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【4-6-3】二人で回転木馬に

2008/10/18 2:20 四話十海
 
 七月のある日。アレックスは神妙な顔つきでヒウェルの部屋を尋ねた。

「よう、アレックス。どうした」
「一つご相談があるのですが」

 おや、またか?
 ヒウェルはぴくりと片方の眉を跳ね上げた。

「もしかして、またご婦人へのお礼の相談?」
「いえ……実は………その……」

 おろ、言いよどんでるよ、珍しい。いつもはきはきしてる彼が、いったいどうしたってんだい?

「…………ご婦人をエスコートして出かけるのに、サンフランシスコ市内ではどのような場所がよろしいでしょうか」
「えーっと……つまり」

 目をぱちくりさせて、眼鏡を外し、レンズをふいてまたかけ直すとヒウェルは改めてまじまじと執事の様子を観察した。
 表情が変わってないもんだからうっかり見落としていた。かすかに頬が赤いじゃないか。
 しかも、微妙に目線が左右に泳いでいる。

 もしかして、アレックス…………照れてる?

「ご婦人と二人で出かけたり食事したりするのに的確なプランをお聞きになりたいと?」
「はい」
「それって、つまり、デートだよな?」

 その一言で、執事は石みたいに固まってしまった。
 いかんいかん、遊びが過ぎたか。

「その、お相手ってのは地元の人?」
「はい」

 何気ない風に話を続けると、ほっとした表情で答えを返してきた。どうやら、そうとうに緊張していたらしい。
 こりゃ真剣だな。おそらく免疫ないぞ、この人は。ずーっとレオンぼっちゃまのお世話ばっかり焼いてきたんだ。大人になってからはマクラウドさまも込みで、んでもって去年の秋からは双子も一緒に。
 考えてみればアレックスはれっきとした独身男性なのである。気になるご婦人がいても何ら不思議はない。いささか遅めの春ではあるが、遅すぎるってことはない。そもそも人生に置いて恋する時期に旬も外れもあるものか。
 出逢った時がその時だ。

 がんばれ、アレックス。
 
「じゃあ、かえってコテコテの観光名所巡りってのはどうだろう。案外、市内に住んでると足を運ばないもんだしね……ゴールデン・ゲート公園、ツインピークス、フィッシャマンズワーフ、コイト・タワー、ビクトリアン・ハウス、あとユニオン・スクウェアのハートのオブジェとか、アクアリアム・オブ・ザ・ベイ、アルカトラズ島は……あんましデート向きじゃないか。監獄だもんな」

 すらすらとヒウェルの口から流れ出す観光名所の数々を、アレックスは一つ残らず丹念に手帳にメモして行く。

「もしかして……今言ったとこ、一度も行ったことない?」
「はい」
「シスコに来てから何年めだっけ」
「レオンさまが高校に上がられた年からですから、もう12年になります」
「……そうか……いい機会だよアレックス。その、ご婦人とやらに存分にシスコを案内してもらうといい」

 アレックスはわずかに眉根を寄せた。

「しかし。お言葉ですがメイリールさま、こう言った場合は私がエスコートするべきなのではありませんか?」
「アレックス、アレックス、アレックス!」
 
 まったく、どこまで生真面目な男なんだろう!
 半ば呆れて、半ば関心しながらぱたぱたとヒウェルは手を振った。ほのかなデジャビュを感じながら。

「デートなんだろ? お客様をおもてなしするんじゃなくって。堅くなるな。適度にリラックスしろ。お前さんも楽しまなくっちゃ!」
「私も……楽しむ?」
「そうだよ。お前さんが楽しけりゃ、一緒にいるレディも楽しい。デートってのはそーゆーものなんだよ」
「そうなのですか? なかなかに、新鮮です」
「だろーね」
 
  
 ※ ※ ※ ※
 
 
 何年ぶりだったろう? フィッシャーマンズ・ワーフに行くなんて。
 オーウェンさんと二人で美味しいカニを食べて、ギラデリ・スクウェアのチョコレート工場を見学した。ディーンへのお土産にチョコレートを買っていると、オーウェンさんも興味津々にのぞきこんで。自分でもチョコバーを5つ買っていた。
 きちんと包装していたからきっとお土産ね。でも、誰に?
 双子ちゃんたちは甘いものは好きではないみたいだし、あのチョコバーはけっこう堅い。お嬢様がぼりぼり食べるのにはちょっと不向きね。と、言うことは……赤毛さんかしら。

 次はどこに行こうかと聞かれ、遊園地で回転木馬に乗りたいと言ったら、オーウェンさんは少し驚いたようだった。

「子どもの頃から大好きだったんです。本物の馬は大きくて怖かったけれど、回転木馬なら平気だった」
「なるほど。それでは、ぜひご一緒に」
 
 大人になってから回転木馬に乗るには勇気が要る。
 ディーンと一緒の時はいつも付き添いで、馬車に並んで座るか、木馬に夫と二人で乗るあの子を輪の外で見守っていた。

 大人二人で回転木馬に乗るのは正直言って恥ずかしい。けれどオーウェンさんは私の手を引いて、並んで木馬に乗ってくれた。
 私は白い馬に。彼は栗毛の馬に。

 ピーポッポ、ポワポワ、プワン……

 軽くてちょっぴりチープなサーカス・ミュージックに合わせて木馬がぴょんぴょん跳ねる。くるくる回る。ちらちらと彼の顔をうかがった。
 興味しんしんに木馬の動きを観察している。目を輝かせてはしゃぐのとはちょっと違っていたけれど、それなりに楽しそうで、ほっとひと安心。

 やがて音楽が止まり、回転が終わる。私の乗った馬は高く上がったまま止まってしまった。
 どうしよう、足が届かない。子どもの時はパパが抱えて降ろしてくれたけれど、今は……。
 木馬の鞍の手をかけて床面を見下ろす。一人で飛び降りるしかないわね。気合いを入れてヒールのある靴なんか履いてくるんじゃなかった。
 覚悟を決めた瞬間、目の前にすっと手がさしのべられた。

「どうぞ、ソフィアさん、こちらに」
「……はい」

 オーウェンさんに支えられて、羽毛のように軽やかに木馬から降りることができた。

 その時、ソフィアはぼんやりと思ったのだ。
 午後のうたた寝から覚める間際のような穏やかな、うっとりと心地よいくつろぎの中で。

 もしも、この人と、これから先の時間を一緒に過ごすことができたら……と。
 
「回転木馬と言うのもなかなかに楽しいものですね。本物の馬に乗るのとは、また違ったおもむきがある」
「そうでしょう?」

 木馬を降りた後も二人は手を離さず、そのまま並んで歩いていた。ごく自然に、さりげなく。まるでずっと前からそうしていたように。

「Yerba Buena Gardensには、ここよりもっと大きな回転木馬があるんですよ」
「それは興味深い……」

 アレックスは改めてソフィアの目を見つめた。赤みの強い濃い茶色の瞳。黒目が大きく、日陰ではますます黒く見える。つやつやとして、実に……愛くるしい。
 まるでクマのぬいるぐみのようだ。

「また、ご一緒していただけますか? あなたさえよろしければ」
「はい。喜んで」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 次の日、ヒウェルはアレックスから土産をもらった。
 ギラデリ・チョコレートのバータイプの奴を5枚。キャラメル、ピーナッツバター、ミントにブラック、そしてラズベリー。

「……これは?」
「お土産です」
「そりゃどーも。んで、首尾は?」
「………………………………Yerba Buena Gardensに行く約束をいたしました」
「あー、Zeumのカルーセル(回転木馬)?」
「はい」
「おめっとさん」
「おそれいります。それでは失礼いたします」

 きちんと一礼して退室する執事を見送ってから、さっそくピーナッツバター入りの包み紙を開けてぼりぼりいただいた。

「んー……美味い……」

 濃厚なピーナッツバターに負けない、しっかりしたカカオの苦み、そして砂糖とミルクのしっとりとした甘さが舌をつつみこむ。一口味わうごとに口の中から体の隅々に向かって痺れるような幸福感が広がって行く。
 さすが「納得できる豆以外は使わない」ギラデリのチョコバー。自分じゃ滅多に食えない、買わないが、たまにはこう言う高級チョコも悪かない。

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【4-6-4】アレックスの決心

2008/10/18 2:21 四話十海
 八月に入ってからアレックスは忙しくなった。
 お仕えするご主人さまが結婚式を挙げるから、その準備で。だけど毎日必ずお店にやってきた。来れない日は電話をくれた。

「いつも私にお言い付けくださったのに、プロポーズの準備だけは全てお一人でしてしまわれたんだ」

 まるで我が子を見送る父親のように幸せそうに、そしてほんの少しの寂しさを含んだ優しい笑顔で話してくれた。
 聞いてるだけで楽しくて、わくわくした。

「もしかしてお相手は、赤毛さん? 金髪の双子ちゃんと一緒にパンを買いに来る」
「……そうだよ」

 やっぱりそうだったのね。

 でも一つだけ、予想と違っていたことがあった。
 アレックスがお仕えしていたのはお嬢様ではなく、ぼっちゃま………男の人だったのだ。
 ちょっと、びっくり。でも、大して珍しいことじゃないわよね。サンフランシスコですもの。
 左手の指輪に気づいて、おめでとうございますと言った時。赤毛さんは、とても嬉しそうに笑っていた。
 すてきな笑顔だった。だからきっと幸せなんだわ。アレックスの『ぼっちゃま』と一緒にいて。

 それが一番。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
  
 結婚式を間近に控えた火曜日のこと。
 レオンさまとともに仕上がったタキシードを受け取りに行き着けのテーラーに赴いた。
 試着室から現れたレオンさまはちらりとこちらを見て、仕事の話でもするようにさらりと

「どうかな」とおっしゃった。

 一点の染みもない純白のタキシードをまとうレオンさまを見ていると、胸の奥から熱いものがこみ上げて来るのを抑えることができなかった。
 初めてお会いしたのはレオンさまが5歳、私が20歳の年だった。あれから21年。お小さかったぼっちゃまも立派に成長し、生涯の伴侶と巡り会い、来週は式を挙げられるのだ。

「とても……良くお似合いでございます」
「そうか」

 レオンさまは鏡をごらんになり、軽く襟元に指を添えて整えながら何気ない調子でぽつりと言った。
 
「君もそのうち着るんじゃないか?」
「は………」
「意中の人がいるんじゃないのかな」

 一瞬、世界が凍りついた。
 その時、私の心に浮かんだのは明るいかっ色の瞳のあのお方ではなく、短くカールした鹿の子色の髪を白い三角巾にきっちり包んだ彼女の面影だった。

「そういう顔をしている」

 そういう顔?
 どんな顔をしていたと言うのか!
 あわてて鏡を凝視する。鏡の中のレオンさまと目が合った。

 …………笑っておられる!

 ああ、まさか、私はレオンさまの前でにやにやとだらしない顔をしていたのだろうか?

「どうかしたのかい、アレックス?」

 楽しげなお声だ。私とこんな風に感情豊かに話すことは滅多にない。それがうれしくもあり、またそれ故にいっそう心拍数が早くなって行く。
 今までついぞ体験したことのない事態に、静穏であるべき意識が嵐の中の小舟さながらにゆれ動く。
 とにかく、答えなければ……。

「意中の方と申しますか……」

 目を伏せて、慎重に言葉を選んだ。精一杯、静かな口調を心がけながら。

「おつきあいしている方は、います」
「そうか。では結婚式に招待しようか?」
「いえ、そのようなもったいない……それに当日は私は裏方でございますから」
「そうか……ではいずれ紹介してくれ」
「…………かしこまりました」

 タキシードの支払いを済ませながら、頭の中でスケジュールをチェックする。
 式の翌日、ソフィアと会う約束をしていた。その時に話してみよう。

 彼女はOKしてくれるだろうか?
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 結婚式が無事に終わった次の日の日曜日。久しぶりに彼と二人でYerba Buena Gardensに行った。
 初めてここの回転木馬を見た時、アレックスは驚いていた。

「これは興味深い。ヤギに、キリンまでいる」
「面白いでしょう? ここの回転木馬はユニークなんですよ。『馬』の種類も、アクションも」

 外側をぐるりとアクリルの壁で覆われた回転木馬は、雨の日でも風の強い日でも乗ることができる。回る早さも遊園地のものよりずっと早く、馬の跳ねる高さも高い。
 そこが楽しい。
 ピンクの細長いチケットを係員に手渡し、二人で並んで馬に乗った。白いヒゲにくるりと巻いた角のヤギにも。まだら模様のキリンにも乗った。

「ソフィア。あなたさえ良ければ今日は、馬車に乗ってみたいんだが……」
「ええ、いいわ」

 回転木馬でわざわざ馬車に乗るなんて! 木馬に乗れない小さい子向け、興ざめもいいとこ、てんでつまらないと思っていた……子どもの頃は。
 だけど大人になってから考えが変わった。

 一緒に乗りたい人がいるから。

 回転木馬が回り始める。今日の曲は「Somewhere My Love」だった。

「あら、ラッキーだわ。私、この曲大好き」
「ドクトル・ジバゴの『ララのテーマ』だね」
「ええ」

 知っている。彼はこの曲にこめられた物語を、ちゃんと"知って"いる。

「ソフィア」

 アレックスはそっと私の手を握ってきた。

「何でしょう?」
「レオンさまが結婚して……私の役目も、一区切りついた……」
「さみしい?」
「少し、ね」

 握り合わせた指に力を入れると、彼もきゅっと握り返してきた。少し乾いて、皺の寄った手。よく働き、よく動く、歳月を重ねた大人の手。
 
「執事の仕事は生涯続くけれど、私も自分の人生のことを考える余裕が出てきた」
「そう……今まではレオンさま一筋だったのね」

 何となくわかる。私がディーンを大切に思うのと同じように、この人はレオンさまを大事にしているのだ。
 
「ソフィア」
「はい」

 名前を呼ばれて見上げる……彼の空色の瞳を。

「これから先の時間を、あなたと歩いて行きたい。共に過ごしたい……もちろん、ディーンも一緒に」

 ほわっと音楽が遠ざかり、まるで水の中に潜ったように周囲の景色が霞む。それなのに目の前の彼の姿と重ねた手の温もりは冴え冴えと浮かび上がる。
 胸の奥が熱い。
 心臓が高鳴る。
 私を包む世界のあらゆる物がゆれている。回転木馬の震動のせいだろうか。それとも?

「私と結婚してくれますか?」

 一度結婚し、息子が生まれた。女らしい幸せはそこでおしまい、後は息子を世話するだけの代わり映えのない日々が続くのだと思っていた。
 アレックスの手をとった瞬間、世界が鮮やかな色を取り戻した。
 ああ、まだ私は楽しんでいいのね。人生を彩る私自身の喜びを、手放さなくてもいいのね……そんな風に思うことができた。

「はい、アレックス」

 彼に答える自分の声が、遠い場所からぼんやりと聞こえてきた。けれど、意志ははっきりと一つの方向を示している。

「………ありがとう」

 それは初めて見る笑顔だった。礼儀正しい紳士ではなく、少年のように朗らかで心の底から喜びがあふれていた。
 ああ、彼ってこんなにもキュートな顔で笑うのね。何て愛らしいのかしら。

「今度はディーンも連れて、三人で一緒に来よう」
「そうね、あの子はヤギがお気に入りなの。でも、まだ小さいから一人で乗れなくて……あなたが一緒に乗ってくれる?」
「喜んで」 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 回転木馬が止まり、いつものようにソフィアの手をとって降りる時になってアレックスはやっと思い出した。

 何としたことだ。あやうく本来の目的を忘れる所だった!

 元々今日はレオンさまに紹介したいと彼女に伝える予定だった。しかし2週間ぶりにソフィアに会って、隣に座り、手を握った時……気づいてしまった。もう、自分はこの手を離したくないのだと。

「ソフィア。それで、その………」
「何でしょう?」

 黒目がちな濃いかっ色の瞳がじっと見つめて来る。わずかに雫を含み、潤んでいた。
 ほんの少し目尻が下がっている、その優しげな表情が心の底から愛おしい。

「会ってもらいたい人たちがいるんだ。私の、大切な人たちに……あなたとディーンを紹介したい」

 彼女の顔いっぱいにやわらかなほほ笑みが花開く。ほのかに甘い香りを放つ象牙色の花房、さながらリンデンの花のようだ。

「はい、アレックス。喜んで」

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【4-6-5】今後ともよろしく

2008/10/18 2:23 四話十海
 
 9月の半ば過ぎ。冗談みたいな不幸の連鎖と最後のとびっきりの幸運の重なった日の翌日。
 ヒウェルはどうやらマンションに新しい入居者が来るらしいと気づいた。しばらく前からリフォーム業者が出入りしていたと思ったら今日は家具を運び込んでいる。
 自分の住んでる3階より上、レオンたちの住んでる6階よりは下。エレベーターの動き方からしておそらく5階だろうな。止まる回数が格段に多い。

 夕食時に話題にしてみた。

「下に誰か引っ越してくるみたいですね」
「ああ、アレックスだよ」
「え、でも確か彼は6階に住んでるはずじゃあ……」
「今までの部屋が手狭になるんでね」

 そして夕食の席でレオンはおもむろに告げた。

「夕食後にアレックスが挨拶に来るから、皆しばらくはこの部屋に居てくれ」

(下の階に引っ越すのに挨拶も何もあったもんじゃなあるまいし……一体、何を今さら改まって?)

 ヒウェルのささやかな疑問は夕食後に解明された。理由は単純、アレックスは一人ではなかった。
 カールした鹿の子色の髪に黒い瞳の女性と、彼女によく似た幼い男の子が一緒だったのだ。

 そして件のご婦人とアレックスの左の薬指には、おそろいのシンプルな指輪が光っていた。銀色のプラチナを細い金のラインで縁取りし、女性の方にはぷちっと一粒、小さなダイヤモンドが朝露の雫のようにきらめいていた。

 マリッジリングだ。それ以外の何ものでもない。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 その日の夕食はマカロニ&チーズだった。妻(式こそまだだったが、二人は既に市役所に届けを出していた)の手料理を一口食べた瞬間、アレックスは悟った。
 何故、レオンさまがマクラウドさまの料理をあんなにも喜んで食べているのか……。

(ああ、確かに……ソフィアの作るマカロニ&チーズは……最高だ。世界で一番、美味しい)
 
 愛しい人が心を込めて作ってくれた料理は単に味覚を楽しませ、空腹を満たす以上の幸福をもたらしてくれるものなのだ。

「ねえ、アレックス」
「何だい、ソフィア」
「私はあなたのお仕えする家の方々を何てお呼びすればいいんでしょう?」
「あなたの好きなように、ソフィア。レオンさまにお仕えしているのは私であってあなたではないのだから」
「では実際にお会いしてみて決めますね」
「それがいいね」

 そして今。
 アレックスの大事な人たちがソフィアの目の前に並んでいた。そのうち3人はよく知っていて、二人は初対面。

「ソフィア、こちらがレオンハルト・ローゼンベルクさまだ」
「初めまして」
「初めまして。お会いできてうれしく思います、Mr.ローゼンベルク」
「レオンと呼んでください。アレックスも昔からそう呼んでいる」
「はい、レオンさん」

 何て美しい方なんだろう。気品にあふれて、まるでヨーロッパのお姫様のようだわ……。
 やっぱりお嬢様だったのね。

「こちらがディフォレスト・マクラウドさまだ。レオンさまの配偶者でいらっしゃる」
「よろしく、ソフィア。あなたとこんな形で会うとは思わなかったな」

 赤毛さんは思った通りスコットランド系の名前だった。握手した手はほんの少し湿っていて、シャツの袖にも腕まくりした跡があった。
 この人がお皿を洗ったのかしら?

「ええ、私もです……よろしくお願いしますね、マクラウドさん」
「ディフでいいよ。俺の名前、どっちも長くてめんどくさいだろ?」
「わかりましたわ。それでは、ディフと」

 ディフはひょいとかがみこんでディーンの顔をのぞきこんできた。

「それで、こっちの小さな紳士のお名前は何て言うのかな」
「……ディーン」
「お、えらいぞ、ちゃんと自分で言えるのか」
「うん」
「いくつだ、ディーン」

 ディーンは照れくさそうに笑いながら、指を3本立てた。

「三つか」
「うん」
「そうか。よろしくな、ディーン」

 にこにこしてる。ご機嫌なゴールデンレトリバーそっくりの表情で……やっぱり赤毛さんは子どもが好きなのね。

「こちらのお二人はオティアさまとシエンさまだ」

 金髪の双子ちゃんとの握手は遠慮しなければいけなかった。辛い経験をしていて、人に触れられるのは好まないとアレックスが前もって教えてくれたから。
 だからほほ笑んでお辞儀をするだけに留める。

「よろしくお願いしますね」

 二人はこくっとうなずき、シエンと呼ばれた子の方が小さな声で「よろしく」と言ってくれた。

 旦那様も奥様も、どちらも男性、身よりのない子どもを引き取って一緒に暮らしている。最初に聞いた時は驚いた。自分が秘かに思い描いていた家庭とはあまりにかけ離れていたから。
 だけど、改めてこうして全員と会ってみて、思った、自分の想像も、そんなに外れてはいなかったのかもしれない、と。
 そりゃ、確かにこの家で暮らしているのは全員男の人だけど、ちゃんとそれぞれ家庭の中の役割を果たしている。
 レオンさまがお父さんで、ディフがお母さん、オティアさんとシエンさんが子ども。年齢がちょっと近すぎるけど、そんな感じ。

 でも、この眼鏡の男の人は……だれ? 何故ここにいるのかしら。たまたまお客に来たにしては、ものすごく寛いでる。ごく自然にここにいる。
 
「こちらはお二人の高校時代のご学友で、ヒウェル・メイリールさまだ」
「はじめまして、メイリールさん」
「どーも。あなたがレディ・カルーセル(回転木馬の君)だったのか」

 レディ・カルーセル?

