはいないだろうか?

 もわっと、微かに湿り気を帯びたあたたかい空気が立ちのぼってくる。
 白と薄茶の毛玉が五匹、黒い縞模様のが一匹。互いの体に顔を寄せ合い、折り重なって眠っていた。思わず顔がほころぶ。
 しかし次の瞬間、子猫どもはぱちっと目を開き、一斉にこっちを見上げた。と、思ったら………押し合いへし合いしてよじ上ってきた。

 おおっと!

 あわてて閉めた。
 やれやれ、油断もすきもない。だが、この分なら心配しなくてよさそうだ。

「エドワーズさん、どうぞ」

 来た。
 彼だ。
 ラッキーなことに待合室まで呼びに来てくれた。すっと立ち上がると、エドワーズは水色の白衣を着た眼鏡の獣医師に歩み寄った。

「あの、サリー先生」
「はい、何でしょう?」
「これを……」

 さし出された薔薇の花束を見て、サリー先生はわずかに眉根を寄せて何とも微妙な表情をした。困惑と戸惑い、そして微笑が入り交じり、そのどれでもなくなっている……。
 慌ててエドワーズは付け加えた。

「ちょうど……夏薔薇が盛りでしたので……その、いつもお世話になってる感謝をこめてっ」
「……ありがとうございます、綺麗ですね……。 待合室に飾ってもらいますね」

 サリー先生の眉に入っていた力が抜ける。ほっとしたのが伝わってきた。

「……はい。棘はとっておきましたから……」

 早まったことをしてしまったかな。
 苦笑しながらバスケットを抱えて診察室に入る。
 ほわほわの砂糖菓子のようなクリーム色と薄いピンクの薔薇の花束は、アシスタントのミリー嬢に手渡された。

「それで、今日はどうしましたか?」
「はい、リズの子供たちを連れてきました。健康診断をお願いします」

 かぱっとバスケットを開けると、一匹ずつ子猫を取り出して診察台の上に並べた。たちまち、ちっちゃな尻尾が6本つぴーんと立てられる。

「みうー」
「うわあ、可愛いなあ……」

 サリー先生は屈託のない笑顔を浮かべて子猫たちを見ている。花を渡された時よりうれしそうだ。
 6匹の子猫たちは我れ先にサリー先生に近づき、鼻をくっつけてくんくんとにおいを嗅いだ。ピンク色の口をかぱっと開けて口々に、人間には聞こえないほどの甲高い声で何やら話しかけている。

「はいはい、順番にねー」

 サリー先生は次々と子猫たちを抱き上げて体温と体重を量り、素早く歯や目、耳、手足、爪、尻尾、お尻の穴、お腹を確認してゆく。
 撫でているとしか思えないようなさりげない仕草で、子猫たちもまったく警戒していない。
 楽しそうにころころと転がり、四つ足をじたばたさせながら「にうー」と甘えた声を出す。

「はい、終わり。次は君ね」
「みゅー」

 もっと遊ぶ、とまとわりつく子猫をぽいっとバスケットに入れてお次の一匹。見ているうちにさくさくと6匹ぶんの健康診断が終わった。

「はいみんな健康ですねー。特に感染症もなさそうだし。ワクチンはもうちょっとたってからにしますか?」
「そろそろもらい手も決まってるので……今日お願いできますか?」
「はい。じゃあ少しお待ちくださいね。すぐ準備します。マリー先生!」
「まあ、可愛い団体さん……リズの子猫?」
「はい」
「お母さんに似て器量よしぞろいね」

 サリー先生とマリー先生、二人の獣医師は手際よくぷすぷすと注射をして行く。初めて注射をされた子猫がちっぽけな牙を剥き、「しゃっ」と怒った時にはもう終わっている。
 ただ一匹、バーナードJr.は何をされても終始静かで、「にゃ」とも「しゃっ」とも鳴かなかった。

「はい、おしまい。みんな元気でね」

 サリー先生は名残惜しそうに最後のモニークを撫でるとバスケットに入れた。

「ありがとうございました」

 6匹もいれば少しは診療時間も長くなって、それだけ一緒にいられるかとほのかに期待したのだが……。
 こんな時はちょっぴりその手際の良さが寂しい。

「子猫たちがいなくなってしまうと、寂しくなりますね」
「そうですね。ずっと賑やかな日が続いていましたから。もらわれて行く先は、ほとんど近所なんですが」
「近くなら、時々会いに行けて、いいじゃないですか」

 ああ、花を渡した時より、何倍もすてきな笑顔だ。くやしいな。

「ええ……そうですね」

 でも、この顔が見られることが今、ひたすらうれしい。

「ワクチン接種時期は新しい飼い主の方にも教えてあげてくださいね」
「はい、忘れずに伝えます。ありがとうございました」
「お大事にー」

 バスケットを抱えて待合室に戻る。
 ふわっとかすかに馴染みのある香りを嗅いだ。
 ピンクとクリーム色の薔薇が花瓶にいけられ、受け付けのカウンターに飾られていた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 花をいけた花瓶をカウンターに置いてから、ミリーは素早く手帳をめくり、秘かに日記に記入しているスコアを更新した。

『本日の撃墜者1名。クリーム色とピンクの薔薇の花束』

 後でサリー先生に聞いてみよう。「あの花をくれた人、どう?」って。


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【4-2-2】ひっくり返ったバスケット

2008/09/08 22:18 四話十海
 
 駐車場に戻るエドワーズの足どりは重かった。
 花束を渡した瞬間のサリー先生のあの何とも微妙な……困ったような顔が頭から離れない。

 あの人を困らせてしまった。しかも、フォローしようと慌てて心にもない言い訳をづらづらと口走って。みっともないにも程がある。
 感謝の印だって? 嘘をつけ。

(いや、確かに半分はそうだったのだけれど。あと半分は……)

 深いため息が漏れた瞬間、踏み出した足がガツっと固いものにぶつかった。駐車場の車止めだ。何故、こんな所に?

(いや、これはここにあるのが正しい。まちがっているのはむしろ踏み出した自分だ)

 大量に分泌されたアドレナリンが思考を飛躍的に加速する。
 妙に冷静な分析が閃く中、エドワーズの体は確実に駐車場のアスファルトの上に倒れてゆく。掴まり、体を支える場所はない。

 子猫たちを守らないと!
 とっさに片手で受け身をとりつつ、もう片方の手でがっちりとバスケットを抱え込む。警察を辞めてから3年が経過していたが、警察学校で身につけたことは抜けていなかった。

 思い出すより早く体がきちんと然るべき動きをし、直撃は免れた。バスケットも無事だった。
 だが何と言う不運。留め具の締め方が甘かった!
 衝撃でかぱっとフタが開き……

「みー」
「にゃっ」
「みゃっ」

 ころころとやわらかな毛玉が6匹、転がり出る。

「ああっ」

 地面に降りたと思ったら立ち上がり、短い足を素早く動かし、た、た、たーっと四方八方に飛び散って行く。

 脱走だ!

「大変だっ」

 あわてて手近にいた一匹をつかまえ、ベストの懐に突っ込んだ。

「にうー」

 もぞもぞと懐の奥で動いている。とりあえず一匹確保。だが他の子猫はどこだっ?
 がくがく震える膝をふみしめて見回す。ちらっと隣の車の下に見慣れた黒縞の尻尾が見えた。

「バーナード! そんな所に入ってないで……」

 懐の中にいた一匹をバスケットに移し、今度こそ留め具をしっかりかけてから腹這いになって車の下に潜り込む。

「おいで、バーナード」

 バーナードはとことこと近づいてくると、ふん、ふん、と指先のにおいを嗅いだ。くすぐったい。だが遠い。もうちょっと……今だ!
 前足をつかんだつもりが手の中にあるのは後足だった。素早いったらありゃしない、いったいいつ方向転換したのだろう?

「ごめんよ、バーナード……」

 じたばたするバーナードの後足をつかんで引き寄せる。痛くはないだろうか。心配だが今はまず、身柄の確保が最優先だ。
 じりじりともう片方の手が届く位置まで引き寄せて、両手で抱えて車の下から連れ出した。
 素早く確認する。

 よかった、怪我はないようだ。

「よくガマンしたね。えらかった」

 バスケットの中にいれると先客が「にう!」と声を出す。その時になって最初に確保したのがティナだったとわかった。

「あと4匹……どこだ?」

 見回した瞬間、心臓が凍りついた。
 そばの街路樹の幹を、ざっしざっしと登っている白い毛玉が………アンジェラだ。いつの間に、あんな高い所まで!

「Noooooo!」

 もはやなり振りかまっていられない。バスケットを木の根本に置くと、エドワーズは何年ぶりかで木登りに挑戦した。
 ベストやシャツにいくつもかぎ裂きができる。木の枝が顔をひっかき、葉っぱが髪の毛にへばりつく。だが、構わず遮二無二登り、なおも高みを目指すアンジェラを捕まえて懐に押し込んだ。

「危なかった……」

 降りるのは登る以上に大変だった。慎重に、慎重に。懐のアンジェラをまかりまちがってもつぶしたりしないように。
 ああ、地上が遠い。
 他の子たちはどこにいるんだろう。こうしている間に遠くまで行ってやしないだろうか。

「うわっ」

 ずるっと足が滑る。慌てて枝を掴み、体を支える。片足が宙に放り出される。危ない、危ない……。
 待てよ。この高さなら、飛び降りた方が早くないか?

 目で地面との距離を計る。今は一秒でも時間が惜しい。よし、やるぞ。

 どさりと飛び降りた。じーん、と足の裏から膝、腰にかけて衝撃が走る。懐でごそごそとアンジェラが身動きした。

「よしよし、驚かせてしまったね」

 取り出して無事を確認してから、バスケットに入れた。
 これで3匹確保!
 あとは? どこだ? どこだ? まさか表通りに出てはいないだろうな……。

「あら、子猫ちゃん」

 二台向こうの車に乗ろうとした女性がふと足元を見て首をかしげた。

「どうしたの、あなた。こんな所で何してるの?」
「そ、その猫、うちのですっ」

 全力で駆け寄った。
 女性は一瞬、ぎょっとした顔でエドワーズを見返してきたが、満身創痍の彼と抱えたバスケット(もぞもぞ動いてにーにー鳴いている)を見て全てを察したらしい。
 うなずくと足元にすりよるオードリーを抱き上げてくれた。

「どうぞ」
「ありがとうございます……」

 女性の手からオードリーを受け取り、バスケットに入れた。残りはモニークとウィルだ。いったいどこに?
 その瞬間、表通りの方ででキーっと車の急停車する音が聞こえてきた。

「まさかっ。ウィル? モニークっ?」

 駆け出そうとしたその時、目の高さで「にーっ」と鳴く声がした。

「あ………ウィル………………」

 白茶の子猫が一匹、すぐそばの車のボンネットの上でとくいげに足をふんばっていた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ウィルを回収してから念のため表通りまで確認しに行った。幸いなことに……本当に幸いなことに、車の急停止は子猫とも、それ以外の動物とも無関係だった。

(神よ、感謝します)

 しかし、モニークの姿はこつ然と消えたまま、いくら探しても見つからない。
 時間はどんどん過ぎて行く。
 捜索範囲を広げようにも一人で探せる距離はおのずと限られてしまう。

 どうしよう。
 一体、どうすれば?

 不吉な予感がぐるぐると胸の底でうずを巻く。
 ふとその時、脱走したバーナードを届けた時の花屋の店主の言葉を思い出す。

『ああ、よかった、もう少しで探偵事務所に電話しようと思ってたんだ!』

 探偵。その一言から細い糸が伸びてゆき、記憶の底から友人の結婚式でサリー先生と交わした会話を釣り上げる。

『時々探偵事務所で動物探したりしてます』
『………迷子のペットも探してるんですね、彼が』

 エドワード・エヴェン・エドワーズはいざとなると迷わない男だった。
 決然とした面持ちでバスケットを抱えて車に乗り込むと、ユニオン・スクエアに向けて走り出した。
 自宅ではなく、友人の経営する事務所に向かって。急げば10分もかかからず着けるはずだ。
 彼は捜査のプロだ。こう言う時はプロに任せた方がいい。それがベストの選択なのだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「戻ったぞ」

 マクラウド探偵事務所では、ちょうど帰ってきた赤毛のいかつい所長が、ややくすんだ金髪に紫の瞳の有能少年助手に声をかけた所だった。

「留守の間、何かあったか?」
「急ぎの用事は、別に」
「OK。じゃあ、本日の捜査はこれにて終了。一件片付いたから報告書にまとめる」
「ん」
「留守番ご苦労。しばらく自由にしていていいぞ」
「わかった」

 所長がデスクの上のノートパソコンを起動し、有能少年助手が読みかけの本に手を伸ばしたその時……呼び鈴が鳴った。
 二人は顔を見合わせ、所長が声をかけた。

「どうぞ。開いてます」

 勢い良くドアが開いて、シャツもズボンも髪の毛もくしゃくしゃにした金髪の男が血相変えて、ピクニックバスケットを抱えて入ってきた。

「マックス、助けてくれ、リズの娘が行方不明なんだ!」

 行方不明?
 ディフとオティアは顔を見合わせた。いきなり穏やかじゃない。だが、それなら彼の取り乱した様子もうなずける。

「落ち着け、EEE。その子、年はいくつだ?」
「三ヶ月」
「誘拐かっ?」

 既にごつい手が卓上の電話に伸び、受話器を取り上げていた。

「いや……病院の帰りに……逃げ出して………」

 ぱちくりとディフはまばたきした。
 逃げ出した? 確かに今、そう言った。

「えらくアクティブな0歳児だな」
「私がいけないんだ………うっかり、バスケットをひっくりかえしたばっかりに!」

 バスケット?
 所長と助手は顔を見合わせると、改めてエドワーズの抱えたピクニックバスケットに視線を向けた。
 きっちりフタの閉められたバスケットからはかすかに、ごそごそと何かの動き回る気配がした。さらに落ち着いて耳をすますと何やら「みゅーみゅー」と小さな甲高い声が聞こえる。

「もしかして……いなくなったのは………猫、か」
「ああ。子猫だ」
「何てこった!」

 ディフは受話器を一旦置き、電話を切った。

「担当が違うじゃないか。SFPD(サンフランシスコ市警)じゃなくて、アニマルポリスだ!」

 いなくなったのが猫だろうが、人間の子供だろうが。一大事なことには変わらない。少なくともこの3人にとっては。

「それで、いなくなった場所は?」
「動物病院の駐車場」
「大学病院付属の?」
「ああ」
「そこなら馴染みの場所だ。第一駐車場?」
「いや、裏手の第二駐車場だ」
「そっちか。わかった。病院で保護されてないかどうか確認してみる」

(そうだ、まずは病院に確認をとるべきだった。何故、気づかなかったのだろう? しっかりしろ、エドワード)

「子猫の名前は?」
「モニーク。白い体に胴体の左側に薄茶のぶちがある。目は青、ピンクの首輪に迷子札をつけている」
「OK。メスだな?」
「ああ」
「マイクロチップは?」
「まだ入れていない。新しい飼い主の家に行ってからの方が良いと思って」
「そうだな、その方が手続きは楽だ……いなくなった時間は?」

 エドワーズは必死で記憶を手繰った。
 財布から病院のレシートを取り出し、記載されていたレシートの時間と自分の懐中時計を見比べる。祖父の代から受け継がれてきた銀色の時計はこまめなメンテナンスのおかげで今も正確に時を刻んでくれる。
 駐車場までは歩いておよそ5分、故に自分が転んでから経過した時間は……。

「だいたい30分ぐらい前だ」
「わかった。アニマルポリスにもかけとくか?」
「いや、自分でやるよ」
「OK、そっちは任せた」

 エドワーズは唇を噛むと携帯を取り出し、アニマルポリスに電話をかけた。万が一に備えて番号は登録してあったが、まさか使う日が来るなんて。

「ハロー? うん、俺だ。実は子猫が行方不明で……名前はモニーク、白に腹の左側に薄茶のぶち、ピンクの首輪、迷子札をつけている」

 マックスの声を聞きながら、半分、悪い夢を見ているような気分でアニマルポリスの担当にいなくなったモニークの特徴を告げる。
 しばらく電話口の向こうでパソコンを操作し、データを照会する気配がした。

『……お待たせしました』

 電話の相手は事務的な口調に適度な共感を織り交ぜつつ、『残念ながら該当する子猫はまだ保護されていない』と教えてくれた。
 見つかったら連絡してくれるよう頼んで電話を切る。

「……そう、エドワーズんとこの子猫だ。30分前に第二駐車場でいなくなった。そっちに保護されてないか? ……そうか。うん、ぜひ頼むよ。それじゃ、後でまた」

 どうやらマックスの方も空振りだったらしい。
 ため息をついてうなだれる。

 ウ……イィイイイン、カシャ。

 視界の隅で何かが動く。
 かすかな音とともにプリンターから紙が吐き出されていた。ちらっと見た所、動物病院付近の地図のようだった。どこでいつ、行方不明になったのかも詳細に記録されている。いつの間に準備していたのだろう?
 金髪の少年がカタカタとキーボードに指を走らせている。またたく間に画面上にチラシのひな形が呼び出された。
 タイトルは

『迷い猫さがしています』。

 Wordであらかじめ基本のフォーマットを作ってあったらしい。
 かたかたとキーが鳴り、先ほど自分の告げたモニークの特徴が打ち込まれて行く。

「写真、ありますか?」
「あ、ああ、これを」

 エドワーズは携帯を開き、モニークを写した画像を呼び出した。リズと6匹の子猫たちは全て一匹ずつ、写真に収めてあったのだ。

「その携帯、Bluetooth対応?」
「ええ」
「じゃ、こっちに送ってください」

 言われるまま、少年の操るパソコンに写真を転送する。彼は手際よくチラシにモニークの写真を張り付けた。

「ああ……こんなことなら、リズも連れてくればよかった」

 作業の合間に少年が顔を上げ、何やら物問いたげな視線を向けてきた。

「リズは母猫の名前です。いなくなったモニークは一番末っ子で……冒険心旺盛かと思えば臆病で。家にいるときもしょっちゅう物置やら庭木の下にもぐりこんで姿が見えなくなる。けれど、いつもリズが見つけてくれた」

 少年はじっと聞いていた。レイアウト作業が終わるとエドワーズを手招きし、画面を確認してくれと言ってきた。

「あの、このチラシに私の住所や電話番号は入れなくていいんですか?」
「連絡先は、ここの事務所にしています」
「でも、外に出ていたら」
「大丈夫、留守番で俺が残ります」
「そうですか……では、これでお願いします」

 少年はこくんとうなずくと、『印刷』のボタンを押した。かすかな音ともにプリンタが次々と「迷い猫探しています」のチラシを印刷して行く。
 ぴん、と尻尾を立てた白い子猫の写真が何枚も、何枚も重なって行く。

 ああ、モニーク。
 無事でいてくれ。

「モニークは、家から出たのははじめてなんです。家族以外の他の猫に会ったこともまだなくて……。臆病な子だから、引っ掻かれないように、気をつけて」

 こくん、とまた、金髪の少年がうなずいた。

「大丈夫」

 チラシの印刷が終わると、今度は写真そのものをプリントアウトし始めた。
 おそらく調査の時、人に見せて聞き込みをするのに使うのだろう。実に有能なアシスタントだ。しっかりと教育が行き届いているようだ。

「オティア、写真は二人分だ。人手が足りない。お前も来い」
「……ああ」
「事務所が空になるから上に連絡入れとけ」
「わかった」
 
 オティアと呼ばれた少年が青い携帯を開いてどこかに電話をかける間、所長は卓上の固定電話を操作していた。

「チラシの番号に連絡が入ったら俺の携帯に転送されるようにしておいた。お前は、こいつらつれて一旦帰ってろ。見つけたら連絡する」
「わかった……頼むよ、マックス」

 ぼふっと肩を叩かれた。骨組みのしっかりした、大きな手で。

「任せろ、EEE」

 
 ※ ※ ※ ※

 
 エドワーズを見送ってから、オティアとディフは車に乗り込み、問題の場所に向かった。

 動物病院の駐車場にいかつい四駆車を停め、ドアを開け、左右に降りる。
 手足の長さも体重も、筋肉の付き方も違うのに何故か二人が地面に降り立つタイミングはほぼ一緒だった。

「装備確認。地図」
「OK」
「写真」
「OK」
「チラシ」
「OK」
「よし、手分けして探そう。ここを中心にして、俺はこっちを探す。お前は向こうだ」
「わかった」
「猫を見つけたらその場で連絡。何かトラブルに巻き込まれてもすぐに連絡しろ。いいな?」
「OK」
「……体調悪くなったら無理せず休め。いいな?」

 オティアは黙ってうなずいた。いつもと同じポーカーフェイスで、ぴくりとも表情を動かさないまま。

「それじゃ調査開始」

 猫探しは円を描くように動くのが基本だ。
 所長と助手は背中合わせに歩き出し、それぞれ自分のペースで猫探しを始めた。

 一人は大またで、ゆっくりと。
 一人は小さな歩幅で小刻みに。


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【4-2-3】オティア、猫を探す

2008/09/08 22:19 四話十海
 
 ディフはもう行ってしまった。相変わらず歩くのが早い。振り返りもしない。ここは俺に任せたってことだろう。
 まず猫がいなくなった現場を観察してみる。

 病院の駐車場だが、メインではなくやや離れたところにある。横は病院目的以外の車はほとんど通らなさそうな路地だった。その向こうは住宅街が広がっている。
 これなら慌てて飛び出して交通事故って可能性は減る。
 3ヶ月の子猫だから、あまりうろうろしないでそのあたりに隠れてるといいんだが……。

 チラシを入れたクリアファイルを手に歩き出す。
 見失った場所を起点にして、半円を描くように道を選び、ゆっくりと。
 何だか手足が重い。事務所で座っている時はそれほどでもなかったが、動き出すとじわじわと体調の悪さを自覚させられる。
 9月初旬、天気は晴れ。海からの風が強い時はそれなりにひやりとするが、長袖シャツにジーンズという格好ではまだ暑い。野球帽はかぶってきたが、あまり時間をかけないほうが良さそうだ。
 半袖の服は持っていない。サイズが同じだからシエンのを借りることもできるがそのつもりもない。
 肌を晒すのが嫌なのだ。他人の目にも。自分の目にも。

 このあたりの家は、表通りからは庭が見えないつくりが多い。
 隣の家と庭同士がフェンス一枚で仕切られていて、道もない場所もある。手入れされていないとかなり茂っていたりして、そういう場所に入り込まれると外からでは探しようもない。

 仕方がないので、用意したチラシをポストに入れて、見える範囲で中をのぞき込むことにする。

 昼間の住宅街は、通る人もほとんどいない。時々すれ違う人にチラシを見せてみるが、皆首を振る。
 もっとも、これは元々期待はしていないが。
 時おりじっとチラシを熱心に見て、探してみるよと答える人がいる。きっと自分でも猫を飼ってるのだろう。

 そんな調子で一軒一軒チェックしながら歩いていくと、数軒分離れた場所にある家のレンガ塀の上で、大きな猫が寝ていた。
 顔の丸い、耳のたれた猫だ。
 狭い塀の上で器用に横になっている。どう見ても身体がはみだしているんだが、落ちないんだろうか?

