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【4-4-2】サリー、本を買う

2008/09/23 22:35 四話十海
 
 9月10日、日曜日。
 ディフは双子の寸法を確認してから、買い物に出かけた。表向きの理由は『1サイズ大きいシャツを買いに』。本来の目的はプレゼントとケーキの材料の調達、故に二人を一緒に連れて行く訳には行かない。
 オティアとシエンはアレックスの付き添いで留守番中、今頃はしばらく滞っていたホームスクーリングの課題をやっているはずだ。

 ショッピングモールの衣料品店でまず大きめのシャツを買い、さて他に補給するものは……と軽く巡回している時にふと、そいつを見つけた。

(ああ、こいつはおあつらえ向きだ)

 手に取って素材を確かめてみる。

 ………綿だった。
 これなら家で洗濯できるな。さらさらしていて、汗も吸う。肌触りもいいし、縫製もしっかりしている。

(これにしよう)

 ミルクをたっぷり入れたコーヒーのような優しい生成りの色と、ほんわりと霞む春先の空のような青色、色違いで二着買い求める。
 目元をわずかに赤く染めながら、精一杯平静を装ってプレゼント用のラッピングを頼んだ。
 
「かしこまりました。リボンで色の違いがわかるようにしておきますね」
「…………ありがとう」

 引き続き食料品店でケーキの材料を入手する。
 品目はアレックスの指導のもと、スポンジケーキではなくタルトに決まった。
 ストロベリーにブルーベリーにラズベリー。果実の自然な味わいと色合いを活かして、クリームは極力控えめに。
 メッセージを書くためのホワイトチョコでコーティングされた薄いプレート状のクッキーと、文字を描くためのチョコペン、バースデー用のキャンドルも忘れずに。

 買い物を終えてから外の通りを歩いていると、向かい側のカフェのテラス席に見覚えのある姿を見つけた。
 黒髪、短髪、東洋系、フレーム大きめの眼鏡をかけたほっそりした姿。

 サリーだ。
 ラッキーだな、電話する手間が省けたぞ。

 しゃん、と背筋を伸ばして立ち居振る舞いに無駄が無く、周囲の人間と動きの質が違う。控えめであるが故に自然と際立って見える……ヨーコもそうだった。
 大またで通りを横切り、近づいて行く。

「OK、だいぶ上達しましたね。この調子で焦らずに続けてくださいね」
「ありがとう。がんばるよ」
「それじゃ、また」
「ああ、また、来週。ヨーコによろしく」
「はい。伝えておきます」

 どうやら連れがいたようだ。入れ違いに席を立った所で、ちらりと後ろ姿だけが見えた。
 ウェーブのかかった黒髪、背の高い男性、白人。ダークグレーに淡い水色の極めて細いストライプの入ったスーツを着ていた。適度な余裕をもって体を包むあのラインはイタリア製だろうか?
 シャツの色は青紫、タイはしていないが水色のネッカチーフを巻いていた。
 教会に入ってもおかしくない程度にきちんとして、それでいて適度にカジュアルな服装。仕立ても布地の質も良さそうだ。
 知り合いだろうか?

「よう、サリー」
「こんにちは、ディフ」
「ちょうどよかった、今電話しようと思ってたんだ」
「俺の方も渡したいものが……」

 顔を合わせるなり、サリーはベルトに下げた小さめのカバンから平べったい袋を取り出した。
 そこはかとなく緑色が多め。表面には白い陶器のカップに入った湯気の立つ液体の写真……どうやらインスタントのスープらしい。

「はい、これ」
「何だ、これ?」
「ワカメのスープです。お湯注げば食べられます」
「……そうか、これがワカメか。ありがとう」

 ありがたく受けとることにした。

「で、何か俺に用ですか?」
「ああ、うん。明日の夜、暇か?」
「明日の夜……ですか? 空いてますけど」
「そうか」

 ほっとして、ディフは本題に入った。

「実は明日、オティアとシエンの誕生日なんだ」
「それはおめでとうございます。いくつになるんですか?」
「17歳だ。それで……夕飯の時、サプライズパーティをやるんだ」

 さあ、ここからが正念場だ。一旦言葉を区切るとディフはこくっと唾をのみこんだ。

「君が来てくれると、嬉しい」
「俺が?」
「ああ。友人として君を招待したい」

 ほんの少しの間、サリーは考えているようだった。が、すぐににっこりとほほ笑んでうなずいてくれた。

「喜んで」

 その一言に、ディフも顔をほころばせる。目を細めて口角を上げ、ちらりと白い歯を見せて。上機嫌の大型犬そっくりの笑顔になる。

「サプライズってことは二人にはナイショなんですよね?」
「うん。ナイショだ」
「わかりました。じゃあプレゼント用意しとかなきゃ……そうだ、夕飯の時、俺も何か作りましょうか?」
「ありがとう。ぜひお願いする。あいつらも喜ぶよ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 ディフを見送ってから、サリーはカフェを出て歩き出した。
 
 誕生日。
 だれかの誕生日をお祝いするのは、楽しい。当人に秘密にすると思うとわくわくする。
 ディフも楽しそうだった……両手に山のように荷物をかかえて。きっとプレゼントや誕生日のごちそうの材料を買ってきたんだろう。
 双子たちにナイショにして。

(そうだ、プレゼント)

 何を贈ろう? オティアもシエンも本の好きな子だから、本がいいかな。ローゼンベルクさんや、ディフが持っていないようなのを。

 ショッピングモールにも何件か大きな書店が入っていた。最新の本が入るのは早いけれど、何となく騒がしくて落ち着かない。
 もっとこじんまりした店の方がいいな、と思った。
 贈る人のことを想いながらとっておきの一冊を探すには、もっと本とじっくり向かい合うことのできる場所の方がいい。

 思い切って普段行かない場所まで足を伸ばしてみた。表通りから少し奥に入ったところに古い商店街がある。
 いつもは横目で見て通りすぎるだけだけれど、ここになら目的にかなったお店があるかもしれない。

 石畳の道の両端に、絵はがきに出てくるような古い造りの建物が並んでいる。両端が細く、中央がぷっくりと膨らんだ柱はヨーロッパの洋館を思わせる。
 肉屋に魚屋、つやつやのリンゴやピーマンがきっちり積み上げられた青果店。
 赤いレンガ造りの花屋の前を通りかかると、大小二匹、そっくりの黒縞の猫がみゃう、と声をかけてきた。

「あれ、バーナードJr? ここにもらわれてたんだ」
「みぅ」
「そうか、お父さんの家に来たんだね……はじめまして、バーナードSr」

 サイズ違いの二匹の頭をなでて挨拶を交わす。リズの子どもたちの父親は無口だが愛想が良く、穏やかな猫だった。

 花屋の猫たちに別れを告げて、またしばらく歩いて行くと、砂岩作りの細長い建物があった。ちらりと見えた看板には『BOOK』と書かれている。
 
(本屋さん?)

 近づいて行くと、窓のところに白い子猫がいた。サリーに気づくなりぱっと青い瞳を輝かせ、高い声で「みうー!」と鳴いた。

「えっ? モニーク?」
「みゃ!」
 
 するり、とモニークの隣にもう一匹やってきた。
 尻尾と手足が薄い茶色の白い猫。
 リズだ。

「え? え? え?」

 改めて看板を見る。

『エドワーズ古書店』

「………そうか、ここがエドワーズさんのお店なんだ………」

 二対の青い瞳が見上げている。サリーは頭をひねって考え込んでしまった。

「モニーク、魚屋さんにもらわれて行ったはずじゃあ」
「みゃー!」

 モニークが誇らしげに鳴き、リズはうつむいてため息をついている。

「リズ。モニーク。誰と話しているんだい?」

 店の奥から背の高い金髪の男性が出てきた。きちんと折り目のついたダークグレイのズボンに同じ色のベスト、白いシャツにアスコットタイを締めて両方の袖をアームバンドで留めている。
 瞳の色はライムグリーン。

「あ……サリー先生」
「こんにちは、エドワーズさん」

 猫がいるんだから飼い主がいて当然。わかっているはずなのに、何となくどきっとしてしまった。

「何故、ここに?」
「本を探しているんです」
「なるほど。でしたら……」

 エドワーズは一度奥に入って行く。2匹の猫も後を追う。
 しばらくしてから、カランコロンと優しいベルの音ともに入り口のドアが開いた。

「どうぞ、お入りください」

 ほほ笑むエドワーズの懐からは、ちょこんとモニークが顔を出している。まるでカンガルーの子どもだ。

「それじゃ、失礼して」

 くすっと笑うと、サリーは店の中へと入った。

「わあ……」

 こじんまりとした店の壁はほとんど背の高い本棚で埋め尽くされている。古びた紙と、糊のにおいがほんのりと空気の中に漂っていた。
 流行りの曲をがんがん流す店内放送も、派手な宣伝ポップも、特売のポスターもない。

 ただ、本がある。
 
(そうだ、こう言うお店を探していたんだ)

「どのような本をお探しですか?」

 まだモニークはエドワーズの懐に入ったままだ。脱走を防ぐために入れられたのだろうけど、すっかり忘れて喉をゴロゴロ鳴らしている。
 どうやらお気に入りのポジションらしい。

「えっと……実は誕生日の贈物を探しているんです」
「そうでしたか。どなたへの贈物ですか?」
「友だちです。まだ十七歳なんですけど……本の好きな子たちで」
「なるほど。どんな本がお好きなんでしょう?」
「そうだな。オティアは、ヨーコさんがお土産でもってきた歴史の本を熱心に読んでたみたいだったなぁ」
「オティア?」

 エドワーズは思った。
 聞き覚えのある名前だ。
 懐のモニークも喉を鳴らすのをやめて、ピンと耳を立てている。

「もしかして、オティア・セーブル……ですか。マックスの所のアシスタントをしている」
「はい。ああ、そうか、モニークが行方不明になったとき探してくれたんでしたよね、彼」
「はい。この子の命の恩人です」
「みゃー!」

 サリー先生は時々、マックスの事務所でペット探しの手伝いをしていると言っていた。それなら、親しいのも当然だろう。
 彼への贈物なら、なおさら心をこめて選ばなければ。歴史の本のコーナーを丹念に確認して行く。背表紙を見て、記憶している本の特徴と照らし合わせながら棚の端から端まで視線を走らせる。
 すぐ隣にサリー先生が立っていると思うと、胸の鼓動がどうしても、若干、早くなる。
 しみじみと幸せを噛みしめながらエドワーズは選りすぐりの一冊を手にとり、ぱらりと開いてうやうやしくサリーに差し出した。

「こちらの本はいかがでしょう? 昔のお城や当時の人々の服装、使っていた道具まで詳しく図解してあります」
「本当だ! ああ、好きそうです、こう言うの……」
 
 眼鏡の向こうのつぶらな瞳が嬉しそうに細められる。モニークがもぞもぞ動いて前足を伸ばした。

「あ、こら、モニーク」
「あは、ページが動くのが面白いのかな?」

 白い前足を握手するように握って、サリー先生はモニークに顔を近づけた。

「だめだよ、イタズラしちゃ」
「にう」

(うわぁ)