 思わず笑ってしまった。

 まるでロマンス小説のヒロインだわ……私はただのパン屋の娘で、しかも一度結婚して息子もいる身なのに。
 回転木馬の君、ですって。
 笑い出したら止まらない、ころころと後から後からあふれてくる。

「まあ、私のことそんな風に呼んでらしたの? おもしろい方ね」

 メイリールさんはけろっとして言ってのけた。

「アレックスはなかなか口が堅くってね。あなたのイニシャルすら教えてくれなかったんだ」

 ディーンはきょとんとした顔で首をかしげている。と、思ったら急に目をきらきらと輝かせた。

「キティ(猫ちゃん)!」

 ドアの陰からひっそりと、白い小さな猫がこちらをうかがっていた。青い瞳を見開いて、ヒゲをぴーんと前に伸ばしてこっちを見ている。

「まあ、可愛らしい」
「オティアの猫なんだ。名前はオーレ」

 自分のことを話しているのがわかったのだろう。オーレはするすると歩いて部屋に入ってきてた。

「よろしくね、オーレ」

 そっと指一本さし出してみると、くんくんとにおいをかいで、すりっと顔をすり寄せる。

「キティ!」

 ディーンが近づくと、オーレはソファを踏み台にして素早くオティアさんの肩に飛び上がった。
 首輪に下げた金色の鈴がちりんと鳴った。

「あ……」
「小さな子は苦手なんだ。慣れてなくて。ごめんな、ディーン」

 オーレは胸を張ってディーンを見下ろしている。『あたしはあなたより偉いのよ』と全身で言っていた。まるでちっちゃなお姫様ね。

「式はどうするつもりなんだい、アレックス」
「落ち着きましたら、挙げたいと思います。身近な人を招いてささやかに。それで、よろしければ皆さんにも参列していただきたいのですが」
「ありがとう。ぜひ出席させてもらうよ」
「ありがとうございます。では、詳しい日取りが決まりましたら、改めてお知らせいたします」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ローゼンベルク家を辞して真新しい我が家に戻って来ると、ソフィアはほうっと感嘆のため息をついた。

「ユニークなご家庭ね……でも、すてきな方たち」
「ありがとう」
「レオンさんは本当に美しい方ね。さすが、あなたが手塩にかけてお育てした……」

 ごく自然にお嬢様、と言いそうになって、ソフィアはこっそり言い直した。

「ぼっちゃまだわ」

 アレックスはかすかにほほ笑むと妻の肩に手を置いて、優しく引き寄せて、そっと頬に口づけた。

「ねえ、アレックス」
「何だい、ソフィア」
「ロスのご本家からいただいた、結婚祝いのカトラリー。あんまり立派なものでびっくりしてしまったわ」

 本家から届いた結婚祝いの食器セットはシルバー925。銀のナイフに銀のフォーク、スプーンにポットにバター入れ……いずれもとびっきりの一級品だったのだ。

「私、あんな上等な食器セット、使ったことがない。どうやってお手入れすればいいのかしら」
「大丈夫だよ、ソフィア。何も心配することはない」

 ほんのりと頬を染めて見上げる妻の手を握ると、今度はアレックスはうやうやしく手の甲にキスをした。

「私が全て教えてあげよう。君のこの手を傷つけることなく、曇り一つなく、ぴかぴかに磨き上げるやり方を」
「はい……アレックス、喜んで」
 

(有能執事結婚す/了)

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【4-7】迷走波紋

2008/11/10 0:10 四話十海
  • 2006年10月の出来事。アレックスの結婚式をきっかけに、次第にあちこちに波紋が広がって行きます。

【4-7-0】登場人物

2008/11/10 0:10 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
【アレックス/Alex-J-Owen】
 レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
 有能。万能。
 灰色の髪に空色の瞳、故郷には両親と弟がいる。
 20歳の時からずっとレオンぼっちゃま一筋の人生。
 今はレオンさまと奥様と双子のためにがんばる日々。
 結婚して妻と息子ができた。 
 41歳、独身。
 
【ソフィア/Sophia】
 アレックスの妻。
 鹿の子色のカールした髪と濃い茶色の瞳の子鹿のような女性。
 実家はパン屋さん。
 一度結婚して息子が生まれたが夫は交通事故で死亡、アレックスと再婚する。
 
【ディーン/Dean】
 ソフィアの連れ子、アレックスは義父に当たる。
 物怖じしない三歳児。
 
【カルヴィン・ランドール・Jr/Calvin-Randall-Jr】
 大手紡績会社の二代目社長。身長183cm、33歳。
 ウェーブのかかった黒髪にサファイアブルーの瞳、ルーマニア出身の母から東欧系の容姿を受け継いだハンサムさん。
 お金持ちで、自信家で、紳士で、天然。
 アレックスに片想いしていた。
 ある事件に巻き込まれて以来、ヨーコとサリーとは友人として、また『チームメイト』として交流がある。
 
【結城朔也】
 通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。
 ディフやヒウェルの同級生だったヨーコ(羊子)の従弟。
 サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
 動物病院では水色の白衣を着ている。
 お酒はあまり強くないけど翌日には後を引かない得な体質。好物はカンパリ。
 それって女の子の飲み物じゃん、とか指摘してはいけない。
 
【エドワード・エヴェン・エドワーズ/Edward-Even-Edwars】
 通称EEE、もしくはエディ。英国生まれ、カリフォルニア育ち。
 濃いめの金髪にライムグリーンの瞳。
 元サンフランシスコ市警察の内勤巡査でディフとレオンの友人。
 現在は父親から受け継いだ古書店の店主。やや引きこもり気味。
 飼い猫のリズは家族であり、よき相談相手。
 サリー先生のことが何かと気になるものの、バツイチな自分に今ひとつ自信の持てない36歳。
 
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
 告白の際に著しく心を傷つけられ、今はひたすら『空気』扱い。
 観察力に優れ、また記憶力は驚異的に良い。
 ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。
 ディフの探偵事務所で助手をしている。とても有能。
 
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 外見はオティアとほぼ同じ。
 オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
 また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
 ディフになついている。
 自覚のないままヒウェルに片想いしている。
 その一方で、オティアとのこじれた仲を取り持とうとする複雑な立ち位置に。
 レオンの法律事務所でアレックスに着いて秘書見習いをしている。
  
【オーレ/Oule】
 四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
 白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
 最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
 趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
 エドワーズ古書店の看板猫リズの末娘。
 
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 フリーの記者。26歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
 オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
 猫はおろか、扱いがサブキャラ以下になってんのが納得行かん!
 とか思ってるようだがこの際捨て置く。

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【4-7-1】晴れた日に教会で

2008/11/10 0:13 四話十海
 
 十月の太陽は金の色をしている。

 夏の盛りに比べれば、真昼でもどこか夕方に近いような控えめな気配があるんだが、その分、細かく砕いた金砂みたいなマイルドなきらめきが混じっている。

 空気の質も変わる為か、レンズ越しの花婿の白いタキシードも八月とは違った風合いを見せていた。
 隣に寄り添う花嫁はスレンダーな体をマーメイドスタイルのすとんとしたシンプルなウェディングドレスに包んでいる。
 鹿の子色のカールした短い髪はいつもの三角巾ではなく、白く薄い布を被せただけの聖母マリアのような形のヴェールの下に。
 傍らには3歳の息子が黒のタキシードに身をかため、この上もなく真剣な表情で、びしっと背筋を伸ばしてつきそっていた。

 本日はアレックスとソフィアの結婚式。俺は前回同様、カメラマン役を買って出た。今回はベストマン役はロスから出てきたアレックスの弟がいるのでカメラに専念。教会の片隅にしゃがみ込み、花婿の入場も花嫁の入場もあまさず写した。
 ちなみにローゼンベルクの本家に仕えるご両親は多忙につき、祝いの言葉と花束を次男夫婦に託したそうな。

 新婦側の客席からはそこはかとなく美味そうな香りがほこほこと漂ってくる。先入観から来る錯覚ではなく、実際に。
 ソフィアから聞いた話じゃ、今日の披露宴のために花嫁のパパとママ、そして従業員一同総出でパンを焼いたそうだ。で、そのまま着替えて式に出席したと。
 フラワーガールはソフィアの従姉の娘が勤めたんだがこれがえらく勢いのあるお嬢さんで、手にしたバスケットから楽しげにぱっ、ぱっと花びらを空中にばらまいていた。
 景気良くまき過ぎてしまいにゃ花びらが無くなって、むーっと口をへの字に結んでいたのがまた可愛らしかった。

 新郎側の客席には、盛装したジーノ夫妻、恋人トリッシュをエスコートした堂々たる巨漢弁護士レイモンド……眼鏡の奥で目をうるうるさせている。
 そう言や彼はレオンとディフの結婚式の時もこんな感じだったっけ。
 あの時結ばれた新郎新婦は今回は客席だ。
 黒のタキシード姿のレオンとその傍らに寄り添うキルト姿のディフ。その隣にはネイビーブルーのタキシードを着た金髪に紫の瞳の少年が一人だけ。

 招待されたのは二人一緒、だけど出席したのはシエンだけ。

 喜びに満ちあふれる空気の中、フィルムを取り替えながら意識がふっとノブヒルのマンションに飛んで行く。

 オティアは今頃、どうしているのだろう。お姫様が一緒だから一人きりではない。それがせめてもの救いなのだけれど。
 あいつはアレックスに懐いていた。きっと、祝いたかったはずなのに。

 かしゃっとカメラの裏蓋を閉める。
 わかってる。原因は、これだ。

 皮肉なもんだ。こいつがあるから報道の仕事に進んだ。新聞社に入って、フリーになって、そして行方不明の里子の記事を担当することになって、オティアに出会った。
 オティアが何故、写真を厭うのか、理由は痛いほど知っている。

 それでも俺は……写さずにはいられない。目の前を通りすぎて行く二度と戻らぬ時間の面影を、追いかけずにはいられない。

「アレックス・J・オーウェン。あなたは病める時も健やかなる時もこの女性を愛し、共に歩むと誓いますか?」
「はい、誓います」
「ソフィア・ルーセント。あなたは病める時も健やかなる時もこの男性を愛し、共に歩むと誓いますか?」
「はいっ!」

 母親が答えるより早く、力一杯、3歳児のお言葉が教会の中に響き渡った。控えめな笑いのさざ波がさやさやと聖堂の中に広がってゆく。
 ディーンはきょとんとした表情で首をかしげ、アレックスとソフィア、そして牧師の顔を順繰りに見渡した。

 ぼく、何かおかしなこと言った?

 めいっぱい見開かれ、黒目が大きくなった瞳がそう語っていた。
 ソフィアはにっこりほほ笑むと、白いサテンの手袋をはめた手でそっと息子の髪をなで、それから改めて誓いの言葉を口にした。

「はい、誓います」

「この婚姻に異議ある者は申し立てよ、さもなくば永遠に沈黙するように……それでは、誓いのキスを」

 執事は緊張した面持ちで白いヴェールを両手でつまんで持ち上げる。
 ソフィアがそっと目蓋を閉じた。クローズアップしてみると執事の手がほんの少し震えているのがわかった。
 二人の唇が触れあう瞬間を狙って……よし、撮ったぞ。
 首に下げたデジカメから素早く銀版カメラに持ち変える。親父にもらった古い一眼レフ。大事な風景は全てこいつで写してきた。
 祭壇の前では、誓いのキスを終えたアレックスとソフィア、そしてディーンの3人が手をとりあっていた。
 ほほ笑みを交わす3人を古いカメラのファインダーに収め、シャッターを切る。電子音の代わりにカシャっと硬質の音が響いた。

 このかけがえのない一瞬を、永遠に。
 
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【4-7-2】おうじさまはお留守番

2008/11/10 0:14 四話十海
 
「くしゅんっ」

 オーレがくしゃみをした。小さな声と大量の息を勢いよく鼻からふき出し、ぷるっと白い体を震わせて。
 風邪か? はっとしてのぞきこむと前足でくしくしと鼻をこすっている。どうやら玩具のネズミの尻尾に着いていた鳥の羽根がひかっかかってくすぐったかったらしい。
 ……よかった。
 ほっと胸をなでおろす。

 オーレは前足をなめては顔をこすり、耳をこすり、念入りに毛繕いをしている。ふかふかのラグの上に寝そべって本を読むオティアの顔のそばに座り込んで。
 さっきまでは猫用の玩具を抱えてころころと転げ回っていた。キャットニップを詰めたカラフルな布製のネズミで、尻尾のところに鳥の羽根がついている。
 前足でちょいと引っ掛けては空中に放り投げ、落ちてきたのをまた受けとめて、はしっとくわえるのはいつも首筋。玩具が相手でも手加減しない。時々、とくいげに鼻面をふくらませ、尻尾をぴーんと立てて見せに来る。
 受けとって放り投げると、だだだっと走って行った。

 本宅と双子の部屋、ドア一枚で隔てられた二軒分の広いマンションの中にちりちりと、オーレの首輪の鈴の音がやけに大きく響く。
 
 レオンも、ディフも、シエンも教会に行った。
 ヒウェルも一緒だ。

 残っているのは自分一人。そして白い子猫が一匹。
 何てことはない。普段、探偵事務所で留守番している時と同じだ。寂しいとも心細いとも思わない。かえって静かで本に集中できる。
 食事もディフとシエンがきちんと用意していってくれた。食べたい時に食べればいい。

 何の不都合もない。
 そのはずだ。

 ここに残ったのは自分の意志。一番賢明な選択を下したとわかっている。

 だけど……。
 
 何故だろう。淡いわびしさがまとわりついて、消えない。拭っても、洗ってもうっすらと残る、白いテーブルクロスについた染みみたいに。
 
 
 ※ ※ ※ ※
  
 
 式の日取りが決まった時、アレックスはうやうやしく銀のトレイに載せた招待状を携えてローゼンベルク家を訪れ、一人一人に手渡してくれた。
 レオンとディフにはまとめて一通。夫婦だからこれは当然。
 自分とシエン、ヒウェルには一通ずつ。

 細い金で縁取られた白い封筒を開いて印刷された文面に目を通す。
『Mr.オティア・セーブル』で始まり、式の日取りと場所、招待の言葉が記され、最後にアレックスとソフィアの直筆の署名が添えられていた。
 それはオティアが生まれて初めて受けとった、自分一人に宛てた手紙だった。
 有能なアレックス。完ぺきなアレックス。初めてこの家に来た日から何くれとなく自分の世話をしてくれる。
 彼が幸せになれる一生に一度の結婚式。祝いたい気持ちがなかったわけではない。

 しかし。

 目を閉じる。
 八月の結婚式で向けられたシャッターの音が耳の奥で聞こえた。遠い雷のように、かすかに。ざわりと胸が波立つ。
 おさまりかけた暗い波がまた競り上がってくるような気がして慌てて意識を逸らした。

 目を開くと心配そうなシエンの顔があった。
 どうする?
 言葉で問いかけられるより早く(もとよりそんなもの必要ない)首を横に振る。

「……俺は行かない」
「……そう……」

 ディフとレオンの方を伺いながら途方に暮れた表情を浮かべるシエンを見て、オティアは自分から言った。

「行けよ」

 ほんの一瞬、シエンはわずかに身を震わせたように見えた。
 それでもなおとまどう様子にディフが遠慮がちに声をかけた。

「来るか? 今度は俺はずっと一緒にいられるぞ」
「……うん……」

 目を伏せて、しょんぼりとうなだれるシエンにディフがそーっと手を伸ばし、くしゃっと髪の毛なでた。
 途端にシエンはびくっとすくみあがって顔をそむけ、そのまま自分の部屋に駆けて行ってしまった。
 無言でオティアににらまれ、ディフが深くため息をつく。

「……やっちまった……」

 まったく、この所慣れてきたかと思ったが久々にやらかしてくれた。これだから天然は油断できないんだ。
 予想外のタイミングでデリカシーのない言動をしでかすから。

「………すまん」

 でかい図体を縮こまらせて、平謝りに頭をさげるディフに一べつくれてからオティアはさっさと部屋に戻った。
 
 
 ※ ※ ※ ※

 
 幸いなことにシエンは夜にはいつものようにキッチンに出て、何事もなかったように普通に食事の仕度を手伝った。
 耳も尻尾も力無く伏せたディフがおずおずと声をかける。

「シエン……その、さっきはごめん」
「ちょっとびっくりしただけ。考え事してたから」
「……そっか……すまん。今度から必ず一声かける」

 少しくすんだ金髪の頭が小さくうなずく。

「もう、大丈夫だから」

 控えめな笑顔とは裏腹に、シエンの胸の内側でしくしくと疼くものがあった。
 まるで気づかぬうちに指先にできた小さな擦り傷のようにひっそりと息をひそめ、水に触れた瞬間、ちくりと疼いて痛みと傷の存在を主張する。

『行けよ』

(オティア……一緒に居なくてもいいってことなのかな。一人で居たいって言うことなのかな)
 
 暗い池の中にぽつりと一粒、小石が落ちた。落ちた場所から波紋が広がって、ひしひしと水面を覆って行く。

(俺がいないほうがいいのかな)
 
 それはほんのかすかな揺らぎでしかなかったけれど、いつまでも消えなかった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
  
 
 式を終えてから、新郎新婦は腕を組んで控え室へと戻ってきた。これから教会にほど近いレストランへと場所を移し、結婚披露パーティーが始まるのだ。
 ディーンはソフィアの両親と一緒にいる。しばしの間、二人きりの時間……と言っても、実際にはこの間に水分や食べ物を補給したり、体を休めたりとサッカーのハーフタイムさながらの慌ただしくもハードな時間だったりするのだが。

「まあ」

 控え室に入るなり花嫁は目を丸くした。

「また増えてるわ……お花」

 こじんまりとした控え室は、花で埋め尽くされていた。アレックスの両親や法律事務所の顧客、ルーセント・ベイカリーの常連客、その他、親しい人たちから贈られた祝いの花に。
 白い薔薇、赤いフリージア、青い矢車草、白と黄色のマーガレット、薄紅色の胡蝶蘭、ほんのり青みがかった紫色のベルフラワー、そして白い百合、ピンクの百合。花束用の小さなヒマワリもある。

「まるで花園ね。それともお花屋さん?」

 ピンクの百合にのばした花嫁の手を、アレックスはそっと押さえた。

「ソフィア、気をつけて。花粉がドレスに着いてしまうよ」
「ああっ、そうだったわ、私、今、全身白づくめなのね……残念。こんなにたくさんの花をもらえるなんてそう滅多にないことなのに」

 なるほど、一理ある。
 せっかくいただいたのだ、どうにかして一輪なりと彼女に手渡してやりたい。比較的花粉の少ない花はないものか。

 アレックスは部屋の中にわさわさと広がる花束の森を見渡した。
 これは……あ、いや、色が濃すぎる。花粉はともかく汁が危険だ。中々に難しい。
 しばしの努力の後、彼は見つけた。

 活き活きと咲き誇るみずみずしい薔薇の中に一輪だけ、わずかに他と異なるやわらかな風合いの花の混じった花束を。
 
 これは、もしや。

 近づいて手を触れる。ひやりとした生きた花びらの手触りの代わりに、しっとりと優しい感触が指先に伝わってきた。
 
 ああ、これなら大丈夫だ。

 そっと抜き取り、妻の手に渡す。

「ソフィア、これを」
「まあ。この薔薇は……シルクね?」

 本物と見まごうほど精巧な小振りの薔薇の花びらは、一枚一枚が薄いシルクのジョーゼットの布で造られていた。若草色の茎も、葉っぱも、全て絹。
 ソフィアはうれしそうにシルクの薔薇にほお擦りした。これなら花粉も散らない。汁がドレスを汚す心配もない。しかも本物の薔薇の中に混じっている間にほのかに香りが移っている。

「素敵。どなたのプレゼントかしら」
「これは……」

 アレックスは素早くカードを確かめた。

「ランドールさまだ。事務所のお客様だよ。紡績会社を経営していらっしゃる方だ」
「そう……それじゃ、繊維のエキスパートでいらっしゃるのね。粋なお方。あとでよくお礼を申し上げなくちゃ」
「そうだね。レオンさまの結婚式の時にも、いろいろお心を砕いてくださった事だし」

