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ローゼンベルク家の食卓

【4-6-2】ソフィアは見ていた

2008/10/18 2:17 四話十海
 その人が初めて店に来た時のことを、ソフィアは今でもはっきり覚えている。
 灰色の髪に薄い空色の瞳。ダークグレイの皺一つないズボンにベストに上着、真っ白なシャツ、襟元にきりっと締めたアスコットタイ。背筋を伸ばして、無駄のない動作できびきびと歩く。
 まるで映画に出てくる執事のようだと思った。

「いらっしゃいませ」
 
 ほほ笑みながら出迎えると、深みのある品のある声でこう言った。

「こちらにあるパンを、ここからここまで1種類につき1つずつ、全部いただけますか?」
「全部、ですか?」
「はい……あ……少々お待ちください」

 甘い香りの漂う菓子パンと、温まった肉と野菜の香ばしいにおいのたちこめる調理パンのコーナーに歩いて行くと、しばらく考え込んでいた。

「………こちらのコーナーの商品は除いて」
「はい、かしこまりました」

 山のようなパンを抱えてその人は、来た時と同じ様にきびきびした足どりで帰って行った。
 
(あんなにたくさんのパンを、どうするのかしら?)

 3日後、彼は再び店にやってきた。
 黒い革表紙の手帳を片手に慎重にパンを選び、厳かにカウンターに運ぶ。ベイカリーのプラスチックのトレイがまるで銀のお盆のように見えた。

「これをください」

(あれは試食だったのね! 好みのパンを見つけるための)

 以来、その人はお店の常連さんになった。買って行くパンはだいたい決まっていた。
 ライ麦パンとクロワッサン、イギリス式の山形の食パン。サンドイッチ用のしっかりめの生地の食パン、時たまバケット。いずれもプレーンなパンばかりで、野菜や果物を混ぜたものは好評ではなかったらしい。
 一人にしては多く、三人にしては少なめの量だった。

(きっと家族がいるのね。でも、小さな子どもではない)

 ごく自然に『お嬢様』と言う言葉が浮かんできた。忠実な執事が、お仕えするお嬢様のためにパンを買う。

(ふふっ、まるでロマンス小説みたい)
(まさか……ね)
(でも、ひょっとしたら?)

 そんなことを考えながら、ソフィアは彼が店に訪れるのをいつしか楽しみにするようになっていた。

 やがて月日が流れ、ソフィアが結婚して、家を離れて。
 短いけれど幸せな日々の後に息子を連れてサンフランシスコに戻ってきた時も彼は変わらずそこに居た。
 いつまでも悲しみに沈んではいられない。勇気を出して店に立った最初の日にパンを買いに来てくれたのだ。
 ソフィアを見つけて、ほんのかすかに、ほほ笑んでくれた。春先の空のような、温かい瞳をして。
 その瞬間、ぽわっと小さな、タンポポの綿毛みたいな温かい灯りが胸の奥に灯った。
 ぽわぽわと白いちっちゃな灯りが、空っぽになっていた自分の中に広がって……気がつくと、ほほ笑み返していた。
 それまでは人前で、泣かずにいられるのが精一杯だったのに。

「いらっしゃいませ」
「こんにちわ」
 
 再会からしばらくして、彼の買うパンの量が減った。

 二人分から一人分に。何となく寂しそうな、ほっとしたような様子だった。
 自分一人分のパンを買うようになってから、彼は……その頃には「オーウェンさん」「ソフィアさん」と呼び合うくらいに親しくなっていた……ほんの少し冒険するようになった。
 野菜を生地に練り込んだパンやドライフルーツやナッツを混ぜたパンに挑戦し、一通り試した結果、ほうれん草入りのクロワッサンが気に入ったようだった。

 食パンを一斤とほうれん草入りのクロワッサンを二つ。それがオーウェン氏のお買い物の定番。
 ほぼ同じ頃から赤い髪の毛の青年が頻繁に店に来るようになった。彼の買って行くものは、何故かオーウェンさんが以前買っていたものを引き継いだようにそっくり同じだった。
 よく笑う気さくな人で、冒険心も好奇心も旺盛。これは何? どうやって食べるの? 何が入っているの? まるで子犬のように目をきらきらさせて楽しそうに聞いてきた。

 去年の秋ごろからだろうか。赤毛さんの買い物が変化した。
 大きくて堅いパンから、小振りで柔らかいパンへ。量も増えた。小さな手で、ちまちまとやわらかいパンを食べる人が食卓に加わったのだと思った。そう、きっと子どもだ。
 
 そう思った矢先に、ふっつりと赤毛さんは姿を見せなくなった。
 心配していると、入れ替わりにまたオーウェンさんの買い物が増えた。小さめのロールパン、やわらかい食パン。まるでバトンタッチしたみたい。

(あの二人、ひょっとして知り合いなのかしら?)

