ようこそゲストさん

ローゼンベルク家の食卓

【ex5-4】甘く香しいお茶の記憶

2008/08/04 14:19 番外十海
 
 ランドールは首をかしげながらも目の前にたたずむヨーコを見守った。
 住宅街の中の公園。
 広々とした敷地の中には緑の芝生が敷きつめられ、背の高い木々が日光をさえぎらない程度に適度な間隔で生えている。

 芝生には何組かの家族連れ、あるいは気の合う仲間同士が飲み物や食べ物を片手にゆったりとくつろいでいた。
 折りたたみ式のテーブルや椅子、あるいはレジャーシートを広げ、大きなピクニックバスケットを傍らに置いて。

 肉の焼ける香ばしいにおいがするなと思ったら、バーベキューをしている連中もいた。
 犬を散歩させる人、のんびりとジョギングやウォーキングを楽しむ人。サイクリングコースを時折自転車が走って行く。

 日曜の公園の、ありふれた幸せの風景。いかにもサンフランシスコらしく、Tシャツにジーンズのラフな服装からシフォンのサマードレスまでさまざまな服装の人間が入り交じっている。中には革ジャケットを羽織ったものもいる。
 しかし、さすがに黒のスーツ姿の自分は浮いていた。(これでも仕事用にくらべればだいぶラフに着てはいるのだが)

 彼女に指示されるまま車を走らせ、「あ、ちょっと停めて」と言われて停まったのが20分ほど前のこと。
 すれ違う人々に笑顔で手を振り、挨拶しながらヨーコはさりげなく子ども用の遊具の並ぶ一角へと歩いていった。
 すべり台にジャングルジム、ブランコ、砂場、鉄道、シーソー、バネ仕掛けでゆらゆら動くプラスチックのロッキンホース。
 一通り見て歩くと、ヨーコはブランコのひとつに腰をかけ、目を閉じた。

 その姿勢のまま、動かない。子ども用の遊具なだけに小ぶりに作られているのだが、彼女はさして窮屈な風もなくすっぽり収まっている。
 ブランコをこぐのでもなく、いかにもベンチ代わりにひと休みしているような格好のヨーコに注意を払う者は誰もいない。

 車で待てと言われたのだが、何故だか気になってついてきてしまった。今もこうして、少し離れたベンチに腰かけて見守っている。

 いったい、彼女は何をしているのだろう?
 こんなに陽射しの強い所で、帽子も被らずに……。
 少し考えるとランドールはブランコのそばに歩み寄った。自らの体が落す影がヨーコに重なるようにして。
 これで、少しは違うだろう。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 どうしたものか。
 公園に着くまでの間、ヨーコは迷っていた。

 原則としてこの手の事件を追いかける時は必ず二人以上で行動する。常ならぬ物を見通すために集中する間、自分は外敵に対してまったく無防備になる。その間、誰かにガードしてもらう必要があるからだ。
 しかし常日頃、背後を預ける教え子の風見光一ははるか日本の空の下。従弟のサクヤはサンフランシスコ市内にいるが、今はまだ勤務中だ。
 
 何よりもまず、事件が起きているかどうかすら定かではない。
 自分の目にしたヴィジョンは、見ようと思って狙いをつけた訳ではない。まったくの偶然から流れ込んできたものだ。

 それがそののまま過去の情景なのか。それとも何か別のことを象徴しているのか、今の状態ではまったく区別がつかない。
 車の中で感じた既視感を頼りにこの公園まで来たのはいいものの、その先はまだ霧の中だ。
 遊具の間を歩き回るうち、ブランコの一つに自然と引き寄せられた。
 潜在的に読み取ったヴィジョンの断片が反応しているのか、あるいは単なる偶然か……迷うより前にまず、触れてみよう。

 ヴィジョン以外のもっと『現実的』かつ『物理的』な証拠をつかんだら警察に連絡すればいいい。幸い、警察関係者の名刺は昨日のパーティで山ほどもらった。

(できればマクダネル警部補とお話したいな……)

 いささか呑気なことを考えながらヨーコはブランコに腰を降ろし、目をとじた。
 
 閉じたまぶたの下で瞳を凝らし、自分の中を流れる意識と記憶の流れと。自分の触れているブランコに貯えられた記憶と時間の流れの間の壁に小さなすき間を開ける。
 二つの流れが混じり合った刹那、両方からくいっと引き合う小さな『点』に気づいた。

(……当たり)

 あの少年は確かにこの公園の、このブランコに座っていた。
 すき間を徐々に広げて行く。それにつれて『点』は互いに反応し、活性化して行く。
 いい調子だ……もうすぐ視覚的に捕えられるレベルにまで……ああ、来た。

 点は線へ。
 線は面へ、さらには立体に。次第に色と質量を増して行き、おぼろげな像を結び始める。
 意識の狙いを定めると、一段とくっきりと浮び上がった。確かに自分は目的地の近くにいる。

