▼ 【4-8-4】深い霧の中で1
Trick or Treat!
Trick or Treat!
街中至る所で聞こえるお決まりの台詞。音色の違ういくつもの声が、様々な音階で同じ言葉を歌いあげる。
霧の中に浮かぶジャック・オ・ランタン。つくりもののオバケ、骸骨、コウモリ、吸血鬼。妙にデフォルメされたユーモラスなイルミネーションがちかちかまたたく。
ミルク色の闇の中をぼんやりと、カラフルに彩られた人影が漂う。仮装した子どもたちだ。
よりに寄って仮装した人間が街中うようよ練り歩くこんな夜に人探し。
お面の下に隠れているのは人間だとだれもが無条件に信じ込んでいる。もし、あの中に本物が紛れていても誰も気づかないんじゃなかろうか。
最初にお化けの仮装をしよう! と言い出した奴は果たして本当に人間だったんだろうか?
お化けの仮面をかぶって浮かれ騒ぐ人間どもに紛れて自分たちが地上を闊歩するために、こんな風習を流行らせたんじゃあるまいか。
偽りの扮装仮装、仮面にだまされるな。俺が探しているのはただ一人。くすんだ金髪に優しく煙る紫の瞳。寂しがりのくせに意地っ張りの男の子。
Trick or Treat!
Trick or Treat!
未だかつてハロウィンの夜に、こんなに必死に走り回ったことはない。
欲しいのはお菓子じゃない。
探しているのはただ一人。
「くそ……どこ行っちまったんだ、あいつ」
サンフランシスコは坂の町だ。駆けずり回れば必然的に走って急斜面を上り下りする事になる。闇雲に走り回っていい具合にヒザはガクガク、坂一つ降り切って立ち止まった瞬間、腰がきしんだ。
「ふ……はぁ………」
いかん……このままじゃ……オティアを見つける前にぶっ倒れる。とりあえず休憩だ、休憩
外灯にもたれかかって体を支える。濡れた布がぺったり背中にへばりつく。冷たい汗がじっとりとシャツににじんでいた。
そのくせ眼鏡のレンズは曇ってきやがった。悪態つきつつ外してハンカチで拭う。
霧に閉ざされていようがいまいが勝手知ったるシスコの街。だが、あてもなく探すのにも大概に限度ってもんがあらあな。
って言うか既にかなりの時間を無為に過ごしてる気がする。初動捜査の失敗は痛いぜ……。
「やり切れねぇ………」
小声で悪態をつきつつ眼鏡をかけ直した瞬間、気づいた。俺は最大の手がかりを見落としていたじゃないか!
どんだけ動揺してるんだ。文明の利器を使え。
ポケットから携帯を取り出し、かけた。
「出ろよ……出てくれ……」
……応答なし。
立て続けに3回ほどかけてみて思い直す。喧嘩して、衝動的に飛び出したんなら財布も携帯も部屋に置いてったんじゃなかろうか。
「くそっ」
あきらめるな、まだ手がかりはある。もう一つの番号を呼び出し、かける。
まさかレオンにラブコール中ってことはないよな。もったいぶらずに早く出ろよ、ディフ。
※ ※ ※ ※
ココアを入れていたカップはとっくに空になっている。シエンはさっきから一言もしゃべらない。
オーレの声も聞こえなくなった。さすがに鳴き疲れたか、それとも拗ねてふて寝してるのか。
不意にテーブルの上で携帯が鳴った。シエンがびくっとすくみあがる。
「……大丈夫だから」
液晶画面に目を走らせ、表示された名前が警察の知人からじゃないことに先ずほっとする。事件の知らせではない……おそらく。
「ヒウェル。どうした、居たか?」
「いや、まだだ………シエン、そこに居るか?」
「ああ」
「聞いてくれ。オティアがどこにいるか、わかるかって」
なるほど、シエンならオティアの存在を感知できると踏んだか。賢明な判断だ。双子は近くに居ればおおよその位置は感じ取れる。
シエンを麻薬工場から助け出した時も。犯罪組織に囚われたオティアとヒウェルを撮影所から救出した時もそうだった。
「シエン」
のろのろとぎこちない動きでこっちに顔を向けてきた。
「…………オティアがどこにいるか、わかるか?」
ほんのちょっと間が空く。何か考えているようだったが、やがて首を横に振った。
「……そっか……」
伝言をつたえるとヒウェルは電話の向こうで深くため息をついた。奴も途方に暮れてるんだ。
できるものなら俺も飛び出してあの子を探したい。ああ、くそ、いっそ体が二つあればいいのに!
