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【ex2-7】ヒウェル釣られる2

2008/05/12 0:45 番外十海
 さすがに市警察は口が堅い。しかし、件の不良警官、フレデリック・パリスの交友関係は実にバラエティに富んでいて。また、その中には彼を蹴落とすためならいくらでも喋ってくれる『お友達』も存在したのである。

 ウワサの尻尾を掴めば、後は裏付けを取りさえすれば良かった。本来の仕事をこなしつつ、カメラを抱えてパリスに張り付き続けること約二ヶ月弱。六月も終わり、直に七月と言う頃にようやく、決定的な一枚を写すとことに成功した。

 それからはもう、夜も昼もなく寝食の暇を惜しんで執筆に没頭し……一週間後に半ばゾンビになりつつ、書き上げたレポートをプリントアウトし、物的証拠と入念な調査結果を揃えてペットの紹介記事と一緒にデスクに提出した。

 読み終わるまで、デスクは一言も喋らなかった。柄にもなくおどおどしながら待っていると、ばさりと紙の束を置いて一言。

「足りないな」
「裏付けが?」
「いや。お前さんの名前だよ。書いた奴の名前書かないでどうするんだ?」
「え? それって……」
「さっさと書け。手書きでいいから」

 震える手で胸ポケットからボールペンを抜き取り、自分の署名を記事の最後に書き加えた。
 初めての署名入りの記事だ……やったぜ、ちくしょう!

 しかしその反面、かすかな疑いがくすぶっていた。消し忘れたおき火のようにちろちろと。
 もしかして、俺は、体よく『姫』に使われたんじゃないかって。



 ※ ※ ※ ※


 新聞の出る前に、報告に伺った。ネタを賜った張本人なんだ、締めくくりを知らせるのが筋と言うもんだろう……ってのは建前で。
 例の疑いを確認しておきたいってのもあったんだ。
 謁見の場は、ブラッドフォード法律事務所……彼のバイト先だ……を指定された。
 その方がいい。この話、断じて自宅でする訳には行かない。何てったって今や、フレデリック・パリスの元相棒だった男が隣に住んでいるのだから。

 事務所を訪れ、さすがに堅くなりながら来訪の旨を告げると、受付嬢と楽しげに話していたやたらフレンドリーで声のでかいラテン系の男が中へと案内してくれた。

「Hey,レオン! 君のお友達を連れてきたよ」
「ありがとう、デイビット。申し訳ないけれど少し外してもらえるかな。デリケートな話なんだ……彼は新聞記者なんだよ」
「おお、そうだったのか。クロニクル? イクザミナー?」
「一応、Eのつく方で……あ、これ名刺です」
「ほう、確かに! じゃあ私からも」

 入れ違いに彼から渡された名刺には、デイビット・A・ジーノと書かれていた。

「それじゃ、ごゆっくり!」

 Mr.ジーノが出て行くと、急に応接室の中はシーンと静かになった。

「座って。長くなるんだろう?」
「ええ、まあ……ね。煙草いいっすか?」
「かまわないよ」

 革張りのソファに腰を降ろし、一本取り出して口にくわえる。愛用の赤い模様の入った銀色のオイルライターで火を着けて一服吸い込み、肺にためてから吐き出す。
 ミントの香りが鼻腔から喉、胸、腹へと走り抜ける。
 よし、だいぶすっきりしたぞ。

「例の警官の記事ね。明日の朝刊に出ます。一応、ご報告しとこうと思って」
「思ったよりはやかったね」
「最近、めぼしい事件もありませんでしたからね。何か、インパクトのある目玉が欲しかったんでしょう」

 くいっと眼鏡の位置を整えて、レオンと目線を合わせた。
 ほほ笑んでる。
 やわらかな和毛にくるまれた小鳥みたいな顔で。(だまされないぞ、あんたの中身はそんな可愛げのあるもんじゃない)
 
「……あなたの言う通り、事情聴取にかこつけて女性にセクハラしてました。年齢も職業もバラバラだけど、共通項が一つあった」
「ほう?」
「被害者が全員、見事な赤毛だったんですよね」
「そうらしいね」
「男も何人かいた。両方、イケるくちだったみたいですね」
「何度もやっているだろうとは思ったんだが、そこまで広範囲だとは思わなかったな」
「……本当に?」
「よく居るだろう? セクハラとコミュニケーションを混同しているタイプ。それとは少し違うなと思ったからね」
「ええ。赤毛に異様な執着を持ってる奴だった。証拠と称して被害者の髪の毛を一房ずつコレクションしてやがった……」
「彼の別れた奥さんも赤毛だったそうじゃないか」

 やっぱり知ってたんだな。だが、それだけじゃないだろ。俺は知ってる。あなたも知ってるはずだ、レオン。
 クリスタルガラスの灰皿に煙草をねじ込み、じわりと駒を進めた。

「俺たちの『共通の友人』と同様にね。これって、単なる偶然でしょうか?」
「……不満そうだね。じゃあ種明かしをしようか」
「ええ、ぜひ」
「その男、俺がディフの家にいる時に尋ねてきたことがあってね」
「引っ越す前? 後?」
「前、だ」
「……」
「そのあとも彼の家の周辺で何度か見かけた」
「つきまとってた……いや、狙ってた?」
「署内で顔をあわせることもあったんだが、やけにからんでくるしね。少し聞いてみたら、他の赤毛の女性にも同じようなことをしていたらしい」
「あいつ、そっち方面に対する警戒心まっっったくないからなぁ……」
「その分こちらが心配してあげればいいだけさ」
「……怖い人だ……」
「あれだけあからさまに敵意を向けられたら嫌でも気づくよ」
「そりゃあディフがあなたに向ける目は…別格ですから。嫌でも気づきます…………………本人以外は」

 うっすらとレオンが微笑う。さっきみたいな作り笑いじゃない。
 本気の……しかし、ひとかけらの温かさもない、月よりもなお冷たい笑みだった。
 ひと目見た途端、体の中心から生きて行くための根本的な熱みたいなものが、すうっと奪われるのを感じた。

 その時、思ったのだ。
 二度とこの男には逆らうまい、と。

「明日の朝刊、楽しみにしてるよ、ヒウェル」


 ※ ※ ※ ※


 俺の書いた記事は翌日の朝刊を飾り、ほどなくフレデリック・パリスは逮捕、警察を懲戒免職された。
 親父とお袋からは電話がかかってきて、『この新聞は額縁に入れて飾る!』とまで言われた。
 ちょっとは恩返し、できたのかな。

 ただ唯一この事件で悔やむことがあるとすれば、奴がルースの父親だったってことだ。
 
 続けて追いかけたかったのだが、第二報から先は俺はこの件の担当を外されて、然るべきベテランの記者がとって代わった。
 どうやら体のいいトカゲの尻尾にされていたらしい。
 事が事だけに万が一『外れ』を引いた場合、斬り捨てても惜しくない新米に署名を入れさせたって訳だ。記事に署名を入れるってのは、つまりそう言うことなのだ。

 ……なるほどね。よーくわかった。
 そう言うことならこの先、自ら進んでヤバい事件に首をつっこんでやろうじゃないの。
 斬り捨て上等、どんどん露払いを買って出て、署名入りの記事を書きまくってやる。
 その調子で二年、いや一年も実績を積めば、フリーになっても食って行ける程度にハクも着くだろうよ。

 せいぜい俺を利用するがいい。俺もあんたらを利用する。



次へ→【ex2-8】7月の雨
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【ex2-8】7月の雨

2008/05/12 0:48 番外十海
「……センパイ?」
「ああ……エリックか」
「コーヒー、冷めちゃってますよ」
「そーだな」

 別にコーヒーが飲みたかった訳じゃない。ただ一人になりたかったんだ。今、詰め所にいると嫌でもフレディの話が耳に入っちまう。

「……雨、降ってますね」
「ああ、予報通りだな」

 そのまま二人でぼんやりと、休憩室の窓から外を眺めていた。
 雨粒があとからあとからぶつかって、滴り落ちて。霞んで歪んだ風景の中に、ちらりと見覚えのある人影が見えた。

「……あれはっ」
「センパイ?」

 紙コップを放り出して外に飛び出した。
 降りしきる雨の中にぽつんと、やせっぽちの女の子が立っている。白い服を着て、傘もささずに。ブロンズ色の髪の毛がぐっしょり濡れて顔の回りにへばりついている。

「ルース」

 小さな体が腕の中に飛び込んで来る。
 黙って受けとめ、自分の体で包み込んだ。降りしきる雨から少しでもこの子を守りたくて。

「や……わたし……他所になんか……行きたくない」
「ルース。ママが心配するぞ?」
「知らない、ママなんか!」

 水色の瞳がすがりつくように見上げてくる。ここに居たいと訴えている……。
 だけど。
 ふっと雨が途切れる。背後から誰かが傘をさしかけていた。

「センパイ」
「……エリック。迷子を保護した。名前は………ルーシー・ハミルトン・パリス」

 びくっと細い肩が震える。耳慣れぬ母親の姓に反応したのだろう。

「マックス……いや、お願い」

 かすれた声で言いながら首を横に振る。喉元にせり上がる苦い塊を飲み下し、言葉を続けるしかなかった。

「母親が探してるはずだ。知らせてくれ」
「了解」

 片手で傘を持ったまま、エリックは携帯を取り出し、電話をかけた。
 ルースが顔をくしゃくしゃに歪めて、つっぷしてくる。俺の胸に体を埋める様にして。

(ごめんな、ルース)

 黙って背中を撫でる。
 今の俺には、君を受けとめることはできない。
 だから、せめてずっと君を抱きしめていよう。迎えが来る、その瞬間まで。

「センパイ。すぐに母親が迎えに来るそうです」
「…………そうか」

 鉛色の空から、あとからあとから透明な糸が降りて来る。
 ちくしょう。
 7月だってのに、なんて冷たい雨なんだろうな………。


(ファーストミッション/了)

後日談→アフターミッション
次へ→【ex3】有能執事奮闘す

【ex2-0】登場人物紹介

2008/05/12 1:07 番外十海
【ヒウェル・メイリール】
 新米の新聞記者。21歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。
 この頃はまだ堅気。
 口先と舌先、指先を駆使して世を渡る、小悪党と言う言葉がぴったりのこずるい男……の萌芽はすでにちらほら。

【レオンハルト・ローゼンベルク】
 通称レオン
 カリフォルニア大学サンフランシスコ校のロウスクールに通う傍ら、法律事務所でバイト中。
 ヒウェルとは高校時代からの友人。22歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフとは一生親友でいようと心に決めていた。

【ディフォレスト・マクラウド】
 通称ディフ、もしくはマックス。
 サンフランシスコ市警察の警察官。21歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 がっちりした骨格に適度な筋肉のついた頑丈そうな体格。(実際、丈夫)
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢。
 ヒウェルは高校の同級生で、レオンとは学生時代からの無二の親友。

【フレデリック・パリス】
 通称フレディ。
 サンフランシスコ市警察の警察官でディフの相棒。34歳。
 妻と離婚して娘のルースと二人暮らし。

【ルーシー・パリス】
 通称ルース。ルーシーと言う名前は「COOLじゃないから好きじゃない」らしい。
 フレディの娘、14歳。
 ディフになついている。

【アレックス】
 フルネームはアレックス・J・オーウェン。
 レオンの執事。
 有能。万能。瞳の色は水色。

【デイビット】
 熱いハートをたぎらせた陽気で女性に優しいラテン系弁護士。
 レオンのロウスクールの先輩で同じ法律事務所に勤めている。

【エリック】
 シスコ市警の鑑識課のラボ研究員。
 ディフの後輩、18歳。大学を飛び級しまくったバイキングの末裔。
 ライトブロンド、瞳は青緑色、身長186cm。
 金属フレームの眼鏡着用。


次へ→【ex2-1】ルースと呼ばれた子

【ex3】有能執事奮闘す

2008/05/19 2:28 番外十海
12000ヒット御礼企画。
主演は有能執事アレックス。
時期的には【3-2】チンジャオロースーの頃のお話です。

 私の名はアレックス・J・オーウェン。
 父祖の地ヨーロッパに居る頃より代々、ローゼンベルク家に付き従ってきた一族の末裔である。
 現在はローゼンベルク家のご嫡男にして唯一の直系跡継ぎ、レオンハルトさまのもとで秘書として働いている。
 レオンさまが法律事務所を設立し、本家には戻らないと決心なさった段階で執事としての職は辞したものの、心の中では今も変わらぬ気持ちでお仕えしている。

 十月の終わりにレオンさまが身よりのない子どもを二人引き取り、私めがお世話を言いつかった。
 しばらくの間はマクラウドさまとともに衣食住のお世話をしてきたのだが……食事はほとんどマクラウドさまの担当だった。
 あの方の作る料理のほうがレオンさまは喜ばれるのだ。昔から。

 ところが十一月に入り、マクラウドさまが入院してしまわれた。
 全治四週間。何でも倒壊した倉庫の下敷きになったとの事だが、その割に入院期間が短いように思えるのは気のせいだろうか……。
 何ぶん丈夫な方だから、そう言うこともあるのだろう。
 ともあれ、オティアさまとシエンさま、二人のお子の世話は今や私一人の肩にかかっている。

 心をこめて、お食事を用意せねば。
 そう、かつてレオンさまのお世話をした時のように!


 ※ ※ ※ ※


 しかしながら、結果は芳しくなかった。
 お二人の健やかな成長のため、選びぬかれた素材を使い、持てる技術の全てを尽くして作った料理は、どうにも……その……あまり、好評ではない。
 ウサギ肉のマスタードソース、フォアグラのソテー、ほたて貝柱とかぶのクリームソース、子羊の香草焼き、鴨のオレンジソース煮、オマール海老のスープ、チキンのオーブン焼きハチミツ風味……etc

 いずれもレオンさまは普通に召し上がってくださったものばかり。あまり、美味しそうではなかったが、それでもとにかく残さず食べてくださった。
 子ども向けに少し甘めの味付けを心がけているのだが、オティアさまはいつも無反応だし、シエンさまは喜んでくださるが、やはり……微妙だ。
 もっとカジュアルなものをお出ししたほうがよいのだろうか?

 思い悩みつつ法律事務所での業務を勤めていると、デイビットさまが声をかけてきた。

「やあ、アレックス。調子はどうだい?」
「……おかげさまで」
「そうか! 君の仕事ぶりはいつもパーフェクトだからな!」
「おそれいります」
「時に君、今、レオンのとこの双子の世話をしてるそうじゃないか」
「はい」
「赤毛さんは入院中だし、何かと苦労するだろう! 良かったらこれを使ってくれたまえ」
 
 何やら平べったい紙袋を渡された。たたんだ布のような手触りだ。

「これは……?」
「エプロンだよ。男の一人暮らしではなかなかこう言うものは買わないだろうからね! 大丈夫、サイズはぴったりのはずだ」
「それはそれは……ありがとうございます」

 きちっと胸に手を当てて一礼し、感謝の意を表した。


 ※ ※ ※ ※

 
 いつものようにWHOLE FOODS(オーガニック食材専門のスーパー)で買い物を済ませてマンションに戻る。
 キッチンに入り、買って来た食材の詰まった袋をカウンターに乗せた。
 デイビットさまにいただいた袋を開けると、中から白い布がさらりとこぼれ出た。

 あのお方にしては地味な選択だ。
 広げてみる。

「これは……」

 裾と肩ひもに、幅広のフリルがたっぷりとあしらわれている。これは、執事と言うよりむしろメイドにふさわしい服装ではないか?
 奥方のイザベラさまのご趣味だろうか。
 しかし、せっかく頂いたものだからありがたく使わせていただくことにする。
 確かにサイズはピッタリだった。

「あ、アレックス、お帰り」
「これはシエンさま、オティアさま」

 お二人がこちらを見ておられた。そろって目を丸くして、何やら困惑しておいでのようだ。

「すぐに夕食の仕度にとりかかりますので今しばらくお待ちください……どうかなされましたか?」
「……」
「あ……うん、それ……」

 どうやら困惑の原因はこのエプロンらしい。

「デイビットさまからいただきまして」
「そ、そう」

 あいまいな笑みを浮かべるシエンさまの隣で、オティアさまがぼそりと呟く。

「……悪趣味」
「……ユニークなお方ですから」


 ※ ※ ※ ※



 お二人が部屋に戻られてから、昨日書店で購入してきた本を広げる。アメリカの家庭料理のレシピブックを参考にカジュアルな料理に挑戦することにしたのである。

 しかし……読み返すたびに軽い目眩を覚える。

 適量?
 だいたい?
 およそ?
 何なのだこのあいまいなレシピは!

alex2.JPG ※月梨さん画「苦悩の有能執事」

 いや、悩んでばかりいては始まらない。とにかく作ってみようではないか。
 本日の献立はマカロニ&チーズと温野菜のサラダ、オニオンスープ。

 オーブンを余熱してからマカロニを茹でて。
 みじん切りにしたタマネギとチェダーチーズ、スライスチーズとトマトスープを茹でたてのマカロニと混ぜろとあるが、ここで一つ問題がある。

『缶詰のトマトスープを1カップ半』

 缶詰のトマトスープ。
 そう、既にでき上がっていて缶を開けて温めるだけの、缶詰のトマトスープだ!
 しかも銘柄まで指定してある……とまどいながらも買ってきたが、果たして本当にこれを使ってもよいのだろうか?