 確かスコティッシュフォールドって名前だったよな…と思いつつ歩いていくと、猫もこちらに気づいた。だが、ちらりとこちらを見ただけであくびをひとつして、また寝はじめた。

「お前、オスメスどっちだ?」
「にゃー」

 寝たままで返事があった。でもどっちだかわかんないぞ。

 発情期のオスは子猫を見ると噛み殺すことがある、とサリーが言っていた。こいつはのんびりしてるから発情中ってことはないだろうが、それでも縄張りに他の猫が入ってきたら追い出すかもしれない。

 うーん、尻尾つかんだら怒るだろうなぁ。

 性別を確かめるのは諦めて、近寄って軽く撫でてみる。
 猫は満足そうにごろごろと喉を鳴らした。

 撫でていると、塀の向こうの庭の奥に、もう一匹違う猫が現れた。
 今度は灰色と黒の虎縞だ。塀の上にいるやつよりはひとまわりほど小さい。身体を低くして耳を後ろに向けている。
 警戒のポーズ、だが、狙っているのはこちらではない。
 塀の上のやつはあいかわらず昼寝中。背後で何が起こっているか気にする様子もない。

 虎縞は更に庭の奥に向かっている。植木の向こうに隣の家との境になるフェンスがあって、どうやらその向こうにターゲットがいるようだ。
 低くうなり声をあげる。

「ふーーーー!」

 その声に隣の家の茂みが、小さく揺れた。
 
 ……いた!
 声は聞こえなかったし、姿も見えなかったが、間違いない。
 虎縞はフェンスを超えることができず、威嚇しただけだ。
 
「わりぃ、通してくれ」

 チラシを入れたファイルを小脇に挟み、いまだに動こうとしない昼寝猫の横に手をかけ、乗り越えようとした。
 その時。

「待て、お前!」
「っと」

 背後からの声に、塀の上にのっかった状態で止まる。ちょっとまぬけだ。
 横で猫が不機嫌そうに「にゃー」と鳴いた。 
 
「そこから降りろ!」

 振り返ると、立っていたのは40前ぐらいの作業着の男性だった。
 ポリスじゃない。おそらくこの家の主でもない。ただの通りすがりの。
 しまったな。反射的に止まっちまったけど、無視するべきだった。通報されたところで、後でどうとでもなったのに。
 さっきの猫を追いかけるには、タイミングを逸してしまった。
 
「このクソガキ、こんな昼間っから空き巣か!?」

 作業着の男はやけにエキサイトしている。
 ………ウザい。
 
「うるせぇよ」
「なんだと」
「あんたこのへんの人間じゃねーだろ。口出すな」
「このガキ…!」

 男が手を伸ばしてくる。それをかわして、道路に飛び降りた。ばさり、と足元にファイルが落ちる。中に挟んだチラシが数枚、こぼれ出して扇状に広がった。

 どうする?
 男は怒りに顔を赤く染めている。
 最初から話し合う気はないし、単に逃げるのも手間と時間がかかる。
 体調は良くないが、この程度の相手なら、どうとでもできる。
 
 ……やるか。
 
 固く拳を握り、体重を軸足にかけた。

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【4-2-4】ヒウェル参上

2008/09/08 22:21 四話十海
 
 ここんとこオティアは具合が悪そうだ。
 寝込むほどではないにしろ、ベストコンディションからは遠い。オレンジとイエローの境目をふらふらと低空飛行をするような、何となくそんな日々が続いている。

『大丈夫か?』
『ちょっと休んだ方がいいんじゃないか?』

 とてもじゃないが、俺の口からはまちがってもそんな指摘はできやしない。言った瞬間に黙って背を向けるのはいい方で、下手すりゃ睨むだけじゃすまされないかもしれない。
 もっとも空気が何かをほざいた所でそれこそ風の音ぐらいにしか聞こえないのだろうけれど。

 だから、黙って見守るしかない。
 おそらく、シエンのフォローでどうにか今の状態を維持しているのだろう。
 ディフは心配そうに見守っている。ほんの少し眉根を寄せて、離れた場所から。普段はその素振りすらオティアには見せず、彼が部屋に戻ってから目を伏せて小さくため息をつく。

 食卓に漂う温かな空気の中に、ざらりと。みぞれみたいな小さな固い粒が混じっている。一つ言葉を交わすたびに顔に当たり、喉の奥にチクチクとつき刺さる。
 そこはかとなくいたたまれない……原因は俺。
 全て俺。
 だが、それでもオティアから離れると言う選択肢はない。
 我ながら勝手な男だ。
 だけど気になるんだよ。

 最近、何げにサリーが事務所に出入りする回数が増えてるし。また奴が来るとオティアの様子が柔らかくなるってーか……寛ぐのだ。
 紫の瞳の奥に常にうねっている苛立ちのさざ波が、ほんの少しだが確実に穏やかになっている。

 悔しいけれど、俺にはできない。
 無理だ。
 何かしたところで余計にオティアにストレスをかけるだけ。打つ手はいつも見当違い。四苦八苦した挙げ句に選ぶ答えはいつも外れで、かえって事態を悪化させる。
 だったら大人しくしてりゃいいのに、ガマンできずにまた手を出す。
 悪循環だ。

 それでも、かろうじて職場にまで顔を出すのは自粛していた……一週間ばかり。ここまでがまんしたんだ、そろそろいいよな? 自分勝手な理屈をひねり、久しぶりに探偵事務所に行ってみたらカギがかかっていた。
 
 やれやれ。
 やっぱり俺には外れクジがお似合いってことですかい。

 運命の女神相手に軽く悪態をつき、事務所のドアに背を向ける。しおしおとエレベーターまで引き返し、ボタンに手を伸ばした。
 どうする?
 指先が下りのボタンに触れる直前でくるりと手のひらを返し、上りのボタンを押した。
 このまま引き下がってたまるかよ!
 ディフも、オティアもいないのなら、必ず上の法律事務所に連絡を入れているはずだ……。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「よう、シエン」
「オティアなら猫探しにいくって言ってた」

 挨拶への返事がこれだ。わかってらっしゃる。

「猫……そうか………猫かぁ………………どの辺り……かな。」

 慌てて付け加えた。

「あ、いや、ほら、手は多い方がいいだろっ」
「詳しくは聞いてないけど。んー」
 
 シエンはちょこんと首をかしげている。

「……あ、いや、いい、ディフに電話してみるから」

 しばらくコール音が続き、低い声が出た。

「何の用だ」

 あまり機嫌よさげじゃないな。だが構うもんか。無視されなきゃこっちのもんだ。

「シエンから聞いた。猫探してるんだって?」
「ああ、生後三ヶ月の子猫をな」
「俺も手伝うよ」
「お前が?」
「手は多い方がいいだろ?」

 ほんの少し考える気配がした。

「わかった。猫の写真と現在位置をメールする」
「了解、お待ちしてます、隊長」
「所長だ、阿呆」

 ぷつっと電話が切れた。
 シエンが心配そうにこっちを見てる。

「大丈夫、いつものことだよ……お、来た来た」

 短く鳴った携帯を開き、メールを呼び出した。白い体に青い瞳の子猫が写っていた。左側の腹に薄茶色のぶちがある。
 ぶちの形はちょっとゆがんだ円形。真ん中は濃く、縁に近づくに連れて徐々に淡く霞んで行き、まるでコーヒーをにじませたみたいだ。

「……なんか、どっかで見たような猫だな……」
 
 シエンが横からのぞきこむ。

「ちいさいね」
「生後三ヶ月だってさ。まだほんの子猫だ。飼い主、心配してるだろうな………」

 添えられた現在位置の座標を元にシエンのパソコンを借りて地図を呼び出し、確認してからもう一度電話をかけた。

「写真届いた。場所もわかった。猫の逃げた現場ってのは、どこだ?」
「動物病院の第二駐車場」
「なるほど、でお前さんは西に向かってるんだな?」
「ああ」
「調査開始は何時頃? ……OK、すぐそっちに向かうよ」

 よし、大体の位置はつかめてきたぞ。
 電話を切って、シエンに一言、ありがとう、と告げてから走り出す。
 裏道使って車を飛ばし、10分もかからずに子猫の失踪現場にたどり着いた。
 まちがいない、ディフの車がどんっと停まってる。

 所長が西に向かったんならオティアは東だ。以前、猫を探すのは現場から円を描くように追跡するのだと聞いたことがある。二人掛かりだから今回の場合は半円か。

 軽く眼鏡を整えて歩き出した。

 オティアを探しながら。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 道の両脇にこぎれいな家の立ち並ぶ住宅街。きちんと区画分けされた庭は通りには直接面していない。子猫を探しているなら、この奥まった庭をチェックしながらゆっくりと移動しているはずだ。

 目を凝らし、耳をすましながら歩いていると、風に乗ってかすかに聞き覚えのある声が聞こえてきた……耳はいいのだ。実際に。
 それが言葉として脳みそで認識されるより早く、声音を聞いた時点で走り出していた。
 にごりのない澄んだ少年の声とごわごわの男のだみ声。どちらも短調、おせじにも上機嫌とは言いがたく、特にだみ声は最悪。
 時おり音程を外して跳ね上がり、明らかにエキサイトしているのが伝わってくる。

「ふぁーおおおおぅ、ふぉーっっ」

 猫の声だ。ドスが利いてる。ありゃ、そうとう怒ってるな?
 一気に胸の中の不吉な予感が膨れ上がる。

 角一つ曲がった瞬間、とんでもない光景を見ちまった。

 作業服姿の四十がらみの男が、よりによってオティアの腕をつかんでやがる! 一方、オティアの傍らの塀の上からはずんぐりむっくりした茶虎の猫が一匹、背を丸めて尻尾をぶわぶわに膨らませ、かっと赤い口を開けて唸ってる。
 怒りの矛先は作業服姿の男だ。

「しゃーっ!」
「な、何だ、このどら猫がっ」

 猫に威嚇され、男がわずかにたじろいだ。
 オティアが無表情のまま拳を握り、さりげに片足に体重をかける。
 一発仕掛ける気だな?
 だが、今やったらお前、出るのは拳じゃすまないぞ! 自分じゃ気づいてないみたいだが……。

 ガラスみたいに冷たく堅い光を宿した紫の瞳の奥に、かすかに……あらゆる色の混じり合った色のない虹がうねり、今にもぬうっとせり上がろうとしている。
 真昼の明るさの中でもそれと知れる、単なる光線の反射なんかじゃすまされない底知れぬ煌めき。
 まだ、ほんの兆しでしかないが、あの光は見間違えようがない。いつぞや倉庫を崩壊させた力の奔流……その前ぶれとなった渦巻く虹。
 いったいどれだけストレス溜めてるんだ、オティア。能力の制御すら甘くなっているなんて。

 滅多に全力疾走はしない主義だが、今回ばっかりは別だ。
 走りながら声を張り上げる。

「Hey! オティア!」

 こっちを見た。
 見てくれた!

 ……バカだな、俺。こんな時だってのに、嬉しい、とか思ってる。

 彼が俺の存在を認めた瞬間、ちろちろとゆらめいていた剣呑な光がすうっと消えた。
 よし、最大のピンチは脱したぞ。
 よれよれになりながら駆け寄る俺を、作業着のおっさんが胡散臭そうににらみつけてきた。

「何だ、貴様」
「…………………保護者」

 男の注意が俺に移った一瞬をついて、オティアがつかまれた腕を振りほどく。この細っこい体のどこにこれほどの力が潜んでいるのやら。

「このっ、ガキがっ」

 慌てて二人の間に割って入る。

「はーい、そこまで。善意ある市民の平穏な会話で済ませますか?」

 にっこりと口の端を釣り上げてほほ笑むと、練り上げた言葉の針をちくりと差し込む。

「それとも、未成年者への暴行……」

 さーっとMr.作業着の顔から血の気が引いた。
『未成年』と『暴行』。この二つの単語の組み合せがエキサイトした脳みそを一気にクールダウンしてくれたらしい。

「どっちを選びます、Mr?」
「いや……俺は……ただ、子供が一人で歩いてたから……」

 見え見えの言い訳だがうなずいて同意を示す。少なくとも相手が事態を丸く収めたがってるんだ、便乗しない手はない。

「そりゃどうもご親切に」

 気を良くしたのか、男はほんのちょっぴり勢いを取り戻し、俺にびしっと人さし指を突きつけてきた。

「お、お前も保護者なら、ガキのそばを離れるんじゃねえっ!」

 オティアが露骨にムっとした顔をした。ガキと言われたのが気に食わないのか、それとも俺が保護者じゃ不満か? ともあれこの場はこのおっさんに退場いただくが最優先。にっこり笑ってぱたぱたと手を振った。

「ありがとう。ご忠告、肝に銘じときます。それじゃごきげんよう!」

 Mr.作業服を見送ってからオティアの方に向き直ると、つま先に何か軽いものが触れた。
 迷い猫のチラシだ。絡まれた時にでも落ちたか。拾い上げて軽く土を払って元通り中に収める。

「これ」

 ちらっとこっちを見て、そのまま歩き出しやがった。さし出したファイルはもちろんスルー。

「おい……待てよ」
 
 返事もしない。
 代わりに「くぁーっ」と塀の上であくびをした奴が約一匹。さっきの虎猫が塀の上にうずくまり、眠そうにしぱしぱと目をしばたかせていた。
 すれ違い様、一声かける。

「……お前、よくその体勢で安定できるなあ……」

 大きなお世話、とでもいいたげに耳を伏せ、そっぽを向かれた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 オティアは文字通り後も見ずにすたすたと歩いて行く。どうやら、こいつには子猫の居場所がわかっているようだ。
 迷いのない足どりで区画の反対側に周りこみ、さらに前進。さっきまで居た場所のほぼ反対側やって来るとぴたりと止まった。
 木戸越しに手入れの行き届いた裏庭が見える。ふかふかした緑の芝生の奥に物置がぽつんと建っていて、引き戸にわずかにすき間が開いていた。

 ここいらの家は道に面するようにしてまず建物があり、庭は敷地の背面に回る構造になっている。
 さっき虎猫の昼寝していた家と、こっち側の家とは庭同士が接触している訳だ。人間ならいちいち道に出て玄関口に回らなきゃいけないが、猫なら庭伝いに自由に動ける。

 察するにオティアの奴、子猫を見つけてとっさに塀を乗り越えようとでもしたか?
 そこで空き巣狙いとまちがえられて絡まれたってとこか……通りすがりの庭師か、清掃業者、あるいは配管、配線工事の業者にでも。

 立ち止まった背中に声をかける。

「どうした、オティア」
「……いる」
「子猫が? ここに?」

 答えはない。だが、じっと物置の扉のすき間を見つめている。こいつがいると言うのなら、それはかなりの確率で真実だ。

「OK、ちょっと待ってろ」

 全力疾走でくしゃくしゃになった髪を手ぐしで整え、首の後ろできっちり結わえ直す。シャツを整え、ネクタイをきちんと締めて……今にも喉がぐえっとなりそうになる。だがこの方が印象はいい。

 仕上げにばたばたと全身のほこりをはらい、汗をふいて。一通り身繕いを終えてから玄関の呼び鈴を押した。

「はい……どなた?」

 ドアの向こうで優しげな初老のご婦人の声がした。覗き穴に向かい、さっと『迷い猫』のチラシを一枚掲げてにっこりと笑みかける。

「失礼します、実は私、居なくなった子猫を探していまして……お宅の庭を、それらしい子猫がうろちょろしてるのをこの子が見つけたものですから」

 半歩さがってオティアの姿が見えるようにする。そっぽを向いているが、こっちが子連れだとアピールしといた方が警戒される度合いが格段に下がるのだ。

 果たしてドアが開き、品の良さそうなご婦人が現れた。淡いオレンジ色のサマードレスを着てレースのショールを羽織り、肩の上では白髪まじりの亜麻色の髪の毛がふわふわと、綿菓子みたいに波打っている。
 ヘーゼルブラウンの瞳が俺と、オティアを交互に見つめた。
 すかさず、手にしたチラシをうやうやしくご婦人にさし出した。

「この猫です」

 綿菓子頭のご婦人はごく自然にチラシを受け取り、優しげなヘーゼルの瞳でじっと見つめている。
 どうやら、猫好きらしい。いい傾向だ。

「まあ、かわいい猫ちゃん……ちょっとお待ちくださいね、今、木戸を開けますから」

 亜麻色の髪のご婦人は一旦奥に引っ込み、しばらくすると庭に通じる木戸の向こう側にやってきて内側から鍵を開けてくれた。

「どうぞ、お入りください」
「ありがとうございます、それじゃおじゃましますね……おいオティア、OKだってさ」

 オティアはぺこりとおじぎをして、とことこと庭に入って行く。
 迷わず、物置き目指して一直線。

 少し離れて見守っていると、引き戸に手をかけてこっちに確かめるような視線を向けてきた。

「あの物置、開けてもよろしいですか?」
「ええ、ガーデニングの道具しか入っていませんし……」
「いいってさ!」

 こくっとうなずき、そっと扉を開けて、中に入って行く。ごそごそと動く気配がした。

「あなたは、行かなくてよろしいんですか?」
「ええ、猫の扱いは彼の方が上手いんです………プロですから!」
「まあ、すごいのね、お若いのに」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 物置の中は薄暗く、土と、木と、芝生のにおいがした。建物の中なのに、まるで深い森の中にいるような錯覚にとらわれる。

「モニーク?」

 床に置かれた木箱の間から「にう………」とかすかな声が聞こえた。

 いた。

 床に膝をつくと、オティアは慎重に手を伸ばした。

「しゃふーっ!」
 
 暗がりで青い瞳がぴかっと光る。
 全身の毛をぼわぼわに逆立て、ちっぽけな口を開けていっちょまえに威嚇している。箱と箱のすき間に手を入れて近づいて行くと、あぐっと噛まれた。
 尖った細い牙が四本、ぷつっと指に刺さる。
 思わず顔をしかめた。
 幸い、後ろは壁だ。これ以上逃げられることはない。オティアはそのまま猫をつまみあげ、連れ出した。

