▼ 【4-5-4】やっぱり予言なんて…
家に帰るとちょうど飯の時間だった。
タイをほどいて引き抜き、焼けこげたシャツを脱いでゴミ箱に放りもうとして、ふと思いとどまる。
さすがに外には着てけないが、部屋の中でなら問題ないよな。よし、決定。こいつは今日から寝間着用。
クローゼットから替えのシャツを出して羽織る。袖が左の二の腕に触れた瞬間、ちりっと肌に鋭い痛みが走った。火傷のサイズそのものは大したもんじゃないが、皮膚をひっぺがして直に肉の表面をなでられたような感じだ。冷やしとくか? いや、時間が惜しい。
例の新聞記事を収めたA5版のクリアファイルを持って部屋を出た。
「腹減った、今日の飯、何?」
「ヒウェル」
ドアを開けたシエンの笑顔が、途中から強ばり、ぎょっとした表情に変わる。やっぱ目立つか、殴られた跡。
「どうしたの?」
「ちょっと帰りがけにトラブルに巻き込まれてね」
リビングのソファの上から落ち着き払った声が飛んでくる。
「ああ、いつものことだよ。心配ない、彼は慣れてる」
「ご親切に、どーも!」
どんな類いのトラブルかお見通しですか、レオン。
シエンはおずおずと俺の顔に手を伸ばしかけたが、途中で動きを止めた。何やらためらっているらしい。
「冷やしとけば治る。大丈夫だよ、シエン」
「うん……」
そんなことを話していると、ディフがキッチンからのしのし歩いて来て、冷凍コーンの袋をぐいっと俺の顔面に押し付けた。
「あ、つめたい」
「ついでだ。解凍しとけ」
「サンクス」
どんな類いのトラブルか、多分、こいつも薄々感づいてる。ざらざらした粒粒の入った袋は、いい具合に殴られた頬にフィットしてくれた。
ちなみにオティアは相変わらずノーリアクション、ノーコメント……ちらっとこっちを見たけど、それだけ。うん、まあ想定内だよ。
その夜、食卓に上がったタマネギ入りのコーンプディングはいつもよりちょっとばかり塩っぱい……ような気がした。
そしてメインは鳥肉。
「これ、鳩じゃないよな?」
「チキンだ」
食事が終わって、後片付けも一段落したところでリビングで双子を呼び止める。
「オティア。シエン」
部屋に戻りかけた二人が足を止め、振り返ってきた。オティアがいぶかしげにこっちを見てる。何の用だ? と言わんばかりだ。
ええい、しおらしく迷ってる暇もありゃしない。ここで渡さなけりゃさっさとこいつは部屋に戻ってしまう。
「お前たちに見てほしいものがあるんだ。これ……」
不幸てんこ盛りの一日の収穫を居間のテーブルの上に置いて、そっと双子に向けて滑らせる。紫の瞳が4つ、クリアファイルの表面を走り、透明なケースの中の文字を読みとってゆくのがわかった。
さっと一通り読み終えたのだろう。シエンが小さく声をあげ、目を見開いた。
「え、これ俺たちの親?」
(そうだよ、お前たちのママはお前たちそっくりの美人だった……)
思っても言わない。ただうなずいて、記事の書かれた大会より後に起きたことを捕捉するに留める。
「サラエフってのは、お前たちのママの結婚前の苗字だよ。この大会の3年後に結婚したんだ」
オティアは何も言わず熱心に記事を読んでいる。クリアファイルごと手にとって、隅から隅まで。目にした文字は何でも読むってか。ああまったく本の虫だね、お前ってやつは!
