ようこそゲストさん

ローゼンベルク家の食卓

【4-8】ひとりぼっちの双子

2008/12/12 21:45 四話十海
  • 2006年10月31日、不思議な力を持った双子と、弁護士と探偵と記者が出会ってからほぼ一年。
  • 時にためらい、時にとまどいながらも次第にお互いの距離感をはかりつつ、徐々に落ち着いてきたかに見える彼らの関係ですが……。
  • それは少しずつ、足音をしのばせて密やかに近づいていた。
  • 深い霧に包まれたハロウィンの夜、ローゼンベルク家の食卓に訪れたのは、いたずらなお化けではなく大きな一つの変化だった。
拍手する

【4-8-0】登場人物

2008/12/12 21:47 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
 
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 フリーの記者。26歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
 オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
 ようやく人物紹介のトップに返り咲いた本編の主な語り手。
 
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
 『無視』するのは『無関心』でいられないから。
 気になるから見ないふり、居ないふりを決め込む。
 ポーカーフェイスの裏側で揺れ動いていた心を隠せない相手がいた。
 
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 外見はオティアとほぼ同じ。
 オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
 また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
 ディフになついている。
 ヒウェルに片想いする一方で、本当はだれよりもわかっている。
 オティアがずっと隠してきた彼への想いを。
 
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 今回はロサンジェルスに出張中。
 
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 多感な子どもたちを抱えて悩みは尽きない。
  
【オーレ/Oule】
 四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
 白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
 最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
 趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
 エドワーズ古書店の看板猫リズの末娘。
 
【アレックス/Alex-J-Owen】
 レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
 有能。万能。41歳。
 灰色の髪に空色の瞳、故郷には両親と弟がいる。
 20歳の時からずっとレオンぼっちゃま一筋の人生。
 今はレオンさまと奥様と双子のために、そして愛する妻と子のためにがんばる。
 息子のためならジャック・オ・ランタンも作ります。
 
【ソフィア/Sophia】
 アレックスの妻。
 鹿の子色のカールした髪と濃い茶色の瞳の子鹿のような女性。
 実家はパン屋さん。
 一度結婚して息子が生まれたが夫は交通事故で死亡、アレックスと再婚する。
 ディフとは主婦友だち。
 こまめに特売の情報を交換し、よく一緒に子連れで買い出しに行っている。
 
【ディーン/Dean】
 ソフィアの連れ子、アレックスは義父に当たる。
 物怖じしない三歳児。

次へ→【4-8-1】兄弟喧嘩

【4-8-1】兄弟喧嘩

2008/12/12 21:49 四話十海
 
 ハロウィンってのはもともとケルトの収穫祭で、大挙して押し寄せる魔物や幽霊を脅かしておっぱらうためにロウソクを灯していた……らしい。

 コラムに記事に売り出し用のチラシのキャッチコピー、果ては店頭にかかげる垂れ幕用の売り文句まで。毎度毎度8月になると、とにかくこの手の文章をやたらと依頼される。
 毎度毎度調べて、書いて、そのたびに細かいことを忘れる。
 何しろお後がつかえているのだ。いちいち前の仕事を引きずっていられない。ハロウィンが終わるやいなや、街中の飾り付けはカボチャから七面鳥へと速やかにバトンタッチ、その次にはサンタとトナカイが控えている。

 ともあれ、2006年のハロウィンは死者の霊魂や魔物の他にもう一つ、大挙して押し寄せたものがあった。

 Image352 1.jpg
 
 サンフランシスコ名物、霧だ。
 海の湿り気をたっぷり含んだミルクのように濃密なやつがすっぽりと街中を覆い尽くし、どっしり腰を据えて居座っている。
 真っ昼間から車はフォグランプを灯してのろのろ最徐行、市内の学校は午前中でおしまい、飛行機は軒並み欠航。

 それでもハロウィン。あくまでハロウィン。

 サンフランシスコの街は(早い所では)十月の半ばを過ぎた頃からちらほらとオレンジと黒に彩られ、イミテーションのカボチャが顔を出し、週末からはどっと一気に派手なイルミネーションが家々の庭先や戸口、門柱に絡み付く。

 老いも若きも猫も杓子も、準備万端整えて、お待ちかねのお祭り騒ぎ。今さらだれにも止められやしない。

 カボチャにコウモリ、魔女に吸血鬼にフランケンシュタインの怪物、矢印みたいな角と尻尾を生やした小悪魔、定番のシーツ被ったお化けに蛍光素材の骸骨……に混じって何故かシスのダース・モール卿もいたりして。
 年々、ケルトの収穫祭からは倍速ダッシュで遠ざかってるような気がしないでもないが、楽しけりゃいいじゃねえか、お祭りなんだし。

 業種を問わず店の中はハロウィン一色、場所によっちゃ職場にまでこの手の飾り物がぶら下がる。
 ご多分に漏れずジョーイの勤める雑誌社もそうだった。仕事の打ち合せに現れた当人は、作り物の斧を頭にぶっ刺して上機嫌。
 毎年のことながら、こんな状況下で真面目に仕事の話をしている自分がちょっぴりアホらしくなるが、『子どもじゃないけど特別に』とか言われてでっかいガラスのボウルに山盛りになったチョコバーをさし出されたのでありがたく、がばっとひとつかみいただいてきた。

「ちょっとは遠慮しようって気にならないの?」
「ならないね。ごちそーさん」

 遠慮のエの字もなく包み紙をぺりりりと剥いて、わしっと一口ほおばった。
 ピーナッツクリーム入りだ。うん、美味い。
 帰り支度をしながらもっしゃもっしゃ口を動かしてると、ぽんと肩を叩かれた。

「それじゃ、よろしく頼むね!」
「ぅおっけー、まかしとけ」

 依頼されたのはハロウィンのイルミネーションの取材。ハロウィン当日の街の中を実際に歩き回って写真を撮る訳だが、社内では当然ハロウィンパーティーなんてものが開かれる訳で。
 だれだって同僚が浮かれ騒いでる時に一人ぽつねんと取材したかないわな。ってな訳で外注ライターの出動となる訳だ。
 思い起こせばばフリーになって間もない頃、ロクな仕事もなくてバイトで食いつないでた俺に友だちのよしみでジョーイが紹介してくれたのもこの仕事だったっけ。

 建物を出る間際に二つ目のチョコバーを剥いてほおばった。今度のはキャラメルクリーム入り。とろりと焦がした砂糖とミルクの甘みが口いっぱいに広がる。

 こんな霧の濃い日に車で出歩くのは愚の骨頂。だから雑誌社までは歩きで出てきた。
 全天候対応防水加工の黒のナイロンパーカーの前をきっちり閉めて、ポケットに手をつっこみすたすた歩く。

 いつもなら夕方から灯すイルミネーション、だが今日は昼間っから薄暗いのを幸い、既にあちこちの家の庭先でチカチカとオレンジの光が点滅してる。
 磨りガラスみたいに霧のフィルターがかかってくっきりはっきりしたチープな色と形が微妙にぼかされて、まるでレトロな映画のセットみたいに見える。
『作り物のリアリティ』とでも言うか。

 こいつぁ面白い写真が撮れそうだ。プライベートでも何枚か写しとこう。

 ポケットから買ったばかりのトイデジを取り出し、かしゃかしゃ写す。手のひらにすっぽり収まる程度の簡単なつくりのデジカメ。
 高校生の時に手になじんだトイカメラと似た様な絵が撮れる。ちょいとチープで懐かしい、デジタルの割になぜか銀版カメラに近いアナログっぽさのある写真が。

「Trick or treat!」

 既に学校の終わったちっちゃい子らが、親に引率されてお菓子ねだりに回り始めていた。思い思いの扮装に身を包み、オレンジ色のビニールバックやカボチャの形のプラスチックのバケツを手に手にぶらさげて。
 テレビアニメのキャラクター、子猫に王女に妖精。近頃はずいぶん可愛い系の仮装が増えたもんだ。定番の吸血鬼や魔女、ミイラ男に小悪魔も健在だがどこかユーモラスで『怖さ』からはほど遠い。
 ゴムマスクを被った子が少ないのは、顔がまったく見えず防犯上好ましくないからだろう。

 飾り付けの派手……もとい、にぎやかな家はそれだけ配るお菓子のラインナップもゴージャスと相場が決まっている。
 透明なでっかいボウルに山盛りになったチョコバー、キャンディバー、マシュマロ、キャンディ、クッキー。玄関先にスタンバイして待っている。

 安全性を維持するために最近は手作りお菓子は配らないらしい。
 俺が子どもの頃、とびっきり美味いクッキーを焼く若奥さんがいたんだが。今じゃ彼女のとこでも配ってるのは袋詰めの既製品だけなんだろうな。
 ちとさみしいね。

 住宅街はこんな調子でハロウィン真っ盛りだったんだが、マンションの敷地内に入ると急に静かになった。
 ロビーに2、3個上品にカボチャのランタンが転がってる程度か……まあ、あんまし子どものいないとこだし、この手の住居にはそもそも近所の子どもは菓子をねだりには来ない。

 ハロウィンの気配はここからは遠い。

 ………なんてこと思ってたらその日の夕食の食卓に並んだのが、カボチャのパイ(当然甘さ控えめ)にカボチャのスープ、カボチャのサラダと見事にカボチャづくしだったりする訳で。

「ハロウィン限定メニューか?」
「いや、安かったんだ」
「なるほど……」
「でかいの一個丸ごと買ってきた所に、ランタン作ったら中味が余ったってんで、ソフィアから大量にお裾分けをもらってな……」
「そっか……がんばったな、アレックス」
「うん、ディーンが大喜びしてたらしい」

 あとで写真撮らせてもらおう。

「これ美味いな。ひき肉とカボチャの煮込み」
「それ、サリーが教えてくれたんだ」
「ああ、だからソイソース仕立てなんだ」
「うん!」

 シエンが嬉しそうに報告してくれた。
 お湯につけた海藻(コンブと言うらしい)と魚のダシでしっかり下味をつけるのがコツなのだと。

「でね、こっちはパイ皮で包んでみたんだ」
「甘くないパンプキンパイか。おもしろいな」
「これならオティアも食べられるから。ね?」
「……ん……」

 相変わらず食は細いが黙って口に運んでいる。今イチ反応が鈍いっつーか、とろいっつーか……眠たげだが。

 Trick or treat!
 Trick or treat!

 カボチャづくしの料理を食ってる間、頭の中で子どもたちの声が何度もくり返す。

 Trick or treat!
 Trick or treat!