 ソフィアはそっとドレスの胸元に薔薇を挿してみた。まるであつらえたようにぴったりとそこに収まった。

「どう? 似合うかしら」

 アレックスは目を細めて妻の姿を見つめた。アプリコットオレンジの花びらが彼女の瞳と髪の色に優しく融け合っている。
 やわらかな笑みがこぼれる。

「ああ。とてもよく似合っているよ」

 その後、結婚披露のパーティでシルクの薔薇は花嫁の胸元を飾った。
 しかしその光景を送り主が直接見ることはなかった。

 何故なら薔薇の送り主はその頃……。

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【4-7-3】流浪の青年社長

2008/11/10 0:15 四話十海
 アレックスが結婚式を挙げている頃、カルヴィン・ランドール・Jrはユタ州との州境近く、南カリフォルニアの片田舎に居た。
 いつもの仕立てのいいイタリアブランドのスーツの代わりにくたくたの木綿のシャツに履き古したジーンズ、スニーカーと言ったラフな服装で。

 乗っているのも、静かなエンジン音に穏やかな走り、彼のステイタスにふさわしいトヨタの銀色の高級車ではない。
 やかましい音、でかい車体、燃費はおせじにもいいとは言いがたい70年型のシボレーインパラ、色は赤みがかったココアブラウン。
 何もかも大手紡績会社の二代目社長には似つかわしくない。

 ついでに言うと誰も今、彼がこの場所にいるとは……知らなかった。両親、親族、友人、知人、彼の右腕である秘書のシンディでさえも。
 公園のベンチに腰を下ろし、ぼんやりと物思いにふける。携帯の電源はこの一週間と言うもの一度も入れていない。
 
 21738439_1864204314.jpg ※月梨さん画「社長放浪中」 

 目の前の広場では子どもたちがボールを追いかけ回している。サッカーなのか。バスケットなのか。あるいはラグビーか。手も足も頭もまんべんなく使って自由奔放にパスを飛ばす。
 傍らのエリカの花の間をマルハナバチがせわしなく飛び回っている。まるっこい黒と黄色の胴体をもそもそ振りつつ薄紫の花の中に潜り込み、ひとしきり探索してからまた次の花へと移る。ぶーんと微かな羽音を響かせて。
 頭上の木の枝では小鳥がさえずっている。アップテンポのメロディを小刻みにくり返し。だれかを呼んでいるのか、それとも探しているのか。
 どこからからか肉を焼くにおいが漂ってくる。きっと近くの家の庭先でバーベキューをしているのだろう。

 金色の穏やかな秋の陽射しが降り注ぐ平和な公園。この前、こんな風景を見たのは8月だったが……あの時と違い、今は一人だ。

「ふぅ……」

 我知らず深いため息が漏れた。
 

 発端は夢。

 
 ひと月ほど前のこと、久しぶりにアレックスの夢を見た。ぼんやりと霞む町並みの中、そこだけくっきりとした色と形をそなえた彼の姿を見つけた。
 どうやら、また彼の夢に入ってしまったらしい。

 8月の一件以来、彼はヨーコの従弟サリーから指導を受けて徐々に力のコントロールを身につけていた。
 そのおかげで無意識に他人の夢に入り込むことは滅多になくなってきていたのだが……。
 何ぶんいまだ発展途上。たまにはこう言うこともある。しかし今の彼はあの頃とは違う。他人の夢と自分の夢が混じることもない。自覚さえしてしまえば抜け出すのは容易だ。

 戻らなければ。
 ああ、でも、もう少しだけ。

 夢の中のアレックスは一人ではなかった。誰かと楽しげに歩いている。
 子どもの頃のローゼンベルク弁護士だろうか? だが、それにしてはアレックスの姿は『現在』の彼だ。誰と一緒なのだろう?

 ほとんど無自覚のうちに意識の焦点が絞られ、場面が変わる。
 アレックスはその『誰か』と一緒に回転木馬に乗っていた。
 一人は小さな男の子。そしてもう一人は……妙齢の女性。親しげにほほ笑みを交わし、手をとりあっている。女性と子どもの顔はよく見えない。見たくない。

 弾かれるように目を覚ました。

(何だったんだ、あれは……)
 
 一応、サリーから説明は受けていた。
『夢の力』のコントロールを覚えた今、彼自身にある種の予知夢を見る力が備わっていることを。

『見ようと思って見られるほど正確で安定したものじゃないんですけどね。確率の高い正夢みたいなものです』

(まさか、な……)

 不吉な予感を振り払ってジーノ&ローゼンベルク法律事務所に赴いた。例に寄って電話かメールですむ程度のささやかな用事にかこつけて。
 そこで、見てしまったのだ。
 有能秘書の左手の薬指に宿る銀色の輝き……細い金のラインに縁取られたシンプルな指輪を。
 ただのアクセサリーなんかじゃないことは一目瞭然。その瞬間、鮮烈に夢の風景が脳裏に蘇る。

(あれは正夢……いや、予知夢だったんだ!)

「結婚……したのかい、アレックス」
「はい。式はまだ挙げておりませんが」
「そうか……おめでとう」

 ショックを押し隠し、笑顔で祝福の言葉をかけることができたのは……ある程度受け入れる心づもりができていたからだろうか。
 回転木馬に乗るアレックスの夢を見た時に。

「式はいつだい? 場所は?」

 自分の能力に感謝しよう。ほんの少しだけ。

「花を贈りたいんだ」

 以来、ふっつりとジーノ&ローゼンベルク法律事務所に足を運ぶことはやめ、連絡も相談も打ち合せも全て自分の秘書に任せている。

「安心しましたわ、社長。これが本来の在り方なんです」

 秘書の小言を上の空で聞き流し、持てる権限とコネの全てを駆使して最高の『枯れない薔薇』をあつらえた。
 花びらに使うシルクのジョーゼットも、葉っぱや茎の素材となるサテンも全て自分で目を通し、指で触れて品質を確かめた。
 花びらの色は暖かみのある淡いアプリコットオレンジを選んだ。夢の中でおぼろげに感じた女性のイメージに合わせて。
 
 
 そして万事抜かりなく贈り物の手配を済ませた翌日、滅多に乗らないインパラを引き出し、あてのない旅に出たのだった。

 
 現金払いで安モーテルに泊まり、宿帳に書く名前は普段使わない母親の旧姓。決してカードは使わず、微妙に身元をぼかしつつ。
 そろそろ一週間になるだろうか……のばしっぱなしにした無精髭が形の良い顎と唇の周りを覆いつつあった。常にきちんとセットしていた髪の毛も風に吹き流されるままぼうぼうと乱れ放題、荒れ放題。
 万が一知人と出くわしても、すぐには彼だとわからないかもしれない。
 いっそ煙草か酒に溺れることでもできたなら。あいにくと煙草は吸わないし酒を買いに行く気力もない。

 今頃、アレックスは式を挙げているのだろうか。花束は届いたかな……受けとってくれたかな。

 ぼんやりしていると、チリン……とかすかな鈴の音を聞いた。
 顔を上げる。
 長い黒髪を結い上げ、赤い縁の眼鏡をかけた女性が立っていた。
 白いスタンドカラーのブラウスにチョコレートブラウンのスカート、ゆるく編んだカフェオレ色のニットのストールを巻いている。
 背筋をしゃんと伸ばして歩いてくる。まっすぐに、迷いのない足どりで。
 ふわりと襟元に巻かれたストールが翻る。

「ヨーコ?」

 彼女は屈み込むと手を伸ばし、頬に触れてきた。

「ヒゲぐらい剃りなさい、カルヴィン・ランドール・Jr。いい男が台無しよ?」

 はっと目を覚ます。
 彼女の姿はどこにもない。居るはずがないのだ。それは彼自身が一番良く知っている。
 頬に手を当てる。ひんやりした細い指先の感触がまだ残っている。

 ばすん!

 目から軽く火花が散り、世界が揺れた。
 子ども用の軽いボールだ。ほとんど痛みはない。が、衝撃はかなりのものがあった。
 がっくんと勢いよく上体がそりかえり、かろうじてベンチの背もたれに支えられてひっくり返るのは免れたものの、みしいっと背骨がきしんだ。

 頭上に伸びた楓の枝。青空を背にうっすらと赤や黄色に色づいた葉が枝を中心に散りばめられている。伸びる小枝は陽の光を求めて全て違う方向をめざしている。まるでモザイクだ……。

 にゅっと男の子が一人顔をつきだした。

「お?」

「大丈夫?」

 そっと手を伸ばし、額に触れてきた。
 ……温かい。

(ああ、彼女は自分より体温が低かったのだな)

 半ば夢を見ているような心地で思い出す。

「……大丈夫だよ」

 男の子はほっとして表情をやわらげると、ボールを抱えて戻っていった。

 ちりん、とシャツの胸ポケットで鈴が鳴った。
 赤い絹のリボンを返そうとしたとき、サリーに渡された小さな金色の鈴。

『それは持っていてくださいって、ヨーコさんが。あと、念のため、これを……』
『可愛い鈴だね』
『お守りです』

「………帰らないと」

 歓声を挙げ、子どもたちが走って行く。誰かが決勝点を決めたらしい。
 カルヴィン・ランドール・Jrはすっくとベンチから立ち上がり、歩き出した。携帯を取り出し、久しぶりに電源を入れる。

「ああ、シンディ? 私だ。心配かけてすまなかったね……」

 駐車場に停めてあったココアブラウンのシボレーインパラに乗り込み、ばたん、とドアを閉めた。

「今から戻るよ」


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【4-7-4】社長、仕事してください

2008/11/10 0:17 四話十海
 月曜日の朝。ランドール紡績の社長秘書、シンディはいつに無くいらいらと社長室の中を歩き回っていた。ふかふかの絨毯がヒールの踵をやさしく包み込み、音は響かない。

 ちらり、とかっ色の手首に巻かれた銀色の時計に目を落す。そろそろ社長の出勤時間だ。しかし、彼は本当に来るのだろうか?
 

 土曜日の午後、一週間前から失踪(そう、失踪だ!)していた社長からようやく電話があった。さすがにFBIに通報しようかと考えていた矢先に。
 しかも当の社長と来たら、妙にさばさばした明るい口調でひとこと「今から戻る」と告げて、それからまた、連絡が途切れた。現在位置も告げずに、さっくりと。

 いよいよFBIに通報か。それとも警察か。
 まんじりともせずに迎えた日曜日の朝に再び電話があった。

「やあ、シンディ。実は車がエンストしてしまってね。迎えに来てもらえないだろうか」

 とるものもとりあえず車をすっ飛ばして(かろうじてハンドルを握るのは運転手に任せた。とてもじゃないが自分で運転できる精神状態ではなかったのだ)電話のあった場所に駆けつけてみると、これがさびれた田舎町のこれまたさびれたドライブイン。

 片隅のテーブルでにこやかに手を振る社長は髪の毛はぼうぼうに乱れに乱れ、無精髭は伸ばしっぱなし。
 シャツはくしゃくしゃ、ジーンズは土ぼこりにまみれていい具合にうっすらベージュに染まっていた。
 しかも所々に小さな穴が開いている。まるで大型犬にでも噛まれたように……。そして目の前のテーブルには空っぽの皿が積み上がり、ボウリングのピンみたいにころころとミネラルウォーターの空き瓶が転がっていた。

「いったい何があったんですか!」
「うん、岩漠地帯の真ん中で車がエンストしてしまって」
「それは聞きました。私が知りたいのは、その後です」
「しかたないからここまで歩いて来たんだ」
「ここまで? 歩いて?」
「電話をかけようにも圏外だったしね」

 思わず声が裏返った。社長が常日頃体を鍛えているのは知っている。だが、それはあくまで都会に暮らすエグゼクティブな成人男性として見苦しくない程度の筋肉と体型を維持するためのものだ。アウトドア向けではない。

 この人に、ほとんど飲まず食わずで土ぼこりにまみれて延々と石ころだらけの道を歩いて来るような体力があったなんて!
 信じられないわ。

 さらに信じられないことに、カルヴィン・ランドール・Jrは何故か裸足だった。

「靴はどうしたんですか」
「うっかり落したらしい」
「落す? どうやって?」
「歩きにくいから脱いだんだ。くわえていたらぽろりとね」
「くわえて?」
「あ、いや、抱えて、だ。混乱してるみたいだね……」
「そのようですね……」

 素早くシンディはランドールの顔をのぞきこみ、傷の有無を確かめる。
 さすがに疲れているようだが顔色はむしろ健康的。怪我もしていないようだ。ほうっと安堵がわきおこる。

「社長。貴方の取り柄はそのハンサムな顔ぐらいなんです」
「うん」
「プライベートで何をしても構いませんが……顔に傷を作ったら……許しませんわよ?」

 はっとした表情で社長は額に手をやった。

「どうかしましたか?」
「あ、いや、何でもない」
 
 その後、帰りの車の後部座席でランドールはすやすやと熟睡していた。
 かろうじて意識を無くす前にエンストした場所を聞き出し、回収の手配を整えた。
 そしてつい先ほど、ココアブラウンの70年型のシボレーインパラを発見、回収したと言う報告を確認したのだが……これが何と件のドライブインから60マイル(およそ100キロ)以上も離れた岩漠地帯のど真ん中だった。

 いったい、何があったと言うのか。

 社長の放浪癖にはさすがに慣れたが、今回のはあまりにもミステリアス。謎が多過ぎる。
 あの後自宅まで送り届けたが、果たしてあのまま寝かせてしまって良かったものか。今日は大事な取引先の重役との会食が控えている。
 迎えに行くべきだろうか? いや、いや、いくらなんでも小学生じゃあるまいし。ここはせめて電話を……。

 携帯を開いた瞬間、ドアが開いた。

「おはよう、シンディ」
「社長」
 
 081125_0126~01.JPG ※月梨さん画「社長と美人秘書」
 
 素早く社長の周りを歩き回り、前後左右からくまなく身なりをチェックする。

 いつもの黒を基調としたスーツに細いストライプのシャツ、きちんとダークブルーのネクタイをしめ、黒い髪は生来の柔らかなウェーブを崩さない程度に見栄えよく整えられている。
 伸びていた無精髭もきれいに剃られ、さらに足元は磨き上げられた革靴を履いていた。

 服には穴も空いていないし皺も寄っていない。ちゃんと靴も履いている。顔にはクマもなし、傷もなし、瞳は濁りのないサファイア・ブルー……よし、完ぺき。

 2、3歩後ろに下がり、小さくうなずく。

「どうかしたかい?」
「いいえ。ただ、思っただけです」

 珊瑚色のぽってりとした唇に艶っぽい笑みが浮かぶ。

「貴方が女ならもっと楽しめるのに……」
「光栄だね」

 さらりとランドールは受け流した。

 彼女の基準からすれば最大級のほめ言葉だ。シンディの恋愛対象は全て女性に限られているのだから。
 二代目社長の代になってからランドール紡績はセクシャルマイノリティ雇用への垣根がかなり下がっていた。
 元々の従業員のカミングアウト率も高い。社長自らがゲイである事実を公表しているからだ。両親、親族、友人知人にいたるまで……。

「では本日のスケジュールをご説明いたします」

 てきぱきとスケジュール表を読み上げる美人秘書の傍らで、若社長はふと耳をそばだてた。スーツの胸ポケットから短い着信音が聞こえる。どうやらメールが届いたらしい。ポケットから携帯を引き出し、ディスプレイに表示される名前を確かめる。

 送信者はカザミ・コウイチ、ヨーコの教え子であり、住んでいる場所こそ離れているが彼の『チームメイト』だ。仲間からの連絡は何を置いても真っ先に確認することにしている。

 今、日本は夜中のはずだ。こんな時間にどうしたのだろう。緊急事態でなければ良いのだが……。

 携帯を開いて画面を確かめる。
 彼の英会話の鍛錬を兼ねて、コウイチとのメールのやりとりは全て英語で行っている。最近はアメリカから留学中の友だちに教えてもらいながら打っているらしく、だいぶ表現がこなれてきた。

『とっておきのレアな画像をお届けします。学校の文化祭の衣装合わせの写真です。サクヤさんにも送ったけど、せっかくだからランドールさんにも』

 添付された写真を開いた瞬間、思わず口元がほころんだ。
 ああ、確かにこれは滅多に見られないな。良いものを見せてもらった。

「……社長?」
「ん?」

 ふと我に帰ると、秘書が手元をのぞきこんでいた。彼女の黒い瞳はじっとランドールが手にした携帯の画面に注がれている。

 普段結い上げている黒髪をおろし、風船みたいなパフスリーブにぽんっとパラソルみたいにふくらんだスカートの水色のワンピースに白いフリルのたっぷりついたエプロンを身につけたヨーコの写真に。

 しまった!

 きらりとシンディの目が光る。獲物を狙うハンター、いや女豹の目つきをしていた。

「まあ、愛らしい。アリスですね」
「あっ、こら、人のメールを勝手に……」
「このチャーミングな女性はどなたです?」

 慌ててランドールは携帯を閉じて胸ポケットに突っ込んだ。シンディは可愛いもの、きれいなものに目が無いのだ。
 果たして、愛想のいいスマイル全開でこっちを見ている。この笑顔に騙されてはいけない。女豹は確実に狙いをつけている。一見優雅に立っているだけ、しかしその実、いつでも飛びかかれるよう、秘かにしなやかな四肢に力を貯えている。

「社長? ……どなたですの?」
「うっ……。……わ、私の大切な友人だ。だから駄目だぞ、絶対駄目だ」
「まだ何も言ってませんわ……。残念…お友達では、ね」

 やれやれ、と胸をなでおろす。危ない所だった。
 ゲイの社長とレズビアンの秘書、性的嗜好こそ異なるものの互いの趣味主張を尊重し、なおかつ堅い信頼関係で結ばれた二人の間には協定が結ばれていた。
 いわく、お互いの友人、親族にはちょっかいを出さない、と。

「それ……で。何か、君、私に何かたずねたい事があったんじゃなかったかな?」

 ひと呼吸置いて付け加える。

「ビジネス上のことで」
「ええ、午後からの会食の件ですが」
「…………あれ。今日だったかな?」

 ああ、やっぱり忘れていた。しかもこの人ときたら、あの東洋のアリスに見とれて私の話を聞いていなかったのね!

「社長」
「何だい?」
「何度も申し上げますが、貴方の取り柄は顔。そのハンサムな顔なんです」

 腰に手を当てると彼女はくいっと顎をそらし、斜向かいから雇い主の顔をねめつけた。

「社交くらい真面目にやって下さい」

 しまった。
 薮をつついてヘビを出したか。
 ランドールは本日二度目の舌打ちをした。あくまで心の中で。くれぐれも美人秘書には聞こえぬように、悟られぬように。
 そして素直に首を縦に振る。

「OK、シンディ……真面目に仕事するよ」

 シンディは艶やかにほほ笑むと、どさりと。デスクの上に大量の書類を積み上げたのだった。

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【4-7-5】迷走波紋拡大中1

2008/11/10 0:18 四話十海
 ランドール紡績の若き二代目社長が謎めいた失踪から帰還して3日後。
 サリーは街角のコーヒースタンドで一人、カフェラテを飲んでいた。
 既に時間は午後6時を回っている。目の前の通りは刻一刻と藍色の闇に溶け込み、車のライトや店の看板のネオンがこうこうと浮び上がる。

 サンフランシスコは坂の町だ。斜面に沿って舗装された道が伸び、その両脇に家が立ち並んでいる。
 こうして今、辺りが暗くなると、家の灯りが急激な斜面のかなり上の方まで覆っているのが分る。今でこそ建物が並んでいるこの場所も、かつてはうっそうとした山奥だったのだ。

(ずいぶん陽が落ちるのが早くなったな……)

 先週はランドールさんと連絡がとれず心配した。なまじ訓練の途中にいるだけに精神状態が不安定になると厄介なのだ。
 コントロールを失った能力が思わぬ方向に暴走し、よからぬモノを引き寄せてしまう。
 一応、『お守り』は渡してあったし、ヨーコさんからは心配ない、と連絡が来たけれど……。

 いつもは週末に会う予定なのを少し早めて、こうして木曜の夜に二人の仕事が引けてから待ち合わせをしているのだった。

(そう言えばこんな時間にあの人と会うのは始めてかもしれない。一緒に夕食を食べることになるのかな)

 厚みのある紙コップを両手で包み込むようにして持ち上げ、あたたかいカフェラテを口に含む。ふわふわに泡立ったミルクが唇に触れてくすぐったい。
 ひとくちこくんと飲み下し、ほう、と息をついた所で待ち人が現れた。

「やあ、サリー……」
「ど、どうしたんですか、ランドールさんっ!」

 一瞬、ぐったりした大型犬が診察室に入ってきたような錯覚にとらわれた。

 この前会った時より陽に焼けている。これはまあいい。むしろ健康的だ。しかし、全体的にげっそりとやつれていて、何と言うか、毛並みがパサパサしてる!

「大丈夫……ですか?」
「ああ、大丈夫だよ。しばらく一人旅をしていたら、仕事が詰まってしまってね。秘書にびしばしとしごかれた」
「ああ、それで……」

 よく見ると目の下にうっすらクマが浮いていた。
 ランドールはよれっとサリーの向かい側に座ると手にした紙コップの中味をすすった。かなり濃厚なコーヒーの香りが漂ってくる。いったいエスプレッソを何ショット追加したんだろう?

