▼ 【4-5-1】予言なんて気にしない
「んがぁっ」
その瞬間、真っ白に燃え尽きた。
がくん、と顎が落ちる。ついでに手にしたメモ帳とペンも床に落ち、静まり返った会場にカツーンと乾いた音を響かせた。
目の前には時計を使ったオブジェ。大人の背丈ほどの高さの柱時計の振り子の部分には、ぎっしりと青い目覚まし時計が詰まっている。
丸い文字盤、上部に二つのベルとハンマー、色はつやつやした青。そう、忘れもしない9/10に必死になって俺とサリーがシスコ中をさがし回ったあの時計が………。
※月梨さん画「燃え尽きるへたれ眼鏡」
現場はサンフランシスコ現代美術館。赤レンガの外壁に斜めに傾いだ巨大な円形の天窓、中味にも外見にもモダンな芸術の香りあふれるこの建物にやってきたのはひとえに仕事のためだった。
顔馴染みの編集者に頼まれて、ピンチヒッターで新進気鋭の若きアーティストたちの作品を展示した特別展の取材にやって来て、問題の一品に出くわしちまったのである。
ソニックウェーブ級の最初の衝撃が通りすぎると、ようやく口元に引きつった笑みが浮かんだ。
そりゃあもう、出て来る途中で喉にひっかかりそうなかっさかさに乾いた笑みが。
「は、はは、そうか……どっかのアーティストがオブジェの素材にするために買い占めてやがったんだな……」
落ち着けヒウェル。今は仕事中だ。いい年こいた社会人がここで暴れて芸術作品をたたき壊したらそれなりに問題だ。
所詮は大量生産品、まあこんな事もあるよなと無理矢理自分を落ち着かせつつ屈み込んで床に落ちたメモ帳とペンを拾い上げる。
ふと、タイトルが目に入った。
『the Maternity』
「そうか、これが『女難』ってやつか……」
※ ※ ※ ※
遡ること前日。
いつものように中華街をうろうろしていると、知り合いのお茶屋の亭主に呼び止められた。
別に珍しいことじゃない。よくある事だ。
『元気かい?』『お茶でも飲んでく?』『これ試供品だけどよかったら試してみる?』そんな所だろう。さして深くも考えずに近づいて行った。
「メイリールさんちょっとちょっと! うちのひいおじいちゃんが話があるって」
「何だい?」
お茶屋の亭主の顔からいつものふくふくした愛想笑いが消える。細い目をいっそう細くして声を潜めて囁いてきた。
「あなた良くない相が出てるから気をつけた方がいいって」
「良くない相ねえ……どんな?」
「水難と、火難と、あと女難の相が出てるって」
真剣なまなざしの亭主の隣では、白いヒゲをたくわえた爺様(彼は英語があまり得意ではなかった)が厳かにうなずいている。
へっと鼻で笑っちまった。
「水難火難はともかく俺はゲイだぜ? 女難はお呼びじゃないよ」
すると爺様は亭主に向かって何やら中国語で話しかけた。
「……男難も」
「マジ? どーすりゃ回避できる」
「これあげる」
「……お守り?」
「いや、お菓子。落ち込んだ時には甘いもの食って元気出して」
「………………………落ち込むような状況に陥ることは既に確定な訳ね」
手渡された四角い包みをポケットに突っ込み、手を振って歩き出す。白ヒゲの爺様とお茶屋の亭主の妙に慈愛に満ちたまなざしに見送られて……。
そーいやあの爺さん、今でこそ引退しちゃいるが、良く当たる占い師としてあの近辺じゃ有名だったな。あれ、それとも風水師だったっけか?
