▼ 【4-6】有能執事**する
- 2006年9月の出来事。今回のメインは有能執事アレックス。なお、諸般の事情につきタイトルは伏せ字とさせていただきます。
- 大したことじゃないんですが……最後にはちゃんと判明しますのでご安心ください。
記事リスト
- 【4-6-0】登場人物紹介 (2008-10-18)
- 【4-6-1】人はパンのみにて (2008-10-18)
- 【4-6-2】ソフィアは見ていた (2008-10-18)
- 【4-6-3】二人で回転木馬に (2008-10-18)
- 【4-6-4】アレックスの決心 (2008-10-18)
- 【4-6-5】今後ともよろしく (2008-10-18)
▼ 【4-6-0】登場人物紹介
- より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
有能。万能。
灰色の髪に空色の瞳、故郷には両親と弟がいる。
20歳の時からずっとレオンぼっちゃま一筋の人生。
今はレオンさまと奥様と双子のためにがんばる日々。
好物はほうれん草入りクロワッサン。
毎日焼きたてを行き着けのベーカリーで買う。
41歳、独身。
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】
通称レオン
弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
ディフと双子に害為す者に対しては穂高の槍の穂先並みに心が狭い。
ヒウェルに対してはとことん容赦無い。
ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
彼にとってアレックスはほとんど親代わりだった。
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】
通称ディフ、もしくはマックス。
元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
頑丈そうな体格だが無自覚に色気をふりまく困った体質(ゲイ相手限定)。
裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
レオンの嫁で双子の『まま』。
結婚当初、アレックスから
「奥様とお呼びしたほうがよろしいのでしょうか」と聞かれて全力で却下したらしい。
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
告白の際に著しく心を傷つけられ、今はひたすら『空気』扱い。
観察力に優れ、また記憶力は驚異的に良い。
ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。
ディフの探偵事務所で助手をしている。とても有能。
拾われた時アレックスに世話されて以来、結構懐いていたりする。
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
外見はオティアとほぼ同じ。
オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
ディフになついている。
自覚のないままヒウェルに片想いしている。
その一方で、オティアとのこじれた仲を取り持とうとする複雑な立ち位置に。
レオンの法律事務所でアレックスに着いて秘書見習いをしている。
料理やお菓子のレシピも教わっている。
【オーレ/Oule】
四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
エドワーズ古書店の看板猫リズの末娘。
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
フリーの記者。26歳。
黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
とうとう猫以下の扱いになっちゃった本編の主な語り手。
次へ→【4-6-1】人はパンのみにて
▼ 【4-6-1】人はパンのみにて
人はパンのみにて生きるに非ず。
しかし、毎日の食生活においてパンの占める役割は大きい。何と言っても主食なのだから。
自らの仕える主人、レオンハルト・ローゼンベルクが高校を卒業し、寮を出た後もサンフランシスコに居を構えると決めた時。
忠実なる執事アレックス・J・オーウェンは衣食住、全てにおいて完ぺきに準備を整えた。
中でも食生活においてことに気を配ったのが、如何にして良質なパンを確保するか、だった。
本家で暮らしていた時分には毎食のパンは屋敷の厨房で焼かれていたが、さすがにここではそれは難しい。
(ならば自分の目と舌で確かめて納得の行くパン屋を探すしかあるまい)
そんな訳でアレックスは、主人の住むノブヒルのマンションの近辺のパン屋を全てピックアップし、材料から製法、味、店内の清潔さから従業員の気質、勤務態度に至るまでことごとくチェックしたのである。
まずはサンプルを入手すべく店に並べられた商品を順番に購入し、食べ比べる。比較検討の結果、一定の基準を満たしたものを実際に食卓に並べてレオンぼっちゃまの反応を確認する。
口に合わない時はちょっと顔をしかめる。気に入った時は何も言わずに食べる。
それはほんの些細な変化でしかなかった。幼い頃からレオンに付き従ってきたアレックスにしかわからない程度の。
ルーセント・ベーカリーはアレックスの綿密かつ厳しいチェックをくぐり抜けた『最良クラスの』一軒だった。
家族経営の小さな店だったが、質の良い材料を使い、丁寧な仕事をした。味も申し分なかった。
以来、ローゼンベルク家の食卓に上るパンは可能な限りルーセント・ベーカリーの商品と決められている。そして、レオンの結婚後もその伝統は継承された。
と、言うのも、親友時代から恋人期を経て現在に至るまで、レオンの伴侶たるディフもアレックスと同じ意見だったからだ。
「このパン美味いな。どこの店で買ったんだ?」
「ルーセント・ベーカリーでございます」
「いいな。気に入った」
「さようでございますか」
控えめな笑みで答えながらアレックスは秘かに嬉しかった。
レオンは基本的に食事の味と言うものへの関心が薄い人間だった。口に合おうが合うまいが、出されたものはきちんと食べる。子どもの頃、万が一彼が料理を残せば即座に使用人の責任問題につながった。
だから食べる。とにかくきちんと食べる。
レオンハルト・ローゼンベルクにとって食事とは単に栄養を補給するための行為であり、そこには何ら感情の動く余地はなかった。
ゆるやかに波打つ赤毛にハシバミ色の瞳のルームメイトと出会うまでは。
『これ、美味いな。初めて食った!』
彼のその一言が、レオンの意識に食べる事への関心を呼び覚ました。人の生きて行く時間を彩るあらゆる喜びも。
(本当に、マクラウドさまはレオンさまの救い主だ……天使とお呼びするには、いささか頑強すぎるかもしれないが)
※ ※ ※ ※
9年前に初めて店を訪れた時、アレックスを出迎えたのは店のオーナーの一人娘ソフィアだった。
「いらっしゃいませ」
短めのカールした髪の毛をきちんと三角巾の下に包み込み、オレンジと白のストライプのユニフォームに白いエプロンを着けて朗らかに笑う彼女を見て、直感で思ったものだった。
ああ、この店なら信頼できる。きっと良いパンを焼く、と。
事実、その勘は正しかった。
人はパンのみにて生きるに非ず。さりとてパンは主食なり。
何度も足蹴く通ううち、自然とソフィアと言葉を交わす機会は増えて行った。彼女の結婚が決まった時は一抹の寂しさを覚えたものの、兄にも似た温かな気持ちで
「おめでとう」と祝福の言葉を贈ったものだった。
ソフィアの結婚後もアレックスはルーセント・ベイカリーでパンを買い続けた。
店員の話からその後サクラメントへと移り、息子が生まれた事を知った。
しかし彼女の幸せな結婚生活は長くは続かなかった。突然の交通事故で夫を失い、再び両親の元へと戻って来たのだ。
店先でソフィアに再会した時。彼女に再び会えたことを心のどこかで嬉しく思う自分に気づき、アレックスは慌てて自らをたしなめたものだった。
ほぼ時を同じくして、レオンとディフの長い長い親友時代は終わりを告げ、二人は晴れて恋人同士となった。レオンの食生活はほぼ完全にディフの手に委ねられ、アレックスが主人のためにパンを調達する機会も減った。
にも関わらず、彼は依然としてルーセント・ベイカリーに通い続けた。そこが信用のおける美味いパン屋であることに変わりはなかったし、ソフィアと彼女の息子の元気な姿を確かめずにはいられなかったのだ。
その間もローゼンベルク家の食卓を囲む人数は刻々と変化していた。
主人とその恋人、さらにその友人、そして金髪に紫の瞳の双子。食卓を囲む人数が増えて行くにつれ、アレックスがルーセント・ベイカリーで買い求めるパンの量も、種類も少しずつ変わって行った。
そして、その変化をソフィアは敏感に感じ取っていたのだった。
次へ→【4-6-2】ソフィアは見ていた
しかし、毎日の食生活においてパンの占める役割は大きい。何と言っても主食なのだから。
自らの仕える主人、レオンハルト・ローゼンベルクが高校を卒業し、寮を出た後もサンフランシスコに居を構えると決めた時。
忠実なる執事アレックス・J・オーウェンは衣食住、全てにおいて完ぺきに準備を整えた。
中でも食生活においてことに気を配ったのが、如何にして良質なパンを確保するか、だった。
本家で暮らしていた時分には毎食のパンは屋敷の厨房で焼かれていたが、さすがにここではそれは難しい。
(ならば自分の目と舌で確かめて納得の行くパン屋を探すしかあるまい)
そんな訳でアレックスは、主人の住むノブヒルのマンションの近辺のパン屋を全てピックアップし、材料から製法、味、店内の清潔さから従業員の気質、勤務態度に至るまでことごとくチェックしたのである。
まずはサンプルを入手すべく店に並べられた商品を順番に購入し、食べ比べる。比較検討の結果、一定の基準を満たしたものを実際に食卓に並べてレオンぼっちゃまの反応を確認する。
口に合わない時はちょっと顔をしかめる。気に入った時は何も言わずに食べる。
それはほんの些細な変化でしかなかった。幼い頃からレオンに付き従ってきたアレックスにしかわからない程度の。
ルーセント・ベーカリーはアレックスの綿密かつ厳しいチェックをくぐり抜けた『最良クラスの』一軒だった。
家族経営の小さな店だったが、質の良い材料を使い、丁寧な仕事をした。味も申し分なかった。
以来、ローゼンベルク家の食卓に上るパンは可能な限りルーセント・ベーカリーの商品と決められている。そして、レオンの結婚後もその伝統は継承された。
と、言うのも、親友時代から恋人期を経て現在に至るまで、レオンの伴侶たるディフもアレックスと同じ意見だったからだ。
「このパン美味いな。どこの店で買ったんだ?」
「ルーセント・ベーカリーでございます」
「いいな。気に入った」
「さようでございますか」
控えめな笑みで答えながらアレックスは秘かに嬉しかった。
レオンは基本的に食事の味と言うものへの関心が薄い人間だった。口に合おうが合うまいが、出されたものはきちんと食べる。子どもの頃、万が一彼が料理を残せば即座に使用人の責任問題につながった。
だから食べる。とにかくきちんと食べる。
