ようこそゲストさん

ローゼンベルク家の食卓

メッセージ欄

分類 【番外】 で検索

一覧で表示する

【ex5-2】ヨーコの休日

2008/08/04 14:17 番外十海
 
 まぶたを開けた瞬間、携帯のアラームが鳴り始めた。
 お気に入りの着うたが1フレーズ鳴り終わるまで布団の中で聞き入ってから、ヨーコこと結城羊子はむくっと起きあがった。

 まったく規則正しい生活習慣ってのはある意味こまったもんだ。休みの日でも抜けちゃくれない。
 二次会であれほどはしゃいだはずなのに、いつもと同じ6時30分きっちりに目が覚めるなんて……。
 しかも、着物はちゃんと脱いで持参した衣紋掛けにかかってるし、寝間着用の綿のキャミソールとショートパンツに着替えている。化粧も落し、コンタクトも外してある。髪の毛をほどいているのは言わずもがな。
 
 えらいぞ、自分。
 のそのそと起きあがってからふと大事なことに気づいた。
 ここ、アメリカじゃない!

 律儀に7時30分までに起きたところで、ボウケンジャーが見られるわけじゃないんだってば……パワーレンジャーならともかく。

 試しにベッドにひっくり返ったままテレビをつけてみたが、子どもむけのカートゥーンしかやっていなかった。何か見覚えがあるなと思ったら日本のコンピューターゲームをアメコミ調にした物だったりして。
 ああ、これなら純アメリカ産の方がどんなによかったか。なまじ元ネタを知ってるだけに、見続けるのがつらい。

 他にもいくつかチャンネルを回してみて、結局消した。
 まだぼーっとしている頭では、母国語以外の番組を理解するのは少々きつかった。 

 どうしよう。
 もう一眠りしちゃおっかな……でも、ここで寝たら最後、午前中いっぱい行動不可能になるのは目に見えている。
 それだけは避けたい。時間がもったいない。明日の飛行機で日本に帰るんだし……。

 よし、動くぞ。

 意を決してヨーコはぴょんっとベッドから飛び起きた。
 バスルームに入り、バスタブに熱いお湯を満たす。
 とにかく、まずはお風呂に入ろう。体温と血圧が上昇すれば少しは頭がすっきりする。仕上げに朝ご飯をしっかり食べてっと……。

 アメリカ人用の設備は何もかもゆったり大きめに作られていて、狭苦しいはずのホテルのバスタブも小柄なヨーコにはかなりゆとりがある。
 たっぷり温まってから湯につかったまま体を洗い、シャワーを浴びた。
 風呂から上がり、備え付けのバスローブを羽織る頃にはだいぶ頭がはっきりしてきた。

 さーて、今日は一日フリーだ。どこにゆこっかな……。
 のんびりショッピングに行くか。
 ベタにゴールデンゲートブリッジ公園あたりまで足伸ばすか……Zeumのあのでっかい回転木馬にも久々に乗ってみたいなー。

 冷蔵庫から取り出したボトルウォーターを喉に流し込んでいると、きゅるるぅ……と腹の虫が鳴いた。

「その前に、ご飯食べなきゃね」

 バスローブを脱ぎ、衣服を身につける。
 薄手のデニム地のクロップドパンツに赤い木綿のキャミソール、上から白のシャツジャケットを羽織る。
 髪の毛はポニーテールにするかシニョンにするか……いっそツーテイル……いやいやそれはいくらなんでも。

 ポニーにしよう。たまにはいいよね。

 学校では滅多にやらない。生まれついての童顔との相乗効果で、それこそ生徒の中にまぎれこんでしまうから。
 勤務中はメイクも控えめだし、下手すると自分よりしっかりお化粧している生徒もいるし。
 髪の先が襟足につかない程度の位置に結い上げ、軽く黒のゴムで留めてからキャミソールと同じ赤いリボンを結わえた。
 うん、これでよし、と。

 プライベートにつき本日はコンタクトは封印、愛用の赤いフレームの眼鏡をかける。
 ライムグリーンのバッグを肩にかけ、素足をクロックスのメリージェーンタイプのサンダルに突っ込んだ。
 旅行で歩き回る時はこれに限る。適度におしゃれでしかも足を圧迫せず、歩きやすい。
 軽快な足どりでヨーコはホテルの部屋を出た。

 さあ、休日の始まりだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 トーストにコーヒー、卵はスクランブルかサニーサイド、オムレツから選択可、ベーコンはかりかり。サラダからフレッシュなジュース、フルーツまできっちりそろったホテルのレストランの朝食も悪くない。
 けれど今日はもっとカジュアルでボリュームのあるものをざっくりと食べたかった。(ボリュームの点で言えばホテルの朝食もかなりの分量があったが)

 そこで近くのカフェまで足を伸ばし、ライ麦パンにレタスとトマト、ベーコン、卵を挟んだサンドイッチとカフェラッテのVサイズで朝食を取った。
 食べ終えてからビタミンが足りないなと思い返し、追加で小粒のリンゴを一個買い求めてかじりながら歩き出す。
 さすがにこれは日本では無理。そもそも歩きながら食べるのを前提とした丸ごとのフルーツがカフェやコンビニで売ってること自体ほとんどない。

 売ってるリンゴの種類も違う。
 こちらでもっぱら出回っているのは手のひらにすっぽり収まるほどの小粒で果肉のしまった酸味の強いリンゴ。一個丸かじりするのにちょうどいい。
 新鮮な果肉に歯を当てるたびに、ぷしっと果汁が口の中にあふれる。
 他にもいい大人が何人もごく自然に歩きながらリンゴをかじったり、アイスクリームやドーナッツ、ホットドッグを頬張っているから、目立つこともない。
 
 日本人の目から見ればいささか行儀が悪いが、ヨーコはこのアメリカらしい大らかさが気に入っていた。

 そろそろ、リンゴが芯だけになってきた。さて、どこかにゴミ箱はないか、あるいはティッシュで包んでバッグにつっこむか……。
 ちろっと指を舐めながら思案していると。

「あっ」

 横合いの路地からからぬっと出てきた男とぶつかった。こっちも前をよく見ていなかったが向こうは前『しか』見ていなかったらしい。
 要するに相手の方がかなり背が高く、完ぺきに視線がヨーコの頭の上を素通りしていたのだ。
 ちらっと緑の地にレモンイエローの模様か文字が目に入ったと思ったら、がつんと衝撃が来て視界が揺らぐ。
 とっさに足を踏ん張った瞬間、彼女の目は現実から異界へとスライドした。

(やばい)

 ぐにゃりと周囲の景色が。音が。色が歪んで溶け落ちる。全て混じり合い、渦を巻く。

 何が起きたかはすぐにわかった。己の能力に振り回されない様、常に自分をコントロールするやり方を身につけていた。
 だが、これは……あまりに情報の密度が濃すぎる! 自分で読み取る時は意識して観たい時間に焦点を合わせているのだ。
 こんな風に接触した瞬間に洪水みたいに流れてくるのは極めてイレギュラー。許容量を越えている!

 いくつものイメージと思念が練り合わさり、団子になって押し寄せる。濁流に飲み込まれ、なす術もなくもがいた。このままでは沈む。何かにつかまらなければ!
 必死にもがいて浮び上がり、新鮮な空気を呼吸して……手に触れた枝にしがみつく。
 濁流となって荒れ狂う幻想(ヴィジョン)の一つに焦点が合った。

 まず感じたのは強烈な殺意。腑がねじれ、喉から咆哮となってあふれんばかりの憎しみ。

『殺してやる』
『お前の命を断ってやる。存在を抹消してやる!』

 そして怯える少年の姿……白い肌に鳶色の髪と瞳。やせ細り、顔や手、足にぶたれた痣がある。目ばかりがぎょろりと大きく、皮膚を通して頭がい骨の輪郭が透けて見えた。
 怯えた目。苦痛に歪む顔。
 閉じ込められている……出口のない、熱い金属の箱に。もがいても、足掻いても抜け出せない。
 外側からだれかが箱を蹴り着ける。

『お前は犬だ。役立たずの犬なんだよ。このクズが!』

 閉ざされた箱が揺れる。ぐらぐらと。叩き付けられ、手が、足が熱い。喉が焼け、目がくらむ。

 熱い。
 痛い。
 怖い。
 助けて!

 恐怖と嘆き、悲しみ、ありとあらゆる負の感情。それを発する人間そのものをぶつ切りにして放り込み、骨も肉も皮もぐずぐずに崩れるまで煮込んだどろりとした悪夢のスープ。
 一時に流れ込んでくる。視覚、嗅覚、聴覚、触覚、あらゆる感覚を蹂躙し、処理しきれずむせ返る。

(苦し……い……)

 思わず喘いでいた。

(喉が……灼ける………)

 熱い閉ざされた箱が掻き消え、別のヴィジョンが流れ込む。
 優しい甘さが舌の上に広がり、焼けつく乾きを癒してゆく。クマがほほ笑んでる。むくむくの、ぬいぐるみみたいなデフォルメ化されたクマ。
 前足でとろりとした黄金色の液体をたっぷりすくいとっている。

(これは……はちみつ? でもそれだけじゃない。何だろう、やはり甘いもの……)
(アイスクリーム……かな。でも、もっと淡くて、もっと、かすかで……)

 ぽとり、とリンゴの芯が落ちる。
 車の音、自転車のベル、行き交う人の声、ケーブルカーの車輪がレールにこすれる独特の音。サンフランシスコの表通りのざわめきが戻ってきた。

 さよなら、幻想。お帰り、現実。
 あれはおそらく絶望と苦痛の奥底で彼が求めた救いのイメージ。助けを求める少年と同調したのだろう。

「あ……」

 慌てて周囲を見回す。どれぐらいの間、ヴィジョンに飲み込まれていたのだろう?

(一分? それとも数秒?)

 自分に見えるのは過ぎた時間の落す影。既にあれは起きた事だ。どこかに閉じ込められた子どもがいる。
 間に合うだろうか。あの子を、熱い閉ざされた箱から救い出すのに。

(やったのは誰だ?)

 疑わしい人物が一人いる。
 通りすぎる雑踏の向こう側に、緑色のパーカーが遠ざかる。背中に黄色のロゴが印刷されていた。

「ちょっと失礼!」

 運の悪いことに、路上の人の流れはちょうど、ヨーコの進行方向とは逆だった。自分よりはるかに高くそびえ立つ肩やら頭の間をすり抜け、必死に前に進む。
 ようやく逆行する『動く森』を抜けた出した時には息切れがしていた。
 一方、緑と黄のパーカーの男は路肩のパーキングスペースに停めてあった車に乗り込んでいる。
 車が走り出す。 
 さすがにこれは走って追いかける訳には行かない!
 どうする? タクシーでも拾うか?

 その時。
 空いたスペースに一台の車が滑り込んできた。ほどよくマットのかかった上品な銀色、ロゴマークは見慣れたトヨタ、かなりの高級車に入る部類の車種だ。
 運転席のドアが開いて、中から黒いスーツをきちんと着こなした黒髪の男がひょっこり顔を出す。
 ゆるくウェーブのかかった黒髪、ネイビーブルーの瞳。眉のラインの印象的な東欧系のハンサム。

 ヨーコにとっては幸運なことに……そして彼にとっては不運なことに、彼女はこの青年に見覚えがあった。

「Hey,Mr.ランドール!」

 名前を呼ばれて青年が顔を上げる。
 怪訝そうに見返す青い瞳を見つめた。

(そう、そうよ、それでいい……)

 見えない腕を伸ばし、彼の心を捕まえる。手応えを感じた瞬間、きっぱりと言い切った。揺らぎのない意志をこめて、授業をする時と同じくらい、クリアで、迷いのない声で。

「乗せていただける? 緊急事態なの」

 彼はぱちぱちとまばたきをして、助手席のドアを開けてくれた。
 OK。素直な子って大好き。
 するりと乗り込み、シートベルトをしめる。

「あの車を追って!」
「……わかった」

 ランドールは運転席のドアを閉めると再びシートに座り直し、ベルトをしめ……ハンドルを握った。
 銀色の高級車が走り出す。

 ほんと、素直な子って大好き。
 
次へ→【ex5-3】巻き込まれて追跡
拍手する

【ex5-3】巻き込まれて追跡

2008/08/04 14:18 番外十海
 
 カルヴィン・ランドールJr.はとまどっていた。
 詳細は忘れたが何やら幸せな夢を見て目覚めた日曜日の朝。幸せな気持ちを抱えたまま、ふらりと一人で買い物に出た。
 たまたま空いたパーキングスペースに停めようとした瞬間、名前を呼ばれた。まるで学校の先生みたいな、迷いのないクリアな声で。

 言われるままについ、走り出してしまったが、何だって自分はこんな女学生みたいな子に言い負かされて知らない車を追跡してるんだ?

 と、言うかそもそもこの子は誰だ?

 上手い具合に丁度その時、追いかけている車が信号で停止した。2台ほど間を開けて停まり、助手席に目を向けると、彼女が控えめな笑みを浮かべた。

「ごめんなさいね、Mr.ランドール。一刻を争う事態なの」
「君は誰だ? 何故、私の名前を知っているんだ」
「一度お会いしてるんですよ。極めて最近……そう、昨日!」

 昨日。
 土曜日。
 顧問弁護士の結婚式に招かれた。海を見下ろすレストランで。かちり、と記憶の中の一片が目の前の女性に重なった。

「ああ……昨日の……キモノガール」
「Yes.」

 基本的に女性は興味の対象外なのだが、着ていた着物が珍しくて職業柄目を引かれた。星を散らしたような藍色の布に、刺繍で桜の花をあしらった美しい生地だった。
 新品ではない。アンティークと言うほどではないがそれなりの年月を経ていて、それがまたいい風合いを醸し出していた。材質はおそらく絹だろう。
 しかし、何と言う違いだろう。昨日と比べて8歳は若返ったように見えるぞ?
 いや、それどころか下手すればティーンエイジャーと言っても通じそうだ。

「改めて自己紹介しますね。あたしはユウキ・ヨーコ、ディフォレスト・マクラウドとは高校時代の同級生なんです」

 彼女が口にしたのは顧問弁護士の結婚相手の名前だった。なるほど、新婦側の友人だったのだな。同級生と言うことは……えっ?
 頭の中で年齢を計算して思わず目が丸くなる。
 同級生? 後輩じゃなくて?

「東洋人ってのは、こっちでは若く見えるみたいですね」
「あ、ああ、うん、そうだね。それで、何故、君はあの車を追えと?」
「後で説明します。ほら、信号青ですよ?」
「……そ、そうか」

 言われるまま、車をスタートさせる。追いかけている理由は結局、聞けなかった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

(まあ何が言いたいかはおおよそ見当つくよ、うん)

 物問いたげなランドールの顔を見ながら、ヨーコは秘かにうなずいた。
 きっと自分とマックスが同級だと聞いて驚いているのだろう。昨日の和装用のしっかりした化粧に比べて今日はナチュラル淡めのメイク。しかも髪型はポニーテールなんだから。
 おそらく20歳そこそこと思ったに違いない。さすがにティーンエイジャーには見られなかったと信じたい。

 信号が変わり、車が走り出す。目当ての車は左へと曲がり、急な坂道を登って行く。店やオフィスビルの立ち並ぶ一角を外れ、住宅街へとさしかかった。
 
「あ」

 何だろう。この景色、見覚えがある。目眩にも似た感触に襲われる。もちろんサンフランシスコに住んでいたことがあるのだから見覚えのある場所はそこら中にある。
 だが、あきらかにその感覚とは違っていた。

 これは、自分の記憶ではない!
 
 肩が触れあった際に流れ込んできたヴィジョンがぐうっとせり上がる。あの中に、合致する記憶が埋もれているのだ。
 その事実に気をとられ、追っていた車から一瞬意識が逸れた。

 グ、グォオン!

 低く轟くエンジン音にはっと顔を上げる。自分の乗っている車は停まっていた。だがその一方で追っている車は……。

「えっ?

 猛スピードで角を曲がり、遠ざかって行くではないか!

「ちょ、ちょっと、何で停まってるの!」
「いや、だって信号が赤だし」
「あちゃ………」

 そう、あくまで一般車両なのだ。パトカーではない。サイレン鳴らしてライトを回し、赤信号を無視してぶっちぎる訳には行かないのである。
 増してこんな高級車が派手な道交法違反なんかやらからしたら……目立つだろうな。一発で本物のパトカーが飛んで来る。
 さすがに社会的地位のある、しかも善意で協力してくれているランドールに違反チケットを切らせたくはない。

 緑のパーカーの男を乗せた車はあっと言う間に遠ざかり、視界から消えた。
 軽く指先で額を抑え、左右に首を振った。

「そもそも最初から無理があったか……」
「すまん、逃げられた」

 申し訳なさそうな顔をしている。心からすまないと思っているのだろう。
 何て誠実な人だろう! ほとんど見ず知らずの女が車に乗り込んできたのに放り出しもせず、素直に言うことに従ってここまで来てくれた。

「問題ありません。既に必要なだけの手がかりは手に入れたから……」
「そうか……あー、その、Missヨーコ。いくつか聞きたいことがあるんだが」
「いいですよ。とりあえず車、そのへんに停めましょうか」

 言われるまま、ランドールは車を路肩に寄せて停めた。
 最初の質問は既に決まっていた。

「君は、もしかして………」

 馬鹿げたことを口にしようとしている。だが、彼女の行動を説明するのに一番しっくりくる言葉を探したらここに行き着いた。おそらくヨーコは真面目に答えてくれるだろう。

「サイキックなのか?」
「だったらどうします?」

 質問に質問で返されてしまった。
 ちょこん、と小さく首をかしげてこっちを見ている。濃いかっ色の瞳は日陰になって黒く、ほとんど瞳孔と虹彩の区別がつかない。
 あどけない。だがその反面、底深い井戸をのぞきこむような錯覚にとらわれる。

「いささか興味があるね。君には、私は……どう見える?」
「そう……ね」

 くい、と眼鏡に手をかけるとヨーコはフレームを軽く押し下げ、直に自分の目でこっちを見上げてきた。黒目がちの瞳の奥でゆるりと……何かがうねる。
 深い水の底で、姿の見えない魚が身をくねらせるように。

「お母様は東欧……ルーマニアの方ですね。あなたに良く似て、とてもお美しい方。ああ、その魅惑的な黒髪とサファイアブルーの瞳はお母様から受け継いだのね。ポケットの奥のヒマワリの種も」
「えっ? 何故、それを?」
「カリカリに炒ったのを、小さめのジップロックに入れて持ち歩いてるでしょ? 小学生の子がおやつを入れてるような、模様付きのやつ」

 無意識に上衣のポケットを押さえた。

「今日の袋は………水玉ね」

 その通り。母親の容姿のことは多少の知識があればわかることだ。しかしヒマワリの種は。袋の模様は!
 すっとヨーコは目を細める。ふさふさと豊かなまつ毛が瞳に被さり、何とも優しげな表情を醸し出す。まるで子どもを見守る母親か、保育士のようだ。

「……恋をしてらっしゃいますね? 秘めたる想い。片想い。とてもピュアで、切ない」

 こめかみの内側で、独立記念日の花火と中華街の爆竹がいっぺんに炸裂した。
 まちがいない。彼女は……本物だ!

