▼ 【4-8-6】★深い霧の中で3
「喧嘩の原因、何なんだ?」
「………シエンが……」
「……ん……」
「……。………う」
紫の瞳にみるみる透明な雫が盛り上がる。同じ様な情景を以前見たことがある……だけど。まさか、オティア。
お前、泣いてるのか……………………………………?
お前は強かった。
真っ黒に窓を塗りつぶしたあのロクでもない倉庫の床の上、ぼろきれみたいに転がった俺の目の前に現れたあの瞬間も。
獣と呼ぶのもおこがましいほど惨たらしい連中の巣窟にただ一人乗り込んで、殴られた直後だってのに涙を見せなかった。
こぼれる涙を指先でぬぐう。
温かな雫が凍えかけた指を濡らす。
「俺………どうしたらいいのか、わかんない……よ……っ」
泣くな、と言うべきなんだろうな……でも、言えない。時には涙をこぼした方がいいこともある。
お前の悲しそうな顔を見てると、胸が張り裂けそうになる。
だけど困ったな。同時に無節操な心臓の野郎がどうしようもなく肋骨の内側で踊りやがって、騒ぐんだ。
ぽろぽろと、後から後から涙がこぼれ落ちる。そっと頬に触れ、包み込む。手のひらの下のなめらかな生き物は逃げもせず、ただ震えている。支えなければ、崩れ落ちてしまいそうに儚い。
「オティア……」
ゆっくり抱きしめた。オティアはほんの少し身体を固くしたが、そのまま俺の服を握って、泣いた。静かに。静かに。声を潜めて、細かく震えて。
「う……う、うぅ、あ、う、くぅ、ううっ………」
ひそやかな泣き声が満たして行く。彼と俺の間に存在する僅かな空間を。
泣きたいだけ泣かせた。背中をなでた。腕の中の小さな体の温かさを心の底から愛おしく思う。何よりも。だれよりも。
「………どんな時でも。何があっても」
声が震えた。音の一つ一つに祈りを込める。
今、伝えられなければ、俺の口から吐き出されるあらゆる言葉、指先から綴られるどんな言葉も全て意味を失い、ただの記号の羅列と成り果てるだろう。
「俺にとって一番大切なのは………お前だよ、オティア」
「俺は……違う……」
「………知ってる。それでもいい」
オティアにとって、この世で一番大切なのはシエン。あんなにすり切れて、ぼろぼろになっても会いたかった一人の相手。だれも代わりにはなれない。シエンの場所を奪うことはできないし、そのつもりもない。
「二番目でも………もっと下でもいいさ。お前の心のすみっこにでも置いといてもらえば………それでいい」
「だめ……だ。シエンが………泣く、から……」
真っ暗な夜の迷路の中で、ずっと探していた答えが。きらきらとまたたきながら手のひらに降りてくる。消えるな。逃げるな。お願いだ。
「………お前は…それでいいのか?」
「俺は……」
「オティア」
狂おしいほど追い求めた愛しい人が、腕の中でびくりと震える。金色の髪をかきあげて、耳元に口をよせた。
「……love,you」
「ぁ……っ」
小さく声が漏れてまたびくっと震える。抱きしめる腕に力をこめながら、額に口付けた。
堅い堅い、ダイヤモンドよりも堅い透明な殻に、音も無く細いヒビが入って……内側に封じこめられた温かな雫があふれ出し、乾いた唇を潤してゆく。
「シエンが……俺が、あんたのこと好きだって……いうんだ……」
(それが本当なら………俺は魂を売ってもいい)
二度目のキスは耳元に。
この先一生分のLuckを手放した気がする。それでも構うものか。
「……確かめてみるか? 俺も…知りたい」
「ぁ……」
可愛い声だ。もしかして感じてるのだろうか?
