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ローゼンベルク家の食卓

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【ex8】桑港悪夢狩り紀行(前編)

2009/01/18 21:25 番外十海
  • 番外編。2006年12月の出来事。日本の高校生二人組風見とロイ、ヨーコ先生に付き添われて(付き添って?)サンフランシスコに参上。
  • 今回は番外編中の番外編、【ex5】熱い閉ざされた箱と同じ背景世界に基づくお話で、いつもの『食卓』の世界観とはすこぉしだけ、別の世界にシフトしています。
  • 書いてる人間が変わらないので基本は同じ流れなのですが、ほとんどスピンオフ作品と言っていいかもしれません。
  • 海外ドラマで言うと、「CSI」や「フルハウス」よりはむしろ「デッドゾーン」寄りです。
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【ex8-0】登場人物紹介

2009/01/18 21:28 番外十海
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【結城朔也】(右)
 通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。23歳。
 癒し系獣医。
 サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
 従姉のヨーコ(羊子)とは母親同士が双子の姉妹で顔立ちがよく似ている。
 初登場時に比べて明らかに愛らしさと可憐さが増量してるけど気にしない。
 身長はかろうじてヨーコよりは高い。
 密かに古本屋のエドワーズさんをくらくらさせている。

【結城羊子】(左)
 通称ヨーコ、サリー(朔也)の従姉。26歳。
 小動物系女教師。
 初登場時に比べて明らかに頭身縮んでるけど気にしちゃいけない。
 高校時代、サンフランシスコに留学していた。ディフやヒウェルとは同級生。
 現在は日本で高校教師をしている。実家は神社。
 凹凸の少ないコンパクトなボディに豪快な男気がぎっしり詰まっている。
 
 
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【風見光一】(右)
 目元涼やか若様系高校生。ヨーコの教え子でサクヤの後輩。17歳。
 家が剣道場をやっている。自身も剣術をたしなみ、幼い頃から祖父に鍛えられた。
 幼なじみのロイとは祖父同士が親友で、現在は同級生。
 無自覚にぶいぶい可愛さを振りまく罪な奴。

【ロイ・アーバンシュタイン】(左)
 はにかみ暴走系留学生。ヨーコの教え子。17歳。
 金髪に青い目のアメリカ人、箸を使いこなし時代劇と歴史に精通した日本通。
 祖父は映画俳優で親日家、小さい頃に風見家にステイしていたことがある。
 現在は日本に留学中。
 無自覚にキュートな幼なじみに日々くらくら。
 コウイチに近づく者は断固阻止の構え。
 
 
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【カルヴィン・ランドールJr】(左。隣にいるのは秘書のシンディ)
 純情系青年社長。ハンサムでゲイでお金持ち。33歳。
 通称カル。ジーノ&ローゼンベルク法律事務所の顧客の一人。
 世慣れた遊び人なのにどこか純真で一途に片思いなんかもしたりした。
 ヨーコとともにある事件に巻き込まれたのをきっかけに秘められた能力に目覚める。
 骨の髄からとことん紳士。全ての女性は彼にとって敬うべき「レディ」。
 風見とは海と世代を越えたメル友同士。
 
 
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【テリオス・ノースウッド】
 通称テリー。熱血系おにいちゃん。
 獣医学部の大学院生、専門はイヌ科。
 サリーの大学の友人だが周りからは彼氏と思われているらしい。
 基本的に面倒見が良く、女の子に甘い。
 動物はなんでも好きだけれど特に犬系大好き。
 社長がサリーにちょっかい出してると信じて絶賛警戒中。

【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 マクラウド探偵事務所の有能少年助手。
 双子の兄弟との深刻な仲違いがきっかけで精神不安定気味。
 そんな彼の過去の壮絶な心の傷に、夢魔の群れが忍び寄る。

【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヨーコとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 マクラウド探偵事務所の所長でオティアの保護者。
  
【オーレ/Oule】
 オティアの飼い猫。探偵事務所のびじんひしょ。
 白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
 最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
 趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。


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【ex8-1】兆シノ夢

2009/01/18 21:31 番外十海
 
 夢を見た。

 足にまとわりつく湿った砂。打ち寄せる波。手足が冷える。でも、それがここちよい。
 ばしゃりと散った波頭が鳥になる。白い翼の海鳥が周囲を円を描いて飛び回る……手をのばした瞬間、足下の暗闇に引きずり込まれた。
 窓のない暗い部屋。たちこめる獣の臭いに息が詰まる。まとわりつく手、手、手……。

 肌を這いずりまわるじっとり湿った指に悪寒が走る。振り払うのはいつでもできる。だが今はまだ早い。こらえるんだ。真実が見えてくるまで。
 意識の周囲に透明な薄い壁を張り巡らすのにとどめる。生々しい感触が少しだけ弱まり、考える余裕ができた。

(この夢、だれが見ているか……わかった)

 周囲の闇がすうっと引いて行く。夢を見ている者と自分の物理的な距離に気づいたからだろうか。

(どこ……? どこにいるの?)

 チリ……。
 かすかな鈴の音。意識を向けると、その方角に闇がわだかまっていた。
 もやもやとした闇色の霧の中心で、胎児のように丸まって眠っている子どもがいる。乾涸びた根がしゅるしゅるとまとわりついてゆく。今の彼に振り払う力はない。

 チリン!

 鈴が鳴った。さっきより強く。
 ちいさな白い猫がうなる。乾涸びた根は一瞬ひるんで後退するがまた別の根が影のようにからみつき、決してゼロにはならない。

 乾涸びた根は既に、少年の身近な人々にも狙いを定めていた。少年を拠点に現実の世界に結びつきを強めようとうごめいていた。
 今はまだ薄い、だがこのままではいつか、彼は捕まってしまう。
 急がなければ。

 高い場所にある寝室の窓の外、灯りに群がる虫のように『よからぬもの』どもが飛び回っている。何て数。

(でもあいつらは小物)

 本体は別にいる。瞳を凝らし、横たわる距離と時間の向こうに揺らぐ真実を見据える。
 フィルムの逆回しのように景色が巻き戻り、やがて見えてきた。最初にこの場所にやってきた『モノ』の面影が……。
 飛び回るちっぽけな魔物どもの中に、ひっそりと立つ影三つ。頭上にゆるく螺旋を描く頂く二対の角をいただき、やせ衰え枯れ木のように背が高い。裾がぼろぼろになった赤い長衣をまとっている。華奢な体格、腰はふっくらと丸みを帯び、胸元が盛り上がっていた。

(見つけた)

 いきなりくんっと視界が後退した。現(うつつ)の光に包まれて、ほの暗い夜の夢がみるみる希薄になって行く。夢の終わる間際に、坂の多い海辺の街が見えた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ぱちりと目を開けると、結城羊子はベッドの上に半身を起こした。

「シスコか……」

 寝間着がじっとりと湿っている。獣くさい息のにおい、肌の上を這いずる指……わずかに身震いすると羊子は頭をゆすって忌まわしい夢の名残を払いのけた。
 普段は滅多にこんな風に海の向こうの異変を感知することはない。だが、サンフランシスコは彼女にとっては特別だ。わずか一年だったけど自分はあの町に暮らしていた。住んでいた。思春期の多感なひとときを確かにあの町で過ごした。
 友人も多いし、今は従弟のサクヤが住んでいる。

 どこで、何が起きているのかは知ることができた。

 何者かがあの子を狙っている。過去の傷を足がかりに彼の心を浸食しようとしている。なまじ人にはない能力を持っている子なだけに、支配されてしまったら取り返しのつかないことになる!
 しかも今回の相手は宿主を拠点にしてその家族を狙う性質を持っているようだ。このままでは、もう一人の少年や赤毛の気さくな友人、それに彼の愛する伴侶にも危害が及ぶ。狙われた少年にぞっこん参ってるへたれ眼鏡にも。

 元々あの子はああいったモノを引きつけやすい傾向がある。これまではサクヤとカルが対応してきたし、身近に『お守り』もある。
 ……だが、今度ばかりはいつになく強力な奴が寄って来たようだ。
 
 枕元でメール受信を知らせる携帯のライトがチカチカと点滅していた。だれからのメールか、見なくてもわかっていた。
 

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【ex8-2】あくまで普通らしい

2009/01/18 21:34 番外十海
 2006年12月22日、明日から連休を控えた金曜日の午後。
 風見光一は成田空港の第二ターミナルの雑踏の中に居た。
 どこかでかすかに犬が吠えている。目の前を女の人がキャリーバッグに入れた猫を抱えて歩いて行く。ここから飛び立つのも、ここに降り立つのも、人間だけではない。
 正に空の玄関口だ。
 ぼーっとしたまま巨大なカートを引いて慌ただしく目の前を通り過ぎる人の流れを眺めていると、金髪の幼なじみが心配そうに声をかけてきた。

「Hey,コウイチ。どうしたんだい、ぼーっとして?」
「うん……なんだかまだ半分、夢を見ているような心地がして……」
「そうだね。ボクもまさかアメリカでクリスマスをすごすことになるなんて、思ってなかったよ」
「ロイは半分里帰りみたいなもんだもんな」
「でも、実家はワシントンだから。今回はさすがに行けないかな」
「そっか………大陸の反対側だもんな」

 二人とも終業式を終えてから一旦家に立ち寄り、私服に着替えて荷物を持ってその足でここまでやってきた。おかげでまだ頭が学校生活から抜けきっていない。
 すぐそこのカウンターでは、赤いケープ付きのコートを羽織った担任教師がプリントアウトしたeチケットの控えを手に航空会社の職員と言葉を交わしている。
 
「ふぇ?」

 いきなり素っ頓狂な声をあげた。

「あのお客様?」
「あ、いえ、何でもないです。ありがとうございました」

 はたはたと手をふり、妙にカクカクした動きで戻ってきた。

「どうかしました、ヨーコ先生?」
「あ、いや、席が……ね」
「まさか、ダブルブッキング?」
「いや、そうじゃなくて」

 今回のサンフランシスコ行きに際しては、現地のチームメイトが宿も飛行機のチケットも全て準備万端、整えてくれたはずだった。

「カルのとってくれた席………普通の席だよって言うからてっきりエコノミーか、いいとこビジネスエコノミーかと思ってたら……」
「まさか、ビジネスクラス?」
「いや。ファーストクラスだった」
「え」
「ええーっ?」
「やっぱ声でちゃうよな、うん」

 ただでさえホリデー価格で運賃の跳ね上がるこのシーズン、下手すりゃ車の買えるお値段である。現実を理解しつつも心のどこかで『何かのまちがいだろう?』なんて半信半疑で乗り込んでみたが、やっぱりきっちりファーストクラスなのだった。

「これが、ランドールさんの普通なんだ……」

 しかも3人座るべきところを座席を押さえてあったのは4つ。すなわち窓際に二人並んで座り、もう一人が前に座ってさらにその隣が空くと言う無駄、いや余裕たっぷりの采配だった。
 当然のことながら羊子が前に一人で、その後ろにロイと風見が並んで座ることになった。
 さすがファーストクラスはスペースひろびろ、冬服の男子高校生二人が並んで座っても楽に足を伸ばせる余裕があった。

「うわ、座席ひろーい」
「ほんとだ。これなら向こうに着くまで楽にすごせますね……いいのかな、高校生がファーストクラスなんか乗っちゃって」
「いいんじゃないかな。ゆったりしてるから、向こうについてすぐ、動ける」
「なるほど」

 素直にはしゃぐ風見と羊子の言葉にうなずきながらも、ロイはほんのちょっぴり残念だった。

(ああ、これがもしもエコノミーならもっとコウイチとぴとっと寄り添えるのに!)

「それにしてもさあ、君ら」

 コートを脱いだ教え子二人を代わる代わる見ながら羊子はどこか不満げに顔をしかめた。

「華がないって言うか、地味って言うか……黒いぞ」
「そうかなあ」
「色があんまし制服と代わり映えしないし?」

 確かにその通り。風見光一はカジュアル系量販店の黒のフリースに黒のジーンズ、足下はいつも学校に履いていっているスニーカー。ロイはほどよく履き慣らしたジーンズにかろうじてブルー系のシャツを重ね着してはいるものの、上に着ていたファー付きのロングコートは黒だった。

「せっかくの休みなんだから、もっと派手な服着てくればいいのに」
「黒はニンジャの基本色ですから」
「基本って……まさかロイ、その青いシャツも裏返すと黒、とか言わないよね?」
「よくおわかりで」
「……冗談抜きでリバなんだ」
「基本ですから」
「あー、あったよね、鬼平犯科帳で、そう言うの。ばっと普通の着物を裏返すと黒装束に変わるってやつ」

 風見はにまっと笑うと軽くロイをひじでつついた。

「よっ、兄さん、粋だね」
「あ、ありがとう……」

 はにかみつつほほ笑み返す幼なじみから羊子に視線を移し、着ているものをまじまじと観察してみる。

「羊子先生は、何て言うか、赤いですね」
「うん、クリスマスカラーを意識してみた」

 着ていたケープつきコートは赤に緑のタータンチェックに黒いフェイクファーの縁取り。足下は学校ではほとんどお目にかからないカフェオレ色のブーツ。(下駄箱に入らないしどうせ校内では上履きだから)
 コートの下は白のタートルネックのふかふかのカットソーにコートと同じ柄の巻きスカート、アクセントで黒のベルトを巻いている。しっかり黒のレギンスを履いているのは寒さ対策だろう。

「これはこれで妙になじみがあるって言うか、見慣れた感じだなあ……学校に赤い服はあんまし着てこないのに」
「オウ!」

 ぽん、とロイが拳で手のひらを叩いた。

「そこはかとなく配色が巫女装束デス」
「なるほど!」
「こらこら。どこの世界にブーツ履いた巫女さんがいるかね」

 結城羊子の実家は神社。そして風見とロイの二人は時々、そこでバイトをしているのである。

「そーいや結城神社のお仕事大丈夫なんですか? 年末のこの忙しい時期に、俺ら二人ともこっちに来ちゃって……」
「ああ、そのことなら心配ないよ。蒼太に助っ人頼んできたから」
「なるほどー。って、蒼太さんって……」

 時折顔を会わせる生真面目な先輩の本職を思い出し、風見とロイは目を剥いた。

「お坊さんに神社の手伝い頼んじゃったんデスカ」

 あっけにとられる二人に向かって羊子はにまっと笑い、片目をつぶる。

「大丈夫だって、日本の神様は心が広いから。何てったって八百万もいるんだぞ?」

(きっと蒼太さん本人にも同じことを言ったにちがいない)

 密かに思ったが口には出さない二人だった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 飛行機が離陸して、水平飛行に入った頃合いを見計らって羊子はキャビンアテンダントに声をかけた。

「Excuse me……」

 すかさず明るい茶色の髪に青い瞳の女性が来てくれる。

「雑誌と……キャンディをいただけますか?」
「あ、俺も雑誌ください」
「ボクも」
「かしこまりました」

 彼女はにっこりほほえむと、まもなく小さなカゴに盛ったキャンディと雑誌を三冊抱えてもどってきた。

「どうぞ」

 白いほっそりとした手が3人に雑誌を一冊ずつ手渡してくれる。風見には少年マンガを。ロイにはメンズ向けのファッション雑誌、英語版。そして羊子にはなぜか少女マンガ。

「……ありがとう」
「Thanks」
「ありがとうございます」

 軽やかに歩み去るCA嬢の背中を見送ってから、羊子がむすっとした顔で言った。

「なんでーっ? なんでロイがファッション雑誌であたしが少女マンガなわけ?」
「何でって言われましても………」
「英語版がないからじゃないですか?」
「アメコミがあるじゃん、アメコミがー」

 ぶーたれつつ羊子はキャンディの包みを開けるとぽいっと口に放り込んだ。ふわっとメロンの香りが広がり、片方の頬がぷっくり丸く膨らむ。
 苦笑して少年マンガを開きながら風見光一は密かに思った。機内で眠ることを考慮してか、今日の羊子はほとんど化粧らしい化粧をしていない。赤い服と相まっていつもに増して幼く見えてしまう。
 それでキャンディください、なんて言われちゃったら……多分、のどの乾燥を防ぐためなんだろうけれど。

(でも最大の敗因は、あれだな。アメリカのスタッフに声かけちゃったことだよな……)

 それから40分ほど、羊子は一言もしゃべらずページをめくっていた。やがてぱたり、と雑誌を閉じた気配がして座席の横から顔を出してきた。

「風見ーそっち読み終わった?」
「はい」
「じゃ、交換しよ?」
「いいですよ」
「……けっこう気に入ってマス?」
「今週のマガジン、まだ読んでなかったし?」
「って言うかコウイチ、少女マンガ読むんだ」
「うん、けっこう面白いよ? MOMO」

 ごく普通に互いのマンガ雑誌を交換して読み出す二人を見ながら、ロイは心中密かにうなった。

(……日本のマンガ文化は奥が深いデス)

 やがて2ローテーション目の読書が終わった頃。

「どうぞ、映画のプログラムです」
「あ、どうも」
「お客様にはこちらを」
「ありがとうございます」

 青い目のCA嬢がにこやかに差し出してくれたリーフレットをぺらりとめくるなり羊子の顔が固まった。

「なんで、あたしだけ……アニメ?」
「え」
「そっち見せなさい、そっちの!」
「どうぞ」
「………洋画………」
「あー、その……一冊どうぞ。俺はロイと一緒に見ますから」
「もらう」

 だが羊子が選んだのは結局、アニメーション映画の「カーズ」だった。しかも、にまにましたり、時々足をじたばたさせながら見ている。

「……けっこう気に入ってマス?」
「いや、あれは多分、吹き替え版だ」
「なるほど、声に萌えまくってるんだネ」
「麦人さんに土田大さんだもんな……」

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【ex8-3】空港にて

2009/01/18 21:36 番外十海
 およそ11時間後、サンフランシスコ国際空港にて。
 時刻は午前9時30分。慌ただしい朝の空気の中、サリーは到着ロビーで日本からの飛行機を待っていた。白いセーターに茶色のチェックのコットンスラックス、その上からダッフルコートを羽織ったその姿は例によって高校生とまちがえられそうな愛らしさ。
 着ている服からしてジュニアサイズなのだからなおさらに磨きがかかっている。
 一人で来ていたら警官に声をかけられていたかも知れない。けれど今日はありがたいことに約一名、付き添いがいた。

「まだか?」

 テリーはさっきから到着便の電光掲示板と腕時計を交互ににらんでいる。

「まだだよ。出発がちょっと遅れたみたいだしね」
「そーか……」
「テリーまで来ることないのに」
「いや、お前車持ってないだろ?」
「うん、それはすごく助かった。今回は荷物も人も3人分だしね」
「だろ? 俺も、ヨーコさんに挨拶したかったし」
「夏とはちょっとちがう顔見られるかも知れないよ? 今日は学校の生徒が一緒だし」
「そーなんだよなー、それがちょっと実感なくて……ジュニアハイで教えてるんだっけ?」
「ううん、ハイスクール」
「マジかよ。生徒にまぎれたりしないのか?」
「たまに教壇に立っててもだれも気づいてくれない時があるって」
「やっぱりな……」

「あ、来た」

 やっと来たか! でも見てる方向が逆じゃないか。何で到着ゲートじゃなくてロビーの方を見てるんだ?

 サリーの視線を追いかけてテリーは思わず口元をひくっと引きつらせた。
 ロングフレアの黒いコートを着た背の高い男が足早に歩いて来る。印象的な眉にウェーブのかかった黒髪。コートはもちろん、下に着ているスーツも靴も手入れの行き届いた高級品、しかも新品ではなく適度に体になじんでいる。
 仕草にも表情にも気負った所はみじんもない。一目見てこのクラスの衣服を身につける事に慣れているのだと知れる。

「ランドールさん!」

 黒髪の男はこちらに気づくと屈託のない笑顔で手を振った。

「やあ、サリー。遅れてすまなかったね」
「大丈夫ですよ、まだ時間があります」
「そうか、安心したよ……おや、君は……」
「どーも」

(出やがったな、遊び人社長!)

 一応、こいつが来ると聞いてはいた。だからこそ車を出すのにかこつけて空港までひっついてきたのだ。だがいざ現物と顔を合わせると……やっぱり面白くない。いらつく、むかつく、落ち着かない。

(サリーに手ぇ出しやがったら、タダじゃおかねえ)

 断固たる決意をこめてにらみつけるが爽やかな笑顔で返された。

「確かテリーくんだったね」
「はい」
「車、出してくれるそうです」
「そうか、ありがとう。さすがに私の車一台ではいささか窮屈だからね」
「窮屈って……運転手付きリムジンじゃないんすか?」
「いや、トヨタのセダンだよ。プライベートだし……遠方から来る友人を出迎えるんだ、やっぱり自分でハンドルを握りたいじゃないか」

 チクリと放ったはずの皮肉もするりとかわされる。多分向こうはかわしたと言う自覚すらしていなさそうだ。

(くそう、なんなんだこの余裕は! それともこいつ、ただの天然か?)

「あ、来た」

 今度こそ到着ゲートの方を見ている。
 ほどなくカラコロとキャスター付きのスーツケースを引っ張って、赤いコートを着た小柄な女性が姿を現した。迷わず、まっすぐにこっちに向かって歩いて来る。

「サクヤちゃーん」

 ストレートの黒髪をなびかせ、とたたたっと駆け寄ってくる。ぴょんとサリーに飛びつき、抱きつくなり頬にキスをした。

「よーこさん」
「久しぶりー」
「……やっぱアメリカ式なんだ?」
「だってここ、アメリカだよ?」
「風見くんたちが固まってるよ?」
「ありゃ?」

「ども、お久しぶりです、サクヤさん」
「Hello」
「おひさしぶり。元気そうだね」

 やや離れた場所から見守る風見とロイににこにこと挨拶してから、サクヤはちょこんと首をかしげた。

「……で、テリーにはしないの? ハグ」

 ヨーコは一旦サクヤを解放し、今度はぴょん、とテリーに抱きついた。

「テリー、久しぶり! 会えてうれしいわ」
「ようこそ、サンフランシスコへ」

 テリーは身を屈めるとを頬をすりよせた。まるで妹にするように、軽く。

「ああ、風見くんたちは会うの初めてだったよね。こっちは大学の友達でテリーって言うんだ」
「やあ」
「こっちの二人はよーこさんの高校の教え子。風見光一くんと」
「ロイ・アーバンシュタインです」
「風見光一です。よろしくお願いします」

 ややぎこちなく挨拶を交わすテリーたちの隣では、ヨーコとランドールが旧交を暖め合っていた。

「Hi,カル」
「やあ、ヨーコ」
「なんだかあまり久しぶりって感じがしないね……元気だった?」
「ああ。君も元気そうだね」
「うん。座席ひろかったし、のびのび座れた!」
「そうか。良かったよ」
「でも……あの、その……お値段張ったでしょ、あれ」
「そうでもないよ。知り合いのツテで手配してもらったからね。それに先方が気を利かせてツアー扱いにしてくれたし」
「さすが、やりくり上手い」
「私じゃないよ。秘書が有能なんだ」

 サリーは密かに安堵していた。

(よかった……ランドールさん相手にアメリカ式の挨拶やらなくて)

 どう見たって大人と子ども。人前でおおっぴらに抱擁なんか交わして、ほっぺにちゅーとかやらかしたら悪目立ちすること請け合いだ。さすがに親子には見えないだろうし。

 一方、ロイも別の理由で安堵していた。

(よかった……サクヤさんには彼氏がいたんだ!)

 もちろん、この彼氏とは言うまでもなくテリーのことである。

(ほんとうに……よかった。これで心配の種はMr.ランドールただ一人!)