「驚いた、本当にサイキックなのか?」

 ぱちぱちとまばたきすると、ヨーコはすっと手をのばし、ちょん、と頬を突いてきた。右手の人さし指で。
 ほぼ初対面の相手だと言うのに、不思議といやな感じはしなかった。学校の先生か、友だちに触れられたような、そんな感覚。
 自分はゲイだ。女性には惹かれない。まるでその事を心得ているかのようなごく自然な触れ方だった。

「そう簡単に信じちゃだめよ、Mr.ランドール? この程度のこと、あなたのプロフィールをちょっと調べればすぐにわかる」
「でも……私が片想いしてるって」
「ああ、それはもっと簡単」

 くいっと彼女は赤いフレームに手を触れ、眼鏡の位置を整えた。

「観ればわかりますもの。観れば、ね」
「そ、そうか……」
「すぐに片付くと思ったのだけれど、どうやら長期戦になりそう。もう少しだけおつきあい願えるかしら……Mr.ランドール」

 つやつやした唇の合間に白い歯が閃く。半ば夢見るような心持ちでランドールは彼女の言葉に耳を傾けていた。

「私、何としてもあの子を助けたいの」
「……ああ」

 うなずいていた。
 彼女の言う『あの子』が誰なのか。さっきまで追いかけていた車とどんな繋がりがあるのかわからぬまま。
 それでも感じたのだ。彼女の言葉は真実なのだと……。

「ありがとう、Mr.ランドール。あなたの勇気に感謝します」

 ヨーコは満面の笑みを浮かべてうなずいた。
 自信家故に彼は猜疑心を持たない。育ちの良さ故に『学校の先生』の言うことは、素直に聞いてしまう。
 そして、彼は紳士だった。か弱き者を見捨てるなんて事は、最初から選択肢に入ってはいないのだ。
 
 この人を捕まえられた幸運に感謝しよう。追跡のパートナーとして、これ以上に頼もしい相手はいない。
 
次へ→【ex5-4】甘く香しいお茶の記憶

【ex5-4】甘く香しいお茶の記憶

2008/08/04 14:19 番外十海
 
 ランドールは首をかしげながらも目の前にたたずむヨーコを見守った。
 住宅街の中の公園。
 広々とした敷地の中には緑の芝生が敷きつめられ、背の高い木々が日光をさえぎらない程度に適度な間隔で生えている。

 芝生には何組かの家族連れ、あるいは気の合う仲間同士が飲み物や食べ物を片手にゆったりとくつろいでいた。
 折りたたみ式のテーブルや椅子、あるいはレジャーシートを広げ、大きなピクニックバスケットを傍らに置いて。

 肉の焼ける香ばしいにおいがするなと思ったら、バーベキューをしている連中もいた。
 犬を散歩させる人、のんびりとジョギングやウォーキングを楽しむ人。サイクリングコースを時折自転車が走って行く。

 日曜の公園の、ありふれた幸せの風景。いかにもサンフランシスコらしく、Tシャツにジーンズのラフな服装からシフォンのサマードレスまでさまざまな服装の人間が入り交じっている。中には革ジャケットを羽織ったものもいる。
 しかし、さすがに黒のスーツ姿の自分は浮いていた。(これでも仕事用にくらべればだいぶラフに着てはいるのだが)

 彼女に指示されるまま車を走らせ、「あ、ちょっと停めて」と言われて停まったのが20分ほど前のこと。
 すれ違う人々に笑顔で手を振り、挨拶しながらヨーコはさりげなく子ども用の遊具の並ぶ一角へと歩いていった。
 すべり台にジャングルジム、ブランコ、砂場、鉄道、シーソー、バネ仕掛けでゆらゆら動くプラスチックのロッキンホース。
 一通り見て歩くと、ヨーコはブランコのひとつに腰をかけ、目を閉じた。

 その姿勢のまま、動かない。子ども用の遊具なだけに小ぶりに作られているのだが、彼女はさして窮屈な風もなくすっぽり収まっている。
 ブランコをこぐのでもなく、いかにもベンチ代わりにひと休みしているような格好のヨーコに注意を払う者は誰もいない。

 車で待てと言われたのだが、何故だか気になってついてきてしまった。今もこうして、少し離れたベンチに腰かけて見守っている。

 いったい、彼女は何をしているのだろう?
 こんなに陽射しの強い所で、帽子も被らずに……。
 少し考えるとランドールはブランコのそばに歩み寄った。自らの体が落す影がヨーコに重なるようにして。
 これで、少しは違うだろう。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 どうしたものか。
 公園に着くまでの間、ヨーコは迷っていた。

 原則としてこの手の事件を追いかける時は必ず二人以上で行動する。常ならぬ物を見通すために集中する間、自分は外敵に対してまったく無防備になる。その間、誰かにガードしてもらう必要があるからだ。
 しかし常日頃、背後を預ける教え子の風見光一ははるか日本の空の下。従弟のサクヤはサンフランシスコ市内にいるが、今はまだ勤務中だ。
 
 何よりもまず、事件が起きているかどうかすら定かではない。
 自分の目にしたヴィジョンは、見ようと思って狙いをつけた訳ではない。まったくの偶然から流れ込んできたものだ。

 それがそののまま過去の情景なのか。それとも何か別のことを象徴しているのか、今の状態ではまったく区別がつかない。
 車の中で感じた既視感を頼りにこの公園まで来たのはいいものの、その先はまだ霧の中だ。
 遊具の間を歩き回るうち、ブランコの一つに自然と引き寄せられた。
 潜在的に読み取ったヴィジョンの断片が反応しているのか、あるいは単なる偶然か……迷うより前にまず、触れてみよう。

 ヴィジョン以外のもっと『現実的』かつ『物理的』な証拠をつかんだら警察に連絡すればいいい。幸い、警察関係者の名刺は昨日のパーティで山ほどもらった。

(できればマクダネル警部補とお話したいな……)

 いささか呑気なことを考えながらヨーコはブランコに腰を降ろし、目をとじた。
 
 閉じたまぶたの下で瞳を凝らし、自分の中を流れる意識と記憶の流れと。自分の触れているブランコに貯えられた記憶と時間の流れの間の壁に小さなすき間を開ける。
 二つの流れが混じり合った刹那、両方からくいっと引き合う小さな『点』に気づいた。

(……当たり)

 あの少年は確かにこの公園の、このブランコに座っていた。
 すき間を徐々に広げて行く。それにつれて『点』は互いに反応し、活性化して行く。
 いい調子だ……もうすぐ視覚的に捕えられるレベルにまで……ああ、来た。

 点は線へ。
 線は面へ、さらには立体に。次第に色と質量を増して行き、おぼろげな像を結び始める。
 意識の狙いを定めると、一段とくっきりと浮び上がった。確かに自分は目的地の近くにいる。

 周囲の現実が歪んで希薄になり、同じ場所、別の時間がヨーコを包む。
 立っている位置が少しだけずれていた。自分はブランコから少し離れて立っている。目の前には少年が一人、うつむいてブランコに座っていた。こちらに背を向けているが、鳶色の髪は確かにあの子のものだ。

 ヨーコはためらわず足を踏み出し、少年に近づいた。しかし足元がねばつき、なかなか前に進めない。
 ぬかるんでいるのか、時間を経ているからなのか。もう少し、ほんの数歩でいい。粘つく地面から懸命に足を引き離し、尚も前に進む。

「ねえ、君……」

 声をかけた瞬間。
 少年の背がばっくり割れて、中から闇が噴き出した。とっさに両手で顔を覆う。
 凄まじい熱風と衝撃に襲われ、ヨーコはもんどりうって後ろ向きに倒れた。

「っ、はっ」
「大丈夫か、Missヨーコ?」

 がっしりした腕が自分を支えている。
 穏やかな夏の公園。笑いさざめきながら休日のひとときを楽しむ人々。そうだ、これが……現実だ。

「あ……一体、何が……」
「いきなり、後ろ向きにひっくり返って落ちそうになったんだ。間に合って良かったよ」

 そうだ、自分はブランコに座っていて、それで……。
 危なかった。
 あのまま全くの無防備な状態で落ちていたら、後頭部を打っていたことだろう。背筋を冷たいものが走る。

「ありがとう、Mr.ランドール」
「大丈夫か? 君、真っ青だ……」

 その時になってようやく、自分がどんな状態にあるか把握した。ブランコに腰かけたまま、背後からランドールに肩を抱かれて支えられている。
 はたから見れば後ろから抱きすくめているように見えるだろう。ごく自然な恋人たちの風景。


「失礼」

 言うなり、ランドールは手を伸ばしてきた。あんまり自然な仕草だったものだからつい、警戒することを忘れた。
 あれ? と思った時には彼の手のひらが喉に触れ、次いで額にぺたりと覆い被さる。

(あったかいなあ……)
 
 それはつい今しがた、ヨーコを直撃した悪意と憎悪の噴流とは対極にあるものだった。

「熱はないようだな。だが、体温が下がってる」

 くすっとヨーコの口の端に笑みが浮かぶ。
 やれやれ、自分としたことが。ほぼ初対面の相手を前にしてこうも無防備でいられるなんて……。

 自分は彼にとって恋愛の相手でもなければ性的な興味の対象でもない。加えてこの身についた紳士ぶりときたら!
 全ての女性(と、おそらくは一部の男性)は年齢を問わず彼にとっては淑女なのだ。守り、敬うべき相手。
 今、こうして自分の額を包み込む彼の手のひらからもその想いがひしひしと伝わって来る。

 足を地面に降ろし、体を支える。ブランコの鎖を握る自分の指を引きはがし、左肩を包む優しい手に重ねた。

「大丈夫……大丈夫ですから……でも」

 寒い。
 
 さっきの一撃は、ヨーコの肉体を傷つけるほどの力こそなかったが、生きるために必要な根本的な熱を削ぎ取るには十分な威力があった。
 震える奥歯を噛みしめる。

「何か……あったかいものが飲みたい」
「わかった。車に戻ろう」

 しっかりと立ち上がるまで、ランドールはずっと支えてくれた。
 車まで歩いて行く間も、助手席に乗り込む時も、手こそ触れなかったが倒れそうになったらいつでも支えられるよう、付き添ってくれた。
 まるでダンスホールか一流のレストランでエスコートするみたいに自然な仕草と間合いで。

 座り心地のよいシートに身を沈め、深々と息を吐く。

(ミスったなあ)

 唇を噛み、目を閉じた。

(風見にばれたら……サクヤちゃんにばれたら………怒られるだろうなあ)

 一人で突っ走るな。それこそ自分が口を酸っぱくして日頃言っていることをまさに己が実行してしまったのだから。
 
「これを」

 ふっと、やわらかく温もった空気が皮膚に触れる。
 大きな手のひらに包まれた、モスグリーンの保温タンブラーがさし出されている。やさしく霧に霞む深い、古い森の色。

「気分が落ちつく。カモミールが含まれているんだ」
「ありがとう……」

 震える手で受けとり、蓋を開ける。紅茶? いや、ハーブティかな。甘い香りがする。一口含む。
 ああ……何て優しい甘さだろう。口の中に広がり、喉を、舌を包んでくれる。目に見えない滑らかな指先が、ひりつく喉を癒してくれる。

「美味しい……あ。このにおいと味!」

 がばっとヨーコは起きあがった。心配そうにのぞき込んでいたランドールが目を丸くしている。
 エウレーカ! 大声で叫びたい気分だ。ヴィジョンの中の子どもが飲んでいたのはこのお茶だ!


「Mr.ランドール! これ、この、お茶……何?」
「あ、ああハニーバニラカモミールティー」
「そうか……バニラだったんだ」
「オーガニックなティーで体にいいんだ。カフェインも含まれていないし、パッケージも独特でね。金属の部品は一切使っていない。地元のメーカーで作ってるんだ」
「売ってるお店に行きたい。連れてっていただけます?」
「ああ。いいよ。ベルト、しめて」

 言われるままシートベルトをしめて、ふと手の中でなおも優しい温もりを発するタンブラーに目を落す。

「あなたの事だからてっきり普通の紅茶か、コーヒーだと思った。何でこれ、持ち歩いてるんですか?」
「好物なんだ。スターバックスやタリーズでは売ってないからね」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「これだよ」
 
 近くのオーガニック食品専門のスーパーで、ランドールは棚に歩み寄るとぎっしり並んだハーブティの中から迷わず一つを引き抜いた。
 ヨーコは伸び上がって彼の手の中をのぞきこむ。
 青い空。朝日に照らされた緑の野原には白と黄色のカモミールの花が咲き、花に包み込まれるようにして金色のハチミツを満たしたガラス瓶が描かれている。とろりとしたハチミツは木の杓子ですくいあげられ、その周りをミツバチが飛び回っていた。

「違う……クマじゃない」
「クマだったよ。8年前まではね。リニューアルしたんだ」
「ほんとう?」
「ああ。子どもの頃からずっと愛飲していたからね。確かだよ」

 ランドールがうなずき、サファイアブルーの瞳を細めて手の中の箱を見おろした。

「ふかふかにデフォルメされた、ぬいぐるみみたいなクマだった。茶色いツボに満たしたハチミツをこう、前足ですくいとっていてね……とても幸せそうだったな」
「そのクマ、お気に入りだったのね」
「母がね」

 かすかに頬を染めると、彼はハーブティの箱をそっと手のひらで撫でた。慣れ親しんだ友人か伴侶を愛でるような手つきで。

「小さな頃の私は胃腸が弱くてね……その上、神経質でなかなか夜は寝付けない子どもだった」
「それで、お母様がこれを?」
「うむ。普通のカモミールティーはくせが強くて飲みづらい。けれどこれなら、いくらでも飲めた」

(……参ったなあ……何でこの人、こんなに可愛いんだろう)

 小さな笑みが口元に浮かぶ。困ったもんだ。相手はどう見ても自分より年上、背も高いし大企業の社長さんだ。
 わかっているのに、思わずぎゅーっとハグして頭をくしゃくしゃになで回したくなってしまう。
 自分の教え子たちにするみたいに。あるいは、サクヤにするみたいに。

 ふと、気づいた。
 ハニーバニラカモミールティーの隣に同じメーカーの普通のカモミールティーも並んでいる。手を伸ばすと、ヨーコは指先でちょん、とカモミールティの箱をつついた。

「今は、普通のカモミールティもOK?」
「そうだな、今なら……いや、やっぱりこっちの方がいい」

 結局、ランドールはハニーバニラカモミールティーを持ったままレジに行き、会計をすませたのだった。
 二つ折りにした黒革の財布からきっちり小銭を取り出し、支払う姿はどこか、まじめにお使いをする子どものようで。つい、あたたかなまなざしで見守ってしまった。

「待たせたね、Missヨーコ……それで、次はどこに行けばいい?」
「待って。今、探すから」

 再び銀色のトヨタの助手席に乗り込み、目を閉じる。必要な情報は既に得ているはずなのだ。
 問題は『いつ』に狙いを定めるか。
 昨日? 今日? 一年と一日前?

 手がかりはついさっきランドールが与えてくれた。
 ヴィジョンの中のパッケージは過去の物。少なくとも8年前のもの。
 だったらあの少年は今は子どもじゃない。当時12歳の子どもでも、8年経てば20歳の大人になる。
 頭の中で年齢を重ねる。

「あ」

 今朝ぶつかった緑と黄色のパーカーの男。顔はちらりとしか見えなかったが、鳶色の髪をしていた。
 意識して焦点を合わせる。ほんの数時間前に自分の経験した時間を呼び覚ます。
 
 別々の二人が重なり、一つになった。

「答えはずっと目の前にあった。あの子は……私がぶつかった本人の過去の姿だったんだ!」

 てっきり、当人の視点から見た光景だと思っていた。緑と黄色のパーカーを着た、背の高い男が少年を閉じ込めた時の記憶なのだと。
 しかし、実際は彼を通して過去の情景にリンクし、その場で起きた事を第三者的に見ていたのだ!

 確かに自分の能力なら、あたかも過去の情景の中を歩く様にして視点を自由に切り替えることができる。
 だが今朝は予想外のタイミングであまりに大量のイメージが流れ込んでいた。能力のコントロールができず、誰の視点で見ているのか区別がつかなかったのだ!

(惑わされた。見えすぎるのも考えものだなぁ……)

 もう一つ、確かなことがある。公園で過去を見た時、邪魔が入った。事の真相を探ろうとする自分に向けられた、明確な悪意を感じた。
 これ以上近づくな、手を引け、と。

 あれは脅しだ。と、言うことは……つまり、彼は『一人』ではない。
 
次へ→【ex5-5】熱い閉ざされた箱

【ex5-5】熱い閉ざされた箱

2008/08/04 14:20 番外十海
 
 探しているのは今じゃない。
 過去だ。

 まだ手探りなことに変わりはないが、それでも広大な湖に闇雲に釣り糸を投げ込むより、はるかに答えに近い。

「もう一度、あの公園に戻っていただけます?」
「ああ……わかった」

 公園に戻るとヨーコは車から降り、とことこと子ども用の遊具の集まる一角に歩いていった。
 
 大丈夫だろうか。また、倒れたりしないだろうか………やっぱり心配だ。

 ランドールは車を降りることにした。ドアを閉める間ほんの少しだけ、彼女から視線がそれる。
 その瞬間、やわらかな羽ばたきを聞いた。はっとして顔を上げると……信じられない光景が広がっていた。

 ヨーコの手のひらから小鳥が飛び立っている。それも一羽や二羽ではない。
 次から次へと飛び立って、上空で円を描いてから四方八方に散って行く。いったい何羽いるのだろう?

 スズメほどの大きさ、白い腹、青みがかった灰色の頭から茶色がかったグレイへと柔らかなグラデーションを描く背中、そして赤橙色の顔と胸。

 この国では滅多に自然の中で目にすることはない。しかし、母とともに開いた絵本ではそれこそ飽きるほど目にしてきた……。

「ロビン! 信じられん……どこから、こんなにたくさん?」

 最後の一羽を送り出すと、ヨーコはこちらを振り返り、ぱちくりとまばたきをした。

「まさか、今の……見えた?」

 こくん、とうなずく。

「ヨーロッパコマドリが……何故、カリフォルニアに?」

 にまっとヨーコは口角を上げて笑った。まるで絵本の魔女か、仙女、妖精……呼び名はいろいろあるが、とにかく謎めいた魔力を秘めた女そっくりの顔で。

「……バカンス、かな?」

 一見余裕たっぷりの表情でほほ笑みながら、内心ヨーコは秘かに焦っていた。

 うっかりしてた。彼の母親はヨーロッパ出身だった。
 万が一見られてもちょっと変わった鳥がいるなあ、ぐらいに思われる程度だろうと踏んだのだけれど、甘かった。しっかりばれてる。

 そう、少しばかりカンの鋭い人間なら自分の放つ『影』を目にすることは十分に考えられる。だからあまり不自然にならないよう、小鳥を選んだのだが。

「バカンスって……あんなに沢山?」
「団体旅行、かも」
 
 いっそセキセイインコにしとけば良かったか。

(こんな時、風見がいたら一発なんだけどな……)

 無い物ねだりをしてもせんない事。
 今は自分にできる最善を尽くそう。とにもかくにも『目』は放った。あとは目的のものを見つけるまで。

 じりじりと時間が過ぎて行く。1秒がやけに長く感じられる。
 ヨーコはじっと待った。
 もうじき、時間切れだ。幻の小鳥たちが、呼び出された場所に……彼女自身の無意識の奥底に還る瞬間が近づいている。
 既にかなりの気力を消耗していた。この捜索が空振りに終わっても、果たして第二陣を呼び出す余力があるかどうか……。

 わずかな焦りを覚えたその瞬間。
 ちかっと目蓋の奥に求めていた光景が閃いた。

「……あった」

 幻のコマドリの一羽が、探し物を見つけてくれたのだ。

「Mr.ランドール、車を出して。次の行き先が、わかった」
 
  
 ※ ※ ※ ※
 
 
 たどり着いた古い一軒家は、やはり公園からはいくらも離れていなかった。さほど際立った作りではない。縦に細長い構造の木造住宅。窓枠は白く、壁は薄いクリーム色。
 窓には分厚いカーテンが引かれ、扉には『売り家』の文字と不動産屋の連絡先を記した看板がかかっている。
 人の気配は、ない。

「本当に、ここでいいのか?」
「ええ。ここよ」

 門は開いていたが、裏庭に続く木戸は閉まっていた。車を降りるとヨーコはひょい、と手をかけて塀を乗りこえ、裏庭に歩いて行く。

「Missヨーコ!」

 あわててランドールは後を追いかけた。

「Missヨーコ。レディ、君は少し慎みという物を持ちたまえッ!!」
「え?」
「不用意に、あんなダイナミックな動きをして……スカートでなければ、何をしてもいい、と言うものではないのだよ?」
「あ? え? 何?」

 そう言う自分はどうなの。思ったけれど口には出さないことにした。
 あんまりに真面目で誠実そのもののランドールの態度に、ああこれは茶化してはいけない相手なのだと悟ったのだ。
 わずかにスミレ色を含んだ濃いブルーの瞳がじっと見下ろしている。主に自分の上着の裾や胸元のあたりにを。

「そのジャケットの下、キャミソール一枚なのだろう? 気をつけた方がいい」

 さすが紡績企業の御曹司、衣類については詳しいようだ。
 かなり際どいことを言ってるような気もするが、下心は微塵も感じられない。もとよりゲイなのだから女性の体に性的な興味を引かれるはずがない。
 純粋に心配してくれているのだ。下手すると自分の上着を脱いで着せかけてきそうな勢いだ。
 素直に目を伏せ、謝罪の言葉を口にすることにした。

「ごめんなさい、これからは気をつけるわ……」
「ああ。そうしてくれ」

 錆びてぼろぼろになった金属の箱が転がっていた。裏庭の、伸び放題の雑草混じりの芝生の上に。
 大きさはやっと子ども一人が身をかがめて入れる程度。箱の一面は狭い格子状になっていた。おそらく、本来は犬小屋として作られたものだろう。
 
 さほど広くはない庭だが、日当りは抜群だった。わずかに西に傾いた午後の陽射しがぎらぎらと照りつけえいる。
 箱の周りに、強烈な太陽の光をさえぎる物は一切無い。近づいただけで金属の帯びる熱がむわっと立ちのぼり、皮膚を。毛穴をつたって染み込んで来る。

「ここに……彼は入っていたんだ。夏の陽射しが容赦無く照りつける昼に。凍えるような冬の夜に」

 ランドールが眉をしかめて首を横に振る。それは出会ってから初めて目にした、心底不快そうな表情だった。 

「とんでもない話だ」

 お茶の記憶は、ひもじさと渇きの中でおそらくあの子が飲みたいと願ったもの。こんな所に好き好んで入る訳がない。何より鍵は外側についている。

「いったい、誰がそんなマネを」
「さあて……実の親か、あるいは里親か……いずれにせよ、酷い親であることに変わりはない」

 確かなのは、あの憎悪と殺意の対象が自分をここに閉じ込めた相手だと言うこと。
 この箱が放置されていると言うことは、おそらく警察の捜査は行われていない。だれも通報する者はいなかったのだ。事件は巧みにもみ消され、箱の用途は明らかにされぬまま、月日が流れた。

 そして、今に至る。

 ヨーコの口の中に苦いツバがわき起こる。ぎりっと奥歯を噛みしめ、飲み込んだ。

 子どもを虐待するようなクズがどうなろうと知ったことじゃない。けれど、彼が加害者になるのは見過ごせない。
 あの憎悪と殺意は行動にシフトする寸前だった。

 どうする?
 既に公園で一度攻撃されている。向こうは自分の存在に気づいている。
 危険は高い。けれど今やらないと……朝、接触してから既に数時間が経過している。今この瞬間にも、彼は『親』を殺そうとしているかもしれない。
 急がなければ。

(あの子を犯罪者にさせちゃいけない。それ以上に悪いモノに堕ちるのを放っておけない!)