片方の手で反対側の耳を撫でながらもう一度、こんどはじっくり耳たぶにキスをした。唇で挟んで舌先で触れる……ほんの少しだけ。
「あ………ま、て……や……」
腕の中でびくびく震えている。さらに耳たぶを深く口にふくみ、尖らせた舌でくすぐった。
「あっ、んんっ」
すがりついてくる。息が乱れている。
喜びに胸を踊らせながら、もう片方の耳にもキスをした。
届いているんだね、オティア。
俺を感じてくれ。
もっと。
もっと。
「オティア………俺の目………見て………」
低い声で囁き、耳を撫でていた手のひらで包み込むようにして頬を支える。もう片方の手のひらは背に回して。
あたたかな涙で洗われた紫の瞳が見上げてくる。奥にわずかな不安の色をにじませて。
「きれいだな……アメジストみたいだ……」
顔を近づけて……唇と唇を触れ合わせる。
目を開いたまま固まっている。しかし拒まれはしなかった。
そろっと指先うごかして、少しくすんだ金色の髪の毛が耳をかすめるようにしながらキスを少しだけ深くする。
目が閉じられて……おずおずとキスに応えてきた。
※月梨さん画「それは、はじめての…」
オティア。
オティア。
応えてくれた………その時になって初めて、重ねた唇の熱さに気づいた。
目を細め、震えながら抱きしめる腕に力を入れて。小鳥がついばむようなキスをくり返す。
「ヒ……ウェル……」
囁くように名前を呼ばれ、魂の根底から揺さぶられるような喜びに包まれる。
「お前が………好きだ、オティア………手のひらに包み込んで、そっと守りたい。冷たい風に凍えることがないように」
「そんなのは……いやだ……」
唇を尖らせて、ぷいと横を向いて。斜めに見上げてくる。
「俺は……守られてる、だけなんて……」
わかってるよ、この意地っ張りめ。そうだ、お前はおとなしく腕の中に収まってる子猫なんかじゃない。だから惹かれた。
「………俺が凍えてるときは、守ってくれ。俺がとっつかまった時みたいに」
こくんと頷いた。
うなずいたよ。
ああ、もう、俺はこの先100年分の幸運を使い果たしちまったんじゃなかろうか?
「……うれしいよ……ありがとう………」
目元がふっと和む。その時、俺は不覚にもほほ笑んでいた。ああ、しまらねえ。お前が相手だと、どうしたってクールに決められない。
のぼせて、熱にうかされちまう。
それでもかまうもんか。お前にならどこまでも溺れよう。今、この瞬間のお前の言葉、表情、仕草、声。その記憶だけで俺は生きてる限り幸せに浸れる。
ほほ笑んだまま、四度目のキスを再び唇に。
「う……」
舌先で唇の輪郭をなぞると、オティアは目を細めてうっすらと口を開いた。しかし、舌をすべりこませると、わずかに眉をしかめ、身をよじる。
カチっと歯がぶつかった。
ああ、ごめんよ。ちょっと苦しかったか。
舌をひっこめ、腕の力を緩める。
オティアはもう、逃げなかった。
唇を重ね、軽くついばみ、また離す。角度を変えて、上唇を。次は下唇、両方いっぺんに。くり返し愛で回しているうちに強ばっていた体から力が抜けて行く。
「ん………」
腕の中に委ねられる熱さと確かな重みに胸を踊らせながら静かに唇を離した。
「ふ……は……はぁ………っ……はぁ………」
彼と俺の口から、真っ白な息が立ちのぼる。すっかり息が乱れていた。
ああ……可愛いなあ。
乱れた髪を撫でて整える、その間もオティアは腕の中で大人しくしていた。
「……帰ろう。歩きにくいのなら、俺の袖つかんでていいから」
「い……いいっ、ひとりで……かえる」
耳まで赤くして、うわずった声で、いつもと変わらず意地を張る。ああ、まったく、お前ってやつは。どこまで可愛いのか。
狂おしいほど愛おしい。
「……じゃ、俺も帰るから途中まで送ってってくれよ」
「それじゃかわんねーじゃん……」
「俺の付き添いがお前。支えてもらってんのは、むしろ俺。OK?」
しぶしぶうなずいた。
「よし、それじゃ立って……」
オティアの体を支えてベンチから立ち上がる。上着を脱いで肩に被せた。
「着てろ」
「………いい」
するりと脱いで俺の手に押し付けてきた。
「濡れるぞ?」
「もう濡れてる」
「……わかったよ」
戻された上着を素直に羽織る。歩き出そうとしたらオティアがそろそろと手を伸ばしてきた。俺の肘のあたりに。
きゅっと上着の袖をつかむ。
とくん、と胸が震えた。
「歩くぞ」
「わかってる」
「ゆっくりとな」
「うるさい」
オティアと一緒に歩き出す。
深い霧の中を、我が家目指して。
どこか遠くでまた、猫の声がした。
次へ→【4-8-7】ひとりぼっちの双子
「………シエンが……」
「……ん……」
「……。………う」
紫の瞳にみるみる透明な雫が盛り上がる。同じ様な情景を以前見たことがある……だけど。まさか、オティア。
お前、泣いてるのか……………………………………?
