▼ 【4-7】迷走波紋
- 2006年10月の出来事。アレックスの結婚式をきっかけに、次第にあちこちに波紋が広がって行きます。
記事リスト
- 【4-7-0】登場人物 (2008-11-10)
- 【4-7-1】晴れた日に教会で (2008-11-10)
- 【4-7-2】おうじさまはお留守番 (2008-11-10)
- 【4-7-3】流浪の青年社長 (2008-11-10)
- 【4-7-4】社長、仕事してください (2008-11-10)
- 【4-7-5】迷走波紋拡大中1 (2008-11-10)
- 【4-7-6】迷走波紋拡大中2 (2008-11-10)
- 【4-7-7】そして宴の夜が明けて (2008-11-10)
- 【4-7-8】晴れた日に公園で (2008-11-10)
▼ 【4-7-0】登場人物
- より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
有能。万能。
灰色の髪に空色の瞳、故郷には両親と弟がいる。
20歳の時からずっとレオンぼっちゃま一筋の人生。
今はレオンさまと奥様と双子のためにがんばる日々。
結婚して妻と息子ができた。
41歳、独身。
【ソフィア/Sophia】
アレックスの妻。
鹿の子色のカールした髪と濃い茶色の瞳の子鹿のような女性。
実家はパン屋さん。
一度結婚して息子が生まれたが夫は交通事故で死亡、アレックスと再婚する。
【ディーン/Dean】
ソフィアの連れ子、アレックスは義父に当たる。
物怖じしない三歳児。
【カルヴィン・ランドール・Jr/Calvin-Randall-Jr】
大手紡績会社の二代目社長。身長183cm、33歳。
ウェーブのかかった黒髪にサファイアブルーの瞳、ルーマニア出身の母から東欧系の容姿を受け継いだハンサムさん。
お金持ちで、自信家で、紳士で、天然。
アレックスに片想いしていた。
ある事件に巻き込まれて以来、ヨーコとサリーとは友人として、また『チームメイト』として交流がある。
【結城朔也】
通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。
ディフやヒウェルの同級生だったヨーコ(羊子)の従弟。
サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
動物病院では水色の白衣を着ている。
お酒はあまり強くないけど翌日には後を引かない得な体質。好物はカンパリ。
それって女の子の飲み物じゃん、とか指摘してはいけない。
【エドワード・エヴェン・エドワーズ/Edward-Even-Edwars】
通称EEE、もしくはエディ。英国生まれ、カリフォルニア育ち。
濃いめの金髪にライムグリーンの瞳。
元サンフランシスコ市警察の内勤巡査でディフとレオンの友人。
現在は父親から受け継いだ古書店の店主。やや引きこもり気味。
飼い猫のリズは家族であり、よき相談相手。
サリー先生のことが何かと気になるものの、バツイチな自分に今ひとつ自信の持てない36歳。
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】
通称レオン
弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】
通称ディフ、もしくはマックス。
元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
レオンの嫁で双子の『まま』。
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
告白の際に著しく心を傷つけられ、今はひたすら『空気』扱い。
観察力に優れ、また記憶力は驚異的に良い。
ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。
ディフの探偵事務所で助手をしている。とても有能。
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
外見はオティアとほぼ同じ。
オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
ディフになついている。
自覚のないままヒウェルに片想いしている。
その一方で、オティアとのこじれた仲を取り持とうとする複雑な立ち位置に。
レオンの法律事務所でアレックスに着いて秘書見習いをしている。
【オーレ/Oule】
四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
エドワーズ古書店の看板猫リズの末娘。
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
フリーの記者。26歳。
黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
猫はおろか、扱いがサブキャラ以下になってんのが納得行かん!
とか思ってるようだがこの際捨て置く。
次へ→【4-7-1】晴れた日に教会で
▼ 【4-7-1】晴れた日に教会で
十月の太陽は金の色をしている。
夏の盛りに比べれば、真昼でもどこか夕方に近いような控えめな気配があるんだが、その分、細かく砕いた金砂みたいなマイルドなきらめきが混じっている。
空気の質も変わる為か、レンズ越しの花婿の白いタキシードも八月とは違った風合いを見せていた。
隣に寄り添う花嫁はスレンダーな体をマーメイドスタイルのすとんとしたシンプルなウェディングドレスに包んでいる。
鹿の子色のカールした短い髪はいつもの三角巾ではなく、白く薄い布を被せただけの聖母マリアのような形のヴェールの下に。
傍らには3歳の息子が黒のタキシードに身をかため、この上もなく真剣な表情で、びしっと背筋を伸ばしてつきそっていた。
本日はアレックスとソフィアの結婚式。俺は前回同様、カメラマン役を買って出た。今回はベストマン役はロスから出てきたアレックスの弟がいるのでカメラに専念。教会の片隅にしゃがみ込み、花婿の入場も花嫁の入場もあまさず写した。
ちなみにローゼンベルクの本家に仕えるご両親は多忙につき、祝いの言葉と花束を次男夫婦に託したそうな。
新婦側の客席からはそこはかとなく美味そうな香りがほこほこと漂ってくる。先入観から来る錯覚ではなく、実際に。
ソフィアから聞いた話じゃ、今日の披露宴のために花嫁のパパとママ、そして従業員一同総出でパンを焼いたそうだ。で、そのまま着替えて式に出席したと。
フラワーガールはソフィアの従姉の娘が勤めたんだがこれがえらく勢いのあるお嬢さんで、手にしたバスケットから楽しげにぱっ、ぱっと花びらを空中にばらまいていた。
景気良くまき過ぎてしまいにゃ花びらが無くなって、むーっと口をへの字に結んでいたのがまた可愛らしかった。
新郎側の客席には、盛装したジーノ夫妻、恋人トリッシュをエスコートした堂々たる巨漢弁護士レイモンド……眼鏡の奥で目をうるうるさせている。
そう言や彼はレオンとディフの結婚式の時もこんな感じだったっけ。
あの時結ばれた新郎新婦は今回は客席だ。
黒のタキシード姿のレオンとその傍らに寄り添うキルト姿のディフ。その隣にはネイビーブルーのタキシードを着た金髪に紫の瞳の少年が一人だけ。
招待されたのは二人一緒、だけど出席したのはシエンだけ。
喜びに満ちあふれる空気の中、フィルムを取り替えながら意識がふっとノブヒルのマンションに飛んで行く。
オティアは今頃、どうしているのだろう。お姫様が一緒だから一人きりではない。それがせめてもの救いなのだけれど。
あいつはアレックスに懐いていた。きっと、祝いたかったはずなのに。
かしゃっとカメラの裏蓋を閉める。
わかってる。原因は、これだ。
皮肉なもんだ。こいつがあるから報道の仕事に進んだ。新聞社に入って、フリーになって、そして行方不明の里子の記事を担当することになって、オティアに出会った。
オティアが何故、写真を厭うのか、理由は痛いほど知っている。
それでも俺は……写さずにはいられない。目の前を通りすぎて行く二度と戻らぬ時間の面影を、追いかけずにはいられない。
「アレックス・J・オーウェン。あなたは病める時も健やかなる時もこの女性を愛し、共に歩むと誓いますか?」
「はい、誓います」
「ソフィア・ルーセント。あなたは病める時も健やかなる時もこの男性を愛し、共に歩むと誓いますか?」
「はいっ!」
母親が答えるより早く、力一杯、3歳児のお言葉が教会の中に響き渡った。控えめな笑いのさざ波がさやさやと聖堂の中に広がってゆく。
ディーンはきょとんとした表情で首をかしげ、アレックスとソフィア、そして牧師の顔を順繰りに見渡した。
ぼく、何かおかしなこと言った?
めいっぱい見開かれ、黒目が大きくなった瞳がそう語っていた。
ソフィアはにっこりほほ笑むと、白いサテンの手袋をはめた手でそっと息子の髪をなで、それから改めて誓いの言葉を口にした。
「はい、誓います」
「この婚姻に異議ある者は申し立てよ、さもなくば永遠に沈黙するように……それでは、誓いのキスを」
執事は緊張した面持ちで白いヴェールを両手でつまんで持ち上げる。
ソフィアがそっと目蓋を閉じた。クローズアップしてみると執事の手がほんの少し震えているのがわかった。
二人の唇が触れあう瞬間を狙って……よし、撮ったぞ。
首に下げたデジカメから素早く銀版カメラに持ち変える。親父にもらった古い一眼レフ。大事な風景は全てこいつで写してきた。
祭壇の前では、誓いのキスを終えたアレックスとソフィア、そしてディーンの3人が手をとりあっていた。
ほほ笑みを交わす3人を古いカメラのファインダーに収め、シャッターを切る。電子音の代わりにカシャっと硬質の音が響いた。
このかけがえのない一瞬を、永遠に。
次へ→【4-7-2】おうじさまはお留守番
▼ 【4-7-2】おうじさまはお留守番
「くしゅんっ」
オーレがくしゃみをした。小さな声と大量の息を勢いよく鼻からふき出し、ぷるっと白い体を震わせて。
風邪か? はっとしてのぞきこむと前足でくしくしと鼻をこすっている。どうやら玩具のネズミの尻尾に着いていた鳥の羽根がひかっかかってくすぐったかったらしい。
……よかった。
ほっと胸をなでおろす。
オーレは前足をなめては顔をこすり、耳をこすり、念入りに毛繕いをしている。ふかふかのラグの上に寝そべって本を読むオティアの顔のそばに座り込んで。
さっきまでは猫用の玩具を抱えてころころと転げ回っていた。キャットニップを詰めたカラフルな布製のネズミで、尻尾のところに鳥の羽根がついている。
前足でちょいと引っ掛けては空中に放り投げ、落ちてきたのをまた受けとめて、はしっとくわえるのはいつも首筋。玩具が相手でも手加減しない。時々、とくいげに鼻面をふくらませ、尻尾をぴーんと立てて見せに来る。
受けとって放り投げると、だだだっと走って行った。
本宅と双子の部屋、ドア一枚で隔てられた二軒分の広いマンションの中にちりちりと、オーレの首輪の鈴の音がやけに大きく響く。
レオンも、ディフも、シエンも教会に行った。
ヒウェルも一緒だ。
残っているのは自分一人。そして白い子猫が一匹。
何てことはない。普段、探偵事務所で留守番している時と同じだ。寂しいとも心細いとも思わない。かえって静かで本に集中できる。
食事もディフとシエンがきちんと用意していってくれた。食べたい時に食べればいい。
何の不都合もない。
そのはずだ。
ここに残ったのは自分の意志。一番賢明な選択を下したとわかっている。
だけど……。
何故だろう。淡いわびしさがまとわりついて、消えない。拭っても、洗ってもうっすらと残る、白いテーブルクロスについた染みみたいに。
※ ※ ※ ※
式の日取りが決まった時、アレックスはうやうやしく銀のトレイに載せた招待状を携えてローゼンベルク家を訪れ、一人一人に手渡してくれた。
レオンとディフにはまとめて一通。夫婦だからこれは当然。
自分とシエン、ヒウェルには一通ずつ。
細い金で縁取られた白い封筒を開いて印刷された文面に目を通す。
『Mr.オティア・セーブル』で始まり、式の日取りと場所、招待の言葉が記され、最後にアレックスとソフィアの直筆の署名が添えられていた。
それはオティアが生まれて初めて受けとった、自分一人に宛てた手紙だった。
有能なアレックス。完ぺきなアレックス。初めてこの家に来た日から何くれとなく自分の世話をしてくれる。
彼が幸せになれる一生に一度の結婚式。祝いたい気持ちがなかったわけではない。
しかし。
目を閉じる。
八月の結婚式で向けられたシャッターの音が耳の奥で聞こえた。遠い雷のように、かすかに。ざわりと胸が波立つ。
おさまりかけた暗い波がまた競り上がってくるような気がして慌てて意識を逸らした。
目を開くと心配そうなシエンの顔があった。
どうする?
言葉で問いかけられるより早く(もとよりそんなもの必要ない)首を横に振る。
「……俺は行かない」
「……そう……」
ディフとレオンの方を伺いながら途方に暮れた表情を浮かべるシエンを見て、オティアは自分から言った。
「行けよ」
ほんの一瞬、シエンはわずかに身を震わせたように見えた。
それでもなおとまどう様子にディフが遠慮がちに声をかけた。
「来るか? 今度は俺はずっと一緒にいられるぞ」
「……うん……」
目を伏せて、しょんぼりとうなだれるシエンにディフがそーっと手を伸ばし、くしゃっと髪の毛なでた。
途端にシエンはびくっとすくみあがって顔をそむけ、そのまま自分の部屋に駆けて行ってしまった。
無言でオティアににらまれ、ディフが深くため息をつく。
「……やっちまった……」
まったく、この所慣れてきたかと思ったが久々にやらかしてくれた。これだから天然は油断できないんだ。
予想外のタイミングでデリカシーのない言動をしでかすから。
「………すまん」
でかい図体を縮こまらせて、平謝りに頭をさげるディフに一べつくれてからオティアはさっさと部屋に戻った。
※ ※ ※ ※
幸いなことにシエンは夜にはいつものようにキッチンに出て、何事もなかったように普通に食事の仕度を手伝った。
耳も尻尾も力無く伏せたディフがおずおずと声をかける。
「シエン……その、さっきはごめん」
「ちょっとびっくりしただけ。考え事してたから」
「……そっか……すまん。今度から必ず一声かける」
少しくすんだ金髪の頭が小さくうなずく。
「もう、大丈夫だから」
控えめな笑顔とは裏腹に、シエンの胸の内側でしくしくと疼くものがあった。
まるで気づかぬうちに指先にできた小さな擦り傷のようにひっそりと息をひそめ、水に触れた瞬間、ちくりと疼いて痛みと傷の存在を主張する。
『行けよ』
(オティア……一緒に居なくてもいいってことなのかな。一人で居たいって言うことなのかな)
暗い池の中にぽつりと一粒、小石が落ちた。落ちた場所から波紋が広がって、ひしひしと水面を覆って行く。
(俺がいないほうがいいのかな)
それはほんのかすかな揺らぎでしかなかったけれど、いつまでも消えなかった。
※ ※ ※ ※
式を終えてから、新郎新婦は腕を組んで控え室へと戻ってきた。これから教会にほど近いレストランへと場所を移し、結婚披露パーティーが始まるのだ。
ディーンはソフィアの両親と一緒にいる。しばしの間、二人きりの時間……と言っても、実際にはこの間に水分や食べ物を補給したり、体を休めたりとサッカーのハーフタイムさながらの慌ただしくもハードな時間だったりするのだが。
「まあ」
控え室に入るなり花嫁は目を丸くした。
「また増えてるわ……お花」
こじんまりとした控え室は、花で埋め尽くされていた。アレックスの両親や法律事務所の顧客、ルーセント・ベイカリーの常連客、その他、親しい人たちから贈られた祝いの花に。
白い薔薇、赤いフリージア、青い矢車草、白と黄色のマーガレット、薄紅色の胡蝶蘭、ほんのり青みがかった紫色のベルフラワー、そして白い百合、ピンクの百合。花束用の小さなヒマワリもある。
「まるで花園ね。それともお花屋さん?」
ピンクの百合にのばした花嫁の手を、アレックスはそっと押さえた。
「ソフィア、気をつけて。花粉がドレスに着いてしまうよ」
「ああっ、そうだったわ、私、今、全身白づくめなのね……残念。こんなにたくさんの花をもらえるなんてそう滅多にないことなのに」
なるほど、一理ある。
せっかくいただいたのだ、どうにかして一輪なりと彼女に手渡してやりたい。比較的花粉の少ない花はないものか。
アレックスは部屋の中にわさわさと広がる花束の森を見渡した。
これは……あ、いや、色が濃すぎる。花粉はともかく汁が危険だ。中々に難しい。
しばしの努力の後、彼は見つけた。
活き活きと咲き誇るみずみずしい薔薇の中に一輪だけ、わずかに他と異なるやわらかな風合いの花の混じった花束を。
これは、もしや。
近づいて手を触れる。ひやりとした生きた花びらの手触りの代わりに、しっとりと優しい感触が指先に伝わってきた。
ああ、これなら大丈夫だ。
そっと抜き取り、妻の手に渡す。
「ソフィア、これを」
「まあ。この薔薇は……シルクね?」
本物と見まごうほど精巧な小振りの薔薇の花びらは、一枚一枚が薄いシルクのジョーゼットの布で造られていた。若草色の茎も、葉っぱも、全て絹。
ソフィアはうれしそうにシルクの薔薇にほお擦りした。これなら花粉も散らない。汁がドレスを汚す心配もない。しかも本物の薔薇の中に混じっている間にほのかに香りが移っている。
「素敵。どなたのプレゼントかしら」
「これは……」
アレックスは素早くカードを確かめた。
「ランドールさまだ。事務所のお客様だよ。紡績会社を経営していらっしゃる方だ」
「そう……それじゃ、繊維のエキスパートでいらっしゃるのね。粋なお方。あとでよくお礼を申し上げなくちゃ」
「そうだね。レオンさまの結婚式の時にも、いろいろお心を砕いてくださった事だし」
ソフィアはそっとドレスの胸元に薔薇を挿してみた。まるであつらえたようにぴったりとそこに収まった。
「どう? 似合うかしら」
アレックスは目を細めて妻の姿を見つめた。アプリコットオレンジの花びらが彼女の瞳と髪の色に優しく融け合っている。
やわらかな笑みがこぼれる。
「ああ。とてもよく似合っているよ」
その後、結婚披露のパーティでシルクの薔薇は花嫁の胸元を飾った。
しかしその光景を送り主が直接見ることはなかった。
何故なら薔薇の送り主はその頃……。
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▼ 【4-7-3】流浪の青年社長
アレックスが結婚式を挙げている頃、カルヴィン・ランドール・Jrはユタ州との州境近く、南カリフォルニアの片田舎に居た。
いつもの仕立てのいいイタリアブランドのスーツの代わりにくたくたの木綿のシャツに履き古したジーンズ、スニーカーと言ったラフな服装で。
乗っているのも、静かなエンジン音に穏やかな走り、彼のステイタスにふさわしいトヨタの銀色の高級車ではない。
やかましい音、でかい車体、燃費はおせじにもいいとは言いがたい70年型のシボレーインパラ、色は赤みがかったココアブラウン。
何もかも大手紡績会社の二代目社長には似つかわしくない。
ついでに言うと誰も今、彼がこの場所にいるとは……知らなかった。両親、親族、友人、知人、彼の右腕である秘書のシンディでさえも。
公園のベンチに腰を下ろし、ぼんやりと物思いにふける。携帯の電源はこの一週間と言うもの一度も入れていない。
※月梨さん画「社長放浪中」
目の前の広場では子どもたちがボールを追いかけ回している。サッカーなのか。バスケットなのか。あるいはラグビーか。手も足も頭もまんべんなく使って自由奔放にパスを飛ばす。
傍らのエリカの花の間をマルハナバチがせわしなく飛び回っている。まるっこい黒と黄色の胴体をもそもそ振りつつ薄紫の花の中に潜り込み、ひとしきり探索してからまた次の花へと移る。ぶーんと微かな羽音を響かせて。
頭上の木の枝では小鳥がさえずっている。アップテンポのメロディを小刻みにくり返し。だれかを呼んでいるのか、それとも探しているのか。
どこからからか肉を焼くにおいが漂ってくる。きっと近くの家の庭先でバーベキューをしているのだろう。
金色の穏やかな秋の陽射しが降り注ぐ平和な公園。この前、こんな風景を見たのは8月だったが……あの時と違い、今は一人だ。
「ふぅ……」
我知らず深いため息が漏れた。
発端は夢。
ひと月ほど前のこと、久しぶりにアレックスの夢を見た。ぼんやりと霞む町並みの中、そこだけくっきりとした色と形をそなえた彼の姿を見つけた。
どうやら、また彼の夢に入ってしまったらしい。
8月の一件以来、彼はヨーコの従弟サリーから指導を受けて徐々に力のコントロールを身につけていた。
そのおかげで無意識に他人の夢に入り込むことは滅多になくなってきていたのだが……。
何ぶんいまだ発展途上。たまにはこう言うこともある。しかし今の彼はあの頃とは違う。他人の夢と自分の夢が混じることもない。自覚さえしてしまえば抜け出すのは容易だ。
戻らなければ。
ああ、でも、もう少しだけ。
夢の中のアレックスは一人ではなかった。誰かと楽しげに歩いている。
子どもの頃のローゼンベルク弁護士だろうか? だが、それにしてはアレックスの姿は『現在』の彼だ。誰と一緒なのだろう?