レオンハルト・ローゼンベルクにとって食事とは単に栄養を補給するための行為であり、そこには何ら感情の動く余地はなかった。
ゆるやかに波打つ赤毛にハシバミ色の瞳のルームメイトと出会うまでは。
『これ、美味いな。初めて食った!』
彼のその一言が、レオンの意識に食べる事への関心を呼び覚ました。人の生きて行く時間を彩るあらゆる喜びも。
(本当に、マクラウドさまはレオンさまの救い主だ……天使とお呼びするには、いささか頑強すぎるかもしれないが)
※ ※ ※ ※
9年前に初めて店を訪れた時、アレックスを出迎えたのは店のオーナーの一人娘ソフィアだった。
「いらっしゃいませ」
短めのカールした髪の毛をきちんと三角巾の下に包み込み、オレンジと白のストライプのユニフォームに白いエプロンを着けて朗らかに笑う彼女を見て、直感で思ったものだった。
ああ、この店なら信頼できる。きっと良いパンを焼く、と。
事実、その勘は正しかった。
人はパンのみにて生きるに非ず。さりとてパンは主食なり。
何度も足蹴く通ううち、自然とソフィアと言葉を交わす機会は増えて行った。彼女の結婚が決まった時は一抹の寂しさを覚えたものの、兄にも似た温かな気持ちで
「おめでとう」と祝福の言葉を贈ったものだった。
ソフィアの結婚後もアレックスはルーセント・ベイカリーでパンを買い続けた。
店員の話からその後サクラメントへと移り、息子が生まれた事を知った。
しかし彼女の幸せな結婚生活は長くは続かなかった。突然の交通事故で夫を失い、再び両親の元へと戻って来たのだ。
店先でソフィアに再会した時。彼女に再び会えたことを心のどこかで嬉しく思う自分に気づき、アレックスは慌てて自らをたしなめたものだった。
ほぼ時を同じくして、レオンとディフの長い長い親友時代は終わりを告げ、二人は晴れて恋人同士となった。レオンの食生活はほぼ完全にディフの手に委ねられ、アレックスが主人のためにパンを調達する機会も減った。
にも関わらず、彼は依然としてルーセント・ベイカリーに通い続けた。そこが信用のおける美味いパン屋であることに変わりはなかったし、ソフィアと彼女の息子の元気な姿を確かめずにはいられなかったのだ。
その間もローゼンベルク家の食卓を囲む人数は刻々と変化していた。
主人とその恋人、さらにその友人、そして金髪に紫の瞳の双子。食卓を囲む人数が増えて行くにつれ、アレックスがルーセント・ベイカリーで買い求めるパンの量も、種類も少しずつ変わって行った。
そして、その変化をソフィアは敏感に感じ取っていたのだった。
次へ→【4-6-2】ソフィアは見ていた
▼ 【4-6-2】ソフィアは見ていた
その人が初めて店に来た時のことを、ソフィアは今でもはっきり覚えている。
灰色の髪に薄い空色の瞳。ダークグレイの皺一つないズボンにベストに上着、真っ白なシャツ、襟元にきりっと締めたアスコットタイ。背筋を伸ばして、無駄のない動作できびきびと歩く。
まるで映画に出てくる執事のようだと思った。
「いらっしゃいませ」
ほほ笑みながら出迎えると、深みのある品のある声でこう言った。
「こちらにあるパンを、ここからここまで1種類につき1つずつ、全部いただけますか?」
「全部、ですか?」
「はい……あ……少々お待ちください」
甘い香りの漂う菓子パンと、温まった肉と野菜の香ばしいにおいのたちこめる調理パンのコーナーに歩いて行くと、しばらく考え込んでいた。
「………こちらのコーナーの商品は除いて」
「はい、かしこまりました」
山のようなパンを抱えてその人は、来た時と同じ様にきびきびした足どりで帰って行った。
(あんなにたくさんのパンを、どうするのかしら?)
3日後、彼は再び店にやってきた。
黒い革表紙の手帳を片手に慎重にパンを選び、厳かにカウンターに運ぶ。ベイカリーのプラスチックのトレイがまるで銀のお盆のように見えた。
「これをください」
(あれは試食だったのね! 好みのパンを見つけるための)
以来、その人はお店の常連さんになった。買って行くパンはだいたい決まっていた。
ライ麦パンとクロワッサン、イギリス式の山形の食パン。サンドイッチ用のしっかりめの生地の食パン、時たまバケット。いずれもプレーンなパンばかりで、野菜や果物を混ぜたものは好評ではなかったらしい。
一人にしては多く、三人にしては少なめの量だった。
(きっと家族がいるのね。でも、小さな子どもではない)
ごく自然に『お嬢様』と言う言葉が浮かんできた。忠実な執事が、お仕えするお嬢様のためにパンを買う。
(ふふっ、まるでロマンス小説みたい)
(まさか……ね)
(でも、ひょっとしたら?)
そんなことを考えながら、ソフィアは彼が店に訪れるのをいつしか楽しみにするようになっていた。
やがて月日が流れ、ソフィアが結婚して、家を離れて。
短いけれど幸せな日々の後に息子を連れてサンフランシスコに戻ってきた時も彼は変わらずそこに居た。
いつまでも悲しみに沈んではいられない。勇気を出して店に立った最初の日にパンを買いに来てくれたのだ。
ソフィアを見つけて、ほんのかすかに、ほほ笑んでくれた。春先の空のような、温かい瞳をして。
その瞬間、ぽわっと小さな、タンポポの綿毛みたいな温かい灯りが胸の奥に灯った。
ぽわぽわと白いちっちゃな灯りが、空っぽになっていた自分の中に広がって……気がつくと、ほほ笑み返していた。
それまでは人前で、泣かずにいられるのが精一杯だったのに。
「いらっしゃいませ」
「こんにちわ」
再会からしばらくして、彼の買うパンの量が減った。
二人分から一人分に。何となく寂しそうな、ほっとしたような様子だった。
自分一人分のパンを買うようになってから、彼は……その頃には「オーウェンさん」「ソフィアさん」と呼び合うくらいに親しくなっていた……ほんの少し冒険するようになった。
野菜を生地に練り込んだパンやドライフルーツやナッツを混ぜたパンに挑戦し、一通り試した結果、ほうれん草入りのクロワッサンが気に入ったようだった。
食パンを一斤とほうれん草入りのクロワッサンを二つ。それがオーウェン氏のお買い物の定番。
ほぼ同じ頃から赤い髪の毛の青年が頻繁に店に来るようになった。彼の買って行くものは、何故かオーウェンさんが以前買っていたものを引き継いだようにそっくり同じだった。
よく笑う気さくな人で、冒険心も好奇心も旺盛。これは何? どうやって食べるの? 何が入っているの? まるで子犬のように目をきらきらさせて楽しそうに聞いてきた。
去年の秋ごろからだろうか。赤毛さんの買い物が変化した。
大きくて堅いパンから、小振りで柔らかいパンへ。量も増えた。小さな手で、ちまちまとやわらかいパンを食べる人が食卓に加わったのだと思った。そう、きっと子どもだ。
そう思った矢先に、ふっつりと赤毛さんは姿を見せなくなった。
心配していると、入れ替わりにまたオーウェンさんの買い物が増えた。小さめのロールパン、やわらかい食パン。まるでバトンタッチしたみたい。
(あの二人、ひょっとして知り合いなのかしら?)
「ソフィアさん、一つ教えていただきたいことがあるのですが……」
ある日、オーウェンさんが真剣な顔で尋ねてきた。
「はい、何でしょう」
「息子さんは、いったいどのような料理を喜んで召し上がりますか?」
「息子が、ですか?」
「はい……実は今、育ち盛りの男の子を二人、お世話しているのですが、どうにも私の作る献立は……何と申しますか、微妙に喜ばれていないようなのです」
こんなに途方に暮れたオーウェンさんを見るのは初めてだった。よほど悩んでいるらしい。
「お子さんを持つ母親として、あなたのご意見を参考にさせていただきたいのです」
「そうですね。ディーンは私の作ったものは何でも喜んで食べてくれますけど……一番好きなのは、マカロニ&チーズかしら」
「マカロニ&チーズ……ですか」
「はい。タマネギのコンソメスープも好きですね」
「タマネギのコンソメスープ……なるほど。大変参考になりました」
うなずくと、彼は心底ほっとした様子で晴れやかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、ソフィアさん」
「いいえ。お役に立てて良かったわ」
※ ※ ※ ※
「メイリールさま」
「おう、どーしたアレックス」
「一つご相談があるのですが」
「何、改まって」
検討に検討を重ねた上での人選だった。
女性相手の経験、と言う点ではマクラウドさまに聞くのが一番なのだろうが、レオンさまが良い顔をなさならいだろう。
レイモンドさまは、ご自分からご婦人にアプローチする方ではない。実際、トレイシー嬢が冗談めかして言っていたことがある。『私ね、レイをひっかけたのよ』と。
「ご婦人に感謝の気持ちを伝える時は、どのような物を贈ればよいのか、ご意見をお聞かせ願いたいのです」
「何で、俺にそーゆー事聞くわけ?」
「レオンさまはあの通りのお方ですし、マクラウドさまは入院中ですし」
「Mr.ジーノは?」
「………」
デイビットさまは……あの方の好みは独特だ。いささか派手になりすぎる傾向がある。慎み深く口をつぐみ、目を伏せた。
「あー、うん、気持ちはわかる。で、相手のご婦人ってのは独身?」
「いえ、ご家族と一緒に住んでいらっしゃいます」
「ああ……そう。だったら、チョコの詰め合わせかな。あとちっさめの花束」
「チョコレートと花束……ですか」
「クッキーとかパイとかケーキなら自分ちでも手作りできるけどさ。チョコはそうは行かないだろ? ダイエット中でも家族が食べるだろうから誰かしらには喜ばれるよ。それに高級な店のは箱もリボンも上等だから食べ終わってからも楽しみがあるし」
よどみのない口調で述べてから、メイリールさまはぱちっとウィンクをして、芝居がかった動作で一礼した。
「んでもって花束は……あなただけの為に」
「……その、胸に手を当てる仕草とウィンクも実行しなければいけませんか?」
「や、無理しないでいいから。気分の問題だし、これ」
※ ※ ※ ※
花束。
花束。
ピンクのバラの蕾を集めた、ちっちゃな花束。片手にすっぽりおさまるぐらいの。
こんな可愛いブーケをもらったのは久しぶり。
何だか胸が時めく。
「先日のお礼です」とオーウェンさんは言っていた。マカロニ&チーズは喜んで食べてもらえたのね。
よかった。
とても嬉しい。
「ママ、チョコレートもっと食べたい」
「あらあら、そんなにいっぺんに食べちゃいけないわ、ディーン。ちょっとずつ、長く楽しみましょう? 残りは明日ね」
「……OK、ママ」
チョコレートの箱についていた青いサテンのリボンをくるくる巻いて引き出しにしまった。花束が色あせても。チョコを食べ終わっても、このリボンは残る。
※ ※ ※ ※
十二月に入って、赤毛さんが帰ってきた。少し色が白くなって髪の毛が伸びていた。
「ちょっとね、ケガで入院してたんだ」
事も無げに言って、笑っていた。
次にお店に来た時、彼は一人ではなかった。金髪の男の子が二人一緒に居た。まるで鏡に映したようにそっくりの双子の兄弟。
親鳥の後をついて歩くひな鳥のようにちょこまかと店の中を歩き回り、三人で相談しながらパンを選んでいた。
まず二人で相談して、それから双子のうちの一人が赤毛さんと話す。
兄弟の間ではほとんど言葉は交わされない、それでもちゃんと意志が通じているようだった。
年が明け、冬から春へ季節が移り変わってゆく間に金髪の双子と赤毛さんはすっかりおなじみの顔になって行った。
いったい彼らはどんな関係なのだろう?