 思案の末、不本意ながらレシピに従うことにする。
 塩、コショウを加えて味を見てみるが、やはり……不満が残る。次に作る時は自前でスープを用意しよう。
 バターを塗った焼き皿に入れて、その上からバターと砕いたクラッカー……またこのようなものを!……を散らし、オーブンに入れる。

 焼き時間は30分、『クラッカーがキツネ色になるまで』。
 なるほど、このために必要だったらしい。

 オニオンスープのレシピはさらに簡素かつあいまいなものだった。

 タマネギ、適量。
 一口大にスライス。
 塩胡椒少々(まただ!)
 乾燥パセリ少々(これは許容範囲ではあるが)

 そして……『固形スープを1個か2個』

 このようなものなど使うのは……いや、しかしレシピに書いてあるのだ。初めての料理を作る際にはレシピに忠実に従うべきだろう。アレンジを加えるのは、その後だ。

 さらに温野菜のサラダにおいて家庭料理の混沌は頂点に達した。

『適度な大きさに切った野菜を茹でる』

 ………………………………………………………………おお、神よ。
 思わず額に手を当て、目を閉じる。

 世のご婦人たちはいったい、どのようにこのレシピを参考にして料理を作っておられるのだろう。
 今度、マクラウドさまにお聞きしてみよう。


 ※ ※ ※ ※


 悩みつつ作ったその日の夕食は、とても喜んでいただけた。
 オティアさまは明らかに今までより早いペースで黙々と口に運び、シエンさまはぱあっと顔を輝かせて……ほほ笑まれた。

「これ美味しい………アレックスってすごいね!」
「おそれいります」

 これで、よいのだろう。
 いささか不本意ではあるが、お二人が喜んで食べてくださることが一番なのだから。



 ※ ※ ※ ※



 そんな調子でカジュアルな家庭料理をお作りして一週間ほど経つうちに、料理をしている間、シエンさまがキッチンに顔を出すようになった。
 どうやら、興味がおありらしい。

「ご自分でもやってみますか?」
「……うん。やる」

 試しにサラダ用の野菜の下ごしらえをお任せしてみた。
 怪我などなさらぬよう、慎重に見守っていると思ったより器用に包丁をお使いになる。

「以前、料理の作り方を教わったことがおありですか?」
「うん。中華だけど」
「さようでございますか。それでは、明日はメインの料理をお任せしてもよろしいでしょうか」
「………なんでもいい?」
「ええ、何なりと、お好きなものを。必要なものをお教えいただければ私が用意いたします」

「えーっと……それじゃあね」

 リクエストされたのは、タマネギ、たけのこの水煮の缶詰、タマネギ、ピーマン、シシトウ、ニンジン、鷹の爪、豚肉など。
 たけのこの缶詰は中華街まで足を運んで調達した。

「何をお作りになるのですか?」
「酢豚!」

 火傷しないように見守っていると、なかなかに本格的な作り方ではないか。しかも慣れていらっしゃる。
 ざっと豚肉を揚げる手つきなど、実にあざやかだが……中華鍋を片手であおるのだけは苦戦しておられたのでお手伝いした。
 無理もない。
 この家の台所の調理器具はマクラウドさまが持ち込んだものがほとんどで、シエンさまには重すぎるのだ。

「できた。アレックス、味見してくれる?」

 できあがった酢豚は、ぴりっと辛味が効いていてたいへん美味な仕上がりだった。
 以前、中華料理店で食べたことのあるものはもっと甘辛かったような気がしないでもないが。
 これはこれで、美味。

「たいへん美味しゅうございます」
「よかった……」

 ああ、とてもいいお顔をしていらっしゃる。やはりこの方は料理がお好きなのだ。
 翌日はチンジャオロースーをお作りになられたが、昨日同様に鍋をあおるのは難しそうだったのでお手伝いした。
 もう少し軽い器具をそろえて、楽に調理できるようにしてさしあげた方がよいのではないか。

 そんな事を考えていた矢先、夕食の席に顔を出したメイリールさまが紙に包んだなにやら丸いものを、とん、っと食卓に乗せた。

「シエン」
「何?」
「これ、使え」
「えっ」
「重たいだろ、ここの鍋」
「………うん」
「あと、これな、キッチンタイマー。パスタ茹でるのに。ここをキリっと回して時間に合わせるんだ」
「……………ありがと」

 小振りの片手用鍋と、小さな黄色いヒマワリの形のキッチンタイマーを手にして、シエンさまはそれは喜んでいらっしゃる。

 これは中々に新鮮な体験だ。レオンさまは料理にはまったく関心を示さなかったし、する必要もなかったのだから。

 それにしても珍しいことがあるものだ。
 メイリールさまが台所のことに気を使うとは……。

 いや、それ以前に。
 あのお方、ピーマンは苦手だったはずではないか?
 いつ趣旨替えなさったのだろう。


 ※ ※ ※ ※


 夕食後、片付けの終わったダイニングテーブルの天板に軽く触れる。
 北欧から取り寄せた、ウォールナットの無垢材で作った一点もののオーダーメイド。

「こんなでっかい食卓で……一人で飯食うのか?」

 思ってもいなかった。よもやこの食卓に子どもの加わる日が来ようとは………。
 オティアさまとシエンさま、お二人がこの家に来てからの日々は実に新鮮で。驚きと、喜びと、新たな経験をもたらしてくれる。

 それに今はもう、レオンさまは一人ではない。


(有能執事奮闘す/了)


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【side4】犬のお医者さん

2008/06/04 20:08 番外十海
拍手用お礼短編の再録。
【3-10】赤いグリフォン【後編】【3-11】ジャパニーズ・スタイルの前後のお話。
本編ではご無沙汰のエリック、こんな事してました。

 犬は好きだ。
 猫も好き。実家で飼ってるしね。

 しかし、さすがにリードをつけてるとは言え、シェパード犬二頭つれてサンフランシスコ市内を歩くって言うのは……
 ちょっと目立つな。
 道行く人がみんな振り返ってる。

 一頭は茶色い顔に黒い背中のスムース(と、言ってもこの犬種特有の毛の分厚さはあるけれど)
 もう一頭は黒のロングコート。
 毛並みはちがうけれど骨格はそっくりだ。さすがに同じ遺伝子使ってるだけあるな。

「あー、わんわんー」
「わんわんだねー。かわいいねー」

 学校帰りの親子連れが手をふり、声をかけてくる。
 デューイはむすっとした顔をして黙っているけれど、ヒューイはそっちを向いてぱったぱったとぶっとい尻尾を振って答えた。
 そうすると、子どもはますます喜んで、ぶんぶん手をふる。

 可愛いなあ。
 ほほ笑みかえし、親御さんと軽く挨拶を交わした。

「お散歩ですか?」
「ええ、まあ」
「たいへんですね」
「ありがとうございます」

 別に散歩してる訳じゃない。同僚の付き添いで病院に向かっている所なんだ。
 茶色い方のデューイは爆弾探知犬。黒い方のヒューイは警察犬。
 K9課でもない、爆発物処理班でもない、鑑識のオレがこいつらのリードを握っているのにはちょっとした理由がある。


 ※ ※ ※ ※


 Q:同僚が困っています。助けますか?
 Yes/No

「頼む、エリック。娘を学校に迎えに行かなきゃならないんだ!」
「彼女とのデートに遅れそうなんだ!」

「こいつらの面倒見てくれ!」

 この場合、Noと答える選択肢はない。こっちは独身だし、恋人もいないし。

「いいっすよ………」
「ありがとう! じゃ、これ診察カードな、ヒューイの分」
「こっちはデューイの分だ。場所はここ!」

 きちんと動物病院までの道順に赤いラインを引いた地図まで用意してあった。あれ、随分手際がいいなあ、なんて思った時は二頭のリードがしっかりオレの手の中に押しつけられていて……。

「それじゃ、行こうか」
「わうっ」
「うふっ」

 そんなわけで、ヒューイとデューイを予防注射に連れてくことになっちゃったんだ。
 しっかり領収書をもらうように念を押されて。


 ※ ※ ※ ※


「はーいヒューイもデューイもいい子だからねー。優しい先生が待ってるよー」

 受け付けをすませて診察室に入る。
 診察室の入り口で二頭はちょっとの間立ち止まったけれど、すぐに尻尾を振ってとことこと中に入ってくれた。
 白衣を着て眼鏡をかけた東洋系の先生が待っていた。
 背は低め、骨格も華奢で穏やかな顔立ち。黒髪のベリーショート、くりっとした濃いめの茶色の瞳が可愛らしい。
 ヒューイとデューイの頭を撫でて話しかけた。

「ラッキーだねー、女医さんだ、ほら!」
「え」
「……違うんですか?」
「よく間違えられます……」
「あ……そりゃ……申し訳ないことを……」

 首をかしげて足元を見下ろす。ヒューイもデューイもきちんと後足をたたんで座り、先生を見上げて尻尾を振っている。
 ぶっとい尻尾がぱたぱたと床を叩いている。二頭ともえらくご機嫌だ……デューイはほとんど顔に出ないけど。

「こいつら女医さんだとすごいご機嫌なもんだから、つい」
「へっへっへっっへっへっへっへ」
「わふ」

 女医さんじゃないとすると……。

「えーっと、もしかしてお手伝いの助手さん、ですか? 先生は?」
「確かに手伝いで来てますけど」

 微妙な表情で口ごもってる。あれ、オレ、またやっちゃったのかな。

「もしかして……ドクター?」

『先生』は前回分のカルテを確認し、注射を2本用意すると診察台の高さを調節した。とても手際がいい。

「一匹づつ乗せてくださいね」
「わかりました……ヒューイ、アップ!」
「わう」

 黒い体がバネのようにしなり、軽々と台に飛び乗る。

「ダウン(伏せて)」

 ぺたん、と伏せた所で先生は首筋の皮をちょっとつまんで消毒すると、ぷちっと注射を打った。


「はい、おしまい」
「う?」
「え、もう? 早いなー! すごいや、先生」

 押さえる前にもう終わっちゃってたよ。普通こう言うのって飼い主が保定するんだよね? 噛まないように、主に頭をがっちりと。
 実家の猫の時なんかすごかった……たとえるなら、そう、修羅場。
 歯ぁ剥いて暴れて、姉とオレと父とで三人掛かりで押さえ込まなくちゃいけなかった。先生も助手さんもとてもじゃないが触れたもんじゃなかったんだ。
 いいなあ、犬は、楽で。

「ヒューイ、降りて……よし、いい子。次、デューイ!」

 ……耳を伏せて明後日の方を見てる。こいつ、わかっててしらばっくれてるな?

 先生は慌てずにっこりして呼びかけた。

「おいで、デューイ」

 ちらっとデューイは肩越しに振り返り、首をかしげて見ている。先生はにこにことほほ笑んで、とん、と診察台の上を軽く叩いた。
 その瞬間。
 デューイがぴょん、と診察台の上に飛び乗り、何も言われないうちに自分から伏せの体勢をとっちゃったじゃないか!

「すごい! どんな魔法使ったんですか?」
「いいえ、全然?」

 言ってる間に、また首筋の皮をちょっとつまんで消毒して、ぷちっと打って……。
 デューイがのそっと床に降りた。自主的に。

「え……もう終わったんですか?」
「はい」
「すごいなー。オレ、正規のハンドラーじゃないからどうしてもこいつに舐められちゃって」
「でも頭のいい子達ですよね。訓練されてる」
「ヒューイは警察犬、デューイは爆弾探知犬なんです。サンフランシスコ市警の」
「ああ、それで……じゃあ警察の方なんですね」
「はい。鑑識課です」

 先生はちょこんと首をかしげてる。
 そうだよな。全然関係ない部署の人間が、何で? って思ってるんだろう。

「ハンドラーが二人とも都合悪くて‥…こいつら、オレになついてるから」
「でもちゃんと病院に来られるんだから、立派ですよ。飼い主以外じゃ絶対にだめって犬も多いですからね」
「こいつら公務員ですから!」
「わう」
「うふ」

 ごほうびのクッキーをもらって、ヒューイもデューイも帰りはご機嫌だった。
 受け付けで支払いを済ませ、領収書をもらって署に戻った。


 ※ ※ ※ ※


 それから何日かして。
 たまには人間らしい物を食べようと、スーパーのデリカテッセンでおかずを物色してたら声をかけられた。

「こんにちは、エリックさん」
「………え?」

 きょろきょろと周りを見回してから、ずいっと視線を下に下げると………黒髪の眼鏡をかけた男の子がいた。茶色い横縞のセーターを着ている。東洋系かな?
 
「えーっと……君、だれ?」
「ほら、この間、犬の予防注射で。ヒューイとデューイ連れてきた方ですよね?」
「あ……ああ、あの時の、先生!」

 びっくりしたなあ。まるっきり中学生にしか見えなかったよ。

「お買い物ですか?」
「え、ええ、まあ、飯の買い出しに。先生も?」
「はい………でも、あんまり気に入ったのがなくて。やっぱ日本から取り寄せないとダメかな」

 何やら本格的な買い出しらしい。


「日本から?」
「ええ、日本食の材料、探してるんですよ」
「ああ、それだったらジャパンタウンにも日系のスーパー、けっこうありますよ」
「ありがとう、後でそっちにも行ってみます」
「あ……そう言えば先生、さっきオレの名前」
「はい。俺、時々マクラウドさんのお手伝いしてた事があるんですよ、ペット探しの」
「マクラウド……ああ、センパイの! それでか」
「ヒューイとデューイの話したら、すぐわかったみたいで」
「そっかあ……」

 あいつらセンパイに懐いてたからなあ。
 とくにデューイ。少しばかり癖のある犬だけど、無事に任務を果たした後はよくセンパイととっくみあってじゃれ合っていた。
 毛だらけになって、ぶっとい首、抱えてごろごろころげまわって……
 どっちが犬? って感じだったっけ。

「そう言えば俺の名前まだ言ってませんでしたね。サクヤ・ユウキっていいます」
「サキュヤ? サ、キュ……あれ?」
「やっぱり言いづらいかな。こっちではサリーって呼ばれてます」
「そうですね、ちょっと難しい。オレはハンス・エリック・スヴェンソンって言います」
「ハンス?」
「配属されたとき、同じ部署に既にハンスって人がいて。ハンス2号か、ミドルネームのエリックかどっちか選べって言われて」
「ハンス2号って………もしかしてそれ、マクラウドさんが?」
「ええ」
「あの人、変わった呼び名つけるの得意なんだなあ………」

 どうやら『サリー』はセンパイの命名らしい。
 そのまましばらく立ち話をしてから、『じゃあ、また』と手を振って別れた。

 それにしても彼、いつ、どこでオレのことセンパイに話したんだろう?

(……しばらく会ってないなあ)

 会えば切ない。わかっちゃいるけど、会えないとやっぱり寂しい。
 何だか無性にデューイをハグしたい気分になった。


(犬のお医者さん/了)

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【side5】ハートブレイク・ランチ

2008/06/28 4:11 番外十海

 もらってあまり嬉しくないもの。

 期待外れの検査結果。
 帰宅直前の出動要請。
 裁判所からの出頭命令書。
 
 そして………片想いの相手からの弁当の差し入れ。
 しかも、手渡しで。

 ※ ※ ※ ※

 その日、ほんとうに久しぶりにディフォレスト・マクラウドはかつての仕事場を訪れ、後輩のハンス・エリック・スヴェンソンを呼び出した。
 髪の毛はボサボサ、シャツはくしゃくしゃ、白衣を羽織ったままふらりと受け付けに現れたエリックを出迎えたのは、まだ少しやつれてはいるものの以前と変わらぬ快活な笑顔だった。

(良かった……センパイ)

 あの後、捜索の結果、彼の監禁されていた打ち捨てられた安ホテルにたどり着いた。
 現場の捜索を行い、採取した証拠の語る事実と向き合いながら胸を切り裂かれる思いがした。
 病院で目にした、あまりに凄まじい光景と相まって。

「よう、エリック! 久しぶり」
「センパイ」

 答えたきり、言葉が出ない。
 ここがもし、警察署の受け付けでなかったら。二人きりだったなら、迷わず抱きしめていただろうに。

 おそらく彼は笑って抱き返してくれるだろう。だが、それはあくまで友情のハグだ。天地がひっくり返ったとて、恋人同士の甘い抱擁にはなり得ない。
 何て事考えていたら当のご本人が手を伸ばしてばしばしと背中叩いてたりするわけで。
 骨組みのがっしりした手で、ほんの少しだけ遠慮して。それでもぐらりとよろけた。

「どうしたエリック。目が泳いでるぞ?」

 首をかしげてのぞきこんでくる。透き通ったヘーゼルの瞳をいつまでも見つめていたい所だが……結局、目をそらしてしまった。
 顔に早くも気の早い血液が集まりつつある。

(たのむ、ここでうかつに頬なんか染める訳には行かないんだ。落ち着け、落ち着け!)

「いやあ……ちょっと最近、まともな飯食ってなくって」
「相変わらずだなあ。ワーカーホリックも大概にしろよ?」
「……はい。すんません」
「せめてキャンベルを見習え。奴は毎日、スープだけは食ってるじゃないか」
「は、はは、そうですね………」
 
 ずれた眼鏡の位置を直しながら苦笑いを浮かべていると、ディフが肩にかけた大振りのトートバッグから何やら四角い包みを取り出した。
 紙製のランチボックスだ。大きさからして大人向け、一食分。

「何ですか、それ」
「差し入れだ。弁当」

 ぬっと目の前にさし出される。パン。ベーコン。肉と穀類をつつみこんだ油のやわらかな香り。ふわっと温かな食べ物の気配の溶け込んだ空気が漂って来る。

「飯でもおごる、ってのがだいぶたまってるからな」
「……………ありがとうございます」
「ついでだよ。自分たちの分も作ったし」

 手を伸ばして弁当を受けとった。その時、気づいたのだ。
 相手の左手の薬指に光る、銀色の指輪に。シンプルな形状で適度な幅と質感があり、がっちりした彼の手にすっぽりといい具合に収まっている。
 まるでずっと前からそこにあったのだとでも言わんばかりに……だが、ごまかされるものか。
 真新しい銀色の輝きの中央に、ぽつっと青いライオンがいた。騎士の盾のエンブレムさながらに後足で立って。

 ああ。
 そうか。
 そう言うことだったのか。

 彼の笑顔を支えるものがわかった。
 わかってしまった。

「…………………………………………………………………………おめでとうございます」

 最大限の努力を振り絞り、控えめな笑みと、祝福の言葉を引っぱり出した。

「ありがとう」

 ほんのりと頬が染まった。はにかんだ笑顔の上に、桃のシャーベットみたいに淡い薔薇色が広がって行く。
 頭のすみっこでエルビスが歌い始めた。
 あまりにも有名な、あのホテルの歌を。

 こうしてハンス・エリック・スヴェンソンの恋は完膚なきまでに終わった。
 好きだと告げることすらできぬまま。

 その後は最大限の努力を維持しつつ、つとめて平静を装い続け、相手が玄関ロビーを出て行くまで笑顔を保って見送った。

 ※ ※ ※ ※

 革のジャケットを羽織ったがっしりした背中が遠ざかるのを見届けてから、エリックは盛大なため息をついた。
 ふと足元にもわっとした熱気を感じる。見ると、顔と足が茶色で背中の黒いスムースのシェパードがきちっと後足を折り畳んで座っていた。

「……やあ、デューイ」

 手を伸ばし、頭をなでる。指の間で大きな耳がぱたぱた動く。分厚くて、みっしりと柔らかな毛皮に覆われていて……まるでベルベットだ。

「ちょっと温もり分けてもらえる?」

 デューイは耳を伏せて廊下の奥を見た。折しも彼のハンドラー、ギルバート・ワルターが足早に歩いてくる所だった。

「すまん、待たせたな、デューイ……やあ、エリック」
「ども。出動ですか?」
「ああ」
「行ってらっしゃい」

 ハンドラーにリードをとられてのそのそ歩いて行く友人の背を見送る。

 あーあ。
 今日は犬にもふられちゃったな。

「グッドラック、デューイ」

 ランチボックスを抱えてすごすごとオフィスに戻った。
 
 ※ ※ ※ ※

 こんな時に限って、時間がぽっかり空いてしまった。タイミングが悪い。せめて目の回るほど忙しければ、少しは気が紛れるのに。
 ぼんやりと頬杖をついて机の上の弁当を眺める。