ほとんど無自覚のうちに意識の焦点が絞られ、場面が変わる。
アレックスはその『誰か』と一緒に回転木馬に乗っていた。
一人は小さな男の子。そしてもう一人は……妙齢の女性。親しげにほほ笑みを交わし、手をとりあっている。女性と子どもの顔はよく見えない。見たくない。
弾かれるように目を覚ました。
(何だったんだ、あれは……)
一応、サリーから説明は受けていた。
『夢の力』のコントロールを覚えた今、彼自身にある種の予知夢を見る力が備わっていることを。
『見ようと思って見られるほど正確で安定したものじゃないんですけどね。確率の高い正夢みたいなものです』
(まさか、な……)
不吉な予感を振り払ってジーノ&ローゼンベルク法律事務所に赴いた。例に寄って電話かメールですむ程度のささやかな用事にかこつけて。
そこで、見てしまったのだ。
有能秘書の左手の薬指に宿る銀色の輝き……細い金のラインに縁取られたシンプルな指輪を。
ただのアクセサリーなんかじゃないことは一目瞭然。その瞬間、鮮烈に夢の風景が脳裏に蘇る。
(あれは正夢……いや、予知夢だったんだ!)
「結婚……したのかい、アレックス」
「はい。式はまだ挙げておりませんが」
「そうか……おめでとう」
ショックを押し隠し、笑顔で祝福の言葉をかけることができたのは……ある程度受け入れる心づもりができていたからだろうか。
回転木馬に乗るアレックスの夢を見た時に。
「式はいつだい? 場所は?」
自分の能力に感謝しよう。ほんの少しだけ。
「花を贈りたいんだ」
以来、ふっつりとジーノ&ローゼンベルク法律事務所に足を運ぶことはやめ、連絡も相談も打ち合せも全て自分の秘書に任せている。
「安心しましたわ、社長。これが本来の在り方なんです」
秘書の小言を上の空で聞き流し、持てる権限とコネの全てを駆使して最高の『枯れない薔薇』をあつらえた。
花びらに使うシルクのジョーゼットも、葉っぱや茎の素材となるサテンも全て自分で目を通し、指で触れて品質を確かめた。
花びらの色は暖かみのある淡いアプリコットオレンジを選んだ。夢の中でおぼろげに感じた女性のイメージに合わせて。
そして万事抜かりなく贈り物の手配を済ませた翌日、滅多に乗らないインパラを引き出し、あてのない旅に出たのだった。
現金払いで安モーテルに泊まり、宿帳に書く名前は普段使わない母親の旧姓。決してカードは使わず、微妙に身元をぼかしつつ。
そろそろ一週間になるだろうか……のばしっぱなしにした無精髭が形の良い顎と唇の周りを覆いつつあった。常にきちんとセットしていた髪の毛も風に吹き流されるままぼうぼうと乱れ放題、荒れ放題。
万が一知人と出くわしても、すぐには彼だとわからないかもしれない。
いっそ煙草か酒に溺れることでもできたなら。あいにくと煙草は吸わないし酒を買いに行く気力もない。
今頃、アレックスは式を挙げているのだろうか。花束は届いたかな……受けとってくれたかな。
ぼんやりしていると、チリン……とかすかな鈴の音を聞いた。
顔を上げる。
長い黒髪を結い上げ、赤い縁の眼鏡をかけた女性が立っていた。
白いスタンドカラーのブラウスにチョコレートブラウンのスカート、ゆるく編んだカフェオレ色のニットのストールを巻いている。
背筋をしゃんと伸ばして歩いてくる。まっすぐに、迷いのない足どりで。
ふわりと襟元に巻かれたストールが翻る。
「ヨーコ?」
彼女は屈み込むと手を伸ばし、頬に触れてきた。
「ヒゲぐらい剃りなさい、カルヴィン・ランドール・Jr。いい男が台無しよ?」
はっと目を覚ます。
彼女の姿はどこにもない。居るはずがないのだ。それは彼自身が一番良く知っている。
頬に手を当てる。ひんやりした細い指先の感触がまだ残っている。
ばすん!
目から軽く火花が散り、世界が揺れた。
子ども用の軽いボールだ。ほとんど痛みはない。が、衝撃はかなりのものがあった。
がっくんと勢いよく上体がそりかえり、かろうじてベンチの背もたれに支えられてひっくり返るのは免れたものの、みしいっと背骨がきしんだ。
頭上に伸びた楓の枝。青空を背にうっすらと赤や黄色に色づいた葉が枝を中心に散りばめられている。伸びる小枝は陽の光を求めて全て違う方向をめざしている。まるでモザイクだ……。
にゅっと男の子が一人顔をつきだした。
「お?」
「大丈夫?」
そっと手を伸ばし、額に触れてきた。
……温かい。
(ああ、彼女は自分より体温が低かったのだな)
半ば夢を見ているような心地で思い出す。
「……大丈夫だよ」
男の子はほっとして表情をやわらげると、ボールを抱えて戻っていった。
ちりん、とシャツの胸ポケットで鈴が鳴った。
赤い絹のリボンを返そうとしたとき、サリーに渡された小さな金色の鈴。
『それは持っていてくださいって、ヨーコさんが。あと、念のため、これを……』
『可愛い鈴だね』
『お守りです』
「………帰らないと」
歓声を挙げ、子どもたちが走って行く。誰かが決勝点を決めたらしい。
カルヴィン・ランドール・Jrはすっくとベンチから立ち上がり、歩き出した。携帯を取り出し、久しぶりに電源を入れる。
「ああ、シンディ? 私だ。心配かけてすまなかったね……」
駐車場に停めてあったココアブラウンのシボレーインパラに乗り込み、ばたん、とドアを閉めた。
「今から戻るよ」
次へ→【4-7-4】社長、仕事してください
いつもの仕立てのいいイタリアブランドのスーツの代わりにくたくたの木綿のシャツに履き古したジーンズ、スニーカーと言ったラフな服装で。
乗っているのも、静かなエンジン音に穏やかな走り、彼のステイタスにふさわしいトヨタの銀色の高級車ではない。
やかましい音、でかい車体、燃費はおせじにもいいとは言いがたい70年型のシボレーインパラ、色は赤みがかったココアブラウン。
何もかも大手紡績会社の二代目社長には似つかわしくない。
ついでに言うと誰も今、彼がこの場所にいるとは……知らなかった。両親、親族、友人、知人、彼の右腕である秘書のシンディでさえも。
公園のベンチに腰を下ろし、ぼんやりと物思いにふける。携帯の電源はこの一週間と言うもの一度も入れていない。
※月梨さん画「社長放浪中」
目の前の広場では子どもたちがボールを追いかけ回している。サッカーなのか。バスケットなのか。あるいはラグビーか。手も足も頭もまんべんなく使って自由奔放にパスを飛ばす。
傍らのエリカの花の間をマルハナバチがせわしなく飛び回っている。まるっこい黒と黄色の胴体をもそもそ振りつつ薄紫の花の中に潜り込み、ひとしきり探索してからまた次の花へと移る。ぶーんと微かな羽音を響かせて。
頭上の木の枝では小鳥がさえずっている。アップテンポのメロディを小刻みにくり返し。だれかを呼んでいるのか、それとも探しているのか。
どこからからか肉を焼くにおいが漂ってくる。きっと近くの家の庭先でバーベキューをしているのだろう。
金色の穏やかな秋の陽射しが降り注ぐ平和な公園。この前、こんな風景を見たのは8月だったが……あの時と違い、今は一人だ。
「ふぅ……」
我知らず深いため息が漏れた。
発端は夢。
ひと月ほど前のこと、久しぶりにアレックスの夢を見た。ぼんやりと霞む町並みの中、そこだけくっきりとした色と形をそなえた彼の姿を見つけた。
どうやら、また彼の夢に入ってしまったらしい。
8月の一件以来、彼はヨーコの従弟サリーから指導を受けて徐々に力のコントロールを身につけていた。
そのおかげで無意識に他人の夢に入り込むことは滅多になくなってきていたのだが……。
何ぶんいまだ発展途上。たまにはこう言うこともある。しかし今の彼はあの頃とは違う。他人の夢と自分の夢が混じることもない。自覚さえしてしまえば抜け出すのは容易だ。
戻らなければ。
ああ、でも、もう少しだけ。
夢の中のアレックスは一人ではなかった。誰かと楽しげに歩いている。
子どもの頃のローゼンベルク弁護士だろうか? だが、それにしてはアレックスの姿は『現在』の彼だ。誰と一緒なのだろう?
ほとんど無自覚のうちに意識の焦点が絞られ、場面が変わる。
アレックスはその『誰か』と一緒に回転木馬に乗っていた。
一人は小さな男の子。そしてもう一人は……妙齢の女性。親しげにほほ笑みを交わし、手をとりあっている。女性と子どもの顔はよく見えない。見たくない。
弾かれるように目を覚ました。
(何だったんだ、あれは……)
一応、サリーから説明は受けていた。
『夢の力』のコントロールを覚えた今、彼自身にある種の予知夢を見る力が備わっていることを。
『見ようと思って見られるほど正確で安定したものじゃないんですけどね。確率の高い正夢みたいなものです』
(まさか、な……)
不吉な予感を振り払ってジーノ&ローゼンベルク法律事務所に赴いた。例に寄って電話かメールですむ程度のささやかな用事にかこつけて。
そこで、見てしまったのだ。
有能秘書の左手の薬指に宿る銀色の輝き……細い金のラインに縁取られたシンプルな指輪を。
ただのアクセサリーなんかじゃないことは一目瞭然。その瞬間、鮮烈に夢の風景が脳裏に蘇る。
(あれは正夢……いや、予知夢だったんだ!)
「結婚……したのかい、アレックス」
「はい。式はまだ挙げておりませんが」
「そうか……おめでとう」
ショックを押し隠し、笑顔で祝福の言葉をかけることができたのは……ある程度受け入れる心づもりができていたからだろうか。
回転木馬に乗るアレックスの夢を見た時に。
「式はいつだい? 場所は?」
自分の能力に感謝しよう。ほんの少しだけ。
「花を贈りたいんだ」
以来、ふっつりとジーノ&ローゼンベルク法律事務所に足を運ぶことはやめ、連絡も相談も打ち合せも全て自分の秘書に任せている。
「安心しましたわ、社長。これが本来の在り方なんです」
秘書の小言を上の空で聞き流し、持てる権限とコネの全てを駆使して最高の『枯れない薔薇』をあつらえた。
花びらに使うシルクのジョーゼットも、葉っぱや茎の素材となるサテンも全て自分で目を通し、指で触れて品質を確かめた。
花びらの色は暖かみのある淡いアプリコットオレンジを選んだ。夢の中でおぼろげに感じた女性のイメージに合わせて。
そして万事抜かりなく贈り物の手配を済ませた翌日、滅多に乗らないインパラを引き出し、あてのない旅に出たのだった。
現金払いで安モーテルに泊まり、宿帳に書く名前は普段使わない母親の旧姓。決してカードは使わず、微妙に身元をぼかしつつ。
そろそろ一週間になるだろうか……のばしっぱなしにした無精髭が形の良い顎と唇の周りを覆いつつあった。常にきちんとセットしていた髪の毛も風に吹き流されるままぼうぼうと乱れ放題、荒れ放題。
万が一知人と出くわしても、すぐには彼だとわからないかもしれない。
いっそ煙草か酒に溺れることでもできたなら。あいにくと煙草は吸わないし酒を買いに行く気力もない。
今頃、アレックスは式を挙げているのだろうか。花束は届いたかな……受けとってくれたかな。
ぼんやりしていると、チリン……とかすかな鈴の音を聞いた。
顔を上げる。
長い黒髪を結い上げ、赤い縁の眼鏡をかけた女性が立っていた。
白いスタンドカラーのブラウスにチョコレートブラウンのスカート、ゆるく編んだカフェオレ色のニットのストールを巻いている。
背筋をしゃんと伸ばして歩いてくる。まっすぐに、迷いのない足どりで。
ふわりと襟元に巻かれたストールが翻る。
「ヨーコ?」
彼女は屈み込むと手を伸ばし、頬に触れてきた。
「ヒゲぐらい剃りなさい、カルヴィン・ランドール・Jr。いい男が台無しよ?」
はっと目を覚ます。
彼女の姿はどこにもない。居るはずがないのだ。それは彼自身が一番良く知っている。
頬に手を当てる。ひんやりした細い指先の感触がまだ残っている。
ばすん!
目から軽く火花が散り、世界が揺れた。
子ども用の軽いボールだ。ほとんど痛みはない。が、衝撃はかなりのものがあった。
がっくんと勢いよく上体がそりかえり、かろうじてベンチの背もたれに支えられてひっくり返るのは免れたものの、みしいっと背骨がきしんだ。
頭上に伸びた楓の枝。青空を背にうっすらと赤や黄色に色づいた葉が枝を中心に散りばめられている。伸びる小枝は陽の光を求めて全て違う方向をめざしている。まるでモザイクだ……。
にゅっと男の子が一人顔をつきだした。
「お?」
「大丈夫?」
そっと手を伸ばし、額に触れてきた。
……温かい。
(ああ、彼女は自分より体温が低かったのだな)
半ば夢を見ているような心地で思い出す。
「……大丈夫だよ」
男の子はほっとして表情をやわらげると、ボールを抱えて戻っていった。
ちりん、とシャツの胸ポケットで鈴が鳴った。
赤い絹のリボンを返そうとしたとき、サリーに渡された小さな金色の鈴。
『それは持っていてくださいって、ヨーコさんが。あと、念のため、これを……』
『可愛い鈴だね』
『お守りです』
「………帰らないと」
歓声を挙げ、子どもたちが走って行く。誰かが決勝点を決めたらしい。
カルヴィン・ランドール・Jrはすっくとベンチから立ち上がり、歩き出した。携帯を取り出し、久しぶりに電源を入れる。
「ああ、シンディ? 私だ。心配かけてすまなかったね……」
駐車場に停めてあったココアブラウンのシボレーインパラに乗り込み、ばたん、とドアを閉めた。
「今から戻るよ」
次へ→【4-7-4】社長、仕事してください
▼ 【4-7-4】社長、仕事してください
月曜日の朝。ランドール紡績の社長秘書、シンディはいつに無くいらいらと社長室の中を歩き回っていた。ふかふかの絨毯がヒールの踵をやさしく包み込み、音は響かない。
ちらり、とかっ色の手首に巻かれた銀色の時計に目を落す。そろそろ社長の出勤時間だ。しかし、彼は本当に来るのだろうか?