「にう、にうにう」

 ちっぽけな白い毛皮の塊がころん、と手の中に転がり込んで来る。片手で楽に抱けるくらいの大きさで、ほとんど重いとも感じない。

「………こんなちびのくせに脱走したのか……」

 改めて両腕で抱きかかえて、外に出る。明るい場所で見ると、白い後足にぽつっと赤い染み。血がにじんでいる。他所の猫にやられたか、あるいはパニックを起こして走り回っているうちにどこかに引っ掛けたか。

 怪我をして、怯えてここに隠れていたのだろう。もぞもぞとシャツに鼻面を押し付けてきた。
 傷口に手を当て、意識を集中する。この程度の傷なら自分一人でも治せる。

「に?」

 一瞬、手のひらと傷口の間にわずかな熱がこもる。手を離すと、子猫の傷は跡形もなく消えていた。
 これでいい。
 木戸の所に戻り、オレンジの服の婦人にぺこりとおじぎをして歩き出した。

「見つかったのね。よかった」

 隣で待ち構えていたヒウェルのことは……見ないふりをした。

「あ、おい、待てって!」

 すっと横を通りすぎる。
 背後で婦人に礼を言っているのが聞こえた。

「あ、ありがとうございます、おかげさまで無事見つかりました。ほんっとーに感謝します! それじゃ」

 やっぱりあいつ、女性相手の方が楽しそうだ。やたらと礼儀正しいし、気配りにも抜かりがない。
 ぎゅっと奥歯を噛みしめる。

「にう」

 手の中で子猫が身動きした。
 あたたかい。
 子猫はオティアの顔を見上げて、ちっぽけな口をぱかっと開けた。

「にゃーっ」
「……オティア」

 振り向くとヒウェルが立っていた。心配そうにこっちを見てる、その顔つきを見て収まりかけた苛立ちがまた頭をもちあげそうになる。

「連絡は?」

 そうだ、それがあった。
 手の中を見る。白い子猫はすっかり安心したらしく、丸くなってごろごろと喉を鳴らしている。ちっぽけな前足でオティアの腕にしがみついて。
 シャツの袖ごしに押しあてられた肉球が、熱い。

「……かけろ。ディフに」
「はいはい。お取り込み中なんですね」

 首をすくめてヒウェルは携帯を取り出した。

「ハロー? うん、俺。今オティアと一緒にいるんだ。いなくなった子猫、見つけたよ。無事だ……ああ、これから駐車場に戻る。それじゃ!」

 ヒウェルが電話を切った時、オティアは既に子猫を抱えて早足で歩いていた。

「わあ、素っ気ない」

 ため息一つ。ぐいっとネクタイをひっぱっていつも通り適度にゆるんだ状態に戻すと、ヒウェルは小走りに後を追いかけた。
 慣れない全力疾走の反動ですっかり力が抜けて、カクカク震える膝を踏みしめながら。
 
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【4-2-5】初めての探偵料

2008/09/08 22:22 四話十海
 
 家に帰ってから、エドワーズは上の空だった。と、言うか抜け殻だった。
 店を開ける気にもなれず、「休憩中」の札を出してカウンターにぼんやりと座る。
 足元では子猫たちがこれ幸いところころと遊び回っている。あんな脱走劇を繰り広げた後なのに、なんてタフなんだろう。

 1、2、3、4……何度数えても5匹。いちばんちっぽけで臆病なモニーク。そのくせ妙に好奇心旺盛で、隙あらば庭に出ようと身構えている。
 今頃、どうしているのだろう……。

 ひやりと湿った感触が手首に押しつけられる。控えめに、そっと。

「……リズ」

 ひゅん、と長い尻尾を腕に絡めてきた。

「すまない。私がうっかり転んだばっかりに……」

 リズは黙って顔を掏り寄せてきた。抱き寄せ、やわらかな毛並みをなでる。

「大丈夫だよ。マックスは優秀な警察官だったし、助手の少年も利発そうな子だった。あの二人ならきっとモニークを見つけてくれる」
「にゃ」
「あの子……結婚式で見かけたね。確か、レオンの落した指輪を拾った子だ」
「みぅ」
「リングボーイを勤めるぐらいだからかなり親しい間柄なのだろうな。そっくりの子がもう一人いたはずだが……双子かな?」

 リズと話しているうちに少し落ち着いてきた。
 くいっとシャツを引っぱられる。袖に引っかかった葉っぱをリズが前足でちょいちょいとつついていた。
 あれから服もまだ着替えていない……シャツはかぎ裂きだらけで、ベストにも木の枝や葉っぱがこびりついたままだ。

「ああ、確かにこれは、ひどいね……着替えてこよう」

 奥で破れたシャツを脱いていると、カウンターの上で携帯が鳴った。慌てて飛びつく。

「マックス?」

 脱いだシャツが何かに引っかかって崩れて、どさどさ、ばささっと派手な音がしたが、今はそれどころじゃない。

「よう、EEE。喜べ、モニークが見つかった」
「本当か! すぐ、迎えに」
「……いや、こっちが送ってく。お前は大人しく待ってろ」

 はたと気づくと脱ぎかけたシャツがくしゃくしゃに丸まって腰のあたりにぶらさがり、上半身はアンダーシャツ一枚。
 信じられない、こんな格好で店に飛び出していたのか。
 さらに足元には、きちんとジャンルごとに分類して箱に収めてあったはずの整理前の在庫本が、床一面にちらばっている。まるでヨセミテ国立公園の落ち葉みたいに。
 箱ごとひっくり返したらしい。
 不覚。
 本をこんな風に乱雑に扱ってしまうなんて。

「ああ……そうだな。お願いするよ」
「それじゃ、また後で」

 マックスの読みは正しい。今みたいな状態でハンドルを握るのはとてつもなく危険だ。
 足元をするりとしなやかな毛皮がすり抜ける。

「リズ。モニークが見つかったよ」

 駐車場でひっくり返ってから数時間。初めて笑顔が浮かんだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※

 
 駐車場に着くと、既にディフが戻っていた。

「よう」
「手間かけたな。ありがとう」
「いや、見つけたのはオティアだし」
「ああ、それはわかってる」

 あー、はいはい、『まま』は全部お見通しですか……言いかけて口をつぐむ。
 口をへの字に曲げててきぱきと、四駆の中からペットキャリーを取り出す今のディフはどっから見ても仕事モード。
 ままじゃなくて所長の顔だ。

「お疲れさん、オティア。よく見つけたな、人見知りの激しい子なのに」
「わかりにくいとこに隠れてた」
「そうか……助かったよ」

 言う方も、言われる方も、にこりともしない。
 作業のついでに声をかけていると言った感じで視線すら合わせない。
 そのくせ、キャリーのフタが開けられるのにぴたりとタイミングを合わせてオティアがディフの傍に歩み寄る。

 そして両者流れる様な動きで子猫をペットキャリーに……入れようとして問題が発生した。白い子猫がひしっとオティアにしがみついて離れようとしない。
 無理に引きはがそうとすると爪を立ててますます強くしがみつき、シャツがびろーんと引っぱられる。

「……しかたない。この子は責任持って最後までお前が送り届けろ。EEEんとこまで送ってってやるから」
「………」
「今、あいつに車運転させたらどうなるかわかりゃしねえし。できるだけ早く母猫や兄弟に合わせてやりたいだろ?」

 オティアはディフの顔を見上げて、それからこっちに視線を向けてきた。

「……はいはいわかりましたよ」

 両手を上げて一歩後じさる。

「子猫は無事確保で一件落着、役目の終わった助っ人は大人しく退散しますよ……あ、これ、返しとく」

 ディフにチラシの入ったクリアファイルを手渡し、さっさと自分の車に乗り込んだ。
 シートベルトを着けながら、バックミラーを確認する。ミラー越しにオティアがこっちを見ている、ような気がした。

 まさかな。
 ちらっと写っていただけだ。
 あきらめの悪い俺の願望がそんな風に見せただけ……そうに決まってる。
 
 猫を探している間はオティアと二人きりでいられた。ちゃんと俺を見て、存在を認め、言葉を交わしてくれた。
 それだけで十分だ。

 エンジンをかけて走り出す。見送るより、見送られる方がいい。だんだん遠ざかる車を見ていると、訳も無く寂しくなっちまうから。
 大切な人が乗っていると、なおさらに。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 カランカラン……

 ドアを開けると、上端に取り付けられた金属製のベルがやや低めの音程を奏でる。
 心地よい響きに迎えられてエドワーズ古書店に入って行くと、オティアに向かって5匹の子猫たちが我れ先にわらわらと駆け寄ってきた。

「にうー」

 ぴん、と立てられた5本の尻尾が足にまとわりつく。
 そして最後に、すらりとした白い猫が駆け寄ってきて足元にきちんと座り、見上げてきた。屈み込むとオティアは腕に抱えた白い子猫をそっと床に降ろした。
 母猫は子猫にすりより、ぺろぺろと愛おしげになめる。すぐに他の5匹も押し寄せてきて、帰ってきた末の妹を出迎えた。

「お帰り、モニーク……ありがとう、マックス」
「俺じゃない。見つけたのは彼だ」

 エドワーズは子猫を抱いていた少年に近づき、敬意と感謝をこめて一礼した。

「ありがとう、ええと……」
「オティア・セーブルだ。オティア、こいつはエドワード・エヴェン・エドワーズ。俺の警官時代の同僚だ」

 オティアは秘かに納得した。
 だからEEEなんて呼んでたのか。いつも思うが、ディフの命名センスはどこかずれてる。

「ありがとう、Mr.セーブル。あなたはモニークの命の恩人です。いくら感謝しても足りない」

 オティアは正直とまどった。こんな風に他人から率直にほめられることに慣れていないのだ。
 増して一人前の大人みたいに扱われるなんて! 振り返ってディフの顔を見上げる。

 所長、どうすればいい?

 ヘーゼルの瞳がわずかに細められる。ほんの少し目尻が下がり、口角がぴっとはねあがる。
 仕事中の基準で言えばこれがディフの「笑顔」になる。OK、あるいは問題無し、と言うことらしい。

 改めて依頼人に向き直り、軽く頭をさげた。ほほ笑んで、うなずいてくれた。

「なーっ、なーっ」

 母猫が足元にすりより、顔を見上げて甲高い声で鳴いている。何やら言いたげだ。
 しゃがみこむと膝に前足をかけて伸び上がり、ふん、ふん、とにおいをかいできた。
 ヒゲが当たってくすぐったい。

 そーっと撫でる。目を細めて顔をすりよせてきた。指の間を、つややかな白い毛皮がすり抜けて行く。何て柔らかいんだろう。
 自分が今まで触れたどんな布の中にも、こんなに柔らかくて手触りの良いものはない。
 結婚式の時になでたシェパードの堅い毛並み、がっちりした骨格とはまるっきり別物だ……あれはあれで温かくて心地よかったけれど。

 足元をころころと6匹の子猫が転げ回っている。
 手をふれずにじっと見守った。

「……しばらく、そっとしておいた方が良さそうだね」
「ああ。猫の好きな子なんだ。ぜひ、そうさせてくれ」
「わかった。お茶を入れてくるよ」

 そのうち、子猫たちは何かのスイッチが入ったように、だだだだーっと追いかけっこを始めた。
 リズは目を細めてスフィンクスみたいな優雅な姿勢でうずくまり、子猫の運動会を見守っている。
 走ったと思うと何の前ぶれもなく2匹がジャンプ、空中でがっつり四つに組み合って床を転げ回る。
 感心して見学していると、だだーっと何やら身軽な生き物が背中を駆けあがってきて肩の上で足を踏ん張った。
 小さな爪がきゅっと食い込む。

「いてっ」

 モニークだ。他の兄弟たちを見下ろし「ふんっ!」と鼻息を荒くしている。

「……いてぇよ、お前……」

 モニークはオティアの顔を見て、ちっぽけなピンクの口を開けて「にゃーっ」と鳴いた。どうやら、すごくいい場所を確保したと思っているらしい。
 困った。どうしたものか。
 とまどっているオティアの足を、残りの5匹がわらわらとのぼっていた。
 あっと言う間に少年は6匹の猫にたかられ、もこもこした毛皮に覆われてしまった。

「ああ……やっぱり」

 白と茶色、一部黒の混じった『猫ツリー』を見てポットを抱えたエドワーズが小さくつぶやいた。

「大丈夫かな?」
「大丈夫だろう。長袖着てるし、子猫の爪なら大したダメージはない」
「けっこうあなどれないものだよ?」
「怪我なら手当すりゃいいし、服が破けたなら繕えばいいさ」
「……相変わらずだね、マックス」
「お前も相変わらず紅茶派だよな」
「ミルクは使うかい?」
「いや、ストレートで」

 濃い目に入れた紅茶をすすりながら二人はさりげなくオティアと子猫たちを見守った。

「…………」

 子猫たちはオティアの背中に、肩にまとわりつき、頭も顔もおかまい無しによじ上る。さすがに彼の忍耐も限界に近づき、こめかみがひくひくと震え始めた。

「にゃ!」

 鋭くリズが鳴き、限度を知らない子猫たちを一喝。子猫たちがひるんだその隙にオティアは立ち上がった。

「にうー」

 ころころと柔らかな毛玉が転がり落ち、一回転して床に着地する。1、2、3、4、5……。モニークはジーンズにしがみついて最後までねばっていたが、とうとうリズに首根っこをくわえられて引っぱり降ろされてしまった。

「みぃ……」
「にゃっ!」
「みぅ……」

 何となく、しょげているように見えた。

 やれやれ、しかたない。
 あきらめてオティアはもう一度しゃがんだ。モニークがぱっと顔をかがやかせてざっしざっしとよじ上り、膝の上で丸くなった。
 うっとりと目を細めてごろごろと喉を鳴らしている。
 
「えらくリラックスしてるな、あの子猫」
「ああ。モニークは気に入ったようだ、彼のことを。一番の臆病なのに」
「そうみたいだな」
「……マックス」
「何だ?」
「Mr.セーブルは……その……猫の飼える家に住んでいるのだろうか?」

 ディフはさほど深く考えずにうなずいた。

「ああ」

 彼らの住んでいるマンションは実際、ペットOKだったのだ。

「そうか………」
 
 やがて遊び疲れた子猫たちは部屋のすみっこに折り重なって眠ってしまった。
 名残惜しげにモニークをリズに返してオティアがカウンターに近づいてきた時、エドワーズは紅茶をすすめながら控えめに切り出してみた。

「Mr.セーブル。モニークのことなんですが……まだ、行き先が決まっていないのです。よろしければ……」

 ほんの一瞬、オティアは考えた。まばたきよりも短い間。そして、首を振る。
 
 左右に。

「そうですか………」

 エドワーズは思った。
 残念だ。彼なら、モニークの良い飼い主になってくれるだろうに。
 マックスも小さく息を吐き、目を伏せている。ああ、彼も同じ意見なのだな。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 事務手続きとモニークの捜索料金の支払いを終え、いとまを告げる探偵二人を送り出そうとしてふとエドワーズは気づいた。
 オティアの指先にぽつっと、小さな赤い穴が開いている。上下左右対象に、全部で四つ。
 モニークだ。
 表面の血は既に乾いている。おそらく、迷子を発見した時に噛みついたのだろう。ベストのポケットから絆創膏を取り出し、うやうやしくさし出した。

「これを。よろしかったらお使いください」
「…………ありがとう」

 オティアは思った。これぐらいの傷、すぐに治せる。しかし彼の心遣いを無視するのは何となく気が引けて、絆創膏を受けとることにした。
 ちらりと所長の方をうかがうと、黙ってうなずいた。
 OKってことらしい。
 どうやら、自分は依頼人に対して正しい応対をすることができたようだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 帰りの車の中でオティアはぼんやりともらった絆創膏を眺めていた。

「……初めての探偵料だな」
「え?」
「それだよ」
「……ああ」

 シャツの胸ポケットにしまう。
 この手の物は自分にとってはほとんど必要ない。指先の傷に視線を落す。少し、ひりひりしてきた。治しておこうか?

 ちっぽけな赤い点。子猫の歯形。膝の上で丸まって、ごろごろ喉を鳴らしていた。
 白いふかふかの毛皮。瞳は澄んだブルー、母猫や他の兄弟たちとおそろい。左のお腹にちょっといびつな丸い薄茶色のぶちがあった。
 まるでコーヒーをこぼしたような色と形をしていた。

 ため息がもれる。
 自分でも気づかないうちに。

「可愛い猫だったな」
「…………」

 答える気にはなれなかった。ディフもそれっきり、何も言わない。黙って車を走らせる。

(お前、あの猫、飼いたかったんじゃないか?)
(猫、飼ってもいいか?)

 言いたかった一言を、お互い胸の奥に沈めたまま。

 事務所に戻ると、ディフは固定電話から動物病院に電話をかけた。
 
「ああ、もしもし、サリー。メール読んでくれたか?」

 どうやらサリーがとったらしい。

「……うん、そうなんだ。モニークな、無事見つかったよ。さっきエドワーズん所に送ってきた所だ。安心してくれ。また何かあったらよろしく頼む。それじゃ」

 会話を聞きながら帽子を脱ぎ、クリアファイルを机の上に置く。シャツのポケットから絆創膏を取り出して……引き出しにしまった。
 電話を切るとディフはこっちを見て、ぼそりと言った。

「コロコロしとけ」
「……あ」

 服にも、髪の毛にも、猫の毛がびっしりとへばりつき、まるで白いマーブル模様みたいになっていた。
 全身にしがみついていた子猫たちの感触を思い出す。少ししっとりしてあたたかく、ゴムまりみたいに弾力があった。
 口のまわりがむずむずする。無意識のうちに食いしばっていた奥歯がゆるみ、ほんの少しだけ力が抜けた。

 その時、オティアは笑っていた。
 それはとてもかすかなもので、誰の目にとまることもなくすぐに消えてしまったけれど……。

 確かに、笑っていたのだった。
 

(ねこさがし/了)

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【4-3】hardluck-drinker

2008/09/15 23:15 四話十海
  • 何をdrinkするかと言えばこの場合はアルコールを指します。
  • レオンにしろディフにしろヒウェルにしろ、いっぱしの酒飲みですが今回飲んでしまうのは……。

【4-3-0】登場人物紹介

2008/09/15 23:16 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 フリーの記者。26歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
 オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
 最近、夕飯の時にしか出番の無くなってきた本編の主な語り手。

【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
 告白の際に著しく心を傷つけられ、今はひたすら『空気』扱い。
 観察力に優れ、また記憶力は驚異的に良い。
 ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。
 ディフの探偵事務所で助手をしている。とても有能。
 最近、秘かに体調を崩し、どんどん悪化させている。

【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
 外見はオティアとほぼ同じ。
 オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
 また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
 ディフになついている。
 自覚のないままヒウェルに片想いしている。
 その一方で、オティアとのこじれた仲を取り持とうとする複雑な立ち位置に。
 レオンの法律事務所で秘書見習いをしている。
 体調を崩して行くオティアのフォローで心身ともに疲弊中。
 
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフと双子に害為す者に対しては穂高の槍の穂先並みに心が狭い。
 ヒウェルに対してはとことん容赦無い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 無防備に色気をだだ流しにする奥さんに秘かに苦労が絶えない。
 今回家庭内で全力で本気を出す。

【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 頑丈そうな体格だが無自覚に色気をふりまく困った体質(ゲイ相手限定)。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 子育ての苦労は尽きない。

【アレックス/Alex-J-Owen】
 レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
 有能。万能。
 レオンさまと奥様、双子のため日々がんばる。

【結城朔也】
 通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。
 ディフやヒウェルの同級生だったヨーコ(羊子)の従弟。
 サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
 動物病院では水色の白衣を着ている。
 
【結城羊子】
 通称ヨーコ、もしくはメリィさん。
 サリー(朔也)の従姉。
 高校時代、サンフランシスコに留学していた。
 ディフやヒウェルとは同級生。今もメールや電話でやりとりをしている。
 現在は日本で高校教師をしている。
 ヒウェルの天敵。


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【4-3-1】飲酒発覚

2008/09/15 23:17 四話十海
 ひた、ひた、ひたり。

 汗が流れている。
 冷たい汗が。

 上からも滴り落ちて来る。
 生臭い、獣の臭いのする汗が。

 組みしかれた体の下で、金属が軋る。ぎいぎい、ぎしぎしと耳障りな音を立てて泣き叫ぶ。

(ああ、五月蝿いな)
 
 生臭い汗をまとわりつかせた大きな手が、足を押し広げる。薄暗い部屋の中、無機質な光が閃いた。

 カシャリ。
 カシャ。
 カシャッ。

 五月蝿い。
 五月蝿い。
 五月蝿い。

 ああ、嫌だ。いっそ、何もかも消えてしまえばいい。

 獣の臭いのたちこめる薄暗い部屋も。
 なす術もなく弄ばれる…………………………この体も。

 ひた、ひた、ひたり………

(やめろ)

 ぎし、ぎし、ぎぃ。

(やめろ)

 ぎぃ、ぎぃ、ぎちり………ぎちぎちぎち………

(やめろ!)