 とりもなおさずそれはエドワーズの胸に顔を寄せていることにもなるのだが……当人はまったく気づいていない。
 エドワーズは最大限の努力を振り絞って平静を保った。つややかな黒髪から立ちのぼるほのかに甘い香りから必死に意識を逸らした。
 おそらくはシャンプー、それもハーブ由来の天然香料のものだろう。自然な植物の控えめな芳香は、本来ならとても心安らぐ香りのはずなのだが。

「オティアにはこれにしようっと。シエンには何がいいかな……」

 ……良かった、離れてくれた。でもちょっぴり寂しいような気がした。

(もう少しあの位置に居てくれても……いやいやいや)

 内心の葛藤を紳士の慎ましさの奥底にしまい込み、仕事に集中する。

「シエン……Mr.セーブルの兄弟ですね?」
「はい。双子の」

 やはり双子だったのだ。結婚式のリングボーイの片割れ、並んで立っていた瓜二つの一対のうちの一人。
 Mr.セーブルに比べて物静かな印象の少年だった。

「料理の好きな子なんです」
「なるほど。でしたらレシピ集……いや、それもいささかストレートすぎて面白みがないですね」

 記憶をたどりつつエドワーズは本棚の間を通り抜け、別の一角に移動した。すぐ傍らをとことことサリーがついて行く。

「確か、この辺りに」

 すぽっと幅の広めの大判の本を抜き出した。
 表紙は濃い茶色を基調とした写真。乳鉢や素焼きの壷など、薬草を調合する古い道具が置かれている。
 背後には木の棚に乗せられた白い袋。右上には四角くトリミングされた黄色や白、赤の花。全て薬草だ。
 そして左側には中世風の画風で描かれた『薬草園の世話をする修道士』の絵。

「Brother Cadfael's Herb Garden ?」
「はい。図鑑と言うにはいささか変わり種ですが、充実していますよ。ハーブだけではなく、フルーツやナッツ類の用法から薬効まで書かれています。何より写真が美しい」
「Brother Cadfael………ああ、エリス・ピーターズの」
「ご存知でしたか。ええ、あのミステリー小説に出てくるハーブを紹介した本なんです」
「日本でも翻訳が出ていますよ。でもこれはさすがに売ってなかったなぁ……」
「古い本ですからね。これは……1996年発行だ」
「わあ、もう十年も前なんだ!」

 十年。
 確かその頃はまだ警察官だった。彼女とは離婚したばかりで……。

 十年前は、サリー先生は何歳だったのだろう?
 まだほんの少年だったはずだ。今でさえ私服姿では高校生とまちがえそうなのに、いったいその頃はどんな子だったのか。
 ちょっと想像がつかない。

「きれいだな……見て楽しいし、実用性もある。これなら料理に使うハーブを調べるのに役に立ちそうだ」

 うなずくと、サリーはにっこりと笑った。

「決めました。シエンにはこれにします」
「ありがとうございます。それではお包みしましょう」

 会計を済ませると、エドワーズは薄紙を取り出した。

「どちらの本を、どの紙でお包みしましょうか」
「カドフェル修道士のハーブガーデンは、このクリーム色で。こっちの歴史の本は青いのでお願いします」
「かしこまりました。モニーク、そろそろ降りてもらえるかな?」
「みう」

 不満そうにつぶやく子猫を懐から出すと、エドワーズは手際よく本のラッピングを始めた。

「あの……エドワーズさん」
「何でしょう」
「どうして、モニークはここに?」

 ぴたりと一瞬、手が止まる。

「あ、ごめんなさい、その、確か魚屋さんにもらわれて行ったって聞いてたので」
「ええ……そうなんですが……」

 リズがまた、ため息をついている。
 その隣ではモニークが上機嫌で床にひっくり返り、切り落とされた包み紙の切れはしをちょいちょいと前足でつついている。

「実はモニークは……もらわれて行った先から、脱走してはここに帰ってきてしまうのです」
「みゃ!」
「ああ……」
「何度連れ戻しても、また逃げてくる。酷いときは一日に二回も。近くだからいいのですが、さすがに魚屋の店主夫婦も困り果ててしまいまして」
「にゅう!」
「それで、とうとう戻されてしまったんです」

 きゅっとクリーム色の包み紙の端をテープで留めると、エドワーズは白いリボンをくるりと巻き付けた。

「私も、猫が二匹居ても……いいかな、と思いまして、それで」
「そうだったんですか」

 何故、モニークがそんなに脱走をくり返したのか。理由はわかっている。
 サリーはほんの少し、胸がどきどきしてきた。

 これは、ひょっとしたら……チャンスかもしれない。だけどオティアは一度はNoと言っている。果たして二度目は受け入れてくれるだろうか?

 
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【4-4-3】ヒウェル、猫に会う

2008/09/23 22:36 四話十海
 各自の判断でプレゼントを調達する。
 自分で言い出したのはいいものの、ヒウェルは迷っていた。
 
 実用的なもの。
 これが一番難しい。常日頃他人に何ぞを贈る際にはいつもネタに走っていたものだから、いざ実用性のあるプレゼントを探そうとすると、冗談みたいにぱったりと、アイディアの泉が枯渇してしまったらしい。
 いくら頭をひねっても、さっぱり湧いてこない。

(これは……やばいぞ)

 机の前に座って考えた所で思考は車を回すハムスターよろしく、延々と空回りを続けるばかり。

(どれ、ちょっくらリサーチしてくるか)
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「Hey,まま」
「何だ?」
「………ほんとリアクション薄いよな」

 ヒウェルがローゼンベルク家の『本宅』を訪ねてみると、ちょうどディフが買い物から戻ったところだった。

「双子は?」
「ああ、隣だ。アレックスに勉強見てもらってる」
「そっか……じゃあ、好都合だな」

 境目のドアは今は開いている。昼間はいつもこうなのだ。ちらっとそちらを確認してから念のため、小声でこそっと聞いてみる。

「オティアとシエン……最近、何か、こう、生活必需品で不足してそうなもの、ないか」

 ちょっと考えてから付け加える。

「できればシャツ以外で」

 ディフはしばらく拳を握って口元に当てて考えていた。

「オティアが」
「うん」

(やったぜ、いきなり本命だ!)

「目覚まし時計…………壊しちまったんだ」
「目覚まし時計?」
「ああ」

 ちらりとディフの顔に浮かぶ苦い笑みに、妙にがらんとしていた双子の寝室が重なる。
 おそらく、壊したのは時計だけではない。オティア自身も気づかぬうちに『破壊』してしまったのだ。

「1コインショップで見つけて、珍しく自分で選んだ時計だったんだけど……な」
「そいつぁ珍しいね、確かに。で、どんなんだった」
「ん……ちょっと待ってろ」

 ディフは電話台の脇のメモスタンドからひょいとペンを抜き取ると、広告のチラシの裏にさっさっとスケッチを始めた。

「丸形で、アナログ式。文字盤はローマ数字じゃなくて普通の1、2、3……で。上に金属のベルが二つついてた」
「上手いもんだね」
「時計は無意識に形を覚えちまうんだよ。爆弾のタイマーに使われることがあるからな。色は青だ」
「つやつや? それとも、マットがかかってる?」
「つやつや」
「OK。1コインショップで買ったんだな?」
「ああ。いつも行くショッピングモールのな」
「あー、はいはい、あそこね。わかったわかった。で、シエンは?」
「シエンは………買い物の時」
「うん」
「財布が、な……小銭がすぐ溜まって、ぎっしり満杯になって困るって言ってた」
「………そうか」

(小銭がぎっしり。それって、16歳の財布と言うよりは、むしろ主婦の財布じゃねえか?)

「最近は自分で作る料理の食材は自分で選んで買ってるからな。支払いもあの子が自分でやってる」

 納得。
 
 
 ※ ※ ※ ※ 
 
 
 オティアには目覚まし時計。青でクラシカルなベル式。
 シエンには小銭のたっぷり入りそうな丈夫な財布。

 品目は決まった。あとは物を選ぶだけだ。
 オティアの場合は入手先はわかっているし、具体的にどんなものを探せばいいのかも決まっている。
 だが、シエンの『財布』は自由度が高いだけにかえって難しい。
 何を贈ってもあの子はほほ笑んで『ありがとう』と言うのだろうけれど……。

 とりあえず店の前を歩いてみることにした。ふらふらしてるうちに、『何か』いいものに出会えるかもしれない。

 虫のいい考えだが、効果はあった。ジャパンタウンをぶらついている時に(中華街と同じくここもヒウェルのお気に入りのぶらつき場所の一つだった)、ふっと店先に置かれた変わった形のコインケースに目が引き寄せられた。

 本体は布。ころんとふくらんだ丸みのある形で、互い違いになった口金をとじあわせてきっちりと閉める仕組みになっている。
 手にとってカパカパ開け閉めしてみた。

(面白ぇ……カエルの口みたいだ)

 これ、いいな。シエンが喜びそうだ。バイト中にコーヒー買いに行く時なんかも便利だろう。
 かぱっとやって、すぐ中味が出る。
 何より面白い。

 だが、この布製のはちと小さいな。
 もっとしっかりした造りで、大きめのやつを探してみよう。

 ヒウェルは店の中へと足を踏み入れ、店員を呼び止めた。

「表にあったような形のコインケースで、もっとしっかりしたの探してるんだ」
「がま口(Frog-mouth-pouch)をお探しですか?」
「へえ、ほんとにそう言う名前なんだ……」

 にやっと口角が上がる。
 いいね、ますます気に入った。

「しっかりしたもの、でしたらこれなどいかがでしょう?」

 店員がいくつか出してくれた『がま口』の中で、ひときわ目を引く品を手にとってみる。金色の口金をひねり、かぱっと開けた。

「へえ、中は革張りなんだ」
「はい。布だけのものと違ってぺったりしませんから中味の出し入れも楽です」
「ふうん……外側の布もしっかりしてるな。模様も印刷じゃなくて刺繍だし……」

 どっかで見たことがあるなと思ったら、この質感は、あれだ。ヨーコの着てた着物の帯に似てるのだ。
 びっしりほどこされた金色の縫い取りは、ちょっと角度を変えただけで微妙に色合いが変化する。
 よく見かける布に日本っぽい絵柄をプリントしたものとは明らかに格が違っていた。

「これ、ください。贈物なのでラッピングも」
「はい、かしこまりました」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 シエンのプレゼントは無事確保できた。あとはモールの1コインショップでオティアの分を買えばいい。
 上機嫌で件の店を訪れたヒウェルだったが、事態はそう簡単には運ばなかった。

「え……品切れ?」
「はい、当ショップではもう扱っておりません」

 1コインショップの商品は入れ替わりが早い。そしてどんなに売れた商品であれ、品切れになれば再入荷の予定はない。
 機能と役割が同じで、デザインの違う新商品が後がまに並ぶ。
 まさに一期一会、あるいは一発勝負。

(こいつぁ予想外だ、困ったぞ。まさか、こっちでつまづくなんて!)