土曜日の午後、一週間前から失踪(そう、失踪だ!)していた社長からようやく電話があった。さすがにFBIに通報しようかと考えていた矢先に。
しかも当の社長と来たら、妙にさばさばした明るい口調でひとこと「今から戻る」と告げて、それからまた、連絡が途切れた。現在位置も告げずに、さっくりと。
いよいよFBIに通報か。それとも警察か。
まんじりともせずに迎えた日曜日の朝に再び電話があった。
「やあ、シンディ。実は車がエンストしてしまってね。迎えに来てもらえないだろうか」
とるものもとりあえず車をすっ飛ばして(かろうじてハンドルを握るのは運転手に任せた。とてもじゃないが自分で運転できる精神状態ではなかったのだ)電話のあった場所に駆けつけてみると、これがさびれた田舎町のこれまたさびれたドライブイン。
片隅のテーブルでにこやかに手を振る社長は髪の毛はぼうぼうに乱れに乱れ、無精髭は伸ばしっぱなし。
シャツはくしゃくしゃ、ジーンズは土ぼこりにまみれていい具合にうっすらベージュに染まっていた。
しかも所々に小さな穴が開いている。まるで大型犬にでも噛まれたように……。そして目の前のテーブルには空っぽの皿が積み上がり、ボウリングのピンみたいにころころとミネラルウォーターの空き瓶が転がっていた。
「いったい何があったんですか!」
「うん、岩漠地帯の真ん中で車がエンストしてしまって」
「それは聞きました。私が知りたいのは、その後です」
「しかたないからここまで歩いて来たんだ」
「ここまで? 歩いて?」
「電話をかけようにも圏外だったしね」
思わず声が裏返った。社長が常日頃体を鍛えているのは知っている。だが、それはあくまで都会に暮らすエグゼクティブな成人男性として見苦しくない程度の筋肉と体型を維持するためのものだ。アウトドア向けではない。
この人に、ほとんど飲まず食わずで土ぼこりにまみれて延々と石ころだらけの道を歩いて来るような体力があったなんて!
信じられないわ。
さらに信じられないことに、カルヴィン・ランドール・Jrは何故か裸足だった。
「靴はどうしたんですか」
「うっかり落したらしい」
「落す? どうやって?」
「歩きにくいから脱いだんだ。くわえていたらぽろりとね」
「くわえて?」
「あ、いや、抱えて、だ。混乱してるみたいだね……」
「そのようですね……」
素早くシンディはランドールの顔をのぞきこみ、傷の有無を確かめる。
さすがに疲れているようだが顔色はむしろ健康的。怪我もしていないようだ。ほうっと安堵がわきおこる。
「社長。貴方の取り柄はそのハンサムな顔ぐらいなんです」
「うん」
「プライベートで何をしても構いませんが……顔に傷を作ったら……許しませんわよ?」
はっとした表情で社長は額に手をやった。
「どうかしましたか?」
「あ、いや、何でもない」
その後、帰りの車の後部座席でランドールはすやすやと熟睡していた。
かろうじて意識を無くす前にエンストした場所を聞き出し、回収の手配を整えた。
そしてつい先ほど、ココアブラウンの70年型のシボレーインパラを発見、回収したと言う報告を確認したのだが……これが何と件のドライブインから60マイル(およそ100キロ)以上も離れた岩漠地帯のど真ん中だった。
いったい、何があったと言うのか。
社長の放浪癖にはさすがに慣れたが、今回のはあまりにもミステリアス。謎が多過ぎる。
あの後自宅まで送り届けたが、果たしてあのまま寝かせてしまって良かったものか。今日は大事な取引先の重役との会食が控えている。
迎えに行くべきだろうか? いや、いや、いくらなんでも小学生じゃあるまいし。ここはせめて電話を……。
携帯を開いた瞬間、ドアが開いた。
「おはよう、シンディ」
「社長」
※月梨さん画「社長と美人秘書」
素早く社長の周りを歩き回り、前後左右からくまなく身なりをチェックする。
いつもの黒を基調としたスーツに細いストライプのシャツ、きちんとダークブルーのネクタイをしめ、黒い髪は生来の柔らかなウェーブを崩さない程度に見栄えよく整えられている。
伸びていた無精髭もきれいに剃られ、さらに足元は磨き上げられた革靴を履いていた。
服には穴も空いていないし皺も寄っていない。ちゃんと靴も履いている。顔にはクマもなし、傷もなし、瞳は濁りのないサファイア・ブルー……よし、完ぺき。
2、3歩後ろに下がり、小さくうなずく。
「どうかしたかい?」
「いいえ。ただ、思っただけです」
珊瑚色のぽってりとした唇に艶っぽい笑みが浮かぶ。
「貴方が女ならもっと楽しめるのに……」
「光栄だね」
さらりとランドールは受け流した。
彼女の基準からすれば最大級のほめ言葉だ。シンディの恋愛対象は全て女性に限られているのだから。
二代目社長の代になってからランドール紡績はセクシャルマイノリティ雇用への垣根がかなり下がっていた。
元々の従業員のカミングアウト率も高い。社長自らがゲイである事実を公表しているからだ。両親、親族、友人知人にいたるまで……。
「では本日のスケジュールをご説明いたします」
てきぱきとスケジュール表を読み上げる美人秘書の傍らで、若社長はふと耳をそばだてた。スーツの胸ポケットから短い着信音が聞こえる。どうやらメールが届いたらしい。ポケットから携帯を引き出し、ディスプレイに表示される名前を確かめる。
送信者はカザミ・コウイチ、ヨーコの教え子であり、住んでいる場所こそ離れているが彼の『チームメイト』だ。仲間からの連絡は何を置いても真っ先に確認することにしている。
今、日本は夜中のはずだ。こんな時間にどうしたのだろう。緊急事態でなければ良いのだが……。
携帯を開いて画面を確かめる。
彼の英会話の鍛錬を兼ねて、コウイチとのメールのやりとりは全て英語で行っている。最近はアメリカから留学中の友だちに教えてもらいながら打っているらしく、だいぶ表現がこなれてきた。
『とっておきのレアな画像をお届けします。学校の文化祭の衣装合わせの写真です。サクヤさんにも送ったけど、せっかくだからランドールさんにも』
添付された写真を開いた瞬間、思わず口元がほころんだ。
ああ、確かにこれは滅多に見られないな。良いものを見せてもらった。
「……社長?」
「ん?」
ふと我に帰ると、秘書が手元をのぞきこんでいた。彼女の黒い瞳はじっとランドールが手にした携帯の画面に注がれている。
普段結い上げている黒髪をおろし、風船みたいなパフスリーブにぽんっとパラソルみたいにふくらんだスカートの水色のワンピースに白いフリルのたっぷりついたエプロンを身につけたヨーコの写真に。
しまった!
きらりとシンディの目が光る。獲物を狙うハンター、いや女豹の目つきをしていた。
「まあ、愛らしい。アリスですね」
「あっ、こら、人のメールを勝手に……」
「このチャーミングな女性はどなたです?」
慌ててランドールは携帯を閉じて胸ポケットに突っ込んだ。シンディは可愛いもの、きれいなものに目が無いのだ。
果たして、愛想のいいスマイル全開でこっちを見ている。この笑顔に騙されてはいけない。女豹は確実に狙いをつけている。一見優雅に立っているだけ、しかしその実、いつでも飛びかかれるよう、秘かにしなやかな四肢に力を貯えている。
「社長? ……どなたですの?」
「うっ……。……わ、私の大切な友人だ。だから駄目だぞ、絶対駄目だ」
「まだ何も言ってませんわ……。残念…お友達では、ね」
やれやれ、と胸をなでおろす。危ない所だった。
ゲイの社長とレズビアンの秘書、性的嗜好こそ異なるものの互いの趣味主張を尊重し、なおかつ堅い信頼関係で結ばれた二人の間には協定が結ばれていた。
いわく、お互いの友人、親族にはちょっかいを出さない、と。
「それ……で。何か、君、私に何かたずねたい事があったんじゃなかったかな?」
ひと呼吸置いて付け加える。
「ビジネス上のことで」
「ええ、午後からの会食の件ですが」
「…………あれ。今日だったかな?」
ああ、やっぱり忘れていた。しかもこの人ときたら、あの東洋のアリスに見とれて私の話を聞いていなかったのね!
「社長」
「何だい?」
「何度も申し上げますが、貴方の取り柄は顔。そのハンサムな顔なんです」
腰に手を当てると彼女はくいっと顎をそらし、斜向かいから雇い主の顔をねめつけた。
「社交くらい真面目にやって下さい」
しまった。
薮をつついてヘビを出したか。
ランドールは本日二度目の舌打ちをした。あくまで心の中で。くれぐれも美人秘書には聞こえぬように、悟られぬように。
そして素直に首を縦に振る。
「OK、シンディ……真面目に仕事するよ」
シンディは艶やかにほほ笑むと、どさりと。デスクの上に大量の書類を積み上げたのだった。
次へ→【4-7-5】迷走波紋拡大中1
ちらり、とかっ色の手首に巻かれた銀色の時計に目を落す。そろそろ社長の出勤時間だ。しかし、彼は本当に来るのだろうか?
土曜日の午後、一週間前から失踪(そう、失踪だ!)していた社長からようやく電話があった。さすがにFBIに通報しようかと考えていた矢先に。
しかも当の社長と来たら、妙にさばさばした明るい口調でひとこと「今から戻る」と告げて、それからまた、連絡が途切れた。現在位置も告げずに、さっくりと。
いよいよFBIに通報か。それとも警察か。
まんじりともせずに迎えた日曜日の朝に再び電話があった。
「やあ、シンディ。実は車がエンストしてしまってね。迎えに来てもらえないだろうか」
とるものもとりあえず車をすっ飛ばして(かろうじてハンドルを握るのは運転手に任せた。とてもじゃないが自分で運転できる精神状態ではなかったのだ)電話のあった場所に駆けつけてみると、これがさびれた田舎町のこれまたさびれたドライブイン。
片隅のテーブルでにこやかに手を振る社長は髪の毛はぼうぼうに乱れに乱れ、無精髭は伸ばしっぱなし。
シャツはくしゃくしゃ、ジーンズは土ぼこりにまみれていい具合にうっすらベージュに染まっていた。
しかも所々に小さな穴が開いている。まるで大型犬にでも噛まれたように……。そして目の前のテーブルには空っぽの皿が積み上がり、ボウリングのピンみたいにころころとミネラルウォーターの空き瓶が転がっていた。
「いったい何があったんですか!」
「うん、岩漠地帯の真ん中で車がエンストしてしまって」
「それは聞きました。私が知りたいのは、その後です」
「しかたないからここまで歩いて来たんだ」
「ここまで? 歩いて?」
「電話をかけようにも圏外だったしね」
思わず声が裏返った。社長が常日頃体を鍛えているのは知っている。だが、それはあくまで都会に暮らすエグゼクティブな成人男性として見苦しくない程度の筋肉と体型を維持するためのものだ。アウトドア向けではない。
この人に、ほとんど飲まず食わずで土ぼこりにまみれて延々と石ころだらけの道を歩いて来るような体力があったなんて!
信じられないわ。
さらに信じられないことに、カルヴィン・ランドール・Jrは何故か裸足だった。
「靴はどうしたんですか」
「うっかり落したらしい」
「落す? どうやって?」
「歩きにくいから脱いだんだ。くわえていたらぽろりとね」
「くわえて?」
「あ、いや、抱えて、だ。混乱してるみたいだね……」
「そのようですね……」
素早くシンディはランドールの顔をのぞきこみ、傷の有無を確かめる。
さすがに疲れているようだが顔色はむしろ健康的。怪我もしていないようだ。ほうっと安堵がわきおこる。
「社長。貴方の取り柄はそのハンサムな顔ぐらいなんです」
「うん」
「プライベートで何をしても構いませんが……顔に傷を作ったら……許しませんわよ?」
はっとした表情で社長は額に手をやった。
「どうかしましたか?」
「あ、いや、何でもない」
その後、帰りの車の後部座席でランドールはすやすやと熟睡していた。
かろうじて意識を無くす前にエンストした場所を聞き出し、回収の手配を整えた。
そしてつい先ほど、ココアブラウンの70年型のシボレーインパラを発見、回収したと言う報告を確認したのだが……これが何と件のドライブインから60マイル(およそ100キロ)以上も離れた岩漠地帯のど真ん中だった。
いったい、何があったと言うのか。
社長の放浪癖にはさすがに慣れたが、今回のはあまりにもミステリアス。謎が多過ぎる。
あの後自宅まで送り届けたが、果たしてあのまま寝かせてしまって良かったものか。今日は大事な取引先の重役との会食が控えている。
迎えに行くべきだろうか? いや、いや、いくらなんでも小学生じゃあるまいし。ここはせめて電話を……。
携帯を開いた瞬間、ドアが開いた。
「おはよう、シンディ」
「社長」
※月梨さん画「社長と美人秘書」
素早く社長の周りを歩き回り、前後左右からくまなく身なりをチェックする。
いつもの黒を基調としたスーツに細いストライプのシャツ、きちんとダークブルーのネクタイをしめ、黒い髪は生来の柔らかなウェーブを崩さない程度に見栄えよく整えられている。
伸びていた無精髭もきれいに剃られ、さらに足元は磨き上げられた革靴を履いていた。
服には穴も空いていないし皺も寄っていない。ちゃんと靴も履いている。顔にはクマもなし、傷もなし、瞳は濁りのないサファイア・ブルー……よし、完ぺき。
2、3歩後ろに下がり、小さくうなずく。
「どうかしたかい?」
「いいえ。ただ、思っただけです」
珊瑚色のぽってりとした唇に艶っぽい笑みが浮かぶ。
「貴方が女ならもっと楽しめるのに……」
「光栄だね」
さらりとランドールは受け流した。
彼女の基準からすれば最大級のほめ言葉だ。シンディの恋愛対象は全て女性に限られているのだから。
二代目社長の代になってからランドール紡績はセクシャルマイノリティ雇用への垣根がかなり下がっていた。
元々の従業員のカミングアウト率も高い。社長自らがゲイである事実を公表しているからだ。両親、親族、友人知人にいたるまで……。
「では本日のスケジュールをご説明いたします」
てきぱきとスケジュール表を読み上げる美人秘書の傍らで、若社長はふと耳をそばだてた。スーツの胸ポケットから短い着信音が聞こえる。どうやらメールが届いたらしい。ポケットから携帯を引き出し、ディスプレイに表示される名前を確かめる。
送信者はカザミ・コウイチ、ヨーコの教え子であり、住んでいる場所こそ離れているが彼の『チームメイト』だ。仲間からの連絡は何を置いても真っ先に確認することにしている。
今、日本は夜中のはずだ。こんな時間にどうしたのだろう。緊急事態でなければ良いのだが……。
携帯を開いて画面を確かめる。
彼の英会話の鍛錬を兼ねて、コウイチとのメールのやりとりは全て英語で行っている。最近はアメリカから留学中の友だちに教えてもらいながら打っているらしく、だいぶ表現がこなれてきた。
『とっておきのレアな画像をお届けします。学校の文化祭の衣装合わせの写真です。サクヤさんにも送ったけど、せっかくだからランドールさんにも』
添付された写真を開いた瞬間、思わず口元がほころんだ。
ああ、確かにこれは滅多に見られないな。良いものを見せてもらった。
「……社長?」
「ん?」
ふと我に帰ると、秘書が手元をのぞきこんでいた。彼女の黒い瞳はじっとランドールが手にした携帯の画面に注がれている。
普段結い上げている黒髪をおろし、風船みたいなパフスリーブにぽんっとパラソルみたいにふくらんだスカートの水色のワンピースに白いフリルのたっぷりついたエプロンを身につけたヨーコの写真に。
しまった!
きらりとシンディの目が光る。獲物を狙うハンター、いや女豹の目つきをしていた。
「まあ、愛らしい。アリスですね」
「あっ、こら、人のメールを勝手に……」
「このチャーミングな女性はどなたです?」
慌ててランドールは携帯を閉じて胸ポケットに突っ込んだ。シンディは可愛いもの、きれいなものに目が無いのだ。
果たして、愛想のいいスマイル全開でこっちを見ている。この笑顔に騙されてはいけない。女豹は確実に狙いをつけている。一見優雅に立っているだけ、しかしその実、いつでも飛びかかれるよう、秘かにしなやかな四肢に力を貯えている。
「社長? ……どなたですの?」
「うっ……。……わ、私の大切な友人だ。だから駄目だぞ、絶対駄目だ」
「まだ何も言ってませんわ……。残念…お友達では、ね」
やれやれ、と胸をなでおろす。危ない所だった。
ゲイの社長とレズビアンの秘書、性的嗜好こそ異なるものの互いの趣味主張を尊重し、なおかつ堅い信頼関係で結ばれた二人の間には協定が結ばれていた。
いわく、お互いの友人、親族にはちょっかいを出さない、と。
「それ……で。何か、君、私に何かたずねたい事があったんじゃなかったかな?」
ひと呼吸置いて付け加える。
「ビジネス上のことで」
「ええ、午後からの会食の件ですが」
「…………あれ。今日だったかな?」
ああ、やっぱり忘れていた。しかもこの人ときたら、あの東洋のアリスに見とれて私の話を聞いていなかったのね!