親子にしては年が近すぎる。兄弟と言うには離れ過ぎ。けれど一緒に暮らして、一緒にご飯を食べていることは確かだった。
そして……五月が終わり六月の足音が聞こえる頃。
オーウェンさんがやってきた。
金髪の双子と一緒に。
(この子たちだったのね……マカロニ&チーズを喜んでくれたのは)
いつも赤毛さんが買っている食パンを買って帰っていった。
『生地がしっかりしていて、サンドイッチを作る時に何はさんでもOKだからな。こいつが一番なんだ』
以前、彼がそんな風に言っていたのを思い出した。
金髪の双子と、赤毛さんとオーウエンさん。ソフィアの中でいつも店に訪れる四人が繋がった。
けれど気にかかる。三人とも、どこかやつれていて元気がなかった。
どうしたのだろう。
何があったのだろう?
※ ※ ※ ※
それから一ヶ月近くの間、三人は連れ立って何度もパンを買いに訪れた。何があったか聞けぬまま、それでもパンの量が以前と変わらないことにソフィアは秘かに安堵していた。
そして六月も終わりに近づいた頃………オーウェンさんに代わって赤毛さんが再び双子を連れてやって来た。
パンの袋を渡す時、左手の指輪に気づいた。プラチナのしっかりしたリングの中央には青いライオンが刻印されている。以前は無かった物だ。
「おめでとうございます」
「…………ありがとう」
かすかに頬を赤らめて、うれしそうにほほ笑んでくれた。
オーウェンさんと、赤毛さんと金髪の双子ちゃんはとても親しい。けれど、最初にオーウェンさんがパンを買っていた相手は多分この中にはいない。
もう一人居るのね。その人は、今は赤毛さんと、双子ちゃんと一緒に暮らしている。
どんな人なのかしら。オーウェンさんが心をこめてお世話しているお嬢様。
おそらくそれが、赤毛さんと指輪を交わしたお相手なのだわ。
もしかして、金髪の双子ちゃんのママさん?
ソフィアの頭の中でくるくると、今まで見聞きした出来事の欠片が融け合って一つの物語に固まって行く。
若いうちに結婚して、そして双子の息子が生まれて。でも旦那さんとは別れて一人暮らしになって、それでオーウェンさんがお世話をしていた。
赤毛さんと恋人同士になって、双子の息子を呼び寄せて一緒に暮らすようになって、六月に結婚したんだわ。
きっと、きれいな方ね……いつか、お店に来てくれないかしら。
まだ見ぬ『お嬢様』を思い描いて、ソフィアは秘かにわくわくしていた。
ああ、それとも、もしかしたら家の外に出られない訳があるのかも。ものすごく病弱だったり、体がどこか不自由だったり。
ふと、ソフィアの脳裏に鮮やかにある光景が浮かんだ。
窓際の長椅子に体を預けた深窓の令嬢。細い肩を薄い柔らかなショールが包み、白い手が丸い木の枠に収められた布に細やかな刺繍を施している。
双子の息子と愛する旦那様、そして忠実な執事に守られて……。
そうよ、きっとそうなのだわ!
赤毛さんはずっとつきっきりでお嬢様の看病をしていて、その間、オーウェンさんが双子ちゃんと家事をしていたのね。
よかった、幸せになれて……。
本当に、よかった。
次へ→【4-6-3】二人で回転木馬に
灰色の髪に薄い空色の瞳。ダークグレイの皺一つないズボンにベストに上着、真っ白なシャツ、襟元にきりっと締めたアスコットタイ。背筋を伸ばして、無駄のない動作できびきびと歩く。
まるで映画に出てくる執事のようだと思った。
「いらっしゃいませ」
ほほ笑みながら出迎えると、深みのある品のある声でこう言った。
「こちらにあるパンを、ここからここまで1種類につき1つずつ、全部いただけますか?」
「全部、ですか?」
「はい……あ……少々お待ちください」
甘い香りの漂う菓子パンと、温まった肉と野菜の香ばしいにおいのたちこめる調理パンのコーナーに歩いて行くと、しばらく考え込んでいた。
「………こちらのコーナーの商品は除いて」
「はい、かしこまりました」
山のようなパンを抱えてその人は、来た時と同じ様にきびきびした足どりで帰って行った。
(あんなにたくさんのパンを、どうするのかしら?)
3日後、彼は再び店にやってきた。
黒い革表紙の手帳を片手に慎重にパンを選び、厳かにカウンターに運ぶ。ベイカリーのプラスチックのトレイがまるで銀のお盆のように見えた。
「これをください」
(あれは試食だったのね! 好みのパンを見つけるための)
以来、その人はお店の常連さんになった。買って行くパンはだいたい決まっていた。
ライ麦パンとクロワッサン、イギリス式の山形の食パン。サンドイッチ用のしっかりめの生地の食パン、時たまバケット。いずれもプレーンなパンばかりで、野菜や果物を混ぜたものは好評ではなかったらしい。
一人にしては多く、三人にしては少なめの量だった。
(きっと家族がいるのね。でも、小さな子どもではない)
ごく自然に『お嬢様』と言う言葉が浮かんできた。忠実な執事が、お仕えするお嬢様のためにパンを買う。
(ふふっ、まるでロマンス小説みたい)
(まさか……ね)
(でも、ひょっとしたら?)
そんなことを考えながら、ソフィアは彼が店に訪れるのをいつしか楽しみにするようになっていた。
やがて月日が流れ、ソフィアが結婚して、家を離れて。
短いけれど幸せな日々の後に息子を連れてサンフランシスコに戻ってきた時も彼は変わらずそこに居た。
いつまでも悲しみに沈んではいられない。勇気を出して店に立った最初の日にパンを買いに来てくれたのだ。
ソフィアを見つけて、ほんのかすかに、ほほ笑んでくれた。春先の空のような、温かい瞳をして。
その瞬間、ぽわっと小さな、タンポポの綿毛みたいな温かい灯りが胸の奥に灯った。
ぽわぽわと白いちっちゃな灯りが、空っぽになっていた自分の中に広がって……気がつくと、ほほ笑み返していた。
それまでは人前で、泣かずにいられるのが精一杯だったのに。
「いらっしゃいませ」
「こんにちわ」
再会からしばらくして、彼の買うパンの量が減った。
二人分から一人分に。何となく寂しそうな、ほっとしたような様子だった。
自分一人分のパンを買うようになってから、彼は……その頃には「オーウェンさん」「ソフィアさん」と呼び合うくらいに親しくなっていた……ほんの少し冒険するようになった。
野菜を生地に練り込んだパンやドライフルーツやナッツを混ぜたパンに挑戦し、一通り試した結果、ほうれん草入りのクロワッサンが気に入ったようだった。
食パンを一斤とほうれん草入りのクロワッサンを二つ。それがオーウェン氏のお買い物の定番。
ほぼ同じ頃から赤い髪の毛の青年が頻繁に店に来るようになった。彼の買って行くものは、何故かオーウェンさんが以前買っていたものを引き継いだようにそっくり同じだった。
よく笑う気さくな人で、冒険心も好奇心も旺盛。これは何? どうやって食べるの? 何が入っているの? まるで子犬のように目をきらきらさせて楽しそうに聞いてきた。
去年の秋ごろからだろうか。赤毛さんの買い物が変化した。
大きくて堅いパンから、小振りで柔らかいパンへ。量も増えた。小さな手で、ちまちまとやわらかいパンを食べる人が食卓に加わったのだと思った。そう、きっと子どもだ。
そう思った矢先に、ふっつりと赤毛さんは姿を見せなくなった。
心配していると、入れ替わりにまたオーウェンさんの買い物が増えた。小さめのロールパン、やわらかい食パン。まるでバトンタッチしたみたい。
(あの二人、ひょっとして知り合いなのかしら?)