 わずかな望みをかけて他のショップを見回ってみたが収穫無し。冷静に考えてみれば、こう言う人の出入りの多い場所ではそれだけ商品の入れ替わりも早いのだ。
 作戦変更。少し奥まった所まで足を伸ばしてみよう。

 ユニオン・スクエアの表通りからちょいと横手に入った所にある古い商店街。石畳の道に古風な建物、昔ながらの店が並ぶなかなかに写真映えのする一角。
 こじんまりした雑貨屋、オーソドックスに時計屋、ボタン電池からフットバス、大型電動工具に至るまで幅広い品ぞろえを誇る電気屋。
 探索してみたがいずれも空振りだった。

 ため息一つ。

 いかんな。もう、ちょっと似てるデザインの別の奴でもいいかって気になってる……。
 オティアがあの時計のどこをそんなに気に入ったのか、ヒウェルは知る由もない。青系が好きらしいから色かな、とも思うのだが生憎とモノクロのスケッチでは元の時計の色はわからない。
 わからない以上、似た物での代用は効かない。オティアが選んだものと、そっくり同じものを贈らなければ意味はないのだ。

(ちょっくら気分転換してくか)
 
 馴染みの古本屋に立寄り、リフレッシュを試みることにした。
 着いてすぐに砂岩作りの三階建ての店の前のワゴンに並ぶセール本をチェックする。
 大抵の古書店ではこの種の安売り品は無造作につっこんであるものなのだが、この店の本は大きさごとに分けられ、ひと目で背表紙が読めるようになっていた。

「お」

 好みの雑誌発見。ネットオークションで買えば冗談だろうと言うくらいに値の跳ね上がる代物だが、比較的良心的な価格が表示されている。
 数冊選び出し、会計をしようと店の中に入った。

 カランコローン……

 ドアベルの奏でるやや低めの音階に、金髪の店主が顔をあげた。

(ん?)

 その刹那、店主のライムグリーンの瞳が鋭い光を宿し、『きっ』とにらみつけてきたような気がした。

「……いらっしゃいませ」
 
 一瞬のことだった。もう、いつもの穏やかな顔にもどってる。

(びっくりした……あの人でもああ言う目つき、する時があるんだな)

 妙なことに感心しつつカウンターに歩み寄り、手にした雑誌をさし出した。

「これ、お願いします」

 すると、にゅっと床から立ち上がった奴が約一名。どうやら先客がいたらしい。ひゅん、と長い薄茶色の尻尾がしなるのが見えた。猫の相手でもしていたのだろうか。

「あれ? メイリールさん」
「え……サリー?」

 レジを打ちかけた店主の手がふと止まる。
 微妙な間の後、静かな声が問いかけてきた。

「……………………………………お知り合い、ですか?」

 微妙に声のトーンが低い。しかも、そこはかとなくトゲが生えてるような。

 おいおい、俺、この人に何かしたか?
 まじまじと、改めて店主の顔を見つめ、記憶を漁る。
 基本的にヒウェルは自分がはめた相手の顔は忘れない主義だった。いつ、どこで出くわさないとも限らない。
 相手の存在にいち早く気づき、自分を覚えているかどうか、適度な距離を保ちつつ観察できるように。
 いざと言う時は恨みをこめた一撃を食らう前にとっとと逃げ出せるように。

(あ)

 ファインダー越しの記憶と目の前の顔が一致した。

「そー言えばレオンとディフの結婚式の時にいましたね……SFPD(サンフランシスコ市警察)の方々と一緒に」
「ええ、3年前まで勤めてましたから」

 ディフの元同僚だったのか……。元警察官なら、あの鋭い眼光も納得が行く。

「あなたは確か……ああ、結婚式でカメラマンをしていらっしゃいましたね」
「ディフの友人で、高校の同級生だそうですよ」
「では、Missヨーコとも?」
「ええ、まあ……」

 あいまいな笑みを浮かべつつ語尾を濁す。あいにく、とか不幸にして、とか、当人の従弟を目の前にうっかり本音を言えるはずがない。

「あれ、でも初対面なんですね。警察署内なんかで会ったことなかったんだ」
「私は事務の担当でしたから……」
「ああ、それじゃあんまり顔合わせてないな。その頃なら俺、馴染みがあるのはもっぱら広報担当だったから」

 3年前と言えばヒウェルはまだ、かろうじて堅気の記者だった。
 あちらこちらに鼻を突っ込み、事務担当にまで世話になるようになったのは店主が警察を辞めた後のことになる。

「あ……そうだ。メイリールさん。いいところに」

 サリーは本棚のすき間に向かって呼びかけた。

「モニーク、モニーク。おいで」
「みゃ!」

 真っ白な毛皮、青い瞳、そして胴体の左側に、カフェオーレをこぼしたような、ちょっといびつな丸いぶち。
 子猫は日一日と成長する。若干サイズは変わっていたが、確かにそれはオティアが探し出したあの行方不明のちび猫さんだった。

「………………………魚屋さんにもらわれていったはずじゃあ」
「ええ、そうなんですが……実は」

 ため息をつくと、古書店の主人は低い声でモニークが出戻ったいきさつを教えてくれた。

「お前……どんだけ脱走すれば気がすむんだ」
「み」

 子猫は耳を伏せてぷい、とそっぽを向いてしまった。

「どうでしょう、メイリールさん。この子ならきっと大丈夫だと思うんだけれど」
「そうだな……彼女、オティアに懐いていたし………オティアもこの子を気にしてた」
「Mr.セーブルですか? ええ、彼ならこの子のよい飼い主になってくれるでしょう。そう思ってお願いしてみたのですが……」
「NOって言ったんだろ、あいつ?」

 サリーがうつむき、子猫をなでた。

「難しいですかね………」
「いや、ここは一つ強硬手段に出てみよう」
「強硬手段?」
「ああ。強引に連れてく。だいたいオティアは遠慮しすぎなんだ。それに、里子先から戻されたって聞けば……決してこの子を追い返したりしない」

 ひと息に言い切ってから、ヒウェルは深く息を吸い込み、また吐き出した。
 妙に顔がかっかと火照っている。

(ああ、俺は今、何をやらかそうとしているんだろう?)

「ディフとレオンには俺から根回ししとくから……」
「その……Mr.メイリール、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」

 控えめに店主が問いかけてくる。

「マックスはわかります、彼の雇い主ですから。ですが、何故レオンまで?」
「ああ、オティアには身寄りが無くてね。あの二人が面倒見てるんですよ、双子の兄弟と一緒に」
「なるほど。レオンのことは私もよく知っています。彼は確か……動物があまり………」

 店主は口をつぐむ。ヒウェルも黙ってライムグリーンの瞳を見返した。サリーはモニークを抱きかかえたまま、心配そうに二人を交互に見ている。

「大丈夫だって! ……………………………………………タブン」
「だと、いいのですが」

 エドワーズは秘かに思い出していた。署の廊下で警察犬とすれ違った時、レオンはほんの僅かな間だが凍えるような瞳で犬を……睨んだ。
 黒のロングコートのシェパード、仕事以外の時はフレンドリー極まりないヒューイ。マックスが可愛がっていた。
 ヒューイはさほど気にする風でもなかったが、もし、あれと同じ目でモニークを睨まれたらと思うと背筋が寒くなる。

「オティアが住んでるのは、正確にはあの二人の隣の部屋なんだ。ドア一枚で繋がってるけど、レオンやディフといつも一緒って訳じゃない」

 ああ、それならばモニークがレオンハルト・ローゼンベルクに睨まれる可能性は少しは低くなる。

「それに、モニークを抱いてたときのオティア、今まで見たことないほど穏やかな顔してたんだ……一緒にいると、きっと、喜ぶ」
「そっか……良かったね、モニーク」

 サリー先生に頭をなでられ、かぱっと小さな口を開けてモニークが鳴いた。

「にう!」

 その時、エドワーズは気がついた。可愛がってくれる、しかも大好物のエビを食べさせてくれる魚屋夫婦の所から、何故、頻繁にモニークが脱走していたのか。
 彼女には彼女なりの目的があったのだ。

「お前もMr.セーブルの所に行きたいのかい?」
「みう〜」
「彼の所でなければ、嫌なんだね?」
「みゃ!」
「…………そうか」

 エドワーズは心を決めた。

「お願いします」
「俺からもディフに連絡してみます」

 ようやく、エドワーズの顔にほほ笑みが戻ってきた。
 大丈夫だ。サリー先生も協力してくれるのなら、安心できる。


 そしてヒウェルは携帯を取り出し、電話をかけた。


「あ、もしもし、レオン。猫飼っていいですか?」
 
 憮然とした声が即座に答える。

「却下」

 この口調の素っ気なさ、この声のトーンの低さ。察するに受けた場所は書斎、近くにディフはいないらしい。

「いや俺じゃなくてオティアですよ! アニマルセラピーってやつです……」

 沈黙が答える。
 ああ、渋い顔をしているのが目に浮かぶようだが、ここで退く訳には行かない。いざ突進、アタックするのみ。

「エドワーズさんご存知でしょ? 元SFPDの内勤巡査の。飼いたいってのは、彼の家の子猫で……行方不明になった時にオティアが探し出した子猫なんです。あいつにも懐いてるし」
「ヒウェル。はっきり言うけれどね」
「あー……動物、お好きじゃないのはわかってます、でも、レオン」
「俺を説得したいならやり方をかえるんだね。それじゃ」

 ぷっつりと電話が切られた。

「ちっ、姫は手強いなぁ……」
「姫?」
「あ、いや、こっちのことで」
「レオンの返事もNO、だったんですね?」

 苦虫を噛み潰すような心境でうなずくしかなかった。

「やっぱりディフから言ってもらわないと駄目なのかな」
「ああ、しかし子猫の素性とオティアとのなれ初めは伝えた……無駄ではなかったと思いたい」
 

 うなずくと、サリーは自分の携帯を取りだした。


「サリー! どうした?」

 朗らかな声が答える。ほっとして話を続けた。

「ちょっと相談があるんですけど、いいかな?」
「ああ、何だ?」

 一通り事情を説明すると、ため息まじりに「そうか」と答えが返ってきた。決して失望のため息ではない。むしろ安堵に近い。

「………本当はな…俺も……オティアがあの猫、飼ってくれたらいいなって、思ってた」
「もう一度、チャンスをください。モニークを連れていってもいいですか? 明日の夜にでも。それでだめなら連れて帰ります」
「ああ。レオンには俺から話しておく」

