▼ 【4-7-3】流浪の青年社長
アレックスが結婚式を挙げている頃、カルヴィン・ランドール・Jrはユタ州との州境近く、南カリフォルニアの片田舎に居た。
いつもの仕立てのいいイタリアブランドのスーツの代わりにくたくたの木綿のシャツに履き古したジーンズ、スニーカーと言ったラフな服装で。
乗っているのも、静かなエンジン音に穏やかな走り、彼のステイタスにふさわしいトヨタの銀色の高級車ではない。
やかましい音、でかい車体、燃費はおせじにもいいとは言いがたい70年型のシボレーインパラ、色は赤みがかったココアブラウン。
何もかも大手紡績会社の二代目社長には似つかわしくない。
ついでに言うと誰も今、彼がこの場所にいるとは……知らなかった。両親、親族、友人、知人、彼の右腕である秘書のシンディでさえも。
公園のベンチに腰を下ろし、ぼんやりと物思いにふける。携帯の電源はこの一週間と言うもの一度も入れていない。
※月梨さん画「社長放浪中」
目の前の広場では子どもたちがボールを追いかけ回している。サッカーなのか。バスケットなのか。あるいはラグビーか。手も足も頭もまんべんなく使って自由奔放にパスを飛ばす。
傍らのエリカの花の間をマルハナバチがせわしなく飛び回っている。まるっこい黒と黄色の胴体をもそもそ振りつつ薄紫の花の中に潜り込み、ひとしきり探索してからまた次の花へと移る。ぶーんと微かな羽音を響かせて。
頭上の木の枝では小鳥がさえずっている。アップテンポのメロディを小刻みにくり返し。だれかを呼んでいるのか、それとも探しているのか。
どこからからか肉を焼くにおいが漂ってくる。きっと近くの家の庭先でバーベキューをしているのだろう。
金色の穏やかな秋の陽射しが降り注ぐ平和な公園。この前、こんな風景を見たのは8月だったが……あの時と違い、今は一人だ。
「ふぅ……」
我知らず深いため息が漏れた。
発端は夢。
ひと月ほど前のこと、久しぶりにアレックスの夢を見た。ぼんやりと霞む町並みの中、そこだけくっきりとした色と形をそなえた彼の姿を見つけた。
どうやら、また彼の夢に入ってしまったらしい。
8月の一件以来、彼はヨーコの従弟サリーから指導を受けて徐々に力のコントロールを身につけていた。
そのおかげで無意識に他人の夢に入り込むことは滅多になくなってきていたのだが……。
何ぶんいまだ発展途上。たまにはこう言うこともある。しかし今の彼はあの頃とは違う。他人の夢と自分の夢が混じることもない。自覚さえしてしまえば抜け出すのは容易だ。
戻らなければ。
ああ、でも、もう少しだけ。
夢の中のアレックスは一人ではなかった。誰かと楽しげに歩いている。
子どもの頃のローゼンベルク弁護士だろうか? だが、それにしてはアレックスの姿は『現在』の彼だ。誰と一緒なのだろう?
ほとんど無自覚のうちに意識の焦点が絞られ、場面が変わる。
アレックスはその『誰か』と一緒に回転木馬に乗っていた。
一人は小さな男の子。そしてもう一人は……妙齢の女性。親しげにほほ笑みを交わし、手をとりあっている。女性と子どもの顔はよく見えない。見たくない。
弾かれるように目を覚ました。
(何だったんだ、あれは……)
一応、サリーから説明は受けていた。
『夢の力』のコントロールを覚えた今、彼自身にある種の予知夢を見る力が備わっていることを。
『見ようと思って見られるほど正確で安定したものじゃないんですけどね。確率の高い正夢みたいなものです』
(まさか、な……)
不吉な予感を振り払ってジーノ&ローゼンベルク法律事務所に赴いた。例に寄って電話かメールですむ程度のささやかな用事にかこつけて。
そこで、見てしまったのだ。
有能秘書の左手の薬指に宿る銀色の輝き……細い金のラインに縁取られたシンプルな指輪を。
ただのアクセサリーなんかじゃないことは一目瞭然。その瞬間、鮮烈に夢の風景が脳裏に蘇る。
(あれは正夢……いや、予知夢だったんだ!)