お前は強かった。
真っ黒に窓を塗りつぶしたあのロクでもない倉庫の床の上、ぼろきれみたいに転がった俺の目の前に現れたあの瞬間も。
獣と呼ぶのもおこがましいほど惨たらしい連中の巣窟にただ一人乗り込んで、殴られた直後だってのに涙を見せなかった。
こぼれる涙を指先でぬぐう。
温かな雫が凍えかけた指を濡らす。
「俺………どうしたらいいのか、わかんない……よ……っ」
泣くな、と言うべきなんだろうな……でも、言えない。時には涙をこぼした方がいいこともある。
お前の悲しそうな顔を見てると、胸が張り裂けそうになる。
だけど困ったな。同時に無節操な心臓の野郎がどうしようもなく肋骨の内側で踊りやがって、騒ぐんだ。
ぽろぽろと、後から後から涙がこぼれ落ちる。そっと頬に触れ、包み込む。手のひらの下のなめらかな生き物は逃げもせず、ただ震えている。支えなければ、崩れ落ちてしまいそうに儚い。
「オティア……」
ゆっくり抱きしめた。オティアはほんの少し身体を固くしたが、そのまま俺の服を握って、泣いた。静かに。静かに。声を潜めて、細かく震えて。
「う……う、うぅ、あ、う、くぅ、ううっ………」
ひそやかな泣き声が満たして行く。彼と俺の間に存在する僅かな空間を。
泣きたいだけ泣かせた。背中をなでた。腕の中の小さな体の温かさを心の底から愛おしく思う。何よりも。だれよりも。
「………どんな時でも。何があっても」
声が震えた。音の一つ一つに祈りを込める。
今、伝えられなければ、俺の口から吐き出されるあらゆる言葉、指先から綴られるどんな言葉も全て意味を失い、ただの記号の羅列と成り果てるだろう。
「俺にとって一番大切なのは………お前だよ、オティア」
「俺は……違う……」
「………知ってる。それでもいい」
オティアにとって、この世で一番大切なのはシエン。あんなにすり切れて、ぼろぼろになっても会いたかった一人の相手。だれも代わりにはなれない。シエンの場所を奪うことはできないし、そのつもりもない。
「二番目でも………もっと下でもいいさ。お前の心のすみっこにでも置いといてもらえば………それでいい」
「だめ……だ。シエンが………泣く、から……」
真っ暗な夜の迷路の中で、ずっと探していた答えが。きらきらとまたたきながら手のひらに降りてくる。消えるな。逃げるな。お願いだ。
「………お前は…それでいいのか?」
「俺は……」
「オティア」
狂おしいほど追い求めた愛しい人が、腕の中でびくりと震える。金色の髪をかきあげて、耳元に口をよせた。
「……love,you」
「ぁ……っ」
小さく声が漏れてまたびくっと震える。抱きしめる腕に力をこめながら、額に口付けた。
堅い堅い、ダイヤモンドよりも堅い透明な殻に、音も無く細いヒビが入って……内側に封じこめられた温かな雫があふれ出し、乾いた唇を潤してゆく。
「シエンが……俺が、あんたのこと好きだって……いうんだ……」
(それが本当なら………俺は魂を売ってもいい)
二度目のキスは耳元に。
この先一生分のLuckを手放した気がする。それでも構うものか。
「……確かめてみるか? 俺も…知りたい」
「ぁ……」
可愛い声だ。もしかして感じてるのだろうか?