「おや?」

 ふとランドールは顔を挙げてサリーの服装に目をとめた。濃いめの茶色のスーツに紺色のタイを締め、革靴を履いている。いつものスクールボーイ然としたカジュアルな服装とはまた違った、すっきりとしたたおやかさがある。

「珍しいね、今日はスーツなんだな」
「はい。先生のお供できちんとした席に出たので」

 なるほど、と言うようにうなずくと、ランドールは再び紙コップに口をつけた。
 ず、ず、ず、じゅういいい……。
 いつもの洗練された物腰はどこへやら。音を立てて最後までコーヒーをすすり終えると、ほうっと深くため息をついた。
 同時に、ぐぅ、と腹が鳴る。

「あ……何か、食べます?」
「そうだね。時間も時間だし、もっとしっかりした食事のできる場所に行こうか」
「はい」

 紙ナプキンでくいっと口元を拭うとランドールは席を立ち……

「近くによく行く店があるんだ。美味いパエリアを食わせてくれるよ。シーフードは好きかな?」
「はい。ぜひ!」

 サリーをエスコートして歩き出した。せわしなく行き交う人の波から小柄な彼を守るようにして、極めて自然にさりげなく。

 
 ※ ※ ※

 
 案内された店の中を見渡すなり、サリーは目を輝かせた。
  
「水族館みたいですね」

 半分地下になった店の壁面は巨大な水槽になっていて、色とりどりの熱帯魚が泳いでいる。中でも中央にしつらえられた水槽には、ひときわ大きな薄紅色の魚がゆったりと浮かんでいる。平べったい流線型の体、大きなメタリックな輝きの鱗、下あごが突き出し、尾びれは丸く、どことなく東洋の龍を思わせる。
 
「うわあ、アロワナだ! すごいなぁ……」
「1mくらいあるんじゃないかな? ここの『看板娘』だよ」
「メスなんだ」
「うん。店の名前の由来にもなっている」
「ああ、マーメイド……」

 そう言われると何となく龍と言うより人魚っぽく見えてくるから不思議だ。

「いらっしゃいませ、ランドールさま」

 白いシャツに蝶ネクタイをしめ、黒いベストにグレイのズボンを身につけた男性が音もなく現れ、うやうやしく一礼した。

「予約はしていないが……いいかな? 二人だ」
「もちろんです。こちらにどうぞ」
 
 ゆらめく淡い光の中を通り抜け、奥のテーブルへと案内された。確かに常連らしい。うやうやしくさし出されたメニューにささっと目を走らせる。

 うわぁ……けっこういいお値段。お金、足りるかな。

 ちらっと不安を覚えた、まさにその刹那。絶好のタイミングでさらりと声をかけられた。

「サリー」
「はい?」
「今夜は私にご馳走させてくれないかな。君にはいつも世話になってるし……先週は私の気まぐれな一人旅のせいで授業を無断欠席してしまったからね」
「ありがとうございます」

 あどけない若社長の笑顔を見て、サリーは素直にうなずくことにした。ここで遠慮してしまったらかえって気を使わせてしまうだろう。
 料理のオーダーは彼におまかせすることにした。

「何か飲むかい?」
「それじゃ、カンパリソーダを」
「私はブルドックを」
「かしこまりました」

 運ばれてきた前菜を前に、軽く互いのグラスを掲げて中味を口に運ぶ。

「それで、一人旅って、どこに?」
「うん、南の方へ、ちょっと」
「南……ですか」
「うん。ユタ州との州境近くまで行ってきた。途中で車がエンストしてえらい目にあった」

 ランドールは肩をすくめ、どこか遠くを見るような目つきをした。

「人の住んでる町まで60マイル近く歩く羽目になって……」

 その瞬間、サリーは思い出していた。昼間の大学で友人達と交わした会話を。
 ローカルニュースできわめて奇妙な話題が取り上げられ、ネタがネタなだけに獣医学部ではひとしきり盛り上がったのだ。

『南カリフォルニアの田舎町で、さ。子牛ほどでっかい狼が出たって警察に通報があって。保安官が駆けつけてさがし回ったけど……結局、見つからなかったらしいぜ』

 すかさず犬科を研究テーマにしているテリーが目を輝かせて食いついた。

『マジか? できればすっ飛んでって現地調査したいな……どんだけでかい個体なのか、大いに興味あるよ。本物の野生の狼なんて今じゃ滅多におめにかかれないし。絶好の研究材料だ!』
『でも結局見つからなかったんでしょ?』
『大方、迷い牛を見間違えたとか、そんなオチじゃないか?』
『そうそう。黒ヒョウが出たーって通報で警察がすっとんでったら、ちょっとでかい家ネコだったって例もあるくらいだし!』
『あー、あったね、フランスで』
『どんだけでかい猫なんだ……』
『あるいは未確認動物(UMA)とか』
『おいおい、冗談言っちゃこまるぜセニョール。ここをどこだと思ってるんだい。獣医学部の研究室だぜ?』

 …………見間違いじゃなかったんだ。
 サリーは思わずこめかみに手を当てた。迷い牛でもなければ、もちろんUMAでもない。答えはおそらく、目の前にある……いや、居る、と言うべきか。

「もしかして、あれ、使いました?」
「うん。二本足で歩くより早かった」
「そう……ですか……」

(使っちゃったんだ……)

 良かった。テリーが本気で調査に行く、なんて言い出さなくて。

「サリー」
「何でしょう」
「色々心配かけてしまったようだね」

 ランドールはテーブルの上に置かれたサリーの手をそっと両手で包み込むようにして握った。心からの感謝と謝罪の意を込めて、紳士的な礼儀を崩さないレベルの節度を保ちつつ。

「すまなかった」
「いえ……」

 サリーは穏やかにほほ笑んだ。

「ヨーコさんが心配ないよって言ってましたから」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
がたん!

 この瞬間、少し離れたテーブルで立ち上がった客が約一名居た。
 濃いめの金髪にライムグリーンの瞳、ダークグレイのズボンに黒のベスト、白のシャツにアスコットタイ。ともすれば店内を行き交うウェイターに紛れてしまいそうな服装の男性が。


 元サンフランシスコ市警察の内勤巡査、今は古書店の店主、英国生まれのカリフォルニア育ちのエドワード・エヴェン・エドワーズ。
 警官時代の上司、マクダネル警部補がいきなりアポなしで砂岩づくりの彼の店に押しかけてきたのは今日の夕方の出来事だった。

『たまにはお前も外の空気を吸え』

 愛猫のリズの生んだ6匹の子猫たちも残らずもらわれて行った今、『子猫の世話があるから』という言い訳は使えなかった。
 有無を言わさず引きずって来られたが、考えてみれば夜の町で誰かと酒を飲むのも久しぶりだ。
 幸い今夜は警部補のおごりだと言うし、料理も酒もなかなか美味い。たまにはいいだろう。
 グラスを傾けつつ思い出話や互いの近況を語り合い、それなりに楽しんでいた所に、どかんと一発、爆弾が落ちてきた。
 入ってきた客の中にサリー先生が居たのだ。しかも身なりのいいハンサムな男性にエスコートされて、きちんとしたスーツを着て!

(何てこった。まるで、これじゃデートみたいじゃないか!)

 巨大な洗濯機にぶちこまれたような心地がした。身も心もぐるんぐるんと引っ掻き回され、混乱しながらも食い入るように二人の動きを追いかける……目で。あくまで、目で。
 奥のテーブルに案内され、メニューを見た瞬間、サリー先生の表情が変わった。値段を見て驚いているのだろう。自分もそうだった。
 警部補のおごりでもなければ到底、こんな店では飲み食いできない。
 すかさず青い瞳のハンサムな男性が何事かささやき、サリー先生がうなずくのがわかった。
 
 さすがにここからでは何を言っているのかまでは聞こえないがおおよその察しは着く。この手の店でデートの際に男の囁く定番の台詞だろう。

『今夜は私にご馳走させてほしい。何でも好きなものを頼んでくれ』
『君は何を飲む?』

 ぐいっとグラスの中味を一気にあおった。いぶした木材と穀類の醸す芳醇な香りと、強烈なアルコールの刺激が喉を駆け上り脳天に突き抜ける。

「おい、エドワーズ……大丈夫か?」
「大丈夫です。おかわりしていいですか」
「ああ、遠慮するな」

 もはや警部補の話も店内に流れる洗練されたBGMも全て頭の中を素通りして行く。水槽の中でゆるりと優雅に身を翻すアロワナも、蝶のようにひらひら舞う色とりどりの熱帯魚もただのモノクロームの貼り絵に等しい。
 エドワーズの目と耳はただ、ただ、全力でサリー先生とその連れに向けられていた。どんな些細な動作も見逃すまいと、集中していた。

 グラスを傾けながら何やら話している。かなり親しそうだ。Mr.メイリールの比ではない。

 透き通った赤かっ色、細やかな泡の浮かぶグラス。サリー先生が飲んでいるのはおそらくカンパリソーダだ。リキュールベースの爽やかな口当たりのカクテルだがアルコールは意外に強い。
 相手の男性が飲んでいるのは……あのとろりとした明るい黄色はソルティドッグだろうか。いや、グラスの縁に塩の輪がないからブルドックの方だな。最初からウォッカベースのカクテルを飲むなんて、かなりの酒好きと見た。
 食前にシェリーをたしなむような気合いの入ったデートではないのだ……逆に考えれば、お互いにそこまでくつろいだ飲み方のできる相手だと言うことか。

 そのうち、サリー先生が軽くこめかみに手を当ててうつむいた。小さくため息までついている。
 一体、何があったんだ?
 身を乗り出しそうになったその刹那。青い瞳のハンサムな男はこの上も無く魅惑的なほほ笑みを浮かべると、そっと手を。
 サリー先生の手を、両手で包み込んだではないか!

 がたん!

 椅子が鳴り、天井との距離が詰まる。つり下げ式のレトロなライトが目の前で揺れている。
 思わず立ち上がっていた。しかも、かなりの勢いで。

「どうした、エドワーズ」

 マクダネル警部補が怪訝そうに見上げている。

「いえ…………何でも……ありません」

 信頼のおける上司ってのはいいもんだ。いつ、いかなる時でも彼の呼びかけを聞くと冷静になれる。警察を辞めた後でもその条件づけは残っていてくれていたらしい。
 ああ、それにしても……サリー先生、うれしそうにほほ笑んでいる。
 ほんのりと頬まで染めて、何て愛らしいのだろう。

(きっと、楽しいんだろうな…………あの人と一緒にいるのが)
 
「……警部補。おかわりしてもいいですか」
「あ、ああ、かまわないぞ」
「ボトルで」

(悔しいが、彼は私より若いし、ハンサムだし、金持ちだし、立ち居振る舞いも紳士的で……お似合いだ)

 片や自分はと言えば、冴えない中年、出不精の本屋、しかもバツイチ。恋人にするのならどっちがいいか、なんてあえて比較するまでもない。
 運ばれてきたスコッチを、エドワーズは水もソーダも氷すら入れずにくいくいと流し込んだ。
 かろうじて、グラスで。

「おい、エドワーズ……大丈夫か?」
「大丈夫です」

 だんっと空になったグラスをテーブルに置き、次の一杯を注ぐ。

「今、ものすごく飲みたい気分なんです」
 
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【4-7-6】迷走波紋拡大中2

2008/11/10 0:20 四話十海
 
 テリオス・ノースウッドはその日珍しく自宅に居た。最近は大学の勉強と研究論文の執筆で忙しくて女の子をナンパに行く暇もなく、必然的にデートにでかける時間も減っていた。
 当人はいささか不満だったがこの日ばかりはそれが幸いしたと言って良いだろう……ある意味。
 野郎一匹、そろそろわびしく夕飯の仕度でもしようかと思ったところに、大学の同級生から電話がかかってきたのだ。

「テリー!」
「よう、どうした」
「サリーが遊び人で有名なゲイの社長とデートしてるぞっ! 『マーメイド・ラグーン』って店に入ってった」
「デート? まさか」
「ほんとだって! きちんとネクタイしめて、めかしこんでたぜ」

 親友のサリーことサクヤ・ユウキは確かに女の子と見まごうような華奢な奴だが、ゲイではなかったはずだ。うかうか誘いに乗るほど不用心だとも思えない。
 ……思いたくはないが。

(あいつ、しっかりしてるようでたまに天然入ってるからなぁ……)

 だからこそ放っておけなくて、入学以来ずっと面倒を見て来た。
 そもそも初対面の時からして、学内でうろうろ迷っているサリーと廊下でぶつかったのが始まりだった。幾分ぎこちない英語でお礼を言う彼のことを最初はてっきり女の子だと勘違いしたのも今となっては懐かしい思い出だ。
 今年の夏には彼の従姉にも紹介された。ちっちゃくてせかせか動く小動物みたいな子で、最初は妹かと思ったが、話してるうちに姉さんみたいな存在なのだとわかった。
 でっかいロリポップキャンディを、クッキーでも食うみたいにがしがしかじるワイルドな人だった。
 別れ際に彼女に手を握られ、しみじみとした口調で言われたものだ。

『サクヤをよろしくね』
『まかせてください! 親友ですから』

 思いめぐらすうちに電話の報告はなおも続く。

「スタバで待ち合わせして、連れ立って歩いてったんだ。って言うかあれは完ぺきにエスコートしてたな」

 急に話が現実味を帯びてきた。どうやら、人違いや自分を引っかけようとするジョークの類いではなさそうだ。

「でお前はつけてったのかよ」
「今店の前。とてもじゃないけどあんな高い店、入れねーよー」
「……わかった、行く」
「うんうん、そう言うと思ったよ」

 マーメイド・ラグーン。市内でも指折りの高い店だ。さすがに自分の金で足を運んだことはないものの、教授のお供で入ったことがある。
 ラフな格好ではまずい。
 クローゼットを開けて滅多に出番のないきちんとしたシャツに腕を通し、タイをしめる。

(まったく、女の子とのデートでもないのにここまで手間かけさせて。ガセだったらだたじゃおかねぇぞ!)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
  
「お、来た来た、テリー!」

 現場の店の前まですっ飛んで行くと、早速、張り込み中の友人から携帯のカメラで写した写真を見せられる。

「これ」

 そこには『マーメイド・ラグーン』の入り口を入って行くサリーと背の高い黒髪の男の姿があった。

「……」 

 ガセじゃなかったようだ。テリーはぎゅっと眉を寄せ、口をへの字に結んだ。

「誰なんだ、相手は」
「ランドールって名前なんだけどさ。でかい会社の社長で、その筋では有名なプレイボーイなんだ……」

 確かに写真で見る限り着ているスーツは上等そうだ。さらりとこんな高い店に入れるのだから懐もそれなりに豊かなんだろう。友人同士ならまだいい。
 問題はそいつがゲイで、名うての遊び人だってことだ!

「最近、鳴りを潜めてたと思ったら。どこで知り合ったんだろうな?」
「さぁな。 連絡サンキュー」
「おう、気ぃつけてな」

 いそいそと夜の町へと消えて行く友人を見送り(ちゃっかり、ボーイフレンドが待っていた)、テリーは一人『マーメイド・ラグーン』に入って行った。

(遊び人社長め。俺のダチに手ぇ出しやがったらタダじゃおかねえぞ!)
 
 
 ※ ※ ※ ※


 杯を重ね、温かな料理で腹を満たすうちに、だいぶ二人の間の空気はほぐれてきた。
 そろそろ、いいかな。
 サリーは思い切ってずっと気にかかっていたことを尋ねてみることにした。

「それで、あの、ランドールさん」
「何だい?」
「どうして……一人旅なんかしようとしたんです」
「それは……」
「携帯の電源、切ってましたよね?」

 ランドールは軽く目を伏せた。
 どうしたものか。
 それを認めるのは辛い。だが、口に出さなければいつまでも前に進めないような気がした。

「実はね。失恋してしまったんだ」
「あぁ……」

 サリーは何も言わなかった。ただうなずいて、聞いてくれた。

「彼の幸せを願おうと決めたのだけれど、どうもそれだけでは収まらなくってね。誰にも告げず、車を飛ばして一週間ばかり、あての無い一人旅としゃれ込んだ訳さ」
「そうだったんですか」
「彼女には見つかってしまったけれど……ね」
「そう言う人ですから」

 どちらからともなく見つめ合い、ほほ笑みを交わしたその時だ。
 つかつかとブルネットの若い男が近づいてきて、だん、とテーブルに右手を着いた。
 
 
081119_1129~02.JPG081119_1129~01.JPG ※月梨さん画「テリー乱入」
 
「サクヤ! 奇遇だな、こんな所で会うなんて」

 サリーは一瞬、きょとんとしたがすぐにくったくのない笑顔になってひょいと片手を挙げた。

「やあテリー!」
「おや、友だちかい?」
「ええ、大学の同級生です」
「どーも!」

 ぎろり、とターコイズブルーの瞳がにらみつけてくる。

 ああ……そうか……。

 ばちばちと火花を散らさんばかりに激しい彼の眼差しにランドールはおおよその事情を察した。
 自分は今まで遊び人としてそれなりに浮き名を流してきた身だ。こんな風に二人っきりで親しげに食事をしていたら、警戒されるのも無理はないだろう。
 いやはや、参った。サリーに対してはまったくそんなつもりはないんだが。
 まったく、若者の友情ってやつは何て純粋で、無鉄砲なのだろう。20代の頃の自分を思い出し、うらやましいような、ほほ笑ましいような気持ちになる。

 ふと、あまりに真面目なテリーの顔を見ているうちに悪戯心が頭をもたげてきた。カルヴィン・ランドール・Jrの口元に、にやりと人の悪い……そしてある種の人間には非常に魅惑的に見える笑みが浮かんだ。

「そうか、『友だち』か。よかったら一緒にどうだい?」
「ありがとうございます」

 テリーはサリーの隣にどかっと腰を降ろした。腕組みしてあいかわらずこっちをにらみつけている。

「何か飲むかい?」
「水」
「……ガス入り? ガスなし?」
「ガスなしで」
「OK」

 ウェイターを呼び寄せてオーダーをしてから、ちらっとサリーの顔を見て。ひょいと手をのばして親指で口元を拭った。

「パセリがついていたよ、サクヤ」
「え? あー、全然気がつかなかったー」

 普段ならさすがに遠慮されるだろうが、酒が入ってリラックスしているせいか、楽しそうに笑っている。

「ありがとうございます……って、あ」

 今度はサリーがナプキンをとり、くいっとランドールの口元を拭う。

「ランドールさんもついてましたよ、パセリ」
「おや、これはうっかりしていた」

 一方、テリーは硬直したままこっちを指さし、金魚みたいに口をぱくぱくさせていた。
 うんうん、いいね、なかなかに初々しい反応じゃないか。どれ、もう一押ししてみようかな……。

「ところで、もしかして君たち……付き合ってるのかい?」

 一瞬、テリーはぎょっと目を見開いた。
 付き合ってる、だと? いきなり何言い出すんだこの男は! 探ってるのか。俺がサリーの恋人だとでも思ってるのか。
 ふざけてる。だが、ある意味、これはチャンスだ。ここでYesと答えておけば、余計なちょっかいは出さなくなるだろう。
 
 運ばれてきたミネラルウォーターの封を切り、ボトルから直にのどに流し込む。
 よし……行くぞ。
 すうっと大きく息を吸い込むと、テリーは勢い良く答えた。

「はい! 俺たちつきあってます!」

 そりゃあもう、きっぱりと、店中に響き渡るような声で。決死の覚悟で言った告白を聞くなり、サリーはころころっと笑い出した。

「何言ってるんだよー」

 ものすごく上機嫌だ。よく見ると顔が赤い。

「お前っ、飲んでるな?」
「うん、飲んでるよ?」
「何杯飲んだんだっ!」
「えーと、カンパリ・ソーダにカンパリ・グレープフルーツに、カンパリ・オレンジにスプモーニ(カンパリベースのカクテル)に……」
「っかーっ、道理で顔赤いと思ったら……酒、それほど強くないくせに……」
「おや、そうなのかい? 美味しそうに飲んでるから、つい私もおかわりを勧めてしまったよ」
「あんたのせいかっ」

 おや、ずいぶんとぞんざいな口調になっている。本音が出たかな、テリーくん。

「すまないね。では今夜はそろそろ切り上げようか。サリー、つきあってくれてありがとう」
「いえ、俺も楽しかったです。ごちそうさまでした」

 椅子から立ち上がろうとして、ふらっとよろめくサリーをごく自然に手を伸ばして支える。一瞬の差で出遅れたテリーが目を剥いて睨んできた。

「家まで送ろうか?」

 がうっ!
 テリーが牙を剥いてサリーとの間に割って入ってきた。

「ご心配なく、俺が送ります。家も知ってますし」

 参ったな、喧嘩を売るつもりはなかったんだが……少し悪戯が過ぎたかな。ひとまず誤解を解いておくべきだろう。

「誤解しないでくれ。私は、彼の従姉の友人なんだ」
「うん、ヨーコさんが色々とお世話になって」
「そうなのか?」

 一瞬、納得しかけたテリーだったが、はたと思い直した。

(そう言うのが一番危ないんだよ!)