いまいち違いがわからんが、どのみち予言なんざ気にしない。
でも、ちょいと場所は変えてみようかな。
※ ※ ※ ※
カランコロンと穏やかな響きのドアベルに迎えられ、やってきたのはエドワーズ古書店。古い本のにおいに静かな空気、そして美人の看板猫。
長い尻尾をくねらせて足元にすり寄るリズを静かになでる。
「よう、リズ。元気?」
「にゃ……」
「オーレは元気だよ。最近はカーテンをよじのぼってレールの上を走るのがお気に入りだ」
なごやかに挨拶をしていると、目の前にぬっと磨かれた革靴が突き出された。ぴしっと折り目のついたダークグレイに細いストライプの入ったズボン、その上には黒のベストに白いシャツ、さらにその上には金髪にライムグリーンの瞳の店主の顔。
「ども、Mr.エドワーズ」
「これはこれはMr.メイリール。いらっしゃい」
いつもの営業スマイル、だが、なんつーか、こう……微妙に棘生えてるように感じるのは気のせいだろうか?
「オーレ、元気っすよ」
「……そうですか」
お、ふっと穏やかな目になった。やっぱ気のせいだったかな。
「この間、サリーんとこで無事マイクロチップも入れてきて。昼間はオティアと一緒に探偵事務所に出勤してるし」
「そうですか」
あれ。また、棘が生えたような……何で?
まさかこれが男難? いやいやいや。気のせいだ、そうに決まってる。俺は二十一世紀に生きる健全なアメリカ市民だ。中国の歴史と文化に敬意は払うが基本的には科学を信望している。
予言なんざ知ったこっちゃない!
「このペーパーバック、こっからここまで全部ください」
「ありがとうございます」
吟味もそこそこに、がばっと興味ありそうな一角をまとめてレジに持ってって。会計をすますのもそこそこに店を出た。
っかしいなあ。俺、あの人に、何か、したか?
※ ※ ※ ※
家に帰ってから収穫を確認する。やっぱり確かめずに買って来るもんじゃない。既に持ってる本とだぶってるのがあった……しかも3冊も。
せめて出版社なり、カバーが違うなりすればまだバリエーションと割り切ることもできたのだが、あいにくと社も一緒、カバーも同じ。
まあこんな事もあらあな。読書用と保存用が確保できたと思うか。しかしこれだから本が増えるんだよなあ。
ぶつくさぼやきつつページをめくっていると、はらりと一枚の切り抜きが落ちる。
何だこれ。新聞か? 拾い上げると、料理のレシピだった。『スイートポテト入りコーンブレッド』。何だかやたらと腹にたまりそうなレシピだ。
本の前の持ち主は一家の台所を仕切る母親だったのだろうか。それも食べ盛りの息子を抱えた……。
ディフに持ってってやろうかな。だがこの手のレシピは既に奴のお袋さんから伝授されていそうな気がしないでもない。いかにもあの人の好みそうな献立だし。
くすっと笑いながら何気なく切り抜きをひっくり返すと、裏面はスポーツ欄らしかった。
氷の上でのびやかに踊る一組の男女の写真。フィギュアスケートか。
モノクロだが女性の髪の毛の色は明るい。おそらくは金髪か。短いスカートを翻し、細い足を伸ばした彼女の顔にふと、目が引き寄せられた。
…………………似ている。
この目、口元、鼻、唇の形、そして顎のライン。オティアとシエンにそっくりだ!
ただの他人のそら似なんてもんじゃない。遺伝子レベルでの相似性を感じる。(って別にDNA鑑定したわけじゃないが!)
食い入るように記事を読む。あいにくと一部分しかない。いつ、どこの大会なのかはわからなかったが、それでも写真のペアの名前はわかった。
ヒース・ガーランドとメリッサ・サラエフ。それが二人の名前。
オティアとシエンの両親の名前は確か、ヒース・ガーランドとメリッサ・ガーランド……間違いない。あの二人の両親の、若い頃の写真だ。
そうか、フィギュアの選手だったんだ。お袋さん、美人だな。ロシア系か? 良く見ると親父さんも似てるな……意志の強そうな表情がオティアにそっくりだ。
俺の両親の遺品はほとんど残っていない。
名前と年齢を記した事務的な書類と古いブローチぐらいなもんだ。写真は一枚も残ってはいない。
死に別れたのは五歳の時だった。俺は両親の顔も声も覚えちゃいない。二人が生前何をしていたのか。どこからサンフランシスコにやって来たのかは……今となっては確かめる術もない。
もし親の写真や映像、声が残っていたら。俺ならどんなかすかな痕跡でも見たいと思う。
だけどあいつらはどうだろう?