「社長」
「何だい?」
「何度も申し上げますが、貴方の取り柄は顔。そのハンサムな顔なんです」
腰に手を当てると彼女はくいっと顎をそらし、斜向かいから雇い主の顔をねめつけた。
「社交くらい真面目にやって下さい」
しまった。
薮をつついてヘビを出したか。
ランドールは本日二度目の舌打ちをした。あくまで心の中で。くれぐれも美人秘書には聞こえぬように、悟られぬように。
そして素直に首を縦に振る。
「OK、シンディ……真面目に仕事するよ」
シンディは艶やかにほほ笑むと、どさりと。デスクの上に大量の書類を積み上げたのだった。
次へ→【4-7-5】迷走波紋拡大中1
▼ 【4-7-5】迷走波紋拡大中1
ランドール紡績の若き二代目社長が謎めいた失踪から帰還して3日後。
サリーは街角のコーヒースタンドで一人、カフェラテを飲んでいた。
既に時間は午後6時を回っている。目の前の通りは刻一刻と藍色の闇に溶け込み、車のライトや店の看板のネオンがこうこうと浮び上がる。
サンフランシスコは坂の町だ。斜面に沿って舗装された道が伸び、その両脇に家が立ち並んでいる。
こうして今、辺りが暗くなると、家の灯りが急激な斜面のかなり上の方まで覆っているのが分る。今でこそ建物が並んでいるこの場所も、かつてはうっそうとした山奥だったのだ。
(ずいぶん陽が落ちるのが早くなったな……)
先週はランドールさんと連絡がとれず心配した。なまじ訓練の途中にいるだけに精神状態が不安定になると厄介なのだ。
コントロールを失った能力が思わぬ方向に暴走し、よからぬモノを引き寄せてしまう。
一応、『お守り』は渡してあったし、ヨーコさんからは心配ない、と連絡が来たけれど……。
いつもは週末に会う予定なのを少し早めて、こうして木曜の夜に二人の仕事が引けてから待ち合わせをしているのだった。
(そう言えばこんな時間にあの人と会うのは始めてかもしれない。一緒に夕食を食べることになるのかな)
厚みのある紙コップを両手で包み込むようにして持ち上げ、あたたかいカフェラテを口に含む。ふわふわに泡立ったミルクが唇に触れてくすぐったい。
ひとくちこくんと飲み下し、ほう、と息をついた所で待ち人が現れた。
「やあ、サリー……」
「ど、どうしたんですか、ランドールさんっ!」
一瞬、ぐったりした大型犬が診察室に入ってきたような錯覚にとらわれた。
この前会った時より陽に焼けている。これはまあいい。むしろ健康的だ。しかし、全体的にげっそりとやつれていて、何と言うか、毛並みがパサパサしてる!
「大丈夫……ですか?」
「ああ、大丈夫だよ。しばらく一人旅をしていたら、仕事が詰まってしまってね。秘書にびしばしとしごかれた」
「ああ、それで……」
よく見ると目の下にうっすらクマが浮いていた。
ランドールはよれっとサリーの向かい側に座ると手にした紙コップの中味をすすった。かなり濃厚なコーヒーの香りが漂ってくる。いったいエスプレッソを何ショット追加したんだろう?
「おや?」
ふとランドールは顔を挙げてサリーの服装に目をとめた。濃いめの茶色のスーツに紺色のタイを締め、革靴を履いている。いつものスクールボーイ然としたカジュアルな服装とはまた違った、すっきりとしたたおやかさがある。
「珍しいね、今日はスーツなんだな」
「はい。先生のお供できちんとした席に出たので」
なるほど、と言うようにうなずくと、ランドールは再び紙コップに口をつけた。
ず、ず、ず、じゅういいい……。
いつもの洗練された物腰はどこへやら。音を立てて最後までコーヒーをすすり終えると、ほうっと深くため息をついた。
同時に、ぐぅ、と腹が鳴る。
「あ……何か、食べます?」
「そうだね。時間も時間だし、もっとしっかりした食事のできる場所に行こうか」
「はい」
紙ナプキンでくいっと口元を拭うとランドールは席を立ち……
「近くによく行く店があるんだ。美味いパエリアを食わせてくれるよ。シーフードは好きかな?」
「はい。ぜひ!」
サリーをエスコートして歩き出した。せわしなく行き交う人の波から小柄な彼を守るようにして、極めて自然にさりげなく。
※ ※ ※
案内された店の中を見渡すなり、サリーは目を輝かせた。
「水族館みたいですね」
半分地下になった店の壁面は巨大な水槽になっていて、色とりどりの熱帯魚が泳いでいる。中でも中央にしつらえられた水槽には、ひときわ大きな薄紅色の魚がゆったりと浮かんでいる。平べったい流線型の体、大きなメタリックな輝きの鱗、下あごが突き出し、尾びれは丸く、どことなく東洋の龍を思わせる。
「うわあ、アロワナだ! すごいなぁ……」
「1mくらいあるんじゃないかな? ここの『看板娘』だよ」
「メスなんだ」
「うん。店の名前の由来にもなっている」
「ああ、マーメイド……」
そう言われると何となく龍と言うより人魚っぽく見えてくるから不思議だ。
「いらっしゃいませ、ランドールさま」
白いシャツに蝶ネクタイをしめ、黒いベストにグレイのズボンを身につけた男性が音もなく現れ、うやうやしく一礼した。
「予約はしていないが……いいかな? 二人だ」
「もちろんです。こちらにどうぞ」
ゆらめく淡い光の中を通り抜け、奥のテーブルへと案内された。確かに常連らしい。うやうやしくさし出されたメニューにささっと目を走らせる。
うわぁ……けっこういいお値段。お金、足りるかな。
ちらっと不安を覚えた、まさにその刹那。絶好のタイミングでさらりと声をかけられた。
「サリー」
「はい?」
「今夜は私にご馳走させてくれないかな。君にはいつも世話になってるし……先週は私の気まぐれな一人旅のせいで授業を無断欠席してしまったからね」
「ありがとうございます」
あどけない若社長の笑顔を見て、サリーは素直にうなずくことにした。ここで遠慮してしまったらかえって気を使わせてしまうだろう。
料理のオーダーは彼におまかせすることにした。
「何か飲むかい?」
「それじゃ、カンパリソーダを」
「私はブルドックを」
「かしこまりました」
運ばれてきた前菜を前に、軽く互いのグラスを掲げて中味を口に運ぶ。
「それで、一人旅って、どこに?」
「うん、南の方へ、ちょっと」
「南……ですか」
「うん。ユタ州との州境近くまで行ってきた。途中で車がエンストしてえらい目にあった」
ランドールは肩をすくめ、どこか遠くを見るような目つきをした。
「人の住んでる町まで60マイル近く歩く羽目になって……」
その瞬間、サリーは思い出していた。昼間の大学で友人達と交わした会話を。
ローカルニュースできわめて奇妙な話題が取り上げられ、ネタがネタなだけに獣医学部ではひとしきり盛り上がったのだ。
『南カリフォルニアの田舎町で、さ。子牛ほどでっかい狼が出たって警察に通報があって。保安官が駆けつけてさがし回ったけど……結局、見つからなかったらしいぜ』
すかさず犬科を研究テーマにしているテリーが目を輝かせて食いついた。
『マジか? できればすっ飛んでって現地調査したいな……どんだけでかい個体なのか、大いに興味あるよ。本物の野生の狼なんて今じゃ滅多におめにかかれないし。絶好の研究材料だ!』
『でも結局見つからなかったんでしょ?』
『大方、迷い牛を見間違えたとか、そんなオチじゃないか?』
『そうそう。黒ヒョウが出たーって通報で警察がすっとんでったら、ちょっとでかい家ネコだったって例もあるくらいだし!』
『あー、あったね、フランスで』
『どんだけでかい猫なんだ……』
『あるいは未確認動物(UMA)とか』
『おいおい、冗談言っちゃこまるぜセニョール。ここをどこだと思ってるんだい。獣医学部の研究室だぜ?』
…………見間違いじゃなかったんだ。
サリーは思わずこめかみに手を当てた。迷い牛でもなければ、もちろんUMAでもない。答えはおそらく、目の前にある……いや、居る、と言うべきか。
「もしかして、あれ、使いました?」
「うん。二本足で歩くより早かった」
「そう……ですか……」
(使っちゃったんだ……)
良かった。テリーが本気で調査に行く、なんて言い出さなくて。
「サリー」
「何でしょう」
「色々心配かけてしまったようだね」
ランドールはテーブルの上に置かれたサリーの手をそっと両手で包み込むようにして握った。心からの感謝と謝罪の意を込めて、紳士的な礼儀を崩さないレベルの節度を保ちつつ。
「すまなかった」
「いえ……」
サリーは穏やかにほほ笑んだ。
「ヨーコさんが心配ないよって言ってましたから」
※ ※ ※ ※
がたん!
この瞬間、少し離れたテーブルで立ち上がった客が約一名居た。
濃いめの金髪にライムグリーンの瞳、ダークグレイのズボンに黒のベスト、白のシャツにアスコットタイ。ともすれば店内を行き交うウェイターに紛れてしまいそうな服装の男性が。
元サンフランシスコ市警察の内勤巡査、今は古書店の店主、英国生まれのカリフォルニア育ちのエドワード・エヴェン・エドワーズ。
警官時代の上司、マクダネル警部補がいきなりアポなしで砂岩づくりの彼の店に押しかけてきたのは今日の夕方の出来事だった。
『たまにはお前も外の空気を吸え』
愛猫のリズの生んだ6匹の子猫たちも残らずもらわれて行った今、『子猫の世話があるから』という言い訳は使えなかった。
有無を言わさず引きずって来られたが、考えてみれば夜の町で誰かと酒を飲むのも久しぶりだ。
幸い今夜は警部補のおごりだと言うし、料理も酒もなかなか美味い。たまにはいいだろう。
グラスを傾けつつ思い出話や互いの近況を語り合い、それなりに楽しんでいた所に、どかんと一発、爆弾が落ちてきた。
入ってきた客の中にサリー先生が居たのだ。しかも身なりのいいハンサムな男性にエスコートされて、きちんとしたスーツを着て!
(何てこった。まるで、これじゃデートみたいじゃないか!)
巨大な洗濯機にぶちこまれたような心地がした。身も心もぐるんぐるんと引っ掻き回され、混乱しながらも食い入るように二人の動きを追いかける……目で。あくまで、目で。
奥のテーブルに案内され、メニューを見た瞬間、サリー先生の表情が変わった。値段を見て驚いているのだろう。自分もそうだった。
警部補のおごりでもなければ到底、こんな店では飲み食いできない。
すかさず青い瞳のハンサムな男性が何事かささやき、サリー先生がうなずくのがわかった。
さすがにここからでは何を言っているのかまでは聞こえないがおおよその察しは着く。この手の店でデートの際に男の囁く定番の台詞だろう。
『今夜は私にご馳走させてほしい。何でも好きなものを頼んでくれ』
『君は何を飲む?』
ぐいっとグラスの中味を一気にあおった。いぶした木材と穀類の醸す芳醇な香りと、強烈なアルコールの刺激が喉を駆け上り脳天に突き抜ける。
「おい、エドワーズ……大丈夫か?」
「大丈夫です。おかわりしていいですか」
「ああ、遠慮するな」
もはや警部補の話も店内に流れる洗練されたBGMも全て頭の中を素通りして行く。水槽の中でゆるりと優雅に身を翻すアロワナも、蝶のようにひらひら舞う色とりどりの熱帯魚もただのモノクロームの貼り絵に等しい。
エドワーズの目と耳はただ、ただ、全力でサリー先生とその連れに向けられていた。どんな些細な動作も見逃すまいと、集中していた。
グラスを傾けながら何やら話している。かなり親しそうだ。Mr.メイリールの比ではない。
透き通った赤かっ色、細やかな泡の浮かぶグラス。サリー先生が飲んでいるのはおそらくカンパリソーダだ。リキュールベースの爽やかな口当たりのカクテルだがアルコールは意外に強い。
相手の男性が飲んでいるのは……あのとろりとした明るい黄色はソルティドッグだろうか。いや、グラスの縁に塩の輪がないからブルドックの方だな。最初からウォッカベースのカクテルを飲むなんて、かなりの酒好きと見た。
食前にシェリーをたしなむような気合いの入ったデートではないのだ……逆に考えれば、お互いにそこまでくつろいだ飲み方のできる相手だと言うことか。
そのうち、サリー先生が軽くこめかみに手を当ててうつむいた。小さくため息までついている。
一体、何があったんだ?
身を乗り出しそうになったその刹那。青い瞳のハンサムな男はこの上も無く魅惑的なほほ笑みを浮かべると、そっと手を。
サリー先生の手を、両手で包み込んだではないか!
がたん!
椅子が鳴り、天井との距離が詰まる。つり下げ式のレトロなライトが目の前で揺れている。
思わず立ち上がっていた。しかも、かなりの勢いで。
「どうした、エドワーズ」
マクダネル警部補が怪訝そうに見上げている。
「いえ…………何でも……ありません」
信頼のおける上司ってのはいいもんだ。いつ、いかなる時でも彼の呼びかけを聞くと冷静になれる。警察を辞めた後でもその条件づけは残っていてくれていたらしい。
ああ、それにしても……サリー先生、うれしそうにほほ笑んでいる。
ほんのりと頬まで染めて、何て愛らしいのだろう。
(きっと、楽しいんだろうな…………あの人と一緒にいるのが)
「……警部補。おかわりしてもいいですか」
「あ、ああ、かまわないぞ」
「ボトルで」
(悔しいが、彼は私より若いし、ハンサムだし、金持ちだし、立ち居振る舞いも紳士的で……お似合いだ)
片や自分はと言えば、冴えない中年、出不精の本屋、しかもバツイチ。恋人にするのならどっちがいいか、なんてあえて比較するまでもない。
運ばれてきたスコッチを、エドワーズは水もソーダも氷すら入れずにくいくいと流し込んだ。
かろうじて、グラスで。
「おい、エドワーズ……大丈夫か?」
「大丈夫です」
だんっと空になったグラスをテーブルに置き、次の一杯を注ぐ。
「今、ものすごく飲みたい気分なんです」
次へ【4-7-6】迷走波紋拡大中2
サリーは街角のコーヒースタンドで一人、カフェラテを飲んでいた。
既に時間は午後6時を回っている。目の前の通りは刻一刻と藍色の闇に溶け込み、車のライトや店の看板のネオンがこうこうと浮び上がる。
サンフランシスコは坂の町だ。斜面に沿って舗装された道が伸び、その両脇に家が立ち並んでいる。
こうして今、辺りが暗くなると、家の灯りが急激な斜面のかなり上の方まで覆っているのが分る。今でこそ建物が並んでいるこの場所も、かつてはうっそうとした山奥だったのだ。
(ずいぶん陽が落ちるのが早くなったな……)
先週はランドールさんと連絡がとれず心配した。なまじ訓練の途中にいるだけに精神状態が不安定になると厄介なのだ。
コントロールを失った能力が思わぬ方向に暴走し、よからぬモノを引き寄せてしまう。
一応、『お守り』は渡してあったし、ヨーコさんからは心配ない、と連絡が来たけれど……。
いつもは週末に会う予定なのを少し早めて、こうして木曜の夜に二人の仕事が引けてから待ち合わせをしているのだった。
(そう言えばこんな時間にあの人と会うのは始めてかもしれない。一緒に夕食を食べることになるのかな)
厚みのある紙コップを両手で包み込むようにして持ち上げ、あたたかいカフェラテを口に含む。ふわふわに泡立ったミルクが唇に触れてくすぐったい。
ひとくちこくんと飲み下し、ほう、と息をついた所で待ち人が現れた。
「やあ、サリー……」
「ど、どうしたんですか、ランドールさんっ!」
一瞬、ぐったりした大型犬が診察室に入ってきたような錯覚にとらわれた。
この前会った時より陽に焼けている。これはまあいい。むしろ健康的だ。しかし、全体的にげっそりとやつれていて、何と言うか、毛並みがパサパサしてる!
「大丈夫……ですか?」
「ああ、大丈夫だよ。しばらく一人旅をしていたら、仕事が詰まってしまってね。秘書にびしばしとしごかれた」
「ああ、それで……」
よく見ると目の下にうっすらクマが浮いていた。
ランドールはよれっとサリーの向かい側に座ると手にした紙コップの中味をすすった。かなり濃厚なコーヒーの香りが漂ってくる。いったいエスプレッソを何ショット追加したんだろう?