 ガシャン!
 ジィイン…………ジャラン。

 どこかで堅い物の割れる音がした。

「オティア……オティア?」

 だれかが呼んでいる。この世で一番、身近で安心できる声。うっすらと目を開けた。

「あ……」
「………オティア」

 シエンがのぞきこんでいた。

 また、やってしまったのか。

 見回すと枕元に置いてあった目覚まし時計が消えていた。
 1コインショップで見つけた、レトロな形のベル式の時計。つやつやと青い塗料で塗られた外見が何となく目を引いて、買ったものだ。

 目をこらすと、寝室の壁際に落ちていた。ガラスが割れて針が飛び、ベルの部分が妙な角度にねじれ、二つあったうちの一つが無くなっていた。

 まるで気まぐれな手がぐいと時計を壁に押し付け、猛烈な力でにぎりつぶしたような……不自然極まりない壊れ方をしてる。

 皮肉なもんだ。
 あんな力、起きている時は出そうと思っても決して出せない。

 シエンが手を握ってくる。
 すがりつくように。
 にぎり返した。

(絶対、知られちゃいけない)

 優しさも信頼も、このことが知られた途端、一瞬のうちに畏れと嫌悪に変わった。今までずっとそうだった。

(知られたくない)

 無くしたくない。今、惜しみなく注がれる笑顔と信頼を。温かさに包まれれば包まれるほど、放り出された時の冷たさが恐ろしい。
 この部屋を……………この家を、離れたくない。
 シエンの為に。

 シエンとうなずきあうと、オティアはベッドを抜け出し、床に立った。

(片付けなければ。何事もなかったように、跡形も無く)

 濡れた寝間着がじっとりと肌にはりつく。

 ひた、ひた、ひたり。

 冷たい汗は、まだ流れていた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「っ!」

 ベッドの中、身を堅くして目を開けた。
 肋骨の内側で心臓が跳ね回っている。音が聞こえそうなほど激しく。口をとじていないと、喉から飛び出しそうだ。
 呼吸を整えながら隣を伺う。
 すぐそばでレオンが穏やかな寝息を立てていた。

 ほっとした。

 だが、相変わらずざわざわと、妙な胸騒ぎがする。
 そろり、そろりとベッドを抜け出した。愛しい人の眠りを妨げぬように、静かに。椅子の背にひっかけたガウンをとり、羽織る。足音をしのばせてドアを開け、廊下に出た。

 常夜灯のわずかな明かりを頼りに居間に向かう。
 胸の奥の不吉なさざ波はまだ収まらない。それどころか次第に強くなって行く。

 居間に入る。薄明かりの中、隣の部屋……かつては自分が住み、今はオティアとシエンの居る部屋に通じるドアが浮び上がって見えた。
 頭の半分は浅い眠りの中を漂い、もう半分は鋭く冴え渡る。夢と現つの境目の中、奇妙な確信を覚えた。

 子どもたちに何か起きたのだ。

 明かりのスイッチを入れる。
 まばゆい光の中、唐突に現実が戻ってきた。

(……俺、何やってるんだ?)

 日中、あのドアはほとんど開けっ放しだ。しかし今は鍵がかかっている。自分のキーホルダーにもその鍵はついているから、入ろうと思えばいつでも入れる。
 だが………あくまで、あそこは双子の住居だ。今、勝手に入ればあの子たちの信頼を裏切ることになる。
 そっとドアまで歩み寄り、耳をすます。五感を研ぎ澄まし、向こう側の気配をうかがう。

 ……。
 ………………。
 …………………………………何もわからん。
 
(当たり前だ、犬じゃあるまいし)

 震動もない。声も聞こえない。走り回る気配もない。やはり気のせいだったんだ。
 あの子たちも、隣に俺たちが居るのはちゃんと知ってるんだ。何かあったら、呼びに来てくれるだろう。
 そう、信じたい。

(呼ばれない限りこのドアの先へは入れない。今はまだ、入るべきじゃない)

 自分にそう言い聞かせる。だが、それでも立ち去りがたくて、未練がましくドアの前にたたずみ続ける。
 二月の終わり頃、二人そろって熱を出した時があった。あの時はまだこっちの部屋に居たから、夜中に様子を見に行くこともできたけれど……。

 ぽん、と肩を叩かれた。

「あ……レオン?」
「目がさめたら姿が見えないから……心配した」

 眉を寄せて、レオンは迷子の子どものような途方に暮れた顔をしていた。
 さらりとした絹のような明るいかっ色の髪をかきあげ、耳元で囁く。

「ごめん」

 優しい手が肩を包む。自分からも手を回して身を寄せた。そのまま明かりを消してリビングを出て、寝室に戻った。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 深く眠ってしまえばいいと思った。夢なんか見ないぐらいに、深く。
 眠る前にホットミルク? 冗談じゃない。ハーブティなんか気休めぐらいにしかならない。
 もっと強い物でなければダメだ。

 答えは意外に近い場所にあった。リビングの片隅に設えられたホームバー、その棚の中に。

 夕食が終われば朝が来るまで誰にも会わない。シエン以外には。
 翌朝、響かない程度に加減すればいい。

 最初に口にしたときは、あまりの刺激にむせた。それからは水で薄めることにした。
 一度に大量にとっていったら気づかれる。だから少しずつ。

 実際、しばらくの間は上手く行った。

 だがいくら聡いようでも所詮は子供。
 オティアは知らなかったのだ。本当の『酒飲み』は彼が思うよりずっと、酒の残量に目ざといと言うことを。 

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 飯の仕度をしていたら、料理用のウイスキーが切れていた。必要な量はほんの少し。だが肉のつけ汁に入れるとぐっと香りが良くなる。
 今さら買いに行く時間はないし、ちょいともったいないが……あるもので済ませよう。
 リビングに行き、片隅に設えられたバーカウンターの棚を開ける。ずらりと並んだ酒の瓶はほとんどレオンが依頼人や仕事の付き合いのある相手からもらったものだ。
 さて、どれにするか。
 順繰りにチェックしてゆき、一段目の端まで行って、二段目に移ったところで異変に気づく。

 妙だな。
 何本か、少しずつ中味が減っているのがあるぞ?

 ウイスキーは樽ん中で醸造してる間に蒸発したり、樽に染み込んだりして少し量が減る。こいつを『天使の取り分』と言うらしい。が、これはもう瓶に入ってる。天使が飲んだとは到底思えない。

 俺が飲む時はいつもレオンと一緒だし、第一、こんな妙な飲み方はしない。
 まさか、ヒウェルが?

 ………いや、奴なら一瓶まるごとガメてくはずだ。

「一体………誰が」

 答えはもう、見えている。減っているのは比較的低い位置にある棚の瓶ばかりだ。だが、確かめるのが怖かった。
 ぎりっと奥歯を噛む。

 ここで逃げてはいけない。可愛いだけ、愛しいだけじゃ『親』は勤まらない。

 アルコールに、ドラッグに、銃。

 誘惑の手は多く、落ちる時はあっと言う間だ。ほんのささいな兆しでも、見過ごすことはできない。信頼と言う言葉に甘えてはいけないのだ。

「………ディフ………」

 背後で小さく名前を呟く声がした。振り向くと、怯え切った紫の瞳が見上げていた。

「シエン。オティアを呼んできてくれ」

 幸い、レオンが帰ってくるまでにはまだ時間があった。

「話がある」

 ※ ※ ※ ※
 
 オティアとシエン、二人そろったところで改めて切り出す。 
 酒が不自然な減り方をしていること、自分やレオン、ヒウェルはこんな飲み方をしないこと。順序立てて説明してゆく。
 双子がやったのなら主犯はおそらくオティアだ。シエンならそもそも黙ってこっそり酒を持ち出したりしない。知ってはいたのだろうけれど……。

「お前が飲んだのか?」

 確認すると、彼はぶっきらぼうに一言

「ああ」と答えた。

「そうか。もう一度聞くぞ。お前が、一人で飲んだのか?」
「ああ」

 そうでなければいいとどんなに願ったか。だが、彼がYesと言うならそれは事実なのだ。
 何故今まで気づかなかった。何故、止められなかった。何故。何故?
 いくつもの何故、が喉の奥から競り上がり、声のボリュームが跳ね上がる。
 
「………………………オティア」

 震える両手で細い肩を包み込む。指に力を入れぬよう、精一杯の努力を振り絞った。顔が歪み、涙がにじみそうになる……ええい、こらえろ。ここで俺が取り乱したらそれこそ収集がつかない。

 オティアはちらっと俺の目を見て、それからぷい、と視線をそらしてしまった。

「…………………もうしない」
「……なら、いい………」

 反抗はしていない。だが反省もしていない。悪びれた様子もない。

「ごめんなさい」

 シエンが小さく縮こまっている。オティアの肩から手を離し、一歩下がって距離をとった。

「オティアがしないと言うなら、もうしないってことだ。それで……いい」

 ほほ笑むことはできなかったが、さっきより穏やかな声を出すことはできた。

 叱ることはできなかった。
 抱きしめることもできなかった。
 ただ、オティアの雇い主として『もうするな』といい、『もうしない』と返された彼の答えに納得することしかできなかった。
 もどかしい。
 口惜しい。

 結局、酒を飲んだ理由は聞けなかった。
 憶測は危険、だがオティアが一人で部屋で飲んでいたとなると……パーティで悪ノリしてビールをひっかけるのとは訳が違う。大人ぶって、悪ぶって、かっこつけて仲間に見せつけるのとも違う。

 飲まなければいけない理由があったのだ。俺には言えない、何かが。

 これからはオティアとシエンの様子をもっと注意深く観察することにしよう。
 話してくれないのなら、こちらから情報を集めるしかない。注意深く証拠を探して、真実を探り当てよう。

 口元に苦い笑みが浮かぶ。

 親のやり方じゃないな。
 まるっきり、警察の捜査法だ。爆弾のわずかな破片から仕掛けた人間、作った人間を探り出す時のやり方だ……子どもたちを容疑者扱いするようで、心苦しい。だが、俺は他にやり方を知らない。

(レオンには、話せない)

 その日。
 結婚して初めて、彼に隠し事ができてしまった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 その夜、部屋に戻ってからオティアはため息をついた。

 ヘーゼルブラウンの瞳の中央にめらめらと緑の炎が揺らめいていた。
 ずっしりと肩にかかる手が重かった。

(ディフは怒っていたのだろうか。それとも、悲しんでいたのだろうか?)

 いずれにせよ、自分には関係ない。ばれてしまったのなら、しかたない。もう酒を使うのはあきらめよう。

(深く眠ってしまえればいいのに)
(夢になんか追いつかれないくらい、深く)

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【4-3-2】もし、俺がハゲても

2008/09/15 23:19 四話十海
 
 風呂から上がって寝る前に髪をとかしていると、妙な手応えがあった。ずるりと絡み付き、引き抜くほどに糸を引くような……。
 不審に思ってブラシを見ると、ごっそりと髪の毛がからみついている。

 ぎょっとした。

 落ち着け、慌てるな。
 長さがあるから、少し抜けてもかさがあるように見えるだけだ。
 確かに頭を洗ってる時も妙に指にまとわりついていたが………。

 改めてブラシを見る。
 からみつく髪の毛にはいずれも毛根がついている。ってことは根本から抜けたのか? だが、その割に痛みは感じなかった。
 
 ……やばいな。

 ブラシから髪を抜き取り、無造作にゴミ箱に放り込む。ついさっき使ったタオルを手にとると、白い布地にまるでマーブル模様みたいにびっしりと赤い髪がこびりついていた。
 これは、深刻だ。
 寝室に戻り、レオンに聞いてみる。

「なあレオン。俺がもし将来ハゲても……愛してくれるか?」
「ん?」

 レオンは目をぱちくりさせて、逆に聞き返してきた。

「君の家系は髪が薄くなるほうかい?」
「いや。親父もじーちゃんもふさふさだけどな……」

 頭をかきそうになって、手が止まる。ここで指にからみついてまたごっそり、なんてことになったらそれこそシャレにならん。

「念のためだ、うん」
「別に君の体重が200kgぐらいになっても俺は全然かまわない……」

 にこにこしながら言いかけて、急に真剣な顔になった。

「いやちょっとかまうかな」
「…………それは……………ヤだな。すごく」

 ぺらっとシャツをめくって腹を確かめる。さすがにボディビルダーやアメコミのヒーロー、海兵隊員には負けるが一応割れてるし、今んとこ余計な肉はついてない。
 うん、異常なし。

「君が君のままならなんだっていいよ」
「……そっか」

 これまで何度も言われた言葉だ。だが今、彼のその言葉がいつになく嬉しくて、心に染みた。強ばった頬がゆるむ。
 ひょいとベッドに飛び乗り、レオンに後ろから抱きついた。

「髪が薄くなるのは俺のほうかもしれないよ?」

 肩を揺らしてくすくす笑ってる。ったく可愛い顔しやがって。どうしてくれよう、この男は?
 髪の毛をわしゃわしゃとかき回してやった。

「くすぐったいよ、ディフ」
「……お前は……髪の毛が薄くなろうが。いくつになろうが、美人だ。余計な心配すんな」
「なんで急にそんなことが気になったんだい」

 動きが止まる。
 別に。
 何でもない。
 この期に及んであいまいな言葉で言い逃れる自信はなかった。既にでかい隠し事を一つしてるとなれば、なおさらに。

「……………頭洗ったり…髪の毛とかしたりしてたら」

 ぽつぽつと言葉を綴る。

「うん」
「…………ごっそり抜けてた」

 レオンはちらりと俺を振り返り、眉をひそめた。

「原因はストレスかもね」
「……犬か、俺は」
「むしろ人間のほうが顕著に症状に出ると思うね。俺の依頼人達を見ていても、強い不安感や焦りは体調を左右するし、証言もかわる」
「そうだな……」
「このところずっと子供達のことを気に病んでいただろう。最近何かあったかい」

 目を閉じて、深く呼吸をする。
 何から話すべきか。
 オティアの飲酒の件は……あれは、もう終わったことだ。今さら蒸し返すまでもない。
 
「飯食ってた時に……スープを口にした瞬間、オティアが顔しかめたんだ……ほんの少しだけ。熱くて口の中にしみたらしい」
「うん」
「気をつけてよく見た。歯が、ほんの少し黄ばんでる。肌も荒れてる。多分、口の中も……………慢性的な嘔吐の証拠だ。何故、見落としていたんだろう」
「……俺から見てもそこまで悪そうには見えなかったよ、今まで」

 そう、確かにオティアは巧みに自分の不調を押し隠していた。だからって俺が気づけなかった言い訳にはならないが。

「目の下、うっすらクマ浮いてやがった。眠れてないのかな、あいつ」
「確かに……彼の調子が良い時と悪い時で波を感じることはあるけれど。それほど痩せたようでもない」

 肩に顎を乗せたまま、じっとレオンの声に耳を傾ける。

「だが、君が言うように……慢性化しているなら問題だな」

 レオンの手が伸びてきて、頭を撫でる。目を閉じて優しい指先に身をゆだねる。こめかみ、額の中央、顎の噛み合わせ。知らぬ間にあちこちにがっちりこびりついていた鈍色の塊がほどけてゆく。

「彼らはそんなにバカじゃない。自分達の状況はわかっているはずだ」
「……そうかな………そうだと……いい」
「それでも訴えてこないなら、何かそうしなければならない理由があるんだろう」

 こくん、とうなずいた。

「それで、君は。どうしたいんだい?」

 オティアの頑なな表情、抑揚のない低い声……堅く閉ざされた石の扉にも似て。この手でこじあければ、赤い血がふき出すだろう。

「俺に言えないことがあるのなら言わないままでもいい。ただ、今みたいにオティアが。それをフォローしてるシエンが身も心もすり減らしてるのだけは止めたい」

(ごめんなさい)

 ふて腐れてそっぽを向くオティアの隣でシエンが謝っていた。小さく身を縮めて、何度も。
 まるでカードの表と裏のようだった。
 眠れない夜を、不安に怯えて過ごしているのはあの子も同じなんだ。

「……実際、体に悪影響出てるんだしな。根っこが心の中にあるにせよ」
「言い出すきっかけを失ったとか、病院が嫌いだとか、それぐらいの理由だといいんだが……一度、俺から話してみるよ。それでいいかい」

 こくっとうなずき、耳元にささやく。

「ありがとな、レオン。お前の嫁になってよかった」

 レオンはようやくほほ笑んでくれた。しかめっ面もきれいだが。どんな表情をしていようが、こいつがきれいなことに変わりはないんだが。
 やはりその顔の方がいい。

 頬に温かな唇が押しあてられる。目を細めて受け入れた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ベッドに入ってから改めてディフを抱き寄せ、髪の毛に指をからめる。
 ことさら執着しているつもりはないのだが、長さがあって触りやすいものだからつい、弄ってしまう。

「よせよ、くすぐったい」

 くすぐったいと言いながら微笑み、甘えるように顔をすりよせてくる。その仕草が愛おしくてまた弄る。

 彼が髪を伸ばし始めたのは首筋の火傷の跡をカバーするためだった。

 初めて恋人同士のキスをかわした時は肩に軽くつく程度。今では背中にまで広がっている。
 アイリッシュセッターを思わせるやわらかな赤い髪。初めて出会ったころは今よりもっとカールが強くかかっていたが、年齢を重ねるにつれて次第にゆるやかなウェーブへと変わっていった。
 今でも水気を含むとくるりと巻きあがって少年の頃を思いだす。

 長い髪をかきわけ、なで回していると、ふと、見慣れぬものを見つけた。
 ぽつっと小さく白く地肌が見えている。豆一粒ほどの、小さなものではあったけれど……。

 何てことだ。

「あ、こら、どこ触ってるんだ?」

 指で撫でると、彼はくすぐったそうに身をよじった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 翌朝、事務所で。いつものようにその日のスケジュールを確認している時、アレックスに言われた。

「レオンさま。一つ、ご報告したいことがあるのですが……いささかプライベートなことで」
「何だい?」
「先日、居間のバーカウンターの中味をチェックしていたのですが」
「ああ。何か足りないものでもあったのかい」
「はい」

 アレックスは控えめな口調で手短に告げた。シエンに聞かせまいとする気づかいだろう。今は別室にいるとは言え、いつ入ってくるかわからない。

「中味が減っている?」
「はい。二段目の棚の瓶のものが、何本か」
「……わかった。心に留めておくよ。ありがとう」
「おそれ入ります」

 俺やディフでないことは確かだ。飲む時はいつも二人一緒だし、彼が寝酒に一杯二杯引っ掛けるとしてもそんな飲み方はしない。
 ヒウェルか、とも思ったが彼なら悪びれもせずに「一本もらってきますね」と瓶ごと持ち去るだろう。

 帰宅してから確かめてみよう。もっとも、だれの仕業かは、容易に想像がつくが。

(だからあんなに悩んでいたのか。まったく君って人は繊細なのか、豪胆なのか……)

 目を閉じると目蓋の裏にぽつりと、白い豆粒ほどの斑点が浮かぶ。赤いたてがみの中に生じた小さな空間。
 これは由々しき事態だ。ディフの髪がなくなる前に、解決しなければ……断固として。


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【4-3-3】ぱぱの説得

2008/09/15 23:20 四話十海
 その日、マクラウド探偵事務所は5時かっきりに営業を終了した。

「よし、今日はこれで上がりだ」

 所長自らがそう言って帰り支度を始める。降りてきたシエンと連れ立って三人でディフの運転する車に乗り込み、スーパーでいつものように食料品を買い込み、途中でクリーニング屋に立ち寄って洗濯物を引き取ってマンションに戻る。