 家に帰って親父とお袋に、袋を開けて報告するのが楽しみだった。
 俺は里子で二人は里親。血のつながった親子ではなかったけれど。親と言うより友だちみたいな人たちだったけど。
 家庭で育つ子どもが経験するであろう楽しみは、でき得る限り体験させてくれた。
 子どもが生まれていたらしたかったことをしているだけ、だからむしろ礼を言うのは自分たちなのだと言って。

(こいつら、ハロウィンの菓子ねだりに出たことってあるんだろうか?)
(多分、無いだろうな)

 夕食の後。
 なけなしの勇気を振り絞り、オティアに話しかけてみる。

「なあ、オティア。この後、何か用事……あるか?」

 頭の上でチリン、とかすかに鈴の音がした。
 壁にとりつけられた真新しいキャットウォークをしゃなりしゃなりと白い猫が歩いて来る。端っこまで来るとぴょん、と飛び降りた。
 カーテンレールの被害を最小限に食い止めるべく設置された猫専用の足場を、このお嬢さんは存分に活用していらっしゃる。
 足元にすりよってきたオーレを抱き上げると、オティアはぼそりと言った。

「別に」

 こっちを見ようともせずに。

「だったら……さ」

 写真は既に帰ってくる途中と夕食前にけっこうな枚数を写しておいた。こいつの目の前でシャッターを切る必要もない。

「ハロウィンのイルミネーションの取材、手伝ってくれないかな、バイト代出すから……」
「………」

 何も言わずにぷい、と部屋を出て行った。
 要するに、あれか。

 Noってことだ。

「………だよ……な。うん、すまなかった」

 曖昧な薄ら笑いを浮かべて未練たらしく見送っていると、入れ違いにシエンが居間に入ってきた。心配そうにこっちを見てる。

(もしかして?)

 その瞬間、一つの可能性が閃いた。
 オティアに無視された理由。
 腕の中に飛び込んできた小さな体。一人分の熱、震えていた細い肩。とくとくと脈打つ鼓動が隠し切れない想いを伝えた。

(シエンがいたから……か?)

 目尻が下がり、浮かべた笑みに苦さが混じる。
 こらえろ、こらえろ、ここで情けない阿呆面さらす訳にはいかんのだ。シエンを泣かせたくないのは俺にしたって同じなんだから……。
 ぐっと飲み込み、何てことないんだって顔に切り替える。ぱたぱたと手を振って平穏な挨拶の言葉を綴った。

「おやすみ」
「ん……おやすみ」

 シエンを気遣ったからなのか。それとも本気で俺の誘いなんざ聞く耳もたなかったのか。
 いずれにせよ……切ない。

 ローゼンベルク家の玄関を出て、エレベーターに向かいながらふと気づいた。
 双子に出会ってから、もうすぐ一年になる。
 新記録だ。一年もの間、理屈も損得も抜きにただ一人の相手に恋い焦がれ、あきらめずに追い続けてきたなんて……。

 断られるの、これで何度めだろう?
 いっそ素直に『お菓子ねだりに回ってみないか』とか、『イルミネーション見物に行かないか』とでも言えば良かったのか。
 ……いや、結局は無視されて終わったろうな。オチは見えてる。シエンの前なら尚更に。

 ああ、まったく何だってにらみつけられる度にどぎまぎしちまうのか。
 にじみ出る凍てつく敵意や怒り、嫌悪、あるいは侮蔑の光に凍える一方で、夜明け前の空みたいな瞳に見とれてしまうのだろう。
 その唇から吐き出されるのが拒絶の言葉とわかり切っているのに。

 それでもお前に向かって呼びかけずにはいられない。
 暗い水のほとりに立って、奥底でじっと身を潜めているお前にいつか、この声が届くんじゃないかと……はかない望みを託さずにはいられない。
 一度でいい。俺を見て、名前を呼んでくれたら。

 魂を売ってもいい。
 ……………………買ってくれる物好きが居ればの話。

 いかんな。どうにも思考が袋小路だ。早いとこ自分以外のだれかと話して、リフレッシュするとしよう。
 エレベーターを五階で降りて、目当ての部屋の呼び鈴を押した。

「やあ、ソフィア」
「あら、メイリールさん、こんばんわ」

 鹿の子色のくるくるした短い巻き毛に濃い茶色の瞳。子鹿のようなオーウェン夫人は目をぱちぱちさせて、ちょこんと首をかしげた。

「えーっと……もしかして、お菓子ねだりにいらっしゃいました?」
「いや、そうじゃないんだ。ちょっと頼みたいことがあるんだけど、いいかな?」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 アポ無しで出向いたにも関わらずアレックスとソフィアは快く俺のリクエストに応じてくれた。
 オーウェン夫妻のお言葉に甘えて自室に戻って仕事用のデジカメと親父の古い一眼レフを持ち出し、心ゆくまで撮影した。
 アレックス渾身のジャック・オ・ランタン、ちびっこ吸血鬼に仮装してごきげんこの上ないディーン。
 そしてプライベート用にアレックスとソフィア、ディーンの3人を。

「ありがとう、おかげでいい絵が撮れた。こっちの家族写真は後でパネルにして届けるよ。ささやかなお礼の印だ」
「ありがとうございます、メイリールさま」
「ディーンはもうお菓子ねだりに回ったのか?」
「うん! 幼稚園のお友達と一緒に!」
「そっかそっか。良かったな」

 鳶色の髪の毛をわしゃわしゃなで回していると、ソフィアがクッキーを盛った皿を手に台所から出てきた。

「いかがですか、メイリールさん」
「……いただきます」

 オーウェン夫人のカボチャのクッキーは、記憶の中の手作りクッキーと同じくらい……いや、それ以上に美味かった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ヒウェルは知る由もなかった。
 まさにこの瞬間、双子の部屋で一つの大事件が勃発していたことを。

 それは生まれて初めての兄弟喧嘩。口火を切ったのは意外にもシエンだった。

 猫を抱いて自分たちの部屋に戻ったオティアは黙ってソファに腰かけ、オーレの背中を撫でていた。
 少し遅れて入ってきたシエンはつかつかと近寄り、正面からオティアと向かい合った。

 紫の瞳が怪訝そうに兄弟を見上げる。一年前の二人はそれこそそっくりだった。着ているものを変えてしまえば入れ替わっても分らないくらいに。
 今はシエンが髪を伸ばしているのと、着ているものにはっきり差異が現れてきたこともあり、見分けがつくようになっていた。
 仮に同じ服を着て、同じ髪型をしていたとしても……ディフはかなりの確率で自分とシエンを見分けるだろう。
 ヒウェルはほぼ確実に。

 何が言いたいのか。何を言おうとしているのか。お互いに言葉にする前に伝わる。小さい頃からずっとそうだった。

「どうしてオティアっていつもそうなの?」
「何が」
「ヒウェルだよ。わかってるでしょ」
「……」

 ぴしゃりと叩き付けるような口調だった。手のひらの下で、びくっとオーレの柔らかな体がすくみあがる。

「さっきだって、あんなふうに無視する必要なかっただろ」
「だったらお前が行けばいい」
「そうじゃないでしょ!」
「………何怒ってるんだよ………」

 何が言いたいのか。何を言おうとしているのか。言葉にする前に伝わる。小さい頃からずっとそうだった。
 そのはずだったのに。

 シエンの心がわからない。急に二人の間に分厚く堅い壁が立ちはだかったようだ。
 それは断じてあってはならない事だった。少なくとも、オティアにとってはそうだった。

「本当は行きたいクセに」
「俺は、別に」
「俺にまで嘘つく気?」
「……俺は……」
「人のせいにしない!」

 吐き出されたのは言葉だけ、だが横っ面をはり倒されたような衝撃が走る。

 お前がヒウェルをどんな風に思ってるか、見ているか、知っている。だから拒んだ。話を聞かずに部屋を出た。
 それなのに。

「まだ何も………」
「そんなことされても、俺がみじめになるだけなんだよ!」
「シエン」

 わからない。
 お前が泣くから、あいつに背を向けている。それなのに、何で、そんな顔するんだ。今にも泣き出しそうだ。

「……ホントは……好きなクセに……」
「……」

 わからない。
 今、この瞬間、シエンが何を思っているのか。ただ伝わってくるのは震える声と痛い言葉、そして涙をいっぱいにためた紫の瞳。

(好き?)
(だれが? だれを?)
(好き?)

 細かく震えながらオティアは首を左右に振った。
 体をくの字に折り曲げると、シエンは全身から声を振り絞り、叫んだ。

「出てってよ! 当分こっちには来ないで!」

 凍りつく。
 目に見える物全て。体を包む空気、手に触れるもの、耳に聞こえる音。ことごとく色あせ、沈黙し、遠ざかる。
 この世で何よりもだれよりも近しい相手から拒絶され、切り離されたその瞬間。
 オティアの胸は引裂きさかれ、乱され、一番奥に潜んでいた透明な結晶が………まっぷたつに折れた。声にならない悲鳴を挙げて。

(シエンが悲しんでる。苦しんでる。だれのせいだ?)
(考えたくない。知りたくない、わかりたくない)

 よろよろと立ち上がる。
 膝から白い猫がすべり降り、とすっと床に降り立った。首輪につけた鈴の音が空ろに響く。

 自分のしてきた努力が全て否定され、捧げてきた相手から拒まれた。
 その瞬間、オティアは存在する意味を見失い、これまで積み重ねてきた時間は全て無為なものと化した。
 
『出てって』

 居間を飛び出し、玄関に走った。いつも出入りする本宅の玄関ではなく、この部屋の本来のドアへ。

 ここに居たくない。居てはいけない。

 周囲の景色が凄まじい早さで後ろに流れてゆく。ドアの閉まる音すら聞こえなかった。

 できるだけ遠くへ。離れなければ。急いで、もっと急いで!
 自分がどこに向かっているのか。何をしているのか。それすらもわからぬまま、オティアは闇雲に走り続けた。
  
 あって当然のもの。
 かけがえの無い絆。
 見えるはずのものが今、見えない。
 
次へ→【4-8-2】伏せられた写真

【4-8-3】しまわれたカップ

2008/12/12 21:50 四話十海
 あたしは猫。
 名前はオーレ。ちっちゃい頃はモニークって呼ばれてた。本のいっぱいある場所で生まれて、おうじさまにお嫁入りしたの。
 おうじさまの名前はオティア。金色の髪に紫の瞳。世界一ハンサムで優しい男の子。

 今日はお家でたいへんなことが起きた。

 シエンとおうじさまがケンカしちゃったの。
 そうよ、きっとあれはケンカだわ! 大きな声出していたもの。シエンがあんな声出すの初めて聞いたからすごくびっくりした。
 しっぽがぞわぞわ。ヒゲがぴりぴり。今すぐ逃げ出して、すみっこに隠れたい気分。でもオティアの膝の上にいたい。ここがいちばん安心できるから。

「出てってよ! 当分こっちには来ないで!」

 オティアは立ち上がると、部屋を飛び出して行った。すごく心配、追いかけようとしたけど目の前でドアが閉まった。
 あの時と同じ……。

 シエンもその後部屋を出て行って、あたしはひとりぼっちになっちゃった。
 どうしよう。
 所長さんに知らせた方がいいのかな。でも居間のドアが閉まってるから、廊下に出られない。向こうのお家にも行けない。

 しかたないから大声で呼んだ。

「なーお、ふなーおおおう」

 ねえ、所長さん! 所長さんってば! こっちに来て! 早く来て!