「おや?」
ふとランドールは顔を挙げてサリーの服装に目をとめた。濃いめの茶色のスーツに紺色のタイを締め、革靴を履いている。いつものスクールボーイ然としたカジュアルな服装とはまた違った、すっきりとしたたおやかさがある。
「珍しいね、今日はスーツなんだな」
「はい。先生のお供できちんとした席に出たので」
なるほど、と言うようにうなずくと、ランドールは再び紙コップに口をつけた。
ず、ず、ず、じゅういいい……。
いつもの洗練された物腰はどこへやら。音を立てて最後までコーヒーをすすり終えると、ほうっと深くため息をついた。
同時に、ぐぅ、と腹が鳴る。
「あ……何か、食べます?」
「そうだね。時間も時間だし、もっとしっかりした食事のできる場所に行こうか」
「はい」
紙ナプキンでくいっと口元を拭うとランドールは席を立ち……
「近くによく行く店があるんだ。美味いパエリアを食わせてくれるよ。シーフードは好きかな?」
「はい。ぜひ!」
サリーをエスコートして歩き出した。せわしなく行き交う人の波から小柄な彼を守るようにして、極めて自然にさりげなく。
※ ※ ※
案内された店の中を見渡すなり、サリーは目を輝かせた。
「水族館みたいですね」
半分地下になった店の壁面は巨大な水槽になっていて、色とりどりの熱帯魚が泳いでいる。中でも中央にしつらえられた水槽には、ひときわ大きな薄紅色の魚がゆったりと浮かんでいる。平べったい流線型の体、大きなメタリックな輝きの鱗、下あごが突き出し、尾びれは丸く、どことなく東洋の龍を思わせる。
「うわあ、アロワナだ! すごいなぁ……」
「1mくらいあるんじゃないかな? ここの『看板娘』だよ」
「メスなんだ」
「うん。店の名前の由来にもなっている」
「ああ、マーメイド……」
そう言われると何となく龍と言うより人魚っぽく見えてくるから不思議だ。
「いらっしゃいませ、ランドールさま」
白いシャツに蝶ネクタイをしめ、黒いベストにグレイのズボンを身につけた男性が音もなく現れ、うやうやしく一礼した。
「予約はしていないが……いいかな? 二人だ」
「もちろんです。こちらにどうぞ」
ゆらめく淡い光の中を通り抜け、奥のテーブルへと案内された。確かに常連らしい。うやうやしくさし出されたメニューにささっと目を走らせる。
うわぁ……けっこういいお値段。お金、足りるかな。
ちらっと不安を覚えた、まさにその刹那。絶好のタイミングでさらりと声をかけられた。
「サリー」
「はい?」
「今夜は私にご馳走させてくれないかな。君にはいつも世話になってるし……先週は私の気まぐれな一人旅のせいで授業を無断欠席してしまったからね」
「ありがとうございます」
あどけない若社長の笑顔を見て、サリーは素直にうなずくことにした。ここで遠慮してしまったらかえって気を使わせてしまうだろう。
料理のオーダーは彼におまかせすることにした。
「何か飲むかい?」
「それじゃ、カンパリソーダを」
「私はブルドックを」
「かしこまりました」
運ばれてきた前菜を前に、軽く互いのグラスを掲げて中味を口に運ぶ。
「それで、一人旅って、どこに?」
「うん、南の方へ、ちょっと」
「南……ですか」
「うん。ユタ州との州境近くまで行ってきた。途中で車がエンストしてえらい目にあった」
ランドールは肩をすくめ、どこか遠くを見るような目つきをした。
「人の住んでる町まで60マイル近く歩く羽目になって……」
その瞬間、サリーは思い出していた。昼間の大学で友人達と交わした会話を。
ローカルニュースできわめて奇妙な話題が取り上げられ、ネタがネタなだけに獣医学部ではひとしきり盛り上がったのだ。
『南カリフォルニアの田舎町で、さ。子牛ほどでっかい狼が出たって警察に通報があって。保安官が駆けつけてさがし回ったけど……結局、見つからなかったらしいぜ』
すかさず犬科を研究テーマにしているテリーが目を輝かせて食いついた。
『マジか? できればすっ飛んでって現地調査したいな……どんだけでかい個体なのか、大いに興味あるよ。本物の野生の狼なんて今じゃ滅多におめにかかれないし。絶好の研究材料だ!』
『でも結局見つからなかったんでしょ?』
『大方、迷い牛を見間違えたとか、そんなオチじゃないか?』
『そうそう。黒ヒョウが出たーって通報で警察がすっとんでったら、ちょっとでかい家ネコだったって例もあるくらいだし!』
『あー、あったね、フランスで』
『どんだけでかい猫なんだ……』
『あるいは未確認動物(UMA)とか』
『おいおい、冗談言っちゃこまるぜセニョール。ここをどこだと思ってるんだい。獣医学部の研究室だぜ?』
…………見間違いじゃなかったんだ。
サリーは思わずこめかみに手を当てた。迷い牛でもなければ、もちろんUMAでもない。答えはおそらく、目の前にある……いや、居る、と言うべきか。
「もしかして、あれ、使いました?」
「うん。二本足で歩くより早かった」
「そう……ですか……」
(使っちゃったんだ……)
良かった。テリーが本気で調査に行く、なんて言い出さなくて。
「サリー」
「何でしょう」
「色々心配かけてしまったようだね」
ランドールはテーブルの上に置かれたサリーの手をそっと両手で包み込むようにして握った。心からの感謝と謝罪の意を込めて、紳士的な礼儀を崩さないレベルの節度を保ちつつ。
「すまなかった」
「いえ……」
サリーは穏やかにほほ笑んだ。
「ヨーコさんが心配ないよって言ってましたから」
※ ※ ※ ※
がたん!
この瞬間、少し離れたテーブルで立ち上がった客が約一名居た。
濃いめの金髪にライムグリーンの瞳、ダークグレイのズボンに黒のベスト、白のシャツにアスコットタイ。ともすれば店内を行き交うウェイターに紛れてしまいそうな服装の男性が。
元サンフランシスコ市警察の内勤巡査、今は古書店の店主、英国生まれのカリフォルニア育ちのエドワード・エヴェン・エドワーズ。
警官時代の上司、マクダネル警部補がいきなりアポなしで砂岩づくりの彼の店に押しかけてきたのは今日の夕方の出来事だった。
『たまにはお前も外の空気を吸え』
愛猫のリズの生んだ6匹の子猫たちも残らずもらわれて行った今、『子猫の世話があるから』という言い訳は使えなかった。
有無を言わさず引きずって来られたが、考えてみれば夜の町で誰かと酒を飲むのも久しぶりだ。
幸い今夜は警部補のおごりだと言うし、料理も酒もなかなか美味い。たまにはいいだろう。
グラスを傾けつつ思い出話や互いの近況を語り合い、それなりに楽しんでいた所に、どかんと一発、爆弾が落ちてきた。
入ってきた客の中にサリー先生が居たのだ。しかも身なりのいいハンサムな男性にエスコートされて、きちんとしたスーツを着て!
(何てこった。まるで、これじゃデートみたいじゃないか!)
巨大な洗濯機にぶちこまれたような心地がした。身も心もぐるんぐるんと引っ掻き回され、混乱しながらも食い入るように二人の動きを追いかける……目で。あくまで、目で。
奥のテーブルに案内され、メニューを見た瞬間、サリー先生の表情が変わった。値段を見て驚いているのだろう。自分もそうだった。
警部補のおごりでもなければ到底、こんな店では飲み食いできない。
すかさず青い瞳のハンサムな男性が何事かささやき、サリー先生がうなずくのがわかった。
さすがにここからでは何を言っているのかまでは聞こえないがおおよその察しは着く。この手の店でデートの際に男の囁く定番の台詞だろう。
『今夜は私にご馳走させてほしい。何でも好きなものを頼んでくれ』
『君は何を飲む?』
ぐいっとグラスの中味を一気にあおった。いぶした木材と穀類の醸す芳醇な香りと、強烈なアルコールの刺激が喉を駆け上り脳天に突き抜ける。
「おい、エドワーズ……大丈夫か?」
「大丈夫です。おかわりしていいですか」
「ああ、遠慮するな」
もはや警部補の話も店内に流れる洗練されたBGMも全て頭の中を素通りして行く。水槽の中でゆるりと優雅に身を翻すアロワナも、蝶のようにひらひら舞う色とりどりの熱帯魚もただのモノクロームの貼り絵に等しい。
エドワーズの目と耳はただ、ただ、全力でサリー先生とその連れに向けられていた。どんな些細な動作も見逃すまいと、集中していた。
グラスを傾けながら何やら話している。かなり親しそうだ。Mr.メイリールの比ではない。
透き通った赤かっ色、細やかな泡の浮かぶグラス。サリー先生が飲んでいるのはおそらくカンパリソーダだ。リキュールベースの爽やかな口当たりのカクテルだがアルコールは意外に強い。
相手の男性が飲んでいるのは……あのとろりとした明るい黄色はソルティドッグだろうか。いや、グラスの縁に塩の輪がないからブルドックの方だな。最初からウォッカベースのカクテルを飲むなんて、かなりの酒好きと見た。
食前にシェリーをたしなむような気合いの入ったデートではないのだ……逆に考えれば、お互いにそこまでくつろいだ飲み方のできる相手だと言うことか。
そのうち、サリー先生が軽くこめかみに手を当ててうつむいた。小さくため息までついている。
一体、何があったんだ?
身を乗り出しそうになったその刹那。青い瞳のハンサムな男はこの上も無く魅惑的なほほ笑みを浮かべると、そっと手を。
サリー先生の手を、両手で包み込んだではないか!
がたん!
椅子が鳴り、天井との距離が詰まる。つり下げ式のレトロなライトが目の前で揺れている。
思わず立ち上がっていた。しかも、かなりの勢いで。
「どうした、エドワーズ」
マクダネル警部補が怪訝そうに見上げている。
「いえ…………何でも……ありません」
信頼のおける上司ってのはいいもんだ。いつ、いかなる時でも彼の呼びかけを聞くと冷静になれる。警察を辞めた後でもその条件づけは残っていてくれていたらしい。
ああ、それにしても……サリー先生、うれしそうにほほ笑んでいる。
ほんのりと頬まで染めて、何て愛らしいのだろう。
(きっと、楽しいんだろうな…………あの人と一緒にいるのが)
「……警部補。おかわりしてもいいですか」
「あ、ああ、かまわないぞ」
「ボトルで」
(悔しいが、彼は私より若いし、ハンサムだし、金持ちだし、立ち居振る舞いも紳士的で……お似合いだ)
片や自分はと言えば、冴えない中年、出不精の本屋、しかもバツイチ。恋人にするのならどっちがいいか、なんてあえて比較するまでもない。
運ばれてきたスコッチを、エドワーズは水もソーダも氷すら入れずにくいくいと流し込んだ。
かろうじて、グラスで。
「おい、エドワーズ……大丈夫か?」
「大丈夫です」
だんっと空になったグラスをテーブルに置き、次の一杯を注ぐ。
「今、ものすごく飲みたい気分なんです」
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▼ 【4-7-6】迷走波紋拡大中2
テリオス・ノースウッドはその日珍しく自宅に居た。最近は大学の勉強と研究論文の執筆で忙しくて女の子をナンパに行く暇もなく、必然的にデートにでかける時間も減っていた。
当人はいささか不満だったがこの日ばかりはそれが幸いしたと言って良いだろう……ある意味。
野郎一匹、そろそろわびしく夕飯の仕度でもしようかと思ったところに、大学の同級生から電話がかかってきたのだ。
「テリー!」
「よう、どうした」
「サリーが遊び人で有名なゲイの社長とデートしてるぞっ! 『マーメイド・ラグーン』って店に入ってった」
「デート? まさか」
「ほんとだって! きちんとネクタイしめて、めかしこんでたぜ」
親友のサリーことサクヤ・ユウキは確かに女の子と見まごうような華奢な奴だが、ゲイではなかったはずだ。うかうか誘いに乗るほど不用心だとも思えない。
……思いたくはないが。
(あいつ、しっかりしてるようでたまに天然入ってるからなぁ……)
だからこそ放っておけなくて、入学以来ずっと面倒を見て来た。
そもそも初対面の時からして、学内でうろうろ迷っているサリーと廊下でぶつかったのが始まりだった。幾分ぎこちない英語でお礼を言う彼のことを最初はてっきり女の子だと勘違いしたのも今となっては懐かしい思い出だ。
今年の夏には彼の従姉にも紹介された。ちっちゃくてせかせか動く小動物みたいな子で、最初は妹かと思ったが、話してるうちに姉さんみたいな存在なのだとわかった。
でっかいロリポップキャンディを、クッキーでも食うみたいにがしがしかじるワイルドな人だった。
別れ際に彼女に手を握られ、しみじみとした口調で言われたものだ。
『サクヤをよろしくね』
『まかせてください! 親友ですから』
思いめぐらすうちに電話の報告はなおも続く。
「スタバで待ち合わせして、連れ立って歩いてったんだ。って言うかあれは完ぺきにエスコートしてたな」
急に話が現実味を帯びてきた。どうやら、人違いや自分を引っかけようとするジョークの類いではなさそうだ。
「でお前はつけてったのかよ」
「今店の前。とてもじゃないけどあんな高い店、入れねーよー」
「……わかった、行く」
「うんうん、そう言うと思ったよ」
マーメイド・ラグーン。市内でも指折りの高い店だ。さすがに自分の金で足を運んだことはないものの、教授のお供で入ったことがある。
ラフな格好ではまずい。
クローゼットを開けて滅多に出番のないきちんとしたシャツに腕を通し、タイをしめる。
(まったく、女の子とのデートでもないのにここまで手間かけさせて。ガセだったらだたじゃおかねぇぞ!)
※ ※ ※ ※
「お、来た来た、テリー!」
現場の店の前まですっ飛んで行くと、早速、張り込み中の友人から携帯のカメラで写した写真を見せられる。
「これ」
そこには『マーメイド・ラグーン』の入り口を入って行くサリーと背の高い黒髪の男の姿があった。
「……」
ガセじゃなかったようだ。テリーはぎゅっと眉を寄せ、口をへの字に結んだ。
「誰なんだ、相手は」
「ランドールって名前なんだけどさ。でかい会社の社長で、その筋では有名なプレイボーイなんだ……」
確かに写真で見る限り着ているスーツは上等そうだ。さらりとこんな高い店に入れるのだから懐もそれなりに豊かなんだろう。友人同士ならまだいい。
問題はそいつがゲイで、名うての遊び人だってことだ!
「最近、鳴りを潜めてたと思ったら。どこで知り合ったんだろうな?」
「さぁな。 連絡サンキュー」
「おう、気ぃつけてな」
いそいそと夜の町へと消えて行く友人を見送り(ちゃっかり、ボーイフレンドが待っていた)、テリーは一人『マーメイド・ラグーン』に入って行った。
(遊び人社長め。俺のダチに手ぇ出しやがったらタダじゃおかねえぞ!)
※ ※ ※ ※
杯を重ね、温かな料理で腹を満たすうちに、だいぶ二人の間の空気はほぐれてきた。
そろそろ、いいかな。
サリーは思い切ってずっと気にかかっていたことを尋ねてみることにした。
「それで、あの、ランドールさん」
「何だい?」
「どうして……一人旅なんかしようとしたんです」
「それは……」
「携帯の電源、切ってましたよね?」
ランドールは軽く目を伏せた。
どうしたものか。
それを認めるのは辛い。だが、口に出さなければいつまでも前に進めないような気がした。
「実はね。失恋してしまったんだ」
「あぁ……」
サリーは何も言わなかった。ただうなずいて、聞いてくれた。
「彼の幸せを願おうと決めたのだけれど、どうもそれだけでは収まらなくってね。誰にも告げず、車を飛ばして一週間ばかり、あての無い一人旅としゃれ込んだ訳さ」
「そうだったんですか」
「彼女には見つかってしまったけれど……ね」
「そう言う人ですから」
どちらからともなく見つめ合い、ほほ笑みを交わしたその時だ。
つかつかとブルネットの若い男が近づいてきて、だん、とテーブルに右手を着いた。
※月梨さん画「テリー乱入」
「サクヤ! 奇遇だな、こんな所で会うなんて」
サリーは一瞬、きょとんとしたがすぐにくったくのない笑顔になってひょいと片手を挙げた。
「やあテリー!」
「おや、友だちかい?」
「ええ、大学の同級生です」
「どーも!」
ぎろり、とターコイズブルーの瞳がにらみつけてくる。
ああ……そうか……。
ばちばちと火花を散らさんばかりに激しい彼の眼差しにランドールはおおよその事情を察した。
自分は今まで遊び人としてそれなりに浮き名を流してきた身だ。こんな風に二人っきりで親しげに食事をしていたら、警戒されるのも無理はないだろう。
いやはや、参った。サリーに対してはまったくそんなつもりはないんだが。
まったく、若者の友情ってやつは何て純粋で、無鉄砲なのだろう。20代の頃の自分を思い出し、うらやましいような、ほほ笑ましいような気持ちになる。
ふと、あまりに真面目なテリーの顔を見ているうちに悪戯心が頭をもたげてきた。カルヴィン・ランドール・Jrの口元に、にやりと人の悪い……そしてある種の人間には非常に魅惑的に見える笑みが浮かんだ。
「そうか、『友だち』か。よかったら一緒にどうだい?」
「ありがとうございます」
テリーはサリーの隣にどかっと腰を降ろした。腕組みしてあいかわらずこっちをにらみつけている。
「何か飲むかい?」
「水」
「……ガス入り? ガスなし?」
「ガスなしで」
「OK」
ウェイターを呼び寄せてオーダーをしてから、ちらっとサリーの顔を見て。ひょいと手をのばして親指で口元を拭った。
「パセリがついていたよ、サクヤ」
「え? あー、全然気がつかなかったー」
普段ならさすがに遠慮されるだろうが、酒が入ってリラックスしているせいか、楽しそうに笑っている。
「ありがとうございます……って、あ」
今度はサリーがナプキンをとり、くいっとランドールの口元を拭う。
「ランドールさんもついてましたよ、パセリ」
「おや、これはうっかりしていた」
一方、テリーは硬直したままこっちを指さし、金魚みたいに口をぱくぱくさせていた。
うんうん、いいね、なかなかに初々しい反応じゃないか。どれ、もう一押ししてみようかな……。
「ところで、もしかして君たち……付き合ってるのかい?」
一瞬、テリーはぎょっと目を見開いた。
付き合ってる、だと? いきなり何言い出すんだこの男は! 探ってるのか。俺がサリーの恋人だとでも思ってるのか。
ふざけてる。だが、ある意味、これはチャンスだ。ここでYesと答えておけば、余計なちょっかいは出さなくなるだろう。
運ばれてきたミネラルウォーターの封を切り、ボトルから直にのどに流し込む。
よし……行くぞ。
すうっと大きく息を吸い込むと、テリーは勢い良く答えた。
「はい! 俺たちつきあってます!」
そりゃあもう、きっぱりと、店中に響き渡るような声で。決死の覚悟で言った告白を聞くなり、サリーはころころっと笑い出した。
「何言ってるんだよー」
ものすごく上機嫌だ。よく見ると顔が赤い。
「お前っ、飲んでるな?」
「うん、飲んでるよ?」
「何杯飲んだんだっ!」
「えーと、カンパリ・ソーダにカンパリ・グレープフルーツに、カンパリ・オレンジにスプモーニ(カンパリベースのカクテル)に……」
「っかーっ、道理で顔赤いと思ったら……酒、それほど強くないくせに……」
「おや、そうなのかい? 美味しそうに飲んでるから、つい私もおかわりを勧めてしまったよ」
「あんたのせいかっ」
おや、ずいぶんとぞんざいな口調になっている。本音が出たかな、テリーくん。
「すまないね。では今夜はそろそろ切り上げようか。サリー、つきあってくれてありがとう」
「いえ、俺も楽しかったです。ごちそうさまでした」
椅子から立ち上がろうとして、ふらっとよろめくサリーをごく自然に手を伸ばして支える。一瞬の差で出遅れたテリーが目を剥いて睨んできた。
「家まで送ろうか?」
がうっ!
