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ローゼンベルク家の食卓

メッセージ欄

2008年8月の日記

【ex5】熱い閉ざされた箱

2008/08/04 14:15 番外十海
  • 今回は番外編中の番外編とでも申しますか……いつもの『食卓』の世界観とはすこぉしだけ、別の世界にシフトしています。
  • 書いてる人間が変わらないので基本は同じ流れなのですが、ほとんどスピンオフ作品と言っていいかもしれません。
  • 海外ドラマで言うと、「CSI」や「フルハウス」よりはむしろ「デッドゾーン」寄りです。
  • 別途解説のページを設けてありますので、興味のある方はそちらも合わせてお読みいただければ幸いです。
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【ex5-1】★執事に片想い

2008/08/04 14:16 番外十海
 
 カルヴィン・ランドールJr.は恋をしていた。まるでローティーンのようにもどかしい片想いを。

 基本的に恋愛なんてものは互いの波長が合うか合わないかが要だ。
 その関係を構築するのにあたっては、己の姿形や財力も少なからず大事な役割を果たしている。
 ランドールは自信家で金持ちではあったが、その辺りの仕組みもちゃんと心得た男だった。

 ルーマニア出身の母から受け継いだ、濃いサファイアブルーの瞳にウェーブのかかった黒髪。眉のラインはきりっと強く、彫りの深い、どこか異国めいたハンサムな顔立ち。
 二代目ならではの毛並みの良さ故に、己の自信に見合うだけの財力をごく自然に使いこなし、決してひけらかさない。
 全ての女性に対してはあくまで紳士的、好みの男性に対しては強引な男と紳士の顔の使い分けを心得た、分別のあるプレイボーイ。

 実際、彼はもてた。

 一夜限りの甘い情事。
 数度の食事に買い物、映画にコンサート、そしてその後のめくるめく夜を共に過ごすパートナー。
 あるいはパレード見物、きらめく夏のバカンス、感謝祭にクリスマスにニューイヤーにバレンタイン……四季折々のイベントを共に過ごす恋人。
 種類を問わず、昔から相手探しに悩んだことなど一度もなかった。

 強いて言うなら数多の候補者の中から誰を選ぶか、ぐらいのもので……。
 口説く時は気障にならない程度に適度に甘く雄弁に。別れる時は相手の心情をやわらかく包み込みつつ後腐れなくきっぱり終わる。

 そんな彼が、恋に落ちた。
 最初に会った時はそれとは気づかず、ただ別れてからも彼の人の面影が心から去らない事に気づいて『はてどうしたことだろう』と首をひねるに留まった。
 何しろその相手と言うのが今まで彼の付き合ってきた男たちとはまるきり違うタイプだったのだ。

 まず第一に著しく年上、おそらく四十代。
 空色の瞳に銀色の短い髪。きちんと背筋を伸ばして主の背後に控え、極めて有能。
 彼の名はアレックス・J・オーウェン。

 ランドールが父から受け継いだ会社の顧問弁護士、レオンハルト・ローゼンベルクの秘書だった。

 まるで執事みたいだなと思ったら実際、以前は執事をしていたらしい。
 そこまで知った頃には既に些細な用事……それこそ自分の秘書に任せればいいような些細な用事のためにさえ、ジーノ&ローゼンベルク法律事務所に足を運ぶまでになっていた。

「いらっしゃいませ、ランドールさま」
 
 事務所に入り、忠実なるアレックスの出迎えを受け、応接室に通される。
 彼の入れてくれた紅茶を味わうほんの短い間、幸せに浸る。美貌の弁護士も目の前の仕事の書類も素通りし、視線はひたすら傍らに控える執事へ。
 たまに見習いらしい金髪の少年が資料を届けに来ることもある。
 騒がしいラテンガイやがっしりしたアフリカ系の巨漢、法律事務所の個性的な面々もランドールにとっては興味の対象ではない。
 あくまでビジネス上の付き合いだけの相手だ。
 
 彼の訪問の目的は法律顧問たるレオンハルト・ローゼンベルクとの会見である。少なくとも表面上は。
 だからローゼンベルク氏の不在中に事務所を訪れてしまった時などは大義名分を失い、宙に浮く気分を味わった事も何度かある。
 目当ての人物はまさに今、目の前で主の不在を告げている本人なのだが。

「しばらく待たせてもらってもいいかな」

 その一言を言うまでにどれほどの勇気が要ることか!

「かしこまりました、それでは応接室でお待ちください」

 その一言で天使のハープの音が聞こえる。
 
「いや、ここでかまわない。それほど時間はかからないのだろう?」
「はい、じきに戻るかと存じます」

 さりげなく。有能秘書の業務を妨げない程度に話しかけつつ事務室で時間をつぶしていると(実は彼にとってはこの上もない至福のひと時だったのだが)。

「よ、アレックス。良かった、いたか!」

 望まざる訪問者が一名。ひょいと片手を挙げ、いかにも慣れた調子で入ってきた。
 よれた薄いクリーム色のワイシャツに細めの黒いタイをゆるくしめ、襟元のボタンは上一つ開けたまま。紺色のスラックスを履き、足元はすり減った革靴、フレームの小さめの眼鏡をかけた黒髪の男。
 かろうじてビジネス向けの服装と言えなくもないが、見るからに胡散臭い。およそ堅気の勤め人とは思えない。

「これはメイリールさま、いらっしゃいませ。何か、ご用ですか?」

 ちらりとこちらを見て軽く挨拶してから、胡散臭い眼鏡の男はアレックスに話しかけた。

「ちょっと確認したいことがあってさ、いいかな。結婚式のことなんだけど」

 結婚?
 一瞬、こめかみの内側でダイナマイトが炸裂しそうになる、が。
 そうだ、結婚するのはレオンハルト・ローゼンベルク氏だったと思い出し、平静を取り戻す。現に自分も招待状を受けとっているではないか。
 
 アレックスがこちらを見ている。ほほ笑んで「かまわないよ」とうなずいた。

「こないだ渡したデモテープ、聞いてくれた?」
「はい」
「バグパイプの楽団なんだけど……どーも予定の人数だと、何か、こう今イチ華にかけるっつーか寂しいんだよな。もそっと人数増やしたい」
「それですと、いささか予算を超過するかと……」
「どっか削ってやりくりできない? 料理一品減らすとか、ランクを落すとか」
「いえ、それは流石に………」

 アレックスの声のトーンが下がり、眉根に皺が寄った。彼にしてみれば耐えられないことなのだろう。

「あー、その、君。ちょっと、いいかな?」
「はい?」

 その瞬間、眼鏡の男(確かメイリールとか呼ばれていた)の口元に小さく笑いが浮かんだように見えた。

「超過する予算と言うのは、いかほどかな?」
「そーっすね………」

 メイリールはポケットから黄色の表紙のリング綴じのメモ帳を取り出し、さらさらと筆算を始めた。

「最低でも20人は欲しいから……こんなもんすかね」

 メモを受け取り、記された金額に目を通す。

「……ふむ」

 左のポケットから小切手帳を取り出し、提示された金額に少しばかり上乗せしてキリのいい数字にしたものを書き込み、署名して……アレックスにさし出す。

「これを。我が敬愛する顧問弁護士と、そのパートナーへの結婚の贈物として……」

 アレックスは少しためらって、ちらりとメイリールの方を伺った。

「ありがとうございます。えーと」
「ランドールだ」
「感謝しますよ、Mr.ランドール。レオンもディフも喜びます」

 その一言で執事は意を決したらしい。
 両手で小切手を受けとってくれた。

「ありがとうございます、ランドールさま」

 微笑を浮かべ、うやうやしく一礼するアレックスの姿を記憶に焼きつけた。どんなに些細な動きも見逃すまいと。


 ※ ※ ※ ※

 
 その夜、ランドールは夢を見た。
 お城のような広々とした屋敷……だが自分の実家ではない。彼が生まれ育った屋敷の建物はもっと近代的で機能的で。
 庭には母が手づから植えた草花があふれていた。

 どことなくヨーロッパ、それもドイツの頑強さを思わせる屋敷の庭は、葉っぱの一枚、枝の一本にいたるまでほんのわずかな乱れも許さぬくらい幾何学的、かつ直線的に整えられていた。
 
(これはこれで美しいが、しかし、味気ないと言うか、息苦しいな……)

 そんなことを考えながら糸杉の木陰にたたずみ、四角く刈り込まれた生け垣に囲まれた庭を見下ろす。
 男の子がいた。
 ぽつんと一人、芝生にたたずみ庭園を眺めている。
 明るい茶色の髪に茶色の瞳、愛らしい顔立ちをしてはいるが、およそ子どもらしいあどけなさと言うものが感じられない。
 まだ五〜六歳だろうに。

『ぼっちゃま。レオンぼっちゃま!』

 屋敷の方から呼ぶ声がする。
 男の子は振り返り、笑った。しかめていた眉をほんの少しゆるめ、口の端をほころばせただけだったが……確かに笑っていた。
 銀髪に空色の瞳の若い男が近づいてきた。年の頃は二十一、二歳ぐらいだろうか。ひと目見た瞬間、誰かわかった。

 アレックスだ!

『おやつの用意が整いましたよ』
『今日は何?』
『マドレーヌでございます』
『ん』

 男の子はうなずくと歩き出そうとして……ちらっと青年執事の顔を見上げ、おずおずと手をさし出した。
 アレックスは愛おしげに笑みを返し、それからうやうやしく男の子の手を握ると歩き出す。ゆっくりと、歩調を合わせて。

dream2.jpg ※月梨さん画『夢のような風景』

 遠ざかる二人をひっそりと木陰から見守りながら、ランドールは、ほう……と感嘆のため息をついた。

 あの頃から一緒だったのだな。
 それにしても、いくつになってもアレックスは……素敵だ。若い頃もそうだが、年を経た今だからこそ尚更に。


 ※ ※ ※ ※


 しみじみとした温かさを抱えたまま、目をさます。
 実に清々しい気分だ。

 詳細は忘れたが、良い夢を見た。
 
 それだけで今日一日、幸せに過ごせそうな気がした。


 ※ ※ ※ ※
 
 
 同じ日の朝。
 アレックスがいつもと同じ時間に規則正しくぱちりとベッドの中で目を開けていた。

(はて。何やら昔の夢を見たような……)
 
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【ex5-2】ヨーコの休日

2008/08/04 14:17 番外十海
 
 まぶたを開けた瞬間、携帯のアラームが鳴り始めた。
 お気に入りの着うたが1フレーズ鳴り終わるまで布団の中で聞き入ってから、ヨーコこと結城羊子はむくっと起きあがった。

 まったく規則正しい生活習慣ってのはある意味こまったもんだ。休みの日でも抜けちゃくれない。
 二次会であれほどはしゃいだはずなのに、いつもと同じ6時30分きっちりに目が覚めるなんて……。
 しかも、着物はちゃんと脱いで持参した衣紋掛けにかかってるし、寝間着用の綿のキャミソールとショートパンツに着替えている。化粧も落し、コンタクトも外してある。髪の毛をほどいているのは言わずもがな。
 
 えらいぞ、自分。
 のそのそと起きあがってからふと大事なことに気づいた。
 ここ、アメリカじゃない!

 律儀に7時30分までに起きたところで、ボウケンジャーが見られるわけじゃないんだってば……パワーレンジャーならともかく。

 試しにベッドにひっくり返ったままテレビをつけてみたが、子どもむけのカートゥーンしかやっていなかった。何か見覚えがあるなと思ったら日本のコンピューターゲームをアメコミ調にした物だったりして。
 ああ、これなら純アメリカ産の方がどんなによかったか。なまじ元ネタを知ってるだけに、見続けるのがつらい。

 他にもいくつかチャンネルを回してみて、結局消した。
 まだぼーっとしている頭では、母国語以外の番組を理解するのは少々きつかった。 

 どうしよう。
 もう一眠りしちゃおっかな……でも、ここで寝たら最後、午前中いっぱい行動不可能になるのは目に見えている。
 それだけは避けたい。時間がもったいない。明日の飛行機で日本に帰るんだし……。

 よし、動くぞ。

 意を決してヨーコはぴょんっとベッドから飛び起きた。
 バスルームに入り、バスタブに熱いお湯を満たす。
 とにかく、まずはお風呂に入ろう。体温と血圧が上昇すれば少しは頭がすっきりする。仕上げに朝ご飯をしっかり食べてっと……。

 アメリカ人用の設備は何もかもゆったり大きめに作られていて、狭苦しいはずのホテルのバスタブも小柄なヨーコにはかなりゆとりがある。
 たっぷり温まってから湯につかったまま体を洗い、シャワーを浴びた。
 風呂から上がり、備え付けのバスローブを羽織る頃にはだいぶ頭がはっきりしてきた。

 さーて、今日は一日フリーだ。どこにゆこっかな……。
 のんびりショッピングに行くか。
 ベタにゴールデンゲートブリッジ公園あたりまで足伸ばすか……Zeumのあのでっかい回転木馬にも久々に乗ってみたいなー。

 冷蔵庫から取り出したボトルウォーターを喉に流し込んでいると、きゅるるぅ……と腹の虫が鳴いた。

「その前に、ご飯食べなきゃね」

 バスローブを脱ぎ、衣服を身につける。
 薄手のデニム地のクロップドパンツに赤い木綿のキャミソール、上から白のシャツジャケットを羽織る。
 髪の毛はポニーテールにするかシニョンにするか……いっそツーテイル……いやいやそれはいくらなんでも。

 ポニーにしよう。たまにはいいよね。

 学校では滅多にやらない。生まれついての童顔との相乗効果で、それこそ生徒の中にまぎれこんでしまうから。
 勤務中はメイクも控えめだし、下手すると自分よりしっかりお化粧している生徒もいるし。
 髪の先が襟足につかない程度の位置に結い上げ、軽く黒のゴムで留めてからキャミソールと同じ赤いリボンを結わえた。
 うん、これでよし、と。

 プライベートにつき本日はコンタクトは封印、愛用の赤いフレームの眼鏡をかける。
 ライムグリーンのバッグを肩にかけ、素足をクロックスのメリージェーンタイプのサンダルに突っ込んだ。
 旅行で歩き回る時はこれに限る。適度におしゃれでしかも足を圧迫せず、歩きやすい。
 軽快な足どりでヨーコはホテルの部屋を出た。

 さあ、休日の始まりだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 トーストにコーヒー、卵はスクランブルかサニーサイド、オムレツから選択可、ベーコンはかりかり。サラダからフレッシュなジュース、フルーツまできっちりそろったホテルのレストランの朝食も悪くない。
 けれど今日はもっとカジュアルでボリュームのあるものをざっくりと食べたかった。(ボリュームの点で言えばホテルの朝食もかなりの分量があったが)

 そこで近くのカフェまで足を伸ばし、ライ麦パンにレタスとトマト、ベーコン、卵を挟んだサンドイッチとカフェラッテのVサイズで朝食を取った。
 食べ終えてからビタミンが足りないなと思い返し、追加で小粒のリンゴを一個買い求めてかじりながら歩き出す。
 さすがにこれは日本では無理。そもそも歩きながら食べるのを前提とした丸ごとのフルーツがカフェやコンビニで売ってること自体ほとんどない。

 売ってるリンゴの種類も違う。
 こちらでもっぱら出回っているのは手のひらにすっぽり収まるほどの小粒で果肉のしまった酸味の強いリンゴ。一個丸かじりするのにちょうどいい。
 新鮮な果肉に歯を当てるたびに、ぷしっと果汁が口の中にあふれる。
 他にもいい大人が何人もごく自然に歩きながらリンゴをかじったり、アイスクリームやドーナッツ、ホットドッグを頬張っているから、目立つこともない。
 
 日本人の目から見ればいささか行儀が悪いが、ヨーコはこのアメリカらしい大らかさが気に入っていた。

 そろそろ、リンゴが芯だけになってきた。さて、どこかにゴミ箱はないか、あるいはティッシュで包んでバッグにつっこむか……。
 ちろっと指を舐めながら思案していると。

「あっ」

 横合いの路地からからぬっと出てきた男とぶつかった。こっちも前をよく見ていなかったが向こうは前『しか』見ていなかったらしい。
 要するに相手の方がかなり背が高く、完ぺきに視線がヨーコの頭の上を素通りしていたのだ。
 ちらっと緑の地にレモンイエローの模様か文字が目に入ったと思ったら、がつんと衝撃が来て視界が揺らぐ。
 とっさに足を踏ん張った瞬間、彼女の目は現実から異界へとスライドした。

(やばい)

 ぐにゃりと周囲の景色が。音が。色が歪んで溶け落ちる。全て混じり合い、渦を巻く。

 何が起きたかはすぐにわかった。己の能力に振り回されない様、常に自分をコントロールするやり方を身につけていた。
 だが、これは……あまりに情報の密度が濃すぎる! 自分で読み取る時は意識して観たい時間に焦点を合わせているのだ。
 こんな風に接触した瞬間に洪水みたいに流れてくるのは極めてイレギュラー。許容量を越えている!

 いくつものイメージと思念が練り合わさり、団子になって押し寄せる。濁流に飲み込まれ、なす術もなくもがいた。このままでは沈む。何かにつかまらなければ!
 必死にもがいて浮び上がり、新鮮な空気を呼吸して……手に触れた枝にしがみつく。
 濁流となって荒れ狂う幻想(ヴィジョン)の一つに焦点が合った。

 まず感じたのは強烈な殺意。腑がねじれ、喉から咆哮となってあふれんばかりの憎しみ。

『殺してやる』
『お前の命を断ってやる。存在を抹消してやる!』

 そして怯える少年の姿……白い肌に鳶色の髪と瞳。やせ細り、顔や手、足にぶたれた痣がある。目ばかりがぎょろりと大きく、皮膚を通して頭がい骨の輪郭が透けて見えた。
 怯えた目。苦痛に歪む顔。
 閉じ込められている……出口のない、熱い金属の箱に。もがいても、足掻いても抜け出せない。
 外側からだれかが箱を蹴り着ける。

『お前は犬だ。役立たずの犬なんだよ。このクズが!』

 閉ざされた箱が揺れる。ぐらぐらと。叩き付けられ、手が、足が熱い。喉が焼け、目がくらむ。

 熱い。
 痛い。
 怖い。
 助けて!

 恐怖と嘆き、悲しみ、ありとあらゆる負の感情。それを発する人間そのものをぶつ切りにして放り込み、骨も肉も皮もぐずぐずに崩れるまで煮込んだどろりとした悪夢のスープ。
 一時に流れ込んでくる。視覚、嗅覚、聴覚、触覚、あらゆる感覚を蹂躙し、処理しきれずむせ返る。

(苦し……い……)

 思わず喘いでいた。

(喉が……灼ける………)

 熱い閉ざされた箱が掻き消え、別のヴィジョンが流れ込む。
 優しい甘さが舌の上に広がり、焼けつく乾きを癒してゆく。クマがほほ笑んでる。むくむくの、ぬいぐるみみたいなデフォルメ化されたクマ。
 前足でとろりとした黄金色の液体をたっぷりすくいとっている。

(これは……はちみつ? でもそれだけじゃない。何だろう、やはり甘いもの……)
(アイスクリーム……かな。でも、もっと淡くて、もっと、かすかで……)

 ぽとり、とリンゴの芯が落ちる。
 車の音、自転車のベル、行き交う人の声、ケーブルカーの車輪がレールにこすれる独特の音。サンフランシスコの表通りのざわめきが戻ってきた。

 さよなら、幻想。お帰り、現実。
 あれはおそらく絶望と苦痛の奥底で彼が求めた救いのイメージ。助けを求める少年と同調したのだろう。

「あ……」

 慌てて周囲を見回す。どれぐらいの間、ヴィジョンに飲み込まれていたのだろう?

(一分? それとも数秒?)

 自分に見えるのは過ぎた時間の落す影。既にあれは起きた事だ。どこかに閉じ込められた子どもがいる。
 間に合うだろうか。あの子を、熱い閉ざされた箱から救い出すのに。

(やったのは誰だ?)

 疑わしい人物が一人いる。
 通りすぎる雑踏の向こう側に、緑色のパーカーが遠ざかる。背中に黄色のロゴが印刷されていた。

「ちょっと失礼!」

 運の悪いことに、路上の人の流れはちょうど、ヨーコの進行方向とは逆だった。自分よりはるかに高くそびえ立つ肩やら頭の間をすり抜け、必死に前に進む。
 ようやく逆行する『動く森』を抜けた出した時には息切れがしていた。
 一方、緑と黄のパーカーの男は路肩のパーキングスペースに停めてあった車に乗り込んでいる。
 車が走り出す。 
 さすがにこれは走って追いかける訳には行かない!
 どうする? タクシーでも拾うか?