いなくなったオティアも心配だが、今、それ以上にシエンのそばを離れたくない。この子を一人にしちゃいけない。
泣きも怒りもせず、無表情にぼんやりしている。それがかえって怖い。喉が震え、不吉な予感に胸がかきむしられる。
「なあ、ディフ。俺、もうほんと、どうしたらいいかわからないんだ。お前オティアが立ち寄りそうな場所、心当たりあるか?」
「よく聞け、ヒウェル」
ここで俺までうろたえたら収拾がつかない。泣きわめいておろおろするのは、オティアが見つかってからでいい。
「今、俺はここを動けない。動く訳には行かないんだ。オティアはお前が見つけるしかない。OK?」
「……う……でも……」
「警察は事件性がなきゃ積極的には動かない。特に今日はキャパシティの限界ぎりぎりの警戒態勢で、どいつもこいつも切羽詰まってるからな。通報したところで後回しになる可能性は高い。オティアを最優先で探せるのはお前しかいないんだよ。わかるな?」
「………OK、まま」
声のトーンは沈んだままだが軽口が出たか。いい傾向だ。
「これが普通の子なら友だちの家に転がり込む所だがな。あいつはそこまでする知り合いはほとんどいない」
「……だよ、な。アレックスんとこにはいなかったし」
「可能性があるのはサリーんとこぐらいだが、ここからはかなり距離がある」
「ああ、マリーナ地区まで徒歩で行くのはきついよな」
「衝動的に飛び出した所で人間ってのは意外と見知らぬ場所には行かない。無意識に自分のテリトリー内をうろつくもんだ。通勤ルートを歩いてみろ」
「OK、わかった」
「10分おきに連絡入れろ。いざとなったら警察には俺から連絡する」
「了解」
ヒウェルと話してるうちに頭が仕事モードに切り替わったようだ。深呼吸して電話をしまって、はたと気づくとシエンがいなかった。
目の前にはぽつんと空になったカップが残されている。
「シエンっ?」
この間抜けが!
どうしても家から外に出てる子の方に意識が行っちまう。シエンはあんなにSOSのサインを出してたってのに!
慌てて部屋に向かう。
居てくれよ。
お前まで家出なんてことになったら………。
「あ………」
ドアを開け放したまま、灯りもつけずにベッドにぽつんと座っていた。
良かった。
一気に膝の力が抜ける……3割ほど。へばーっと盛大に安堵の息をつき、部屋に入った。
紫の瞳がぼんやりと窓の外を見つめている。深い霧に閉ざされた夜を写して。
静かに近づき、ベッドの端に腰を降ろす。わずかにスプリングが軋み、シエンはのろのろとこっちに視線を向けてきた。
子どもを育てるのは初めてだ。何がかっこう良くて正しい答えなのかわからない。わからないけど現に今、この子は悲しんでる。苦しんでる。
どうにかしてやりたい。もっと近づければいいのに。
思い悩みながらも結局、下す選択は『黙って見守る』。
(これって結局は放置してるのと同じじゃないのか?)
今はまだ拒まれるだけかもしれない。余計なことはするなと恨まれる可能性の方が高い。
それでもいい。
報われることなんか期待しちゃいない。ただお前が一人で悲しみに震える時間を少しでも減らしたいんだ。
「喧嘩……したのか?」
意気込んだ割に実際に言葉にできることがあまりにささやか過ぎ。情けないったらありゃしない。
シエンは小さくうなずいた。
「……ここに居てもいいかな。オティアが見つかるまで。心配………だから………」
ちらっとこっちを見たが、結局、シエンは何も言わなかった。黙ったまま、また窓の外に視線を向けてしまった。
(またまちがえた。まったく上っ面だけのきれい事を押し付けて、傷ついた子どもを救えると思ってるのかい?)