 ヨーコは一瞬で腹をくくった。

「Mr.ランドール。もし私が倒れたら、マックスかレオンに連絡してください。『ヨーコが倒れた』って言えばわかるはずだから」

 息を飲むと彼は一歩、近づいてきた。

「また、倒れるような事をするのか? さっきみたいに」
「万が一の用心にね。慎重なんです」
 
 芝生に膝をついた。

「あ、そうだもう一つ大事なことが……何があっても、決して私に触れちゃだめですよ?」
「君に失礼なマネはしない。誓うよ」

(あー、もー、どこまで紳士なんだろ、この人は!)

「そーゆー意味じゃないんだけどなあ……ま、いっか」

 思わず日本語で呟いていた。幸い、彼には意味が通じなかったらしく、きょとんとして首をかしげている。

 屈み込むとヨーコは手を伸ばし、熱い金属の表面に触れた。意識を開くまでもなかった。
 箱の中に、子どもがうずくまっている。よほど強い思念が焼き付いているのだろう。そのまま彼の意識につながったようだ。
 子どもが顔を上げる。骨の輪郭が透けて見えるほど痩せ細り、鳶色の瞳ばかりがぎょろりと目立つ。
 胸が締めつけられた。

 ぎくしゃくと少年が手を伸ばして来た。
 やはりつながっている。向こうもこっちを見てる!

「そこから……出よう。ね? ほら、こっちにおいで」

 ヨーコは手を伸ばした。
 少年はさらにおずおずと手を伸ばし、すがるように握りしめてきた。

「……おいで」

 ほほ笑みかける。
 すると、少年はわずかに口の端をつり上げ…………………にまあっと笑った。

(やられた?)

 あっと思った時は既に遅かった。がっと口が耳まで裂け、鳶色の瞳がくるりと白目を剥く。か細い腕にはぞろりと棘のような剛毛が生えそろい、爪は鋭く、ナイフさながらに尖り……ヨーコの腕をがっちりと捕まえた。

「くっ……離せっ」

 必死でもがいたが、すさまじい力で引きずり込まれる。鋭い爪が腕に食い込む。皮膚を切り裂き、血が流れた。

(いけない、このままでは取り込まれる!)

 足元をささえる地面の感触が消えた。腹の底を冷たい恐怖が満たす。

(常に奈落の底から自分を付け狙い、隙あらば引きずり込もうと待ち構える影がいる)
(そいつとまっこうから向き合おうと決意したのは十六の時だった。以来、ずっと闘い続けてきた……霧の中で答えを探し、必死になってもがきながら)

 捕まった。
 逃げられない。
 落ちる。
 底知れぬ闇の中に……
 
次へ→【ex5-6】混在する夢
 

【ex5-6】混在する夢

2008/08/04 14:21 番外十海
 
「大丈夫か?」
「え?」

 がくん、と、唐突に落下が止まった。
 目を開ける。
 がっしりした腕に支えられていた。

「ちょ、ちょっと、Mr.ランドール、何であなたこっち側にいるの! 触っちゃだめって言ったのに」
「でも、君が怪我してる」

 確かに右腕から血がしたたっていた。

(しまった……予想以上に紳士だった)

 改めて周囲を見回す。カリフォルニアの青空は跡形もなく消えていた。そして、そこはさっきまで自分の居た裏庭ですらなかった。
 熱い閉ざされた箱は消えている。中にうずくまっていた少年も。彼の内側に巣食う、もう一つの存在も。
 
「大丈夫か?」
「大丈夫ですよ……」

 とにかく、この怪我をどうにかしよう。ランドールが自分のシャツを引き裂いて包帯代わりにさし出す前に。
 さっと左手で傷をなぞり、塞いだ。表面にうっすらにじむ赤い筋を残して。

「ほら、大したことないし」
「さっき見た時はもっと深く切れてたんだ!」

 にっこり笑って顔をよせ、きっぱりと言い切った。一語一語に力をこめて。

「気、に、す、ん、な」
「あ……ああ」

 うなずいている。
 よし、それでいい。素直な子って大好き。

「何だか君……印象が違うね」
「気のせい気のせい!」

 意志疎通のためにわざわざ英語を使う必要もない。ここでの会話は音声を媒介としないのだ。
 お互いの母国語でしゃべっても思念が直接伝わり、聞き取る者は無意識に受けとった相手の言葉を自分の知る言語に変換している。
 だから日本語でしゃべっている。故に口調もくだけ、本音により近くなる。
 まあ、そのへん細かく説明することもないだろう、今は。

 それより問題は、カルヴィン・ランドールJr.が……普通の人間が、ヴィジョンの中に。他人の夢の中に入ってしまったと言うことだ。
 もう、ここは「少年」一人の夢ではない。
 徐々にランドールの夢と記憶が混じりつつある。
 他者の夢の中でも自己を保つには、それなりの訓練と経験が必要なのだ。自分やサクヤのように。

「ランドールさん」
「何だい?」
「あたしから離れちゃだめですよ」

 目をうるうるさせ、彼の手なんか握ってみる。
 ここで強く命令するのは逆効果だ。彼にとっては全ての女性はか弱くて保護すべき対象なのだ。自分が相手を頼りにしているのだと思わせ、誘導するのが吉。
 実際に離れると困るし……そうだ、万が一にそなえて繋がりを作っておこう。

 髪の毛を結っていた赤いリボンをほどいてランドールの手首に巻きつけた。

「これは?」
「おまじないです。迷子にならないための」

 自分一人なら簡単に抜け出せる、けれどランドールが一緒だと話は別だ。
 これはもう彼自身の夢でもある。強引に切り離せば心を損なう。

 危険だけれど、『夢』の中心を見つけよう。核を探そう。自分を助けてくれなかった親、虐待した親への憎しみの源を。

「行きましょう。あの子を見つけて、ここから連れ出さなくちゃ」
「あ、ああ……そうだな」

 ランドールは周囲を見渡し、うなずいた。

「ここはあまり、気持ちのいい場所じゃない」
 
 ヨーロッパの深い森を思わせる太く、高くそびえ立つ木々。目に届く範囲には、灌木や草がみっしり絡み付いている。
 見渡すほどに遠近感が歪んでゆき、まるで自分だけが縮んでしまったような奇妙なスケールのずれを感じさせる。

 空はどんよりとした雲が分厚くたれこめていた。昼間ではない。だが、夜でもない。
 全ての空は陽が沈む直前のたそがれ色に塗りつぶされ、薄明かりに縁取られた分厚い雲が黒々と、不気味な模様を描き出している。
 その形がまるで業火に焼かれて悶え苦しむ人々のように見えるのは、気のせいだろうか……。

 遠くで狼の遠吠えが聞こえる。それとも、ハイウェイを走る大型車の音?

 おそらくこの辺りはランドールの記憶が元になっているのだろう。
 ルーマニア出身の母から聞かされた昔話や、先祖から受け継いで来た無意識の記憶、そこにアメリカの怪奇映画や小説が微妙に混在しているように思えた。
 現にさっき潜った石造りの門は、いい具合に蔦がからまり外れかけた金属の門扉がきいきい軋んで、怪奇映画に出てきた幽霊屋敷そっくりの造りだった。

 石柱の上にうずくまる苔むしたガーゴイルの傍らを通り抜け、たどりついた先は……屋敷ではなく、もっとシンプルで現代的な二階建ての建物だった。

「ここは……学校、かな」

 だがランドールは青ざめ、首を横に振っている。

「まさか……信じられない、ここは私の通っていたジュニアハイだ!」

 彼がその言葉を発した瞬間、二人は校舎の中に居た。中はがらんとしていて人の気配はない。
 しかし、その寂しさを補うかのように、乱雑かつうすっぺらな装飾が施されていた。
 紙を切り抜いた幽霊、ビニールのコウモリ、発泡スチロールやプラスチックのカボチャ。床にも壁にも天井にも、Gの生じるありとあらゆるところに飾りがぶら下がっている。
 
「この装飾、ハロウィンかな」
「ああ、ハロウィンパーティの飾り付けだ……よく覚えている」

 声のトーンが低い。どうやら、ここに残っているのは愉快な記憶ばかりではないらしい。

 良かった、道はまちがっていない。
 ヨーコはひそかに安堵した。
 自分たちは確実に悪夢の中心に向かっている。
 
 チープな飾りに埋め尽くされた廊下は、やがて一つの扉に行き当たった。両開きの金属の扉。手を触れるまでもなく勝手に開いた。

 ギギギギギ……ガチャン!

 妙に軽い音ととともに扉が開く。
 確かに扉だったはずなのに、開けたらいきなり目の前にどんっと学生用の金属ロッカーが広がった。

「何、これ……」

 むわっとふき出す強烈な臭気に思わずヨーコは顔をしかめた。本来なら決して不快なにおいではない。むしろ食欲をそそるはずなのだが、物には限度と言うものがある。
 狭い空間にこもっていたせいだろう。
 ロッカーの中には、大量のニンニクを連ねてリースにしたものがぶらーんと、何本もぶらさがっていた。
 それだけではない。アイスキャンディの棒だの、ちびた鉛筆、ボールペン、適当な板切れを十字に組んで、テープで張り合わせただけのお粗末な十字架。
 明らかにチープなアクセサリー屋で買ったとおぼしきプラスチック製の十字架も混じっている。

 十字架とニンニクのカーテンの合間に、さらに悪趣味な物体がぶらぶらゆれていた。
 首に縄をくくりつけられた人形だ。
 よく見ると、吊られていたのは、紫の肌に片眼鏡をかけ、黒いマントを羽織ったセサミストリートのパペットだった。そう、どことなく吸血鬼めいた風貌の……と、言うよりまさにそのものの、あの伯爵だ。

 ご丁寧に胸部を深々と、先端を鋭く尖らせた木の杭で串刺しにされている。

 ロッカーの中にはそこいら中にべたべたと、白い紙に乱雑に書きなぐられた赤い文字、何とも物騒な張り紙がはり付けられていた。わざと赤い染料をしたたらせるようにして。

『ドラキュラは故郷に帰れ!』
『吸血鬼を吊るせ!』

 ランドールは青ざめ、唇を噛んだ。
 ここがだれのロッカーか、なんて確かめるまでもなかった。自分の使っていたロッカーだ。もう二度と、目にしたくないと思っていたのに。

「まー何とも露骨な遣り口だこと。匿名だと思ってやりたい放題やっちゃって」

 ヨーコが眉をしかめて肩をすくめている。怒りに震えて、というより心底呆れているような口ぶりだった。

「インターネットに書き込みするよか100倍手間がかかったでしょうに。ほーんと、お子様ってのはこう言うことにはヤんなるくらい勤勉ね」
「君は君で今、言いたいことを1/100ぐらいに抑えてるだろ」
「……ばれた?」

 にまっと笑っうとヨーコは無造作に手を伸ばし、一番大きな張り紙をべりっとひっぺがした。白い紙はくたくたと彼女の手の中で張りを失い、熱湯に放り込んだパスタのように崩れ、丸まり、希薄になり……消えた。
 まるで最初から存在しなかったみたいにきれいにさっぱりと。

「こんな奴ら、殴るまでもない。もっとも、鼻で笑ってやるのに、これほどふさわしい相手はいないんだけどね」

 続いて首を吊られた人形がやはり形を失い、消え失せた。
 
「消臭剤にしちゃ、いささか趣味が悪い」

 ふーっと息を吹きかけると、ぶらさげられた大量のニンニクが揺らぎ、粉々になって吹き飛ばされてしまった。
 においすら残さずに。

 不思議だ。今の彼女に重なって、ジュニアハイ時代の彼女が見えるような気がする。(多分そうだろう。でも、もしかしたら小学生かもしれない)。
 今より髪は長く、化粧もしていない。ぴったりした黒の長袖とピンクの半袖のTシャツを重ね着し、デニムのミニスカートをはき、足元は赤いスニーカーだ。眼鏡のフレームも今より大きめ。

「キリスト教の象徴としての十字架にはしかるべき敬意を払うわ。でも、これはただのバツ印。何の意味もありゃしない」

 ざらりと十字架をむしりとると、まとめて手の中で丸めて、ぽいっと投げ捨てる。ボール状に一塊になった十字架は、ぽてりと床で1バウンドして、それからぱちっとシャボン玉のように破裂して、消えた。
 後には何も残らなかった。

「徒党を組んでるくせに正面に立つ度胸もない。そのくせ社会の正しさを一身に背負ったような偉そうな面ぁして一人を攻撃する奴らってのはどーにも好きになれなくってね……。思わずばっさりやりたくなっちゃう」

 冗談とも本気ともつかないことをさらりと言うと、ヨーコはちろっと舌を出して笑った。

「斬り捨て御免、峰打ち無用」
「まるでサムライだな。頼もしい。あの頃君が居てくれたらと思ったよ」
「ありがとう。でも、あなたは一人で克服した。そうでしょう?」
「ああ。母から受け継いだルーマニアの血と文化を誇りに思っていたからね」

 ランドールは一枚だけ残っていた張り紙を剥がし、ずいっと一歩前に進み出た。幻のロッカーは消え失せ、再び長い廊下が現れる。

「ハロウィンに吸血鬼の仮装をしたんだ。幸い、父の会社のツテで衣装は本格的なのを用意できたし」
「ああ、なるほど……とてもよくお似合いだ」

 言われて自分の服装を改めて見直す。
 変わっている!
 黒いマント、裏地は赤。細やかな赤い刺繍を施したクラシカルな黒いベストにズボン、白のドレスシャツ、襟もとにしめた蝶ネクタイ……まさしくあの時着ていた吸血鬼の衣装だ。
 ただしサイズは大人向け。今の自分にぴったりの大きさになっている。

「ありがとう。それからも意識して黒い服を着て、紳士然として振る舞ったんだ」
「ネガティブなイメージを逆手にとって、逆に自分の魅力を最大限に引き出したのね。見事な演出だ」

 率直な賛辞の言葉に、そこはかとなく腹の底がこそばゆくなる。ランドールはかすかに頬を染め、照れた笑いをにじませた。

「いや。子どもじみたつまらん見栄さ。笑ってくれ」
「笑いませんよ……笑える訳ないじゃない」

 ぽん、とヨーコは黒いマントに覆われた背中をたたいた。

「あなた、すてきな人ね、ランドール」
「ありがとう……って、ちょっと待った」
「どしたの?」
「今、君 good-boy(いい子)って言わなかったか?」
「あらら? good-guy(いい男)って言おうと思ったのに。英語って難しいな〜」

 手をひらひらさせてすっとぼけた。
 あぶないあぶない。どうやら、本音がダイレクトに伝わっちゃったらしい。
 
次へ→【ex5-7】影との遭遇

【ex5-7】影との遭遇

2008/08/04 14:23 番外十海
 新たな廊下には窓がなかった。明かり取り用のはめ殺しの窓さえも。
 教室に通じるドアもない。
 ただどこまでも延々と続く、細長く引き伸ばした密封された箱。

 ウ…………ゥル、ル、ル、ウウウ……。
 グゥロロロォオオオオオオオオンン……。

 閉ざされた四角い空間の中で、淀んだ空気が揺れる。遠くかすかな音の響きを耳に伝える。

 ねちょり、と足元が粘ついた。
 
「何だ……これは」

 息苦しさを覚え、ランドールは襟元をゆるめた。

「気のせいよ。これはただの夢だもの。あなたが熱いと思えば熱い。寒いと思えば寒い。熱いのと寒いの、どっちがいい?」
「どちらもあまり」
「あたしもよ」

 ひやりと涼しい空気に包まれる。
 赤黒く淀む熱気の中、自分とヨーコの周りだけが秋の入り口か春の終わりにも似た涼やかな風に包まれていた。

「そろそろね……いや、もう着いてるのかな?」

 とん、とヨーコが足を踏みならした。
 その途端、長く引き伸ばされていた廊下がランドールとヨーコの立っている場所を拠点にくんっと縮まり、広大な四角い部屋に変わった。
 窓も出口もない、閉ざされた熱い箱のような部屋に。

「I see you!」

 歌うように彼女がつぶやく。その声によどんだ熱気のカーテンが左右に分かれ、目の前に二つの生き物が現れた。
 ぱさぱさの毛並みを通して骨の輪郭が透けて見えるほどやせ細った………………………犬。
 不釣り合いなほど太い鎖が四肢に絡み付き、床に縫い止めている。その床は真っ赤に熱せられた鉄板だ。じりじりと肉の焦げるにおいがする。

 そしてもう一つ。
 天井に届くほどの背の高い、巨大な影の巨人が一人。犬を踏みつけ、少しでも熱から逃れようとするその体を床面に押し付けている。
 腕も、足も、体も顔も、闇で塗りつぶしたように真っ黒。ただ目のあるべき位置にのみ爛々と、二つの炎が燃えたぎっている。

『痛い、痛いよ、熱い、ごめんなさい!』

 犬がか細い悲鳴を挙げる。
 人の言葉で。
 少年の声で。

 犬の体についていたのは、子どもの頭だったのだ。
 鳶色の髪に鳶色の瞳。ぎょろりと目ばかりの目立つやせ細った白い顔……それは、朝からずっとヨーコが追いかけてきたあの少年だった。

『お前は犬だ。役立たずの犬なんだよ。最低のクズだ』
『さあ、せいぜい泣け、わめけ!』
『みじめに泣きわめいて許しを乞え。そうやって俺の気晴らしになるぐらいしかお前の使い道なんて存在しないんだよ……』
『ほら、もっと声を出せ、この役立たずの野良犬めが!』

 影の巨人は狂った様に拳をふるい、足で踏みつける。そのたびに犬と融合した少年が泣き叫ぶ。

「何てことだ!」

 日常を不気味に歪めた光景の恐怖よりも、子どもの悲鳴がランドールの胸に突き刺さった。
 こんな事、あと一秒だって許しておくものか!
 激しい怒りに駆り立てられ、彼は猛然と影の巨人に向かって踏み出そうとした。

「待って」

 ほっそりした手が手首を包み、優しく押さえる。

「止めるな、Missヨーコ。あの子を助けなければ!」
「私も同じよ。だからこそ、待って」

 ヨーコは彼の手を握る指先に力を込めた。すっと左手を持ち上げて指さし、ランドールの視線を導いた。

「あれは彼自身の影。見て、根っこはあの子の中にある……ほら、あの巨人の足」
「……あっ」

 彼女の言う通りだった。
 半ば犬と化した少年を踏みにじる巨人の足はそのまま少年のわき腹に溶け込み、一つになっている。
 
「だが、あの子は現に苦しんでいる! あの涙は本物だ」
「ええ……その通りよ。まずはアレを切り離さないとね」
「どうやって?」

 ヨーコは口角をつりあげ、にまっと笑った。一言も発しなかったけれど、ランドールは彼女の意志を確かに感じた。

『見てて』

 きりっと背筋を伸ばしたまま、ヨーコは人頭犬身の少年と影の巨人に向かって歩いて行く。巨人は少年をふみつけたまま、ぐるりと首のみ回転させ、ヨーコをにらみつけた。

『何だあ、ひっこんでろおおおおお。これは躾なんだよおおおお』

「どこが躾だ。私は教師よ。保護者面して子どもを虐待する親を見過ごす訳には行かないの」
『教師ぃ? 教師だぁ? 引っ込んでろ』

 ずぶり、と巨人の腹の辺に別の顔が浮び上がる。目をつりあげ、口元をひきつらせた青ざめた女の顔だ。

『これは家庭の問題なんです。家庭の問題なんですってば。近づかないでください、放っておいてください、だいたいあなた、ご自分の子どもはいるの?いないでしょ、子どもを育てたこともないような若い女の先生になんかとてもじゃないけど子どものいる母親の苦労はわからないんです、だから放っておいてください、さっさとお帰りください、さあさあさあ!』

 ひっきりなしに喚く女の口からは青黒い唾が飛び散り、床に落ちてじゅくじゅくと、強い酸性の蒸気を放つ。
 雫が飛び、白い上着がじゅっと溶けて小さな穴が空いた。

「Missヨーコ!」

 ヨーコはわずかに眉をしかめたものの、怯える風もなく。ちょいと眼鏡の位置を整え、一言

「黙れ」とだけ言った。

 女の顔はまだぱくぱくとせわしなく口を動かしている。が、音は出ない。全て掻き消えている。
 ヒステリックな金切り声を取り除いてしまうと、もう、ただの滑稽なパフォーマンスにしか見えなかった。恐怖や苛立ちよりもまず、苦笑を誘う類いの。

「私はあなたの教育方針を否定するつもりはないし、これまでの生き方を批判する意志もない」

 女の顔の動きがピタリと止まる。何かを言いかけた形のまま、口も、眉も、鼻も目も、そのまま凍りついてしまった。

「そもそもお前はもう死んでいる。もはや存在しないのだから社会的な体面も体裁も気にする必要はないじゃないか。そうだろう?」
 
 その一言で女の顔はぐにゃりと形を失い、影の中に沈んで消えた。

「ふん。タフガイを気取ってる割には、面倒くさい社会上の手続きは全て奥方を通じて行っていた訳か」

 影の巨人の体がぶるぶる震え出した。

「奥さんがいなくなった今は、近所づきあいもできないのだな。ちゃんと台所の生ゴミ、指定日に出してる? ビールの空き缶は?」

 おぉおおおおおおおおおおおおお!