片方の手で反対側の耳を撫でながらもう一度、こんどはじっくり耳たぶにキスをした。唇で挟んで舌先で触れる……ほんの少しだけ。
「あ………ま、て……や……」
腕の中でびくびく震えている。さらに耳たぶを深く口にふくみ、尖らせた舌でくすぐった。
「あっ、んんっ」
すがりついてくる。息が乱れている。
喜びに胸を踊らせながら、もう片方の耳にもキスをした。
届いているんだね、オティア。
俺を感じてくれ。
もっと。
もっと。
「オティア………俺の目………見て………」
低い声で囁き、耳を撫でていた手のひらで包み込むようにして頬を支える。もう片方の手のひらは背に回して。
あたたかな涙で洗われた紫の瞳が見上げてくる。奥にわずかな不安の色をにじませて。
「きれいだな……アメジストみたいだ……」
顔を近づけて……唇と唇を触れ合わせる。
目を開いたまま固まっている。しかし拒まれはしなかった。
そろっと指先うごかして、少しくすんだ金色の髪の毛が耳をかすめるようにしながらキスを少しだけ深くする。
目が閉じられて……おずおずとキスに応えてきた。
※月梨さん画「それは、はじめての…」
オティア。
オティア。
応えてくれた………その時になって初めて、重ねた唇の熱さに気づいた。
目を細め、震えながら抱きしめる腕に力を入れて。小鳥がついばむようなキスをくり返す。
「ヒ……ウェル……」
囁くように名前を呼ばれ、魂の根底から揺さぶられるような喜びに包まれる。
「お前が………好きだ、オティア………手のひらに包み込んで、そっと守りたい。冷たい風に凍えることがないように」
「そんなのは……いやだ……」
唇を尖らせて、ぷいと横を向いて。斜めに見上げてくる。
「俺は……守られてる、だけなんて……」
わかってるよ、この意地っ張りめ。そうだ、お前はおとなしく腕の中に収まってる子猫なんかじゃない。だから惹かれた。
「………俺が凍えてるときは、守ってくれ。俺がとっつかまった時みたいに」
こくんと頷いた。
うなずいたよ。
ああ、もう、俺はこの先100年分の幸運を使い果たしちまったんじゃなかろうか?
「……うれしいよ……ありがとう………」
目元がふっと和む。その時、俺は不覚にもほほ笑んでいた。ああ、しまらねえ。お前が相手だと、どうしたってクールに決められない。
のぼせて、熱にうかされちまう。
それでもかまうもんか。お前にならどこまでも溺れよう。今、この瞬間のお前の言葉、表情、仕草、声。その記憶だけで俺は生きてる限り幸せに浸れる。
ほほ笑んだまま、四度目のキスを再び唇に。
「う……」
舌先で唇の輪郭をなぞると、オティアは目を細めてうっすらと口を開いた。しかし、舌をすべりこませると、わずかに眉をしかめ、身をよじる。
カチっと歯がぶつかった。
ああ、ごめんよ。ちょっと苦しかったか。
舌をひっこめ、腕の力を緩める。
オティアはもう、逃げなかった。
唇を重ね、軽くついばみ、また離す。角度を変えて、上唇を。次は下唇、両方いっぺんに。くり返し愛で回しているうちに強ばっていた体から力が抜けて行く。
「ん………」
腕の中に委ねられる熱さと確かな重みに胸を踊らせながら静かに唇を離した。
「ふ……は……はぁ………っ……はぁ………」
彼と俺の口から、真っ白な息が立ちのぼる。すっかり息が乱れていた。
ああ……可愛いなあ。
乱れた髪を撫でて整える、その間もオティアは腕の中で大人しくしていた。
「……帰ろう。歩きにくいのなら、俺の袖つかんでていいから」
「い……いいっ、ひとりで……かえる」
耳まで赤くして、うわずった声で、いつもと変わらず意地を張る。ああ、まったく、お前ってやつは。どこまで可愛いのか。
狂おしいほど愛おしい。
「……じゃ、俺も帰るから途中まで送ってってくれよ」
「それじゃかわんねーじゃん……」
「俺の付き添いがお前。支えてもらってんのは、むしろ俺。OK?」
しぶしぶうなずいた。
「よし、それじゃ立って……」
オティアの体を支えてベンチから立ち上がる。上着を脱いで肩に被せた。
「着てろ」
「………いい」
するりと脱いで俺の手に押し付けてきた。
「濡れるぞ?」
「もう濡れてる」
「……わかったよ」
戻された上着を素直に羽織る。歩き出そうとしたらオティアがそろそろと手を伸ばしてきた。俺の肘のあたりに。
きゅっと上着の袖をつかむ。
とくん、と胸が震えた。
「歩くぞ」
「わかってる」
「ゆっくりとな」
「うるさい」
オティアと一緒に歩き出す。
深い霧の中を、我が家目指して。
どこか遠くでまた、猫の声がした。
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