オティアはどうなんだろう?
自分にそっくりの母親の写真を見てさえ凄まじい過去に結びついたりしないか。よかれと思ってやったことでもあいつに嫌な思いをさせちまったら意味はない。
最近は医者通いの成果が徐々に出ているのか、イライラする頻度も下がって来ているようだが、まだまだ油断は禁物だ。
一枚の薄っぺらな新聞の切り抜きは、長い年月を経て劣化していたが、それでも比較的きれいな状態に保たれていた。
表面を指でなぞる。
オティアは扱いづらい子どもだ。
彼に近づく者は少ない。増して内側にまで踏み込もうとする人間に至っては……。
最初のうちは不憫と思い手を伸ばしてほほ笑みかけても、いつかは忍耐がすり切れる。
何を言っても。何をしても。奴の心には届かない。何か一つアクションを起こしても、表情を変えずに淡々としている。さもなくば無視するか、いら立つか。
表面さえかすりはしない。それどころか苦しめているだけなのだと知った時の絶望や苛立ちは決して小さなものでは終わらない。
口を開けば出る言葉は極めて攻撃的。自分自身にさえ隠しておきたい、己の最も後ろ暗い本質をずきりと抉る鋭い言葉。
そんなはずがない。
否定しながら腹の奥底で怯え、その怯えこそが思い知らせる。彼の言葉は、真実なのだと。そのことに気づいた瞬間、今まで優しくしていた人間は手のひらを返したように冷たく無慈悲になり、容赦無く彼を切り捨てる。
はい、ここまで。そこでおしまい。そうやって、ずっとあちこちさまよってきたのだろう。
俺にしたって何度思ったことか。
放り出して背を向けて、二度と関わらないのが奴にとっても俺にとっても「たったひとつの冴えたやり方」なんじゃないかって。
だが、そいつを選ぶ予定も意志も一切無い。絶対御免。そんな事するぐらいなら最初っから手なんか伸ばしちゃいねえ。
(……馬鹿だな、俺)
時折ふと、ろくでもない幻想にとりつかれる瞬間がある。
何処か遠く高い場所から、何もかも見通すだれかが俺を指さしあざけり、腹をかかえて笑っているんじゃないかって。
(ただ一度、弱々しく手を握られたあの瞬間。あれだけで、一生を投げ出してもいいと思った。俺にとってオティアはそれだけの価値があると)
その気持ちは今も変わらない。だから動く。嫌な顔されようが。うざがられようが。
いっそレオンのように割り切ることができたら………無理だ。ディフのようにお袋みたいな愛情で包み込む、なんてぇのは初っ端から範疇の外。
だから俺は俺のやり方で動く。それしかない。
また、余計な真似をしようとしているのかも知れない。だけど。
進め、進め、前に進め。
決して後ろを振り向くな。
せめてこの新聞記事を完全な状態で見つけたい。あいつらに見せてやりたい。
これがお前たちの両親なんだよって……教えてやりたいと思った。無味乾燥な書類に書かれた名前以上の事実を知らせてやりたいって。
「写真がまずけりゃ、見せなきゃいいんだ」
よし、決めた。
探すぞ。
※ ※ ※ ※
フィギュアスケートもアイスダンスもアメリカでは人気の高い競技だ。人々の関心が高けりゃ自ずと情報も記録もそれだけ多く記される。
おそらくスケート連盟に問い合わせれば詳しい記録が残っているだろう。だが、あいにくと俺はスポーツ面へのツテは……薄かった。
一応、これでも社会派で通してるからな。(地域密着型だけど)
少なくとも、いきなりアポ無しで押しかけて「この人とこの人のことについて教えてくださーい」と気軽に声をかけられるレベルではない。
こう言う時は、あれだな。『餅は餅屋』、そっち方面に得意な奴に任せるに限る。