 ぐんにゃりと歪み、もはや言葉にすら成らない音を発して巨人はヨーコにつかみかかろうとした。少年に食い込んでいた足がめりめりと引きはがされ、長く尾を引いて伸び始める。

「そうだ。悔しかったここまで来てみろ。私は逃げないぞ。恐ろしくないからな」

 影の巨人はヨーコに向かって猛然と走り寄る。しかし、少年と融合している片足にぐい、っと引き戻され、床に倒れた。
 熱い金属に焼かれて悲鳴を挙げる、その顔に向かってぴたりとヨーコは右手の人さし指を突きつけた。

「お前は怪物なんかじゃない」

 ぐにゃりと巨人の輪郭が歪む。限界まで熱したゴムのように波打ち、だらだらと溶け落ち始めた。

「私は知っている。私は見た。お前はただの大人だ。ただの男だ」

 辺り一面に胸の悪くなるような臭気を漂わせ、巨人の体が溶けて行く。崩れて行く。
 どす黒い粘液となって滴り落ち、床面で焼けこげ、蒸発する。

「自分の気晴らしのために子どもを……自分より弱い生き物を傷めつけることしかできない、最低のクズ野郎」
『も……もぉ……やめでぐで………』

 すっと目を細めると、ヨーコはちらりと白い歯を見せた。その顔を見た瞬間、ランドールの脳裏についさっき聞いた彼女の言葉が閃いた。

『斬り捨て御免、峰打ち無用』

「お前は老いている。お前は弱い」

 巨人はすでに巨人ではなかった。
 溶けて縮み、頭は小さく、腹ばかりがぶっくりと膨れた奇怪な、等身大のゴムの人形。不気味でもなく。恐ろしくもなく。むしろ笑い出したくなるような、滑稽な人体のカリカチュアと成り果てていた。

「お前なんかより、お前の傷めつけている存在の方が、ずっと生きる価値がある」

 弱々しく首を振ると、変わり果てた巨人の残骸は顔を覆い、どっと地面に突っ伏した。

「今だ……影を切り離す。あの子を受けとめて」
「わかった」

 ヨーコはポケットから黒い小さな布袋を引き出し、中から一枚のカードを抜き出した。

「剣の一番……来い!」

 カードの表面に描かれた『巨大な剣を握る手』のイメージが立体化し、具現化する。

「行け!」

 剣のイメージは一陣の光となって走り、少年と影を繋ぐ細い、長い尾に斬りかかった。か細い尾は容易く断ち切られるかに見えたが……

 がきぃん!

 耳障りな金属音ともに光の刃が弾かれる。その瞬間、ヨーコの指先にぴっと一筋切り傷が走り、赤い血が一滴ほとばしる。

「ちっ」

 弾かれ、くるくると回転しながら戻ってきたカードをヨーコはぴしっと左手で受けとめた。

「くっそー、硬いなぁ」

 影は相当深く少年の中に根を降ろしているようだった。弱らせたとは言え、文字通り『刃が立たない』。それどころか、しゅるしゅると縮み、少年の中に今一度身を潜めようとしている……急がなければ!

 歯がみしていると、急に左の胸ポケットからぶるぶると震えた。

「え?」

 愛用の黒に赤で縁取られた携帯が飛び出し、宙に浮く。

「あれ?」

 鳴り響く軽快な着信音ともに、しゃこっとスライドした。ストラップにつけた鈴が『りん』と鳴る。

『着信中:風見光一』
「あ…………」

 ちかっと点滅したディスプレイ画面から、まばゆい光の粒があふれ出し、凝縮しておぼろな人影を形づくる。めらめらと揺らめく浅葱色の煌めきに包まれ、陣羽織をまとった目元涼しげな若侍が出現した。腰には黒鞘の太刀を帯びている。

kazami.jpg ※月梨さん画「風見、参上!」

「風見!」

 にこっと笑うと、若侍はザ、ザ、ザと影と少年に走り寄り、間合いを詰めるやいなや抜く手も見せずに一刀両断!
 満月よりもすこぉし欠けたる十六夜の、月にも似た銀色の閃きとともに音も無く、影と少年が切り離された。

『風神流居合…『風断ち』(かぜたち)』

 影はぐにゃりと形を失い崩れ落ち、片や少年の体は衝撃で宙に舞う。あわててランドールは走りより、やせ細った体を受けとめた。
 もう、犬の形をしてはいなかった。

 若侍はひゅん、と太刀を振って飛沫を払い、流れるような動きで鞘に収めた。それからちらりとこちらを振り返り、ぱちっと片目をつぶってウィンク。

『ダメだよ、羊子せんせ。一人で突っ走っちゃ!』
「………ばれたか……」

 にこっとほほ笑むと、若侍は光の粒子に戻り、携帯に吸い込まれ……消えた。

「今のは、いったい」
「あー。あたしの教え子」

 技を使う時は技名を叫べと、以前教えたのをきちんと覚えていたらしい。

(ほんと、素直な子って大好き)

 いったい、どうやって自分の危機を察したのか。
 ぱしっと携帯を回収し、胸ポケットに収める。
 こいつの中には、彼とやり取りした何通ものメールや、教え子たちの写真が入っている。それを足がかりにしてサポートしてくれたのだろう。

「こりゃ帰国してから説教くらうなぁ……」
「教師だったのか」
「ええ。歴史教えてます」
「ジュニア・ハイの」

 聞かなかったことにしとこう。風見光一の名誉のためにも。

「やったのか?」
「そのはず…………いいや、まだだ。悪夢が消えない……何故?」

次へ→【ex5-8】夜を疾走る者

【ex5-8】夜を疾走る者

2008/08/04 14:26 番外十海
 
 切り離された影は消えていなかった。形を失い、溶けて流れるかと思ったが……じゅくじゅくと周囲の闇を吸収している。
 焼けた鉄の箱は消え、暗い夜の森に変わっていた。

(そうか、こいつ、今度はランドールの記憶を吸収しているんだ!)

 ゆらり、と黒い影が立ち上がる。二本の後足で直立した巨大な狼。半ば人の形を留めながらも体表は全て黒々とした剛毛に覆われ、ぞろりと割れ裂けた口には白い牙が生えそろう。尖った牙の合間から、だらだらとよだれが滴り落ちた。
 むわっと濃密な獣の匂いが漂う。
 今や天井は高々と上がり星ひとつない夜空に変わり、煌煌たる満月の冷たい光が空間を満たしていた。

 視界を圧倒するばかりに巨大な、蒼白い月。現実ではあり得ない。地平線にかかるほどのサイズの満月なんて。

「う……わ」

 ヨーコは思わず一歩、後じさる。ランドールが首を横に振り、かすれた声でつぶやいた。

「ル・ガルー(人狼)……」

 人狼はぶるっと体を揺すると満月を仰ぎ、吼えた。

 ルゥルルルルルルルル………ワ、ワゥオオオオォオオオオオン、オン!

 頑丈な後足が地面を蹴る。ずざざざっと土を蹴立てて宙に飛び、人狼が飛びかかってきた。

「く……棒の9番……いや、全部来い!」

 ランドールと、少年と、自分を護る壁を思い描く。『棒の9番』を核にして、手持ちのカードを全て自分たちの周囲に張り巡らせた。
 核にしたカードの絵では、敵の襲撃に備えて棒を組んで高い防護壁を築いていた。
 しかし何分とっさにしたことだ、期待通りのイメージを導き出せるかどうか……果たして、カードの1枚1枚が鳥の形に変わり、円を描いてぐるぐると飛び回る。
 昨日の浜辺での記憶が残っていたらしい。

「しまった!」

 力強い羽ばたきに遮られ、かろうじて人狼の進行は阻まれた。が、牙と爪が閃くたびに一羽、一羽とたたき落とされ、消えて行く。その度にヨーコの腕や肘、胸、着ている服に微かな切り傷が走り、裂けてゆく。

 やはり壁が薄い。柔らかすぎた! だが今さら集中を解くことはできない。
 鳥の数は78羽。果たしていつまで持ちこたえられるだろう?

 びしっとまた一羽、鳥が消えた。ジャケットが大きく引き裂かれ、肩から胸にかけてすうっと浅い切り傷ができた。

「Missヨーコ、傷が!」
「平気。この程度の傷、いつでも治せる!」

 今の内に対抗手段を見つけなければ……3人とも、喰われる。

 あれが利用しているのはランドールの記憶。ならば、鍵を握るのは彼だ。意を決してヨーコは語りかけた。
 日本語ではなく英語で。
 彼の母国語で。より真っすぐに、ランドールの心に届く様に願いを込めて、揺らぎのない意志で、きっぱりと。

「思い出してランドール。あなたは確かにお母様からルーマニアの血を受け継いでいるけれど、育ったのはアメリカだ」

 あえて言葉を選ぶ。人狼(ル・ガルー)はなく、狼男(ウルフマン)と言い換える。ヨーロッパの伝承ではなく、アメリカの伝統になぞられて。

「あなたは知ってるはずよ。狼男の弱点は……何?」
「弱点……狼男の……」
「そうよ。あなたの事は私が守る。だから……あなたも、私を守って!」

 その一言が、ランドールの気高き『紳士の魂』を奮い立たせた。

(彼女を。この少年を、守らなければ!)

 握りしめた赤いリボンが手のひらの中で形を変えて行く。小さくて堅い物に。指の間から清らかな白い光があふれ出す。
 そっと手のひらを開いた。涼やかな光をたたえた、銀の弾丸が出現していた。

「ヨーコ、これを!」

 これがどこから来たのか、そんなことはどうでもいい。大切なのはこれが今、必要なのだと言う事実。

 とっさにヨーコに向かって投げた。彼女は迷いのない動きで左手で受けとめ、ジャケットの胸ポケットから何かを引き出した。
 二連式の銃身、ほとんど装飾のないシンプルな外観。女性の手にすっぽり収まるほどの、中折れ式の小さな拳銃。だがそのちっぽけな外観に反して引き金を引くにはかなりの力を必要とする。あるいは熟練の技を。

 ハイスタンダード・デリンジャーだ。

 慣れた手つきで弾丸を装着すると、ヨーコは人さし指で銃身を支えて構え、中指を引き金にかけて……射った。
 ちかっとガンファイアが閃く。しかし、音は聞こえなかった。

 銀色の流星が一筋、銃口からほとばしり、鳥の羽ばたきが左右に分かれる。流星は一直線に狼男の口の中に吸い込まれ、牙を砕き、その頭部を貫いた。
 
 影が散る。
 厚みも重さももろとも失いほろほろと、塵より儚く崩れ去る。
 にやっと白い歯を見せてヨーコが誇らしげにほほ笑み、こちらを向いた。傷だらけになりながらもすっくと立って、右の拳を握り、ぐいっと親指を立てた。
 ほほ笑み、同じ様にサムズアップを返す。
 同時にランドールの腕の中の少年は、淡い光の粒となって消えて行った。

 暗い森に朝が来る。白い光が木々の合間をくぐり抜け、朝露がきらめく。

 ああ、もう大丈夫だ。
 自分は、彼らを守ることができたのだ。
 清々しい充足感を抱いたまま、ランドールはあふれる光を受け入れた。

 
 ※ ※ ※ ※ 
 
 
「……あ………」

 やわらかな午後の風が頬を撫でる。
 足の下に、伸びた芝生の感触。

「ここは……………」

 裏庭だ。とっさに腕の時計を確かめる。最初にこの空き家に足を踏み入れてから、やっと10分経過したところだった。

 10分……たったの?
 信じられない。

 あわてて服装を確かめる。吸血鬼の衣装じゃない……元に戻っていた。

「そうだ、ヨーコ!」
「ここよ……」

 彼女は金属の箱から手を離し、立ち上がった。
 血は出ていない。怪我はしていない。だが……ジャケットに裂け目がある。やはり、あれはただの夢ではなかったのだ。

「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫」

 にっと笑う。
 夢が終わる直前、ヨーコは見ていた。
 閃いたイメージはかなり圧縮されていたけれど、大事なことは全て見得た。

 今、現在。
 父親の住んでいる、こことは別の家の裏口で、銃を懐に明らかに尋常ではない訪問を行おうとしていたかつての少年が動きを止めた。
 薄汚れた窓から中をのぞく。
 ゴミの散らばる部屋にうずくまる、老いて小さく縮んだかつての親。点滅するテレビの画面をのぞきこんでいる。
 床にも、テーブルの上にも、ビールの空き缶やピザの空き箱、テイクアウトの中華の空き箱、ありとあらゆるジャンクフードの箱や袋が散乱していた。

 じっと見て………ドアには手を触れずに立ち去る。
 緑の布に黄色のロゴマークのパーカーを羽織った背中が遠ざかる。

 彼は二度と振り返らない。

「……良かった……」

 ほう、と安堵の息を吐く。
 熱い閉ざされた箱の中には、もう誰もいない。

「何だったんだ………あれは」
 
 ランドールが首をかしげている。真摯な目だ。
 
(そうよね、彼には知らせなければいけない。助けてもらった恩義もあるし、何より母から受け継いだ資質がある)

 慎重に言葉を選びながらヨーコは話した。
 ネイビーブルーの瞳を見据えて、静かな声で。

「全ての虐待の被害者が加害者になるとは限らない……その理由の一つにアレの存在がある。心の闇に巣食って恐怖を煽り、憎しみに変える。そう言う存在が確かに在るの」

「悪事の原因は全て自分の外側にある、か? あまり好きじゃないな、そう言う考えは」

「気が合うなあ。あたしもそう! 何でもかんでも他人の所為にしたがる奴。俺は悪くないと言い張り、反省のカケラもない……そんな奴の成れの果て、なのかもね」

「君はいつもこんな事をしているのか?」
「何故、そう思うの?」
「慣れていた」
「まあ、ね。初めてじゃないことは確か」
「………怖くないのか?」

 参った。痛い所を突かれたな……。
 しばらしの間、ヨーコは言葉に詰まった。

(……いっか。彼は少なくとも私より年上だ。教え子でもないし弟でもないのだから、敢えて強がる必要もないよね)

 素直にうなずいた。

「怖いよ。余裕なんてない、いつだってギリギリ。こんなこと辞めたい、絶対無理だって、いつも内心、泣きべそかきながら思ってるの。生きて戻ったら、こんなこともう二度とやるもんか! って」
「でも、辞めないんだろう? 君はそう言う人だ」
「それ、直感?」
「いいや。経験に基づく確信だよ」
「………ありがとう…………」

 急に力が抜けてしまった。んーっと伸び上がり、あくびを一つ。
 日が陰っていて、上手い具合に芝生の一角が日陰になっていた。とことこ歩いて行ってぺたりと座り込み、ころんと横になる。

「ごめん、ちょっと寝かせて」
「ヨーコっ?」
「眠いの……話の続きは……起きてからね」

 小さなあくびをもう一つ。目を閉じたと思ったら、もう寝ていた。
 せめて寝る前にホテルの場所を教えて欲しかった。

 いつまでも芝生の上に寝かせておく訳にも行かない。そっと抱き上げて裏口から抜け出し、車に運んだ。
 意外に軽かった。
 助手席をリクライニングさせて寝かせるその間も、ヨーコはぴくりとも動かず、やすらかに寝息を立てていた。

 まったく、無防備にもほどがある。若い娘が、男の前でこんな風にすやすやと眠りこけてしまうなんて。
 いったい、どうすればいいのか。自分がゲイだと知って安心しきってるのだろうか。

 ……いつ、彼女は知ったのだろう。

次へ→【ex5-9】夢の後で

【ex5-9】夢の後で

2008/08/04 14:30 番外十海
 車を公園の木陰に寄せ、眠るヨーコを見守ってからそろそろ2時間が経過しようとしている。

 困った、そろそろ夕方だ。いつまでもこのままにしておく訳にも行かないし……。
 レオンハルト・ローゼンベルクかディフォレスト・マクラウドか。とにかく、彼女を知ってる人に、連絡してみよう。
 携帯を取り出し、最初に思い当たった番号を入力した。
  

 ※ ※ ※ ※
  
 
 サリーこと結城朔也が医局でひと息入れていると、携帯が鳴った。
 覚えのない番号からだったが、何故か出なければいけないと直感で思った。

「ハロー?」
「ハロー。君の従姉が今私の隣ですーすー気持ち良さそうに寝ていてなかなか起きないのだが、どうすればいいのだろう」

 知らない男の人の声だった。

「………ドチラサマデスカ?」
「ランドールと言う。……記憶にはないだろうが君とは昨日会っているらしい」
「はぁ……うーん、どうしよう……俺まだ19時までここを出られないので……」
「……しかたない。彼女の泊まっているホテルは?」

 少し迷ってから、ヨーコの泊まってるホテルの場所を教えた。

 いったい何があったの、よーこさん。昨日会ったばかりの男の人の隣で『すーすー気持ち良さそうに寝て』いるなんて!
 とにかく、勤務が開けたら、すぐに部屋に行ってみよう。何を置いても最優先で、すぐに。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 教えられたホテルに向けて車を走らせていると、むくっとヨーコが起きあがり、リクライニングしていたシートを元に戻した。

「大丈夫か、Missヨーコ」
「ええ……もう大丈夫。ありがとね、Mr.ランドール」
「説明……してくれる約束だったろう」
「邯鄲の夢って言葉知ってます? 一眠りしてる間に結婚して、子どもが生まれて出世して、人生の終わりまで見るって話」
「ああ。新スタートレックの『超時空惑星カターン』の元になった話だろう? 中国の伝説で」
「意外にマニアックなことご存知なのね……まあ、それぐらい夢には不思議がつきまとうんですよ」
「そうなのか?」
「ええ。東洋の神秘ってやつです」
 
 何やらよくわからないが、中国と彼女の母国である日本は確かに文化的に非常に密接な繋がりがあると聞いたことがある。
 だから、きっと今回のことも、関係が……ある……のか?
 少なくとも、夢から覚めた時に時間が10分しか経過していなかったことの説明にはなっているような気がする。

「そう言えば、昔から、親しくなる友人には私と同じ夢を見る奴が居たな………」

 なるほど、多少の自覚はあるんだ。
 ぴくりとヨーコは右の眉を跳ね上げた。だったら話は別。はぐらかさずに事実を伝えておくべきだろう。

「それは。あなたがその人の夢に入ってるからよ」
「そうなのか? 世の中には不思議な力のある人が結構居るもんだなぁと思っていたけれど……」
「ええ。あなたもその一人と言う訳ね。お母様から受け継いだ数多い資質の一つよ。誇りを持ちなさい、ランドール。ただし、影に引きずられぬように」

 まだ少し気になるけれど、最初のアプローチはこんなものだろう。
 彼は紳士だ。母から受け継いだ血統と文化に誇りを持っている。こう言っておけば無自覚に能力に振り回される可能性は減らせるはずだ。

「もし困ったらいつでも電話して。すぐに会いに行くから……あなたの夢の中へ、ね」
「ああ。歓迎するよ」

 そう言って、カルヴィン・ランドールJr.は笑った。
 上品な紳士のほほ笑みではなく、文字通り破顔一笑、天真爛漫。少年のように無邪気な、心の底からうれしそうな笑顔だった。

(参った。そこでほほ笑むか、その顔で)

 ヨーコは思った。
 やっぱり、この人………可愛い、と。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 その夜、勤務が明けるとサリーは一直線にヨーコの滞在するホテルに飛んで行った。部屋に行き、ノックをすると……。

「やっほー、サクヤちゃーん」

 毛布をかぶったヨーコがぼーっとした顔で出迎えてくれた。髪の毛も結っていないし眼鏡もかけていない。足元を見ると、靴はおろかスリッパすら履いていなかった。

「ごめんねーびっくりしたでしょー」
「うん……どうしたのさ」

 部屋に入ってからちらっと見ると、毛布の下は下着どころか何も身につけていない。思わず目眩がした。

「あ」

 さすがに本人も気づいたらしい。毛布をかぶったままのそのそとバスルームに入り、バスローブを羽織って出てきた。

「……疲れてるんだよね、しょうがないけど……ドア開ける前に気付いたほうがいいよ」
「ごめん、つい」

 疲労が限界まで達するとヨーコはいつもこうなる。少しでも体を締めつける物が触れているのが我慢できないらしいのだ。

「いったい何があったの」
「朝ご飯たべて……外の通り歩いてたら、肩のぶつかった相手からどーっとね……良くないイメージが流れ込んできて……思わず追いかけてしまいました」
「そっか……それで疲れちゃったんだ」
「うん……一人じゃ手に負えなかったから……たまたま運良く知った顔が通りかかったんで」
「それがランドールさん?」
「うん」
「突然電話かかってきたから驚いた」
「何となくヤバそうな予感がしたから……もしもの時は連絡してねって」
「そっか、大惨事じゃなくてよかったよ」

