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ローゼンベルク家の食卓

【4-6-4】アレックスの決心

2008/10/18 2:21 四話十海
 八月に入ってからアレックスは忙しくなった。
 お仕えするご主人さまが結婚式を挙げるから、その準備で。だけど毎日必ずお店にやってきた。来れない日は電話をくれた。

「いつも私にお言い付けくださったのに、プロポーズの準備だけは全てお一人でしてしまわれたんだ」

 まるで我が子を見送る父親のように幸せそうに、そしてほんの少しの寂しさを含んだ優しい笑顔で話してくれた。
 聞いてるだけで楽しくて、わくわくした。

「もしかしてお相手は、赤毛さん? 金髪の双子ちゃんと一緒にパンを買いに来る」
「……そうだよ」

 やっぱりそうだったのね。

 でも一つだけ、予想と違っていたことがあった。
 アレックスがお仕えしていたのはお嬢様ではなく、ぼっちゃま………男の人だったのだ。
 ちょっと、びっくり。でも、大して珍しいことじゃないわよね。サンフランシスコですもの。
 左手の指輪に気づいて、おめでとうございますと言った時。赤毛さんは、とても嬉しそうに笑っていた。
 すてきな笑顔だった。だからきっと幸せなんだわ。アレックスの『ぼっちゃま』と一緒にいて。

 それが一番。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
  
 結婚式を間近に控えた火曜日のこと。
 レオンさまとともに仕上がったタキシードを受け取りに行き着けのテーラーに赴いた。
 試着室から現れたレオンさまはちらりとこちらを見て、仕事の話でもするようにさらりと

「どうかな」とおっしゃった。

 一点の染みもない純白のタキシードをまとうレオンさまを見ていると、胸の奥から熱いものがこみ上げて来るのを抑えることができなかった。
 初めてお会いしたのはレオンさまが5歳、私が20歳の年だった。あれから21年。お小さかったぼっちゃまも立派に成長し、生涯の伴侶と巡り会い、来週は式を挙げられるのだ。

「とても……良くお似合いでございます」
「そうか」

 レオンさまは鏡をごらんになり、軽く襟元に指を添えて整えながら何気ない調子でぽつりと言った。
 
「君もそのうち着るんじゃないか?」
「は………」
「意中の人がいるんじゃないのかな」

 一瞬、世界が凍りついた。
 その時、私の心に浮かんだのは明るいかっ色の瞳のあのお方ではなく、短くカールした鹿の子色の髪を白い三角巾にきっちり包んだ彼女の面影だった。

「そういう顔をしている」

 そういう顔?
 どんな顔をしていたと言うのか!
 あわてて鏡を凝視する。鏡の中のレオンさまと目が合った。

 …………笑っておられる!

 ああ、まさか、私はレオンさまの前でにやにやとだらしない顔をしていたのだろうか?

「どうかしたのかい、アレックス?」

 楽しげなお声だ。私とこんな風に感情豊かに話すことは滅多にない。それがうれしくもあり、またそれ故にいっそう心拍数が早くなって行く。
 今までついぞ体験したことのない事態に、静穏であるべき意識が嵐の中の小舟さながらにゆれ動く。
 とにかく、答えなければ……。

「意中の方と申しますか……」

 目を伏せて、慎重に言葉を選んだ。精一杯、静かな口調を心がけながら。

「おつきあいしている方は、います」
「そうか。では結婚式に招待しようか?」
「いえ、そのようなもったいない……それに当日は私は裏方でございますから」
「そうか……ではいずれ紹介してくれ」
「…………かしこまりました」

 タキシードの支払いを済ませながら、頭の中でスケジュールをチェックする。
 式の翌日、ソフィアと会う約束をしていた。その時に話してみよう。

 彼女はOKしてくれるだろうか?
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 結婚式が無事に終わった次の日の日曜日。久しぶりに彼と二人でYerba Buena Gardensに行った。
 初めてここの回転木馬を見た時、アレックスは驚いていた。

「これは興味深い。ヤギに、キリンまでいる」
「面白いでしょう? ここの回転木馬はユニークなんですよ。『馬』の種類も、アクションも」

 外側をぐるりとアクリルの壁で覆われた回転木馬は、雨の日でも風の強い日でも乗ることができる。回る早さも遊園地のものよりずっと早く、馬の跳ねる高さも高い。
 そこが楽しい。
 ピンクの細長いチケットを係員に手渡し、二人で並んで馬に乗った。白いヒゲにくるりと巻いた角のヤギにも。まだら模様のキリンにも乗った。