 周囲の現実が歪んで希薄になり、同じ場所、別の時間がヨーコを包む。
 立っている位置が少しだけずれていた。自分はブランコから少し離れて立っている。目の前には少年が一人、うつむいてブランコに座っていた。こちらに背を向けているが、鳶色の髪は確かにあの子のものだ。

 ヨーコはためらわず足を踏み出し、少年に近づいた。しかし足元がねばつき、なかなか前に進めない。
 ぬかるんでいるのか、時間を経ているからなのか。もう少し、ほんの数歩でいい。粘つく地面から懸命に足を引き離し、尚も前に進む。

「ねえ、君……」

 声をかけた瞬間。
 少年の背がばっくり割れて、中から闇が噴き出した。とっさに両手で顔を覆う。
 凄まじい熱風と衝撃に襲われ、ヨーコはもんどりうって後ろ向きに倒れた。

「っ、はっ」
「大丈夫か、Missヨーコ?」

 がっしりした腕が自分を支えている。
 穏やかな夏の公園。笑いさざめきながら休日のひとときを楽しむ人々。そうだ、これが……現実だ。

「あ……一体、何が……」
「いきなり、後ろ向きにひっくり返って落ちそうになったんだ。間に合って良かったよ」

 そうだ、自分はブランコに座っていて、それで……。
 危なかった。
 あのまま全くの無防備な状態で落ちていたら、後頭部を打っていたことだろう。背筋を冷たいものが走る。

「ありがとう、Mr.ランドール」
「大丈夫か? 君、真っ青だ……」

 その時になってようやく、自分がどんな状態にあるか把握した。ブランコに腰かけたまま、背後からランドールに肩を抱かれて支えられている。
 はたから見れば後ろから抱きすくめているように見えるだろう。ごく自然な恋人たちの風景。


「失礼」

 言うなり、ランドールは手を伸ばしてきた。あんまり自然な仕草だったものだからつい、警戒することを忘れた。
 あれ? と思った時には彼の手のひらが喉に触れ、次いで額にぺたりと覆い被さる。

(あったかいなあ……)
 
 それはつい今しがた、ヨーコを直撃した悪意と憎悪の噴流とは対極にあるものだった。

「熱はないようだな。だが、体温が下がってる」

 くすっとヨーコの口の端に笑みが浮かぶ。
 やれやれ、自分としたことが。ほぼ初対面の相手を前にしてこうも無防備でいられるなんて……。

 自分は彼にとって恋愛の相手でもなければ性的な興味の対象でもない。加えてこの身についた紳士ぶりときたら!
 全ての女性(と、おそらくは一部の男性)は年齢を問わず彼にとっては淑女なのだ。守り、敬うべき相手。
 今、こうして自分の額を包み込む彼の手のひらからもその想いがひしひしと伝わって来る。

 足を地面に降ろし、体を支える。ブランコの鎖を握る自分の指を引きはがし、左肩を包む優しい手に重ねた。

「大丈夫……大丈夫ですから……でも」

 寒い。
 
 さっきの一撃は、ヨーコの肉体を傷つけるほどの力こそなかったが、生きるために必要な根本的な熱を削ぎ取るには十分な威力があった。
 震える奥歯を噛みしめる。

「何か……あったかいものが飲みたい」
「わかった。車に戻ろう」

 しっかりと立ち上がるまで、ランドールはずっと支えてくれた。
 車まで歩いて行く間も、助手席に乗り込む時も、手こそ触れなかったが倒れそうになったらいつでも支えられるよう、付き添ってくれた。
 まるでダンスホールか一流のレストランでエスコートするみたいに自然な仕草と間合いで。

 座り心地のよいシートに身を沈め、深々と息を吐く。

(ミスったなあ)

 唇を噛み、目を閉じた。

(風見にばれたら……サクヤちゃんにばれたら………怒られるだろうなあ)

 一人で突っ走るな。それこそ自分が口を酸っぱくして日頃言っていることをまさに己が実行してしまったのだから。
 
「これを」

 ふっと、やわらかく温もった空気が皮膚に触れる。
 大きな手のひらに包まれた、モスグリーンの保温タンブラーがさし出されている。やさしく霧に霞む深い、古い森の色。

「気分が落ちつく。カモミールが含まれているんだ」
「ありがとう……」

 震える手で受けとり、蓋を開ける。紅茶? いや、ハーブティかな。甘い香りがする。一口含む。
 ああ……何て優しい甘さだろう。口の中に広がり、喉を、舌を包んでくれる。目に見えない滑らかな指先が、ひりつく喉を癒してくれる。

「美味しい……あ。このにおいと味!」

 がばっとヨーコは起きあがった。心配そうにのぞき込んでいたランドールが目を丸くしている。
 エウレーカ! 大声で叫びたい気分だ。ヴィジョンの中の子どもが飲んでいたのはこのお茶だ!