 いつもと同じ水曜日の日課だった。
 ただ、一つだけいつもと違っていたのは、帰宅した3人をドアを開けてレオンが出迎えたことだった。

「やあ、お帰り。待っていたよ」

080920_0256~01.JPG※月梨さん画「ぱぱのお出迎え」

 満面に穏やかな笑みを浮かべて。今まで数多の陪審員を魅了し、何度も勝訴を勝ち取ってきた笑顔をひと目みた瞬間、双子は内心すくみ上がった。

「オティア、話があるんだ。ちょっと書斎まで来てくれないか?」

 オティアは観念した。彼には逆らえない。逆らってはいけない。勝ち目のない相手だ。
 うなずき、先導されるまま書斎に向かうしかなかった。

 シエンはとまどい、おろおろしながら二人を見送り、ディフを見上げた。

「……大丈夫だから」
「うん………」
 
 噛みしめていないと、歯がかちかちと鳴りそうだ。あんな恐いレオンを見たのは初めてだった。

「買ってきたもの、冷蔵庫に入れてくるよ」
「あ、俺も手伝う」
「ありがとう」

 ディフはいつも通りだ。ちょっと元気がないけど、いつもと同じ、優しい笑顔、あたたかな声だ。
 …………良かった。

(オティア、大丈夫かな……)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 書斎に入るとレオンは窓を背にしたデスクに座り、にっこりとまたほほ笑んだ。ふさふさと豊かなまつ毛に縁取られた明るいかっ色の瞳の奥に、断固たる意志をにじませて。

「最初に言っておくけれど、俺は君とシエンをここ以外で育てさせるつもりはない。この先何があっても十八歳までは面倒を見る。州検事との取り決めもあるし……」

 レオンは一旦言葉を区切り、表情を改めた。相変わらず声音は穏やかだが、絹のスカーフで包んだ刃物のような鋭さを含んでいる。

「彼を悲しませたくはないんだ。わかるね?」

 この場合の『彼』が誰のことか、なんていちいち確認するまでもない。

 オティアはうなずいた。
 うなずくしかなかった。

 そう、確かにレオンハルト・ローゼンベルクにとって自分たちは保護するべき対象だ。ディフの好意が自分とシエンに向けられている限りは。

「今の状況を説明するか、カウンセラーと一週間ばかり合宿するか選びなさい」
「わかった。でもディフには言うな」
「約束はできるけどすぐにディフにもわかることだよ」
「それはそれで構わない。でも俺からは言わない」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 レオンとオティアが書斎にこもってからそろそろ1時間が経過しようとしていた。

 その間、ディフとシエンはリビングのソファに座ったきり。距離を置いて座り、書斎に通じるドアを見たまま、喋らずにじっと待つ。
 視線さえ合わせないまま。

 不意にぱっとシエンが立ち上がる。やや遅れてディフは微かな足音を聞いた。

 ガチャリ。

 ドアが開いて、レオンと、非常に不本意そうな顔のオティアが戻ってきた。どうやら終わったらしい。
 シエンがオティアに駆け寄り、そっと手を握った。
 
 ディフは真っすぐにレオンに歩み寄り、物問いたげな視線を向けた。やわらかなほほ笑みが返され、ほっと息をつく。

「医者に行くことには同意してくれたから、ちょっと行ってくるよ」
「これから?」
「知り合いに夜遅くまでやってるクリニックがあるからね。予約を入れておいた」
「……そうか」

 拳を握って口元に当て、ほんの少しの間考える。

「……聞けたのか。理由」
「聞いてはいないね」
「でも、医者には行くんだな?」
「ああ。主に俺の推測を語ってみた。というところかな」
「……………当たってたのか?」
「多分ね」
「…………そうか……………………だったら………いい」

 双子は手を握り合ってじっとこっちを見ている。

「やっぱり俺も一緒に……いや…………お前がついてった方が……いいんだろうな」
「途中で逃げられても困るからね。それに今は……俺ぐらい突き放してるほうがいいんだろう」

 ディフは唇を噛んでうつむいた。

「そうだな………待ってる」

 悔しいが、レオンの言う通りだ。自分は感情移入しすぎて相手の心までかき回してしまう。警官時代もたびたびそれが原因でトラブルに巻き込まれた。

「お前に任せるよ、レオン。それが一番いいんだ、きっと」

 
 ※ ※ ※ ※
  
 
 オティアが連れて行かれたのは、いかにも病院と言った場所ではなく。薬のにおいも白いリノリュームの廊下とも無縁の、ゆったりした建物だった。
 インテリア雑誌さながらに低いソファと観葉植物の配置された待合室を素通りして診察室に案内される。
 どうやら、あらかじめ訪れる旨伝えてあったらしい。

「お待ちしていましたよ、ローゼンベルクさん」
「やあ、先生。彼が電話でお話した子です」

 出迎えた初老の医師ににこやかに挨拶すると、レオンはさっと脇にどいて道を開けた。
 必然的にオティアは医師と正面から対面する形になる。ノーネクタイ、ノージャケット、青いシャツ。ドクターと言う割にはラフな服装だ。

「では、よろしくお願いします」

 部屋を出る間際、レオンはこっちを見てうなずいた。後は彼に話すように…………………無言のうちに告げていた。

 二人きりになると、医師はまず身振りでオティアに座るように勧めた。
 ソファは待合室にあったものと同じ様に丈が低く、さらさらした布張りで、大きめのクッションが二つ置かれている。そのどちらにも頼らず浅く腰かけると、医師は斜め向かいのソファに深々と腰を降ろし、ほんの少し、前屈みの姿勢をとった。
 オティアの座っている椅子と対になっているらしく、やはり丈の低い布張り。寝椅子に患者、肘掛け椅子に医師、と言うお決まりのスタイルは踏襲していないようだ。

「さて。それでは……最近の状況を話してもらえるかな?」

 オティアは内心、舌打ちした。
 やられた。
 どうやら、予約どころか既にレオンから何もかも説明され、準備万端整えて待ち構えていたらしい。
 どこまでも用意周到で抜け目のない奴だ……。

 こうなったら観念して話すしかない。医師には守秘義務がある。少なくともここで自分の話したことはレオンにも、ディフにも漏れる気づかいはない。
 ………シエンにも。
 
 
 ※ ※ ※ ※
  
 
 その頃。
 ディフは上の空で夕食の仕度をしていた。
 ありがたいもので、こんな時でも体が動きを覚えていてくれる。慣れた手つきでかしゃんと片手で卵を割り、殻を捨てた。

「あ」

 シエンが声をあげる。

「ん? どうした」
「逆だよ……」
「逆って……」

 殻をボウルに入れて、中味をゴミ入れに捨てていた。

「あ……あ……………あーあ、もったいない。せっかくのグレードA(生食可)の卵が……」

 ちょうどその時、洗濯機のアラームが終了を告げた。台所をシエンに任せて見に行く。
 きっちり乾燥まで終わってることは終わっていたのだが……どうも、洗剤のにおいが濃すぎる。手触りもなんとなくぬるりとしている。

 まさか、と思って洗剤投入口を開けてみた。
 かすかに残る残留物を指ですくいとり、においをかいでみる。

 ……やっちまった。
 柔軟剤と洗剤を逆にセットしていた。

 やり直し決定。

 今度こそ正しくセットしてスタートボタンを押す。

 しっかりしろ。家事のミスなんてのは可愛い新婚の奥さんがやってるから許されるんだ。俺がやらかしたら、シャレにならんぞ。

 額に手を当て、うつむいていると玄関の扉の開く気配がした。
 帰ってきた!

 ダッシュで洗濯室を飛び出し、玄関に向かった。

「………お帰り」
「ただ今」

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【4-3-4】壁の傷、沈黙の理由

2008/09/15 23:21 四話十海
 木曜日。
 何事もなかったかのように(少なくとも表面上は)出勤するレオンと双子を送り出してからディフは朝食の後片付けをしていた。

 ユニオン・スクエア近くの事務所までレオンは車で、オティアとシエンは二人一緒にケーブルカーで通っている。
 探偵事務所の始業時間は弁護士事務所より若干遅い。だから家を出るのはディフが一番後になる。
 所長がやってきて事務所を開けるまでの間、オティアは上の法律事務所でシエンと二人、アレックスに勉強を見てもらうか、自習をするのが最近の習慣だった。

 洗い終わった食器を片付けていると、携帯が鳴った。
 名前を確認してから、とる。

「ハロー、マックス」
「やあ、ヨーコ。珍しいな、こんな時間に。どうした?」
「うん、実はさ、授業で911のことを扱うんだけど……」
「ああ、もうそんな時期か」
「当時の新聞や雑誌の切り抜きとか、持ってる?」
「あるよ。あの頃はまだ現職の警察官だったしな」
「さすが! コピーとってこっちにFAXしてもらえないかな。できるだけ、当時の生の情報が欲しいの」
「OK。取って来るよ」

 話しながらキッチンからリビングへと向かい、隣に通じるドアを開ける。

「学校に送ればいいのかな?」
「うん。学校にお願い」
「ラッキーだったな、まだ家に居たんだ。これが事務所なら一度引き返さなきゃならないとこだったぜ?」

 書庫の扉を開けて中に入った。

「そうなの? 運が良かった……それじゃ、よろしくね」
「じゃ、また」
「……あ、そうだ、マックス」
「何だ?」
「ワカメ食べなさい」
「ワカメ?」
「……海藻よ」
「ノリみたいなもんか」
「まあ似た様なもんね。サクヤに聞けば教えてくれるから。じゃあね」

 何のことかはわからないが……多分、体にいい食べ物なのだろう。
 本棚に目を走らせる。2001年9月のスクラップはすぐに見つかった。ぱらりと手にとりひらいてみる。さて、どのへんを送ろうか。
 英文の記事だがヨーコなら問題なく翻訳できるはずだ……あるいはあえて英語のまま生徒に渡して自力で読み取らせるのかも知れない。

 雑誌や新聞の切り抜きを見ているうちに、当時の記憶が蘇ってくる。あの頃はまだ制服警官で………。

「お前、きれいな髪の毛してるな」
「そうかぁ?」
「伸ばさないのか」

「っ!」

 水色の瞳。
 浅黒い肌。
 かつての相棒、親友だった男の面影が生々しく蘇る。
 ばさり、とスクラップブックが落ちた。

「ずっとお前をこうしてやりたかったんだよマックス……」

「あ……あぁ…………うそ……だ……フレディ……そん……な……」

 喉がつまる。
 確かに呼吸をしているはずなのに……息…………が………苦しい……。

「紹介しよう、レオンハルト・ローゼンベルクの愛人……いや、『最愛の人』だ」
「たっぷり可愛がってやれ」

「やめろ……触る……な」

「愛してるぜ、マックス。お前はもう、俺のモノだ」

「ちがう……ち……が……」

 ひゅう、ひゅう、ぜい、と喉が鳴る。こめかみの中で血液が脈打ち、全身の毛穴から冷たい汗がぽつぽつと噴き出した。
 視界がぐんにゃりと歪み、足がふらつく。ダリの絵にも似た悪夢の中、廊下にさまよい出した。

 記憶が混濁する。
 ここはどこだ。
 今はいつだ。
 俺の部屋……か?
 だめだ……………………倒れる。

 よろよろと寝室へと向かう。記憶にあった位置にベッドがなかった。手探りでさがし回り、やっと見つけた時はもう限界に近かった。
 どさりと倒れ込む。

 間に合った………。

 意識が途切れ、そのまま闇に飲み込まれた。


(辛い思いさせてごめんね。でも、もう終わったことなんだよ、マックス……)
「ヨーコ?」
(目を開けて。あなたの助けを必要としている子どもたちが居る)
「俺なんかに……できるのだろうか」

 銀の鈴を振るような笑い声。応えたのは、ただそれだけ。けれど閉ざされていた目の前が、すーっとひらけたような気がした。


 目を開ける。
 ぼんやりと霞んでいた景色が次第にはっきりとしてきた。

「あ」

 がばっと起きあがる。

「何で、ベッドが二つもあるんだ?」

 答えは簡単。ここはそもそも俺の寝室じゃない。

「やっちまった………」

 どれだけ混乱していたのだろう? 現在と過去の区別がつかなくなるなんて。
 いったいどれほど気を失っていたのか……。時計を探すが、無い。妙だな。確か、オティアが青い目覚まし時計を使っていたはずなんだ。
 1コインショップで珍しくあいつが自分で選んだクラシカルな青い時計。今時珍しい、ベル式の。

 いや、それ以前に時計なら自分で持ってるだろう!
 左手首の腕時計で時間を確かめる。ヨーコから電話をもらってから、やっと10分が経過したところだった。
 スクラップブックを探すまでに5分もかかっていない。気絶していたのはせいぜい5分ってところか。
 ほっと息を吐いてから、改めて部屋の中を見回す。

「この部屋……何で、こんなに物がないんだ?」

 無くなっていたのは目覚ましだけじゃなかった。ベッドサイドのスタンドも、テーブルも。椅子も、スリッパも。床に敷かれたラグさえ無くなっている。
 天井を見上げる。
 何てこったい、電灯も外されているじゃないか!

「何があったんだ………」

 しかも、壁が、傷だらけだ。引っ掻いたなんて可愛いレベルじゃない。ナイフで滅茶苦茶に突き刺し、切り裂いたような傷が一面に刻まれている。
 顔を近づけて調べてみた。
 何かの破片が刺さっていた。

 一度、自分の部屋に引き返し、ピンセットとレーザーポインターを持って戻る。
 壁にめり込んだ破片をピンセットで取り出し、手のひらに乗せる。青いツヤツヤの金属片………目覚ましの欠片だ。おそらくベルの一部。しかし、どうやったらこんな風に欠けるんだ?
 焼けこげこそないが、まるで爆弾で吹っ飛ばされたみたいな壊れ方じゃないか!

 破片のめり込んでいた角度に合わせてレーザーポインターを固定し、スイッチを入れる。

 ぽつっと、赤い斑点がベッドの一つを示した。
 壁の他の傷でも試してみたが、結果は同じ。

 爆心地は……オティアだ。

 目を閉じる。
 ついさっき、自分を襲った強烈なフラッシュバックとそれに続く悪夢のようなひと時を思い出す。

 あの閉ざされた『撮影所』で、オティアは俺の何倍も酷い目にあわされていた……そして、あの子には手を触れずに物を動かす能力がある。
 俺に向かって発射された弾丸を逸らし、命を救ってくれた力が。
 だが同時に暴走し、安普請とは言え、倉庫一つを丸ごと崩壊させた力でもある。

 目を開けた。

 空っぽの部屋に、夜、起きたであろう光景をだぶらせる。
 悪夢にうなされるオティア。見えない腕が枕元の時計をつかみあげ、壁に向かって叩き付け、ぐいぐいとねじ込む。
 オティアが目を覚ますと同時にひしゃげた時計は引力に引かれて下に落ち、ベルの欠片が壁に残る。
 隣のベッドではシエンが怯えて………いや、シエンがうなされるオティアを起こしたと考えた方が自然だろう。

(だから、眠りたかったのか)

 胸の奥を鋭い刃物で切り裂かれる思いがした。

「あいつらがいると薄気味悪い出来事が続いて……」
「小さな頃から、泣き出すとあっちこっちから物が飛んできて……」

 去年の十月の終わり、サンフランシスコ市警の取調室。
 オティアを人身売買組織の仲買人に売り払った施設の職員が、口角から泡を飛ばしながら自供した。

「里親から何度戻されたと思う。押し付けられたこっちはいい迷惑さ」
「他の連中だって内心ほっとしてるんじゃないか? 厄介払いができたって……」

(だから、俺には言えなかったのか)
 
 寝室を出て、書庫に戻る。床に落ちたスクラップブックを拾い上げ、ページをめくった。
 もう、悪夢は起きなかった。

 君の言う通りだ、ヨーコ。
 やらなければいけないことがある。過去に捕まってる暇はない。

 携帯を開いてボタンを押し、耳に当てた。

「ハロー、アレックス。ああ、俺だ。すまないがシエンとオティアを家に送ってきてもらえないか……。うん、可及的速やかに頼む」

 アレックスは理由は聞いてこなかった。ただ静かに「かしこまりました」とだけ。

「ありがとう。探偵事務所は、本日休業だ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「ただ今……ディフ、どこ?」
「こっちだ。書庫にいる」

 ぱたぱたと軽い足音が2人分。近づいて来る………開け放した境目のドアを潜り、廊下を歩いて。次第にゆっくりと、ためらいがちに。
 双子はしっかりと手を握り合い、書庫に入ってきた。
 シエンは真っ青な顔で震えている。オティアはと言うと、珍しく困ったような顔をしていた。
 どうやら、何が原因で呼び戻されたのか、わかっているようだ。

 黙って机の上に目覚まし時計の破片を乗せた。
 シエンがびくん、とすくみ上がった。

「ごめんなさい………ごめん………なさい…………」
「謝らなくていい……シエン。謝らなくていいんだよ」

 それでも彼は肩を震わせ、小さな声で謝り続ける。オティアがますます途方に暮れた顔をした。

「俺に話したくなかったのは……シエンのため……か? オティア」
「………ああ」
「そうか……」

 破片の拡散状況を調べていて一つ気づいたことがある。どんなに酷く飛び散っても、シエンの眠っている場所だけは避けていた。
 悪夢にうなされて、追い詰められている瞬間でさえ、オティアはシエンを傷つけなかったのだ。

 深く息を吸い、吐き出す。ともすれば震えそうな膝にしっかりと力を入れて、双子を見つめる。
 怯えた2対の紫の瞳が見上げてくる……。

「シエン。オティア」

 名前を呼ばれただけで、びくん、と肩がすくみあがるのが分った。
 言うのは辛い。表面をかき分け、彼らの内側に踏み込むのが恐い。
 塞がりかけた傷口を無理矢理押し広げて、新たな血があふれ出すんじゃないかと思うと言葉が鈍り、逃げ出したくなる。
 だが、今言わなければ俺はずっと、都合のいい『大人』のままだ。気まぐれにほほ笑みかけて、可愛がるだけの……。

 この子たちを育てる『親』にはなれない。
 いつまでたっても。
 それは、嫌だ。

「ちっちゃい頃から泣く度に物が飛んでたんだってな。施設の職員が言ってるのを聞いた。そんなになるまで調子悪くなってたのか?」

 返事はない。だが、オティアがかすかにうなずいた。

「……力もお前達の一部なんだから。走ったり歩いたりするのと同じように自然にすることだと思ってる。第一、倉庫の天井落ちたの見てるんだ。今さらちょっとばかし物が飛ぶ程度でびびったりしないさ」

 シエンの瞳がうるむ。透明な涙の雫が盛り上がり、今にもこぼれおちそうだ。白い、細い喉がひくひくと震えている。
 
「今すぐ信じろって言っても難しいだろうけど……追い出したりなんか、しない。むしろ出て行くって言われたらどうしようって、びくついてんのは俺の方だ」

 とうとう、シエンは泣き出してしまった。
 追い出されたらどうしよう。ずっと、それが恐かったんだ。その一心で二人だけで耐えてきたのか。明かりのない部屋で寄り添って、震えて。

 俺は、バカだ。大バカだ。何故あの夜、ドアを開けなかったのだろう。踏み込むことを恐れてしまったのだろう?
 
 今ここで行くなと言っても、シエンとオティアは信じてはくれないかもしれない。
 まがりなりにも続いてきた穏やかな関係を、自分から乱すのは、とてつもなく恐ろしい。全身がすくみそうになる。だが、互いのずれを少しでも埋める最初の一歩にはなる。

「行かないでくれ、シエン……オティア……。ここに………居て……くれ………頼む」

 掠れた声で、それでも最後まで言い切った。

 永遠にも等しい一瞬の後。

 シエンが、涙をぽろぽろとこぼしながら、空いてる方の手をそろそろと伸ばしてきてくれた!
 そっと自分からも近づき、屈み込んで目線を合わせた。
 だいぶためらってから、シエンは俺の腕に触れた。一瞬、ぴくっと震えてから、指がまとわりつき、つかんだ。
 熱い。
 彼の手の、幼い熱が胸の中心、一番奥深い所にまで染み通り……震えた。

「……ありがとう」

 何故、そんな言葉を口走ったのか、自分でもわからない。だが震えるシエンの指先を感じたその瞬間、ほほ笑んでいた。
 シエンは俺の腕をつかむ自分の手に額を当てて、小さな声でまた、

「ごめんなさい」と言った。

 静かに手をのばし、髪の毛に触れる。少しくすんだ金色の髪を撫で下ろす……そっと。そのまま肩へと滑り降ろし、ためらいながら細い肩を手のひらで包み込んだ。

 本当は二人まとめて抱きしめたい。この胸の中に。だけど、それをやったら今は怯えさせてしまうだけだ。
 せめてシエンを通して少しでもオティアに気持ちが伝われば……と、願うのは俺の傲慢だろうか?