そんな訳で馴染みの出版社に足を運び、我が盟友にして穏やかな口当たりの割には情け容赦なく原稿を取り立てる敏腕編集者、ジョーイ・グレシャムを訪ねることにした。
「よう、ジョーイ。元気か?」
「あれ、ヒウェル。どしたの、確か、今はお前さんに依頼してるお仕事はなかったはずだけど?」
「うん……ちょっとね、頼みたいことがあって」
事の次第を聞くとジョーイの奴は話半分も聞かないうちに目をうるうるさせ始め、しまいにゃハンカチでぐしぐしと目元をぬぐっていた。
そう言やこいつは人一倍、涙もろい男だった。
「そうか……ちっちゃい頃に死に別れた両親の面影を探して、ねえ。いいとこあるじゃないか、ヒウェル!」
「まあ、な……」
「常日頃思ってたんだよ、お前さんのその人に知られたくない後ろ暗い事実をことごとく追いかける執念をさあ、たまには世の為人の為に使えって!」
「えらい言われようだね、おい」
「だって、事実だし?」
派手な音を立てて鼻をかむとジョーイはシステム手帳をとりだし、ぺらぺらとめくり始めた。
「OK、そう言うことなら及ばずながらお力添えしましょう! でもその代わりといっちゃ何だけど、ちょーっと手ぇ貸してもらえる? そうすりゃ時間取れるんだけどな、俺も!」
「いいぜ? 話せよ。何をすればいい」
「さっすが話が早いね。実はさ、一件取材に行って記事まとめて欲しいんだ。アポも段取りもつけてあるんだけど、担当者が急に行けなくなっちゃってねえ」
「おやまあ。風邪でもひいたか、それともダブルブッキングか?」
「いや、ぎっくり腰。さっき病院にかつぎこまれたトコ」
腰痛、眼精疲労、頭痛。いずれも記者の職業病だ。人ごとじゃないやね、いやはや気の毒に……。
「わかった、引き受けましょう。その代わり、ガーランド夫妻の件はよろしくたのむよ」
「OK、そっちは任せてちょうだい! 双子ちゃんのためにもね……料金はいつもの相場でよろしい?」
「OK、いつもの相場で」
人懐っこい笑みを浮かべるジョーイと堅い堅い握手を交わす。これにて商談成立。
「それで、俺はどこに行けばいい?」
次へ→【4-5-2】ブルーな気分でスプラッシュ
その瞬間、真っ白に燃え尽きた。
がくん、と顎が落ちる。ついでに手にしたメモ帳とペンも床に落ち、静まり返った会場にカツーンと乾いた音を響かせた。
目の前には時計を使ったオブジェ。大人の背丈ほどの高さの柱時計の振り子の部分には、ぎっしりと青い目覚まし時計が詰まっている。
丸い文字盤、上部に二つのベルとハンマー、色はつやつやした青。そう、忘れもしない9/10に必死になって俺とサリーがシスコ中をさがし回ったあの時計が………。
※月梨さん画「燃え尽きるへたれ眼鏡」
現場はサンフランシスコ現代美術館。赤レンガの外壁に斜めに傾いだ巨大な円形の天窓、中味にも外見にもモダンな芸術の香りあふれるこの建物にやってきたのはひとえに仕事のためだった。
顔馴染みの編集者に頼まれて、ピンチヒッターで新進気鋭の若きアーティストたちの作品を展示した特別展の取材にやって来て、問題の一品に出くわしちまったのである。
ソニックウェーブ級の最初の衝撃が通りすぎると、ようやく口元に引きつった笑みが浮かんだ。
そりゃあもう、出て来る途中で喉にひっかかりそうなかっさかさに乾いた笑みが。
「は、はは、そうか……どっかのアーティストがオブジェの素材にするために買い占めてやがったんだな……」
落ち着けヒウェル。今は仕事中だ。いい年こいた社会人がここで暴れて芸術作品をたたき壊したらそれなりに問題だ。
所詮は大量生産品、まあこんな事もあるよなと無理矢理自分を落ち着かせつつ屈み込んで床に落ちたメモ帳とペンを拾い上げる。
