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ローゼンベルク家の食卓

【4-7-5】迷走波紋拡大中1

2008/11/10 0:18 四話十海
 ランドール紡績の若き二代目社長が謎めいた失踪から帰還して3日後。
 サリーは街角のコーヒースタンドで一人、カフェラテを飲んでいた。
 既に時間は午後6時を回っている。目の前の通りは刻一刻と藍色の闇に溶け込み、車のライトや店の看板のネオンがこうこうと浮び上がる。

 サンフランシスコは坂の町だ。斜面に沿って舗装された道が伸び、その両脇に家が立ち並んでいる。
 こうして今、辺りが暗くなると、家の灯りが急激な斜面のかなり上の方まで覆っているのが分る。今でこそ建物が並んでいるこの場所も、かつてはうっそうとした山奥だったのだ。

(ずいぶん陽が落ちるのが早くなったな……)

 先週はランドールさんと連絡がとれず心配した。なまじ訓練の途中にいるだけに精神状態が不安定になると厄介なのだ。
 コントロールを失った能力が思わぬ方向に暴走し、よからぬモノを引き寄せてしまう。
 一応、『お守り』は渡してあったし、ヨーコさんからは心配ない、と連絡が来たけれど……。

 いつもは週末に会う予定なのを少し早めて、こうして木曜の夜に二人の仕事が引けてから待ち合わせをしているのだった。

(そう言えばこんな時間にあの人と会うのは始めてかもしれない。一緒に夕食を食べることになるのかな)

 厚みのある紙コップを両手で包み込むようにして持ち上げ、あたたかいカフェラテを口に含む。ふわふわに泡立ったミルクが唇に触れてくすぐったい。
 ひとくちこくんと飲み下し、ほう、と息をついた所で待ち人が現れた。

「やあ、サリー……」
「ど、どうしたんですか、ランドールさんっ!」

 一瞬、ぐったりした大型犬が診察室に入ってきたような錯覚にとらわれた。

 この前会った時より陽に焼けている。これはまあいい。むしろ健康的だ。しかし、全体的にげっそりとやつれていて、何と言うか、毛並みがパサパサしてる!

「大丈夫……ですか?」
「ああ、大丈夫だよ。しばらく一人旅をしていたら、仕事が詰まってしまってね。秘書にびしばしとしごかれた」
「ああ、それで……」

 よく見ると目の下にうっすらクマが浮いていた。
 ランドールはよれっとサリーの向かい側に座ると手にした紙コップの中味をすすった。かなり濃厚なコーヒーの香りが漂ってくる。いったいエスプレッソを何ショット追加したんだろう?

「おや?」

 ふとランドールは顔を挙げてサリーの服装に目をとめた。濃いめの茶色のスーツに紺色のタイを締め、革靴を履いている。いつものスクールボーイ然としたカジュアルな服装とはまた違った、すっきりとしたたおやかさがある。

「珍しいね、今日はスーツなんだな」
「はい。先生のお供できちんとした席に出たので」

 なるほど、と言うようにうなずくと、ランドールは再び紙コップに口をつけた。
 ず、ず、ず、じゅういいい……。
 いつもの洗練された物腰はどこへやら。音を立てて最後までコーヒーをすすり終えると、ほうっと深くため息をついた。
 同時に、ぐぅ、と腹が鳴る。

「あ……何か、食べます?」
「そうだね。時間も時間だし、もっとしっかりした食事のできる場所に行こうか」
「はい」

 紙ナプキンでくいっと口元を拭うとランドールは席を立ち……

「近くによく行く店があるんだ。美味いパエリアを食わせてくれるよ。シーフードは好きかな?」
「はい。ぜひ!」

 サリーをエスコートして歩き出した。せわしなく行き交う人の波から小柄な彼を守るようにして、極めて自然にさりげなく。

 
 ※ ※ ※

 
 案内された店の中を見渡すなり、サリーは目を輝かせた。
  
「水族館みたいですね」

 半分地下になった店の壁面は巨大な水槽になっていて、色とりどりの熱帯魚が泳いでいる。中でも中央にしつらえられた水槽には、ひときわ大きな薄紅色の魚がゆったりと浮かんでいる。平べったい流線型の体、大きなメタリックな輝きの鱗、下あごが突き出し、尾びれは丸く、どことなく東洋の龍を思わせる。
 
「うわあ、アロワナだ! すごいなぁ……」
「1mくらいあるんじゃないかな? ここの『看板娘』だよ」
「メスなんだ」
「うん。店の名前の由来にもなっている」
「ああ、マーメイド……」

