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ローゼンベルク家の食卓

【4-8-5】深い霧の中で2

2008/12/12 21:52 四話十海
 オティアは一人ぼっちで座っていた。
 公園のベンチの上で。

 場所は住宅街の真ん中。少し離れた通りからは、仮装して練り歩く子どもたちのはしゃぎ声が聞こえてくる。家の玄関や庭先にびっしり絡み付く派手なイルミネーションは幸い目に入らない。

 たちこめるミルクのような霧が全てを覆い隠してくれる。公園の木々はぼんやりと黒く霞み、外灯の灯りがほわほわと光の球みたいに見える。
 手のひら、頬、首筋、髪の毛が、水の粒を吸って冷たい。
 
『出てって!』

 自分の肩を抱えてぶるっと震えた。奥歯を噛みしめ、必死にこらえる……今にも喉から飛び出しそうな悲鳴を。

 悲鳴。
 ひめい。
 Scream.

 シエンの声を聞いた瞬間、何も考えられずに飛び出した。空気を切り裂いて響く言葉の意味よりも、声に込められた感情に耐え切れず。
 けれど、ひんやりした霧の指先に頬を撫でられた瞬間、気づいたのだ。あの部屋を出てしまったら、自分はどこにも逃げ込む先なんかないってことに。

 別々に引き離され、ゴミ溜めみたいな施設から『撮影所』に売り飛ばされて。獣以下の男たちに引き裂かれ、嬲られ続けた最悪の日々。シエンに会いたい一心で生きながらえた。

 必死になって探し求めた一番近しい相手に拒まれた今、オティアは生まれて初めての絶望的な孤独を味わっていた。

 暗い闇の中に一人。手を伸ばしてもすがる場所はどこにもない。もがいても、もがいても落ちて行くことすらできず、ただ虚空を漂う。
 こんな時普通は泣くのだろう。
 だけど涙も出やしない。

 冷えきって、乾涸びて、固まっている。
 何も考えたくない。いっそこのまま霧の中に溶けてしまえばいい……。

「なー」

 すりっと、足元にしなやかな生き物がよってきた。

「っ」

 びくっとすくみあがる。
 一瞬、オーレが自分を追いかけてきたのかと思った。しかし、尻尾が無い。

 ほっそりと小柄な猫が一匹、足の間をすり抜けて行く。八の字を描くようにして何度も何度も、くいくいと顔をすり寄せる。
 温かい。
 白い体にバランスよく黒と薄い茶色のぶちが入っていて、尻尾は丸く、短い。まるで兎みたいだ。
 特徴のある容姿に見覚えがある。犬や猫の種類は探偵事務所に置いてあった本で覚えた。

「お前……ジャパニーズ・ボブテイルか」
「にゃっ」

 返事をするように一声鳴くと、三毛猫はぴょん、と膝の上に乗ってきた。

「帰れよ……飼い主が心配するぞ」
「にゃー」

 そのまま、三毛猫はオティアの膝の上で丸くなり、ごろごろと喉を鳴らし始める。

「しょうがないな……」

 手をのばして、そっと撫でた。自分以外の生き物がここにいる。手の中の温もりが、何故だかとても愛おしかった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 携帯が鳴る。ヒウェルから二度目の電話だ……もうあれから10分経ったのか。

「ハロー?」
「まだ、見つかんねぇ………も、お手上げだ。頼む、ディフ。後生だからシエンにかわってくれ!」
「……待ってろ。シエン?」

 シエンは視線をそらしたまま、ぽつりと言った。

「……南の方」
「OK」

 そうだろうな。今、ヒウェルとは話したくないだろう。

「南の方だそうだ」
「わかった、南だなっ」

 それだけ言って電話が切れた。走ってったのか? スタミナ切れ起こすなよ。二重遭難なんてことになったらシャレにならん。
 携帯を閉じてポケットに突っ込む。
 いくらも経たないうちに、また鳴った。今度は短い。メールの着信音だ。

 送信者はヒウェル。文面は至って簡単。

『居た。無事』

「良かった…………」

 深々と息を吐き出す。肩の力がすうっと抜けた。
 シエンが何か言いたげにこっちを見ている。

「見つかったよ。無事だって」
「…………………………そう」

 まばたき一つ。小さく息をつき、また目をそらす。暗がりに慣れた目に白く浮び上がる横顔は、まるで陶器の人形みたいだ。
 一見して無表情、だが皮一枚隔てた内側ではありとあらゆる色の感情がうねり、打ち消し合い、無色に戻る。

「じゃあ、寝てもいいかな」

 一人にしてくれってことか。

「……ああ、もうこんな時間だしな」

 ベッドから降りてドアに向かう。できればちゃんと横になる所まで見届けたいが、さすがにそれは出過ぎた真似と言うものだろう。

「おやすみ」

 返事は無かった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 霧に閉ざされた公園でようやくオティアを見つけた。ベンチの上にぽつんと座って、うつむいて。夕食の時と同じ青いシャツを着て……この霧の中、コートも無しに。
 二度目の電話をかけた交差点からいくらも離れていない。何てこったい……目的地の直前で右往左往してたって訳か。
 苦笑しながらディフに宛ててメールで報告した。