「結婚……したのかい、アレックス」
「はい。式はまだ挙げておりませんが」
「そうか……おめでとう」
ショックを押し隠し、笑顔で祝福の言葉をかけることができたのは……ある程度受け入れる心づもりができていたからだろうか。
回転木馬に乗るアレックスの夢を見た時に。
「式はいつだい? 場所は?」
自分の能力に感謝しよう。ほんの少しだけ。
「花を贈りたいんだ」
以来、ふっつりとジーノ&ローゼンベルク法律事務所に足を運ぶことはやめ、連絡も相談も打ち合せも全て自分の秘書に任せている。
「安心しましたわ、社長。これが本来の在り方なんです」
秘書の小言を上の空で聞き流し、持てる権限とコネの全てを駆使して最高の『枯れない薔薇』をあつらえた。
花びらに使うシルクのジョーゼットも、葉っぱや茎の素材となるサテンも全て自分で目を通し、指で触れて品質を確かめた。
花びらの色は暖かみのある淡いアプリコットオレンジを選んだ。夢の中でおぼろげに感じた女性のイメージに合わせて。
そして万事抜かりなく贈り物の手配を済ませた翌日、滅多に乗らないインパラを引き出し、あてのない旅に出たのだった。
現金払いで安モーテルに泊まり、宿帳に書く名前は普段使わない母親の旧姓。決してカードは使わず、微妙に身元をぼかしつつ。
そろそろ一週間になるだろうか……のばしっぱなしにした無精髭が形の良い顎と唇の周りを覆いつつあった。常にきちんとセットしていた髪の毛も風に吹き流されるままぼうぼうと乱れ放題、荒れ放題。
万が一知人と出くわしても、すぐには彼だとわからないかもしれない。
いっそ煙草か酒に溺れることでもできたなら。あいにくと煙草は吸わないし酒を買いに行く気力もない。
今頃、アレックスは式を挙げているのだろうか。花束は届いたかな……受けとってくれたかな。
ぼんやりしていると、チリン……とかすかな鈴の音を聞いた。
顔を上げる。
長い黒髪を結い上げ、赤い縁の眼鏡をかけた女性が立っていた。
白いスタンドカラーのブラウスにチョコレートブラウンのスカート、ゆるく編んだカフェオレ色のニットのストールを巻いている。
背筋をしゃんと伸ばして歩いてくる。まっすぐに、迷いのない足どりで。
ふわりと襟元に巻かれたストールが翻る。
「ヨーコ?」
彼女は屈み込むと手を伸ばし、頬に触れてきた。
「ヒゲぐらい剃りなさい、カルヴィン・ランドール・Jr。いい男が台無しよ?」
はっと目を覚ます。
彼女の姿はどこにもない。居るはずがないのだ。それは彼自身が一番良く知っている。
頬に手を当てる。ひんやりした細い指先の感触がまだ残っている。
ばすん!
目から軽く火花が散り、世界が揺れた。
子ども用の軽いボールだ。ほとんど痛みはない。が、衝撃はかなりのものがあった。
がっくんと勢いよく上体がそりかえり、かろうじてベンチの背もたれに支えられてひっくり返るのは免れたものの、みしいっと背骨がきしんだ。
頭上に伸びた楓の枝。青空を背にうっすらと赤や黄色に色づいた葉が枝を中心に散りばめられている。伸びる小枝は陽の光を求めて全て違う方向をめざしている。まるでモザイクだ……。
にゅっと男の子が一人顔をつきだした。
「お?」
「大丈夫?」
そっと手を伸ばし、額に触れてきた。
……温かい。
(ああ、彼女は自分より体温が低かったのだな)
半ば夢を見ているような心地で思い出す。
「……大丈夫だよ」
男の子はほっとして表情をやわらげると、ボールを抱えて戻っていった。
ちりん、とシャツの胸ポケットで鈴が鳴った。
赤い絹のリボンを返そうとしたとき、サリーに渡された小さな金色の鈴。
『それは持っていてくださいって、ヨーコさんが。あと、念のため、これを……』
『可愛い鈴だね』
『お守りです』
「………帰らないと」
歓声を挙げ、子どもたちが走って行く。誰かが決勝点を決めたらしい。
カルヴィン・ランドール・Jrはすっくとベンチから立ち上がり、歩き出した。携帯を取り出し、久しぶりに電源を入れる。