 ヨーコは目をぱちくりさせ、ちょこんと首をかしげた。

「電話って……もしかして、直接ランドールさんから?」
「うん」
「うっそ! あたし、マックスかレオンに連絡して、としか言ってなかったのに!」
「それってまさか」
「言葉には出さなかったけど、その時、サクヤちゃんの事考えてたのは事実なんだ。あの二人に連絡してもらえれば、サクヤちゃんにも伝わるだろうって」

 無意識のうちにランドールには、自分が一番、知らせて欲しい相手が伝わっていたと言うことか。
 しかも、電話番号まで。

「伝わっちゃったって、こと?」
「自覚ないみたいだけど……母方から資質、受け継いでるみたいね、彼」
「まさか、一緒にヴィジョンの中歩き回ったり……してないよね、よーこさん」

 ヨーコは左右に視線を走らせてから、がばっと頭を下げた。

「…………………ごめんなさい」
「やっちゃったんだ……」

 サリーは深々とため息をついた。
 まったく、この人は! 日頃っから『自分一人で突っ走るな』と言ってるくせに……。ここで怒ってもしょうがない。それはよくわかってる。
 だけど。

 ヨーコは感知能力に優れているし、肉体的な怪我や病気も治すことができる。しかし、真っ向から敵に対抗し、身を守る能力は極めて弱いのだ。身体的にも。精神的にも。
 当人がとんでもなく打たれ強いからいいようなものの……。

 思わずため息をついた。
 ふかぶかと、腹の底から。

 ヨーコがますます身を縮ませる。

「無事だったから良かったけど、動く前に連絡してくれたら半日休みぐらいはとれるから」
「うん………」
「それで、そのランドールさんには、何て説明したの?」
「東洋の神秘です、と」
「そんな、いい加減な!」
「そうしたら、昔っから親しい人と同じ夢を見ることがあったから、今度もそうだったんだろって言うから……教えちゃった。それはあなたがその人の夢に入ってるからだって」
「そっか……そうだね。無意識でやってると事故に巻き込まれやすいから、知っておいた方が安全かもしれない」

 ヨーコは何気なく髪の毛に手をやって、あ、と小さくつぶやいた。

「……リボン、彼に渡したまんまだった」
「いいんじゃない? これで繋がりができた」
「そうね。次にコンタクト取る時の足がかりになるし」
「せっかく来たから、一緒に食事に行く?」
「……うん」
「なに食べようか」
「タイ料理美味しいのあるんだって?」
「うん、この間パッタイ食べたよ。他のも美味しそうだった」
「じゃ、そこがいいな」
「OK」
「ちょっと待ってね、今仕度してくるから」

 ヨーコはクローゼットを開けて着替えを取り出し、再びバスルームに引っ込んだ。
 開けっ放しのクローゼットの中をのぞきこむと、白いシャツジャケットが傷だらけになっていた。

(また……危ないことして)

 きりっと一瞬、唇を噛むとサリーはジャケットを手にとり、すっと手のひらで表面を撫でた。

「……お待たせ」

 エメラルドグリーンのタンクトップに白のクロップドパンツを身につけている。見た所体に傷はついていないようだが……上着があれだけ傷だらけになってるんだからけっこうピンチだったはずだ。

「はい、これ。夜はけっこう冷えるからね」

 さりげなく笑顔でシャツジャケットをヨーコの肩に着せかけた。

「あ、でもこれ………」
「直しといた」

(………………………ばれた!)

「あとでランドールさんにもお礼言っとかなきゃね」
「…………うん」
「じゃ、行こうか」

 そして二人は食事に出かけた。
 行き先は小さなタイ料理の店。美人の看板娘と看板猫のいる所。

 
(熱い閉ざされた箱/了)


後日談→とりかえっこ
 
次へ→【ex6】初めての贈物

【ex6】初めての贈物

2008/08/10 18:58 番外十海
  • 高校時代のお話。レオン2年、ディフは1年、ルームメイトになってから最初のクリスマス休暇。
  • レオンの誕生日は12月25日なのですが、この頃のディフはまだその事を知りませんでした。
  • ヒウェルもこの頃はまだゲイに目覚める前だったりします。

【ex6-1】己の借りは己で払え!

2008/08/10 18:59 番外十海
 
 12月になると、学内はそこはかとなくそわそわした空気に包まれる。

 一週間も経つ頃には寮の中ではぽつりぽつりと帰省の準備が始まり、微妙に慌ただしい、せかせかした雰囲気が漂い始める。
 クリスマス前のお楽しみ。誰も彼も喜怒哀楽、どんな表情にも潜在的に笑顔が混じるこの時期に、ディフォレスト・マクラウドは一人、浮かない顔をしていた。

 クリスマス休暇中、寮は閉鎖されてしまう。否応無く実家に帰らなければいけない。
 家族に会えるのはもちろん、嬉しい。両親にも。兄にも。伯父や叔母、数多い従兄弟やその子どもたちと過ごすクリスマスを思うと心が弾む。
 だが寮を離れると言うことはその間、ルームメイトのレオンとも離ればなれになってしまうと言うことなのだ。

 それが、唯一、寂しい。

 どうやらレオンも実家に帰るのはあまり気が進まないらしい。
 そこで昨夜、思い切って申し出てみた。

「俺ん家、くるか?」

 レオンは控えめな笑顔でありがとう、と言ってから「いや……遠慮しておくよ」と付け加えた。

(そうだよな……いくらなんでも図々しかったよな。あいつにだっていろいろと予定があるだろうし)

 本日、何度目かのため息をつきながら廊下を歩いていると、ばたばたと誰かがかけてきて、がしっと腕をつかんだ。

「うぉ?」
「たのむ、ディフ、かくまってくれ!」
「ヒウェル? 何やってんだ、お前」

 リスのようにくりくりとした琥珀色の瞳、少女と見まごうような愛らしい顔立ちの美少年。だが口元に浮かぶこずるい笑みに気づいた瞬間、そんな幻想は木っ端みじんにくだけ散る。
 
「うっかりポーカーで負けがこんでさ。追われてるんだ。たのむ!」
「ポーカーって、お前、校内で賭け事なんかやってるのか!」

 ぎりっと眉をつりあげ、怒鳴りつけるとヒウェルは首をすくめて情けない笑みを浮かべた。

「怖い顔すんなって。賭けてるのは現金じゃないよ。俺だって真面目な学生なんだよ?」
「む……」

 いささか説得力に欠けるのはこいつのにやけた面構えのせいか。だが根拠なく友人を疑うのもよくない。

「じゃあ、何を賭けてるんだ? チョコレートか? ランチ一回分か?」
「……に、しときゃよかったよ」

 目を半開きにしてため息ついてやがる。いったい何を賭けたんだ、ヒウェル?
 首をひねっていると、ばたばたとクラスの女子数人が駆けてきた。

「あ、いたいた、ヒウェル!」
「や、やあ、ジャニス、カレン、ヨーコ!」
「逃げるなんて卑怯よ?」
「ルールはルールですからね。負けた分、きっちり支払ってもらうわよ」

 背の高い浅黒い肌のジャニスが進み出て、びしっとヒウェルの額を指さした。ヒウェルは首をすくめてディフの背後に回り込み、がっしりした体格の友人を盾にした。

「おい、ヒウェル……」
「頼む、マックス。一緒に払ってくれないか、俺の借り……」
「あ、ああ、俺の払えるものならば」
「軽々しく請け負っちゃだめよ、マックス」

 鈴を振るような声。
 ヨーコだ。ジャニスの隣に立ってちょこんと首をかしげている。この二人、並んで立つと余計に身長差が際立って見える。

「ヒウェル。自分の借りは自分で払いなさい。他人を巻き込まないの」
 
 さほど大声を出している訳じゃない。しかし声はあくまでクリアで迷いのかけらもなく、瞳の奥には強い意志の光が宿る。下手すれば中学はおろか、小学生に見えそうなヨーコに気圧されて、ヒウェルが首をすくめて縮こまる。

「潔く……」

 すうっと目を細めると、ヨーコはびしっと人さし指をヒウェルにつきつけた。

「脱げ」
「う」
「脱げ?」
「そうよ」

 改めて見ると、ヒウェルは既に眼鏡も上着も時計も身につけていなかった。靴も靴下も履いていないし、ジーンズのベルトも無い。

「もしかして、ポーカーってのはただのポーカーじゃなくて……」

 にまっと笑うとヒウェルはきまり悪そうにこりこりと頭をかいた。

「そ。ストリップポーカーやってたの」

 要するにルールはポーカーなのだが……その名の通り負けたら一枚脱ぐ。
 腕輪やピアス、ネックレス、時計やベルト、眼鏡も有効。せいぜい脱いでも上着ぐらいで深刻なレベルまではやらないのが暗黙の了解だ。

 本来ならば。

「あきれた奴だ。女の子と一緒にストリップポーカーだなんて! 下心見え見えじゃないか!」
「だってさあ。ここんとこ冷え込み厳しくってみーんな厚着になっちゃったろ? せめて潤いがほしかったんだよ。ブラジャーとまでは行かないから鎖骨ぐらいは拝みたいなと」
「貴様!」

 くわっと歯を剥いてにらみつけると、ヒウェルはそっぽを向いてぐんにゃりと口の端を曲げ、見え見えのへ理屈を吐き出した。

「いーじゃん、参加した時点で同意したも同然でしょ?」
「でも、負けたんだな?」
「うん、ヨーコのほぼ一人勝ち……」

 そう言えば他の子たちは眼鏡や上着、ピアスを片方だけ外していたりするのだが、ヨーコだけはざっと見て欠けがない。

「で、お前は次はシャツ脱ぐしかないわけだな?」
「それ以上に何回か負けが重なってね……頼むよ。お前さんも一枚ぐらい脱いでくんない?」
「なるほど、事情はわかった。そう言うことなら……」

 ヒウェルの襟首をひっつかみ、ぽいっと放り出した。待ち受ける女の子たちの真ん前に。

「きっちり払え」
「うお、ちょっと、マックス!」
「サンキュ、マックス!」
「さーヒウェル、覚悟しなさい?」

 ずるずると引きずられるヒウェルを見送ってからディフはくすっと笑って……それからまた小さくため息をついた。
 しばらくの間、握った拳を口元に当てて考えていたが、やがてぱっと顔を上げ、ざかざかと大またで歩き出した。
 寮の部屋に向かってまっしぐらに。

 あいつはもう、部屋に戻ってるだろうか。いるといいな。
 休暇の間会えないのなら、それまでの時間を無駄にしたくはない。できるだけ一緒に居たい。
 
次へ→【ex6-2】電話でメリー・クリスマス

【ex6-2】電話でメリー・クリスマス

2008/08/10 19:00 番外十海
  
 そして、クリスマス。
 七面鳥のローストにクリスマスプディング、ミートローフにアップルパイ、フルーツケーキにエッグノック(ただし子どもはアルコール抜き)。
 久しぶりに母の作ってくれたごちそうを喉まで詰め込み、遊びに来た伯父一家との団らんも一段落ついたところで……ディフは電話をかけた。
 原則として家に居る時は携帯の使用は控える決まりになっていた。さらに厳格な父親は、彼が自分の部屋に専用の電話を引くのを許可してはくれなかった。
 だから必然的に居間の電話から。

「おいたーん、あそぼー」
「ちょっと待ってくれ。これから友だちに電話するんだ」
「うー」

 赤毛の甥っ子(正確には一番上の従兄の息子だが)は不満そうに頬をふくらませ、テレビの前にとことこと歩いて行き、ころんと床に転がった。
 こっちに背中を向けたまま、もらったばかりのトレーラーのオモチャをガラゴロと所在なげに走らせている。
 
(……ごめんな、ランス)

 心の中で謝ってから、番号を押した。緊張で指が少し震えた。数回のコール音の後、受話器を取る気配がした。

「はい。こちらローゼンベルクでございます」

 大人の男の人の声だ。落ちついた口調、きちんとしたアクセントと丁寧な発音。聞いていて思わず背筋が伸びる。
 レオンの親父さんか?

「あ、あの、俺、レオンと同じ高校の、マクラウドって言います。えっと……レオン居ますかっ?」
「はい。お繋ぎいたしますので暫くそのままでお待ちください」
「わ、わかりました」

 受話器を持ったまましばらく硬直。

 オルゴールの音が聞こえてくる。
 何だっけ、この曲。「白鳥の湖」だったかな?それとも「アマリリス」だっけ? 確か聞いたことはあるんだ。知ってるはずなんだけど。
 うーわー、記憶がわやだ。もう、わけわかんねぇ……。

 ぷつっとオルゴールの音が途切れる。

「やぁ」

 いつもの声だ。どっと体中の力が抜け、自然と顔中に笑みが広がる。 

「あ……メリークリスマス、レオン! 元気かっ!」
「なんだか久しぶりだね。メリークリスマス」

(何だ、あいついきなり大声出して)

 ジョナサンは思わず弟の方に視線を向けた。
 後ろ姿しか見えないが、それでも嬉しそうな気配は伝わってくる。おそらく笑顔全開、尻尾があったら全力で振っている。そんな気がする。

(電話か? 妙に浮かれてるな……相手は女か? でもレオンっていってたな……いやでも女の子でもレオノーラとかレオナとかいるしなあ……)

 話している当人は背後のギャラリーの反応など知る由もなく。楽しげにレオンとの会話に没頭していた。

「そうだな。学校のある時は毎日必ず顔合わせてるし……あ、一緒の部屋だから当たり前か」
「こっちは退屈だよ。何もなくて困る」
「そっか……あ、お袋がお前によろしくって、いつも世話になってるから!」
「何もしてないよ。むしろ食べさせてもらってる」
「……土産に何か作ってくよ。何食いたい?」
「テキサスから持ってこなくても、サンフランシスコに戻ってからつくったらいいじゃないか」
「……そうだな……」

 どうやら、会話から察するにルームメイトと話しているらしい。

(何だ、男か)

 さっくりと興味を消失すると、ジョナサンはまた読みかけのミステリー小説に戻っていった。
 母はにこにこしながら末息子を見守り、父は『妙に長い電話だな』と首をかしげるがあえて口には出さない。
 ランスはころんとカーペットの上にひっくりかえり、テレビを見るふりをしながらちらちらと『おいたん』の様子をうかがった。

(せっかく、遊べると思ったのに。早くおわんないかな、電話)


「もうじき俺も市内に戻るよ。寮が閉じてる間は、ホテル住まいになりそうだけれどね」
「そうか! いつ戻るんだ? ホテルの場所は?」

 いそいそとホテルの場所と、日付をメモすると、ディフは電話を切った。じゃあ、またな、と陽気に告げて。
 受話器を置くと、母がほほ笑みながら声をかけてきた。

「楽しそうだったわね、誰と電話してたの?」
「レオン!」
「……そう。やっぱりレオンだったのね」
「おいたーん」

 たたたたっとランスが転がるようにかけてきて、ひしっと飛びついてくる。

「あそぼ?」
「ああ。待たせたな」

 子犬みたいにかっかと体温の高くなった甥っ子を抱えてカーペットの上を転がる。その前に、しっかりと胸ポケットにメモをしまった。

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 レオンは静かに受話器を置いた。部屋の中には彼一人、他には誰もいない。
 卓上の銀のベルを鳴らすと、控えめなノックとともに忠実な執事が現れる。

「お呼びでございましょうか、レオンさま」
「ああ、アレックス。サンフランシスコ市内にホテルをとってくれないか。それから年が明けてからのスケジュールの調整を」
「……かしこまりました」
 
 ホテルに移ったところで一人でいることに何ら変わりはないのだが、それでもこの広いだけの屋敷にいるより、ずっといい。
 
 耳の奥についさっき聞いたばかりのディフの声が残っている。

『メリークリスマス!』

 今日、何度その言葉を言われ、自分も口にしただろう。だが本当に意味があるのはさっき交わした一言だけだ。

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 クリスマスの翌日、ディフは久しぶりに近所のショッピングモールに買い物に出た。同じアメリカでも、カリフォルニアとテキサスでは売っているものの種類やテイストが微妙に違う。

 楕円形や金属の四角いプレートに細かな彫金を施したウェスタンバックルと呼ばれる大きめのバックルや、がっちりしたジーンズ、カウボーイの使うような幅の広いベルトなど。
 ウェスタン系の小物は断然、こちらの店の方が品質もしっかりしているし、種類も豊富だ。

 帰省のついでに買い込んでおくか、と行き着けの店に入る。
 クリスマスシーズンを見越してか、かなりの数の新作が入荷していた。

 鋭く白い輝きの銀製のバックルや、年月を経たセピア色に霞む色合いの美しいビンテージ品はさすがに手が出ないので見るだけで。
 19〜20ドルの自分の手の届く範囲の物を中心にじっくりと物色する。

 いろいろ迷ってから結局、楕円形のプレートに星のレリーフの入ったのを一つ買い求めることにした。会計を終えてから、ふと視線を横に滑らせる。

 いつも自分の使っているものより一回り小さなバックルのコーナーにそれはあった。
 ころんとしたシンプルな楕円形。縁をぐるりと取り囲む額縁状のレリーフ以外装飾はない。
 けれどその額縁の両端が、よく見るとある動物の横顔を形作っていることに気づいた。

(これは……あいつにぴったりじゃないか!)

 即座に心を決めた。

「……すいません、これもください。あ、ラッピングもお願いします」

 一日遅れだったが、まだクリスマスのラッピングは受け付けてくれた。
 
 
 ※ ※ ※ ※

 
「父さん」
「何だ?」
「俺、予定繰り上げて少し早めにシスコに戻りたいんだ。いいかな」
 
 ダンカン・マクラウドは新聞から顔を上げて息子を見た。

「まだ学校の寮は閉まってるだろう」
「うん、だから……郊外の牧場でバイトしようと思うんだ。オーブーさんとこで」

 オーブリー。兄(つまりこの子にとっては伯父)の友人オーブリー・マッキロイの事だ。週末は彼の農場でバイトをしていると聞いた。

「住み込みで、か?」
「うん。従業員がちょうど休暇で帰っちゃってるから人が足りないって言ってたし。電話したら二つ返事でぜひ来てくれって」

 もう電話したのか。やけに手際がいい。いったい、何だってこの子はそんなにサンフランシスコに戻りたがるのか……。
 そんなに早く家族の元を離れたいのだろうか?
 いや、ここ数日、息子の様子を見ている限りはそんな風には見えない。笑顔で家族と話し、兄弟仲も良い。親類の子どもたちとも全力で遊んでいる。心の底から楽しげに。

 いささか警戒心が薄い傾向はあるが、ダンカン・マクラウドはこの赤毛の息子の快活でまっすぐな性質を好ましく思い、また信頼していた。

「暇な時は、馬に乗っていいって」

 ああ、それなら納得だ。むしろ、それが目当てなのだろう。自分の兄の経営する牧場には、もうこの子の乗りこなせない馬はいないと言ってもいい。

 もちろん彼の不在中に新しい馬も入ってはいたが、この息子ときたら全て休暇の間に手なづけてしまった。
 ディーは丈夫な子だ。同じくらい、意志も強い。
 何度振り落とされても決してあきらめず、地道な辛抱強さを発揮して待ち続ける。馬が自分を信頼し、主導権を委ねるその瞬間まで。
 何があっても決してもの言わぬ動物を怒鳴ったり、増して暴力をふるうことはしない。
 そんな事をするぐらいなら自分の心臓をえぐり出す方がマシだと考えている。

 実に男らしく、勇敢で……誇れる息子だ。
 新しい場所で、新しい馬を試したいのだろう。

「良かろう。くれぐれも先方に迷惑はかけるなよ?」
「うん!」

次へ→【ex6-3】遅めのクリスマスプレゼント

【ex6-3】遅めのクリスマスプレゼント

2008/08/10 19:01 番外十海
 
 年が明けるとすぐさまディフはサンフランシスコに戻り、マッキロイ牧場で住み込みのバイトを始めた。
 仕事はいくらでもあったし、彼にとっては全て伯父の牧場の手伝いで慣れた作業だった。
 馬の世話、厩舎の掃除、牧場を運営する上でのありとあらゆる面倒で力の要る仕事。全ての作業は最終的には楽しみに通じ、彼の若い体を鍛えるのに役立った。
 毎日が楽しい。ただ、小さなランスだけは不満そうだった。

『もうシスコにいっちゃうの? 休みのあいだ、ずーっと遊べると思ったのに!』
『ごめんな、ランス……夏にまた来るから』
 
 ふくれっつらをした甥っ子の、クセのある赤毛を撫でてテキサスを後にした直後は少しばかり胸が痛んだものだった。

 バイトの合間にシスコ市内のホテルにレオンを訪ねた。
 行ってみたら、これがまた……ガイドブックのカラーページに載っていそうな一流ホテルで、思わずポケットからメモを取り出し、確認した。
 ホテルの名前。
 番地。

「………………………………………まちがってないよな?」

 中に入り、スニーカーを包み込むふかふかとした絨毯の感触にびびりつつ、ぴかぴかに磨き上げられたフロントに近づき、おっかなびっくりレオンの名を告げると……。

「こちらでございます」

 何てこったい。てっきり部屋番号を聞いて上がって行けばOKだと思っていたのに、制服をぴしっと着たホテルマンが先に立って案内してくれる!