テリーが牙を剥いてサリーとの間に割って入ってきた。
「ご心配なく、俺が送ります。家も知ってますし」
参ったな、喧嘩を売るつもりはなかったんだが……少し悪戯が過ぎたかな。ひとまず誤解を解いておくべきだろう。
「誤解しないでくれ。私は、彼の従姉の友人なんだ」
「うん、ヨーコさんが色々とお世話になって」
「そうなのか?」
一瞬、納得しかけたテリーだったが、はたと思い直した。
(そう言うのが一番危ないんだよ!)
「世話になったって、留学してた時?」
「ううん。もっと最近。今年の夏にヨーコさんがこっちに来た時に……ほらテリーもちょっとだけ会ったよね」
「ああ、あのちっこい人」
「そうそう」
「彼女はレディだよ。実にオリジナリティにあふれている人だ」
真面目な顔でうなずいている。なるほど、確かに親しいらしい。
「それで、ちょっと用事もあって、たまに連絡とってるんだ」
「なるほど……そう言うことなら……」
あのちっこいくせにとんでもなくワイルドな従姉が後ろに控えていると知った上での付き合いなら、いかな遊び人社長もサクヤに手を出すことはないだろう。
しかし、万が一ってこともある。
(だいたい、こいつはあらゆる意味で迂闊って言うか、天然って言うか、とにかく無防備すぎるんだよ!)
さりげなくカードで支払いを済ませる社長を横目で見やりつつ、上機嫌のサリーを支えながらテリーは心に決めた。
これからは、俺が目を光らせておかねば! と……。
※ ※ ※ ※
一方。
新たなる乱入者に、エドワード・エヴェン・エドワーズは気もそぞろ。もはや視線は警部補を通り越して奥のテーブルに釘付け状態。
同い年ぐらいの若い男が入ってきて、つかつかとサリー先生のいるテーブルに近づいて行き、ばんっと手をついて割り込んだ。
しばらく青い目の男とにらみあっていたと思ったら、いきなり青い目のハンサム・ガイがサリー先生の口元を親指でぬぐった。
(あいつ!)
馴れ馴れしいにも程がある! だが立ち上がろうとした刹那、エドワーズをさらなる衝撃が襲う。サリー先生がにっこり笑って、相手の口元をナプキンでさっと拭ってお返しをしたではないか。
へなへなと膝の力が抜けて椅子に沈み込んだ所にとどめの一撃。
「はい! 俺たちつきあってます!」
(え? 今、何て言った?)
ぐわらんぐわらん、ぐわらららん。
その瞬間、彼は頭っからカトリーナ級のハリケーンの中に叩き込まれた気分を味わっていた。(幸い、まだそんな経験はないのだが)
上も下も右も左も、全ての色と形と音がぐんにゃりとゆがみ、彼を中心に猛スピードで回転しながら一点に収縮して行き……
(付き合ってるって……)
閃光とともに一気に爆発、四散した。
※月梨さん画「彼にはこう見える」
(サリー先生、恋人がいたのかーっっ!!!)
「……警部補。もう一本追加してもいいですか」
「……あ、ああ」
「ウォッカを」
運ばれてきた無色の酒を、エドワーズは水も氷も入れずにくいくいと流し込んだ。咽せもせず、一言もしゃべらず、黙々と。
「どうした。ピッチが早いぞエドワーズ」
「今夜はとことん飲みたい気分なんです!」
「そうか……ほどほどにな」
マクダネル警部補は秘かに舌を巻いた。
何てこったい、目がすわっている。
生真面目な男だ。いろいろとためこんできた苦労があるのだろう。よかろう、今夜はとことん飲ませてやろうじゃないか。
いざとなったら、ひっかついで連れて帰ればいい。
ばしゃり!
中央の水槽で水しぶきが上がる。
何やら不穏な空気を察したのかアロワナが……『看板娘』が暴れたようだ。尾びれを打ち振り、左右に体をくねらせながら底に潜って行く。
珍しいこともあるもんだ。滅多にあんなお転婆はしない娘なのに。
それにしてもエドワーズの奴、アロワナの水槽を食い入るように見ていたな……こいつがこんなに魚好きだったとは知らなかった。
「そら、エドワーズ。たまには水も飲めよ」
「はい、警部補」
「つまみも食え」
「はい、警部補」
とん、と置かれたグラスの中で透明な酒が揺れ、たぷん、と波紋が広がった。
次へ→【4-7-7】そして宴の夜が明けて
▼ 【4-7-7】そして宴の夜が明けて
朝。
エドワード・エヴェン・エドワーズは珍しく寝坊した。
目を開けるとまず、見慣れない天井。起きあがって部屋の中を見回す。カーテンのすき間から差し込む陽の光に照らされた部屋は、どう見ても自分の寝室ではない。
窓の外が何やら騒がしい。
のそのそとベッドから降りてカーテンを開ける。門扉を開けて、犬を連れた男性が帰って来るところだった。シェパードと、ゴールデンレトリバーと、足元をちょこまか走り回る毛足の長い黒い犬。スコッチテリアだ!
すると、ここは……。
スポーツウェア姿の男性がこっちを見上げて手を振ってきた。
「よう、エドワーズ。目がさめたか」
「……おはようございます、警部補」
何と言うことだ。酔いつぶれて警部補の家に厄介になってしまったんだ!
ずっくん、とうずくこめかみを押さえて改めて室内を見回す。この部屋には何度か泊まったことがある。一度目は妻と別れた直後。二度目は爆発物処理班から内勤に転属届けを出した時。
記憶を頼りに客用のバスルームに行き、顔を洗う。鏡に映る自分と対面した。
(……酷い顔だ……)
そなえつけの剃刀を拝借してヒゲをあたった。
シャツが酒臭い。いったい何杯飲んだのだろう………。
1本目のウォッカを空けたあたりから記憶が無い。
念のため、リズのご飯は多めに入れてきたし水もたっぷり用意しておいた。彼女がひもじい思いをすることはないだろう。
だが何たる失態! 帰ったら謝らねば。
そろりそろりと静かな足どりでダイニングキッチンに入って行くと、マクダネル夫人がパンケーキを焼いていた。
「あら、おはよう、エディ。ちょっと待っててね、もう少しでできあがるから」
「奥さん……すみません、すっかりお世話になってしまって」
ぺしっとあざやかな手つきで焼き上がったパンケーキを皿に載せると、マクダネル夫人は冷蔵庫からガラスのピッチャーを取り出して中味をコップに注いだ。
「はい、これ飲んで」
とろりしとした黄色のジュース。ぼーっとしたまま素直に飲むと、柑橘類独特の弾けるような酸味が体中に広がった。
「う……酸っぱい」
グレープフルーツジュースだ。二日酔いの特効薬、混じりっけなしのフレッシュ。
「もう一杯いかが?」
「いえ、十分です」
夫人を手伝い、皿を並べていると、裏庭に通じるドアが開いて警部補が三頭の飼い犬を引き連れて入ってきた。
彼は動物好きで、魚好きだ。ダイニングにもリビングにも水槽が置かれ、水草の間を熱帯魚がゆるりと泳いでいる。
前に来た時より数が増えているようだ。
さらに引退した警察犬と盲導犬を引き取り飼っている。そして、ちっぽけな小型犬の中に大型犬の魂を秘めたスコティッシュ・テリアは父祖の地スコットランドへの愛のあらわれなのだ。
「お帰りなさい、あなた」
「ただいま」
マクダネル夫妻はしっかりと抱擁を交わし、誰はばかることなくキスを交わしている。何となく遠慮して、エドワーズは床にかがみこみ、三頭の犬たちと挨拶を交わすことにした。
「やあ、シリウス、ライラ、スキップ。私を覚えているかい?」
ちっぽけな黒犬は短い尻尾をぷりぷり振って、当然、とでも言うように短く吠えた。
「う」
ドスの利いた低音が頭に響き、ずっくん、とまたこめかみが疼いた。
※ ※ ※ ※
一方、マリーナ近くのサリーのアパートでは、ソファの上でテリーが目を覚ましていた。
サリーを部屋まで送り、ご機嫌の彼を着替えさせてベッドに寝かしつけて、結局、そのまま泊まり込んだのだ。
別に初めてじゃない。今までもちょくちょく泊まりに来ている。デービスに居た時も、シスコに移ってきた後も。
台所の方でカチャカチャと音がする。ふんわりと香ばしいにおいが鼻をくすぐる。
「おはよ」
いつ起きたのだろう。さわやかな笑顔でエプロンをつけて食事の仕度をしている。
「あー、おはよう……ってそうじゃなくて! サクヤ。ちょっと話がある」
「先に顔洗ってきて朝ご飯食べたら?」
「……そうだな……洗面所借りるぞ」
どうやら二日酔いはしていないらしい。昨夜あれだけご機嫌だったってのに……考えてみればこいつはいつもそうだ。
二杯も飲めばご機嫌になる割に翌朝はすっきり目を覚ます。大学の友人一同で飲み明かした時も、翌朝全員がぐったりしてる中けろりとしていたっけ。
「いただきます」
「いただきます」
テーブルの上には白米と味噌汁、キャベツの温野菜サラダをそえたオムレツが並んでいる。
きちんと一礼して食べ始めた。
「あ、美味いなこのミソスープ」
「ほんとはシジミがいいんだけどね。こっちにはないし」
「シジミ?」
「貝だよ。お酒飲んだ翌朝に効くんだ」
「そうか……」
こいつは覚えてるんだろうか。昨日の夜、防衛線を張りたい一心で自分が言った公明正大な大嘘を。
あの時はつい、頭に血が上ってしまったが今こうして朝の光の中で思い返してみると、とてつもなく恥ずかしい。
「テリー学校行くんだろ、何時から? 俺は外来に行くから遅めだけど」
「あー、今日は二限から……」
「そっか」
食べ終えて、カチャリと箸を置くと、サクヤはにこにこしながらちょこんと首をかしげた。
「お茶、飲む? それともコーヒーの方がいいかな」
「ああ、コーヒーを……ってそうじゃなくて!」
危うくこのまま流される所だった。テリーはしゃん、と背筋を伸ばすとサクヤの目を正面から見据えた。
「サクヤ。悪いことは言わない……あの男と付き合うのはやめとけ、遊び人だ」
「え。うーん。遊び人なんだ」
やっぱり知らなかったんだな。肩に手を置き、一言一言噛んで含める様にして言い聞かせる。
「そう、遊び人だ」
「でも別にそういう付き合いをしてるわけじゃないよ? 食事に行ったのもたまたまだし」
キッチンに向かうとコーヒーのドリップバックを二枚取り出し、パッケージを開け、紙製のホルダーを開いてマグカップに載せると上からお湯を注ぐ。しゅわしゅわと細かいかっ色の泡が立ち、コーヒーの香りがいっぱいにひろがった。
一杯分の挽いたコーヒー豆をペーパーフィルターにセットしたこの形式が一番使いやすい。アメリカのインスタントコーヒーの瓶は大きくて、使い切る前にしけってしまうから。
いそいそとコーヒーを入れるサクヤを見守りながら内心、テリーは穏やかではなかった。有り体に言って、非常にやきもきしていた。
お前がそういうつもりはなくても向こうがそのつもりだったらどーすんだー!
一方、コーヒーを入れるサクヤの心中はいたって穏やかだった。
昨日はちょっと驚いた。「君たちつきあってるのかい」と聞かれるのはよくあることだけど、いつも否定するのはテリーの役目だったのだから。
さっきの一言を聞いて納得がいった。彼は必要以上にランドールさんを警戒してるんだろう。
「コーヒーに砂糖いれるよね?」
「うん、三つ」
まったくテリーは心配性だな。ランドールさんにそのつもりがないのは事実なんだし、そのうち誤解も解けるだろうから今はそっとしておこう。
カップに砂糖をスプーンで三杯。それからミルクをたっぷり注いでかきまぜる。自分の分は砂糖をいれずにミルクだけ。
「はい」
「さんきゅ」
ああ、やっぱりこいつはあらゆる意味で迂闊だ。学校の外でどんな付き合いをしてるのか、改めて俺の目で確かめなければ!
湯気の立つマグカップを手に向かい合う二人の頭の中は、その実微妙に行き違っているのだが……当人たちは知る由もなかった。
次へ→【4-7-8】晴れた日に公園で
エドワード・エヴェン・エドワーズは珍しく寝坊した。
目を開けるとまず、見慣れない天井。起きあがって部屋の中を見回す。カーテンのすき間から差し込む陽の光に照らされた部屋は、どう見ても自分の寝室ではない。
窓の外が何やら騒がしい。
のそのそとベッドから降りてカーテンを開ける。門扉を開けて、犬を連れた男性が帰って来るところだった。シェパードと、ゴールデンレトリバーと、足元をちょこまか走り回る毛足の長い黒い犬。スコッチテリアだ!
すると、ここは……。
スポーツウェア姿の男性がこっちを見上げて手を振ってきた。
「よう、エドワーズ。目がさめたか」
「……おはようございます、警部補」
何と言うことだ。酔いつぶれて警部補の家に厄介になってしまったんだ!