(それは正しい答えじゃないね。何てバカな奴だ。余計に事態を悪化させて、助けるつもりで悪い方に突き落としてるよ)
ほざいてろ。
脳みその奥で皮肉を吐く何者かに蹴りをかまして黙らせる。
じたばた足掻いて泥にまみれて前に進むのが俺なんだ。スマートでかっこうよく要領よくってのは性に合わない。やろうったってそもそも無理だ、向いてないんだよ。
「……オティアだけじゃない。お前が心配なんだ。一人にしておけない。放っておけない。だから、ここに居るよ」
静かな声でゆっくりと言い終える。
答えは無かった。
正しいボタンを押した自信はない。そもそも正しい答えが定められてるとも限らない。俺が相手にしているのは一人の生きた人間だ。ゲームでもなけりゃクイズでもない。
そうとわかっていても自分の無力さが口惜しくて、ちょっとでも油断したが最後、口が歪み、眉根が下がりそうになる。
だが意地でも悲しい顔なんざするもんか。
シエンは黙って窓の外に顔を向け、流れる霧を見つめている。探しているものは視線の先には存在しないとわかっている。それでも他に見る場所がないから、目蓋を閉ざさずにいるのか。
ここに俺が居ても居なくても、お前にとっては同じなのかもしれない。
暗く塗りつぶされた心の影でだれかが冷ややかにあざ笑う。
所詮は、俺の独りよがりな自己満足。所詮は他人事、ガラス越しに真っ赤な血の吹き出る傷口に手のひらを当てているに過ぎないのだと。
それでも、俺はお前を見捨てないよ、シエン。抱きしめることはできなくても、側に居る。
……居させてくれ。
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Trick or Treat!
街中至る所で聞こえるお決まりの台詞。音色の違ういくつもの声が、様々な音階で同じ言葉を歌いあげる。
霧の中に浮かぶジャック・オ・ランタン。つくりもののオバケ、骸骨、コウモリ、吸血鬼。妙にデフォルメされたユーモラスなイルミネーションがちかちかまたたく。
ミルク色の闇の中をぼんやりと、カラフルに彩られた人影が漂う。仮装した子どもたちだ。
よりに寄って仮装した人間が街中うようよ練り歩くこんな夜に人探し。
お面の下に隠れているのは人間だとだれもが無条件に信じ込んでいる。もし、あの中に本物が紛れていても誰も気づかないんじゃなかろうか。
最初にお化けの仮装をしよう! と言い出した奴は果たして本当に人間だったんだろうか?
お化けの仮面をかぶって浮かれ騒ぐ人間どもに紛れて自分たちが地上を闊歩するために、こんな風習を流行らせたんじゃあるまいか。
偽りの扮装仮装、仮面にだまされるな。俺が探しているのはただ一人。くすんだ金髪に優しく煙る紫の瞳。寂しがりのくせに意地っ張りの男の子。
Trick or Treat!
Trick or Treat!
未だかつてハロウィンの夜に、こんなに必死に走り回ったことはない。
欲しいのはお菓子じゃない。
探しているのはただ一人。
「くそ……どこ行っちまったんだ、あいつ」
サンフランシスコは坂の町だ。駆けずり回れば必然的に走って急斜面を上り下りする事になる。闇雲に走り回っていい具合にヒザはガクガク、坂一つ降り切って立ち止まった瞬間、腰がきしんだ。
「ふ……はぁ………」
いかん……このままじゃ……オティアを見つける前にぶっ倒れる。とりあえず休憩だ、休憩
外灯にもたれかかって体を支える。濡れた布がぺったり背中にへばりつく。冷たい汗がじっとりとシャツににじんでいた。
そのくせ眼鏡のレンズは曇ってきやがった。悪態つきつつ外してハンカチで拭う。
霧に閉ざされていようがいまいが勝手知ったるシスコの街。だが、あてもなく探すのにも大概に限度ってもんがあらあな。
って言うか既にかなりの時間を無為に過ごしてる気がする。初動捜査の失敗は痛いぜ……。
「やり切れねぇ………」
小声で悪態をつきつつ眼鏡をかけ直した瞬間、気づいた。俺は最大の手がかりを見落としていたじゃないか!