「Mr.ランドール! これ、この、お茶……何?」
「あ、ああハニーバニラカモミールティー」
「そうか……バニラだったんだ」
「オーガニックなティーで体にいいんだ。カフェインも含まれていないし、パッケージも独特でね。金属の部品は一切使っていない。地元のメーカーで作ってるんだ」
「売ってるお店に行きたい。連れてっていただけます?」
「ああ。いいよ。ベルト、しめて」

 言われるままシートベルトをしめて、ふと手の中でなおも優しい温もりを発するタンブラーに目を落す。

「あなたの事だからてっきり普通の紅茶か、コーヒーだと思った。何でこれ、持ち歩いてるんですか?」
「好物なんだ。スターバックスやタリーズでは売ってないからね」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「これだよ」
 
 近くのオーガニック食品専門のスーパーで、ランドールは棚に歩み寄るとぎっしり並んだハーブティの中から迷わず一つを引き抜いた。
 ヨーコは伸び上がって彼の手の中をのぞきこむ。
 青い空。朝日に照らされた緑の野原には白と黄色のカモミールの花が咲き、花に包み込まれるようにして金色のハチミツを満たしたガラス瓶が描かれている。とろりとしたハチミツは木の杓子ですくいあげられ、その周りをミツバチが飛び回っていた。

「違う……クマじゃない」
「クマだったよ。8年前まではね。リニューアルしたんだ」
「ほんとう?」
「ああ。子どもの頃からずっと愛飲していたからね。確かだよ」

 ランドールがうなずき、サファイアブルーの瞳を細めて手の中の箱を見おろした。

「ふかふかにデフォルメされた、ぬいぐるみみたいなクマだった。茶色いツボに満たしたハチミツをこう、前足ですくいとっていてね……とても幸せそうだったな」
「そのクマ、お気に入りだったのね」
「母がね」

 かすかに頬を染めると、彼はハーブティの箱をそっと手のひらで撫でた。慣れ親しんだ友人か伴侶を愛でるような手つきで。

「小さな頃の私は胃腸が弱くてね……その上、神経質でなかなか夜は寝付けない子どもだった」
「それで、お母様がこれを?」
「うむ。普通のカモミールティーはくせが強くて飲みづらい。けれどこれなら、いくらでも飲めた」

(……参ったなあ……何でこの人、こんなに可愛いんだろう)

 小さな笑みが口元に浮かぶ。困ったもんだ。相手はどう見ても自分より年上、背も高いし大企業の社長さんだ。
 わかっているのに、思わずぎゅーっとハグして頭をくしゃくしゃになで回したくなってしまう。
 自分の教え子たちにするみたいに。あるいは、サクヤにするみたいに。

 ふと、気づいた。
 ハニーバニラカモミールティーの隣に同じメーカーの普通のカモミールティーも並んでいる。手を伸ばすと、ヨーコは指先でちょん、とカモミールティの箱をつついた。

「今は、普通のカモミールティもOK?」
「そうだな、今なら……いや、やっぱりこっちの方がいい」

 結局、ランドールはハニーバニラカモミールティーを持ったままレジに行き、会計をすませたのだった。
 二つ折りにした黒革の財布からきっちり小銭を取り出し、支払う姿はどこか、まじめにお使いをする子どものようで。つい、あたたかなまなざしで見守ってしまった。

「待たせたね、Missヨーコ……それで、次はどこに行けばいい?」
「待って。今、探すから」

 再び銀色のトヨタの助手席に乗り込み、目を閉じる。必要な情報は既に得ているはずなのだ。
 問題は『いつ』に狙いを定めるか。
 昨日? 今日? 一年と一日前?

 手がかりはついさっきランドールが与えてくれた。
 ヴィジョンの中のパッケージは過去の物。少なくとも8年前のもの。
 だったらあの少年は今は子どもじゃない。当時12歳の子どもでも、8年経てば20歳の大人になる。
 頭の中で年齢を重ねる。

「あ」

 今朝ぶつかった緑と黄色のパーカーの男。顔はちらりとしか見えなかったが、鳶色の髪をしていた。
 意識して焦点を合わせる。ほんの数時間前に自分の経験した時間を呼び覚ます。
 
 別々の二人が重なり、一つになった。

「答えはずっと目の前にあった。あの子は……私がぶつかった本人の過去の姿だったんだ!」

 てっきり、当人の視点から見た光景だと思っていた。緑と黄色のパーカーを着た、背の高い男が少年を閉じ込めた時の記憶なのだと。
 しかし、実際は彼を通して過去の情景にリンクし、その場で起きた事を第三者的に見ていたのだ!

 確かに自分の能力なら、あたかも過去の情景の中を歩く様にして視点を自由に切り替えることができる。
 だが今朝は予想外のタイミングであまりに大量のイメージが流れ込んでいた。能力のコントロールができず、誰の視点で見ているのか区別がつかなかったのだ!

(惑わされた。見えすぎるのも考えものだなぁ……)

 もう一つ、確かなことがある。公園で過去を見た時、邪魔が入った。事の真相を探ろうとする自分に向けられた、明確な悪意を感じた。
 これ以上近づくな、手を引け、と。

 あれは脅しだ。と、言うことは……つまり、彼は『一人』ではない。
 
次へ→【ex5-5】熱い閉ざされた箱
拍手する