「ソフィアさん、一つ教えていただきたいことがあるのですが……」
ある日、オーウェンさんが真剣な顔で尋ねてきた。
「はい、何でしょう」
「息子さんは、いったいどのような料理を喜んで召し上がりますか?」
「息子が、ですか?」
「はい……実は今、育ち盛りの男の子を二人、お世話しているのですが、どうにも私の作る献立は……何と申しますか、微妙に喜ばれていないようなのです」
こんなに途方に暮れたオーウェンさんを見るのは初めてだった。よほど悩んでいるらしい。
「お子さんを持つ母親として、あなたのご意見を参考にさせていただきたいのです」
「そうですね。ディーンは私の作ったものは何でも喜んで食べてくれますけど……一番好きなのは、マカロニ&チーズかしら」
「マカロニ&チーズ……ですか」
「はい。タマネギのコンソメスープも好きですね」
「タマネギのコンソメスープ……なるほど。大変参考になりました」
うなずくと、彼は心底ほっとした様子で晴れやかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、ソフィアさん」
「いいえ。お役に立てて良かったわ」
※ ※ ※ ※
「メイリールさま」
「おう、どーしたアレックス」
「一つご相談があるのですが」
「何、改まって」
検討に検討を重ねた上での人選だった。
女性相手の経験、と言う点ではマクラウドさまに聞くのが一番なのだろうが、レオンさまが良い顔をなさならいだろう。
レイモンドさまは、ご自分からご婦人にアプローチする方ではない。実際、トレイシー嬢が冗談めかして言っていたことがある。『私ね、レイをひっかけたのよ』と。
「ご婦人に感謝の気持ちを伝える時は、どのような物を贈ればよいのか、ご意見をお聞かせ願いたいのです」
「何で、俺にそーゆー事聞くわけ?」
「レオンさまはあの通りのお方ですし、マクラウドさまは入院中ですし」
「Mr.ジーノは?」
「………」
デイビットさまは……あの方の好みは独特だ。いささか派手になりすぎる傾向がある。慎み深く口をつぐみ、目を伏せた。
「あー、うん、気持ちはわかる。で、相手のご婦人ってのは独身?」
「いえ、ご家族と一緒に住んでいらっしゃいます」
「ああ……そう。だったら、チョコの詰め合わせかな。あとちっさめの花束」
「チョコレートと花束……ですか」
「クッキーとかパイとかケーキなら自分ちでも手作りできるけどさ。チョコはそうは行かないだろ? ダイエット中でも家族が食べるだろうから誰かしらには喜ばれるよ。それに高級な店のは箱もリボンも上等だから食べ終わってからも楽しみがあるし」
よどみのない口調で述べてから、メイリールさまはぱちっとウィンクをして、芝居がかった動作で一礼した。
「んでもって花束は……あなただけの為に」
「……その、胸に手を当てる仕草とウィンクも実行しなければいけませんか?」
「や、無理しないでいいから。気分の問題だし、これ」
※ ※ ※ ※
花束。
花束。
ピンクのバラの蕾を集めた、ちっちゃな花束。片手にすっぽりおさまるぐらいの。
こんな可愛いブーケをもらったのは久しぶり。
何だか胸が時めく。
「先日のお礼です」とオーウェンさんは言っていた。マカロニ&チーズは喜んで食べてもらえたのね。
よかった。
とても嬉しい。
「ママ、チョコレートもっと食べたい」
「あらあら、そんなにいっぺんに食べちゃいけないわ、ディーン。ちょっとずつ、長く楽しみましょう? 残りは明日ね」
「……OK、ママ」
チョコレートの箱についていた青いサテンのリボンをくるくる巻いて引き出しにしまった。花束が色あせても。チョコを食べ終わっても、このリボンは残る。
※ ※ ※ ※
十二月に入って、赤毛さんが帰ってきた。少し色が白くなって髪の毛が伸びていた。
「ちょっとね、ケガで入院してたんだ」
事も無げに言って、笑っていた。
次にお店に来た時、彼は一人ではなかった。金髪の男の子が二人一緒に居た。まるで鏡に映したようにそっくりの双子の兄弟。
親鳥の後をついて歩くひな鳥のようにちょこまかと店の中を歩き回り、三人で相談しながらパンを選んでいた。
まず二人で相談して、それから双子のうちの一人が赤毛さんと話す。
兄弟の間ではほとんど言葉は交わされない、それでもちゃんと意志が通じているようだった。
年が明け、冬から春へ季節が移り変わってゆく間に金髪の双子と赤毛さんはすっかりおなじみの顔になって行った。
いったい彼らはどんな関係なのだろう?
親子にしては年が近すぎる。兄弟と言うには離れ過ぎ。けれど一緒に暮らして、一緒にご飯を食べていることは確かだった。
そして……五月が終わり六月の足音が聞こえる頃。
オーウェンさんがやってきた。
金髪の双子と一緒に。
(この子たちだったのね……マカロニ&チーズを喜んでくれたのは)
いつも赤毛さんが買っている食パンを買って帰っていった。
『生地がしっかりしていて、サンドイッチを作る時に何はさんでもOKだからな。こいつが一番なんだ』
以前、彼がそんな風に言っていたのを思い出した。
金髪の双子と、赤毛さんとオーウエンさん。ソフィアの中でいつも店に訪れる四人が繋がった。
けれど気にかかる。三人とも、どこかやつれていて元気がなかった。
どうしたのだろう。
何があったのだろう?
※ ※ ※ ※
それから一ヶ月近くの間、三人は連れ立って何度もパンを買いに訪れた。何があったか聞けぬまま、それでもパンの量が以前と変わらないことにソフィアは秘かに安堵していた。
そして六月も終わりに近づいた頃………オーウェンさんに代わって赤毛さんが再び双子を連れてやって来た。
パンの袋を渡す時、左手の指輪に気づいた。プラチナのしっかりしたリングの中央には青いライオンが刻印されている。以前は無かった物だ。
「おめでとうございます」
「…………ありがとう」
かすかに頬を赤らめて、うれしそうにほほ笑んでくれた。
オーウェンさんと、赤毛さんと金髪の双子ちゃんはとても親しい。けれど、最初にオーウェンさんがパンを買っていた相手は多分この中にはいない。
もう一人居るのね。その人は、今は赤毛さんと、双子ちゃんと一緒に暮らしている。
どんな人なのかしら。オーウェンさんが心をこめてお世話しているお嬢様。
おそらくそれが、赤毛さんと指輪を交わしたお相手なのだわ。
もしかして、金髪の双子ちゃんのママさん?
ソフィアの頭の中でくるくると、今まで見聞きした出来事の欠片が融け合って一つの物語に固まって行く。
若いうちに結婚して、そして双子の息子が生まれて。でも旦那さんとは別れて一人暮らしになって、それでオーウェンさんがお世話をしていた。
赤毛さんと恋人同士になって、双子の息子を呼び寄せて一緒に暮らすようになって、六月に結婚したんだわ。
きっと、きれいな方ね……いつか、お店に来てくれないかしら。
まだ見ぬ『お嬢様』を思い描いて、ソフィアは秘かにわくわくしていた。
ああ、それとも、もしかしたら家の外に出られない訳があるのかも。ものすごく病弱だったり、体がどこか不自由だったり。
ふと、ソフィアの脳裏に鮮やかにある光景が浮かんだ。
窓際の長椅子に体を預けた深窓の令嬢。細い肩を薄い柔らかなショールが包み、白い手が丸い木の枠に収められた布に細やかな刺繍を施している。
双子の息子と愛する旦那様、そして忠実な執事に守られて……。
そうよ、きっとそうなのだわ!
赤毛さんはずっとつきっきりでお嬢様の看病をしていて、その間、オーウェンさんが双子ちゃんと家事をしていたのね。
よかった、幸せになれて……。
本当に、よかった。
次へ→【4-6-3】二人で回転木馬に
▼ 【4-6-3】二人で回転木馬に
七月のある日。アレックスは神妙な顔つきでヒウェルの部屋を尋ねた。
「よう、アレックス。どうした」
「一つご相談があるのですが」
おや、またか?
ヒウェルはぴくりと片方の眉を跳ね上げた。
「もしかして、またご婦人へのお礼の相談?」
「いえ……実は………その……」
おろ、言いよどんでるよ、珍しい。いつもはきはきしてる彼が、いったいどうしたってんだい?
「…………ご婦人をエスコートして出かけるのに、サンフランシスコ市内ではどのような場所がよろしいでしょうか」
「えーっと……つまり」
目をぱちくりさせて、眼鏡を外し、レンズをふいてまたかけ直すとヒウェルは改めてまじまじと執事の様子を観察した。
表情が変わってないもんだからうっかり見落としていた。かすかに頬が赤いじゃないか。
しかも、微妙に目線が左右に泳いでいる。
もしかして、アレックス…………照れてる?
「ご婦人と二人で出かけたり食事したりするのに的確なプランをお聞きになりたいと?」
「はい」
「それって、つまり、デートだよな?」
その一言で、執事は石みたいに固まってしまった。
いかんいかん、遊びが過ぎたか。
「その、お相手ってのは地元の人?」
「はい」
何気ない風に話を続けると、ほっとした表情で答えを返してきた。どうやら、そうとうに緊張していたらしい。
こりゃ真剣だな。おそらく免疫ないぞ、この人は。ずーっとレオンぼっちゃまのお世話ばっかり焼いてきたんだ。大人になってからはマクラウドさまも込みで、んでもって去年の秋からは双子も一緒に。
考えてみればアレックスはれっきとした独身男性なのである。気になるご婦人がいても何ら不思議はない。いささか遅めの春ではあるが、遅すぎるってことはない。そもそも人生に置いて恋する時期に旬も外れもあるものか。
出逢った時がその時だ。
がんばれ、アレックス。
「じゃあ、かえってコテコテの観光名所巡りってのはどうだろう。案外、市内に住んでると足を運ばないもんだしね……ゴールデン・ゲート公園、ツインピークス、フィッシャマンズワーフ、コイト・タワー、ビクトリアン・ハウス、あとユニオン・スクウェアのハートのオブジェとか、アクアリアム・オブ・ザ・ベイ、アルカトラズ島は……あんましデート向きじゃないか。監獄だもんな」
すらすらとヒウェルの口から流れ出す観光名所の数々を、アレックスは一つ残らず丹念に手帳にメモして行く。
「もしかして……今言ったとこ、一度も行ったことない?」
「はい」
「シスコに来てから何年めだっけ」
「レオンさまが高校に上がられた年からですから、もう12年になります」
「……そうか……いい機会だよアレックス。その、ご婦人とやらに存分にシスコを案内してもらうといい」
アレックスはわずかに眉根を寄せた。
「しかし。お言葉ですがメイリールさま、こう言った場合は私がエスコートするべきなのではありませんか?」
「アレックス、アレックス、アレックス!」
まったく、どこまで生真面目な男なんだろう!