 その時。
 空いたスペースに一台の車が滑り込んできた。ほどよくマットのかかった上品な銀色、ロゴマークは見慣れたトヨタ、かなりの高級車に入る部類の車種だ。
 運転席のドアが開いて、中から黒いスーツをきちんと着こなした黒髪の男がひょっこり顔を出す。
 ゆるくウェーブのかかった黒髪、ネイビーブルーの瞳。眉のラインの印象的な東欧系のハンサム。

 ヨーコにとっては幸運なことに……そして彼にとっては不運なことに、彼女はこの青年に見覚えがあった。

「Hey,Mr.ランドール!」

 名前を呼ばれて青年が顔を上げる。
 怪訝そうに見返す青い瞳を見つめた。

(そう、そうよ、それでいい……)

 見えない腕を伸ばし、彼の心を捕まえる。手応えを感じた瞬間、きっぱりと言い切った。揺らぎのない意志をこめて、授業をする時と同じくらい、クリアで、迷いのない声で。

「乗せていただける? 緊急事態なの」

 彼はぱちぱちとまばたきをして、助手席のドアを開けてくれた。
 OK。素直な子って大好き。
 するりと乗り込み、シートベルトをしめる。

「あの車を追って!」
「……わかった」

 ランドールは運転席のドアを閉めると再びシートに座り直し、ベルトをしめ……ハンドルを握った。
 銀色の高級車が走り出す。

 ほんと、素直な子って大好き。
 
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【ex5-3】巻き込まれて追跡

2008/08/04 14:18 番外十海
 
 カルヴィン・ランドールJr.はとまどっていた。
 詳細は忘れたが何やら幸せな夢を見て目覚めた日曜日の朝。幸せな気持ちを抱えたまま、ふらりと一人で買い物に出た。
 たまたま空いたパーキングスペースに停めようとした瞬間、名前を呼ばれた。まるで学校の先生みたいな、迷いのないクリアな声で。

 言われるままについ、走り出してしまったが、何だって自分はこんな女学生みたいな子に言い負かされて知らない車を追跡してるんだ?

 と、言うかそもそもこの子は誰だ?

 上手い具合に丁度その時、追いかけている車が信号で停止した。2台ほど間を開けて停まり、助手席に目を向けると、彼女が控えめな笑みを浮かべた。

「ごめんなさいね、Mr.ランドール。一刻を争う事態なの」
「君は誰だ? 何故、私の名前を知っているんだ」
「一度お会いしてるんですよ。極めて最近……そう、昨日!」

 昨日。
 土曜日。
 顧問弁護士の結婚式に招かれた。海を見下ろすレストランで。かちり、と記憶の中の一片が目の前の女性に重なった。

「ああ……昨日の……キモノガール」
「Yes.」

 基本的に女性は興味の対象外なのだが、着ていた着物が珍しくて職業柄目を引かれた。星を散らしたような藍色の布に、刺繍で桜の花をあしらった美しい生地だった。
 新品ではない。アンティークと言うほどではないがそれなりの年月を経ていて、それがまたいい風合いを醸し出していた。材質はおそらく絹だろう。
 しかし、何と言う違いだろう。昨日と比べて8歳は若返ったように見えるぞ?
 いや、それどころか下手すればティーンエイジャーと言っても通じそうだ。

「改めて自己紹介しますね。あたしはユウキ・ヨーコ、ディフォレスト・マクラウドとは高校時代の同級生なんです」

 彼女が口にしたのは顧問弁護士の結婚相手の名前だった。なるほど、新婦側の友人だったのだな。同級生と言うことは……えっ?
 頭の中で年齢を計算して思わず目が丸くなる。
 同級生? 後輩じゃなくて?

「東洋人ってのは、こっちでは若く見えるみたいですね」
「あ、ああ、うん、そうだね。それで、何故、君はあの車を追えと?」
「後で説明します。ほら、信号青ですよ?」
「……そ、そうか」

 言われるまま、車をスタートさせる。追いかけている理由は結局、聞けなかった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

(まあ何が言いたいかはおおよそ見当つくよ、うん)

 物問いたげなランドールの顔を見ながら、ヨーコは秘かにうなずいた。
 きっと自分とマックスが同級だと聞いて驚いているのだろう。昨日の和装用のしっかりした化粧に比べて今日はナチュラル淡めのメイク。しかも髪型はポニーテールなんだから。
 おそらく20歳そこそこと思ったに違いない。さすがにティーンエイジャーには見られなかったと信じたい。

 信号が変わり、車が走り出す。目当ての車は左へと曲がり、急な坂道を登って行く。店やオフィスビルの立ち並ぶ一角を外れ、住宅街へとさしかかった。
 
「あ」

 何だろう。この景色、見覚えがある。目眩にも似た感触に襲われる。もちろんサンフランシスコに住んでいたことがあるのだから見覚えのある場所はそこら中にある。
 だが、あきらかにその感覚とは違っていた。

 これは、自分の記憶ではない!
 
 肩が触れあった際に流れ込んできたヴィジョンがぐうっとせり上がる。あの中に、合致する記憶が埋もれているのだ。
 その事実に気をとられ、追っていた車から一瞬意識が逸れた。

 グ、グォオン!

 低く轟くエンジン音にはっと顔を上げる。自分の乗っている車は停まっていた。だがその一方で追っている車は……。

「えっ?

 猛スピードで角を曲がり、遠ざかって行くではないか!

「ちょ、ちょっと、何で停まってるの!」
「いや、だって信号が赤だし」
「あちゃ………」

 そう、あくまで一般車両なのだ。パトカーではない。サイレン鳴らしてライトを回し、赤信号を無視してぶっちぎる訳には行かないのである。
 増してこんな高級車が派手な道交法違反なんかやらからしたら……目立つだろうな。一発で本物のパトカーが飛んで来る。
 さすがに社会的地位のある、しかも善意で協力してくれているランドールに違反チケットを切らせたくはない。

 緑のパーカーの男を乗せた車はあっと言う間に遠ざかり、視界から消えた。
 軽く指先で額を抑え、左右に首を振った。

「そもそも最初から無理があったか……」
「すまん、逃げられた」

 申し訳なさそうな顔をしている。心からすまないと思っているのだろう。
 何て誠実な人だろう! ほとんど見ず知らずの女が車に乗り込んできたのに放り出しもせず、素直に言うことに従ってここまで来てくれた。

「問題ありません。既に必要なだけの手がかりは手に入れたから……」
「そうか……あー、その、Missヨーコ。いくつか聞きたいことがあるんだが」
「いいですよ。とりあえず車、そのへんに停めましょうか」

 言われるまま、ランドールは車を路肩に寄せて停めた。
 最初の質問は既に決まっていた。

「君は、もしかして………」

 馬鹿げたことを口にしようとしている。だが、彼女の行動を説明するのに一番しっくりくる言葉を探したらここに行き着いた。おそらくヨーコは真面目に答えてくれるだろう。

「サイキックなのか?」
「だったらどうします?」

 質問に質問で返されてしまった。
 ちょこん、と小さく首をかしげてこっちを見ている。濃いかっ色の瞳は日陰になって黒く、ほとんど瞳孔と虹彩の区別がつかない。
 あどけない。だがその反面、底深い井戸をのぞきこむような錯覚にとらわれる。

「いささか興味があるね。君には、私は……どう見える?」
「そう……ね」

 くい、と眼鏡に手をかけるとヨーコはフレームを軽く押し下げ、直に自分の目でこっちを見上げてきた。黒目がちの瞳の奥でゆるりと……何かがうねる。
 深い水の底で、姿の見えない魚が身をくねらせるように。

「お母様は東欧……ルーマニアの方ですね。あなたに良く似て、とてもお美しい方。ああ、その魅惑的な黒髪とサファイアブルーの瞳はお母様から受け継いだのね。ポケットの奥のヒマワリの種も」
「えっ? 何故、それを?」
「カリカリに炒ったのを、小さめのジップロックに入れて持ち歩いてるでしょ? 小学生の子がおやつを入れてるような、模様付きのやつ」

 無意識に上衣のポケットを押さえた。

「今日の袋は………水玉ね」

 その通り。母親の容姿のことは多少の知識があればわかることだ。しかしヒマワリの種は。袋の模様は!
 すっとヨーコは目を細める。ふさふさと豊かなまつ毛が瞳に被さり、何とも優しげな表情を醸し出す。まるで子どもを見守る母親か、保育士のようだ。

「……恋をしてらっしゃいますね? 秘めたる想い。片想い。とてもピュアで、切ない」

 こめかみの内側で、独立記念日の花火と中華街の爆竹がいっぺんに炸裂した。
 まちがいない。彼女は……本物だ!

「驚いた、本当にサイキックなのか?」

 ぱちぱちとまばたきすると、ヨーコはすっと手をのばし、ちょん、と頬を突いてきた。右手の人さし指で。
 ほぼ初対面の相手だと言うのに、不思議といやな感じはしなかった。学校の先生か、友だちに触れられたような、そんな感覚。
 自分はゲイだ。女性には惹かれない。まるでその事を心得ているかのようなごく自然な触れ方だった。

「そう簡単に信じちゃだめよ、Mr.ランドール? この程度のこと、あなたのプロフィールをちょっと調べればすぐにわかる」
「でも……私が片想いしてるって」
「ああ、それはもっと簡単」

 くいっと彼女は赤いフレームに手を触れ、眼鏡の位置を整えた。

「観ればわかりますもの。観れば、ね」
「そ、そうか……」
「すぐに片付くと思ったのだけれど、どうやら長期戦になりそう。もう少しだけおつきあい願えるかしら……Mr.ランドール」

 つやつやした唇の合間に白い歯が閃く。半ば夢見るような心持ちでランドールは彼女の言葉に耳を傾けていた。

「私、何としてもあの子を助けたいの」
「……ああ」

 うなずいていた。
 彼女の言う『あの子』が誰なのか。さっきまで追いかけていた車とどんな繋がりがあるのかわからぬまま。
 それでも感じたのだ。彼女の言葉は真実なのだと……。

「ありがとう、Mr.ランドール。あなたの勇気に感謝します」

 ヨーコは満面の笑みを浮かべてうなずいた。
 自信家故に彼は猜疑心を持たない。育ちの良さ故に『学校の先生』の言うことは、素直に聞いてしまう。
 そして、彼は紳士だった。か弱き者を見捨てるなんて事は、最初から選択肢に入ってはいないのだ。
 
 この人を捕まえられた幸運に感謝しよう。追跡のパートナーとして、これ以上に頼もしい相手はいない。
 
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【ex5-4】甘く香しいお茶の記憶

2008/08/04 14:19 番外十海
 
 ランドールは首をかしげながらも目の前にたたずむヨーコを見守った。
 住宅街の中の公園。
 広々とした敷地の中には緑の芝生が敷きつめられ、背の高い木々が日光をさえぎらない程度に適度な間隔で生えている。

 芝生には何組かの家族連れ、あるいは気の合う仲間同士が飲み物や食べ物を片手にゆったりとくつろいでいた。
 折りたたみ式のテーブルや椅子、あるいはレジャーシートを広げ、大きなピクニックバスケットを傍らに置いて。

 肉の焼ける香ばしいにおいがするなと思ったら、バーベキューをしている連中もいた。
 犬を散歩させる人、のんびりとジョギングやウォーキングを楽しむ人。サイクリングコースを時折自転車が走って行く。

 日曜の公園の、ありふれた幸せの風景。いかにもサンフランシスコらしく、Tシャツにジーンズのラフな服装からシフォンのサマードレスまでさまざまな服装の人間が入り交じっている。中には革ジャケットを羽織ったものもいる。
 しかし、さすがに黒のスーツ姿の自分は浮いていた。(これでも仕事用にくらべればだいぶラフに着てはいるのだが)

 彼女に指示されるまま車を走らせ、「あ、ちょっと停めて」と言われて停まったのが20分ほど前のこと。
 すれ違う人々に笑顔で手を振り、挨拶しながらヨーコはさりげなく子ども用の遊具の並ぶ一角へと歩いていった。
 すべり台にジャングルジム、ブランコ、砂場、鉄道、シーソー、バネ仕掛けでゆらゆら動くプラスチックのロッキンホース。
 一通り見て歩くと、ヨーコはブランコのひとつに腰をかけ、目を閉じた。

 その姿勢のまま、動かない。子ども用の遊具なだけに小ぶりに作られているのだが、彼女はさして窮屈な風もなくすっぽり収まっている。
 ブランコをこぐのでもなく、いかにもベンチ代わりにひと休みしているような格好のヨーコに注意を払う者は誰もいない。

 車で待てと言われたのだが、何故だか気になってついてきてしまった。今もこうして、少し離れたベンチに腰かけて見守っている。

 いったい、彼女は何をしているのだろう?
 こんなに陽射しの強い所で、帽子も被らずに……。
 少し考えるとランドールはブランコのそばに歩み寄った。自らの体が落す影がヨーコに重なるようにして。
 これで、少しは違うだろう。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 どうしたものか。
 公園に着くまでの間、ヨーコは迷っていた。

 原則としてこの手の事件を追いかける時は必ず二人以上で行動する。常ならぬ物を見通すために集中する間、自分は外敵に対してまったく無防備になる。その間、誰かにガードしてもらう必要があるからだ。
 しかし常日頃、背後を預ける教え子の風見光一ははるか日本の空の下。従弟のサクヤはサンフランシスコ市内にいるが、今はまだ勤務中だ。
 
 何よりもまず、事件が起きているかどうかすら定かではない。
 自分の目にしたヴィジョンは、見ようと思って狙いをつけた訳ではない。まったくの偶然から流れ込んできたものだ。

 それがそののまま過去の情景なのか。それとも何か別のことを象徴しているのか、今の状態ではまったく区別がつかない。
 車の中で感じた既視感を頼りにこの公園まで来たのはいいものの、その先はまだ霧の中だ。
 遊具の間を歩き回るうち、ブランコの一つに自然と引き寄せられた。
 潜在的に読み取ったヴィジョンの断片が反応しているのか、あるいは単なる偶然か……迷うより前にまず、触れてみよう。

 ヴィジョン以外のもっと『現実的』かつ『物理的』な証拠をつかんだら警察に連絡すればいいい。幸い、警察関係者の名刺は昨日のパーティで山ほどもらった。

(できればマクダネル警部補とお話したいな……)

 いささか呑気なことを考えながらヨーコはブランコに腰を降ろし、目をとじた。
 
 閉じたまぶたの下で瞳を凝らし、自分の中を流れる意識と記憶の流れと。自分の触れているブランコに貯えられた記憶と時間の流れの間の壁に小さなすき間を開ける。
 二つの流れが混じり合った刹那、両方からくいっと引き合う小さな『点』に気づいた。

(……当たり)

 あの少年は確かにこの公園の、このブランコに座っていた。
 すき間を徐々に広げて行く。それにつれて『点』は互いに反応し、活性化して行く。
 いい調子だ……もうすぐ視覚的に捕えられるレベルにまで……ああ、来た。

 点は線へ。
 線は面へ、さらには立体に。次第に色と質量を増して行き、おぼろげな像を結び始める。
 意識の狙いを定めると、一段とくっきりと浮び上がった。確かに自分は目的地の近くにいる。

 周囲の現実が歪んで希薄になり、同じ場所、別の時間がヨーコを包む。
 立っている位置が少しだけずれていた。自分はブランコから少し離れて立っている。目の前には少年が一人、うつむいてブランコに座っていた。こちらに背を向けているが、鳶色の髪は確かにあの子のものだ。

 ヨーコはためらわず足を踏み出し、少年に近づいた。しかし足元がねばつき、なかなか前に進めない。
 ぬかるんでいるのか、時間を経ているからなのか。もう少し、ほんの数歩でいい。粘つく地面から懸命に足を引き離し、尚も前に進む。

「ねえ、君……」

 声をかけた瞬間。
 少年の背がばっくり割れて、中から闇が噴き出した。とっさに両手で顔を覆う。
 凄まじい熱風と衝撃に襲われ、ヨーコはもんどりうって後ろ向きに倒れた。

「っ、はっ」
「大丈夫か、Missヨーコ?」

 がっしりした腕が自分を支えている。
 穏やかな夏の公園。笑いさざめきながら休日のひとときを楽しむ人々。そうだ、これが……現実だ。

「あ……一体、何が……」
「いきなり、後ろ向きにひっくり返って落ちそうになったんだ。間に合って良かったよ」

 そうだ、自分はブランコに座っていて、それで……。
 危なかった。
 あのまま全くの無防備な状態で落ちていたら、後頭部を打っていたことだろう。背筋を冷たいものが走る。

「ありがとう、Mr.ランドール」
「大丈夫か? 君、真っ青だ……」

 その時になってようやく、自分がどんな状態にあるか把握した。ブランコに腰かけたまま、背後からランドールに肩を抱かれて支えられている。
 はたから見れば後ろから抱きすくめているように見えるだろう。ごく自然な恋人たちの風景。


「失礼」

 言うなり、ランドールは手を伸ばしてきた。あんまり自然な仕草だったものだからつい、警戒することを忘れた。
 あれ? と思った時には彼の手のひらが喉に触れ、次いで額にぺたりと覆い被さる。

(あったかいなあ……)
 
 それはつい今しがた、ヨーコを直撃した悪意と憎悪の噴流とは対極にあるものだった。

「熱はないようだな。だが、体温が下がってる」

 くすっとヨーコの口の端に笑みが浮かぶ。
 やれやれ、自分としたことが。ほぼ初対面の相手を前にしてこうも無防備でいられるなんて……。

 自分は彼にとって恋愛の相手でもなければ性的な興味の対象でもない。加えてこの身についた紳士ぶりときたら!
 全ての女性(と、おそらくは一部の男性)は年齢を問わず彼にとっては淑女なのだ。守り、敬うべき相手。
 今、こうして自分の額を包み込む彼の手のひらからもその想いがひしひしと伝わって来る。

 足を地面に降ろし、体を支える。ブランコの鎖を握る自分の指を引きはがし、左肩を包む優しい手に重ねた。

「大丈夫……大丈夫ですから……でも」

 寒い。
 
 さっきの一撃は、ヨーコの肉体を傷つけるほどの力こそなかったが、生きるために必要な根本的な熱を削ぎ取るには十分な威力があった。
 震える奥歯を噛みしめる。

「何か……あったかいものが飲みたい」
「わかった。車に戻ろう」

 しっかりと立ち上がるまで、ランドールはずっと支えてくれた。
 車まで歩いて行く間も、助手席に乗り込む時も、手こそ触れなかったが倒れそうになったらいつでも支えられるよう、付き添ってくれた。
 まるでダンスホールか一流のレストランでエスコートするみたいに自然な仕草と間合いで。

 座り心地のよいシートに身を沈め、深々と息を吐く。

(ミスったなあ)

 唇を噛み、目を閉じた。

(風見にばれたら……サクヤちゃんにばれたら………怒られるだろうなあ)

 一人で突っ走るな。それこそ自分が口を酸っぱくして日頃言っていることをまさに己が実行してしまったのだから。
 
「これを」

 ふっと、やわらかく温もった空気が皮膚に触れる。
 大きな手のひらに包まれた、モスグリーンの保温タンブラーがさし出されている。やさしく霧に霞む深い、古い森の色。

「気分が落ちつく。カモミールが含まれているんだ」
「ありがとう……」

 震える手で受けとり、蓋を開ける。紅茶? いや、ハーブティかな。甘い香りがする。一口含む。
 ああ……何て優しい甘さだろう。口の中に広がり、喉を、舌を包んでくれる。目に見えない滑らかな指先が、ひりつく喉を癒してくれる。

「美味しい……あ。このにおいと味!」

 がばっとヨーコは起きあがった。心配そうにのぞき込んでいたランドールが目を丸くしている。
 エウレーカ! 大声で叫びたい気分だ。ヴィジョンの中の子どもが飲んでいたのはこのお茶だ!