 即答だった。
 きっぱりと、はっきりと。強い意志を感じた。その瞬間、サリーは直感で悟った。

(大丈夫だ。この人が頼めば、きっとローゼンベルクさんはOKしてくれる)

「ありがとうございます。それじゃ、また明日」
「ありがとうって言いたいのは、俺の方だよ、サリー。それじゃ、また」

 電話を切ると、サリーは心配そうにのぞきこむエドワーズとヒウェルに向かってにこっと笑いかけた。
 二人の肩からふっと力が抜けて、緊張しきった顔の筋肉が一気にほころぶ。
 にんまりと会心の笑みを浮かべると、ヒウェルが右手の拳をくっと握って親指を立てた。

「GJ、サリー」


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【4-4-4】青い時計を探して

2008/09/23 22:37 四話十海
 
「じゃあ明日、大学が終わったら迎えにきますね」

 カラン、コロンと優しく響くベルに送られてサリーはエドワーズ古書店を出た。
 
(よかった……)

 カララン、コロン……とまたベルが鳴る。雑誌の入った紙袋を抱えてヒウェルが出てきた

「プレゼント、買ってたのか」
「ええ。本がいいかなと思って」

 サリーは腕に抱えた袋の口を開けて、中の本二冊を見せた。どちらもかなりしっかりした装丁の本だったので、まるで箱をラッピングしたような厚みと大きさがある。

「おー、きれいだな……うん、あいつら本好きだし……喜ぶよ。あ、そうだ」

 ヒウェルはごそっとポケットから折り畳んだ紙を引っぱり出した。

「俺もプレゼント調達中なんだけどさ。こーゆー時計売ってるの見たことないかな」

 広げて、ペン書きのスケッチを見せる。

「色は青いんだ」
「うーん……時計、ですか……ちょっと感じが違うけどこういうのなら見たことありますよ」
「ほんとか? どこで?」
「日本で」
「さすがに日本まで買いに行く訳にもいかないなあ」

 がっくりと肩を落すヒウェルを見て、サリーは携帯を取り出した。

「ちょっと待ってくださいね、大学の同じゼミの子がそういうの詳しいと思うから」
「いるんだ……1コインショップマニア」

 助けてもらっておいて我ながら失礼な言い草だが、やはり学生たるものつつましい生活の中で1コインショップの世話になる率が高いのだろう。
 サリーは電話をしながら手帳を取りだし、さらさらとペンを走らせている。やがて通話を終えるとぺりっとはぎ取って渡してくれた。
 メモにはきちんとした筆跡で市内の1コインショップの名前と住所が記されている。

「今あるかどうかわからないけどって、教えてくれましたよ」
「よし、片っ端から回るか!」
「はい!」

 何故そうなったのかはわからないが、気がつくと店目指して走るヒウェルの車の助手席にはサリーが乗っていた。
 手伝いますよ、と言われたような。
 その本、重そうだな。よかったら送ってくよ、と言ったような記憶がそこはかとなくないでもない。

 とにかく二人は連れ立って教えられた店を周って行った。時計コーナーをざっとチェックしてから店員に話しを聞いて、また次の店に回る。
 その間にも、サリーの携帯にはどんどん、新たな時計の目撃情報が入って来た。時にはメールで、時には電話で。

「……けっこう顔広いんだな」
「いや全然知らない人からかかってきてるんですけど……なんで?」
「友だちの友だちは皆友だちだって言うからな」

 情報を頼りにぐるぐる回る。西かと思えばまた東。時計を探して行きつ戻りつ、また進む。
 こんな調子でユニオン・スクエアを出発し、市内をほぼ半周したあたりでさすがに電池が切れてきた。

「一旦休憩しようか……」
「そうですね」

 さっきから脳細胞がひっきりなしにカフェインの刺激を求めていた。くたびれた頭と心にガツンと一喝入れてくれる、とびっきり強烈なやつを。
 車を止めて近くのスターバックスに入った。

「サリー、何飲む? ここは俺にご馳走させてくれ。つきあってもらっちゃってるからな」
「ありがとうございます、それじゃ、カプチーノをホットで」
「何かオプション追加するか?」
「じゃあ、ショットの追加を……2杯で」
「OK」

 すたすたとレジに近づくとヒウェルは慣れた口調でよどみなく告げた。

「トリプルトールカプチーノ一つと7ショットベンティアーモンドチップラテ一つ」
「わあ、呪文みたいだ。慣れてるんですね、メイリールさん」
「慣れてるっつーか……法則性覚えちまえばあとは楽だよ。自分の分はバカの一つ覚えだしな。昼飯も兼ねてるし」
「不健康ですよ、それ」
「夜はちゃんと食うよ、夜は……」

 できあがったカプチーノとラテを受け取り、テラス席に腰かけた。

「なあ、サリー」
「何でしょう、メイリールさん」
「そろそろ、そのメイリールさんっての、よさない?」
「え、気になりますか?」
「うん。ヒウェルで十分だ」
「わかりました」

 うなずきあうと二人はしばらくはお互いにカップの中味に集中した。サイズは違うはずなのにほぼ同じタイミングで飲み終わり、口に着いたミルクの泡を軽くぬぐったその時だ。

「あ」

 サリーの携帯が短く鳴った。

「どうした?」
「あるかどうかはわからないけど、マリーナ近くの公園でフリーマーケットが開かれてるそうです」
「フリマかあ! そこまで頭が回らなかったぜ」

 くしゃっとカップを握りつぶしながらヒウェルは立ち上がった。

「ちょいと前の商品でも、出てるかもしれないしな。行こう」

 
 ※ ※ ※ ※

 
 教えられた公園に行くと……フリーマーケットのスペースは予想以上に広大だった。
 体育館1つ分はありそうな出店の群れを見ながらヒウェルは引きつり笑顔で呆然とつぶやいた。

「は、ははは……どうしよっかな、これは」
「手分けして探しましょう。見つけたら電話します」
「そうだな。釣り場が広けりゃ、それだけ魚も多いしな」

 空元気を振り絞っていざ、歩き出したのはいいものの……。
 冷房の効いた屋内と違って、屋外の探索は予想以上に過酷だった。こうなってくると日頃の運動不足がじわじわとたたってくる。
 いい加減、ぐしょ濡れになって用を足さなくなったハンカチに見切りをつけて、フェイスタオルの一本でも買おうかとふらふらと手近の店に歩み寄る。

「いらっしゃーい」

 真っ赤なバンダナを巻いた快活そうな青年がにこにこしながら迎えてくれた。左手に結婚指輪、広げたピクニック用のシートの上には女性が使いそうな品物や子どもの服、玩具が並んでる。
 おそらく所帯持ち、子どもが1人ってとこか……いやいやいや、今は出品者の家族構成なんか推理してる場合じゃない。

「えーっと、そこのタオル1本もらえますか、オレンジの」
「はい、これですね」

 青年はひょいっとイルカの模様の入ったタオルをとりあげた。その時だ。
 積み上げたタオルが崩れて、背後に置かれていたものが目に入る。

 青い、つやつやした光を見た瞬間、どっくん、と心臓が躍り上がった。

(もしかして……ああ、そうであってくれ、頼む、神様、聖ウィニフレッド様!)

 こう言う時だけアテにする、ウェールズ生まれの守護聖女はあくまで慈悲深く、この迷える羊に寛容だった。
 丸形の目覚まし時計、文字盤の数字はローマ数字じゃなくて普通に1、2、3……金属のベルが上部に二つ。スケッチを引っぱり出して確かめる。

 まちがいない。
 見つけた!

「はい、どうぞ、タオル。そろそろ閉店だから50セントでいいや」
「あ、あ、あ、あ、あの、そのっ」
「どうかしました?」
「それっ、その時計っ」
「ああ、これね。下の子が床に落としちゃって、ちょこっとベルが歪んでるんだけど」
「かまいませんっ、それ……………」

 ごくっと喉を鳴らし、ひきつった声をどうにか聞き苦しくないレベルに整える。

「その時計、ください」

 時計とタオル、合わせて1ドルでお買い上げ。「サービスです」と手作りのクッキーまでもらった。
 電話でサリーを呼び出し、公園の出口で待ち合わせる。サリーが来るまでの間、今更ながら時計の動作を確認していなかったことに気づいた。
 電池はまだ残っているらしく、カチコチと動いている。よし、合格だ。
 だがちょっと待て、目覚ましとしての機能はどうだ?

 目覚まし設定用の短針を現在の時刻に合わせてみた。

 ……………………………鳴らない。
 本来は震動するべきハンマーが、ベルの歪みに引っかかってて動かなくなっているようだ。
 一応、鳴らそうと努力はしているらしいのだが、ブブブブ、ガタガタガタと震えるだけ。何となく息も絶え絶えと言った感じで何やら痛々しい。

「ヒウェル! 見つかったんですか?」
「うん、でも、これ鳴らないんだ。ハンマーが引っかかってるみたいで………」
「どれどれ?」

 サリーに時計を手渡し、ふう、とため息一つ。
 まあ、時計としての役には立つんだ。ベルが鳴らなくても……いっそベル用にもう一つ別の時計を買うか? ……いや、それはあまりも本末転倒だろ。
 惜しいなあ。
 モノは完ぺきなんだけど。一発ひっぱたいたら鳴るようにならないか?

 ジリリリリリリリリリン!

「えっ?」
「鳴りましたよ、ほら」

 にこにこするサリーの手の中では、青い時計が息を吹き返し、景気よく鳴り響いていた。
 本来ならやかましいとしか思わない音が、ヒウェルには天使の竪琴に聞こえた。

「マジか……ははっ、やったあっ」

 目覚ましを止めるのも忘れてヒウェルはサリーをハグし、ぱしぱしと背中を叩いていた。

「ちょっ、ひ、ヒウェルっ?」
「やったぜ、サリー。ありがとなーっ!」

 行き交う人々が怪訝そうな顔で見ているが、まったく気にしない。と言うより気づいていない。
 少しでも注目度を低くしようと、サリーは困り顔で目覚ましのスイッチを切った。

(この人でもこう言う子どもみたいなマネすることもあるんだなあ……参った)

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【4-4-5】★レオン、拗ねる

2008/09/23 22:38 四話十海
 
「……なあ、レオン」

 リビングに入って行くと、ディフが近づいてきた。何やら思い詰めたような色をヘーゼルの瞳の奥に秘めて。
 初めて俺に愛を打ち明けてくれた時もこんな目をしていた。
 何を言おうとしているのかは、聞く前に手に取るようにわかる。
 一つ違っているのは、この場合は思う相手が俺ではなく子どもたち。それもオティアだと言うことだろう。

 案の定、彼はすがりつくような必死なまなざしで頼んできた。

「猫………飼ってもいいか?」

 とっさに言葉が出なかった。表情が強ばったのが伝わってしまったのだろう。
 俺の袖をそっと握り、せつせつと訴えて来る。どんなにオティアがその子猫を気にしていたか。猫を抱くオティアがどんなに穏やかな表情をしていたか。

「俺には……お前がいた、レオン。あの子たちも。愛されて、愛することで自分を支えることができた……」

 袖を握る指に力が込められ、細かく震える。
 ああ、そんな顔をしないでくれ。胸が締めつけられる。

「……あったかくて、ふわふわしたちっちゃな生き物を大事に育てるのは……きっとあの子にとってプラスになる。俺たちには手の届かない部分まで、やわらかく包み込んでくれると思うんだ」

 まったくこの勝負、初手から先が見えていた。俺が君の望むことを嫌と言える訳がない。
 ヒウェルは確かに『方法を選んだ』のだ。

「仕方ないね」

 それだけ言うのが精一杯だった。くっと奥歯を噛みしめ、口をへの字に引き結ぶ。

「ごめんな、レオン………………………ありがとう。愛してる」

 骨組みのしっかりした手で抱きしめられて、わしわしと頭を撫でられた。

 愛してる。
 それは、よくわかってるよ。俺も君を愛してる。だけどね……ディフ。
 高校生の時に初め出会って以来、一度だって君が、俺が嫌だと言うものを無理に押し通すようなことがあっただろうか?
 恋人はおろか、友人ですらないただのルームメイトだった時から、俺がNOと言えば、君は「わかった」とうなずいて、二度と同じ過ちをくり返すことはしなかったじゃないか。
 あの子のためならそこまでするのかい?