「ソフィア。あなたさえ良ければ今日は、馬車に乗ってみたいんだが……」
「ええ、いいわ」

 回転木馬でわざわざ馬車に乗るなんて! 木馬に乗れない小さい子向け、興ざめもいいとこ、てんでつまらないと思っていた……子どもの頃は。
 だけど大人になってから考えが変わった。

 一緒に乗りたい人がいるから。

 回転木馬が回り始める。今日の曲は「Somewhere My Love」だった。

「あら、ラッキーだわ。私、この曲大好き」
「ドクトル・ジバゴの『ララのテーマ』だね」
「ええ」

 知っている。彼はこの曲にこめられた物語を、ちゃんと"知って"いる。

「ソフィア」

 アレックスはそっと私の手を握ってきた。

「何でしょう?」
「レオンさまが結婚して……私の役目も、一区切りついた……」
「さみしい?」
「少し、ね」

 握り合わせた指に力を入れると、彼もきゅっと握り返してきた。少し乾いて、皺の寄った手。よく働き、よく動く、歳月を重ねた大人の手。
 
「執事の仕事は生涯続くけれど、私も自分の人生のことを考える余裕が出てきた」
「そう……今まではレオンさま一筋だったのね」

 何となくわかる。私がディーンを大切に思うのと同じように、この人はレオンさまを大事にしているのだ。
 
「ソフィア」
「はい」

 名前を呼ばれて見上げる……彼の空色の瞳を。

「これから先の時間を、あなたと歩いて行きたい。共に過ごしたい……もちろん、ディーンも一緒に」

 ほわっと音楽が遠ざかり、まるで水の中に潜ったように周囲の景色が霞む。それなのに目の前の彼の姿と重ねた手の温もりは冴え冴えと浮かび上がる。
 胸の奥が熱い。
 心臓が高鳴る。
 私を包む世界のあらゆる物がゆれている。回転木馬の震動のせいだろうか。それとも?

「私と結婚してくれますか?」

 一度結婚し、息子が生まれた。女らしい幸せはそこでおしまい、後は息子を世話するだけの代わり映えのない日々が続くのだと思っていた。
 アレックスの手をとった瞬間、世界が鮮やかな色を取り戻した。
 ああ、まだ私は楽しんでいいのね。人生を彩る私自身の喜びを、手放さなくてもいいのね……そんな風に思うことができた。

「はい、アレックス」

 彼に答える自分の声が、遠い場所からぼんやりと聞こえてきた。けれど、意志ははっきりと一つの方向を示している。

「………ありがとう」

 それは初めて見る笑顔だった。礼儀正しい紳士ではなく、少年のように朗らかで心の底から喜びがあふれていた。
 ああ、彼ってこんなにもキュートな顔で笑うのね。何て愛らしいのかしら。

「今度はディーンも連れて、三人で一緒に来よう」
「そうね、あの子はヤギがお気に入りなの。でも、まだ小さいから一人で乗れなくて……あなたが一緒に乗ってくれる?」
「喜んで」 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 回転木馬が止まり、いつものようにソフィアの手をとって降りる時になってアレックスはやっと思い出した。

 何としたことだ。あやうく本来の目的を忘れる所だった!

 元々今日はレオンさまに紹介したいと彼女に伝える予定だった。しかし2週間ぶりにソフィアに会って、隣に座り、手を握った時……気づいてしまった。もう、自分はこの手を離したくないのだと。

「ソフィア。それで、その………」
「何でしょう?」

 黒目がちな濃いかっ色の瞳がじっと見つめて来る。わずかに雫を含み、潤んでいた。
 ほんの少し目尻が下がっている、その優しげな表情が心の底から愛おしい。

「会ってもらいたい人たちがいるんだ。私の、大切な人たちに……あなたとディーンを紹介したい」

 彼女の顔いっぱいにやわらかなほほ笑みが花開く。ほのかに甘い香りを放つ象牙色の花房、さながらリンデンの花のようだ。

「はい、アレックス。喜んで」

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