「世話になったって、留学してた時?」
「ううん。もっと最近。今年の夏にヨーコさんがこっちに来た時に……ほらテリーもちょっとだけ会ったよね」
「ああ、あのちっこい人」
「そうそう」
「彼女はレディだよ。実にオリジナリティにあふれている人だ」

 真面目な顔でうなずいている。なるほど、確かに親しいらしい。

「それで、ちょっと用事もあって、たまに連絡とってるんだ」
「なるほど……そう言うことなら……」

 あのちっこいくせにとんでもなくワイルドな従姉が後ろに控えていると知った上での付き合いなら、いかな遊び人社長もサクヤに手を出すことはないだろう。
 しかし、万が一ってこともある。

(だいたい、こいつはあらゆる意味で迂闊って言うか、天然って言うか、とにかく無防備すぎるんだよ!)

 さりげなくカードで支払いを済ませる社長を横目で見やりつつ、上機嫌のサリーを支えながらテリーは心に決めた。
 これからは、俺が目を光らせておかねば! と……。
 
 
 ※ ※ ※ ※

 
 一方。
 新たなる乱入者に、エドワード・エヴェン・エドワーズは気もそぞろ。もはや視線は警部補を通り越して奥のテーブルに釘付け状態。

 同い年ぐらいの若い男が入ってきて、つかつかとサリー先生のいるテーブルに近づいて行き、ばんっと手をついて割り込んだ。
 しばらく青い目の男とにらみあっていたと思ったら、いきなり青い目のハンサム・ガイがサリー先生の口元を親指でぬぐった。

(あいつ!)

 馴れ馴れしいにも程がある! だが立ち上がろうとした刹那、エドワーズをさらなる衝撃が襲う。サリー先生がにっこり笑って、相手の口元をナプキンでさっと拭ってお返しをしたではないか。

 へなへなと膝の力が抜けて椅子に沈み込んだ所にとどめの一撃。

「はい! 俺たちつきあってます!」

(え? 今、何て言った?)

 ぐわらんぐわらん、ぐわらららん。

 その瞬間、彼は頭っからカトリーナ級のハリケーンの中に叩き込まれた気分を味わっていた。(幸い、まだそんな経験はないのだが)
 上も下も右も左も、全ての色と形と音がぐんにゃりとゆがみ、彼を中心に猛スピードで回転しながら一点に収縮して行き……

(付き合ってるって……)

 閃光とともに一気に爆発、四散した。
 
081122_0018~01_Ed.JPG
※月梨さん画「彼にはこう見える」
 
(サリー先生、恋人がいたのかーっっ!!!)

「……警部補。もう一本追加してもいいですか」
「……あ、ああ」
「ウォッカを」

 運ばれてきた無色の酒を、エドワーズは水も氷も入れずにくいくいと流し込んだ。咽せもせず、一言もしゃべらず、黙々と。

「どうした。ピッチが早いぞエドワーズ」
「今夜はとことん飲みたい気分なんです!」
「そうか……ほどほどにな」

 マクダネル警部補は秘かに舌を巻いた。
 何てこったい、目がすわっている。
 生真面目な男だ。いろいろとためこんできた苦労があるのだろう。よかろう、今夜はとことん飲ませてやろうじゃないか。
 いざとなったら、ひっかついで連れて帰ればいい。

 ばしゃり!

 中央の水槽で水しぶきが上がる。
 何やら不穏な空気を察したのかアロワナが……『看板娘』が暴れたようだ。尾びれを打ち振り、左右に体をくねらせながら底に潜って行く。
 珍しいこともあるもんだ。滅多にあんなお転婆はしない娘なのに。
 それにしてもエドワーズの奴、アロワナの水槽を食い入るように見ていたな……こいつがこんなに魚好きだったとは知らなかった。

「そら、エドワーズ。たまには水も飲めよ」
「はい、警部補」
「つまみも食え」
「はい、警部補」

 とん、と置かれたグラスの中で透明な酒が揺れ、たぷん、と波紋が広がった。

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【4-7-7】そして宴の夜が明けて

2008/11/10 0:22 四話十海
 朝。
 エドワード・エヴェン・エドワーズは珍しく寝坊した。
 目を開けるとまず、見慣れない天井。起きあがって部屋の中を見回す。カーテンのすき間から差し込む陽の光に照らされた部屋は、どう見ても自分の寝室ではない。

 窓の外が何やら騒がしい。
 のそのそとベッドから降りてカーテンを開ける。門扉を開けて、犬を連れた男性が帰って来るところだった。シェパードと、ゴールデンレトリバーと、足元をちょこまか走り回る毛足の長い黒い犬。スコッチテリアだ!
 すると、ここは……。

 スポーツウェア姿の男性がこっちを見上げて手を振ってきた。

「よう、エドワーズ。目がさめたか」
「……おはようございます、警部補」

 何と言うことだ。酔いつぶれて警部補の家に厄介になってしまったんだ!

 ずっくん、とうずくこめかみを押さえて改めて室内を見回す。この部屋には何度か泊まったことがある。一度目は妻と別れた直後。二度目は爆発物処理班から内勤に転属届けを出した時。
 記憶を頼りに客用のバスルームに行き、顔を洗う。鏡に映る自分と対面した。

(……酷い顔だ……)

 そなえつけの剃刀を拝借してヒゲをあたった。
 シャツが酒臭い。いったい何杯飲んだのだろう………。
 
 1本目のウォッカを空けたあたりから記憶が無い。
 念のため、リズのご飯は多めに入れてきたし水もたっぷり用意しておいた。彼女がひもじい思いをすることはないだろう。
 だが何たる失態! 帰ったら謝らねば。

 そろりそろりと静かな足どりでダイニングキッチンに入って行くと、マクダネル夫人がパンケーキを焼いていた。

「あら、おはよう、エディ。ちょっと待っててね、もう少しでできあがるから」
「奥さん……すみません、すっかりお世話になってしまって」

 ぺしっとあざやかな手つきで焼き上がったパンケーキを皿に載せると、マクダネル夫人は冷蔵庫からガラスのピッチャーを取り出して中味をコップに注いだ。

「はい、これ飲んで」

 とろりしとした黄色のジュース。ぼーっとしたまま素直に飲むと、柑橘類独特の弾けるような酸味が体中に広がった。

「う……酸っぱい」

 グレープフルーツジュースだ。二日酔いの特効薬、混じりっけなしのフレッシュ。

「もう一杯いかが?」
「いえ、十分です」

 夫人を手伝い、皿を並べていると、裏庭に通じるドアが開いて警部補が三頭の飼い犬を引き連れて入ってきた。
 彼は動物好きで、魚好きだ。ダイニングにもリビングにも水槽が置かれ、水草の間を熱帯魚がゆるりと泳いでいる。
 前に来た時より数が増えているようだ。
 さらに引退した警察犬と盲導犬を引き取り飼っている。そして、ちっぽけな小型犬の中に大型犬の魂を秘めたスコティッシュ・テリアは父祖の地スコットランドへの愛のあらわれなのだ。

「お帰りなさい、あなた」
「ただいま」

 マクダネル夫妻はしっかりと抱擁を交わし、誰はばかることなくキスを交わしている。何となく遠慮して、エドワーズは床にかがみこみ、三頭の犬たちと挨拶を交わすことにした。

「やあ、シリウス、ライラ、スキップ。私を覚えているかい?」

 ちっぽけな黒犬は短い尻尾をぷりぷり振って、当然、とでも言うように短く吠えた。
 
「う」

 ドスの利いた低音が頭に響き、ずっくん、とまたこめかみが疼いた。
 
  
 ※ ※ ※ ※
 
 
 一方、マリーナ近くのサリーのアパートでは、ソファの上でテリーが目を覚ましていた。
 サリーを部屋まで送り、ご機嫌の彼を着替えさせてベッドに寝かしつけて、結局、そのまま泊まり込んだのだ。
 別に初めてじゃない。今までもちょくちょく泊まりに来ている。デービスに居た時も、シスコに移ってきた後も。

 台所の方でカチャカチャと音がする。ふんわりと香ばしいにおいが鼻をくすぐる。

「おはよ」

 いつ起きたのだろう。さわやかな笑顔でエプロンをつけて食事の仕度をしている。

「あー、おはよう……ってそうじゃなくて! サクヤ。ちょっと話がある」
「先に顔洗ってきて朝ご飯食べたら?」
「……そうだな……洗面所借りるぞ」

 どうやら二日酔いはしていないらしい。昨夜あれだけご機嫌だったってのに……考えてみればこいつはいつもそうだ。
 二杯も飲めばご機嫌になる割に翌朝はすっきり目を覚ます。大学の友人一同で飲み明かした時も、翌朝全員がぐったりしてる中けろりとしていたっけ。

「いただきます」
「いただきます」

 テーブルの上には白米と味噌汁、キャベツの温野菜サラダをそえたオムレツが並んでいる。
 きちんと一礼して食べ始めた。

「あ、美味いなこのミソスープ」
「ほんとはシジミがいいんだけどね。こっちにはないし」
「シジミ?」
「貝だよ。お酒飲んだ翌朝に効くんだ」
「そうか……」

 こいつは覚えてるんだろうか。昨日の夜、防衛線を張りたい一心で自分が言った公明正大な大嘘を。
 あの時はつい、頭に血が上ってしまったが今こうして朝の光の中で思い返してみると、とてつもなく恥ずかしい。

「テリー学校行くんだろ、何時から? 俺は外来に行くから遅めだけど」
「あー、今日は二限から……」
「そっか」

 食べ終えて、カチャリと箸を置くと、サクヤはにこにこしながらちょこんと首をかしげた。

「お茶、飲む? それともコーヒーの方がいいかな」
「ああ、コーヒーを……ってそうじゃなくて!」

 危うくこのまま流される所だった。テリーはしゃん、と背筋を伸ばすとサクヤの目を正面から見据えた。

「サクヤ。悪いことは言わない……あの男と付き合うのはやめとけ、遊び人だ」
「え。うーん。遊び人なんだ」

 やっぱり知らなかったんだな。肩に手を置き、一言一言噛んで含める様にして言い聞かせる。

「そう、遊び人だ」
「でも別にそういう付き合いをしてるわけじゃないよ? 食事に行ったのもたまたまだし」

 キッチンに向かうとコーヒーのドリップバックを二枚取り出し、パッケージを開け、紙製のホルダーを開いてマグカップに載せると上からお湯を注ぐ。しゅわしゅわと細かいかっ色の泡が立ち、コーヒーの香りがいっぱいにひろがった。
 一杯分の挽いたコーヒー豆をペーパーフィルターにセットしたこの形式が一番使いやすい。アメリカのインスタントコーヒーの瓶は大きくて、使い切る前にしけってしまうから。

 いそいそとコーヒーを入れるサクヤを見守りながら内心、テリーは穏やかではなかった。有り体に言って、非常にやきもきしていた。

 お前がそういうつもりはなくても向こうがそのつもりだったらどーすんだー!

 一方、コーヒーを入れるサクヤの心中はいたって穏やかだった。

 昨日はちょっと驚いた。「君たちつきあってるのかい」と聞かれるのはよくあることだけど、いつも否定するのはテリーの役目だったのだから。
 さっきの一言を聞いて納得がいった。彼は必要以上にランドールさんを警戒してるんだろう。

「コーヒーに砂糖いれるよね?」
「うん、三つ」

 まったくテリーは心配性だな。ランドールさんにそのつもりがないのは事実なんだし、そのうち誤解も解けるだろうから今はそっとしておこう。
 
 カップに砂糖をスプーンで三杯。それからミルクをたっぷり注いでかきまぜる。自分の分は砂糖をいれずにミルクだけ。

「はい」
「さんきゅ」

 ああ、やっぱりこいつはあらゆる意味で迂闊だ。学校の外でどんな付き合いをしてるのか、改めて俺の目で確かめなければ!
 
 湯気の立つマグカップを手に向かい合う二人の頭の中は、その実微妙に行き違っているのだが……当人たちは知る由もなかった。

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【4-7-8】晴れた日に公園で

2008/11/10 0:23 四話十海
 翌日の土曜日はよく晴れた。
 先週と比べて空気はいくぶんかひんやりしていたが太陽は金色の輝きを惜しみなく地上へと注ぎ、ほんの少し、うっすらと綿をはいたような青い空が広がっている。

 カルヴィン・ランドール・Jrは、くたくたの木綿のチェックのシャツに履き古したジーンズと言ったラフな格好で公園を歩いていた。買い直したばかりのスニーカーはまだ足になじみきっていない。
 先日の失恋旅行以来、たまにはスーツを脱いで気楽な格好でぶらつくのも悪くないなと思い、こうして実践してみた。
 芝生の上には、日光浴を楽しむ男女や弁当を広げる家族連れがあちらこちらに点在している。

 ボールを追いかけて走り回る子どもたち。木の枝でさえずる小鳥。灌木の花の間を飛び交うマルハナバチの羽音は眠たげに耳に響き、どこからかバーベキューのにおいが伝わってくる。

 あれからもう一週間になるのか……。

 ぼんやりと思いめぐらせていると、まず軽くて丸いものが足首に当たり、続いてどすん、と何か柔らかい生き物がぶつかってきた。

「おっと」

 とっさに踏ん張って受けとめる。腕の中に小さな男の子の体がすっぽりと収まっていた。
 あったかい。
 一週間前に額に触れた小さな手の感触を思い出し、重ねてみる。
 鳶色の髪に濃い茶色の瞳のこの子は、あの時の子より少し年下らしい。

 ああ、それにしても、小さな子どもって体温が高いんだな……。

「失礼、Mr。痛くしなかったかな」
「大丈夫」

 足元に転がっていたボールを拾い上げ、手渡した。

「ありがとう」
「一人で散歩かい?」

 男の子はすっと右手を挙げて芝生の上の一角を指さした。
 灰色の髪の男性と、短い鹿の子色の髪の女性が並んで腰を下ろしている。こちらに気づいたのか、立ち上がって近づいてきた。

「パパとママ」

 アレックスだった。

(ああ、この子と彼女なんだ。あの夜、夢に出てきたのは……)

「これは……ランドールさま」
「やあ、アレックス」

 奥方は再婚だったのだ。そして息子はアレックスを慕っている。もう、この三人は家族なんだな……。

「パパを知ってるの? Mr?」

 アレックスJrがちょこんと首をかしげている。大人とは微妙に異なる、子どもならではの細やかな仕草で。見ていて自然と笑みがこぼれた。

「ああ、よく知っているよ。でも君のママとは初めて会うから、君から紹介して貰えると嬉しいね。私の名前はカルヴィン・ランドール・Jr」
「OK、Mr.ランドール。ぼくはディーン・オーウェン。ママはソフィア」

 ディーンはランドールの手を握って両親の方に引っぱって行く。案内されるまま歩いて行き、母親の前に立った。

「ママ、こちらはMr.ランドール」
「はじめまして、Mr.ランドール。お会いできて光栄ですわ……先日は、素敵な薔薇をありがとうございました」
「お気に召して何よりです、Mrs.オーウェン」
「どうぞ、ソフィアとお呼びくださいな。主人をアレックスとお呼びなんですもの、私だけMrs.オーウェンじゃくすぐったいわ」

 そう言って彼女はころころと笑うと芝生の上に広げたレジャーシートを指し示した。

「あの、よろしければランチをご一緒にいかがですか?」

 赤いギンガムチェックのシートの上には、家族用のたっぷりしたサイズのピクニックバスケットが置かれている。

「シルクの薔薇のお礼もしたかったし、せっかくお会いできたんですもの」
「しかしせっかくの家族水入らずなのに」
「どうぞ、ランドールさま」
「……それじゃあ……ありがたく」

 こうして芝生の上でアレックス一家とランドール社長の会食が始まった。

 バスケットの中からは、たくさんの皿と、タッパーに入ったポテトサラダ、サンドイッチ、そしてピザが魔法のように現れた。

「もしかして、このピザはハンドメイドかい?」

 ディーンがこくこくとうなずく。

「パパがね、作った。ぶんっとなげて、回した!」

 両手をぶんぶんと振り回して一生懸命解説してくれる。

「そうか、さすがアレックスだ、すごいな」
「おそれ入ります」
「味つけしたのは、ママ。ぼくもちょっとだけ手伝った」
「そうかすごいね」
「エビ、のせた。コーンも!」
「そうか、このエビは君がのせたのか」
「うん!」
「それじゃ、心して味わわなきゃいけないね……いただきます」
 
 一口かじる。ぱりっと焼けたピザ生地の上でぷちりと新鮮なエビが弾けた。トマトにバジルに、塩、胡椒、そしてチーズ。慣れ親しんだピザの味の他にもう一品、何か入っている。
 それは本来、この料理に入れるものではないような気がした。しかし、生地ともエビとも相性は抜群だ。
 どこかで自分はこの味を口にしている。そう、確かに……。

「もしかして……オイスターソースが入っているのかな」

 ソフィアは大喜びしてぱちぱちと手を叩いた。

「すごい、おわかりになるんですね!」

 心底うれしそうだ。隠し味を看破されて悔しがるどころか、むしろわかってくれたと喜んでいる。
 ああ、かなわないな……。
 素直にそう思った。

「さすがアレックスの選んだ女性だ、素晴らしい人だね」

 有能執事はぱちぱちとまばたきすると、ほんのりと頬をそめ、はにかんだ笑みを浮かべた。

「……おそれいります、ランドールさま」
「アレックス、君…今、とても良い顔をしている。幸福なんだね」
「はい」

 父と、母と、自分と。
 家族を愛し、愛されることはとても幸せで、自然なことで……自分は何の疑問も持たずその温かさに包まれて生きてきた。

 アレックスと、ソフィアと、ディーン。
 自ら得た家族を愛することも、やっぱりとても幸福なことなのだ。
 妻と息子とめぐり合い、一緒に住んで、こうして家族になることのできたアレックスは、とても幸せな人なのだと思った。

 とてもうれしい。
 ほろほろと胸の奥の一番深い場所から温かな何かがあふれ出す。わき水のようにこぽこぽと、あとからあとからとめどなく。

 ああ。
 彼に恋することができて良かった。
 恋しい人の幸せを確かめることができて良かった。

「Mr.ランドール。どうしたの? どこかいたいの?」

 ディーンがナプキンを手にのびあがり、おぼつかない手つきでランドールの目もとを拭う。
 
「大丈夫……だよ、ディーン。大丈夫だから……どこも痛くはないから」

 ディーンは首をかしげてしばらく何やら考え込んでいたが、やがてランドールの手にしたかじりかけのピザを見て納得したようにこくっとうなずいた。

「粒ペッパー、かんだ? からいから、気をつけて」
「ああ、そうだね……ちょっと、つーんと来た」
「こっちのピーナッツバターとジェリーのサンドイッチなら、からくないよ」
「そうか……ありがとう、ディーン」
「お水いかがですか?」
「いただきます」

 んくんくと赤いプラスチックのマグを両手でかかえて水を飲む若社長の姿を見守りながら、ソフィアは思っていた。
 この青い目のハンサムさんとは、何だかとても趣味が合いそうな気がするわ。何故だかわからないけれど……ディフとは少し違うけれど、きっと、良いお友達になれそう。

「ピザをもうひときれいかがですか、ランドールさん」
「ありがとう。いただこう」
「アップルジュース、飲む?」
「ありがとう、ディーン」

 十月の土曜日、昼下がり。時間がゆったりと流れて行く。

 こうして、カルヴィン・ランドール・Jrの恋は終わった。
 終わったけれど、それは決して悲しいだけでも苦いだけでもなく、むしろ清々しい後味を残してふんわりと、おだやかな金色の陽射しに溶けて行くような……

 そんな、幸せな失恋だった。
 
 
 ※ ※ ※ ※

 
 その頃。ローゼンベルク家のリビングでは、シエンがぽつんと座っていた。
 膝に白い子猫を抱えて。

「……どうした、シエン」
「ヒウェル」

 この頃は夕食だけではなく、週末にも時々ランチを一緒に食べることがある。もっとも、ヒウェルは大した用事が無くてもちょくちょく顔を出しに来ているのだけれど。
 理由はわかっている。

 オティアに会いたいんだ。
 
「……珍しい組み合せだな。どうした」
「……今、誰とも会いたくないみたいだから」
「お前とも?」
「……ん」
「お前ともか……」

 ヒウェルは手を伸ばすと白い子猫を撫でた。オーレは小さくのどを鳴らしてヒウェルの手に顔をすり寄せる。

 アレックスの結婚式から帰って来た時、オティアはすごく沈み込んでいた。自分で決めたことだけど、やっぱり行けないのがショックだったんだ。
 あれから一週間、家に居る時はほとんど書庫に閉じこもっている。自分も、オーレさえも中に入れず、本当に一人っきりで。
 本を読んでるのならまだいい。クッションや毛布を持ち込んでる所を見ると、きっと眠っているんだ。床にうずくまって、胎児のように体を丸めて。
 何も見ず、何も聞かず、何も考えずに、ただ一人で。

 食事と勉強の時間には何事もなかったように出てくるけれど……。

 シエンは小さくため息をついた。
 何だか一緒の部屋に居るのがいたたまれなくて、その度にこうして本宅の方に来ている。

(俺……こっちの部屋で寝ようかな……)