「ソフィアさん、一つ教えていただきたいことがあるのですが……」

 ある日、オーウェンさんが真剣な顔で尋ねてきた。

「はい、何でしょう」
「息子さんは、いったいどのような料理を喜んで召し上がりますか?」
「息子が、ですか?」
「はい……実は今、育ち盛りの男の子を二人、お世話しているのですが、どうにも私の作る献立は……何と申しますか、微妙に喜ばれていないようなのです」

 こんなに途方に暮れたオーウェンさんを見るのは初めてだった。よほど悩んでいるらしい。

「お子さんを持つ母親として、あなたのご意見を参考にさせていただきたいのです」
「そうですね。ディーンは私の作ったものは何でも喜んで食べてくれますけど……一番好きなのは、マカロニ&チーズかしら」
「マカロニ&チーズ……ですか」
「はい。タマネギのコンソメスープも好きですね」
「タマネギのコンソメスープ……なるほど。大変参考になりました」

 うなずくと、彼は心底ほっとした様子で晴れやかな笑みを浮かべた。

「ありがとうございます、ソフィアさん」
「いいえ。お役に立てて良かったわ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「メイリールさま」
「おう、どーしたアレックス」
「一つご相談があるのですが」
「何、改まって」

 検討に検討を重ねた上での人選だった。
 女性相手の経験、と言う点ではマクラウドさまに聞くのが一番なのだろうが、レオンさまが良い顔をなさならいだろう。
 レイモンドさまは、ご自分からご婦人にアプローチする方ではない。実際、トレイシー嬢が冗談めかして言っていたことがある。『私ね、レイをひっかけたのよ』と。
 
「ご婦人に感謝の気持ちを伝える時は、どのような物を贈ればよいのか、ご意見をお聞かせ願いたいのです」
「何で、俺にそーゆー事聞くわけ?」
「レオンさまはあの通りのお方ですし、マクラウドさまは入院中ですし」
「Mr.ジーノは?」
「………」

 デイビットさまは……あの方の好みは独特だ。いささか派手になりすぎる傾向がある。慎み深く口をつぐみ、目を伏せた。

「あー、うん、気持ちはわかる。で、相手のご婦人ってのは独身?」
「いえ、ご家族と一緒に住んでいらっしゃいます」
「ああ……そう。だったら、チョコの詰め合わせかな。あとちっさめの花束」
「チョコレートと花束……ですか」
「クッキーとかパイとかケーキなら自分ちでも手作りできるけどさ。チョコはそうは行かないだろ? ダイエット中でも家族が食べるだろうから誰かしらには喜ばれるよ。それに高級な店のは箱もリボンも上等だから食べ終わってからも楽しみがあるし」

 よどみのない口調で述べてから、メイリールさまはぱちっとウィンクをして、芝居がかった動作で一礼した。

「んでもって花束は……あなただけの為に」
「……その、胸に手を当てる仕草とウィンクも実行しなければいけませんか?」
「や、無理しないでいいから。気分の問題だし、これ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 花束。
 花束。
 ピンクのバラの蕾を集めた、ちっちゃな花束。片手にすっぽりおさまるぐらいの。
 こんな可愛いブーケをもらったのは久しぶり。
 何だか胸が時めく。

「先日のお礼です」とオーウェンさんは言っていた。マカロニ&チーズは喜んで食べてもらえたのね。
 よかった。
 とても嬉しい。

「ママ、チョコレートもっと食べたい」
「あらあら、そんなにいっぺんに食べちゃいけないわ、ディーン。ちょっとずつ、長く楽しみましょう? 残りは明日ね」
「……OK、ママ」
 