「Mr.ランドール! これ、この、お茶……何?」
「あ、ああハニーバニラカモミールティー」
「そうか……バニラだったんだ」
「オーガニックなティーで体にいいんだ。カフェインも含まれていないし、パッケージも独特でね。金属の部品は一切使っていない。地元のメーカーで作ってるんだ」
「売ってるお店に行きたい。連れてっていただけます?」
「ああ。いいよ。ベルト、しめて」

 言われるままシートベルトをしめて、ふと手の中でなおも優しい温もりを発するタンブラーに目を落す。

「あなたの事だからてっきり普通の紅茶か、コーヒーだと思った。何でこれ、持ち歩いてるんですか?」
「好物なんだ。スターバックスやタリーズでは売ってないからね」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「これだよ」
 
 近くのオーガニック食品専門のスーパーで、ランドールは棚に歩み寄るとぎっしり並んだハーブティの中から迷わず一つを引き抜いた。
 ヨーコは伸び上がって彼の手の中をのぞきこむ。
 青い空。朝日に照らされた緑の野原には白と黄色のカモミールの花が咲き、花に包み込まれるようにして金色のハチミツを満たしたガラス瓶が描かれている。とろりとしたハチミツは木の杓子ですくいあげられ、その周りをミツバチが飛び回っていた。

「違う……クマじゃない」
「クマだったよ。8年前まではね。リニューアルしたんだ」
「ほんとう?」
「ああ。子どもの頃からずっと愛飲していたからね。確かだよ」

 ランドールがうなずき、サファイアブルーの瞳を細めて手の中の箱を見おろした。

「ふかふかにデフォルメされた、ぬいぐるみみたいなクマだった。茶色いツボに満たしたハチミツをこう、前足ですくいとっていてね……とても幸せそうだったな」
「そのクマ、お気に入りだったのね」
「母がね」

 かすかに頬を染めると、彼はハーブティの箱をそっと手のひらで撫でた。慣れ親しんだ友人か伴侶を愛でるような手つきで。

「小さな頃の私は胃腸が弱くてね……その上、神経質でなかなか夜は寝付けない子どもだった」
「それで、お母様がこれを?」
「うむ。普通のカモミールティーはくせが強くて飲みづらい。けれどこれなら、いくらでも飲めた」

(……参ったなあ……何でこの人、こんなに可愛いんだろう)

 小さな笑みが口元に浮かぶ。困ったもんだ。相手はどう見ても自分より年上、背も高いし大企業の社長さんだ。
 わかっているのに、思わずぎゅーっとハグして頭をくしゃくしゃになで回したくなってしまう。
 自分の教え子たちにするみたいに。あるいは、サクヤにするみたいに。

 ふと、気づいた。
 ハニーバニラカモミールティーの隣に同じメーカーの普通のカモミールティーも並んでいる。手を伸ばすと、ヨーコは指先でちょん、とカモミールティの箱をつついた。

「今は、普通のカモミールティもOK?」
「そうだな、今なら……いや、やっぱりこっちの方がいい」

 結局、ランドールはハニーバニラカモミールティーを持ったままレジに行き、会計をすませたのだった。
 二つ折りにした黒革の財布からきっちり小銭を取り出し、支払う姿はどこか、まじめにお使いをする子どものようで。つい、あたたかなまなざしで見守ってしまった。

「待たせたね、Missヨーコ……それで、次はどこに行けばいい?」
「待って。今、探すから」

 再び銀色のトヨタの助手席に乗り込み、目を閉じる。必要な情報は既に得ているはずなのだ。
 問題は『いつ』に狙いを定めるか。
 昨日? 今日? 一年と一日前?

 手がかりはついさっきランドールが与えてくれた。
 ヴィジョンの中のパッケージは過去の物。少なくとも8年前のもの。
 だったらあの少年は今は子どもじゃない。当時12歳の子どもでも、8年経てば20歳の大人になる。
 頭の中で年齢を重ねる。

「あ」

 今朝ぶつかった緑と黄色のパーカーの男。顔はちらりとしか見えなかったが、鳶色の髪をしていた。
 意識して焦点を合わせる。ほんの数時間前に自分の経験した時間を呼び覚ます。
 
 別々の二人が重なり、一つになった。

「答えはずっと目の前にあった。あの子は……私がぶつかった本人の過去の姿だったんだ!」

 てっきり、当人の視点から見た光景だと思っていた。緑と黄色のパーカーを着た、背の高い男が少年を閉じ込めた時の記憶なのだと。
 しかし、実際は彼を通して過去の情景にリンクし、その場で起きた事を第三者的に見ていたのだ!

 確かに自分の能力なら、あたかも過去の情景の中を歩く様にして視点を自由に切り替えることができる。
 だが今朝は予想外のタイミングであまりに大量のイメージが流れ込んでいた。能力のコントロールができず、誰の視点で見ているのか区別がつかなかったのだ!

(惑わされた。見えすぎるのも考えものだなぁ……)

 もう一つ、確かなことがある。公園で過去を見た時、邪魔が入った。事の真相を探ろうとする自分に向けられた、明確な悪意を感じた。
 これ以上近づくな、手を引け、と。

 あれは脅しだ。と、言うことは……つまり、彼は『一人』ではない。
 
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【ex5-5】熱い閉ざされた箱

2008/08/04 14:20 番外十海
 
 探しているのは今じゃない。
 過去だ。

 まだ手探りなことに変わりはないが、それでも広大な湖に闇雲に釣り糸を投げ込むより、はるかに答えに近い。

「もう一度、あの公園に戻っていただけます?」
「ああ……わかった」

 公園に戻るとヨーコは車から降り、とことこと子ども用の遊具の集まる一角に歩いていった。
 
 大丈夫だろうか。また、倒れたりしないだろうか………やっぱり心配だ。

 ランドールは車を降りることにした。ドアを閉める間ほんの少しだけ、彼女から視線がそれる。
 その瞬間、やわらかな羽ばたきを聞いた。はっとして顔を上げると……信じられない光景が広がっていた。

 ヨーコの手のひらから小鳥が飛び立っている。それも一羽や二羽ではない。
 次から次へと飛び立って、上空で円を描いてから四方八方に散って行く。いったい何羽いるのだろう?

 スズメほどの大きさ、白い腹、青みがかった灰色の頭から茶色がかったグレイへと柔らかなグラデーションを描く背中、そして赤橙色の顔と胸。

 この国では滅多に自然の中で目にすることはない。しかし、母とともに開いた絵本ではそれこそ飽きるほど目にしてきた……。

「ロビン! 信じられん……どこから、こんなにたくさん?」

 最後の一羽を送り出すと、ヨーコはこちらを振り返り、ぱちくりとまばたきをした。

「まさか、今の……見えた?」

 こくん、とうなずく。

「ヨーロッパコマドリが……何故、カリフォルニアに?」

 にまっとヨーコは口角を上げて笑った。まるで絵本の魔女か、仙女、妖精……呼び名はいろいろあるが、とにかく謎めいた魔力を秘めた女そっくりの顔で。

「……バカンス、かな?」

 一見余裕たっぷりの表情でほほ笑みながら、内心ヨーコは秘かに焦っていた。

 うっかりしてた。彼の母親はヨーロッパ出身だった。
 万が一見られてもちょっと変わった鳥がいるなあ、ぐらいに思われる程度だろうと踏んだのだけれど、甘かった。しっかりばれてる。

 そう、少しばかりカンの鋭い人間なら自分の放つ『影』を目にすることは十分に考えられる。だからあまり不自然にならないよう、小鳥を選んだのだが。

「バカンスって……あんなに沢山?」
「団体旅行、かも」
 
 いっそセキセイインコにしとけば良かったか。

(こんな時、風見がいたら一発なんだけどな……)

 無い物ねだりをしてもせんない事。
 今は自分にできる最善を尽くそう。とにもかくにも『目』は放った。あとは目的のものを見つけるまで。

 じりじりと時間が過ぎて行く。1秒がやけに長く感じられる。
 ヨーコはじっと待った。
 もうじき、時間切れだ。幻の小鳥たちが、呼び出された場所に……彼女自身の無意識の奥底に還る瞬間が近づいている。
 既にかなりの気力を消耗していた。この捜索が空振りに終わっても、果たして第二陣を呼び出す余力があるかどうか……。

 わずかな焦りを覚えたその瞬間。
 ちかっと目蓋の奥に求めていた光景が閃いた。

「……あった」

 幻のコマドリの一羽が、探し物を見つけてくれたのだ。

「Mr.ランドール、車を出して。次の行き先が、わかった」
 
  
 ※ ※ ※ ※
 
 
 たどり着いた古い一軒家は、やはり公園からはいくらも離れていなかった。さほど際立った作りではない。縦に細長い構造の木造住宅。窓枠は白く、壁は薄いクリーム色。
 窓には分厚いカーテンが引かれ、扉には『売り家』の文字と不動産屋の連絡先を記した看板がかかっている。
 人の気配は、ない。

「本当に、ここでいいのか?」
「ええ。ここよ」

 門は開いていたが、裏庭に続く木戸は閉まっていた。車を降りるとヨーコはひょい、と手をかけて塀を乗りこえ、裏庭に歩いて行く。

「Missヨーコ!」

 あわててランドールは後を追いかけた。

「Missヨーコ。レディ、君は少し慎みという物を持ちたまえッ!!」
「え?」
「不用意に、あんなダイナミックな動きをして……スカートでなければ、何をしてもいい、と言うものではないのだよ?」
「あ? え? 何?」

 そう言う自分はどうなの。思ったけれど口には出さないことにした。
 あんまりに真面目で誠実そのもののランドールの態度に、ああこれは茶化してはいけない相手なのだと悟ったのだ。
 わずかにスミレ色を含んだ濃いブルーの瞳がじっと見下ろしている。主に自分の上着の裾や胸元のあたりにを。

「そのジャケットの下、キャミソール一枚なのだろう? 気をつけた方がいい」

 さすが紡績企業の御曹司、衣類については詳しいようだ。
 かなり際どいことを言ってるような気もするが、下心は微塵も感じられない。もとよりゲイなのだから女性の体に性的な興味を引かれるはずがない。
 純粋に心配してくれているのだ。下手すると自分の上着を脱いで着せかけてきそうな勢いだ。
 素直に目を伏せ、謝罪の言葉を口にすることにした。

「ごめんなさい、これからは気をつけるわ……」
「ああ。そうしてくれ」

 錆びてぼろぼろになった金属の箱が転がっていた。裏庭の、伸び放題の雑草混じりの芝生の上に。
 大きさはやっと子ども一人が身をかがめて入れる程度。箱の一面は狭い格子状になっていた。おそらく、本来は犬小屋として作られたものだろう。
 
 さほど広くはない庭だが、日当りは抜群だった。わずかに西に傾いた午後の陽射しがぎらぎらと照りつけえいる。
 箱の周りに、強烈な太陽の光をさえぎる物は一切無い。近づいただけで金属の帯びる熱がむわっと立ちのぼり、皮膚を。毛穴をつたって染み込んで来る。

「ここに……彼は入っていたんだ。夏の陽射しが容赦無く照りつける昼に。凍えるような冬の夜に」

 ランドールが眉をしかめて首を横に振る。それは出会ってから初めて目にした、心底不快そうな表情だった。 

「とんでもない話だ」

 お茶の記憶は、ひもじさと渇きの中でおそらくあの子が飲みたいと願ったもの。こんな所に好き好んで入る訳がない。何より鍵は外側についている。

「いったい、誰がそんなマネを」
「さあて……実の親か、あるいは里親か……いずれにせよ、酷い親であることに変わりはない」

 確かなのは、あの憎悪と殺意の対象が自分をここに閉じ込めた相手だと言うこと。
 この箱が放置されていると言うことは、おそらく警察の捜査は行われていない。だれも通報する者はいなかったのだ。事件は巧みにもみ消され、箱の用途は明らかにされぬまま、月日が流れた。

 そして、今に至る。

 ヨーコの口の中に苦いツバがわき起こる。ぎりっと奥歯を噛みしめ、飲み込んだ。

 子どもを虐待するようなクズがどうなろうと知ったことじゃない。けれど、彼が加害者になるのは見過ごせない。
 あの憎悪と殺意は行動にシフトする寸前だった。

 どうする?
 既に公園で一度攻撃されている。向こうは自分の存在に気づいている。
 危険は高い。けれど今やらないと……朝、接触してから既に数時間が経過している。今この瞬間にも、彼は『親』を殺そうとしているかもしれない。
 急がなければ。

(あの子を犯罪者にさせちゃいけない。それ以上に悪いモノに堕ちるのを放っておけない!)

 ヨーコは一瞬で腹をくくった。

「Mr.ランドール。もし私が倒れたら、マックスかレオンに連絡してください。『ヨーコが倒れた』って言えばわかるはずだから」

 息を飲むと彼は一歩、近づいてきた。

「また、倒れるような事をするのか? さっきみたいに」
「万が一の用心にね。慎重なんです」
 
 芝生に膝をついた。

「あ、そうだもう一つ大事なことが……何があっても、決して私に触れちゃだめですよ?」
「君に失礼なマネはしない。誓うよ」

(あー、もー、どこまで紳士なんだろ、この人は!)

「そーゆー意味じゃないんだけどなあ……ま、いっか」

 思わず日本語で呟いていた。幸い、彼には意味が通じなかったらしく、きょとんとして首をかしげている。

 屈み込むとヨーコは手を伸ばし、熱い金属の表面に触れた。意識を開くまでもなかった。
 箱の中に、子どもがうずくまっている。よほど強い思念が焼き付いているのだろう。そのまま彼の意識につながったようだ。
 子どもが顔を上げる。骨の輪郭が透けて見えるほど痩せ細り、鳶色の瞳ばかりがぎょろりと目立つ。
 胸が締めつけられた。

 ぎくしゃくと少年が手を伸ばして来た。
 やはりつながっている。向こうもこっちを見てる!

「そこから……出よう。ね? ほら、こっちにおいで」

 ヨーコは手を伸ばした。
 少年はさらにおずおずと手を伸ばし、すがるように握りしめてきた。

「……おいで」

 ほほ笑みかける。
 すると、少年はわずかに口の端をつり上げ…………………にまあっと笑った。

(やられた?)

 あっと思った時は既に遅かった。がっと口が耳まで裂け、鳶色の瞳がくるりと白目を剥く。か細い腕にはぞろりと棘のような剛毛が生えそろい、爪は鋭く、ナイフさながらに尖り……ヨーコの腕をがっちりと捕まえた。

「くっ……離せっ」

 必死でもがいたが、すさまじい力で引きずり込まれる。鋭い爪が腕に食い込む。皮膚を切り裂き、血が流れた。

(いけない、このままでは取り込まれる!)

 足元をささえる地面の感触が消えた。腹の底を冷たい恐怖が満たす。

(常に奈落の底から自分を付け狙い、隙あらば引きずり込もうと待ち構える影がいる)
(そいつとまっこうから向き合おうと決意したのは十六の時だった。以来、ずっと闘い続けてきた……霧の中で答えを探し、必死になってもがきながら)

 捕まった。
 逃げられない。
 落ちる。
 底知れぬ闇の中に……
 
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【ex5-6】混在する夢

2008/08/04 14:21 番外十海
 
「大丈夫か?」
「え?」

 がくん、と、唐突に落下が止まった。
 目を開ける。
 がっしりした腕に支えられていた。

「ちょ、ちょっと、Mr.ランドール、何であなたこっち側にいるの! 触っちゃだめって言ったのに」
「でも、君が怪我してる」

 確かに右腕から血がしたたっていた。

(しまった……予想以上に紳士だった)

 改めて周囲を見回す。カリフォルニアの青空は跡形もなく消えていた。そして、そこはさっきまで自分の居た裏庭ですらなかった。
 熱い閉ざされた箱は消えている。中にうずくまっていた少年も。彼の内側に巣食う、もう一つの存在も。
 
「大丈夫か?」
「大丈夫ですよ……」

 とにかく、この怪我をどうにかしよう。ランドールが自分のシャツを引き裂いて包帯代わりにさし出す前に。
 さっと左手で傷をなぞり、塞いだ。表面にうっすらにじむ赤い筋を残して。

「ほら、大したことないし」
「さっき見た時はもっと深く切れてたんだ!」

 にっこり笑って顔をよせ、きっぱりと言い切った。一語一語に力をこめて。

「気、に、す、ん、な」
「あ……ああ」

 うなずいている。
 よし、それでいい。素直な子って大好き。

「何だか君……印象が違うね」
「気のせい気のせい!」

 意志疎通のためにわざわざ英語を使う必要もない。ここでの会話は音声を媒介としないのだ。
 お互いの母国語でしゃべっても思念が直接伝わり、聞き取る者は無意識に受けとった相手の言葉を自分の知る言語に変換している。
 だから日本語でしゃべっている。故に口調もくだけ、本音により近くなる。
 まあ、そのへん細かく説明することもないだろう、今は。

 それより問題は、カルヴィン・ランドールJr.が……普通の人間が、ヴィジョンの中に。他人の夢の中に入ってしまったと言うことだ。
 もう、ここは「少年」一人の夢ではない。
 徐々にランドールの夢と記憶が混じりつつある。
 他者の夢の中でも自己を保つには、それなりの訓練と経験が必要なのだ。自分やサクヤのように。

「ランドールさん」
「何だい?」
「あたしから離れちゃだめですよ」

 目をうるうるさせ、彼の手なんか握ってみる。
 ここで強く命令するのは逆効果だ。彼にとっては全ての女性はか弱くて保護すべき対象なのだ。自分が相手を頼りにしているのだと思わせ、誘導するのが吉。
 実際に離れると困るし……そうだ、万が一にそなえて繋がりを作っておこう。

 髪の毛を結っていた赤いリボンをほどいてランドールの手首に巻きつけた。

「これは?」
「おまじないです。迷子にならないための」

 自分一人なら簡単に抜け出せる、けれどランドールが一緒だと話は別だ。
 これはもう彼自身の夢でもある。強引に切り離せば心を損なう。

 危険だけれど、『夢』の中心を見つけよう。核を探そう。自分を助けてくれなかった親、虐待した親への憎しみの源を。

「行きましょう。あの子を見つけて、ここから連れ出さなくちゃ」
「あ、ああ……そうだな」

 ランドールは周囲を見渡し、うなずいた。

「ここはあまり、気持ちのいい場所じゃない」
 
 ヨーロッパの深い森を思わせる太く、高くそびえ立つ木々。目に届く範囲には、灌木や草がみっしり絡み付いている。
 見渡すほどに遠近感が歪んでゆき、まるで自分だけが縮んでしまったような奇妙なスケールのずれを感じさせる。

 空はどんよりとした雲が分厚くたれこめていた。昼間ではない。だが、夜でもない。
 全ての空は陽が沈む直前のたそがれ色に塗りつぶされ、薄明かりに縁取られた分厚い雲が黒々と、不気味な模様を描き出している。
 その形がまるで業火に焼かれて悶え苦しむ人々のように見えるのは、気のせいだろうか……。

 遠くで狼の遠吠えが聞こえる。それとも、ハイウェイを走る大型車の音?

 おそらくこの辺りはランドールの記憶が元になっているのだろう。
 ルーマニア出身の母から聞かされた昔話や、先祖から受け継いで来た無意識の記憶、そこにアメリカの怪奇映画や小説が微妙に混在しているように思えた。
 現にさっき潜った石造りの門は、いい具合に蔦がからまり外れかけた金属の門扉がきいきい軋んで、怪奇映画に出てきた幽霊屋敷そっくりの造りだった。

 石柱の上にうずくまる苔むしたガーゴイルの傍らを通り抜け、たどりついた先は……屋敷ではなく、もっとシンプルで現代的な二階建ての建物だった。

「ここは……学校、かな」

 だがランドールは青ざめ、首を横に振っている。

「まさか……信じられない、ここは私の通っていたジュニアハイだ!」

 彼がその言葉を発した瞬間、二人は校舎の中に居た。中はがらんとしていて人の気配はない。
 しかし、その寂しさを補うかのように、乱雑かつうすっぺらな装飾が施されていた。
 紙を切り抜いた幽霊、ビニールのコウモリ、発泡スチロールやプラスチックのカボチャ。床にも壁にも天井にも、Gの生じるありとあらゆるところに飾りがぶら下がっている。
 
「この装飾、ハロウィンかな」
「ああ、ハロウィンパーティの飾り付けだ……よく覚えている」

 声のトーンが低い。どうやら、ここに残っているのは愉快な記憶ばかりではないらしい。

 良かった、道はまちがっていない。
 ヨーコはひそかに安堵した。
 自分たちは確実に悪夢の中心に向かっている。
 
 チープな飾りに埋め尽くされた廊下は、やがて一つの扉に行き当たった。両開きの金属の扉。手を触れるまでもなく勝手に開いた。

 ギギギギギ……ガチャン!