「俺こんなの全然知らない」
「そうだな……直接知ってる人でなきゃ教えようがないし。書類には名前と生年月日ぐらいしか残らないからな」
「……うん。これ、どうしたの?」
「たまたま買った古雑誌に切り抜きの一部がはさまってたんだ。見覚えのある名前だなって思って、それで、知り合いの雑誌社で探したら、あった」
嘘は言っちゃいない。間にあった紆余曲折を省いただけだ。
「ありがと、ヒウェル」
ああ、良かった、笑ってくれたな、シエン……だけど、瞳の奥に、仕草の端々に、わずかに戸惑う気配がある。
どうやら、説明を聞いてもぴんと来ないらしい。目の前の新聞記事に書かれた「ヒース・ガーランドとメリッサ・サラエフのペア」が自分たちの両親だと。
無理もない。両親が亡くなった時、二人ともまだ三歳だった。施設から里親、また施設へ。あちこちを転々としたせいで、自分達の親のことなんか教えてくれる人がいなかったんだろう。
生まれた場所から遠ざかるにつれて、縁ある人々との繋がりも微かなものとなり、苗字も変わって……そして親と言う単語の意味が、自分の体を構成する物質と、書類上の文字に縮小されて行った。
改めて、思う。
ただ親子と言うだけで無条件にあたたかな翼の下に守られ、愛された記憶はこいつらにはほとんどないのだ。
「覚えてる?」
シエンに聞かれて、オティアが小さな声で答えた。
「……いや」
シエンは何か言いたそうな顔をしたが、結局、何も言わなかった。
「にゃー!」
頭上から甲高い澄んだ声が降って来る。
「どこだ?」
「あそこ」
カーテンレールの上で、白いお姫様が四つ足を踏ん張って得意げな顔をしていらっしゃる。どうやらオティアが食堂から出てくるのを待つ間、フリークライミングにいそしんでおられたらしい。
だだだだ、どどどどど。
オーレはカーテンレールの上を全力疾走、端にたどりつくとくるりとUターンしてまたどどどどっと走る。尻尾をぴーんと立てて、目をきらきら輝かせて、ものすごく楽しそうだ。
首輪に下げた金色の鈴がちりちりと鳴る。まるでサンタクロースのトナカイだ。かなり賑やかなはずなのだが、不思議なことにちっともうるさいとか、耳障りだ、とは感じなかった。
しかしこれ、今はちっちゃな子猫だからいいけれど、大人になってもこの調子で走り回られたら、たまらんだろうなあ。
「そのうちキャットウォーク取り付けた方がいいんじゃね、まま?」
「考えとく」
「……オーレ」
オティアに呼ばれた瞬間、オーレは耳を立て、勢い良く助走をつけてジャンプ! リーン、と鈴が鳴ったと思ったら、鮮やかにオティアの肩に飛び移っていた。
…………俺を踏み台にして。
「痛っ」
「大げさなやつだな、たかだか子猫にキックされた程度で」
「デリケートなんだよ……」
あの位置からなら俺よりディフのが近いのに、何故に俺を踏み台にするのかオーレよ。
加えて故意か偶然か、はたまたこれも女難の一部か。彼女が踏み切ったのはジャスト火傷の上だった。
ぷにぷにの柔らかな子猫の足の裏とは言え、ちっぽけな足先に体重がかけられていた。しかも踏切りの強いことといったら、一流のアスリートばりだぜ、このお姫様は……。
部屋に帰ったら救急箱開けるか。これじゃシャワーもおちおち浴びられねえ。
顔をしかめながらテーブルの上に視線を落すと、記事を入れたクリアファイルが消えていた。
あれ、どこだ?
あった。オティアが持ってる。しっかりと手に持っている。
ふうっと安堵の息がこぼれる。夕方からずっと、肩からこめかみにかけて張りつめていた嫌な強ばりが、抜けた。
オティアはオーレを頭に乗せたまま、すたすたと歩いて行く。にやつきそうになる奥歯を噛みしめて見ていると……
「…………」
すれ違いざまにびしっと容赦無く腕を叩かれた。ご丁寧に火傷してる方を。
「いでえええっ!」
「邪魔」
ぼそっとつぶやくと、振り向きもせず行ってしまった。
ああ、まったく報われねえなあ、おい! 一日の締めくくりぐらい綺麗に終わらせてくれたっていいだろうにっ!
額に手をやって、ふと気づく。
「………あれ? 痛く……ない?」
フィルに殴られた後も。踏み切った瞬間にぷっつり刺さったオーレの爪痕も、そして腕の火傷も、全然痛くない!