 チョコレートの箱についていた青いサテンのリボンをくるくる巻いて引き出しにしまった。花束が色あせても。チョコを食べ終わっても、このリボンは残る。
  
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 十二月に入って、赤毛さんが帰ってきた。少し色が白くなって髪の毛が伸びていた。

「ちょっとね、ケガで入院してたんだ」

 事も無げに言って、笑っていた。
 次にお店に来た時、彼は一人ではなかった。金髪の男の子が二人一緒に居た。まるで鏡に映したようにそっくりの双子の兄弟。
 親鳥の後をついて歩くひな鳥のようにちょこまかと店の中を歩き回り、三人で相談しながらパンを選んでいた。
 まず二人で相談して、それから双子のうちの一人が赤毛さんと話す。
 兄弟の間ではほとんど言葉は交わされない、それでもちゃんと意志が通じているようだった。

 年が明け、冬から春へ季節が移り変わってゆく間に金髪の双子と赤毛さんはすっかりおなじみの顔になって行った。
 いったい彼らはどんな関係なのだろう?
 親子にしては年が近すぎる。兄弟と言うには離れ過ぎ。けれど一緒に暮らして、一緒にご飯を食べていることは確かだった。

 そして……五月が終わり六月の足音が聞こえる頃。
 オーウェンさんがやってきた。
 金髪の双子と一緒に。

(この子たちだったのね……マカロニ&チーズを喜んでくれたのは)

 いつも赤毛さんが買っている食パンを買って帰っていった。

『生地がしっかりしていて、サンドイッチを作る時に何はさんでもOKだからな。こいつが一番なんだ』

 以前、彼がそんな風に言っていたのを思い出した。
 金髪の双子と、赤毛さんとオーウエンさん。ソフィアの中でいつも店に訪れる四人が繋がった。

 けれど気にかかる。三人とも、どこかやつれていて元気がなかった。
 どうしたのだろう。
 何があったのだろう?
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 それから一ヶ月近くの間、三人は連れ立って何度もパンを買いに訪れた。何があったか聞けぬまま、それでもパンの量が以前と変わらないことにソフィアは秘かに安堵していた。

 そして六月も終わりに近づいた頃………オーウェンさんに代わって赤毛さんが再び双子を連れてやって来た。
 パンの袋を渡す時、左手の指輪に気づいた。プラチナのしっかりしたリングの中央には青いライオンが刻印されている。以前は無かった物だ。

「おめでとうございます」
「…………ありがとう」

 かすかに頬を赤らめて、うれしそうにほほ笑んでくれた。

 オーウェンさんと、赤毛さんと金髪の双子ちゃんはとても親しい。けれど、最初にオーウェンさんがパンを買っていた相手は多分この中にはいない。
 もう一人居るのね。その人は、今は赤毛さんと、双子ちゃんと一緒に暮らしている。

 どんな人なのかしら。オーウェンさんが心をこめてお世話しているお嬢様。
 おそらくそれが、赤毛さんと指輪を交わしたお相手なのだわ。
 もしかして、金髪の双子ちゃんのママさん?
 
 ソフィアの頭の中でくるくると、今まで見聞きした出来事の欠片が融け合って一つの物語に固まって行く。

 若いうちに結婚して、そして双子の息子が生まれて。でも旦那さんとは別れて一人暮らしになって、それでオーウェンさんがお世話をしていた。
 赤毛さんと恋人同士になって、双子の息子を呼び寄せて一緒に暮らすようになって、六月に結婚したんだわ。

 きっと、きれいな方ね……いつか、お店に来てくれないかしら。

 まだ見ぬ『お嬢様』を思い描いて、ソフィアは秘かにわくわくしていた。

 ああ、それとも、もしかしたら家の外に出られない訳があるのかも。ものすごく病弱だったり、体がどこか不自由だったり。

 ふと、ソフィアの脳裏に鮮やかにある光景が浮かんだ。
 窓際の長椅子に体を預けた深窓の令嬢。細い肩を薄い柔らかなショールが包み、白い手が丸い木の枠に収められた布に細やかな刺繍を施している。
 双子の息子と愛する旦那様、そして忠実な執事に守られて……。

 そうよ、きっとそうなのだわ!
 赤毛さんはずっとつきっきりでお嬢様の看病をしていて、その間、オーウェンさんが双子ちゃんと家事をしていたのね。

 よかった、幸せになれて……。
 本当に、よかった。

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