「シエン」
「ん?」

 ヒウェルはそっと手を伸ばし、ややくすんだ金色の髪を撫でた。
 その時。
 オーレがピン、と耳を立て、床に飛び降りた。

「みゃっ!」

 尻尾をたかだかと垂直に掲げてたーっと走っていく。双子の部屋との境目のドアを目指して。しかし彼女が行き着く前にドアがぱたんと閉まった。

「み…………」

 はっとしてヒウェルが振り向くと、閉ざされたドアの前でオーレが世にも切なげな後ろ姿でしょんぼりとうなだれていた。
 
 
 波紋は未だ広がっている。

 
(迷走波紋/了)

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【4-8】ひとりぼっちの双子

2008/12/12 21:45 四話十海
  • 2006年10月31日、不思議な力を持った双子と、弁護士と探偵と記者が出会ってからほぼ一年。
  • 時にためらい、時にとまどいながらも次第にお互いの距離感をはかりつつ、徐々に落ち着いてきたかに見える彼らの関係ですが……。
  • それは少しずつ、足音をしのばせて密やかに近づいていた。
  • 深い霧に包まれたハロウィンの夜、ローゼンベルク家の食卓に訪れたのは、いたずらなお化けではなく大きな一つの変化だった。

【4-8-0】登場人物

2008/12/12 21:47 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
 
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 フリーの記者。26歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
 オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
 ようやく人物紹介のトップに返り咲いた本編の主な語り手。
 
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
 『無視』するのは『無関心』でいられないから。
 気になるから見ないふり、居ないふりを決め込む。
 ポーカーフェイスの裏側で揺れ動いていた心を隠せない相手がいた。
 
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 外見はオティアとほぼ同じ。
 オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
 また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
 ディフになついている。
 ヒウェルに片想いする一方で、本当はだれよりもわかっている。
 オティアがずっと隠してきた彼への想いを。
 
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 今回はロサンジェルスに出張中。
 
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 多感な子どもたちを抱えて悩みは尽きない。
  
【オーレ/Oule】
 四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
 白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
 最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
 趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
 エドワーズ古書店の看板猫リズの末娘。
 
【アレックス/Alex-J-Owen】
 レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
 有能。万能。41歳。
 灰色の髪に空色の瞳、故郷には両親と弟がいる。
 20歳の時からずっとレオンぼっちゃま一筋の人生。
 今はレオンさまと奥様と双子のために、そして愛する妻と子のためにがんばる。
 息子のためならジャック・オ・ランタンも作ります。
 
【ソフィア/Sophia】
 アレックスの妻。
 鹿の子色のカールした髪と濃い茶色の瞳の子鹿のような女性。
 実家はパン屋さん。
 一度結婚して息子が生まれたが夫は交通事故で死亡、アレックスと再婚する。
 ディフとは主婦友だち。
 こまめに特売の情報を交換し、よく一緒に子連れで買い出しに行っている。
 
【ディーン/Dean】
 ソフィアの連れ子、アレックスは義父に当たる。
 物怖じしない三歳児。

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【4-8-1】兄弟喧嘩

2008/12/12 21:49 四話十海
 
 ハロウィンってのはもともとケルトの収穫祭で、大挙して押し寄せる魔物や幽霊を脅かしておっぱらうためにロウソクを灯していた……らしい。

 コラムに記事に売り出し用のチラシのキャッチコピー、果ては店頭にかかげる垂れ幕用の売り文句まで。毎度毎度8月になると、とにかくこの手の文章をやたらと依頼される。
 毎度毎度調べて、書いて、そのたびに細かいことを忘れる。
 何しろお後がつかえているのだ。いちいち前の仕事を引きずっていられない。ハロウィンが終わるやいなや、街中の飾り付けはカボチャから七面鳥へと速やかにバトンタッチ、その次にはサンタとトナカイが控えている。

 ともあれ、2006年のハロウィンは死者の霊魂や魔物の他にもう一つ、大挙して押し寄せたものがあった。

 Image352 1.jpg
 
 サンフランシスコ名物、霧だ。
 海の湿り気をたっぷり含んだミルクのように濃密なやつがすっぽりと街中を覆い尽くし、どっしり腰を据えて居座っている。
 真っ昼間から車はフォグランプを灯してのろのろ最徐行、市内の学校は午前中でおしまい、飛行機は軒並み欠航。

 それでもハロウィン。あくまでハロウィン。

 サンフランシスコの街は(早い所では)十月の半ばを過ぎた頃からちらほらとオレンジと黒に彩られ、イミテーションのカボチャが顔を出し、週末からはどっと一気に派手なイルミネーションが家々の庭先や戸口、門柱に絡み付く。

 老いも若きも猫も杓子も、準備万端整えて、お待ちかねのお祭り騒ぎ。今さらだれにも止められやしない。

 カボチャにコウモリ、魔女に吸血鬼にフランケンシュタインの怪物、矢印みたいな角と尻尾を生やした小悪魔、定番のシーツ被ったお化けに蛍光素材の骸骨……に混じって何故かシスのダース・モール卿もいたりして。
 年々、ケルトの収穫祭からは倍速ダッシュで遠ざかってるような気がしないでもないが、楽しけりゃいいじゃねえか、お祭りなんだし。

 業種を問わず店の中はハロウィン一色、場所によっちゃ職場にまでこの手の飾り物がぶら下がる。
 ご多分に漏れずジョーイの勤める雑誌社もそうだった。仕事の打ち合せに現れた当人は、作り物の斧を頭にぶっ刺して上機嫌。
 毎年のことながら、こんな状況下で真面目に仕事の話をしている自分がちょっぴりアホらしくなるが、『子どもじゃないけど特別に』とか言われてでっかいガラスのボウルに山盛りになったチョコバーをさし出されたのでありがたく、がばっとひとつかみいただいてきた。

「ちょっとは遠慮しようって気にならないの?」
「ならないね。ごちそーさん」

 遠慮のエの字もなく包み紙をぺりりりと剥いて、わしっと一口ほおばった。
 ピーナッツクリーム入りだ。うん、美味い。
 帰り支度をしながらもっしゃもっしゃ口を動かしてると、ぽんと肩を叩かれた。

「それじゃ、よろしく頼むね!」
「ぅおっけー、まかしとけ」

 依頼されたのはハロウィンのイルミネーションの取材。ハロウィン当日の街の中を実際に歩き回って写真を撮る訳だが、社内では当然ハロウィンパーティーなんてものが開かれる訳で。
 だれだって同僚が浮かれ騒いでる時に一人ぽつねんと取材したかないわな。ってな訳で外注ライターの出動となる訳だ。
 思い起こせばばフリーになって間もない頃、ロクな仕事もなくてバイトで食いつないでた俺に友だちのよしみでジョーイが紹介してくれたのもこの仕事だったっけ。

 建物を出る間際に二つ目のチョコバーを剥いてほおばった。今度のはキャラメルクリーム入り。とろりと焦がした砂糖とミルクの甘みが口いっぱいに広がる。

 こんな霧の濃い日に車で出歩くのは愚の骨頂。だから雑誌社までは歩きで出てきた。
 全天候対応防水加工の黒のナイロンパーカーの前をきっちり閉めて、ポケットに手をつっこみすたすた歩く。

 いつもなら夕方から灯すイルミネーション、だが今日は昼間っから薄暗いのを幸い、既にあちこちの家の庭先でチカチカとオレンジの光が点滅してる。
 磨りガラスみたいに霧のフィルターがかかってくっきりはっきりしたチープな色と形が微妙にぼかされて、まるでレトロな映画のセットみたいに見える。
『作り物のリアリティ』とでも言うか。

 こいつぁ面白い写真が撮れそうだ。プライベートでも何枚か写しとこう。

 ポケットから買ったばかりのトイデジを取り出し、かしゃかしゃ写す。手のひらにすっぽり収まる程度の簡単なつくりのデジカメ。
 高校生の時に手になじんだトイカメラと似た様な絵が撮れる。ちょいとチープで懐かしい、デジタルの割になぜか銀版カメラに近いアナログっぽさのある写真が。

「Trick or treat!」

 既に学校の終わったちっちゃい子らが、親に引率されてお菓子ねだりに回り始めていた。思い思いの扮装に身を包み、オレンジ色のビニールバックやカボチャの形のプラスチックのバケツを手に手にぶらさげて。
 テレビアニメのキャラクター、子猫に王女に妖精。近頃はずいぶん可愛い系の仮装が増えたもんだ。定番の吸血鬼や魔女、ミイラ男に小悪魔も健在だがどこかユーモラスで『怖さ』からはほど遠い。
 ゴムマスクを被った子が少ないのは、顔がまったく見えず防犯上好ましくないからだろう。

 飾り付けの派手……もとい、にぎやかな家はそれだけ配るお菓子のラインナップもゴージャスと相場が決まっている。
 透明なでっかいボウルに山盛りになったチョコバー、キャンディバー、マシュマロ、キャンディ、クッキー。玄関先にスタンバイして待っている。

 安全性を維持するために最近は手作りお菓子は配らないらしい。
 俺が子どもの頃、とびっきり美味いクッキーを焼く若奥さんがいたんだが。今じゃ彼女のとこでも配ってるのは袋詰めの既製品だけなんだろうな。
 ちとさみしいね。

 住宅街はこんな調子でハロウィン真っ盛りだったんだが、マンションの敷地内に入ると急に静かになった。
 ロビーに2、3個上品にカボチャのランタンが転がってる程度か……まあ、あんまし子どものいないとこだし、この手の住居にはそもそも近所の子どもは菓子をねだりには来ない。

 ハロウィンの気配はここからは遠い。

 ………なんてこと思ってたらその日の夕食の食卓に並んだのが、カボチャのパイ(当然甘さ控えめ)にカボチャのスープ、カボチャのサラダと見事にカボチャづくしだったりする訳で。

「ハロウィン限定メニューか?」
「いや、安かったんだ」
「なるほど……」
「でかいの一個丸ごと買ってきた所に、ランタン作ったら中味が余ったってんで、ソフィアから大量にお裾分けをもらってな……」
「そっか……がんばったな、アレックス」
「うん、ディーンが大喜びしてたらしい」

 あとで写真撮らせてもらおう。

「これ美味いな。ひき肉とカボチャの煮込み」
「それ、サリーが教えてくれたんだ」
「ああ、だからソイソース仕立てなんだ」
「うん!」

 シエンが嬉しそうに報告してくれた。
 お湯につけた海藻(コンブと言うらしい)と魚のダシでしっかり下味をつけるのがコツなのだと。

「でね、こっちはパイ皮で包んでみたんだ」
「甘くないパンプキンパイか。おもしろいな」
「これならオティアも食べられるから。ね?」
「……ん……」

 相変わらず食は細いが黙って口に運んでいる。今イチ反応が鈍いっつーか、とろいっつーか……眠たげだが。

 Trick or treat!
 Trick or treat!

 カボチャづくしの料理を食ってる間、頭の中で子どもたちの声が何度もくり返す。

 Trick or treat!
 Trick or treat!

 家に帰って親父とお袋に、袋を開けて報告するのが楽しみだった。
 俺は里子で二人は里親。血のつながった親子ではなかったけれど。親と言うより友だちみたいな人たちだったけど。
 家庭で育つ子どもが経験するであろう楽しみは、でき得る限り体験させてくれた。
 子どもが生まれていたらしたかったことをしているだけ、だからむしろ礼を言うのは自分たちなのだと言って。

(こいつら、ハロウィンの菓子ねだりに出たことってあるんだろうか?)
(多分、無いだろうな)

 夕食の後。
 なけなしの勇気を振り絞り、オティアに話しかけてみる。

「なあ、オティア。この後、何か用事……あるか?」

 頭の上でチリン、とかすかに鈴の音がした。
 壁にとりつけられた真新しいキャットウォークをしゃなりしゃなりと白い猫が歩いて来る。端っこまで来るとぴょん、と飛び降りた。
 カーテンレールの被害を最小限に食い止めるべく設置された猫専用の足場を、このお嬢さんは存分に活用していらっしゃる。
 足元にすりよってきたオーレを抱き上げると、オティアはぼそりと言った。

「別に」

 こっちを見ようともせずに。

「だったら……さ」

 写真は既に帰ってくる途中と夕食前にけっこうな枚数を写しておいた。こいつの目の前でシャッターを切る必要もない。

「ハロウィンのイルミネーションの取材、手伝ってくれないかな、バイト代出すから……」
「………」

 何も言わずにぷい、と部屋を出て行った。
 要するに、あれか。

 Noってことだ。

「………だよ……な。うん、すまなかった」

 曖昧な薄ら笑いを浮かべて未練たらしく見送っていると、入れ違いにシエンが居間に入ってきた。心配そうにこっちを見てる。

(もしかして?)

 その瞬間、一つの可能性が閃いた。
 オティアに無視された理由。
 腕の中に飛び込んできた小さな体。一人分の熱、震えていた細い肩。とくとくと脈打つ鼓動が隠し切れない想いを伝えた。

(シエンがいたから……か?)

 目尻が下がり、浮かべた笑みに苦さが混じる。
 こらえろ、こらえろ、ここで情けない阿呆面さらす訳にはいかんのだ。シエンを泣かせたくないのは俺にしたって同じなんだから……。
 ぐっと飲み込み、何てことないんだって顔に切り替える。ぱたぱたと手を振って平穏な挨拶の言葉を綴った。

「おやすみ」
「ん……おやすみ」

 シエンを気遣ったからなのか。それとも本気で俺の誘いなんざ聞く耳もたなかったのか。
 いずれにせよ……切ない。

 ローゼンベルク家の玄関を出て、エレベーターに向かいながらふと気づいた。
 双子に出会ってから、もうすぐ一年になる。
 新記録だ。一年もの間、理屈も損得も抜きにただ一人の相手に恋い焦がれ、あきらめずに追い続けてきたなんて……。

 断られるの、これで何度めだろう?
 いっそ素直に『お菓子ねだりに回ってみないか』とか、『イルミネーション見物に行かないか』とでも言えば良かったのか。
 ……いや、結局は無視されて終わったろうな。オチは見えてる。シエンの前なら尚更に。

 ああ、まったく何だってにらみつけられる度にどぎまぎしちまうのか。
 にじみ出る凍てつく敵意や怒り、嫌悪、あるいは侮蔑の光に凍える一方で、夜明け前の空みたいな瞳に見とれてしまうのだろう。
 その唇から吐き出されるのが拒絶の言葉とわかり切っているのに。

 それでもお前に向かって呼びかけずにはいられない。
 暗い水のほとりに立って、奥底でじっと身を潜めているお前にいつか、この声が届くんじゃないかと……はかない望みを託さずにはいられない。
 一度でいい。俺を見て、名前を呼んでくれたら。

 魂を売ってもいい。
 ……………………買ってくれる物好きが居ればの話。

 いかんな。どうにも思考が袋小路だ。早いとこ自分以外のだれかと話して、リフレッシュするとしよう。
 エレベーターを五階で降りて、目当ての部屋の呼び鈴を押した。

「やあ、ソフィア」
「あら、メイリールさん、こんばんわ」

 鹿の子色のくるくるした短い巻き毛に濃い茶色の瞳。子鹿のようなオーウェン夫人は目をぱちぱちさせて、ちょこんと首をかしげた。

「えーっと……もしかして、お菓子ねだりにいらっしゃいました?」
「いや、そうじゃないんだ。ちょっと頼みたいことがあるんだけど、いいかな?」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 アポ無しで出向いたにも関わらずアレックスとソフィアは快く俺のリクエストに応じてくれた。
 オーウェン夫妻のお言葉に甘えて自室に戻って仕事用のデジカメと親父の古い一眼レフを持ち出し、心ゆくまで撮影した。
 アレックス渾身のジャック・オ・ランタン、ちびっこ吸血鬼に仮装してごきげんこの上ないディーン。
 そしてプライベート用にアレックスとソフィア、ディーンの3人を。

「ありがとう、おかげでいい絵が撮れた。こっちの家族写真は後でパネルにして届けるよ。ささやかなお礼の印だ」
「ありがとうございます、メイリールさま」
「ディーンはもうお菓子ねだりに回ったのか?」
「うん! 幼稚園のお友達と一緒に!」
「そっかそっか。良かったな」

 鳶色の髪の毛をわしゃわしゃなで回していると、ソフィアがクッキーを盛った皿を手に台所から出てきた。

「いかがですか、メイリールさん」
「……いただきます」

 オーウェン夫人のカボチャのクッキーは、記憶の中の手作りクッキーと同じくらい……いや、それ以上に美味かった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ヒウェルは知る由もなかった。
 まさにこの瞬間、双子の部屋で一つの大事件が勃発していたことを。

 それは生まれて初めての兄弟喧嘩。口火を切ったのは意外にもシエンだった。

 猫を抱いて自分たちの部屋に戻ったオティアは黙ってソファに腰かけ、オーレの背中を撫でていた。
 少し遅れて入ってきたシエンはつかつかと近寄り、正面からオティアと向かい合った。

 紫の瞳が怪訝そうに兄弟を見上げる。一年前の二人はそれこそそっくりだった。着ているものを変えてしまえば入れ替わっても分らないくらいに。
 今はシエンが髪を伸ばしているのと、着ているものにはっきり差異が現れてきたこともあり、見分けがつくようになっていた。
 仮に同じ服を着て、同じ髪型をしていたとしても……ディフはかなりの確率で自分とシエンを見分けるだろう。
 ヒウェルはほぼ確実に。

 何が言いたいのか。何を言おうとしているのか。お互いに言葉にする前に伝わる。小さい頃からずっとそうだった。

「どうしてオティアっていつもそうなの?」
「何が」
「ヒウェルだよ。わかってるでしょ」
「……」

 ぴしゃりと叩き付けるような口調だった。手のひらの下で、びくっとオーレの柔らかな体がすくみあがる。

「さっきだって、あんなふうに無視する必要なかっただろ」
「だったらお前が行けばいい」
「そうじゃないでしょ!」
「………何怒ってるんだよ………」

 何が言いたいのか。何を言おうとしているのか。言葉にする前に伝わる。小さい頃からずっとそうだった。
 そのはずだったのに。

 シエンの心がわからない。急に二人の間に分厚く堅い壁が立ちはだかったようだ。
 それは断じてあってはならない事だった。少なくとも、オティアにとってはそうだった。

「本当は行きたいクセに」
「俺は、別に」
「俺にまで嘘つく気?」
「……俺は……」
「人のせいにしない!」

 吐き出されたのは言葉だけ、だが横っ面をはり倒されたような衝撃が走る。

 お前がヒウェルをどんな風に思ってるか、見ているか、知っている。だから拒んだ。話を聞かずに部屋を出た。
 それなのに。

「まだ何も………」
「そんなことされても、俺がみじめになるだけなんだよ!」
「シエン」

 わからない。
 お前が泣くから、あいつに背を向けている。それなのに、何で、そんな顔するんだ。今にも泣き出しそうだ。

「……ホントは……好きなクセに……」
「……」

 わからない。
 今、この瞬間、シエンが何を思っているのか。ただ伝わってくるのは震える声と痛い言葉、そして涙をいっぱいにためた紫の瞳。

(好き?)
(だれが? だれを?)
(好き?)

 細かく震えながらオティアは首を左右に振った。
 体をくの字に折り曲げると、シエンは全身から声を振り絞り、叫んだ。

「出てってよ! 当分こっちには来ないで!」

 凍りつく。
 目に見える物全て。体を包む空気、手に触れるもの、耳に聞こえる音。ことごとく色あせ、沈黙し、遠ざかる。
 この世で何よりもだれよりも近しい相手から拒絶され、切り離されたその瞬間。
 オティアの胸は引裂きさかれ、乱され、一番奥に潜んでいた透明な結晶が………まっぷたつに折れた。声にならない悲鳴を挙げて。

(シエンが悲しんでる。苦しんでる。だれのせいだ?)
(考えたくない。知りたくない、わかりたくない)

 よろよろと立ち上がる。
 膝から白い猫がすべり降り、とすっと床に降り立った。首輪につけた鈴の音が空ろに響く。

 自分のしてきた努力が全て否定され、捧げてきた相手から拒まれた。
 その瞬間、オティアは存在する意味を見失い、これまで積み重ねてきた時間は全て無為なものと化した。
 
『出てって』

 居間を飛び出し、玄関に走った。いつも出入りする本宅の玄関ではなく、この部屋の本来のドアへ。

 ここに居たくない。居てはいけない。

 周囲の景色が凄まじい早さで後ろに流れてゆく。ドアの閉まる音すら聞こえなかった。

 できるだけ遠くへ。離れなければ。急いで、もっと急いで!
 自分がどこに向かっているのか。何をしているのか。それすらもわからぬまま、オティアは闇雲に走り続けた。
  
 あって当然のもの。
 かけがえの無い絆。
 見えるはずのものが今、見えない。
 
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【4-8-3】しまわれたカップ

2008/12/12 21:50 四話十海
 あたしは猫。
 名前はオーレ。ちっちゃい頃はモニークって呼ばれてた。本のいっぱいある場所で生まれて、おうじさまにお嫁入りしたの。
 おうじさまの名前はオティア。金色の髪に紫の瞳。世界一ハンサムで優しい男の子。

 今日はお家でたいへんなことが起きた。

 シエンとおうじさまがケンカしちゃったの。
 そうよ、きっとあれはケンカだわ! 大きな声出していたもの。シエンがあんな声出すの初めて聞いたからすごくびっくりした。
 しっぽがぞわぞわ。ヒゲがぴりぴり。今すぐ逃げ出して、すみっこに隠れたい気分。でもオティアの膝の上にいたい。ここがいちばん安心できるから。

「出てってよ! 当分こっちには来ないで!」

 オティアは立ち上がると、部屋を飛び出して行った。すごく心配、追いかけようとしたけど目の前でドアが閉まった。
 あの時と同じ……。

 シエンもその後部屋を出て行って、あたしはひとりぼっちになっちゃった。
 どうしよう。
 所長さんに知らせた方がいいのかな。でも居間のドアが閉まってるから、廊下に出られない。向こうのお家にも行けない。

 しかたないから大声で呼んだ。

「なーお、ふなーおおおう」

 ねえ、所長さん! 所長さんってば! こっちに来て! 早く来て!