半ば夢見ているような気持ちで頬を撫でる。腫れが完全に引いていた。試しにシャツの左袖をめくってみる。
…………………………火傷が、消えてる。
治してくれたんだ。
(せめてありがとうぐらい、言わせてほしかったなあ、オティア)
散々な一日だったけど、最後が幸せなら問題ない。
やっぱり予言なんざアテにならないもんだよ、うん。
※ ※ ※ ※
浮かれるヒウェルの背後で、シエンが微妙な表情を浮かべていた。戸惑い、困惑、驚き、そしてほんの少しの苦みが入り交じる。
すれ違い様、明らかにオティアは持てる力を全開にしてヒウェルを治して行ったから………。
一方、部屋に戻ったオティアは改めて新聞記事に目を通した。
冷たい氷のほとりで白い頬を真っ赤に染めてにこにこ笑っていた人がいた。
リンクサイドでいつも青い手袋をしていた。自分とシエンの頬をかわるがわる青い手袋をはめた手でつつみこんで、ほおずりをして、キスをしてくれた。
『これ、おねがいね』
手袋をはずして、自分たちに片方ずつ渡して……それからくるりと身を翻し、氷の上に駆けて行った。まるで空を飛ぶように軽やかな足どりで。
シエンが後を追いかけようとすると、いつもこう言っていた。
『今はまだ早いわ。いつかもう少し大きくなって、スケート靴を一人で履けるようになったらね』
その『いつか』が来ないまま、自分たちは二人きりになってしまった……。
昔のことだ。
もう過ぎたことだ。今の自分には関係ない。
左の手を開き、また握る。手のひらが火照っている。全力で力を出した瞬間の余波がまだ残っているような気がした。
ヒウェルの傷を治したのは、飼い主の責任だ。少しはお礼の意味もあるけれど。
迷子のオーレを探していた時に助けてもらったこと。
青い目覚まし時計。
そして両親の新聞記事と。
まとめて清算したまでのこと。
「みゅ……」
くしくしとオーレが頬に顔を掏り寄せている。肩に手を回して撫でた。
これで、すっきりした。
(火難水難女難男難/了)
次へ→【4-6】有能執事**する
タイをほどいて引き抜き、焼けこげたシャツを脱いでゴミ箱に放りもうとして、ふと思いとどまる。
さすがに外には着てけないが、部屋の中でなら問題ないよな。よし、決定。こいつは今日から寝間着用。
クローゼットから替えのシャツを出して羽織る。袖が左の二の腕に触れた瞬間、ちりっと肌に鋭い痛みが走った。火傷のサイズそのものは大したもんじゃないが、皮膚をひっぺがして直に肉の表面をなでられたような感じだ。冷やしとくか? いや、時間が惜しい。
例の新聞記事を収めたA5版のクリアファイルを持って部屋を出た。
「腹減った、今日の飯、何?」
「ヒウェル」
ドアを開けたシエンの笑顔が、途中から強ばり、ぎょっとした表情に変わる。やっぱ目立つか、殴られた跡。
「どうしたの?」
「ちょっと帰りがけにトラブルに巻き込まれてね」
リビングのソファの上から落ち着き払った声が飛んでくる。
「ああ、いつものことだよ。心配ない、彼は慣れてる」
「ご親切に、どーも!」
どんな類いのトラブルかお見通しですか、レオン。
シエンはおずおずと俺の顔に手を伸ばしかけたが、途中で動きを止めた。何やらためらっているらしい。
「冷やしとけば治る。大丈夫だよ、シエン」
「うん……」
そんなことを話していると、ディフがキッチンからのしのし歩いて来て、冷凍コーンの袋をぐいっと俺の顔面に押し付けた。
「あ、つめたい」
「ついでだ。解凍しとけ」
「サンクス」
どんな類いのトラブルか、多分、こいつも薄々感づいてる。ざらざらした粒粒の入った袋は、いい具合に殴られた頬にフィットしてくれた。
ちなみにオティアは相変わらずノーリアクション、ノーコメント……ちらっとこっちを見たけど、それだけ。うん、まあ想定内だよ。
その夜、食卓に上がったタマネギ入りのコーンプディングはいつもよりちょっとばかり塩っぱい……ような気がした。
そしてメインは鳥肉。
「これ、鳩じゃないよな?」
「チキンだ」
食事が終わって、後片付けも一段落したところでリビングで双子を呼び止める。
「オティア。シエン」
部屋に戻りかけた二人が足を止め、振り返ってきた。オティアがいぶかしげにこっちを見てる。何の用だ? と言わんばかりだ。
ええい、しおらしく迷ってる暇もありゃしない。ここで渡さなけりゃさっさとこいつは部屋に戻ってしまう。