「それじゃ、パーキングに行こうか」
「あ、ちょっと待ってその前に」
「おなかへった?」
「ううん、のどかわいた」

 ちらちらとヨーコが売店の方に目を走らせている。

「いいよ、荷物見ててあげるから」
「サンキュー。他に飲み物ほしい人、いる?」
「いや、私は……」
「俺も一緒に行きます」
「ボクも」
「いってらっしゃい」

 しばらくして、ヨーコはコーヒーを片手に戻ってきた。微妙に不満げな顔をして。その後ろから風見とロイが同じく紙コップを手に困ったような顔でとことと歩いてくる。

「どうしたの?」
「ワイン売ってもらえなかった……」
「あー……それはしかたないよ」
「飛行機の中でもワインもらえなかったし……」
「そのかわりトランプもらえたじゃないすか」
「アニメの絵のついたピンク色のかっわいーのだったけどな……」
「あー……」
「飛行機のミニチュア模型と、二択で」

 明らかにお子様用のサービス品。ちなみにもらったのはヨーコ一人だけ。

「こんなことなら、いっそロイに買ってもらえばよかった!」
「生徒にお酒を買わせないでくだサイ!」
「って言うか違法です、先生」

 教え子たちの突っ込みも素知らぬ振りして立て板に水と受け流し、ヨーコはちょこまかランドールに歩み寄るとくいくいとコートの袖をひっぱった。

「カル、ワイン買ってきてもらっていい?」
「ああ、いいよ。赤? 白?」
「んー……ちょっと冷えてきたから……グリューワインがいい!」

 赤ワインにオレンジピールやシナモン、クローブなどの香辛料やレーズン、ナッツ、そして砂糖を加えてあたためたこの飲み物はクリスマスに欠かせない。
 本来はヨーロッパで好まれるが期間限定で空港のカフェのメニューにのっていたらしい。
 グリューワインと聞いてサリーも目を輝かせた。

「あ、いいなそれ。俺も飲もっかな」
「OK、グリューワインを二人分だね?」
「お願いします」

 サリーとランドールの間にずいっとテリーが割り込んだ。

「お前はやめとけ!」
「えー。あっためるからアルコール飛んでるのに……」
「いいからやめとけ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「それじゃ、風見とロイをお願いね、カル」
「ああ。ホテルの位置はわかるね? 念のためナビに座標入れておくかい?」
「や、俺の車カーナビ着いてないんで」

 二台の車に分乗し、ホテルめざして走り出す。
 出発直前にだれがどの車に乗るかでほんの少し物議がかもされたものの、結局テリーの車にサリーとヨーコが。ランドールの車に風見とロイが乗って行くことで合意に達した。

「ひゃあ、やっぱりアメリカ仕様の車って大きいねー」
「ちらかっててごめんな。兄貴からの借り物なんだけど」

 ちょこんと後部座席に乗り込み、シートベルトをつける。ちなみにランドールの買ってきたグリューワインに口をつけるのは、車に乗り込むまで我慢したらしい。

「それで、ヨーコさんホテルはどこ?」
「んっとね、O'FARRELL STREETの333、HILTON SAN FRANCISCO……」

 宿泊先を書いたEメールをプリントアウトした紙を読み上げながら、さっとヨーコの顔がこわばった。

「これって。ビジネスホテル・ヒルトン戸有のサンフランシスコ支店とかじゃないよね?」
「それは、ないと思うな……」
「じゃあ、やっぱり………『あの』ヒルトンホテルなんだ……」

 一方、その頃、もう一台の車の中では。

「うわっ、広いなー。日本とは全然、建物の間合いが……って言うか土地そのものの縮尺が違うよ!」

 風見光一が初めて見るサンフランシスコの風景に目を輝かせていた。

「日の光も違う。まぶしくって、見えるもの全てが色鮮やかに輝いてるって感じだ」
「楽しんでるようだね、コウイチ」

 ちらりと後部座席をうかがい、ランドールが声をかける。風見は背筋をのばし、英語で答えた。

「はい、すごく……あの、ランドールさん」
「何だい?」
「もしかして何か心配事でもあるんですか? さっき、車のドア閉めたときに……えぇっと……」

 風見は目を閉じてとんとんとこめかみを人差し指でリズミカルに叩いた。

「ちょっと寂しそうな顔してたんで、気になって」
「本当に? そんな風に見えたかな」
「…………はい」
「参ったな」

 ちょっと苦笑すると、ランドールはできるだけ簡潔な表現を選びながらゆっくりと答えた。英語に不馴れな風見が聞き取れるように、理解できるように。
 それ故に逃げやごまかしは封じられ、自分の気持ちストレートに言わなければならない。
 しかしながら何故だかこの少年に対しては気負ったり格好をつける必要性を感じなかった。彼と話していると、自分の中に残っている子どもの部分にまっすぐに触れ、向き合ってくれるような……そんな気がするのだ。

「さっき空港で、君たちを出迎えたときにね」
「はい」
「彼女は……………私だけハグしてくれなかった」
「あ」
「ああ」
「サリーは従弟だし、テリーくんは彼の友人だ。私に比べて付き合いも長い。それは理解できるんだ……」
「もしかして、待ってました?」
「……うん」

 風見とロイは顔を見合わせた。
 
「忘れてないと思いますよ?」
「礼儀を守ってるつもりなんじゃないかな。俺たちやサクヤさん、テリーさんは年下だけど……」
「私は年上だから……かい?」

 二人の少年は声をそろえて答えた。

「Yeah!」
「なるほど、そう言うことか」

 自分にいい聞かせるようにつぶやきながらうなずくランドールの横顔を見ながら風見は思った。

 もしかしてランドールさん、拗ねてる?

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【ex8-4】チェックイン

2009/01/18 21:37 番外十海
 ユニオン・スクエアの真ん中に、どんとそびえる赤みがかった砂色の建物。
 1964年に建てられた鉛筆のようなタワーは地上46階建ての新館に高さこそ及ばないものの、このホテルのシンボルとして。またサンフランシスコのランドマークの一つとして、カリフォルニアの青空に向かってすっくとそびえ立っている。

 うやうやしくベルボーイに出迎えられ、一歩ロビーに足を踏み入れるなりヨーコは目を輝かせた。

「すごい、これ、地図だ……」
 
 なだらかなアーチを描く白い天井からはきらめくシャンデリアが等間隔で巨大な蜂の巣のようにつり下がり、敷き詰められた絨毯には古風な世界地図が描かれていた。
 そして中央には子どもの背丈ほどもある地球儀が据えられている。

「うわあ、おっきな地球儀。さわってもいいのかな。ぐるぐるしてもいいのかな」
「よーこさん、よーこさん」
「自粛してくだサイ」
「人目もありますから」
「……はーい」

 三方から一斉にたしなめられ、とりあえずこの場は一時退却することにする。

「ロビーだけでもずいぶん広いなあ。天井も高いし、バスケの試合ができそうですよね。2コート分」
「うちの学校の体育館とどっちが広いかな」
「中庭にはプールもありますヨ」
「えっ、ほんとっ?」

 背後で交わされるにぎやかな会話をほほ笑ましく思いつつ、ランドールはチェックインの手続きを済ませた。

「ヨーコ。チェックインが済んだよ。後は係の者が案内してくれる。荷物もね」

 声をかけると彼女は地球儀にのばしかけた手を慌ててひっこめて、ささっとこっちを振り向いた。

「え、もう?」
「ああ。私もできれば部屋まで案内したい所だけど、一応まだ勤務中だから……ね」
「そっか……あ、カル」
「何だい?」
「あのね」

 ちょい、ちょい、と手招きされて素直に近づく。さっきまでは普通に話していたのに、何だって急にこんな小さな声で話すのだろう?
 聞き取ろうと軽く身をかがめた瞬間。赤いコートがひるがえり、華奢な腕が巻き付いて来る。
 あ、と思ったときには柔らかなぬくもりが頬に触れ、透き通った声で告げられる。

「ありがとう、何もかも……それと……」

 最後の一言はため息よりもかすかに、確実に彼にだけ聞かせるためにささやかれた。

「えらかったね」
「…………うん」

 すぐにわかった。彼女の言葉が、単に宿と飛行機のチケットの手配に対するねぎらいだけではないと……。

『ヒゲぐらい剃りなさい、カルヴィン・ランドールJr。いい男が台無しよ?』

 やんわりと抱擁を返す。
 サリーにしていたのと比べればおとなしいキス。だがテリーの時はハグとほおずりだけだった。
 
 幸せそうににこにこしながらハグを交わす二人を見守る人たちが約3名+1。

「あー、やってるし……」
「いいんじゃないかな。空港に比べれば人目は少ないし、親子は無理でも兄妹ぐらいには、どうにか」

 風見が言ったちょうどその時、ヨーコが手をのばしてそろりとランドールの髪の毛を撫でた。

「って言うか、おねえちゃんと弟?」
「犬と飼い主だろ」
「テリー……」
「言い得て妙な表現デス」
「ロイ……」

 どっちが犬かは敢えてだれも追求しない。

「んじゃ、役目は果たしたことだし、俺そろそろ学校戻るよ」
「うん。ありがとう」
「ありがとうございました!」

 地球儀の横を通り過ぎながらヨーコに手を振ると、にこっと笑って手を振り返してくれた。その隣にはランドールがきちんと背筋を伸ばして寄り添っている。

 確かにこいつは遊び人で、しかもゲイで金持ちだ。だけど飼い主がついてるのなら……

(ひとまずサリーの身は安全だ)
 
 テリーの後ろ姿を見送りながらランドールが言った。

「いい奴だな、彼は」
「うん、いい子だよ。面倒見いいし、飴ちゃんくれたし」
「ヨーコ。君のいい人の基準は、キャンディをくれるかどうかなのかい?」
「できればケーキの方が」
「ヨーコ!」
「冗談、冗談だって」
「まったく……知らない人がお菓子をあげると言ってもついてっちゃいけないよ?」
「はーい」

 首をすくめてちょろっと舌を出してる。
 ああ、やっぱり心配だ。いっそ仕事を休んで付き添っていようか……いや、さすがにそれは過保護と言うものだろう。
 サリーも一緒だし、何より今回は腕の立つ若きナイトが二人も付き添っている。

「そろそろ私も戻らないと。秘書に首に縄をかけられて連れ戻されないうちにね」
「わお、ワイルド」
「仕事が終わったらまた来るよ。詳しいことはそのときに打ち合わせよう」
「OK。部屋に来る?」
「いや、ホテルのレストランに席を取った。ディナーをとりながら話そう」
「レストランって……インテルメッツォ(コーヒースタンド)じゃないよね?」
「まさか。最上階のシティスケープレストランだよ」
「最上階? それって……ドレスコードがあるんじゃあ」
「心配ないよ。馴染みの店だからね。あそこから眺めるサンファンシスコの夜景は最高だよ」
「それは……ちょっと見てみたいかも」
「たっぷり堪能してくれ。それじゃ、夜にまた」

 にこやかに手を振り、黒いコートをなびかせて歩いて行くランドールを見送りつつヨーコは心中密かに焦っていた。

(やっばいなー……一応、ワンピース一枚持って来たけどニットだしな……)

「よーこさん」

(アクセサリー、きちんとしたのを着ければどうにかなる……かな?)

「よーこさんってば」

(あとはシルクのスカーフ、アクセントで巻いて)

「……先生!」

 はっと顔を上げる。サリーと風見、ロイが待っていた。すぐそばには客室係が控えている。

「ごめん、すぐ行く!」


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【ex8-5】あくまで普通らしい2

2009/01/18 21:39 番外十海
 
 廊下を抜け、エレベーターに乗り、上へ上へと上がっていって……ついたところはプレジデンシャルスイート。
 ホテルの外観と同じ赤みがかった砂色のカーペットに白い壁、ソファは生成りに近いベージュ色。カーテンは渋みのある赤ワイン色、椅子やミニバー、テーブルはほんのりオレンジがかった褐色のチェリー材。
 優しい秋の日だまりを思わせるインテリアに統一された室内は、ひたすら広く、眺めも抜群。さらにそなえつけのテレビは27インチの薄型だった。

 客室係が設備の使い方を説明する間、風見とロイ、そしてサリーとヨーコの四人はひたすらぽかーんとしてうなずくばかりだった。
 やっと自分たちだけになってから口を開く。全部日本語で。

「………これがランドールさんの『普通』なんだ……」
「すご……このリビングだけであたしの1ルームマンション全部入りそう……ってか、まだ余る」

 改めて部屋中を見回し、風見がため息をついた。

「何か場違いなところに来た感じがする……」
「言うな、あたしも必死で考えないようにしてるんだ」
「こっちは寝室かな?」

 風見はとことこと歩いてゆくとドアを開けた。
 生まれて初めて泊まる高級ホテルの客室がいったいどうなってるのか好奇心もあったし、万が一にそなえて間取りを確認しておこうと言う武人としての心構えでもある。

「すごいなー、寝室が二つもある! 一つは羊子先生が使うとして……よし、ロイ、一緒(の部屋)に寝ようか!」
「う、うん。でもこれ……」

 こくんっとロイはのどを鳴らした。目元を隠すほどのびた長い前髪の陰で汗がじわっと額ににじむ。

「ダブルベッドだよ?」
「掛け布団別々にかぶれば平気だろ。これだけでかいし、それに、ちっちゃい頃はよく一緒の布団に寝てたじゃないか」

 この瞬間、ロイは彼にだけ聞こえるハレルヤの大合唱に包まれていた。

(神様アリガトウ!)

 その間、ヨーコはバスルームに鼻をつっこんでいた。

「わー、お風呂広っ! きれーい。泳げそう! アメニティグッズもすごい充実してるよサリーちゃん。ほら、化粧水まで」
「本当だ……って言うか、何でそんなこと俺に報告するの?」
「わ、この入浴剤ってバブルバス?」
「聞いてないし……」

 バスルームから響く歓声を耳にして、ロイと風見ははっとして顔を見合わせた。ここのホテルは何もかもスケールが大きめだ。さすがにバスタブは大柄なアメリカ人男性には少し窮屈かもしれないが、身長154cmの日本人女性には……。

(でかい風呂……バブルバス……泡……滑る………)
(バスタブで溺れてしまいマスっ!)

 慌てて二人はバスルームに走った。
 案の定、空のバスタブに入って悠々と仰向けに寝そべるヨーコをサリーがやれやれと言った表情で見守っていた。

「羊子先生っ!」
「何? 二人とも血相変えて」
「絶対、風呂入るときはボクらに一声かけてくださいネっ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 とりあえずリビングでスーツケースを開けて必要になりそうなものを取り出しているところにピンポーンと呼び鈴が鳴った。

「はーい」

 覗き穴から確認してからチェーンを外し、ドアを開ける。ホテルの従業員が台車に大きめのトランク一個分ほどの箱を乗せてきちんと控えていた。

「ロイ・アーバンシュタインさまにお届けものです」
「Thanks」
「こちらにサインを」
「オーケィ……」

 伝票にペンを走らせ、注意深く箱を室内に運び入れる。

「誰から?」
「おじいさまからです」
「ああ、例のもの、手配してくれたんだ」

 さくさくと外箱を開け、詰め物で守られた中身を取り出して行く。色鮮やかな包装紙とリボンで飾られた箱が三つ。
 
「これはヨーコ先生に」
「ありがとう」
「こっちはコウイチに……で、これはボク用、と」
「助かったよ。さすがに日本刀をアメリカに持ち込む訳には行かないからね」

 慎重にそれぞれのクリスマスプレゼントを開けると、中からは……。

「……ウサギ?」
「あ、キリンだ」
「ぱんだ……」

 ふかふかのぬいぐるみが三つ。一瞬、あっけにとられたがよく見ると巧みに隠されたポケットがついている。ウサギの背中、キリンの首、そしてパンダの腹に。

「凝ってるなあ……」

 ウサギの中からは手のひらにすっぽり収まるちいさな二発式の拳銃、ハイスタンダード・デリンジャー、そしてぎっしりと小箱につまった銀色の弾丸。
 キリンの首の中には小太刀が二振り。そして大きめのパンダの中には……手裏剣、クナイ、まきびし、目つぶし、カギ縄、その他ニンジャ道具がみっしり詰まっていた。

 アメリカ国内に持ち込めないものは、危険を冒して警備をかいくぐるより可能な限り現地で調達するのが吉。前もって必要なものをロイの祖父に伝えておき、宿泊先に届けてもらうよう手配しておいたのだ。

「できれば『起きてるとき』に使うような事態には陥りたくないけど、念のためにね」

 かしゃかしゃとデリンジャーの銃身を開き、また元に戻して軽く握り具合を確かめる。クセの少ないまっさらな銃だ。これなら問題なく使いこなせるだろう。

「そっちはどう?」
「申し分なしです。さすがロイのじっちゃんの見立てだな」
「無銘なれど業ものを選んだ、って言ってたヨ」
「さすが日本通だ……」

 外箱の中をのぞきこんでいたサリーがおや、と首をかしげた。

「まだプレゼントが残ってるよ? ほら、ロイあてだ」
「Oh?」

 平べったい箱から出てきたのは、今度はぬいぐるみではなかった。きちんとした黒のスーツが一着。

「やっぱ、ニンジャ色なんだ……」
「基本ですから」
「気を使ってくれたんだね。宿泊先がヒルトンだから、ドレスコードのある場所に出入りするかもしれないって」
「そうよ、ドレスコード!」

 ぴょん、とヨーコが居住まいをただした。

「夜の打ち合わせ、ね……最上階のレストランでディナーとりながらやろうってことに……」
「最上階の? すごいなー。料理美味いかな」
「いや、風見、問題はそうじゃなくてだね」

 ヨーコはびしっとロイの手にした黒いスーツを指差した。

「そのレストラン、男性は襟付きシャツにタイ着用必須」
「えっ!」

 風見はびっくり仰天、目をみひらき、両手でわたわたと自分の着ているフリースとジーンズをまさぐった。……この上もなくカジュアル。

「俺、そんなきちんとした服持ってきてないっ! ていうか、服もそうだけど、そんな高級料理店で食べたことないからマナーなんて全然ですよっ!」
「心配するな、風見。礼に始まり礼に終わる精神は万国共通のはずだ。それでも至らなかったら……」

 ごそごそとヨーコが取り出したのは、楕円形のケースにきちんと納められた朱塗りの箸。

「My箸がある!」
「おお!」

 うなずくなり風見は自分のスーツケースをごそごそ漁り、すちゃっとおそろいの紺色の塗り箸を取り出した。
 サリーは二人の箸を代わる代わる観察してからちょこんと小さく首をかしげた。

「もしかして、校章入ってる?」
「はい。戸有高校の学食では地球に優しいMy箸の使用を推奨してるんです」
「校章入りMy箸、購買部で絶賛販売中デス」

 いつの間にかロイも黒い塗り箸を構えていた。

「3人とも、お箸持ってきたんだ……」
「これさえあれば大抵の料理は食べられるからね」
「って言うか、ロイもお箸派?」
「お箸の応用性の高さと機能美はワールドワイドに優れていますから!」
「そっか……」

(それにコウイチとのお揃いだし!)

 日本に帰れば他に100人単位でお揃いの人がいるとか。現にヨーコ先生が目の前に現物を出しているとか、そんな事実は彼の頭の中には1ミリ、いや1ミクロンたりとも認識されていない。
 先生が持ってるのはただの箸。コウイチのは自分とお揃い。口に出せない分、ひたすら一途なロイだった。

(あいっかわらず風見のことしか見えてないよ、この子は……)

 何事もなかったようにさっくりと箸をしまうと、ヨーコはぽん、と風見の肩をたたいた。

「まあ実際、未成年だからそれほどやかましくは言われないと思うんだ。でもさすがにジーンズはまずいかな」
「わかりました……探してみます」
「いざとなったら貸衣装っつー手もあるし?」
「それも何だかなあ」
「それじゃ俺もスーツ着てきた方がいいね」
「そうね。持って来てここの部屋で着替えてもいいし? じゃ、あたしこれベッドルームにしまって来る」

 両手にきちんとたたんだ服を抱えて寝室に向かうヨーコを見送りつつ、風見はスーツケースの中をさらに引っ掻き回す。

「襟のついたシャツならどうにか……あ、でも下が、なあ。日本なら制服でOKだったのに……あれ?」

 スーツケースの蓋の間仕切りが妙にふくらんでいる。確かここにはほとんど物は入れなかったなずだ。
 不思議に思いつつ外してみると、中にはきちんとしたスーツが一式、収まっているではないか! 一瞬手品か何かと思ったが、スーツについているクリーニング屋のタグは近所の店のものだった。
 ふと、思い出す。この服、親戚の結婚式の時に買ったやつだ、と。

「ばあちゃんだな……!」
「よかったね、コウイチ! これで何の心配もなく食事にゆけるよ」
「うん……ほっとした」

 祖母の心遣いに感謝していると、ヨーコの部屋から「うわぁ!」っと悲鳴が聞こえてくる。

「よーこさん?」
「先生っ!」

 駆けつけた三人は、見た。
 ヨーコが口をぱくぱくさせながらクローゼットを指差しているのを。

「どうしたんですか!」
「あ、あれ、あれ、あれ………」
「あれって?」

 きちっとしたチェリー材のクローゼットの中には様々なデザインの服がずらぁりと並んでいる。それこそシックなロングドレスから、どこのお姫様か妖精さんですか? と突っ込みたくなるようなふわふわふりふりのスカート&パフスリーブのものまで。

 色も形もばらばらだが、どれもこれもフォーマルな席に着て行くのにふさわしいものばかりだ。
 
 dress.jpg
 
「た、た、たいへんだ、忘れ物がこんなにたくさん!」
「いや、忘れ物なら客室係の人が掃除の時に気づきますよ」
「この部屋とったの、ランドールさんでしょ? 多分あの人が用意してくれたんじゃないかな……ほら」

 クローゼットの中から一着選ぶとサリーはヨーコの肩に軽く合わせてみた。

「ね。サイズぴったりだもの」
「でも、でも、こんなハリウッド映画みたいなシチュエーション……ありえないよ!」
「ハリウッドならすぐそこですガ?」
「……って言うか……その………あたしには、似合わないっ」

 うろたえるヨーコを見守りながら風見がつぶやいた。

「これがランドールさんの『普通』なんだ……」
「なんかこう言うの映画であったネ、オードリー・ヘップバーン主演の」
「ああ、夜が明けるまで踊り明かしちゃうあれか」
「そうそう、スペインの雨は主に平野に降る」
「よく知ってるなあ……君たちが生まれるずーっと前の映画だよ? って言うか、俺もまだ生まれてないし」
「おじいさまがファンだったんです」
「うちのじっちゃんも」
「あー、なるほど」

 納得してサリーはうなずいた。さすが映画俳優の孫とその幼なじみだ。

「とりあえずよーこさん、よさげなの試着してみたら?」
「……そーする」
「じゃ、俺たち居間で待ってますから」

 3人が部屋を出て行ってから、ヨーコは試しにグリーンのタイトなロングドレスを試してみた。ウエストはぴったり、腰のラインもきれいに出ている。けれど、若干問題があった。

「う……まさか、これ胸がきつい?」

 はたと気づいて矯正ブラのホックを外してから軽く合わせてみる。
 ………今度はぴったり」

「見抜かれてる……」

 うれしいような。
 悔しいような。

(それにしてもカルはいつ、私のサイズ計ったんだろう?)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ヨーコが着替えている間、サリーは持参したノートパソコンをネットにつないでとあるデータベースに接続していた。
 異界の存在と渡り合うには、何をおいても情報収集が欠かせない。
『同業者仲間』が過去に遭遇した魔物は全てレジストコードをつけられ、特徴、弱点、能力、行動パターンなどが記録されるのだ。
 予知夢で見た光景や相手の姿を思い出しながら検索し、絞り込んで行く。

「今回の相手はこいつだね」
「ビビ?」
「うん。ルーマニアの民間伝承に出てくる魔女だよ。まず家族の中で一番弱った者……多くの場合は子どもに取り憑いて。じわじわと家族の生気を吸い尽くして行くんだ」
「3人一組の女の魔物、赤い服をまとい山羊の角を持つ。確かに先生の見たイメージにぴったり合いますね」
「ヨーコさんは『見通す』のが得意だからね。俺はそこまで具体的には見えなかった」

 サリーは小さく肩をすくめた。

「でもね。山羊の声は聞いた。こいつら、角だけじゃない。山羊を手下に従えてるよ」
「山羊……か。かわいい子やぎちゃんって訳じゃないんだろうな」
「複数いる感じだったかな……ああ、こいつ、呪いの力を持ってるね」
「呪い?」
「うん。厄介な相手は呪いで弱体化させてから襲うらしい」
「いやらしいデスねー。それで、弱体化ってどんな風に?」
「無力な存在に変えちゃうんだ。子どもとか、老人とか、動物とか」
「正に『悪い魔女』だなあ。弱点は?」
「今の所、鉄と火、光を使った攻撃が有効だったって報告されてる。それと昔からこの『ビビ』が寄ってこないように戸口に神聖なものを置いておく風習があったらしい」
「聖なるもの……十字架とか?」
「そうだね。あとは聖水、聖書の言葉」
「神聖なものが苦手なのか。キリスト教限定かな」
「どうだろう。ヨーロッパやアメリカに多く出現してるからかもしれないよ。このデータベースはあくまで知識と経験の蓄積だからね」
「まだまだわからない部分も多いってことだネ」

 3人で真剣に言葉を交わしつつノートパソコンの画面に見入っていると、キィ……とかすかにドアのきしむ音がしてだれかが部屋に入ってきた。
 いつものぱたぱた、ではない。そろりそろりとひそやかに、しとやかに動く気配がした。

「お」
「わお」
「わあ」

 ヨーコが立っていた。はずかしそうにほんの少し目を伏せて。

「似合ってる、似合ってますよ、先生!」
「サイズもぴったりですね。見事な眼力です、Mr.ランドール……」

 身につけているのはベルベットのノースリーブの赤いワンピース。所どころにポイントで金色のビーズが縫い付けられている。さらに上に白の長袖ボレロを羽織っていた。何だか背が高いな、と思ったら白のハイヒールを履いていた。
 そして、首には黒いリボンのチョーカーを巻いている。中央には四角いフレームに納められたカボーションカットの大きめのアメジストが光っていた。

「あれ、そのチョーカー、どっかで見たことあるな」
「うん、おばあちゃんの、帯留め。洋服着るときはこうやってる」
「何って言うか、全体的にしっくりなじんでますね、そのドレス」
「そうだネ、白と赤………ああ」

 ぽん、と拳で手のひらを叩くと、風見とロイはどちらからともなく顔を見合わせた。

「巫女装束と同じ配色なんだ!」

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【ex8-6】対面

2009/01/18 21:42 番外十海
『Hi,マックス。実は今度のクリスマスにサンフランシスコに行くことにしたの』

 兆しの夢を見、サリーからのメールを受けた直後にそのまま彼に電話をした。

『本当に? そりゃ嬉しいね。会えるんだろ?』
『うん、遊びに行く。事務所の方に』
『………事務所に? 家じゃなくて?』

 海外通話独特のタイムラグよりほんの少し長い沈黙。どこかほっとしているような気配が感じ取れた。
 彼の戸惑いが収まるまで待ってから、ゆっくりと話を続ける。

『実は高校の教え子に留学希望の子が居てね。下見を兼ねて一緒に行くことになって。で、本物のアメリカの探偵事務所を見たいって言うから……お願いしてもいい?』
『なるほど。そう言うことなら、歓迎するよ』
『ほんと? うれしいな。それじゃ、12月22日の午後にうかがうわ』
『うん、その日なら営業中だ。茶菓子は何がいい?』
『何でも』
『それは、知ってる』
『んー、最近はスコーンに甘くないクリームつけて食べるのがマイブームかも』
『OK、アレックスに頼んどくよ。それじゃ』
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 そして、当日。

「よーこさん、ドレス脱いじゃったんだ……もったいない」
「やー、さすがにあれ着て真っ昼間っからシスコの町中は歩けないでしょ」
「せっかくランドールさんに写メ送ろうとしたのに、写真撮る前に脱いじゃうんだもんなー」
「いいじゃん。夜には直に会うんだから」
「……クラスのみんなにも」
「風見!」

 ユニオン・スクエアの雑踏の中を、ヨーコとサリー、風見とロイの四人は連れ立って歩いていた。
 ヨーコとサリーは健脚だ。子どもの頃から袴姿で神社の石段を上り下りすることで自然と足腰が鍛えられたのである。さっかさっかとスケールの小ささを補ってあまりある機敏な足取りで歩く。

 風見とロイは言わずもがな、二人とも幼い頃から日々鍛錬している。ロイに至っては通行人が接触しそうになるたびにさっと間に入り、風見との接触を防ぐ芸当までやらかしている。
 全て何気ない動作の中で。

 交差点で、四角いオープンデッキ式のケーブルカーとすれ違う。赤を貴重とした屋根付きの車体は、広告用の看板でまるでレトロなクッキー缶のようににぎやかに飾られていた。

「お、ケーブルカーだ。すごいなー、海外ドラマで見たのと同じだ!」
「あっちには路面電車も走ってるんだよ。ほら。いろんな国の古い機体が走ってる」

 サリーの指差す方向には、全体がくすんだ緑色、窓部分が横一列にクリーム色に塗られたコンパクトな車体が走っていた。

「え、あれもしかして東京都電の?」
「そうだよ。日本の国旗が描かれてるでしょ?」
「本当だ。でも俺、乗るんだったらやっぱりあっちかな……」

 風見は目を輝かせてケーブルカーを追いながら小さく『Everywhere you look』(海外ドラマ「フルハウス」のテーマ)を口ずさんでいる。
 そんな彼の横顔を見ながらロイは密かに胸をきゅんきゅん言わせていた。

「When you're lost out there and you're all alone A light is waiting to carry you home……(君が一人道に迷っても、家に導く光が待っていてくれる)」

「わ、発音完璧! 風見くん、ずいぶん英語上達したんだね」
「羊子先生に特訓されました。DVDで海外ドラマ延々と視聴させられたんです」
「フルハウスを?」
「うん。アレは日常会話が多いからね。サンフランシスコが舞台だし、教材に最適だったの……あ、ここだ」

 見渡せば、そこにある。(Everywhere you look.)

