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ローゼンベルク家の食卓

【ex5-2】ヨーコの休日

2008/08/04 14:17 番外十海
 
 まぶたを開けた瞬間、携帯のアラームが鳴り始めた。
 お気に入りの着うたが1フレーズ鳴り終わるまで布団の中で聞き入ってから、ヨーコこと結城羊子はむくっと起きあがった。

 まったく規則正しい生活習慣ってのはある意味こまったもんだ。休みの日でも抜けちゃくれない。
 二次会であれほどはしゃいだはずなのに、いつもと同じ6時30分きっちりに目が覚めるなんて……。
 しかも、着物はちゃんと脱いで持参した衣紋掛けにかかってるし、寝間着用の綿のキャミソールとショートパンツに着替えている。化粧も落し、コンタクトも外してある。髪の毛をほどいているのは言わずもがな。
 
 えらいぞ、自分。
 のそのそと起きあがってからふと大事なことに気づいた。
 ここ、アメリカじゃない!

 律儀に7時30分までに起きたところで、ボウケンジャーが見られるわけじゃないんだってば……パワーレンジャーならともかく。

 試しにベッドにひっくり返ったままテレビをつけてみたが、子どもむけのカートゥーンしかやっていなかった。何か見覚えがあるなと思ったら日本のコンピューターゲームをアメコミ調にした物だったりして。
 ああ、これなら純アメリカ産の方がどんなによかったか。なまじ元ネタを知ってるだけに、見続けるのがつらい。

 他にもいくつかチャンネルを回してみて、結局消した。
 まだぼーっとしている頭では、母国語以外の番組を理解するのは少々きつかった。 

 どうしよう。
 もう一眠りしちゃおっかな……でも、ここで寝たら最後、午前中いっぱい行動不可能になるのは目に見えている。
 それだけは避けたい。時間がもったいない。明日の飛行機で日本に帰るんだし……。

 よし、動くぞ。

 意を決してヨーコはぴょんっとベッドから飛び起きた。
 バスルームに入り、バスタブに熱いお湯を満たす。
 とにかく、まずはお風呂に入ろう。体温と血圧が上昇すれば少しは頭がすっきりする。仕上げに朝ご飯をしっかり食べてっと……。

 アメリカ人用の設備は何もかもゆったり大きめに作られていて、狭苦しいはずのホテルのバスタブも小柄なヨーコにはかなりゆとりがある。
 たっぷり温まってから湯につかったまま体を洗い、シャワーを浴びた。
 風呂から上がり、備え付けのバスローブを羽織る頃にはだいぶ頭がはっきりしてきた。

 さーて、今日は一日フリーだ。どこにゆこっかな……。
 のんびりショッピングに行くか。
 ベタにゴールデンゲートブリッジ公園あたりまで足伸ばすか……Zeumのあのでっかい回転木馬にも久々に乗ってみたいなー。

 冷蔵庫から取り出したボトルウォーターを喉に流し込んでいると、きゅるるぅ……と腹の虫が鳴いた。

「その前に、ご飯食べなきゃね」

 バスローブを脱ぎ、衣服を身につける。
 薄手のデニム地のクロップドパンツに赤い木綿のキャミソール、上から白のシャツジャケットを羽織る。
 髪の毛はポニーテールにするかシニョンにするか……いっそツーテイル……いやいやそれはいくらなんでも。

 ポニーにしよう。たまにはいいよね。

 学校では滅多にやらない。生まれついての童顔との相乗効果で、それこそ生徒の中にまぎれこんでしまうから。
 勤務中はメイクも控えめだし、下手すると自分よりしっかりお化粧している生徒もいるし。
 髪の先が襟足につかない程度の位置に結い上げ、軽く黒のゴムで留めてからキャミソールと同じ赤いリボンを結わえた。
 うん、これでよし、と。

 プライベートにつき本日はコンタクトは封印、愛用の赤いフレームの眼鏡をかける。
 ライムグリーンのバッグを肩にかけ、素足をクロックスのメリージェーンタイプのサンダルに突っ込んだ。
 旅行で歩き回る時はこれに限る。適度におしゃれでしかも足を圧迫せず、歩きやすい。
 軽快な足どりでヨーコはホテルの部屋を出た。