「お前たちに見てほしいものがあるんだ。これ……」
不幸てんこ盛りの一日の収穫を居間のテーブルの上に置いて、そっと双子に向けて滑らせる。紫の瞳が4つ、クリアファイルの表面を走り、透明なケースの中の文字を読みとってゆくのがわかった。
さっと一通り読み終えたのだろう。シエンが小さく声をあげ、目を見開いた。
「え、これ俺たちの親?」
(そうだよ、お前たちのママはお前たちそっくりの美人だった……)
思っても言わない。ただうなずいて、記事の書かれた大会より後に起きたことを捕捉するに留める。
「サラエフってのは、お前たちのママの結婚前の苗字だよ。この大会の3年後に結婚したんだ」
オティアは何も言わず熱心に記事を読んでいる。クリアファイルごと手にとって、隅から隅まで。目にした文字は何でも読むってか。ああまったく本の虫だね、お前ってやつは!
「俺こんなの全然知らない」
「そうだな……直接知ってる人でなきゃ教えようがないし。書類には名前と生年月日ぐらいしか残らないからな」
「……うん。これ、どうしたの?」
「たまたま買った古雑誌に切り抜きの一部がはさまってたんだ。見覚えのある名前だなって思って、それで、知り合いの雑誌社で探したら、あった」
嘘は言っちゃいない。間にあった紆余曲折を省いただけだ。
「ありがと、ヒウェル」
ああ、良かった、笑ってくれたな、シエン……だけど、瞳の奥に、仕草の端々に、わずかに戸惑う気配がある。
どうやら、説明を聞いてもぴんと来ないらしい。目の前の新聞記事に書かれた「ヒース・ガーランドとメリッサ・サラエフのペア」が自分たちの両親だと。
無理もない。両親が亡くなった時、二人ともまだ三歳だった。施設から里親、また施設へ。あちこちを転々としたせいで、自分達の親のことなんか教えてくれる人がいなかったんだろう。
生まれた場所から遠ざかるにつれて、縁ある人々との繋がりも微かなものとなり、苗字も変わって……そして親と言う単語の意味が、自分の体を構成する物質と、書類上の文字に縮小されて行った。
改めて、思う。
ただ親子と言うだけで無条件にあたたかな翼の下に守られ、愛された記憶はこいつらにはほとんどないのだ。
「覚えてる?」
シエンに聞かれて、オティアが小さな声で答えた。
「……いや」
シエンは何か言いたそうな顔をしたが、結局、何も言わなかった。
「にゃー!」
頭上から甲高い澄んだ声が降って来る。
「どこだ?」
「あそこ」
カーテンレールの上で、白いお姫様が四つ足を踏ん張って得意げな顔をしていらっしゃる。どうやらオティアが食堂から出てくるのを待つ間、フリークライミングにいそしんでおられたらしい。
だだだだ、どどどどど。
オーレはカーテンレールの上を全力疾走、端にたどりつくとくるりとUターンしてまたどどどどっと走る。尻尾をぴーんと立てて、目をきらきら輝かせて、ものすごく楽しそうだ。
首輪に下げた金色の鈴がちりちりと鳴る。まるでサンタクロースのトナカイだ。かなり賑やかなはずなのだが、不思議なことにちっともうるさいとか、耳障りだ、とは感じなかった。
しかしこれ、今はちっちゃな子猫だからいいけれど、大人になってもこの調子で走り回られたら、たまらんだろうなあ。
「そのうちキャットウォーク取り付けた方がいいんじゃね、まま?」
「考えとく」
「……オーレ」
オティアに呼ばれた瞬間、オーレは耳を立て、勢い良く助走をつけてジャンプ! リーン、と鈴が鳴ったと思ったら、鮮やかにオティアの肩に飛び移っていた。
…………俺を踏み台にして。
「痛っ」
「大げさなやつだな、たかだか子猫にキックされた程度で」
「デリケートなんだよ……」
あの位置からなら俺よりディフのが近いのに、何故に俺を踏み台にするのかオーレよ。
加えて故意か偶然か、はたまたこれも女難の一部か。彼女が踏み切ったのはジャスト火傷の上だった。
ぷにぷにの柔らかな子猫の足の裏とは言え、ちっぽけな足先に体重がかけられていた。しかも踏切りの強いことといったら、一流のアスリートばりだぜ、このお姫様は……。
部屋に帰ったら救急箱開けるか。これじゃシャワーもおちおち浴びられねえ。
顔をしかめながらテーブルの上に視線を落すと、記事を入れたクリアファイルが消えていた。
あれ、どこだ?