ふと、タイトルが目に入った。
『the Maternity』
「そうか、これが『女難』ってやつか……」
※ ※ ※ ※
遡ること前日。
いつものように中華街をうろうろしていると、知り合いのお茶屋の亭主に呼び止められた。
別に珍しいことじゃない。よくある事だ。
『元気かい?』『お茶でも飲んでく?』『これ試供品だけどよかったら試してみる?』そんな所だろう。さして深くも考えずに近づいて行った。
「メイリールさんちょっとちょっと! うちのひいおじいちゃんが話があるって」
「何だい?」
お茶屋の亭主の顔からいつものふくふくした愛想笑いが消える。細い目をいっそう細くして声を潜めて囁いてきた。
「あなた良くない相が出てるから気をつけた方がいいって」
「良くない相ねえ……どんな?」
「水難と、火難と、あと女難の相が出てるって」
真剣なまなざしの亭主の隣では、白いヒゲをたくわえた爺様(彼は英語があまり得意ではなかった)が厳かにうなずいている。
へっと鼻で笑っちまった。
「水難火難はともかく俺はゲイだぜ? 女難はお呼びじゃないよ」
すると爺様は亭主に向かって何やら中国語で話しかけた。
「……男難も」
「マジ? どーすりゃ回避できる」
「これあげる」
「……お守り?」
「いや、お菓子。落ち込んだ時には甘いもの食って元気出して」
「………………………落ち込むような状況に陥ることは既に確定な訳ね」
手渡された四角い包みをポケットに突っ込み、手を振って歩き出す。白ヒゲの爺様とお茶屋の亭主の妙に慈愛に満ちたまなざしに見送られて……。
そーいやあの爺さん、今でこそ引退しちゃいるが、良く当たる占い師としてあの近辺じゃ有名だったな。あれ、それとも風水師だったっけか?
いまいち違いがわからんが、どのみち予言なんざ気にしない。
でも、ちょいと場所は変えてみようかな。
※ ※ ※ ※
カランコロンと穏やかな響きのドアベルに迎えられ、やってきたのはエドワーズ古書店。古い本のにおいに静かな空気、そして美人の看板猫。
長い尻尾をくねらせて足元にすり寄るリズを静かになでる。
「よう、リズ。元気?」
「にゃ……」
「オーレは元気だよ。最近はカーテンをよじのぼってレールの上を走るのがお気に入りだ」
なごやかに挨拶をしていると、目の前にぬっと磨かれた革靴が突き出された。ぴしっと折り目のついたダークグレイに細いストライプの入ったズボン、その上には黒のベストに白いシャツ、さらにその上には金髪にライムグリーンの瞳の店主の顔。
「ども、Mr.エドワーズ」
「これはこれはMr.メイリール。いらっしゃい」
いつもの営業スマイル、だが、なんつーか、こう……微妙に棘生えてるように感じるのは気のせいだろうか?
「オーレ、元気っすよ」
「……そうですか」
お、ふっと穏やかな目になった。やっぱ気のせいだったかな。
「この間、サリーんとこで無事マイクロチップも入れてきて。昼間はオティアと一緒に探偵事務所に出勤してるし」
「そうですか」
あれ。また、棘が生えたような……何で?
まさかこれが男難? いやいやいや。気のせいだ、そうに決まってる。俺は二十一世紀に生きる健全なアメリカ市民だ。中国の歴史と文化に敬意は払うが基本的には科学を信望している。
予言なんざ知ったこっちゃない!
「このペーパーバック、こっからここまで全部ください」
「ありがとうございます」
吟味もそこそこに、がばっと興味ありそうな一角をまとめてレジに持ってって。会計をすますのもそこそこに店を出た。
っかしいなあ。俺、あの人に、何か、したか?