「なおーっ! なおーっおおう」

 所長さーん! たいへんなんだってば!

 鳴いていたら、シエンが帰ってきた。
 帰ってくるなり、ぱたぱたと部屋を片付け始めた。

「にゃー? にゃー?」

 どうしたの? オティアは? ねえ、オティアは?

「今忙しいから相手できないよ、オーレ」
「みゅ……」

 どうしてベッド片付けちゃうの? どうして、歯ブラシも、着替えも、パジャマもまとめてるの?

「なうー」

 ぐいぐいとシエンの足に体をすりつけて、しっぽでぱたぱたたたく。
 何か変。いつものおそうじとちがう。

「あ………っ、踏んじゃうよ、あぶない」

 シエン、どうしたの? シエン、シエンってば!

「あおー、あおーん」

 どこかに行っちゃうの? お願い、行かないで。

「ごめん、あとで相手してあげるから」
「みゅー……」

 ひょい、と抱き上げられてケージに入れられちゃった。遊んでほしいんじゃないのに。

「なーっ、なーっ、なーっ!」

 あたしをケージに入れたまま、シエンは荷物を抱えて行ったり来たり。向こうのお家とこっちのお家を行ったりきたり。
 その度にちょっとずつ、こっちのお家からシエンの物が減って行く。

 心細い。
 さみしい。
 オティア、おねがい、早く帰ってきて………。

 それが何かはわからない。けれど、いま、たいへんなことがおきている。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ハロウィンってのはどうにも落ち着かない。子どもの頃は仮装して菓子ねだりに回るのが楽しくて。
 ティーンエイジャーになってからは女の子を誘ってパーティーに行くのが楽しくて。
 そして大人になってからは続発する犯罪に備えて。非番の時もいつ呼び出しがかかるかと思うと気が気じゃなかった。

 レオンは今日はロスに出張中。
 夕食が終わってヒウェルも子どもたちも自分の部屋に戻ってしまうと、ぽつんと一人、することもなくとり残される。
 そのくせやたらと神経は研ぎ澄まされて頭がびしびし回る。参ったね……。リラックスしようぜ、ディフォレスト。もう警察官じゃないんだ、応援に呼び出されることもないだろう。

 ここが庭付きの一戸建てならちびっこモンスターどもにイタズラされないように、大鉢いっぱいのお菓子を用意して待ち受ける所だが……。
 マンションの6Fまで菓子をねだりに来る子どもがいるでなし。

 さしあたって朝飯の下準備をして……ああ、明日は水曜日だ、クリーニングに出すものもまとめとこう。
 冷蔵庫の中には大量のカボチャが居座っている。ソフィアからもらった分(ランタン用にくりぬいた中味)と、自分で買った分が1/2。
 カボチャ料理のバリエーションってあと何があったっけ。パスタにでもするか?
 思案しつつ食料品のストックをチェックしていると、何やらぱたぱたと人の動く気配がする。

(何だ?)

 お日柄よくイタズラお化けでもおでましか?

 リビングに行くと、ぱったりとシエンと顔を合わせた。両手いっぱいに抱えているのは自分用の布団と毛布、枕まで乗っかってる。

「シエン?」
「俺、こっちで寝るから」

 そのまますたすたと歩いて行く。廊下を抜けて、6月まで自分たちの寝ていた部屋に向かって。
 俺、と言った。確かに言った。俺『たち』じゃない。
 お前一人でってことなのか、シエン。オティアは一緒じゃないのか?

 双子の部屋からはかすかに、オーレの鳴く声が聞こえる。

 何があったかはわからない。だが、ただごとじゃないのは確かだ。
 後を着いて行く。
 双子の使っていた部屋は、まだ家具もベッドもそのまま残してあった。(もともとあまり物は置いていなかったし)

 ベッドの上には、シエンの服や靴、寝間着、携帯、本、その他身の回りの細々した物が置かれている。とりあえず急いで移動させた、と言った感じだ。既に簡単に掃除をすませてあるようで、空き部屋特有のほこりっぽさは拭い去られている。

「今日一晩だけってつもりじゃ……なさそうだな?」
「当分ね」

 シエンはてきぱきと引っ越し荷物をあるべき場所に収めて行く。服と靴はクローゼットの中、携帯はデスクの上に。ベッドのカバーを外し、シーツを被せて毛布と掛け布団を乗せ、枕を置いて。

 何もかも一人分。どうやら、オティアと一緒の部屋に居たくないらしい。
 次第に整えられて行く部屋を見ながら、必死に頭を巡らせる。自分の経験と照らし合わせて。

 どんな時だったろう………兄弟と同じ部屋で並んで寝るのもイヤだっ! って気分になったのは。

『うるさいぞ。ディー』
『何だよ、バカ兄貴! ジョニーなんかキライだっ』
『言ったな? 絶交だ。もうお前の顔なんか見たくない!』
『ああ、俺だってこれ以上一緒の部屋にいるのは一秒だってお断りだ!』

 原因は、今思えば笑ってしまうようなくだらない事、ささいな事。だけど子どもの時は真剣だった。
 心底腹を立てて、毛布と枕とクマだけ抱えて屋根裏部屋に閉じこもり、一晩過ごした。

 部屋を片付け終わると、シエンは深くため息をついた。
 ……どうしたもんか。ここで下手に『何があった』『相談しろ』と言ったところで『別に』で終わるのがオチだ。

「ココアでも飲むか。それとも、ミルクティの方がいいかな」
「ん………ココア」

 結局、食い物で釣る(いや飲み物か)自分にちょっぴり自己嫌悪を覚える。まぁ、あれだ。あったかいもの飲ませて落ち着かせるのも一つの方法だよな、うん。
 どれぐらいの効果が期待できるかわからんが。

 キッチンに向かう俺の後を、とぼとぼと着いて来る。冷蔵庫から牛乳を取り出し、ミルクパンに注いで火にかける。
 じわじわと沸騰させずにあっためて、ココアを加えてかき混ぜた。隠し味に塩をほんの少し。

「カップ出してくれるか?」

 こくっとうなずくと、シエンは戸棚からマグカップを取り出し、じいっと見つめた。いつも使ってる赤いグリフォンの描かれたカップ。ウェールズの象徴、本当はドラゴン。

「それ、やるよ」
「ほんと? いいの?」
「うん………掃除と、洗濯のお礼っちゃ何だけど」
「ありがとう!」

 できあがったココアを満たしたミルクパンを手に振り向くと、キッチンカウンターの上には無地の白いカップが二つ、並んでいた

「……それ使うのか?」
「ん」

 赤いグリフォンのカップはしまわれていた。普段使わない食器を置いてあるエリアの、一番奥に。
 ああ。そうだったのか。
 兄弟喧嘩の原因、わかってしまった。

 白いカップに熱々のココアを注ぎ、ぽこっとひとさじ、バニラアイスを浮かべる。

「え? ココアにアイス?」
「今日は特別だ。美味いんだぞ。ちょっとぬるくなるけどな」

 シエンは両手で包みこむようにしてカップを持ちあげ、そっと中味を口にふくんだ。

「美味しい……」
「そうか……」

 自分も飲みながら考えた。シエンはここにいる。だけどオティアはどこにいるんだろう?

「なーっ!」

 双子の部屋でかすかに猫の声がする。オーレだ。
 彼女は普段はほとんど大きな声を出さない。いつもはまるで話しかけてるように『みゃっ』と小さく鳴き、何か訴えたい時にピンポイントで「ニャーッ」と高い声を出す。
 オティアが一緒にいるなら、あんな鳴き方はしないはずだ。

 シエンは食卓に肘をつき、だまってココアを飲んでいる。
 思い切って話しかけてみた。

「……………オーレ、鳴いてるな」
「………そうだね」
「……オティア、留守なのか?」
「うん」

 ぎょっとした。
 それを一番恐れていたんだ!

 こんな霧の深い夜に、たった一人で外に出て行ったのか? しかもハロウィンってのは犯罪の発生率がとんでもなく高いんだ!

「この時間に、出かけたのか」
「ヒウェルが行ったからほっといていいよ」
「………………………」

 そっけない言い方だ。やっぱり喧嘩したんだな………。

 兄弟喧嘩のきっかけなんて些細なことだ。互いの考えが噛み合なかったり行き違ったり。
 こうしたい。イヤだ。お前なんかキライだ。
 そして翌日にはけろりと忘れる、幼い頃からそのくり返し。そうして少しずつ学んで行く。自分たちの間のルールと距離感、考え方の違いを。
 年を重ねるに連れて、泣いたり怒ったり取っ組み合いをする前に自分の考えを言葉にして。相手の言葉を聞くことを覚えるのだ。話してもどうしても受け入れられない部分てのもある訳だが、そこはどちらかが譲る。

 少なくとも俺と兄貴の場合はそうだった。

 だが、オティアとシエンは違う。
 この世でただ一人の双子の兄弟。
 何を考えているのか、何を思っているのか、口に出さなくても当たり前のように通じる。両親を亡くしてから、次第に悪化して行く環境の中で互いを唯一の存在として支え合って必死で生きてきた。

 生まれてから十七年。こいつら、今まで喧嘩したことなんかあったんだろうか? 
 些細な言い争いも無しにいきなり兄弟喧嘩が勃発したとなると……心配だ。練習も無しにいきなり本番。しかもティーンエイジャーの喧嘩ってのは深刻だ。
 マンガを貸すの貸さないの、なんてのとはレベルが違う。

 同じ相手を好きになった。
 おそらくは初恋。
 だが相手の男が恋しているのは一人だけ。

 舌の奥にココアの苦さがやけに染みる。

(支えられるだろうか。受けとめられるだろうか)
(この子たちの痛みを、自分の心の揺らぎすら持て余す、すき間だらけの未熟な手で……)

次へ→【4-8-4】深い霧の中で1

【4-8-4】深い霧の中で1

2008/12/12 21:51 四話十海
 Trick or Treat!
 Trick or Treat!