『わかったんなら、さっさと仕事しろ!』

 拉致、監禁、及び複数の相手による継続的な暴行。
 薬物も使用されていた。そして背中には……………………。

 あんな酷い目に遭わされた直後だと言うのに、彼は猛然と吼えた。心も体もぼろぼろに引き裂かれながら、自らの怒りと言うよりもむしろ、大切な人を守る為に。

(わかっていたんだ。全て、あの人のためだって)

 明るい褐色の瞳に髪の切れ者弁護士。署内であいつだけは相手にしたくないと恐れられる男。

(オレは、あの人には敵わない………………悔しいけど。すっぱりあきらめるしかないんだ)

 眼鏡を外し、ぎゅっと閉じた目をまぶたの上から押さえる。
 にじんだ涙が拡散し、疲れ目による充血に見える程度に広がり、まぎれてくれるまで、ずっと。
 
 ※ ※ ※ ※
 
 あの赤い髪に指をからめてかきあげるのを何度夢想しただろう。
 首筋にキスをして。くすぐったそうに肩をすくめる姿を何度も夢に見た。ベッドを共にしたいと考えなかったと言えば嘘になる。
 だが、今にして思えば自分は……。
 
 ディフォレスト・マクラウドの隣に居て。彼と笑って、毎日話すことができれば充分だったのだ。
 
 そもそも彼はそれまで自分の付き合ってきた相手とはあまりにもかけ離れたタイプだった。
 がっちりして程よく筋肉質、ハンサムではあるがどちらかと言えば強面。声は張りのあるバリトン、時々地獄の番犬。
 
 初めて会ったのはまだCSIのラボの新入りだった頃。容疑者を連行してきた、目つきの鋭い赤毛の制服警官に凄まれた。

『そら、お望みの容疑者を捕ってきたぞ。責任持って落とせ!』

 くわっと歯を剥き出して、何ておっかない人なんだろうと正直ビビった。
 しかしその後、自分の分析した証拠によって有罪が立証されたことを知ると、廊下ですれ違った時にばんっと背中を叩かれた。

『ありがとな、新入り。お前のおかげだ!』
『どう……いたしまして』
『で。名前、何て言うんだ』

 フルネームを名乗ると彼は首をかしげ、拳を軽く握って口元に当てた。

『ハンス・エリック・スヴェンソン? 長い上に舌噛みそうだな。北欧系か?』
『デンマークです』
『なるほど。俺はディフォレスト・マクラウド。スコティッシュだ。先祖は敵同士だったんだな』

 物騒なことをさらりと言いつつ、にまっと人懐っこい笑みを浮かべる彼に何故だか目が引き寄せられた。

『マックスって呼ばれてる。それで、お前は………ハンス2号か、エリックどっちがいい?』

 当時、鑑識には既に『ハンス』がいたのである。こちらも北欧系の、舌噛みそうなフルネームの男が。

『じゃあ、エリックで』
『OK、エリック。お礼に飯でもおごるよ』

 社交辞令かと思ったら数日後、本当に飯をおごってくれた。
 ただし、それは署の向かいの安食堂のランチではなく意外にも手作りの弁当だった。

『美味いですね。これ……彼女が作ってくれたんですか?』
『いや、俺、今フリーだし』
『じゃあ、ご家族が?』
『実家はテキサスだよ』
『もしかして……………自分で作りました?』
『ああ。そうだ?』

 ちょっと拗ねたような顔で見上げられた。俺が料理するのは変か? と言わんばかりの表情で。

(わあ、なんて可愛いんだろう………)

 その瞬間、エリックは恋に落ちた。


 ※ ※ ※ ※


(これっきりだ、D………もう、あなたの恋人になりたいなんて夢見ることはない。二度と)

 ぐいっと拳で目をぬぐい、まぶたを開けて眼鏡をかけ直す。ぼうっと霞んでいた視界が少しずつクリアになって行く。
 弁当箱は依然としてそこにあった。

(どうしよう、これ。失恋した相手からもらった弁当なんて。今さら食べられないし)

 思う心とはうらはらに、食べ物のにおいに反応してグーっと腹の虫が鳴いた。

(そう言えばここ2週間ほどあったかいご飯を食べていなかったなあ)

 やはり少しはキャンベルを見習うべきなのかもしれない。彼はいつも保温ボトルに入れたスープを持参しているのだ。
 たとえ中味が缶詰のスープだとしても。
 そっと手を伸ばし、ランチボックスのふたを開ける。

「……あれ?」

 ロールパンを縦に割った、こぶりのサンドイッチが3つ。後は小さな耐水性のボックスに入ったおかずがぎっしり。
 エビのチリソース煮、春巻き、ミートローフ、茹でたブロッコリーにニンジン、マッシュポテト。
 何故か微妙に作風がミニマムと言うか、センシティブと言うか……変わっているような気がする。

 もっとこう、同じサンドイッチでもでっかいパンの耳を落さず、そのまま具を挟んだやつとか。
 縦割りにしたバケットにざかざか肉と野菜を挟むタイプのとか……そう言う豪快な系統の弁当だったような気がする、昔ごちそうになってたのは。
 添えられたハシをぱきっと割って、ごく自然に赤いソースをたっぷりからめたエビに手を伸ばした。

「あ、このエビチリ美味しい……」

 ぷりっとした歯ごたえ。適度に甘辛く、ソースの絡み具合も絶妙。
 今まで食べたどんな店のよりも美味かった。テイクアウトの中華など比べようもない。いや、比べようとすること自体がまちがいだ。

「センパイいつ中華作るようになったんだろう? でも、なんか味つけが……あの人らしくないなあ」

 調味料の配合、加熱のタイミングと時間、材料の切り方。どれをとっても繊細で、細やかで。東洋系の人間が作った感じに近い。
 首をかしげならミートローフに口をつけると、こちらは記憶通りの味と食感だった。

「二人で作ってる?」

 改めて弁当を観察すると、そこにはまぎれもなく二人分の作成者の痕跡が浮び上がってきた。一人は大きな手で豪快に作り、もう一人は小さな手で丁寧に、丁寧に作っている。

「……じゃあ、もう一人は……誰なんだろう」

 ぽろっと、涙ひとしずく、机に落ちる。
 ごまかしきれなかった失恋の苦い涙の最後の一滴。
 
 まいった。油断したな……。
 眼鏡を外して袖口でぐいっと目元を拭う。誰にも見られないうち。急いで。できるだけ急いで。

 いつか新しい恋をすることもあるんだろう。
 また誰かと出会って、時めいて……。
 だけど今は少しだけ、思い出に浸っていたい気分だ。

 ハシでエビを一匹つまんで口に放り込む。ぷりっと弾けた。

「あ、それにしても美味しいなあ……このエビチリ」


(ハートブレイク・ランチ/了)


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【side6】ラブワイフ・ランチ

2008/06/29 2:02 番外十海
 
 昨日の夜、ヒウェルとディフがこんな会話をしていた。

「なあ。やっぱお前さ、新婚さんのお約束なんかやってたりする訳?」
「お約束?」
「うん。弁当のおかず、ハート形にしたり」
「ば、ばかっ、だ、だれがそんな、こっぱずかしいこと」
「あと、あれだな、エプロンを…………すまん、言い過ぎた」

 ディフは顔を真っ赤にしながらヒウェルをにらみつけていた。
 
 ※ ※ ※ ※

 次の日、朝ごはんを作る手伝いをしに行こうと『本宅』(俺とオティアが隣の部屋に引っ越して以来、なんとなくレオンの部屋をそう呼ぶようになっていた)に行くと。
 肉の焼けるにおいがキッチンに漂っている。
 入って行くと、ディフが半袖の黒いTシャツとジーンズの上からエプロンを着けて、髪の毛を一つにくくっていそいそとオーブンを開けていた。

「あれ……ミートローフ焼いたの? 珍しいね、朝から」
「ああ。弁当のおかずに、な。今日はレオンも中で昼飯食うそうだから」
「じゃあ、四人分?」

 キッチンカウンターの上にはランチボックスが四つ並んでる。
 小さめの青いのはオティアの。同じ大きさのクリーム色のは俺の。
 大きめの二つはレオンとディフのだ。色は青紫と明るいオレンジ。
 そして、紙製のランチボックスがもう一つ。

「あれ? 一つ多いよ?」
「ああ。警察の後輩に差し入れしてやろうと思ってな。ロクなもん食ってないし…………」

 オーブンからミートローフを取り出しながら、ディフは目を伏せた。ちょっとだけ。

「世話んなったからな」
「ん。じゃあ、俺も手伝うね」
「ありがとう」

 何がいいかな。
 時間が経っても美味しいものがいいよね。
 冷蔵庫を確認する。
 作り置きして冷凍しておいた春巻きがあった。それから……エビ。
 よし、エビチリにしよう。ほんとは今日の夕飯に使おうと思ったんだけど、お昼に食べてもいいよね。

 あとはブロッコリーを茹でて。

「主食はどうする? ライス? パン?」
「そうだな……………ロールパンがあるから、これでサンドイッチにするか?」
「うん!」

 最初のうち、ディフの作るサンドイッチは大きくて、どっしりしていて、俺もオティアも食べるのがちょっと大変だった。だからこのごろはロールパンを使ったり、あらかじめ小さく切り分けたりしてくれる。
 レタスをちぎって、キュウリとトマト、茹で卵を薄くスライス。
 おかずにミートローフが入ってるから、サンドイッチの具は野菜を多めに入れて。デザートはちっちゃめのリンゴを一つずつ。
 俺とオティアのは半分ずつ。

 作っていると、レオンが起きて来る気配がした。

「すまん、ちょっと任せていいか?」
「……ん」

 ディフがいそいそとリビングに歩いて行く。いつもより早く、レオンを起こさないようにそっと抜け出したんだろう。きっと改めて『おはよう』の挨拶をしに行くんだ。たぶん……キスも。

 新婚さんだものね。
 昨日のヒウェルの言葉が、ふっと頭に浮かんだ。

『弁当のおかず、ハート形にしたり』

 ちらっと手元のお弁当を見る。
 レオンの分も、いつもと同じ。これじゃ、ちょっとさみしいよね。ちょっと考えてからキッチンナイフに手を伸ばした。


 ※ ※ ※ ※


「あれ、もう詰め終わったのか」
「うん、終わった」
「手早いな。助かったよ。サンキュ、シエン」
「ん」

 笑顔で答えながら、手早くキッチンナイフを洗って片付けた。


 ※ ※ ※ ※


 その日、ジーノ&ローゼンベルク法律事務所のオフィスでは、三人の弁護士のうち二人がオフィスで昼食をとっていた。
 本来、三人とも外で食べることの方が多いのだが、この日は珍しくレオンとデイビットは事務所にいる時間が長かったのだ。

 それぞれ持参したランチボックスを机の上に乗せて、開ける。

 開けた瞬間、レオンの時間が止まった。

「………………………………………………」

 ロールパンを縦に割った、こぶりのサンドイッチが3つ。後は小さな耐水性のボックスに入ったおかずがぎっしり。
 エビのチリソース煮、春巻き、ミートローフ、茹でたブロッコリーにニンジン、マッシュポテト。

 ただし………ミートローフがハート形になっている。

「どうした、レオン。やぁ、今日は愛妻弁当かい!」

 よせばいいのにデイビットがのこのこと近づいて、ひょいと弁当箱をのぞきこんだ。

「このハートがいいね。実に初々しい」

 言うまでもないが彼自身の愛妻弁当にもハートが咲き乱れていた。おかずのニンジン、サンドイッチのジャム、デザートのゼリー、それこそありとあらゆる場所に。
 一方、レオンはハート形のミートローフを凝視したまま動かない。ディビットの言葉はするすると、右の耳から左の耳へと素通りしてゆく。

 ぱっと見表情はいつもと変わらずおだやかに、眉一つさえ動かさず。その実彼は軽〜く動揺していた。

 何故、これが今、ここにあるのか?
 この弁当を渡してくれたのはディフだ。彼が自分で包んで、今朝、出がけに渡してくれた。頬へのキスと一緒に。
 つまり、最後にこれに触れたのはディフだ。
 しかし、彼がこんな事をするだろうか?

 ミートローフの端をフォークで切り取り、口に運んでみる。
 ………いつもの味だ。

 やはり、ディフがやったのだろうか。
 めまぐるしく思考を巡らせるレオンを、デイビットが温かな……いや、熱いまなざしで(彼の視線はいつでも熱いのだ)見守っていた。


 ※ ※ ※ ※


 その夜。帰宅したレオンはまず、出迎えた新妻を抱きしめて濃厚な口づけを交わし……それから空になったランチボックスを手渡した。

「美味かったか、弁当」
「ああ、うん、美味しかった」
「そうか!」

 とてもうれしそうだ。にまっと口の端を上げて笑ってる。あっけらかんとした喜びの表情。
 はじらってる様子は………ない、ようだ。

「あれは君が?」
「え? ああ、半分近くシエンが作ったんだけどな。ミートローフは、俺だ」
「うん、そうだろうね」
「どうした、レオン?」

 ちょこんと首をかしげている。
 これは、違うな。
 あんな可愛いイタズラを仕掛けておきながら、素知らぬ顔でとぼけ通せるほどディフは器用な人じゃない。
 彼がしたのなら、はずかしくて顔も見られなくなっているはずだ。
 だとしたら……犯人は一人しかいない。

 レオンはにっこりと笑った。

「シエンにサービスありがとうと言っておいてくれ」
「? ああ、わかった。伝えとく」


 ※ ※ ※ ※


 そして、キッチンで。

「シエン」
「なあに?」
「レオンがな、言ってたぞ。サービスありがとうって」

(ばれてるー!)

 一瞬、シエンはその場で飛び上がりそうになった。不意打ちを食らった子猫みたいに、四つ足そろえてぴょん! と。

「どうした?」
「う、ううん、何でもない」

 やっぱり、ばれちゃったか。
 少しでもレオンに新婚気分を味わってほしかったんだけど。

 次は『エプロンを……』に挑戦してみようかな。でも、エプロンをどう使えばいいんだろう?

 今度、オティアに聞いてみようと思った。


(ラブワイフランチ/了)

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【ex4】猫と話す本屋

2008/07/22 16:57 番外十海
  • 日本から留学中の獣医の卵、サリー+もう一人をメインにした番外編。
  • 一部【3-15】サムシング・ブルー後編と同じ日、同じ場所の出来事を別の視点から描いています。

【ex4-1】EEE

2008/07/22 16:59 番外十海
 サンフランシスコのユニオンスクエアの近く。表通りからちょいと引っ込んだ適度に古びた商店街の一角に、砂岩造りの三階建て、鉛筆みたいに縦長の建物がある。

 小さいながらも奥には立派な庭があり、一階部分は店舗で二階から上は居間と食堂、バスルームとキッチン。
 三階部分は屋根裏に少し手を加えただけの部屋だが天窓もあり、それなりに快適。かつては子供部屋であり、今は店主とその家族のささやかな寝室として使われていた。

 毎朝五時ジャストに枕元で金属製の目覚まし時計のベルが鳴る。
 もっとも最初のジリン……が鳴り終えるより早く長い腕が伸びて止めてしまうのだが。
 目覚ましの有無にかかわらず五時きっかりに起きるのが、エドワーズの日課であり生活の基本だった。

 朝の身支度をすませる間に床に置かれた藤のバスケットの中からにゅっと細長い尻尾が立ち上がり、ぴょんと飛び出して。
 みう、みう、と甲高い声をあげながら足元にまとわりつく。
 大人サイズが1本、ちいさなちいさなベビーサイズが6本。

「やあ、おはよう……リズ、ティナにアンジェラ、オードリー、バーナードJr.、ウィリアム……それとモニーク」

 母猫のリズは白い体に四本の足と尻尾に薄い茶色が交じり、一ヶ月前に生まれた子猫たちもそれぞれ割合は異なるが白と薄茶のふかふかの毛皮に覆われている。
 唯一の例外はバーナードJr.で、この一匹だけは父親そっくりの黒茶の虎縞模様。
 あまりの生き写しっぷりに父親猫の飼い主はひと目見た瞬間言ったものだ。『この子はぜひ、家で引き取らせてくれ!』と。
 いずれそっくりの猫が大小2匹そろって花屋の店先で、客をもてなすことだろう。

 7匹の猫を引き連れてキッチンに向かう。
 母猫のリズにドライフードと缶詰。子猫たちには、猫用の粉ミルクを缶詰に混ぜたもの。そして新鮮な飲み水。
 猫たちが食べ始めるのを確認してから、自分の朝食を準備する。内容はいたってシンプル。紅茶とゆで卵とトースト。バターかメープルシロップかジャムかはその日の気分次第。
 ピーナッツバターにだけはどうしても馴染めない。
 食べ終えると皿とカップを洗い、庭に出る。

 子猫たちはまだ庭には出してもらえない。たまに末っ子のモニークが果敢に未知の世界への進出を試みるが、そのたびに母猫に襟首をくわえてぶらさげられて連れ戻される。

 小さな庭はふかふかの芝生が敷き詰められ、花壇にはカモマイルにセージ、ローズマリー、ルバーブ、そして色も花の形も、丈もさまざまな大小のバラ。
 
 Image213.jpg
 
 すべて母が植えたもので、彼女亡き後は父が。そして、3年前からは彼自身が世話をしている。
 子どもの頃に覚えた動作を、きちんと手が覚えていると知った時は驚くと同時に安堵もした。

 一株ずつ、丹念に。商品を扱う時と同じように、その前の職務を果たしていた時と同じように几帳面に。
 きちんと庭の手入れを終えると店に戻り、開店の準備にとりかかる。

 ……と言っても、ほとんどすることはない。
 カウンター奥のパソコンを立ち上げ、背の高い本棚の並ぶ店内を見回ってから入り口の鍵を開け、窓の鎧戸を開ける。

 こうして今日もエドワーズ古書店の日常が始まった。
 
 
 ※ ※ ※ ※

 
 正午を少し回った頃からぽつりぽつりと客が訪れる。

 とは言え午前中はもっぱら、パソコンでの作業に当てているのでそれなりに忙しい。
 最近は店先で売るよりもネットで取引することが増えているのだ。
 数多い情報の中から自分の店の本を探し当ててくれる顧客がいるのはありがたい限りだ。

『ずっと探していたんです』
『ありがとう』

 稀にお礼のメールを受けとることがある。そんな時は自分でも気づかないうちにふっと、かすかに笑っていることがある。
 何を買うと言う訳でもないのだけれど、ほんのりと薄暗い店の中に足を踏み入れ、一冊一冊本の背表紙を確かめながら歩いて行くお客もいる。
 とても幸せそうに、古い紙や糊、布、革のにおいの溶け込んだ空気を呼吸して。

 かと思えば、古い家の屋根裏からまとめて引き取ってきた雑誌の山に突進し、『これ全部ください』と言い切った客もいた。
 眼鏡をかけた長髪の黒髪の若い男だったが……どう見ても彼は、自分の買っていった雑誌より年下だ。

 するり、と足元をしなやかな感触がすりぬける。

「どうしたんだい、リズ」

 薄茶色の尻尾をぴん、と立てて外に通じるドアを凝視している。
 果たして。
 カランカラーン、とベルが鳴り、ドアが開いて郵便配達員が姿を現した。

「こんにちは、エドワーズさん……これ、書留なんで、サインお願いします。それと、こっちは普通郵便」
「ごくろうさま」

 胸ポケットに挿したペンを抜き取り、さらさらと署名する。

 エドワード・エヴェン・エドワーズ

 それが、彼が生まれてから36年間使ってきた名前だった。

「はい、確かに。それじゃ、リズ、またね!」

 配達員を見送ってから、受けとった郵便物を確認していると……ふと、一通の封筒に目が止まった。
 差出人は連名だ。
 レオンハルト・ローゼンベルクとディフォレスト・マクラウド。
 どちらも見知った友人の名前、だが彼らの名前が出てくるとなるととっさに身構えてしまう。
 
 何かトラブルだろうか? 始末書か? それとも、保釈の手続きか?