どんだけ動揺してるんだ。文明の利器を使え。
ポケットから携帯を取り出し、かけた。
「出ろよ……出てくれ……」
……応答なし。
立て続けに3回ほどかけてみて思い直す。喧嘩して、衝動的に飛び出したんなら財布も携帯も部屋に置いてったんじゃなかろうか。
「くそっ」
あきらめるな、まだ手がかりはある。もう一つの番号を呼び出し、かける。
まさかレオンにラブコール中ってことはないよな。もったいぶらずに早く出ろよ、ディフ。
※ ※ ※ ※
ココアを入れていたカップはとっくに空になっている。シエンはさっきから一言もしゃべらない。
オーレの声も聞こえなくなった。さすがに鳴き疲れたか、それとも拗ねてふて寝してるのか。
不意にテーブルの上で携帯が鳴った。シエンがびくっとすくみあがる。
「……大丈夫だから」
液晶画面に目を走らせ、表示された名前が警察の知人からじゃないことに先ずほっとする。事件の知らせではない……おそらく。
「ヒウェル。どうした、居たか?」
「いや、まだだ………シエン、そこに居るか?」
「ああ」
「聞いてくれ。オティアがどこにいるか、わかるかって」
なるほど、シエンならオティアの存在を感知できると踏んだか。賢明な判断だ。双子は近くに居ればおおよその位置は感じ取れる。
シエンを麻薬工場から助け出した時も。犯罪組織に囚われたオティアとヒウェルを撮影所から救出した時もそうだった。
「シエン」
のろのろとぎこちない動きでこっちに顔を向けてきた。
「…………オティアがどこにいるか、わかるか?」
ほんのちょっと間が空く。何か考えているようだったが、やがて首を横に振った。
「……そっか……」
伝言をつたえるとヒウェルは電話の向こうで深くため息をついた。奴も途方に暮れてるんだ。
できるものなら俺も飛び出してあの子を探したい。ああ、くそ、いっそ体が二つあればいいのに!
いなくなったオティアも心配だが、今、それ以上にシエンのそばを離れたくない。この子を一人にしちゃいけない。
泣きも怒りもせず、無表情にぼんやりしている。それがかえって怖い。喉が震え、不吉な予感に胸がかきむしられる。
「なあ、ディフ。俺、もうほんと、どうしたらいいかわからないんだ。お前オティアが立ち寄りそうな場所、心当たりあるか?」
「よく聞け、ヒウェル」
ここで俺までうろたえたら収拾がつかない。泣きわめいておろおろするのは、オティアが見つかってからでいい。
「今、俺はここを動けない。動く訳には行かないんだ。オティアはお前が見つけるしかない。OK?」
「……う……でも……」
「警察は事件性がなきゃ積極的には動かない。特に今日はキャパシティの限界ぎりぎりの警戒態勢で、どいつもこいつも切羽詰まってるからな。通報したところで後回しになる可能性は高い。オティアを最優先で探せるのはお前しかいないんだよ。わかるな?」
「………OK、まま」
声のトーンは沈んだままだが軽口が出たか。いい傾向だ。
「これが普通の子なら友だちの家に転がり込む所だがな。あいつはそこまでする知り合いはほとんどいない」
「……だよ、な。アレックスんとこにはいなかったし」
「可能性があるのはサリーんとこぐらいだが、ここからはかなり距離がある」
「ああ、マリーナ地区まで徒歩で行くのはきついよな」
「衝動的に飛び出した所で人間ってのは意外と見知らぬ場所には行かない。無意識に自分のテリトリー内をうろつくもんだ。通勤ルートを歩いてみろ」
「OK、わかった」
「10分おきに連絡入れろ。いざとなったら警察には俺から連絡する」
「了解」
ヒウェルと話してるうちに頭が仕事モードに切り替わったようだ。深呼吸して電話をしまって、はたと気づくとシエンがいなかった。
目の前にはぽつんと空になったカップが残されている。
「シエンっ?」
この間抜けが!