「ああ、シンディ? 私だ。心配かけてすまなかったね……」
駐車場に停めてあったココアブラウンのシボレーインパラに乗り込み、ばたん、とドアを閉めた。
「今から戻るよ」
次へ→【4-7-4】社長、仕事してください
いつもの仕立てのいいイタリアブランドのスーツの代わりにくたくたの木綿のシャツに履き古したジーンズ、スニーカーと言ったラフな服装で。
乗っているのも、静かなエンジン音に穏やかな走り、彼のステイタスにふさわしいトヨタの銀色の高級車ではない。
やかましい音、でかい車体、燃費はおせじにもいいとは言いがたい70年型のシボレーインパラ、色は赤みがかったココアブラウン。
何もかも大手紡績会社の二代目社長には似つかわしくない。
ついでに言うと誰も今、彼がこの場所にいるとは……知らなかった。両親、親族、友人、知人、彼の右腕である秘書のシンディでさえも。
公園のベンチに腰を下ろし、ぼんやりと物思いにふける。携帯の電源はこの一週間と言うもの一度も入れていない。
※月梨さん画「社長放浪中」
目の前の広場では子どもたちがボールを追いかけ回している。サッカーなのか。バスケットなのか。あるいはラグビーか。手も足も頭もまんべんなく使って自由奔放にパスを飛ばす。
傍らのエリカの花の間をマルハナバチがせわしなく飛び回っている。まるっこい黒と黄色の胴体をもそもそ振りつつ薄紫の花の中に潜り込み、ひとしきり探索してからまた次の花へと移る。ぶーんと微かな羽音を響かせて。
頭上の木の枝では小鳥がさえずっている。アップテンポのメロディを小刻みにくり返し。だれかを呼んでいるのか、それとも探しているのか。
どこからからか肉を焼くにおいが漂ってくる。きっと近くの家の庭先でバーベキューをしているのだろう。
金色の穏やかな秋の陽射しが降り注ぐ平和な公園。この前、こんな風景を見たのは8月だったが……あの時と違い、今は一人だ。
「ふぅ……」
我知らず深いため息が漏れた。
発端は夢。
ひと月ほど前のこと、久しぶりにアレックスの夢を見た。ぼんやりと霞む町並みの中、そこだけくっきりとした色と形をそなえた彼の姿を見つけた。
どうやら、また彼の夢に入ってしまったらしい。
8月の一件以来、彼はヨーコの従弟サリーから指導を受けて徐々に力のコントロールを身につけていた。
そのおかげで無意識に他人の夢に入り込むことは滅多になくなってきていたのだが……。
何ぶんいまだ発展途上。たまにはこう言うこともある。しかし今の彼はあの頃とは違う。他人の夢と自分の夢が混じることもない。自覚さえしてしまえば抜け出すのは容易だ。
戻らなければ。
ああ、でも、もう少しだけ。
夢の中のアレックスは一人ではなかった。誰かと楽しげに歩いている。
子どもの頃のローゼンベルク弁護士だろうか? だが、それにしてはアレックスの姿は『現在』の彼だ。誰と一緒なのだろう?
ほとんど無自覚のうちに意識の焦点が絞られ、場面が変わる。
アレックスはその『誰か』と一緒に回転木馬に乗っていた。
一人は小さな男の子。そしてもう一人は……妙齢の女性。親しげにほほ笑みを交わし、手をとりあっている。女性と子どもの顔はよく見えない。見たくない。
弾かれるように目を覚ました。
(何だったんだ、あれは……)
一応、サリーから説明は受けていた。
『夢の力』のコントロールを覚えた今、彼自身にある種の予知夢を見る力が備わっていることを。
『見ようと思って見られるほど正確で安定したものじゃないんですけどね。確率の高い正夢みたいなものです』
(まさか、な……)
不吉な予感を振り払ってジーノ&ローゼンベルク法律事務所に赴いた。例に寄って電話かメールですむ程度のささやかな用事にかこつけて。
そこで、見てしまったのだ。
有能秘書の左手の薬指に宿る銀色の輝き……細い金のラインに縁取られたシンプルな指輪を。
ただのアクセサリーなんかじゃないことは一目瞭然。その瞬間、鮮烈に夢の風景が脳裏に蘇る。
(あれは正夢……いや、予知夢だったんだ!)