(犬も、猫も、およそペットと名のつくものは苦手だと誰より知っているはずなのに)

 ああ、何だか色々と思い出したら腹立たしくなってきた。

(菓子作りは苦手だったはずなのに、アレックスに教わって誕生日のケーキまで焼くと言い出すし。プレゼントを買って帰ってきたときのあの嬉しそうな顔ときたら)
(この数日間、ずっと君は……俺のパートナーと言うよりあの子たちの『まま』だ)
(いったい、いつになったら俺は君を独り占めできるのだろう)

「おい、レオン」

 ぐいっと肩をつかまれた。

「何だい」
「いつまでもそんな顔してると………」

 間近に顔を寄せてくる。すぐそばに彼の顔がある。ヘーゼルブラウンの瞳の奥にちらりと緑色がひらめいたと思ったら、そのまま有無を言わさずソファに押し倒された。
 参ったな、完全に不意打ちだ!

 上体をのしかからせてくると、彼は唇を重ねてきた。

「ん……っ」

 キスされたと気づくより早く、強引に舌を滑り込ませてくる。
 拒むつもりはなかった。
 あるはずがない。

 ねっとりと絡め合い、互いに吸ったり、吸われたり。午後の陽射しのさんさんと差し込むリビングのソファの上で体を重ねたまま、濃厚な口づけを交わす。
 細く開けた瞼の間から緑に染まった瞳が見つめていた。つやつやと濡れて瞳孔が広がり、唇だけでは足りぬとばかりにむさぼる様なまなざしを注いでくる。

(あぁ)

 甘い痺れが駆け抜けた。絡め合わせた舌、重なる唇、抱き合う腕。彼と繋がっているあらゆる場所から背筋を伝わり、体の最も奥深い所に向かって。
 今のディフには俺しか見えていないのだ。
 もし誰かが入ってきたらどうしよう、なんてことは考えもせず、ただ俺だけを感じている。

(できるものなら、このまま………)
 
 長く甘いキスの後、ディフはほんの少しだけ唇を離し、囁いてきた。

「……可愛くて、こんなことしたくなっちまう」
「夜になってからにしてほしいな……今、我慢するのが難しいんだ」

 ほほ笑みかけると、目を細めてすり寄ってきた。

「それは、俺も同じだ」

 左の耳たぶをついばまれた。唇ではさむだけで、歯は立てずに。長い髪の合間から、ほんのりと……左の首筋の『薔薇の花びら』が浮び上がっているのが見えた。

(きれいだな)

 背中に腕を回し、唇を寄せる。息がかかっただけで腕の中の彼が小さく震えた。
 いっそこのまま抱き寄せてしまいたい。せめて、シャツの上からなで回すぐらいなら許されるだろうか?
 しばらく迷ってから、広い背中をぽん、と軽く叩くのに留める。意志の力を振り絞って。

「まだ、明日のためにすることがあるだろ?」
「……ああ……そうだな……」

 軽くキスしてからディフは離れて行き、くいっと手を引いて俺を起こしてくれた。

 君を独り占めするのは、夜まで我慢することにしよう。
 今日のところは。


(双子の誕生日 準備編/了)

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【4-4】双子の誕生日(当日編)

2008/09/29 23:42 四話十海
  • 人物紹介はこちらをご覧下さい。
  • 2006年9月11日の出来事。
  • 双子の誕生日、当日編。今日から17歳。
  • お誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう。
    君たちに会えたことが何よりも嬉しい。ささやかだけど、心をこめて、力一杯祝いたい。
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【4-4-6】今日からおひめさま

2008/09/29 23:44 四話十海
 
 2006年9月11日の朝が来た。
 オティアとシエンは『本宅』のリビングに置かれた朝刊を見て、ほとんど同時に小さく「あ」とつぶやいた。
 
「おはよう」

 のっそりとキッチンから出てきたデイフが二人に声をかけ、何気なく朝刊に視線を落す。第一面にもうもうと煙を吹き上げる1対の高層ビルの写真が載っていた。

「ああ……9月11日だな」
「うん」
「もう5年になるのか。当時まだ俺は制服警官でね」
 
 ディフはどこか遠くを見るような目つきで言った。半分、自分に言い聞かせているような口調だった。 

「911がきっかけでサンフランシスコでもテロ対策が強化された。それで爆発物処理班が増員されることになって……転属したんだ」

 言い終えると肩の力を抜き、ふう、と小さく息を吐いた。

「飯の仕度できてるぞ」
「え、もう?」
「早起きしたんだ。弁当作るついでにな」

 オティアは小さく首をかしげたが、結局何も言わずディフとシエンの後をついてキッチンに向かった。

「おはよう」

 キッチンでは既にレオンがコリコリと手回し式のミルでコーヒー豆をひいていた。

「オティア。オレンジジュースとリンゴジュースどっちにする?」
「……ニンジン」
「わかった」

 生のニンジンとリンゴを1かけらに牛乳をプラスして、まとめてブレンダーでガーっとやる。ほとんど甘くはないし、ビタミンもきっちりとれる。
 どっしりした木の食卓の上に並んだ四枚の皿には、スクランブルエッグと茹でたブロッコリー、こんがりきつね色にトーストした食パンがほこほこと湯気をたてている。
 いつもの朝食の風景。

 だけど、微妙に空気が違う。
 ほんの少しだけ……何だろう?

 
 ※ ※ ※ ※


「ハロー、ディフ? ええ。これから大学を出ます。それじゃ、よろしくお願いしますね」
 
 真夏よりいくぶんまろやかに、それでいて眩しさを増した9月の太陽が西の空を赤く染める頃。
 サリーは大学を出る前に電話一本、かけてからアパートに戻った。

 さて、迎えが来る前に準備を整えておかなきゃ。

 キャンバス地のしっかりした肩掛けカバンに昨日買った本二冊を入れる。せっかくきれいに包んでくれた紙に皺がよらないよう、気をつけて。
 冷蔵庫にしまっておいた『誕生日のご馳走』の材料を銀色の保冷バッグに入れていると、呼び鈴が鳴った。

「よう、サリー」
「いらっしゃい、ディフ」
「何か運ぶものあるか?」
「じゃあ、これを」
「けっこう重いな……粉か?」
「はい」
「小麦粉なら家にもあったのに」
「これはちょっと特別なんです」
「そうなのか」

 厳つい四輪駆動車に荷物を積み込む。
 行く先はエドワーズ古書店。二人はこれから子猫を迎えに行くのだ。

「EEEに電話しといた方がいいか?」
「そうですね、準備もあるでしょうし」

 ディフは携帯を取り出すと電話帳のEの項目を呼び出し、かけた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 カラン、コローン……。
 聞き慣れたはずのベルの音色が違ったものに聞こえる。いつもより音量が大きいような……いや、いつも通りだ。
 電話をもらってから、ずっとそわそわしていて落ち着けなかった。リズが耳をぴん、と立ててドアの方を見た途端、心臓が早鐘のように打ち始めた。

「こんにちは、エドワーズさん」
「いらっしゃい、サリー先生! お待ちしてました」 

 やや遅れて、ぬっと肩幅の広い、がっちしりた体格の赤毛が入ってきた。

「よう、EEE」
「……やあ、マックス」

 あらかじめ電話で彼も一緒だと知ってはいたが、それでもがっかりしてしまう……ほんの少しだけ。

「モニークは?」
「ああ、さっきまでそこに」
「にう!」
「……あれ?」

 カウンターに乗せられた真新しいピクニックバスケットの中から高い声が聞こえた。ぴん、と立った白い尻尾が開いた蓋の奥でひょこひょこ動いている。

「もう入ってるんだ……」
「いつの間に」

 中にふかふかのタオルを敷いたピクニックバスケット。キャットフード(ドライのと缶詰と)、そしてトイレ用の砂。それがモニークのお嫁入り道具一式だった。

「えーっと、猫用トイレは……」
「一応、事務所の備品を持って来ておいた。当座はこれでいいだろう」
「それがいいだろうね」
「あれ?」
「どうしたんだい、マックス?」
「この首輪、この間と違うぞ。迷子になった時はピンクだった」
「ああ。Mr.セーブルは青い色がお好みのようだから……」

 白い子猫の首には、真新しい青い首輪が巻かれていた。きらりと光る丸い迷子札はまっさらで、猫の名前も飼い主の電話番号も記されていない。

「モニーク、と言うのは私が仮に着けた名前です。この子が正式に彼の猫になったら……改めて新しい名前をつけてやってください」
「わかりました。伝えておきます」

 エドワーズはバスケットの中に手を差し入れて、モニークを撫でた。愛おしさをこめて、何度も、何度も。
 モニークは湿った鼻先を寄せてエドワーズの指先のにおいをかぎ、ぐいぐいと顔を掏り寄せた。
 リズはバスケットの傍らに後足をそろえてきちんと座り、じっと末娘を見守っている。これまで他の子猫たちを見送った時のように……最初にモニークを送り出した時のように。
 長い薄茶色の尻尾がぱたぱた踊り、規則正しい柔らかな音を奏でる。