半ば呆れて、半ば関心しながらぱたぱたとヒウェルは手を振った。ほのかなデジャビュを感じながら。
「デートなんだろ? お客様をおもてなしするんじゃなくって。堅くなるな。適度にリラックスしろ。お前さんも楽しまなくっちゃ!」
「私も……楽しむ?」
「そうだよ。お前さんが楽しけりゃ、一緒にいるレディも楽しい。デートってのはそーゆーものなんだよ」
「そうなのですか? なかなかに、新鮮です」
「だろーね」
※ ※ ※ ※
何年ぶりだったろう? フィッシャーマンズ・ワーフに行くなんて。
オーウェンさんと二人で美味しいカニを食べて、ギラデリ・スクウェアのチョコレート工場を見学した。ディーンへのお土産にチョコレートを買っていると、オーウェンさんも興味津々にのぞきこんで。自分でもチョコバーを5つ買っていた。
きちんと包装していたからきっとお土産ね。でも、誰に?
双子ちゃんたちは甘いものは好きではないみたいだし、あのチョコバーはけっこう堅い。お嬢様がぼりぼり食べるのにはちょっと不向きね。と、言うことは……赤毛さんかしら。
次はどこに行こうかと聞かれ、遊園地で回転木馬に乗りたいと言ったら、オーウェンさんは少し驚いたようだった。
「子どもの頃から大好きだったんです。本物の馬は大きくて怖かったけれど、回転木馬なら平気だった」
「なるほど。それでは、ぜひご一緒に」
大人になってから回転木馬に乗るには勇気が要る。
ディーンと一緒の時はいつも付き添いで、馬車に並んで座るか、木馬に夫と二人で乗るあの子を輪の外で見守っていた。
大人二人で回転木馬に乗るのは正直言って恥ずかしい。けれどオーウェンさんは私の手を引いて、並んで木馬に乗ってくれた。
私は白い馬に。彼は栗毛の馬に。
ピーポッポ、ポワポワ、プワン……
軽くてちょっぴりチープなサーカス・ミュージックに合わせて木馬がぴょんぴょん跳ねる。くるくる回る。ちらちらと彼の顔をうかがった。
興味しんしんに木馬の動きを観察している。目を輝かせてはしゃぐのとはちょっと違っていたけれど、それなりに楽しそうで、ほっとひと安心。
やがて音楽が止まり、回転が終わる。私の乗った馬は高く上がったまま止まってしまった。
どうしよう、足が届かない。子どもの時はパパが抱えて降ろしてくれたけれど、今は……。
木馬の鞍の手をかけて床面を見下ろす。一人で飛び降りるしかないわね。気合いを入れてヒールのある靴なんか履いてくるんじゃなかった。
覚悟を決めた瞬間、目の前にすっと手がさしのべられた。
「どうぞ、ソフィアさん、こちらに」
「……はい」
オーウェンさんに支えられて、羽毛のように軽やかに木馬から降りることができた。
その時、ソフィアはぼんやりと思ったのだ。
午後のうたた寝から覚める間際のような穏やかな、うっとりと心地よいくつろぎの中で。
もしも、この人と、これから先の時間を一緒に過ごすことができたら……と。
「回転木馬と言うのもなかなかに楽しいものですね。本物の馬に乗るのとは、また違ったおもむきがある」
「そうでしょう?」
木馬を降りた後も二人は手を離さず、そのまま並んで歩いていた。ごく自然に、さりげなく。まるでずっと前からそうしていたように。
「Yerba Buena Gardensには、ここよりもっと大きな回転木馬があるんですよ」
「それは興味深い……」
アレックスは改めてソフィアの目を見つめた。赤みの強い濃い茶色の瞳。黒目が大きく、日陰ではますます黒く見える。つやつやとして、実に……愛くるしい。
まるでクマのぬいるぐみのようだ。
「また、ご一緒していただけますか? あなたさえよろしければ」
「はい。喜んで」
※ ※ ※ ※
次の日、ヒウェルはアレックスから土産をもらった。
ギラデリ・チョコレートのバータイプの奴を5枚。キャラメル、ピーナッツバター、ミントにブラック、そしてラズベリー。
「……これは?」
「お土産です」
「そりゃどーも。んで、首尾は?」
「………………………………Yerba Buena Gardensに行く約束をいたしました」
「あー、Zeumのカルーセル(回転木馬)?」
「はい」
「おめっとさん」
「おそれいります。それでは失礼いたします」
きちんと一礼して退室する執事を見送ってから、さっそくピーナッツバター入りの包み紙を開けてぼりぼりいただいた。
「んー……美味い……」
濃厚なピーナッツバターに負けない、しっかりしたカカオの苦み、そして砂糖とミルクのしっとりとした甘さが舌をつつみこむ。一口味わうごとに口の中から体の隅々に向かって痺れるような幸福感が広がって行く。
さすが「納得できる豆以外は使わない」ギラデリのチョコバー。自分じゃ滅多に食えない、買わないが、たまにはこう言う高級チョコも悪かない。
次へ→【4-6-4】アレックスの決心
▼ 【4-6-4】アレックスの決心
八月に入ってからアレックスは忙しくなった。
お仕えするご主人さまが結婚式を挙げるから、その準備で。だけど毎日必ずお店にやってきた。来れない日は電話をくれた。
「いつも私にお言い付けくださったのに、プロポーズの準備だけは全てお一人でしてしまわれたんだ」
まるで我が子を見送る父親のように幸せそうに、そしてほんの少しの寂しさを含んだ優しい笑顔で話してくれた。
聞いてるだけで楽しくて、わくわくした。
「もしかしてお相手は、赤毛さん? 金髪の双子ちゃんと一緒にパンを買いに来る」
「……そうだよ」
やっぱりそうだったのね。
でも一つだけ、予想と違っていたことがあった。
アレックスがお仕えしていたのはお嬢様ではなく、ぼっちゃま………男の人だったのだ。
ちょっと、びっくり。でも、大して珍しいことじゃないわよね。サンフランシスコですもの。
左手の指輪に気づいて、おめでとうございますと言った時。赤毛さんは、とても嬉しそうに笑っていた。
すてきな笑顔だった。だからきっと幸せなんだわ。アレックスの『ぼっちゃま』と一緒にいて。
それが一番。
※ ※ ※ ※
結婚式を間近に控えた火曜日のこと。
レオンさまとともに仕上がったタキシードを受け取りに行き着けのテーラーに赴いた。
試着室から現れたレオンさまはちらりとこちらを見て、仕事の話でもするようにさらりと
「どうかな」とおっしゃった。
一点の染みもない純白のタキシードをまとうレオンさまを見ていると、胸の奥から熱いものがこみ上げて来るのを抑えることができなかった。
初めてお会いしたのはレオンさまが5歳、私が20歳の年だった。あれから21年。お小さかったぼっちゃまも立派に成長し、生涯の伴侶と巡り会い、来週は式を挙げられるのだ。
「とても……良くお似合いでございます」
「そうか」
レオンさまは鏡をごらんになり、軽く襟元に指を添えて整えながら何気ない調子でぽつりと言った。
「君もそのうち着るんじゃないか?」
「は………」
「意中の人がいるんじゃないのかな」
一瞬、世界が凍りついた。
その時、私の心に浮かんだのは明るいかっ色の瞳のあのお方ではなく、短くカールした鹿の子色の髪を白い三角巾にきっちり包んだ彼女の面影だった。
「そういう顔をしている」
そういう顔?
どんな顔をしていたと言うのか!
あわてて鏡を凝視する。鏡の中のレオンさまと目が合った。
…………笑っておられる!
ああ、まさか、私はレオンさまの前でにやにやとだらしない顔をしていたのだろうか?
「どうかしたのかい、アレックス?」
楽しげなお声だ。私とこんな風に感情豊かに話すことは滅多にない。それがうれしくもあり、またそれ故にいっそう心拍数が早くなって行く。
今までついぞ体験したことのない事態に、静穏であるべき意識が嵐の中の小舟さながらにゆれ動く。
とにかく、答えなければ……。
「意中の方と申しますか……」
目を伏せて、慎重に言葉を選んだ。精一杯、静かな口調を心がけながら。
「おつきあいしている方は、います」
「そうか。では結婚式に招待しようか?」
「いえ、そのようなもったいない……それに当日は私は裏方でございますから」
「そうか……ではいずれ紹介してくれ」
「…………かしこまりました」
タキシードの支払いを済ませながら、頭の中でスケジュールをチェックする。
式の翌日、ソフィアと会う約束をしていた。その時に話してみよう。
彼女はOKしてくれるだろうか?
