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ローゼンベルク家の食卓

【ex5-7】影との遭遇

2008/08/04 14:23 番外十海
 新たな廊下には窓がなかった。明かり取り用のはめ殺しの窓さえも。
 教室に通じるドアもない。
 ただどこまでも延々と続く、細長く引き伸ばした密封された箱。

 ウ…………ゥル、ル、ル、ウウウ……。
 グゥロロロォオオオオオオオオンン……。

 閉ざされた四角い空間の中で、淀んだ空気が揺れる。遠くかすかな音の響きを耳に伝える。

 ねちょり、と足元が粘ついた。
 
「何だ……これは」

 息苦しさを覚え、ランドールは襟元をゆるめた。

「気のせいよ。これはただの夢だもの。あなたが熱いと思えば熱い。寒いと思えば寒い。熱いのと寒いの、どっちがいい?」
「どちらもあまり」
「あたしもよ」

 ひやりと涼しい空気に包まれる。
 赤黒く淀む熱気の中、自分とヨーコの周りだけが秋の入り口か春の終わりにも似た涼やかな風に包まれていた。

「そろそろね……いや、もう着いてるのかな?」

 とん、とヨーコが足を踏みならした。
 その途端、長く引き伸ばされていた廊下がランドールとヨーコの立っている場所を拠点にくんっと縮まり、広大な四角い部屋に変わった。
 窓も出口もない、閉ざされた熱い箱のような部屋に。

「I see you!」

 歌うように彼女がつぶやく。その声によどんだ熱気のカーテンが左右に分かれ、目の前に二つの生き物が現れた。
 ぱさぱさの毛並みを通して骨の輪郭が透けて見えるほどやせ細った………………………犬。
 不釣り合いなほど太い鎖が四肢に絡み付き、床に縫い止めている。その床は真っ赤に熱せられた鉄板だ。じりじりと肉の焦げるにおいがする。

 そしてもう一つ。
 天井に届くほどの背の高い、巨大な影の巨人が一人。犬を踏みつけ、少しでも熱から逃れようとするその体を床面に押し付けている。
 腕も、足も、体も顔も、闇で塗りつぶしたように真っ黒。ただ目のあるべき位置にのみ爛々と、二つの炎が燃えたぎっている。

『痛い、痛いよ、熱い、ごめんなさい!』

 犬がか細い悲鳴を挙げる。
 人の言葉で。
 少年の声で。

 犬の体についていたのは、子どもの頭だったのだ。
 鳶色の髪に鳶色の瞳。ぎょろりと目ばかりの目立つやせ細った白い顔……それは、朝からずっとヨーコが追いかけてきたあの少年だった。

『お前は犬だ。役立たずの犬なんだよ。最低のクズだ』
『さあ、せいぜい泣け、わめけ!』
『みじめに泣きわめいて許しを乞え。そうやって俺の気晴らしになるぐらいしかお前の使い道なんて存在しないんだよ……』
『ほら、もっと声を出せ、この役立たずの野良犬めが!』

 影の巨人は狂った様に拳をふるい、足で踏みつける。そのたびに犬と融合した少年が泣き叫ぶ。

「何てことだ!」

 日常を不気味に歪めた光景の恐怖よりも、子どもの悲鳴がランドールの胸に突き刺さった。
 こんな事、あと一秒だって許しておくものか!
 激しい怒りに駆り立てられ、彼は猛然と影の巨人に向かって踏み出そうとした。

