▼ 【4-6-1】人はパンのみにて
人はパンのみにて生きるに非ず。
しかし、毎日の食生活においてパンの占める役割は大きい。何と言っても主食なのだから。
自らの仕える主人、レオンハルト・ローゼンベルクが高校を卒業し、寮を出た後もサンフランシスコに居を構えると決めた時。
忠実なる執事アレックス・J・オーウェンは衣食住、全てにおいて完ぺきに準備を整えた。
中でも食生活においてことに気を配ったのが、如何にして良質なパンを確保するか、だった。
本家で暮らしていた時分には毎食のパンは屋敷の厨房で焼かれていたが、さすがにここではそれは難しい。
(ならば自分の目と舌で確かめて納得の行くパン屋を探すしかあるまい)
そんな訳でアレックスは、主人の住むノブヒルのマンションの近辺のパン屋を全てピックアップし、材料から製法、味、店内の清潔さから従業員の気質、勤務態度に至るまでことごとくチェックしたのである。
まずはサンプルを入手すべく店に並べられた商品を順番に購入し、食べ比べる。比較検討の結果、一定の基準を満たしたものを実際に食卓に並べてレオンぼっちゃまの反応を確認する。
口に合わない時はちょっと顔をしかめる。気に入った時は何も言わずに食べる。
それはほんの些細な変化でしかなかった。幼い頃からレオンに付き従ってきたアレックスにしかわからない程度の。
ルーセント・ベーカリーはアレックスの綿密かつ厳しいチェックをくぐり抜けた『最良クラスの』一軒だった。
家族経営の小さな店だったが、質の良い材料を使い、丁寧な仕事をした。味も申し分なかった。
以来、ローゼンベルク家の食卓に上るパンは可能な限りルーセント・ベーカリーの商品と決められている。そして、レオンの結婚後もその伝統は継承された。
と、言うのも、親友時代から恋人期を経て現在に至るまで、レオンの伴侶たるディフもアレックスと同じ意見だったからだ。
「このパン美味いな。どこの店で買ったんだ?」
「ルーセント・ベーカリーでございます」
「いいな。気に入った」
「さようでございますか」
控えめな笑みで答えながらアレックスは秘かに嬉しかった。
レオンは基本的に食事の味と言うものへの関心が薄い人間だった。口に合おうが合うまいが、出されたものはきちんと食べる。子どもの頃、万が一彼が料理を残せば即座に使用人の責任問題につながった。
だから食べる。とにかくきちんと食べる。
レオンハルト・ローゼンベルクにとって食事とは単に栄養を補給するための行為であり、そこには何ら感情の動く余地はなかった。
ゆるやかに波打つ赤毛にハシバミ色の瞳のルームメイトと出会うまでは。
『これ、美味いな。初めて食った!』
彼のその一言が、レオンの意識に食べる事への関心を呼び覚ました。人の生きて行く時間を彩るあらゆる喜びも。
(本当に、マクラウドさまはレオンさまの救い主だ……天使とお呼びするには、いささか頑強すぎるかもしれないが)
※ ※ ※ ※
9年前に初めて店を訪れた時、アレックスを出迎えたのは店のオーナーの一人娘ソフィアだった。
「いらっしゃいませ」
短めのカールした髪の毛をきちんと三角巾の下に包み込み、オレンジと白のストライプのユニフォームに白いエプロンを着けて朗らかに笑う彼女を見て、直感で思ったものだった。
ああ、この店なら信頼できる。きっと良いパンを焼く、と。
事実、その勘は正しかった。
人はパンのみにて生きるに非ず。さりとてパンは主食なり。
何度も足蹴く通ううち、自然とソフィアと言葉を交わす機会は増えて行った。彼女の結婚が決まった時は一抹の寂しさを覚えたものの、兄にも似た温かな気持ちで
「おめでとう」と祝福の言葉を贈ったものだった。
ソフィアの結婚後もアレックスはルーセント・ベイカリーでパンを買い続けた。
店員の話からその後サクラメントへと移り、息子が生まれた事を知った。
しかし彼女の幸せな結婚生活は長くは続かなかった。突然の交通事故で夫を失い、再び両親の元へと戻って来たのだ。
店先でソフィアに再会した時。彼女に再び会えたことを心のどこかで嬉しく思う自分に気づき、アレックスは慌てて自らをたしなめたものだった。
ほぼ時を同じくして、レオンとディフの長い長い親友時代は終わりを告げ、二人は晴れて恋人同士となった。レオンの食生活はほぼ完全にディフの手に委ねられ、アレックスが主人のためにパンを調達する機会も減った。
にも関わらず、彼は依然としてルーセント・ベイカリーに通い続けた。そこが信用のおける美味いパン屋であることに変わりはなかったし、ソフィアと彼女の息子の元気な姿を確かめずにはいられなかったのだ。
その間もローゼンベルク家の食卓を囲む人数は刻々と変化していた。
主人とその恋人、さらにその友人、そして金髪に紫の瞳の双子。食卓を囲む人数が増えて行くにつれ、アレックスがルーセント・ベイカリーで買い求めるパンの量も、種類も少しずつ変わって行った。
そして、その変化をソフィアは敏感に感じ取っていたのだった。
次へ→【4-6-2】ソフィアは見ていた