 目的のオフィスビルにたどり着き、一行はエレベーターで二階に上がった。

「この先の廊下をずーっと行った突き当たりよ」
「所長のマクラウドさんって、元警察官なんでしょ?」
「うん、爆発物処理班に居たって」
「それで、今は私立探偵なんだ……背も高くて、がっちりしたタフな人なんですよね」
「ハードボイルドです」
「あー、うん、確かに職歴は正しいし頑丈で腕っ節が強いのも事実なんだけど……ね」
「まちがってはいないよ……ね」

 あいまいな表情でサリーとヨーコはそれ以上の言及を避けた。
 料理上手で人妻で二児の『まま』だと言うことは伏せておこう。現物を見せるに限る。 

 突き当たりのドアにはめ込まれた磨りガラスにはかっちりした書体で『マクラウド探偵事務所』と記されている。
 『ようこそ』とか『あなたの』とか『迅速丁寧』とか『秘密厳守』とか。余計な文字は何一つない。
 呼び鈴を押すと、中から深みのあるバリトンが返ってきた。

「どうぞ、開いてます」

 がちゃり。

 出迎えてくれたのは予想通り背の高いがっちりした男性だった。赤い髪の毛が窓からさしこむ冬の光に照り映えて燃えるように輝き、身につけたVネックのネイビーブルーのニットの上からも鍛えられた筋肉が伺える。

「Hi,マックス。元気?」
「ヨーコ。サリー!」

 ぱっと見厳つい顔が一瞬ででほころび、人懐っこそうな笑みが広がった。

「よく来てくれた。会えてうれしいよ」

 友人同士にふさわしいおとなしめのハグを交わしてから、ヨーコは教え子二人を手招きした。
 
「マックス、この子たちがあたしの教え子。風見光一と、ロイ・アーバンシュタイン」

 少しばかり緊張しながら二人は所長に挨拶した。

「初めまして、マクラウドさん」
「お会いできて嬉しいです」
「こちらこそ。ディフォレスト・マクラウドだ。ディフでもマックスでも好きな方で呼んでくれ」
「はい」

 礼儀正しく挨拶をしている間に、ひそかに所長の背後にしのびよっている奴がいた。
 足下にしのびより、ざっしざっしと爪をたててよじのぼり……肩からにゅっと顔をつきだす。

「みう」
「あ、猫」

 所長の肩の上でしっぽをぴん、と立てる白い猫に向かってサリーがにこやかに声をかける。

「こんにちは、オーレ」
「みゃっ」
「何か、とくいげですね」
「高い場所にいるからな……オティア!」

 すっとパソコンの前から金髪の少年が立ち上がり、歩み寄って来る。
 ディフが軽く身を屈めて背中を向けると、黙って白い猫を引きはがした。爪が服にひっかからないように一本ずつ丁寧に外して。
 二人ともほとんど目も合わせず、一連の作業を実になめらかにこなしている。どうやらよくあること、慣れっこってことらしい。

「……なんか……イメージが……トレンチコートより割烹着似合いそうで」
「いや、アットホームに見えて実は優秀なのかも。筋肉の着き方もきれいだし、身のこなしに隙がないヨ」
「間取りはまちがいなく、ハードボイルドっぽいんだけどなあ」

 入り口からほぼ真正面にあたる奥に木製のどっしりしたデスク、右手にパソコンの置かれたスチールデスク。
 パーテーションで仕切られた一角にはソファとローテーブルの応接セット。
 しかしよく見るとスチールデスクの足下には猫用のバスケットが置かれ、さらに壁際にはペットサークルに囲まれた猫トイレが設置されていたりするのだった。

 さらに、テーブルの上にはクッキーにスコーンにドーナッツ、マドレーヌにマフィンにタルトなど、小振りの焼き菓子が白い皿に美しく盛りつけられている。

「もしかして、かーなーりアットホームかもしれない」
「ちょっぴりよそ様のお茶の間にいる気分になって来たカモ」
「みゃっ」

 風見とロイが現実を把握している間、オティアと呼ばれた少年は白い猫を連れて事務所の隅にしつらえられた簡易キッチンへと歩いて行く。

「あ、オティア」

 ヨーコに呼ばれて立ち止まり、黙って振り返る。

「お湯だけ沸かしてもらえる?」

 怪訝そうに見ている。ヨーコはバッグから小さな紙包みを取り出した。

「これ、お土産……日本のお茶」
「グリーンティーか。ありがとう、さっそく入れてみるよ」
「そのことなんだけど、風見に任せてあげてくれる? この子のおばあちゃん、お茶の先生なの」
「ああ、いいよ」
「それじゃ、失礼して」

 やかんに水を入れて火にかけると、オティアは黙々とカップを棚から取り出して並べた。次に白い丸みをおびた形のティーポットを出しかけて一旦手を止め、風見に顔を向ける。

「ポット、これでいいのか?」
「大丈夫です。ありがとう」

 こくん、とうなずくとポットを準備し、何事もなかったように自分のデスクに戻って行く。小さく会釈をすると、風見は入れ違いにキッチンへと歩いて行った。

(この子が悪夢に狙われてるんだな)

 同じ年頃の子が被害に会っているのを見ると、つい思い出してしまう。かつて自分が"魔"に襲われたときのことを。
 すれちがいざま、さりげなく相手の様子を観察した。少しくすんだ金髪、紫の瞳。誰にも何にも無関心。
 ぶっきらぼうで無愛想だけど、内側には傷つきやすいガラスの心を抱えている。今はかろうじて意志の力で持ちこたえてはいるけれど、いつくだけてしまうか……。

 細い肩の上でもぞもぞと何かが蠢いている。おそらく常人の目にははっきりとは見えない。せいぜい勘の良い人間がぼんやりした影として認識する程度のものだった。

(あ)

 ロイに向かって目配せする。

(どうする?)
(一応取り除いておこう)

 密かにロイが動こうとしたその時だ。
 不意にオーレがぴっと耳を伏せ、オティアの肩に駆け上がると空中をばしっと前足で一撃。素早く飛び降り、何かを床から拾い上げるような仕草をした。
 首輪につけた金色の鈴がチリン、と澄んだ音色を奏でる。

(すごい)
(で、できる!)

 白い猫は満足げにピーンとシッポを立て、鼻面をふくらませるとサリーに向かってちょこまかと駆け寄った。

「に」
「……そ、そう、えらいね」

 微妙に引き気味のサリーに変わってヨーコがかがみ込み、白い猫のあごをくすぐる。

「ありがとう」
「みゃー」

 かぱっとピンクの口を開けて答えるオーレから何かを受け取るような仕草をし、くっと拳を握った。
 ディフが身を屈めてのぞきこんだ。

「虫でもいたのか?」
「ううん。何も」

 手のひらを開く。確かに空っぽだった………少なくともディフの目にはそう見えた。だが風見とロイ、サリーには灰色の塵がくたくたと、空気にとけ込むようにして消えるのがわかった。

 ふっと手のひらを軽く吹くとヨーコはオーレに向かって手のひらを上にしてさしのべた。白い猫は満足げにのどを鳴らし、彼女の手に顔をすり寄せている。

「勇敢なお姫様なのね、オーレは」
「み!」
「そっか、今は勤務中だから美人秘書なんだ」
「んにゃっ」
「この鈴、そんなに気に入ってくれてるの? よかった。お似合いよ」
「みゃー」

「猫好きなんだな、彼女」
「え、ああ、うん、そうだね、実家でも飼ってるし」
「ポチって言うんだっけ?」
「いや、それは猫じゃない」

 サリーは密かに思った。

(よーこさん、猫と普通に会話してるし……)

 彼女には自分と違って動物と話す能力はないはずだ。ないはずなんだけど、直感と共感で何となく意志疎通できているんだろう。たぶん、きっと。

(あれじゃ魔女って言われるのも無理ないや)

「どうぞ、お茶が入りました」

 風見の運んできたお茶を一口すすり、ディフは目を細めた。

「ああ……いい香りだ。渋みも少ないし、ずいぶん口あたりがまろやかなんだな」
「少し温めのお湯で入れたんです」

 オティアも静かにカップの中身を口にふくんでいる。表情はほとんど動かないが、どうやら気に入ったらしい。

「Yummy! Yummy! Yummy! It's taste so good!」

 一方では満面の笑顔で焼き菓子にかぶりついてる奴が約一名。

「おいしー、おいしー、おいしー。これ全部アレックスのハンドメイドだよね? アレックスさいこー、すごーい」

 乳白色のクロテッドクリームに杏のジャムをほんの少し添えて。英語と日本語で交互に「おいしい」と繰り返し、スコーンを両手で抱えてさくさく食べるヨーコを見ながらディフが言った。

「……リスみたいだな」
「やっぱり、そう思います?」
「うん。そこはかとなく小動物っぽい」
「何かゆった?」

 二つ目のスコーンを抱えてちょこんと首をかしげていた。

「ヨーコ。君、何って言うか……高校生の時とくらべて、変わったな」
「そりゃ、10年も経ったんだし」
「あの時の君は、きりっとして面倒見がよくて、姉さんみたいだった」
「そんな風に見てたんだ……」
「今も基本的な所は変わらないよ。でも肩の力がいいぐあいに抜けてる」

 はた、とヨーコの動きが止まった。

「いっぱいいっぱいに背伸びしているような危うさがなくなった」
「先生、高校生の時はそんな子だったんだ」
「意外デス」
「ああ。飯食うときもほとんど表情動かさずに黙々と食ってた」
「えー!」
「でも、すごくいっぱい食べてた?」
「うん、パイの大食いコンテストに飛び入りで参加して、10代の部で優勝した事がある」
「あー、なんかすっごく想像できるな、それは」
「さすがデス……」

 じわじわとヨーコの頬に赤みが広がり、耳たぶまで広がって行き……やにわに持ってるスコーンを猛烈な勢いで食べ始めた。
 またたく間に食べ終わるとすかさずクッキーに手をのばしてさくさくさくさく。これもあっと言う間にたいらげて、お茶を飲んでふーっと息をつく。

「先生、口」

 絶妙のタイミングで風見が声をかけ、ちょん、ちょん、と自分の口の端を指先でつついた。

「クッキーついてます」
「うん……ありがと」

 ハンカチをとりだしてくしくしと口元を拭う姿を見てディフがうなずいた。

「やっぱり丸くなったな、ヨーコ」
「あなたもね、マックス」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「それじゃ、またね、マックス」
「ああ。帰るまでにもう一度くらい顔出せよ?」
「うん、ありがとう」
「お邪魔しました」
「失礼シマス」

 事務所を出るなり、今の今までにこやかだった四人の表情がいっせいに引き締まる。しばらく廊下を歩いてから、ヨーコが日本語で切り出した。

「どう思う?」

 神妙な面持ちで風見が答える。

「……かなりやばいですね」
「強いパワーを持ってるのに、繊細すぎて、今にも折れてしまいそうで……無理に近づいちゃいけない気がしまシタ」
「うん、そんな感じがした。ガラスの心の天使ってイメージだ」
「あの子も所長さんも危険な状態だヨ。もう一人の兄弟も、おそらく……」

 サリーがうなずいた。
 マクラウド探偵事務所を訪れたのは、単に旧交をあたためるためだけではない。

「まず弱った一人を狙って、その子を拠点に家族にも手を伸ばすのが『ビビ』の常套手段らしいからね」
「あの猫が首につけてる鈴、結城神社のお守りですよね?」
「うん。あれのおかげでだいぶ助かってるけど、最近は敵の数が増えてきちゃって……さっきもオティアに一匹まとわりついてたし」
「白い猫さんに撃墜されたやつですね」
「そう、あれ。夜になると親玉の邪気に釣られて羽虫みたいな有象無象がブンブン飛び回っちゃってまー、かなり五月蝿そう」
「山羊にはアブがつきものデスから」

 サリーがぶるっと身震いした。

「やめてよ、その表現。できるだけ意識しないようにしてるのに」
「Sorry……」
「ごめん」

 エレベーターを待ちながら風見は己の手のひらをしみじみと見つめた。指先までぽわぽわと火照って熱い。
 ついさっき、お茶を媒介にして放った力の余波がまだ手のひらに残っているようだ。

「一応、応急処置はしときました。どうにか今夜までは自力で持ちこたえてくれるんじゃないかな。あの子、意志が強そうだったし」
「上等! えらいぞ、風見」

 満面の笑みを浮かべてヨーコがのびあがり、首に腕をまきつける。そのままわしわしと髪の毛をなでまわした。学校でよくやるように遠慮なく。

「だーかーら。頭なでるのやめてくださいよ子どもじゃないんだから」
「照れるな照れるな」

 やめてくださいよ、といいながら風見も心底いやそうな顔はしていない。先生が自分の力を認め、ほめてくれたことが嬉しいのだ。ただ表立って喜ぶのがちょっぴり気恥ずかしいだけで……。
 ヨーコも彼の気持ちをちゃんとわかっている。普段は厳しいが、その分ほめるべきときは躊躇なくほめる。全力でねぎらう。

 そんな二人を見守りつつ、ロイはきゅっと拳を握っていた。

(ああ……今だけボクはヨーコ先生になりたい)
 
 オフィスビルを出ると、ちょうどホットドックの移動販売車が停まっていた。既に時間は午後3時、ランチには遅くディナーには早い。それでもちらほらとお客が訪れ、決して人の流れが途切れることがないのが不思議だった。

「よし、ごほうびにホットドッグおごってあげよう!」
「さっきあんなに食べたばっかりじゃないですか!」
「うん、だからひとっつだけ」
「このコンパクトなボディのいったいドコに入るんダロウ……」
「謎だね」
「レシピは先生におまかせ、でいいかな?」
「はい! ……って、レシピ?」

 ちょこまかと屋台に近寄って行くと、ヨーコはすちゃっと片手を上げて店員に呼びかけた。

「Hey,Mr! ホットドック3つ、オニオンとケチャップはたっぷりでマスタードとピクルスは控えめにね。あとコーヒー一つ、お願い!」

 最後のお願い(Please)の一言で、店員の顔ににまっと野太い笑みが浮かんだ。

「OK,little Miss!」
「あれ、一個足りないんじゃ」
「ああ、俺は食べないから」
「わかってるんだ」
「いつものことだしね」

 パンからはみ出すほどの太いソーセージを柔らかく甘みのある小振りなパンに挟み、さらにその上からペーパーナプキンでくるんでそのままがぶり。
 ホットドッグをかじりつつ、サリーはコーヒーをすすりつつ、歩き続ける。

「アメリカのホットドッグって、パンが角張ってるんだ」
「日本だとコッペパンっぽい形のが主流だものネ。あっちの方がボクにとっては斬新だったヨ」
  

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【ex8-7】出陣

2009/01/18 21:46 番外十海
 めいめい食べ終わり、飲み終わった頃にはオフィス街を抜け、徐々に住宅街へとさしかかっていた。

「あれ、ホテル通り過ぎちゃったんじゃ……」
「うん、どうせだからダイブするための場所も『下見』しとこうと思って」
「なるほど」
「よさそうな場所、見つけておいたよ」

 サリーは一行を住宅街の一角にある公園へと案内した。寒さと乾燥に強い芝生は真夏ほどではないものの、まだ緑を色濃く残してふかふかと生い茂り、木々の中であるものは葉を落とし、またあるものはつやつやと堅い丈夫な葉を広げている。
 
「……どう、ここ?」

 ヨーコは公園の中を歩き回る。滑り台に回転シーソー、ブランコ、砂場、ジャングルジム、プラスチックのちっちゃなロッキンホース。
 遊具の間を通り過ぎ、大きな木の根元で足を止めた。

「うん、いいね。使えそう」

 すっとまぶたを細めて梢を見やる。
 青い空をひび割れのように縁取る枝を透かして、ほど近い場所に6F建てのマンションがそびえていた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ビビか。小さい頃聞いたことがあるよ」

 夜。
 ホテルの最上階のレストランは「シティスケープ」の名にふさわしく壁の一面がほぼガラス張りの窓になっていて、眼下にはサンフランシスコの町の灯火が夜空に散った宝石さながらにきらめいている。
 ことにクリスマス前のこの時期はイルミネーションがチカチカと。一般家庭のものから街の広場、デパートの大掛かりなものまでいたる所で輝きを添えている。

「ああ、カルのお母様はルーマニアの出身ですものね」
「うむ。赤い服を着て子どもと母親を狙う魔女の話を、ね……ベッドに早く入らせるための方便かとも思ったが、今思えばあれは多分」
「用心させるために知識を伝えてたのかもしれないわね?」
「そうなんだ。小さい頃の私は……人の目には見えないモノが見えていた。大人になってからはそんなことも少なくなって、夢だったんだろうと思っていたよ」
 
 ランドールはほのかにほほ笑むと、テーブルに並んだ一同の顔を見渡した。
 ストライプのダークグレイのスーツに赤いネクタイをしめた風見と、黒いスーツに青のクロスタイをしめたロイ。そして見覚えのある濃いめの茶色のスーツに紺色のタイを締めたサリーと、その隣にちょこんと座ったヨーコ……

『Hey,Mr.ランドール!』
『乗せていただける? 緊急事態なの』

 8月のあの日、彼女に呼び止められたのが全ての始まりだった。

「君たちに会うまでは、ね」

 にまっとほほ笑むとヨーコはグラスを軽く掲げた。
 背の高いフルートグラスの中身は炭酸入りのミネラルウォーター。底から立ちのぼる細かな泡に包まれて、薄切りのライムがひとひら浮いている。
 この後に大事が控えているのだ。お楽しみは事件解決後の祝杯までとっておこう。

「正確にはビビ『そのもの』ではないかもしれないの。形すら定かではなかったもやもやっとした存在が、取り憑いた犠牲者の記憶とイメージを吸収して次第に確固たる恐怖に形を変えて行き、やがては現実をも浸食する力を持つに至る……それが『悪夢』(ナイトメア)」
 
 サリーがうなずき、後を続ける。

「具現化したナイトメアは手強い。けれど悪いことばかりでもないんです。取り込んできた伝承の『規則』にも縛られるから」
「伝承にあるのと同じ固有の弱点を持つと言うことだね?」
「その通り! あたしたちの力は万能でもないし無限でもない。だからこうしてチームを組むの。あ、風見、塩とってくれる?」
「どうぞ」
「サンキュ」

 軽く料理に塩を振り、ソースの味を調整している。

「力を合わせて、互いに足りない所を補って……」

 ヨーコは手にしたナイフで器用に皿の上の肉を一口ぶん、さくっと切り取った。鮮やかな手つきでカチャリとも音を立てずに。

「相手の正体を見極め、弱点を突いて倒す」

 さらりと言い切ると、ぱくりと肉を口に入れた。途端に顔全体がふにゃあっとゆるむ。さっきまでの凛とした表情が嘘のようだ。

「ふぇ……お肉がとろける……おいしーい」

 アメリカのレストランの常として、この店の料理は肉食主体の成人男子を基準としていた。故に量はかなり多い。
 育ち盛りの風見とロイはともかく、ヨーコは食べきれるだろうかとランドールは密かに心配していた。サリーの小食ぶりから察して、この小さなレディにはいささか多すぎるのではないか、と。だが、杞憂に終わった。

 前菜、サラダ、スープにパン、メインの肉料理までヨーコは気持ちいいくらいにぱくぱくと完食している。ナイフとフォークを器用に操り、服やテーブルクロスに一滴も、ひとかけらもこぼさずに。

 仕事が終わってホテルの部屋に迎えに行った時、ランドールは神妙な面持ちの風見とロイに手招きされた。

『これから何が起きてもびっくりしないでくださいね?』
『ヨーコ先生にとってはきわめてフツーのことなんです。引かないであげてください』
『お願いします!』

 あれはどうやら、このことを指していたらしい。
 確かに旺盛な食欲に少しばかり驚いたが、長旅で体力を消耗した分、食べて補っているのだろう。いいではないか、実に何と言うか、健康的だ。

「くぅう……たまらないなぁ。もう、幸せ……」

 それに、この美味しそうな表情ときたら! 顔だけではない。小さな体全身で喜びを現している。シェフに見せてやりたいと思った。
 ただし。
 いかにテーブルの下とは言え、足をじたばたさせるのはいただけないな。
 後でそれとなく指導しておこう。

 一方、風見とロイは別の意味でほっと胸をなでおろしていた。

(よかった……ランドールさん、引いてない)
(見た目と行動のギャップが有り過ぎです、先生)

「ヨーコ」
「何?」

 そっと指先で口元を拭う。

「あ……ついてた」
「うん。パセリがね」
「うっかりしてた」

 頬を赤らめ、目を伏せた。
 彼女は行動こそダイナミックだが、よく見ると仕草の一つ一つは楚々としていて細やかだ。装えばちゃんと、それにふさわしい立ち居振る舞いで動くことのできる人なのだ。
 ただし、まだ原石のきらめきた。洗練された淑女にはいささか遠い。

(これは、かなり磨きがいがありそうだ)

「失礼します。デザートをお持ちしました。こちらのケーキからお好きなのをお選びください」
「わ……あ……」

 目を輝かせてワゴンに並ぶケーキを見つめている。

「うーん……苺のタルト……いや、洋梨のシブースト……あ、でもチョコレートもいいなあ………ど、どうしよう……」

 にこやかにロイが言った。

「苺がいいのでは? お好きでしょう?」
「うん」
「カロリーも一番低いし、お腹にたまりマスし」
「……」

 もそっとテーブルクロスの下で足の動く気配がした。

「っ」

 ロイが声もなく顔をひきつらせ、椅子にこしかけたまますくみあがる。

「スミマセン、失言でした………」
「わかればよろしい」 

 さくっと言い捨てるとヨーコはウェイターに向かってこの上なく晴れやかに微笑みかけた。

「苺のタルトをいただけますか?」
「かしこまりました。どうぞ」
「ありがとう」

 至福の表情で苺を味わうヨーコの隣で、風見がぽんぽんとロイの背中を叩いてなぐさめていた。

 
 ※ ※ ※ ※

 
 食事を終えて、一旦部屋に引き上げる。

「さて、着替えますか……『戦闘服』に」
「はい」
「御意」
「あ、ヨーコ」

 ベッドルームに向かおうとするヨーコをランドールが呼び止めた。

「はい?」
「その服を選んでくれたんだね。何となくそれが一番君に合いそうな気がしたんだ……」
「う……あ……う、うん。この感じ、好き」
「そうか。うれしいよ。また着て見せてくれるね?」

 深みのあるサファイアブルーの瞳がじっと見下ろしてくる。部屋の照明のせいだろうか。瞳孔と虹彩の境目すらわからないくらい濃い、極上の青。
 参ったなあ。このタイミングで言うか? これから脱ごうって時に。レストランに行く前は何も言わなかったくせに。ただにこっとほほ笑んで当然って顔して手をさしのべてきた。
 一瞬、何だろうって思ったけど、『どうぞ』と言われて初めてエスコートされているんだと気づいた。

 本当に、この人って……紳士なんだなあ。
 自然体で。

「……うん。いいよ」

 嬉しそうにうなずいてる。
 おしゃれするのはきらいじゃない。自分にどんなものが似合うのかもちゃんとわかっているし、ほめられれば嬉しい。
 一回こっきりのドレスアップのつもりだったけれど、また着てもいいかなと思った。