 そう言われると何となく龍と言うより人魚っぽく見えてくるから不思議だ。

「いらっしゃいませ、ランドールさま」

 白いシャツに蝶ネクタイをしめ、黒いベストにグレイのズボンを身につけた男性が音もなく現れ、うやうやしく一礼した。

「予約はしていないが……いいかな? 二人だ」
「もちろんです。こちらにどうぞ」
 
 ゆらめく淡い光の中を通り抜け、奥のテーブルへと案内された。確かに常連らしい。うやうやしくさし出されたメニューにささっと目を走らせる。

 うわぁ……けっこういいお値段。お金、足りるかな。

 ちらっと不安を覚えた、まさにその刹那。絶好のタイミングでさらりと声をかけられた。

「サリー」
「はい?」
「今夜は私にご馳走させてくれないかな。君にはいつも世話になってるし……先週は私の気まぐれな一人旅のせいで授業を無断欠席してしまったからね」
「ありがとうございます」

 あどけない若社長の笑顔を見て、サリーは素直にうなずくことにした。ここで遠慮してしまったらかえって気を使わせてしまうだろう。
 料理のオーダーは彼におまかせすることにした。

「何か飲むかい?」
「それじゃ、カンパリソーダを」
「私はブルドックを」
「かしこまりました」

 運ばれてきた前菜を前に、軽く互いのグラスを掲げて中味を口に運ぶ。

「それで、一人旅って、どこに?」
「うん、南の方へ、ちょっと」
「南……ですか」
「うん。ユタ州との州境近くまで行ってきた。途中で車がエンストしてえらい目にあった」

 ランドールは肩をすくめ、どこか遠くを見るような目つきをした。

「人の住んでる町まで60マイル近く歩く羽目になって……」

 その瞬間、サリーは思い出していた。昼間の大学で友人達と交わした会話を。
 ローカルニュースできわめて奇妙な話題が取り上げられ、ネタがネタなだけに獣医学部ではひとしきり盛り上がったのだ。

『南カリフォルニアの田舎町で、さ。子牛ほどでっかい狼が出たって警察に通報があって。保安官が駆けつけてさがし回ったけど……結局、見つからなかったらしいぜ』

 すかさず犬科を研究テーマにしているテリーが目を輝かせて食いついた。

『マジか? できればすっ飛んでって現地調査したいな……どんだけでかい個体なのか、大いに興味あるよ。本物の野生の狼なんて今じゃ滅多におめにかかれないし。絶好の研究材料だ!』
『でも結局見つからなかったんでしょ?』
『大方、迷い牛を見間違えたとか、そんなオチじゃないか?』
『そうそう。黒ヒョウが出たーって通報で警察がすっとんでったら、ちょっとでかい家ネコだったって例もあるくらいだし!』
『あー、あったね、フランスで』
『どんだけでかい猫なんだ……』
『あるいは未確認動物(UMA)とか』
『おいおい、冗談言っちゃこまるぜセニョール。ここをどこだと思ってるんだい。獣医学部の研究室だぜ?』

 …………見間違いじゃなかったんだ。
 サリーは思わずこめかみに手を当てた。迷い牛でもなければ、もちろんUMAでもない。答えはおそらく、目の前にある……いや、居る、と言うべきか。

「もしかして、あれ、使いました?」
「うん。二本足で歩くより早かった」
「そう……ですか……」

(使っちゃったんだ……)

 良かった。テリーが本気で調査に行く、なんて言い出さなくて。

「サリー」
「何でしょう」
「色々心配かけてしまったようだね」

 ランドールはテーブルの上に置かれたサリーの手をそっと両手で包み込むようにして握った。心からの感謝と謝罪の意を込めて、紳士的な礼儀を崩さないレベルの節度を保ちつつ。

「すまなかった」
「いえ……」

 サリーは穏やかにほほ笑んだ。

「ヨーコさんが心配ないよって言ってましたから」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
がたん!

 この瞬間、少し離れたテーブルで立ち上がった客が約一名居た。
 濃いめの金髪にライムグリーンの瞳、ダークグレイのズボンに黒のベスト、白のシャツにアスコットタイ。ともすれば店内を行き交うウェイターに紛れてしまいそうな服装の男性が。


 元サンフランシスコ市警察の内勤巡査、今は古書店の店主、英国生まれのカリフォルニア育ちのエドワード・エヴェン・エドワーズ。
 警官時代の上司、マクダネル警部補がいきなりアポなしで砂岩づくりの彼の店に押しかけてきたのは今日の夕方の出来事だった。

『たまにはお前も外の空気を吸え』

 愛猫のリズの生んだ6匹の子猫たちも残らずもらわれて行った今、『子猫の世話があるから』という言い訳は使えなかった。
 有無を言わさず引きずって来られたが、考えてみれば夜の町で誰かと酒を飲むのも久しぶりだ。
 幸い今夜は警部補のおごりだと言うし、料理も酒もなかなか美味い。たまにはいいだろう。
 グラスを傾けつつ思い出話や互いの近況を語り合い、それなりに楽しんでいた所に、どかんと一発、爆弾が落ちてきた。
 入ってきた客の中にサリー先生が居たのだ。しかも身なりのいいハンサムな男性にエスコートされて、きちんとしたスーツを着て!