※ ※ ※ ※
家に帰ってから収穫を確認する。やっぱり確かめずに買って来るもんじゃない。既に持ってる本とだぶってるのがあった……しかも3冊も。
せめて出版社なり、カバーが違うなりすればまだバリエーションと割り切ることもできたのだが、あいにくと社も一緒、カバーも同じ。
まあこんな事もあらあな。読書用と保存用が確保できたと思うか。しかしこれだから本が増えるんだよなあ。
ぶつくさぼやきつつページをめくっていると、はらりと一枚の切り抜きが落ちる。
何だこれ。新聞か? 拾い上げると、料理のレシピだった。『スイートポテト入りコーンブレッド』。何だかやたらと腹にたまりそうなレシピだ。
本の前の持ち主は一家の台所を仕切る母親だったのだろうか。それも食べ盛りの息子を抱えた……。
ディフに持ってってやろうかな。だがこの手のレシピは既に奴のお袋さんから伝授されていそうな気がしないでもない。いかにもあの人の好みそうな献立だし。
くすっと笑いながら何気なく切り抜きをひっくり返すと、裏面はスポーツ欄らしかった。
氷の上でのびやかに踊る一組の男女の写真。フィギュアスケートか。
モノクロだが女性の髪の毛の色は明るい。おそらくは金髪か。短いスカートを翻し、細い足を伸ばした彼女の顔にふと、目が引き寄せられた。
…………………似ている。
この目、口元、鼻、唇の形、そして顎のライン。オティアとシエンにそっくりだ!
ただの他人のそら似なんてもんじゃない。遺伝子レベルでの相似性を感じる。(って別にDNA鑑定したわけじゃないが!)
食い入るように記事を読む。あいにくと一部分しかない。いつ、どこの大会なのかはわからなかったが、それでも写真のペアの名前はわかった。
ヒース・ガーランドとメリッサ・サラエフ。それが二人の名前。
オティアとシエンの両親の名前は確か、ヒース・ガーランドとメリッサ・ガーランド……間違いない。あの二人の両親の、若い頃の写真だ。
そうか、フィギュアの選手だったんだ。お袋さん、美人だな。ロシア系か? 良く見ると親父さんも似てるな……意志の強そうな表情がオティアにそっくりだ。
俺の両親の遺品はほとんど残っていない。
名前と年齢を記した事務的な書類と古いブローチぐらいなもんだ。写真は一枚も残ってはいない。
死に別れたのは五歳の時だった。俺は両親の顔も声も覚えちゃいない。二人が生前何をしていたのか。どこからサンフランシスコにやって来たのかは……今となっては確かめる術もない。
もし親の写真や映像、声が残っていたら。俺ならどんなかすかな痕跡でも見たいと思う。
だけどあいつらはどうだろう?
オティアはどうなんだろう?
自分にそっくりの母親の写真を見てさえ凄まじい過去に結びついたりしないか。よかれと思ってやったことでもあいつに嫌な思いをさせちまったら意味はない。
最近は医者通いの成果が徐々に出ているのか、イライラする頻度も下がって来ているようだが、まだまだ油断は禁物だ。
一枚の薄っぺらな新聞の切り抜きは、長い年月を経て劣化していたが、それでも比較的きれいな状態に保たれていた。
表面を指でなぞる。
オティアは扱いづらい子どもだ。
彼に近づく者は少ない。増して内側にまで踏み込もうとする人間に至っては……。
最初のうちは不憫と思い手を伸ばしてほほ笑みかけても、いつかは忍耐がすり切れる。
何を言っても。何をしても。奴の心には届かない。何か一つアクションを起こしても、表情を変えずに淡々としている。さもなくば無視するか、いら立つか。
表面さえかすりはしない。それどころか苦しめているだけなのだと知った時の絶望や苛立ちは決して小さなものでは終わらない。
口を開けば出る言葉は極めて攻撃的。自分自身にさえ隠しておきたい、己の最も後ろ暗い本質をずきりと抉る鋭い言葉。
そんなはずがない。
否定しながら腹の奥底で怯え、その怯えこそが思い知らせる。彼の言葉は、真実なのだと。そのことに気づいた瞬間、今まで優しくしていた人間は手のひらを返したように冷たく無慈悲になり、容赦無く彼を切り捨てる。
はい、ここまで。そこでおしまい。そうやって、ずっとあちこちさまよってきたのだろう。
俺にしたって何度思ったことか。