 やれやれ……こまったものだ。父の古書店を受け継いでからもう3年になると言うのに、まだ前の職場の癖が抜けないと見える。
 苦笑していると、すとん、とカウンターにリズが飛び乗ってきた。
 薄茶色の長い尻尾が音もなくひゅんひゅんとうねる。低く身を伏せ、耳をぴっと前に立て、店の中の一点を凝視している。

 青い瞳の見ている先をうかがうと、今、まさに十五、六歳ぐらいの少年が一人。棚の本を一冊抜き取って上着の中に押し込んだ瞬間だった。

「……」

 素早く立ち上がるとエドワーズは少年の背後に歩みより、肩に手を置いた。

「君」

 ばっと手をふり払い、走り出そうとする足を軽く払う。バランスを崩した所で手首を抑えて背後にねじり上げ、壁に押し付けた。
 上着の中に押し込まれた本がばさばさと足元に落ちる。
 植物図鑑に育児書、パッチワークの図案集にハードカバーのミステリーとジャンルはばらばら。
 興味があって選んだ、と言うよりは手当たり次第に抜き取ったのだろう。おそらくは純粋に盗みのスリルを楽しむために。

「……初めてじゃないね?」
「だったら何だよ」
「君には黙秘権がある。弁護士を呼ぶ権利もある。君の言うことは法廷で不利な証拠として採用される場合がある」

 少年は口をゆがめて吐き出すようにして、言った。

「何警官みたいなこと抜かしてんだよ、おっさん!」
「……三年前までは、ね。市民権限により窃盗の現行犯で君を逮捕する」

 初犯ではないが、まだ『逮捕』と言う言葉に萎縮する程度には初々しいレベルに居たらしい。
 カウンターの奥に少年を座らせてから携帯を開き、かつての職場に電話した。

「やあ、トリプルE! どうした?」

 現職時代に着けられたニックネームは未だ健在。命名した本人も今は辞めて私立探偵に鞍替えしたと言うのに。

「少年課から誰かうちの店によこしてくれないか」
「ああ、万引か?」
「そんな所だね」
「わかった。すぐに行かせるよ……」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 やってきた顔見知りの私服警官に少年を引き渡してから、改めて届いた手紙を開封する。
 真っ先に気になる連名の封筒を開けた。

「……え?」

 思わず小さく声が漏れる。
 レオンとマックス、二人の友人から届いたのは保釈の申請書類でもなければ始末書(いったい何枚処理したことやら!)でもなく………結婚式の招待状だったのだ。
 にゅっと白い毛玉が視界を遮る。リズがカウンターに飛び乗り、手元をのぞき込んでいた。
 ふん、ふん、と熱心に手紙のにおいをかいでいる。

「驚いたよ、リズ。あの二人が学生時代からの親友なのは知っていたが、まさか、結婚するような仲だったとは……」
「みゃ」
「結婚、か……」

 ふう、とため息一つ。左手の薬指を軽くなぞる。
 指輪を外してから、もう十年近い月日が流れた。跡なんてとっくに消えた。もはやそこに指輪のあった感触さえ微かだ。

「………若すぎたからね、彼女も、私も。お互いの情熱を上手く受けとめることができなかった」
「みゃう」

 強面の警察官だったマックスが。切れ者の弁護士として署内で恐れられているレオンが。二人一緒の時は常にどちらかが、あるいは両方がほほ笑んでいたような気がする。
 最初のうちは驚いたが、まもなく彼らのまとう空気がとても好きになった。
 警察を辞めて以来、滅多に顔を合わせることはなくなっていたが。

「あの二人なら良い伴侶になりそうな気がするんだ……お互いに」

 リズはひゅうん、と尻尾を振ると、飼い主の手にぐいぐいと頭をすりつけてきた。
 絹のようなしなやかな毛並みをなでる。

 電話をしようかとも思ったが、どちらも今はさぞかし忙しかろう。少し考えてから、返事を書いた。
 メールではなく、紙とペンで。

「おめでとう、ぜひ出席させてもらう」と。

 封筒に入れて住所を書き、買い置きの切手を貼る。署名は二人分で住所は一つだった。おそらくもう一緒に住んでいるのだろう。
 後で発送用の商品と一緒に郵便局に出しに行こう。ついでに食料も買い足して……帰りに花屋に寄って、子猫たちの写真を見せるとしようか。

 不意にリズがぴんっと耳を立て、店の奥へと歩いて行く。
 そのまま優雅な仕草で住居部分へと通じるドアをくぐり抜け、とことこと階段を上がっていった。
 
 どうやら、子猫に呼ばれたらしい。
 

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【ex4-2】サリーのワードローブ

2008/07/22 17:00 番外十海
 
 その日、サリーこと結城朔也が実習先の大学病院に顔を出すと、担当の指導医に言われた。

「サリー、まとめ買いした白衣、届いてるわよ」
「あ……ありがとうございます、マリー先生」

 とことこと近づく。部屋のテーブルの上には届いたばかりの通販の箱が置かれ、Dr.マリーと二人の女性アシスタント、ミリーとエリーが中味を取り出して、せっせと仕分けの真っ最中。

「えーと、この水色のSサイズはサリーのよね?」
「はい」

 白衣やナースウォッチ、シューズ、ステートやハサミなどの医療用の小物や衣服は数人で注文をまとめて購入している。職場からグループで注文すると割引が効くし、送料も節約できるのだ。
 箱の中味はレディスオンリー。
 サリーの白衣も例外ではない。パンツタイプではあるのだが、女性用のSサイズ。体に合わせた結果の選択である。
 同じSサイズでもメンズは肩幅が広くて襟もゆるゆる、袖が妙な位置に来る。全体的に余った布地がからみついて、とてもとても、動きづらいのだ。

「夏物だから思い切って生地が薄いのを選んでみたの。どうかな、ランジェリーのライン、透けないかな」
「んー、けっこう微妙かな? その辺は、私はキャミソールで調節してる」
「ああ、ミリーのキャミ、シンプルで可愛いものね」
「でしょ? レースつきのはかゆくなるし、透けると目立つから」

 あっけらかんとした女性たちの会話を聞きながらサリーは秘かにため息をついた。

(……いい加減、慣れたけど……やっぱり男性として認識されてないのかなあ)

 女ばかりの家族の中で育ったせいか、あるいは華奢な体つきのせいなのか、それとも顔立ちのせいなのか。
 インターンとして配属されて以来、彼は女性ばかり3人のチームの中に何の違和感もなく溶け込んでいた。

 時々、大学病院のスタッフと一緒に外にランチを食べに行く時もある。
 メニューにはないミニデザートのチョコミントアイスを何の疑問も持たずに美味しくいただき、ふと周囲を見回してみたら『女性限定、ミニデザートサービス』なんて張り紙があったりして。
 がっくりと来たのも一度や二度ではない。
 
 しかも。
 
 さらに稀なことではあるのだが、病院に通ってくる患畜のオーナーから花を贈られることもある。
 明らかに日頃の感謝の印にしては過ぎた量とサイズのゴージャスな花を。
 とりあえず病院全体にもらったものだと拡大解釈して、においのきつくない、動物への影響の少なさそうなものは待合室に。百合などの香りの強い花は事務室に飾らせてもらうことにしている。男の一人暮らしに花を持ち帰った所で処置にこまるし。

(日本ではそんなに女顔って言われた事はないんだけどなあ……)

 確かに自分は母とも。従姉の羊子とも、その母親ともよく似ている。けれど、それは家族だからだ。同じ遺伝子を持っているから当然なのだ。
 ………多分。
 きっと着てるもののせいなんだ。白衣もそうだけれど、私服もメンズは体に合わず、Tシャツに至っては女性用のSサイズがぴったりだった。さもなければジュニア用……靴下は特に。たとえレディスと言えど、かかとを正しい位置に履くと、つま先が余る。

 こんな風にただでさえ着る物で苦労していた所に、今回はさらに悩みが一つ増えてしまった。理由そのものはおめでたい事ではあるのだけれど。

「サリー、どうしたの? 難しい顔しちゃって?」
「いえ、マリー先生、大したことはないんですけど……実は、友だちの結婚式に招待されまして」
「まあ、そうなの、おめでとう」
「それで……俺、今までこっちでそう言う席に招待されたこと、なくって。フォーマルウェアを一着、準備しなくちゃいけないんです」
「あら、キモノ着ないの?」
「持ってきてないですよ、そんなの!」

 紋付きの羽織袴なんて、日本では親戚の結婚式ぐらいにしか出番がないだろうし……。

「ゴージャスで着映えすると思うんだけどなあ」

 まさかマリー先生、振袖着るって思ってる?

「何て言うんだったかしら。昔の日本のプリンセスが着てるような、あの、袖の長〜いトレーンを引いた着物」

 打ち掛けのことだったらしい。微妙に予想の斜め上。

「いや……そうじゃなくて……普通のタキシードで。立食パーティ形式なんで」
「あら、確かにそれは着物じゃ動きづらいわね」
「どこか良さそうなお店、ご存知ありませんか? リーズナブルで、品ぞろえも多くて」

 ここから先が一番大事なポイントだ。

「サイズのお直しもやってくれるとこ」
「んー、そうね……あ、そうだ」

 マリー先生はメモを一枚とり、さらさらとペンを走らせてぺりっとはぎとって渡してくれた。

「ここのお店、いいわよ。サイズのお直しもやってくれるから」
「ありがとう。行ってみます」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 次の日、教えられた店に行ってみると、幸いなことに婦人服専門店ではなかった。
 途中で巡回中のポリスマンに声をかけられたが大学の学生証を見せて年齢を説明し、どうにか事無きを得た。
 今回は比較的スムーズに納得してもらえて助かった。運が悪いと……そう、勤務後に繁華街を一人で歩いている時なぞはもっと時間がかかる事がある。

 もっとも、そんな事を何度かくり返すうちに所轄署の少年課にも知り合いが増え、最近では電話一本ですぐに確認がとれるようになってきた。
 
(こう言う場数はあまり踏みたくないんだけどな)

 店に入り、紳士服売り場のフォーマルコーナーに行く。
 XSサイズのタキシードを試着してみた。
 アメリカでの滞在が長くなれば、これからも正式な席に招待されることも増えて行くだろう。良い機会だからきちんとしたのを一着買っておこうと思ったのだが……。

「だめか………」

 やはり、大きい。もはやサイズ直しで補正の効くレベルではない。
 それでもデザインが違えば。メーカーが違えばあるいは、と試着をくり返し、そのたびに『やっぱりダメだった』とため息をつく。

 床にへたりこみそうな気分を抱えて少しずつ、少しずつ紳士服売り場を移動して行った。
 もうすぐ、境界線を越える。

 シニアと、ジュニアの。

(できればあっち側には行きたくないなあ)

 ちらりと向こう側に視線を走らせた、そのときだ。

「……あれ?」

 ジュニアコーナーのただ中に、明らかに周囲に並ぶ服とは不釣り合いなサイズの男がぬぼっと現れた。
 ゆるくウェーブのかかった赤い髪にがっちりした体格。隣には、ややくすんだ金髪頭が二つ……まとう空気と髪の毛の長さが微妙に違うが、顔かたちも体つきもそっくりの少年が二人。
 親鳥と、その後をついてゆくひな鳥みたいにちょこまかと、三人そろって歩いている。
 金髪の少年がふと足を止め、こっちを見た。
 ほほ笑んで手を振る。
 髪の長い方の少年が顔を上げ、赤毛の男に声をかけた。

「……ディフ」
「ん? どうした、シエン?」

 赤毛の男は髪の長い少年の顔を見て、それから髪の毛の短い方の少年の視線の先を確認し……そして、こちらに気づいた。
 
「よう、サリーじゃないか」

 とことこと歩み寄り、挨拶を交わす。

「こんにちは。お買い物ですか?」
「ああ。オティアとシエンのタキシード買いにな。色と形はだいたい決まったから後はサイズ合わせだな」
「何色にしたんですか?」

 シエンがハンガーにかかった紺色のを一着、手にとって軽く掲げた。

「……うん。素敵だね」
「よし、じゃあサイズ合わせるか」

 おそろいのタキシードを手に双子は試着室に向かい、その後をディフが歩いて行く。

 周囲を見回し、ふと気づく。
 あれれ。つい、ジュニア用の領域に入っちゃったよ。まあ、いいか……。さっきのより、確かにこっちの方が体に馴染みそうだ。
 黒い、細身のを一着選んで自分も試着室に向かう。

 予想通りと言うか、やはりと言うか、ぴったりだった。肩幅も、袖丈も、上着の丈も、襟ぐりも、何もかも。サイズ合わせをする必要もないくらいにジャストフィット。

 試着室を出ると、隣のブースでは『まま』に付き添われたシエンとオティアが袖丈とズボンの裾を調節している所だった。
 女性店員が二人の体に合わせて袖と裾を折り曲げ、待ち針で留めている。二人とも微妙に緊張した面持ちだ。人と触れあうのが苦手な子どもたちにしてみれば最大級の努力をふりしぼっているのだろう。

 心配になって見守っていると、後ろから店員に声をかけられた。

「May I help you?」
「あ、はい、これをお願いします」
「サイズのお直しは?」
「いや、このままで」
 
 背の高い女性店員は、じーっとサリーとタキシードを見比べてから、まるでお母さんのような笑みを浮かべて言った。
 
「お客様、できればもう少し大きいサイズをお選びになった方がよろしいかと。その方が長く使えますし……サイズの調整も承っておりますので」
「………いえ、これでいいです」

 もう、自分はこれ以上育つことはないと思う。二十歳過ぎてるんだし。
 将来有望な双子と違って。
 
 強烈に床にへたりこみたい衝動に駆られるサリーを、双子とディフが心配そうに見守っていた。

「サリー、疲れてるみたいだね」
「……ああ、日本人がこっちで服探すのは大変らしいからな」
「そうなんだ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 その日の夜、日本の従姉から電話がかかってきた。

「ふーん、そんな事があったんだ……」
「うん。帰りに事務所に寄らせてもらって、お茶とケーキごちそうになったよ」
「よかったじゃん」
 
 よほどげんなりしているように見えたのだろう。その後、ディフが車でアパートまで送ってくれた。
 
「で、結局買えたの? タキシード」
「うん……ジュニア用だけどね」
「何色?」
「黒」
「地味だなー。やっぱ振袖着た方が良かったんじゃないの、サクヤちゃん」

 何とものんびりした、そして楽しげな羊子の口調に思わずむかっとする。
 人がどれほど苦労したかも知らないで……。

 いや、彼女はおそらく知っている。
 自分も高校生の時、留学していたのだから、同じ苦労をしたはずなのだ。わかっていてからかうなんて!

「もう、こっち来るまで電話しないでくれる?」

 思わず低い声で言い放っていた。

「…………………」

 一瞬、電話の向こうで息を飲む気配がする。

「ごめん。怒った?」
「怒った」
「ごめん……も、言わない」
「いいよ、もう」

 ため息を一つ。誰にも言えないことを口にする。彼女になら話せるから。わかってくれると知っているから。

「服を買うのに、選ぶ種類がないって言うのが問題なんだよ。女性用とか、ジュニア用になっちゃうし」
「そりゃ、アメリカンとは骨格が違うからねー。腕の長さも、肩幅も。基準が違う」
「うん……それ、よーっくわかった。つくづく思い知らされたよ、今日」
「ね、サクヤちゃん」
「うん?」
「服探す時はさ、なるだけ、同じ東洋系の店員さんに相談してごらんよ。似た様な悩み抱えてるはずだからきっといい知恵貸してくれるよ?」
「うん………そうしてみる」
「日本から通販で買うこともできるよ。ちょっと送料、割高になるけどね。何人かで集まってまとめ買いするといいかも?」
「うん……ありがとう、羊子さん」

 やっぱり心配してくれてるんだな……小さい頃からそうだった。
 自分のサンフランシスコへの留学が決まった時も真っ先にディフに連絡をとり、面倒を見てくれるように頼んでくれた。
 
「そうだ、シスコに来るって話しておいたよ」
「そっか。サンキュ、サクヤちゃん。それで、マックスは何か言ってた?」
「喜んでた。招待客のリストに加えておくって。メイリールさんは……」
「ああ、ヒウェルもいたんだ?」
「うん………」

080706_2243~02.JPG※月梨さん画。こんな顔してました。

『来る……ヨーコが来る……』

 顔面蒼白になって自分の肩を抱いてかたかた震えてた、なんて今さら伝えるまでもないんだろうなあ。
 きっとわかってる。
 
「よーし、お土産用意しとかなきゃなー」

 楽しそうな声だ。きっと満面の笑顔になってるんだろう。

「あ、こっちから何か持ってきて欲しいものある?」
「そうだなー、お茶とか、あと海苔と蕎麦、かな?」
「OK、おば様に伝えとく。それじゃ、またね」
「うん、また、ね」
 
 
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【ex4-3】猫のお医者さん

2008/07/22 17:02 番外十海
 
 リズは美猫だ。

 飼い猫を見るたびにエドワーズは思う。

 飼い主のひいき目を差し引いても十分に美しい。

 ほっそりした愛らしい手足と長い尻尾はカフェオレのように優しく霞む薄いかっ色。しなやかな体はミルクの白。
 小さな顔にすっきりと収まる透き通ったブルーの瞳。ピンク色の口元。
 
 しかしその美しい姿形は全て、狩りのために必要不可欠な得物でもある。
 
 古書店の業務はネズミとの戦いだ。彼の店のように本の装丁や修復を請け負っている昔ながらの店は尚更に。装丁に使われる糊も、布も、革も、あのどん欲なげっ歯類どもの大好物なのだから。

 リズは単にその美しい容姿と愛らしい仕草でお客を和ませるだけの猫ではない。先祖代々、店の本をネズミから守ってきた優秀なハンターであり、由緒正しい『書店猫』なのだ。

 そして、父親亡き今となっては唯一の家族でもある。
 だから彼女の健康には細心の注意を払う。掛かり付けの動物病院も大学付属の病院を選んだ。施設も整っているし、何より主治医のマリー先生をはじめとしてスタッフのほとんどが女性なのが助かる。
 猫は総じて男性より女性の方を好む傾向がある。ただでさえ緊張する病院で、できる限りリズにストレスをかけたくはない。