「それじゃ、モニークのこと、よろしくお願いします」
「はい」
「ありがとな、EEE」
 
 二人と一匹を送り出してしまうと、店の中は急にがらーんとしてしまった。
 ……………………静かだ。
 静かすぎる。

 妙な話だ。元々ここに暮らしていたのは自分とリズだけだった。ほんの数ヶ月前の状態に戻っただけのはずなのに。

「さみしくなってしまったね、リズ」
「にゃ」

 リズは優しく喉を鳴らし、エドワーズの手に顔をすり寄せた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ヒウェルはそわそわしながら待っていた。
 ローゼンベルク家のリビングでソファに腰かけ、見るともなしに新聞なんか読みながら。さっきから文字は目の前を滑って行くだけでちっとも頭に入らない。
 少し前に双子が部屋に戻ってきた気配がした。さっきから境目のドアの向こうが気になって仕方ない。ほんのわずかな物音にすら、ぐいっと意識が持って行かれる。
 
「お」

 かすかな震動。エレベーターが上がって来たな。
 一秒、二秒、三秒、五秒………確定。(四が抜けたような気がするけど気にしない)
 アレックスではない。忠実な万能執事は既にキッチンでパーティの準備に取りかかっている。
 足音は二人分、軽やかで規則正しいのと重くて大またのと。どちらもレオンではない。ビンゴだ。
 小刻みにステップを踏む心臓を、なだめすかして平静を装う。ほどなくドアが開いた。もう我慢できない、限界だ! ぱっと立ち上がり玄関に出るとうやうやしく一礼。

「お待ちしてました」
「あれ、ヒウェル?」
「何だ、来てたのか。早かったな」
「まあ……ね。で、お姫様は?」

 サリーの抱えたバスケットがもぞっと動いた。

「よし。それじゃ、オティアとご対面と行きますか」
「俺はキッチンにこいつを運んどくよ」
「お願いします」

 何やら荷物を抱えてキッチンに入って行くディフを見送ると、ヒウェルはサリーに声をかけた。

「こっちだよ」

 境目のドアをノックすると、ひょい、とシエンが顔を出した。

「あ……ヒウェル。サリーも。どうしたの? 夕食にはまだ早いよ?」
「うん、ちょっと、いいかな。見せたいものがあるんだ」
「?」

 今度はバスケットはもそ、とも動かない。にゃお、とも、みう、とも鳴かなかった。

 双子の居間に入った瞬間、ヒウェルは懐かしさと違和感の入り交じる奇妙な感触をおぼえた。
 ディフが住んでいた時は何度もこの部屋でグラスを片手にだらだらしゃべったものだ。ポップコーン抱えてDVDやサッカー中継に見入ったこともある。
 間取りこそ同じ部屋だが、インテリアがまるで変わってしまった。通い慣れた部屋のはずなのに、何だか別の空間みたいだ。
 オティアは丈の低いソファに座って本を読んでいた。

 ヒウェルとサリーが入って行くと本を閉じて、顔を向けてきた。

「よぉ」
「こんにちは」
「……何の用だ」

 オティアの声を聞いた瞬間、もぞもぞっとバスケットが動き始めた。

「みう、みう、みう、みう」
「え。猫?」

 シエンがほんの少しだけ顔を強ばらせる………動物が苦手なのだ。レオンほど徹底してはいないが。

「うん、猫」
「お前もよーくご存知のお嬢さんだよ」
「ちょっと、いいかな。ここに置くよ」

 サリーがソファの上にバスケットを置いて、フタを開けると白い子猫がひょこっと顔を覗かせた。

「みゃー」
「あ……モニーク? 何で?」
「にうー」

 するりとバスケットから抜け出すと、モニークはオティアの膝の上によじ上り、丸くなった。
 オティアはとまどいながらも白い毛皮に手を伸ばし、そろりと撫でる。
 
 よし、いいぞ。いい傾向だ。内心、うなずきながらヒウェルは話を続けた。言葉を選んで、一言一言、噛んで含めるようにして。

「んー、まあ話せば長くなるんだけどさ……その子、脱走癖がひどくてね」

 ひと呼吸置いて、口にする。一番大切な一言を。

「里子に出された先から、戻されちまったんだ」

 双子は僅かに身を震わせ、どちらからともなく顔を見合わせた。

「それ……本当?」

 シエンが掠れた声で問いかける。サリーがうなずいた。
 オティアは膝の上で丸まって、幸せそうに喉を鳴らすちっぽけな白い毛皮の塊に視線を落し……手のひらで包み込む。

「Mr.エドワーズがさ、言うんだよ。お前にならその子猫を安心して任せられるって」
「………………」
「ディフとレオンのことなら心配すんな。一応、話は通してあるから」
「………………」

 オティアは迷っていた。
 モニークを探し出してからずっとこの猫のことを忘れた日はなかった。
 悪夢に苛まれる日々の中、腕の中で安心しきって喉を鳴らすこの柔らかな生き物の記憶が………どれほど慰めになってくれたことだろう。

 もしも、ずっと、この猫と一緒に暮らせたら。
 朝も、昼も、夜も。
 自分と一緒の、自分の猫。

 いや、だめだ。シエンは動物があまり好きじゃない……。

「いいよ」

 えっ?

「いいよ、俺。オティアがいいって言うのなら」
「シエン」

 よし、これで難関は突破した。
 ヒウェルはサリーと顔を見合わせ、安堵の息を吐いた。

 オティアは黙っている。一言も言葉を発しないまま、白い子猫を撫でている。しーんと静まり返った部屋の中に、モニークが喉を鳴らす音だけが響いた。

 ごろ、ごろ、ごろ、ごろ………。

 こんなちっぽけな体のどこからこんなに大きな音が出るのだろう。
 そうするうちに、モニークはうっとりと目を細めて前足をオティアの手にかけ、もにもにと左右交互に押し始めた。

「お前………行く所、ないのか?」

 ぱちっと目を開けると、モニークはのびあがってオティアの顔に鼻先を寄せてきた。ヒゲをぴーんと前倒しにして、尻尾を高々と挙げて、かぱっとピンク色の口を開ける。

「んみーっ!」
「……………そうか」

 ためらいながらもオティアは白い子猫を両手で包み込み、抱きしめた。力を入れすぎないように、細心の注意を払って。
 
「よし、決まりだな……」

 早速、子猫を部屋に受け入れる準備が始まった。
 ピクニックバスケットは蓋を外してそのまま子猫のベッドに。
 探偵事務所の備品、普段は保護した迷子猫のために使っている猫用トイレに砂を敷き詰める。
 モニークはくんくん、と猫用トイレのにおいをかぐと耳を伏せ、鼻筋に皺を寄せた。

「あれ。もしかして、ご不満か?」
「………みたいですね」
「借り物不許可、あたし専用じゃないとダメ! ってか、このお姫様は」

 まっさらな迷子札に自分の携帯番号を書き込んで、猫の名前を書く段になって、ふとオティアは手を止めた。

「モニークって言うのは、エドワーズさんが仮につけた名前なんだ。だから君から新しい名前をつけてほしいって言ってたよ」
「………………」

 でも、この子猫はずっとモニークと呼ばれてきた。迷子になった時も、名前を呼ばれてちゃんと返事をした。
 別にこのままでもかまわない……か?

 いや、やっぱりだめだ。

 あの日、迷子になったモニークをエドワーズ古書店に送り届けて事務所に戻ってから、ディフがくすりと笑って言ったのだ。

『モニークって懐かしい名前だな。高校ん時、隣のクラスにいたんだ。可愛い子だった』


 名前を変えよう。
 オティアは心に決めた。
 これから毎日一緒に暮らすのに、ディフの昔のガールフレンドと同じ名前を呼ぶのはちょっと問題がある。何よりレオンがいい顔をしないだろう。

 だが急に新しい名前を考えつくのは難しい。やはり見てすぐわかるのがいいだろう。体の特徴を現したものがいいか。
 毛並みの色とか、瞳の色、尻尾………。

 じっくりとオティアは観察した。自分の飼い猫になったばかりの子猫を、すみからすみまで。
 真っ白な胴体の左側に、少し歪んだ丸いぶちがある。ランチの時に飲んだカフェオーレそっくりの、ほわほわした薄茶色。
 これでいい。
 わかりやすいし、シンプルだし、呼びやすい。

 迷子札に新しい名前を書き込んだ。一文字、一文字、丁寧に。

『Oule(オーレ)』

「オーレ、か」
「素敵な名前だね」

 新しい名前と、新しい飼い主の携帯番号を記入した迷子札は、改めて真新しい青い首輪に着けられた。

「似合うね」
「ああ、瞳の色にマッチしてる」

 サリーはモニークの……いや、オーレの頭を優しく撫で、言った。

「そのうちマイクロチップを入れに病院に連れてきてね」

 オティアはこくっとうなずいた。

 こうして、モニークは『オーレ』になった。

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【4-4-7】異次元の歌声

2008/09/29 23:46 四話十海
 
「ご飯はエドワーズさんが食べさせていたのと同じ、子猫用のフードをあげてね」
「わかった」
「移動用のキャリーバッグはもう少ししっかりした物の方がいいかな……リズはおとなしい猫だけど、この子は活発だから」
「そうだな……」
「爪研ぎもあった方がよかないか? さもなきゃ、そこのラグが犠牲になるのは目に見えてるぞ」
「あー、そうですね、爪掛かり良さそうだし」

 サリー先生と『おうじさま』(他約一名)が話している間、オーレは新しい家を探検することにした。
 白い尻尾を高々と掲げて、ヒゲをまっすぐ前へ伸ばしてちょこまか歩く。

 このおうちには階段がないみたい。ちょっとがっかり。

 姉のアンジェラと同じくらい、オーレは高い所に登るのが大好きだった。

 階段はないかな。
 本棚はないかな。
 お庭に木は生えてないかな。

 寝室の隣にある部屋は、何だかとてもなつかしいにおいがしたけれどしっかりドアが閉まっていた。
 きっとここには本棚がある。いっぱいある。でも入れないんじゃしかたない。

 ちょこまかと廊下を歩いて先に進む。開けっ放しのドアをくぐり抜けたら、急ににおいが変わった。ちょっぴり緊張。立ち止まってきょろきょろする。

 どうしよう。引き返そうかな。

 でも、すごくおいしそうなにおいがする。
 エビのにおいがする!