 さあ、休日の始まりだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 トーストにコーヒー、卵はスクランブルかサニーサイド、オムレツから選択可、ベーコンはかりかり。サラダからフレッシュなジュース、フルーツまできっちりそろったホテルのレストランの朝食も悪くない。
 けれど今日はもっとカジュアルでボリュームのあるものをざっくりと食べたかった。(ボリュームの点で言えばホテルの朝食もかなりの分量があったが)

 そこで近くのカフェまで足を伸ばし、ライ麦パンにレタスとトマト、ベーコン、卵を挟んだサンドイッチとカフェラッテのVサイズで朝食を取った。
 食べ終えてからビタミンが足りないなと思い返し、追加で小粒のリンゴを一個買い求めてかじりながら歩き出す。
 さすがにこれは日本では無理。そもそも歩きながら食べるのを前提とした丸ごとのフルーツがカフェやコンビニで売ってること自体ほとんどない。

 売ってるリンゴの種類も違う。
 こちらでもっぱら出回っているのは手のひらにすっぽり収まるほどの小粒で果肉のしまった酸味の強いリンゴ。一個丸かじりするのにちょうどいい。
 新鮮な果肉に歯を当てるたびに、ぷしっと果汁が口の中にあふれる。
 他にもいい大人が何人もごく自然に歩きながらリンゴをかじったり、アイスクリームやドーナッツ、ホットドッグを頬張っているから、目立つこともない。
 
 日本人の目から見ればいささか行儀が悪いが、ヨーコはこのアメリカらしい大らかさが気に入っていた。

 そろそろ、リンゴが芯だけになってきた。さて、どこかにゴミ箱はないか、あるいはティッシュで包んでバッグにつっこむか……。
 ちろっと指を舐めながら思案していると。

「あっ」

 横合いの路地からからぬっと出てきた男とぶつかった。こっちも前をよく見ていなかったが向こうは前『しか』見ていなかったらしい。
 要するに相手の方がかなり背が高く、完ぺきに視線がヨーコの頭の上を素通りしていたのだ。
 ちらっと緑の地にレモンイエローの模様か文字が目に入ったと思ったら、がつんと衝撃が来て視界が揺らぐ。
 とっさに足を踏ん張った瞬間、彼女の目は現実から異界へとスライドした。

(やばい)

 ぐにゃりと周囲の景色が。音が。色が歪んで溶け落ちる。全て混じり合い、渦を巻く。

 何が起きたかはすぐにわかった。己の能力に振り回されない様、常に自分をコントロールするやり方を身につけていた。
 だが、これは……あまりに情報の密度が濃すぎる! 自分で読み取る時は意識して観たい時間に焦点を合わせているのだ。
 こんな風に接触した瞬間に洪水みたいに流れてくるのは極めてイレギュラー。許容量を越えている!

 いくつものイメージと思念が練り合わさり、団子になって押し寄せる。濁流に飲み込まれ、なす術もなくもがいた。このままでは沈む。何かにつかまらなければ!
 必死にもがいて浮び上がり、新鮮な空気を呼吸して……手に触れた枝にしがみつく。
 濁流となって荒れ狂う幻想(ヴィジョン)の一つに焦点が合った。

 まず感じたのは強烈な殺意。腑がねじれ、喉から咆哮となってあふれんばかりの憎しみ。

『殺してやる』
『お前の命を断ってやる。存在を抹消してやる!』

 そして怯える少年の姿……白い肌に鳶色の髪と瞳。やせ細り、顔や手、足にぶたれた痣がある。目ばかりがぎょろりと大きく、皮膚を通して頭がい骨の輪郭が透けて見えた。
 怯えた目。苦痛に歪む顔。
 閉じ込められている……出口のない、熱い金属の箱に。もがいても、足掻いても抜け出せない。
 外側からだれかが箱を蹴り着ける。

『お前は犬だ。役立たずの犬なんだよ。このクズが!』

 閉ざされた箱が揺れる。ぐらぐらと。叩き付けられ、手が、足が熱い。喉が焼け、目がくらむ。

 熱い。
 痛い。
 怖い。
 助けて!