※ ※ ※ ※
結婚式が無事に終わった次の日の日曜日。久しぶりに彼と二人でYerba Buena Gardensに行った。
初めてここの回転木馬を見た時、アレックスは驚いていた。
「これは興味深い。ヤギに、キリンまでいる」
「面白いでしょう? ここの回転木馬はユニークなんですよ。『馬』の種類も、アクションも」
外側をぐるりとアクリルの壁で覆われた回転木馬は、雨の日でも風の強い日でも乗ることができる。回る早さも遊園地のものよりずっと早く、馬の跳ねる高さも高い。
そこが楽しい。
ピンクの細長いチケットを係員に手渡し、二人で並んで馬に乗った。白いヒゲにくるりと巻いた角のヤギにも。まだら模様のキリンにも乗った。
「ソフィア。あなたさえ良ければ今日は、馬車に乗ってみたいんだが……」
「ええ、いいわ」
回転木馬でわざわざ馬車に乗るなんて! 木馬に乗れない小さい子向け、興ざめもいいとこ、てんでつまらないと思っていた……子どもの頃は。
だけど大人になってから考えが変わった。
一緒に乗りたい人がいるから。
回転木馬が回り始める。今日の曲は「Somewhere My Love」だった。
「あら、ラッキーだわ。私、この曲大好き」
「ドクトル・ジバゴの『ララのテーマ』だね」
「ええ」
知っている。彼はこの曲にこめられた物語を、ちゃんと"知って"いる。
「ソフィア」
アレックスはそっと私の手を握ってきた。
「何でしょう?」
「レオンさまが結婚して……私の役目も、一区切りついた……」
「さみしい?」
「少し、ね」
握り合わせた指に力を入れると、彼もきゅっと握り返してきた。少し乾いて、皺の寄った手。よく働き、よく動く、歳月を重ねた大人の手。
「執事の仕事は生涯続くけれど、私も自分の人生のことを考える余裕が出てきた」
「そう……今まではレオンさま一筋だったのね」
何となくわかる。私がディーンを大切に思うのと同じように、この人はレオンさまを大事にしているのだ。
「ソフィア」
「はい」
名前を呼ばれて見上げる……彼の空色の瞳を。
「これから先の時間を、あなたと歩いて行きたい。共に過ごしたい……もちろん、ディーンも一緒に」
ほわっと音楽が遠ざかり、まるで水の中に潜ったように周囲の景色が霞む。それなのに目の前の彼の姿と重ねた手の温もりは冴え冴えと浮かび上がる。
胸の奥が熱い。
心臓が高鳴る。
私を包む世界のあらゆる物がゆれている。回転木馬の震動のせいだろうか。それとも?
「私と結婚してくれますか?」
一度結婚し、息子が生まれた。女らしい幸せはそこでおしまい、後は息子を世話するだけの代わり映えのない日々が続くのだと思っていた。
アレックスの手をとった瞬間、世界が鮮やかな色を取り戻した。
ああ、まだ私は楽しんでいいのね。人生を彩る私自身の喜びを、手放さなくてもいいのね……そんな風に思うことができた。
「はい、アレックス」
彼に答える自分の声が、遠い場所からぼんやりと聞こえてきた。けれど、意志ははっきりと一つの方向を示している。
「………ありがとう」
それは初めて見る笑顔だった。礼儀正しい紳士ではなく、少年のように朗らかで心の底から喜びがあふれていた。
ああ、彼ってこんなにもキュートな顔で笑うのね。何て愛らしいのかしら。
「今度はディーンも連れて、三人で一緒に来よう」
「そうね、あの子はヤギがお気に入りなの。でも、まだ小さいから一人で乗れなくて……あなたが一緒に乗ってくれる?」
「喜んで」
※ ※ ※ ※
回転木馬が止まり、いつものようにソフィアの手をとって降りる時になってアレックスはやっと思い出した。
何としたことだ。あやうく本来の目的を忘れる所だった!
元々今日はレオンさまに紹介したいと彼女に伝える予定だった。しかし2週間ぶりにソフィアに会って、隣に座り、手を握った時……気づいてしまった。もう、自分はこの手を離したくないのだと。
「ソフィア。それで、その………」
「何でしょう?」
黒目がちな濃いかっ色の瞳がじっと見つめて来る。わずかに雫を含み、潤んでいた。
ほんの少し目尻が下がっている、その優しげな表情が心の底から愛おしい。
「会ってもらいたい人たちがいるんだ。私の、大切な人たちに……あなたとディーンを紹介したい」
彼女の顔いっぱいにやわらかなほほ笑みが花開く。ほのかに甘い香りを放つ象牙色の花房、さながらリンデンの花のようだ。
「はい、アレックス。喜んで」
次へ→【4-6-5】今後ともよろしく
お仕えするご主人さまが結婚式を挙げるから、その準備で。だけど毎日必ずお店にやってきた。来れない日は電話をくれた。
「いつも私にお言い付けくださったのに、プロポーズの準備だけは全てお一人でしてしまわれたんだ」
まるで我が子を見送る父親のように幸せそうに、そしてほんの少しの寂しさを含んだ優しい笑顔で話してくれた。
聞いてるだけで楽しくて、わくわくした。
「もしかしてお相手は、赤毛さん? 金髪の双子ちゃんと一緒にパンを買いに来る」
「……そうだよ」
やっぱりそうだったのね。
でも一つだけ、予想と違っていたことがあった。
アレックスがお仕えしていたのはお嬢様ではなく、ぼっちゃま………男の人だったのだ。
ちょっと、びっくり。でも、大して珍しいことじゃないわよね。サンフランシスコですもの。
左手の指輪に気づいて、おめでとうございますと言った時。赤毛さんは、とても嬉しそうに笑っていた。
すてきな笑顔だった。だからきっと幸せなんだわ。アレックスの『ぼっちゃま』と一緒にいて。
それが一番。
※ ※ ※ ※
結婚式を間近に控えた火曜日のこと。
レオンさまとともに仕上がったタキシードを受け取りに行き着けのテーラーに赴いた。
試着室から現れたレオンさまはちらりとこちらを見て、仕事の話でもするようにさらりと
「どうかな」とおっしゃった。
一点の染みもない純白のタキシードをまとうレオンさまを見ていると、胸の奥から熱いものがこみ上げて来るのを抑えることができなかった。
初めてお会いしたのはレオンさまが5歳、私が20歳の年だった。あれから21年。お小さかったぼっちゃまも立派に成長し、生涯の伴侶と巡り会い、来週は式を挙げられるのだ。
「とても……良くお似合いでございます」
「そうか」
レオンさまは鏡をごらんになり、軽く襟元に指を添えて整えながら何気ない調子でぽつりと言った。
「君もそのうち着るんじゃないか?」
「は………」
「意中の人がいるんじゃないのかな」
一瞬、世界が凍りついた。
その時、私の心に浮かんだのは明るいかっ色の瞳のあのお方ではなく、短くカールした鹿の子色の髪を白い三角巾にきっちり包んだ彼女の面影だった。
「そういう顔をしている」
そういう顔?
どんな顔をしていたと言うのか!
あわてて鏡を凝視する。鏡の中のレオンさまと目が合った。
…………笑っておられる!
ああ、まさか、私はレオンさまの前でにやにやとだらしない顔をしていたのだろうか?
「どうかしたのかい、アレックス?」
楽しげなお声だ。私とこんな風に感情豊かに話すことは滅多にない。それがうれしくもあり、またそれ故にいっそう心拍数が早くなって行く。
今までついぞ体験したことのない事態に、静穏であるべき意識が嵐の中の小舟さながらにゆれ動く。
とにかく、答えなければ……。
「意中の方と申しますか……」
目を伏せて、慎重に言葉を選んだ。精一杯、静かな口調を心がけながら。
「おつきあいしている方は、います」
「そうか。では結婚式に招待しようか?」
「いえ、そのようなもったいない……それに当日は私は裏方でございますから」
「そうか……ではいずれ紹介してくれ」
「…………かしこまりました」
タキシードの支払いを済ませながら、頭の中でスケジュールをチェックする。
式の翌日、ソフィアと会う約束をしていた。その時に話してみよう。
彼女はOKしてくれるだろうか?
※ ※ ※ ※
結婚式が無事に終わった次の日の日曜日。久しぶりに彼と二人でYerba Buena Gardensに行った。
初めてここの回転木馬を見た時、アレックスは驚いていた。
「これは興味深い。ヤギに、キリンまでいる」
「面白いでしょう? ここの回転木馬はユニークなんですよ。『馬』の種類も、アクションも」
外側をぐるりとアクリルの壁で覆われた回転木馬は、雨の日でも風の強い日でも乗ることができる。回る早さも遊園地のものよりずっと早く、馬の跳ねる高さも高い。
そこが楽しい。
ピンクの細長いチケットを係員に手渡し、二人で並んで馬に乗った。白いヒゲにくるりと巻いた角のヤギにも。まだら模様のキリンにも乗った。
「ソフィア。あなたさえ良ければ今日は、馬車に乗ってみたいんだが……」
「ええ、いいわ」
回転木馬でわざわざ馬車に乗るなんて! 木馬に乗れない小さい子向け、興ざめもいいとこ、てんでつまらないと思っていた……子どもの頃は。
だけど大人になってから考えが変わった。
一緒に乗りたい人がいるから。
回転木馬が回り始める。今日の曲は「Somewhere My Love」だった。
「あら、ラッキーだわ。私、この曲大好き」
「ドクトル・ジバゴの『ララのテーマ』だね」
「ええ」
知っている。彼はこの曲にこめられた物語を、ちゃんと"知って"いる。
「ソフィア」
アレックスはそっと私の手を握ってきた。
「何でしょう?」
「レオンさまが結婚して……私の役目も、一区切りついた……」
「さみしい?」
「少し、ね」
握り合わせた指に力を入れると、彼もきゅっと握り返してきた。少し乾いて、皺の寄った手。よく働き、よく動く、歳月を重ねた大人の手。
「執事の仕事は生涯続くけれど、私も自分の人生のことを考える余裕が出てきた」
「そう……今まではレオンさま一筋だったのね」
何となくわかる。私がディーンを大切に思うのと同じように、この人はレオンさまを大事にしているのだ。
「ソフィア」
「はい」
名前を呼ばれて見上げる……彼の空色の瞳を。
「これから先の時間を、あなたと歩いて行きたい。共に過ごしたい……もちろん、ディーンも一緒に」
ほわっと音楽が遠ざかり、まるで水の中に潜ったように周囲の景色が霞む。それなのに目の前の彼の姿と重ねた手の温もりは冴え冴えと浮かび上がる。
胸の奥が熱い。
心臓が高鳴る。
私を包む世界のあらゆる物がゆれている。回転木馬の震動のせいだろうか。それとも?