あった。オティアが持ってる。しっかりと手に持っている。
ふうっと安堵の息がこぼれる。夕方からずっと、肩からこめかみにかけて張りつめていた嫌な強ばりが、抜けた。
オティアはオーレを頭に乗せたまま、すたすたと歩いて行く。にやつきそうになる奥歯を噛みしめて見ていると……
「…………」
すれ違いざまにびしっと容赦無く腕を叩かれた。ご丁寧に火傷してる方を。
「いでえええっ!」
「邪魔」
ぼそっとつぶやくと、振り向きもせず行ってしまった。
ああ、まったく報われねえなあ、おい! 一日の締めくくりぐらい綺麗に終わらせてくれたっていいだろうにっ!
額に手をやって、ふと気づく。
「………あれ? 痛く……ない?」
フィルに殴られた後も。踏み切った瞬間にぷっつり刺さったオーレの爪痕も、そして腕の火傷も、全然痛くない!
半ば夢見ているような気持ちで頬を撫でる。腫れが完全に引いていた。試しにシャツの左袖をめくってみる。
…………………………火傷が、消えてる。
治してくれたんだ。
(せめてありがとうぐらい、言わせてほしかったなあ、オティア)
散々な一日だったけど、最後が幸せなら問題ない。
やっぱり予言なんざアテにならないもんだよ、うん。
※ ※ ※ ※
浮かれるヒウェルの背後で、シエンが微妙な表情を浮かべていた。戸惑い、困惑、驚き、そしてほんの少しの苦みが入り交じる。
すれ違い様、明らかにオティアは持てる力を全開にしてヒウェルを治して行ったから………。
一方、部屋に戻ったオティアは改めて新聞記事に目を通した。
冷たい氷のほとりで白い頬を真っ赤に染めてにこにこ笑っていた人がいた。
リンクサイドでいつも青い手袋をしていた。自分とシエンの頬をかわるがわる青い手袋をはめた手でつつみこんで、ほおずりをして、キスをしてくれた。
『これ、おねがいね』
手袋をはずして、自分たちに片方ずつ渡して……それからくるりと身を翻し、氷の上に駆けて行った。まるで空を飛ぶように軽やかな足どりで。
シエンが後を追いかけようとすると、いつもこう言っていた。
『今はまだ早いわ。いつかもう少し大きくなって、スケート靴を一人で履けるようになったらね』
その『いつか』が来ないまま、自分たちは二人きりになってしまった……。
昔のことだ。
もう過ぎたことだ。今の自分には関係ない。
左の手を開き、また握る。手のひらが火照っている。全力で力を出した瞬間の余波がまだ残っているような気がした。
ヒウェルの傷を治したのは、飼い主の責任だ。少しはお礼の意味もあるけれど。
迷子のオーレを探していた時に助けてもらったこと。
青い目覚まし時計。
そして両親の新聞記事と。
まとめて清算したまでのこと。
「みゅ……」
くしくしとオーレが頬に顔を掏り寄せている。肩に手を回して撫でた。
これで、すっきりした。
(火難水難女難男難/了)
次へ→【4-6】有能執事**する