「ごめんなさい……」
「うん。俺からも……ごめん」

 そのまま、シエンは静かに泣き続け、オティアは疲れたような、ほっとしたような顔でそれを見守っていた。
 

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【4-3-5】オティア寝込む

2008/09/15 23:22 四話十海
 
 昼休み。仕事の合間を縫ってレオンが家に戻ってきた。
 傷だらけになった双子の寝室の壁を見て、彼は事も無げに言った。

「落ち着いたら壁紙を張り直そうか。子供部屋なんだから多少傷がついたり汚れるのは想定内だよ」
「……そうか」

 神妙な面持ちで見守るディフと双子を振り返り、レオンは穏やかな笑みを浮かべた。

「オティア。疲れてるようだね……今日はもう横になった方がいい。ああ、薬を飲むことも忘れずに」

 薬、と言う言葉にほんの少しだけ力が込められている。
 のろのろとオティアはうなずいた。

「水、取ってくる」
「その前に、何か腹に入れた方がいい。胃がやられる」
「ん」

 シエンの持ってきた栄養補給用のゼリー飲料をほんの少し口にすると、オティアは大人しく薬を飲み、ベッドに横たわった。
 枕に頭をつけたと思ったらもう、眠っていた。

 それまで続けていた『無理』を完全に放棄してしまったようだ。意識の統制から解放された少年の顔は、起きて動いていた時と比べて急に一回り小さくなってしまったように見えた。

(あんなもの、いつ買ったんだろう?)

 ぽつんとトレイの上に残されたゼリー飲料の銀色のパッケージを見ながらディフは首をかしげた。

(嘔吐の続く間、ずっと、これでしのいでたのか……)

「こうしてみると……やつれてるな」
「点滴した方がよさそうだね。アレックスに手配させよう」
「頼む」

 枕元で交わされる『ぱぱ』と『まま』のやりとりを聞きながら、とろとろとオティアは浅い眠りの中を漂った。

 結婚式で招待客に無遠慮に向けられたカメラのレンズ。シャッターの音が引き金となって呼び起こされた「撮影所」に囚われていた時の記憶。
 うなされていた本当の理由はシエンには聞かれたくなかった。なまじ似た様な経験をしてしまった今となってはディフにも話したくなかった。
 ヒウェルは論外。
 レオンも適任ではない。

 誰にも打ち明けることができないまま、全てを無表情の仮面の下に押し隠して何事もない振りをする。自分は平気なのだと自分自身をも欺いて……。
 その間も身体は確実に衰弱していた。

 壁の傷がディフにばれたと知った瞬間、張りつめていた精神の糸が音をたててぷっつりと切れ、彼はやっと休むことができたのだった。

 付きそうシエンはしょんぼりとうなだれている。

「お前が悪いんじゃない」

 ディフに言われても、首を横に振るばかり。 

 誰が悪いのだろう?
 強いて言うなら、全員悪い。慎重になりすぎて歯車が噛み合わず、言いたいことも言えぬまま、手探りで見当違いの方向に迷い歩いてすれ違う。
 
(おいで)
(助けて)

 ただ一言、まっすぐ伝えることさえできたなら、こんな結果にはならなかったのだろうか……。
 それぞれが舌の奥に苦い後悔を噛みしめている間も時間は流れてゆく。

 やがて、夏の終わりの陽射しが西に傾き、東の空をラベンダー色の霞みが染める頃。ディフは立ち上がり、シエンに告げた。

「飯の仕度の手伝いはいいから、オティアに付き添ってろ」
「うん……」

 本宅に戻ると珍しくヒウェルが来ていた。
 リビングを、と言うよりドアの前をうろうろとしていたらしい。入ってきたディフを見て露骨にがっかりした顔をした。

「何だ、お前か」
「ああ、俺だ。珍しいな、まだ飯できてないぞ?」
「へっ、おあいにくさま。俺はそこまで食い意地張ってませんよーっと」

 口をぐんにゃり曲げてそっぽを向いて、吐き出すように言い捨てる。その割には妙にそわそわしている。

「……オティアか」
「まあ、な」

(やっぱりな。こいつが悪ぶった口を聞くときは、大抵、何か気に病んでる時なんだ)

 後ろでレオンが苦笑してる。どうやら部屋に入ろうとしたのを止められて自粛していたらしい。

「今は眠ってるよ。シエンが付き添ってる」
「そっか……」
「丁度いい。お前、手伝え」
「俺が?」
「ああ。ぼーっと待ってるより気が紛れるだろ」
「へいへい……それじゃ僭越ながら双子の代理に」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 その夜のローゼンベルク家の台所はいつになく賑やかだった。
 
「あーっ、こらピーマン使うな!」
「うるさい、つべこべ抜かすな、黙ってイモの皮を剥け」
「信じらんねえ、こいつ、ポトフにセロリ入れてやがる!」
「いつも黙って食ってるじゃないか。肉の臭みをとるのにいいんだよ。ほんのひとかけらだ、大した量じゃないだろ?」
「いいや、見てしまった以上は断固として抗議する」

「…………………ヒウェル?」

 ディフの顔に浮かぶ満面の笑みを見て、ヒウェルはあっさりと平伏した。

「ごめんなさい、俺が悪うございました」
「わかればよろしい」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「よし、飯、できたからシエン呼んできてくれるか?」

 ままに言われて二つ返事で引き受けた。リビングを通り抜ける時、ちらりとレオンがこっちに視線を向けてきた。

「………ディフに頼まれたんですよ」

 言い訳めいた台詞を口にして、ドアを開ける。
 ディフが住んでいた頃は何度も足を踏み入れた部屋だが、双子が住むようになってからは入るのは初めてだ。書庫の前を抜けて寝室へと向かう。
 何だか妙な気分だ。逆走しているみたいで。

(ああ、いつもは逆の入り口から出入りしていたからだ)

 遠慮がちに寝室のドアをノックする。

「どうぞ」

 細く開けて、中をのぞきこんだ。

「シエン。飯、できたぞ」
「ん」

 シエンは立ち上がるとすたすたと歩いてきた。どことなくがらんとした印象の部屋は窓のカーテンが開けられ、外の光がぼんやりと差し込んでいる。灯りはついていなかった。
 シエンはオティアの方を振り返り、それからこっちに視線を向けてきた。

「ちょっと見てて」
「任せろ」

 シエンと入れ違いに寝室に足を踏み入れると、オティアの枕元に置かれた椅子に腰を降ろした。
 ばくばく躍り上がる心臓を気取られまいと精一杯さりげなく、平常心を装って。

 変わった電気スタンドだな、と思ったら反対側のベッドサイドに置かれていたのは点滴台だった。吊るされたパックから伸びた細い管が右腕の血管に刺さっている。
 ああ、そうか。オティアは左利きだから右腕なんだな……。
 ぼんやりそんなことを考えていると、オティアが顔をしかめてか細い声でうめいた。

「う……んぅ……」
「オティア?」

 眉間に皺が寄り、わずかに身をよじっている。うなされているのか。
 ぴくぴくと、左手の指先が震えている……何かにすがるように。思わず握っていた。初めて出会ったあの日のように。
 ゆるく握り返してきた。

 きゅうっとえも言われぬ切なさに胸をしめつけられ、息をするのも忘れた。

 何故だろう。
 二月に熱を出した時、寝間着を脱がせて身体まで拭いたってのに。初めて会った時なんざ服を脱がせて身体を調べたのに。
 今、こうして手を触れあわせているだけで、どうしようもなく胸が高鳴る。重ねた手のひらと、絡みあわせた指の間にこもる熱で蕩けそうになる。
 力を入れた。
 もっと、深くオティアに触れたくて……ほんの少しだけ。

 ぴくっとまぶたが震えた。堅くとざされていた目がうっすらと開き、とろりとした紫の瞳が見上げてくる。
 参ったな。なんて……返事すりゃいいんだ。
 
「……よぉ」

 どうにか笑顔に近い表情を浮かべ、ありきたりな挨拶の言葉を口にする。ほんの少しの間、オティアは俺の顔を見ていた。

(何でこいつがここにいるんだろう?)

 さて、次に何て話しかければいいのやら。
 元気か? いや、それは寝込んでる相手に言うにはあんまりに間抜けだ。
 大丈夫か? …………今イチ。
 迷っている間にオティアはまた目を閉じてしまった。

(多分夢だ。薬のせいで頭が回らない……もう、考えるのもめんどうくさい)

 握った手は離さず、そのままに。

(ああ……でも……知られてしまったけれど、この家を出なくて済んだ。こいつからも離れずに済んだ)

 この一瞬が、永遠に続けばいい。
 本気で願っていた。

(……よかった。シエンのためにも)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 手早く食事を終えると、シエンは自分たちの部屋に戻った。
 寝室のドアは開いたままだった。
 中をのぞきこんで、はっと息を飲む。呼びかけようとした声は喉の半ばで滞り、全身の動きが止まった。

 ヒウェルがオティアの手を握っていた。
 信じられなかった。
 オティアが、自分以外の人間にあんな風に手を握らせるなんて!

 それに、ヒウェルのあの表情(かお)……。
 うっすらと頬を染めて、目を細めて……ほほ笑んでいる。いつもの皮肉めいた薄笑いとはまるで違ってる。何て幸せそうな笑顔。

 それが、自分には決して向けられないことは分っていた。分っているつもりだった。
 オティアとヒウェルが仲直りできるようにこの数ヶ月の間、ずっと心を砕いてきた。
 喜ぶべきなんだろう。
 そのはずなのだけれど………。

 何だろう。胸の奥が、ずきりと痛い。

 声をかけることができなくて、シエンは黙って手を握り合う二人を見つめていた。自らの胸を蝕む鈍い痛みの意味も知らぬまま。

(ヒウェル………………………)
 
 細い管の中、透明な液がひと雫、ぽとりと落ちた。

(hardluck-drinker/了)

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モニのおうじさま

2008/09/15 23:30 短編十海
 拍手用お礼短編の再録。
 【4-2】ねこさがしを子猫の視点から見ると……
 
 ある所に……と申しますか、カリフォルニア州、サンフランシスコ市のユニオン・スクエア近くにあるエドワーズ古書店に、モニークと言う女の子がいました。

 一緒に生まれた兄弟姉妹は全部で6ぴき。
 ママそっくりの白いふかふかの毛皮にブルーの瞳、ぴん、とのびた長いしっぽと左のお腹にあるちょっぴりゆがんだ丸い形の薄茶のぶちがチャームポイント。
 末っ子のモニークは兄弟たちの中で一番小さかったけれど一番勇敢でした。
 いつもお庭やクローゼットに『ぼうけんのたび』に出かけます。でもそのたびにママに見つけられ、連れ戻されてしまうのでした。
 モニークはこっそり夢見ていました。

「いつか、ひろいせかいにぼうけんにゆくの」

 ある日、とうとうチャンスがやってきました。
 兄弟たちとモニークは、飼い主のエドワーズさんに連れられて旅に出ることになったのです。
 四角い乗り物に乗って、しばらくがたごとゆれていたなと思ったら急にフタがぱかっと開いて、モニークは見たことも嗅いだこともないような不思議な世界にいたのでした。

 まあ、何てここは明るいんでしょう。空気はつーんとして、知らない動物のにおいがたくさん混じっています。
 何がはじまるのかわくわくしていると、優しい手がころころとモニークをなで回してくれました。何だかとっても気持ちいい。

「はいみんな健康ですねー。特に感染症もなさそうだし。ワクチンはもうちょっとたってからにしますか?」
「そろそろもらい手も決まってるので……今日お願いできますか?」

 ひょい、と持ち上げられて、首筋に何かがちくっと刺さります。
 一体、何が起こったの?
 ちっちゃな口をかぁっと開けて自慢の牙をむいた時には、もう終わっていました。

 なあんだ。たいしたことなかった。

 また、四角い乗り物に乗せられて、ふわっと浮き上がります。出発進行。今度はどこに行くのかしら?
 わくわくしていると、いきなり乗り物ががくんとゆれて、大きく傾きました。

「にうー!」
「みうーっ」

 しかも、ころころ転がり落ちるその先で、フタが開いてしまったじゃありませんか!
 ころころり。
 ころりん。

 空中に放り出されてしまったけれどモニークは慌てません。くるっと一回転して、地面にすとん。

 でもここって一体、どこ?
 どこなのっ?
 
 

 わあ、広い。
 壁が……………………………………………………ないっ!
 
 
 
 つぴーんとヒゲが前に倒れます。しっぽにぞくぞくっと稲妻が走り、瞳がまんまるに広がります。
 ああ、まぶしい!
 何だか、何だか、すごーくわくわくどきどきするーっ!
 ああ、もう、だめ、じっとなんかしてらんないっ!

 モニークは全力で走り出しました。

 すごい、すごい。
 見たことのないものばかり。かいだことのないにおいばかり。聞いたことのない音ばかり!

 あたし、いま、ぼうけんしてるんだわ。

 いつもほんのちょっと足を乗せた途端にママに捕まっていた緑の芝生。もっとふかふかしていると思ったけれど、ちょっぴりチクチク、足の裏。
 でもひんやりして気持ちいい。
 土のにおいはトイレ用の砂とは全然違う。くろっぽくて、ほろほろと柔らかい。鼻を押し付けたら、口のまわりについちゃった。
 くしくしと前足で洗って、また歩き出すと、お花の間をふわふわ、ひらひらとちっちゃな生き物が飛んでいます。

 えものだわ!

 うずくまって、お尻をふりふり………えいっ!
 素早く繰り出した白い前足の先を、ちょうちょはすいーっとすり抜けてしまいます。惜しかった。あと1インチ(およそ2.5cm)。

 ちっちゃすぎてあたらなかったんだわ。もっとおっきいのをつかまえよっと。

 夢中になって探検していると、突然……出ました。おっきいのが。

「ふぁおー………」

 見たこともないほど大きな猫が、大きな大きな口を開けて飛びかかってきたではありませんか!

「ふーっ!」

 モニークはびっくり仰天、逃げ出しました。
 早く、早く、逃げなくちゃ!
 必死で走っていると、何か堅くて尖ったものに後足がぶつかってしまいました。

 いたい!

 兄弟たちとじゃれあってるときも。ママに怒られた時も、一度だってこんなに痛かったことはありません。

 いたい、いたい、いたいっ!

 どうしよう。外の世界は危険がいっぱい。
 どこかに隠れなくちゃ。暗くて、しずかで、狭いところ。
 よろよろとモニークはさまよい歩きました。歩いて、歩いて、くたくたに疲れた時にようやく、たどりついたのです。
 暗くて、しずかで、狭い所に。

 かくれなきゃ。かくれなきゃ……。

 すき間にもぐりこみ、いっしょうけんめい傷口をなめます。

 ママ。ママ。こわいよぉ。いたいよぉ。
 どこにいるの、ママ。たすけて、だれかたすけて!

 このまま、お家に帰れなくなったらどうしよう。ママにも、兄弟たちにも、エドワーズさんにも会えなくなっちゃったらどうしよう。
 痛いのと、悲しいのと、怖いのとでぶるぶる震えていると……優しい声で呼ばれました。

「モニーク」

 はい!

 ちっちゃな声で返事をすると、優しい王子様が、あったかい手でモニークを抱き上げてくれたのです。(とりあえずかみついた事は忘れました)
 金色の髪に紫の瞳、話す声はまるで音楽のよう。
 王子様がなでてくれると、ずきずきしていた足がすーっと楽になりました。

 すごいわ、おうじさま……すてき……かっこいい……。

 王子様に抱っこされて、モニークはうっとりしながらお家に帰りました。
 ママも、兄弟たちも、エドワーズさんも大喜び。

「モニークをたすけてくれてありがとう。お礼にこの子をお嫁にもらってくれませんか」
「……いいえ」

 こうしてモニークはふられてしまいました。

「おうじさまいっちゃった」

 がっかりしてお見送りしているモニークを優しく毛繕いしながらママが言いました。

「まだあなたはちっちゃいからね。一人前のレディーになったら…また素敵な殿方とめぐり合うかもよ?」
「いや。モニはおうじさまがいいの! これは、うんめいのであいなの!」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ふうん……そんなことがあったんだ」

 脱走劇の翌日。念のため、健康診断に連れて来られたモニークから120%美化された(推測)物語を聞き終えると、サリーはため息をついた。
 オティアがこの子を飼ってくれればよかったのに。
 動物を飼うことは、きっとあの子にとって良い方向に働いてくれると思ったのだ。

「しかたないね。こう言うことは、本人が決めないといけないから」

 あごの下をくすぐると、モニークは目を細めてすりよって、それからぱちっと青い瞳を開けて鳴いた。実にきっぱりとした口調で。

「にう!」
「え? 運命?」
「にゃ!」
「そっか………がんばってね」

 深く考えないまま、サリーはうなずいた。後にモニークの頑張りがどんな結果をもたらすか、なんてことは……予想だにせずに。

aule.jpg
※クリックで拡大します

 
(モニのおうじさま/了)

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【4-4】双子の誕生日(準備編)

2008/09/23 22:32 四話十海
  • 2006年9月8日から10日にかけてのできごと。
  • 双子の誕生日、準備編。もうすぐ17歳。

【4-4-0】登場人物紹介

2008/09/23 22:33 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 フリーの記者。26歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
 オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
 最近、夕飯の時にしか出番の無くなってきた本編の主な語り手。
 1980年6月6日生まれ、双子座。

【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
 告白の際に著しく心を傷つけられ、今はひたすら『空気』扱い。
 観察力に優れ、また記憶力は驚異的に良い。
 ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。
 ディフの探偵事務所で助手をしている。とても有能。
 1989年9月11日生まれ、乙女座。

【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
 外見はオティアとほぼ同じ。
 オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
 また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
 ディフになついている。
 自覚のないままヒウェルに片想いしている。
 その一方で、オティアとのこじれた仲を取り持とうとする複雑な立ち位置に。
 レオンの法律事務所で秘書見習いをしている。
 1989年9月11日生まれ、乙女座。
 
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフと双子に害為す者に対しては穂高の槍の穂先並みに心が狭い。
 ヒウェルに対してはとことん容赦無い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 新婚なのになかなか奥さんを独占できず秘かに拗ね気味。
 1979年12月25日生まれ、山羊座。

【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 頑丈そうな体格だが無自覚に色気をふりまく困った体質(ゲイ相手限定)。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 1980年7月27日生まれ、獅子座。

【アレックス/Alex-J-Owen】
 レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
 有能。万能。
 レオンさまと奥様、双子のためひっそりがんばる。
 誕生日はナイショ。

【結城朔也】
 通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。
 ディフやヒウェルの同級生だったヨーコ(羊子)の従弟。
 サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
 動物病院では水色の白衣を着ている。
 実家は神社。
 1983年3月9日生まれ、魚座。

【エドワード・エヴェン・エドワーズ/Edward-Even-Edwars】
 通称EEE、もしくはエディ。英国生まれ、カリフォルニア育ち。
 濃いめの金髪にライムグリーンの瞳。
 元サンフランシスコ市警察の内勤巡査でディフとレオンの友人。
 現在は父親から受け継いだ古書店の店主。やや引きこもり気味。
 飼い猫のリズは家族であり、よき相談相手。
 サリー先生のことが何かと気になる36歳。

【リズ】
 本名エリザベス。
 真っ白で瞳はブルー、手足と尻尾が薄い茶色のほっそりした美人猫。
 エドワーズ古書店の本を代々ネズミから守ってきた由緒正しい書店猫。
 6匹の子猫たちはめでたく里親に引き取られていった…はずなんですが。
 エドワーズのよき相談相手。


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【4-4-1】何がほしい?