「なおーっ! なおーっおおう」

 所長さーん! たいへんなんだってば!

 鳴いていたら、シエンが帰ってきた。
 帰ってくるなり、ぱたぱたと部屋を片付け始めた。

「にゃー? にゃー?」

 どうしたの? オティアは? ねえ、オティアは?

「今忙しいから相手できないよ、オーレ」
「みゅ……」

 どうしてベッド片付けちゃうの? どうして、歯ブラシも、着替えも、パジャマもまとめてるの?

「なうー」

 ぐいぐいとシエンの足に体をすりつけて、しっぽでぱたぱたたたく。
 何か変。いつものおそうじとちがう。

「あ………っ、踏んじゃうよ、あぶない」

 シエン、どうしたの? シエン、シエンってば!

「あおー、あおーん」

 どこかに行っちゃうの? お願い、行かないで。

「ごめん、あとで相手してあげるから」
「みゅー……」

 ひょい、と抱き上げられてケージに入れられちゃった。遊んでほしいんじゃないのに。

「なーっ、なーっ、なーっ!」

 あたしをケージに入れたまま、シエンは荷物を抱えて行ったり来たり。向こうのお家とこっちのお家を行ったりきたり。
 その度にちょっとずつ、こっちのお家からシエンの物が減って行く。

 心細い。
 さみしい。
 オティア、おねがい、早く帰ってきて………。

 それが何かはわからない。けれど、いま、たいへんなことがおきている。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ハロウィンってのはどうにも落ち着かない。子どもの頃は仮装して菓子ねだりに回るのが楽しくて。
 ティーンエイジャーになってからは女の子を誘ってパーティーに行くのが楽しくて。
 そして大人になってからは続発する犯罪に備えて。非番の時もいつ呼び出しがかかるかと思うと気が気じゃなかった。

 レオンは今日はロスに出張中。
 夕食が終わってヒウェルも子どもたちも自分の部屋に戻ってしまうと、ぽつんと一人、することもなくとり残される。
 そのくせやたらと神経は研ぎ澄まされて頭がびしびし回る。参ったね……。リラックスしようぜ、ディフォレスト。もう警察官じゃないんだ、応援に呼び出されることもないだろう。

 ここが庭付きの一戸建てならちびっこモンスターどもにイタズラされないように、大鉢いっぱいのお菓子を用意して待ち受ける所だが……。
 マンションの6Fまで菓子をねだりに来る子どもがいるでなし。

 さしあたって朝飯の下準備をして……ああ、明日は水曜日だ、クリーニングに出すものもまとめとこう。
 冷蔵庫の中には大量のカボチャが居座っている。ソフィアからもらった分(ランタン用にくりぬいた中味)と、自分で買った分が1/2。
 カボチャ料理のバリエーションってあと何があったっけ。パスタにでもするか?
 思案しつつ食料品のストックをチェックしていると、何やらぱたぱたと人の動く気配がする。

(何だ?)

 お日柄よくイタズラお化けでもおでましか?

 リビングに行くと、ぱったりとシエンと顔を合わせた。両手いっぱいに抱えているのは自分用の布団と毛布、枕まで乗っかってる。

「シエン?」
「俺、こっちで寝るから」

 そのまますたすたと歩いて行く。廊下を抜けて、6月まで自分たちの寝ていた部屋に向かって。
 俺、と言った。確かに言った。俺『たち』じゃない。
 お前一人でってことなのか、シエン。オティアは一緒じゃないのか?

 双子の部屋からはかすかに、オーレの鳴く声が聞こえる。

 何があったかはわからない。だが、ただごとじゃないのは確かだ。
 後を着いて行く。
 双子の使っていた部屋は、まだ家具もベッドもそのまま残してあった。(もともとあまり物は置いていなかったし)

 ベッドの上には、シエンの服や靴、寝間着、携帯、本、その他身の回りの細々した物が置かれている。とりあえず急いで移動させた、と言った感じだ。既に簡単に掃除をすませてあるようで、空き部屋特有のほこりっぽさは拭い去られている。

「今日一晩だけってつもりじゃ……なさそうだな?」
「当分ね」

 シエンはてきぱきと引っ越し荷物をあるべき場所に収めて行く。服と靴はクローゼットの中、携帯はデスクの上に。ベッドのカバーを外し、シーツを被せて毛布と掛け布団を乗せ、枕を置いて。

 何もかも一人分。どうやら、オティアと一緒の部屋に居たくないらしい。
 次第に整えられて行く部屋を見ながら、必死に頭を巡らせる。自分の経験と照らし合わせて。

 どんな時だったろう………兄弟と同じ部屋で並んで寝るのもイヤだっ! って気分になったのは。

『うるさいぞ。ディー』
『何だよ、バカ兄貴! ジョニーなんかキライだっ』
『言ったな? 絶交だ。もうお前の顔なんか見たくない!』
『ああ、俺だってこれ以上一緒の部屋にいるのは一秒だってお断りだ!』

 原因は、今思えば笑ってしまうようなくだらない事、ささいな事。だけど子どもの時は真剣だった。
 心底腹を立てて、毛布と枕とクマだけ抱えて屋根裏部屋に閉じこもり、一晩過ごした。

 部屋を片付け終わると、シエンは深くため息をついた。
 ……どうしたもんか。ここで下手に『何があった』『相談しろ』と言ったところで『別に』で終わるのがオチだ。

「ココアでも飲むか。それとも、ミルクティの方がいいかな」
「ん………ココア」

 結局、食い物で釣る(いや飲み物か)自分にちょっぴり自己嫌悪を覚える。まぁ、あれだ。あったかいもの飲ませて落ち着かせるのも一つの方法だよな、うん。
 どれぐらいの効果が期待できるかわからんが。

 キッチンに向かう俺の後を、とぼとぼと着いて来る。冷蔵庫から牛乳を取り出し、ミルクパンに注いで火にかける。
 じわじわと沸騰させずにあっためて、ココアを加えてかき混ぜた。隠し味に塩をほんの少し。

「カップ出してくれるか?」

 こくっとうなずくと、シエンは戸棚からマグカップを取り出し、じいっと見つめた。いつも使ってる赤いグリフォンの描かれたカップ。ウェールズの象徴、本当はドラゴン。

「それ、やるよ」
「ほんと? いいの?」
「うん………掃除と、洗濯のお礼っちゃ何だけど」
「ありがとう!」

 できあがったココアを満たしたミルクパンを手に振り向くと、キッチンカウンターの上には無地の白いカップが二つ、並んでいた

「……それ使うのか?」
「ん」

 赤いグリフォンのカップはしまわれていた。普段使わない食器を置いてあるエリアの、一番奥に。
 ああ。そうだったのか。
 兄弟喧嘩の原因、わかってしまった。

 白いカップに熱々のココアを注ぎ、ぽこっとひとさじ、バニラアイスを浮かべる。

「え? ココアにアイス?」
「今日は特別だ。美味いんだぞ。ちょっとぬるくなるけどな」

 シエンは両手で包みこむようにしてカップを持ちあげ、そっと中味を口にふくんだ。

「美味しい……」
「そうか……」

 自分も飲みながら考えた。シエンはここにいる。だけどオティアはどこにいるんだろう?

「なーっ!」

 双子の部屋でかすかに猫の声がする。オーレだ。
 彼女は普段はほとんど大きな声を出さない。いつもはまるで話しかけてるように『みゃっ』と小さく鳴き、何か訴えたい時にピンポイントで「ニャーッ」と高い声を出す。
 オティアが一緒にいるなら、あんな鳴き方はしないはずだ。

 シエンは食卓に肘をつき、だまってココアを飲んでいる。
 思い切って話しかけてみた。

「……………オーレ、鳴いてるな」
「………そうだね」
「……オティア、留守なのか?」
「うん」

 ぎょっとした。
 それを一番恐れていたんだ!

 こんな霧の深い夜に、たった一人で外に出て行ったのか? しかもハロウィンってのは犯罪の発生率がとんでもなく高いんだ!

「この時間に、出かけたのか」
「ヒウェルが行ったからほっといていいよ」
「………………………」

 そっけない言い方だ。やっぱり喧嘩したんだな………。

 兄弟喧嘩のきっかけなんて些細なことだ。互いの考えが噛み合なかったり行き違ったり。
 こうしたい。イヤだ。お前なんかキライだ。
 そして翌日にはけろりと忘れる、幼い頃からそのくり返し。そうして少しずつ学んで行く。自分たちの間のルールと距離感、考え方の違いを。
 年を重ねるに連れて、泣いたり怒ったり取っ組み合いをする前に自分の考えを言葉にして。相手の言葉を聞くことを覚えるのだ。話してもどうしても受け入れられない部分てのもある訳だが、そこはどちらかが譲る。

 少なくとも俺と兄貴の場合はそうだった。

 だが、オティアとシエンは違う。
 この世でただ一人の双子の兄弟。
 何を考えているのか、何を思っているのか、口に出さなくても当たり前のように通じる。両親を亡くしてから、次第に悪化して行く環境の中で互いを唯一の存在として支え合って必死で生きてきた。

 生まれてから十七年。こいつら、今まで喧嘩したことなんかあったんだろうか? 
 些細な言い争いも無しにいきなり兄弟喧嘩が勃発したとなると……心配だ。練習も無しにいきなり本番。しかもティーンエイジャーの喧嘩ってのは深刻だ。
 マンガを貸すの貸さないの、なんてのとはレベルが違う。

 同じ相手を好きになった。
 おそらくは初恋。
 だが相手の男が恋しているのは一人だけ。

 舌の奥にココアの苦さがやけに染みる。

(支えられるだろうか。受けとめられるだろうか)
(この子たちの痛みを、自分の心の揺らぎすら持て余す、すき間だらけの未熟な手で……)

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【4-8-4】深い霧の中で1

2008/12/12 21:51 四話十海
 Trick or Treat!
 Trick or Treat!

 街中至る所で聞こえるお決まりの台詞。音色の違ういくつもの声が、様々な音階で同じ言葉を歌いあげる。
 霧の中に浮かぶジャック・オ・ランタン。つくりもののオバケ、骸骨、コウモリ、吸血鬼。妙にデフォルメされたユーモラスなイルミネーションがちかちかまたたく。
 ミルク色の闇の中をぼんやりと、カラフルに彩られた人影が漂う。仮装した子どもたちだ。

 よりに寄って仮装した人間が街中うようよ練り歩くこんな夜に人探し。
 お面の下に隠れているのは人間だとだれもが無条件に信じ込んでいる。もし、あの中に本物が紛れていても誰も気づかないんじゃなかろうか。

 最初にお化けの仮装をしよう! と言い出した奴は果たして本当に人間だったんだろうか?
 お化けの仮面をかぶって浮かれ騒ぐ人間どもに紛れて自分たちが地上を闊歩するために、こんな風習を流行らせたんじゃあるまいか。

 偽りの扮装仮装、仮面にだまされるな。俺が探しているのはただ一人。くすんだ金髪に優しく煙る紫の瞳。寂しがりのくせに意地っ張りの男の子。

 Trick or Treat!
 Trick or Treat!

 未だかつてハロウィンの夜に、こんなに必死に走り回ったことはない。
 欲しいのはお菓子じゃない。
 探しているのはただ一人。

「くそ……どこ行っちまったんだ、あいつ」

 サンフランシスコは坂の町だ。駆けずり回れば必然的に走って急斜面を上り下りする事になる。闇雲に走り回っていい具合にヒザはガクガク、坂一つ降り切って立ち止まった瞬間、腰がきしんだ。

「ふ……はぁ………」

 いかん……このままじゃ……オティアを見つける前にぶっ倒れる。とりあえず休憩だ、休憩

 外灯にもたれかかって体を支える。濡れた布がぺったり背中にへばりつく。冷たい汗がじっとりとシャツににじんでいた。
 そのくせ眼鏡のレンズは曇ってきやがった。悪態つきつつ外してハンカチで拭う。

 霧に閉ざされていようがいまいが勝手知ったるシスコの街。だが、あてもなく探すのにも大概に限度ってもんがあらあな。
 って言うか既にかなりの時間を無為に過ごしてる気がする。初動捜査の失敗は痛いぜ……。

「やり切れねぇ………」

 小声で悪態をつきつつ眼鏡をかけ直した瞬間、気づいた。俺は最大の手がかりを見落としていたじゃないか!
 どんだけ動揺してるんだ。文明の利器を使え。
 ポケットから携帯を取り出し、かけた。

「出ろよ……出てくれ……」

 ……応答なし。
 立て続けに3回ほどかけてみて思い直す。喧嘩して、衝動的に飛び出したんなら財布も携帯も部屋に置いてったんじゃなかろうか。

「くそっ」

 あきらめるな、まだ手がかりはある。もう一つの番号を呼び出し、かける。
 まさかレオンにラブコール中ってことはないよな。もったいぶらずに早く出ろよ、ディフ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ココアを入れていたカップはとっくに空になっている。シエンはさっきから一言もしゃべらない。
 オーレの声も聞こえなくなった。さすがに鳴き疲れたか、それとも拗ねてふて寝してるのか。
 不意にテーブルの上で携帯が鳴った。シエンがびくっとすくみあがる。

「……大丈夫だから」

 液晶画面に目を走らせ、表示された名前が警察の知人からじゃないことに先ずほっとする。事件の知らせではない……おそらく。
 
「ヒウェル。どうした、居たか?」
「いや、まだだ………シエン、そこに居るか?」
「ああ」
「聞いてくれ。オティアがどこにいるか、わかるかって」

 なるほど、シエンならオティアの存在を感知できると踏んだか。賢明な判断だ。双子は近くに居ればおおよその位置は感じ取れる。
 シエンを麻薬工場から助け出した時も。犯罪組織に囚われたオティアとヒウェルを撮影所から救出した時もそうだった。

「シエン」

 のろのろとぎこちない動きでこっちに顔を向けてきた。

「…………オティアがどこにいるか、わかるか?」

 ほんのちょっと間が空く。何か考えているようだったが、やがて首を横に振った。

「……そっか……」

 伝言をつたえるとヒウェルは電話の向こうで深くため息をついた。奴も途方に暮れてるんだ。
 できるものなら俺も飛び出してあの子を探したい。ああ、くそ、いっそ体が二つあればいいのに!

 いなくなったオティアも心配だが、今、それ以上にシエンのそばを離れたくない。この子を一人にしちゃいけない。
 
 泣きも怒りもせず、無表情にぼんやりしている。それがかえって怖い。喉が震え、不吉な予感に胸がかきむしられる。

「なあ、ディフ。俺、もうほんと、どうしたらいいかわからないんだ。お前オティアが立ち寄りそうな場所、心当たりあるか?」
「よく聞け、ヒウェル」

 ここで俺までうろたえたら収拾がつかない。泣きわめいておろおろするのは、オティアが見つかってからでいい。

「今、俺はここを動けない。動く訳には行かないんだ。オティアはお前が見つけるしかない。OK?」
「……う……でも……」
「警察は事件性がなきゃ積極的には動かない。特に今日はキャパシティの限界ぎりぎりの警戒態勢で、どいつもこいつも切羽詰まってるからな。通報したところで後回しになる可能性は高い。オティアを最優先で探せるのはお前しかいないんだよ。わかるな?」
「………OK、まま」

 声のトーンは沈んだままだが軽口が出たか。いい傾向だ。

「これが普通の子なら友だちの家に転がり込む所だがな。あいつはそこまでする知り合いはほとんどいない」
「……だよ、な。アレックスんとこにはいなかったし」
「可能性があるのはサリーんとこぐらいだが、ここからはかなり距離がある」
「ああ、マリーナ地区まで徒歩で行くのはきついよな」
「衝動的に飛び出した所で人間ってのは意外と見知らぬ場所には行かない。無意識に自分のテリトリー内をうろつくもんだ。通勤ルートを歩いてみろ」
「OK、わかった」
「10分おきに連絡入れろ。いざとなったら警察には俺から連絡する」
「了解」

 ヒウェルと話してるうちに頭が仕事モードに切り替わったようだ。深呼吸して電話をしまって、はたと気づくとシエンがいなかった。
 目の前にはぽつんと空になったカップが残されている。

「シエンっ?」

 この間抜けが!
 どうしても家から外に出てる子の方に意識が行っちまう。シエンはあんなにSOSのサインを出してたってのに!
 慌てて部屋に向かう。

 居てくれよ。
 お前まで家出なんてことになったら………。

「あ………」

 ドアを開け放したまま、灯りもつけずにベッドにぽつんと座っていた。
 良かった。
 一気に膝の力が抜ける……3割ほど。へばーっと盛大に安堵の息をつき、部屋に入った。
 
 紫の瞳がぼんやりと窓の外を見つめている。深い霧に閉ざされた夜を写して。

 静かに近づき、ベッドの端に腰を降ろす。わずかにスプリングが軋み、シエンはのろのろとこっちに視線を向けてきた。

 子どもを育てるのは初めてだ。何がかっこう良くて正しい答えなのかわからない。わからないけど現に今、この子は悲しんでる。苦しんでる。
 どうにかしてやりたい。もっと近づければいいのに。
 
 思い悩みながらも結局、下す選択は『黙って見守る』。

(これって結局は放置してるのと同じじゃないのか?)

 今はまだ拒まれるだけかもしれない。余計なことはするなと恨まれる可能性の方が高い。
 それでもいい。
 報われることなんか期待しちゃいない。ただお前が一人で悲しみに震える時間を少しでも減らしたいんだ。

「喧嘩……したのか?」

 意気込んだ割に実際に言葉にできることがあまりにささやか過ぎ。情けないったらありゃしない。
 シエンは小さくうなずいた。

「……ここに居てもいいかな。オティアが見つかるまで。心配………だから………」

 ちらっとこっちを見たが、結局、シエンは何も言わなかった。黙ったまま、また窓の外に視線を向けてしまった。

(またまちがえた。まったく上っ面だけのきれい事を押し付けて、傷ついた子どもを救えると思ってるのかい?)
(それは正しい答えじゃないね。何てバカな奴だ。余計に事態を悪化させて、助けるつもりで悪い方に突き落としてるよ)

 ほざいてろ。

 脳みその奥で皮肉を吐く何者かに蹴りをかまして黙らせる。

 じたばた足掻いて泥にまみれて前に進むのが俺なんだ。スマートでかっこうよく要領よくってのは性に合わない。やろうったってそもそも無理だ、向いてないんだよ。

「……オティアだけじゃない。お前が心配なんだ。一人にしておけない。放っておけない。だから、ここに居るよ」

 静かな声でゆっくりと言い終える。
 答えは無かった。

 正しいボタンを押した自信はない。そもそも正しい答えが定められてるとも限らない。俺が相手にしているのは一人の生きた人間だ。ゲームでもなけりゃクイズでもない。
 そうとわかっていても自分の無力さが口惜しくて、ちょっとでも油断したが最後、口が歪み、眉根が下がりそうになる。
 だが意地でも悲しい顔なんざするもんか。

 シエンは黙って窓の外に顔を向け、流れる霧を見つめている。探しているものは視線の先には存在しないとわかっている。それでも他に見る場所がないから、目蓋を閉ざさずにいるのか。
 ここに俺が居ても居なくても、お前にとっては同じなのかもしれない。

 暗く塗りつぶされた心の影でだれかが冷ややかにあざ笑う。
 所詮は、俺の独りよがりな自己満足。所詮は他人事、ガラス越しに真っ赤な血の吹き出る傷口に手のひらを当てているに過ぎないのだと。

 それでも、俺はお前を見捨てないよ、シエン。抱きしめることはできなくても、側に居る。

 ……居させてくれ。

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【4-8-5】深い霧の中で2

2008/12/12 21:52 四話十海
 オティアは一人ぼっちで座っていた。
 公園のベンチの上で。

 場所は住宅街の真ん中。少し離れた通りからは、仮装して練り歩く子どもたちのはしゃぎ声が聞こえてくる。家の玄関や庭先にびっしり絡み付く派手なイルミネーションは幸い目に入らない。

 たちこめるミルクのような霧が全てを覆い隠してくれる。公園の木々はぼんやりと黒く霞み、外灯の灯りがほわほわと光の球みたいに見える。
 手のひら、頬、首筋、髪の毛が、水の粒を吸って冷たい。
 
『出てって!』

 自分の肩を抱えてぶるっと震えた。奥歯を噛みしめ、必死にこらえる……今にも喉から飛び出しそうな悲鳴を。

 悲鳴。
 ひめい。
 Scream.