「私と結婚してくれますか?」
一度結婚し、息子が生まれた。女らしい幸せはそこでおしまい、後は息子を世話するだけの代わり映えのない日々が続くのだと思っていた。
アレックスの手をとった瞬間、世界が鮮やかな色を取り戻した。
ああ、まだ私は楽しんでいいのね。人生を彩る私自身の喜びを、手放さなくてもいいのね……そんな風に思うことができた。
「はい、アレックス」
彼に答える自分の声が、遠い場所からぼんやりと聞こえてきた。けれど、意志ははっきりと一つの方向を示している。
「………ありがとう」
それは初めて見る笑顔だった。礼儀正しい紳士ではなく、少年のように朗らかで心の底から喜びがあふれていた。
ああ、彼ってこんなにもキュートな顔で笑うのね。何て愛らしいのかしら。
「今度はディーンも連れて、三人で一緒に来よう」
「そうね、あの子はヤギがお気に入りなの。でも、まだ小さいから一人で乗れなくて……あなたが一緒に乗ってくれる?」
「喜んで」
※ ※ ※ ※
回転木馬が止まり、いつものようにソフィアの手をとって降りる時になってアレックスはやっと思い出した。
何としたことだ。あやうく本来の目的を忘れる所だった!
元々今日はレオンさまに紹介したいと彼女に伝える予定だった。しかし2週間ぶりにソフィアに会って、隣に座り、手を握った時……気づいてしまった。もう、自分はこの手を離したくないのだと。
「ソフィア。それで、その………」
「何でしょう?」
黒目がちな濃いかっ色の瞳がじっと見つめて来る。わずかに雫を含み、潤んでいた。
ほんの少し目尻が下がっている、その優しげな表情が心の底から愛おしい。
「会ってもらいたい人たちがいるんだ。私の、大切な人たちに……あなたとディーンを紹介したい」
彼女の顔いっぱいにやわらかなほほ笑みが花開く。ほのかに甘い香りを放つ象牙色の花房、さながらリンデンの花のようだ。
「はい、アレックス。喜んで」
次へ→【4-6-5】今後ともよろしく
▼ 【4-6-5】今後ともよろしく
9月の半ば過ぎ。冗談みたいな不幸の連鎖と最後のとびっきりの幸運の重なった日の翌日。
ヒウェルはどうやらマンションに新しい入居者が来るらしいと気づいた。しばらく前からリフォーム業者が出入りしていたと思ったら今日は家具を運び込んでいる。
自分の住んでる3階より上、レオンたちの住んでる6階よりは下。エレベーターの動き方からしておそらく5階だろうな。止まる回数が格段に多い。
夕食時に話題にしてみた。
「下に誰か引っ越してくるみたいですね」
「ああ、アレックスだよ」
「え、でも確か彼は6階に住んでるはずじゃあ……」
「今までの部屋が手狭になるんでね」
そして夕食の席でレオンはおもむろに告げた。
「夕食後にアレックスが挨拶に来るから、皆しばらくはこの部屋に居てくれ」
(下の階に引っ越すのに挨拶も何もあったもんじゃなあるまいし……一体、何を今さら改まって?)
ヒウェルのささやかな疑問は夕食後に解明された。理由は単純、アレックスは一人ではなかった。
カールした鹿の子色の髪に黒い瞳の女性と、彼女によく似た幼い男の子が一緒だったのだ。
そして件のご婦人とアレックスの左の薬指には、おそろいのシンプルな指輪が光っていた。銀色のプラチナを細い金のラインで縁取りし、女性の方にはぷちっと一粒、小さなダイヤモンドが朝露の雫のようにきらめいていた。
マリッジリングだ。それ以外の何ものでもない。
※ ※ ※ ※
その日の夕食はマカロニ&チーズだった。妻(式こそまだだったが、二人は既に市役所に届けを出していた)の手料理を一口食べた瞬間、アレックスは悟った。
何故、レオンさまがマクラウドさまの料理をあんなにも喜んで食べているのか……。
(ああ、確かに……ソフィアの作るマカロニ&チーズは……最高だ。世界で一番、美味しい)
愛しい人が心を込めて作ってくれた料理は単に味覚を楽しませ、空腹を満たす以上の幸福をもたらしてくれるものなのだ。
「ねえ、アレックス」
「何だい、ソフィア」
「私はあなたのお仕えする家の方々を何てお呼びすればいいんでしょう?」
「あなたの好きなように、ソフィア。レオンさまにお仕えしているのは私であってあなたではないのだから」
「では実際にお会いしてみて決めますね」
「それがいいね」
そして今。
アレックスの大事な人たちがソフィアの目の前に並んでいた。そのうち3人はよく知っていて、二人は初対面。
「ソフィア、こちらがレオンハルト・ローゼンベルクさまだ」
「初めまして」
「初めまして。お会いできてうれしく思います、Mr.ローゼンベルク」
「レオンと呼んでください。アレックスも昔からそう呼んでいる」
「はい、レオンさん」
何て美しい方なんだろう。気品にあふれて、まるでヨーロッパのお姫様のようだわ……。
やっぱりお嬢様だったのね。
「こちらがディフォレスト・マクラウドさまだ。レオンさまの配偶者でいらっしゃる」
「よろしく、ソフィア。あなたとこんな形で会うとは思わなかったな」
赤毛さんは思った通りスコットランド系の名前だった。握手した手はほんの少し湿っていて、シャツの袖にも腕まくりした跡があった。
この人がお皿を洗ったのかしら?
「ええ、私もです……よろしくお願いしますね、マクラウドさん」
「ディフでいいよ。俺の名前、どっちも長くてめんどくさいだろ?」
「わかりましたわ。それでは、ディフと」
ディフはひょいとかがみこんでディーンの顔をのぞきこんできた。
「それで、こっちの小さな紳士のお名前は何て言うのかな」
「……ディーン」
「お、えらいぞ、ちゃんと自分で言えるのか」
「うん」
「いくつだ、ディーン」
ディーンは照れくさそうに笑いながら、指を3本立てた。
「三つか」
「うん」
「そうか。よろしくな、ディーン」
にこにこしてる。ご機嫌なゴールデンレトリバーそっくりの表情で……やっぱり赤毛さんは子どもが好きなのね。
「こちらのお二人はオティアさまとシエンさまだ」
金髪の双子ちゃんとの握手は遠慮しなければいけなかった。辛い経験をしていて、人に触れられるのは好まないとアレックスが前もって教えてくれたから。
だからほほ笑んでお辞儀をするだけに留める。
「よろしくお願いしますね」
二人はこくっとうなずき、シエンと呼ばれた子の方が小さな声で「よろしく」と言ってくれた。
旦那様も奥様も、どちらも男性、身よりのない子どもを引き取って一緒に暮らしている。最初に聞いた時は驚いた。自分が秘かに思い描いていた家庭とはあまりにかけ離れていたから。
だけど、改めてこうして全員と会ってみて、思った、自分の想像も、そんなに外れてはいなかったのかもしれない、と。
そりゃ、確かにこの家で暮らしているのは全員男の人だけど、ちゃんとそれぞれ家庭の中の役割を果たしている。
レオンさまがお父さんで、ディフがお母さん、オティアさんとシエンさんが子ども。年齢がちょっと近すぎるけど、そんな感じ。
でも、この眼鏡の男の人は……だれ? 何故ここにいるのかしら。たまたまお客に来たにしては、ものすごく寛いでる。ごく自然にここにいる。
「こちらはお二人の高校時代のご学友で、ヒウェル・メイリールさまだ」
「はじめまして、メイリールさん」
「どーも。あなたがレディ・カルーセル(回転木馬の君)だったのか」
レディ・カルーセル?
思わず笑ってしまった。
まるでロマンス小説のヒロインだわ……私はただのパン屋の娘で、しかも一度結婚して息子もいる身なのに。
回転木馬の君、ですって。
笑い出したら止まらない、ころころと後から後からあふれてくる。
「まあ、私のことそんな風に呼んでらしたの? おもしろい方ね」
メイリールさんはけろっとして言ってのけた。
「アレックスはなかなか口が堅くってね。あなたのイニシャルすら教えてくれなかったんだ」
ディーンはきょとんとした顔で首をかしげている。と、思ったら急に目をきらきらと輝かせた。
「キティ(猫ちゃん)!」
ドアの陰からひっそりと、白い小さな猫がこちらをうかがっていた。青い瞳を見開いて、ヒゲをぴーんと前に伸ばしてこっちを見ている。
「まあ、可愛らしい」
「オティアの猫なんだ。名前はオーレ」
自分のことを話しているのがわかったのだろう。オーレはするすると歩いて部屋に入ってきてた。
「よろしくね、オーレ」
そっと指一本さし出してみると、くんくんとにおいをかいで、すりっと顔をすり寄せる。
「キティ!」
ディーンが近づくと、オーレはソファを踏み台にして素早くオティアさんの肩に飛び上がった。
首輪に下げた金色の鈴がちりんと鳴った。
「あ……」
「小さな子は苦手なんだ。慣れてなくて。ごめんな、ディーン」
オーレは胸を張ってディーンを見下ろしている。『あたしはあなたより偉いのよ』と全身で言っていた。まるでちっちゃなお姫様ね。
「式はどうするつもりなんだい、アレックス」
「落ち着きましたら、挙げたいと思います。身近な人を招いてささやかに。それで、よろしければ皆さんにも参列していただきたいのですが」
「ありがとう。ぜひ出席させてもらうよ」
「ありがとうございます。では、詳しい日取りが決まりましたら、改めてお知らせいたします」
※ ※ ※ ※
ローゼンベルク家を辞して真新しい我が家に戻って来ると、ソフィアはほうっと感嘆のため息をついた。
「ユニークなご家庭ね……でも、すてきな方たち」
「ありがとう」
「レオンさんは本当に美しい方ね。さすが、あなたが手塩にかけてお育てした……」
ごく自然にお嬢様、と言いそうになって、ソフィアはこっそり言い直した。
「ぼっちゃまだわ」
アレックスはかすかにほほ笑むと妻の肩に手を置いて、優しく引き寄せて、そっと頬に口づけた。
「ねえ、アレックス」
「何だい、ソフィア」
「ロスのご本家からいただいた、結婚祝いのカトラリー。あんまり立派なものでびっくりしてしまったわ」
本家から届いた結婚祝いの食器セットはシルバー925。銀のナイフに銀のフォーク、スプーンにポットにバター入れ……いずれもとびっきりの一級品だったのだ。
「私、あんな上等な食器セット、使ったことがない。どうやってお手入れすればいいのかしら」
「大丈夫だよ、ソフィア。何も心配することはない」
ほんのりと頬を染めて見上げる妻の手を握ると、今度はアレックスはうやうやしく手の甲にキスをした。
「私が全て教えてあげよう。君のこの手を傷つけることなく、曇り一つなく、ぴかぴかに磨き上げるやり方を」
「はい……アレックス、喜んで」
(有能執事結婚す/了)
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▼ 秋の芸術劇場
- 拍手用お礼短編の再録。
- 【4-5】火難水難女難男難の夜。ヒウェルの不運てんこ盛りはまだまだ続く?