「あ……ありがとうございます…………………」

 壁と柱は落ちついたアイボリーに統一され、値段の想像できないような陶器や絵、彫像が廊下の要所要所にひっそり置かれていた。
 何もかも重厚で厚みがある。美術品の真偽などまるでわからないが、よくインテリアショップで見かける複製品とは核が違うと肌身で感じる。

 別世界だ。

 ジーンズにセーターにダッフルコートなんて、ラフな格好で歩いていいんだろうか?
 
 案内されるまま乗り込んだエレベーターは、ぐいぐいと景気よく上昇して行く。ほとんど震動は感じないが一向に止まる気配がない。

(いったいどこまで上がるんだーっ!)

 長い廊下を通り抜け、やがて大きな……他の部屋と比べて、明らかに格の違う、どっしりした造りのドアの前にたどり着いた。
 ホテルマンが呼び鈴を押すと、きちんとスーツを着た男性が迎えに出た。髪の毛は銀色、目は空色。

(誰だ? レオンの親父さん……にしちゃ、ちと若いよな?)

 頭の中がぐるぐるしてきた。顔がかっかと火照っている。このフロア、暖房ききすぎじゃないか? あ、いい加減コート脱いだ方がいいのかな。
 悩んでいると、空色の瞳の男性が話しかけてきた。

「マクラウド様ですね、お待ちしておりました。こちらにどうぞ」

 言葉の詳細はわからないが、とにかく自分が呼ばれたのはわかった。こくこくとうなずき、ギクシャクと油の切れたブリキの木こりみたいに歩いて行く。
 視界の隅にちらりと、空色の瞳の男性が自分を案内してきたホテルマンにチップを渡しているのが見えた。

(こんなにふかふかのじゅうたんを、すにーかーでふんでもいいのだろうか)
(どうしよう、やっぱり、くつぬいだほうがいいのか?)

 うずまきができている。
 頭の中にも、外にも。足元にも。もう、自分の見聞きしたものが上手く脳みその中で形にならない。言葉にならない。ただ色と光と音が通過して行くだけ。

 くらくらと目眩にも似た感覚にとらわれながら広いリビングに入っていくと、椅子に座って本を広げていた少年が顔を挙げた。
 その瞬間、うずを巻いていた世界がすーっと一点に定まった。

「やぁ」
「レオン!」

 見た事のない別世界で、やっと出会えた見慣れた顔。すらりとした手足、明るいかっ色の瞳と髪、陶器の人形にも似た貴族的な顔立ち。
 しばらくの間、自分の生活から欠けていたもの。ずっと、会いたいと願っていた。

 たーっとボールを追いかける子犬のように駆け寄ると、ディフは思いっきり両腕でレオンを抱きしめた。

「……っと」

 驚いて目をぱちくりさせているレオンの髪の毛をくしゃくしゃとかき回した。

「元気にしてたかー。あいっかわらず本読んでばっかだなお前」

 レオンは小さく笑うと目を細め、改めて友人の様子を観察した。

「君こそ、冬なのにまた日焼けしてる」
「うん。伯父さんの牧場に入り浸ってたし……こっちでも牧場のバイトしてっからな。表にいる時間のが長い」
「そうか、楽しそうで良かった。何か食べるかい」

 カチャ、と陶器の触れあう音がした。振り向くと、さっき自分を部屋の中に案内してくれた男性がお茶の仕度を整えていた。

「うん! むっちゃくちゃ緊張したよ……お前、すげえとこに泊まってるんだな」
「ああ、祖父の知り合いのホテルなんだ。使ってくれって言われててね」
「そうか……」

(じーちゃんの知り合いなのか、そうなのか。すげー知り合いがいるんだな……知り合いだからやっぱり宿泊料は割引が利くんだろうか?)

「靴脱いだ方がいいのかどうか真剣に悩んだ」
「大丈夫だよ」
「安心した……」

 リビングのテーブルの上に、フルーツとサンドイッチ、ケーキの入ったトレイが運ばれてきた。横に並べるのではなく、上に重なっている。
 面白い形だなと思った。

「どうぞ、お召し上がりください」
「あ、ども」

 サンドイッチはディフの基準からすれば小振りなものばかりだったが、パンも、中にはさまったキュウリもすばらしく美味かった。
 わしづかみにして頬張り、あぐあぐと噛んで飲み込み、お茶を流し込む。

「わあ、これ美味い! キュウリのサンドイッチなんて食いごたえないんじゃないかって思ったけど……シャキシャキしてすごく美味い!」

 レオンはカップを片手にディフの食べる姿をながめていた。

(こう言うのも久しぶりだな……)

 お世辞にもマナーが良いとは言いがたいが、彼は実に美味しそうに、楽しそうに食べる。

 時折フルーツをつまむ程度のレオンを見ながら、ディフは思っていた。

(相変わらず小食だな……きっと休みの間も本読んでばかりだったんだろうな。こいつ、もーちょっとしっかり食って動いた方がいいぞ)

 旺盛な食欲で出されたものを平らげてから、ディフはちょい、ちょい、とシャツの端で手をぬぐい、コートのポケットから小さな平べったい箱を取り出した。
 手のひらに収まるほどの大きさで、柊の葉をかたどった模様の捺された緑色の包装紙につつまれ、赤いリボンが結んである。

「だいぶ遅れたけど……これ、クリスマスプレゼント」
「え……俺に?」

 あーあ、言っちまった。照れくさいが、出した以上はもう引っ込める訳には行かない。
 しとろもどろになりながら、言い訳めいた台詞を口にする。

「な、何贈ったらいいのか、わかんなくって、その、自分の気に入ったものなんだけどな」

 今更ながら心配になってきた。見つけた瞬間はこれしかない! って思ったのだが、今、ホテルの重厚な調度品の中に座ってるレオンを見ると……。
 果たして、あんな安物をこいつに贈っていいものかどうか。気に入る入らない以前に、受けとってくれるのかどうかすら危うく思えてきた。

「ありがとう。………すまない、俺は何も用意してないんだ」
「いいんだよ、俺がしたくてしてるんだし!」

 にかっと笑うと、ディフはぐいっとシャツの袖口で口元のパンくずをぬぐった。

「なんかお前の顔見ただけで十分な気がするし」
「……開けてもいいかな」

 わずかに頬をそめて、こくっとうなずいた。
 しなやかな指がリボンをほどき、包装紙を開いてゆく。中からは藍色の箱。ふたを開けると、銀色のバックルが静かに光っていた。
 ころんとしたシンプルな楕円形。縁をぐるりと取り囲む額縁状のレリーフ以外装飾はない。
 その額縁の左右の端に、小指の先ほどのライオンの横顔があしらわれていた。

「ああ、綺麗だね」

 わずかな頬の赤みが、さーっとディフの顔全体に広がる。やや遅れて口元がむずむずと持ち上がり……笑顔全開。

「うん……きれいだから、お前にぴったりだと思ったんだ」
「使わせてもらうよ。大事にする」
「ほんとかっ? そうか、使ってくれるか!」

 もしも彼が犬ならば。四つ足をフル稼働させて部屋の中で八の字を切って全力疾走していることだろう。ちぎれんばかりに尻尾を振って。
 レオンが傍らに控えるスーツ姿の男性の方を振り返り、何気ない調子で言った。

「これがつけられるようなベルトを見繕ってみてくれ」
「かしこまりました」
「これ、こんな感じの」

 ディフがセーターをまくりあげて自分のベルトを見せた。星のレリーフをほどこした、レオンに贈ったのよりすこし大きめのバックルが光っている。
 あまり勢い良くまくったものだからセーターの下に着ていたシャツがめくれて、ちらりと割れた腹筋がのぞいている。

(また、そんな事して……)

 レオンはわずかに眉をしかめた。しかし声はあくまでおだやかに。

「いつまでもお腹を出してると、冷えるよ?」
「おっと」

 ごそごそとディフが服を直している間に、アレックスがシンプルな皮のベルトを持って戻って来た。

「こちらでいかがでしょう」
「あ、いいな、これぴったりだ」
「これは簡単につけかえられるのかい?」
「ああ、簡単だよ。ちょっと貸してもらえますか、それ」

 ディフはアレックスからベルトを受け取り、しばらく調べてから、改めてレオンに向かって手をさしだした。

「それもだ、レオン」

 素直にレオンはバックルを手渡した。
 二人の見守る中、ディフはジーンズのポケットからスイスアーミーを取り出し、手際よくぱきぱきとバックルを付け替える。
 いつもやってるから慣れたものだ。

「……ほら、できた」
「ありがとう」

 できあがったベルトを受けとると、レオンは身につけていたベルトをしゅるりと腰から抜き取った。

(うわあ……こいつって、ほんっとに……腰細ぇんだなあ)

 何となく見てはいけないものを見ているようで、ディフはそろりと視線をそらした。
 真新しいライオンのバックルを着けたベルトをズボンに通して、くいっと引っぱって留めて。位置を整えてからレオンは首をかしげて問いかけた。

「どうかな」

 アレックスがうなずき答える。

「良くお似合いです」

 ディフはにやっと笑うとぐっと右の拳を握って突き出し、親指を立てた。

「……最高」
「ありがとう」

 レオンはかすかに……それでも確かに嬉しそうに笑ってくれた。
 ディフは嬉しかった。喜んでくれた。目の前で身につけてくれた。そのことが、ひたすら嬉しかった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 そして、2006年現在。
 寝室で着替えるレオンの姿をじっとディフは見守っていた。
 タイを緩めて外し、腰からベルトを抜き取るその動作の何と艶っぽいことか。
 
「ん?」
 
 ふと、外されたベルトのバックルに目が引き寄せられた。
 10年近い年月を経て、少しばかりすり減ってはいたが……シンプルな楕円形、両端にあしらわれたライオンの横顔。

「あ」

 小さな声が漏れた。さすがにベルトはあの時と同じものではないが、バックルは見忘れようがない。初めて贈ったクリスマスプレゼントだ。

「ん……ああ。今でも時々使っているよ」
「そっか………ずっと……使っててくれたのか………うん…………そっか……」

 レオンは黙ってうなずいた。
 実を言うとこのバックル、結婚式の時もひっそりと身につけていたのである。いささか花婿のタキシードには不釣り合いな代物だが、上着を着てしまえばわからない。

「あの時気づかなかったけど……お前、クリスマス生まれだったから、誕生日プレゼントを贈ってたんだな、俺。」
「そうだね。俺にとってはクリスマスも誕生日もあまり意味のないものだったけど。君が贈り物をくれたから特別になった」
「俺は……久しぶりにお前に会えて嬉しくて。喜んでくれたのが嬉しくて。有頂天になってたんだな………」

 目を細める。あの時、自分はまだ15歳。ほんの子どもだった……レオンに対する想いにすら気づかぬまま、ただ彼と共にいられることが嬉しかった。

「まさか、その場で着けてくれるとは思わなかったし」
「だって君がつけてくれたからね。ベルトに」
「いや、だって俺、慣れてたし、しょっちゅう自分でやってたから」
「うん」
「正直言うと……な……ベルト引き抜いて付け替えてるお前の姿に……………」

 今ならわかる。あの時、己の胸を内側から焦がしたもどかしさの正体が。

「み……見蕩れた」

 消え入りそうな声で告白すると、レオンはふさふさとカールしたまつ毛をに縁取られた両目をぱちぱちさせて。それから、ぷっとふき出した。

「わ……笑うな……よ……」

 言うんじゃなかった。ああ、もう、この後どうすりゃいいんだ。ぷい、と横を向いてから、そろそろと目線だけレオンに戻す。

「ごめんごめん。気にすることはないよ、俺も君が裸でうろうろするから目のやり場に困ってたし」
「そんな事、俺、やったか?」
「風呂上がりにね」
「う…………………」

 記憶をたぐりよせる。
 ……確かにやっていた

 うっかり夏場に下着もつけずに風呂から出て、何度か説教を食らった。
 その後はさすがにパンツは履くようになったが、それでもレオンはあまりいい顔をしなかった……ような気がする。
 と、言うか本に没頭していて絶対にこっちを見ようとしなかった。あれは、目のやり場に困っていたからなのか!

「ごめん」
 
 背後から抱きつき、腕をレオンの胸に回して耳元に囁く。

「ベルト引き抜いてるとこが色っぽいって思うのは、今も同じだからな?」

 頬にキスをした。
 前に回した手を握られる。引き寄せられるまま体を預け、そのままとさりとベッドに仰向けに転がる。
 抱きしめられ、目を閉じるより早く柔らかな口づけが降ってきた。

「俺はもう目のやり場に困ったりしてないよ」
「……好きなだけ見てろ」

 レオンの背に腕を回して抱き返し、応えた。


(初めての贈物/了)

トップへ

【ex7】オーウェン家の食卓

2008/10/27 18:16 番外十海
  • 今回はちょっと趣向を変えて五階のオーウェンさんのお宅の食卓をのぞいてみましょう。
  • 連作短編2本立てです。

記事リスト

【ex7-1】はじめてのおつかい

2008/10/27 18:17 番外十海
 彼の名前はディーン。
 くるくるカールした鳶色の髪の毛に、濃い茶色の瞳の男の子。
 サクラメントで生まれてサンフランシスコに引っ越してきた。
 ママの名前はソフィア。いつもパンのにおいがする。ディーンはママが大好き。ママもディーンが大好き。

 パパのことはぼんやりとしか覚えていない。ちっちゃな堅いボールをころころと手の中で転がして、時々ディーンにも触らせてくれた。
 
「まだ早いかな」
「早いわよ」
「そうか。大きくなったら……しような」

 ママとこんな話をしていた。

 冷たい灰色の雨の降る日に、パパは遠くに行ってしまった。ママは黒い服を着て、ディーンを抱きしめてぽろぽろ泣いた。
 それから何日かが過ぎて、ディーンとママはおじいちゃんとおばあちゃんの家に引っ越したのだ。

 ディーンが三歳になってからまもなく、新しいパパができた。
 パパの名前はアレックス。
 ママと、ディーンと、パパと三人でZeumに行って、一緒に回転木馬に乗った。くるっと半円を描く角と白いあごひげ、ディーンのお気に入りのヤギに一緒に乗った。

 新しいパパは、すごくきちんとした人だった。
 新しい家は、マンションの5階。すぐ上には、ローゼンベルクさんの一家が住んでいる。パパがとっても大事にしている人たちだ。
 茶色の髪の毛で、いつもきちんとしたスーツを着てるレオンさん。赤い髪の毛のがっしりしたディフはよく笑い、ディーンといつも遊んでくれる。
 金髪のお兄さんが二人、そっくり同じ顔の双子の兄弟。どっちがオティアでどっちがシエンなのか時々忘れる。とりあえず髪の毛の短い方がオティアらしい、と最近わかってきた。
 それから黒い髪の毛で眼鏡をかけた人。パパはメイリールさまと呼んでいる。ローゼンベルクさんの家の人たちはヒウェルと呼ぶ。

「よっ、ディーン。元気かー」
 
 いつも友だちみたいに声をかけてくるから、ディーンもいっちょまえに手をあげて挨拶することにした。

「Hi,ヒウェル。元気だよ」

 新しい家に引っ越したら、友だちの家からは遠くなってしまった。でも幼稚園は前と同じだからさみしくない。幼稚園が終わって、ママが迎えに来てくれると、一緒におじいちゃんのお店に行く。
 夕方までおじいちゃんのお店に居て、それから家に帰るのだ。

 新しい家の台所には、とびっきり大きなぴっかぴかのオーブンがある。パパからママへのプレゼントだ。ぴっかぴかの立派なオーブンで、ママはいつも美味しいパンを焼く。

「どうしてこんなに美味しいの?」と聞いたら、おじいちゃんのお店から分けてもらった特製のイーストが決め手なのよ、と教えてくれた。

 よく晴れた土曜日、ディーンはマンションの庭で遊んだ。ディフと二人でボールを投げて遊んだ。

 最初は一人で壁にぶつけて、はねかえったのを受けとめていた。そうしたらディフが言ったのだ。

「俺も仲間に入れてくれるか? 壁、相手にするよか気が利くだろ」
「……OK」

 軽くてよく弾むゴムのボールはディーンのちっちゃな手でも軽々投げられる。顔にぶつかってもあまり痛くない。最初のうちはディフの投げるボールはものすごく早くて、強くて受けとめることができなかった。
 けれど何度もチャレンジするうちに、ディーンもディフもだんだん力の入れ方が分ってきて、そのうち、上手にお互いのボールを受けとめることができるようになった。

「よーし、だいぶ上達したな、ディーン」
「ディフも上手になったよ?」
「そっか。ありがとな」

 ばふっと大きな手が頭をつつみこみ、わしゃわしゃとなでる。

「ディーン」
「あ……パパだ」

 パパとレオンさんが帰ってきた。

「何だ、レオン。わざわざ駐車場からこっちに回ったのか?」
「途中で姿が見えたんでね……キャッチボールかい?」
「ああ。いい肩してるよ、ディーンは」
「ありがとうございます、マクラウドさま」
「いや、俺も楽しんだし」

 四人で一緒にマンションの中に戻った。同じエレベーターに乗って、ディーンとパパは五階で降りる。ディフとレオンさんはそのまま六階へ。
 ドアを開けると焼きたてのパンのにおいがした。

「ただ今、ママ!」
「お帰り、ディーン。お帰りなさい、あなた」
「ただ今、ソフィア」

 手を洗って台所に戻って来ると、パパがママにただ今のキスをしていた。そろーっと入っていって、ママのスカートをくいっとひっぱる。
 ママはにっこり笑ってディーンを抱きしめ、キスをしてくれた。

「パン、焼いたの?」
「そうよ。ディーン、お使いを頼んでいいかしら」

 そう言って、ママはパンのいっぱい入ったバスケットをディーンに手渡した。

「これを、ローゼンベルクさんのお家に届けてほしいの」
「OK、ママ」
「一人で大丈夫だろうか?」
「大丈夫よ、エレベーターで上がればすぐだし……それにね」

 ママはそっとパパに小さな声で耳打ちした。パパは大きくうなずいて、ディーンの頭を撫でた。

「大事なお役目だ。頼んだぞ、ディーン」
「OK、パパ」

 ※ ※ ※ ※
 
 両手にバスケットを抱えた息子を玄関から送り出すと、ソフィアは素早く携帯をかけた。

「今出ましたわ」
「OK、ソフィア。俺もこれから上がってく」

 ※ ※ ※ ※

 エレベーターが上がって来て、止まった。ドアが開くと、中には先に乗ってる人がいた。

「よっ、ディーン。元気か?」
「Hi,ヒウェル。元気だよ」

 とことこと乗り込み、6と書かれたボタンを押した。
 ここのエレベーターには低いのと、高いのと二カ所にボタンがある。高い方はちょっと難しいけれど、低い方のボタンになら簡単に手が届いた。
 
「いいにおいだな。ママが焼いたのか?」
「うん」
「レオンとこに届けるのか」
「うん」
「そうか、大事な役目だな」
「うん!」

 6階に着くと、ディーンはとことことエレベーターを降りる。
 パパの仕事部屋の前を通って。金髪のお兄さんたちの部屋のドアの前を抜ける。
 もう少し………着いた。
 ローゼンベルクさんの家だ。

 ディーンはバスケットを床に置くと、よいしょっと伸び上がって呼び鈴を押した。
 
「やぁいらっしゃい」
 
 レオンさんがドアを開けてくれた。

「あの、これ、ママが焼いて。みなさんで、めしあがってくださいって」
「そうか、ありがとう。一人で来たのかい、ディーン」

 ちらっと後ろを振り返る。少し離れた所にヒウェルが立っていたけれど、エレベーターの中で一緒になっただけだし……。
 とりあえず、こくこくとうなずいた。

「ごくろうさま」

 レオンさんはバスケットを受けとって、キッチンの方に声をかけた。

「ディフ!」
「よう、ディーン! おつかいか。えらいな」

 大きな手でわしわしと頭を撫でてくれた。

「ちょっとそこで待っててくれ」

 ひょいっとディフはディーンを抱き上げて、居間のソファに座らせてくれた。

 キッチンの方で何か声がする。

「何かごほうびに出すものないか?」
「チョコバーでよければ」
「脚下」
「何で」
「ヤニくさいんだよお前のポケットから出てくる菓子は!」
「……ちぇー」
「オレンジジュース、あるよ?」
「よし、それだ」
「ストロー、あった方がいいよね」
「……どっかで見たようなストローだなおい」
「スタバのアイスラテについてくるやつ。オティア、使わないから」

 しばらくして、金髪のお兄さんがオレンジジュースを持ってきてくれた。髪の毛が長いから、こっちはシエンだなと思った。

「ソフィアさんに渡すものがあるから、しばらくこれ飲んで待っててね」
「うん。……ありがとう。いただきます」

 両手でコップを抱えて、緑のストローを口にふくんで、ちゅーっと吸う。

「おいしい」
「そう。よかった」

 オレンジジュースを飲み終わると、ディフがバスケットを持ってリビングに入ってきた。

「パン、ありがとな。お返しにこれ、食べてくれ」
  
 フタを開けて中をのぞきこむ。

「これ、何?」
「ミートパイだ」
「……カレーのにおいがする」
「ああ。前に作ってる時にこいつがカレー粉こぼしやがってな」
「わざとじゃねーぞ。事故だ、事故!」
「材料もったいないから試しに焼いてみたらけっこう美味かったんだ。それ以来時々、カレーを入れてる」
「新たな食の開拓だ。俺に感謝しろ」
「……………ヒウェル?」
「いでででっ、だからよせっ、オクトパスホールドはーっっ」