 彼が喜んでくれるなら、なおさらに。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「お待たせ。さ、出かけようか」

 ホテルを出てランドールの車に乗り込み、下見した公園へと向かう。助手席にサリーが乗り、後部座席に風見とロイ、そしてヨーコが並んで座った。後ろがちょっとばかり窮屈だったが文句を言う人間はいなかった。
 若干一名、幸せのあまり心停止寸前に陥ってる奴がいたが。

「なぜ、わざわざ外へ? ホテルの部屋からでも行けるんじゃないかい?」
「うーん確かにそれも可能ではあるんですけれど……あそこ、けっこう人の出入りが多くてざわざわしてるでしょう?」
「ドリームダイブ用に結界を、ね。浄められた空間を用意しなきゃいけないんだけど、あまり向いてなかったの」
「ベテランの術者なら繁華街の真ん中だろうと、試合中のリングサイドだろうとばしばし行けちゃうんですけどね……」
「あたしたちの場合は場所を選んだ方が確実なんだ」
「なるほど」
 
 目的の公園の駐車場に車を停める。周囲の家には庭先にクリスマスツリーが建てられ、全体に巻かれた細いライトの灯りがちかちかと控えめにまたたいている。
 町の中心部と違ってこの一角は、はしごを登る電動サンタや1/1サイズのトナカイなど、大掛かりな電飾をデコレートした家は少ないようだ。

「そう言えば今日はまだ22日なんですよね」

 腕時計の時間を確かめ、風見がつぶやいた。

「不思議だなあ。俺たち、22日の夕方に日本を発ったはずなのに」
「時差で一日巻き戻ってるからね……」
 
 車から降りたヨーコは、コートのケープだけ外して羽織っている。ケープは肘のあたりまでの長さが有り、たっぷりと上半身を覆っていた。一見赤いロングスカートに見えるのは実は巫女装束の赤い袴である。足下はさすがにブーツだが、上は当然、白い小袖だ。

「このためにケープ着てきたんですか」
「そーよ。巫女装束でホテルのロビーなんざ歩いたら」
「……目立ちますね、この上もなく」

 一方、ロイと風見は来たときの動きやすさを優先した服装に戻っている。と言っても風見の羽織っている長めのダウンジャケットの下には特製のホルスターに納めた小太刀が2本。ロイの黒いコートのポケット(もちろん特製)には、祖父から借り受けたニンジャ道具一式がきっちり仕込まれている。

「それにしてもその格好、寒くナイですか、先生」
「大丈夫、ちゃんと腰にカイロ貼ってるから!」
「よーこさん、よーこさん」
「青少年の夢を壊すような発言は謹んでください……」

「冷えは女性にとっては大敵だよ、ヨーコ? 気をつけなければ」
「心配ない心配ない。袴の下にはちゃんとヒートテックも着けてるし」
「だーかーらー」
「よーこさんってば……」

 街頭の灯りの中、ひっそりとたたずむ遊具の間を抜けて行く。昼間のにぎわいも、クリスマスの華やかさもここからは遠い。
 しんしんと凍える夜の空気の中、昼間目星をつけた木の根元にたどり着いた。

「さて、と」

 ヨーコはするりとコートをぬぎ、近くの灌木の枝にかけた。
 肩にかけていた紺色のバッグ……全体に薄い青紫と白で回転木馬の模様がプリントされていた……から必要な道具を取り出して地面に並べる。
 小さく切った和紙、塩の詰まったジップロック、そして透明な液体を満たした小さなボトル。

「これは?」
「お神酒。神様にお供えしたお酒よ。実家からちょっぴりもらってきたの」
「化粧水の瓶に入れて?」
「便利よ? 軽くて丈夫だし。本当はお榊もあるといいんだけど……」

 サリーが肩をすくめて小さく首を横に振った。

「植物の持ち込みになっちゃうからね」

 その時、バッグの中でかすかに音楽が鳴った。短く5秒ほど。

「お」

 ヨーコは携帯を取り出すと画面にさっと目を走らせ、うなずいた。

「和尚からドリームダイブの許可が降りたわ。始めましょう……風見」
「はい」
「それからロイも。手伝ってくれる?」
「ハイ」

 手分けして大木の根方を中心に東西南北の四隅に盛り塩をして、神酒を注ぐ。
 準備が整うと、ヨーコはバッグから鈴を取り出した。
 手で握るための赤い輪に鈴のついた、まるで幼稚園のおゆうぎで使うようなベルだった。しかし、ただのベルではない。
 ヨーコによって手を加えられ、略式ながらいっぱしの神具……神楽鈴に仕立てられていた。
 輪の両端からは緑、黄色、朱色、青、白の五色のリボンが長くたなびき、鈴は全て神社で祈りをこめて作られた特別な金色の鈴に換えられている。

「あ……それ、”夢守りの鈴”ですね」
「そうだよ」

 夢守りの鈴。サリーとヨーコの生家である結城神社で作られる護符の一つで、その音色は悪夢を退け健やかな眠りを守ると言われている。

「サクヤちゃん」
「うん」

 大木の根元にサリーと二人並んで立つ。その後ろに風見とロイ、ランドールが並ぶ。
 全員が位置に着いたのを確かめると、ヨーコはシャリン、と鈴を鳴らした。

「高天原に神留まり坐す皇親神漏岐 神漏美の命以ちて 八百万神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて……」

 サリーとヨーコ、微妙に高さの異なる澄んだ二人の声がよどみなくなめらかに。息づかいのタイミングさえずれることもなく祝詞を唱えて行く。

「彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以て 打ち掃ふ事の如く遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ひ清め給ふ事を……」

 何も見ない。確かめない。自然に口元から流れ出す声が夜の空気を震わせる。

「此く佐須良ひ失ひてば 罪と云ふ事を 天つ神 国つ神 八百万神等ともに聞し食せと白す……」

 シャリン、と鈴が鳴る。
 その瞬間、空気が変わった。
 祭壇に見立てた木を中心に見えない波が走り抜ける。波の通り過ぎた空間は清々しくて、まるで神社の境内か教会の聖堂の中にでもいるような……しん、と張りつめた中にもどこか安らぐ静けさに満たされていた。

 唱え終わると二人は腰を屈め、腿のあたりまで手がくるほど深い礼を二回。
 それから胸の前に両手を掲げ、ぱん、ぱん、と二回拍手。
 風見とロイもこれに倣う。
 ランドールは少しだけ首をかしげていたが、見よう見まねで後に続いた。
 それから再度礼をして、体を起こす。

「……みんな、いい? 行くよ?」

「いつでも……」
「了解デス」
「Yes,Ma'am」

 しゃん、しゃらり、しゃりん。

(チリン、チリリ、チリン)

 ヨーコの鳴らす鈴の音と。今この瞬間、飼い主にぴたりと寄り添う白い子猫の身につけた鈴が共鳴して行く。

 りん。

(リン)

 りん。
(リン)

 りん(リン)。

 夢と現の境が揺らぎ、道が開いた。


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【ex8-8】対決!

2009/01/18 21:47 番外十海
 昼の光、夜の光、何もない光。
 ゆらぎ、瞬き、ひらめいて、眠りと目覚めの通い路照らす。

 宵闇、薄闇、木の下闇。
 明け闇、夕闇、星間の闇。
 漆黒、暗黒、真の黒。 夢と現つの合間に横たわる。

 瀝青(ピッチ)のように青黒く、タールのように真っ黒で。
 ひと掻きごとになお深く、ひと息ごとになお暗く……。

 幾重にも塗り重ねられた闇をくぐり抜け、少年の夢の中へと降りて行く。
 対応が早かったこと、強い意志の力で彼が抵抗を続けてくれたこと。二つの要素がプラスに働き、悪夢の浸食は比較的浅い位置で食い止められていた。

 降り立った場所は真っ白な霧に閉ざされていた。現実の霧よりもじっとりと重たく手足にまとわりつき、音さえ飲み込む真白の闇。そのただ中でさえ悪夢狩人たちはお互いの存在を感知することができた。

「……風見」
「はい」

 何をすべきか。あえて言葉に出す必要はない。風見光一は自らのなすべきことをちゃんと心得ている。
 白い闇の中、しゅるりとかすかに太刀の鞘走る気配がした。

「風よ走れ、《烈風》!」

 ビウ!

 一迅の風とともに霧の帷が切り払われ、視界がクリアになった。

「お見事」

 ちぃん、と鍔鳴りの音。白い闇を払った太刀は何事もなかったように鞘の中に収まっていた。
 そして、風見光一の姿は太刀を使うに相応しく浅葱色の陣羽織を羽織った若武者の姿に変わっている。これが彼のドリームイメージ……夢の中で自我を保ちつつ、自在に動く時の姿なのだ。
 
「Hey,各々方、油断めされるな」

 片やロイ・アーバンシュタインは青いニンジャスーツ(あくまで忍び装束ではなく、ニンジャ・スーツ)に額当て、手甲、脚絆に身を固め、背にはニンジャ刀を背負い、手には手裏剣を構えている。
 いつもは長くのばした前髪に隠れている青い瞳がくっきりと外に現れているのが最大の違いだった。

「敵は近いでござるよ!」

 言葉もニンジャっぽい……ただしちょっと間違った方向に。普段言いたいことの半分も言えずに心の中に秘めているロイだったが、その反動か夢の中では性格がはっちゃけるのだ。

「何と言うか……ずいぶんとにぎやかになるんだね、彼は」
「ああ、あれがロイのふつー」
「そう……なのか?」
「はい、ふつーなんです」

 ランドールの姿もやはり変わっている。波打つ黒髪は肩につくほど長く伸び、それを赤いリボンできりっと首の後ろで結んでいる。肌の色は血管が透けて見えそうなほど青白く、犬歯が長く伸び、ハンサムな顔立ちはそのままにどこか吸血鬼めいた様相に。
 身にまとっているのも黒いマント、裏地は目のさめるような赤。その下には白のドレスシャツに黒いスーツ。

 一方、ヨーコの姿は現実と同じく巫女装束のまま、足下のブーツ履きも変わらない。
 そしてサリーは……。

「あれ。サクヤさんまで、巫女さんになってる」
「Oh! Fantastic!」
「あ………祝詞唱えたから、つい」

 自分の服装を確認して軽く頭をかく。どうやら無意識のうちに衣装を変えてしまったらしい。ヨーコが一緒だと言うのも大きかった。小さい頃から二人でこの姿で祝詞を唱え、神事に携わってきたのだから無理もない。
 
「いいじゃん。今夜は久しぶりに二人巫女さんしよ?」
「俺とお前でW巫女さん、ですネっ!」
「熱いなあ、ロイ」
「モチロン! 拙者はいつでも熱血エンジン全開でござるよっ」
「はいはーい、全開はわかったから……」

 みし、とヨーコの手刀がロイの頭にめり込んだ。

「ちょっとばかり静かにしてもらえる?」
「御意……」
「素直な子って大好き」

 実際には彼女の腕力は微々たるものでありさして威力はないのだが。日頃の条件付けが効いているのか、あるいは躾が行き届いているのか、ロイは一瞬で静かになった。

「カル! 何か『聞こえ』ない? 魔物どもはかなりうるさい音を立ててるはずよ。空気をひっかき回して羽虫みたいにわんわんと飛び回ってるから」
「……わかった」

 ランドールは目を閉じると意識を集中した。
 音のない白い闇の中、物理的な聴覚のみに捕われず、もう一つの感覚を呼び覚ます。

(ふ…………うぅううん。うぅん)

 かすかな揺らぎを感じ取った。何体もの小さな生き物の立てる、耳障りな空気の震え。

「いた……」
 
 すっと手を持ち上げる。黒いマントが広がり、目のさめるような裏地の赤が翻る。

「向こうだ」
「OK。行きましょう」

 うなずき交わし、走り出す。
 青、浅葱、黒、そして二組の白と赤。足音もなく密やかに、軽やかに。
 時折不意に、ありえない場所に溝や段差、倒れた木や穴が現れる。右に左にあるいは上に。ひょいと身軽にかわして避けて、ものともせずに前に進む。
 
「うわっ」

 急にばりばりとやかましい音を立て、巨大な木のようなものが倒れかかってきた。
 風見の太刀が一閃し、まっぷたつに斬られて掻き消える。霧散する直前によく見るとそれは倒木ではなく、建物の一部らしき鉄骨だった。

「あの子の記憶の断片のようね……近い」

 然り。
 
 ゆらりと白い霞を透かして影がうごめく。

「そこだ!」

 すかさずロイが手裏剣を放った。

「ギィ!」

 羽虫のような小さな魔物の群れが、蚊柱さながらにわだかまっていた。中心に小さな人影が胎児のように体をまるめてうずくまっていた。小柄な少年、少しくすんだ金色の髪。

「オティア?」

 しかし昼間会ったときと何と言う変わり様だろう? 骨が浮き出て見えるほどガリガリにやせ細り、手足にはいくつもの傷や痣が浮いている。紫の瞳をうつろに見開き、服が皺になるほど強く、自分の肩を抱えていた。震えていた。胸元にまたたく小さな光に顔を寄せて。

 腕にも、足にも乾涸びたか細い木の根っこのようなものが絡み付いている。
 周囲に群がる羽虫ども騒ぐたびに小さな白い光が輝きを増し、魔物の群れを押し返す。
 だが、悪夢の包囲網は少しずつ、確実に狭められていた。

「Hey! You!」
「そこまでだ!」

 ざわっと悪夢の群れに動揺が走る。ゆらりゆらりと空間が歪み、オティアと狩人たちの間を遮るようにして背の高い人影が三つ現れた。
 
 09126_053_Ed.JPG ※月梨さん画「魔女出現」
 
 赤い長衣をまとった山羊角の魔女……ビビだ。

「出たな、親玉」
「その子を返してもらおう」
「これ以上、オティアに手出しはさせない」

 ぱちくりとまばたきすると、魔女たちは5人をじとーっとねめつけた。それから顔をのけぞらせてさもバカにしたような金切り声できぃきぃがあがあがなり出す。

「ちょっとー、何これー。ジョーダンでしょ?」
「サムライに、ニンジャにドラキュラに、キモノガールが二人ぃ? ちょっと、ふざけてない?」
「こーんなのがアタシたちの邪魔しようってわけー? ちょームカつくっ」

 かっくん、と5人のあごが落ちる。ヨーコは思わずこめかみを押さえた。

「…………何、このギャル系セレブみたいなストロベリーフレーバーあふれるしゃべり方」
「今までの犠牲者を通じて現代の知識や言葉を取り込んでるんでしょう」
「よくない影響受けてんなー……ま、欠片も同情するつもりはないけどね」
「右に同じく」
「以下同文でござる!」

 魔女の中で一番、背の高い真ん中の一体が右手を上げ、5人を指差した。

「やっちゃえー」

 わぁん、と羽虫の群れがうなりを上げて襲いかかってくる。
 白い空間にまき散らされたゴミの粒、あるいは蠢く灰色の雲。その体はひび割れ、ねじくれ、ふくれあがり、現実に存在する生き物のありとあらゆるパーツを寄せ集めてねじり合わせたようだった。
 まさに悪夢の産物と呼ぶにふさわしい。

「わわっ」

 サリーの顔がひきつった。虫が苦手なのだ。

「サクヤちゃん、大丈夫だよ」

 白い袖が翻り、小さな手が打ち振られる。

「接触する前に倒してしまえば、どうと言うことはない………行け!」

 風見が前に進み出て、抜く手も見せずに太刀を走らせる。銀光一閃、解き放たれる風の刃。効果はてきめん、羽虫の群れが二分の一ほど一掃された。

「よし……」

 サリーが目を閉じ、ぱしん、と両手を打ち合わせた。途端に髪の毛が逆立ち、彼の全身が青白い光に包まれる。

「うっそーっ! ちょームカつくーっ」
「しんじらんなーいっ 何、この光ーっ」
「まぶしーっ、キモーイ!」

 ざわざわと悪夢の群れに動揺が走り、山羊角の魔女たちが目を押さえて後じさる……光が苦手なのだ。
 
 バチッ!

 まばゆい電光がほとばしり、羽虫の群れが完全に一掃された。

「ふぅ……」
「OK、サクヤさんGJ!」
「……ありがとう」
「油断するな、親玉が来るぞ」

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【ex8-9】対決!!

2009/01/18 21:50 番外十海
 3体の魔女が地を蹴って宙に飛ぶ。岩山を飛び歩く山羊さながらに、3つの方向から襲いかかってきた。

「そこ!」

 びしっと指差すサリーの指先から細い電光がほとばしり、真っ向から魔女の胸を貫いた。

「ギィヤアアア」

 ばちばちと強烈な電撃に当てられ、青白い光に包まれて、魔女は苦悶の表情で身をよじる。

「あわ、あわわわ、しび、しびれるううう。このっ、キモノガール、よくもやったわねっ」

 ずだぼろになりながらも角を振り立て、爪をひらめかせてサリーにつかみかかろうとした。
 が。

「ガウ!」

 子牛ほどもある狼が飛びかかり、のど笛にくらいつく。
 天敵のひと噛みに山羊角の魔女は悶絶し、耳障りな絶叫を残して地に倒れた。


「グルルル……」

 狼は容赦なく倒れた魔女にのしかかり、のどを締め上げる顎に力を入れた。ぽっかりと開いたうつろな目から黒い霧が二筋ゆらゆらと立ちのぼり、枯れ木のような指が空中をかきむしる。

「グゥワウ」

 ぼきっと骨の砕ける音がして魔女の体が痙攣し、動かなくなった。
 ピクリとも動かなくなった赤い塊から顔を上げる狼にサリーが呼びかける。

「ありがとう、ランドールさん」

 狼の足下には、ランドールがさっきまで身につけていた衣服が抜け殻のようにそっくり脱げ落ちていた。

「……また、脱げちゃったんだ………」
「キュウン」

 きまり悪そうに耳を伏せ、ぱたぱたと尻尾を振った。
 仲間が倒れるのを見るや、魔女の一人は角を振り立てて頭から突っ込んできた。

「よーっくも妹をやったわねっ! アンタらちょームカつくーっ」

 ドカカカカッ!
 横合いから手裏剣が飛んできて、魔女の体に縦一列に突き立った。

「ひぎっ」

 勢いがそがれたところに風見が切り掛かる。赤い衣に包まれた胴体を、無造作にも見える太刀筋でざっと一なぎ。問答無用、電光石火、横一文字に切り捨てた。
 傷口からおびただしい黒い霧が吹き出し、魔女はカサカサに乾涸びて倒れ伏す。

「風神流居合…『風断ち』(かぜたち)」

 ぱちりと刀を収めると風見は顔をほころばせて相棒を見上げ、ぐっと拳を握り親指を立てた。

「さんきゅ、ロイ!」
「グッジョブでござる、コウイチ!」

 白い歯をきらめかせて金髪ニンジャは爽やかにサムズアップを返した。

「くぅう、こいつら、強い、強いよ……」

 最後に残った一体は無駄にぴょんぴょんとそこらを跳ね回っている。隙をうかがっているのか、あるいは単にうろたえているのか。

「どうやら、残ったのはあなただけみたいね」

 跳ね回る魔女に向かってヨーコがびしっと人差し指をつきつけた。

「いたいけな子どもに取り憑き、あまつさえその家族すら毒牙にかけんともくろむとは断じて許しがたし。結城神社の名にかけて、きちっとお祓いしてさしあげるわ!」
「よーこさん、よーこさん」
「何、サクヤちゃん?」
「そう言うときって神様のお名前をあげるのが筋ってもんじゃないかなあ」
「………タケミキャヅチ………タケミカジュチ………タケミ」
「はいはい、噛んじゃうのね」
「うん」

 ちらっと山羊角の魔女はヨーコの様子をうかがった。
 武器、持ってない。えらそうにしてるけど、あの嫌なビリビリする光も出さない。牙も爪もない。何より一番、小さい。

「こいつが一番弱い!」

 高々と空中に跳ね上がり、一気に鋭角に突っ込んできた。

「角で引っ掛けてぇえええ、ざっくり血祭りぃいいいいいいいい!」

 ヨーコは逃げない。避けようともしない。ただ右手をまっすぐに伸ばし、開いた手を握っただけ。
 手のひらの中にチカっと銀色の光がひらめき、一瞬ではっきりした形になる。
 二連式の銃身、ほとんど装飾のないシンプルな外観の中折れ式の小型拳銃。それはロイの祖父の用意してくれたものに比べるといささか古びていて、グリップの所に目立つ傷が一筋、斜めに走っていた。

「ぎ?」

 慌てて魔女は方向転換を試みるが今更止まれる訳がない。
 真っ正面から向き合った状態、至近距離でぴたりと狙いをつけられる。

 BANG!

 轟音一発ボツっと魔女の額に穴が空き、後頭部に銃弾が突き抜ける。
 頭を射ち抜かれ、衝撃でもんどりうって倒れた体からじゅわじゅわと黒い霧が立ちのぼった。

「……当たりに来てくれてありがとう」

 にやりと笑うとヨーコはくるりと銃をスピンさせ、元の場所へと戻した。
 はるか日本の自分の部屋の、秘密の隠し場所へ………夢の中では、物理的な距離は関係ないのだ。

 魔女は倒れた。

 しかし、彼女たちの残した悪夢の檻は未だに生きている。少年の心の闇に巣食い、なおもその根を伸ばして彼を絡み取ろうとしている。

「先生、オティアが!」
「いけない。あの子をこっちに誘導しなきゃ……」

 乾涸びた影の根で編まれた檻の中に居る限り、彼の意識は漂い続ける。繰り返し再生される過去の陰惨な記憶の中を。
 現に今、この瞬間もオティアの力を吸収し、ざわざわと地面の底から新たな羽虫の群れがわき出しつつあった。

「何か……安心できるイメージを……」
「わかった。ヨーコさん、手伝って」
「うん」

 サリーとヨーコは寄り添い、手をとりあった。

 風見とロイ、そして狼に変身したカルは二人の巫女を守るために進み出て、羽虫の群れを迎え撃つ。

「あの子が安心できる場所を……」

 瞳を閉じて念じる。二人の記憶の中にある場所に意識を重ねて印象を呼び覚まし、思い浮かべる。
 あの場所に何があっただろう。何が聞こえただろう。空気の質感、温度、ただようにおい、そこにいるはずの人たちの顔、声、気配。

 淡い金色の光が重ねた手のひらから広がり、白い袖、緋色の袴がふわりと舞い上がる。
 あたたかな空気の流れに沿って光の粒が細かく舞い散り、一つの部屋の形を成して行く。

 どっしりした木の食卓。北欧産のオーダーメイドの一点もの、材料はウォールナットの無垢材。
 キッチンと食堂の間はオープン式のカウンターで区切られ、台所からはあたたかな湯気が漂って来る。
 食卓の上には食器と皿が並べられ、誰かが来るのを待っていた。

 その間にも羽虫の群れがうなりを立てて押し寄せていた。明らかに焦っていた。後から後からわき出し、数を頼みになりふり構わず二人を止めようとしていた。
 しかし捨て身の攻撃も閃く太刀と正確無比に射たれる手裏剣、力強い牙と爪に削ぎ取られ、阻まれる。

 サリーが目を開き、少年の名前を呼んだ。

「オティア!」

 ぴくりと少年が身を震わせた。

「おいで、オティア」

 きょろきょろと周囲を見回し、立ち上がった……ごく自然な動きで。夢魔の編んだ影の檻が、ばらばらにほどけて崩れ落ちる。だが、まだ完全には消えていない。
 地面の上で芋虫のようにのたうち回りながらオティアめがけて這いよろうとしていた。

 急がないと……

「オティア!」
(オティア)

「オティア!」
(オティア)

 鈴を振るようなサリーの声にもう一つ、だれかの声が重なり響く。よく通るバリトン、だが名前を構成する音の一つ一つにまで包み込むような温かさがにじむ。

「オティア」
(オティア!)

 オティアが歩き出した。
 最初はぎこちなくゆっくりと。
 檻の名残りが弱々しく足首に絡み付いた。

「オティア!」
(オティア!)

 すっと一歩、迷いのない動きで前に出る。まとわりつく檻の名残りを苦もなく振り切って、ふわふわと寄り添い飛び回る白い光を従えて。
 一歩、また一歩と着実に早さを増し、まっすぐに歩いて来る。

 食卓に向かって。

 もう少し………。

(オティア!)