 しかし大学病院と言うところは実習の学生をも受け入れる場所なのだった。

「来週から新しいインターンが入るんですよ」

 マリー先生から初めて聞かされた時、正直言って不安だった。がさつな男子学生だったらどうしよう? と。
 若干の不安を抱えつつリズのワクチン接種に行くと……マリー先生の隣にもう一人、眼鏡をかけた東洋系の先生が待っていた。
 水色の白衣がよく似合っている。ネームプレートの表記は『サリー』。さらりとした黒髪を短めにカットして、瞳の色は濃いかっ色。
 ほっそりと華奢な骨格で、卵形のつやつやした顔には何とも優しげな表情が浮かんでいる。

「サリー、お願いできる?」
「はい、マリー先生」

 声のトーンは女性にしてはいささか低めだったが声質はなめらかで耳に心地よい。これならリズも安心してくれるだろう、とほっとする。

「エドワーズさん、どうぞこちらへ」
「はい……じゃあ、リズ、行こうか………………………………お願いします」

 バスケットから抜け出すと、リズは優雅な仕草で診察台の上にうずくまった。

「今日はどうされましたか?」
「……三種混合ワクチンを」
「はい、じゃあ少し待ってくださいね」

 カルテを見ながらマリー先生に確認をとり、注射の準備をしている。よかった、優しそうな女医さんで本当に良かった。

「はい、お待たせしました……」

 華奢な指先が白い毛皮をかきわけ、さっと消毒する。
 そろそろ補定をしないと……。
 手を伸ばそうとするより早く、さっと注射器がリズの首筋に触れ、そして離れていた。

「ん?」

 リズがちょこんと首をかしげる。

「え? もう……終わったんですか?」
「ええ。おとなしい子ですねー」
「確かに……そうですが……初めての方にここまで穏やかに接するなんて……。ありがとうございます、先生」
「はい。お大事に」

 水色白衣の眼鏡の実習生は手をのばして白いふかふかの毛皮を撫でた。

「さよならリズ」

 リズは彼女の手のひらにくいくいと顔をすりつけ、のどを鳴らしている。
 良かった。
 気に入ったようだ。少し若いけれど、この先生になら安心してリズを任せることができる。自然と顔がほころんでいた。

「おいで、リズ」

 ひゅん、と尻尾を振ると、リズは自主的にバスケットの中に入った。
 帰ってからも上機嫌でキッチンを歩き回り、冷たい水を飲んで毛繕いをしている。病院行きによるストレスはほとんど感じなかったらしい。

「不思議な人だったね……リズ」
「みゃ」
 

 ※ ※ ※ ※
 
 
 この界隈には猫を飼っている店が多い。
 ネズミ穫りの業者を呼ぶより、父親やそのまた父親たちから受け継いだ代々の優秀なハンターたちに店の安全を任せる方がよほど気が利いてると考える店主が多いのだ。

 何より、つややかな毛皮に覆われたこの小生意気な家族どもは時に慰めとなり、時に喜びを与えてくれる。バネ仕掛けのネズミ捕り器には到底この温かさはマネできまい。

 黒い虎縞の堂々たる雄猫、バーナードも代々、花屋のネズミ捕獲主任をつとめてきた猫だった。しかしこのバーナードは並外れた旺盛な冒険心をも持ち合わせていて、しょっちゅう花屋を抜け出してはエドワーズ古書店の裏庭に潜り込んで来る。

 リズもまんざらではないらしく、二匹で薔薇の葉陰で鼻をつきあわせている姿はなかなか愛らしく、絵になる光景だった。
 いつまでも見ていたかったが花屋の店主が青ざめてさがし回っていると思うと放っておく訳には行かず。バスケットにお入りいただき、店に送り届けた。
 そんな出来事が度重なるうち、二人の店主はある結論に達した。
 バーナードの脱走は旺盛な冒険心だけによるものではなく……恋心に裏打ちされたものではないか、と。

 かくして両者協議の上カップリングが成立し、リズは初めて母猫となったのである。
 ふにゃふにゃと足元にまとわりつく6本の短い尻尾を見下ろしつつ、エドワーズはちらりと壁のカレンダーを確認した。

 近いうちにこの子たちを最初のワクチン接種に連れて行こう。ぼちぼち里親も決まりつつあるし……。

「お前たちのこともサリー先生に紹介しなければね。きっと、気に入るよ。優しい人だ」

 早いもので、最初に会ったあの日からすでに一年が過ぎた。当時はインターンだったサリー先生も今はレジデントに進み、信頼できる主治医としてリズの健康を守ってくれている。

 子猫の引き取り先は順調に決まりつつある。相手は近所の店や古書店仲間だ。この一ヶ月近い日々と言うもの、ふにゃふにゃしたちっぽけな生き物に生活が振り回されっぱなしだった。
 しかし幸い、リズは母親としても極めて優秀で、飼い主の負担を最小限に抑えてくれた。
 子猫のいる生活は騒がしいが、楽しい。一匹残らずもらわれて行くのかと思うと、少し寂しいような気がした。

 一匹ぐらい、手元に残しておいても……いい、かな。
 いや、別にそこまでしなくても。
 バーナードJr.は花屋に、アンジェラはパン屋に行けば毎日のように会えるのだし、ウィリアムの養子先も市内だ。いつもよりちょっと遠出をすればいい。

 いつもより、ちょっと、か……。
 それが一番の課題だな。
 
 古書店の主になって3年。
 エドワード・エヴェン・エドワーズが猫の通院以外に車で出歩くことは滅多になかった。
 要するに、彼の行動範囲はほとんど自らの足で歩ける範囲に限られているのである。

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【ex4-4】そして結婚式で

2008/07/22 17:03 番外十海
 
 8月のよく晴れた土曜日。
 
「それじゃ、リズ、ティナにアンジェラ、オードリー、バーナードJr.、ウィリアム……それとモニーク。行ってくるよ」

 一日分の餌と水を用意して(水はとくにたっぷりと)、戸締まりをするとエドワーズは出かけた。
 車で出かけるのは何日ぶりだろう?
 
 今日は友人たちの結婚式。場所は海を見下ろすレストラン。
 警察官時代はある意味楽だった。こんな時、着るものに困ったらとりあえず礼装用の制服を着て行けばよかったのだから。
 だが、今は自分も、当の友人も警察を辞めている。結局、黒のスーツに黒地にピンドットのベストにサスペンダー、白のシャツ(これはかろうじてフォーマル用)に黒のアームバンド……と、いつもの仕事着とほとんど代わり映えしない服装になってしまった。
 タイをどうするか最後まで迷ったが、愛用のアスコットタイではなく、礼装用の黒の蝶ネクタイを着用することにした。

 どちらも友人なのだ。これぐらい礼儀を払っても、行き過ぎと言うことはないだろう。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 会場内は思ったよりずっと人が多く、顔見知りもまた然り。
 元警察の内勤巡査と言う立場上エドワーズは署内の警官とことごとく面識があったし、同じくらい検事や検事補、弁護士らとも顔を合わせる機会が多かったのである。

 そして彼の顔を見るなり誰も彼も申し合わせたように同じ台詞を口にした。
 
「よう、EEE。久しぶりだな、生きてたか!」

 ……参ったな。
 警察を辞めて三年、いかに自分が店とその周囲に引きこもって生活していたか、ひしひしと思い知らされる。
 こんな調子で式が始まるまでの間、挨拶を交わしながらウェルカムドリンク片手に広間を歩き回っていると、ひょろりとした背の高い金髪の青年と出くわした。

「やあ、エリック」
「……あ、EEE。お久しぶりですね」

 浮かない顔だ。自分の気配に気づくなりさっと笑顔に切り替えたようだが100%は変換しきれていない。
 ここで理由を聞くのは野暮と言うものだろう。彼は配属されてきた時から既にカミングアウトしていたし、マックスとは仲が良かった。

 終始上の空のエリックとしばらく話してから、テラスに出た。
 日よけの下とは言え陽射しはきつく、ほとんどの招待客は冷房の効いた室内にいる。だがここも十分快適な場所だ。
 背の高いオリーブの古木を中心に整えられた中庭はふかふかの緑の芝生に覆われ、海から吹き上げてくる風は実に心地よい。
 ふんわりと上品な香気をただよわせる薔薇のアーチをくぐり芝生をよぎる石畳の道は、ガーデンウェディングの際にはバージンロードに使われるものであろうか。

 手すりにもたれかかり、目を閉じる。

 祝福する上司に友人、決定的に終わった片恋いの名残を引きずりつつ笑顔で参列する後輩。
 ゲイカップルの結婚式と言っても、根本的に男女のカップルの場合と差異がある訳ではないのだな。
 そもそも結婚なんてもの自体、突き詰めれば二人の他人の結びつきなのだ。XY染色体の違いなど、些細なものなのかもしれない。

 ゆっくりと目蓋を開ける。陽射しがまぶしい……染みる。
 しぱしぱとまばたきをくり返して光に目を慣らしていると、ふと視界の端に見覚えのある姿をとらえた。
 ちらりと見えただけだったが、それが誰か判別するには十分だった。
 
「……サリー?」

 正直、意外だった。ここで会えるとは、思ってもみなかった。

(何故……彼女がこんな所に)

 改めて視点を合わせる。
 いつもの水色の白衣の代わりに黒のタキシードを着ていた。
 何故、女性なのにタキシードを……とも思ったが、よく見ると会場内には同じくタキシード姿の女性がちらほらしていた。
 最近の流行では、おそらくこれも有りなのだろう。何ら問題はない。実に、よく似合っている。
 
 静かに歩み寄り、声をかけた。

「こんにちは、サリー先生」
「あ……エドワーズさん」
「珍しい所でお会いしますね」
「ええ。従姉と一緒に来たんですけど、彼女、友だちの所に行っちゃって」
「そうでしたか」

 ほっとした表情をしている。おそらく彼女自身の知り合いはこの場にあまりいないのだろう。そのまま、テラスで二人並んで話をした。

「リズが無事、出産しましたよ。全部で6匹です。そのうち検診に連れて行きますので、よろしくお願いします」
「おめでとうございます。6匹かぁ、可愛いでしょう」
「はい、女の子が四匹で男が二匹、末っ子のモニークが元気が良くて。臆病なくせにすぐ冒険してあちこち潜り込むんです」
「目が離せなくて大変でしょう、小さいうちは」
「はい。油断すると書庫に潜り込むし、庭に出ようとするし。そのたびにリズに連れ戻されてますよ」
「いいなぁ、連れてきてくれるの楽しみにしてます」

 自分のような冴えない中年男と話して退屈しないだろうか。不安にならないでもないが、にこにこと嬉しそうに話を聞いてくれる。答えてくれる。

「……はい。ぜひお願いします」

 それが嬉しくて、こちらも控えめな笑顔で答える。
 この人との会話のテンポは………実にゆったりとして、心地よい。

 カリフォルニアの青い空は好きだが、どうも未だにこの土地のとことん解放的で、かつ押しの強い社交術には馴染めない。
 油断していると相手の繰り出す圧倒的な情報量に押し流されて、話すのも聞くのもままならなくなる。
 そうなってしまうともう、お手上げだ。幼い頃過ごしたイギリスを懐かしく思いつつ曖昧に相づちを打ち、うなずくしかない。
 特にレオンの先輩弁護士……確かディーノだか、ジーノとか言う名前だったか。彼は強烈だった。一言も喋れず、はっと気づくとかなり無茶な申請を受けとらされていたものだ。

「タキシードがお似合いですね」
「ありがとうございます。これ、ユニオン・スクエアのショッピングモールで買ったんですけど……買いに行く時、警官に呼び止められちゃいました」
「未成年が一人で何やってるのかって?」
「ええ。ひどい時だと、学生証見せても、パスポート見せても疑われたりするんですよー」

 肩をすくめているが、でも笑顔だ。実に朗らかで綴る言葉も声も軽快。重苦しさや暗さは欠片ほども感じられない。

「東洋系の方はお若く見えますから……ね」
「おかげで少年課の人と仲良くなりました」
「そんなにしょっちゅう……」
「どうしても……仕事終わってから繁華街に出るから」

 なるほど。そんな時間に未成年が。それも女の子が一人で出歩いていたらまず、警官に声をかけられることだろう……勤務中であろうとなかろうと。

「誰かご一緒するような方はいないんですか?」
「サンフランシスコに引っ越してから一年ぐらいしかたってないんです。以前はデービスにいて、そっちには知り合いもいるんだけど、こっちじゃ友達も少なくて」
「ああ、なるほど。デービスには私の同業者も大勢いますよ、あの町は学生さんが多いから……」

 久しぶりにゆったりした空気と会話を楽しんでいると。

「サクヤちゃーん」

 藍色の地に淡いピンクの花模様の入った着物を着た女性が手をふって近づいてきた。ああ、あれが彼女の従姉だな。サリーに比べて大人びている。彼女の方が年上なのだろう。
 それにしても、実に良く似ている。並んでいると姉妹と言っても通じそうだ。

「ごめんねー、放ったらかしにしちゃって。ついハイスクール時代の友だちと話が弾んじゃってさ……」
「うん、いいよ、こう言う時じゃなきゃ滅多に会えないんだし」
「それで……こちらの紳士はどなた?」
「こちらはエドワーズさん。エドワーズさん、こっちが従姉のヨーコさんです」
「こんにちは、Mr.エドワーズ」
「こんにちは、Missヨーコ。やあ、これは見事な着物だ……桜ですか?」
「ありがとうございます。ええ、桜です」

 ヨーコはそっと着物の袖を広げ、模様がよく見えるようにしてくれた。

「これと対になってる藤の着物もあって、どっちにしようか迷いました。せっかくだから二人で着ようよってこの子に言ったんですけどねー」
「……ヨーコさん?」
「ごめん、自粛します」

 にこにこ笑ったまま、ぴしっと言い切った。動物病院のサリー先生とはまた違った顔をかいま見たような気がする。
 彼女が着物を着ない理由はわからないが、断固として着たくないと言う意志は伝わってきた。

「それで……お二人ともどう言ったお知り合いなの?」

 ちょこん、とヨーコが首を傾げる。

「うちの動物病院の患者さんなんだ……猫が」
「ああ、なるほどね。それでMr.エドワーズは……新郎のお友達ですか? それとも、新婦の?」
「両方、ですね。三年前まではサンフランシスコ市警の事務官をつとめていました」
「ああ、そうだったんですね」

 うん、うん、とサリー先生がうなずいている。

「………サクヤちゃん、知らずに話してたの?」
「うん。会ってすぐに猫の話になって」
「それじゃあ……自分が何で招待されたのかもまだ話してない?」
「え。あ…………うん。そういえばまだ言ってなかったね」

 おやおや? どうしたことだろう。動物病院でのきびきびした受け答えと何と言う違いか。
 家族と一緒だから安心しているのか、それとも本来はこれが彼女の性質なのか。そう言えばオフタイムのサリー先生に会うのは、初めてだ。

「えーとですね、あたしはマックスとはハイスクールの同級生なんです。それで、サクヤがこっちに留学してくる時に彼に世話を頼みまして」
「……サンフランシスコで部屋を借りる時に手配してもらったんです」
「ああ……なるほど」

 東洋人はアメリカでは若く見られがちだ。サリー先生のように華奢な女性はなおさらだろう。

「デービスならともかく、こちらで部屋を借りるのにはご苦労なさったでしょう」
「ええ……ほんとに。それで、時々探偵事務所で動物探したりしてます」
「そうでしたか」

 くすっと笑いが漏れる。
 あの強面の熱血漢が真剣になって犬や猫を探しているのかと思うと……つい。

「………迷子のペットも探してるんですね、彼が」
「逃げられてしまうことも多いみたいなんですよね」
「体格もいいし。声も大きいですからね……それであなたの出番、と言う訳ですか」
「ええ。休みの時だけですけど」
「なるほど」

 バーナードが脱走した時の花屋の主人のうろたえぶりを思い出す。

『ああ、よかった、もう少しで探偵事務所に電話しようと思ってたんだ!』

 リズの子猫たちが、あの父親の冒険精神と脱走癖を受け継いでいるとなると、心配だ……特に末っ子のモニークは気をつけなければ。

「そちらのお仕事では、なるだけお世話になりたくないものです……ね」
「子猫はそんなに遠くには行けないから、大丈夫ですよ」

 式が始まる少し前にサリーはヨーコと一緒に会場に入って行った。

 ちょっぴり寂しい気持ちで見送ってから、エドワーズは昔の同僚たちに合流した。

 
 ※ ※ ※ ※
 

 会場に入りながら、サクヤはちらっと横目で従姉を見て、ぼそりと言った。
 ただし、日本語で。

「ヨーコさんは、ずるい」
「何で?」

 骨格も顔の形も背丈も自分とそう変わらないのに。と、言うかむしろそっくりなのに……彼女は年相応に大人として扱われる。
 桜の模様の着物をすっきりと着こなし、和装用のしっかりめのメイクをして、髪の毛もきちんと結い上げているからだ。
 いや、たとえもっとラフな服装だとしても、今の羊子さんならきっと、休みの日に一人でモールを歩いても警官から呼び止められることはないだろう。

「……不公平だ。着物と化粧の効果でちゃんと大人に見られてる」 
「んー、だったらさ、サクヤちゃんもお化粧してみる?」
「謹んでお断り申し上げます……」
「そう。今時男の子のお化粧なんて珍しくもないんだけどなー」
「ヨーコさんは絶対女性用のメイクをするつもりだ」
「……ばれた?」

 ちょろっと小さく舌を出して肩をすくめている。
 ああ、この顔、写真に撮って日本の教え子たちに見せてやりたい気分だ…………。

「ねえ、サクヤちゃん。さっきの人さ」
「うん?」
「感じ良かったね。イギリス紳士って感じで」
「ん……確かにそんな感じかもね。ヨーコさん、好みのタイプ?」
「んー、悪かないけど、ちょっと若すぎ、かな?」
「そう?」
「男は四十代からが華よ」
「はいはい……」

 
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【ex4-5】猫と話す本屋

2008/07/22 17:04 番外十海
 
「ただ今、リズ、ティナにアンジェラ、オードリー、バーナードJr.、ウィリアム……それとモニーク」
 
 みゃう、みゃう。
 にう、にう。
 甲高い歓声とともに、ぴんっと垂直に立てられた7本の尻尾に出迎えられる。
 二次会への参加は辞退した。「猫を留守番させているのでね……」と断って。

 マックスの顧客にペットを飼っている人間が多いからなのか、パーティ後に出口に用意された『ちょっとしたプレゼント』の選択肢に缶詰のキャットフードが入っていた。しかも、小エビ入りだ。
 迷わずケーキでもなく、犬用のクッキーでもなく、キャットフードを選んだ。