 妙に軽い音ととともに扉が開く。
 確かに扉だったはずなのに、開けたらいきなり目の前にどんっと学生用の金属ロッカーが広がった。

「何、これ……」

 むわっとふき出す強烈な臭気に思わずヨーコは顔をしかめた。本来なら決して不快なにおいではない。むしろ食欲をそそるはずなのだが、物には限度と言うものがある。
 狭い空間にこもっていたせいだろう。
 ロッカーの中には、大量のニンニクを連ねてリースにしたものがぶらーんと、何本もぶらさがっていた。
 それだけではない。アイスキャンディの棒だの、ちびた鉛筆、ボールペン、適当な板切れを十字に組んで、テープで張り合わせただけのお粗末な十字架。
 明らかにチープなアクセサリー屋で買ったとおぼしきプラスチック製の十字架も混じっている。

 十字架とニンニクのカーテンの合間に、さらに悪趣味な物体がぶらぶらゆれていた。
 首に縄をくくりつけられた人形だ。
 よく見ると、吊られていたのは、紫の肌に片眼鏡をかけ、黒いマントを羽織ったセサミストリートのパペットだった。そう、どことなく吸血鬼めいた風貌の……と、言うよりまさにそのものの、あの伯爵だ。

 ご丁寧に胸部を深々と、先端を鋭く尖らせた木の杭で串刺しにされている。

 ロッカーの中にはそこいら中にべたべたと、白い紙に乱雑に書きなぐられた赤い文字、何とも物騒な張り紙がはり付けられていた。わざと赤い染料をしたたらせるようにして。

『ドラキュラは故郷に帰れ!』
『吸血鬼を吊るせ!』

 ランドールは青ざめ、唇を噛んだ。
 ここがだれのロッカーか、なんて確かめるまでもなかった。自分の使っていたロッカーだ。もう二度と、目にしたくないと思っていたのに。

「まー何とも露骨な遣り口だこと。匿名だと思ってやりたい放題やっちゃって」

 ヨーコが眉をしかめて肩をすくめている。怒りに震えて、というより心底呆れているような口ぶりだった。

「インターネットに書き込みするよか100倍手間がかかったでしょうに。ほーんと、お子様ってのはこう言うことにはヤんなるくらい勤勉ね」
「君は君で今、言いたいことを1/100ぐらいに抑えてるだろ」
「……ばれた?」

 にまっと笑っうとヨーコは無造作に手を伸ばし、一番大きな張り紙をべりっとひっぺがした。白い紙はくたくたと彼女の手の中で張りを失い、熱湯に放り込んだパスタのように崩れ、丸まり、希薄になり……消えた。
 まるで最初から存在しなかったみたいにきれいにさっぱりと。

「こんな奴ら、殴るまでもない。もっとも、鼻で笑ってやるのに、これほどふさわしい相手はいないんだけどね」

 続いて首を吊られた人形がやはり形を失い、消え失せた。
 
「消臭剤にしちゃ、いささか趣味が悪い」

 ふーっと息を吹きかけると、ぶらさげられた大量のニンニクが揺らぎ、粉々になって吹き飛ばされてしまった。
 においすら残さずに。

 不思議だ。今の彼女に重なって、ジュニアハイ時代の彼女が見えるような気がする。(多分そうだろう。でも、もしかしたら小学生かもしれない)。
 今より髪は長く、化粧もしていない。ぴったりした黒の長袖とピンクの半袖のTシャツを重ね着し、デニムのミニスカートをはき、足元は赤いスニーカーだ。眼鏡のフレームも今より大きめ。

「キリスト教の象徴としての十字架にはしかるべき敬意を払うわ。でも、これはただのバツ印。何の意味もありゃしない」

 ざらりと十字架をむしりとると、まとめて手の中で丸めて、ぽいっと投げ捨てる。ボール状に一塊になった十字架は、ぽてりと床で1バウンドして、それからぱちっとシャボン玉のように破裂して、消えた。
 後には何も残らなかった。

「徒党を組んでるくせに正面に立つ度胸もない。そのくせ社会の正しさを一身に背負ったような偉そうな面ぁして一人を攻撃する奴らってのはどーにも好きになれなくってね……。思わずばっさりやりたくなっちゃう」

 冗談とも本気ともつかないことをさらりと言うと、ヨーコはちろっと舌を出して笑った。

「斬り捨て御免、峰打ち無用」
「まるでサムライだな。頼もしい。あの頃君が居てくれたらと思ったよ」
「ありがとう。でも、あなたは一人で克服した。そうでしょう?」
「ああ。母から受け継いだルーマニアの血と文化を誇りに思っていたからね」

 ランドールは一枚だけ残っていた張り紙を剥がし、ずいっと一歩前に進み出た。幻のロッカーは消え失せ、再び長い廊下が現れる。

「ハロウィンに吸血鬼の仮装をしたんだ。幸い、父の会社のツテで衣装は本格的なのを用意できたし」
「ああ、なるほど……とてもよくお似合いだ」

 言われて自分の服装を改めて見直す。
 変わっている!
 黒いマント、裏地は赤。細やかな赤い刺繍を施したクラシカルな黒いベストにズボン、白のドレスシャツ、襟もとにしめた蝶ネクタイ……まさしくあの時着ていた吸血鬼の衣装だ。
 ただしサイズは大人向け。今の自分にぴったりの大きさになっている。

「ありがとう。それからも意識して黒い服を着て、紳士然として振る舞ったんだ」
「ネガティブなイメージを逆手にとって、逆に自分の魅力を最大限に引き出したのね。見事な演出だ」

 率直な賛辞の言葉に、そこはかとなく腹の底がこそばゆくなる。ランドールはかすかに頬を染め、照れた笑いをにじませた。

「いや。子どもじみたつまらん見栄さ。笑ってくれ」
「笑いませんよ……笑える訳ないじゃない」

 ぽん、とヨーコは黒いマントに覆われた背中をたたいた。

「あなた、すてきな人ね、ランドール」
「ありがとう……って、ちょっと待った」
「どしたの?」
「今、君 good-boy(いい子)って言わなかったか?」
「あらら? good-guy(いい男)って言おうと思ったのに。英語って難しいな〜」

 手をひらひらさせてすっとぼけた。
 あぶないあぶない。どうやら、本音がダイレクトに伝わっちゃったらしい。
 
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【ex5-7】影との遭遇

2008/08/04 14:23 番外十海
 新たな廊下には窓がなかった。明かり取り用のはめ殺しの窓さえも。
 教室に通じるドアもない。
 ただどこまでも延々と続く、細長く引き伸ばした密封された箱。

 ウ…………ゥル、ル、ル、ウウウ……。
 グゥロロロォオオオオオオオオンン……。

 閉ざされた四角い空間の中で、淀んだ空気が揺れる。遠くかすかな音の響きを耳に伝える。

 ねちょり、と足元が粘ついた。
 
「何だ……これは」

 息苦しさを覚え、ランドールは襟元をゆるめた。

「気のせいよ。これはただの夢だもの。あなたが熱いと思えば熱い。寒いと思えば寒い。熱いのと寒いの、どっちがいい?」
「どちらもあまり」
「あたしもよ」

 ひやりと涼しい空気に包まれる。
 赤黒く淀む熱気の中、自分とヨーコの周りだけが秋の入り口か春の終わりにも似た涼やかな風に包まれていた。

「そろそろね……いや、もう着いてるのかな?」

 とん、とヨーコが足を踏みならした。
 その途端、長く引き伸ばされていた廊下がランドールとヨーコの立っている場所を拠点にくんっと縮まり、広大な四角い部屋に変わった。
 窓も出口もない、閉ざされた熱い箱のような部屋に。

「I see you!」

 歌うように彼女がつぶやく。その声によどんだ熱気のカーテンが左右に分かれ、目の前に二つの生き物が現れた。
 ぱさぱさの毛並みを通して骨の輪郭が透けて見えるほどやせ細った………………………犬。
 不釣り合いなほど太い鎖が四肢に絡み付き、床に縫い止めている。その床は真っ赤に熱せられた鉄板だ。じりじりと肉の焦げるにおいがする。

 そしてもう一つ。
 天井に届くほどの背の高い、巨大な影の巨人が一人。犬を踏みつけ、少しでも熱から逃れようとするその体を床面に押し付けている。
 腕も、足も、体も顔も、闇で塗りつぶしたように真っ黒。ただ目のあるべき位置にのみ爛々と、二つの炎が燃えたぎっている。

『痛い、痛いよ、熱い、ごめんなさい!』

 犬がか細い悲鳴を挙げる。
 人の言葉で。
 少年の声で。

 犬の体についていたのは、子どもの頭だったのだ。
 鳶色の髪に鳶色の瞳。ぎょろりと目ばかりの目立つやせ細った白い顔……それは、朝からずっとヨーコが追いかけてきたあの少年だった。

『お前は犬だ。役立たずの犬なんだよ。最低のクズだ』
『さあ、せいぜい泣け、わめけ!』
『みじめに泣きわめいて許しを乞え。そうやって俺の気晴らしになるぐらいしかお前の使い道なんて存在しないんだよ……』
『ほら、もっと声を出せ、この役立たずの野良犬めが!』

 影の巨人は狂った様に拳をふるい、足で踏みつける。そのたびに犬と融合した少年が泣き叫ぶ。

「何てことだ!」

 日常を不気味に歪めた光景の恐怖よりも、子どもの悲鳴がランドールの胸に突き刺さった。
 こんな事、あと一秒だって許しておくものか!
 激しい怒りに駆り立てられ、彼は猛然と影の巨人に向かって踏み出そうとした。

「待って」

 ほっそりした手が手首を包み、優しく押さえる。

「止めるな、Missヨーコ。あの子を助けなければ!」
「私も同じよ。だからこそ、待って」

 ヨーコは彼の手を握る指先に力を込めた。すっと左手を持ち上げて指さし、ランドールの視線を導いた。

「あれは彼自身の影。見て、根っこはあの子の中にある……ほら、あの巨人の足」
「……あっ」

 彼女の言う通りだった。
 半ば犬と化した少年を踏みにじる巨人の足はそのまま少年のわき腹に溶け込み、一つになっている。
 
「だが、あの子は現に苦しんでいる! あの涙は本物だ」
「ええ……その通りよ。まずはアレを切り離さないとね」
「どうやって?」

 ヨーコは口角をつりあげ、にまっと笑った。一言も発しなかったけれど、ランドールは彼女の意志を確かに感じた。

『見てて』

 きりっと背筋を伸ばしたまま、ヨーコは人頭犬身の少年と影の巨人に向かって歩いて行く。巨人は少年をふみつけたまま、ぐるりと首のみ回転させ、ヨーコをにらみつけた。

『何だあ、ひっこんでろおおおおお。これは躾なんだよおおおお』

「どこが躾だ。私は教師よ。保護者面して子どもを虐待する親を見過ごす訳には行かないの」
『教師ぃ? 教師だぁ? 引っ込んでろ』

 ずぶり、と巨人の腹の辺に別の顔が浮び上がる。目をつりあげ、口元をひきつらせた青ざめた女の顔だ。

『これは家庭の問題なんです。家庭の問題なんですってば。近づかないでください、放っておいてください、だいたいあなた、ご自分の子どもはいるの?いないでしょ、子どもを育てたこともないような若い女の先生になんかとてもじゃないけど子どものいる母親の苦労はわからないんです、だから放っておいてください、さっさとお帰りください、さあさあさあ!』

 ひっきりなしに喚く女の口からは青黒い唾が飛び散り、床に落ちてじゅくじゅくと、強い酸性の蒸気を放つ。
 雫が飛び、白い上着がじゅっと溶けて小さな穴が空いた。

「Missヨーコ!」

 ヨーコはわずかに眉をしかめたものの、怯える風もなく。ちょいと眼鏡の位置を整え、一言

「黙れ」とだけ言った。

 女の顔はまだぱくぱくとせわしなく口を動かしている。が、音は出ない。全て掻き消えている。
 ヒステリックな金切り声を取り除いてしまうと、もう、ただの滑稽なパフォーマンスにしか見えなかった。恐怖や苛立ちよりもまず、苦笑を誘う類いの。

「私はあなたの教育方針を否定するつもりはないし、これまでの生き方を批判する意志もない」

 女の顔の動きがピタリと止まる。何かを言いかけた形のまま、口も、眉も、鼻も目も、そのまま凍りついてしまった。

「そもそもお前はもう死んでいる。もはや存在しないのだから社会的な体面も体裁も気にする必要はないじゃないか。そうだろう?」
 
 その一言で女の顔はぐにゃりと形を失い、影の中に沈んで消えた。

「ふん。タフガイを気取ってる割には、面倒くさい社会上の手続きは全て奥方を通じて行っていた訳か」

 影の巨人の体がぶるぶる震え出した。

「奥さんがいなくなった今は、近所づきあいもできないのだな。ちゃんと台所の生ゴミ、指定日に出してる? ビールの空き缶は?」

 おぉおおおおおおおおおおおおお!

 ぐんにゃりと歪み、もはや言葉にすら成らない音を発して巨人はヨーコにつかみかかろうとした。少年に食い込んでいた足がめりめりと引きはがされ、長く尾を引いて伸び始める。

「そうだ。悔しかったここまで来てみろ。私は逃げないぞ。恐ろしくないからな」

 影の巨人はヨーコに向かって猛然と走り寄る。しかし、少年と融合している片足にぐい、っと引き戻され、床に倒れた。
 熱い金属に焼かれて悲鳴を挙げる、その顔に向かってぴたりとヨーコは右手の人さし指を突きつけた。

「お前は怪物なんかじゃない」

 ぐにゃりと巨人の輪郭が歪む。限界まで熱したゴムのように波打ち、だらだらと溶け落ち始めた。

「私は知っている。私は見た。お前はただの大人だ。ただの男だ」

 辺り一面に胸の悪くなるような臭気を漂わせ、巨人の体が溶けて行く。崩れて行く。
 どす黒い粘液となって滴り落ち、床面で焼けこげ、蒸発する。

「自分の気晴らしのために子どもを……自分より弱い生き物を傷めつけることしかできない、最低のクズ野郎」
『も……もぉ……やめでぐで………』

 すっと目を細めると、ヨーコはちらりと白い歯を見せた。その顔を見た瞬間、ランドールの脳裏についさっき聞いた彼女の言葉が閃いた。

『斬り捨て御免、峰打ち無用』

「お前は老いている。お前は弱い」

 巨人はすでに巨人ではなかった。
 溶けて縮み、頭は小さく、腹ばかりがぶっくりと膨れた奇怪な、等身大のゴムの人形。不気味でもなく。恐ろしくもなく。むしろ笑い出したくなるような、滑稽な人体のカリカチュアと成り果てていた。

「お前なんかより、お前の傷めつけている存在の方が、ずっと生きる価値がある」

 弱々しく首を振ると、変わり果てた巨人の残骸は顔を覆い、どっと地面に突っ伏した。

「今だ……影を切り離す。あの子を受けとめて」
「わかった」

 ヨーコはポケットから黒い小さな布袋を引き出し、中から一枚のカードを抜き出した。

「剣の一番……来い!」

 カードの表面に描かれた『巨大な剣を握る手』のイメージが立体化し、具現化する。

「行け!」

 剣のイメージは一陣の光となって走り、少年と影を繋ぐ細い、長い尾に斬りかかった。か細い尾は容易く断ち切られるかに見えたが……

 がきぃん!

 耳障りな金属音ともに光の刃が弾かれる。その瞬間、ヨーコの指先にぴっと一筋切り傷が走り、赤い血が一滴ほとばしる。

「ちっ」

 弾かれ、くるくると回転しながら戻ってきたカードをヨーコはぴしっと左手で受けとめた。

「くっそー、硬いなぁ」

 影は相当深く少年の中に根を降ろしているようだった。弱らせたとは言え、文字通り『刃が立たない』。それどころか、しゅるしゅると縮み、少年の中に今一度身を潜めようとしている……急がなければ!

 歯がみしていると、急に左の胸ポケットからぶるぶると震えた。

「え?」

 愛用の黒に赤で縁取られた携帯が飛び出し、宙に浮く。

「あれ?」

 鳴り響く軽快な着信音ともに、しゃこっとスライドした。ストラップにつけた鈴が『りん』と鳴る。

『着信中:風見光一』
「あ…………」

 ちかっと点滅したディスプレイ画面から、まばゆい光の粒があふれ出し、凝縮しておぼろな人影を形づくる。めらめらと揺らめく浅葱色の煌めきに包まれ、陣羽織をまとった目元涼しげな若侍が出現した。腰には黒鞘の太刀を帯びている。

kazami.jpg ※月梨さん画「風見、参上!」

「風見!」

 にこっと笑うと、若侍はザ、ザ、ザと影と少年に走り寄り、間合いを詰めるやいなや抜く手も見せずに一刀両断!
 満月よりもすこぉし欠けたる十六夜の、月にも似た銀色の閃きとともに音も無く、影と少年が切り離された。

『風神流居合…『風断ち』(かぜたち)』

 影はぐにゃりと形を失い崩れ落ち、片や少年の体は衝撃で宙に舞う。あわててランドールは走りより、やせ細った体を受けとめた。
 もう、犬の形をしてはいなかった。

 若侍はひゅん、と太刀を振って飛沫を払い、流れるような動きで鞘に収めた。それからちらりとこちらを振り返り、ぱちっと片目をつぶってウィンク。

『ダメだよ、羊子せんせ。一人で突っ走っちゃ!』
「………ばれたか……」

 にこっとほほ笑むと、若侍は光の粒子に戻り、携帯に吸い込まれ……消えた。

「今のは、いったい」
「あー。あたしの教え子」

 技を使う時は技名を叫べと、以前教えたのをきちんと覚えていたらしい。

(ほんと、素直な子って大好き)

 いったい、どうやって自分の危機を察したのか。
 ぱしっと携帯を回収し、胸ポケットに収める。
 こいつの中には、彼とやり取りした何通ものメールや、教え子たちの写真が入っている。それを足がかりにしてサポートしてくれたのだろう。

「こりゃ帰国してから説教くらうなぁ……」
「教師だったのか」
「ええ。歴史教えてます」
「ジュニア・ハイの」

 聞かなかったことにしとこう。風見光一の名誉のためにも。

「やったのか?」
「そのはず…………いいや、まだだ。悪夢が消えない……何故?」

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【ex5-8】夜を疾走る者

2008/08/04 14:26 番外十海
 
 切り離された影は消えていなかった。形を失い、溶けて流れるかと思ったが……じゅくじゅくと周囲の闇を吸収している。
 焼けた鉄の箱は消え、暗い夜の森に変わっていた。

(そうか、こいつ、今度はランドールの記憶を吸収しているんだ!)

 ゆらり、と黒い影が立ち上がる。二本の後足で直立した巨大な狼。半ば人の形を留めながらも体表は全て黒々とした剛毛に覆われ、ぞろりと割れ裂けた口には白い牙が生えそろう。尖った牙の合間から、だらだらとよだれが滴り落ちた。
 むわっと濃密な獣の匂いが漂う。
 今や天井は高々と上がり星ひとつない夜空に変わり、煌煌たる満月の冷たい光が空間を満たしていた。

 視界を圧倒するばかりに巨大な、蒼白い月。現実ではあり得ない。地平線にかかるほどのサイズの満月なんて。

「う……わ」

 ヨーコは思わず一歩、後じさる。ランドールが首を横に振り、かすれた声でつぶやいた。

「ル・ガルー(人狼)……」

 人狼はぶるっと体を揺すると満月を仰ぎ、吼えた。

 ルゥルルルルルルルル………ワ、ワゥオオオオォオオオオオン、オン!

 頑丈な後足が地面を蹴る。ずざざざっと土を蹴立てて宙に飛び、人狼が飛びかかってきた。

「く……棒の9番……いや、全部来い!」

 ランドールと、少年と、自分を護る壁を思い描く。『棒の9番』を核にして、手持ちのカードを全て自分たちの周囲に張り巡らせた。
 核にしたカードの絵では、敵の襲撃に備えて棒を組んで高い防護壁を築いていた。
 しかし何分とっさにしたことだ、期待通りのイメージを導き出せるかどうか……果たして、カードの1枚1枚が鳥の形に変わり、円を描いてぐるぐると飛び回る。
 昨日の浜辺での記憶が残っていたらしい。

「しまった!」

 力強い羽ばたきに遮られ、かろうじて人狼の進行は阻まれた。が、牙と爪が閃くたびに一羽、一羽とたたき落とされ、消えて行く。その度にヨーコの腕や肘、胸、着ている服に微かな切り傷が走り、裂けてゆく。

 やはり壁が薄い。柔らかすぎた! だが今さら集中を解くことはできない。
 鳥の数は78羽。果たしていつまで持ちこたえられるだろう?