しかし、毎日の食生活においてパンの占める役割は大きい。何と言っても主食なのだから。
自らの仕える主人、レオンハルト・ローゼンベルクが高校を卒業し、寮を出た後もサンフランシスコに居を構えると決めた時。
忠実なる執事アレックス・J・オーウェンは衣食住、全てにおいて完ぺきに準備を整えた。
中でも食生活においてことに気を配ったのが、如何にして良質なパンを確保するか、だった。
本家で暮らしていた時分には毎食のパンは屋敷の厨房で焼かれていたが、さすがにここではそれは難しい。
(ならば自分の目と舌で確かめて納得の行くパン屋を探すしかあるまい)
そんな訳でアレックスは、主人の住むノブヒルのマンションの近辺のパン屋を全てピックアップし、材料から製法、味、店内の清潔さから従業員の気質、勤務態度に至るまでことごとくチェックしたのである。
まずはサンプルを入手すべく店に並べられた商品を順番に購入し、食べ比べる。比較検討の結果、一定の基準を満たしたものを実際に食卓に並べてレオンぼっちゃまの反応を確認する。
口に合わない時はちょっと顔をしかめる。気に入った時は何も言わずに食べる。
それはほんの些細な変化でしかなかった。幼い頃からレオンに付き従ってきたアレックスにしかわからない程度の。
ルーセント・ベーカリーはアレックスの綿密かつ厳しいチェックをくぐり抜けた『最良クラスの』一軒だった。
家族経営の小さな店だったが、質の良い材料を使い、丁寧な仕事をした。味も申し分なかった。
以来、ローゼンベルク家の食卓に上るパンは可能な限りルーセント・ベーカリーの商品と決められている。そして、レオンの結婚後もその伝統は継承された。
と、言うのも、親友時代から恋人期を経て現在に至るまで、レオンの伴侶たるディフもアレックスと同じ意見だったからだ。
「このパン美味いな。どこの店で買ったんだ?」
「ルーセント・ベーカリーでございます」
「いいな。気に入った」
「さようでございますか」
控えめな笑みで答えながらアレックスは秘かに嬉しかった。
レオンは基本的に食事の味と言うものへの関心が薄い人間だった。口に合おうが合うまいが、出されたものはきちんと食べる。子どもの頃、万が一彼が料理を残せば即座に使用人の責任問題につながった。
だから食べる。とにかくきちんと食べる。
レオンハルト・ローゼンベルクにとって食事とは単に栄養を補給するための行為であり、そこには何ら感情の動く余地はなかった。
ゆるやかに波打つ赤毛にハシバミ色の瞳のルームメイトと出会うまでは。
『これ、美味いな。初めて食った!』
彼のその一言が、レオンの意識に食べる事への関心を呼び覚ました。人の生きて行く時間を彩るあらゆる喜びも。
(本当に、マクラウドさまはレオンさまの救い主だ……天使とお呼びするには、いささか頑強すぎるかもしれないが)
※ ※ ※ ※
9年前に初めて店を訪れた時、アレックスを出迎えたのは店のオーナーの一人娘ソフィアだった。
「いらっしゃいませ」
短めのカールした髪の毛をきちんと三角巾の下に包み込み、オレンジと白のストライプのユニフォームに白いエプロンを着けて朗らかに笑う彼女を見て、直感で思ったものだった。
ああ、この店なら信頼できる。きっと良いパンを焼く、と。
事実、その勘は正しかった。
人はパンのみにて生きるに非ず。さりとてパンは主食なり。
何度も足蹴く通ううち、自然とソフィアと言葉を交わす機会は増えて行った。彼女の結婚が決まった時は一抹の寂しさを覚えたものの、兄にも似た温かな気持ちで
「おめでとう」と祝福の言葉を贈ったものだった。
ソフィアの結婚後もアレックスはルーセント・ベイカリーでパンを買い続けた。
店員の話からその後サクラメントへと移り、息子が生まれた事を知った。
しかし彼女の幸せな結婚生活は長くは続かなかった。突然の交通事故で夫を失い、再び両親の元へと戻って来たのだ。
店先でソフィアに再会した時。彼女に再び会えたことを心のどこかで嬉しく思う自分に気づき、アレックスは慌てて自らをたしなめたものだった。
ほぼ時を同じくして、レオンとディフの長い長い親友時代は終わりを告げ、二人は晴れて恋人同士となった。レオンの食生活はほぼ完全にディフの手に委ねられ、アレックスが主人のためにパンを調達する機会も減った。
にも関わらず、彼は依然としてルーセント・ベイカリーに通い続けた。そこが信用のおける美味いパン屋であることに変わりはなかったし、ソフィアと彼女の息子の元気な姿を確かめずにはいられなかったのだ。
その間もローゼンベルク家の食卓を囲む人数は刻々と変化していた。
主人とその恋人、さらにその友人、そして金髪に紫の瞳の双子。食卓を囲む人数が増えて行くにつれ、アレックスがルーセント・ベイカリーで買い求めるパンの量も、種類も少しずつ変わって行った。
そして、その変化をソフィアは敏感に感じ取っていたのだった。
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