 リズは目を輝かせてぴちゃぴちゃと小エビ入りのキャットフードを平らげ、満足げに毛づくろいを始めた。
 子猫の中では末っ子のモニークだけがエビに挑戦し、ちょしちょしとスープを美味そうになめていた。

「いい式だったよ、リズ。しあわせになってほしいね、彼らには……そうだ、サリー先生と会ったよ」
「にゃ」

 リズはきちんと後足をたたんで座り、ブルーの瞳をまんまるにして見上げてきた。

「タキシードがよく似合ってた……。どうやら、サリーと言うのは通称らしいね」

『サクヤちゃん』

 Missヨーコは従弟をそう呼んでいた。おそらく、あれが母国での彼の正式な名前なのだろう。
 
「本名はサクヤと言うそうだ……美しい響きの言葉だね。まるで、源氏物語かおとぎ話に出てきそうな名前じゃないか」

 ほうっとため息。しばらく物思いにふける。
 閉じたまぶたの内側に、青いリボンが翻る。
 式の最後に行われたガータートス。花婿が後ろ向きに放り投げた靴下留めを受けとった者が次に結婚する。

 宙に舞った青い靴下留めを、空中ではっしと取ったのは爆弾探知犬デューイだった。しかし彼はその後とことこと歩いて行き、サリーに……いや、サクヤに渡したのだ。

「えーっと………………ありがとう、デューイ」
「あら、サクヤちゃん、いいものもらったね」
「………うん」

 サクヤは少し困ったような顔をしてお礼を言い、デューイの頭を撫でていた。
 ぱちりと目を開ける。

「リズ。今度、あの人に花を贈ろうと思うんだ。どうだろう?」

 リズは口の周りを舐めて目を細めて、一声

「……みゃ」と鳴いた。

 床にかがみこむと、エドワーズはしなやかな毛並みを撫でた。

「ちょうど夏薔薇が盛りだから……ね」
 
 果たして彼女がYesと答えたのか。あるいはNoと答えたのかは…………また次の機会に。
 
 
(猫と話す本屋/了)

その頃、サリー先生は…

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【ex4-4-2】そして結婚式で2

2008/07/23 22:13 番外十海
  
「この婚姻に異議ある者は申し出よ、さもなくば…………………………永遠に黙秘するように」
 
 ジーノ氏の堂々たる執行で滞りなく式は終わり、口笛と喝さいの中、新郎新婦の『初めての共同作業』も無事終了した。

「な、何をっ、ディフっ?」
「暴れるなよ……レオン。バランスが崩れる」
「う……うん」
「しっかりつかまってろ」

 レオンを抱き上げ、ハート形に切り抜いた布を通り抜けるマックスの幸せそうな表情に心が和んだ。

「お待たせいたしました。お食事の準備が整いましてございます。皆様、どうぞ中へ」

 テーブルに並ぶ料理を見ながら、ああ、エビだ。これはリズの好物なんだけどな。さすがに持ち帰る訳には行かない……なんてことを考えていたら、にゅっとエリックが手を伸ばし、小エビのカクテルをまとめてごっそりと取って行った。どうやら好物らしい。
 黙々とフォークを操り、エビを口に運ぶ姿を見守った。
 大丈夫だ。あれだけ食欲があるのなら、立ち直るのも早いだろう。

 広間の前方ではアメリカの伝統にのっとり、レオンとマックスが互いにウェディングケーキを食べさせている。行儀良くフォークを使って。
 自分の時は手で直接だったが……。
 今思うとあれは、新郎新婦の(主に新婦の)『はしたない姿』を客にお見せするのも余興のうちだったのだろうな。

 小さくため息をついていると、肩をぽんっと叩かれた。振り向くと、キルトをまとい、バグパイプを肩にかけた『本物のスコットランド男』が立っていた。
 
「どうした、エドワーズ」
「マクダネル警部補。お久しぶりです」
「三年ぶりかな。元気にやっとるか?」
「はい、おかげさまで」
「うむ。ちゃんと日光にも当たっているし飯も食っとるようだな……たまには署にも顔出せよ?」
「ありがとうございます」
「退職して以来EEEの姿を見たことがない、もしや修道院に入ったか、なんてまことしやかなウワサが流れてるくらいだからな」
 
 修道院か。似た様なものかもしれない。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 パーティーの間中、何となくサリーの姿を探していた。
 しかしタキシードをまとった彼女も、その連れの桜の着物の従姉の姿もどこかにかき消えたように見当たらない。
 もう、帰ってしまったのだろうか……。

 自分も、そろそろ帰った方がいいのだろうか。
 目の前では新郎新婦が手に手をとって踊っている。男同士でいったいどちらがリードするのかと少し興味をそそられたが、どうやらマックスがリードしているようだ。

 考えてみれば彼はしょっちゅう女性とデートしていた。エスコートもダンスのリードも慣れているのだろう。
 二ヶ月ごとに違う女性と歩いているので署内ではよほどの女好きに違いないとウワサされていたが、エドワーズは何となく違うと感じていた。
 一時期、自分と同じ部署の女性職員と付き合っていたのを知っていた。仕事帰りによく迎えに来ていたのだが、ある時を境にぱったりと来なくなった。
 バツイチ男への気安さからか、彼女は仕事の合間に何気なく話してくれたものだ。

『あたしにとっての一番はマックスだったんだけどね。彼にとっての一番は……あたしじゃなかったの。だから、さよならねって』

 今ならわかる。
 マックスにとっての一番は、あの頃からレオンだったのだ。自覚の有る無しは定かではないが。
 ……いや、おそらく彼自身も気づいてなかったのだろう。己の本心を隠したまま他の女性と付き合えるほど、ディフォレスト・マクラウドは器用な男ではない。

 しばし過ぎし日の記憶に思いをはせ、再び現在に意識を戻すと……サリーが居た。いつ戻ってきたのだろう?
 少し離れた所で友人達と楽しげに話すヨーコの背を所在なげに眺めている。
 同じ年ごろの女性とは言え、やはり出身校や年代が違うと仲間に入るのは気が引けるのだろうか。
 そう言えばサンフランシスコにはまだあまり友人がいないと言っていた。マックスも今日は忙しく、なかなか話すチャンスはないはずだ。

 彼女にとって少しでも親しい人間がいるとしたら、それは自分なのではないか?
 エスコート、とまでは行かないにしろ、話し相手ぐらいにはなって然るべきだろう……。

 そんなことを考えている間に、サリーとの距離はだいぶ近くなっていた。正直なもので、いろいろ思索を巡らせる間に足は既に彼女の方に向かっていたらしい。
 
「一曲踊っていただけますか、Miss?」

 ……しまった、先を越された。素早いな、マクダネル警部補。

「ごめんなさい……俺、MissじゃなくてMr.なんです」

 ………………………………………………………。
 ………………………………。
 ……………。
 ………。
 …。
 
(えっ?)

「おお。これは失敬。てっきりMissヨーコの妹さんとばかり」
「よく言われますけど……彼女とはイトコ同士なんです」

 そうか。
 よく言われることなんだ。
 うん、確かにそっくりだったし自分もそう思っていた。
 思っていたのだが……………。

(口に出さなくて良かった)

 己の社交性の低さを、この時ばかりは神に感謝した。

 なるほど、男性だったのか。彼女じゃなくて、彼だったんだ。それなら着物ではなく、タキシードを着ているのもうなずける。

(………いかんな。頭がくらくらしてきた)

 新鮮な空気を求めてよろよろとテラスに出た。

「よう、エドワーズじゃないか」
「………やあ、ワルター、ネルソン」
「わう」
「うっふ」
「やあ、ヒューイにデューイ。元気そうだね」

 二頭のシェパードはそれぞれハンドラーの足元に座り、ばったんばったんと尻尾を振っている。えらく機嫌がいい。

「久しぶりだな」
「うん、今日はよく言われるね」

 急にヒューイとデューイがぴん、と耳を立て、立ち上がった。尻尾が高速でぶんぶん揺れる。ほとんど残像しか見えない。

「ヒューイ! デューイ!」

 サリー先生だった。

「こんにちは、先生」
「いつもお世話になってます」
「……彼らの主治医もサリー先生だったんですか」
「はい」

 二頭の巨大なシェパードにまとわりつかれながら、サリー先生はにこにこしている。
 その笑顔を見ていて、ふっと。
 頭の中で迷子になっていたパズルの1ピースが然るべき位置にかちっとはまったような心地がした。

 男性だろうと、女性だろうと、彼が美しいことに変わりはないではないか。
 会場の中では、ダンスを終えたレオンとマックスが幸せそうに寄り添い、手を握り合っている。

 そろそろ、自分もサンフランシスコの流儀を取り入れてもいい頃なのかもしれない。
 
 ……うん、そうだ。
 確かに彼はきれいだ。


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【side7】★★蜜月の夜

2008/07/27 17:55 番外十海
  • 【3-15】サムシング・ブルー後編の直後、新婚さんの夜のお話。一応、注意書きを掲げてはありますが実際はベッドシーンが「含まれる」どころかむしろそれだけです。
【attenntion!】タイトルに『★★★』の入っている作品には男性同士のベッドシーンが含まれています。十八歳未満の方、および男性同士の恋愛描写がNGの方は閲覧をお控えください。
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【side7-1】★★蜜月の夜1

2008/07/27 17:57 番外十海
 
 初めて恋人とキスした日。
 初めて恋人とベッドインした日。
 何をもって初夜と呼ぶのか基準はさまざまだが……wedding nightと言うからにはやはり結婚式の夜と考えるべきなのだろうか。

 脱いだ上着を左肩にかつぐようにしてひっかけて、右の手をレオンの腰に回して寄り添いながら寝室に向かう間、ディフはずっとそんな事を考えていた。

 もっとも彼に限って言えば初めて恋人としてレオンとキスをしたのも、ベッドを共にしたのも同じ日の出来事なのだが。
 寝室のドアを開けて中に入る。もう何十回もくり返した動作だが、部屋に入った瞬間、感じた。

 いつもと違う。
 わずかな差異ではあるのだが、確かに今朝出た時と同じ部屋ではない、と。

 まず感じたのは空気に混じるほのかな花の香り。
 見ると結婚の祝いにと贈られた花の一部だろうか。薔薇と、マーガレット、そしてほんの少しだけど百合の花も。小さな花瓶に活けられて、部屋のそこ、ここにさりげなく飾られている。
 適度に自己主張しつつ、鼻腔の奥にも喉の粘膜にもしつこい後味を残さない。人工的に合成されたルームフレグランスには到底真似のできない微妙に控えめな香しさを漂わせている。
 すでに花の香りは部屋の空気にまんべんなく溶け込んでいた。
 誰が用意したのかはすぐにわかった。

 アレックスだな。

 クローゼットに上着を掛け、靴下と靴を脱ぐ。身につけたキルトを外し、シャツのボタンを外していると……視界の端にちらりとベッドが写る。
 以前はセミダブルのものだったが自分がこの部屋に正式に引っ越してから改めてキングサイズのものを入れた。
 もっともベッドの大きさが変わったからと言ってぴったり寄り添って眠る事に何ら変わりはないのだが。

 しかし、ここも、何か、違っている。

 ベッドに腰をかけて手を触れた瞬間、理解した。
 新品だ。
 ベッドカバーも、シーツも、枕カバーも何もかも、ついぞ自分が洗濯した覚えのないまっさらな新品、しかも肌触りのよい上質のものばかり。

 アレックス……気ぃ使いすぎだ!
 
 何もかも新婚の初夜のために整えられたものなのだと理解した瞬間。ぽつっと体の中央に一粒、堅い物が落ちて。池に広がる波紋のようにひしひしと体中に広がり始めた。
 そやつの名を『緊張』と言う。

 糊付けに失敗したシャツみたいに全身つっぱらせて固まっていると、ぽん、と肩を叩かれた。

「どうしたんだい?」
「あ……その……ちょっと考え事を」
「そんな格好で?」

 言われて、改めて見下ろす。自分が今、どんな姿をしているか……。
 袖口のボタンも襟も開けたまま、白いドレスシャツ一枚でベッドの上に座っている。しかも片足であぐらをかいて。
 目元から頬骨のあたりまでかっかと熱くなるのを感じながら、ディフはそれでも精一杯平静を装って答えた。

「リラックスするんだよ。楽だし」
「別に構わないけどね。目の保養になる」
「なっ」

 慌ててがばっと上掛けのコットンケットの下に潜り込む。
 しなやかな布の向こうでくすくすと笑う気配がした。

(何やってんだ、俺は………………)

 そろりと顔をのぞかせる。

「そのままベッドから出てこないつもりかい? それとも、先にシャワーを浴びようか」
「……あ、うん、シャワー、浴びる。けっこう汗かいたからな」

 ケットの下から抜け出し、床に降りた。

「君があんなにダンスが上手いとは知らなかった」
「そう言や初めてだったな……お前と踊るの」

 言ってからしまったと思った。暗に宣言したようなもんじゃないか。他の子たちとは何度も踊ったって。

「あ……その、今のは、えっと」

 ほほ笑んでいる。口にこそ出さないが気にすることはないよ、と言っている。

「………………………これからは、何曲、何百曲だって踊ってやるから……覚悟しとけ」
「うれしいね。君のリードなら安心だ」
「……言ってろ」

 くしゃりと明るいかっ色の髪の毛をかきあげて肩を抱き、バスルームに向かった。ダンスでも踊るみたいな体勢のまま。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 シャワーを浴びながら軽くじゃれ合って、上がった所でふとディフは気づいた。

(やべえ、着替え持ってくんの、忘れた?)

 しかし脱衣所のバスケットの中にはきちんとパジャマと下着が用意されている。

(気ぃ使いすぎだ、アレックス……だが、助かった)

 ほっとしながら手にとる。ほんのりとブルーがかったグレイの光沢のある生地だ。つややかで肌にしっとり馴染む。おそらくこれも新品だろう。

(これ、まさか……シルクか?)

 まず、自分では買わない。だから余計に珍しくて髪の水気を拭き取るのもそこそこに、しげしげと手にしたパジャマを眺めていると……。
 ひそりと耳元でささやかれる。

「ディフ」
「ん?」
「今夜は、下着は着けないで……ね」

 そう言う当人は既にさっさとパジャマを身につけていた。同じ色のシルク、わずかに光沢のある青みがかったグレイの布地がしなやかな肢体を覆っている。
 あいつもあの下、ヌードなのか?
 想像しただけで体が細かく震える。早くも火照りの前兆が体に表れてしまいそうで、あわててディフは絹の寝間着を身につけた。
 かすかに笑う気配がして、先にレオンが浴室を出て行く。
 ほっとして、頭をごしごしとバスタオルでぬぐった。

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 浴室を出ようと歩き出した瞬間、ディフはとまどった。
 あるべきものがないと、やはり足元が妙にたよりない。キルトを着けてる時に比べればズボンを履いてるのだから数段マシなはずなのだが。
 どうにも、歩くたびにこのすべすべした布が肌にこすれて……落ちつかない。
 何でレオンの奴はこんなもの着たままですたすた歩けたんだろう。やっぱりあいつ、自分は下着着けてるのか?

 だとしたら……余計に恥ずかしい。自分だけがこんな格好をしてるのかと思うと。
 浴室を出て寝室に戻るとレオンはベッドに腰かけていた。サイドに置いた小さなテーブルの上にはいつの間に持ってきたのだろう。ハーフサイズのワインのボトルが一本、氷を詰めた銀色のペールの中に埋まっている。そして、クリスタルのワインググラスが二つ。

 何となくほっとして近づき、自分も隣に腰を降ろす。

「まだ飲むのか?」
「パーティの間はあまり飲まないようにしてたんだ。それに……特別な日だからね。最後は二人きりで」
「……ああ。そうだな……」

 グラスに赤い透き通る液体が注がれる。
 赤は室温でとよく言われるが、きりっと冷やした赤ワインの方がディフは好きだった。比較的辛口で渋みのあるパンチの効いたものだとなおいい。
 軽くグラスを触れあわせて喉の奥に流し込む。

「ふぅ……効くなぁ……」
「君も祝杯以外ではほとんど飲んでいなかったようだね?」
「んー……まあ、な……緊張してたし……」

 子どもたちが一緒だと思うとどうしても酔えなかったのだ。何かあったらと心配で、ここで酔っぱらう訳には行かないのだと。
 だが、今は二人っきりだ。
 そう思うと知らず知らずのうちに杯が進む。ワインの酔いが回るうちに次第にふわふわとした気分になってきた。

「あれ? もう空か?」
「そうみたいだね……」
「お前、ほとんど飲んでないんじゃないか?」
「そうでもないよ」

 穏やかな笑みを浮かべながら、レオンは目の前の愛しい人の姿をじっと観察していた。頭のてっぺんからつまさきまでじっくりと、ただし、さりげなく。
 少し湿り気を帯びた赤い髪が首筋にまとわりついている。左の首筋にほんのりと、薔薇の花びらほどの大きさの火傷の跡が浮び上がっている。
 ガチガチに緊張していたのがいい具合にほぐれてくれたようだ。

「……なんだか眠ってしまうのが惜しいな」
「ん…………」

 子どもみたいにあどけない顔でにこにこしながら、こくっとうなずいて。何かに気づいたらしく、はっとした。
 ああ、やっと気づいたのかな。この後に何が控えているのか。けれど、さっきほど堅くはなっていないようだ。ワインに感謝しよう。

 そーっと顔を寄せてのぞきこんで来る。ミルクティをそのまま透き通らせたようなヘーゼルブラウンの瞳の中央に、ゆらめく緑の炎をにじませて。
 何も言わずにほほ笑み返すと、頬に手を当ててきた。その手に自分の手を重ねると、にこっとまたほほ笑んだ。
 少しだけ顔をずらしてディフの手にキスをする。

「んっ」

 目を閉じてびくっと震えた。

(ああ……相変わらず君は、手へのキスに弱いね……)

 初めてベッドを共にした時の記憶が蘇る。あの時もこんな風に手にキスをした。この部屋のベッドの上で。

(君は小さく震えて俺を見上げて……初めて言ってくれたね。『愛してる』と)

「………………ディフ」
「何だ?」
「こんなことを言うと笑われるかもしれないけど」
「……笑わないよ。お前の言うことなら」
「眠ったらみんな夢になってしまうような気がして」
「それは……困る」

 彼は少しの間、口元に軽く握った手を当てて考え込んでいたが、そのうちくいっと手を引っぱって俺を引き寄せ、抱きしめてくれた。
 すっぽりと胸の中に抱え込むようにして

「どうだ? 夢か? ん?」

 温かな胸に顔をうずめ、首を横に振る。かすかに身じろぎする気配がして、ディフの口から小さなため息が漏れた。
 薄い、つやつやした布がこすれて刺激されたらしい。
 彼のことだ。おそらく自分の言葉に素直に従い、下着は着けていないだろう。