(何てこった。まるで、これじゃデートみたいじゃないか!)

 巨大な洗濯機にぶちこまれたような心地がした。身も心もぐるんぐるんと引っ掻き回され、混乱しながらも食い入るように二人の動きを追いかける……目で。あくまで、目で。
 奥のテーブルに案内され、メニューを見た瞬間、サリー先生の表情が変わった。値段を見て驚いているのだろう。自分もそうだった。
 警部補のおごりでもなければ到底、こんな店では飲み食いできない。
 すかさず青い瞳のハンサムな男性が何事かささやき、サリー先生がうなずくのがわかった。
 
 さすがにここからでは何を言っているのかまでは聞こえないがおおよその察しは着く。この手の店でデートの際に男の囁く定番の台詞だろう。

『今夜は私にご馳走させてほしい。何でも好きなものを頼んでくれ』
『君は何を飲む?』

 ぐいっとグラスの中味を一気にあおった。いぶした木材と穀類の醸す芳醇な香りと、強烈なアルコールの刺激が喉を駆け上り脳天に突き抜ける。

「おい、エドワーズ……大丈夫か?」
「大丈夫です。おかわりしていいですか」
「ああ、遠慮するな」

 もはや警部補の話も店内に流れる洗練されたBGMも全て頭の中を素通りして行く。水槽の中でゆるりと優雅に身を翻すアロワナも、蝶のようにひらひら舞う色とりどりの熱帯魚もただのモノクロームの貼り絵に等しい。
 エドワーズの目と耳はただ、ただ、全力でサリー先生とその連れに向けられていた。どんな些細な動作も見逃すまいと、集中していた。

 グラスを傾けながら何やら話している。かなり親しそうだ。Mr.メイリールの比ではない。

 透き通った赤かっ色、細やかな泡の浮かぶグラス。サリー先生が飲んでいるのはおそらくカンパリソーダだ。リキュールベースの爽やかな口当たりのカクテルだがアルコールは意外に強い。
 相手の男性が飲んでいるのは……あのとろりとした明るい黄色はソルティドッグだろうか。いや、グラスの縁に塩の輪がないからブルドックの方だな。最初からウォッカベースのカクテルを飲むなんて、かなりの酒好きと見た。
 食前にシェリーをたしなむような気合いの入ったデートではないのだ……逆に考えれば、お互いにそこまでくつろいだ飲み方のできる相手だと言うことか。

 そのうち、サリー先生が軽くこめかみに手を当ててうつむいた。小さくため息までついている。
 一体、何があったんだ?
 身を乗り出しそうになったその刹那。青い瞳のハンサムな男はこの上も無く魅惑的なほほ笑みを浮かべると、そっと手を。
 サリー先生の手を、両手で包み込んだではないか!

 がたん!

 椅子が鳴り、天井との距離が詰まる。つり下げ式のレトロなライトが目の前で揺れている。
 思わず立ち上がっていた。しかも、かなりの勢いで。

「どうした、エドワーズ」

 マクダネル警部補が怪訝そうに見上げている。

「いえ…………何でも……ありません」

 信頼のおける上司ってのはいいもんだ。いつ、いかなる時でも彼の呼びかけを聞くと冷静になれる。警察を辞めた後でもその条件づけは残っていてくれていたらしい。
 ああ、それにしても……サリー先生、うれしそうにほほ笑んでいる。
 ほんのりと頬まで染めて、何て愛らしいのだろう。

(きっと、楽しいんだろうな…………あの人と一緒にいるのが)
 
「……警部補。おかわりしてもいいですか」
「あ、ああ、かまわないぞ」
「ボトルで」

(悔しいが、彼は私より若いし、ハンサムだし、金持ちだし、立ち居振る舞いも紳士的で……お似合いだ)

 片や自分はと言えば、冴えない中年、出不精の本屋、しかもバツイチ。恋人にするのならどっちがいいか、なんてあえて比較するまでもない。
 運ばれてきたスコッチを、エドワーズは水もソーダも氷すら入れずにくいくいと流し込んだ。
 かろうじて、グラスで。

「おい、エドワーズ……大丈夫か?」
「大丈夫です」

 だんっと空になったグラスをテーブルに置き、次の一杯を注ぐ。

「今、ものすごく飲みたい気分なんです」
 
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