 びしっとまた一羽、鳥が消えた。ジャケットが大きく引き裂かれ、肩から胸にかけてすうっと浅い切り傷ができた。

「Missヨーコ、傷が!」
「平気。この程度の傷、いつでも治せる!」

 今の内に対抗手段を見つけなければ……3人とも、喰われる。

 あれが利用しているのはランドールの記憶。ならば、鍵を握るのは彼だ。意を決してヨーコは語りかけた。
 日本語ではなく英語で。
 彼の母国語で。より真っすぐに、ランドールの心に届く様に願いを込めて、揺らぎのない意志で、きっぱりと。

「思い出してランドール。あなたは確かにお母様からルーマニアの血を受け継いでいるけれど、育ったのはアメリカだ」

 あえて言葉を選ぶ。人狼(ル・ガルー)はなく、狼男(ウルフマン)と言い換える。ヨーロッパの伝承ではなく、アメリカの伝統になぞられて。

「あなたは知ってるはずよ。狼男の弱点は……何?」
「弱点……狼男の……」
「そうよ。あなたの事は私が守る。だから……あなたも、私を守って!」

 その一言が、ランドールの気高き『紳士の魂』を奮い立たせた。

(彼女を。この少年を、守らなければ!)

 握りしめた赤いリボンが手のひらの中で形を変えて行く。小さくて堅い物に。指の間から清らかな白い光があふれ出す。
 そっと手のひらを開いた。涼やかな光をたたえた、銀の弾丸が出現していた。

「ヨーコ、これを!」

 これがどこから来たのか、そんなことはどうでもいい。大切なのはこれが今、必要なのだと言う事実。

 とっさにヨーコに向かって投げた。彼女は迷いのない動きで左手で受けとめ、ジャケットの胸ポケットから何かを引き出した。
 二連式の銃身、ほとんど装飾のないシンプルな外観。女性の手にすっぽり収まるほどの、中折れ式の小さな拳銃。だがそのちっぽけな外観に反して引き金を引くにはかなりの力を必要とする。あるいは熟練の技を。

 ハイスタンダード・デリンジャーだ。

 慣れた手つきで弾丸を装着すると、ヨーコは人さし指で銃身を支えて構え、中指を引き金にかけて……射った。
 ちかっとガンファイアが閃く。しかし、音は聞こえなかった。

 銀色の流星が一筋、銃口からほとばしり、鳥の羽ばたきが左右に分かれる。流星は一直線に狼男の口の中に吸い込まれ、牙を砕き、その頭部を貫いた。
 
 影が散る。
 厚みも重さももろとも失いほろほろと、塵より儚く崩れ去る。
 にやっと白い歯を見せてヨーコが誇らしげにほほ笑み、こちらを向いた。傷だらけになりながらもすっくと立って、右の拳を握り、ぐいっと親指を立てた。
 ほほ笑み、同じ様にサムズアップを返す。
 同時にランドールの腕の中の少年は、淡い光の粒となって消えて行った。

 暗い森に朝が来る。白い光が木々の合間をくぐり抜け、朝露がきらめく。

 ああ、もう大丈夫だ。
 自分は、彼らを守ることができたのだ。
 清々しい充足感を抱いたまま、ランドールはあふれる光を受け入れた。

 
 ※ ※ ※ ※ 
 
 
「……あ………」

 やわらかな午後の風が頬を撫でる。
 足の下に、伸びた芝生の感触。

「ここは……………」

 裏庭だ。とっさに腕の時計を確かめる。最初にこの空き家に足を踏み入れてから、やっと10分経過したところだった。

 10分……たったの?
 信じられない。

 あわてて服装を確かめる。吸血鬼の衣装じゃない……元に戻っていた。

「そうだ、ヨーコ!」
「ここよ……」

 彼女は金属の箱から手を離し、立ち上がった。
 血は出ていない。怪我はしていない。だが……ジャケットに裂け目がある。やはり、あれはただの夢ではなかったのだ。

「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫」

 にっと笑う。
 夢が終わる直前、ヨーコは見ていた。
 閃いたイメージはかなり圧縮されていたけれど、大事なことは全て見得た。

 今、現在。
 父親の住んでいる、こことは別の家の裏口で、銃を懐に明らかに尋常ではない訪問を行おうとしていたかつての少年が動きを止めた。
 薄汚れた窓から中をのぞく。
 ゴミの散らばる部屋にうずくまる、老いて小さく縮んだかつての親。点滅するテレビの画面をのぞきこんでいる。
 床にも、テーブルの上にも、ビールの空き缶やピザの空き箱、テイクアウトの中華の空き箱、ありとあらゆるジャンクフードの箱や袋が散乱していた。

 じっと見て………ドアには手を触れずに立ち去る。
 緑の布に黄色のロゴマークのパーカーを羽織った背中が遠ざかる。

 彼は二度と振り返らない。

「……良かった……」

 ほう、と安堵の息を吐く。
 熱い閉ざされた箱の中には、もう誰もいない。

「何だったんだ………あれは」
 
 ランドールが首をかしげている。真摯な目だ。
 
(そうよね、彼には知らせなければいけない。助けてもらった恩義もあるし、何より母から受け継いだ資質がある)

 慎重に言葉を選びながらヨーコは話した。
 ネイビーブルーの瞳を見据えて、静かな声で。

「全ての虐待の被害者が加害者になるとは限らない……その理由の一つにアレの存在がある。心の闇に巣食って恐怖を煽り、憎しみに変える。そう言う存在が確かに在るの」

「悪事の原因は全て自分の外側にある、か? あまり好きじゃないな、そう言う考えは」

「気が合うなあ。あたしもそう! 何でもかんでも他人の所為にしたがる奴。俺は悪くないと言い張り、反省のカケラもない……そんな奴の成れの果て、なのかもね」

「君はいつもこんな事をしているのか?」
「何故、そう思うの?」
「慣れていた」
「まあ、ね。初めてじゃないことは確か」
「………怖くないのか?」

 参った。痛い所を突かれたな……。
 しばらしの間、ヨーコは言葉に詰まった。

(……いっか。彼は少なくとも私より年上だ。教え子でもないし弟でもないのだから、敢えて強がる必要もないよね)

 素直にうなずいた。

「怖いよ。余裕なんてない、いつだってギリギリ。こんなこと辞めたい、絶対無理だって、いつも内心、泣きべそかきながら思ってるの。生きて戻ったら、こんなこともう二度とやるもんか! って」
「でも、辞めないんだろう? 君はそう言う人だ」
「それ、直感?」
「いいや。経験に基づく確信だよ」
「………ありがとう…………」

 急に力が抜けてしまった。んーっと伸び上がり、あくびを一つ。
 日が陰っていて、上手い具合に芝生の一角が日陰になっていた。とことこ歩いて行ってぺたりと座り込み、ころんと横になる。

「ごめん、ちょっと寝かせて」
「ヨーコっ?」
「眠いの……話の続きは……起きてからね」

 小さなあくびをもう一つ。目を閉じたと思ったら、もう寝ていた。
 せめて寝る前にホテルの場所を教えて欲しかった。

 いつまでも芝生の上に寝かせておく訳にも行かない。そっと抱き上げて裏口から抜け出し、車に運んだ。
 意外に軽かった。
 助手席をリクライニングさせて寝かせるその間も、ヨーコはぴくりとも動かず、やすらかに寝息を立てていた。

 まったく、無防備にもほどがある。若い娘が、男の前でこんな風にすやすやと眠りこけてしまうなんて。
 いったい、どうすればいいのか。自分がゲイだと知って安心しきってるのだろうか。

 ……いつ、彼女は知ったのだろう。

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【ex5-9】夢の後で

2008/08/04 14:30 番外十海
 車を公園の木陰に寄せ、眠るヨーコを見守ってからそろそろ2時間が経過しようとしている。

 困った、そろそろ夕方だ。いつまでもこのままにしておく訳にも行かないし……。
 レオンハルト・ローゼンベルクかディフォレスト・マクラウドか。とにかく、彼女を知ってる人に、連絡してみよう。
 携帯を取り出し、最初に思い当たった番号を入力した。
  

 ※ ※ ※ ※
  
 
 サリーこと結城朔也が医局でひと息入れていると、携帯が鳴った。
 覚えのない番号からだったが、何故か出なければいけないと直感で思った。

「ハロー?」
「ハロー。君の従姉が今私の隣ですーすー気持ち良さそうに寝ていてなかなか起きないのだが、どうすればいいのだろう」

 知らない男の人の声だった。

「………ドチラサマデスカ?」
「ランドールと言う。……記憶にはないだろうが君とは昨日会っているらしい」
「はぁ……うーん、どうしよう……俺まだ19時までここを出られないので……」
「……しかたない。彼女の泊まっているホテルは?」

 少し迷ってから、ヨーコの泊まってるホテルの場所を教えた。

 いったい何があったの、よーこさん。昨日会ったばかりの男の人の隣で『すーすー気持ち良さそうに寝て』いるなんて!
 とにかく、勤務が開けたら、すぐに部屋に行ってみよう。何を置いても最優先で、すぐに。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 教えられたホテルに向けて車を走らせていると、むくっとヨーコが起きあがり、リクライニングしていたシートを元に戻した。

「大丈夫か、Missヨーコ」
「ええ……もう大丈夫。ありがとね、Mr.ランドール」
「説明……してくれる約束だったろう」
「邯鄲の夢って言葉知ってます? 一眠りしてる間に結婚して、子どもが生まれて出世して、人生の終わりまで見るって話」
「ああ。新スタートレックの『超時空惑星カターン』の元になった話だろう? 中国の伝説で」
「意外にマニアックなことご存知なのね……まあ、それぐらい夢には不思議がつきまとうんですよ」
「そうなのか?」
「ええ。東洋の神秘ってやつです」
 
 何やらよくわからないが、中国と彼女の母国である日本は確かに文化的に非常に密接な繋がりがあると聞いたことがある。
 だから、きっと今回のことも、関係が……ある……のか?
 少なくとも、夢から覚めた時に時間が10分しか経過していなかったことの説明にはなっているような気がする。

「そう言えば、昔から、親しくなる友人には私と同じ夢を見る奴が居たな………」

 なるほど、多少の自覚はあるんだ。
 ぴくりとヨーコは右の眉を跳ね上げた。だったら話は別。はぐらかさずに事実を伝えておくべきだろう。

「それは。あなたがその人の夢に入ってるからよ」
「そうなのか? 世の中には不思議な力のある人が結構居るもんだなぁと思っていたけれど……」
「ええ。あなたもその一人と言う訳ね。お母様から受け継いだ数多い資質の一つよ。誇りを持ちなさい、ランドール。ただし、影に引きずられぬように」

 まだ少し気になるけれど、最初のアプローチはこんなものだろう。
 彼は紳士だ。母から受け継いだ血統と文化に誇りを持っている。こう言っておけば無自覚に能力に振り回される可能性は減らせるはずだ。

「もし困ったらいつでも電話して。すぐに会いに行くから……あなたの夢の中へ、ね」
「ああ。歓迎するよ」

 そう言って、カルヴィン・ランドールJr.は笑った。
 上品な紳士のほほ笑みではなく、文字通り破顔一笑、天真爛漫。少年のように無邪気な、心の底からうれしそうな笑顔だった。

(参った。そこでほほ笑むか、その顔で)

 ヨーコは思った。
 やっぱり、この人………可愛い、と。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 その夜、勤務が明けるとサリーは一直線にヨーコの滞在するホテルに飛んで行った。部屋に行き、ノックをすると……。

「やっほー、サクヤちゃーん」

 毛布をかぶったヨーコがぼーっとした顔で出迎えてくれた。髪の毛も結っていないし眼鏡もかけていない。足元を見ると、靴はおろかスリッパすら履いていなかった。

「ごめんねーびっくりしたでしょー」
「うん……どうしたのさ」

 部屋に入ってからちらっと見ると、毛布の下は下着どころか何も身につけていない。思わず目眩がした。

「あ」

 さすがに本人も気づいたらしい。毛布をかぶったままのそのそとバスルームに入り、バスローブを羽織って出てきた。

「……疲れてるんだよね、しょうがないけど……ドア開ける前に気付いたほうがいいよ」
「ごめん、つい」

 疲労が限界まで達するとヨーコはいつもこうなる。少しでも体を締めつける物が触れているのが我慢できないらしいのだ。

「いったい何があったの」
「朝ご飯たべて……外の通り歩いてたら、肩のぶつかった相手からどーっとね……良くないイメージが流れ込んできて……思わず追いかけてしまいました」
「そっか……それで疲れちゃったんだ」
「うん……一人じゃ手に負えなかったから……たまたま運良く知った顔が通りかかったんで」
「それがランドールさん?」
「うん」
「突然電話かかってきたから驚いた」
「何となくヤバそうな予感がしたから……もしもの時は連絡してねって」
「そっか、大惨事じゃなくてよかったよ」

 ヨーコは目をぱちくりさせ、ちょこんと首をかしげた。

「電話って……もしかして、直接ランドールさんから?」
「うん」
「うっそ! あたし、マックスかレオンに連絡して、としか言ってなかったのに!」
「それってまさか」
「言葉には出さなかったけど、その時、サクヤちゃんの事考えてたのは事実なんだ。あの二人に連絡してもらえれば、サクヤちゃんにも伝わるだろうって」

 無意識のうちにランドールには、自分が一番、知らせて欲しい相手が伝わっていたと言うことか。
 しかも、電話番号まで。

「伝わっちゃったって、こと?」
「自覚ないみたいだけど……母方から資質、受け継いでるみたいね、彼」
「まさか、一緒にヴィジョンの中歩き回ったり……してないよね、よーこさん」

 ヨーコは左右に視線を走らせてから、がばっと頭を下げた。

「…………………ごめんなさい」
「やっちゃったんだ……」

 サリーは深々とため息をついた。
 まったく、この人は! 日頃っから『自分一人で突っ走るな』と言ってるくせに……。ここで怒ってもしょうがない。それはよくわかってる。
 だけど。

 ヨーコは感知能力に優れているし、肉体的な怪我や病気も治すことができる。しかし、真っ向から敵に対抗し、身を守る能力は極めて弱いのだ。身体的にも。精神的にも。
 当人がとんでもなく打たれ強いからいいようなものの……。

 思わずため息をついた。
 ふかぶかと、腹の底から。

 ヨーコがますます身を縮ませる。

「無事だったから良かったけど、動く前に連絡してくれたら半日休みぐらいはとれるから」
「うん………」
「それで、そのランドールさんには、何て説明したの?」
「東洋の神秘です、と」
「そんな、いい加減な!」
「そうしたら、昔っから親しい人と同じ夢を見ることがあったから、今度もそうだったんだろって言うから……教えちゃった。それはあなたがその人の夢に入ってるからだって」
「そっか……そうだね。無意識でやってると事故に巻き込まれやすいから、知っておいた方が安全かもしれない」

 ヨーコは何気なく髪の毛に手をやって、あ、と小さくつぶやいた。

「……リボン、彼に渡したまんまだった」
「いいんじゃない? これで繋がりができた」
「そうね。次にコンタクト取る時の足がかりになるし」
「せっかく来たから、一緒に食事に行く?」
「……うん」
「なに食べようか」
「タイ料理美味しいのあるんだって?」
「うん、この間パッタイ食べたよ。他のも美味しそうだった」
「じゃ、そこがいいな」
「OK」
「ちょっと待ってね、今仕度してくるから」

 ヨーコはクローゼットを開けて着替えを取り出し、再びバスルームに引っ込んだ。
 開けっ放しのクローゼットの中をのぞきこむと、白いシャツジャケットが傷だらけになっていた。

(また……危ないことして)

 きりっと一瞬、唇を噛むとサリーはジャケットを手にとり、すっと手のひらで表面を撫でた。

「……お待たせ」

 エメラルドグリーンのタンクトップに白のクロップドパンツを身につけている。見た所体に傷はついていないようだが……上着があれだけ傷だらけになってるんだからけっこうピンチだったはずだ。

「はい、これ。夜はけっこう冷えるからね」

 さりげなく笑顔でシャツジャケットをヨーコの肩に着せかけた。

「あ、でもこれ………」
「直しといた」

(………………………ばれた!)

「あとでランドールさんにもお礼言っとかなきゃね」
「…………うん」
「じゃ、行こうか」

 そして二人は食事に出かけた。
 行き先は小さなタイ料理の店。美人の看板娘と看板猫のいる所。

 
(熱い閉ざされた箱/了)


後日談→とりかえっこ
 
次へ→【ex6】初めての贈物

second-bar

2008/08/04 14:37 短編十海
 拍手用お礼短編。
 【ex4】猫と話す本屋のおまけのエピソード。
 second-barってのは二次会のことだそうです。
 
「はぁ………」

 サリーは本日何度目かのため息をついた。

 シスコ市内のバーに会場を移しての二次会。参加するつもりはなかったのだが、ヨーコに否応なく連行されてしまった。
 さっきから彼女の昔の同級生や結婚式で知り合った人に紹介されまくり。何人と会ったか既に覚えていない。

「この子、サリーって言うの。あたしのイトコ!」
「そっくりだね」
「母親同士かそっくりだからね!」

 細部は微妙に異なるが、交わす会話はだいたいこんな感じ。
 それにしてもヨーコさん、微妙に言い方が巧妙な気がするのは考え過ぎだろうか?
 あえてcousinとだけ言って、sisterともbrotherとも言わない。わざわざ着けないのが慣習だし、紹介された方も敢えて聞かないのが普通だけれど……。

 きっと十中八九、女性とまちがえられてる。
 カウンターに肘をついてぼんやりしていると、すっと目の前にグラスがさし出された。縦に細長いフルートグラスの中に透明な液体が満たされ、薄切りにしたライムが浮いている。
 きめ細かな泡がぽつ……ぽつ……とグラスの底から浮び上がり、時折ライムの薄切りにまとわりついては、また浮かぶ。

「どうぞ」
「いや、俺、頼んでませんけど」
「いいから飲んどけ。俺のおごり」
「あ……メイリールさん」

 何故かカウンターの内側にいて、慣れた手つきでちゃっちゃとシェイカーやグラスを軽妙に操っている。

「何してるんですか?」
「バーテンが足りないからさ……ほぼ強制的に」

 肩をすくめながらも手は休めない。

「意外な特技ですね」
「一時期、酒場でバイトしてたんだ、俺」
「そうだったんですか……」
「それ、ノンアルコールだから安心してくれ。ついでに言うと甘みも入ってない」
「ありがとう」

 一口ふくむ。ライムの酸味と香り、微弱な炭酸が広がった。

「あ………けっこう美味しい、かも」
「ガス入りのミネラルウォーターにライム浮かべただけだけどな。すっきりするぞ」

 参ったな。浮かない顔してる所、見られてしまったんだろうか。

「ダンスの時に……ね。誘われちゃったんですよ」
「ほう?」
「お嬢さん、一曲踊っていただけますかって。どうしてタキシード着てるのに間違われるのかなぁ……」
「今日はけっこうご婦人方も着てたからな、タキシード」
「胸もないのに………」
「そりゃあ、まあ」

 きょろきょろと周囲を見回してから、ヒウェルは声を潜めて言った。

「ヨーコのイトコならそんなもんだろうって納得されてるんじゃないか?」
「………そうなんだ」
「比較の問題だよ。それほど気にする事ぁないって」

 ぱちっとウィンクしている。ほんの少しだけ胸が軽くなった気がした。(後で彼をどんな運命が見舞うかはともかくとして)

「おぉい、バーテン! 酒が切れたぞー!」
「おっと……お呼びがかかったか、しょうがねーなー、あの飲んべえどもが! それじゃ、サリー、またな」

 いそいそと酒瓶とグラスを抱えて歩いて行く。しょうがないと言ってる割には活き活きしていた。
 彼も嬉しいのだろう。今日と言う日が。
 レオンとディフも幸せそうだった。あの二人の結婚を祝うことができて良かったと思う。双子を連れ戻すこともできたし……。

 確かに今日、自分が結婚式に参加したことには意味があった。でも二次会は、なあ……。
 上着の胸ポケットを押さえる。
 挨拶を交わした際に渡された名刺や、電話番号だけ走り書きしたメモが何枚か束になって入っている。

 シスコに引っ越してきて一年も経つのにあまり親しい友人のいない自分を気遣ってのことなんだろうけど……世話焼き過ぎだよ、ヨーコさん。
 俺はもうちいさな子どもじゃないし、学校の生徒でもないんだから。

 目の前のグラスの中で泡が弾け、ライムの薄切りが揺れる。

 ふっと何気なく思い出す。
 きちんと整えられた金髪に、ライムの果実そっくりのほんのり黄色みがかった明るいグリーンの瞳。やや面長の、優しげな英国紳士を。

 あれぐらい穏やかな人の方が話していて安心できる。アメリカン式の押せ押せスタイルは自分にはあまり合わない。

(エドワーズさんも二次会、来ればよかったのに)

 帰りがけに「猫が待っているから」と言っているのが聞こえた。きっと今頃、リズと子どもたちにお土産を食べさせているのだろう。
 
(子猫が6匹かぁ)

 きっと、几帳面に、きちっと世話しているんだろうなあ。会うのが楽しみだ。
 子猫にも。
 その飼い主にも。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 その頃。
 エドワード・エヴェン・エドワーズは、昼間放ったらかしにしておいた埋め合わせをすべく、全力で6匹の子猫たちの相手をしていた。

 古い靴下に詰めたキャットニップを放り投げると、どどどどどっと一塊になって走って行く。
 小さな前足でぱしぱし叩き、上になり、下になり、ジャンプしながら夢中になって取り合っている。中には勢いにまかせてタンスの上に駆け上がり、フーっと下の兄弟たちを威嚇している子もいる。

 まるでサッカーだ。
 いや、手も使ってるからラグビーかな?