2008/09/23 22:34 四話十海
 エンドウ豆は美味いが、サヤを剥くのが手間だ。
 長さ4インチ(約10cm)、幅半インチ(約1.5cm)ほどのサヤを手にとって、筋に爪を立ててぱりっと割る。新鮮なものならきれいに割れて、中からぽろぽろと緑色の豆が転がり落ちる。手のひらで受けてボウルに放り込み、空になったサヤは広げた新聞紙の上へ。
 必要量が確保できるまで以下、延々とこのくり返し。
 
 5人分だからけっこうな量がある。剥き身のを買えば早いが今日はたまたまサヤつきの方が大量に、しかも安く売っていた。
 オーガニック食品専門のスーパーは、天候や季節によって野菜の入荷にそれなりにバラつきがあるのだ。

 食卓に向かい合って腰かけて、双子とディフはさっきから豆を剥く作業に没頭していた。

「これ、何に使うの?」
「ポタージュスープ」
「裏ごしするの?」
「いや、時間ないからな。茹でてからブレンダーでガーっとやる」
「そっか」

 オティアは昨日から起きあがり、少しずつだが日常生活に戻りつつある。シエンはすっかり元気を取り戻したように見えた。
 表面上は。

 少しでも子どもたちの負担を減らそうと、この所ずっと食卓にはカボチャやニンジン、キャベツ、ジャガイモ、ひき肉、その他もろもろをすりつぶしたり、裏ごししたり。とにかく食べやすい、柔らかな状態に調理した献立が並んでいた。
 もっぱらディフが腕力を駆使して力技で粉砕しているので、お世辞にも『均一になめらかに』とは言いがたいのだが。

「なあ。お前ら、何か今、欲しいもの……ないか?」

 ぱちり、と開いたサヤから緑色の丸い豆をぱらりとボウルに落としながらディフがぽつりと言った。
 オティアとシエンは手を止めて、互いに顔を見合わせる。ちょっとの間を置いてからシエンが答えた。

「フードプロセッサー」
「……そうか」
「ブレンダーより細かくなるし、餃子作る時とかも便利でしょ?」
「そうだな」

 話す傍らでオティアが左手で器用にサヤを割り、ぱらりと豆をボウルに入れていた。

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 食堂に通じるドアが開いてディフが戻ってきた。ドアが閉まるのを確認してからそそくさと歩み寄り、聞いてみる。

「どうだった?」
「フードプロセッサーが欲しいそうだ」
「シエンかい?」
「ああ」
「あの子はどんどん凝った料理に挑戦して行くようだね」
「うん……好きなんだな、作るのが」
「っかーっ、やってらんねぇ」

 なごやかにほほ笑みを交わす『ぱぱ』と『まま』の隣で、思いっきり口をゆがめて大げさに首を横に振ってやった。

「17のバースデープレゼントに家電かよ!」

 そう、誕生日だ。
 来週の月曜日で、双子は17歳になる。

 ※ ※ ※ ※

 昨日の夜。
 オティアとシエンが部屋に戻ってから、大人三人でリビングで軽く一杯ひっかけた。
 オティアの状態も本調子とまではいかないものの最近は安定し、息抜きを兼ねてナイトキャップとしゃれ込んだ訳だ。

「あー、まーたそんなに雑な飲み方をして」
「人の楽しみ方をとやかく言わないでもらいたいね」
「自分より年季の入った酒にはしかるべき敬意を払うべきだと思うんです」

 例によって俺の説教なんざどこ吹く風と、涼しい顔でグラスの中味をストレートで流し込むレオンの隣では、ディフがくいくいとスコッチを飲んでいた。

「せめて割るなり氷入れるなり」
「香りが薄まる、味が鈍る」
「ったくこの飲んべえが」

 ぶつくさ言いながら自分の分だけ慣れた手つきでソーダで割る。
 そんないつもの飲み会の最中、ぽつりとディフが言った。テーブルの上に置かれた新聞に目をやって、ほんの少しうつむいて。

「そろそろだな」
「ああ911?」
「うん……あの子たちの誕生日だ」

 ディフの携帯のアドレス帳には、きっちり俺たちの誕生日から血液型まで入力されている。
 レオンは12月25日。
 俺は6月6日。
 もちろん、オティアとシエンのも。
 子どもたちにいつ生まれたのかと聞いても軽くかわされたらしい。結局、書類上の手続きを仕切ってるレオンから聞いて、それで分ったのだ。
 1989年9月11日に生まれたと。

「もうすぐあいつら、17歳になるんだな。俺らと会ってからは1年になるのか、来月で」

 短いような、長いような1年だった。ひょっとしたら俺の一生のうちで一番、波瀾万丈な1年になるかもしれない。

「ああ。あー、その………えっと……オティアが寝込んでからまだ日も浅いし……アレかなと思うんだけど」

 ディフがそわそわしながら口ごもる。何を言おうとしてるかなんてすぐにわかった。こいつは基本的に隠し事をするには向かない性質なのだ。
 
「サプライズパーティ?」
「うん。せめて17歳の誕生日は祝ってやりたいんだ。ささやかでいいから」
「一年遅れのSweet16……か」

 Sweet16。16歳の誕生日は特別な日。大人の仲間入りを家族や友人みんなで祝う。けれど双子の16の誕生日は「ロクなもんじゃ」なかった。

「いいんじゃないかな?」
「本当にそう思うか、レオン?」

 妙におどおどしていて、自信なさげだ。珍しいな……いつもならレオンに一言肯定されりゃあ即座に笑顔全開で『よし!』とか言うくせに。

「俺らだけ盛り上がって肝心の二人はシーンって可能性も………。いや、無反応ならまだいいんだ。かえって嫌な思いさせたらと思うと」

 ああ。
 何だ、そう言うことか。
 ったく、どうしてくれよう、この『まま』は。
 グラスの中味を一気に流し込み、勢いにまかせてぺしぺしと背中を叩いてやった。
 
「そんなに気負うことないんじゃね? 親って立場でやろうとすっから滑るんだよ。友だちだと思えばいい」
「友だち………か」
「そう、友だち」

 ※ ※ ※ ※

 そんな訳で、9/11の夜にサプライズパーティを開くことに決まった。約一名、お友だちも招待して。
 肝心のプレゼントのリクエストを伺ってこようとしたのだが、第一陣は見事に失敗に終わったのだった。

「17のバースデープレゼントに家電かよ!」
「……まずいかな」
「購入する価値はあると思うが、それとこれとは別問題だろ」
「……そうか」
「よし、こうなったら俺が聞き出してくる」

 レオンがちょこんと首をかしげた。

「君が?」

 任せてください、インタビューは慣れてますから! 自信満々に胸を張って答えようとして、ふと言葉が止まる。

 俺じゃ、だめだ。シエンは遠慮するだろうし、オティアに至っては……。
 横目でちらっとこっちを見て、きっちりスルーされるのがオチだろう。寝込んで以来、幾分、空気扱いは緩和されたような気はするのだが。
 話しかければ返事をしてくれるぐらいに回復はしてきたのだが。
 どうも、面倒くさそうと言うか気だるげと言うか、弾む会話にはほど遠い。

「……すいません、やっぱりお願いします」


 ※ ※ ※ ※


 夕食後。
 俺とヒウェルがキッチンで後片付けをしている間にレオンが双子から『欲しいもの』をさりげなく聞き出すことになった。

 双子は具合の悪くなる時も一緒。だから今回、オティアが寝込んだ際にはシエンも少なからぬダメージを受けていたはずだ。
 加えて不調を悟られまいとするオティアのフォローで身も心すり減らしていた。そのはずなのに、あの子は笑っている。

『もう平気だよー。オティアがまだ具合悪いから、その分、俺が動かないとね』
『そうか? なら、いいけどな……』

 平気なはず、ないじゃないか。気づいてないのか、気づかないふりをして、自分さえも欺いているのか……オティアがそうしていたように。

(まったくそっくりだよ、お前たちは)

 せめて少しでもシエンの負担を減らそうと、ここ数日はもっぱらヒウェルをこき使うことにしている。

「鍋洗い終わったぞ、まま」
「うむ、ご苦労」
「……」
「何だ?」
「いや、最近さあ、お前、リアクション薄いなーって思って」
「そうか?」

 軽くすすいだ皿を食器洗浄機に並べ、洗剤をセットしてフタを閉め、スイッチを入れる。この作業もすっかり慣れっこになったな。
 銀色の表面にちらりとレオンの姿が写る。振り返り、笑みかけた。

「どうだった?」
「シャツがそろそろきついそうだよ」
「わかった、次は1サイズ大きいのを買おう」

 ヒウェルがぐんにゃりと口を曲げて目尻を下げた。

「参考までにお聞きしますが、あいつらに何て言ったんですか、レオン?」
「…………何か必要なものはないか、と」
「あー……そう、そう来る……」

 ヒウェルはおおげさに肩をすくめて首を左右に振った。

「OK、作戦変更だ。リクエストを聞き出すのはあきらめて、各自判断でプレゼントを探そう」
「それがよさそうだね。あの子たちなら実用的な物の方がいいだろう」
「そうだな」
「ケーキはどうする?」
「甘いもの苦手だしな………自分で焼いてみようと思うんだ」
「君が? ケーキも作るのかい?」
「ああ。アレックスに教わって」

 ほんの少し目を伏せてから、レオンはにっこりとほほ笑んでくれた。

「そうか。期待してる」
「うん。がんばる」
「あー、そーだねー、アレックスならあいつらの好み知ってるし……有能だし」

 うなずきながらも、ヒウェルの奴は露骨に口をぐんにゃり曲げて三白眼でこっちをじとーっとねめつけていやがる。

「何だ、その顔は」
「いやあ、とうとうケーキまで焼くようになっちゃったかと思ってさ」
「言ってろ」


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【4-4-2】サリー、本を買う

2008/09/23 22:35 四話十海
 
 9月10日、日曜日。
 ディフは双子の寸法を確認してから、買い物に出かけた。表向きの理由は『1サイズ大きいシャツを買いに』。本来の目的はプレゼントとケーキの材料の調達、故に二人を一緒に連れて行く訳には行かない。
 オティアとシエンはアレックスの付き添いで留守番中、今頃はしばらく滞っていたホームスクーリングの課題をやっているはずだ。

 ショッピングモールの衣料品店でまず大きめのシャツを買い、さて他に補給するものは……と軽く巡回している時にふと、そいつを見つけた。

(ああ、こいつはおあつらえ向きだ)

 手に取って素材を確かめてみる。

 ………綿だった。
 これなら家で洗濯できるな。さらさらしていて、汗も吸う。肌触りもいいし、縫製もしっかりしている。

(これにしよう)

 ミルクをたっぷり入れたコーヒーのような優しい生成りの色と、ほんわりと霞む春先の空のような青色、色違いで二着買い求める。
 目元をわずかに赤く染めながら、精一杯平静を装ってプレゼント用のラッピングを頼んだ。
 
「かしこまりました。リボンで色の違いがわかるようにしておきますね」
「…………ありがとう」

 引き続き食料品店でケーキの材料を入手する。
 品目はアレックスの指導のもと、スポンジケーキではなくタルトに決まった。
 ストロベリーにブルーベリーにラズベリー。果実の自然な味わいと色合いを活かして、クリームは極力控えめに。
 メッセージを書くためのホワイトチョコでコーティングされた薄いプレート状のクッキーと、文字を描くためのチョコペン、バースデー用のキャンドルも忘れずに。

 買い物を終えてから外の通りを歩いていると、向かい側のカフェのテラス席に見覚えのある姿を見つけた。
 黒髪、短髪、東洋系、フレーム大きめの眼鏡をかけたほっそりした姿。

 サリーだ。
 ラッキーだな、電話する手間が省けたぞ。

 しゃん、と背筋を伸ばして立ち居振る舞いに無駄が無く、周囲の人間と動きの質が違う。控えめであるが故に自然と際立って見える……ヨーコもそうだった。
 大またで通りを横切り、近づいて行く。

「OK、だいぶ上達しましたね。この調子で焦らずに続けてくださいね」
「ありがとう。がんばるよ」
「それじゃ、また」
「ああ、また、来週。ヨーコによろしく」
「はい。伝えておきます」

 どうやら連れがいたようだ。入れ違いに席を立った所で、ちらりと後ろ姿だけが見えた。
 ウェーブのかかった黒髪、背の高い男性、白人。ダークグレーに淡い水色の極めて細いストライプの入ったスーツを着ていた。適度な余裕をもって体を包むあのラインはイタリア製だろうか?
 シャツの色は青紫、タイはしていないが水色のネッカチーフを巻いていた。
 教会に入ってもおかしくない程度にきちんとして、それでいて適度にカジュアルな服装。仕立ても布地の質も良さそうだ。
 知り合いだろうか?

「よう、サリー」
「こんにちは、ディフ」
「ちょうどよかった、今電話しようと思ってたんだ」
「俺の方も渡したいものが……」

 顔を合わせるなり、サリーはベルトに下げた小さめのカバンから平べったい袋を取り出した。
 そこはかとなく緑色が多め。表面には白い陶器のカップに入った湯気の立つ液体の写真……どうやらインスタントのスープらしい。

「はい、これ」
「何だ、これ?」
「ワカメのスープです。お湯注げば食べられます」
「……そうか、これがワカメか。ありがとう」

 ありがたく受けとることにした。

「で、何か俺に用ですか?」
「ああ、うん。明日の夜、暇か?」
「明日の夜……ですか? 空いてますけど」
「そうか」

 ほっとして、ディフは本題に入った。

「実は明日、オティアとシエンの誕生日なんだ」
「それはおめでとうございます。いくつになるんですか?」
「17歳だ。それで……夕飯の時、サプライズパーティをやるんだ」

 さあ、ここからが正念場だ。一旦言葉を区切るとディフはこくっと唾をのみこんだ。

「君が来てくれると、嬉しい」
「俺が?」
「ああ。友人として君を招待したい」

 ほんの少しの間、サリーは考えているようだった。が、すぐににっこりとほほ笑んでうなずいてくれた。

「喜んで」

 その一言に、ディフも顔をほころばせる。目を細めて口角を上げ、ちらりと白い歯を見せて。上機嫌の大型犬そっくりの笑顔になる。

「サプライズってことは二人にはナイショなんですよね?」
「うん。ナイショだ」
「わかりました。じゃあプレゼント用意しとかなきゃ……そうだ、夕飯の時、俺も何か作りましょうか?」
「ありがとう。ぜひお願いする。あいつらも喜ぶよ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 ディフを見送ってから、サリーはカフェを出て歩き出した。
 
 誕生日。
 だれかの誕生日をお祝いするのは、楽しい。当人に秘密にすると思うとわくわくする。
 ディフも楽しそうだった……両手に山のように荷物をかかえて。きっとプレゼントや誕生日のごちそうの材料を買ってきたんだろう。
 双子たちにナイショにして。

(そうだ、プレゼント)

 何を贈ろう? オティアもシエンも本の好きな子だから、本がいいかな。ローゼンベルクさんや、ディフが持っていないようなのを。

 ショッピングモールにも何件か大きな書店が入っていた。最新の本が入るのは早いけれど、何となく騒がしくて落ち着かない。
 もっとこじんまりした店の方がいいな、と思った。
 贈る人のことを想いながらとっておきの一冊を探すには、もっと本とじっくり向かい合うことのできる場所の方がいい。

 思い切って普段行かない場所まで足を伸ばしてみた。表通りから少し奥に入ったところに古い商店街がある。
 いつもは横目で見て通りすぎるだけだけれど、ここになら目的にかなったお店があるかもしれない。

 石畳の道の両端に、絵はがきに出てくるような古い造りの建物が並んでいる。両端が細く、中央がぷっくりと膨らんだ柱はヨーロッパの洋館を思わせる。
 肉屋に魚屋、つやつやのリンゴやピーマンがきっちり積み上げられた青果店。
 赤いレンガ造りの花屋の前を通りかかると、大小二匹、そっくりの黒縞の猫がみゃう、と声をかけてきた。

「あれ、バーナードJr? ここにもらわれてたんだ」
「みぅ」
「そうか、お父さんの家に来たんだね……はじめまして、バーナードSr」

 サイズ違いの二匹の頭をなでて挨拶を交わす。リズの子どもたちの父親は無口だが愛想が良く、穏やかな猫だった。

 花屋の猫たちに別れを告げて、またしばらく歩いて行くと、砂岩作りの細長い建物があった。ちらりと見えた看板には『BOOK』と書かれている。
 
(本屋さん?)

 近づいて行くと、窓のところに白い子猫がいた。サリーに気づくなりぱっと青い瞳を輝かせ、高い声で「みうー!」と鳴いた。

「えっ? モニーク?」
「みゃ!」
 
 するり、とモニークの隣にもう一匹やってきた。
 尻尾と手足が薄い茶色の白い猫。
 リズだ。

「え? え? え?」

 改めて看板を見る。

『エドワーズ古書店』

「………そうか、ここがエドワーズさんのお店なんだ………」

 二対の青い瞳が見上げている。サリーは頭をひねって考え込んでしまった。

「モニーク、魚屋さんにもらわれて行ったはずじゃあ」
「みゃー!」

 モニークが誇らしげに鳴き、リズはうつむいてため息をついている。

「リズ。モニーク。誰と話しているんだい?」

 店の奥から背の高い金髪の男性が出てきた。きちんと折り目のついたダークグレイのズボンに同じ色のベスト、白いシャツにアスコットタイを締めて両方の袖をアームバンドで留めている。
 瞳の色はライムグリーン。

「あ……サリー先生」
「こんにちは、エドワーズさん」

 猫がいるんだから飼い主がいて当然。わかっているはずなのに、何となくどきっとしてしまった。

「何故、ここに?」
「本を探しているんです」
「なるほど。でしたら……」

 エドワーズは一度奥に入って行く。2匹の猫も後を追う。
 しばらくしてから、カランコロンと優しいベルの音ともに入り口のドアが開いた。

「どうぞ、お入りください」

 ほほ笑むエドワーズの懐からは、ちょこんとモニークが顔を出している。まるでカンガルーの子どもだ。

「それじゃ、失礼して」

 くすっと笑うと、サリーは店の中へと入った。

「わあ……」

 こじんまりとした店の壁はほとんど背の高い本棚で埋め尽くされている。古びた紙と、糊のにおいがほんのりと空気の中に漂っていた。
 流行りの曲をがんがん流す店内放送も、派手な宣伝ポップも、特売のポスターもない。

 ただ、本がある。
 
(そうだ、こう言うお店を探していたんだ)

「どのような本をお探しですか?」

 まだモニークはエドワーズの懐に入ったままだ。脱走を防ぐために入れられたのだろうけど、すっかり忘れて喉をゴロゴロ鳴らしている。
 どうやらお気に入りのポジションらしい。

「えっと……実は誕生日の贈物を探しているんです」
「そうでしたか。どなたへの贈物ですか?」
「友だちです。まだ十七歳なんですけど……本の好きな子たちで」
「なるほど。どんな本がお好きなんでしょう?」
「そうだな。オティアは、ヨーコさんがお土産でもってきた歴史の本を熱心に読んでたみたいだったなぁ」
「オティア?」

 エドワーズは思った。
 聞き覚えのある名前だ。
 懐のモニークも喉を鳴らすのをやめて、ピンと耳を立てている。

「もしかして、オティア・セーブル……ですか。マックスの所のアシスタントをしている」
「はい。ああ、そうか、モニークが行方不明になったとき探してくれたんでしたよね、彼」
「はい。この子の命の恩人です」
「みゃー!」

 サリー先生は時々、マックスの事務所でペット探しの手伝いをしていると言っていた。それなら、親しいのも当然だろう。
 彼への贈物なら、なおさら心をこめて選ばなければ。歴史の本のコーナーを丹念に確認して行く。背表紙を見て、記憶している本の特徴と照らし合わせながら棚の端から端まで視線を走らせる。
 すぐ隣にサリー先生が立っていると思うと、胸の鼓動がどうしても、若干、早くなる。
 しみじみと幸せを噛みしめながらエドワーズは選りすぐりの一冊を手にとり、ぱらりと開いてうやうやしくサリーに差し出した。

「こちらの本はいかがでしょう? 昔のお城や当時の人々の服装、使っていた道具まで詳しく図解してあります」
「本当だ! ああ、好きそうです、こう言うの……」
 
 眼鏡の向こうのつぶらな瞳が嬉しそうに細められる。モニークがもぞもぞ動いて前足を伸ばした。

「あ、こら、モニーク」
「あは、ページが動くのが面白いのかな?」

 白い前足を握手するように握って、サリー先生はモニークに顔を近づけた。

「だめだよ、イタズラしちゃ」
「にう」

(うわぁ)

 とりもなおさずそれはエドワーズの胸に顔を寄せていることにもなるのだが……当人はまったく気づいていない。
 エドワーズは最大限の努力を振り絞って平静を保った。つややかな黒髪から立ちのぼるほのかに甘い香りから必死に意識を逸らした。
 おそらくはシャンプー、それもハーブ由来の天然香料のものだろう。自然な植物の控えめな芳香は、本来ならとても心安らぐ香りのはずなのだが。

「オティアにはこれにしようっと。シエンには何がいいかな……」

 ……良かった、離れてくれた。でもちょっぴり寂しいような気がした。

(もう少しあの位置に居てくれても……いやいやいや)

 内心の葛藤を紳士の慎ましさの奥底にしまい込み、仕事に集中する。

「シエン……Mr.セーブルの兄弟ですね?」
「はい。双子の」

 やはり双子だったのだ。結婚式のリングボーイの片割れ、並んで立っていた瓜二つの一対のうちの一人。
 Mr.セーブルに比べて物静かな印象の少年だった。

「料理の好きな子なんです」
「なるほど。でしたらレシピ集……いや、それもいささかストレートすぎて面白みがないですね」

 記憶をたどりつつエドワーズは本棚の間を通り抜け、別の一角に移動した。すぐ傍らをとことことサリーがついて行く。

「確か、この辺りに」

 すぽっと幅の広めの大判の本を抜き出した。
 表紙は濃い茶色を基調とした写真。乳鉢や素焼きの壷など、薬草を調合する古い道具が置かれている。
 背後には木の棚に乗せられた白い袋。右上には四角くトリミングされた黄色や白、赤の花。全て薬草だ。
 そして左側には中世風の画風で描かれた『薬草園の世話をする修道士』の絵。