 ディフとヒウェルって仲がいいなと思った。いつもハグしてる。なんか、ママとパパのハグとはちょっと形がちがうけど。

「ギブアップ、ギブアーップ!」

 ほんと、仲がいいな。

 帰り道、ヒウェルがエレベーターの所まで送ってくれた。ばいばいと手を振って五階で降りる。ヒウェルは三階に降りて行く。
 とことこと歩いて、自分の家に戻るとパパがドアの前で待っていてくれた。

「ただいま、パパ」
「お帰り、ディーン。お使いごくろうさま。えらかったね」
「うん」
「みなさん喜んでくれたかい?」
「うん。これ、お返しって」
「そうか」

 パパはバスケットを受けとるとディーンを抱き上げてくれた。ディーンはちっちゃな手を伸ばすとパパにしがみつき、頬にキスをする。
 そして二人で中に入った。
 
「ママ、ミートパイもらった」
「まあ、いいにおい。これって、カレーかしら?」
「うん、カレー」

 居間の飾り棚には古い野球のボール。ソファの上にはゴムのボール。
 いつか、『小さな堅いボール』でディーンがキャッチボールをする日も来るだろう。

次へ→【ex7-2】ピザを焼く日

【ex7-2】ピザを焼く日

2008/10/27 18:18 番外十海

「ピザって家でもできるものなのか?」

 ディフは目を丸くして、いつもより若干高めの声を出した。
 ショッピングカートのベビーシートに座ったディーンが目を丸くして見上げている。
 場所は行き着けのオーガニックフード専門のスーパーマーケット。ソフィアに頼まれてマンションの近場の食料品店を案内している真っ最中の出来事だった。

「ええ。小麦粉も、調味料も、ベーキングパウダーも混ぜてあって、焼くだけのピザ・ミックスも売ってますよ、ほら」
「ほんとだ。こんなのあるんだな」
「そんなに難しく考えることないんですよ。イーストさえあれば、ある物使ってさっくり焼けちゃいますし、ね」
「それは君だからできることだよ、ソフィア。めったにないだろ、業務用のイーストが常備してある家なんて」
「あら……そうでしたね、つい」

 イースト菌と仲良しの、彼女はパン屋の看板娘なのだ。人妻になろうと、一児の母になろうと、変わらずに。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 きっかけは一緒に買い物をしながらスナック菓子のコーナーを通りかかった時のことだった。

「自慢できる話じゃないけど……十代の時はしょっちゅうやってたよな。ジャンクフードぼりぼり食ったり炭酸飲んだり」
「あー、わかります、それ。私もキャラメルポップコーンとかサワーオニオンのボテトチップスとか大好きで!」
「美味いよな、ポテチ。ピザの出前も何回とったかわかりゃしない」
「そうそう、友だちが来た時は思いっきり大きいのを注文して」
「肉も油もがっつり乗ってるやつをな!」
「食べ終わった時は手も口のまわりもべたべたで……」

 顔を見合わせてひとしきり笑ってから、どちらからともなくほう、と小さくため息をつく。

「………でも、いざ子どもの食事を作るようになってみると………」
「ジャンクフードはためらっちゃいますよね」
「ああ」

 ディフは少し離れた位置でパスタを選んでいる金髪の双子に目を向けた。(今日は特売日なのだ)

「特にあの子たちは油ぎったものも、甘いものも苦手だしな」
「まあ、そうなんですか? マカロニ&チーズはお気に召したみたいですけど」
「うん、あれは好きだな」

 ソフィアはひょい、とかがみこんでカートに座るディーンの頭を撫でた。

「私もね、この子が生まれてから、ピザの出前はめったにとらなくなりました。もっぱら自分の家で焼くばかりで……」
「えっ」

 今、彼女、何て言った? ピザを、自分の家で焼く?

 その瞬間、ディフの脳内スクリーンにはくっきりと、薄く伸ばした生地を高々と放り上げて回転させるソフィアの姿が浮かんでいた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 30分後。
 オーウェン家のキッチンで、エプロンをつけて並ぶソフィアとディフの姿があった。

「ピザの作り方? いいですよ。最初は一緒に作りましょう。お料理って手と目で覚えるのが一番確実で、早いもの」
「そうだな……じゃあ、よろしく頼むよ」

 そんな会話が交わされた結果、こうなったのだが、ソフィアは内心驚いていいた。

 一ヶ月前までは、考えたこともなかったわ。
 赤毛さんとこんな風に並んでキッチンに立って、料理を教え合う仲になるなんて。ほんと、かけらほども予想しなかった。
 でも一緒に買い物をしてみてわかった。この人も基本的に目指している所は私と同じなのね。
 愛する旦那さんと子どもたちのために美味しくて安全な食事を作ろうと気を配って、毎日工夫を凝らしている。

 話も合うはずだわ。

「どうした、ソフィア?」
「え?」
「笑ってた。すごく楽しそうに」
「お料理、好きだから」
「………そうか」

 きゅっとディフは髪の毛を後ろでひとまとめにしてゴムで留め、シャツの腕をまくった。

「俺もだよ」

 身構えずにするりと、自然に言葉が出た。
 
「生イーストの寿命ってだいたい三週間ぐらいなの。これは昨日、父さんから分けてもらったばかりだから元気いっぱいよ」

 冷蔵庫からイーストを入れたタッパーを取り出すと、ソフィアはフタを開けて手際よく中味をボウルに移した。

「うちが3人、ローゼンベルクさんの所が5人だから……だいたいこんな所かな?」
「量らないのか?」
「ええ。カンで!」
「いいね。気に入った」

 金属のボウルにとりわけたイーストをぬるま湯で溶かしながらソフィアは囁いた。この上もなく優しい声で、愛おしげに。

「さあ、みんな目を覚まして。お仕事の時間ですよ……」
「………それも実践しなきゃいけないのか?」
「いいえ、これは、気分の問題ですから! 15分ぐらいこのままそっとしておいてください。その間に粉を量っておきましょう」
「わかった」

 やがてお湯に溶いたイーストから、すっぱいような、香ばしいような、酵母の香りがあふれてきた。パンの香りの元になるにおいだ。

「うん、今日も元気!」

 にこっと笑うとソフィアはボールの縁を指で軽く弾いて澄んだ音を立てた。

「さっ、粉を混ぜましょ」

 オリーブオイルとパン用の小麦粉と水、そして発酵したイーストを大きなボウルの中で混ぜる。最初は杓子で、まとまってきたら素手で。

「ああ、そんなに力入れなくてもいんですよ、ディフ……あ」
「あ」

 まさにその瞬間、力を入れ過ぎて生地がぶちっと二つに千切れた。

 まあ、びっくり、すごい力……薄く伸ばしてる時に破ったことはあるけれど、こねてる時に千切れるのは初めて見たわ!

「……どうしよう」

 ディフは肩をすくめて眉尻を下げ、途方に暮れた顔をしてこっちを見ている。

「大丈夫、まだ粘り気があるからくっつくわ。ささっとまとめちゃいましょう」
「そ、そうか」

 まとめて一つに戻して、さらにこねる。生地が均一にまざり、しっとりとしたのを団子状に丸める。

「OK。そろそろいいわ。あとはこれをラップでぴちっと包んで、冷蔵庫で1時間寝かせておくの」
「寝かせるのか」
「ええ。生地がひとやすみしている間に、人間もひとやすみって所かな? その間に上に何を乗せるか考えておくといいですよ」
「うん……子どもたちに相談する。ありがとな、ソフィア」
「いいえ、どういたしまして!」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ただいま」
「お帰り」

 出迎えに出たシエンはディフの手の中の丸い団子状の物体二つを見て首をかしげた。

「それがピザ? なんか………想像してたのと……ちがうね」
「まだ途中だからな」

 大またでキッチンに歩いて行くと、丸めた生地を冷蔵庫にしまう。ついでに中味をチェックする。さて……何を乗せようか。

「何してるの?」
「ああ、ピザの具を、ね。シンプルにトマトとバジルだけにしとくか?」
「うーん、それだとちょっとさみしいような気がする」
「そうか……じゃあ、タマネギと、ああ、エビもあるな。あとチーズ」
「コーンは?」
「いいね。コーン」

 そして1時間後。
 いい具合に落ち着いた生地を取り出し、薄く伸ばす。破れないように、慌てずに、力を入れすぎないように、手のひらで注意深く。
 ディフのやり方を見ながら、隣でシエンがもう一枚をのばしはじめる。

「めん棒使うか?」
「ううん、大丈夫」

 すっかり平らになったピザ生地の表面に軽くフォークで穴を開ける。オリーブオイルを薄く引いた天板に乗せて、上にさっき選んだ具材を並べた。
 粗くつぶしたトマトにベランダの菜園から摘んだばかりのバジルの葉、ホールコーン、そして小エビをぱらぱらと。仕上げに細かく刻んだチーズをさっと散らして、塩、胡椒で軽く味を付ける。

「これでおわり?」
「ああ」
「ソースは?」
「基本のピザ・マルゲリータでは使わないらしいんだ」
「シンプルなんだね。ピザってもっと、油がぎとぎとしていて味の濃い食べ物だと思ってた」
「うん、まあ……そう言うのが美味い時も、あるな」

 視線を宙に泳がせながらディフは思い出していた。電話でピザをたのんで、ビール片手にテレビを見ながら食うのが楽しい時期もあったな……と。
 隣に居るのはガールフレンドだったり(この場合は往々にしてテレビは忘れ去られる傾向にある)、ロクでもないことを一緒にやらかすヒウェルみたいな友人だったり、色々だった。
 
 まさか、自分でピザ焼く日が来るとは思わなかった。しかも材料に気を配りながら!

「ディフ」
「ん?」
「コーン……こぼれてる」
「おっと」

 うっかり天板の上にまでコーンをばらまいていた。慌てて拾い上げてピザ生地の上に乗せる。

 あらかじめ392°F(200℃)に余熱したオーブンに入れて……。

「目安は20分から25分だけど、オーブンに個性があるから具合を見ながら焼いた方がいいそうだ」
「ソフィアさんが教えてくれたの?」
「ああ。何てったってエキスパートだからな」

 そう、彼女はエキスパートだ。主婦としても、母親としても。

「フライパンで焼く方法もあるらしいぞ」
「サーモンとか乗せても美味しそうだよね」

 代わりばんこにオーブンをのぞいて具合を確かめながら、その間にスープとサラダを作る。ピザにあわせてスープはイタリア風にミネストローネ。サラダはブロッコリーとアボカド、茹でたニンジンで色鮮やかに。

 ミネストローネをかきまぜながらシエンはふと思った。よそうときに一個だけ、セロリ入れないのを用意しておかなくちゃ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「できたぞ。冷めないうちに、食え」

 食卓に並んだピザを一口かじった瞬間、双子は同時に『あ』と言う顔をした。
 さくっとした生地にとろりと熱いチーズがからまり、みずみずしい野菜を包み込む。噛みしめるとエビがぷつりと弾けた。
 小麦粉の味と野菜とエビ、チーズのうまみがしっかり出ている。
 自分たちの記憶の中の食べ物とはまるでちがう。パサパサに乾いた生地に油がギトギトにまとわりつき、冷えたチーズとソースのこびりついたあれは一体何だったんだろう? 元の味が何だったのかもわからなくなっていた。
 熱い料理なのだと言うことすら知らなかった。

 一切れ食べ終えてから、オティアがぽつりとつぶやいた。

「ピザって美味いものだったんだな」
「…………そうか…………」

 その一言でディフは電光石火で心に決めた。

 また作ろう、と。

「これ、さあ。カレー入れても美味そうだよな」
「え?」
「ええい、何にでもカレー粉をかけるんじゃねえっ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 その頃、オーウェン家では同じようにピザが夕飯の食卓に上っていた。

「おや? これはもしかして……」
「ええ、こっちにはカレーペーストを乗せてみたの。ディフからいただいたミートパイが美味しかったから!」
「なるほど、ユニークだね」

 ディーンはほとんど喋らずに口を動かしている。どうやら気に入ったらしい。

「ところで、ソフィア……ひとつ聞いてもよいだろうか」
「何でしょう、アレックス」
「やはり、このピザを作る時は……宙に放り投げたのかい?」

 一瞬、冗談を言ったのかと思ったけれど、愛しい旦那様はあくまで真面目。
 ソフィアはしばらく目をしぱしぱとさせていたが、やがてころころと笑い始めた。

「いいえ、いいえ! まさか、無理よ……ちょっとずつ手でのばしたの」
「そうか………私は、てっきり」
「あなたが作る時はどうなの、アレックス。放り投げて、くるくるっとやるの?」

 アレックスはとまどった。ピザの作り方は心得ているが、さすがにそこまでしたことはない。慎重に、めん棒と手のひらで少しずつのばして作るのが彼のやり方だった。
 だが、どうだろう。
 ソフィアも、ディーンも目をきらきらさせてこっちを見ている。明らかに期待している!

「……わかった。チャレンジしてみよう」

 ぱあっとディーンが顔全体を輝かせ、こくこくとうなずいた。
 ああ、あんなにうれしそうな顔をしている。これはぜひとも成功させねばなるまい。

 さて、問題は、どこで練習するか、だが……。
 
 ※ ※ ※ ※
 
 数日後、ローゼンベルク家のキッチンでピザ生地を放り投げる有能執事の姿があった。

「すごいね、アレックス」
「ああ、すごいな」

 まさにその瞬間。

「あ」

 高々と宙を舞ったピザ生地が、勢い余ってつるりとアレックスの手から飛び出した。

「うぉっと」

 床に落ちる直前に慌ててディフが受けとめる。
 セーフ。

「ありがとうございます、マクラウドさま」
「今んとこ勝率4割ってとこか」
「………おそれ入ります」

『まま』は知っていた。床に落ちる直前、ほんのちょっとだけピザが上に跳ね上がったのを。
 キッチンの入り口を振り返ると、ちらりと……本を片手に歩いて行く、青いシャツの背中が見えた。

(オーウェン家の食卓/了)

次へ→【side8】くるくる、きゅっ!

【side8】くるくる、きゅっ!

2008/12/19 22:33 番外十海
  • 【4-8】ひとりぼっちの双子の前、レオン出張の直前の出来事。
  • すっかり子どもたちにかかりっきりの"まま"に、秘かに"ぱぱ"はストレスをためていたようで……
 
【attenntion!】タイトルに『★★★』の入っている章には男性同士のベッドシーンが含まれています。十八歳未満の方、および男性同士の恋愛描写がNGの方は閲覧をお控えください。

【side8-1】物は試しと夜会巻き

2008/12/19 22:34 番外十海
 面白いものを見た。
 でき上がった写真と原稿を出版社に届けに行った時のことだ。


「Hi,トリッシュ」
「あら、ヒウェル」

 やり手の女編集者は珍しく豊かな黒髪をふさふさと肩の上にたらしたままだった。

「ちょっと待ってね」

 彼女はデスクの上に置かれていた小さな金具を手にとった。
 
 kushi.jpg
 
 ラインストーンの飾りがついた金属の軸から、櫛みたいに細長い歯が伸びている。だが、櫛にしちゃ妙にその、何て言うか……歯の間隔が、広過ぎる。髪の毛とかすにはあまりにスカスカだよ。5本ぐらいしかない。
 しかも、全体的に半球状にゆるくカーブがかかっているし。
 何なんだ、アレは?

「……ブラッシングするのか?」
「いいえ」

 くすっと笑うと、トリッシュはくるくると髪の毛をねじりあげ、謎の金具をきゅっと挿して、くいっとひっくり返して、深く押し込んで……あっと言う間にいつもの見慣れたアップの髪型ができあがり。

 この間、10秒もかからない。

「……ちょっと待て、今、何があった?」
「夜会巻きって言うのよ、この髪型」
「いや、それは知ってる……俺が言いたいのは、その」
「ああ、最近は便利な道具があってね、これ一本で簡単にできちゃうのよ」
「へえ……それ、どこで売ってる?」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ってな訳でアクセサリー売り場で買ってきてみたんだけどさ……俺だと、髪の毛の長さが足りなかったんだよね」
「買ったのか……」
「原稿書く時に、髪の毛まとめんのに便利だと思ったんだよ、そん時は! 輪ゴムよか気が利いてるし、くるくる、きゅって、えっらい簡単にまとまってたしさぁ」

 ディフはぎろっと三白眼でねめつけてきた。あ、あ、あ、お前、今心底呆れてるだろ。そーゆー顔してる。

「新しいモノを試したかっただけだろ」
「……うん、実は」

 小さな紙袋に入った夜会巻きコーム(と、言うらしい)と付属のマニュアルを食卓の上に乗せる。

「お前ぐらい長けりゃちょうどいいと思うんだよね」
「持ってきたのか……」
「うん。せっかく買ったのを無駄にするのもアレだしさ。写真の図解付きで説明書もついてるから、試してみろよ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ヒウェルが帰ってから、問題の紙袋を開けてみる。青い大粒のラインストーンのついたコームが入っていた。

「………あいつ……何考えてこんな、キラキラしたものを……」

 トリッシュの髪はふさふさと豊で、こしがあって量も多い。やわな髪飾りでは『ぱきーんって割れちゃうのよ』と笑いながら言っていた。
 こんなちっぽけな物で、ほんとに留まるのか?
 
 好奇心をおさえられず、コームを手にとり説明書を読む。
 ……ふむ。なるほど、こうやって、髪の毛をまとめて……ねじって……。

 最終的に固定するのと逆向きから束ねた根本に挿すんだな。で、こうやって裏返して、きゅっと押し込む、と。

「お」

 ほんとだ。できた。首筋から背中にかけてひろがってた髪の毛が、きっちり一つにまとまって大人しく固定されてる。試しに頭を左右に振ってみたが、ずれる気配はない。
 髪に挿したコームに手をやり、くいっとひっぱる。
 ばさばさと髪の毛が降りてきて、また元のように広がった。

 てのひらの中のコームはほっそりして、小さくて。こんな簡単な構造の物であそこまできっちりまとまるのが信じられない。
 中々に機能的な道具じゃないか。
 うん、気に入った。

 説明書には、他にもこのコームを使ってアレンジできる髪型が掲載されていた。
 本当に、こんな形になるんだろうか? 
 こうなると、全パターン試してみたくなる……。

 コームと説明書を持って洗面所に向かう。
 とりあえずこの「ハーフアップ」とか言うのを試してみるか。

次へ→【side8-2】★★検証の結果…

【side8-2】★★検証の結果…

2008/12/19 22:35 番外十海
「……ふむ」

 検証の結果、面白いことがわかった。一見、手間がかからないように見えるハーフアップ(耳の上の髪の毛だけねじりあげて留める方法)やサイドアップ(左右いずれかに髪の毛をねじって留める。ゴムで括るやり方に一番近い)の方が実は、難易度が高い。

 全部ひっくるめてアップにする『夜会巻き』が一番、手軽にできるようだ。
 無造作にやってもそれなりにきれいな形ができあがる。

 しかしこれ、自分でやると後ろがどんな具合になってるか見えないのが難点だな……。
 鏡を見ながらもう一度『夜会巻き』を試してみる。首をひねって、後ろを見ようとしていると。

「……ただいま」
「レオンっ? いつから、そこに?」

 バスルームの入り口にレオンが立っていた。帰ってきたばかり、まだ上着も脱いでいない。にこにこしながらこっちを見てる。

 ……参ったな。

 玩具のロボット、手に持って空を飛ばす。『ぐぉおん、ががががが』効果音も、ヒーローの決め台詞も、必殺技のかけ声も、悪役の悲鳴にいたるまで全部自分。そんな一人遊びの現場を見つかった子どもの気分になる。
 やたらめったら、気恥ずかしい。

「珍しい髪型をしているね」
「あー、その……変わった髪留め、もらってさ」
 
 コームの説明書をぴらっと掲げてみせる。

「いろいろ試してみたんだ。ちょっとした好奇心ってやつだ」
「ふうん?」

「どうかな。後ろ、きちんと留まってるか? この写真の通りに」
「どれどれ……」

 レオンは近づくと、顔を寄せてきた。

「大丈夫そうだよ」

 首筋に息がかかる。くすぐったい……。あ、そうか、後ろの髪の毛を全部上げちまってるからか……。

「そ、そうか」

 温かなものがうなじを撫でる。とっさに正面の鏡を見る。
 手で触れたらしい。変だな、いつもと微妙に感じが違う。考えてみれば、首筋をこんな風にむき出しにするのって何年ぶりだろう?
 髪を伸ばす前、警察官をしていた時以来じゃないか。

「針金曲げても作れそうなのに。こんな簡単な構造なのに機能的なんだな……ほんとに髪の毛が留まるのか、半信半疑だったけど」

 鏡の中のレオンが動く。うなじの生え際をなでた指先が滑り降りて、左の首筋の火傷の跡に近づいて行く。
 ゆっくりと。
 彼の指の触れた部分の皮膚が泡立ち、意識をそらそうとすればするほど余計にその部分に集中しちまう。

「ぁっ……」

 いじられた。
 3年前の爆発事件の置き土産。薔薇の花びらほどの大きさの傷跡が、白い光の中で赤々と浮び上がっている。

(何、火照ってるんだ。何をがっついてるんだ、俺はっ)

 鏡に写るレオンが顔を寄せて行く。彼の視線が実体をそなえて肌に触れているような錯覚に陥る。

「……何……して……んっ」 

 聞くまでもない。
 皮膚の薄い傷跡はひと際外からの刺激に鋭敏で、触れた瞬間にわかってしまう。指なのか。それとも唇なのか。

「は……あ……あ……」
 
 目が離せない。鏡の中で俺のうなじに吸い付いてるレオンの姿に。吸われる首筋から伝わる湿った熱が皮膚から内側に染み通り、体の隅々まで広がって行く……侵して行く。
 目を閉じれればその瞬間、溶けてしまいそうだ。

「レオン……っ」

 後ろに手を回し、ぴたりと寄せられた腰にすがりつく。
 きゅっと強く吸い上げられ、歯が当てられる。ほんの一瞬、跡がつくほど長くはない。それでも研ぎ澄まされた神経にとどめの一刺しを与えるには十分だった。

「くっ、う、あっ」
「いいね。とても魅力的だ」

 噛まれた場所にぬるりと温かな物が押し当てられる。

「んっ」

 耳元に微かに響く湿った音、白い歯の間に桃色の舌が閃く。
 もう……限界だ。聞いてるだけで脳細胞が沸騰する。
 体を回して正面から抱きつき、貪った。ほんの今しがたまで首筋に吸い付いていた、温かな唇を。
 
 
 ※ ※ ※ ※


 洗面所に入った瞬間から、無防備にさらけ出されたうなじから目が離せなかった。わずかに襟足にこぼれ落ちる赤みの強いかっ色の髪が。ほんのり赤く浮び上がる火傷の跡が。雪花石膏のような肌の白さとなめらかさを否応無く際立たせていた。

(何てことだ。首筋が……むき出しじゃないか。そもそもその傷跡を隠すために髪を伸ばしたんじゃなかったかな?)