何故そんなことになったのかはわからない。
ベッドに入ってうとうとして、ふと気づくと俺は舞台の上にいた。
背後には書き割りのセットにはりぼての家具。んでもって俺の衣装は……スカートだった。
しかも、露骨にでっかいツギのあたったボロ服。
そこはかとなく見覚えがあるぞ、このステージは。
そうだ、俺の通ってた高校の体育館……ああ、これは夢なんだ。俺は今、夢を見ているんだな。
納得していてる間に開演ベルが鳴り、するすると舞台の幕があがり、満員の客席が広がった。スポットライトが眩しい。
『お待たせいたしました。ただいまから、シンデレラの上演を始めます』
え?
シンデレラ?
『ある所にシンデレラと言うとってもこすからくってこずるい女の子がいました』
おい、ちょっと待て。そいつぁもしかして俺のことか!
『シンデレラはまま母と、二人の姉娘に毎日のようにこき使われていました』
ナレーションに合わせてまま母登場。って…………レオンじゃねぇか。似合うね、そのドレスとウィッグ。
背後にはこれまたヅラとドレスを装備した双子を引き連れている。どうやらこいつらが姉娘らしい。
※月梨さん画「シンデレラ…?」
「シンデレラ! いつまでさぼっているんだい。さっさと床の掃除をしなさい」
どんっとレオンに押されて床にひざまずく。
「はい、お母様」
おい、口が勝手に台詞しゃべってるよ! 納得行かねえ。
「それが終わったら納屋の掃除と薪割りと食事の仕度だよ」
「はい、お母様」
「さぼらないようにね」
「はい、お母様」
まま母レオンはどんなに頑なな陪審員をも一発で味方にしそうな爽やかな笑顔でほほ笑むと、小さな声で付け加えた。
「いいね、心が痛まないから」
今、素に戻ってないか、こいつ。
「えーっと……シンデレラ、それが終わったらでいいから、ドレスにアイロンかけてくれる?」
「はい、シエンお姉様」
「シンデレラ」
「はいお姉様」
「………………邪魔」
やっぱこいつはこんなんか。夢の中でぐらい、もうちょっと愛想良くしてくれてもいいだろう。
って言うか、これシンデレラだろ? 原作通り、お姉様の着替えとか、ブラッシングとか、もっとこう、美味しい仕事があってもいいじゃねえかっ!
『さんざんこき使われてふらふらになったシンデレラは、毎日くたくたになって台所の灰の上で暖をとるのでした』
ここだけ原典通りかよ……納得行かねえ。
『そしてある日、この国の王子様が舞踏会を開くことになったのです』
「シンデレラ。私たちは舞踏会に行ってくるから、留守番をしていておくれ」
「はい、お母様」
「気をつけてね」
「はい、お姉様」
「………………」
無視かよ。
つれないねぇ……。
『すっかりやさぐれたシンデレラが、台所の勝手口で煙草を吸っていると……』
そうか、ナレーションが言ってるなら吸っていいんだな? お言葉に甘えて勝手口に腰かけ一服。
「こーら! 何やさぐれてんの?」
「げ、ヨーコ! やっぱ魔女だったのか」
「妖精とおっしゃい! 台本にもちゃんとFairy God-Mother(妖精の名付け親)って書いてあるでしょう」
「あ、ほんとだ」
「まったく物書きのくせに不勉強よ?」
「うるさいよ、社会科教師!」
ヨーコは腰に手をあてて、ちょこんと首をかしげた。
「それで。あなた、あたしに何か頼みたいことがあるんじゃない?」
「そうなんです。お城の舞踏会に行きたいんです!」
「わかったわ。じゃあ、カボチャを持っていらっしゃい」
「はい、これでいいですか?」
「上等!」
魔法使いは
「妖精だっつってるでしょうに!」
はいはい。
妖精の名付け親は、魔法の杖をひとふり。あっと言う間にカボチャは馬車に、そして俺のボロ服は豪華なドレスに早変わり。
ぽふんっとふくらむパフスリーブにレースとフリルたっぷりの………色はピンク。
冗談じゃねえっ! こんな恥ずかしいかっこさせやがって、これは君の趣味ですか、ヨーコさんっ!
「まあ、何て素敵なドレス……ありがとう、妖精さんっ」
ああ、また口が勝手に台詞言ってやがるし。ちくしょう、こいつは何の羞恥プレイだ。
「さあ、このガラスの靴を履いてお城に行くのよ。でも気をつけて。真夜中の十二時になったら魔法が解けてしまうからね」
「わかりました!」
はりぼてのカボチャの馬車に乗り込む。やけにごっつい馬だな、もしかして、着ぐるみの中に入ってるのは……
「よし、お城にGOだ!」
「しっかり掴まっていたまえ、セニョリータ」
レイモンドとデイビットだった。
「うわ、ちょっと待って、おてやわらかにーっ!」
『こうしてシンデレラはカボチャの馬車に乗り込み、お城へと一直線』
『そして舞踏会の会場では……』
ぜえ、ぜえ、と息を切らして馬車から降りたら舞台のセットはお城の大広間に切り替わっていた。
『国中の若い娘たちが王子様の登場を今か今かと待ちわびていました』
『そしてファンファーレが高らかに鳴り響く中、とうとう王子様が現れたのです』
「まあ、何て素敵な王子様………」
でも何でキルト履いてるんだ。マクラウドのタータンの肩掛けなんか巻き付けて。
「ヘーゼルの瞳にたてがみのような赤い髪」
ちょっと待て。まさか、ディフが王子って! 冗談じゃねえ、ああ、既にまま母レオンがこっちにガン飛ばしてるよ……。
たのむ、こっちを見るな。気がつくな。こっちに来るなっ!
「美しいお嬢さん。私と一曲踊っていただけますか」
来たーーーーーーーーーーーっ!
「え、いや、その、わ、わたしは」
「何ぐずぐずしてやがる、劇が進まないだろうが!」
ぐいっと強引に手をとられて、舞台の中央に引っぱり出され、スポットライトの照らす中ダンスが始まっちまった。
ああ……。
背後から殺気が………。
俺、幕が下りたらレオンに殺されるかもしんない。
その時、高らかに十二時の鐘が鳴り始める。助かった、救いの鐘だ。
「ごめんなさい、王子様!」
ディフの手を振りほどいて走り出した。レオンのそばを走り抜けようとしたら思いっきりドレスの裾を踏まれて、こけた。
「いでえっ! 何すんですかっ」
「台本どおりだよ。転んでガラスの靴を落とすって書いてあるだろう?」
嘘だ。ぜったいわざとだ……。
(場面転換)
『翌日、シンデレラの家にお城の使者がやってきました』
「ども、SFPD……じゃなかった、お城からやってきました」
金髪眼鏡の使者は、おもむろにアルミのケースを開けて綿棒を取り出した。
「おいおい、何始めるつもりだよ」
「これから皆さんのDNAを採取して、遺留品(ガラスの靴)に残されていた上皮細胞のDNAと比較を」
「ええい、十七世紀のフランスに科学捜査班がいるかーっ! とっとと台本どおりやれっ」
「しょうがないなあ……それじゃ、原始的に」
肩をすくめて使者が取り出したガラスの靴に、すっと足が吸い込まれる。
「おお、ぴったりだ」
「私が?」
レオンの足が。
「ええーっっ?」
「あなたこそ私の花嫁です」
いきなり王子様登場、まま母を抱き上げてキス。
まあ、うん、予想すべき展開だったよなあ、奴が王子様と言う時点で。かえってよかったよ。これでレオンに殺されずにすむし。
『こうして王子様とまま母はお城でしあわせに暮らしました』
あれ? ってことは、俺、双子と一緒にこの家で?
それはそれで、幸せかもしれない。
「そうは行かないよ」
「何しに来たんですかレオン、あなたお城に行ったはずでしょう!」
「ああ、その前に娘たちを迎えにね」
「ええっーっ!」
「母親と一緒に引っ越すのは当然だろう? ああ、この家は君にあげるから好きに使ってくれ」
「え、ちょっと、まって、そんなっ」
「それじゃ、シンデレラ、ごきげんよう……」
双子とレオンを乗せて馬車は無慈悲にも遠ざかる。
『こうしてみんなしあわせにくらしました。めでたしめでたし』
「めでたくねえっ!」
※ ※ ※ ※
朝。
ベッドの中でぱちっと目を開けてひとことぼやく。
「………さいってぇ………俺の夢なのに……」
ああ、でも、夢でよかった。
(秋の芸術劇場/了)
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