『居た。無事』

 すとん、と何か柔らかくて小さな生き物が地面に飛び降りて走って行く気配がする。そう言えば、この公園の前を通りかかった時、どこからかかすかに猫の声が聞こえたような気がした。
 猫の声に導かれるように足を踏み入れて、そこでオティアを見つけたのだ。

 オティアはじっと猫(らしき生き物)の駆けていった方角を見てる。無表情だけど、かなりがっかりしてるな。
 少なくともあいつが一人じゃなかったことに安堵しながら、近づいた。

 ここまでたどり着く間にさんざん走り回って膝もいい具合にガクガク、腰も背中もふくらはぎも悲鳴を上げていたんだが……現金なものでオティアの姿を一目見た瞬間、しゃっきりと体が伸びた。
 それどころか、歩調が早くなってさえいる。押さえろ、押さえろ、あいつは野生動物と同じ。ここで走ったりしたら逆効果だ。

 そーっと、そーっと……。

「よお」

 声をかけると、オティアはばっと顔を上げてこっちを見た。紫の瞳が震える……俺だとわかったからか? 見知らぬだれかではないと。
 警戒してるのか。ほっとしてるのか。いつもと同じ、完ぺき過ぎるポーカーフェイスでわかりゃしない。
 いっそお前にも猫みたいに尻尾でも生えてりゃいいのに。そうすりゃ角度と毛の逆立ち具合で見当がつく。

「……あ」

 目、逸らしちまうし。ま、いいさ。いつものことだ。

「………兄弟喧嘩したって?」
「別に………」

 返事がかえってきた! 奇跡だ。いや、いや、浮かれるのはまだ早い。夕食後に誘いをかけたときだって最初の一言は同じ台詞だった。
 そろり、そろりと距離を詰め、ベンチに腰かける。 顔が見える程度には近く。警戒されないように適度に間を空けて。だが、隣だ。
 うつむいた顔をそっと横からうかがう。

 何てこったい。眉をぎゅっと八の字に寄せて、細かく震える唇を噛みしめてる。喉の奥からあふれそうな何かを必死でこらえている。

 お前、今にも泣きだしそうじゃないか!

 ひゅーっと息を吸い込むと、オティアは食いしばっていた歯を緩めてかすれる声を絞り出した。

「……なにしに……きたんだよ」
「………追いかけてきた。お前を」
「…………ぅ………」
「………オティア?」

 うつむいたまま、オティアはまばたきした。ひくっと白い喉が震える。だが、唇からこぼれたのは泣き声ではなく言葉だった。かすれて、よじれて、今にも消え入りそうな。

「………はじめて……だったんだ」
「……喧嘩したの………初めてか」
「うん………」

 素直にうなずいた。信じられねえ。お前が今まで俺のしゃべった事に、こんな風に肯定の言葉を返してきたことってあっただろうか。
 そもそも受け答えが行われることすら希少すぎて……。

「………びっくりした?」
「あいつが……何考えてるのか、わかんなくなるなんて……」

 震えていた。

 あって然るべきもの。途切れることなんか絶対ないと信じていたものがいきなりぶっつりと断ち切られたのか。どんなに心細いだろう?

 そろっと手をのばして、髪の毛の先に触れた。湿気を含んだ金色の髪が指先を掠める。俺の手も、震えていた。

 逃げないでくれ。
 お願いだから。

「……大丈夫だよ……オティア。大丈夫だから」
「なにが大丈夫なんだよっ! あんたに何が……わかるっていうんだ……」

 怒鳴りつけられた。
 睨みつけられた。
 だが、逃げてはいない。伸ばした手も振り払われはしなかった。何より今、俺を真正面から見てくれている。その事実にすがりつき、言葉を綴った。
 内心の動揺を押し隠して、精一杯静かに、平穏に。

「そうだな……シエンが何考えてるのかわかんないって言うところは、お前と同じだ。でもな。何度喧嘩しようが、あいつがお前を嫌いになるなんてことはない。それだけはわかる」
「…………あんたに言われたくない」
「悪かったな。でもな。俺、会った時からずーっとお前のことばっかり見てたから……」

 何があっても血がつながってれは絆は断ち切られることはない、なんてのは体のいい甘えに過ぎない。
人間と人間の基本的な意思疎通を横着してそれでも心は通じるんです。言わなくっても愛情は伝わる、わかってくれるんですーなんて。

 ふざんけんな! 手抜きもいいとこだ。

 だが、こいつらは違う。
 たった二人で、痛いほどお互いにすがりつき、支えて、守って、必死で生きてきた。一人だったらとっくに倒れてた。そんなギリギリのラインを一緒にくぐってきたのだから………。

 特異な才能を抜きにしても、強く結びついている。ほとんど息をするのと同じくらい自然に、無意識に、互いに意志を伝えてる。感じ取って、応えようとしてる。

 そう簡単に断ち切られるようなやわな絆じゃない。

(そうあって欲しいって、俺が願ってるだけなのかもしれないが)

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