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ローゼンベルク家の食卓

【4-7-2】おうじさまはお留守番

2008/11/10 0:14 四話十海
 
「くしゅんっ」

 オーレがくしゃみをした。小さな声と大量の息を勢いよく鼻からふき出し、ぷるっと白い体を震わせて。
 風邪か? はっとしてのぞきこむと前足でくしくしと鼻をこすっている。どうやら玩具のネズミの尻尾に着いていた鳥の羽根がひかっかかってくすぐったかったらしい。
 ……よかった。
 ほっと胸をなでおろす。

 オーレは前足をなめては顔をこすり、耳をこすり、念入りに毛繕いをしている。ふかふかのラグの上に寝そべって本を読むオティアの顔のそばに座り込んで。
 さっきまでは猫用の玩具を抱えてころころと転げ回っていた。キャットニップを詰めたカラフルな布製のネズミで、尻尾のところに鳥の羽根がついている。
 前足でちょいと引っ掛けては空中に放り投げ、落ちてきたのをまた受けとめて、はしっとくわえるのはいつも首筋。玩具が相手でも手加減しない。時々、とくいげに鼻面をふくらませ、尻尾をぴーんと立てて見せに来る。
 受けとって放り投げると、だだだっと走って行った。

 本宅と双子の部屋、ドア一枚で隔てられた二軒分の広いマンションの中にちりちりと、オーレの首輪の鈴の音がやけに大きく響く。
 
 レオンも、ディフも、シエンも教会に行った。
 ヒウェルも一緒だ。

 残っているのは自分一人。そして白い子猫が一匹。
 何てことはない。普段、探偵事務所で留守番している時と同じだ。寂しいとも心細いとも思わない。かえって静かで本に集中できる。
 食事もディフとシエンがきちんと用意していってくれた。食べたい時に食べればいい。

 何の不都合もない。
 そのはずだ。

 ここに残ったのは自分の意志。一番賢明な選択を下したとわかっている。

 だけど……。
 
 何故だろう。淡いわびしさがまとわりついて、消えない。拭っても、洗ってもうっすらと残る、白いテーブルクロスについた染みみたいに。
 
 
 ※ ※ ※ ※
  
 
 式の日取りが決まった時、アレックスはうやうやしく銀のトレイに載せた招待状を携えてローゼンベルク家を訪れ、一人一人に手渡してくれた。
 レオンとディフにはまとめて一通。夫婦だからこれは当然。
 自分とシエン、ヒウェルには一通ずつ。

 細い金で縁取られた白い封筒を開いて印刷された文面に目を通す。
『Mr.オティア・セーブル』で始まり、式の日取りと場所、招待の言葉が記され、最後にアレックスとソフィアの直筆の署名が添えられていた。
 それはオティアが生まれて初めて受けとった、自分一人に宛てた手紙だった。
 有能なアレックス。完ぺきなアレックス。初めてこの家に来た日から何くれとなく自分の世話をしてくれる。
 彼が幸せになれる一生に一度の結婚式。祝いたい気持ちがなかったわけではない。

 しかし。

 目を閉じる。
 八月の結婚式で向けられたシャッターの音が耳の奥で聞こえた。遠い雷のように、かすかに。ざわりと胸が波立つ。
 おさまりかけた暗い波がまた競り上がってくるような気がして慌てて意識を逸らした。

 目を開くと心配そうなシエンの顔があった。
 どうする?
 言葉で問いかけられるより早く(もとよりそんなもの必要ない)首を横に振る。

「……俺は行かない」
「……そう……」

 ディフとレオンの方を伺いながら途方に暮れた表情を浮かべるシエンを見て、オティアは自分から言った。

「行けよ」

 ほんの一瞬、シエンはわずかに身を震わせたように見えた。
 それでもなおとまどう様子にディフが遠慮がちに声をかけた。

「来るか? 今度は俺はずっと一緒にいられるぞ」
「……うん……」

 目を伏せて、しょんぼりとうなだれるシエンにディフがそーっと手を伸ばし、くしゃっと髪の毛なでた。
 途端にシエンはびくっとすくみあがって顔をそむけ、そのまま自分の部屋に駆けて行ってしまった。
 無言でオティアににらまれ、ディフが深くため息をつく。