 にこにこしながら見守っていると、誰かの弾き飛ばした靴下がびしっと顔面にヒットした。

「……アンジェラ?」

 ずるりと滑り降りた靴下はそのままベストの懐にin。
 しまった、と思った時は既に遅く、目をぎらぎらさせた子猫たちが一斉に飛びつき、足をよじ上ってきた。

「こら、こら、頼むよ爪を立てないでくれ、よそ行きなんだから!」

 5匹のちび猫どもにたかられながら振り払う訳にも行かずおろおろしていると……

「うわっ」

 とどめにモニークがタンスの上からダイビングしてきた。やわらかで、それでいて弾力のある体が飛びついて来る。少しだけ生き物独特の湿り気を帯びて。
 小さな手を目一杯広げてひしっとベストにしがみつく。
 細い爪がちくちく刺さるがさほど痛いとも感じない。
 モニークはもそもそと懐に潜り込むと『獲物』を両手両足で抱え込み、満足げに噛み始めた。
 ちっちゃな桃色の口を開けて、あむあむと。時折、後足で小刻みにキックしながら。
 どうやらこの子たちも優秀なネズミハンターになりそうだ。

 ああ。まったく子猫のいる暮らしと言うのは…………………刺激的だ。

eee.jpg
※月梨さん画「猫にたかられる本屋」
 
(second-bar/了)

夏の思ひ出

2008/08/10 18:54 短編十海
  • 拍手コメントでサリーさん相手に質問をいただきましたのでお返事を。
 
 動物が良い味出してますね〜。サリーさんは大動物は大丈夫なのかな。獣医も苦手な動物がいるらしいので気になります♪
 
 
ヨーコ「……だ、そうですが。実際どうなのよ、サクヤちゃん? 馬とか、牛とか、グリズリーとか、バッファローとか!」
サクヤ「いや、無理に国際色出そうとしなくていいから」
ヨーコ「ヨセミテベアーとかワイリーコヨーテとかロードランナーとかバックスバニーとか……」
サクヤ「それ全部カートゥーンのキャラクターじゃない! 大動物は平気だけど……アレがちょっと……ね」
ヨーコ「あー……まだ苦手なんだ、虫」

 
 ※ ※ ※ ※
 
 それは夏が来るたびに蘇るほろ苦い思い出。
 夏休みにサクヤを連れて裏山に遊びに行った時、ヨーコはクヌギの木の一角が黒光りしているのに気づいた。
 くん、と空気をかぐと、かすかにもわっとしたなまぬるい臭いが漂っている。

「ちょっと待っててね、サクヤちゃん」
「よーこちゃん、どこ行くの?」
「すぐもどるから」

 履いていたビーチサンダルを脱ぎ捨てて木によじ上る。
 着ていたのはお気に入りのミントグリーンのヒマワリのワンピース。ちょっと動きにくいけど、ゆっくり行けば平気。下にスパッツもはいてるし。
 ちらっと下を見るとサクヤが心配そうに見上げてる。ぎゅっと拳を握り、唇をかんで。

「大丈夫だから!」

 一声かけて、また登る。

 二股に別れた木の表面には小さな裂け目があり、じゅくじゅくと樹液がしみ出していた。
 そこにはカナブンやオレンジ色のチョウチョに混じって大きなツヤツヤした……そりゃあもう、立派なカブトムシが張り付いていた。
 堂々たる角は、まさしく昆虫の王者だ。

「やった!」

 そっとつまみ取るとポケットに入れ、急いで木から降りた。
 サクヤがほっとした顔で駆け寄ってくる。

「よーこちゃん、だいじょうぶ? こわくなかった?」
「うん、大丈夫」

 ぱしぱしと手足をはらい、ポケットから獲物を取り出した。

「ほーら、サクヤちゃん、これー!」

 サクヤはぴくりとも動かない。
 にゅっと顔の前にさし出された大きな大きなカブトムシを見つめたまま、硬直している。

「サクヤ………ちゃん?」

 次の瞬間、わっと泣き出した。

「ああっ、ごめんねごめんねサクヤちゃん泣かないでーっ」

 慌てるヨーコの手からカブトムシがぽとりと落ちる。
 しばらくひっくり返ってもぞもぞしていたがすぐに起きあがり、羽根を広げてぶーんっと飛んで行った。

 
 ※ ※ ※ ※
 

ヨーコ「……それからしばらくの間、サクヤちゃんあたしのこと遠巻きにして……近づいてきませんでした」(ほろり)
サクヤ「虫はやっぱり宇宙からきたんだよ……」(ぶるぶるがたがた)
ヨーコ「そっかー、宇宙からの訪問者じゃしょーがないわよね」(わしゃわしゃわしゃ)
サクヤ「ってよーこさん、何、わしづかみにしてんの!」
ヨーコ「ん? クマゼミ。そこの街路樹にとまってた」
サクヤ「そ、そう……最近増えてきたよね……」(びくびく)
ヨーコ「普通のセミよりでかいから目立つよね、これ。地球温暖化の影響ってやつ?」
サクヤ「(わざとだ……絶対、わざとだ……)」

 
 ※ ※ ※ ※

 さらに昔の思い出。

 サクヤ2歳、ヨーコ5歳の夏。

 その日、サクヤは前日の夜から熱を出して寝込んでいた。
 庭に面した風通しのよい座敷に布団を敷いて横になっていると、にゅっと縁側からヨーコが入って来た。

「サクヤちゃん」
「よーこちゃん」

 とことこと歩いてきて、ぺたんとサクヤの枕元にすわり込み、ぴとっとおでこをくっつける。

「んー、まだお熱あるね。おでこもあついし」
「うん」

 言ってることの半分も自分で理解はしていない。自分の母や、サクヤの母がやってることのマネをしているだけ。それでもあくまでまじめな顔で。
 赤い顔で、ぽーっとしているサクヤにヨーコは持参した四角い缶をさし出した。
 緑色の地に赤い折り鶴の模様の印刷された缶。もとはおせんべいの入っていたもの。 

「これ、おみまい。きらきらしてすごくきれいなの」
「………ありがとー……なに?」
「いいもの!」

 にこにこしているヨーコを見て、サクヤは素直に缶のふたをかぱっと開けた。

donko2.jpg

 缶の中には、セミの抜け殻が……ぎっしり、みっしり、てんこ盛り。
 ひと目見てサクヤは凍りついた。
 缶のふたで圧迫されていたセミの抜け殻が、圧力から解放されて……もぞり、とあふれる。

 ぼとっとサクヤの手から缶が落ちた。
 ざらざらとこぼれたセミの抜け殻は、風に吹かれてふわふわ、かさかさ、部屋中に散らばって行く。

 ぎゃーっと声をあげてサクヤが泣き始める。
 ヨーコはあわてた。
 きれいだから見せにきたのに。サクヤちゃんを泣かせてしまった!

「サクヤちゃんないたーっ」

 親、兄弟、友だち。幼い子どもはとかく身近な存在の感情に同調する。人でも、動物でも、同じように。
 まして姉弟同然の二人である。覚醒こそしていなかったが、常ならぬ感覚を互いの母親から受け継いでもいた。
 
 火のついたような泣き声に驚いたサクヤの母が部屋に飛び込んできた時は、二人は一緒になって大泣きしていた。
 そりゃあもう、ひきつけでも起こしそうな勢いで。
 後になってヨーコは自分の母親からみっちり叱られた。

「きれいだったの、だからサクヤちゃんにも見せたかったの」
「うん、それはわかった。でもあなたが平気なものでも、サクヤちゃんが平気とは限らないでしょ?」
「うん……」
「注意しなさい」
「うん……ごめんなさい」

 
 ※ ※ ※ ※

 
ヨーコ「セミの抜け殻ってなかなか機能美にあふれてると思わない? あたし高校の美術の時間に細密画の課題のモチーフにしたよ?」
サクヤ「そ、そう……」
ヨーコ「ほんと、どーしてこんなに虫が苦手になっちゃったのかな、サクヤちゃん……」
サクヤ「……………………」
風見「……その原因が自分だってこと自覚してない人って平和だよねぇ…」(深いため息)
ヨーコ「(む)」
風見「サクヤさん、そんな従姉を持ったのを宿命と思って強く生きましょう(T_T)」
ヨーコ「風ぁ〜〜見ぃ〜〜〜〜、ちょっと、こっちに来なさい」(にっこり)
風見「あ"」

(両者退場)

ランドール「ふむ………。蛇の抜け殻にしておくべきだったな」
サクヤ「蛇は、よーこさんが苦手だから。ワニ皮もトカゲ皮もダメです、彼女」
ランドール「そうなのか? は虫類、可愛いのに……因みに、君は寄生虫も苦手なのかい?」
サクヤ「院内で処置してる分には、何とか。がんばってとってます……ダニとか……ピンセットで、徹底的に!」
ランドール「仕事中にはできることも、プライベートだとアウトなのだな」
  • と、言う訳でサリーさんは虫が苦手なのでした。
(夏の思ひ出/了)

秘密の花園

2008/08/10 18:56 短編十海
 
 カルの家には素敵な庭がある。

 ママが大切に育てる庭には、どこまでもずうっと向こうにまで広がるような木立と、自由気ままに咲き乱れる沢山のハーブ。
 そして、ママが思い付くまま植えた色んな種類のバラの花。好き勝手に生い茂り、毎年きれいな花をつける。

 ゆったりした空間に好きな物をいっぱい詰め込んだ、宝箱みたいな庭の奥。小花のバラが絡んだ背の低い木の下の、秘密の空間が、カルのお気に入り。

 昼と夜のすき間。お日様が沈み、月が輝きを増すひととき。
 毛布とランタンを持って潜り込むと、甘い緑の香りに誘われて、小さなお友達がやって来る。

 それは透き通った鱗の小さな蛇だったり、何処から迷い込んだのか知れない、毛並みの綺麗な子猫だったり。
 時には、蜻蛉の羽根を閃かせた、小さな小さな女の子だったり。

 カルは毎日、新しく出会った友達の話を大好きなママにだけ、こっそり教えてあげては、内緒だよ、と念をおす。

「本当に本当に、内緒だよ」

 ママは優しくほほ笑みうなずく。

「わかったわ。カルとママの秘密ね」
 
 ※ ※ ※ ※
 
 それは6月の半ばを少しすぎた頃、月の綺麗な夜だった。
 
 いつもの様に薔薇の下の秘密の部屋へ潜り込むと、低い木の根の檻の奥がほんのりと、明るく光っていた。
 ふんわり優しく霞む明かりに近寄ると、向こうが少し、透けていた。

 何だろう?

 もっと近寄って目をこらす。
 変だな。あの茂みの向こう側にはもう、石の塀しかない筈なのに……ずうっと広い、明るい野原が広がっている!

 わくわくと胸が踊り始める。カルは一歩、また一歩とそちらへ近付いていった。
 天井の低い茂みの中、膝をついて、両手もついて、兎みたいにひたすら前へ。

 もう少し……あとちょっと。

 伸ばした指が淡い木の根に透けそうになった刹那。


 チリン、チリチリン


 シャツの襟元からスルリと滑り出した十字架の、中央を飾る鈴が奏でる涼しい音。

 その瞬間!

 サアッと青い風が吹き抜けて、指に触れるのは固い木肌。
 辺りを照らすのは、ランタン一つ。

 いつもと何ら変わり無い、自分だけの秘密の空間を見回すと、カルは胸で揺れる十字架を見下ろして、む。と唇を尖らせた。

 鉄のクロスに、銀の鈴。
 ママからもらった、大切なお守り。

「カルヴィーーーン。My Boy!」

 木立の向こうから、カルを呼ぶ優しい声がする。
 もう眠る時間。

「どこにいるの? カル?」

 甘い緑の香る秘密の小部屋を抜け出し走り寄る。

「ここだよ、ママ」

 優しい腕。あたたかな胸に飛び込んだ。
 

 カルの家には素敵な庭がある。

 今夜の事は、ママにも秘密。

secret3.jpg
※月梨さん画。こんな子が月夜に一人歩きしちゃいけません…

(秘密の花園/了)

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【ex6】初めての贈物

2008/08/10 18:58 番外十海
  • 高校時代のお話。レオン2年、ディフは1年、ルームメイトになってから最初のクリスマス休暇。
  • レオンの誕生日は12月25日なのですが、この頃のディフはまだその事を知りませんでした。
  • ヒウェルもこの頃はまだゲイに目覚める前だったりします。

【ex6-1】己の借りは己で払え!

2008/08/10 18:59 番外十海
 
 12月になると、学内はそこはかとなくそわそわした空気に包まれる。

 一週間も経つ頃には寮の中ではぽつりぽつりと帰省の準備が始まり、微妙に慌ただしい、せかせかした雰囲気が漂い始める。
 クリスマス前のお楽しみ。誰も彼も喜怒哀楽、どんな表情にも潜在的に笑顔が混じるこの時期に、ディフォレスト・マクラウドは一人、浮かない顔をしていた。

 クリスマス休暇中、寮は閉鎖されてしまう。否応無く実家に帰らなければいけない。
 家族に会えるのはもちろん、嬉しい。両親にも。兄にも。伯父や叔母、数多い従兄弟やその子どもたちと過ごすクリスマスを思うと心が弾む。
 だが寮を離れると言うことはその間、ルームメイトのレオンとも離ればなれになってしまうと言うことなのだ。

 それが、唯一、寂しい。

 どうやらレオンも実家に帰るのはあまり気が進まないらしい。
 そこで昨夜、思い切って申し出てみた。

「俺ん家、くるか?」

 レオンは控えめな笑顔でありがとう、と言ってから「いや……遠慮しておくよ」と付け加えた。

(そうだよな……いくらなんでも図々しかったよな。あいつにだっていろいろと予定があるだろうし)

 本日、何度目かのため息をつきながら廊下を歩いていると、ばたばたと誰かがかけてきて、がしっと腕をつかんだ。

「うぉ?」
「たのむ、ディフ、かくまってくれ!」
「ヒウェル? 何やってんだ、お前」

 リスのようにくりくりとした琥珀色の瞳、少女と見まごうような愛らしい顔立ちの美少年。だが口元に浮かぶこずるい笑みに気づいた瞬間、そんな幻想は木っ端みじんにくだけ散る。
 
「うっかりポーカーで負けがこんでさ。追われてるんだ。たのむ!」
「ポーカーって、お前、校内で賭け事なんかやってるのか!」

 ぎりっと眉をつりあげ、怒鳴りつけるとヒウェルは首をすくめて情けない笑みを浮かべた。

「怖い顔すんなって。賭けてるのは現金じゃないよ。俺だって真面目な学生なんだよ?」
「む……」

 いささか説得力に欠けるのはこいつのにやけた面構えのせいか。だが根拠なく友人を疑うのもよくない。

「じゃあ、何を賭けてるんだ? チョコレートか? ランチ一回分か?」
「……に、しときゃよかったよ」

 目を半開きにしてため息ついてやがる。いったい何を賭けたんだ、ヒウェル?
 首をひねっていると、ばたばたとクラスの女子数人が駆けてきた。

「あ、いたいた、ヒウェル!」
「や、やあ、ジャニス、カレン、ヨーコ!」
「逃げるなんて卑怯よ?」
「ルールはルールですからね。負けた分、きっちり支払ってもらうわよ」

 背の高い浅黒い肌のジャニスが進み出て、びしっとヒウェルの額を指さした。ヒウェルは首をすくめてディフの背後に回り込み、がっしりした体格の友人を盾にした。

「おい、ヒウェル……」
「頼む、マックス。一緒に払ってくれないか、俺の借り……」
「あ、ああ、俺の払えるものならば」
「軽々しく請け負っちゃだめよ、マックス」

 鈴を振るような声。
 ヨーコだ。ジャニスの隣に立ってちょこんと首をかしげている。この二人、並んで立つと余計に身長差が際立って見える。

「ヒウェル。自分の借りは自分で払いなさい。他人を巻き込まないの」
 
 さほど大声を出している訳じゃない。しかし声はあくまでクリアで迷いのかけらもなく、瞳の奥には強い意志の光が宿る。下手すれば中学はおろか、小学生に見えそうなヨーコに気圧されて、ヒウェルが首をすくめて縮こまる。

「潔く……」

 すうっと目を細めると、ヨーコはびしっと人さし指をヒウェルにつきつけた。

「脱げ」
「う」
「脱げ?」
「そうよ」

 改めて見ると、ヒウェルは既に眼鏡も上着も時計も身につけていなかった。靴も靴下も履いていないし、ジーンズのベルトも無い。

「もしかして、ポーカーってのはただのポーカーじゃなくて……」

 にまっと笑うとヒウェルはきまり悪そうにこりこりと頭をかいた。

「そ。ストリップポーカーやってたの」

 要するにルールはポーカーなのだが……その名の通り負けたら一枚脱ぐ。
 腕輪やピアス、ネックレス、時計やベルト、眼鏡も有効。せいぜい脱いでも上着ぐらいで深刻なレベルまではやらないのが暗黙の了解だ。

 本来ならば。

「あきれた奴だ。女の子と一緒にストリップポーカーだなんて! 下心見え見えじゃないか!」
「だってさあ。ここんとこ冷え込み厳しくってみーんな厚着になっちゃったろ? せめて潤いがほしかったんだよ。ブラジャーとまでは行かないから鎖骨ぐらいは拝みたいなと」
「貴様!」

 くわっと歯を剥いてにらみつけると、ヒウェルはそっぽを向いてぐんにゃりと口の端を曲げ、見え見えのへ理屈を吐き出した。

「いーじゃん、参加した時点で同意したも同然でしょ?」
「でも、負けたんだな?」
「うん、ヨーコのほぼ一人勝ち……」

 そう言えば他の子たちは眼鏡や上着、ピアスを片方だけ外していたりするのだが、ヨーコだけはざっと見て欠けがない。

「で、お前は次はシャツ脱ぐしかないわけだな?」
「それ以上に何回か負けが重なってね……頼むよ。お前さんも一枚ぐらい脱いでくんない?」
「なるほど、事情はわかった。そう言うことなら……」

 ヒウェルの襟首をひっつかみ、ぽいっと放り出した。待ち受ける女の子たちの真ん前に。

「きっちり払え」
「うお、ちょっと、マックス!」
「サンキュ、マックス!」
「さーヒウェル、覚悟しなさい?」

 ずるずると引きずられるヒウェルを見送ってからディフはくすっと笑って……それからまた小さくため息をついた。
 しばらくの間、握った拳を口元に当てて考えていたが、やがてぱっと顔を上げ、ざかざかと大またで歩き出した。
 寮の部屋に向かってまっしぐらに。

 あいつはもう、部屋に戻ってるだろうか。いるといいな。
 休暇の間会えないのなら、それまでの時間を無駄にしたくはない。できるだけ一緒に居たい。
 
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【ex6-2】電話でメリー・クリスマス

2008/08/10 19:00 番外十海
  
 そして、クリスマス。
 七面鳥のローストにクリスマスプディング、ミートローフにアップルパイ、フルーツケーキにエッグノック(ただし子どもはアルコール抜き)。
 久しぶりに母の作ってくれたごちそうを喉まで詰め込み、遊びに来た伯父一家との団らんも一段落ついたところで……ディフは電話をかけた。
 原則として家に居る時は携帯の使用は控える決まりになっていた。さらに厳格な父親は、彼が自分の部屋に専用の電話を引くのを許可してはくれなかった。
 だから必然的に居間の電話から。

「おいたーん、あそぼー」
「ちょっと待ってくれ。これから友だちに電話するんだ」
「うー」

 赤毛の甥っ子(正確には一番上の従兄の息子だが)は不満そうに頬をふくらませ、テレビの前にとことこと歩いて行き、ころんと床に転がった。
 こっちに背中を向けたまま、もらったばかりのトレーラーのオモチャをガラゴロと所在なげに走らせている。
 
(……ごめんな、ランス)

 心の中で謝ってから、番号を押した。緊張で指が少し震えた。数回のコール音の後、受話器を取る気配がした。

「はい。こちらローゼンベルクでございます」

 大人の男の人の声だ。落ちついた口調、きちんとしたアクセントと丁寧な発音。聞いていて思わず背筋が伸びる。
 レオンの親父さんか?