「何度でも証明してやるよ。夢じゃないって」
「俺はずっと結婚する気もなかったし、考えたこともなかった……こんな日がくるなんて」

 しっかりした指が。大きくて温かい手のひらが、髪を、背中をなでる。その左の薬指には青いライオンを刻印した銀色の指輪が光っている。
 自分の左手にはまるのと同じ、対になった輪が。
 その事実に。髪をかきわける指の間に触れる、確かな堅さに安堵する。

「全部、きみのおかげだよ……ありがとう」
「ありがとうって言うのは……俺の方……だ……」

 囁きの合間に耳にキスされた。ああ。くすぐったいな。

「愛してるよ」
「ああ。先に言われちまったな……俺も、愛してる」

(今だけは俺のために、ただ一人の男でいてくれ。子どもたちの『まま』なんかじゃなくて、俺一人のものに)


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【side7-2】★★★蜜月の夜2

2008/07/27 17:58 番外十海
 
「世界で一番、愛してる」
「……君は俺のすべてだよ……この先、何があっても、ずっと……」
「信じてる。お前がそう言うのだから……」

 そしてディフはレオンの頬に手を沿えて、顔を寄せて……

「あ」

 小さく呻いて体を強ばらせた。

「どうしたんだい?」
「お………男って………悲しいイキモノだな…………」

 硬直したまま、彼は耳まで赤くしてうつむき、ぼそぼそと呟いてきた。
 首筋にくっきりと赤く『薔薇の花びら』を浮び上がらせて。

「い……今ので…………………………………………………………………………………………………勃った」

 最後はほとんどとか消え入りそうな声になっている。
 ああ、まったく何て素直な子なんだろう。
 小さく笑うと、レオンは今度は自分からディフの体を抱き寄せた。喉の奥でまた、小さく呻いている。
 薄い布地の下でその鋭敏な体がどうなっているかは……手に取るようにわかるのに。

「いいじゃないか、二人きりなんだから」

 ちらっと拗ねるような顔で横を向く、その頬に手を当てて正面から見つめる。

「どうした?」
「……夢じゃないことを証明してくれるんだろ?」
「ああ。教えてやるよ……夢じゃない」

 いきなりキスしてきた。さっきまでのくすぐるような甘いキスとは明らかに違う。獣じみた息づかいで唇をむさぼられ、水音を響かせながら口の中と言わず外と言わず執拗に舐め回される。

(最初っからそんなに飛ばして大丈夫なんだろうか? とりあえず、したいようにさせてみようか……)

 肩をつかまれ、ベッドに押し倒される。

「っ、ディフ?」

 答えはない。
 ボタンを外し、慌ただしくむしり取る様にシルクの寝間着を脱がせて行く。いつもは優しげなヘーゼルブラウンの瞳が緑に燃えている。
 欲情してる証拠だ。

(ああ……可愛いな)
 
 口元に笑みが浮かぶのを余裕と思ったのか、それとも承諾と受けとめたのか。
 キスが頬から顎、喉と滑り降りて行く。やわらかく吸うだけで跡を着けないように細心の注意を払って。
 しかし、スーツの中に隠れる場所まで降りてくると急に強くなった。

「く……ディフ………」
「ここなら、跡つけてもいいだろ?」

 楽しそうだな。目をきらきらさせて。

「しょうがない……ね」

 にこっと笑って舌を這わせてきた。乱れた髪の先が肌に当たる。くすぐったい。

「ん……は……はぁ……っ……レオ……ン………」

 思った通りだ。俺の体をむさぼってる間に自分の方がどうしようもなく熱くなってきている。シルクがこすれて余計に刺激になっているのだろう。
 顔をすりよせるようにして乳首を口に含み、ちゅくちゅくと熱心にしゃぶりはじめた。
 大胆だな。まだ部屋の明かりも消していないのに……。


「ここ……堅くなってる」
「髪があたるからだよ………」


 艶めいたため息まじりのレオンの囁きに、ぞわっと体の奥の方で何かが蠢いた。自分のしている事で彼が熱く蕩けて行く、その事実に蕩けそうになる。

「……こんな風に……か?」

 今度は意識して髪の先が胸の先端にこすれるように顔をすりよせた。

「っ……く、今日は……積極的だね?」
「新婚初夜だからな」

 うるんだ瞳で見上げ、太ももなで上げる。

「あ……俺には手出しさせないつもりかい?」
「……出してみろよ」

 にやっと口の端を上げると目をすがめ、上衣のボタンを外す。上、一つだけ。くい、と襟元を緩めてちらりと胸元を見せつけた。

「君が色々してくれるならもったいないような気がしてね……」
「………………………………」

 どう言う意味だ?

「………………………」

 俺が色々してるって……。

「……う」

 したな。色々。
 ってかついさっき俺、何やった? 自分から挑発するようなマネして!

「うぅ………」

 気まずい。

 レオンの奴は相変わらずにこにこしてる。さっき、色っぽい声出したことなんかもう忘れてしまったみたいに。
 ちょっぴり悔しい。
 一方的に俺だけ、お前に夢中になってるみたいで。熱くなってるみたいで。



「笑ってないで……手、出せよ」



 ぼそりと言うと、ディフはレオンの手をとり、強引に自分の胸元に入れてしまった。

「俺だって……お前に欲情してるんだ。どうしようもないくらいに」

(本当に今夜は積極的だな……)

 レオンの口元に小さな笑みが浮かぶ。
 あからさまな言葉をそんな風に目を伏せて恥じらいながら言うなんて。
 頬にキスすると、それだけで息を飲むのが伝わってきた。耳元に低い声で囁く。一言一言、彼の耳に吹き込むようにして。
 
「もっとキスしてくれ。俺に」
「ああ……」

 言われた通り、素直に唇に濃厚なのを一つ。それから音を立てて体中に。
 レオンも腕を伸ばして抱き返し、首筋や頬にやわらかなキスを返し、広い背中をなで回す。
 二人の体でシルクがこすれているのだろう。どんどんディフの息が荒くなって行く。ちらりと見下ろす緑の瞳はうるんで今にもこぼれ落ちそうだ。
 少しだけさまよってから、ためらいがちに視線を落してくる。
 レオンの足の間に。
 既にしっかりと硬さをそなえ、形が変わっていた。
 こくっとディフの喉が鳴る。
 そろりと顔を寄せ、きつ立したペニスを両手で包み込み、先端に丁寧にキスしてきた。ほんの少し、震えながら。

「……あ」
「……レオン。感じてるのか?」

 うなずくと、嬉しそうに目を細めてぴちゃぴちゃと音を立てて舐め始めた。根本から先端まで丁寧に。
 先端まで舐め上げてまんべんなく舌を這わせる。まるでアイスクリームでも舐めるみたいに。

「あ……ぅ……ん………っ……」
「可愛いな……レオン」

 だ液で濡れそぼった舌をのばしてペニスの先端を突くとそのまま軽く含み、舌で押し出したり、軽く吸ったり。時折自分の口の周りを舐め回してから、改めてまた含む。
 そんな仕草をくり返しながらうっとりと見上げてくる。

「……きみも……最高にいやらしい顔してる……よ」
「……なっ!」

 一瞬、体を強ばらせて口を離してしまった。ぷいと横を向いて拗ねたような顔を見せたがそれもほんの数秒。

「……………………いいよ。お前になら……いくら見られても………」

 ずぶっと根本近くまで飲み込んだかと思うと激しく頭を上下させて本格的にしゃぶり始めた。
 溢れた透明な液が唇とペニスのすき間から滴り落ちるのも構わずに。

(本当に大胆だな。いつもなら、言われただけで真っ赤になってすくみ上がって動けなくなるのに)

 柔らかな髪の毛の先端が乱れてこぼれ落ち……当たる。

(これは……たまらないね)

 手を伸ばして髪をすくいとり、そのまま頬から耳までなで上げる。彼自身の赤い髪の毛で、いい具合に桜色になった肌をくすぐってやった。

「う……あっ、あっ」

 ぽろりとくわえていたモノを離して喘ぎ始めた。
 レオンの足の付け根に顔をすりつけてもじもじと腰をよじり、息を弾ませる。自分のだ液で濡れて光るペニスに顔を寄せたまま。

「く……ん……あっ………ぅ……髪の毛……いじるのは……は、反則……だ……あっ」
「反則? 何故?」

 そのままゆるくウェーブのかかった赤毛で耳を包み込み、もみしだく。一段と声が高くなった。

「くぅ……う……知ってて……やってる……だろうが……俺が……そこ、弱いってっ」
「じゃあ、やめようか」

 ぴくっとディフの体が凍りつく。さっきまで睨んでいたくせに、今はもうおいてきぼりをくらった子犬みたいな表情だ。
 ふるふる首を横に振って、抱きついてきた。

  
 背中に腕を回して引き寄せて、改めて唇を重ねる。舌を軽く差し入れると、堅く目を閉じて吸い付いてきた。
 求められるまま奥まで舌を差し入れ、根本から先端まで何度も舐め上げる。互いの口の中にぴちゃり、ぴちゃりと淫らな水音を響かせて。
 キスに夢中になっている間にくるりと横に転がり、自分が上になる。キングサイズのベッドは大人二人が十分に転げ回れる広さがあった。

「ん……レオン……もっと……触ってくれ………感じたいんだ……お前を」

 自分からパジャマのボタンをはずそうとしている。

(ああ、まだ早いよ、ディフ。もう少し我慢してくれないと、ね)

 手を押さえる必要もなかった。首筋や耳にキスしただけですくみあがり、手の動きが止まった。

 髪の毛をかきあげ、左の首筋に口付ける。

「あ…あぁっ……レオン……もっと……」
「……ここ?」

 同じ所を少し強く吸うとディフは湿った吐息を漏らし、自分から首筋に浮かぶ『薔薇の花びら』をさらけだしてきた。
 中々に刺激的な眺めだ。時間の底に沈んだ忌わしい歯形がちらりと脳裏を過る。歯を立てたい誘惑を意志の力で退けた。

(今、そんな事をしたら……それだけで達してしまうだろうな、君は)

「そこ……気持ち……いい……」
「こっちは?」

 ゆっくりと位置をずらして行く。しっとりと汗ばんだ肌の上に唇を這わせる。

「あ……もっと…………」
「ここ?」
「ぅ………………」

 ほんの少しためらってから、彼は言った。今にも消え入りそうな声で。
 自分の言う言葉で余計に追い詰められているようだ。いったい、どれほど感覚が研ぎ澄まされているのだろう。

「もっと……下………っ」
 
 さらに胸へと。寝間着は脱がさない。つややかな薄い布地の上から唇を当てるだけ、それでも十分すぎるくらいに刺激になっているらしい。
 堅く尖った乳首に舌を這わせる。

「く……あぁっ」

 悲鳴が上がり、背中を反らせる。とりもなおさずその動作は、堅くなった足の間の逸物をレオンにこすりつけるような動きになってしまった。

「う……レオン……も……う………」

 耐え切れないのか、またパジャマを脱ごうとするその手を押さえる。

「だめだよ」
「く……うぅ」

 小さく首を横にふりながらも手は止めた。

(あまり長く君の身体を。背中の翼を見てしまったら……抑えが効かなくなりそうだ)

「この布……気持ちがいいだろ?」

 布がこすれるようにシルクの上から胸のまわりを撫でた。

「あ、あ、あぁっ、よせっ」

 よせ、と言いながらうっとりと蕩けそうな表情をしている。片手で胸のあたりを撫でながら、もう片方を背中に回してなで上げた。

「く……ふ…あっ、あっっ………ひっ」

 今度は逆に背中から腰、太もも、と撫で下ろし、膝の後ろに手を入れて持ち上げる。ズボンの布が食い込み、ディフはびくん、と背中をそらし……それからきょとん、とした顔で見上げてきた。
 どうやら胸の刺激を処理するのに頭が一杯で、自分に何が起きたか理解できなかったらしい。

「何して……あ、よせっ」

 シルクの布地にくっきりと浮かぶ欲情の塊を目を細めてじっくり愛でる。

「……ん、ああ‥‥布が薄いから‥‥よくわかる」 
「何……見て……」

 足の裏にキスをする。布の食い込む感触に追い立てられていたところにキスを受けたのが効いたのだろう。

「う……あぁっ!」

 つり上げた魚みたいにビクン、ビクン、と震え、体を跳ねさせた。

「今日はいつもより可愛い」
「ん……な訳ねえだろっ」

 可愛いと言われるたびに睨んだり、ぶっきらぼうに言葉を返してくるのは一種の照れ隠しだ……ほとんど隠れてはいないけれど。
 むしろ言われるたびに恥じらい、さらに自らの熱さをつのらせる。

「うん、いつでも可愛いけどね」
「ぁ………っっっ」

 しがみつき、今度ははっきりと腰を揺すって堅くなったペニスをすり付けてきた。先端が布にこすれてさらに刺激されたのか、顔をしかめている。
 だが……苦しんではいない。

「積極的だね……我慢できない?」
「く………」

 ぶるぶる震えながらうなずいた。

「ああ……我慢…できな……い…………助けてくれ……レオン」

 くるりと転がり、体勢を入れ替える。また、ディフが上になるように。

「あ……何?」
「助けてあげるよ……」

 仰向けになったまま手のひらを上にして人さし指を立て、ちょい、ちょい、と手招きする。

「腰をこっちに寄せて」

 彼はためらった。
 ほんの少しだけ。それでも素直ににじりよってくる。

「もうちょっと上」
「こでれいいか?」
「もう少し」

 ディフは膝立ちになり、レオンの胸を挟むようにしてまたがっている。
 よし……いい位置だ。
 手をのばすとレオンはディフのパジャマのズボンを軽く途中まで引き下ろし、ぷるんとこぼれ落ちた濡れた塊を口に含んだ。

「え……あ……レオンっ!? やっ、う、あ?」


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【side7-3】★★★蜜月の夜3

2008/07/27 17:59 番外十海
 ディフは軽くパニックを起こしそうになった。しかしレオンの腕が太ももと腰にしっかりと回され、逃げられない。

「そんなっ、こんな格好でっ」

 もし、今だれかが自分たちの姿を見たら……まるで自分がレオンの口を犯しているように見えるだろう。
 想像しただけで身がすくむ。
 しかし身体はどうしようもなく正直だ。

 レオンに強く吸い上げられているうちに我慢できなくなってきた。腰が勝手に動き始める。

「あ、あ、レオン、そんなに……強く……ああ、だめだっ」

 レオンは答えない。
 口一杯にディフのモノを頬張ったまま、後ろに回した手をズボンの中に潜り込ませ……尻の頬肉をかきわけて、後ろの口を弄り始める。

「ひっっ……も、だ……め……出る………」

 眉をぎゅっとよせてぶるぶる震えている。口の中の彼ははち切れそうに膨れあがり、どくどくと脈打っている。
 
(我慢しなくていいんだよ、ディフ……)

 胸の内でつぶやきながら、何かを欲しがるように浅く息づく後ろに指先を押し込んだ。

「あーっっっ!」

 充血した入り口は指先を美味そうにくわえ込み、一段と強く吸われたペニスの先端からレオンの中にたっぷりと、熱い精液がほとばしる。

「や……だめだ……レオン……こんな……あ……ああ」

 喉が上下してる。飲み込んでるんだ。
 あまさず飲み込み、最後まで吸い上げて……先端まで丹念にすすり上げている。

「ひ……んっ、う……くぅ……」

 レオンの姿に我を忘れて見蕩れた。
 彼の口を汚した。いけない事をしてしまったとわかっていても、目をそらす事ができなかった。勢いを失った自分の分身が彼の口中からずるりとこぼれ落ちる、その有り様にさえ胸が高鳴る。

(どうなっちまったんだ、俺はっ!)

「……きれい……だ……」
「舐めてるところが?」
「………」

 こくっとうなずく。目の縁に涙さえにじませて。
 感じたことに嘘はつけない。

「この格好だと抱きしめにくいな」
「……あ……ちょっと待ってろ」

 そろりとレオンの上から降りて脇にどいて……初めて自覚する。自分がどんな恥ずかしい姿をしているか。
 パジャマの上着のボタンは半分まで外れ、胸が露に。片袖はかろうじて肩に引っかかっているが引っぱればすぐに外れそうだ。
 ズボンなんか途中までずり落ちて膝のあたりにひっかかったままだ。

 あわてて引き上げようとしていると。

「うっ?」

 肩をつかまれ、仰向けに押し倒される。あっと思う間もなく唇がふさがれていた。

(……レオンっ)

 互いの唇をむさぼっているとぐいっと腰を引き寄せられる。
 ほんの少しの間もがいてから改めて自分の身体をすりよせ、レオンを刺激する。

「……っ、ぅ……」

 レオンの喉の奥から小さく声が漏れた。

(そうだよな。お前はまだイってないものな)
 
 しっとりと汗ばんだ体をなで回し、鎖骨のあたりにキスをする。自分よりいくぶん華奢ではあるが鞭のようにしなやかで、鹿狩りの猟犬を彷彿させる身体が手の下で震えている。
 しばらくその感触に没頭していると、レオンが髪に手をのばしてきて、指先で弄びはじめた。

「や、あぁっ……だ、だから、髪いじるのは、反則だぞっ」
「何故? 髪の毛に触覚なんか存在しない」

 低い声で囁きながら今度は耳たぶをつまんできた。

「ここには……あるけどね」
「く……うぅっ」

 だめだ。
 もう、我慢できない。
 身をよじりながらズボンを脱ぎ捨て、パジャマの残りのボタンを全部外す。
 一回自分は果てたからもう余裕だと思っていたが、甘かった。一度昇り詰めた感覚は……余計に刺激に対して鋭敏に。どん欲になっているものなのだ。

「も……やだ……」

 パジャマの上着をむしりとろうとすると、また手首を押さえられた。

「ディフ……もう少し待って」
「……………わ……わかった………」

 レオンの身体が一旦離れて行く。ベッドサイドの引き出しが開く音がして、足の間にとろりと粘つく液体が滴り落ちてきた。

「あっ、冷た……っ」
「君が……熱いんだ」

 正体はもうわかってる。ローションだ。上から二段目の引き出しの小さなボトルの中味。

「う………あ…………………きもち……いい……」

 うっすらと唇を開け、肩で息をした。体内に荒れ狂う熱を少しでも逃がそうとして。
 くるりとうつ伏せにされ、今度は背後からローションをかけられた。
 身体の窪みをつたい、流れて……さっきかけられた分と合わさり、混じり合って行く。

「く……ん……んんっ……レオン……っ」

 シーツを掴み、足を開いた。不覚にも少し震えた………与えられる刺激以外のもので。

(しっかりしろ。ここには手錠も、針もない。香っているのは花だ。消毒薬のにおいなんかじゃない)

「……怖い?」
「…………平気……だ………お前だから。信じてる」

 たっぷりローションをからめた指がアヌスの表面を撫で、つるりと奥まで入って来る。

「く……ぅう……レオン……」

 かき回された。
 いつもより動きが早い……ほんの少しだけ。

(我慢できないのは俺も同じだよ、ディフ)

「はっ、あ、う、あ、あ、あぁっ! い、いいっ、気持ち……い……あぅっ」

 腰をくねらせ、艶っぽい声で鳴いている。
 青みをおびたグレイの布の下では背中に刻まれたライオンと翼が……さぞいい色に色づいていることだろう。

「お前の……ゆび……すごく………いい……んっ、もっと……っ」
「……もっと……ね」

 ずぶりと2本目の指を沈め、彼の中で広げた。

「う……ぁっ」

 目を見開いてぶるぶる震えながら、それでも後ろの口はひくひくと震え、蠢き、2本の指をしゃぶっている。

 後ろをいじっているうちに、また前が堅くなってきたのだろうか。真新しいシーツにこすりつけ始めた。
 その動物じみた仕草に、かろうじて欲情を押さえていた鎖が引き絞られ、限界に達し……弾ける。
 一本、また一本と。

(奴も、こんな風に君を抱いたのか?)