 恐怖と嘆き、悲しみ、ありとあらゆる負の感情。それを発する人間そのものをぶつ切りにして放り込み、骨も肉も皮もぐずぐずに崩れるまで煮込んだどろりとした悪夢のスープ。
 一時に流れ込んでくる。視覚、嗅覚、聴覚、触覚、あらゆる感覚を蹂躙し、処理しきれずむせ返る。

(苦し……い……)

 思わず喘いでいた。

(喉が……灼ける………)

 熱い閉ざされた箱が掻き消え、別のヴィジョンが流れ込む。
 優しい甘さが舌の上に広がり、焼けつく乾きを癒してゆく。クマがほほ笑んでる。むくむくの、ぬいぐるみみたいなデフォルメ化されたクマ。
 前足でとろりとした黄金色の液体をたっぷりすくいとっている。

(これは……はちみつ? でもそれだけじゃない。何だろう、やはり甘いもの……)
(アイスクリーム……かな。でも、もっと淡くて、もっと、かすかで……)

 ぽとり、とリンゴの芯が落ちる。
 車の音、自転車のベル、行き交う人の声、ケーブルカーの車輪がレールにこすれる独特の音。サンフランシスコの表通りのざわめきが戻ってきた。

 さよなら、幻想。お帰り、現実。
 あれはおそらく絶望と苦痛の奥底で彼が求めた救いのイメージ。助けを求める少年と同調したのだろう。

「あ……」

 慌てて周囲を見回す。どれぐらいの間、ヴィジョンに飲み込まれていたのだろう?

(一分? それとも数秒?)

 自分に見えるのは過ぎた時間の落す影。既にあれは起きた事だ。どこかに閉じ込められた子どもがいる。
 間に合うだろうか。あの子を、熱い閉ざされた箱から救い出すのに。

(やったのは誰だ?)

 疑わしい人物が一人いる。
 通りすぎる雑踏の向こう側に、緑色のパーカーが遠ざかる。背中に黄色のロゴが印刷されていた。

「ちょっと失礼!」

 運の悪いことに、路上の人の流れはちょうど、ヨーコの進行方向とは逆だった。自分よりはるかに高くそびえ立つ肩やら頭の間をすり抜け、必死に前に進む。
 ようやく逆行する『動く森』を抜けた出した時には息切れがしていた。
 一方、緑と黄のパーカーの男は路肩のパーキングスペースに停めてあった車に乗り込んでいる。
 車が走り出す。 
 さすがにこれは走って追いかける訳には行かない!
 どうする? タクシーでも拾うか?

 その時。
 空いたスペースに一台の車が滑り込んできた。ほどよくマットのかかった上品な銀色、ロゴマークは見慣れたトヨタ、かなりの高級車に入る部類の車種だ。
 運転席のドアが開いて、中から黒いスーツをきちんと着こなした黒髪の男がひょっこり顔を出す。
 ゆるくウェーブのかかった黒髪、ネイビーブルーの瞳。眉のラインの印象的な東欧系のハンサム。

 ヨーコにとっては幸運なことに……そして彼にとっては不運なことに、彼女はこの青年に見覚えがあった。

「Hey,Mr.ランドール!」

 名前を呼ばれて青年が顔を上げる。
 怪訝そうに見返す青い瞳を見つめた。

(そう、そうよ、それでいい……)

 見えない腕を伸ばし、彼の心を捕まえる。手応えを感じた瞬間、きっぱりと言い切った。揺らぎのない意志をこめて、授業をする時と同じくらい、クリアで、迷いのない声で。

「乗せていただける? 緊急事態なの」

 彼はぱちぱちとまばたきをして、助手席のドアを開けてくれた。
 OK。素直な子って大好き。
 するりと乗り込み、シートベルトをしめる。

「あの車を追って!」
「……わかった」

 ランドールは運転席のドアを閉めると再びシートに座り直し、ベルトをしめ……ハンドルを握った。
 銀色の高級車が走り出す。

 ほんと、素直な子って大好き。
 
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