どうしても家から外に出てる子の方に意識が行っちまう。シエンはあんなにSOSのサインを出してたってのに!
慌てて部屋に向かう。
居てくれよ。
お前まで家出なんてことになったら………。
「あ………」
ドアを開け放したまま、灯りもつけずにベッドにぽつんと座っていた。
良かった。
一気に膝の力が抜ける……3割ほど。へばーっと盛大に安堵の息をつき、部屋に入った。
紫の瞳がぼんやりと窓の外を見つめている。深い霧に閉ざされた夜を写して。
静かに近づき、ベッドの端に腰を降ろす。わずかにスプリングが軋み、シエンはのろのろとこっちに視線を向けてきた。
子どもを育てるのは初めてだ。何がかっこう良くて正しい答えなのかわからない。わからないけど現に今、この子は悲しんでる。苦しんでる。
どうにかしてやりたい。もっと近づければいいのに。
思い悩みながらも結局、下す選択は『黙って見守る』。
(これって結局は放置してるのと同じじゃないのか?)
今はまだ拒まれるだけかもしれない。余計なことはするなと恨まれる可能性の方が高い。
それでもいい。
報われることなんか期待しちゃいない。ただお前が一人で悲しみに震える時間を少しでも減らしたいんだ。
「喧嘩……したのか?」
意気込んだ割に実際に言葉にできることがあまりにささやか過ぎ。情けないったらありゃしない。
シエンは小さくうなずいた。
「……ここに居てもいいかな。オティアが見つかるまで。心配………だから………」
ちらっとこっちを見たが、結局、シエンは何も言わなかった。黙ったまま、また窓の外に視線を向けてしまった。
(またまちがえた。まったく上っ面だけのきれい事を押し付けて、傷ついた子どもを救えると思ってるのかい?)
(それは正しい答えじゃないね。何てバカな奴だ。余計に事態を悪化させて、助けるつもりで悪い方に突き落としてるよ)
ほざいてろ。
脳みその奥で皮肉を吐く何者かに蹴りをかまして黙らせる。
じたばた足掻いて泥にまみれて前に進むのが俺なんだ。スマートでかっこうよく要領よくってのは性に合わない。やろうったってそもそも無理だ、向いてないんだよ。
「……オティアだけじゃない。お前が心配なんだ。一人にしておけない。放っておけない。だから、ここに居るよ」
静かな声でゆっくりと言い終える。
答えは無かった。
正しいボタンを押した自信はない。そもそも正しい答えが定められてるとも限らない。俺が相手にしているのは一人の生きた人間だ。ゲームでもなけりゃクイズでもない。
そうとわかっていても自分の無力さが口惜しくて、ちょっとでも油断したが最後、口が歪み、眉根が下がりそうになる。
だが意地でも悲しい顔なんざするもんか。
シエンは黙って窓の外に顔を向け、流れる霧を見つめている。探しているものは視線の先には存在しないとわかっている。それでも他に見る場所がないから、目蓋を閉ざさずにいるのか。
ここに俺が居ても居なくても、お前にとっては同じなのかもしれない。
暗く塗りつぶされた心の影でだれかが冷ややかにあざ笑う。
所詮は、俺の独りよがりな自己満足。所詮は他人事、ガラス越しに真っ赤な血の吹き出る傷口に手のひらを当てているに過ぎないのだと。
それでも、俺はお前を見捨てないよ、シエン。抱きしめることはできなくても、側に居る。
……居させてくれ。
次へ→【4-8-5】深い霧の中で2