「待って」

 ほっそりした手が手首を包み、優しく押さえる。

「止めるな、Missヨーコ。あの子を助けなければ!」
「私も同じよ。だからこそ、待って」

 ヨーコは彼の手を握る指先に力を込めた。すっと左手を持ち上げて指さし、ランドールの視線を導いた。

「あれは彼自身の影。見て、根っこはあの子の中にある……ほら、あの巨人の足」
「……あっ」

 彼女の言う通りだった。
 半ば犬と化した少年を踏みにじる巨人の足はそのまま少年のわき腹に溶け込み、一つになっている。
 
「だが、あの子は現に苦しんでいる! あの涙は本物だ」
「ええ……その通りよ。まずはアレを切り離さないとね」
「どうやって?」

 ヨーコは口角をつりあげ、にまっと笑った。一言も発しなかったけれど、ランドールは彼女の意志を確かに感じた。

『見てて』

 きりっと背筋を伸ばしたまま、ヨーコは人頭犬身の少年と影の巨人に向かって歩いて行く。巨人は少年をふみつけたまま、ぐるりと首のみ回転させ、ヨーコをにらみつけた。

『何だあ、ひっこんでろおおおおお。これは躾なんだよおおおお』

「どこが躾だ。私は教師よ。保護者面して子どもを虐待する親を見過ごす訳には行かないの」
『教師ぃ? 教師だぁ? 引っ込んでろ』

 ずぶり、と巨人の腹の辺に別の顔が浮び上がる。目をつりあげ、口元をひきつらせた青ざめた女の顔だ。

『これは家庭の問題なんです。家庭の問題なんですってば。近づかないでください、放っておいてください、だいたいあなた、ご自分の子どもはいるの?いないでしょ、子どもを育てたこともないような若い女の先生になんかとてもじゃないけど子どものいる母親の苦労はわからないんです、だから放っておいてください、さっさとお帰りください、さあさあさあ!』

 ひっきりなしに喚く女の口からは青黒い唾が飛び散り、床に落ちてじゅくじゅくと、強い酸性の蒸気を放つ。
 雫が飛び、白い上着がじゅっと溶けて小さな穴が空いた。

「Missヨーコ!」

 ヨーコはわずかに眉をしかめたものの、怯える風もなく。ちょいと眼鏡の位置を整え、一言

「黙れ」とだけ言った。

 女の顔はまだぱくぱくとせわしなく口を動かしている。が、音は出ない。全て掻き消えている。
 ヒステリックな金切り声を取り除いてしまうと、もう、ただの滑稽なパフォーマンスにしか見えなかった。恐怖や苛立ちよりもまず、苦笑を誘う類いの。

「私はあなたの教育方針を否定するつもりはないし、これまでの生き方を批判する意志もない」

 女の顔の動きがピタリと止まる。何かを言いかけた形のまま、口も、眉も、鼻も目も、そのまま凍りついてしまった。

「そもそもお前はもう死んでいる。もはや存在しないのだから社会的な体面も体裁も気にする必要はないじゃないか。そうだろう?」
 
 その一言で女の顔はぐにゃりと形を失い、影の中に沈んで消えた。

「ふん。タフガイを気取ってる割には、面倒くさい社会上の手続きは全て奥方を通じて行っていた訳か」

 影の巨人の体がぶるぶる震え出した。

「奥さんがいなくなった今は、近所づきあいもできないのだな。ちゃんと台所の生ゴミ、指定日に出してる? ビールの空き缶は?」

 おぉおおおおおおおおおおおおお!

 ぐんにゃりと歪み、もはや言葉にすら成らない音を発して巨人はヨーコにつかみかかろうとした。少年に食い込んでいた足がめりめりと引きはがされ、長く尾を引いて伸び始める。

「そうだ。悔しかったここまで来てみろ。私は逃げないぞ。恐ろしくないからな」

 影の巨人はヨーコに向かって猛然と走り寄る。しかし、少年と融合している片足にぐい、っと引き戻され、床に倒れた。
 熱い金属に焼かれて悲鳴を挙げる、その顔に向かってぴたりとヨーコは右手の人さし指を突きつけた。

「お前は怪物なんかじゃない」

 ぐにゃりと巨人の輪郭が歪む。限界まで熱したゴムのように波打ち、だらだらと溶け落ち始めた。

「私は知っている。私は見た。お前はただの大人だ。ただの男だ」

 辺り一面に胸の悪くなるような臭気を漂わせ、巨人の体が溶けて行く。崩れて行く。
 どす黒い粘液となって滴り落ち、床面で焼けこげ、蒸発する。

「自分の気晴らしのために子どもを……自分より弱い生き物を傷めつけることしかできない、最低のクズ野郎」
『も……もぉ……やめでぐで………』

 すっと目を細めると、ヨーコはちらりと白い歯を見せた。その顔を見た瞬間、ランドールの脳裏についさっき聞いた彼女の言葉が閃いた。

『斬り捨て御免、峰打ち無用』

「お前は老いている。お前は弱い」

 巨人はすでに巨人ではなかった。
 溶けて縮み、頭は小さく、腹ばかりがぶっくりと膨れた奇怪な、等身大のゴムの人形。不気味でもなく。恐ろしくもなく。むしろ笑い出したくなるような、滑稽な人体のカリカチュアと成り果てていた。