 街中至る所で聞こえるお決まりの台詞。音色の違ういくつもの声が、様々な音階で同じ言葉を歌いあげる。
 霧の中に浮かぶジャック・オ・ランタン。つくりもののオバケ、骸骨、コウモリ、吸血鬼。妙にデフォルメされたユーモラスなイルミネーションがちかちかまたたく。
 ミルク色の闇の中をぼんやりと、カラフルに彩られた人影が漂う。仮装した子どもたちだ。

 よりに寄って仮装した人間が街中うようよ練り歩くこんな夜に人探し。
 お面の下に隠れているのは人間だとだれもが無条件に信じ込んでいる。もし、あの中に本物が紛れていても誰も気づかないんじゃなかろうか。

 最初にお化けの仮装をしよう! と言い出した奴は果たして本当に人間だったんだろうか?
 お化けの仮面をかぶって浮かれ騒ぐ人間どもに紛れて自分たちが地上を闊歩するために、こんな風習を流行らせたんじゃあるまいか。

 偽りの扮装仮装、仮面にだまされるな。俺が探しているのはただ一人。くすんだ金髪に優しく煙る紫の瞳。寂しがりのくせに意地っ張りの男の子。

 Trick or Treat!
 Trick or Treat!

 未だかつてハロウィンの夜に、こんなに必死に走り回ったことはない。
 欲しいのはお菓子じゃない。
 探しているのはただ一人。

「くそ……どこ行っちまったんだ、あいつ」

 サンフランシスコは坂の町だ。駆けずり回れば必然的に走って急斜面を上り下りする事になる。闇雲に走り回っていい具合にヒザはガクガク、坂一つ降り切って立ち止まった瞬間、腰がきしんだ。

「ふ……はぁ………」

 いかん……このままじゃ……オティアを見つける前にぶっ倒れる。とりあえず休憩だ、休憩

 外灯にもたれかかって体を支える。濡れた布がぺったり背中にへばりつく。冷たい汗がじっとりとシャツににじんでいた。
 そのくせ眼鏡のレンズは曇ってきやがった。悪態つきつつ外してハンカチで拭う。

 霧に閉ざされていようがいまいが勝手知ったるシスコの街。だが、あてもなく探すのにも大概に限度ってもんがあらあな。
 って言うか既にかなりの時間を無為に過ごしてる気がする。初動捜査の失敗は痛いぜ……。

「やり切れねぇ………」

 小声で悪態をつきつつ眼鏡をかけ直した瞬間、気づいた。俺は最大の手がかりを見落としていたじゃないか!
 どんだけ動揺してるんだ。文明の利器を使え。
 ポケットから携帯を取り出し、かけた。

「出ろよ……出てくれ……」

 ……応答なし。
 立て続けに3回ほどかけてみて思い直す。喧嘩して、衝動的に飛び出したんなら財布も携帯も部屋に置いてったんじゃなかろうか。

「くそっ」

 あきらめるな、まだ手がかりはある。もう一つの番号を呼び出し、かける。
 まさかレオンにラブコール中ってことはないよな。もったいぶらずに早く出ろよ、ディフ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ココアを入れていたカップはとっくに空になっている。シエンはさっきから一言もしゃべらない。
 オーレの声も聞こえなくなった。さすがに鳴き疲れたか、それとも拗ねてふて寝してるのか。
 不意にテーブルの上で携帯が鳴った。シエンがびくっとすくみあがる。

「……大丈夫だから」

 液晶画面に目を走らせ、表示された名前が警察の知人からじゃないことに先ずほっとする。事件の知らせではない……おそらく。
 
「ヒウェル。どうした、居たか?」
「いや、まだだ………シエン、そこに居るか?」
「ああ」
「聞いてくれ。オティアがどこにいるか、わかるかって」

 なるほど、シエンならオティアの存在を感知できると踏んだか。賢明な判断だ。双子は近くに居ればおおよその位置は感じ取れる。
 シエンを麻薬工場から助け出した時も。犯罪組織に囚われたオティアとヒウェルを撮影所から救出した時もそうだった。

「シエン」

 のろのろとぎこちない動きでこっちに顔を向けてきた。

「…………オティアがどこにいるか、わかるか?」

 ほんのちょっと間が空く。何か考えているようだったが、やがて首を横に振った。

「……そっか……」

 伝言をつたえるとヒウェルは電話の向こうで深くため息をついた。奴も途方に暮れてるんだ。
 できるものなら俺も飛び出してあの子を探したい。ああ、くそ、いっそ体が二つあればいいのに!

 いなくなったオティアも心配だが、今、それ以上にシエンのそばを離れたくない。この子を一人にしちゃいけない。
 
 泣きも怒りもせず、無表情にぼんやりしている。それがかえって怖い。喉が震え、不吉な予感に胸がかきむしられる。

「なあ、ディフ。俺、もうほんと、どうしたらいいかわからないんだ。お前オティアが立ち寄りそうな場所、心当たりあるか?」
「よく聞け、ヒウェル」

 ここで俺までうろたえたら収拾がつかない。泣きわめいておろおろするのは、オティアが見つかってからでいい。

「今、俺はここを動けない。動く訳には行かないんだ。オティアはお前が見つけるしかない。OK?」
「……う……でも……」
「警察は事件性がなきゃ積極的には動かない。特に今日はキャパシティの限界ぎりぎりの警戒態勢で、どいつもこいつも切羽詰まってるからな。通報したところで後回しになる可能性は高い。オティアを最優先で探せるのはお前しかいないんだよ。わかるな?」
「………OK、まま」

 声のトーンは沈んだままだが軽口が出たか。いい傾向だ。

「これが普通の子なら友だちの家に転がり込む所だがな。あいつはそこまでする知り合いはほとんどいない」
「……だよ、な。アレックスんとこにはいなかったし」
「可能性があるのはサリーんとこぐらいだが、ここからはかなり距離がある」
「ああ、マリーナ地区まで徒歩で行くのはきついよな」
「衝動的に飛び出した所で人間ってのは意外と見知らぬ場所には行かない。無意識に自分のテリトリー内をうろつくもんだ。通勤ルートを歩いてみろ」
「OK、わかった」
「10分おきに連絡入れろ。いざとなったら警察には俺から連絡する」
「了解」

 ヒウェルと話してるうちに頭が仕事モードに切り替わったようだ。深呼吸して電話をしまって、はたと気づくとシエンがいなかった。
 目の前にはぽつんと空になったカップが残されている。

「シエンっ?」

 この間抜けが!
 どうしても家から外に出てる子の方に意識が行っちまう。シエンはあんなにSOSのサインを出してたってのに!
 慌てて部屋に向かう。

 居てくれよ。
 お前まで家出なんてことになったら………。

「あ………」

 ドアを開け放したまま、灯りもつけずにベッドにぽつんと座っていた。
 良かった。
 一気に膝の力が抜ける……3割ほど。へばーっと盛大に安堵の息をつき、部屋に入った。
 
 紫の瞳がぼんやりと窓の外を見つめている。深い霧に閉ざされた夜を写して。

 静かに近づき、ベッドの端に腰を降ろす。わずかにスプリングが軋み、シエンはのろのろとこっちに視線を向けてきた。

 子どもを育てるのは初めてだ。何がかっこう良くて正しい答えなのかわからない。わからないけど現に今、この子は悲しんでる。苦しんでる。
 どうにかしてやりたい。もっと近づければいいのに。
 
 思い悩みながらも結局、下す選択は『黙って見守る』。

(これって結局は放置してるのと同じじゃないのか?)

 今はまだ拒まれるだけかもしれない。余計なことはするなと恨まれる可能性の方が高い。
 それでもいい。
 報われることなんか期待しちゃいない。ただお前が一人で悲しみに震える時間を少しでも減らしたいんだ。

「喧嘩……したのか?」

 意気込んだ割に実際に言葉にできることがあまりにささやか過ぎ。情けないったらありゃしない。
 シエンは小さくうなずいた。

「……ここに居てもいいかな。オティアが見つかるまで。心配………だから………」

 ちらっとこっちを見たが、結局、シエンは何も言わなかった。黙ったまま、また窓の外に視線を向けてしまった。

(またまちがえた。まったく上っ面だけのきれい事を押し付けて、傷ついた子どもを救えると思ってるのかい?)
(それは正しい答えじゃないね。何てバカな奴だ。余計に事態を悪化させて、助けるつもりで悪い方に突き落としてるよ)

 ほざいてろ。

 脳みその奥で皮肉を吐く何者かに蹴りをかまして黙らせる。

 じたばた足掻いて泥にまみれて前に進むのが俺なんだ。スマートでかっこうよく要領よくってのは性に合わない。やろうったってそもそも無理だ、向いてないんだよ。

「……オティアだけじゃない。お前が心配なんだ。一人にしておけない。放っておけない。だから、ここに居るよ」

 静かな声でゆっくりと言い終える。
 答えは無かった。

 正しいボタンを押した自信はない。そもそも正しい答えが定められてるとも限らない。俺が相手にしているのは一人の生きた人間だ。ゲームでもなけりゃクイズでもない。
 そうとわかっていても自分の無力さが口惜しくて、ちょっとでも油断したが最後、口が歪み、眉根が下がりそうになる。
 だが意地でも悲しい顔なんざするもんか。

 シエンは黙って窓の外に顔を向け、流れる霧を見つめている。探しているものは視線の先には存在しないとわかっている。それでも他に見る場所がないから、目蓋を閉ざさずにいるのか。
 ここに俺が居ても居なくても、お前にとっては同じなのかもしれない。

 暗く塗りつぶされた心の影でだれかが冷ややかにあざ笑う。
 所詮は、俺の独りよがりな自己満足。所詮は他人事、ガラス越しに真っ赤な血の吹き出る傷口に手のひらを当てているに過ぎないのだと。

 それでも、俺はお前を見捨てないよ、シエン。抱きしめることはできなくても、側に居る。

 ……居させてくれ。

次へ→【4-8-5】深い霧の中で2

【4-8-5】深い霧の中で2

2008/12/12 21:52 四話十海
 オティアは一人ぼっちで座っていた。
 公園のベンチの上で。

 場所は住宅街の真ん中。少し離れた通りからは、仮装して練り歩く子どもたちのはしゃぎ声が聞こえてくる。家の玄関や庭先にびっしり絡み付く派手なイルミネーションは幸い目に入らない。

 たちこめるミルクのような霧が全てを覆い隠してくれる。公園の木々はぼんやりと黒く霞み、外灯の灯りがほわほわと光の球みたいに見える。
 手のひら、頬、首筋、髪の毛が、水の粒を吸って冷たい。
 
『出てって!』

 自分の肩を抱えてぶるっと震えた。奥歯を噛みしめ、必死にこらえる……今にも喉から飛び出しそうな悲鳴を。

 悲鳴。
 ひめい。
 Scream.