「う……んん……」

 抱きしめた腕の中で愛しい人が、うっすら涙をにじませて身じろぎしている。キスだけでこんなに熱くなって。感度のいいのも考えものだね。
 でも、もう少し。

 ずい、と奥まで舌を差し入れると、びくっと震えてすがりついてきた。
 狭い、湿った空間の中で小魚みたいにぴちぴちともがく彼の舌を捕えて吸い上げる。
 小刻みに震えて目蓋を開いた。
 ミルクを溶かしこんだような茶色の瞳の中に緑色のきらめきが揺れている。

 余韻を味わいながら唇を離すとレオンは手を回し赤い髪に挿さったコームを引き抜いた。ゆるやかに波打つ髪がぱさりとこぼれおち、首筋を覆う。

 そうだ、これでいい。

「………お………」
「ん?」

 肩にもたれかかり、体を支えながらディフがささやいてくる。乱れた息の合間から切れ切れに。

「お帰り………」
「………ただ今」

 うっすらとほほ笑むとレオンは抜き取ったコームをそっと自分のポケットに滑り込ませた。
 しばらく息を整えてから、ディフがようやく体を起こしてほほ笑んだ。

「すぐ、飯の仕度するから」 
「ああ」

 キッチンの手前で何やら探している。

「どうかしたかい?」
「いや……さっきのコーム」
「これかい?」

 内心渋々ポケットから取り出し、手のひらに乗せる。

「ああ、それだ。ありがとう」

 青いラインストーンのついたコームを口にくわえると、ディフは片手でポニーテールでも結うように髪の毛を一つにまとめてねじりあげる。
 コームをさして、きゅっとひっくりかえすと、もうアップの髪型ができ上がっている。ずいぶん慣れた手つきじゃないか。

 わき起こる陽炎のような苛立ちを押さえ切れず、わずかに口の端が歪んだ。

 エプロンをつけ、甲斐甲斐しくキッチンで立ち働く彼の後ろ姿を見守った。えらくご機嫌だ。困ったことにどうやら、この髪型が気に入っているらしい。
 まさか、その格好で外を歩いたりしていないだろうね?
 ああ、まったく。君は気づいていないから困るんだ。自分がどれほど“男に欲情する男”を惹き付けてしまうか……。

 そうこうする間にテーブルには手際よくペペロンチーノと野菜のスープ、パンとサラダが並べられて行く。
 スープとサラダの味付けは中華風。どれもこれも子どもたちの好きな献立ばかりだ。
 このところ二人とも元気がないから少しでも食べやすいようにとの心遣いなのだろう。君の作ってくれる料理なら何でも好きだ。だけど……これは……。

「どうした、レオン。味付け、辛かったか?」
「いや。美味しいよ」

 正直、面白くない。
 
次へ→【side8-3】★★★焦らして、噛んで

【side8-3】★★★焦らして、噛んで

2008/12/19 22:36 番外十海
 
 食事の間、ずっとさらけ出されたうなじから目が離せなかったが、理性を振り絞り手を伸ばすのは我慢した。
 時間は22時を回っている。子どもたちはもうベッドに入る頃だ。リビングに来る気づかいはないが、念には念を入れておこう。
 現に以前もシエンが夜遅くディフを呼びに来たことがある。『オティアが書庫に閉じこもったきり出て来ない』と言って……ディフはすぐさま立ち上がり、双子の部屋へと行ってしまった。戻って来るまでの時間がひどく長く感じられた。
 
 寝室のドアを開けてさりげなく彼を先に通し、後ろ手にドアを閉めるなり背後から抱きすくめた。

「レオンっ?」

 答えず首筋に吸い付き、やんわりと吸い上げる。洗面所でのいたずらを思い出したのか、すぐに息が乱れてきた。

「こっちを向いて……」

 素直にくるりと向き直り、正面から抱きついて来る。頭を撫でながらコームを探り出し、素早く抜き取った。

「あっ」

 こぼれおちる自分の毛先が当たる感触さえ刺激となるのか。くすぐったそうに身じろぎしている。
 抜き取ったコームをこっそりとベッド脇のサイドボードに乗せる。

 これは危険すぎるね。
 封印しておこう……。
 

 ※ ※ ※
 
 
 抱き合ったままもつれ合うようにしてベッドに倒れ込み、互いの服を引きはがして求め合う。
 焦り過ぎて脱ぎかけた服が手足にまとわりつき、もどかしさのあまり喉の奥で呻いていると、喉をなであげられた。

「焦らないで……。俺はどこにも逃げないから」
「ったり前だ、逃がしてたまるかよ」

 笑ってる。
 余裕たっぷりって感じだよな、レオン……がっついてるのは俺だけか? 悶えてるのは俺だけか?

「さっさと触れ」

 手をとって、ぐいと胸元に押し付ける。

「君が望むなら」

 柔らかな羽毛の先端でくすぐるような手つきで撫でられた。指先と唇、舌、彼自身の胸、足、それ以外の何か。熱く濡れてすっかり堅くなっている。俺と同じだ……嬉しさで震えた。

 それなのに、レオンの奴はいつまでたっても優しくくすぐるばかりで、肝心の場所をいじってはくれない。

 肌の内側と足の間でどんどん熱さがつのり、むずがゆさを通り越して痛みに近くなっても、まだ……。堅く尖って充血した胸の突起にさえ触れてはくれない。すぐそばまできても、そこだけ避けて通りすぎる。
 何度も。
 何度も。
 期待と喪失感が交互に押し寄せ、その度に体内でのぼせあがった獣が身をよじらせる。出口を求めてうねり、吼え、たぎる。
 
「レオ……ン……っ」

 決死の覚悟でねだろうとすると、深いキスで口を塞がれた。舌をからめとられて言葉を封じられたまま、また焦らされる。
 
「く……う……んぅう」

 解放されても空気をもとめて喘ぐのが精一杯。とてもじゃないが言葉をしゃべる余裕が……ない……。

「は……あぁ……んん」

 視界がぼんやりと霞んでる。涙がにじんでるんだ。
 頼む、レオン。それ以上優しくしなくていいから! もうおかしくなりそうだ……。

「たのむ……はやく……っ」

 かろうじてそれだけ口にすることができた。しかし、彼は首を横に振った。

「まだだよ。もう少し、我慢して」

 両の手首をしっかりと握られ、シーツに縫いとめられる。押しのけることも、抱き寄せることもできない。もどかしさに自分の唇を噛みながら、それでもうなずいた。

「……いい子だ」

 唇が滑って行く。
 ああ、また首筋を吸うのか。これで何度目だろう。やんわりと火傷の跡の上を吸うだけ。決して強くはしない。
 洗面所でした時と同じ……
 
「う」

 いかん。思い出してしまった。鏡の中で首筋に吸い付いていたレオンの姿を。うっすら頬を紅潮させ、快楽に喘いでいた自分を。
 その瞬間。

「ひっ」

 噛まれた。
 口の中に吸い込んだ肌に歯を立てて、きり、きりっと。もがけばもがくほど強く、深く食い込んで行く。
 皮膚が薄くなり、わずかな刺激にも敏感な場所。初めて愛を交わした夜に優しくキスされた場所。

「あ……や……め……」

 一段と強く噛まれる。

「あぁっっ」

 行き場を封じられていた熱が一気にほとばしる。
 重ねられた二人の体の間でぴしゃりと弾け、飛び散った。

「可愛いよ、ディフ」
「う……ん、あ……」

 気だるい解放感。
 いっちまった。
 たった、これだけの事で。

 ぴちゃり、と頬を舐められた。そんな所まで飛沫が飛んだのか。恥ずかしさで身が縮む。その一方で、えも言われぬ甘い痺れがじわじわと広がり、満たして行く。
 頭の中を。
 体の中を。

 膝の後ろに手が当てられる。足を押し広げられながら、ようやく……まだ明かりも消していなかった事に気づいた。それでも俺の後ろは彼を待ち望み、期待に震えている。
 やっと自由になった手を伸ばし、のしかかるレオンの頬に触れた。

「これ以上、待たせるな………」
「だめだよ、ちゃんと解さないと」

 ほほ笑むと、レオンはしなやかな指先で後ろの入り口を撫でてきた。
 噛まれたばかりの場所がずくりと疼く。

 夜はまだ長い。
 俺は……どこまで焦らされるのだろう……。
 
次へ→【side8-4】★★★二段目の引き出し

【side8-4】★★★二段目の引き出し

2008/12/19 22:37 番外十海
「レオン………」
「焦らないで」
「レオン?」
「まだ準備ができていないだろう?」
「レオン!」
「何だい?」

 手を伸ばし、ベッドサイドの引き出しの上から二段目を開ける。
 勢い良くガタっと。
 引き出しの中で、半透明の液を満たしたプラスチックのボトルが転がった。おや? と言う顔をしてレオンが首をかしげる。
 こいつ、どこまですっとぼけるつもりだ!
 じとっとにらんで言い放つ。まとわりつく後ろめたさと恥ずかしさを振り払おうと、語尾に力をこめて……。

「………さっさとやれ!」
「わかったよ」

 くそ、拗ねたような声出しちまった!

 レオンはほくそ笑み、手のひらにボトルの中味を注いだ。わざと俺の目の前で、見せつけるように糸を引かせて。粘り気のある液体が灯りを反射してきらきらと光る。丁寧にボトルのフタを閉めてから、片方の手のひらでもう片方にぴったりフタをした。

「何……してる」
「あっためてるんだよ。いきなり塗ったら冷たいだろ?」
「いいから!」

 ひそやかな笑いを漏らすと、彼は手を伸ばしてきた。とろみのあるローションをたっぷり絡めた指が乳首を掠める。

「あっ」
「まだ冷たいようだね」
「ち……が……」
 
 ぬるぬるした指で、さらに延々とくすぐるだけの愛撫が続けられた。念入りに、丁寧に、じっくりと。

「レオン……」
「どうかしたかい?」

 ちょこんと首をかしげてのぞきこんでくる。入れたばかりの紅茶みたいな瞳が語りかけてくる。
 言いたいことがあるなら遠慮なく言ってごらん……と。
 どうする。ここで曖昧な言い方に逃げれば逃げられ、また焦らされてしまうだろう。

「あ………う……」

 言いよどんでいると、ふうっと息を吹きかけられた。ローションで濡らされた胸の突起を。
 たったそれだけのことなのに、言葉にならない悲鳴が溢れ、背筋が反り返る。もう限界だ、我慢できない!

「…………………入れろ!」
「OK」

 やっと入ってきた。

「んっ、う、んんっ……ん?」
 
 とろみのある半透明の液体をたっぷりからめた指が………1本だけ。
 すっかり充血し、ぽってりと膨らんだアヌスがその1本にすがりつき、飲み込み、必死になってしゃぶっている。もっと奥に来て欲しい、それなのにお前、なんでそんな浅い所ばかり弄るんだ?

「レオ……もっ……いいから……」
「まだだよ。やっと1本入ったばかりじゃないか」

 埋められた指が捻られる。それだけで体の奥底に覚え込まされた快楽を思い出し、肉の道が締まる。

「く………あぅっ」
「ああ、思った通りだ。まだきついね……もっと解さないと」
「は……あう……あ……はぁ……」

 まさぐりながら指が浅く抜き差しされ、くいっと中で曲げられた。その瞬間、頭の内側で真っ白な火花が弾けた。

「レオンっ」

 夢中だった。
 バネ仕掛けの人形みたいに跳ねて起きあがり、彼の手首をつかんで無理矢理引き抜く。

「うぅっ」
「ディフ?」

 強烈な刺激に、焦らされた心と体が悲鳴を挙げる……だがもう止まらない。歯を食いしばってかみ殺し、レオンの肩に手をかけて逆に押し倒した。

「欲しいんだ……」

 欲情に濡れそぼった声が唇から滴り落ちる。しなやかな体の上にまたがり、自らの指でぬちりとアヌスを広げると、そそり立つ彼のペニスに押し当てた。

「んっ」

 かすかに眉を寄せて呻いてる。お前もそうなんだろ? レオン。
 一気に腰を落す。

「う………あ………あぁっ」

 灼熱の塊が。ついさっきまで狂おしいほど求めていたモノが、深々と貫いてゆく。まだほぐれ切っていない肉の道を押し開き、衝撃と快楽が背筋を駆け抜ける。脳天まで突き抜ける。

「あぁ………やっと……」
「そんなに………欲しかった?」
「っ」
「いつまでじっとしてるのかな。動かなくていいのかい……? ほら」

 じっくり味わう暇さえ与えてくれなかった。
 意地悪な手が太ももを這いずり、上って行く。一度昇り詰めたばかりなのにもう堅くなってる俺のペニスに向かって、じりじりと。

「やっ、よせっ、今、触ったらっ」
「触ったら……どうなるのかな……」

 腰骨にまとわりつき、なでさする。じわじわとむずがゆさがこみ上げてきた。

「このまま、身動きできないように押さえ込んだら、君はどうするのかな?」 
「なっ」
「自分で弄るかい?」
「バカ言うなっ」
「ああ、それも悪くないね……」

 こいつ、本気か? つやつやと濡れたかっ色の瞳が見上げてくる。なでさすっていた手に次第に力が込められて行く。

「動く……動く……からっ……」

 震える手をレオンの腰に当てる。汗ばんだ肌の下で引き締まった筋肉がぴくりと動いた。

「邪魔……するなよ」
「わかったよ」

 深く息を吸い、整えて……腰を揺すった。
 俺の中の彼が動く。
 内壁のこすれる感覚だけで痺れるほどの快感がわき起こり、広がって行く。揺するたびに強くなって行く。
 まだ足りない。
 まだだ。

「う……く……んんっ、んっ」

 欲しい。
 もっと強く、もっと激しく。
 前のめりに屈み込み、自分のペニスをレオンの体に擦り付ける。

「ああ……熱いね……」
「くっ、お前……だっ……てっ……」

 前と後ろ、両方から押し寄せる快楽の波が高まる。上下の動きだけでは物足りず、前後にくねらせた。

 くちゅ、ちゅぷ、ぬちゅり……。

 繋がった部分から水音が溢れてくる。
 ほんの今しがた、指を入れられた時に塗り込められたローションが、抜きさす動きに合わせて中でかき混ぜられ、つたい落ちる。

 ぐちゃり。ぬちょ、ちゅぷ、ちゅぷ……。

 耳から入り込む生々しい水音が容赦無く教えてくれる。今、自分が何をしているのか、ともすれば溶けて霞みそうな意識に。
 上になってるのは俺だ。自分の気持ちいい場所に当たるように腰を動かすことができる、そのはずなのに。
 いい場所にレオンの先端が当たった途端、強過ぎる刺激に体がびくん、とすくみあがって逃げちまう。

「は……あ……あぁ……」

 もどかしい。何だって自分で自分を焦らさなきゃいけないんだ?

「いいね……最高に……いやらしい顔……してる……」
「お前だって……んんっ」

 いつも冷静で、エレガントで、おだやかな男が……ベッドの中ではこんなにも無邪気に潤んで、溶けて、ひたすら俺を求めてくれる。
 きちんと整えられていた明るいかっ色の髪が、揺さぶられて乱れるのもかまわずに……。
 あ、にこっと笑ったよ。
 可愛いな。

「うあっ」

 いきなり、突き上げられた!

「やっ、あ、あ」

 よりによって、さっきから当てたくてたまらなかった場所を狙い撃ち。立て続けに二度、三度と。

「ひあっ、う、あっ、あぁうっ」

 突き上げられるたびに喉の底から無防備な悲鳴がほとばしる。
 自分の五感を翻弄し、侵してゆく衝撃が快楽なのか。それともの痛みなのか。
 区別が……つかな………い……。

「く……あぁ……」

 頬を汗以外の雫が流れてゆく。自分がどんな表情(かお)をしているのか。どんな声を挙げているのか。もう判断できなかった。ただ奥歯を噛みしめて耐えるしかなかった。
 体内に深々と打ち込まれた肉の楔のもたらす炎が燃え移り、今にも爆発しそうなペニスをなだめるのに必死になった。
 こらえきれなかった分が先端ににじみ、滴り落ちるのさえ感じ取れる……。

「我慢しなくていいよ、ディフ」
 
 ずるいぞ、お前、反則だ! このタイミングでそんなに優しい声、出すか? にらみつけてやろうと思った。けれど。

「や……だ………俺ばかり、二回も……そんな……」

(切ないよ……レオン)

 言葉にならず、ふるふると首を横に振るのが精一杯。

(すごく、切ない)

「……おいで」

 引き寄せられ、抱き合ったままころりと転がる。
 ああ。
 やっと。

「くぅっ」

 のしかかり、動いてくれた。突いてくれた。

「あ、あぁっ、ん、く、ふ、あっ」

 深々と彼のペニスが打ち込まれる。えぐられるたびにアヌスが絡み付き、さらに奥へと誘い込む。

「気持ち……いい?」
「気持ちい……い……あ、そこ、もっとっ」

 あられもなく腰をくねらせ、堅く張りつめたペニスをすり付ける。
 背中に回した腕だけでは足りず、足を絡めて引き寄せた。すがりついた。全身で鞭の様にしなるレオンの体を包み込んだ。

「あ、あ、ひっ、うん、んん、ん、あ、く、うぅ、んっ」

 ひっきりなしに押し寄せる快楽を、どちらの動きが生み出しているのかもう分らない。

「いい子だね……可愛いくてたまらな……い……ああ」
「レオン………」

 ずっと、こうしたかった……レオン……。

「あ、あ、あ、も、だ、め、だ、ぁ、あ、あっ」
「我慢しないで……」

 一段と強く、奥深くまで突き入れられた。反動で仰け反りそうになるのを押さえ込まれる。密着した肌と肌の間で限界まで張りつめたペニスが圧迫され、容赦無く擦り上げられる。

「あ、あ、レオン、レオンっ」

 理性も自制心も全て手放し、愛しい人を呼びながら全てを解き放つ。
 ペニスの先端からほとばしる波と。自分の意志と関係なしに収縮する後ろを満たす、彼の波に溺れた。

「レ………オ……ン……」

 真っ白に塗りつぶされた世界の中、掠れた声で愛してると囁いた。
 優しい声で愛してると返された。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 こらえていた欲情を解き放ち、余波に震えていると……
 がっしりした腕に抱き寄せられ、包み込まれる。

「……ディフ」

 胸に顔をうずめた。骨組みのしっかりした手のひらが髪にをかきわけ、頭を撫でる。くり返し、何度も。

 ちらりと見上げる。左の首筋、赤々と浮かぶ『薔薇の花びら』に己の歯形がくっきりと刻まれていた。
 指先でなぞると、彼はかすかに眉をよせ、ぴくりと震えた。

 ああ、少しやりすぎたかな。でもこれで当分、髪の毛を結い上げようなんて気は起こさないでくれるだろう?
 視界の隅でチカっと何かが光る。青いラインストーン、ベッドの脇のサイドボードに乗せたままのコーム。

 これは後でしまっておくとしよう。
 そうだな。上から二段目の引き出しにでも。

「何……笑ってる?」
「ん? 何でもないよ」

 顔をすり寄せるとディフはかすかに笑った。

「こら、くすぐったいぞ」
「君ほどじゃないよ」
「言ってろ」

 こぼれ落ちる長い髪を一房すくいとり、キスをした。


(くるくる、きゅっ!/了)

トップへ