「結婚……したのかい、アレックス」
「はい。式はまだ挙げておりませんが」
「そうか……おめでとう」
ショックを押し隠し、笑顔で祝福の言葉をかけることができたのは……ある程度受け入れる心づもりができていたからだろうか。
回転木馬に乗るアレックスの夢を見た時に。
「式はいつだい? 場所は?」
自分の能力に感謝しよう。ほんの少しだけ。
「花を贈りたいんだ」
以来、ふっつりとジーノ&ローゼンベルク法律事務所に足を運ぶことはやめ、連絡も相談も打ち合せも全て自分の秘書に任せている。
「安心しましたわ、社長。これが本来の在り方なんです」
秘書の小言を上の空で聞き流し、持てる権限とコネの全てを駆使して最高の『枯れない薔薇』をあつらえた。
花びらに使うシルクのジョーゼットも、葉っぱや茎の素材となるサテンも全て自分で目を通し、指で触れて品質を確かめた。
花びらの色は暖かみのある淡いアプリコットオレンジを選んだ。夢の中でおぼろげに感じた女性のイメージに合わせて。
そして万事抜かりなく贈り物の手配を済ませた翌日、滅多に乗らないインパラを引き出し、あてのない旅に出たのだった。
現金払いで安モーテルに泊まり、宿帳に書く名前は普段使わない母親の旧姓。決してカードは使わず、微妙に身元をぼかしつつ。
そろそろ一週間になるだろうか……のばしっぱなしにした無精髭が形の良い顎と唇の周りを覆いつつあった。常にきちんとセットしていた髪の毛も風に吹き流されるままぼうぼうと乱れ放題、荒れ放題。
万が一知人と出くわしても、すぐには彼だとわからないかもしれない。
いっそ煙草か酒に溺れることでもできたなら。あいにくと煙草は吸わないし酒を買いに行く気力もない。
今頃、アレックスは式を挙げているのだろうか。花束は届いたかな……受けとってくれたかな。
ぼんやりしていると、チリン……とかすかな鈴の音を聞いた。
顔を上げる。
長い黒髪を結い上げ、赤い縁の眼鏡をかけた女性が立っていた。
白いスタンドカラーのブラウスにチョコレートブラウンのスカート、ゆるく編んだカフェオレ色のニットのストールを巻いている。
背筋をしゃんと伸ばして歩いてくる。まっすぐに、迷いのない足どりで。
ふわりと襟元に巻かれたストールが翻る。
「ヨーコ?」
彼女は屈み込むと手を伸ばし、頬に触れてきた。
「ヒゲぐらい剃りなさい、カルヴィン・ランドール・Jr。いい男が台無しよ?」
はっと目を覚ます。
彼女の姿はどこにもない。居るはずがないのだ。それは彼自身が一番良く知っている。
頬に手を当てる。ひんやりした細い指先の感触がまだ残っている。
ばすん!
目から軽く火花が散り、世界が揺れた。
子ども用の軽いボールだ。ほとんど痛みはない。が、衝撃はかなりのものがあった。
がっくんと勢いよく上体がそりかえり、かろうじてベンチの背もたれに支えられてひっくり返るのは免れたものの、みしいっと背骨がきしんだ。
頭上に伸びた楓の枝。青空を背にうっすらと赤や黄色に色づいた葉が枝を中心に散りばめられている。伸びる小枝は陽の光を求めて全て違う方向をめざしている。まるでモザイクだ……。
にゅっと男の子が一人顔をつきだした。
「お?」
「大丈夫?」
そっと手を伸ばし、額に触れてきた。
……温かい。
(ああ、彼女は自分より体温が低かったのだな)
半ば夢を見ているような心地で思い出す。
「……大丈夫だよ」
男の子はほっとして表情をやわらげると、ボールを抱えて戻っていった。
ちりん、とシャツの胸ポケットで鈴が鳴った。
赤い絹のリボンを返そうとしたとき、サリーに渡された小さな金色の鈴。
『それは持っていてくださいって、ヨーコさんが。あと、念のため、これを……』
『可愛い鈴だね』
『お守りです』
「………帰らないと」
歓声を挙げ、子どもたちが走って行く。誰かが決勝点を決めたらしい。
カルヴィン・ランドール・Jrはすっくとベンチから立ち上がり、歩き出した。携帯を取り出し、久しぶりに電源を入れる。
「ああ、シンディ? 私だ。心配かけてすまなかったね……」
駐車場に停めてあったココアブラウンのシボレーインパラに乗り込み、ばたん、とドアを閉めた。
「今から戻るよ」
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