 シエンの声を聞いた瞬間、何も考えられずに飛び出した。空気を切り裂いて響く言葉の意味よりも、声に込められた感情に耐え切れず。
 けれど、ひんやりした霧の指先に頬を撫でられた瞬間、気づいたのだ。あの部屋を出てしまったら、自分はどこにも逃げ込む先なんかないってことに。

 別々に引き離され、ゴミ溜めみたいな施設から『撮影所』に売り飛ばされて。獣以下の男たちに引き裂かれ、嬲られ続けた最悪の日々。シエンに会いたい一心で生きながらえた。

 必死になって探し求めた一番近しい相手に拒まれた今、オティアは生まれて初めての絶望的な孤独を味わっていた。

 暗い闇の中に一人。手を伸ばしてもすがる場所はどこにもない。もがいても、もがいても落ちて行くことすらできず、ただ虚空を漂う。
 こんな時普通は泣くのだろう。
 だけど涙も出やしない。

 冷えきって、乾涸びて、固まっている。
 何も考えたくない。いっそこのまま霧の中に溶けてしまえばいい……。

「なー」

 すりっと、足元にしなやかな生き物がよってきた。

「っ」

 びくっとすくみあがる。
 一瞬、オーレが自分を追いかけてきたのかと思った。しかし、尻尾が無い。

 ほっそりと小柄な猫が一匹、足の間をすり抜けて行く。八の字を描くようにして何度も何度も、くいくいと顔をすり寄せる。
 温かい。
 白い体にバランスよく黒と薄い茶色のぶちが入っていて、尻尾は丸く、短い。まるで兎みたいだ。
 特徴のある容姿に見覚えがある。犬や猫の種類は探偵事務所に置いてあった本で覚えた。

「お前……ジャパニーズ・ボブテイルか」
「にゃっ」

 返事をするように一声鳴くと、三毛猫はぴょん、と膝の上に乗ってきた。

「帰れよ……飼い主が心配するぞ」
「にゃー」

 そのまま、三毛猫はオティアの膝の上で丸くなり、ごろごろと喉を鳴らし始める。

「しょうがないな……」

 手をのばして、そっと撫でた。自分以外の生き物がここにいる。手の中の温もりが、何故だかとても愛おしかった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 携帯が鳴る。ヒウェルから二度目の電話だ……もうあれから10分経ったのか。

「ハロー?」
「まだ、見つかんねぇ………も、お手上げだ。頼む、ディフ。後生だからシエンにかわってくれ!」
「……待ってろ。シエン?」

 シエンは視線をそらしたまま、ぽつりと言った。

「……南の方」
「OK」

 そうだろうな。今、ヒウェルとは話したくないだろう。

「南の方だそうだ」
「わかった、南だなっ」

 それだけ言って電話が切れた。走ってったのか? スタミナ切れ起こすなよ。二重遭難なんてことになったらシャレにならん。
 携帯を閉じてポケットに突っ込む。
 いくらも経たないうちに、また鳴った。今度は短い。メールの着信音だ。

 送信者はヒウェル。文面は至って簡単。

『居た。無事』

「良かった…………」

 深々と息を吐き出す。肩の力がすうっと抜けた。
 シエンが何か言いたげにこっちを見ている。

「見つかったよ。無事だって」
「…………………………そう」

 まばたき一つ。小さく息をつき、また目をそらす。暗がりに慣れた目に白く浮び上がる横顔は、まるで陶器の人形みたいだ。
 一見して無表情、だが皮一枚隔てた内側ではありとあらゆる色の感情がうねり、打ち消し合い、無色に戻る。

「じゃあ、寝てもいいかな」

 一人にしてくれってことか。

「……ああ、もうこんな時間だしな」

 ベッドから降りてドアに向かう。できればちゃんと横になる所まで見届けたいが、さすがにそれは出過ぎた真似と言うものだろう。

「おやすみ」

 返事は無かった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 霧に閉ざされた公園でようやくオティアを見つけた。ベンチの上にぽつんと座って、うつむいて。夕食の時と同じ青いシャツを着て……この霧の中、コートも無しに。
 二度目の電話をかけた交差点からいくらも離れていない。何てこったい……目的地の直前で右往左往してたって訳か。
 苦笑しながらディフに宛ててメールで報告した。

『居た。無事』

 すとん、と何か柔らかくて小さな生き物が地面に飛び降りて走って行く気配がする。そう言えば、この公園の前を通りかかった時、どこからかかすかに猫の声が聞こえたような気がした。
 猫の声に導かれるように足を踏み入れて、そこでオティアを見つけたのだ。

 オティアはじっと猫(らしき生き物)の駆けていった方角を見てる。無表情だけど、かなりがっかりしてるな。
 少なくともあいつが一人じゃなかったことに安堵しながら、近づいた。

 ここまでたどり着く間にさんざん走り回って膝もいい具合にガクガク、腰も背中もふくらはぎも悲鳴を上げていたんだが……現金なものでオティアの姿を一目見た瞬間、しゃっきりと体が伸びた。
 それどころか、歩調が早くなってさえいる。押さえろ、押さえろ、あいつは野生動物と同じ。ここで走ったりしたら逆効果だ。

 そーっと、そーっと……。

「よお」

 声をかけると、オティアはばっと顔を上げてこっちを見た。紫の瞳が震える……俺だとわかったからか? 見知らぬだれかではないと。
 警戒してるのか。ほっとしてるのか。いつもと同じ、完ぺき過ぎるポーカーフェイスでわかりゃしない。
 いっそお前にも猫みたいに尻尾でも生えてりゃいいのに。そうすりゃ角度と毛の逆立ち具合で見当がつく。

「……あ」

 目、逸らしちまうし。ま、いいさ。いつものことだ。

「………兄弟喧嘩したって?」
「別に………」

 返事がかえってきた! 奇跡だ。いや、いや、浮かれるのはまだ早い。夕食後に誘いをかけたときだって最初の一言は同じ台詞だった。
 そろり、そろりと距離を詰め、ベンチに腰かける。 顔が見える程度には近く。警戒されないように適度に間を空けて。だが、隣だ。
 うつむいた顔をそっと横からうかがう。

 何てこったい。眉をぎゅっと八の字に寄せて、細かく震える唇を噛みしめてる。喉の奥からあふれそうな何かを必死でこらえている。

 お前、今にも泣きだしそうじゃないか!

 ひゅーっと息を吸い込むと、オティアは食いしばっていた歯を緩めてかすれる声を絞り出した。

「……なにしに……きたんだよ」
「………追いかけてきた。お前を」
「…………ぅ………」
「………オティア?」

 うつむいたまま、オティアはまばたきした。ひくっと白い喉が震える。だが、唇からこぼれたのは泣き声ではなく言葉だった。かすれて、よじれて、今にも消え入りそうな。

「………はじめて……だったんだ」
「……喧嘩したの………初めてか」
「うん………」

 素直にうなずいた。信じられねえ。お前が今まで俺のしゃべった事に、こんな風に肯定の言葉を返してきたことってあっただろうか。
 そもそも受け答えが行われることすら希少すぎて……。

「………びっくりした?」
「あいつが……何考えてるのか、わかんなくなるなんて……」

 震えていた。

 あって然るべきもの。途切れることなんか絶対ないと信じていたものがいきなりぶっつりと断ち切られたのか。どんなに心細いだろう?

 そろっと手をのばして、髪の毛の先に触れた。湿気を含んだ金色の髪が指先を掠める。俺の手も、震えていた。

 逃げないでくれ。
 お願いだから。

「……大丈夫だよ……オティア。大丈夫だから」
「なにが大丈夫なんだよっ! あんたに何が……わかるっていうんだ……」

 怒鳴りつけられた。
 睨みつけられた。
 だが、逃げてはいない。伸ばした手も振り払われはしなかった。何より今、俺を真正面から見てくれている。その事実にすがりつき、言葉を綴った。
 内心の動揺を押し隠して、精一杯静かに、平穏に。

「そうだな……シエンが何考えてるのかわかんないって言うところは、お前と同じだ。でもな。何度喧嘩しようが、あいつがお前を嫌いになるなんてことはない。それだけはわかる」
「…………あんたに言われたくない」
「悪かったな。でもな。俺、会った時からずーっとお前のことばっかり見てたから……」

 何があっても血がつながってれは絆は断ち切られることはない、なんてのは体のいい甘えに過ぎない。
人間と人間の基本的な意思疎通を横着してそれでも心は通じるんです。言わなくっても愛情は伝わる、わかってくれるんですーなんて。

 ふざんけんな! 手抜きもいいとこだ。

 だが、こいつらは違う。
 たった二人で、痛いほどお互いにすがりつき、支えて、守って、必死で生きてきた。一人だったらとっくに倒れてた。そんなギリギリのラインを一緒にくぐってきたのだから………。

 特異な才能を抜きにしても、強く結びついている。ほとんど息をするのと同じくらい自然に、無意識に、互いに意志を伝えてる。感じ取って、応えようとしてる。

 そう簡単に断ち切られるようなやわな絆じゃない。

(そうあって欲しいって、俺が願ってるだけなのかもしれないが)

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【4-8-7】ひとりぼっちの双子

2008/12/12 21:54 四話十海
 マンションに戻り、エレベーターで6Fに上がるころにはオティアはこっちを見ようともしなくなっていた。
 だが、俺を無視してる訳じゃない。耳まで赤くして、意図的に目をそらせている。空気相手にこんなマネはしない。

 ドアの鍵を開け、ローゼンベルク家の玄関ホールに入ると、奥からざかざかと大またでディフが出てきた。

「………戻ったか」

 オティアはディフの顔を見て、一瞬、何か言いかける。

「なおー。ふなーっ。なーっ、あーおおぉおう」

 はっとオティアは顔をあげて、小走りに走って行く。そりゃそうだ。滅多に鳴かない猫があんな遠吠えするなんてただ事じゃない。
 心配してたんだろうな、オーレ。でも何で迎えに出てこないんだ?

「うわっぷ」

 ばふっとバスタオルが降って来た。一枚、もう一枚。

「拭け」
「さんきゅ……でも、何で二枚も?」
「そっちはオティアの分だ」
「持ってけってことっすね。でも、いいのか?」
「……いいんだよ」

 ディフはそっと目を伏せた。髪の毛と同じ赤みの強いかっ色の睫毛が瞳に被さり、影を落す。

「その方が、あの子が安心する」
「OK、まま。シエンは?」
「もう寝た」
「……そっか」

 だったら静かにしないとな。

 足音をしのばせつつ境目のドアを抜け、双子の部屋に入る。リビングに入って行くと、オティアが猫用ケージのドアを開けていた。
 ……入れられちゃってたのか、オーレ。珍しい。

「なーっ、ふなーっ、なおーっ」

 白い子猫はオティアの足の間を八の字を描いてすり抜け、ぐいぐいと顔をこすりつける。
 くしゅん、とオティアは小さくくしゃみをした。そりゃそうだよな、髪の毛も顔も手も服も、霧の水気でぐっしょりだ。
 ぱふっと金髪頭の上からバスタオルを被せると、不思議そうにこっちを見た。

 何でここにいるんだろう、とでも言いたげに。そりゃそうだ、今まで断りも無しに俺が一人でこの部屋に入ったことはない。
 必ずだれかしらと一緒に入るし、用事のある時は境目のドアんとこで一声かける。

「……いーからまず頭拭け……」

「んみゃーっ」

 なんっつう大声。このちっぽけな体のどこからこんな声出すんだろうなあ、このお姫様は。
 一声鳴くと、オーレは俺が開けっ放しにしてきたドアに向かってとことこと歩き出し、こっちを向いてまたかぱっと口を開けた。

「にゃーっっ!」
「………」

 タオルを被ったまま、オティアはオーレの後をついて行く。それを確認してからオーレはまたててててっと歩き出す。
 何度も振り返り、一声鳴いて、また歩く。

 導かれた先は、双子の寝室。
 9月の木曜日にオティアがベッドに横たわり、点滴を受けていた場所だ。

 ドアは開いていた。

「……」

 一歩中に踏み込むなり、オティアの動きが止まった。

「どうした? ………っ!」

 寝室にはベッドが二つ。だが一つのベッドは空っぽだった。布団も、シーツも、枕も片付けられ、ただむき出しのマットレスだけが残されている。
 シエンの使っていた方だ。

「………………あ」
「オーレ」
「み……」

 足元に寄って来た猫を抱き上げると、オティアは黙ってリビングに戻り、ソファに腰かけた。ほとんど崩れ落ちるようにして……。

 玄関に出迎えたディフは落ち着いていた。つまりシエンは家に居る。ただしオティアと一緒のこの部屋ではなく、本宅に。
 去年の10月の終わりから、今年の6月まで暮らしていた部屋に戻ってしまったんだ。
 オティアを置いて、たった一人で。

 何故。どうして。理由なんて、これ以上ないくらいわかりきってる。
 ごめん、シエン。

「会わせてやるよ。お前の兄弟に」

 一年前、そう誓ったこの俺が、いつも一緒の二人を引き裂いちまった。何て皮肉。何て矛盾。
 それでもオティアに好きだと囁き、受け入れられて。口づけを交わした喜びに胸が震えていた……。
 逃げずに居てくれることを。今、こうして同じ部屋に居るのを許されていることが嬉しくてたまらなかった。

(酷い男だ。とんでもない極悪人)

「………オティア」

 びくん、と肩を震わせ、顔を上げた。あんまり素直に反応がかえってきたもんだから、平静な表情をとりつくろうのすら忘れてしまい………。
 半分泣き出しそうな半端な笑顔でほほ笑みかけてしまう。
 オティアはほんのちょっと不安そうに眉根を寄せたが、結局何も言わずにうつむいてしまった。

「風呂入れ……さもなきゃ、せめて、着替えろ」
「………」

 首をかしげてる。何か考え込んでるようにしきりとまばたきをくり返す。膝の上ではオーレがこっちをじいっと見つめてる。
 ってか、にらんでる。

「……俺は、帰るよ」

 嘘だ。本当は帰りたくなんかない。このまま、ここに居たい。お前のそばに居たい。
 だけど。

「……風呂出たら……ちゃんとベッドに入れよ?」

 小さくうなずくと、猫を抱えたままオティアはふらりと居間を出て行く。少し間をあけてから廊下に出た。どのみち帰るには境目のドアを抜けて一旦本宅に行かなきゃならないんだ。
 通り道だよ。
 付け回してる訳じゃない。

 それでも寝室のドアの前で立ち止まる。クローゼットを開け閉めする気配がして、着替えを抱えたオティアが出てきた。
 ちょっと離れた位置からかがんでのぞきこむと、わずかに怯えた表情を見せた。

「……すまん、近過ぎたな」

 一歩後に下がる。

「おやすみ、オティア」
「……………………………おやすみ」

 バスルームに入って行くのを見届けてから、部屋を出た。
 
 Good night.

 ありふれた挨拶の言葉。それこそ何十回、何百回とくり返してきた言葉。
 たった一言。
 でも、俺を見て、俺に話しかけてくれた。

 おやすみ。

 耳の奥に、心地よく響く。

「………何、にやついてやがる」
「よう、まま」

 ドアの前で待ち構えていやがった。

「あと5分遅けりゃ、耳つかんで引きずり出そうと思った」
「それは、ごかんべん」
「オティアは?」
「風呂入ってる」
「……そっか」

 ほっとディフは安堵のため息をついた。

「シエン、そっちに居るのか?」
「ああ。しばらくこっちで寝起きするそうだ」
「……そっか」

 今度はこっちがため息をつく番だった。

 玄関を出てから、指先で唇に触れる。
 痛みと苦みに苛まれながらも、胸の奥を甘く蕩かすこの喜びだけはごまかしようがない。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ヒウェルが帰るのを見届けてから、寝室に引っ込み電話をかける。だいぶ遅くなっちまった。待ってるだろうな。

「……ハロー」
「レオン……」
「どうかしたかい? ディフ」
「あー、その………」

 やっぱりお前には隠せない。一言話しただけでばれちまったか。
 すうっと深く息をすい、つとめて落ち着いた声で淡々と報告した。
 双子が喧嘩をしたこと。シエンがこっちの部屋に戻ったこと……オティアが家を飛び出したけれど、もう戻ったから心配いらない。

 レオンは時おり相づちを挟みながら聞いてくれた。
 いさめることも、とがめることも、さとすことさえなく、ただ聞いてくれた。

「レオン……明日、何時に帰ってくる?」

 ほんの少しためらってから、続ける。ベッドの傍らに置いた白いライオンに手を伸ばし、きゅっと胸に抱きかかえた。

「会いたいよ……今、お前がここにいないのがさみしい」

 いつもはこんな我がまま口にできない。彼が今居るのはロサンゼルスで、瞬間移動でもしなけりゃそれが叶えられることはない。
 それでも言わずにはいられなかった。

「約束できないけれどなるべく早めに帰るよ」
「うん………ありがとう………………………」

 すがりついた思いは受け入れられ、願っていた以上の言葉を返される。ああ、まったくお前ってやつは。どこまで俺を甘やかしてくれるんだ。

「………愛してる」
「俺も、愛してるよ」
 
  
 ※ ※ ※ ※
 
 
 いつもより長めの電話が終わる頃には、携帯の電池がかなり消耗していた。さすがに充電しとかないとな……。
 時刻は真夜中を少し過ぎた頃。ハロウィンは5分前に終わっていた。
 ようこそ、11月。

 ベッドに入る前に、子どもたちの様子を見ておこう。

 足音を忍ばせ、境目のドアを抜ける。鍵をかけるどころか開けっ放しになっていた。
 寝室のドアも開けっ放し。中をのぞきこむと……

 いないっ?

 心臓が縮み上がる。
 落ち着け、落ち着け。オティアの分の毛布がない。きっと、どこか他の場所で寝てるんだ。ここんとこずっと、変な場所でばかり寝てたみたいだし。

 深呼吸をして、居間に行ってみるが、いない。冷たい汗がにじみ始める。まさか、また家出したのか?
 一部屋ずつ確かめる。
 俺が住んでいた頃、客用の寝室に使っていた部屋。今は予備のベッドが置いてあるものの、ほとんど使われていない。
 
 ……いない。

 書庫。
 扉が少し開いている。猫一匹、通り抜けられるくらいに。

 ああ。
 ここだな。

 ほんの三日前にもシエンが夜遅くに呼びにきたことがあった。オティアが書庫に閉じこもったきり、出てこないと。ドアを開けてみたら……。

 そっとのぞきこむ。
 デスクと本棚のすき間に潜り込むようにしてオティアが眠っていた。床の上で毛布にくるまり、丸くなって。

 やっぱりな。

 足音をしのばせて書庫に入り、オティアに近づく。今夜は冷えるし、この子は冷たい霧の中、ぐっしょり濡れて帰ってきた。
 ちゃんと乾いた寝間着に着替えているようだ。ほんのり石けんの香りがするから、風呂にも入ったんだろう。良かった、ひとまず安心だ。
 腕の間からひょい、と白い猫が起きあがり、こっちを見た。

「み?」

 ほんの少し遅れて飼い主がうっすら目を開けた。

「寒くないか?」

 のろのろとうなずき、起きあがろうと身じろぎした。
 こんな時、いつもは口やかましく言ってきた。
『せめてベッドで寝ろ』と。だけど……今は……。

「いや、いい。そのまま寝てろ」
「………ん」

 力を抜いてぽてりと毛布に顔をつけ、目を閉じる。オーレはしばらくじいっと俺の顔を見上げていたが、やがてくるりと丸くなり、オティアに顔をくっつけて目を閉じた。
 足音をしのばせ、本宅に戻る。

 こっちの部屋にはシエンが一人っきり。
 どっちも俺にとっては『双子の部屋』、なのに今はそれぞれ一人で眠っている。ベッドの上のシエンの姿は、鏡に映したみたいにオティアとそっくり同じだった。
 別々の場所に眠っていても、必死にお互いを求めている。寄り添おうとしている。

 胸の奥が、きりきりと痛む。細い、長い針が差し込まれたようだ。
 ひとりぼっちの双子。原因はわかってる。だからと言ってここでヒウェルを殴るのは筋違いだ。

 そもそもあいつがいなけりゃこの子たちとも巡り会えなかった。双子を再会させたのもヒウェルなら喧嘩の原因になったのもヒウェル。
 皮肉な話だ……。

 寝室に戻り、ベッドに上がる。
 ごく自然に白いライオンを抱きしめていた。

 去年の今頃、俺は病院のベッドの上に居た。見舞いに来たシエンがこいつをプレゼントしてくれた。
 もう、あれから一年経ったんだ……。

 もう、一年なのか。
 まだ、一年なのか。

 俺は少しはあの子たちに近づいているんだろうか?

 お決まりの夜の堂々巡り。考えても答えは出ない。
 ライオンを抱えたまま左手に顔を寄せ、薬指の指輪に口付ける。

 レオン。
 レオン。

 一人では、潰れちまいそうだ………。

「……………レオン」

 世界中のだれよりも今、お前に会いたい。

(ひとりぼっちの双子/了)

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