 シエンの声を聞いた瞬間、何も考えられずに飛び出した。空気を切り裂いて響く言葉の意味よりも、声に込められた感情に耐え切れず。
 けれど、ひんやりした霧の指先に頬を撫でられた瞬間、気づいたのだ。あの部屋を出てしまったら、自分はどこにも逃げ込む先なんかないってことに。

 別々に引き離され、ゴミ溜めみたいな施設から『撮影所』に売り飛ばされて。獣以下の男たちに引き裂かれ、嬲られ続けた最悪の日々。シエンに会いたい一心で生きながらえた。

 必死になって探し求めた一番近しい相手に拒まれた今、オティアは生まれて初めての絶望的な孤独を味わっていた。

 暗い闇の中に一人。手を伸ばしてもすがる場所はどこにもない。もがいても、もがいても落ちて行くことすらできず、ただ虚空を漂う。
 こんな時普通は泣くのだろう。
 だけど涙も出やしない。

 冷えきって、乾涸びて、固まっている。
 何も考えたくない。いっそこのまま霧の中に溶けてしまえばいい……。

「なー」

 すりっと、足元にしなやかな生き物がよってきた。

「っ」

 びくっとすくみあがる。
 一瞬、オーレが自分を追いかけてきたのかと思った。しかし、尻尾が無い。

 ほっそりと小柄な猫が一匹、足の間をすり抜けて行く。八の字を描くようにして何度も何度も、くいくいと顔をすり寄せる。
 温かい。
 白い体にバランスよく黒と薄い茶色のぶちが入っていて、尻尾は丸く、短い。まるで兎みたいだ。
 特徴のある容姿に見覚えがある。犬や猫の種類は探偵事務所に置いてあった本で覚えた。

「お前……ジャパニーズ・ボブテイルか」
「にゃっ」

 返事をするように一声鳴くと、三毛猫はぴょん、と膝の上に乗ってきた。

「帰れよ……飼い主が心配するぞ」
「にゃー」

 そのまま、三毛猫はオティアの膝の上で丸くなり、ごろごろと喉を鳴らし始める。

「しょうがないな……」

 手をのばして、そっと撫でた。自分以外の生き物がここにいる。手の中の温もりが、何故だかとても愛おしかった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 携帯が鳴る。ヒウェルから二度目の電話だ……もうあれから10分経ったのか。

「ハロー?」
「まだ、見つかんねぇ………も、お手上げだ。頼む、ディフ。後生だからシエンにかわってくれ!」
「……待ってろ。シエン?」

 シエンは視線をそらしたまま、ぽつりと言った。

「……南の方」
「OK」

 そうだろうな。今、ヒウェルとは話したくないだろう。

「南の方だそうだ」
「わかった、南だなっ」

 それだけ言って電話が切れた。走ってったのか? スタミナ切れ起こすなよ。二重遭難なんてことになったらシャレにならん。
 携帯を閉じてポケットに突っ込む。
 いくらも経たないうちに、また鳴った。今度は短い。メールの着信音だ。

 送信者はヒウェル。文面は至って簡単。

『居た。無事』

「良かった…………」

 深々と息を吐き出す。肩の力がすうっと抜けた。
 シエンが何か言いたげにこっちを見ている。

「見つかったよ。無事だって」
「…………………………そう」

 まばたき一つ。小さく息をつき、また目をそらす。暗がりに慣れた目に白く浮び上がる横顔は、まるで陶器の人形みたいだ。
 一見して無表情、だが皮一枚隔てた内側ではありとあらゆる色の感情がうねり、打ち消し合い、無色に戻る。

「じゃあ、寝てもいいかな」

 一人にしてくれってことか。

「……ああ、もうこんな時間だしな」

 ベッドから降りてドアに向かう。できればちゃんと横になる所まで見届けたいが、さすがにそれは出過ぎた真似と言うものだろう。

「おやすみ」

 返事は無かった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 霧に閉ざされた公園でようやくオティアを見つけた。ベンチの上にぽつんと座って、うつむいて。夕食の時と同じ青いシャツを着て……この霧の中、コートも無しに。
 二度目の電話をかけた交差点からいくらも離れていない。何てこったい……目的地の直前で右往左往してたって訳か。
 苦笑しながらディフに宛ててメールで報告した。

『居た。無事』

 すとん、と何か柔らかくて小さな生き物が地面に飛び降りて走って行く気配がする。そう言えば、この公園の前を通りかかった時、どこからかかすかに猫の声が聞こえたような気がした。
 猫の声に導かれるように足を踏み入れて、そこでオティアを見つけたのだ。

 オティアはじっと猫(らしき生き物)の駆けていった方角を見てる。無表情だけど、かなりがっかりしてるな。
 少なくともあいつが一人じゃなかったことに安堵しながら、近づいた。

 ここまでたどり着く間にさんざん走り回って膝もいい具合にガクガク、腰も背中もふくらはぎも悲鳴を上げていたんだが……現金なものでオティアの姿を一目見た瞬間、しゃっきりと体が伸びた。
 それどころか、歩調が早くなってさえいる。押さえろ、押さえろ、あいつは野生動物と同じ。ここで走ったりしたら逆効果だ。

 そーっと、そーっと……。

「よお」

 声をかけると、オティアはばっと顔を上げてこっちを見た。紫の瞳が震える……俺だとわかったからか? 見知らぬだれかではないと。
 警戒してるのか。ほっとしてるのか。いつもと同じ、完ぺき過ぎるポーカーフェイスでわかりゃしない。
 いっそお前にも猫みたいに尻尾でも生えてりゃいいのに。そうすりゃ角度と毛の逆立ち具合で見当がつく。

「……あ」

 目、逸らしちまうし。ま、いいさ。いつものことだ。

「………兄弟喧嘩したって?」
「別に………」

 返事がかえってきた! 奇跡だ。いや、いや、浮かれるのはまだ早い。夕食後に誘いをかけたときだって最初の一言は同じ台詞だった。
 そろり、そろりと距離を詰め、ベンチに腰かける。 顔が見える程度には近く。警戒されないように適度に間を空けて。だが、隣だ。
 うつむいた顔をそっと横からうかがう。

 何てこったい。眉をぎゅっと八の字に寄せて、細かく震える唇を噛みしめてる。喉の奥からあふれそうな何かを必死でこらえている。

 お前、今にも泣きだしそうじゃないか!

 ひゅーっと息を吸い込むと、オティアは食いしばっていた歯を緩めてかすれる声を絞り出した。

「……なにしに……きたんだよ」
「………追いかけてきた。お前を」
「…………ぅ………」
「………オティア?」

 うつむいたまま、オティアはまばたきした。ひくっと白い喉が震える。だが、唇からこぼれたのは泣き声ではなく言葉だった。かすれて、よじれて、今にも消え入りそうな。

「………はじめて……だったんだ」
「……喧嘩したの………初めてか」
「うん………」

 素直にうなずいた。信じられねえ。お前が今まで俺のしゃべった事に、こんな風に肯定の言葉を返してきたことってあっただろうか。
 そもそも受け答えが行われることすら希少すぎて……。

「………びっくりした?」
「あいつが……何考えてるのか、わかんなくなるなんて……」

 震えていた。

 あって然るべきもの。途切れることなんか絶対ないと信じていたものがいきなりぶっつりと断ち切られたのか。どんなに心細いだろう?

 そろっと手をのばして、髪の毛の先に触れた。湿気を含んだ金色の髪が指先を掠める。俺の手も、震えていた。

 逃げないでくれ。
 お願いだから。

「……大丈夫だよ……オティア。大丈夫だから」
「なにが大丈夫なんだよっ! あんたに何が……わかるっていうんだ……」

 怒鳴りつけられた。
 睨みつけられた。
 だが、逃げてはいない。伸ばした手も振り払われはしなかった。何より今、俺を真正面から見てくれている。その事実にすがりつき、言葉を綴った。
 内心の動揺を押し隠して、精一杯静かに、平穏に。

「そうだな……シエンが何考えてるのかわかんないって言うところは、お前と同じだ。でもな。何度喧嘩しようが、あいつがお前を嫌いになるなんてことはない。それだけはわかる」
「…………あんたに言われたくない」
「悪かったな。でもな。俺、会った時からずーっとお前のことばっかり見てたから……」

 何があっても血がつながってれは絆は断ち切られることはない、なんてのは体のいい甘えに過ぎない。
人間と人間の基本的な意思疎通を横着してそれでも心は通じるんです。言わなくっても愛情は伝わる、わかってくれるんですーなんて。

 ふざんけんな! 手抜きもいいとこだ。

 だが、こいつらは違う。
 たった二人で、痛いほどお互いにすがりつき、支えて、守って、必死で生きてきた。一人だったらとっくに倒れてた。そんなギリギリのラインを一緒にくぐってきたのだから………。

 特異な才能を抜きにしても、強く結びついている。ほとんど息をするのと同じくらい自然に、無意識に、互いに意志を伝えてる。感じ取って、応えようとしてる。

 そう簡単に断ち切られるようなやわな絆じゃない。

(そうあって欲しいって、俺が願ってるだけなのかもしれないが)

次へ→【4-8-6】★深い霧の中で3

【4-8-7】ひとりぼっちの双子

2008/12/12 21:54 四話十海
 マンションに戻り、エレベーターで6Fに上がるころにはオティアはこっちを見ようともしなくなっていた。
 だが、俺を無視してる訳じゃない。耳まで赤くして、意図的に目をそらせている。空気相手にこんなマネはしない。

 ドアの鍵を開け、ローゼンベルク家の玄関ホールに入ると、奥からざかざかと大またでディフが出てきた。

「………戻ったか」

 オティアはディフの顔を見て、一瞬、何か言いかける。

「なおー。ふなーっ。なーっ、あーおおぉおう」

 はっとオティアは顔をあげて、小走りに走って行く。そりゃそうだ。滅多に鳴かない猫があんな遠吠えするなんてただ事じゃない。
 心配してたんだろうな、オーレ。でも何で迎えに出てこないんだ?