「あ、あの、俺、レオンと同じ高校の、マクラウドって言います。えっと……レオン居ますかっ?」
「はい。お繋ぎいたしますので暫くそのままでお待ちください」
「わ、わかりました」

 受話器を持ったまましばらく硬直。

 オルゴールの音が聞こえてくる。
 何だっけ、この曲。「白鳥の湖」だったかな?それとも「アマリリス」だっけ? 確か聞いたことはあるんだ。知ってるはずなんだけど。
 うーわー、記憶がわやだ。もう、わけわかんねぇ……。

 ぷつっとオルゴールの音が途切れる。

「やぁ」

 いつもの声だ。どっと体中の力が抜け、自然と顔中に笑みが広がる。 

「あ……メリークリスマス、レオン! 元気かっ!」
「なんだか久しぶりだね。メリークリスマス」

(何だ、あいついきなり大声出して)

 ジョナサンは思わず弟の方に視線を向けた。
 後ろ姿しか見えないが、それでも嬉しそうな気配は伝わってくる。おそらく笑顔全開、尻尾があったら全力で振っている。そんな気がする。

(電話か? 妙に浮かれてるな……相手は女か? でもレオンっていってたな……いやでも女の子でもレオノーラとかレオナとかいるしなあ……)

 話している当人は背後のギャラリーの反応など知る由もなく。楽しげにレオンとの会話に没頭していた。

「そうだな。学校のある時は毎日必ず顔合わせてるし……あ、一緒の部屋だから当たり前か」
「こっちは退屈だよ。何もなくて困る」
「そっか……あ、お袋がお前によろしくって、いつも世話になってるから!」
「何もしてないよ。むしろ食べさせてもらってる」
「……土産に何か作ってくよ。何食いたい?」
「テキサスから持ってこなくても、サンフランシスコに戻ってからつくったらいいじゃないか」
「……そうだな……」

 どうやら、会話から察するにルームメイトと話しているらしい。

(何だ、男か)

 さっくりと興味を消失すると、ジョナサンはまた読みかけのミステリー小説に戻っていった。
 母はにこにこしながら末息子を見守り、父は『妙に長い電話だな』と首をかしげるがあえて口には出さない。
 ランスはころんとカーペットの上にひっくりかえり、テレビを見るふりをしながらちらちらと『おいたん』の様子をうかがった。

(せっかく、遊べると思ったのに。早くおわんないかな、電話)


「もうじき俺も市内に戻るよ。寮が閉じてる間は、ホテル住まいになりそうだけれどね」
「そうか! いつ戻るんだ? ホテルの場所は?」

 いそいそとホテルの場所と、日付をメモすると、ディフは電話を切った。じゃあ、またな、と陽気に告げて。
 受話器を置くと、母がほほ笑みながら声をかけてきた。

「楽しそうだったわね、誰と電話してたの?」
「レオン!」
「……そう。やっぱりレオンだったのね」
「おいたーん」

 たたたたっとランスが転がるようにかけてきて、ひしっと飛びついてくる。

「あそぼ?」
「ああ。待たせたな」

 子犬みたいにかっかと体温の高くなった甥っ子を抱えてカーペットの上を転がる。その前に、しっかりと胸ポケットにメモをしまった。

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 レオンは静かに受話器を置いた。部屋の中には彼一人、他には誰もいない。
 卓上の銀のベルを鳴らすと、控えめなノックとともに忠実な執事が現れる。

「お呼びでございましょうか、レオンさま」
「ああ、アレックス。サンフランシスコ市内にホテルをとってくれないか。それから年が明けてからのスケジュールの調整を」
「……かしこまりました」
 
 ホテルに移ったところで一人でいることに何ら変わりはないのだが、それでもこの広いだけの屋敷にいるより、ずっといい。
 
 耳の奥についさっき聞いたばかりのディフの声が残っている。

『メリークリスマス!』

 今日、何度その言葉を言われ、自分も口にしただろう。だが本当に意味があるのはさっき交わした一言だけだ。

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 クリスマスの翌日、ディフは久しぶりに近所のショッピングモールに買い物に出た。同じアメリカでも、カリフォルニアとテキサスでは売っているものの種類やテイストが微妙に違う。

 楕円形や金属の四角いプレートに細かな彫金を施したウェスタンバックルと呼ばれる大きめのバックルや、がっちりしたジーンズ、カウボーイの使うような幅の広いベルトなど。
 ウェスタン系の小物は断然、こちらの店の方が品質もしっかりしているし、種類も豊富だ。

 帰省のついでに買い込んでおくか、と行き着けの店に入る。
 クリスマスシーズンを見越してか、かなりの数の新作が入荷していた。

 鋭く白い輝きの銀製のバックルや、年月を経たセピア色に霞む色合いの美しいビンテージ品はさすがに手が出ないので見るだけで。
 19〜20ドルの自分の手の届く範囲の物を中心にじっくりと物色する。

 いろいろ迷ってから結局、楕円形のプレートに星のレリーフの入ったのを一つ買い求めることにした。会計を終えてから、ふと視線を横に滑らせる。

 いつも自分の使っているものより一回り小さなバックルのコーナーにそれはあった。
 ころんとしたシンプルな楕円形。縁をぐるりと取り囲む額縁状のレリーフ以外装飾はない。
 けれどその額縁の両端が、よく見るとある動物の横顔を形作っていることに気づいた。

(これは……あいつにぴったりじゃないか!)

 即座に心を決めた。

「……すいません、これもください。あ、ラッピングもお願いします」

 一日遅れだったが、まだクリスマスのラッピングは受け付けてくれた。
 
 
 ※ ※ ※ ※

 
「父さん」
「何だ?」
「俺、予定繰り上げて少し早めにシスコに戻りたいんだ。いいかな」
 
 ダンカン・マクラウドは新聞から顔を上げて息子を見た。

「まだ学校の寮は閉まってるだろう」
「うん、だから……郊外の牧場でバイトしようと思うんだ。オーブーさんとこで」

 オーブリー。兄(つまりこの子にとっては伯父)の友人オーブリー・マッキロイの事だ。週末は彼の農場でバイトをしていると聞いた。

「住み込みで、か?」
「うん。従業員がちょうど休暇で帰っちゃってるから人が足りないって言ってたし。電話したら二つ返事でぜひ来てくれって」

 もう電話したのか。やけに手際がいい。いったい、何だってこの子はそんなにサンフランシスコに戻りたがるのか……。
 そんなに早く家族の元を離れたいのだろうか?
 いや、ここ数日、息子の様子を見ている限りはそんな風には見えない。笑顔で家族と話し、兄弟仲も良い。親類の子どもたちとも全力で遊んでいる。心の底から楽しげに。

 いささか警戒心が薄い傾向はあるが、ダンカン・マクラウドはこの赤毛の息子の快活でまっすぐな性質を好ましく思い、また信頼していた。

「暇な時は、馬に乗っていいって」

 ああ、それなら納得だ。むしろ、それが目当てなのだろう。自分の兄の経営する牧場には、もうこの子の乗りこなせない馬はいないと言ってもいい。

 もちろん彼の不在中に新しい馬も入ってはいたが、この息子ときたら全て休暇の間に手なづけてしまった。
 ディーは丈夫な子だ。同じくらい、意志も強い。
 何度振り落とされても決してあきらめず、地道な辛抱強さを発揮して待ち続ける。馬が自分を信頼し、主導権を委ねるその瞬間まで。
 何があっても決してもの言わぬ動物を怒鳴ったり、増して暴力をふるうことはしない。
 そんな事をするぐらいなら自分の心臓をえぐり出す方がマシだと考えている。

 実に男らしく、勇敢で……誇れる息子だ。
 新しい場所で、新しい馬を試したいのだろう。

「良かろう。くれぐれも先方に迷惑はかけるなよ?」
「うん!」

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【ex6-3】遅めのクリスマスプレゼント

2008/08/10 19:01 番外十海
 
 年が明けるとすぐさまディフはサンフランシスコに戻り、マッキロイ牧場で住み込みのバイトを始めた。
 仕事はいくらでもあったし、彼にとっては全て伯父の牧場の手伝いで慣れた作業だった。
 馬の世話、厩舎の掃除、牧場を運営する上でのありとあらゆる面倒で力の要る仕事。全ての作業は最終的には楽しみに通じ、彼の若い体を鍛えるのに役立った。
 毎日が楽しい。ただ、小さなランスだけは不満そうだった。

『もうシスコにいっちゃうの? 休みのあいだ、ずーっと遊べると思ったのに!』
『ごめんな、ランス……夏にまた来るから』
 
 ふくれっつらをした甥っ子の、クセのある赤毛を撫でてテキサスを後にした直後は少しばかり胸が痛んだものだった。

 バイトの合間にシスコ市内のホテルにレオンを訪ねた。
 行ってみたら、これがまた……ガイドブックのカラーページに載っていそうな一流ホテルで、思わずポケットからメモを取り出し、確認した。
 ホテルの名前。
 番地。

「………………………………………まちがってないよな?」

 中に入り、スニーカーを包み込むふかふかとした絨毯の感触にびびりつつ、ぴかぴかに磨き上げられたフロントに近づき、おっかなびっくりレオンの名を告げると……。

「こちらでございます」

 何てこったい。てっきり部屋番号を聞いて上がって行けばOKだと思っていたのに、制服をぴしっと着たホテルマンが先に立って案内してくれる!

「あ……ありがとうございます…………………」

 壁と柱は落ちついたアイボリーに統一され、値段の想像できないような陶器や絵、彫像が廊下の要所要所にひっそり置かれていた。
 何もかも重厚で厚みがある。美術品の真偽などまるでわからないが、よくインテリアショップで見かける複製品とは核が違うと肌身で感じる。

 別世界だ。

 ジーンズにセーターにダッフルコートなんて、ラフな格好で歩いていいんだろうか?
 
 案内されるまま乗り込んだエレベーターは、ぐいぐいと景気よく上昇して行く。ほとんど震動は感じないが一向に止まる気配がない。

(いったいどこまで上がるんだーっ!)

 長い廊下を通り抜け、やがて大きな……他の部屋と比べて、明らかに格の違う、どっしりした造りのドアの前にたどり着いた。
 ホテルマンが呼び鈴を押すと、きちんとスーツを着た男性が迎えに出た。髪の毛は銀色、目は空色。

(誰だ? レオンの親父さん……にしちゃ、ちと若いよな?)

 頭の中がぐるぐるしてきた。顔がかっかと火照っている。このフロア、暖房ききすぎじゃないか? あ、いい加減コート脱いだ方がいいのかな。
 悩んでいると、空色の瞳の男性が話しかけてきた。

「マクラウド様ですね、お待ちしておりました。こちらにどうぞ」

 言葉の詳細はわからないが、とにかく自分が呼ばれたのはわかった。こくこくとうなずき、ギクシャクと油の切れたブリキの木こりみたいに歩いて行く。
 視界の隅にちらりと、空色の瞳の男性が自分を案内してきたホテルマンにチップを渡しているのが見えた。

(こんなにふかふかのじゅうたんを、すにーかーでふんでもいいのだろうか)
(どうしよう、やっぱり、くつぬいだほうがいいのか?)

 うずまきができている。
 頭の中にも、外にも。足元にも。もう、自分の見聞きしたものが上手く脳みその中で形にならない。言葉にならない。ただ色と光と音が通過して行くだけ。

 くらくらと目眩にも似た感覚にとらわれながら広いリビングに入っていくと、椅子に座って本を広げていた少年が顔を挙げた。
 その瞬間、うずを巻いていた世界がすーっと一点に定まった。

「やぁ」
「レオン!」

 見た事のない別世界で、やっと出会えた見慣れた顔。すらりとした手足、明るいかっ色の瞳と髪、陶器の人形にも似た貴族的な顔立ち。
 しばらくの間、自分の生活から欠けていたもの。ずっと、会いたいと願っていた。

 たーっとボールを追いかける子犬のように駆け寄ると、ディフは思いっきり両腕でレオンを抱きしめた。

「……っと」

 驚いて目をぱちくりさせているレオンの髪の毛をくしゃくしゃとかき回した。

「元気にしてたかー。あいっかわらず本読んでばっかだなお前」

 レオンは小さく笑うと目を細め、改めて友人の様子を観察した。

「君こそ、冬なのにまた日焼けしてる」
「うん。伯父さんの牧場に入り浸ってたし……こっちでも牧場のバイトしてっからな。表にいる時間のが長い」
「そうか、楽しそうで良かった。何か食べるかい」

 カチャ、と陶器の触れあう音がした。振り向くと、さっき自分を部屋の中に案内してくれた男性がお茶の仕度を整えていた。

「うん! むっちゃくちゃ緊張したよ……お前、すげえとこに泊まってるんだな」
「ああ、祖父の知り合いのホテルなんだ。使ってくれって言われててね」
「そうか……」

(じーちゃんの知り合いなのか、そうなのか。すげー知り合いがいるんだな……知り合いだからやっぱり宿泊料は割引が利くんだろうか?)

「靴脱いだ方がいいのかどうか真剣に悩んだ」
「大丈夫だよ」
「安心した……」

 リビングのテーブルの上に、フルーツとサンドイッチ、ケーキの入ったトレイが運ばれてきた。横に並べるのではなく、上に重なっている。
 面白い形だなと思った。

「どうぞ、お召し上がりください」
「あ、ども」

 サンドイッチはディフの基準からすれば小振りなものばかりだったが、パンも、中にはさまったキュウリもすばらしく美味かった。
 わしづかみにして頬張り、あぐあぐと噛んで飲み込み、お茶を流し込む。

「わあ、これ美味い! キュウリのサンドイッチなんて食いごたえないんじゃないかって思ったけど……シャキシャキしてすごく美味い!」

 レオンはカップを片手にディフの食べる姿をながめていた。

(こう言うのも久しぶりだな……)

 お世辞にもマナーが良いとは言いがたいが、彼は実に美味しそうに、楽しそうに食べる。

 時折フルーツをつまむ程度のレオンを見ながら、ディフは思っていた。

(相変わらず小食だな……きっと休みの間も本読んでばかりだったんだろうな。こいつ、もーちょっとしっかり食って動いた方がいいぞ)

 旺盛な食欲で出されたものを平らげてから、ディフはちょい、ちょい、とシャツの端で手をぬぐい、コートのポケットから小さな平べったい箱を取り出した。
 手のひらに収まるほどの大きさで、柊の葉をかたどった模様の捺された緑色の包装紙につつまれ、赤いリボンが結んである。

「だいぶ遅れたけど……これ、クリスマスプレゼント」
「え……俺に?」

 あーあ、言っちまった。照れくさいが、出した以上はもう引っ込める訳には行かない。
 しとろもどろになりながら、言い訳めいた台詞を口にする。

「な、何贈ったらいいのか、わかんなくって、その、自分の気に入ったものなんだけどな」

 今更ながら心配になってきた。見つけた瞬間はこれしかない! って思ったのだが、今、ホテルの重厚な調度品の中に座ってるレオンを見ると……。
 果たして、あんな安物をこいつに贈っていいものかどうか。気に入る入らない以前に、受けとってくれるのかどうかすら危うく思えてきた。

「ありがとう。………すまない、俺は何も用意してないんだ」
「いいんだよ、俺がしたくてしてるんだし!」

 にかっと笑うと、ディフはぐいっとシャツの袖口で口元のパンくずをぬぐった。

「なんかお前の顔見ただけで十分な気がするし」
「……開けてもいいかな」

 わずかに頬をそめて、こくっとうなずいた。
 しなやかな指がリボンをほどき、包装紙を開いてゆく。中からは藍色の箱。ふたを開けると、銀色のバックルが静かに光っていた。
 ころんとしたシンプルな楕円形。縁をぐるりと取り囲む額縁状のレリーフ以外装飾はない。
 その額縁の左右の端に、小指の先ほどのライオンの横顔があしらわれていた。

「ああ、綺麗だね」

 わずかな頬の赤みが、さーっとディフの顔全体に広がる。やや遅れて口元がむずむずと持ち上がり……笑顔全開。

「うん……きれいだから、お前にぴったりだと思ったんだ」
「使わせてもらうよ。大事にする」
「ほんとかっ? そうか、使ってくれるか!」

 もしも彼が犬ならば。四つ足をフル稼働させて部屋の中で八の字を切って全力疾走していることだろう。ちぎれんばかりに尻尾を振って。
 レオンが傍らに控えるスーツ姿の男性の方を振り返り、何気ない調子で言った。

「これがつけられるようなベルトを見繕ってみてくれ」
「かしこまりました」
「これ、こんな感じの」

 ディフがセーターをまくりあげて自分のベルトを見せた。星のレリーフをほどこした、レオンに贈ったのよりすこし大きめのバックルが光っている。
 あまり勢い良くまくったものだからセーターの下に着ていたシャツがめくれて、ちらりと割れた腹筋がのぞいている。

(また、そんな事して……)

 レオンはわずかに眉をしかめた。しかし声はあくまでおだやかに。

「いつまでもお腹を出してると、冷えるよ?」
「おっと」

 ごそごそとディフが服を直している間に、アレックスがシンプルな皮のベルトを持って戻って来た。

「こちらでいかがでしょう」
「あ、いいな、これぴったりだ」
「これは簡単につけかえられるのかい?」
「ああ、簡単だよ。ちょっと貸してもらえますか、それ」

 ディフはアレックスからベルトを受け取り、しばらく調べてから、改めてレオンに向かって手をさしだした。

「それもだ、レオン」

 素直にレオンはバックルを手渡した。
 二人の見守る中、ディフはジーンズのポケットからスイスアーミーを取り出し、手際よくぱきぱきとバックルを付け替える。
 いつもやってるから慣れたものだ。

「……ほら、できた」
「ありがとう」

 できあがったベルトを受けとると、レオンは身につけていたベルトをしゅるりと腰から抜き取った。

(うわあ……こいつって、ほんっとに……腰細ぇんだなあ)

 何となく見てはいけないものを見ているようで、ディフはそろりと視線をそらした。
 真新しいライオンのバックルを着けたベルトをズボンに通して、くいっと引っぱって留めて。位置を整えてからレオンは首をかしげて問いかけた。

「どうかな」

 アレックスがうなずき答える。

「良くお似合いです」

 ディフはにやっと笑うとぐっと右の拳を握って突き出し、親指を立てた。

「……最高」
「ありがとう」

 レオンはかすかに……それでも確かに嬉しそうに笑ってくれた。
 ディフは嬉しかった。喜んでくれた。目の前で身につけてくれた。そのことが、ひたすら嬉しかった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 そして、2006年現在。
 寝室で着替えるレオンの姿をじっとディフは見守っていた。
 タイを緩めて外し、腰からベルトを抜き取るその動作の何と艶っぽいことか。
 
「ん?」
 
 ふと、外されたベルトのバックルに目が引き寄せられた。
 10年近い年月を経て、少しばかりすり減ってはいたが……シンプルな楕円形、両端にあしらわれたライオンの横顔。

「あ」

 小さな声が漏れた。さすがにベルトはあの時と同じものではないが、バックルは見忘れようがない。初めて贈ったクリスマスプレゼントだ。

「ん……ああ。今でも時々使っているよ」
「そっか………ずっと……使っててくれたのか………うん…………そっか……」

 レオンは黙ってうなずいた。
 実を言うとこのバックル、結婚式の時もひっそりと身につけていたのである。いささか花婿のタキシードには不釣り合いな代物だが、上着を着てしまえばわからない。

「あの時気づかなかったけど……お前、クリスマス生まれだったから、誕生日プレゼントを贈ってたんだな、俺。」
「そうだね。俺にとってはクリスマスも誕生日もあまり意味のないものだったけど。君が贈り物をくれたから特別になった」
「俺は……久しぶりにお前に会えて嬉しくて。喜んでくれたのが嬉しくて。有頂天になってたんだな………」

 目を細める。あの時、自分はまだ15歳。ほんの子どもだった……レオンに対する想いにすら気づかぬまま、ただ彼と共にいられることが嬉しかった。

「まさか、その場で着けてくれるとは思わなかったし」
「だって君がつけてくれたからね。ベルトに」
「いや、だって俺、慣れてたし、しょっちゅう自分でやってたから」
「うん」
「正直言うと……な……ベルト引き抜いて付け替えてるお前の姿に……………」

 今ならわかる。あの時、己の胸を内側から焦がしたもどかしさの正体が。

「み……見蕩れた」

 消え入りそうな声で告白すると、レオンはふさふさとカールしたまつ毛をに縁取られた両目をぱちぱちさせて。それから、ぷっとふき出した。

「わ……笑うな……よ……」

 言うんじゃなかった。ああ、もう、この後どうすりゃいいんだ。ぷい、と横を向いてから、そろそろと目線だけレオンに戻す。

「ごめんごめん。気にすることはないよ、俺も君が裸でうろうろするから目のやり場に困ってたし」
「そんな事、俺、やったか?」
「風呂上がりにね」
「う…………………」

 記憶をたぐりよせる。
 ……確かにやっていた

 うっかり夏場に下着もつけずに風呂から出て、何度か説教を食らった。
 その後はさすがにパンツは履くようになったが、それでもレオンはあまりいい顔をしなかった……ような気がする。
 と、言うか本に没頭していて絶対にこっちを見ようとしなかった。あれは、目のやり場に困っていたからなのか!