「お前なんかより、お前の傷めつけている存在の方が、ずっと生きる価値がある」

 弱々しく首を振ると、変わり果てた巨人の残骸は顔を覆い、どっと地面に突っ伏した。

「今だ……影を切り離す。あの子を受けとめて」
「わかった」

 ヨーコはポケットから黒い小さな布袋を引き出し、中から一枚のカードを抜き出した。

「剣の一番……来い!」

 カードの表面に描かれた『巨大な剣を握る手』のイメージが立体化し、具現化する。

「行け!」

 剣のイメージは一陣の光となって走り、少年と影を繋ぐ細い、長い尾に斬りかかった。か細い尾は容易く断ち切られるかに見えたが……

 がきぃん!

 耳障りな金属音ともに光の刃が弾かれる。その瞬間、ヨーコの指先にぴっと一筋切り傷が走り、赤い血が一滴ほとばしる。

「ちっ」

 弾かれ、くるくると回転しながら戻ってきたカードをヨーコはぴしっと左手で受けとめた。

「くっそー、硬いなぁ」

 影は相当深く少年の中に根を降ろしているようだった。弱らせたとは言え、文字通り『刃が立たない』。それどころか、しゅるしゅると縮み、少年の中に今一度身を潜めようとしている……急がなければ!

 歯がみしていると、急に左の胸ポケットからぶるぶると震えた。

「え?」

 愛用の黒に赤で縁取られた携帯が飛び出し、宙に浮く。

「あれ?」

 鳴り響く軽快な着信音ともに、しゃこっとスライドした。ストラップにつけた鈴が『りん』と鳴る。

『着信中:風見光一』
「あ…………」

 ちかっと点滅したディスプレイ画面から、まばゆい光の粒があふれ出し、凝縮しておぼろな人影を形づくる。めらめらと揺らめく浅葱色の煌めきに包まれ、陣羽織をまとった目元涼しげな若侍が出現した。腰には黒鞘の太刀を帯びている。

kazami.jpg ※月梨さん画「風見、参上!」

「風見!」

 にこっと笑うと、若侍はザ、ザ、ザと影と少年に走り寄り、間合いを詰めるやいなや抜く手も見せずに一刀両断!
 満月よりもすこぉし欠けたる十六夜の、月にも似た銀色の閃きとともに音も無く、影と少年が切り離された。

『風神流居合…『風断ち』(かぜたち)』

 影はぐにゃりと形を失い崩れ落ち、片や少年の体は衝撃で宙に舞う。あわててランドールは走りより、やせ細った体を受けとめた。
 もう、犬の形をしてはいなかった。

 若侍はひゅん、と太刀を振って飛沫を払い、流れるような動きで鞘に収めた。それからちらりとこちらを振り返り、ぱちっと片目をつぶってウィンク。

『ダメだよ、羊子せんせ。一人で突っ走っちゃ!』
「………ばれたか……」

 にこっとほほ笑むと、若侍は光の粒子に戻り、携帯に吸い込まれ……消えた。

「今のは、いったい」
「あー。あたしの教え子」

 技を使う時は技名を叫べと、以前教えたのをきちんと覚えていたらしい。

(ほんと、素直な子って大好き)

 いったい、どうやって自分の危機を察したのか。
 ぱしっと携帯を回収し、胸ポケットに収める。
 こいつの中には、彼とやり取りした何通ものメールや、教え子たちの写真が入っている。それを足がかりにしてサポートしてくれたのだろう。

「こりゃ帰国してから説教くらうなぁ……」
「教師だったのか」
「ええ。歴史教えてます」
「ジュニア・ハイの」

 聞かなかったことにしとこう。風見光一の名誉のためにも。

「やったのか?」
「そのはず…………いいや、まだだ。悪夢が消えない……何故?」

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