ずっくん、とうずくこめかみを押さえて改めて室内を見回す。この部屋には何度か泊まったことがある。一度目は妻と別れた直後。二度目は爆発物処理班から内勤に転属届けを出した時。
記憶を頼りに客用のバスルームに行き、顔を洗う。鏡に映る自分と対面した。
(……酷い顔だ……)
そなえつけの剃刀を拝借してヒゲをあたった。
シャツが酒臭い。いったい何杯飲んだのだろう………。
1本目のウォッカを空けたあたりから記憶が無い。
念のため、リズのご飯は多めに入れてきたし水もたっぷり用意しておいた。彼女がひもじい思いをすることはないだろう。
だが何たる失態! 帰ったら謝らねば。
そろりそろりと静かな足どりでダイニングキッチンに入って行くと、マクダネル夫人がパンケーキを焼いていた。
「あら、おはよう、エディ。ちょっと待っててね、もう少しでできあがるから」
「奥さん……すみません、すっかりお世話になってしまって」
ぺしっとあざやかな手つきで焼き上がったパンケーキを皿に載せると、マクダネル夫人は冷蔵庫からガラスのピッチャーを取り出して中味をコップに注いだ。
「はい、これ飲んで」
とろりしとした黄色のジュース。ぼーっとしたまま素直に飲むと、柑橘類独特の弾けるような酸味が体中に広がった。
「う……酸っぱい」
グレープフルーツジュースだ。二日酔いの特効薬、混じりっけなしのフレッシュ。
「もう一杯いかが?」
「いえ、十分です」
夫人を手伝い、皿を並べていると、裏庭に通じるドアが開いて警部補が三頭の飼い犬を引き連れて入ってきた。
彼は動物好きで、魚好きだ。ダイニングにもリビングにも水槽が置かれ、水草の間を熱帯魚がゆるりと泳いでいる。
前に来た時より数が増えているようだ。
さらに引退した警察犬と盲導犬を引き取り飼っている。そして、ちっぽけな小型犬の中に大型犬の魂を秘めたスコティッシュ・テリアは父祖の地スコットランドへの愛のあらわれなのだ。
「お帰りなさい、あなた」
「ただいま」
マクダネル夫妻はしっかりと抱擁を交わし、誰はばかることなくキスを交わしている。何となく遠慮して、エドワーズは床にかがみこみ、三頭の犬たちと挨拶を交わすことにした。
「やあ、シリウス、ライラ、スキップ。私を覚えているかい?」
ちっぽけな黒犬は短い尻尾をぷりぷり振って、当然、とでも言うように短く吠えた。
「う」
ドスの利いた低音が頭に響き、ずっくん、とまたこめかみが疼いた。
※ ※ ※ ※
一方、マリーナ近くのサリーのアパートでは、ソファの上でテリーが目を覚ましていた。
サリーを部屋まで送り、ご機嫌の彼を着替えさせてベッドに寝かしつけて、結局、そのまま泊まり込んだのだ。
別に初めてじゃない。今までもちょくちょく泊まりに来ている。デービスに居た時も、シスコに移ってきた後も。
台所の方でカチャカチャと音がする。ふんわりと香ばしいにおいが鼻をくすぐる。
「おはよ」
いつ起きたのだろう。さわやかな笑顔でエプロンをつけて食事の仕度をしている。
「あー、おはよう……ってそうじゃなくて! サクヤ。ちょっと話がある」
「先に顔洗ってきて朝ご飯食べたら?」
「……そうだな……洗面所借りるぞ」
どうやら二日酔いはしていないらしい。昨夜あれだけご機嫌だったってのに……考えてみればこいつはいつもそうだ。
二杯も飲めばご機嫌になる割に翌朝はすっきり目を覚ます。大学の友人一同で飲み明かした時も、翌朝全員がぐったりしてる中けろりとしていたっけ。
「いただきます」
「いただきます」
テーブルの上には白米と味噌汁、キャベツの温野菜サラダをそえたオムレツが並んでいる。
きちんと一礼して食べ始めた。
「あ、美味いなこのミソスープ」
「ほんとはシジミがいいんだけどね。こっちにはないし」
「シジミ?」
「貝だよ。お酒飲んだ翌朝に効くんだ」
「そうか……」
こいつは覚えてるんだろうか。昨日の夜、防衛線を張りたい一心で自分が言った公明正大な大嘘を。
あの時はつい、頭に血が上ってしまったが今こうして朝の光の中で思い返してみると、とてつもなく恥ずかしい。
「テリー学校行くんだろ、何時から? 俺は外来に行くから遅めだけど」
「あー、今日は二限から……」
「そっか」
食べ終えて、カチャリと箸を置くと、サクヤはにこにこしながらちょこんと首をかしげた。
「お茶、飲む? それともコーヒーの方がいいかな」
「ああ、コーヒーを……ってそうじゃなくて!」
危うくこのまま流される所だった。テリーはしゃん、と背筋を伸ばすとサクヤの目を正面から見据えた。
「サクヤ。悪いことは言わない……あの男と付き合うのはやめとけ、遊び人だ」
「え。うーん。遊び人なんだ」
やっぱり知らなかったんだな。肩に手を置き、一言一言噛んで含める様にして言い聞かせる。
「そう、遊び人だ」
「でも別にそういう付き合いをしてるわけじゃないよ? 食事に行ったのもたまたまだし」
キッチンに向かうとコーヒーのドリップバックを二枚取り出し、パッケージを開け、紙製のホルダーを開いてマグカップに載せると上からお湯を注ぐ。しゅわしゅわと細かいかっ色の泡が立ち、コーヒーの香りがいっぱいにひろがった。
一杯分の挽いたコーヒー豆をペーパーフィルターにセットしたこの形式が一番使いやすい。アメリカのインスタントコーヒーの瓶は大きくて、使い切る前にしけってしまうから。
いそいそとコーヒーを入れるサクヤを見守りながら内心、テリーは穏やかではなかった。有り体に言って、非常にやきもきしていた。
お前がそういうつもりはなくても向こうがそのつもりだったらどーすんだー!
一方、コーヒーを入れるサクヤの心中はいたって穏やかだった。
昨日はちょっと驚いた。「君たちつきあってるのかい」と聞かれるのはよくあることだけど、いつも否定するのはテリーの役目だったのだから。
さっきの一言を聞いて納得がいった。彼は必要以上にランドールさんを警戒してるんだろう。
「コーヒーに砂糖いれるよね?」
「うん、三つ」
まったくテリーは心配性だな。ランドールさんにそのつもりがないのは事実なんだし、そのうち誤解も解けるだろうから今はそっとしておこう。
カップに砂糖をスプーンで三杯。それからミルクをたっぷり注いでかきまぜる。自分の分は砂糖をいれずにミルクだけ。
「はい」
「さんきゅ」
ああ、やっぱりこいつはあらゆる意味で迂闊だ。学校の外でどんな付き合いをしてるのか、改めて俺の目で確かめなければ!
湯気の立つマグカップを手に向かい合う二人の頭の中は、その実微妙に行き違っているのだが……当人たちは知る由もなかった。
次へ→【4-7-8】晴れた日に公園で
▼ 【4-7-8】晴れた日に公園で
翌日の土曜日はよく晴れた。
先週と比べて空気はいくぶんかひんやりしていたが太陽は金色の輝きを惜しみなく地上へと注ぎ、ほんの少し、うっすらと綿をはいたような青い空が広がっている。
カルヴィン・ランドール・Jrは、くたくたの木綿のチェックのシャツに履き古したジーンズと言ったラフな格好で公園を歩いていた。買い直したばかりのスニーカーはまだ足になじみきっていない。
先日の失恋旅行以来、たまにはスーツを脱いで気楽な格好でぶらつくのも悪くないなと思い、こうして実践してみた。
芝生の上には、日光浴を楽しむ男女や弁当を広げる家族連れがあちらこちらに点在している。
ボールを追いかけて走り回る子どもたち。木の枝でさえずる小鳥。灌木の花の間を飛び交うマルハナバチの羽音は眠たげに耳に響き、どこからかバーベキューのにおいが伝わってくる。
あれからもう一週間になるのか……。
ぼんやりと思いめぐらせていると、まず軽くて丸いものが足首に当たり、続いてどすん、と何か柔らかい生き物がぶつかってきた。
「おっと」
とっさに踏ん張って受けとめる。腕の中に小さな男の子の体がすっぽりと収まっていた。
あったかい。
一週間前に額に触れた小さな手の感触を思い出し、重ねてみる。
鳶色の髪に濃い茶色の瞳のこの子は、あの時の子より少し年下らしい。
ああ、それにしても、小さな子どもって体温が高いんだな……。
「失礼、Mr。痛くしなかったかな」
「大丈夫」
足元に転がっていたボールを拾い上げ、手渡した。
「ありがとう」
「一人で散歩かい?」
男の子はすっと右手を挙げて芝生の上の一角を指さした。
灰色の髪の男性と、短い鹿の子色の髪の女性が並んで腰を下ろしている。こちらに気づいたのか、立ち上がって近づいてきた。
「パパとママ」
アレックスだった。
(ああ、この子と彼女なんだ。あの夜、夢に出てきたのは……)
「これは……ランドールさま」
「やあ、アレックス」
奥方は再婚だったのだ。そして息子はアレックスを慕っている。もう、この三人は家族なんだな……。
「パパを知ってるの? Mr?」
アレックスJrがちょこんと首をかしげている。大人とは微妙に異なる、子どもならではの細やかな仕草で。見ていて自然と笑みがこぼれた。
「ああ、よく知っているよ。でも君のママとは初めて会うから、君から紹介して貰えると嬉しいね。私の名前はカルヴィン・ランドール・Jr」
「OK、Mr.ランドール。ぼくはディーン・オーウェン。ママはソフィア」
ディーンはランドールの手を握って両親の方に引っぱって行く。案内されるまま歩いて行き、母親の前に立った。
「ママ、こちらはMr.ランドール」
「はじめまして、Mr.ランドール。お会いできて光栄ですわ……先日は、素敵な薔薇をありがとうございました」
「お気に召して何よりです、Mrs.オーウェン」
「どうぞ、ソフィアとお呼びくださいな。主人をアレックスとお呼びなんですもの、私だけMrs.オーウェンじゃくすぐったいわ」
そう言って彼女はころころと笑うと芝生の上に広げたレジャーシートを指し示した。
「あの、よろしければランチをご一緒にいかがですか?」
赤いギンガムチェックのシートの上には、家族用のたっぷりしたサイズのピクニックバスケットが置かれている。
「シルクの薔薇のお礼もしたかったし、せっかくお会いできたんですもの」
「しかしせっかくの家族水入らずなのに」
「どうぞ、ランドールさま」
「……それじゃあ……ありがたく」
こうして芝生の上でアレックス一家とランドール社長の会食が始まった。
バスケットの中からは、たくさんの皿と、タッパーに入ったポテトサラダ、サンドイッチ、そしてピザが魔法のように現れた。
「もしかして、このピザはハンドメイドかい?」
ディーンがこくこくとうなずく。
「パパがね、作った。ぶんっとなげて、回した!」
両手をぶんぶんと振り回して一生懸命解説してくれる。
「そうか、さすがアレックスだ、すごいな」
「おそれ入ります」
「味つけしたのは、ママ。ぼくもちょっとだけ手伝った」
「そうかすごいね」
「エビ、のせた。コーンも!」
「そうか、このエビは君がのせたのか」
「うん!」
「それじゃ、心して味わわなきゃいけないね……いただきます」
一口かじる。ぱりっと焼けたピザ生地の上でぷちりと新鮮なエビが弾けた。トマトにバジルに、塩、胡椒、そしてチーズ。慣れ親しんだピザの味の他にもう一品、何か入っている。
それは本来、この料理に入れるものではないような気がした。しかし、生地ともエビとも相性は抜群だ。
どこかで自分はこの味を口にしている。そう、確かに……。
「もしかして……オイスターソースが入っているのかな」
ソフィアは大喜びしてぱちぱちと手を叩いた。
「すごい、おわかりになるんですね!」
心底うれしそうだ。隠し味を看破されて悔しがるどころか、むしろわかってくれたと喜んでいる。
ああ、かなわないな……。
素直にそう思った。
「さすがアレックスの選んだ女性だ、素晴らしい人だね」
有能執事はぱちぱちとまばたきすると、ほんのりと頬をそめ、はにかんだ笑みを浮かべた。
「……おそれいります、ランドールさま」
「アレックス、君…今、とても良い顔をしている。幸福なんだね」
「はい」
父と、母と、自分と。
家族を愛し、愛されることはとても幸せで、自然なことで……自分は何の疑問も持たずその温かさに包まれて生きてきた。
アレックスと、ソフィアと、ディーン。
自ら得た家族を愛することも、やっぱりとても幸福なことなのだ。
妻と息子とめぐり合い、一緒に住んで、こうして家族になることのできたアレックスは、とても幸せな人なのだと思った。
とてもうれしい。
ほろほろと胸の奥の一番深い場所から温かな何かがあふれ出す。わき水のようにこぽこぽと、あとからあとからとめどなく。
ああ。
彼に恋することができて良かった。
恋しい人の幸せを確かめることができて良かった。
「Mr.ランドール。どうしたの? どこかいたいの?」
ディーンがナプキンを手にのびあがり、おぼつかない手つきでランドールの目もとを拭う。
「大丈夫……だよ、ディーン。大丈夫だから……どこも痛くはないから」
ディーンは首をかしげてしばらく何やら考え込んでいたが、やがてランドールの手にしたかじりかけのピザを見て納得したようにこくっとうなずいた。
「粒ペッパー、かんだ? からいから、気をつけて」
「ああ、そうだね……ちょっと、つーんと来た」
「こっちのピーナッツバターとジェリーのサンドイッチなら、からくないよ」
「そうか……ありがとう、ディーン」
「お水いかがですか?」
「いただきます」
んくんくと赤いプラスチックのマグを両手でかかえて水を飲む若社長の姿を見守りながら、ソフィアは思っていた。
この青い目のハンサムさんとは、何だかとても趣味が合いそうな気がするわ。何故だかわからないけれど……ディフとは少し違うけれど、きっと、良いお友達になれそう。
「ピザをもうひときれいかがですか、ランドールさん」
「ありがとう。いただこう」
「アップルジュース、飲む?」
「ありがとう、ディーン」
十月の土曜日、昼下がり。時間がゆったりと流れて行く。
こうして、カルヴィン・ランドール・Jrの恋は終わった。
終わったけれど、それは決して悲しいだけでも苦いだけでもなく、むしろ清々しい後味を残してふんわりと、おだやかな金色の陽射しに溶けて行くような……
そんな、幸せな失恋だった。
※ ※ ※ ※
その頃。ローゼンベルク家のリビングでは、シエンがぽつんと座っていた。
膝に白い子猫を抱えて。
「……どうした、シエン」
「ヒウェル」
この頃は夕食だけではなく、週末にも時々ランチを一緒に食べることがある。もっとも、ヒウェルは大した用事が無くてもちょくちょく顔を出しに来ているのだけれど。
理由はわかっている。
オティアに会いたいんだ。
「……珍しい組み合せだな。どうした」
「……今、誰とも会いたくないみたいだから」
「お前とも?」
「……ん」
「お前ともか……」
ヒウェルは手を伸ばすと白い子猫を撫でた。オーレは小さくのどを鳴らしてヒウェルの手に顔をすり寄せる。
アレックスの結婚式から帰って来た時、オティアはすごく沈み込んでいた。自分で決めたことだけど、やっぱり行けないのがショックだったんだ。
あれから一週間、家に居る時はほとんど書庫に閉じこもっている。自分も、オーレさえも中に入れず、本当に一人っきりで。
本を読んでるのならまだいい。クッションや毛布を持ち込んでる所を見ると、きっと眠っているんだ。床にうずくまって、胎児のように体を丸めて。
何も見ず、何も聞かず、何も考えずに、ただ一人で。
食事と勉強の時間には何事もなかったように出てくるけれど……。
シエンは小さくため息をついた。
何だか一緒の部屋に居るのがいたたまれなくて、その度にこうして本宅の方に来ている。
(俺……こっちの部屋で寝ようかな……)
「シエン」
「ん?」
ヒウェルはそっと手を伸ばし、ややくすんだ金色の髪を撫でた。
その時。
オーレがピン、と耳を立て、床に飛び降りた。
「みゃっ!」
尻尾をたかだかと垂直に掲げてたーっと走っていく。双子の部屋との境目のドアを目指して。しかし彼女が行き着く前にドアがぱたんと閉まった。
「み…………」
はっとしてヒウェルが振り向くと、閉ざされたドアの前でオーレが世にも切なげな後ろ姿でしょんぼりとうなだれていた。
波紋は未だ広がっている。
(迷走波紋/了)
次へ→【4-8】ひとりぼっちの双子
先週と比べて空気はいくぶんかひんやりしていたが太陽は金色の輝きを惜しみなく地上へと注ぎ、ほんの少し、うっすらと綿をはいたような青い空が広がっている。
カルヴィン・ランドール・Jrは、くたくたの木綿のチェックのシャツに履き古したジーンズと言ったラフな格好で公園を歩いていた。買い直したばかりのスニーカーはまだ足になじみきっていない。
先日の失恋旅行以来、たまにはスーツを脱いで気楽な格好でぶらつくのも悪くないなと思い、こうして実践してみた。
芝生の上には、日光浴を楽しむ男女や弁当を広げる家族連れがあちらこちらに点在している。
ボールを追いかけて走り回る子どもたち。木の枝でさえずる小鳥。灌木の花の間を飛び交うマルハナバチの羽音は眠たげに耳に響き、どこからかバーベキューのにおいが伝わってくる。
あれからもう一週間になるのか……。
ぼんやりと思いめぐらせていると、まず軽くて丸いものが足首に当たり、続いてどすん、と何か柔らかい生き物がぶつかってきた。
「おっと」
とっさに踏ん張って受けとめる。腕の中に小さな男の子の体がすっぽりと収まっていた。
あったかい。
一週間前に額に触れた小さな手の感触を思い出し、重ねてみる。
鳶色の髪に濃い茶色の瞳のこの子は、あの時の子より少し年下らしい。
ああ、それにしても、小さな子どもって体温が高いんだな……。
「失礼、Mr。痛くしなかったかな」
「大丈夫」
足元に転がっていたボールを拾い上げ、手渡した。
「ありがとう」
「一人で散歩かい?」
男の子はすっと右手を挙げて芝生の上の一角を指さした。