「うわっぷ」

 ばふっとバスタオルが降って来た。一枚、もう一枚。

「拭け」
「さんきゅ……でも、何で二枚も?」
「そっちはオティアの分だ」
「持ってけってことっすね。でも、いいのか?」
「……いいんだよ」

 ディフはそっと目を伏せた。髪の毛と同じ赤みの強いかっ色の睫毛が瞳に被さり、影を落す。

「その方が、あの子が安心する」
「OK、まま。シエンは?」
「もう寝た」
「……そっか」

 だったら静かにしないとな。

 足音をしのばせつつ境目のドアを抜け、双子の部屋に入る。リビングに入って行くと、オティアが猫用ケージのドアを開けていた。
 ……入れられちゃってたのか、オーレ。珍しい。

「なーっ、ふなーっ、なおーっ」

 白い子猫はオティアの足の間を八の字を描いてすり抜け、ぐいぐいと顔をこすりつける。
 くしゅん、とオティアは小さくくしゃみをした。そりゃそうだよな、髪の毛も顔も手も服も、霧の水気でぐっしょりだ。
 ぱふっと金髪頭の上からバスタオルを被せると、不思議そうにこっちを見た。

 何でここにいるんだろう、とでも言いたげに。そりゃそうだ、今まで断りも無しに俺が一人でこの部屋に入ったことはない。
 必ずだれかしらと一緒に入るし、用事のある時は境目のドアんとこで一声かける。

「……いーからまず頭拭け……」

「んみゃーっ」

 なんっつう大声。このちっぽけな体のどこからこんな声出すんだろうなあ、このお姫様は。
 一声鳴くと、オーレは俺が開けっ放しにしてきたドアに向かってとことこと歩き出し、こっちを向いてまたかぱっと口を開けた。

「にゃーっっ!」
「………」

 タオルを被ったまま、オティアはオーレの後をついて行く。それを確認してからオーレはまたててててっと歩き出す。
 何度も振り返り、一声鳴いて、また歩く。

 導かれた先は、双子の寝室。
 9月の木曜日にオティアがベッドに横たわり、点滴を受けていた場所だ。

 ドアは開いていた。

「……」

 一歩中に踏み込むなり、オティアの動きが止まった。

「どうした? ………っ!」

 寝室にはベッドが二つ。だが一つのベッドは空っぽだった。布団も、シーツも、枕も片付けられ、ただむき出しのマットレスだけが残されている。
 シエンの使っていた方だ。

「………………あ」
「オーレ」
「み……」

 足元に寄って来た猫を抱き上げると、オティアは黙ってリビングに戻り、ソファに腰かけた。ほとんど崩れ落ちるようにして……。

 玄関に出迎えたディフは落ち着いていた。つまりシエンは家に居る。ただしオティアと一緒のこの部屋ではなく、本宅に。
 去年の10月の終わりから、今年の6月まで暮らしていた部屋に戻ってしまったんだ。
 オティアを置いて、たった一人で。

 何故。どうして。理由なんて、これ以上ないくらいわかりきってる。
 ごめん、シエン。

「会わせてやるよ。お前の兄弟に」

 一年前、そう誓ったこの俺が、いつも一緒の二人を引き裂いちまった。何て皮肉。何て矛盾。
 それでもオティアに好きだと囁き、受け入れられて。口づけを交わした喜びに胸が震えていた……。
 逃げずに居てくれることを。今、こうして同じ部屋に居るのを許されていることが嬉しくてたまらなかった。

(酷い男だ。とんでもない極悪人)

「………オティア」

 びくん、と肩を震わせ、顔を上げた。あんまり素直に反応がかえってきたもんだから、平静な表情をとりつくろうのすら忘れてしまい………。
 半分泣き出しそうな半端な笑顔でほほ笑みかけてしまう。
 オティアはほんのちょっと不安そうに眉根を寄せたが、結局何も言わずにうつむいてしまった。

「風呂入れ……さもなきゃ、せめて、着替えろ」
「………」

 首をかしげてる。何か考え込んでるようにしきりとまばたきをくり返す。膝の上ではオーレがこっちをじいっと見つめてる。
 ってか、にらんでる。

「……俺は、帰るよ」

 嘘だ。本当は帰りたくなんかない。このまま、ここに居たい。お前のそばに居たい。
 だけど。

「……風呂出たら……ちゃんとベッドに入れよ?」

 小さくうなずくと、猫を抱えたままオティアはふらりと居間を出て行く。少し間をあけてから廊下に出た。どのみち帰るには境目のドアを抜けて一旦本宅に行かなきゃならないんだ。
 通り道だよ。
 付け回してる訳じゃない。

 それでも寝室のドアの前で立ち止まる。クローゼットを開け閉めする気配がして、着替えを抱えたオティアが出てきた。
 ちょっと離れた位置からかがんでのぞきこむと、わずかに怯えた表情を見せた。

「……すまん、近過ぎたな」

 一歩後に下がる。

「おやすみ、オティア」
「……………………………おやすみ」

 バスルームに入って行くのを見届けてから、部屋を出た。
 
 Good night.

 ありふれた挨拶の言葉。それこそ何十回、何百回とくり返してきた言葉。
 たった一言。
 でも、俺を見て、俺に話しかけてくれた。

 おやすみ。

 耳の奥に、心地よく響く。

「………何、にやついてやがる」
「よう、まま」

 ドアの前で待ち構えていやがった。

「あと5分遅けりゃ、耳つかんで引きずり出そうと思った」
「それは、ごかんべん」
「オティアは?」
「風呂入ってる」
「……そっか」

 ほっとディフは安堵のため息をついた。

「シエン、そっちに居るのか?」
「ああ。しばらくこっちで寝起きするそうだ」
「……そっか」

 今度はこっちがため息をつく番だった。

 玄関を出てから、指先で唇に触れる。
 痛みと苦みに苛まれながらも、胸の奥を甘く蕩かすこの喜びだけはごまかしようがない。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ヒウェルが帰るのを見届けてから、寝室に引っ込み電話をかける。だいぶ遅くなっちまった。待ってるだろうな。

「……ハロー」
「レオン……」
「どうかしたかい? ディフ」
「あー、その………」

 やっぱりお前には隠せない。一言話しただけでばれちまったか。
 すうっと深く息をすい、つとめて落ち着いた声で淡々と報告した。
 双子が喧嘩をしたこと。シエンがこっちの部屋に戻ったこと……オティアが家を飛び出したけれど、もう戻ったから心配いらない。

 レオンは時おり相づちを挟みながら聞いてくれた。
 いさめることも、とがめることも、さとすことさえなく、ただ聞いてくれた。

「レオン……明日、何時に帰ってくる?」

 ほんの少しためらってから、続ける。ベッドの傍らに置いた白いライオンに手を伸ばし、きゅっと胸に抱きかかえた。

「会いたいよ……今、お前がここにいないのがさみしい」

 いつもはこんな我がまま口にできない。彼が今居るのはロサンゼルスで、瞬間移動でもしなけりゃそれが叶えられることはない。
 それでも言わずにはいられなかった。

「約束できないけれどなるべく早めに帰るよ」
「うん………ありがとう………………………」

 すがりついた思いは受け入れられ、願っていた以上の言葉を返される。ああ、まったくお前ってやつは。どこまで俺を甘やかしてくれるんだ。

「………愛してる」
「俺も、愛してるよ」
 
  
 ※ ※ ※ ※
 
 
 いつもより長めの電話が終わる頃には、携帯の電池がかなり消耗していた。さすがに充電しとかないとな……。
 時刻は真夜中を少し過ぎた頃。ハロウィンは5分前に終わっていた。
 ようこそ、11月。

 ベッドに入る前に、子どもたちの様子を見ておこう。

 足音を忍ばせ、境目のドアを抜ける。鍵をかけるどころか開けっ放しになっていた。
 寝室のドアも開けっ放し。中をのぞきこむと……

 いないっ?

 心臓が縮み上がる。
 落ち着け、落ち着け。オティアの分の毛布がない。きっと、どこか他の場所で寝てるんだ。ここんとこずっと、変な場所でばかり寝てたみたいだし。

 深呼吸をして、居間に行ってみるが、いない。冷たい汗がにじみ始める。まさか、また家出したのか?
 一部屋ずつ確かめる。
 俺が住んでいた頃、客用の寝室に使っていた部屋。今は予備のベッドが置いてあるものの、ほとんど使われていない。
 
 ……いない。

 書庫。
 扉が少し開いている。猫一匹、通り抜けられるくらいに。

 ああ。
 ここだな。

 ほんの三日前にもシエンが夜遅くに呼びにきたことがあった。オティアが書庫に閉じこもったきり、出てこないと。ドアを開けてみたら……。

 そっとのぞきこむ。
 デスクと本棚のすき間に潜り込むようにしてオティアが眠っていた。床の上で毛布にくるまり、丸くなって。

 やっぱりな。

 足音をしのばせて書庫に入り、オティアに近づく。今夜は冷えるし、この子は冷たい霧の中、ぐっしょり濡れて帰ってきた。
 ちゃんと乾いた寝間着に着替えているようだ。ほんのり石けんの香りがするから、風呂にも入ったんだろう。良かった、ひとまず安心だ。
 腕の間からひょい、と白い猫が起きあがり、こっちを見た。

「み?」

 ほんの少し遅れて飼い主がうっすら目を開けた。

「寒くないか?」

 のろのろとうなずき、起きあがろうと身じろぎした。
 こんな時、いつもは口やかましく言ってきた。
『せめてベッドで寝ろ』と。だけど……今は……。

「いや、いい。そのまま寝てろ」
「………ん」

 力を抜いてぽてりと毛布に顔をつけ、目を閉じる。オーレはしばらくじいっと俺の顔を見上げていたが、やがてくるりと丸くなり、オティアに顔をくっつけて目を閉じた。
 足音をしのばせ、本宅に戻る。

 こっちの部屋にはシエンが一人っきり。
 どっちも俺にとっては『双子の部屋』、なのに今はそれぞれ一人で眠っている。ベッドの上のシエンの姿は、鏡に映したみたいにオティアとそっくり同じだった。
 別々の場所に眠っていても、必死にお互いを求めている。寄り添おうとしている。

 胸の奥が、きりきりと痛む。細い、長い針が差し込まれたようだ。
 ひとりぼっちの双子。原因はわかってる。だからと言ってここでヒウェルを殴るのは筋違いだ。

 そもそもあいつがいなけりゃこの子たちとも巡り会えなかった。双子を再会させたのもヒウェルなら喧嘩の原因になったのもヒウェル。
 皮肉な話だ……。

 寝室に戻り、ベッドに上がる。
 ごく自然に白いライオンを抱きしめていた。

 去年の今頃、俺は病院のベッドの上に居た。見舞いに来たシエンがこいつをプレゼントしてくれた。
 もう、あれから一年経ったんだ……。

 もう、一年なのか。
 まだ、一年なのか。

 俺は少しはあの子たちに近づいているんだろうか?