 食卓にたどり着くと、彼は迷わず椅子の一つに向かって歩いて行く。そこは彼のために用意された場所だった。
 いつでも彼を迎え入れてくれる。

 わずかに。
 ほんのわずかにオティアの顔がほころんだ。それは、こわばりが抜けた程度のささやかな変化でしかなかったけれど……。
 その瞬間、秋の日だまりにも似た柔らかな金色の翼が広がり、少年を迎え入れた。
 オティアの姿が変わって行く。さっきまでやせ衰え、ぼろぼろの薄い服をまとっただけだったが今は見違えるようにふっくらして……あたたかそうな青いセーターを着ていた。

(お帰り)

 ふわりと赤い髪がゆれ、だれかが笑いかけた。小さな白い光を抱きしめて、金色の翼に包まれて、オティアの姿は徐々に薄れ、食堂のイメージとともに光の中へととけ込んでいった。
 同時に羽虫の群れの発生もようやく止まる。
 
 ふう、と息を吐くとヨーコも目を開けた。

「……今の赤い髪の天使、投影したの誰?」
「……俺じゃないよ?」
「俺も、応戦で手一杯で」
「拙者もでござる」
「じゃあ……やっぱり呼ばれちゃってたんだ、彼」
「危なかったなあ……」
「ううぬぬぬぬぬ」

 ロイが拳を握って身を震わせた。

「子を思う親心に付け込むたぁふてぇ野郎です。断固許すまじ!」
「ほんと、熱いなあ、ロイ」

 
 
 ※ ※ ※
 
 
 はっとオティアは目を開けた。毛布にくるまれ、書庫の床の上で。胸元では真っ白な子猫がうずくまっている。そしてすぐそばにディフが膝をついてのぞきこんでいた。

「……ああ、起きたか。大丈夫か?」
「ん……」

 そう言えば何となく呼ばれていたような気がする。でもあの声はディフだけじゃなかったような……。
 ああ、なんだかものすごくだるい。
 
「心配したぞ。いつもは近づいただけで起きるのに、呼んでも目、さまさないから……」
 
 ヘーゼルブラウンの瞳がじっと見下ろして来る。
 のろのろとうなずく。
 もう大丈夫だから。
 今はただ、眠いだけだから。

 ディフがうなずいた。
 口に出すのもおっくうだったが、わかってくれたようだった。目を閉じて枕に顔をつける。体の上にもう一枚毛布がかけられた。

「……おやすみ」
 
 何があってもディフは決して自分に危害を加えない。少しばかり過保護だけど着るものや食べるものの世話をしてくれるし、今の自分にとって信頼できる雇い主だ。
 
 だから……安心して眠っていいのだと思った。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 一方、夢の中では一仕事終えたハンターたちが後片付けをしていた。あちこち夢魔に食い荒らされたオティアの夢を可能な限り修復し、そこ、ここにしつこくはびこる悪夢の根っこや羽虫どもの残党を取り除く。
 さっきの戦闘に比べればいたって楽な作業だ。
 自然と口数も増えてくる。

「ビビの弱点、一つ見つけたね。狼に弱いんだ」
「山羊ですからね」
「わう!」
「どうして今まで気づかれなかったのかな」
「うーん、狼って欧米ではよくないモノの役割振られてるからじゃないかな。狼憑きとか、人狼(ル・ガルー)とか」
「ああ、なるほど。どっちかって言うと憑く方なんだ」
「日本だと、逆に山の神様や憑き物落としの神獣だったりするんだけどね。三峰神社とか」
「大神と書いて『おおかみ』って読む説もありますしネ」
「そうなんだ」
「ほんとカルがいて助かったわ」

 ランドールは二本足ですっくと立ち上がり、胸を張って爽やかに笑みかけた。

「光栄だよ、ヨーコ」
「カル…………」

 にっこりほほ笑むと、ヨーコはついっと地面に散らばる黒マントその他衣類一式を指差した。

「着なさい」
「おっと」

 いそいそと服を着るランドールから四人はそっと目をそらした。行儀良く、さりげなく。

「変身のたびに全部脱げちゃうのが難点ですよね」
「何度も練習したんだけどね……現実の感覚が抜けないらしくって」
「でも、確実に狼に変身できるんですよね」
「うん、あとコウモリに」
「さすがルーマニア系」
「カル、まーだぁ?」
「もう少し…………」

 5人はまだ気づかない。倒したはずの魔女の姿がじわじわと変わっていることに。
 確かに倒れたときは赤い衣を着た背の高い女だった。
 しかしそれが今、縮んでねじくれ、別の形に変化している。長い首、細い四本の足、よれたあごひげ、二つに割れた蹄。節くれ立った角の生えた、黒い山羊へと……。

「よし、終わったよ」

 ほっと安堵の息をつくと風見とロイ、サリーとヨーコはランドールに向き直った。まだちょっと襟元が乱れたり髪の毛がくしゃくしゃだったりしているが少なくとも服は着てくれた。

「OK、それじゃあたしたちも現実に戻ろうか………」

 風が吹く。

 ブーーーーーーーーーーーーーフゥウウウウウウウウウウウウウウウ………………

 禍々しいうめき、生臭いにおいはさながら獣の息吹。
 はっと身構える間もなく地面から真っ黒な紐状の何かが走り、3人の胸を貫いた。

「うっ」
「あうっ」
「くっ」

「サクヤさんっ。先生っ」
「Mr.ランドールっ?」

 びっくん、とサリーとヨーコ、ランドールの体が痙攣する。

「しまった!」

 駆け寄ろうとしたその刹那、目に見えるもの、触れるもの、聞こえる音、全てが形を失い、崩壊した。
 

 ※ ※ ※ ※
 

「う………」

 凍えるような明け方の風。頭上でざわめく木々の枝。
 まちがいない。ドリームアウト……強制的に夢からはじき出されてしまったらしい。舌の上にいやな苦みが。耳の奥に鈍い衝撃が残っている。

「コウイチ……大丈夫?」
「ああ。平気だ……これしき……」

 風見とロイは互いに支え合い、立ち上がった。
 木を中央に、東西南北四方に盛ったはずの塩がべちょべちょに溶けてしまっている。

「結界が消失しちゃったんだ……」
「だから放り出されたんだネ」

 自分の意志で抜け出したときと違って感覚の切り替えが上手く行かない。音も、視界も、触覚も、薄紙を挟んだようにどこかぎこちなく、遠い。

「そうだ! 羊子先生! サクヤさん! ランドールさん!」

 夢の終わる間際、影に貫かれた三人の姿が脳裏に蘇る。

「先生! どこですか、先生!」
「かざみ……?」

 灌木の茂みの向こうでよれよれと、だれかが起き上がる気配がした。

「先生っ」
「ご無事だったんですネっ」
「ロイ。お前も無事だったか!」

 おかしい。確かに先生の声だけど、何だか、妙に……甲高い。裏声? こんな時に?

「あーったくあの魔女め、やってくれるよ……」

 がさがさと枝葉がかき分けられ、にゅっと声の主が顔を出した。

「よーこ……せん……せい?」
「どうした。二人とも妙に背がのびたな」
「いや、そうじゃなくて」
「先生が………」
「ええっ?」

 ヨーコは両手でばたばたと自分の体をなで回した。つるりん、ぺたん。って言うか腕短くなってない? え、え、え? この手は何。
 むっちりした子どもの手……。
 あ、動いた。
 やっぱり、これ、あたしの手?

「まさか……そんな、まさか………」
「先生が、ちっちゃくなっちゃってる」
「ええーーーーーーーーーーっ」

 結城羊子は子どもに戻っていた。せいぜい小学校低学年、下手すりゃまだ幼稚園かもしれない。水色のベルベットのジャンパースカートに白いタートルネックのセーター、赤い靴。この服、見覚えがある。
 ちっちゃい頃お気に入りだった……。

(やられた!)

「さ……さくやちゃん? カル?」

 震える声で名前を呼ぶ。自分と同じ様に影に射たれた二人を。
 がさがさと茂みをかき分け、だれかが出てきた。
 くせのある黒髪にネイビーブルーの瞳の男の子と、くりっとした瞳にほっそりした手足、自分そっくりの男の子。

「よーこちゃん」
「サクヤちゃん」

 ぱちぱちとサリーがまばたきし、すがりついてきた。

「だ……だいじょうぶ。だいじょうぶだからね」

 抱きしめてぱたぱたと背中を撫でた。カルが不安そうにこっちを見てる。手をのばすと、両手でぎゅっと握ってきた。

「だい……じょうぶ………だから………」

 声がふるえる。精一杯握り返してるはずなのに、笑っちゃうくらい力が入らない。これじゃ銃なんて射てやしない。
 教え子たちはおろか、自分の身さえ守れない!
 
 どうしよう。
 泣きそうだ………。

 東の空がうっすらと白くなってゆく。じきに陽が昇るだろう。だが……。
 風見はかすれた声でつぶやいた。

「何てこった……3人とも、子どもにされちゃったんだ…………」

 じっとりと冷たい汗が額ににじむ。
 小さなヨーコと小さなサリー、そしてやっぱり小さなランドール。
 ついさっきまで自分たちを導いてくれた人たちが、途方に暮れた瞳で見上げて来る。しっかり手を握り合い、おびえる小動物のようにぴったりと身を寄せ合って。

 悪夢はまだ、終わらない。

(to be continued…………)

後編へ→【ex8】桑港悪夢狩り紀行(後編)

【ex8】桑港悪夢狩り紀行(後編)

2009/01/30 2:09 番外十海
  • 前編はこちら
  • 番外編。2006年12月の出来事。日本の高校生二人組風見とロイ、ヨーコ先生に付き添われて(付き添って?)サンフランシスコに参上。具現化した夢の魔物『ナイトメア』と戦いこれを撃破、被害者を救出したと思われたが……。
  • 今回は番外編中の番外編、【ex-5】熱い閉ざされた箱と同じ背景世界に基づくお話で、いつもの『食卓』の世界観とはすこぉしだけ、別の世界にシフトしています。
  • 書いてる人間が変わらないので基本は同じ流れなのですが、ほとんどスピンオフ作品と言っていいかもしれません。
  • 海外ドラマで言うと、「CSI」や「フルハウス」よりはむしろ「デッドゾーン」寄りです。
  • 王道的な「退魔もの」だった前編と比べて今回のこの後編、色んな意味で異色作になっています。
 944911207_21.jpg ※月梨さん画「五人目は手乗り」

【ex8-01】登場人物紹介

2009/02/03 18:44 番外十海
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【結城朔也】
 通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。23歳…のはずが。
 癒し系獣医。よーこちゃんと一緒じゃなきゃ泣いちゃう。
 サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
 従姉のヨーコ(羊子)とは母親同士が双子の姉妹で顔立ちがよく似ている。
 現在、魔女の呪いを受けて縮小中。
 密かに古本屋のエドワーズさんをくらくらさせている。
 実家は神社。でも袴の色は浅葱色ではなくなぜか赤色。
 魔除けのため、幼い頃は女の子として育てられた。
 
 
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【結城羊子】
 通称ヨーコ、サリー(朔也)の従姉。26歳…のはずが。
 小動物系女教師。たまに巫女さん。
 サクヤ同様、魔女の呪いで子どもにされてしまった。
 高校時代、サンフランシスコに留学していた。ディフやヒウェルとは同級生。
 現在は日本で高校教師をしている。実家は神社。
「お姉ちゃん」だから強くいられる。「お姉ちゃん」だから泣いちゃいけない。
  
 
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【風見光一】(右)
 目元涼やか若様系高校生。ヨーコの教え子でサクヤの後輩。17歳。
 家が剣道場をやっている。自身も剣術をたしなみ、幼い頃から祖父に鍛えられた。
 幼なじみのロイとは祖父同士が親友で、現在は同級生。
 後編に突入後、愛らしさが増量したような気がする。

【ロイ・アーバンシュタイン】(左)
 はにかみ暴走系留学生。ヨーコの教え子。17歳。
 金髪に青い目のアメリカ人、箸を使いこなし時代劇と歴史に精通した日本通。
 祖父は映画俳優で親日家、小さい頃に風見家にステイしていたことがある。
 現在は日本に留学中。
 愛らしさ増量の幼なじみにくらくら。いきなり2人きりになっちゃってどきどき。
 たとえ幼児でもコウイチに近づく者は断固阻止の構え。
 

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【カルヴィン・ランドールJr】
 純情系青年社長。ハンサムでゲイでお金持ち。33歳…のはずが。
 通称カル。ジーノ&ローゼンベルク法律事務所の顧客の一人。
 魔女の呪いで子どもにされてしまう。
 ちっちゃいけど中身は紳士、でもお姉ちゃんの後をのこのこ。
 世慣れた遊び人なのにどこか純真で一途に片思いなんかもしたりした。
 ヨーコとともにある事件に巻き込まれたのをきっかけに秘められた能力に目覚める。
 一肌脱ぐどころの騒ぎではない。
 

【蒼太】
 比叡山で修行を積んだ青年退魔師。
 ヨーコとサリーの後輩で、風見とロイにとっては先輩にあたる。
 豊富な知識と経験を活かしてサンフランシスコで右往左往する後輩を日本からサポート。
 
【テリオス・ノースウッド】
 通称テリー。熱血系おにいちゃん。
 獣医学部の大学院生、専門はイヌ科。
 サリーの大学の友人だが周りからは彼氏と思われているらしい。
 基本的に面倒見が良く、女の子に甘い。
 動物はなんでも好きだけれど特に犬系大好き。
 社長がサリーにちょっかい出してると信じて絶賛警戒中。

【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヨーコとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 マクラウド探偵事務所の所長でオティアの保護者。
 
【エドワード・エヴェン・エドワーズ/Edward-Even-Edwars】
 通称EEE、もしくはエディ。英国生まれ、カリフォルニア育ち。
 濃いめの金髪にライムグリーンの瞳。
 元サンフランシスコ市警察の内勤巡査でディフとレオンの友人。
 現在は父親から受け継いだ古書店の店主。やや引きこもり気味。
 飼い猫のリズは家族であり、よき相談相手。
 サリー先生のことが何かと気になるものの、バツイチな自分に今ひとつ自信の持てない36歳。
 
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 フリーの記者。26歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
 ヨーコの高校時代の同級生、その頃から密かに「魔女」と呼んでいた。
 今でも大の苦手だが彼の「ヨーコ怖い」は誰も理解してくれない。
 
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 マクラウド探偵事務所の有能少年助手。
 双子の兄弟との深刻な仲違いがきっかけで精神不安定気味。
 夢魔に狙われ、サリーたちに救出された。


次へ→【ex8-10】サッドモーニング

【ex8-10】サッドモーニング

2009/02/03 18:48 番外十海
 白々と夜が明けて行く。明け方の寒さはあまりに厳しく、子どもたちがガタガタ震えている………そう、子どもたちだ。ついさっきまでは『大人』だった3人。
 地面に赤いケープが落ちていた。

「先生、これ……」
「あ、ありがと」

 拾い上げてヨーコの肩に被せる。さっきは上半身を覆うだけだったケープが、今は膝のすぐ上まですっぽりと包む。
 がつん、とこめかみを殴られたような気がしたが寒さがやわらぎ、ヨーコはほっとしているようだ。
 それでもまだ油断はできない。体が小さくなった分、熱が奪われる速度も早くなっているはずだ。

「ロイ」

 風見は親友の手をひっぱってぐいっと引き寄せた。

「えっ、コウイチ?」
「あっためあおう」

 きりりと引き締まった顔が間近に迫る。寒さのせいか頬が赤く、黒い瞳は真剣そのもの。ロイはぽーっとなってうなずいた。

「コウイチが……そう言うのなら」
「……よし」

 風見はヨーコとサリー、ランドールを手招きした。小さな子どもになった3人が素直に近づいて来る。
 
「ロイ」
「あ、う、うん」

 そうして子どもたちを間に入れて、風見はしっかりとロイと抱き合った。

「ほら、先生。こうするとあったかいでしょ?」
「うん……あったかい。ありがと、風見」
「どういたしまして……」

 抱擁と言うよりむしろおしくらまんじゅう。ロマンチックにはほど遠い。

(こっ、こう言うことかーっ)

 舞い上がった天国から一瞬にして現実に叩き込まれつつロイは油断なく体をさばき、巧みに風見がランドールとサリーに接触しないように角度を調整した。

(ヨーコ先生とならギリで許せる。でも、サクヤさんとランドールさんは絶対にダメ!)

 吐く息が白い。
 次第に公園の中が明るくなって行く。街路樹の向こうにぼんやりと浮かぶクリスマスのイルミネーションが、次第にぼんやりかすんで色あせる。街灯もじきに消えるだろう。

「ホテルに……もどった方がいいのかな……」

 ぽつりとヨーコが言った。

「それは、まずいデス。未成年ばっかりで動いていたら」
「そっか……ホテルの人に変に思われちゃうね」
「下手したら警察に通報されちゃいます。迷子だって」
「家出と疑われる可能性モ」
 
 ひょこっとサリーが顔をあげた。
 
「大丈夫だよ、警察の人には知り合いがいるから」
「その人が知ってるのは、大人のサクヤさんでしょ?」
「あ……」

 表情を曇らせてうつむいた。
 いきなり、できることが減って、できないことがどっと増えた。

 ぴったり身を寄せ合いながら風見は3人の服装を確認した。

 ランドールさんは濃い茶色の膝丈のツイードパンツに茶色のショートブーツ、白いハイソックスを履いている。紺色のピーコートの下に白いシャツ、赤いベルベットのリボンタイ。ズボン、靴、コートにシャツ、そしてネクタイ……身につけていた服がことごとく子ども服に置き換わってしまっている。
 ヨーコ先生もそうだった。白い小袖は白いタートルネックのセーターに。緋色の袴は水色のベルベットのジャンパースカートに。ただし、ダイブの前に脱いだケープは大人サイズのまま残った。
 サクヤさんに至っては白いとっくりのセーターに茶色のチェックのズボン、カフェオレ色のダッフルコート……これ、サイズが違うだけでそのまんま昼間着ていた服じゃないか。

 まさか。

 一抹の不安が胸を噛む。
 身につけていたものも今は失われてしまったんだろうか? 財布も、携帯も……武器も。

「どうした、風見」

 小さな指先が頬に触れる。先生がいっしょうけんめい伸び上がってなでようとしていた。
 自分が落ち込んだり、不安になっているとき、いつも手をのばしてくしゃっと髪をなでてくれた。『よしてくださいよー子どもじゃないんですから』笑いながらされるがままになってるうちに、ああ、何とかなるかもしれないって。
 自然とそんな風に前向きな気分になることができた。

 けれど、今は……。

「先生」
「うん?」

 小さい小さいと思ってたけど、やっぱりヨーコ先生って大人の人だったんだな……。
 こんなにちっちゃくなっちゃうなんて。
 きゅうっと胸の奥が締め付けられる。

「持ち物、確認しましょう」
「そうだな」

 こくっとうなずき、ポケットの中をごそごそと探っている。

「………ハンカチとティッシュと、ばんそーこ」
「俺も、同じ」

 しかもサリーとヨーコのハンカチは色ちがいのおそろいだった。

「ランドールさんは?」
「……ハンカチと………25セント」

 進歩があったと言うべきか。

「何で、25セント」
「何かあったらこれでお家に電話しなさいって、ママが」
「しっかりしたお母さまデス」
「でもさすがに今電話するわけに行かないよなぁ……」

 たぶん、この25セントはランドールさんの携帯が変換されたものなんだろう。車のキーも失われてしまった。

「あと……これは元々身に付けていたものが、残った」

 するりとランドールはシャツの胸元からキラキラ光るものを取り出した。
 チリン……。
 鎖の先で少し変わった形の十字架と銀色の鈴がゆれている。風見とロイはほぼ同時に指差していた。

「それだ!」
「ママがくれたんだ。いつも身につけてるようにって」

(ああ。ランドールさん、また、ママって言ってる。いつもは母って言うのに)

 たぶん無意識のうちに子どもの頃の言い方に戻ってしまっているのだろう。
 ごそごそとコートのポケットをまさぐっていたサリーがぱっと顔を輝かせた。

「あ、携帯あった!」
「……本当ですかっ!」
「ほら!」

 高々と掲げるサリーの携帯には赤い組紐のストラップがついている。先端の金色の鈴がちりん、と鳴った。

「あ、その鈴……」
「アパートのカギも!」

 こっちのキーホルダーには緑の組紐の鈴がついていた。 

「やっぱり、お守りつけてたから無事だったんだ!」
「ランドールさんの十字架と同じだネ!」

「先生は? 何かお守りの鈴つけたもの持ってませんか?」
「ない。でも……」

 きょろきょろと周囲を見回していたヨーコがひょい、と灌木の枝を指差した。

「あれ、とってきて、ロイ」

 そこには回転木馬の模様をプリントした紺色のバッグがかかっていた。

「ああっ!」
「そうか、女の人はバッグに入れて持ち歩くから!」

 ヨーコの持ち物は無事だった。財布も。携帯も。パスポートも。彼女の倒れていた灌木の茂みから神楽鈴も見つかった。

「やっぱり神聖な品物には呪いの力が及ばないんだ……」

 少なくとも魔女の呪いは全てを奪った訳ではない。少しずつ風見の心に希望の火が戻ってきた。まだほんの小さなものだったけれど。

「よし。今のうちにどこか落ち着ける場所に移動しよう。寒くなくて、電源の確保できる場所に移動して……日本の蒼太さんたちと連絡をとるんだ」
「そうだネ。魔女は光が苦手だから、昼間は襲ってこナイ!」
「そう言うこと。安心して移動できるってことだ!」

 ロイと風見はにんまり微笑みかわし、ぱしっと互いの手のひらを打ち合わせた。

「それじゃ、俺のアパートに行こう?」
「サクヤさんの?」
「うん。パソコンがあるから、skaypeも使える。アドレスも設定してあるし」
「よし。じゃ、出発だ」

 すっかり明るくなった公園の中を歩き出した。
 子どもになってしまったヨーコの体に、紺色のバッグは大きすぎた。

「先生、俺が持ちます」
「うん……お願い」

 肩にかけようとしたが、自分の腕を通すには少し窮屈だったので手で持つことにする。やっぱり女の人の持ち物って華奢なんだな……。
 それさえも持て余すほど、今の先生は小さい。
 つくん、と胸の奥がうずく。

「コウイチ」

 ぽん、とロイが肩を叩いた。

「心配ないよ、ボクがついてる」
「うん……ありがとな、ロイ」

 くいっと顔を上げると風見は歩き出した。ケーブルカーの駅を目指して。
 けれどいくらも歩かないうちにヨーコの足取りが鈍りはじめる。うつむき加減にへろへろと。サクヤも、ランドールも心無しか元気がない。

「どうしました?」
「……すいた」
「え?」
「おなかすいたぁ」

 世にも情けない声だった。

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【ex8-11】カルシウム

2009/02/03 18:51 番外十海
「おなか……すい……た」
「シマッタ」
「戦闘で消耗しちゃったからなあ………」

 ドリームダイブの後、ヨーコはとにかく食べて消耗した分を回復する。さもなきゃ寝るか、だ。ここで寝られちゃったら一大事。
 風見はダウンジャケットのポケットからアメを取り出した。

「はい、これ」
「わーい、アメちゃんだ、アメちゃんだ」
「サクヤさんもどうぞ。はい、これはランドールさんの分」
「ありがとう……」
「おいしー」

 頬をぷっくりさせてアメをなめる子どもたちを見ながら風見はつぶやいた。

「先に買い物しなきゃな」
「そうダネ。移動するまえにもーちょっと食べさせておかないと」

 アメリカのスーパーマーケットは基本的に24時間営業の店が多い。
 こんな朝早くにも開いてた。

「たすかった……」

 白地に赤い文字でSAFEWAYと書かれた看板のかかった店に入る。入り口の警備員の視線が何となく気になる……いや、落ち着け、気にしすぎだ。

「ここならよく知ってるヨ。ワシントンにも支店がある」
「そっか」
「任せて。だいたいチェーン店の作りはフォーマットが似ているし、置いてある商品も共通してるから……」

 慣れた動きでロイはカゴを取り、ゲートを抜けて先に立って中に入って行く。広々とした通路の両側に、天上近くまで商品の詰まった棚が並んでいる。当然のことながら商品名も、品質表示も全て英語だ。見慣れたロゴの商品も日本にあるのとは微妙にパッケージが異なっていた。
 たまに漢字があったな、と思うとそこはかとなくニュアンスが違っていて、読み直すと中国語だとわかる。
 さすがにお客はあまりいないかと思いきや、それなりに人が入っている。朝食の買い物だろうか?
 うっかり上ばかり見上げていると、くいくいと上着のすそをひっぱられた。

「クッキーたべるークッキー」

 ヨーコが両手で上着のすそを握って見上げていた。

「はいはい、クッキーですね」
「チョコチップー」

 その隣でサリーがかぱっと口をあけてさえずった。

「ナッツいりー」

 やや遅れてランドールがぽそりと控えめにつぶやく。

「ヒマワリの種……食べたい……」

「うーむ、これは……」
「見事に好みがばらばらですネ」
「三箱買わないとだめ……か?」
「お菓子類はこっちだヨ」

 パスタとシリアル、スパイスのコーナーを抜けると急に両側の棚がカラフルになった。クッキーにビスケット、チョコレート、キャンディ。袋に入ったの、箱に入ったの、見たことのあるもの、見たことのないもの。
 ぎっしりと棚につまっている。
 並んでいる。
 ぱああっとちびっ子たちの顔が輝いた。

「あっ、ヨーコ先生っ」

 ちょこまかと先頭切って走りだすと、ヨーコはんしょっとのびあがって茶色と白に塗り分けられた箱を手にとった。

「これがいい! どーぶつビスケット!」

 すかさずロイがおや? と首をかしげた。

「でもそれチョコチップじゃなくてナッツ入りですヨ?」
「サクヤちゃんナッツがいいんだよね?」
「………うん」

 風見とロイは顔を見合わせた。
 その箱は日本で売っているお菓子とくらべてかなり大きかった。一箱買えば、全員に十分に行き渡る。三箱買わずにすむように、ヨーコなりに考えた結果らしい。

「さっき三箱買わないと、って言ったからか……」
「ヨーコ先生っ、予算は気にせず、好きな物を選んでくだサイッ!」

 うるるっと青い瞳をうるませて(あいにくと長い前髪にかくれてほとんど見えなかったが)ロイが震える声を張り上げた。

「ボク、このお店の会員カード持ってますからちょっとは節約できますっ」
「で、でも」
「それにっ、アメリカの買い物システムではまとめ買いした方がお得なんでスっ! だから……」
「わかった、それじゃあ……」

 もじもじしながらちらっと棚に並ぶクッキーに視線を走らせるヨーコの隣では、ランドールがきょろきょろと辺りを見回していた。

「ヒマワリの種ないよ、ヒマワリの種……」

「あ」
 
 棚の一角に見慣れた青い袋があった。コバルトブルーの袋に白い太文字、黒と白のクッキーの写真。

「先生の好きなオレオがありますよ? ほら」
「それ苦いからヤ」
「えっ?」
「ええっ?」

(そっかー、子どもの頃ってこんな好みだったんだ……)