灰色の髪の男性と、短い鹿の子色の髪の女性が並んで腰を下ろしている。こちらに気づいたのか、立ち上がって近づいてきた。
「パパとママ」
アレックスだった。
(ああ、この子と彼女なんだ。あの夜、夢に出てきたのは……)
「これは……ランドールさま」
「やあ、アレックス」
奥方は再婚だったのだ。そして息子はアレックスを慕っている。もう、この三人は家族なんだな……。
「パパを知ってるの? Mr?」
アレックスJrがちょこんと首をかしげている。大人とは微妙に異なる、子どもならではの細やかな仕草で。見ていて自然と笑みがこぼれた。
「ああ、よく知っているよ。でも君のママとは初めて会うから、君から紹介して貰えると嬉しいね。私の名前はカルヴィン・ランドール・Jr」
「OK、Mr.ランドール。ぼくはディーン・オーウェン。ママはソフィア」
ディーンはランドールの手を握って両親の方に引っぱって行く。案内されるまま歩いて行き、母親の前に立った。
「ママ、こちらはMr.ランドール」
「はじめまして、Mr.ランドール。お会いできて光栄ですわ……先日は、素敵な薔薇をありがとうございました」
「お気に召して何よりです、Mrs.オーウェン」
「どうぞ、ソフィアとお呼びくださいな。主人をアレックスとお呼びなんですもの、私だけMrs.オーウェンじゃくすぐったいわ」
そう言って彼女はころころと笑うと芝生の上に広げたレジャーシートを指し示した。
「あの、よろしければランチをご一緒にいかがですか?」
赤いギンガムチェックのシートの上には、家族用のたっぷりしたサイズのピクニックバスケットが置かれている。
「シルクの薔薇のお礼もしたかったし、せっかくお会いできたんですもの」
「しかしせっかくの家族水入らずなのに」
「どうぞ、ランドールさま」
「……それじゃあ……ありがたく」
こうして芝生の上でアレックス一家とランドール社長の会食が始まった。
バスケットの中からは、たくさんの皿と、タッパーに入ったポテトサラダ、サンドイッチ、そしてピザが魔法のように現れた。
「もしかして、このピザはハンドメイドかい?」
ディーンがこくこくとうなずく。
「パパがね、作った。ぶんっとなげて、回した!」
両手をぶんぶんと振り回して一生懸命解説してくれる。
「そうか、さすがアレックスだ、すごいな」
「おそれ入ります」
「味つけしたのは、ママ。ぼくもちょっとだけ手伝った」
「そうかすごいね」
「エビ、のせた。コーンも!」
「そうか、このエビは君がのせたのか」
「うん!」
「それじゃ、心して味わわなきゃいけないね……いただきます」
一口かじる。ぱりっと焼けたピザ生地の上でぷちりと新鮮なエビが弾けた。トマトにバジルに、塩、胡椒、そしてチーズ。慣れ親しんだピザの味の他にもう一品、何か入っている。
それは本来、この料理に入れるものではないような気がした。しかし、生地ともエビとも相性は抜群だ。
どこかで自分はこの味を口にしている。そう、確かに……。
「もしかして……オイスターソースが入っているのかな」
ソフィアは大喜びしてぱちぱちと手を叩いた。
「すごい、おわかりになるんですね!」
心底うれしそうだ。隠し味を看破されて悔しがるどころか、むしろわかってくれたと喜んでいる。
ああ、かなわないな……。
素直にそう思った。
「さすがアレックスの選んだ女性だ、素晴らしい人だね」
有能執事はぱちぱちとまばたきすると、ほんのりと頬をそめ、はにかんだ笑みを浮かべた。
「……おそれいります、ランドールさま」
「アレックス、君…今、とても良い顔をしている。幸福なんだね」
「はい」
父と、母と、自分と。
家族を愛し、愛されることはとても幸せで、自然なことで……自分は何の疑問も持たずその温かさに包まれて生きてきた。
アレックスと、ソフィアと、ディーン。
自ら得た家族を愛することも、やっぱりとても幸福なことなのだ。
妻と息子とめぐり合い、一緒に住んで、こうして家族になることのできたアレックスは、とても幸せな人なのだと思った。
とてもうれしい。
ほろほろと胸の奥の一番深い場所から温かな何かがあふれ出す。わき水のようにこぽこぽと、あとからあとからとめどなく。
ああ。
彼に恋することができて良かった。
恋しい人の幸せを確かめることができて良かった。
「Mr.ランドール。どうしたの? どこかいたいの?」
ディーンがナプキンを手にのびあがり、おぼつかない手つきでランドールの目もとを拭う。
「大丈夫……だよ、ディーン。大丈夫だから……どこも痛くはないから」
ディーンは首をかしげてしばらく何やら考え込んでいたが、やがてランドールの手にしたかじりかけのピザを見て納得したようにこくっとうなずいた。
「粒ペッパー、かんだ? からいから、気をつけて」
「ああ、そうだね……ちょっと、つーんと来た」
「こっちのピーナッツバターとジェリーのサンドイッチなら、からくないよ」
「そうか……ありがとう、ディーン」
「お水いかがですか?」
「いただきます」
んくんくと赤いプラスチックのマグを両手でかかえて水を飲む若社長の姿を見守りながら、ソフィアは思っていた。
この青い目のハンサムさんとは、何だかとても趣味が合いそうな気がするわ。何故だかわからないけれど……ディフとは少し違うけれど、きっと、良いお友達になれそう。
「ピザをもうひときれいかがですか、ランドールさん」
「ありがとう。いただこう」
「アップルジュース、飲む?」
「ありがとう、ディーン」
十月の土曜日、昼下がり。時間がゆったりと流れて行く。
こうして、カルヴィン・ランドール・Jrの恋は終わった。
終わったけれど、それは決して悲しいだけでも苦いだけでもなく、むしろ清々しい後味を残してふんわりと、おだやかな金色の陽射しに溶けて行くような……
そんな、幸せな失恋だった。
※ ※ ※ ※
その頃。ローゼンベルク家のリビングでは、シエンがぽつんと座っていた。
膝に白い子猫を抱えて。
「……どうした、シエン」
「ヒウェル」
この頃は夕食だけではなく、週末にも時々ランチを一緒に食べることがある。もっとも、ヒウェルは大した用事が無くてもちょくちょく顔を出しに来ているのだけれど。
理由はわかっている。
オティアに会いたいんだ。
「……珍しい組み合せだな。どうした」
「……今、誰とも会いたくないみたいだから」
「お前とも?」
「……ん」
「お前ともか……」
ヒウェルは手を伸ばすと白い子猫を撫でた。オーレは小さくのどを鳴らしてヒウェルの手に顔をすり寄せる。
アレックスの結婚式から帰って来た時、オティアはすごく沈み込んでいた。自分で決めたことだけど、やっぱり行けないのがショックだったんだ。
あれから一週間、家に居る時はほとんど書庫に閉じこもっている。自分も、オーレさえも中に入れず、本当に一人っきりで。
本を読んでるのならまだいい。クッションや毛布を持ち込んでる所を見ると、きっと眠っているんだ。床にうずくまって、胎児のように体を丸めて。
何も見ず、何も聞かず、何も考えずに、ただ一人で。
食事と勉強の時間には何事もなかったように出てくるけれど……。
シエンは小さくため息をついた。
何だか一緒の部屋に居るのがいたたまれなくて、その度にこうして本宅の方に来ている。
(俺……こっちの部屋で寝ようかな……)
「シエン」
「ん?」
ヒウェルはそっと手を伸ばし、ややくすんだ金色の髪を撫でた。
その時。
オーレがピン、と耳を立て、床に飛び降りた。
「みゃっ!」
尻尾をたかだかと垂直に掲げてたーっと走っていく。双子の部屋との境目のドアを目指して。しかし彼女が行き着く前にドアがぱたんと閉まった。
「み…………」
はっとしてヒウェルが振り向くと、閉ざされたドアの前でオーレが世にも切なげな後ろ姿でしょんぼりとうなだれていた。
波紋は未だ広がっている。
(迷走波紋/了)
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▼ ハッピーハロウィンin文化祭
- 拍手お礼用短編に一部加筆したものです。
- ハロウィンと文化祭、初掲載時は十月の終わりだったので季節ネタです。。
- ヨーコ先生と教え子二人、再び参上
文化祭を二日後に控えたある日の午後。
戸有高校の社会科教務室でくつろいでいた結城羊子は教え子二人の訪問を受けた。
「あ、いたいた、よーこ先生」
「おう、風見にロイか。どうした?」
「何してたんですか?」
「うん、よその学校の部誌なんだけどな。知り合いの先生が送ってくれた。けっこう面白いぞ」
「へえ、『十六夜伝奇行』か……」
「地元の古い言い伝えや伝説を集めたものなんだ。作りも凝ってる。読むか?」
「日本の民間伝承ですか! とっても興味あります。ぜひ読ませてくださいっ」
「いいよ、2冊あるから。ちょっと難しい表現もあるけどな」
「問題ないです」
にまっと笑うと、ロイは風見光一の肩に手をかけた。
「コウイチに教えてもらいます!」
「うん、いいよ?」
「そーかそーか、よかったなー」
幸せそうな教え子を見守りつつ、羊子はうんうんとうなずいた。
「あ、でも俺、英語苦手だからな……そうだ、サクヤさんにメールして」
「No! ボクはコウイチに教えてほしいんだ」
「……そっか。がんばるよ」
アメリカからの留学生にして風見光一の幼なじみロイは秘かに、サリーことサクヤを警戒していた。久しぶりに再会した幼なじみのコウイチが、見知らぬ青年をセンパイとして慕っていたからだ。
(たとえセンパイと言えども、ボクのコウイチには指一本触らせない!)
「それで。何か、用か? 大荷物抱えて……」
「ああ、これ……衣装です」
「衣装?」
「はい」
文化祭の出し物で、彼らのクラスは『ハロウィン喫茶』をやることに決まっていた。
要するに教室をオレンジと黒を主体にしてお化け屋敷チックに飾り付け、パンプキンクッキーやパイ、かぼちゃぜんざい(え?)等のハロウィンっぽいメニューを出す。
そしてウェイターならびにウェイトレスは(ここがハロウィン喫茶のハロウィンたる由縁なのだが)全員、仮装。
「だからって何で担任まで……あー、巫女装束でいいかな」
たるそうに言う羊子にすかさずロイがビシっと突っ込んだ。
「センセ、それ仮装じゃないです。正規のユニフォームです」
結城羊子の実家は神社。彼女も本職ではないが幼い頃から実家を手伝っているのだ。従弟のサクヤともども。
「あーもーめんどくせーなー。それじゃ、何かてきとうに考えて……」
「実は先生の分はすでに用意してありまして……これです」
風見光一がうやうやしく手にした紙袋をさし出した。
「準備がいいなあ……」
羊子は素直に衣装の入った袋を受けとった。ずっしりと手に重さがかかる。もしかして、すごく凝ってる?
「どんだけ金かけたんだ」
「先生の衣装はクラス一同で選びました」
「女子のみなさんのハンドメイドです」
「わかった……わかったよ」
参った参った。ここまでされたんじゃ、断る訳にも行かないや。
「それじゃあ、ちょっと試着してくる」
「行ってらっしゃい」
「俺たち、教室に戻ってますね」
そして、10分後。
教室で各々の衣装合わせにいそしむ生徒たちは、どどどどどどっと駆けて来る足音を聞いた。
「わ」
「何?」
廊下を走っちゃいけないのに……なぞと突っ込む暇もあらばこそ、がらりと教室の扉が開いて……。
「ロイ! 風見ぃいいい! よりによって甘ロリたぁどう言う了見だ!」
「着てるし」
「お似合いですヨ」
※月梨さん画「アリスと白兎とチェシャ猫」
羊子がまとっているのは風船みたいなパフスリーブにぽんっとパラソルみたいにふくらんだスカートの水色のワンピース。白のふりふりエプロン、頭にはレースのヘッドドレス、足元はしましまの靴下(ちなみにオーバーニー)に赤のストラップシューズ。
スカートのすそからは、動くたびに長めのパニエのレースがちらりとのぞく。
さらに出迎える風見はピンクと紫の縞模様の猫耳、しかも猫手袋にしっぽつき。ロイはと言うとタキシードに白い兎の耳と尻尾、さらに懐中時計をぶらさげている。
「もしかして、これは………アリスか」
「アリスです」
「………どこがハロウィンだっ!」
「アメリカでは定番ですヨ?」
ぐっと羊子は言葉に詰まる。
そうだった……。
アメリカのハロウィンでは、仮装はお化けに限らず何でもありなのだ。
ドラキュラもいたしお姫様もいた。医者にナースに何故か迷彩服の兵士、海賊、妖精、当然アリスもいた。
「安心してください、交代制ですから」
「そ、そうか」
落ち着いて見回すと、他にもアリスやチェシャ猫、白兎がいるようだった。
文化祭の間この格好かと冷や冷やした。
ほっと胸をなでおろした瞬間、カシャリとシャッターの音が聞こえる。
「ちょっと待て、風見、何撮ってる!」
「え、いや、せっかくなのでサクヤさんに写メを」
「ぬぁにいいい!」
「What's!」
「………どうした、ロイ」
「い、いや、何でもない、何でもないヨっ」
(落ち着け、落ち着くんだ、ロイ)
(サクヤさんはヨーコ先生のイトコだ。だから報告するだけなんだ。これは決して、コウイチとサクヤさんが親交を深めるためでは……)
「あ、返事来た。早いな……『がんばってね』だそうですよ、先生」
「うぐぐぐぐ」
「ぬぬぬぬぬ」
(ああっ、やっぱりガマンできないっ!)
「コウイチ!」
「ん、どうした、ロイ」
その瞬間、ロイはうっかり真っ正面から見てしまったのだった。猫耳をつけて、ちょこんと小首をかしげる風見光一の愛らしい姿を……。
肋骨の内側で心臓がどっくんどっくんとスキップを踏み始める。送り出された血流が、一気に顔へと駆け上がり……ぼふっと赤面。
「い、いや……何でも………ない」
おろおろと目を逸らす。
(ああ、コウイチ……何てCuteなんだ。その愛らしさ。ボクにはあまりに破壊的だっ)
一人苦悩するロイの横では。
「あ、先生、あとでもう一着、試着お願いできますか」
「まだあるのかっ!」
「クラスの総意パート2です。満場一致で、ハートの女王を、ぜひ」
教師と生徒が丁々発止の漫才を繰り広げていた。
「お前らあたしを着せ替え人形かなんかだと思ってないかっ」
「いや、だって……」
「似合うし」
「可愛いっすよ、先生」
「むきーっ」
結城羊子の身長は154cm。
うっかりヒール付きのサンダルを脱いでぺったんこのストラップシューズをはいた今、彼女の視線は生徒たちより余裕で低い。
実はこの後さらに羊飼いの女の子の衣装も控えているのだが。
しかも犬耳の自分(牧羊犬役)に羊のロイまでついているのだが。
それにしても、ロイはさっきから真っ赤になって何をうろうろしているのだろう?
「あーその、先生」
「何?」
「実はさらに羊飼いの女の子(ちっちゃなボー・ピープ)の衣装もあったりするんですけど……」
「お前ら……やっぱり、あたしを着せ替え人形かなんかだと思ってるだろ」
「着てくれないんですか?」
「アリスとハートの女王で十分だろ! それに、羊飼いなんかあたしがやったら……行く先々でメリーさんの羊〜♪の大合唱だぞ!」
実はそれが狙いだったりするんだけど。ここはストレートに押してもよけいにヘソを曲げられるだけだ。
風見光一は腕組みして、じーっと羊子のウェストのあたりをねめつけた。
「ふむ‥…衣装担当が夏休み前のヨーコ先生のサイズ参考にしたって言ってましたけど。夏も終わって食べ物が美味しい季節になってきましたから…ひょっとして油断しちゃいましたか?」
しかし敵もさるもの、ふっと鼻で笑われる。
「甘いな風見……自分のサイズは常に把握してるのだ、その程度の挑発に乗ってたまるか!」
しかたない。プランB、発動だ。
「……女子の有志が夜なべして作ったこの羊飼いの衣装…着てくれないんですか……?」
「そ、それは……そっか……夜なべか……」
情にほだされた羊子がぐらりと来たところで必殺最終兵器、プランCが炸裂した。
風見光一は軽くうつむくと、さみしげな子犬のような瞳でじーっと羊子の顔を見上げたのだ。ただ黙って、じーっと。
「う………よ、よせ、その目は………」
しかしこの必殺最終兵器、ちょいとばかりレンジが広すぎたらしい。
「うわっ、ロイ、よせっ、何血迷ってるんだよっ」
「離せっ! コウイチが泣いている! ヨーコ先生が着ないのなら、代わりにボクがーっ!」
ピンクのパフスリーブのブラウスに、ぽんっと膨らんだ白地にピンクの水玉のスカート、白とピンクのボンネットに白い羊飼いの杖。
ちっちゃな羊飼いの衣装を無理矢理着ようとするロイを、クラスメートたちが必死で押しとどめていた。
「無茶言うな! とてもじゃないがお前には入らないぞ! ……主に肩幅が」
「そうよ、ロイくんには小さ過ぎるわ! ……胸囲も、多分」
「お前ら……その限定的なサイズ表現は、いったいどう言う意味なのかなぁ?」
ドスの利いた声にはっと硬直する生徒一同。アリスが両足をふんばってにらみつけていた。
「先生……その格好で仁王立ちはどうかと」
「おっと」
ささっと足を閉じると羊子はこめかみに手を当てると、ふーっと深ぁく息を吐いた。
「わかった、素直に着るから、羊飼い。だから、ロイも落ち着け。な?」
「Y……Yes,Ma'am」
やれやれ。
風見はほっと胸を撫で下ろし、ロイの背中をばふばふと叩いて耳元に口を寄せ、囁いた。
「ナイスフォロー、ロイ。ありがとな。見事な陽動作戦だったよ」
「コウイチ……いいんだ、君の役に立てたのなら、それで!」
耳まで真っ赤になってうつむくロイをにこにこと見守りながら風見は思った。
それにしても、あそこまで一生懸命になるなんてロイの奴、きっと、よっぽど好きなんだな………
ハロウィンが。
(ハッピー・ハロウィンin文化祭)
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