「Brother Cadfael's Herb Garden ?」
「はい。図鑑と言うにはいささか変わり種ですが、充実していますよ。ハーブだけではなく、フルーツやナッツ類の用法から薬効まで書かれています。何より写真が美しい」
「Brother Cadfael………ああ、エリス・ピーターズの」
「ご存知でしたか。ええ、あのミステリー小説に出てくるハーブを紹介した本なんです」
「日本でも翻訳が出ていますよ。でもこれはさすがに売ってなかったなぁ……」
「古い本ですからね。これは……1996年発行だ」
「わあ、もう十年も前なんだ!」

 十年。
 確かその頃はまだ警察官だった。彼女とは離婚したばかりで……。

 十年前は、サリー先生は何歳だったのだろう?
 まだほんの少年だったはずだ。今でさえ私服姿では高校生とまちがえそうなのに、いったいその頃はどんな子だったのか。
 ちょっと想像がつかない。

「きれいだな……見て楽しいし、実用性もある。これなら料理に使うハーブを調べるのに役に立ちそうだ」

 うなずくと、サリーはにっこりと笑った。

「決めました。シエンにはこれにします」
「ありがとうございます。それではお包みしましょう」

 会計を済ませると、エドワーズは薄紙を取り出した。

「どちらの本を、どの紙でお包みしましょうか」
「カドフェル修道士のハーブガーデンは、このクリーム色で。こっちの歴史の本は青いのでお願いします」
「かしこまりました。モニーク、そろそろ降りてもらえるかな?」
「みう」

 不満そうにつぶやく子猫を懐から出すと、エドワーズは手際よく本のラッピングを始めた。

「あの……エドワーズさん」
「何でしょう」
「どうして、モニークはここに?」

 ぴたりと一瞬、手が止まる。

「あ、ごめんなさい、その、確か魚屋さんにもらわれて行ったって聞いてたので」
「ええ……そうなんですが……」

 リズがまた、ため息をついている。
 その隣ではモニークが上機嫌で床にひっくり返り、切り落とされた包み紙の切れはしをちょいちょいと前足でつついている。

「実はモニークは……もらわれて行った先から、脱走してはここに帰ってきてしまうのです」
「みゃ!」
「ああ……」
「何度連れ戻しても、また逃げてくる。酷いときは一日に二回も。近くだからいいのですが、さすがに魚屋の店主夫婦も困り果ててしまいまして」
「にゅう!」
「それで、とうとう戻されてしまったんです」

 きゅっとクリーム色の包み紙の端をテープで留めると、エドワーズは白いリボンをくるりと巻き付けた。

「私も、猫が二匹居ても……いいかな、と思いまして、それで」
「そうだったんですか」

 何故、モニークがそんなに脱走をくり返したのか。理由はわかっている。
 サリーはほんの少し、胸がどきどきしてきた。

 これは、ひょっとしたら……チャンスかもしれない。だけどオティアは一度はNoと言っている。果たして二度目は受け入れてくれるだろうか?

 
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【4-4-3】ヒウェル、猫に会う

2008/09/23 22:36 四話十海
 各自の判断でプレゼントを調達する。
 自分で言い出したのはいいものの、ヒウェルは迷っていた。
 
 実用的なもの。
 これが一番難しい。常日頃他人に何ぞを贈る際にはいつもネタに走っていたものだから、いざ実用性のあるプレゼントを探そうとすると、冗談みたいにぱったりと、アイディアの泉が枯渇してしまったらしい。
 いくら頭をひねっても、さっぱり湧いてこない。

(これは……やばいぞ)

 机の前に座って考えた所で思考は車を回すハムスターよろしく、延々と空回りを続けるばかり。

(どれ、ちょっくらリサーチしてくるか)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「Hey,まま」
「何だ?」
「………ほんとリアクション薄いよな」

 ヒウェルがローゼンベルク家の『本宅』を訪ねてみると、ちょうどディフが買い物から戻ったところだった。

「双子は?」
「ああ、隣だ。アレックスに勉強見てもらってる」
「そっか……じゃあ、好都合だな」

 境目のドアは今は開いている。昼間はいつもこうなのだ。ちらっとそちらを確認してから念のため、小声でこそっと聞いてみる。

「オティアとシエン……最近、何か、こう、生活必需品で不足してそうなもの、ないか」

 ちょっと考えてから付け加える。

「できればシャツ以外で」

 ディフはしばらく拳を握って口元に当てて考えていた。

「オティアが」
「うん」

(やったぜ、いきなり本命だ!)

「目覚まし時計…………壊しちまったんだ」
「目覚まし時計?」
「ああ」

 ちらりとディフの顔に浮かぶ苦い笑みに、妙にがらんとしていた双子の寝室が重なる。
 おそらく、壊したのは時計だけではない。オティア自身も気づかぬうちに『破壊』してしまったのだ。

「1コインショップで見つけて、珍しく自分で選んだ時計だったんだけど……な」
「そいつぁ珍しいね、確かに。で、どんなんだった」
「ん……ちょっと待ってろ」

 ディフは電話台の脇のメモスタンドからひょいとペンを抜き取ると、広告のチラシの裏にさっさっとスケッチを始めた。

「丸形で、アナログ式。文字盤はローマ数字じゃなくて普通の1、2、3……で。上に金属のベルが二つついてた」
「上手いもんだね」
「時計は無意識に形を覚えちまうんだよ。爆弾のタイマーに使われることがあるからな。色は青だ」
「つやつや? それとも、マットがかかってる?」
「つやつや」
「OK。1コインショップで買ったんだな?」
「ああ。いつも行くショッピングモールのな」
「あー、はいはい、あそこね。わかったわかった。で、シエンは?」
「シエンは………買い物の時」
「うん」
「財布が、な……小銭がすぐ溜まって、ぎっしり満杯になって困るって言ってた」
「………そうか」

(小銭がぎっしり。それって、16歳の財布と言うよりは、むしろ主婦の財布じゃねえか?)

「最近は自分で作る料理の食材は自分で選んで買ってるからな。支払いもあの子が自分でやってる」

 納得。
 
 
 ※ ※ ※ ※ 
 
 
 オティアには目覚まし時計。青でクラシカルなベル式。
 シエンには小銭のたっぷり入りそうな丈夫な財布。

 品目は決まった。あとは物を選ぶだけだ。
 オティアの場合は入手先はわかっているし、具体的にどんなものを探せばいいのかも決まっている。
 だが、シエンの『財布』は自由度が高いだけにかえって難しい。
 何を贈ってもあの子はほほ笑んで『ありがとう』と言うのだろうけれど……。

 とりあえず店の前を歩いてみることにした。ふらふらしてるうちに、『何か』いいものに出会えるかもしれない。

 虫のいい考えだが、効果はあった。ジャパンタウンをぶらついている時に(中華街と同じくここもヒウェルのお気に入りのぶらつき場所の一つだった)、ふっと店先に置かれた変わった形のコインケースに目が引き寄せられた。

 本体は布。ころんとふくらんだ丸みのある形で、互い違いになった口金をとじあわせてきっちりと閉める仕組みになっている。
 手にとってカパカパ開け閉めしてみた。

(面白ぇ……カエルの口みたいだ)

 これ、いいな。シエンが喜びそうだ。バイト中にコーヒー買いに行く時なんかも便利だろう。
 かぱっとやって、すぐ中味が出る。
 何より面白い。

 だが、この布製のはちと小さいな。
 もっとしっかりした造りで、大きめのやつを探してみよう。

 ヒウェルは店の中へと足を踏み入れ、店員を呼び止めた。

「表にあったような形のコインケースで、もっとしっかりしたの探してるんだ」
「がま口(Frog-mouth-pouch)をお探しですか?」
「へえ、ほんとにそう言う名前なんだ……」

 にやっと口角が上がる。
 いいね、ますます気に入った。

「しっかりしたもの、でしたらこれなどいかがでしょう?」

 店員がいくつか出してくれた『がま口』の中で、ひときわ目を引く品を手にとってみる。金色の口金をひねり、かぱっと開けた。

「へえ、中は革張りなんだ」
「はい。布だけのものと違ってぺったりしませんから中味の出し入れも楽です」
「ふうん……外側の布もしっかりしてるな。模様も印刷じゃなくて刺繍だし……」

 どっかで見たことがあるなと思ったら、この質感は、あれだ。ヨーコの着てた着物の帯に似てるのだ。
 びっしりほどこされた金色の縫い取りは、ちょっと角度を変えただけで微妙に色合いが変化する。
 よく見かける布に日本っぽい絵柄をプリントしたものとは明らかに格が違っていた。

「これ、ください。贈物なのでラッピングも」
「はい、かしこまりました」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 シエンのプレゼントは無事確保できた。あとはモールの1コインショップでオティアの分を買えばいい。
 上機嫌で件の店を訪れたヒウェルだったが、事態はそう簡単には運ばなかった。

「え……品切れ?」
「はい、当ショップではもう扱っておりません」

 1コインショップの商品は入れ替わりが早い。そしてどんなに売れた商品であれ、品切れになれば再入荷の予定はない。
 機能と役割が同じで、デザインの違う新商品が後がまに並ぶ。
 まさに一期一会、あるいは一発勝負。

(こいつぁ予想外だ、困ったぞ。まさか、こっちでつまづくなんて!)

 わずかな望みをかけて他のショップを見回ってみたが収穫無し。冷静に考えてみれば、こう言う人の出入りの多い場所ではそれだけ商品の入れ替わりも早いのだ。
 作戦変更。少し奥まった所まで足を伸ばしてみよう。

 ユニオン・スクエアの表通りからちょいと横手に入った所にある古い商店街。石畳の道に古風な建物、昔ながらの店が並ぶなかなかに写真映えのする一角。
 こじんまりした雑貨屋、オーソドックスに時計屋、ボタン電池からフットバス、大型電動工具に至るまで幅広い品ぞろえを誇る電気屋。
 探索してみたがいずれも空振りだった。

 ため息一つ。

 いかんな。もう、ちょっと似てるデザインの別の奴でもいいかって気になってる……。
 オティアがあの時計のどこをそんなに気に入ったのか、ヒウェルは知る由もない。青系が好きらしいから色かな、とも思うのだが生憎とモノクロのスケッチでは元の時計の色はわからない。
 わからない以上、似た物での代用は効かない。オティアが選んだものと、そっくり同じものを贈らなければ意味はないのだ。

(ちょっくら気分転換してくか)
 
 馴染みの古本屋に立寄り、リフレッシュを試みることにした。
 着いてすぐに砂岩作りの三階建ての店の前のワゴンに並ぶセール本をチェックする。
 大抵の古書店ではこの種の安売り品は無造作につっこんであるものなのだが、この店の本は大きさごとに分けられ、ひと目で背表紙が読めるようになっていた。

「お」

 好みの雑誌発見。ネットオークションで買えば冗談だろうと言うくらいに値の跳ね上がる代物だが、比較的良心的な価格が表示されている。
 数冊選び出し、会計をしようと店の中に入った。

 カランコローン……

 ドアベルの奏でるやや低めの音階に、金髪の店主が顔をあげた。

(ん?)

 その刹那、店主のライムグリーンの瞳が鋭い光を宿し、『きっ』とにらみつけてきたような気がした。

「……いらっしゃいませ」
 
 一瞬のことだった。もう、いつもの穏やかな顔にもどってる。

(びっくりした……あの人でもああ言う目つき、する時があるんだな)

 妙なことに感心しつつカウンターに歩み寄り、手にした雑誌をさし出した。

「これ、お願いします」

 すると、にゅっと床から立ち上がった奴が約一名。どうやら先客がいたらしい。ひゅん、と長い薄茶色の尻尾がしなるのが見えた。猫の相手でもしていたのだろうか。

「あれ? メイリールさん」
「え……サリー?」

 レジを打ちかけた店主の手がふと止まる。
 微妙な間の後、静かな声が問いかけてきた。

「……………………………………お知り合い、ですか?」

 微妙に声のトーンが低い。しかも、そこはかとなくトゲが生えてるような。

 おいおい、俺、この人に何かしたか?
 まじまじと、改めて店主の顔を見つめ、記憶を漁る。
 基本的にヒウェルは自分がはめた相手の顔は忘れない主義だった。いつ、どこで出くわさないとも限らない。
 相手の存在にいち早く気づき、自分を覚えているかどうか、適度な距離を保ちつつ観察できるように。
 いざと言う時は恨みをこめた一撃を食らう前にとっとと逃げ出せるように。

(あ)

 ファインダー越しの記憶と目の前の顔が一致した。

「そー言えばレオンとディフの結婚式の時にいましたね……SFPD(サンフランシスコ市警察)の方々と一緒に」
「ええ、3年前まで勤めてましたから」

 ディフの元同僚だったのか……。元警察官なら、あの鋭い眼光も納得が行く。

「あなたは確か……ああ、結婚式でカメラマンをしていらっしゃいましたね」
「ディフの友人で、高校の同級生だそうですよ」
「では、Missヨーコとも?」
「ええ、まあ……」

 あいまいな笑みを浮かべつつ語尾を濁す。あいにく、とか不幸にして、とか、当人の従弟を目の前にうっかり本音を言えるはずがない。

「あれ、でも初対面なんですね。警察署内なんかで会ったことなかったんだ」
「私は事務の担当でしたから……」
「ああ、それじゃあんまり顔合わせてないな。その頃なら俺、馴染みがあるのはもっぱら広報担当だったから」

 3年前と言えばヒウェルはまだ、かろうじて堅気の記者だった。
 あちらこちらに鼻を突っ込み、事務担当にまで世話になるようになったのは店主が警察を辞めた後のことになる。

「あ……そうだ。メイリールさん。いいところに」

 サリーは本棚のすき間に向かって呼びかけた。

「モニーク、モニーク。おいで」
「みゃ!」

 真っ白な毛皮、青い瞳、そして胴体の左側に、カフェオーレをこぼしたような、ちょっといびつな丸いぶち。
 子猫は日一日と成長する。若干サイズは変わっていたが、確かにそれはオティアが探し出したあの行方不明のちび猫さんだった。

「………………………魚屋さんにもらわれていったはずじゃあ」
「ええ、そうなんですが……実は」

 ため息をつくと、古書店の主人は低い声でモニークが出戻ったいきさつを教えてくれた。

「お前……どんだけ脱走すれば気がすむんだ」
「み」

 子猫は耳を伏せてぷい、とそっぽを向いてしまった。

「どうでしょう、メイリールさん。この子ならきっと大丈夫だと思うんだけれど」
「そうだな……彼女、オティアに懐いていたし………オティアもこの子を気にしてた」
「Mr.セーブルですか? ええ、彼ならこの子のよい飼い主になってくれるでしょう。そう思ってお願いしてみたのですが……」
「NOって言ったんだろ、あいつ?」

 サリーがうつむき、子猫をなでた。

「難しいですかね………」
「いや、ここは一つ強硬手段に出てみよう」
「強硬手段?」
「ああ。強引に連れてく。だいたいオティアは遠慮しすぎなんだ。それに、里子先から戻されたって聞けば……決してこの子を追い返したりしない」

 ひと息に言い切ってから、ヒウェルは深く息を吸い込み、また吐き出した。
 妙に顔がかっかと火照っている。

(ああ、俺は今、何をやらかそうとしているんだろう?)

「ディフとレオンには俺から根回ししとくから……」
「その……Mr.メイリール、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」

 控えめに店主が問いかけてくる。

「マックスはわかります、彼の雇い主ですから。ですが、何故レオンまで?」
「ああ、オティアには身寄りが無くてね。あの二人が面倒見てるんですよ、双子の兄弟と一緒に」
「なるほど。レオンのことは私もよく知っています。彼は確か……動物があまり………」

 店主は口をつぐむ。ヒウェルも黙ってライムグリーンの瞳を見返した。サリーはモニークを抱きかかえたまま、心配そうに二人を交互に見ている。

「大丈夫だって! ……………………………………………タブン」
「だと、いいのですが」

 エドワーズは秘かに思い出していた。署の廊下で警察犬とすれ違った時、レオンはほんの僅かな間だが凍えるような瞳で犬を……睨んだ。
 黒のロングコートのシェパード、仕事以外の時はフレンドリー極まりないヒューイ。マックスが可愛がっていた。
 ヒューイはさほど気にする風でもなかったが、もし、あれと同じ目でモニークを睨まれたらと思うと背筋が寒くなる。

「オティアが住んでるのは、正確にはあの二人の隣の部屋なんだ。ドア一枚で繋がってるけど、レオンやディフといつも一緒って訳じゃない」

 ああ、それならばモニークがレオンハルト・ローゼンベルクに睨まれる可能性は少しは低くなる。

「それに、モニークを抱いてたときのオティア、今まで見たことないほど穏やかな顔してたんだ……一緒にいると、きっと、喜ぶ」
「そっか……良かったね、モニーク」

 サリー先生に頭をなでられ、かぱっと小さな口を開けてモニークが鳴いた。

「にう!」

 その時、エドワーズは気がついた。可愛がってくれる、しかも大好物のエビを食べさせてくれる魚屋夫婦の所から、何故、頻繁にモニークが脱走していたのか。
 彼女には彼女なりの目的があったのだ。

「お前もMr.セーブルの所に行きたいのかい?」
「みう〜」
「彼の所でなければ、嫌なんだね?」
「みゃ!」
「…………そうか」

 エドワーズは心を決めた。

「お願いします」
「俺からもディフに連絡してみます」

 ようやく、エドワーズの顔にほほ笑みが戻ってきた。
 大丈夫だ。サリー先生も協力してくれるのなら、安心できる。


 そしてヒウェルは携帯を取り出し、電話をかけた。


「あ、もしもし、レオン。猫飼っていいですか?」
 
 憮然とした声が即座に答える。

「却下」

 この口調の素っ気なさ、この声のトーンの低さ。察するに受けた場所は書斎、近くにディフはいないらしい。

「いや俺じゃなくてオティアですよ! アニマルセラピーってやつです……」

 沈黙が答える。
 ああ、渋い顔をしているのが目に浮かぶようだが、ここで退く訳には行かない。いざ突進、アタックするのみ。

「エドワーズさんご存知でしょ? 元SFPDの内勤巡査の。飼いたいってのは、彼の家の子猫で……行方不明になった時にオティアが探し出した子猫なんです。あいつにも懐いてるし」
「ヒウェル。はっきり言うけれどね」
「あー……動物、お好きじゃないのはわかってます、でも、レオン」
「俺を説得したいならやり方をかえるんだね。それじゃ」

 ぷっつりと電話が切られた。

「ちっ、姫は手強いなぁ……」
「姫?」
「あ、いや、こっちのことで」
「レオンの返事もNO、だったんですね?」

 苦虫を噛み潰すような心境でうなずくしかなかった。

「やっぱりディフから言ってもらわないと駄目なのかな」
「ああ、しかし子猫の素性とオティアとのなれ初めは伝えた……無駄ではなかったと思いたい」
 

 うなずくと、サリーは自分の携帯を取りだした。


「サリー! どうした?」

 朗らかな声が答える。ほっとして話を続けた。

「ちょっと相談があるんですけど、いいかな?」
「ああ、何だ?」

 一通り事情を説明すると、ため息まじりに「そうか」と答えが返ってきた。決して失望のため息ではない。むしろ安堵に近い。

「………本当はな…俺も……オティアがあの猫、飼ってくれたらいいなって、思ってた」
「もう一度、チャンスをください。モニークを連れていってもいいですか? 明日の夜にでも。それでだめなら連れて帰ります」
「ああ。レオンには俺から話しておく」

 即答だった。
 きっぱりと、はっきりと。強い意志を感じた。その瞬間、サリーは直感で悟った。

(大丈夫だ。この人が頼めば、きっとローゼンベルクさんはOKしてくれる)

「ありがとうございます。それじゃ、また明日」
「ありがとうって言いたいのは、俺の方だよ、サリー。それじゃ、また」

 電話を切ると、サリーは心配そうにのぞきこむエドワーズとヒウェルに向かってにこっと笑いかけた。
 二人の肩からふっと力が抜けて、緊張しきった顔の筋肉が一気にほころぶ。
 にんまりと会心の笑みを浮かべると、ヒウェルが右手の拳をくっと握って親指を立てた。

「GJ、サリー」


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