 お決まりの夜の堂々巡り。考えても答えは出ない。
 ライオンを抱えたまま左手に顔を寄せ、薬指の指輪に口付ける。

 レオン。
 レオン。

 一人では、潰れちまいそうだ………。

「……………レオン」

 世界中のだれよりも今、お前に会いたい。

(ひとりぼっちの双子/了)

次へ→【4-9】たとえそれが痛みでも

芸術劇場「赤ずきん」

2008/12/12 22:02 短編十海
  • 拍手お礼用の短編を再録。ほんのちょっとですが一部加筆してあります。
 
 むかしむかし、ある所にサリーと言う女の子がいました。
 サリーちゃんはおかあさんが作ってくれた赤いずきんが大好きで、いつでもどこに行くにもかぶっていたのでみんなから「赤ずきんちゃん」と呼ばれていました。
 
 ある日、おかあさんが赤ずきんちゃんを呼んで言いました。

「赤ずきん。ちょっとお使いたのみたいんだけどいいかな」
「いいですよ? 何をすればいいんですか?」
「うん、コーンブレッド焼いたから、おばあさんの所に届けてほしいんだ。ああ、このワインも一緒にな」
「……えーっと……これ、全部ですか」
「それぐらい余裕だろ? 彼女なら」
「あー……そうですね」
「森を通る時は気をつけるんだぞ?」
「はい、気をつけます」
「悪い奴にだまされんなよ」
「はい、わかりました」
「知らない人にはついてくんじゃないぞ」
「大丈夫ですよー。それじゃ、いってきます」

 赤ずきんはにこにこしながら手をふって、おつかいに出かけました。見送るおかあさんはそわそわ、落ち着きません。

「やっぱり心配だな。俺も一緒に行った方が……」
「その必要はないんじゃないかな」
「え? レオン?」
「それより、せっかく夫婦水入らずなんだから……ね?」

 おとうさんは素早くおかあさんにキスをして、めろめろになったところを抱き上げてさっさとベッドにさらってゆきました。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 赤ずきんちゃんはコーンブレッドとワインの入った大きなバスケットを抱えて、とことこ森の小道を歩いて行きます。
 枝の間からさしこむおひさまの光はきらきら金の色、風はそよそよやさしくほほをなで、ことりはさえずり、草むらには花が咲いています。
 なんて気持ちのいい日なんでしょう。

 ふと見ると、木の枝の合間には黒イチゴがつやつや光っていました。

「あ……これおばあちゃん好きなんだよな。ちょっとお土産にもってってあげようかな」

 かがみこんで黒イチゴに手をのばしたそのときです。
 しげみがガサガサとゆれて、にゅうっと子牛ほどありそうなおおきなおおきな狼が顔をつきだしました。

「わあ、びっくりした」
「やあ、赤ずきん。散歩かい?」
「いえ、お使いです。おばあちゃんの家に、パンとワインを届けに。でも、ちょっと足りないから黒イチゴもつんでこうかなと思って」

 狼さんはちらっとバスケットの中をのぞきこみ、パンの大きさを確認してうなずきました。

「うん、足りないね、きっと……よし、私も手伝おう」
「ありがとうございます」

 赤ずきんちゃんと狼は並んでぷちぷち黒イチゴをつみました。

「もうちょっとあった方がいいかな」
「そうだね、もうちょっと」

 ぷちぷちと夢中になっていると、あ、いけない! ぷちゅっとつぶれた黒イチゴの汁が、赤ずきんちゃんのほっぺに飛びました。
 狼はごく自然に顔を近づけて、ぺろりとなめました。

「ついてたよ、汁」
「あ……ありがとうございます」

 くすぐったいのと、はずかしいのとで赤ずきんちゃんがほんのりほほを染めたその時です。
 黒イチゴのしげみから、ぶーんと……大きなマルハナバチが飛び出して来たではありませんか。黒と黄色のまるっこい体が、赤ずきんちゃんの目の前でホバリング。

 赤ずきんはびっくり。なぜなら、虫がだいっきらいだったからです。

「きゃあっ」

 思わず悲鳴をあげたその瞬間。

「SFPDだ! 速やかにその子から離れろ!」

 昔取った杵柄、両手で拳銃を構えた金髪の猟師が突入

「両手を上げて頭の上に載せろ!」

 狼は困った顔で。それでも素直に前足を持ち上げましたがそれが精一杯。

「そのままゆっくりとこっちに歩いてこい!」

 四足歩行動物に向かって無茶を言う猟師さんです。しかたがないので、後足だけで歩こうと努力しましたが、やっぱり無理なものは無理。
 ぐらっとよろけて、つい、赤ずきんの肩に前足をかけてしまいました。

 その途端。

「くぉら、この遊び人! 俺のダチに手ぇ出しやがったらタダじゃおかねえぞ!」

 がさっとしげみから猟師2号が飛び出して、どげしりっと狼に蹴りをかましました。

「きゃんっ!」

 倒れた所に猟師1号と2号は飛びかかり、あっと言う間に二人がかりで狼をボコボコにしてしまいました。

「きゅいーん、きゅいーん」

 わけもわからぬままフルボッコにされ、尻尾を丸めてうずくまる狼の前に赤ずきんちゃんが両手を広げて立ちふさがりました。

「何てことするんだ! 何の罪もない動物に乱暴するなんて」
「え? 何もしてないんですか?」
「一緒に黒イチゴを摘んでただけです!」
「でも、あなたの頬をぺろって……味見して……」
「あれは、汁がついたから! 拭いてくれたんだよ」
「悲鳴も聞こえたし」
「あれは……ハチが飛び出してきたから、びっくりして」
「……そ、そうだったのか……」

 猟師1号と2号は気まずくなって顔を見合わせました。
 どうしよう。思わず容赦無くフルボッコにしてしまったけど、えん罪だったんだ。

「すぐに手当しなきゃ。テリー、手伝って!」

 赤ずきんちゃんは猟師2号と一緒にてきぱきと狼を応急手当しました。

「大丈夫ですか?」
「うん……大丈夫だよ、ありがとう」
「あー、まだよろよろしてますね。しばらくおばあちゃんの家で休ませましょう」
「わかりました、お手伝いします」
「俺も、手伝う!」

 こうして、赤ずきんちゃんと猟師二人は三人がかりで狼を支えて歩き出しました。
 
 一方、森の中の小さな家では。
 ちっちゃなおばあさんが、ちっちゃなナイトキャップにちっちゃな寝間着を着て、大きなベッドにちょこんと寝ていました。

「おそいなー、赤ずきん。迷子になってないかなー。途中まで迎えに行こうかなー」

 ぴょん、とベッドから飛びおりて、せかせか家の中を歩き回っていると、とん、とん、とノックの音が聞こえます。

「だれだい?」
「わたしよ、赤ずきんよ。おかあさんの焼いたパンと、ワインと黒イチゴをもってきたの」
「おはいり、待っていたよ」

 ばたん、とドアが開いて、赤ずきんちゃんと……大きな狼と、猟師が二人ぞろぞろと入ってきました。

「………わあ、ずいぶんいっぱいいるねえ。おともだち?」
「うん、ともだち」
「どーぞ、こちらへ」
「おじゃまします」

 おばあさんは狼と猟師と猟師2号をテーブルに案内して、戸棚からおせんべいを出してきました。

「めしあがれ」
「変わったクッキーですね」
「お米が材料なんですよ」
「お茶がはいったよー」
「お、ジャパニーズ・グリーンティーだ」
「ヨーコ!」
「なに?」
「そんな格好でうろうろするとは何事だ。せめてガウンを羽織りたまえ!」
「はいはい……まったく真面目だなあ、カルは……」

 もそもそとガウンを羽織ると、おばあさんはぽん、と手を叩きました。

「あ、そうだ、みかんもあるよー」
「Mikan?」
「はい、どうぞ」
「変わったオレンジですね。皮がうすい……」
「カナダではクリスマスオレンジとも言うそうですよ。十一月から一月にかけてが食べごろだからかな」
「日本でも冬の風物詩よね」

 赤ずきんちゃんとおばあさんは、みかんを一個ずつ手にとると、打ち合せでもしたようにまったく同じタイミングでぱかっと二つに割りました。
 それからちまちまと皮をむいて、ひとふさ口に運んでもこもこと。こくん、と飲み込んで、また次のひとふさをむしって、もこもこと。

「食べ方、同じなんだ……やっぱ、同じ群れで育ったからか?」
「なんだか……」
「うん……そうですね……」

 みかんを食べる二人を見ながら、猟師と猟師2号と狼は同じことを考えていました。

 まるで小動物みたいだな、と。


 ※ ※ ※ ※


 一方、その頃、おとうさんとおかあさんは。

「……レオン、そ、そろそろ赤ずきんを迎えに」
「まだいいだろう? もう少しだけ」
「あっ、よせ、こらっ」

 まだいちゃらぶしていたのでした。
 めでたし、めでたし。


(芸術劇場「赤ずきん」/了)

次へ→ハッピーハロウィンin文化祭

【4-8-2】伏せられた写真

2008/12/12 23:02 四話十海
 
 部屋に戻り、アレックスの家で撮影してきた写真をパソコンに取り込んでいると、呼び鈴が鳴った。
 半ば進行中の作業に意識を持って行かれたまま、さほど深く考えることもなく玄関に出てドアを開けると……金髪の少年が一人、ぽつんと立っていた。

「どうした、シエン………」
「……しちゃった………」
「え?」
「喧嘩……しちゃった………」
「ディフと?」

 黙って首を横に振った。

「まさか……オティアと?」

 答えはない。だがそれ故にわかる。
 正解だって。

「とにかく、中、入れ……」

 素直に入ってきたが、黙って立っている。

「何で、兄弟喧嘩なんか?」
「…………出てった」
「オティアがっ?」
「飛び出してった……外に……」
「マジかよ、おいっ!」

 この霧の中、いったいどこへ? ソファの背に引っ掛けた黒のナイロンパーカーをばさっと羽織った。まだ湿っぽいが気にしてられるか!

「ディフにも言っとけ。とにかく俺、追いかけるから」
「ん………」
「見つけたら電話する。それじゃっ」

 廊下に飛び出し、エレベーターを待つ傍ら、ちらりと時計に目を走らせる。20時……まだお菓子ねだりで出歩いてる連中がいる時間帯か。町の中はそこそこにぎやかなはずだ。
 だが、ハロウィンの夜ってのは犯罪発生率がとびっきり高い時期なんだよ!

 滅多に動じない奴がパニック起こして外に飛び出すなんて。
 一体、何があったってんだ、オティア?