「あ……あ……レオン……欲しい……お前の……」

 ぽってりと充血した後ろが脈動し、指を締めつける。もっと確かな存在が欲しいのだとすがりつく。

 この身体が他の男に抱かれたのかと思うと……。
 彼の意志をねじ伏せ、抗えぬよう身体の自由を奪って為されたことだとわかっていても。
 止められない。
 魂の奥底からわき上がるどす黒い嫉妬が。

(男に抱かれた君がどんな反応をするか、知り尽くしているから)

 ぐい、と指を奥までねじ込み、捻りあげる。
 くっと背中が反り返り、甲高い悲鳴がほとばしった。

「レオン……レオン……レオンっ」
 
 
 ※ ※ ※ ※


 指を引き抜き、ゴムをつけている間、ディフは指が白くなるほどシーツを握りしめて震えていた。唇を噛みしめて、堅く目を閉じて。
 くい、と上衣の襟に手をかけて引き下ろし……彼の翼にキスをした。

「ぁ」

 うっすら目を開けてほほ笑んでいる。

「挿れるよ」
「ぁっ…………来てくれ……レオン。欲しいのは、お前だけだ」

 片手をのばして、シーツを掴む手に重ねると、そろっと手を返して握り返してきた。

「……愛してる、レオン……」

 さっきから何度呼ばれたろう。すがるように、くり返し。
 自分に言い聞かせているのだ……確かにここにいるのは俺なのだと。

「……力を抜いて」
「わかった………」

 目を細めて顔を伏せるとディフは息を吐き、身体の力を抜いた。
 後ろから中に入る。
 ゆっくりと。
 ゆっくりと。

「あ………く……う……」

 震えながら受け入れてくれた。ともすれば体が堅くなりそうになるのを、必至でこらえている気配が伝わってきた。

「レオン…………」
「……大丈夫、俺のすべては君のものだ……君が望む限り」
「レオン……レオン……俺も……お前の……お前……だけの………っ」

 肩越しに振り返る彼の目からすーっと一粒涙がこぼれ落ちる。

「もう、誰にも触れさせない。二度と」
「愛してる……君だけだ……俺がほしいのは」

 ディフはうなずくとにっこりとほほ笑んで、ぐいっと握り合わせた手を引っぱった。

「今度は……俺に教えてくれ。これが夢じゃないって」
「ディフ」
「レオ……ン……」

 後ろからのしかかると背中にキスをして、奥まで突き上げる。ゆるやかな動きで、くり返し。

「あっ……あ……う……あっ」

 どうしたのだろう? 歯を食いしばり、何か懸命にこらえているようだが……恐怖や苦痛とは少しばかり質が違うようだ。
 
「だめだよ、我慢しちゃ」
「う……この……布……こすれて‥‥あ‥‥‥‥‥」

 弱々しく首を横に振っている。髪の毛が乱れて汗ばんだ首筋に張り付いた。

「だめだ………このままじゃ、俺……いやらしいこと、口走る…………も……」
「……聞かせて。夢じゃないんだろう?」

 耳たぶを甘噛みし、すうっと喉笛を指先でなで上げる。

「このっ、調子に……乗るなよ……レオンっ」

 ほとんど悲鳴に近い声だった。

「……しかたないね」

 動きを止める。
 高められた熱と欲情が唐突に彼の中で行き場を無くし、荒れ狂う。

「……………っっ」

 くしゃっと顔を歪ませた。眉根を寄せ、うっすら開いた口の端を細かく震わせている。これ以上ないと言うくらいに切なげな表情だ。

「動いてくれ……たのむ………」

 すすり泣きのような声だった。

「もっと強く……激しくしてくれ。抉ってくれ、突いてくれっ。俺の中を、お前でいっぱいにしてくれ……レオンっ」

 掠れた声を喉から振り絞り、かろうじて最後まで言い終えると、ディフは自分の耳を塞いでベッドに突っ伏してしまった。閉じた目蓋の間から涙があふれ、シーツを濡らす。食いしばった歯の間からかすかな嗚咽が漏れた。

(ああ、俺は……何てことを)

 彼を辱めてしまった。他ならぬ彼自身の言葉で。

「……ごめん」

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 そっと背中にキスをする。左右の翼の付け根に、一度ずつ。

「あ……」
「手……ついて。しっかり身体、支えて」
「わかっ……た」

 一旦入り口近くまで引いてから、おもむろに奥までえぐった。ディフに求められるまま、強く、激しく。

「あ……う……、く、あっ、う、あうっ、んんっ」

 今や絹の寝間着はすっかり肩から滑り落ち、背中が露になっていた。
 喉の奥から無防備な悲鳴が上がり、しなやかな背中がうねる。やわらかな黄褐色に彩られた翼が羽ばたく。

(やっぱり君は俺の天使だよ……)

「んっ、んっ、あ、ひ、うぅっ、んぅ、レオン……いい……気持ち……いい…レオン……レ……オ……あっ、もっと……っ」

 息も絶え絶えになりながら何度もレオンの名前を呼び、自分から腰を動かし始める。
 今までここまで素直に彼が声を挙げ、自分から快楽に溺れる姿を晒したことがあっただろうか。
 
「愛してる……ディフ……」
「俺……も…………………愛してる、レオン」

 蠢き、絡み付く後ろの感触と、乱れるディフの姿と声に追い詰められ、次第にレオンの動きが激しくなって行った。
 引き締まった腰を抱え込むと、ぐっと奥まで突き上げる。

「ひっあ、ああっ、レ……オ…………………レオンっ」

 ぐいぐいと締めつけながらディフは背を弓なりにそらせて痙攣し、熱い『ミルク』をたっぷりと吐き出した。
 かすかにほほ笑みさえ浮かべて……。
 
「く……ぅう………」

 天使の笑顔に見蕩れながら、レオンは体内に貯えていた全ての熱情を解き放ち、注ぎ込んだ。薄い膜を通して熱さを感じたのかディフの後ろがひくっとまた締まる。

 ふと見下ろすと、背中のライオンと翼がいい色に浮び上がっていた。

「ああ……きれいだ」

 顔を掏り寄せ、キスをする。
 小さな声で、ディフは甘えるようにレオンの名前を呼んでいた。くり返し、何度も、何度も。唇が触れるとびくっと震えた。

 
 ※ ※ ※ ※


 名残を惜しみつつディフの体内から抜け出すと、改めて向かい合って抱きしめた。
 安心しきった表情でしがみつき、顔を掏り寄せてくる。

「夢じゃ……ないよ……レオン………心細くなったら……教えてやる。何度でも」

 波打つ赤い髪に指をからめた。

「……君が居るなら、夢でもなんでも構わないんだ、本当は」
「一緒に居るよ。離さない………ずっと。何があっても」

 掠れた声で囁いて、ディフはレオンの頭を撫でた。ゆっくりと何度も、愛おしげに。合間に額や頬にキスをしながら。

「君がいないと……だめなんだ」
「前にも言ったろ。俺がいなくてだめになるんなら、ずーっとお前にひっついてやる、嫌だって言っても離さないって」
「ああ」
「……俺もお前がいないと、だめだ。お前でなくちゃ、だめだ」

 手をとり、左の薬指に光る指輪に口付けるレオンを、ディフはうっとりと目を細めて見守った。

「お前は……俺の唯一の伴侶だよ。大事な夫だ」
「ああ……愛してる」

 返事の代わりに、濃厚なキスが唇に。
 抱き寄せて応えながら、ディフの背に手を回す。

(そう言えば、後ろから愛し合うのは…………久しぶりだったな)

 目蓋を閉じると、翼のうねり、羽ばたく有り様が蘇る。去年の11月、倉庫の下敷きになったときの傷も今は翼の下に隠れてしまった。
 タトゥーを撫でると、喉の奥から小さな呻きが漏れた。
 小さくほくそえむと、レオンは抱きしめる腕に力を込めた。

(もう二度と誰にも触れさせない。俺だけの、愛しい天使)


(蜜月の夜/了)

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【ex5】熱い閉ざされた箱

2008/08/04 14:15 番外十海
  • 今回は番外編中の番外編とでも申しますか……いつもの『食卓』の世界観とはすこぉしだけ、別の世界にシフトしています。
  • 書いてる人間が変わらないので基本は同じ流れなのですが、ほとんどスピンオフ作品と言っていいかもしれません。
  • 海外ドラマで言うと、「CSI」や「フルハウス」よりはむしろ「デッドゾーン」寄りです。
  • 別途解説のページを設けてありますので、興味のある方はそちらも合わせてお読みいただければ幸いです。

【ex5-1】★執事に片想い

2008/08/04 14:16 番外十海
 
 カルヴィン・ランドールJr.は恋をしていた。まるでローティーンのようにもどかしい片想いを。

 基本的に恋愛なんてものは互いの波長が合うか合わないかが要だ。
 その関係を構築するのにあたっては、己の姿形や財力も少なからず大事な役割を果たしている。
 ランドールは自信家で金持ちではあったが、その辺りの仕組みもちゃんと心得た男だった。

 ルーマニア出身の母から受け継いだ、濃いサファイアブルーの瞳にウェーブのかかった黒髪。眉のラインはきりっと強く、彫りの深い、どこか異国めいたハンサムな顔立ち。
 二代目ならではの毛並みの良さ故に、己の自信に見合うだけの財力をごく自然に使いこなし、決してひけらかさない。
 全ての女性に対してはあくまで紳士的、好みの男性に対しては強引な男と紳士の顔の使い分けを心得た、分別のあるプレイボーイ。

 実際、彼はもてた。

 一夜限りの甘い情事。
 数度の食事に買い物、映画にコンサート、そしてその後のめくるめく夜を共に過ごすパートナー。
 あるいはパレード見物、きらめく夏のバカンス、感謝祭にクリスマスにニューイヤーにバレンタイン……四季折々のイベントを共に過ごす恋人。
 種類を問わず、昔から相手探しに悩んだことなど一度もなかった。

 強いて言うなら数多の候補者の中から誰を選ぶか、ぐらいのもので……。
 口説く時は気障にならない程度に適度に甘く雄弁に。別れる時は相手の心情をやわらかく包み込みつつ後腐れなくきっぱり終わる。

 そんな彼が、恋に落ちた。
 最初に会った時はそれとは気づかず、ただ別れてからも彼の人の面影が心から去らない事に気づいて『はてどうしたことだろう』と首をひねるに留まった。
 何しろその相手と言うのが今まで彼の付き合ってきた男たちとはまるきり違うタイプだったのだ。

 まず第一に著しく年上、おそらく四十代。
 空色の瞳に銀色の短い髪。きちんと背筋を伸ばして主の背後に控え、極めて有能。
 彼の名はアレックス・J・オーウェン。

 ランドールが父から受け継いだ会社の顧問弁護士、レオンハルト・ローゼンベルクの秘書だった。

 まるで執事みたいだなと思ったら実際、以前は執事をしていたらしい。
 そこまで知った頃には既に些細な用事……それこそ自分の秘書に任せればいいような些細な用事のためにさえ、ジーノ&ローゼンベルク法律事務所に足を運ぶまでになっていた。

「いらっしゃいませ、ランドールさま」
 
 事務所に入り、忠実なるアレックスの出迎えを受け、応接室に通される。
 彼の入れてくれた紅茶を味わうほんの短い間、幸せに浸る。美貌の弁護士も目の前の仕事の書類も素通りし、視線はひたすら傍らに控える執事へ。
 たまに見習いらしい金髪の少年が資料を届けに来ることもある。
 騒がしいラテンガイやがっしりしたアフリカ系の巨漢、法律事務所の個性的な面々もランドールにとっては興味の対象ではない。
 あくまでビジネス上の付き合いだけの相手だ。
 
 彼の訪問の目的は法律顧問たるレオンハルト・ローゼンベルクとの会見である。少なくとも表面上は。
 だからローゼンベルク氏の不在中に事務所を訪れてしまった時などは大義名分を失い、宙に浮く気分を味わった事も何度かある。
 目当ての人物はまさに今、目の前で主の不在を告げている本人なのだが。

「しばらく待たせてもらってもいいかな」

 その一言を言うまでにどれほどの勇気が要ることか!

「かしこまりました、それでは応接室でお待ちください」

 その一言で天使のハープの音が聞こえる。
 
「いや、ここでかまわない。それほど時間はかからないのだろう?」
「はい、じきに戻るかと存じます」

 さりげなく。有能秘書の業務を妨げない程度に話しかけつつ事務室で時間をつぶしていると(実は彼にとってはこの上もない至福のひと時だったのだが)。

「よ、アレックス。良かった、いたか!」

 望まざる訪問者が一名。ひょいと片手を挙げ、いかにも慣れた調子で入ってきた。
 よれた薄いクリーム色のワイシャツに細めの黒いタイをゆるくしめ、襟元のボタンは上一つ開けたまま。紺色のスラックスを履き、足元はすり減った革靴、フレームの小さめの眼鏡をかけた黒髪の男。
 かろうじてビジネス向けの服装と言えなくもないが、見るからに胡散臭い。およそ堅気の勤め人とは思えない。

「これはメイリールさま、いらっしゃいませ。何か、ご用ですか?」

 ちらりとこちらを見て軽く挨拶してから、胡散臭い眼鏡の男はアレックスに話しかけた。

「ちょっと確認したいことがあってさ、いいかな。結婚式のことなんだけど」

 結婚?
 一瞬、こめかみの内側でダイナマイトが炸裂しそうになる、が。
 そうだ、結婚するのはレオンハルト・ローゼンベルク氏だったと思い出し、平静を取り戻す。現に自分も招待状を受けとっているではないか。
 
 アレックスがこちらを見ている。ほほ笑んで「かまわないよ」とうなずいた。

「こないだ渡したデモテープ、聞いてくれた?」
「はい」
「バグパイプの楽団なんだけど……どーも予定の人数だと、何か、こう今イチ華にかけるっつーか寂しいんだよな。もそっと人数増やしたい」
「それですと、いささか予算を超過するかと……」
「どっか削ってやりくりできない? 料理一品減らすとか、ランクを落すとか」
「いえ、それは流石に………」

 アレックスの声のトーンが下がり、眉根に皺が寄った。彼にしてみれば耐えられないことなのだろう。

「あー、その、君。ちょっと、いいかな?」
「はい?」

 その瞬間、眼鏡の男(確かメイリールとか呼ばれていた)の口元に小さく笑いが浮かんだように見えた。

「超過する予算と言うのは、いかほどかな?」
「そーっすね………」

 メイリールはポケットから黄色の表紙のリング綴じのメモ帳を取り出し、さらさらと筆算を始めた。

「最低でも20人は欲しいから……こんなもんすかね」

 メモを受け取り、記された金額に目を通す。

「……ふむ」

 左のポケットから小切手帳を取り出し、提示された金額に少しばかり上乗せしてキリのいい数字にしたものを書き込み、署名して……アレックスにさし出す。

「これを。我が敬愛する顧問弁護士と、そのパートナーへの結婚の贈物として……」

 アレックスは少しためらって、ちらりとメイリールの方を伺った。

「ありがとうございます。えーと」
「ランドールだ」
「感謝しますよ、Mr.ランドール。レオンもディフも喜びます」

 その一言で執事は意を決したらしい。
 両手で小切手を受けとってくれた。

「ありがとうございます、ランドールさま」

 微笑を浮かべ、うやうやしく一礼するアレックスの姿を記憶に焼きつけた。どんなに些細な動きも見逃すまいと。


 ※ ※ ※ ※

 
 その夜、ランドールは夢を見た。
 お城のような広々とした屋敷……だが自分の実家ではない。彼が生まれ育った屋敷の建物はもっと近代的で機能的で。
 庭には母が手づから植えた草花があふれていた。

 どことなくヨーロッパ、それもドイツの頑強さを思わせる屋敷の庭は、葉っぱの一枚、枝の一本にいたるまでほんのわずかな乱れも許さぬくらい幾何学的、かつ直線的に整えられていた。
 
(これはこれで美しいが、しかし、味気ないと言うか、息苦しいな……)

 そんなことを考えながら糸杉の木陰にたたずみ、四角く刈り込まれた生け垣に囲まれた庭を見下ろす。
 男の子がいた。
 ぽつんと一人、芝生にたたずみ庭園を眺めている。
 明るい茶色の髪に茶色の瞳、愛らしい顔立ちをしてはいるが、およそ子どもらしいあどけなさと言うものが感じられない。
 まだ五〜六歳だろうに。

『ぼっちゃま。レオンぼっちゃま!』

 屋敷の方から呼ぶ声がする。
 男の子は振り返り、笑った。しかめていた眉をほんの少しゆるめ、口の端をほころばせただけだったが……確かに笑っていた。
 銀髪に空色の瞳の若い男が近づいてきた。年の頃は二十一、二歳ぐらいだろうか。ひと目見た瞬間、誰かわかった。

 アレックスだ!

『おやつの用意が整いましたよ』
『今日は何?』
『マドレーヌでございます』
『ん』

 男の子はうなずくと歩き出そうとして……ちらっと青年執事の顔を見上げ、おずおずと手をさし出した。
 アレックスは愛おしげに笑みを返し、それからうやうやしく男の子の手を握ると歩き出す。ゆっくりと、歩調を合わせて。

dream2.jpg ※月梨さん画『夢のような風景』

 遠ざかる二人をひっそりと木陰から見守りながら、ランドールは、ほう……と感嘆のため息をついた。

 あの頃から一緒だったのだな。
 それにしても、いくつになってもアレックスは……素敵だ。若い頃もそうだが、年を経た今だからこそ尚更に。


 ※ ※ ※ ※


 しみじみとした温かさを抱えたまま、目をさます。
 実に清々しい気分だ。

 詳細は忘れたが、良い夢を見た。
 
 それだけで今日一日、幸せに過ごせそうな気がした。


 ※ ※ ※ ※
 
 
 同じ日の朝。
 アレックスがいつもと同じ時間に規則正しくぱちりとベッドの中で目を開けていた。

(はて。何やら昔の夢を見たような……)
 
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