 その瞬間、オーレの警戒心はカリフォルニアの青空の彼方へと吹っ飛んだ。

 エビ、えび、海老。
 
 尻尾を高々と立てて、鼻面をふくらませてちょこまか進んで行くと……目の前に、でーんと大きな靴があった。

「み?」

 くんくんとにおいを嗅いで上を見上げる。オーレの青い瞳がきらりと光った。

 見つけた! 高い場所。

 ちっちゃな手のひらをいっぱいに広げると、オーレはジーンズを履いたがっしりした足を登り始めた。
 ざっし、ざっしと爪を立てて。

「ん?」

 ディフはふと料理の下ごしらえをする手を止めた。何やらちっぽけな生き物が、ざっしざっしと爪を立てて登って来る。足から腰、背中へと。

「………よう、モニーク」
「みー」
「元気そうだな……アレックス、ちょっとここ頼んだ」
「かしこまりました」

 子猫を背中に張り付けたまま、ディフはそろそろと食堂からリビングへと向かう。開け放しになった境目のドアの前に立ち、よく通る声で呼びかけた。

「オティア! 子猫、こっちに来てるぞ」
 
 すぐさまオティアが飛んできた。やや遅れてシエンとヒウェル、サリーもやって来る。

「どこに?」
「ここだ……とってくれ」

 くるりと向けられた広い背中からオティアはべりっと白い子猫を引きはがそうとした。胸元を紐で綴じた濃い藍色のシャツが、小さな爪にひっぱられてびろんと伸びる。オティアは黙って一本ずつぷちぷちと外した。

「度胸のあるちびさんだな……あれ?」

 ディフは青い首輪に下がった迷子札を見て首を傾げる(職業柄、猫を見るとまず迷子札を確認する習慣がついているのだ)

「名前、変えたのか」

 こくっとオティアはうなずいた。

「オーレ、か。いいね。響きの優しい名前だ……そうか、オーレか」

 くすくす笑っている。
 もしかして、これも昔のガールフレンドの名前なのか? だったらまた新しい名前を考えないと……。
 困惑するオティアと、腕の中の白い子猫を見ながらディフはなおも楽しげに笑っている。

「その子、獣医の診察券にはオーレ・セーブルって名前書かれるぞ。オーレとオティア……どっちもイニシャルがO.Sだ」
「あ」
「本当だ」
「おそろいだな」

 そしてディフは手を伸ばし、指先で子猫の顎の下をくすぐった。

「改めてよろしくな、オーレ」

 オーレは目を細めて、ちょしちょしとディフの指先を舐めた。

「そうだ、エドワーズさんに報告しておかないと」
「ちょっと待ってろ」

 ディフは携帯を取り出すと電話帳のEの項目を呼び出し、かけた。

「……そら」

 さし出された携帯を素直に受け取ると、サリーは耳に当てた。
 2、3度呼び出し音が鳴り、穏やかな声が聞こえてきた。

「ハロー、マックス?」
「エドワーズさん」
「…………………………………え? サリー先生?」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「…………そうですか………よかった。本当に、よかった…………」

 エドワーズは目を閉じて、深々と息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

「ありがとうございます。Mr.セーブルにもよろしくお伝えください。それじゃ、また」

 電話を切り、傍らのリズに話しかける。

「リズ。モニークは無事、Mr.セーブルの所に引き取られることに決まったよ……ああ、そうだ、新しい名前はオーレと言うそうだ」
「にゃー」
「幸せになってくれるといいね。いや、きっと幸せになるよ。あの子自身も彼の元に行く事を望んでいたのだから」
 
 リズの頭をなでながら、ふとエドワーズは気づいた。
 今の電話、サリー先生からだったのだ。こっちからも電話番号を教えておけばよかったかな……。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 エドワーズと話すサリーの横で、ディフが言い出す。あくまで自然に、さりげなく。
 
「今日は飯の仕度の手伝いはいいから」
「本当にいいの?」
「ああ。オーレの世話で忙しいだろ? その代わりヒウェルとサリーが手伝ってくれる」

 その隣でひょい、とヒウェルが片手を上げた。

「使われます」
「ふーん、そう……? じゃあ困ったら呼んでね」
「OKOK」
「じゃ、ごゆっくり〜」

 ヒウェルとディフとサリー、珍しい組み合わせの三人がキッチンに向かうのを双子は見送り、自分たちの部屋に戻った。

 しばらくすると、オーレがピンっと耳を立てて本宅の方をにらみ始めた。尻尾を膨らませて、低く体を伏せて、何やら警戒している。

「何だろう?」

 用心しながら本宅のリビングへと行ってみると……抑揚のない呪文みたいな声が聞こえてきた。
 キッチンから。

「……なにやってんだろ」
「さーな」

 どうやら緊急事態ではなさそうだ。顔を見合わせると、オティアとシエンはまた自分たちの部屋に戻るのだった。


 一方、キッチンでは。

「……何うなってんだよ」
「……鼻歌」
「歌か、それ! 第一、何の曲だよ」
「Happy Birthday to you……」
「………ぜんっぜん違うぞ」

 考え込むディフにヒウェルは聖歌隊で鍛えた喉と音感を発揮してお手本を示した。

「Happy birthday to you〜♪ Happy birthday to you〜♪」

 ひとしきり耳を傾けてから、ディフが歌い出す。

「Happy birthday to you〜♪ ………やっぱり合ってるじゃないか」
「だからぜんっぜん違うって」

 何故だ。

 ヒウェルはひきつり笑顔で頭をひねった。

 同じ歌を歌っているはずなのに、ディフの声だけ時間と空間を飛び越えて他所の次元に行っちまってる。下手すりゃ得体の知れぬ何ゾを召還しそうな勢いだ。

 サリーはにこにこしながら何も言わず、さくさくとキャベツを刻んでいる。
 アレックスももちろん何も言わず、こちらの会話などまるで聞こえてもいないように平然と、ミートローフにかけるソースを入れた小鍋をかき混ぜている。

「せっかくだからロウソク吹き消す時、歌おうかと思うんだが」
「封印しとけ。あの子らの音感と世界平和を守るために」
「わかった……」

 誕生日のケーキは『まま』のお手製。しっかり焼いた甘さ控えめ(ここがポイント)のタルト生地に、ストロベリーにブルーベリーにラズベリー。甘酸っぱいベリーを載せた、赤い果実のタルト。ほんの少しだけ、丸いベリーを安定させるためにクリームとゼラチンを使ってある。
 どこまでも双子の好みに合わせた、双子のためのお菓子。仕上げにメッセージを書くための、ホワイトチョコでコーティングされたクッキーを冷蔵庫から取り出すと、ディフは手招きしてヒウェルを呼んだ。

「文字書くのは任せたぞ」
「なんで俺」
「プロだろ? ほれ」

 手の中にチョコレートの詰まったチューブ式のペンが渡される。

「うーわー、緊張するなあ……」

 ヒウェルは数回深呼吸すると大きく左右の肩を回した。そしてこきこきと指を鳴らすとペンを握り……書道の達人さながらに、一気呵成の勢いで書きった。

「っしゃあ、これでどうだっ」

『誕生日おめでとう オティア&シエン』

「お見事です、メイリールさま」
「すごいな、お習字の先生みたいだ」
「………プロの物書きにしちゃ平凡だな」
「リテイクすんなら『紙』をくれ」
「これで行こう」

 やがてメインのミートローフが焼き上がり、食卓の上にホットプレートを準備しているとレオンが帰ってきた。
 ただいま、の声を聞くより早くディフが玄関に迎えに出る。

「ただいま」
「お帰り」

 出迎える者と迎えられる者の交わす出会い頭の熱い抱擁も。必要以上に念入りなお帰りのキスも、今やすっかり恒例行事、日常茶飯事。
 いちゃつく二人を横目で見ながら、ヒウェルは何食わぬ顔でテーブルに料理を並べて行った。

 ※ ※ ※ ※
 
 
「オティア、シエン、飯できたぞ」
 
 呼ばれて双子が出てきた。
 しかし境目のドアを越えようとした瞬間、背後で聞く者の胸をかきむしるような世にも悲愴な鳴き声が挙がった。

 みゃーおおおう、ふみゃー、なおーーーぉおおう。

「あ……」

 二人は立ち止まり、鳴き声のする方を振り返る。オーレはリビングに残してきた。ドアを閉めたはずなのに、こんなに大きく声が聞こえるなんて。

 んみーっ、みーっ、みゃおー、みーっ!

「………」

 オティアの顔に一瞬浮かんだ憂いの表情をディフは見逃さなかった。

「…………レオン」

 若干、渋い顔をしながらレオンはうなずく。ディフはほっと肩の力を抜き、双子にほほ笑みかけた。

「連れてきていいぞ。子猫一匹だけで置いとくのも心配だろ」

 さらりとレオンが続ける。

「食卓には上げないように。いいね?」

 こくっとうなずくとオティアは足早に自分たちの部屋に引き返し、間もなくオーレを抱えて戻ってきた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 テーブルの上にはミートローフとポテトのサラダ。何故か形がいつもよりきちんとしている。
 ポテトサラダはきちっと箱形に整えられ、白い層と、ニンジンベースの赤い層、そしてエンドウ豆ベースの緑の層が交互に重なって、表面にはグリーンピースが飾られている。
 ミートローフはいつものように手で大雑把に形を作ったのではなく、きちんとパウンドケーキ型に入れて焼かれていた。
 スープはタマネギの薄切りの入ったコンソメスープ。

「これ、何?」

 そしてボウルに入った小麦粉を水で溶いた種と刻んだ具が何種類か並んでいる。
 ツナとチーズ、イカの切り身、薄切りにした豚肉、卵、キャベツ、ネギ、ホタテ。細く刻んだ赤いピクルスは、においからしてジンジャーだろうか? 
 そして、エビ。

「パンケーキ……じゃ、ないよね」
「お好み焼きって言うんだよ。こっちの種に好きな具を混ぜて焼くんだ」
「みうーっっ」

 オティアの腕の中で白い子猫が急に目をらんらんと光らせ、飛び出そうとする。が、いち早くがっちり押さえられてじたばたじたばた。

「どうしたんだ、急に」
「ああ……エビだな。好物だから」
「オーレにはこっちね」

 さっとサリーが取り出したのは、お湯でふやかした小エビのスープ。
 小皿に取って床に置くと、オーレは目を輝かせてとびついた。

「んにゃう、んぎゅ、にゅぐぐぐぐ」
「何か言いながら食べてる………」
「よっぽど好きなんだな……」

 目を細めてオーレを見守るディフの姿に、レオンがほのかに渋い顔をしている。
 オティアは秘かに思った。やはり猫の名前を変えておいて正解だった、と。

 テーブルの準備が整い、一同が席についたところでおもむろにヒウェルが軽く咳払いをして壁際に歩いて行き、スイッチに手を伸ばした。

「それじゃあ……ちょっとだけ、電気消すよ」

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【4-4-8】おめでとう

2008/09/29 23:49 四話十海
 パチリと電気のスイッチを切った。

 食堂の灯りが落され、キッチンの方から差し込む光がぼんやりと室内を照らすだけになった。暗さに眼が馴染むにつれ、食卓を囲む人々の表情が見えてくる。
 シエンは目をぱちぱちさせている。オティアはいつも通りのポーカーフェイス。
 ディフは落ち着かず、しきりとキッチンの方角を伺っていたが、肩にはレオンの手が乗せられると彼の方を見て顔をほころばせた。
 サリーはいつものように穏やかな笑みを浮かべている。俺の視線に気づいたのか、こっちを見て小さくうなずいた。

 友だちのつもりでやればいい。言ったはいいものの、内心、ディフと同じ懸念がなかったわけじゃない。
 しかしここでためらったら、100%滑る。
 とまどいは捨てろ。
 行くぞ。

 ポケットから銀の卓上ベルを取り出し、鳴らす。

 リリン、リリン、リーン。

「Alex!」
「はい、ただ今」
 
 鈴の音に応えて忠実な執事が厳かに、トレイに載せた誕生日のケーキを運んできた。タルトの上には、小さな火を灯したキャンドルが2本、ぎっしり乗っかったベリーを潰さぬよう、細心の注意をはらって立てられている。

 ゆらめくオレンジ色の灯火がタルトの中央に掲げられた丸いプレートの上に踊るかっ色の文字を照らし出す。

『誕生日おめでとう オティア&シエン』

「え……………」
「………………」

 息を飲んで見守った。室内の視線が一斉に双子に向けられる。

 シエンの瞳がうるんでいる。ほんの少し。それに気づいた瞬間、今日までのささやかな苦労が全て吹っ飛んだ。
 オティアはいつも通り。
 だが、逃げない。
 怒ってもいない。
 それで充分だ…。

「………えっとこれ……もしかして」

「誕生日……」
「おめでとう」
「おめでとう!」
「おめでとう」
「おめでとうございます」

 オティアは動かない。ただじっと、ケーキの上でゆらめくオレンジの小さな炎を見つめている。
 甘過ぎないか、とか。これ食うのか、なんて……考えてるんだろうか。

(安心しろ、その見るからに甘そうなクッキーのプレートまで食えとかそう言うことはないから!)