「……やっちまった……」

 まったく、この所慣れてきたかと思ったが久々にやらかしてくれた。これだから天然は油断できないんだ。
 予想外のタイミングでデリカシーのない言動をしでかすから。

「………すまん」

 でかい図体を縮こまらせて、平謝りに頭をさげるディフに一べつくれてからオティアはさっさと部屋に戻った。
 
 
 ※ ※ ※ ※

 
 幸いなことにシエンは夜にはいつものようにキッチンに出て、何事もなかったように普通に食事の仕度を手伝った。
 耳も尻尾も力無く伏せたディフがおずおずと声をかける。

「シエン……その、さっきはごめん」
「ちょっとびっくりしただけ。考え事してたから」
「……そっか……すまん。今度から必ず一声かける」

 少しくすんだ金髪の頭が小さくうなずく。

「もう、大丈夫だから」

 控えめな笑顔とは裏腹に、シエンの胸の内側でしくしくと疼くものがあった。
 まるで気づかぬうちに指先にできた小さな擦り傷のようにひっそりと息をひそめ、水に触れた瞬間、ちくりと疼いて痛みと傷の存在を主張する。

『行けよ』

(オティア……一緒に居なくてもいいってことなのかな。一人で居たいって言うことなのかな)
 
 暗い池の中にぽつりと一粒、小石が落ちた。落ちた場所から波紋が広がって、ひしひしと水面を覆って行く。

(俺がいないほうがいいのかな)
 
 それはほんのかすかな揺らぎでしかなかったけれど、いつまでも消えなかった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
  
 
 式を終えてから、新郎新婦は腕を組んで控え室へと戻ってきた。これから教会にほど近いレストランへと場所を移し、結婚披露パーティーが始まるのだ。
 ディーンはソフィアの両親と一緒にいる。しばしの間、二人きりの時間……と言っても、実際にはこの間に水分や食べ物を補給したり、体を休めたりとサッカーのハーフタイムさながらの慌ただしくもハードな時間だったりするのだが。

「まあ」

 控え室に入るなり花嫁は目を丸くした。

「また増えてるわ……お花」

 こじんまりとした控え室は、花で埋め尽くされていた。アレックスの両親や法律事務所の顧客、ルーセント・ベイカリーの常連客、その他、親しい人たちから贈られた祝いの花に。
 白い薔薇、赤いフリージア、青い矢車草、白と黄色のマーガレット、薄紅色の胡蝶蘭、ほんのり青みがかった紫色のベルフラワー、そして白い百合、ピンクの百合。花束用の小さなヒマワリもある。

「まるで花園ね。それともお花屋さん?」

 ピンクの百合にのばした花嫁の手を、アレックスはそっと押さえた。

「ソフィア、気をつけて。花粉がドレスに着いてしまうよ」
「ああっ、そうだったわ、私、今、全身白づくめなのね……残念。こんなにたくさんの花をもらえるなんてそう滅多にないことなのに」

 なるほど、一理ある。
 せっかくいただいたのだ、どうにかして一輪なりと彼女に手渡してやりたい。比較的花粉の少ない花はないものか。

 アレックスは部屋の中にわさわさと広がる花束の森を見渡した。
 これは……あ、いや、色が濃すぎる。花粉はともかく汁が危険だ。中々に難しい。
 しばしの努力の後、彼は見つけた。

 活き活きと咲き誇るみずみずしい薔薇の中に一輪だけ、わずかに他と異なるやわらかな風合いの花の混じった花束を。
 
 これは、もしや。

 近づいて手を触れる。ひやりとした生きた花びらの手触りの代わりに、しっとりと優しい感触が指先に伝わってきた。
 
 ああ、これなら大丈夫だ。

 そっと抜き取り、妻の手に渡す。

「ソフィア、これを」
「まあ。この薔薇は……シルクね?」

 本物と見まごうほど精巧な小振りの薔薇の花びらは、一枚一枚が薄いシルクのジョーゼットの布で造られていた。若草色の茎も、葉っぱも、全て絹。
 ソフィアはうれしそうにシルクの薔薇にほお擦りした。これなら花粉も散らない。汁がドレスを汚す心配もない。しかも本物の薔薇の中に混じっている間にほのかに香りが移っている。

「素敵。どなたのプレゼントかしら」
「これは……」

 アレックスは素早くカードを確かめた。

「ランドールさまだ。事務所のお客様だよ。紡績会社を経営していらっしゃる方だ」
「そう……それじゃ、繊維のエキスパートでいらっしゃるのね。粋なお方。あとでよくお礼を申し上げなくちゃ」
「そうだね。レオンさまの結婚式の時にも、いろいろお心を砕いてくださった事だし」

 ソフィアはそっとドレスの胸元に薔薇を挿してみた。まるであつらえたようにぴったりとそこに収まった。

「どう? 似合うかしら」

 アレックスは目を細めて妻の姿を見つめた。アプリコットオレンジの花びらが彼女の瞳と髪の色に優しく融け合っている。
 やわらかな笑みがこぼれる。

「ああ。とてもよく似合っているよ」

 その後、結婚披露のパーティでシルクの薔薇は花嫁の胸元を飾った。
 しかしその光景を送り主が直接見ることはなかった。

 何故なら薔薇の送り主はその頃……。

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