 ぽかーんとあっけにとられながら風見はぼんやりと頭のすみで考えていた。

「これがいい」

 結局、ヨーコが選んだのはオレオでもチョコチップ入りでもなく、ちっちゃな袋に入ったストロベリークリームを挟んだクッキーだった。
 
「最初に言ってたのと全然違うし……」
「女の子っテ……謎デス」
「このころから苺好きだったんだな」

 ため息をつく二人の足下では、ランドールが初心貫徹。あきらめずにヒマワリの種を探し求めていた。

「ヒマワリの種ないよ、ヒマワリの種」
「……どこに売ってるのかな」
「園芸コーナー?」
「ペットコーナーかも?」

 律儀にちびっこ3人のリクエストに応えようと奮闘するうち、何だか保父さんみたいな気分になってきた二人だった。

「ランドールさん、ヒマワリの種、ここにはないみたいだから……」

 うるるっとネイビーブルーの瞳がうるむ。風見はあわてて付け加えた。

「歩きながらさがしましょう」

 こっくりとうなずき、とことこと歩き出した。

「あ、また先生の後くっついてるし。サクヤさんはわかるんだけど、何でランドールさんまで?」
「もしかして末っ子?」
「いや、確か一人っ子だった、はず。やっぱり同い年だと女の子の方が大人っぽいってことなのかな……」
「サイズに関係なく?」
「うん。サイズ関係なし」

 ちょこまか、とことこと歩くうち、飲み物の並んだ一角にやってきた。牛乳やチョコレートミルクに果汁100%のジュース。日本でもおなじみの豆乳やヨーグルトドリンクもあった。
 少し離れた所にはコーラやミネラルウォーター、ソーダのペットボトルがぎっしり並んでいる。バラのと6本パック入りのと。 

「ヨーコ先生、何飲みますか?」
「牛乳」
「はいはい、牛乳ですね……あった」

 青と白の紙パック入り牛乳を一本とってカゴに入れる。日本でもよく見かけるデザインだが色の塗り方がかなり大雑把だ。背景の青がかなり牛のイラストを浸食している。

「いや、そのちっちゃいのじゃなくて」

 ヨーコはぷるぷると首を横に振り、棚の下段にぎっしり並ぶ大ボトルを指差した。

「こっちのおっきいのがいい」
「無茶言わないでください、そんなでっかいボトルっ! って言うかこんなのあるんだ」
「2ガロンサイズだネ。アメリカではスタンダードだよ」
「そうなんだ……」

 ヨーコはお徳用液体洗剤と見まごうようなボトルにたっぷり入った牛乳を、ひしっと両手で抱えこみ、真剣なまなざしで訴えてきた。

「だって、せっかく成長期前に戻ったんだよ? ここでカルシウムたっぷり補給しとけば、元に戻った時ちょっとは効果があるんじゃないかと思うの!」
「お腹こわしちゃいますよ」
「やーの、やーの、こっちのがいいのーっ」

 首をぶんぶん横に振って足をばたばたさせている。予想外の駄々っ子攻撃にピンチに陥る保父さん風見。
『そんなに大量に牛乳飲んでも、背は伸びませんよ?』思っても怖くて言えない。ほとほと困りはてていると……

「……ヨーコ」
「カル?」

 すっと進みでたランドールがヨーコの肩に手を置き、しみじみと語りかけた。
 ちっちゃくても中味は紳士なのだ。

「君のその、ささやかな胸も十分にチャーミングだよ」

 途端にヨーコは口をへの字に引き結ぶと牛乳を棚に戻し、それからランドールの方に向き直り……だんっと足を踏んだ。

「いったーいっ」
「こらヨーコ先生っ! 友だちをいじめちゃだめじゃないですかっ」
「ふんっ」

 頬ほふくらませてそっぽを向いてしまったが、ちらっ、ちらっと横目でこっちをうかがっている。そこはかとなく『いけないことを』をした自覚はあるらしい。

「はあ………何が悲しくて担任教師に『こらっ』とか『めっ』とか言わなきゃいけないんだろう、俺」
「コウイチ。ボクが着いてるよっ。今の先生たちは子どもの体に大人の心が宿っている。アンバランスな状態なんだ……ボクたち二人で立派にお育てしよう。ねっ?」
「そうだな。俺たちがしっかりしないと!」

 気を取り直して顔を上げると、今度はサリーが『んしょっ』とのびあがって2ガロン入りのミルクに手を伸ばしていた。

「ああっ、サクヤさんまでっ」
「何てことだ、二人とも発想が子どもに戻ってる! 恐るべし、ナイトメア……」
「……いや、ヨーコ先生の場合はあんまし関係ない気がしてきた……」

「これがいい」

 ひしっとぬいぐるみのように2ガロン入りのミルクをかかえるサリーに近づくと、風見はかがみこんで目線を合わせ、話しかけた。

「わかった、わかりました。じゃあ、この大きいのを1本買ってみんなで分けましょう」
「うん」

 ほわっとサクヤの顔がほころんだ。

「コップも買わないと……紙コップとプラスチックのコップ、どっちの方がお得だろう」
「プラスチック。紙は圧倒的に量が多い」
「うわ、24個入りか。さすがにこれは使いきれないなあ……こっちにしよう」

 プラスチックのコップをカゴに入れ、ふと視線を足下に向けると一名足りない。

「ああっ、ランドールさんがいないーっ」
 
 さっと顔から血の気が引いた。前後左右を見回すが、いない。子どもの足だ、移動力はたかがしれてる。でもいつから姿を消していたんだろう?
 ああ………だめだ。思考がぐるぐるうずを巻く。思い出せない。
 
「ランドールさんっ、どこですかっ」

 大声で叫んでいた。

「ラーンドールさん! 返事してください!」
「Hey,コウイチ!」

 ついっとロイが後ろから袖をひっぱる。

「ここでMr.ランドールの名前を連呼するのはまずいよ。どう見ても迷子になったのがボクらの方に見える」
「そっか………そうだよな……よし!」

 すたすたと大股で店内を歩きながら風見は再び呼びかけを開始した。

「カルヴィーン! カル! おーい」

(しぃまったあ!)

 自分で提案しておきながらロイは焦った。

(コウイチにランドールさんのファーストネームを連呼させるなんて! ばか、ばか、ボクのばかっ)

「風見、風見」

 ちょい、ちょい、と服の裾をひっぱられる。サリーとヨーコがじっと見上げていた。一瞬、奇妙な既視感に捕われる。
 この光景、いつかの夢にそっくりだ。

「どうしました?」
「……いた」
「あそこ」

 二人の指差す先を見ると、そこにはヒマワリの種を抱えてうれしそうににこにこするカルの姿があった。

「あったー」
「……そうか……ナッツのコーナーにあったんだ……」
「カル、それ好きだもんね」
「うん!」
「良かった……」

 へなへなと膝の力が抜ける。風見とロイは互いに支え合ってかろうじて床にへたりこむのをこらえた。

「半分くらい、迷子の呼び出しアナウンスをお願いするための原稿まとめてたヨ、頭の中で……」
「……俺も」

『迷子のお知らせです。カルヴィン・ランドールくん、黒髪に青い目、服装は紺色のコートに茶色のズボン……』

 想像するだに改めて冷や汗がにじむ。
 
「このままでは危険だ。危険すぎる!」

 立ち上がるやいなや、風見はきゅっとヨーコの手をにぎった。

「迷子になったら大変だ。手をつなぎましょう。さあ、ランドールさんも!」
「Nooooooo!」

 電光石火でロイが割り込み、サリーとランドールとさっさと手をつないでしまった。

(たとえテリーさんと言う彼氏が居ても……コウイチと手をつなぐのはダメ。絶対にダメ!)
(ヨーコ先生となら、ギリで許せマス)

 途端にサリーがくしゃっと顔をゆがめ、ぐすぐす泣き出した。

「よーこちゃんといっしょじゃなきゃやーっ!」
「あ」
「……なんか、そこはかとなく不吉な予感がしマス」

 子どもは一人が泣き出すと他の子も泣き出すのがお約束。じきにランドールの青い瞳にうるっと涙が盛り上がり……

「ママーっ」
「……伝染った」
「なるほど、これが幼児期の感情同調。予防注射の順番待ちで他の子が泣いてるのを聞いて泣き出すと言う伝説のアレですネ」
「冷静に分析してる場合かっ」

 思わず親友につっこんだ拍子に、風見はヨーコの手を離してしまった。
 するとヨーコはわんわん泣いてる男の子二人にちょこまか近づき、サリーの頭をなでた。

「サクヤちゃん。泣かないで。ほら、涙ふいて……おはな、ちーんして」
「よーこちゃーん」

 ポケットティッシュで鼻をかませ、ハンカチで涙を拭っている。いかにも慣れっこと言う感じの仕草だった。

「カルもお顔ふこうね。ハンサムさんが台無しですよ?」
「うん……」
 
 自力でポケットからハンカチをとりだして顔を拭うランドールの頭を、うなずきながらヨーコはなでた。

「えらい、えらい」
「あ。『お姉ちゃん』だ」
「『お姉ちゃん』がいる」

 結局、風見とヨーコが手をつなぎ、さらにヨーコとサリーが手をつなぎ、さらにサリーとランドールが手をつないでその先にロイ。
 はないちもんめか、マイムマイムのように数珠つなぎで歩くことにした。

(これなら……これなら……どうにか……許せるレベル……か?)

 ため息をつきながらロイはサリーとランドールを観察した。まだ目が赤い。ぽわぽわと火照ったちっちゃな手のひらが、きゅっとにぎってくる。

(本当に……子どもになっちゃったんだなあ……)

 ふと不穏な光がロイの瞳に宿った。

(勝てる……今なら、勝てるっ)

 びくっとランドールがすくみあがる。にっこり笑ってごまかした。

(ああ、それにしても、コウイチが無事でよかった……)
(もし、コウイチが……ちびっ子にされてしまったら……………ああ、なんてキュートなっ……見たい…)
(はっ!)
(ボクは、ボクは何てことをーっ)

 沈黙のうちに百面相を繰り広げるロイに風見が声をかける。

「大丈夫だよ、ロイ。心配するな、俺がついてる!」
「う……うん………ありがとう、コウイチ!」

 一方で風見は必死で考えていた。とりあえず手はつないだ。けれど、いつまでもこのままではいられない。

 会計のときは財布を取り出すために手を離さなければいけない。いつ、どんなタイミングで迷子になるかわからない。
 一応、安全策をとっておこう………でも、どうやって?

 レジを目指して歩くうちに、髪飾りやヘアブラシ、ティーンズや子ども用のお手軽なアクセサリーの並ぶコーナーにやってきた。

「あ」

 その瞬間、閃いた。シンプルなチェーンタイプのネックレスを2本とってカゴに入れる。

「さ、会計しよっか」

 アメリカのスーパーの会計は日本とだいぶ様相が違っている。細く伸びたベルトコンベアーの上に自分でカゴから商品を取り出して一列に並べるのだ。前後の人の買ったものと混ざらないよう、境目には三角柱の仕切りプレートを置く。
 がーっとコンベアーに乗って流れてくる商品をレジでチェックして行くと言う訳だ。

 ベルトコンベアーの動きはレジでコントロールされ、きわめてゆっくり、時々止まる。だから慌てる必要は無いのだが、動くものを相手にしていると思うと自然と気が急いてくる。
 このときビニール袋も一緒にコンベアーに乗せて流して会計する。
 ……有料なのだ。

 何もかも風見にとっては初めての経験で、ちらっ、ちらっとロイの顔を見てしまう。そのたびにロイはにっこり笑ってうなずいてくれた。

(やっぱりロイは頼りになるな。俺よりずっと冷静で、落ち着いてるし。こいつが居てくれて本当に良かった……)
(ああ、コウイチ、なんってキュートなんだ! 君のその表情を見るためならボクは、アメリカ中のスーパーでお買い物してもいいっ)


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【ex8-12】長い道のり

2009/02/03 18:52 番外十海
「はああ、緊張したーっ!」

 会計を終えると風見は思いっきりのびをした。店内にはテーブルと椅子の置かれたレストスペースが設けられ、デリで買ったばかりのおかずやサンドイッチを食べられるようになっていた。
 お子様3人を椅子にすわらせ、自分たちも座る。

「はい、これコップ」
「わーい、牛さん、牛さんー」
「はい、先生、牛乳」
「ぎゅうにゅうー」

 店内は暖房が効いていて十分に温かい。冷たいミルクがかえって乾燥したのどに心地よい。それにカルシウムは心を落ち着けてくれる。
 両手でコップを抱えて牛乳をんくんく飲み、クッキーをかじる(約一名、ヒマワリの種)お子様3人を見てほっと一息。
 これでサクヤさんのアパートにたどり着くまでどうにかもちこたえてくれるだろう。
 さて、ケーブルカーに乗り込む前にもう一仕事。
 ネックレスを取り出し、まずはぶらさがっていたプラスチックのハートを取り外した。

「それ、どうするんだい、コウイチ」
「こうするんだ」

 風見はジャケットのポケットから勾玉に鈴のついたファスナーチャームを取り出した。

「おお。『夢守りの鈴』勾玉つき、ファスナーチャームバージョン」
「こんなこともあろうかと思って多めに持ってきたんだ」
「さすがダネ」

 ナスカンを開いてチェーンにとりつければ勾玉&鈴のペンダント、一丁上がり。

「はい、ヨーコ先生、これつけて」
「えー、ピンクー?」
「……好きな色でしょ?」
「ん……まあ、ね」

 微妙な表情をしている。
 実はヨーコがピンクを好きになったのは大人になってからで、子どもの頃はむしろ青や緑の方が好きだったのだ。

「こっちのグリーンのはサクヤさんに」
「……よーこちゃんと同じがいい」
「……わかりました、はい、ピンク」

 ピンクの勾玉をつけてもらってサリーはごきげんだ。うれしそうに自分のと、ヨーコのを見比べている。

「なんか……こーゆー子ども時代だったんですネ、二人とも」
「過去が見えた気がする」
「さてと、ランドールさんは……やっぱり青かな。十字架のペンダント見せてくれますか?」
「うん」

 素直にランドールはコートの中から十字架を引っ張り出した。

「素敵なクロスですね……はい、これ」

 鈴のついた青い勾玉をクロスの横にかちゃり、ととりつけた。
 鈴と鈴は響き合い、呼び合う。そして、魔女は神聖なものが苦手。これは二重の防護策だった。

「神様同士で喧嘩しないかな……」
「ダイジョウブ、日本のカミサマは心が広いから!」
「そうだな、八百万もいるくらいだし」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ふう………」
「やっと着いたぁ………」

 サンフランシスコ北部の海沿い、マリーナ地区の一角にあるアパートの二階、南東の角。サリーの部屋にたどり着いた瞬間、風見とロイは玄関にへたりこんだ。

「大丈夫?」

 にゅにゅっととお子様3人がのぞきこんでくる。ちいさな手で頭をなでられた。

「えらかったね……風見。えらかったね、ロイ」

 答えようにも言葉が出なくて、うなずくのが精一杯だった。果たしてちゃんと笑顔を作ることができたのか、あまり自信がない。

 ここまでの道のり、決して短くはなかったし平坦でもなかった。物理的にも、精神的にもあらゆる意味で。
 
 パウエル-ハイド線(Powell-Hyde Line)に乗って北上し、終点手前のフランシスコ通り(Francisco.St)まで。サンフランシスコに来たからには一度はケーブルカーに乗りたいと思っていたけれど、まさかこんな形で乗るなんて。
 緊張感に押しつぶされて息をするのも一苦労、景色を楽しむ余裕はほとんどなかった。
 フランシスコ通りからミュニバスに乗り換える時もちびっこがいつ走り出すか逃げ出すかと気が気ではなく、神経を張りつめていた。
 バスを待つ間はずっと小さな声で「30番、30番」と呪文のように乗るべき路線の番号を唱え続け、目的のバスがやってきた時は思わず「よしっ」とつぶやいてしまった。
 つい日本の感覚で後ろから乗ろうとしていたが、よく見ると後ろからは降りる人ばかり。しまった! と寸でのところで方向転換、ばくばく言う心臓を抱えながら前方のドアに向かってぎくしゃく歩く。
 どこから見ても立派なおのぼりさん。だがその時の風見には、はずかしいと思う余裕すらなかった。
 
 幸い、ケーブルカーとバスは共通のミュニパスポートと言う1日乗車券で乗ることができたのでチケットを買うのは一回で済んだけれど……。日本と違ってバスの停留所の名前はアナウンスされず、必死になって電光掲示板に表示される名前をにらんだ。
 一分一秒たりとも気が抜けず、まるで小学生のようにびくびくして、何かするたびに最後尾にいるロイの方を振り返らずにはいられなかった。
 実際には3人の子どもたちはきわめておとなしかったのだが。
 サリーはおどおどしていて急に人が乗り降りするたびにこそこそとヨーコの背後に隠れていたし、ランドールはぽーっとした夢見がちな表情で外の景色を眺めていた。
 ヨーコはと言うと、サリーの手をぎゅっと握って常に油断なく周囲を見回していた。きりっと口をへの字に結んだその表情はどこか張りつめて痛々しく。目に入るもの、聞こえるもの触れるもの全てを積極的に楽しむいつものヨーコ先生の姿とはあまりにかけ離れていた。

(マクラウドさんが言ってたのは、このことだったんだな……)

 バスの中でサリーは座席に座ったままうとうとしていたが、降りるべき停留所の手前に来るとぱちりと眼を覚まして手をのばし、しきりと窓枠の上をつかもうとした。当然のことながら届かず、ちっちゃな手のひらがわきわきと宙をつかむばかり。

「あれ? えっと……」

 不思議そうに首をかしげる。寝起きでぼんやりしているらしい。

「サクヤさん?」
「これだよ、コウイチ」

 ロイがくっと窓枠の上に張られた紐をひっぱった。ピンポン、とチャイムが鳴り、バスが停まった。

「そっか……ボタンじゃなくて紐なんだ」
 
 アパートにたどり着くと、サリーはポケットからカギを取り出してんしょっとのびあがった……が、ドアノブが高すぎて届かない。
 もともと日本のドアより位置が高いのだが、今は子どもになっているからなおさらだ。

「サクヤさん、俺がやりますから」
「うん……ありがとう」

 カギに下がった鈴がチリン、と手の中で小さく澄んだ音を立てた。

 淡いベージュやグリーン、クリーム色。中間色でまとめられ、背の低い家具をそろえたサリーの部屋は居心地がよく、一歩入るなりほんわりと清々しくもやわらかな空気に包まれた。

「あ……もしかしてこの部屋、結界がある?」
「うん。まいあさお水あげてお参りしてる」
「あ、鹿島神宮のお札」

 本棚の一番上にさりげなく神社のお札が置かれていた。結城神社は鹿島神宮の系列なのだ。
 ダイブ用に急造したものと異なり、ここはお札を核にして時間をかけて練り上げられた結界だ。維持してきた巫女=サリーの力は弱くなってしまったけれど、結界そのものは消えずに残ったのだろう。

「ここに居ればひと安心ってことか……」
「そうだネ」
 
 すっくとロイが立ち上がる。
 
「サクヤさん、台所おかりしマス」
「うん」
「エプロンも」
「うん」

 いそいそとエプロンをつけ、台所に立った。

「えーっと、ミルクパンは……」
「これじゃないかな」
「サンキュ、コウイチ」

 風見が渡してくれたのは実はゆきひら鍋だったりするのだがこの際細かいことは気にしない。
 スーパーで飲みきれなかった2ガロン入りのミルクを鍋にそそぎ、弱火でとろとろとあっためる。本来なら何も入れずに飲みたい所だが、今は風見も、自分も子ども3人も消耗している。
 少しでもエネルギーを補給しておこう。
 砂糖をほんの少し加えておたまでかき混ぜた。

「コウイチ、マグカップ出してくれる?」
「わかった……えーっと……」

 見つけたカップの種類は微妙にばらばら。大学の校章入りのどっしりしたマグカップ。地元のスターバックスの地域限定マグ。ぽってり丸い白いコーヒーカップが2つ……食器棚の一番手前にあったからいつも使っているものなのだろう。
 だれかからもらったのか、あるいは自分で買ったのか、やたらと可愛らしいクマの模様のカップもあった。

「これで5つ、っと。ロイ、準備できたぞ」
「OK。こっちももう少しでできあがるヨ」

 いそいそとこじんまりとしたキッチンで立ち働くロイの心臓は幸せでいっぱいだった。それこそ目一杯ふくらませた風船のように、今にもぱっちんと行きそうなくらいに。

(ああ、まるで新婚家庭のようダ……)

 牛乳を注ぐ手がわずかに震える。既に3人の子持ちだったりするのは気にしない。

「できました……さあ、ドウゾ」
「ぎゅうにゅうー」
「ぎゅうにゅうー」
「ミルクー」

 5人で顔をよせあってあっためたミルクを飲んだ。

「ふは……」
「美味いなぁ……」
「あ、眼鏡くもった」

 口からのどを通って温かさが流れ込み、ひろがるのがわかった。体の真ん中までじんわりと。
 ほんの少し砂糖の甘さが加わっただけで、張りつめた気持ちがほんわりなごんでゆくのが不思議だった。

「ごちそうさまー」

 飲み終わると、まずサクヤが小さくあくびをして目をこすった。続いてランドールも。眠いのだ。考えてみれば結局、昨日の夜は一睡もしていないし夜があけてからはずっと歩き通しだった。

「少し休んでください。日本への連絡は俺らがやっときますから」
「うん……パソコンは……デスクの上だから、つかって………」

 言ってるそばから、かくっと首が揺らぐ。

「サクヤちゃん、ベッド行こうね?」
「うん、ヨーコちゃん」
「カルもおいで」
「うん……」

『お姉ちゃん』に手をひかれて二人はとことことベッドへと歩いて行く。

「……上がれるかな」
「あ」

 アメリカサイズのシングルベッドは日本の物に比べて高さがある。よじ登ろうと苦戦するサクヤを後ろから支えて抱き上げた。

「ありがとう」
「どういたしまして」

 その間に、ロイが素早くランドールをベッドの上に放り上げていた。

「わ」

 ころんとひっくりかえってじたばたするランドールの隣にヨーコがぴょん、と自力で飛び上がる。
 ヨーコを中心に川の字になって布団の中に潜り込む3人を、風見とロイはじっと見守った。何だかおがくずの中にもぐりこむハムスターみたいだ。
 サクヤがもふもふとヨーコにしがみついて胸に顔をうずめ、目をとじた。

「おやすみ、サクヤちゃん」

 ヨーコはサクヤが眠るまで左手でずっと頭をなでていた。そしてもう片方の手はと言うと、反対側からしがみつくランドールの手をしっかりにぎっていたのだった。
 
「先生」
「ん?」
「眼鏡、はずしますね」
「あ……うん、ありがとう………」

 赤い眼鏡を両手でそっと外す。

「先生ってちっちゃい頃から眼鏡かけてたんですね。サクヤさんはまだなのに」
「…………」
「先生?」

 すやすやと眠っていた。風見は小さな眼鏡を注意深くたたむとベッドサイドのテーブルに乗せた。
 何だか時間の経過とともにどんどん精神まで『子ども』になって行くようだ。果たして目をさましたとき、ヨーコ先生はちゃんと答えてくれるだろうか? 
 いつものように『先生』と呼びかける、自分たちの声に。

 最初に夢の力に目覚めたときから、ずっと自分を教え、導いてくれた。いつでも、どんな時でも。

『あたしは戦闘はからっきしアウトだからさ。荒事は任せたぞ、風見』
『怪我したらいつでも治してやる。気にせずばんばん行け!』

 ずっと、守ってきたつもりだった。自分なりに、精一杯に。だけど………今は………。
 堅く握った拳が細かく震える。
 守っていたつもりで守られていた。支えてきたつもりで支えられていた。ヨーコ先生がこのまま元に戻らなかったらどうすればいいんだ? 俺は何を頼りにして前に進めばいい?