放り出して背を向けて、二度と関わらないのが奴にとっても俺にとっても「たったひとつの冴えたやり方」なんじゃないかって。
だが、そいつを選ぶ予定も意志も一切無い。絶対御免。そんな事するぐらいなら最初っから手なんか伸ばしちゃいねえ。
(……馬鹿だな、俺)
時折ふと、ろくでもない幻想にとりつかれる瞬間がある。
何処か遠く高い場所から、何もかも見通すだれかが俺を指さしあざけり、腹をかかえて笑っているんじゃないかって。
(ただ一度、弱々しく手を握られたあの瞬間。あれだけで、一生を投げ出してもいいと思った。俺にとってオティアはそれだけの価値があると)
その気持ちは今も変わらない。だから動く。嫌な顔されようが。うざがられようが。
いっそレオンのように割り切ることができたら………無理だ。ディフのようにお袋みたいな愛情で包み込む、なんてぇのは初っ端から範疇の外。
だから俺は俺のやり方で動く。それしかない。
また、余計な真似をしようとしているのかも知れない。だけど。
進め、進め、前に進め。
決して後ろを振り向くな。
せめてこの新聞記事を完全な状態で見つけたい。あいつらに見せてやりたい。
これがお前たちの両親なんだよって……教えてやりたいと思った。無味乾燥な書類に書かれた名前以上の事実を知らせてやりたいって。
「写真がまずけりゃ、見せなきゃいいんだ」
よし、決めた。
探すぞ。
※ ※ ※ ※
フィギュアスケートもアイスダンスもアメリカでは人気の高い競技だ。人々の関心が高けりゃ自ずと情報も記録もそれだけ多く記される。
おそらくスケート連盟に問い合わせれば詳しい記録が残っているだろう。だが、あいにくと俺はスポーツ面へのツテは……薄かった。
一応、これでも社会派で通してるからな。(地域密着型だけど)
少なくとも、いきなりアポ無しで押しかけて「この人とこの人のことについて教えてくださーい」と気軽に声をかけられるレベルではない。
こう言う時は、あれだな。『餅は餅屋』、そっち方面に得意な奴に任せるに限る。
そんな訳で馴染みの出版社に足を運び、我が盟友にして穏やかな口当たりの割には情け容赦なく原稿を取り立てる敏腕編集者、ジョーイ・グレシャムを訪ねることにした。
「よう、ジョーイ。元気か?」
「あれ、ヒウェル。どしたの、確か、今はお前さんに依頼してるお仕事はなかったはずだけど?」
「うん……ちょっとね、頼みたいことがあって」
事の次第を聞くとジョーイの奴は話半分も聞かないうちに目をうるうるさせ始め、しまいにゃハンカチでぐしぐしと目元をぬぐっていた。
そう言やこいつは人一倍、涙もろい男だった。
「そうか……ちっちゃい頃に死に別れた両親の面影を探して、ねえ。いいとこあるじゃないか、ヒウェル!」
「まあ、な……」
「常日頃思ってたんだよ、お前さんのその人に知られたくない後ろ暗い事実をことごとく追いかける執念をさあ、たまには世の為人の為に使えって!」
「えらい言われようだね、おい」
「だって、事実だし?」
派手な音を立てて鼻をかむとジョーイはシステム手帳をとりだし、ぺらぺらとめくり始めた。
「OK、そう言うことなら及ばずながらお力添えしましょう! でもその代わりといっちゃ何だけど、ちょーっと手ぇ貸してもらえる? そうすりゃ時間取れるんだけどな、俺も!」
「いいぜ? 話せよ。何をすればいい」
「さっすが話が早いね。実はさ、一件取材に行って記事まとめて欲しいんだ。アポも段取りもつけてあるんだけど、担当者が急に行けなくなっちゃってねえ」
「おやまあ。風邪でもひいたか、それともダブルブッキングか?」
「いや、ぎっくり腰。さっき病院にかつぎこまれたトコ」
腰痛、眼精疲労、頭痛。いずれも記者の職業病だ。人ごとじゃないやね、いやはや気の毒に……。
「わかった、引き受けましょう。その代わり、ガーランド夫妻の件はよろしくたのむよ」
「OK、そっちは任せてちょうだい! 双子ちゃんのためにもね……料金はいつもの相場でよろしい?」
「OK、いつもの相場で」
人懐っこい笑みを浮かべるジョーイと堅い堅い握手を交わす。これにて商談成立。
「それで、俺はどこに行けばいい?」
次へ→【4-5-2】ブルーな気分でスプラッシュ