「ごめん」
 
 背後から抱きつき、腕をレオンの胸に回して耳元に囁く。

「ベルト引き抜いてるとこが色っぽいって思うのは、今も同じだからな?」

 頬にキスをした。
 前に回した手を握られる。引き寄せられるまま体を預け、そのままとさりとベッドに仰向けに転がる。
 抱きしめられ、目を閉じるより早く柔らかな口づけが降ってきた。

「俺はもう目のやり場に困ったりしてないよ」
「……好きなだけ見てろ」

 レオンの背に腕を回して抱き返し、応えた。


(初めての贈物/了)

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【第四話】スパイラル・デイズ

2008/08/17 21:53 四話十海
この世の誰よりも、何よりも近しい二人。いつも一緒だった。
お互いが唯一の存在だった。

オティアとシエン、そしてヒウェル。
揺れて絡まる3つの螺旋。近づいてはまた離れ、時にもつれ合い……
行きつく先は誰も知らない。
今は、まだ。

spiral2.jpg
 ※表紙画像、クリックで拡大します。
  • 2006年8月から2007年5月までのお話。
  • 三話同様、一話完結の短いエピソードの連載形式で続けて行きます。
  • 完結しました。
【attenntion!】タイトルに『★★★』の入っている作品には男性同士のベッドシーンが含まれています。十八歳未満の方、および男性同士の恋愛描写がNGの方は閲覧をお控えください。

【4-0】登場人物紹介

2008/08/17 21:57 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 フリーの記者。26歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
 オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
 もはや報われないことがステイタスとして確立した、本編の主な語り手。

【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
 告白の際に著しく心を傷つけられ、今はひたすら『空気』扱い。
 観察力に優れ、また記憶力は驚異的に良い。
 ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。
 ディフの探偵事務所で助手をしている。

【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。16歳。
 外見はオティアとほぼ同じだが、髪が長め。
 オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
 また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
 ディフになついている。
 自覚のないままヒウェルに片想いしている。
 その一方で、オティアとのこじれた仲を取り持とうとする複雑な立ち位置に。
 レオンの法律事務所で秘書見習いをしている。
 
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフと双子に害為す者に対しては穂高の槍の穂先並みに心が狭い。
 ヒウェルに対してはとことん容赦無い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 無防備に色気をだだ流しにする奥さんに秘かに苦労が絶えない。

【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 頑丈そうな体格だが無自覚に色気をふりまく困った体質(ゲイ相手限定)。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。

【アレックス/Alex-J-Owen】
 レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
 有能。万能。
 レオンさまと奥様、双子のため日々がんばる。

【エリック/Hans-Eric-Svensson】 
 シスコ市警の科学捜査官。ディフの警官時代の後輩、23歳。
 ライトブロンド、瞳は青緑色、身長186cm。
 金属フレームの眼鏡着用。
 ややワーカーホリック気味なバイキングの末裔。
 好物はエビ。

【結城朔也】
 通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。
 ディフやヒウェルの同級生だったヨーコ(羊子)の従弟。
 サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
 動物病院では水色の白衣を着ている。

【エドワード・エヴェン・エドワーズ/Edward-Even-Edwars】
 通称EEE、もしくはエディ。英国生まれ、カリフォルニア育ち。
 元サンフランシスコ市警察の内勤巡査でディフとレオンの友人。
 現在は父親から受け継いだ古書店の店主。やや引きこもり気味。
 飼い猫のリズは家族であり、よき相談相手。

【結城羊子】
 通称ヨーコ、もしくはメリィさん。
 サリー(朔也)の従姉。
 高校時代、サンフランシスコに留学していた。
 ディフやヒウェルとは同級生。今もメールや電話でやりとりをしている。
 現在は日本で高校教師をしている。
 ヒウェルの天敵。


次へ→【4-1】★夜に泳げば

【4-1】★夜に泳げば

2008/08/17 21:58 四話十海
   
 夕方にレオンから電話があった。「今夜は遅くなる。夕飯は外で食べて帰る」と。

 夜。
 双子とヒウェルと、四人での夕食を済ませ、片付けを終えて部屋に戻る双子を見送った。

 結婚式以来、オティアの顔色が良くない。
 相変わらずあの子は表情を動かさず、大丈夫かと聞けばうなずき、事務所でもいつもと変わらず普通に働いている。
 だが、何と言えばいいのか……気配が、なあ。
 覇気がない。勢いがない。しおれている。いつもよりほんのわずかだが反応が鈍い。心無しか髪の毛にもつやがない。
 食事はとっているがペースが遅い。できるだけ消化のよさそうな、胃に負担のかからない献立を選んではいるのだが、果たしてどこまで効果があるものか……。

 もしも俺が普通の『ママ』だったら?
 血の繋がった親だったら。
 普通の里親だったら。

 もっと、あいつの側に寄り添うことができるのだろうか。ためらわずに手を差し伸べて、あいつが今、どんな状態にあるのか聞き出して、きちんとケアすることもできるのだろうか?

 色々とあり得ない可能性ばかりがぷかぷかと、浮かんで、弾けて、また浮かぶ。

 俺にはまだ覚悟が足りない。
 拒まれる事を承知でオティアにぶつかるだけの勇気がない。ただ彼の感情を必要以上にかき乱さぬよう、距離を保って見守る事しかできずにいる。

 自分が当たり前のように注がれてきた愛情、何の疑問も持たずに包まれてきた温かな手。その何百分の一でもいい……倣うことができたら。
 彼に伝えることができたら。
 思っても、焦っても、ただ空回りするだけでもどかしさに唇を噛む。

 こうして俺があれこれ悩んでるのも、オティアにしてみればプレッシャー以外の何ものでもない。癒すどころか、結局はストレスの元になっちまうんだろうな……。

「いかんな」

 ふーっと息を吐く。こんな不景気な面で出迎えたんじゃ、レオンにまでネガティブな気分を伝染させちまう。
 どうにかして気分を切り替えないと。

 時計に目をやる。時間は22時を少し回った所。プールが閉まるまでにはまだ2時間半ある。
 少し、泳いで来るか。

 寝室に行き、膝上丈の黒い水泳パンツを身につけて上からジャージの上下を着る。タオル地のネイビーブルーのバスローブと、大きめのバスタオル一本まとめて腕に抱えた。
 最近のスイムウェアは乾くのが早い。上がってからも同じ格好で戻ってくればいい。

 今住んでるマンションには、屋内にプールがある。以前は夜だろうが昼間だろうが、とにかく暇を見つけては通っていた。
 泳いでいた。

 だが………。
 背中にタトゥーを入れてからは極力、人の居ない時間を選んでひっそりと泳いでいる。
 カリフォルニアは海辺の街だ。この程度のタトゥーなんざさして珍しいもんじゃない。だが、この背中のライオンと翼は………レオン以外には見せたくない。

(乙女じみた感傷と笑わば笑え。俺は俺なりに真剣なんだ)
 
 to Leon

 お帰り。ちょいと泳いでくる。
 
 Def
 
 玄関にメモを残し、家を出た。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 泳ぐのが好きだ。
 
 むしろ泳ぐのも、と言うべきか。
 歩く、走る、馬に乗る、鉄棒、球技、その他マシンを使ったエクササイズ。種類を問わず体を動かすことがとにかく好きなんだ。

 プールサイドでローブを脱ぎ、日光浴用の椅子の背に引っ掛けた。むき出しの体が湿った空気に触れるが、寒くはない。
 注意深くストレッチをして体を解し、ゆっくりと水に入った。

 なめらかな液体に身をひたし、足を離す。
 顔を水につけ、目を開くと、プールの底に写る自分の影が見えた。

 自分の手が。足が。筋肉を形成する繊維の一本一本、細胞の一つ一つがどこまで動くのか……確かめながら、感じながら動かす。最初はゆっくりと、そのうち意識する必要すらないくらいに早く。

 最初は肩ならしにクロールで数回往復する。
 心臓が力強く脈打ち、体のすみずみまで血液を巡らせるのを感じながら動く。
 次第に自分の体を操り、どこまで行けるのか挑むことに意識が集中する。それしか考えられなくなって来る。

 思い切って2往復ほどバタフライで泳いでみた。
 静まり返った屋内プールの中に派手に水音を響かせて、イルカを真似た動きで泳ぐのはなかなかに楽しい。
 それから一転して平泳ぎに切り替えて、ゆったりと水をかいた。水面に顔を出し、深く息を吸ってから、潜った。底までは行かずに、水面と水底の真ん中辺りをキープして何回も往復をくり返す。

 ターンの際に頭を下にくるりと水中で回転してみた。水面と水底が入れ替わり、透明な水の中で重力の向きが真逆になり、また元に戻る。
 地上では落下のリスクが大きい動作だが、水中では余裕たっぷりに重力の推移を味わうことができる。

 ひたすら泳いだ。
 自分と、水と、青い光、そして夜の空気の境目が揺らいで薄れるその瞬間目指して。

 青い、月の光にも似た薄明かりに照らされたしーんと静まり返った水の中をくぐっていると、上も、下も、重さすら忘れてしまう。
 プールの底に写る自分の影を見ていると、まるで何もない空間に浮かんでいるかのような錯覚を覚えて……。
 実際はそんなことなどありはしない。透き通った水の中を動いているだけなのだとわかっちゃいるんだが。

 そのうち、考えてる事だの周りの景色がぐるぐると混ざり合って、バターになった虎みたいに溶け落ちて………待ちかねた時間がやってきた。

 これからどうすればいいのか。
 どこに行けばいいのか。
 何があるのか。
 一秒先、一分先、一日、一ヶ月、一年……十年先。うだうだと悩んでいたことが磨りガラスみたいに透けて行き、目の前にぽつっと『今の自分』が浮いていた。

 何とちっぽけで、無力な子ども。図体ばかりでかくなって……だが、それが今の俺だ。

 以前からおぼろげに感じてはいた。
 自分にはどこか女性的な性質があると。
 世話好きで、料理好きで、家事が得意。本来なら女の役割だ。だが別に苦にならないし、楽しいと思うことさえある。
 ずっと目をそらしてきた。俺の生まれ育ったテキサスの文化とは相容れないものだとわかっていたから。
 いそいそとキッチンで立ち働きながら後ろめたさを感じていた。それは、ほんの微かな物ではあったけれど常にまとわりつき、決してゼロになってはくれなかった。

 もう、逃げまい。
 認めよう。
 受け入れよう。

 たとえ、それが子どもじみた我がままでしかなくても。
 あやふやな保護欲に根ざしているだけのものなのだとしても……俺にとって、オティアとシエンが大切な存在であるって事は揺らがぬ事実なんだ。
 
 まるで我が子を愛でる母親みたいに、理屈抜きで愛おしい。女々しいにもほどがある。テキサス男児にあるまじき失態、だが後悔はしない。後戻りするつもりもない。

 それが、俺なのだ。

 今、この瞬間、レオンを愛しているように。

「………ディフ!」

(あれ?)

 泳ぐのを止め、プールの底に足をつき、立った。水の支えを失った上半身がずっしりと重い。肌にへばりつく髪の毛をかきあげ、声のする方を振り向いた。

「……レオン!」

 プールサイドに立ち、こっちを見下ろしてる。いつ来ていたのだろう? スーツの上着だけ脱いでる所を見ると、一度家に帰ってからこっちに降りてきたらしい。

 再びぱしゃりと水につかり、すーっと泳いで近づいて、体を浮かせながらプールの縁に手をかけた。この辺りはけっこう深いのだ。

「早かったな」
「そうでもないよ」

 腕の時計を見る。
 日付が変わっていた。既に2時間近く泳いでいたらしい。

「あ……もうこんな時間か」

 あと30分ほどでプールが閉まる頃合いだ。そろそろ上がるか?
 

 ※ ※ ※ ※


 家に帰ると出迎えが無く、玄関にメモが残されていた。上着だけ脱いですぐに下に降りた。
 人気のない屋内プールはライトに照らされて青く霞み、規則正しい水音が響いていた。

 彼は泳ぐのが好きだ。
 だが今は人前では決して水には入らない。

『見せるのは、お前だけだ……』

 忌わしい刻印の上に新たにライオンと翼を刻んで封印し、事件の後、初めて愛を交わした夜。
 一糸まとわぬ背を見せながら誓ったあの言葉を、忠実に守っているのだ。

 子どものように純真に。激しく、一途に、真っすぐに。そうする事が彼自身の支えにもなっているのだろう。
 だから何も言わず、こうして見守る。

(わかってる。単なる大義名分、言い訳だ。自分はただディフを独占したいだけだ)

 呼びかけると彼は泳ぐのを止め、立ち上がった。水中ではあたかもたてがみのように広がっていた長い赤い髪がぺしゃりと潰れ、肩に、首筋にまとわりつく。
 髪の毛の含んでいた水が重力に引かれてなめらかな背中を滴り落ちてゆく。
 濡れた背中に浮かぶライオンと翼。ほんのわずかな筋肉の動きにさえ、表面を覆う水が流動し、つやつやと光る。
 
 あやうく喉が鳴る所だった。
 こんな色っぽい姿、他の奴には到底見せられない。
 
 無造作に髪をかきあげるとディフはこちらを振り返り、次の瞬間。

「レオン!」

 もぎたてのオレンジみたいな笑顔が顔全体に広がる。あどけなくて、無防備で。さっきまでのしたたるような色気が嘘みたいだ。
 ああ、まったく可愛いな、君って人は……本当に。

「早かったな」
「そうでもないよ」
「あ……もうこんな時間か」

 ボールをくわえて泳ぐ犬みたいに嬉しそうな顔をして、すーっと泳いできたと思ったら、手を伸ばしてきた。

「レオン、レオン」
「なんだい」
「手、貸してくれるか」

 素直に近づき、彼の手を握ったその瞬間、にまっと口の端が上がった。

 しまった!

 思った時は既に遅く、ぐいっと引っぱられて水に落ちる。頭の上で、くぐもった水しぶきの音が聞こえた。
 服が手足に絡み付き、動きを奪う。しかし不安はなかった。力強い腕がしっかりと支えていてくれたからだ。

 水の中で目を開くと、立ちのぼる泡と揺れる水の向こうで彼がにこにこ笑っているのが見えた。

 うれしそうな顔してるね、ディフ。
 人魚に引きずり込まれるのって、こんな感じなんだろうか?

 
 ※ ※ ※ ※

 
 水面に浮び上がると、レオンはむっとした顔でにらみつけてきた。口をへの字に曲げて、眉をしかめてる。
 怒ったか?

 怒ったろうな。でもお前のその顔、好きだよ。きれいな男が子どもっぽい表情してるのって、反則級に可愛い。

「……ごめん」

 濡れたシャツが。ズボンが体にぴったりはりついている。髪の毛は言わずもがな、だ。
 濡れた布ってのはくせ者だな。
 体のラインを際立たせ、かえって服を着てない時より『裸』を意識させる。
 張り付いた布をよじらせ、動く手足が。わずかにほの見える肌の色が、直接触れた時の記憶を強烈に呼び覚ます。

 レオンを支える腕に力が入った。単なる安全の確保のためだけなんかじゃない。
 こんな色っぽい姿、とてもじゃないが他の奴には見せられない。見せてたまるか、絶対に!

「きれいだぞ、レオン。人魚みたいだ」
「しょうがないな、まったく」

 彼は濡れた髪をかきあげ、笑いかけてきた。
 やばいぞ、もう限界だ。
 素早く周囲を見回す。プールサイドにはレオンと俺以外は誰もいない。……よし。

 片手をレオンの腰に巻き付けて支えると、もう片方の手のひらで頬を包み込み、唇を重ねた。
 彼の手が背中に回る。

 そのまましっかりと抱き合った。月の光にも似た青い光に照らされた、透明な水に浸って。

 うっすらと開けた瞼のすき間から濡れた服をまとうレオンの姿をつぶさに眺める。
 目を閉じると、濡れた体に挟まれた布に二人分の体熱がこもって……より強く感じられるような気がした。
 レオンと抱き合ってる。肌と肌が触れている。キスが深くなるたびに、ぴくりと震えるのは俺の体なのだろうか。それとも彼か?

 互いの体をまさぐりながらキスをした。何度も角度を変えて、時には舌を差し入れて。入れられて。
 深く重ねようとすると、するりと逃げられる。
 切なくなって、追いかける。求めた刹那にするりと舌が差し入れられた。すがるようにして吸い付くと、重ねた唇の奥から小さく呻く声が聞こえた。

 何て……可愛いんだろう。

 水が、揺れている。
 水が、鳴っている。
 体の内側で。
 外側で。
 俺と彼の間で。

 人魚とキスするのって、こんな感じなんだろうか……。

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 唇を離すとレオンはうっすらとほほ笑み、言った。

「いきなり着衣水泳は勘弁してほしいね」
「……ごめん」

 レオンに手を貸し、水から上がった。

「ところで、ディフ」
「なんだ?」
「部屋から着替えをとってきてくれ」
「あ…………そうだな、すまん」

 レオンの全身からぽたぽたと水が滴り落ちる。シャツもズボンもネクタイも、靴下もまんべんなくぐしょ濡れ。たぶん下着も濡れている。
 白いデッキチェアの背からバスローブをとり、さし出した。

「すぐ、とってくる。それまではこれでも羽織ってろ」
「君が歩くのに困るだろ、それじゃ」
「っと……そうか」

 ばふっとタオルを頭から被せて。自分はあらためてバスローブを羽織り、更衣室まで並んで歩く。

「すぐ戻る。待ってろ」

 部屋から着替えをとってくると、その間にレオンはシャワー使っていた。
 水から上がって服を着てる段階で徐々に頭が冷えてきてはいたんだが……。
 シャワー室の仕切りの中で一糸まとわぬ姿でシャツを絞る彼の姿を見て、急に気づいた。

 やっちまった! と。

「……レオン……服……持ってきたぞ」
「ああ、ありがとう」

 そろそろと着替えをさし出す。
 ああ、まったく、俺ってやつは、勢いに任せて何てマネを!
 おそらくシャツもズボンも台無しだ。なまじ上質な品なだけに、こんな風に水浸しになったらデリケートな布の表面が傷んでしまう。乾かしてもごわごわに毛羽だって、まず完全復活は難しい。クリーニングした所で果たして使い物になるかどうか………。
 革靴に至っては、もう完全にアウトだな、これ。乾かしたらきっと、表面に細かくヒビが入る。

 うなだれて、小さな声で謝罪の言葉をつぶやいた。

「…………………………ごめん、レオン。ごめん」
「どうしたんだい、急に? 大丈夫だよ、怒ってないから」
「いや……その……つい……ガキみたいなマネしたなって、その……」
「たまにはいいさ」
「お前ってさ。服着てても脱いでも色っぽいな」
「そうかな」
「……そうだよ」

 額にキスして耳元に囁く。

「さっさと服着ろ。見ていて落ちつかない」

 小さく笑うとレオンは体を拭いて、新しい服を身につけ始めた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ところでディフ」
「何だ?」
「その格好で部屋まで往復したのかい?」
「何か、問題あるか?」
「……いや、別に」

 なるほど、確かに下はジャージのズボンを履いている。だが上はバスローブを羽織っただけだ。
 急いでいたのだろうけれど。あわてていたのだろうけれど。
 髪の毛は濡れたまま、ほとんど風呂上がりと見まごうようなその姿。

 この時間だ。
 誰にも見られなかったと信じたい。
 もし見た者がいたとしたら………鹿にでも変えられてしまうがいい。子犬座の飼い主。女神の水浴を目撃してしまった、あの不運な若い狩人みたいに。
 

(夜に泳げば/了)

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