「……コウイチ」

 ぽん、と肩を叩かれた。

「ロイ………」

 いつもと変わらない、青い瞳が見つめていた。ロイの手のひらが肩を包み込む。伝わるぬくもりが教えてくれる……自分は一人ではないのだと。

「……日本に連絡しよう。蒼太さんに報告を」
「OK。和尚じゃなくて?」
「あの人パソコン持ってないんだ。ケータイは使いこなしてるんだけどね」
「意外デシタ。何にでもとりあえずチャレンジする人なのに」
「あ、でもデジカメは持ってたかな? やたらと高性能のやつ」
「謎な基準デス……」
 

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【ex8-13】呪いの法則

2009/02/03 18:53 番外十海
 子どもたちを寝かしつけてしまうと、風見はそっと自分の携帯を開いた。海外でも使える機種だ。日本に電話をかける際の番号もあらかじめ登録しておいた。
 電話帳から『NH』のカテゴリに分けられたリストを呼び出し、一人を選んでかけた。
 今は朝10時、しかし日本は早朝3時。これを遅いと見るべきか早いと見るべきか、少々微妙な所だが……相手は1コールで出てくれた。

「蒼太さん?」
「………何があった」

 海外通話独特のタイムラグの後、挨拶の言葉も。非常識な時間に電話をかけたことへの文句もなく開口一番、本題に切り込んできた。

「逃げられました」
「仕損じたか」
「はい。犠牲者の解放には成功しましたが、その後で……」 
「待った。今、どこだ?」
「サクヤさんのアパートです」
「ってことはパソが使えるな? そらぺで話そう。長くなるだろう」
「そらぺって?」
「skypeだよ」

 やはりこの人にかけて正解だったな、と思った。和尚が相手ではこうは行かない。
 サクヤのデスク前に立ち、スリープ状態になっていたノートパソコンを立ち上げる。skypeのショートカットはすぐにわかった。

「何でお前が電話を? 羊子さんはどうした」
「それが……ちょっと今、電話に出られない状態で」
「寝てるのか?」
「………はい」
「遅くまで大変だな」

 何のことだろう?
 首をひねってるうちにskype……ネット電話が繋がった。
 小さなウィンドウを通してパソコンの画面の向こうに蒼太の顔が。スピーカーから声が流れて来る。こっちの映像も向こうに流れていることだろう。

「お、来たな……よし、こっち切るぞ」 

 言われるまま、携帯を切る。

「さて。改めて話してもらおうか。何があった」
「ダイブして、夢魔ビビと戦って……倒したと思ったんです。だけど、犠牲者が解放されたのを見届けて安心してる所を不意打ちされて。羊子先生と、サクヤさん、ランドールさんが……呪われて」

 口の中がからからだ。こくっとつばを飲み込み、ともすればのどの奥に縮こまりそうになる言葉を引きずり出した。

「子どもにされてしまいました」
「そうか。だからお前たちだけなんだな」
「はい」

 画面の中の『先輩』は、意外なことに笑っていた。ほんの少し眉をよせて、困ったような顔だったけれど、とにかく笑っていた。

「羊子さんだって無敵じゃないさ。むしろ命の無事を喜ぶべきだろうな」
「は……い……」

 そうだ。仕掛けられるタイミングが明け方だったからあの場で離脱できたのだ。もし夜中に呪いを受けていたらと思うと。
 背筋を冷たいものが走り抜ける。自分たちだけなら満身創痍になってもどうにか切り抜けられるだろう。だが無力な3人の子どもを守るとなると事態は違ってくる。
 逃げ切ったところで傷ついた体を癒してくれるはずの人はちっちゃくなっちゃってるし。おそらく治癒能力も弱くなっているはずだ。

(俺たちが安心して無茶できたのは……先生がいたからなんだなあ)

「どうした、風見。シケた面して」

 しまった。こっちがどんな顔してるか、向こうにも全部見えてしまうんだった!
 あわててくっと顔を上げ、モニターの向こうの蒼太と眼を合わせる。

「大丈夫です! 一人じゃないし。ロイも一緒だし」
「そうだったな……それじゃ、改めて作戦タイムと行こうか」
「はい!」

 画面の向こうで蒼太がせわしなく手を動かしている。「ビビ」のデータを呼び出しているのだろう。

「最初にお前たちが倒したのは、おそらく使い魔の化けた囮だろう」

 はっとして風見はロイと顔を見合わせた。

「使い魔……山羊か!」
「文字通りのスケープゴートだったんだ!」
「そう言うことだな。まず敵の能力を見極めて、苦手な相手から優先して呪いをかけたんだ」
「苦手?」
「うむ。ここから先は俺の推測だがな。左道のルールは概ね万国共通の筈だ……一度に一体の魔女が呪いをかけられる相手は一人だけなんだろう。まずは狼と、電光使いと、巫女さんを無力化したって訳だ」
「そうか……」

 ぎりっと奥歯を噛む。昨夜のあの最初の快進撃も、全て敵の策略のうちだったんだ。
 改めて悔しさと苦さがわき起こる。

「かけられた呪いなら、解くまでだ」

 淡々とした声で告げられる。悔しさと不安、後悔でざわついていた胸の中にすうっと一筋の光がさした気がした。

「記録によるとな、呪いをかけた段階で1人につき1つ、必ず一定の法則に基づく個別の解除法が設定されるらしいんだ。解除のための条件さえ判明すれば」
「先生たちを元に戻すことができるんですね!」
「理屈では、な」
「一定の法則……か……」
「よく、おとぎ話にあるだろう。乙女のキスとか」

 ちらっとベッドの方を振り返る。

「乙女のキス……」
「羊子先生にキスしてもらえばっ」
「あ、ちなみに当人が呪われてる場合は無効だ」
「……ダメかぁ」

 がっくりと肩を落とす後輩二人に、相変わらず淡々と蒼太は伝えるべき情報を伝えてゆく。

「俺はこれから過去の記録を当たって調べてみる。お前らもいろいろ組み合わせを探せ。誰かの応援をあてにするな」
「……はい」
「お前たちだけが頼りだ………羊子さんたちを頼む。」

 ふと、言葉が途切れた。

「蒼太さん?」
「もし何かあったら………」

 やや間を置いて流れてきた声は、先ほどまでの冷静な声とは明らかに質が違っていた。必要な事を伝えて思わず気がゆるんだか。押さえきれない熱い感情の揺らぎが、冷たい殻を割って吹き出したようだった。
 表情こそ穏やかなままだったがさりげなく組まれた手が小刻みに揺れている。小さな画面を通してさえはっきりとわかるほど。
 短い、しかし重苦しい沈黙。
 やがて、きりっと歯を食いしばると蒼太は拳を握った。

「何かあったら、衝撃波で空が飛べるって、その体で知ってもらう」

 ぼそりと抑揚のない声でつぶやかれる一言が、ずしりと腹に響く。

「……了解」
「御意」

 不意ににゅっと目の前にふわふわのセミロングの頭が割り込んできた。その隣には、つやつやのベリーショートの頭がもう一つ。
 着ているものと髪の長さこそ違うが後ろ姿は骨格レベルでそっくりだ。

「お願い、蒼太。しからないで」
「……………え?」

 画面の向こうで蒼太が目をまんまるにしている。
 この人でもこう言う顔するんだなあ、とか。あの目、あそこまで全開になることがあるんだ、とか頭のすみっこで思った。

「風見も、ロイも、一生けんめいなの。おねがい……」
「おねがい……」
「よーこさん……さくや…………」

 しぱしぱとまばたきして、目をこすって、それからもう一度画面を凝視すると蒼太は抑揚のない声で言った。

「……そらぺの画像保存すんのどーやるんだっけなあ」
「あー、すみません、ちょっとわかんなくって。遠藤ならそう言うの得意だと思うんですけど」
「彼、日々ネットでヒーロー情報の収集に余念がないからネ」
「しょうがない」

 ごそごそやってると思ったらデジカメを構えてきた。

「はい、チーズ」

 ヨーコとサクヤは素直に画面に写るカメラを見ている。同じ角度にちょこん、と小首をかしげて。

「いやあ、和尚から話には聞いていたけど、そういう感じだったんだなあ。まるっきり双子じゃないか。意外というか、話どおりというか……」
「え? 話通り?」
「和尚は写真とかビデオとか俗っぽい事だけ限定で、縦横無尽には使えない癖にとりあえずチャレンジする人だから………庫裏の羽目板の裏に"秘密図書館"と称する秘蔵の証拠写真があってだね」
「秘蔵、ですか」
「ああ。結城神社の巫女姉妹、とか言われてた頃の写真がね……」
「姉妹って」

 ちらりと昨夜の『ダイブ』を思い出す。そろって巫女装束に身をつつみ、手を取り合っていた二人を。

「……姉妹ダネ」
「うん、姉妹だ」

 目の前のちっちゃな二人を見て納得していると、ベッドの方から弱々しい声が聞こえてきた。

「ヨーコぉ……サリー……」
「カル?」

 目を覚ましたら一人だったのでさみしかったらしい。目をこすりながら歩いてきて、にゅっとヨーコとサリーの間に顔をつっこんできた。
 ひくっと蒼太の口元がわずかにひきつる。

「大丈夫だよ、カル。こわくないからね」
「うん……うん……」

 ちらっとランドールはパソコンの画面に視線を走らせ、かすかにほほ笑んだ。

「それじゃ、羊子さんたちの無事も確かめたし、そろそろ通信終了させてもらうぞ」

 蒼太はランドールの頭をなでるヨーコからかなり意図的に目をそらしている。口調も妙に爽やかだ。

「お前らも夜が明けるまでにもう少し休んでおけ」
「はい?」

 こんどはこっちが目を丸くする番だった。まさか……蒼太さん、時差を忘れてるんじゃあ。

「えーっと、蒼太さん。お心遣いはありがたいんですが、こっちはアメリカなんです」
「知ってる」
「時差ってありますよね」
「え」
「…………東京と比叡山で日の出の時刻違いますよね?」
「そうなんだよ。意外と違うんだよな。東京と京都って結構遠いんだよな」
「アメリカと日本はもっともっと遠いんですよ」
「ん? あ、ああ」

 微妙に何かを察したらしい。

「こっちは今、朝の10時なんです……あ、もうすぐ10時30分か」
「えええええっ」

 わあ、素で驚いてるよ。

「そーかー………真言宗カリフォルニア支部の師父が真昼間に暇つぶしのそらぺ掛けてくるのは"仕事をサボって昼間っからそらぺしてたから"じゃないんだ!! 南無」

 斜めの方角にむかってぺこぺこと頭をさげている。どうやら、サンフランシスコはそっちの方角にあるらしい。

「ちゃんと、お勤めの後でネットサーフィンしてたんだな……思いっきり誤解してたぜ……」
「あは、あはははは……」
「あー、こほん、それはそれとして、だな」
「はい」
「緊急事態だ、この際時差は無視だ。必要な時はすぐに連絡しろ。俺からもそうする。いいな?」
「はい!」
「以上。通信終了」

 窓が閉じられ、ふう、と息を吐いた。
 今頃、全力で情報を検索してるのだろう。さしあたって自分たちは……。
 安心したのか、ランドールとサクヤとヨーコはソファで身をよせあって眠っていた。

 この3人をベッドに運ぼう。
 声をかけるより早く、さっさとロイがランドールを抱き上げている。素早くベッドに運び、今度はサクヤを抱き上げた。
 本当にしっかりしてるな。てきぱき行動してるし。こいつが一緒でよかった。

 注意深くヨーコ先生を抱き上げる。腕の中にすっぽり収まる小ささを、もうさっきほど悲しいとは思わなかった。


 ※ ※ ※ ※


 サンフランシスコとの通信を終えると蒼太は口をゆがめて、ばん、と机を叩いた。

「くっそぉおお……あんのバカ社長っ! 子どもだから何しても許されると思ってんな?」

 心細そうにべそべそしながら羊子にしがみついた刹那、あいつは確かにこっちを見ていた。うるんだ無邪気そうな青い瞳の奥に一瞬、得意げな光が見えた。

 蒼太は厳しい修行の末に磨き上げた己の能力と技、そして悪夢を祓う責務に誇りを持っていた。
 それだけに昨日今日能力の使い方を覚えたばかりの新人が、古くからの盟友であり、先輩でもある羊子やサクヤと組んでいるのは、正直あまり面白くなかった。
 できれば今回だって自分も同行したかったくらいだ。押し殺した心の奥のモヤっとした葛藤を、あの男は子どもならではの勘の鋭さで見抜いたのであろう。

「あいつ、絶対わかっててやってるな……」

 しかも、目を合わせた後で人見知りを装ってこそこそと羊子さんの背後に隠れていやがった。あまつさえ肩にしがみついて……。
 女に興味はないとわかっていても。子どもの姿をしていても、腹立たしいことこの上ない。
 こうなったら、一秒でも早く呪いの解除法を探してやる……そうして、大人に戻ったら改めてシメる!
 
 ひょろ長い指がキーボードの上を踊りマウスを滑らせる。『山羊角の魔女』、ビビの情報を求めて電子の海を潜り、数多の文字と画像の間をかいくぐり。ほんの一握りの真実を求めて古今東西、虚々実々入り交じる記録の山を引っ掻き回した。まさぐった。
 もう、寝直すつもりはなかった。

「銀のステッキで撲殺……おおっと、こいつは人狼か。口にニンニク詰めて心臓に杭……は吸血鬼だな」

 蒼太は己の技と役割に誇りを持った男だった。が……まだまだ若い。たまに個人的な恨みがちらほらするのはご愛嬌。

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【ex8-14】千客万来さあどうしよう?

2009/02/03 18:55 番外十海
 ちっちゃな先生とちっちゃなサクヤさん、ちっちゃなMr.ランドール。
 大人だけど大人でなくなってしまった3人が眠っている間、子どもだけど最年長になってしまった2人は呪いの解除法を求めて情報を集めた。
 サリーのノートパソコンに集められていたデータを読み漁り、新たな情報を求めてネットを検索し……。

『ビビ』に関する記録は欧米での事例が多いため、ほとんど英語で書かれていた。そのため必然的にロイが記録を読み、風見は彼が翻訳する内容を聞く形になった。
 熱心に。それはもう熱心に。熱心なあまり、ロイがパソコンを操作している間も背後から身を乗り出して画面に見入った。
 全部はわからないけれど、一部なりとも自分で理解しようと。
 キーボードを叩くロイは気もそぞろ、落ち着かないことこの上もない。
 
(くっ、首筋に息がっ! コウイチ、近いよ……近すぎるよっ)

「なぁ、このSea-soltってなんて意味なんだろう」

 あまつさえのぞき込んで顔を寄せ、じーっと見つめてくるではないか。

「っっっっっ」

 その瞬間、体は十二月に居ながらもロイの魂は真夏の盛りに舞い上がっていた。間近に迫る光一の顔、二人の間の狭い空間をほのかな温もりが満たし、頬と頬が今にも触れ合いそうだ。

(も、もーちょっと顔つきだせば……唇にちゅーできる……かも)

「おーい、ロイ?」
 
 名前を呼ばれて、はっと我に返る。

「あっ、い、いや、これは海の水でつくった塩って意味だねっ! アメリカやヨーロッパの塩は岩塩が主流だからっ」
「そっか、日本じゃ天然塩って海水からつくるもんだから」
「そうそう、こっちで入手しようと思ったら海の水の塩って限定しないと……」
「サクヤさんは常備してそうだけどな」
「先生のバッグの中にもありそうダネ」

 さっくりいつもの会話ペースに戻る。残念なような、ほっとしたような……。

「……ぃたぁ………」
「ちょっとまっててね」

 ベッドの方で声がする。どうやらお子様たちが起きてしまわれたらしい。さよなら、二人だけのスウィートタイム。
 心の中でロイが切ないため息をついていると、とことことサリーが台所に歩いて行くのが見えた。

「あれ?」

 のびあがって冷蔵庫を開けようとしている。しかしアメリカ製の冷蔵庫は大きく頑丈で、扉を開けるのに結構な力がいる。

「う……んー」

 ただでさえ華奢な日本人、それもちっちゃな男の子ががんばった程度ではビクともしない。
 すばやく風見は台所に行き、かがみこんで声をかけた。

「サクヤさん? どうしたんですか」
「れいぞうこ。あかない……」
「あ、はいはい……どうぞ」

 かぱっと開ける。サリーはのびあがってじーっと冷蔵庫の中身を検討している。

「昨日シャケの切り身買ったからそれと……たまごと、わかめとあぶらあげと豆腐があるから味噌汁にして、それから……」

 かろうじて下の段には手が届いたものの、冷蔵庫の扉の上部、卵ケースとなると文字通りハードルが高い。むなしくちっちゃな指先が宙をかく。

「……届かない」
「…………もしかして、ご飯作ろうとしてます?」
「うん。よーこさんがおなかすいたって」
「ああ、それは緊急事態ですね。でも今のサクヤさんじゃ流しにもコンロにも届かないですよ……」

 ただでさえアメリカのキッチンは何もかも高め大きめに作られているのだ。自分たちでさえ、日本で台所に立ったときの基準より少し上にシンクの縁が来る。

「って言うか火、使うのあぶないデス」

 ばさっと白い布がひらめいた。

「かくなる上はっ、このボクがっ」

 振り向くと、ロイが割烹着を装着してお玉片手に身構えていた。

「ご飯作るのに……そんなニンジャポーズ決めなくても」
「野菜を切るのも敵を切るのも同じでござる!」
「同じじゃないって」
「忍びとは刃の下に心と書く!」
「何の関連性があるんだよ」

 2人の漫才めいたやりとりを見ながら、サリーが心底不安な面持ちでため息をついていた。

 ピンポーン。

 間ンの悪いことにちょうどその時、玄関の呼び鈴が鳴った。

「はーい」

 居留守を使おうとか静かにしようとか考えつくより早くサリーが返事をしてしまった。一方ドアの向こうではさらにドンドンと遠慮のエの字もないノックが加わった。

「サクヤいるんだろー。客来てるぞ」
「あ、テリー」
「テリーさん?」

 まずい。よりによって『大人』の3人を知ってる相手が来てしまった!

「ど、どうする?」
「どうにかごまかすしかないっ! 今更居留守使うのは不自然だし、心配して警察呼ばれたらさらにまずいし」

 その間にサリーはとてとてと玄関に歩いて行き、ドアのカギを開けている。慌てた2人は電光石火すっ飛んで、ロイがサリーを抱いて奥に下がるのと同時に風見が前に出てドアを開けた。

「ハ、ハロー」
「よぉ、お前らここに居たのか」

 ドアの外に居たのはテリー一人ではなかった。

「やあ、コウイチ」
「まっ、まっ、マクラウドさんっ!」

 まさかの探偵所長来訪。パニックを起こした風見は完全に日本語に戻っていた。

「言ったろ? 客が来たって」
「あの……そう言うテリーさんは?」
「俺は、サクヤのダチだから」
「はあ」

 曖昧な顔でうなずく風見の後ろでは、ロイが一人納得していた。

(彼氏なら確かに客では無いな!)

「えーとえーとんっと………テリーさん、何でここにいますか」

 動揺で微妙に英語変換が上手く行かないがとりあえず意味は通じたらしい。

「ああ、一緒に昼飯食いに行こうと思って」
「所長さんは?」
「クッキー焼いたんで、サリーに……後で君らんとこにも行くつもりだったんだ」
「先生に会いに?」
「センセイ?」
「あ……Missヨーコに会いに」
「うん」

 いけないいけない。油断すると日本語に戻る。

「手間が省けたな。君らがいるってことは、彼女もここにいるんだろ? ……そこにバッグが置いてあるし」

 所長の目線の先にはヨーコの紺色のバッグがころんと転がっていた。

(しぃまったあああ!)
(さすが探偵、見事な観察眼デスっ)

「コウイチ」
「何でしょうっ」
「やばいんじゃないか、あれ」
「……わーっ」

 食べるものがなければ自力で調達すればいいじゃない。
 と、ばかりにヨーコがキッチンテーブルによじのぼろうとしている所だった。目当ては置きっぱなしになってる動物クッキーナッツ入り。
 慌てて走っていって抱きとめ、床に降ろす。

「ヨーコ先生っ! あぶないじゃないですかっ」
「どなるなよーかざみー」
「……ヨーコ? 同じ名前なのか?」
「あ、マックス」
「やあ、お嬢さん………何で、俺の名前を」
「えーだって……もが」

 慌てて口にアメ玉をつっこむ。とりあえず静かになった。

(ぴーんち!)

 風見は一瞬で腹をくくった。二人とも日本語にはあまり堪能ではないはずだ……よし。

「どうする、ロイ。さすがに本人だって話すわけにはいかないしなあ……」

 精一杯平静さを装いつつ風見は日本語でロイに話しかけた。ロイもすぐ察してくれたのだろう。笑顔でさらっと答えてくれた。

「ここで変な言い訳を使うとかえって不審に思われてしまうネ」
「仕方ない、親戚の子供を預かったってことにして先生たちは出かけたことにしよう」
「OK」

 慌ただしく日本語で打ち合わせをすませると、二人は前にも増して爽やか、かつイノセントな笑顔でディフとテリーに向き直った。

「ヨーコ先生とサクヤさんは今、おでかけ中です」
「実は、親類が……遊びに来てて、シスコを案内してるんです」

 テリーがうさんくさそうに首をかしげた。

「そんな話、聞いてないぞ? こっちに親類がいるなんて」
「たっ、たまたまこっちに旅行に来ててーっ! 現地で落ち合いましたっ」
「この子たちはその家のお子様なんです。大人がのんびりできるよう子守りしてます」
「そう、ボクたちベビーシッターなんですっ」

 テリーとディフは顔を見合わせている。微妙にうさんくさそうな顔だ。

「で、この子もヨーコって言うんだな?」
「はいっ」
「まさか、こっちのそっくりなちびさんはサクヤとか言わないよな?」
「うん」
「サクヤさんっ」
「そっちも同じ名前なのか?」

(うーわー)
(素直すぎデスっ)

「日本ではよくあることですっ! 読みが同じでも漢字がちがってたりしてーっ」
「ふうん……で。そっちのすみっこの青い目のボーズは?」

 ヨーコの背後に隠れるようにしてそっとランドールが様子をうかがっていた。

「親戚の方のっ。お友達の息子さんです」
「カルっていいます」
「……そうか。かなり仲良さそうだな」
「家族ぐるみのつきあいなんでっ」

(ど、どうする……)
(なんか、まだちょっと納得しない顔してるっ)

 表情こそ笑顔だが風見とロイの背中にじっとりと冷たい汗がにじんできた。一番言い逃れの得意な人が。そして気迫で多少の無理は押し通す人が、今はちっちゃくなっている。しかも空腹状態でかなり気力も低下しているっぽい。

「……マックス……」
「ん。どうした、ヨーコ」

 ディフがかがみ込んでヨーコの顔をのぞきこんだ。絶妙のタイミングでちっちゃな体がこてん、とがっしりした胸板にうつぶせに寄りかかる。

「おなか……すいた………」

 その隣ではサリーとランドールが目をうるませる。

「おなかすいた……」
「ごはん…………」

 効果は抜群だった。ディフが腕に抱えた紙袋をごそごそとまさぐり、大振りな色の濃いクッキーを取り出した。

「……食うか?」
「たべる」

 ヨーコが鹿せんべいに食いつく鹿さながらにあぐっとディフの手にしたクッキーにかぶりついた。強烈なショウガの香りがたちのぼる。

「……うぇ」
「あんま子ども向きの味じゃなかったか。すまん」
「……へーきだもん。こどもじゃないもん」
「そうか」

 笑いをこらえるディフからクッキーを受け取ると、ヨーコはぱきぱきと三つに割ってランドールとサクヤに差し出した。
 一枚のクッキーを分け合ってしょりしょりと食べる小動物の群れを見ながらテリーが首をすくめて言った。

「わかったわかった、つくってやるよ。この部屋だったら料理はよくやってるしな」

(助かった……)
(やはり彼氏!)

「ありがとうございます。俺ら、料理てんで苦手で」
「ふつーはそうだよな、うん……」
「俺もちっちゃい子ども向きの献立は、ちょっとな」
「あー、平気平気、俺慣れてるから。日本の子どもならやっぱり和食の方がいいのかな……」

 勝手知ったる何とやら、テリーはさっさと上がり込んで台所へと歩いて行く。一方でディフはかがむのがそろそろつらくなってきたのか床にぺったりとあぐらをかいて座ってしまった。
 すかさずヨーコが膝に乗る。絶好の場所を見つけたと言わんばかりに。大きな手のひらがそっと頭を撫でてくれた。

「苦手なものあるか? ん? ピーマン食えるか?」
「OK」
「そうかえらいな……」

『お姉ちゃん』をとられてむっとしたのか。背後からランドールがよじよじとよじ上るが、所長はびくともしない。
 サリーは少し遠巻きにしておどおどしていたが、ヨーコに手招きされてそっと一緒に膝に座った。
 
「軽いなあ、君ら………あいたっ」

 手頃な長さだったので髪の毛をひっぱってみたらしい。

「こら、それは反則だぞ」

 片手でつまみおろされ、ころんと床に転がされてしまった。一方でテリーは冷蔵庫を開けて中身を確認している。

「あーあんまり入ってないな……あいつ小食だから……子供らの分だけならできそうだけど」

 テリーは手際良く米をはかってボウルに入れると、ちゃっちゃと研ぎ始めた。
 しばらく床の上でじたばたしていたランドールは起き上がるとむっとした表情でディフをにらんでいた。
 が、聞き慣れない音に好奇心をそそられたらしい。台所にちょこまかと駈けて行き、のびあがってのぞきこんだ。

「お前ら外で食う? なんか買ってきてくれてもいい。店そこらにたくさんあるぞ」

「外で?」

「ああ。それがいいんじゃないか? 気晴らしにもなるし……せっかくシスコまで来たのに子守りってのもな」

 ディフは両手でヨーコを持ち上げている。たかだかと持ち上げられた方は手足をばたつかせてきゃっきゃと上機嫌。

「俺たちが子どもら見てるから」

(OH!ふたりっきり!!)

 その瞬間、ロイは彼にだけ聞こえる天上の音楽と光に包まれていた。

(ああ神様ありがとうございますっっ! テリーさんとディフの背中に天使の羽がみえるよ!!!)

「いいのかな……」
「行ってくればー?」

(え、先生っ?)

「そこのバッグの中に携帯入ってるから、もってく。OK?」
「何だ、ヨーコ携帯も持たずに出たのか……彼女らしくないなあ」
「サクヤが持ってるから大丈夫、とか思ってるんじゃないか?」

 実際にはその『サクヤの携帯』もバッグの中に入っていたりするのだが。

「じゃあ、何かあったらヨーコの携帯にかければ連絡つくな」
「そうですね……それじゃ、お願いします」
「お願いシマス」

 まだ不安は拭いきれないが、実際に腹も減っていた。全員に行き渡るだけの食料がないのなら外に買い出しに行くしかない。
 今は昼間だ。それにこの部屋には結界もある。
 
「行ってきます」
「いってらっしゃーい」

 風見とロイはコートを羽織り、連れ立って部屋を出た。念のため、ヨーコの携帯を持って。

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【ex8-15】いただきます

2009/02/03 18:56 番外十海
「そう言やテリー。君、昼飯まだなんじゃないか?」
「ああ、うん。大丈夫だよ。米、多めに炊いたから」 
「……クッキー食うか?」
「お。さんきゅー」

 食事の仕度をしながら一枚つまむ。クリスマスの定番、ジンジャークッキー。だがおやくそく人形の形ではなくシンプルな楕円形、砂糖衣で目鼻も描かれてはいない。甘みも少なく、逆にショウガの味がしっかり効いていた。

「ああ、こりゃ確かにあんまりお子様向けじゃないかもな」
「やっぱりそう……か。うちの双子の好みに合わせちまったからなあ」
「気にすんなって。家庭の味ってそーゆーもんだろ?」 

 二人の会話を聞きつつヨーコは密かに不満だった。

(お子様じゃないのに! あたしは甘いのが好きなの。それだけなの!)