「くそ、早く上がってこいっつのっ」

 だんっと壁を叩いた刹那、エレベーターのドアが開いた。
 たかだか3フロア降りるだけなのに、やたらと遅く感じられる。1Fについて扉が開き切るのも待たずに飛び出し、ドアマンに尋ねた。

「レオンとこの金髪の子が来たろ」
「はい、お一人だけ。外出なさいました」

 それはわかってる、もう一人は俺の部屋にいる。

「出てったんだな?」
「ええ」

 別に珍しいことじゃないですよね? ドアマンの表情は暗にそう言っていた。
 ハロウィンなんですから。

「どっちに行った?」
「さあ、そこまでは……」

 だ、ろうな。

「ありがとさん」

 一声かけて走り出す。
 湿った白い闇のただ中へ。

 顔会わせたらまた凍えるような目つきでにらまれるんだろうな。だが構うもんか。

 オティア、お前を失いたくない。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 一人残されたヒウェルの部屋で、シエンはため息をついた。

(やっぱり、オティアの方に行っちゃった)

 ぷるっと頭を振ると、壁際の本棚が目に入った。

 写真立てが並んでいる。

 高校時代のレオンとディフとヒウェル。
 キルトを着た、今よりちょっとだけ若いディフとマクダネル警部補。
 結婚式の写真。白のタキシード姿のレオンと、キルト姿のディフ。前の写真より髪の毛が伸びて、穏やかな目をしている。そして紺色のタキシードを着た自分とオティア。
 手を伸ばし、写真の表面を撫でる。あの時、こんな表情してたんだ……。

「あ」

 結婚式の写真の隣にもう一枚、小さなパネルが立てかけてあった。
 金髪に紫の瞳、パステルグリーンのストライプのエプロンを身につけて、はにかんだような表情で笑いかけている。
 カメラを構えた相手に。ヒウェルに向かって。

 すっと手を横に滑らせて、パネルを伏せると、シエンは部屋を出た。

次へ→【4-8-3】しまわれたカップ

【4-8-6】★深い霧の中で3

2008/12/12 23:06 四話十海
「喧嘩の原因、何なんだ?」
「………シエンが……」
「……ん……」
「……。………う」

 紫の瞳にみるみる透明な雫が盛り上がる。同じ様な情景を以前見たことがある……だけど。まさか、オティア。
 お前、泣いてるのか……………………………………?

 お前は強かった。
 真っ黒に窓を塗りつぶしたあのロクでもない倉庫の床の上、ぼろきれみたいに転がった俺の目の前に現れたあの瞬間も。
 獣と呼ぶのもおこがましいほど惨たらしい連中の巣窟にただ一人乗り込んで、殴られた直後だってのに涙を見せなかった。

 こぼれる涙を指先でぬぐう。
 温かな雫が凍えかけた指を濡らす。

「俺………どうしたらいいのか、わかんない……よ……っ」

 泣くな、と言うべきなんだろうな……でも、言えない。時には涙をこぼした方がいいこともある。
 お前の悲しそうな顔を見てると、胸が張り裂けそうになる。
 だけど困ったな。同時に無節操な心臓の野郎がどうしようもなく肋骨の内側で踊りやがって、騒ぐんだ。

 ぽろぽろと、後から後から涙がこぼれ落ちる。そっと頬に触れ、包み込む。手のひらの下のなめらかな生き物は逃げもせず、ただ震えている。支えなければ、崩れ落ちてしまいそうに儚い。

「オティア……」

 ゆっくり抱きしめた。オティアはほんの少し身体を固くしたが、そのまま俺の服を握って、泣いた。静かに。静かに。声を潜めて、細かく震えて。

「う……う、うぅ、あ、う、くぅ、ううっ………」

 ひそやかな泣き声が満たして行く。彼と俺の間に存在する僅かな空間を。
 泣きたいだけ泣かせた。背中をなでた。腕の中の小さな体の温かさを心の底から愛おしく思う。何よりも。だれよりも。

「………どんな時でも。何があっても」

 声が震えた。音の一つ一つに祈りを込める。
 今、伝えられなければ、俺の口から吐き出されるあらゆる言葉、指先から綴られるどんな言葉も全て意味を失い、ただの記号の羅列と成り果てるだろう。

「俺にとって一番大切なのは………お前だよ、オティア」
「俺は……違う……」
「………知ってる。それでもいい」

 オティアにとって、この世で一番大切なのはシエン。あんなにすり切れて、ぼろぼろになっても会いたかった一人の相手。だれも代わりにはなれない。シエンの場所を奪うことはできないし、そのつもりもない。

「二番目でも………もっと下でもいいさ。お前の心のすみっこにでも置いといてもらえば………それでいい」
「だめ……だ。シエンが………泣く、から……」

 真っ暗な夜の迷路の中で、ずっと探していた答えが。きらきらとまたたきながら手のひらに降りてくる。消えるな。逃げるな。お願いだ。

「………お前は…それでいいのか?」
「俺は……」
「オティア」

 狂おしいほど追い求めた愛しい人が、腕の中でびくりと震える。金色の髪をかきあげて、耳元に口をよせた。

「……love,you」
「ぁ……っ」

 小さく声が漏れてまたびくっと震える。抱きしめる腕に力をこめながら、額に口付けた。
 堅い堅い、ダイヤモンドよりも堅い透明な殻に、音も無く細いヒビが入って……内側に封じこめられた温かな雫があふれ出し、乾いた唇を潤してゆく。

「シエンが……俺が、あんたのこと好きだって……いうんだ……」
 
(それが本当なら………俺は魂を売ってもいい)

 二度目のキスは耳元に。
 この先一生分のLuckを手放した気がする。それでも構うものか。

「……確かめてみるか? 俺も…知りたい」
「ぁ……」

 可愛い声だ。もしかして感じてるのだろうか?
 片方の手で反対側の耳を撫でながらもう一度、こんどはじっくり耳たぶにキスをした。唇で挟んで舌先で触れる……ほんの少しだけ。

「あ………ま、て……や……」
 
 腕の中でびくびく震えている。さらに耳たぶを深く口にふくみ、尖らせた舌でくすぐった。

「あっ、んんっ」

 すがりついてくる。息が乱れている。
 喜びに胸を踊らせながら、もう片方の耳にもキスをした。

 届いているんだね、オティア。
 俺を感じてくれ。
 もっと。
 もっと。

「オティア………俺の目………見て………」

 低い声で囁き、耳を撫でていた手のひらで包み込むようにして頬を支える。もう片方の手のひらは背に回して。
 あたたかな涙で洗われた紫の瞳が見上げてくる。奥にわずかな不安の色をにじませて。

「きれいだな……アメジストみたいだ……」

 顔を近づけて……唇と唇を触れ合わせる。
 目を開いたまま固まっている。しかし拒まれはしなかった。

 そろっと指先うごかして、少しくすんだ金色の髪の毛が耳をかすめるようにしながらキスを少しだけ深くする。
 目が閉じられて……おずおずとキスに応えてきた。
 
 kiss02.jpg ※月梨さん画「それは、はじめての…」
 

 オティア。
 オティア。
 
 応えてくれた………その時になって初めて、重ねた唇の熱さに気づいた。
 目を細め、震えながら抱きしめる腕に力を入れて。小鳥がついばむようなキスをくり返す。

「ヒ……ウェル……」

 囁くように名前を呼ばれ、魂の根底から揺さぶられるような喜びに包まれる。

「お前が………好きだ、オティア………手のひらに包み込んで、そっと守りたい。冷たい風に凍えることがないように」
「そんなのは……いやだ……」

 唇を尖らせて、ぷいと横を向いて。斜めに見上げてくる。

「俺は……守られてる、だけなんて……」

 わかってるよ、この意地っ張りめ。そうだ、お前はおとなしく腕の中に収まってる子猫なんかじゃない。だから惹かれた。

「………俺が凍えてるときは、守ってくれ。俺がとっつかまった時みたいに」

 こくんと頷いた。
 うなずいたよ。
 ああ、もう、俺はこの先100年分の幸運を使い果たしちまったんじゃなかろうか?

「……うれしいよ……ありがとう………」

 目元がふっと和む。その時、俺は不覚にもほほ笑んでいた。ああ、しまらねえ。お前が相手だと、どうしたってクールに決められない。
 のぼせて、熱にうかされちまう。

 それでもかまうもんか。お前にならどこまでも溺れよう。今、この瞬間のお前の言葉、表情、仕草、声。その記憶だけで俺は生きてる限り幸せに浸れる。

 ほほ笑んだまま、四度目のキスを再び唇に。

「う……」

 舌先で唇の輪郭をなぞると、オティアは目を細めてうっすらと口を開いた。しかし、舌をすべりこませると、わずかに眉をしかめ、身をよじる。
 カチっと歯がぶつかった。

 ああ、ごめんよ。ちょっと苦しかったか。
 舌をひっこめ、腕の力を緩める。

 オティアはもう、逃げなかった。

 唇を重ね、軽くついばみ、また離す。角度を変えて、上唇を。次は下唇、両方いっぺんに。くり返し愛で回しているうちに強ばっていた体から力が抜けて行く。
 
「ん………」

 腕の中に委ねられる熱さと確かな重みに胸を踊らせながら静かに唇を離した。

「ふ……は……はぁ………っ……はぁ………」

 彼と俺の口から、真っ白な息が立ちのぼる。すっかり息が乱れていた。
 ああ……可愛いなあ。

 乱れた髪を撫でて整える、その間もオティアは腕の中で大人しくしていた。

「……帰ろう。歩きにくいのなら、俺の袖つかんでていいから」
「い……いいっ、ひとりで……かえる」

 耳まで赤くして、うわずった声で、いつもと変わらず意地を張る。ああ、まったく、お前ってやつは。どこまで可愛いのか。
 狂おしいほど愛おしい。

「……じゃ、俺も帰るから途中まで送ってってくれよ」
「それじゃかわんねーじゃん……」
「俺の付き添いがお前。支えてもらってんのは、むしろ俺。OK?」

 しぶしぶうなずいた。

「よし、それじゃ立って……」

 オティアの体を支えてベンチから立ち上がる。上着を脱いで肩に被せた。

「着てろ」
「………いい」

 するりと脱いで俺の手に押し付けてきた。

「濡れるぞ?」
「もう濡れてる」
「……わかったよ」

 戻された上着を素直に羽織る。歩き出そうとしたらオティアがそろそろと手を伸ばしてきた。俺の肘のあたりに。
 きゅっと上着の袖をつかむ。
 とくん、と胸が震えた。

「歩くぞ」
「わかってる」
「ゆっくりとな」
「うるさい」

 オティアと一緒に歩き出す。
 深い霧の中を、我が家目指して。

 どこか遠くでまた、猫の声がした。

次へ→【4-8-7】ひとりぼっちの双子