「なぁ、サーモンはムニエルと塩焼きとホイル焼きのどれがいい?」
 
 すかさず即答。

「Solt!」
「お嬢さんは塩ね」

(だからーっ! 何で年下の君にお嬢さん、とか言われなきゃならないのっ)

 姿は子どもになっていようが風見とロイにとっては彼女はあくまで『先生』だった。が、テリーとディフにとっては見た目通りのちっちゃな女の子でしかない。
 そのことに思考が回らず、ひたすらぷんすかしているあたりが既に精神的にも子ども化してる証拠なのだが……。
 ヨーコはまだ気づいていなかった。

「そっちの2人は?」

 ランドールがぽそりとつぶやいた。

「……ムニエル……」
「おっけ、カル坊はムニエルな」

 食の細い息子に必要な栄養を摂取させるため、ランドールの母はできるだけ栄養価とカロリーの高い調理法を選んでいたのである。

「サクヤは?」
「んー……」

 サリーはぱちぱちとまばたきすると顎に手を当ててちょっとの間考えた。

「よーこちゃんといっしょがいい」
「OK」
「あ、そうだ、テリー」
「何だ?」
「ニンジンあるからムニエルにそえて?」 
「おう、まかしとけ」

 ごく自然に答えてから、テリーは『ん?』と首をかしげた。

「どうした?」
「あ、いや……今、サクヤがいたような気がして」
「いるじゃないか、そこに」
「いや、そのちびさんじゃなくって、俺の同級生の」
「似てるとこもあるんだろ。親戚だし」
「そうだ……な、うん」
「何か手伝うか?」
「いや、大丈夫。ちびどもが何かやらかさないように見ててくれ」

 ちょこまかと動き回る3人(と、言うか主に1人)をディフが監督してる間に着々とテリーは料理を仕上げて行く。
 ぐらぐら煮え立ったお湯にカツオブシをひとつかみ、ばさっと投入。惜しみなくたっぷりと景気良く。
 いつもサリーが作っているのを見ているうちに、本格的なみそ汁の作り方も自然と覚えた。初めて見よう見まねで作ったときは味も薄くて豆腐もぐずぐず、味見したサリーに微妙な顔をされたが今は完璧だ。
 
「……よし、こんなもんかな」

 白いご飯にシャケの塩焼き二人分、ムニエル一人分、小さなオムレツとほんのり甘く煮たニンジンを添えて。豆腐と油揚げとわかめのみそ汁、味噌はあわせ。
 見事に和風なご飯が並ぶ。

「こっちの二人は箸で食うとして……」
「やっぱカルはこっちだろうな」

 小振りなフォークとスプーンを選んで並べる。多めに炊いたご飯は塩をつけて三角に握った。

「よーし、できたぞー」
「ごはーん」

 ちびっこ3人が目を輝かせてテーブルにつく。一斉にがっつくかと思いきや……。

 ぱん。

 ヨーコとサリーは椅子に座ったまま深々と一礼して拍手。手を合わせたまま、何やら唱え始めた。

「たなつものもものきぐさも あまてらすひのおおかみの めぐみえてこそ」

 よどみなくきれいに声をそろえて。もちろん、日本語だ。
 
「………何の呪文だ?」

 テリーが首をかしげる。

「お祈り……じゃないか? 何となく雰囲気がそれっぽいし」

 その隣ではランドールがきちっと手を組んで、いっちょまえに食前の祈りを唱えていた。

「父よ、あなたのいつくしみに感謝して、この食事をいただきます。 ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心とからだを支える糧としてください。 父と子と聖霊の御名によって、アーメン」

「……ほら、な?」
「サクヤはもっと簡単なのだったけどな」
「イタダキマス?」
「そう、それ」

 ちょうどその時、子ども2人がきちんと一礼して言った。

「いただきまーす」
「いただきまーす」

「言ったな」
「うん」
「きっと、今のが正式版なんだろう」
「そうなのか?」
「お祈りのしめくくりの『アーメン』みたいなもんなんじゃないか?」
「なるほど……」

 サリーとヨーコの実家は神社。小さな頃の習慣が無意識のうちに出たのである。

「おいしーおいしーおいしー、すごくおいしー」
「そうか、うまいか」
「テリーりょうりじょうずー」
「はは、ありがとな」
「よいムコになるね?」
「……ムコ?」
「あ、ごめん、ヨメだった」
「ヨメ?」
「マックスは現在進行形で立派なヨメだから心配しないで?」
「そう……か。俺、ヨメだったのか……」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「ごちそうさまー」

 ヨーコは米粒一つ残さずきっちり食べた。サリーとランドールには少し量が多かったらしくシャケとオムレツが余ったが、全てテリーが片付けた。

「男の子の方が食が細かったな……意外」
「まあ、女の子の方が成熟が早いって言うしな」

 大人2人並んで食器を洗い、きっちり水気を切って片付ける。濡れた手をふいてまくった袖を戻していると……ちょこまかと足下にヨーコが寄ってきた。

「ねーねーテリー、あれやって?」
「あれって?」
「あのね、寝る前にね、ロイがカルにやってたの」
「うん?」

 ベッドの所まで連れてゆかれる。

「こう、だっこして、ベッドの上に、ぽーんって!」
「ああ、なるほど……OK、頭きっちりかかえてろ」
「うん!」
「ほら、いくぞー」

 テリーはヨーコを両手に抱えると弾みをつけてぽいっとベッドの上に放り上げた。
 ヨーコは大喜び。きゃっきゃとはしゃぎながら両手両足をばたばたさせる。

「もいっかーい、もいっかーい」
「OK。そーら!」

 またまた大はしゃぎ。スカートがめくれあがって可愛らしいピンクの子鹿模様のパンツ(そう、ショーツとかランジェリーなんてこじゃれた呼び方など論外の、まさに直球でパンツとしか言いようのないお子様用の下着だ)が見えようがおかまい無し。
 慌てたのはランドールだ。

「ヨーコっ! 何をしてるんだ、はしたないっ」

 血相変えてベッドに飛び乗り、シーツを被せようとしたが……あいにくと相手はぴょんぴょん飛び跳ねていて振動でものすごく足場が不安定になっていた。
 もんどりうってひっくり返り、物の見事につっぷしてしまう。

「んぐっ」
「きゃっ?」

 テリーが止める暇もなかった。
 巻き添え食って押し倒されたヨーコのお尻の上に。大々的に解放されちゃったバンビパンツの上に……ばふっと顔面着地。

「…………………………」
「あ、おい、無事かっ!」

 慌ててテリーはランドールを持ち上げた。が、ある意味大惨事。ヨーコは真っ赤になってスカートの裾を押さえて目を潤ませる。

「す、すまない、ヨーコ……」

 くわっと歯をむき出し、涙目で一言。

「カルの……カルのえっち!」
「H?」
「マイアミの主任か?」
「へんたい!」
「HENTAI?」

 その言葉を耳にした瞬間、ランドールの耳元でごわわわわんっとグレース大聖堂の鐘が鳴り響いた……ただし、葬儀の鐘が。

「へんたい………わ、わたしが………へんたい………」
「おい、カル坊?」

 へなへなと床に崩れ落ちると膝をかかえ、背中を丸めてうずくまってしまった。

「へんたい………」
「おーい、しっかりしろー」

 茫然自失のランドールの頭を、ぽふぽふとサリーが撫でていた。
 がっくり落ち込むランドールに向かってなおも言葉の絨毯爆撃を繰り出そうとするヨーコを懸命にディフがなだめる。

「カルもわざとやった訳じゃない。事故だよ、ヨーコ」
「事故でも故意でも関係ないのーっ! これは、これは乙女のプライドの問題なんだからーっ」

 きぃきぃ泣きながら、ぽかぽかと両手で分厚い胸板をたたく。蚊に刺されたほども感じないが、これはこれで何やら心が痛む。

「わかったわかった……気のすむまで殴れ……」
「うーっ、うーっ、うーっ」

 子どもは瞬発力はあるものの持久力に欠ける。体力がないから、疲れるのも早い。じきにヨーコのぽかぽか連打はまばらになって行き、やがてディフにしがみついて顔を埋めてしまった。

「よしよし……」
 
 バンビのパンツは子どもっぽい、わかってるけどお気に入り。
 それを見られたのがはずかしかった。悔しかった。せめてもっと大人っぽいのなら良かったのに!

 ……その辺の微妙な乙女心を理解できる人間は、あいにくとこの場にはいなかった。
 片やHENTAI呼ばわりされたカル坊やはいまだ再起不能続行中。サリーはおろおろしながら2人の間を行ったり来たり。

「参ったな……」
「公園にでも散歩に行くか?」
「そうだな、気分転換させとくか」

 ディフは携帯を取り出し、ヨーコの携帯にあててメールを打った。
 緊急でもないし。せっかくの息抜き中に電話で煩わせることもあるまいと判断したのだ。

『ヨーコご機嫌斜め。気分転換に子どもら連れて公園に散歩に行く』

「これで、よし、と。コート着ろよ? 寒いから」
「OK」

 のそのそと紺色のコートに袖を通すランドールの後ろ姿を見ながら、おや? とディフは首をかしげた。

(何だかこの子に前に会ったことがあるような………まさかな。気のせいだ)

「着たー」
「よーし」

 ちょこまかとかけてゆくと、ヨーコはリビングのソファの上に置いたバッグを手に持った。

「それも持ってくのか?」
「うん。ヨーコおばちゃんから預かっててってゆわれた」
「そうか」

 ごく自然な動作でテリーはデスクの上の小皿に乗せてあったカギを手にとった。

「それじゃ、出かけるか」

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「あ」
「どうしたんだい、コウイチ」
「うん、マクラウドさんからメールが……先生の携帯に」
「まさか、緊急事態?」
「それだったら電話だろ。ああ、やっぱり」

 画面にさっと目を走らせると風見は顔をほころばせた。

「先生がご機嫌ナナメだから気分転換に公園に散歩に行くってさ」
「公園って、さっき前を通ってきた、あそこかな?」
「多分そうだよ。それにしてもさあ………このメガマック、ちょっとでかすぎないか?」
「アメリカではこれが標準だヨ」

 己の懐具合と相談した結果、近所のマクドナルドにやって来た2人だった。ついつい日本の感覚で頼んでしまったのだが、出てきたのは小さめのホールケーキと見まごうような、うず高く積み上がった肉とパンの塔だったのである。

「せっかくだから写真に撮っとくか……」
「何で日本人ってすぐ撮るのカナ」
「うーん、強いて言うなら、思い出づくり、かな? 過ぎて行く時間の一瞬一瞬を記憶にとどめたいから」
「一瞬を……記憶に」
「うん。ロイ、大きさ比較したいから手、添えてくれよ」
「こう?」
「そうそう……行くよ」

 パシャリ。

(今、ボクはコウイチの時間の一部になっている……)

 自分もこの一瞬をずっと記憶にとどめておきたい。無邪気に写真を撮る風見を見ながら、しあわせを噛みしめるロイだった。

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【ex8-16】ままとテリーとお子様と

2009/02/03 18:59 番外十海
 サリーのアパートに行ったら駐車場で見覚えのある奴と出会った。

「よう、所長さん」

 以前、サリーと一緒に事務所に来たことがある。大学の友人で確か名前は……

「テリーか」
「そう、テリオス・ノースウッド。サリーんとこ行くのか?」
「ああ」

 ごく自然に階段を上って呼び鈴を押したらコウイチとロイが居た。手間が省けた、これならヨーコにも会えるなと思ったんだが。

「ヨーコ先生とサクヤさんは今、おでかけ中です」
「実は、親類が……遊びに来てて、シスコを案内してるんです」

 そいつは残念。ジンジャークッキー焼いたからお裾分け……ってのは大義名分だ。本当はいろいろ話したいことがあったんだけどな。
 留守じゃ仕方ない。また出直すか。

 部屋に居たのはコウイチとロイだけではなかった。男の子が2人に女の子が1人、ちっちゃな子どもがころころ3人。しかも腹をすかせていた。
 で、テリーと一緒にベビーシッターを買って出て、高校生2人を送り出したんだが。
 飯食ったら本来のパワーを取り戻したらしい。
 ちっちゃい子どもってのは動物並みの行動力だ。背中によじ上るわ、髪の毛ひっぱるわ……ほとんどオーレと同レベル。

「カルのえっち! へんたい!」
「ヘンタイ? わたしが………ヘンタイ?」

 挙げ句、ちょいとしたアクシデントが発生し、ちっちゃなヨーコが大むくれ、カル坊やはずどーんと落ちこみ再起不能。ちっちゃなサクヤはおろおろ。実に何って言うか、個性的な子どもたちだ。
 テリーと相談して気分転換に近くの公園に連れ出すことにした。

 公園に着くなり子どもらはころっと機嫌を直してくれた。
 ヨーコは目を輝かせて木に上り、カルはしばらく花壇の花や木を眺めていたと思ったらふっと姿を消しちまった。あわてて探すと、茶色のズボンを履いたちっちゃな尻と茶色のブーツが植え込みの下でもぞもぞ動いていた。

「あいつ、いつの間にっ」

 ズボンのベルトをひっつかんで引きずり出す。髪の毛をくしゃくしゃにしてふくれっつらで見上げてきた。

「じっとしてろ」

 そ知らぬふりして髪の毛や服にくっついた木の枝や枯れ葉を注意深く取り除く。くりくりとくせのある髪の毛をひっぱらないように。上質なコートにかぎ裂きを作らぬように、細心の注意を払って。
 
「よし、全部とれた」
「………ありがとう」
「どういたしまして」

 まだ微妙に不満げだがとにかく礼は言ったか。親御さんがしっかりした躾をしてるんだろうな。

「よーこちゃーん」
「やっほー、サクヤちゃーん」

 その間にちっちゃなヨーコはだいぶ高い所まで上っていた。サクヤが木の幹に手をついて心配そうに見上げている。テリーはさりげなく根元に立って身構えている。万が一落ちそうになったら、いつでも受け止められるように。
 俺の目線を追いかけたか。カル坊やはそっちを見るなり、血相を変えた。

「ヨーコっ! 君と言う人は、レディがスカートで木登りなんてはしたない!」
「だいじょーぶ、慣れてるからー」
「そう言う問題じゃない! 早く降りたまえ!」

 おやおや。中々にいっぱしのことを言うじゃないか、このちっちゃな紳士は。当のレディはまったく気にする風もなく、楽しそうに手なんか振っていらっしゃる。
 ちっちゃなサクヤは相変わらずおどおどしてる。お姉ちゃんにひっついてないと心細いんだろうな。
 
「わー、ゴールデンゲートブリッジが見えるー」
「ヨーコっ!」
「カルも来れば? 気持ちいいよ……っ!」

 はっとヨーコが表情を引き締める。見るとサクヤが声も出さずに硬直し、目の前の草むらを見つめていた。何事かと思えばバッタが一匹、日当りのいい草の上で足をもぞもぞさせている。もしかしてこの子、虫が苦手なのか?
 そう思った瞬間、すたん、と目の前にヨーコが降ってきた……いや、飛び降りてきたと言うべきか?
 首にかけた鈴が澄んだ音をたてる。

「わ」

 素早くバッタをひっつかみ、ぽいっと遠くに投げ捨てると、ぱんぱんと手を払って立ち上がった。

「よーこちゃん………」

 くりっとした目に涙をいっぱいにじませて、サクヤは今にも泣きそうな顔でヨーコにしがみついた。

「もう大丈夫だからね」
「うん……うん……」

 ちっちゃなヨーコはサクヤをだきしめて頭を撫でている。よく見ると、頭を撫でているのはちゃんとさっきバッタをつかんだのとは逆の手なのだった。


「…………………」
「どうした、ディフ?」
「あ、ああ、今、ヨーコがいるような気がして」
「この子だろ? 字ぃ違うけど」
「いや……俺の同級生の方の」
「親戚だから似てるんだろ」
「そうか……そうだな」

 まるっきり、飯作ってるときとは逆のパターンだな……。

「ほんと、こいつら顔もそっくりだよなー。って俺日本人の顔っていまいち見分けつかねぇ」
「ただでさえサリーとヨーコはそっくりだからな。子どもの頃はこんな感じだったんだろう……ほとんど双子だ」

 ちっちゃなヨーコはポケットからティッシュを出してサクヤの涙をふき、鼻をかませている。いかにも慣れた動作だった。
 その姿を見守りつつテリーがしみじみ言った。

「なんだか懐かしいな、以前は毎日こうやってガキどもの面倒みてた」
「……そんな感じがした。兄弟、多いのか?」
「上下あわせて30人ぐらいかな」
「………大家族だな」

 その言葉でそれとなく彼の育った環境を察することができた。

「ああ、両親が物好きなひとでね。もうけっこうな年なんだけど何年かおきに一人里子を連れてくるんだ。育ったら順番に”卒業”してくのさ。だから兄弟がたくさんできた」

 オティアとシエンと暮らすようになってから、里親(フォスターペアレンツ)の実情について知る機会が増えた。自分から情報を集めるようにもなった。
 1人か2人の里子を引き取り、普通に家庭の中で育てる人もいれば、5人から6人の子どもを手元に置いて小規模のグループで育てる人もいる。
 テリーを育てた両親は後者なのだろう。

「すごいな。尊敬に値する」

 テリーと並んで芝生に腰を降ろす。サクヤはバッタがいやしないかとびくびく見回してるので手招きして膝に乗せた。
 ちっぽけなあったかい体がとすんと乗っかってくる。

「……………………俺は……………二人でさえちゃんとこの手で受け止められずにおろおろしてるのにな……」
「そうだなぁ……母さんに言わせると、ダメなことはダメって教える。危険な時だけ叱る。他は何をしてても大丈夫、なんだそうだけどね」
「ダメなことは……ダメ、か」

 軽く拳をにぎって口もとに手を当てる。

「…それが正解なんだろうな……君を見てるとわかるよ。気持ちよくまっすぐに育ってる」
「ああでも、物壊したら自分で修理させられたよ。買い換えが大抵はできないから」
「しっかりしてるな。いいおふくろさんだ」
「ああ、感謝してる。今は卒業生になっちまったから兄貴と住んでるけど、時々ちびどもの顔見にいくんだ」
「卒業、か……」

 サクヤの頭を撫でる。この手の中に今ある小さな温もりも、いつかは離れる。頭では理解していたが、実際に里親の元を巣立った青年が目の前にいるのだと思うと……よりリアルな実感を伴ってひしひしと胸に迫ってくる。
 空っぽになった双子の部屋を思い描いてしまう。

「あの子たちもいつかは卒業するんだろうな……」

 言葉にした瞬間、不覚にも目がうるんだ。慌ててまばたきして紛らわせる。

「あの双子」
「うん?」
「いや。なんかスポーツさせるといいんじゃねぇかな」
「あ……そう言えば……ほとんど体動かしてない……な……休みも家にとじこもりっきりだし……そろそろ野外スケートリンク、始まってたか?」
「やってるよ」
「連れてってみるか。外の空気に当たるだけでもいいし」
「ああ。悩んでる時は身体動かすのが1番だ」
「……うん。ありがとな、テリー」

 背後からよじ上ってる奴がいる。多分、カルだ。ほんと、オーレと同じレベルなんだなあ、ちっちゃい子ってのは。

「……オティアが……な……ここんとこずっと書庫で寝てるんだ……夜。布団と枕を持ち込んで。誰にも見つかりたくないのか。隠れてるのかと思ったんだ……」
「ふぅん、狭いところのほうが落ち着くって子供はいるからなぁ」
「ああ……ちゃんと飼ってる猫が出入りできるようにドアは細く開けてあったし……それに、思い出したんだ」
「何を?」
「書庫は俺も使うって、前にあいつに言った。置いてあるの、ほとんど俺の本なんだ」

 両方の肩からにゅっと茶色いブーツをはいた足が突き出される。片手を添えて体を支えた。髪の毛はひっぱってくれるな、カル。

「………何てぇか、ほとんど気休めってぇか自己満足みたいなもんだが……少なくとも拒まれているのではないって、思うことにした」
「本当に隠れる気なら人のこないところにする」
「そうだな」

 くい、と髪の毛が軽く引っ張られる。首をひねるとヨーコがせっせと手を動かしていた。

「……ヨーコ……俺の髪いじるのそんなに楽しいか?」
「たのしい」

 一心不乱に三つ編みにしてる。器用だなあ……さすが女の子だ。

「なあ、ディフ」
「ん?」
「そんなに心配いらない気がする、それは。ベッドで寝ないのは……」
「うん」
「サクヤがちょっと前に、眠れてないみたいだって言ってたと思うんだが。今はちゃんと寝てるんだろう、部屋移って」
「ああ。眠ってる。何となく今朝は顔色も良かったし……表情も険しさが抜けて……」

 肩の上でもぞもぞ動いていたカルが急に大人しくなった。ヨーコが背後からにゅうっと顔をつきだし、膝の上のサリーもじっとこっちを見上げてくる。

「ここんとこずーっとまとわりついてた暗い影みたいなものが、消えたような気がした」

 ちびさん3人は互いに顔を見合わせ、にこにこ笑ってる。俺の言ってることをどこまで理解してるかもわからないが、えらく嬉しそうだ。
 つられてこっちも笑顔になる。

「ベッドだと眠れないって思い込んでるのかもしれないな。習慣づけってけっこう重要なんだ。特に入眠パターンを決めておいたほうが子供は良く寝る。夜これをしたら寝る時間ってね」
「絵本読んだり…ぬいぐるみかかえたり?」
「ああ。逆もあって、これしたら眠れないって思ったら眠れなくなる」

 シエンが部屋を出た夜、あいつは空っぽのベッドを見て打ちのめされた。

「…………………隣のベッド、見たくないのかもな」

 テリーが首をかしげてる。そうだよな、これじゃ事情が見えない。

「兄弟喧嘩。もう一人の子は今、別の部屋で寝てるんだ」
「それはありそうだ」

 うなずいてる。彼なりに納得してくれたらしい。

「また不眠で悩むようなことがあったら生活パターンをかえたほうがいいかもな」

 ヨーコがてこてことテリーのそばに歩み寄り、とすん、と膝に手をついてのびあがった。

「Good-Boyね。テリー。いいこ、いいこ」
「おう、ありがとよ」

 テリーは手を伸ばし、つやつやの黒髪をなでている。ちっちゃなヨーコはにまっと笑って目を細めた。

「ほんと、いいこ」
「……むー」

 頭の上で小さな声でうなってる奴がいるし。お前ほんっとに焼きもち焼きだね……。そんなに『お姉ちゃん』が他の奴を可愛がってるのがご不満か?
 ぷっと吹き出しそうになるが、木に上ってるヨーコに大まじめに説教たれてた姿を思い出し、こらえた。
 彼は彼なりに真剣なのだ。

「俺の場合、犬躾けるのも大差ないからな! 基本は褒める」
「君は犬の専門家だったなそういえば」
「うん。動物はみんな好きだけど、何って言っても犬がダントツだな」
「……ああ、そうだ。オティアに犬種ごとの性質や行動パターンを実地で覚えさせたいんだ。どこかいい場所、ないかな」
「いろんな犬がたくさん見たいのか?」
「うん。ジャックラッセルとプードルを同じように扱えないってことをね。体で覚えさせた方が早かろうと思ってな」
「じゃあ、ドッグランだな。単純に数だけならペットシェルターみたいなところに行くのもいいけどな。そっちは仕事でも行く機会ありそうだ」
「ああ。行方不明になったペットが保護されてる場合もあるし」

「……捨て犬も増えてるからな……最近」
「そうだな……クリスマスプレゼントにもらったはいいが飼えなくて捨てる奴もいる」
「経済状況が悪くなると最初に切られるのはペットなんだ。たぶん、もうじきもっと増える」

 くしゅんっとサクヤがくしゃみをした。話し込んでる間に空は鉛色の雲に覆われ、風も冷たさを増していた。

「そろそろ帰るか」
「そうだな。こいつらも機嫌直してくれたし……」
「カル、降りるか。それともこのまま帰るか?」
「降りる」

 するりと滑り降りた。やれやれ、やっと肩が軽くなった。
 何か打ち合わせでもしたみたいにヨーコがとことこと寄ってきてサリーと手をつなぐ。もう片方の手はカルと。

「しっかりしてんな。『お姉ちゃん』だ」
「ああ、お姉ちゃんだ」

 立ち上がって服についた葉っぱを軽く払う。帰る前にコウイチに連絡しとくか、と思ったがその前に当人たちがやって来た。

「そーら、お迎えが来たぞ」
「かざみー。ロイー」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 その女性はひっそりと立っていた。冬もなおみっしり枝葉を茂らせる常緑樹の木陰に隠れるようにして、子どもを遊ばせる母親たちに混じって。
 いつから彼女がそこに居たのか、だれも気づかなかった。

 寒い日だった。別に彼女が一分の隙もないほどみっしりコートを着込み、まぶかに帽子をかぶっていても、だれも不思議には思わなかった。
 真っ赤なコートに真っ赤な帽子。真っ赤な真っ赤な手袋と靴。
 鮮やかすぎてむしろ毒々しい赤づくし。

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