 ぱちぱちとまばたきすると、シエンはほんの少しだけうつむいて、前髪で目を隠すようにして……言った。
 
「…………ありがと…………」

 いつもこいつの口にするなめらかな『ありがとう』に比べて、それはとても小さな声で、語尾が掠れていたけれど。それ故にシエンの心の動きが伝わってくるように思えた。

 とにもかくにもその『ありがとう』は、俺たちにとって祝福の鐘。今回のサプライズ・パーティが曲がりなりにもオティアとシエンに受け入れられた合図だった。

 いっぺんに緊張が解ける。

「お前ら甘いの、苦手だろ? だからできるだけ甘さは控えたんだ。クリームもほんのちょっとしか使ってない。果物の味をそのまま活かしてる」
「もしかして、これ、ディフが作ったの?」
「ん……まあ、な。アレックスに教わった」
 
 ほっとオティアが小さく安堵の息をつく。うん、そうだね、アレックスのレシピなら安心して食えるよな。

「小さめのにしたら、ロウソクが17本ささらなくってさ……一人で、1本ずつ……歌も歌おうかと思ったんだけど」

 緊張から解放された反動か、ディフの奴はいつになく舌がなめらかになってる。珍しいこともあるもんだ、普段なら解説するのはもっぱら俺の役割だってのに口挟む暇もねえ。
 お株を奪われるのもシャクなので、するりと後に続けてやった。

「練習の時点で君らの健康と世界の平和のため、封印しようと言う結論に達した」
「練習って、もしかして、キッチンでやってた?」
「ああ」

 オティアとシエンは何やら納得したようにうなずいている。どうやら、そこはかとなく聞こえちゃっていたらしい……あの異次元からの歌声が。
 当の『異次元の歌い手』は、はにかむようなほほ笑みを浮かべて、そっとシエンの肩に手を乗せ、のぞきこんだ。

「ロウソク、自分で消すか?」
「……うん」

 アレックスがうやうやしくタルトをテーブルに置いた。相変わらず沈黙を保つオティアをシエンが引っ張って、タルトの前に並んで立つ。
 二人で一緒に、ふーっと吹く。互いに声をかけることもなく。視線すら交わすこともなく、ぴったり同じタイミングで。
 二つのキャンドルはゆらりとゆれて、消えた。

「おー消えた」
「おめっとー」
「おめでとう!」

 俺と、ディフとレオンとサクヤ、そしてアレックス。いい年こいた大人五人、ぱちぱちと手を叩く。
 ぱちりと電気を着けた。
 いざ部屋が明るくなってみると、腹の底がむずがゆい。やたらめったら照れくさい。

「やー、俺いっぺんやってみたかったんだ、こーゆーベタなサプライズパーティ」

 ごまかすためにあえてはしゃいでみる。

「紙のとんがり帽子と金銀モールの飾り付けもやろうかって言ったらディフに全力で却下された」
「お前の分だけ準備しといたぞ、帽子。被るか?」

bousi.jpg

「わーうれしいな………全力で遠慮しとく!」

 穏やかな『姫』のお言葉が、そこはかとなく混沌としかけた一座を締める。

「誕生日の贈り物もあるよ」

 レオンの一声で本来の目的を思いだし、いそいそと準備したプレゼントを取り出した。
 
「これは、俺からだ」
「はい、これプレゼント。こっちの青いのはオティアに……こっちのクリーム色のはシエンにね」
「んでもってこれは俺から」

 秘かに呼吸を整えて、精一杯さりげない風を装いつつ手渡した。シエンにはジャパンタウンで見つけた『がま口』。オティアには青い目覚まし時計。さすがにラッピングにまでは手が回らなかったが、むき出しと言うのもアレなので。手持ちの袋で一番、きれいなやつに入れてきた。
 袋の口はきゅとまとめて引き結び、青いリボンで留めた。

「ありがとう……」

 最後にレオンが、金色の紐で飾られた細長い箱を二つ。
 まずったな。
 包み紙といい、ラッピングに使われてる紐といい、明らかにさっき俺が渡したのとは格が違う。
 だいたい基準からしてあいつと俺とは別世界なんだからしかたがない。
 受けとった双子の方も、ちょっとおろおろしてる。
 そりゃそうだ、見るからに高そうだし。対照的にレオンの方は平静そのもの、てんで涼しい顔してやがる。

 積み上げられたプレゼントを目の前に、シエンの目に浮かぶ涙の粒はますますふくれあがり、とうとう、ぽろりとこぼれた。

「こんなふうにお祝い……してもらったの、はじめてだし……ありがと……」

 すかさずディフがさし出したタオルを受け取り、くしくしと目元をぬぐった。

「いや……うん……その言葉聞けて……思い切って、実行してよかったよ」
「なー、だから言ったろ、滑ったらどうしよう、なんて余計な心配すんなって!」

 オティアのほうはあいかわらずポーカーフェイス持続中。だが、心無しか、どういう顔していいかわからず、戸惑っているようにも見えた。

「開けてみろよ。こーゆーのは、みんなで見てる前で開けるのがお約束ってもんだぜ?」
「うん……」

 シエンはしばらくの間、首をかしげていたが、やがてクリーム色の包みを手にとった。サリーからの贈物だ。リボンをほどき、袋状になった包みを開く。

「本……これ、ハーブの図鑑?」

 目がまんまるになった。もしかして、お前、すごくびっくりしてる?

「すごく綺麗……」

 うっとりしながらページをめくっている。ああ……『Brother Cadfael's Herb Garden』か。確かに、レオンやディフの蔵書にゃ無いよな、ああ言う本は。
 図鑑は実用一点張り。加えてこの二人、およそミステリーと名のつく物を読ませると初っ端でリタイアする。
 いわく『何だってプライベートタイムでまで仕事の話を読まなきゃいけないんだ』、と。

「……」

 オティアが横からのぞきこんでる。後で読むんだろうな、あいつも………きっと、読む。
 しばらく眺めてから、シエンは大事そうにまた袋に入れた。

「あとでゆっくり見るね、ありがとう、サリー」
「気に入ってくれてよかったよ。エドワーズさんが選んでくれたんだ」
「EEEが?」
「うん」

 本、と聞いてオティアもがさごそと自分の分を開けた。さすが、反応早いぜ本の虫。
 開けるやいなや、ページを開いて読み始めた。

「オティア」

 そっと横からシエンに突かれる。

「今読み出すと、止まらなくなるよ?」

 言われてしぶしぶ本を閉じる。うんうん、本は逃げないからね。飯が終わってからゆっくり読みたまえ。
 次に二人は申し合わせた様に俺からのプレゼントを開けた。

「これ……何?」
「コインケースってか、財布だな。しっかりしてるから、小銭増えてもOKだぞ」
「あ、なつかしいな。がま口だね、これ」
「うん、ジャパンタウンの店で買った」
「ちょっと貸して、シエン」
「うん、どうぞ」

 がま口の表面を軽く指で撫でるとサリーは小さく「ああ」と言った。

「西陣織だね、これ……」
「そう言う名前なのか」
「日本の伝統的な織物ですよ。着物の帯なんかにも使われる」
「あー、なるほど、それで、か……うん、納得した」

 何気ない会話を繰り広げながら、ちらちらとオティアの方を伺う。
 青い目覚ましを手にとって、じーっと見つめていた。一言も喋らずに、ただ、じっと。

 わかったんだろうか。
 自分の使っていたのと同じ物だと。
 指先で確かめる様に時計の表面を撫でて、くるりとひっくり返して裏を確認している。それから、壁の時計を見ながら時刻を合わせ始めた。

「……よかったね」

 シエンの言葉に小さくうなずいた。こいつにしては、最大級の喜びの表現。

 ああ、わかってくれたのだ。
 わかってくれたのなら、それでいい。街中歩き回り、坂道を上り下りしてパンパンに腫れ上がったふくらはぎの痛みを一瞬、忘れた。

 ブラボー。
 ハッピーバースディ。
 誕生日、おめでとう。

 顔がゆるむ。
 誰に見られようが知ったことか。もう、止まらねぇ。どのみち、今はこの部屋にいる人間の注意は双子に集中してるんだ。

 ………………。
 ………………………。
 ………………。
 
 ……しばらく記憶が飛でたらしい。
 我に返ると、でれんでれんに蕩け切った視界の片隅でシエンとままがのどかな会話を繰り広げていた。

「わあ、これ……チャイナ?」
「うん、チャイナだ。カンフースーツって言うのか? さすがに外に着てくのは無理だろうからな。部屋着にでも使ってくれ」
「うん……ありがとう」

 生成りとグレイのかかったやわらかな空色。短めの上着は前開きでチャイナボタン留め、襟の内側と袖口には白い布。おそろいで色違いのカンフースーツ。いったいどこから見つけてきたのか。おそらくサイズはぴったりだろう。

 最後に二人はレオンからの贈物を開けた。
 見るからに高額そうなものだっただけに、開けるのにそれなりに心の準備が必要だったらしい。
 中から現れたのはおそろいの腕時計。外枠はシルバーで文字盤はオティアのが光沢のある青、シエンのが白。

「カシオのBaby-Gですね」
「ああ、確か日本のメーカーだったね」
「これ、就職祝いにヨーコさんがもらったんですけど、腕に巻いたら『おもーい』って」
「女性向け、子ども向けだから比較的軽いはずなんだけどね?」
「彼女、意外に華奢なんだな」
「油断するな、女の細腕でもツボに入れば致命傷だぞ」
「ポケットに入れて使ってます」
「懐中時計じゃないんだから……」

「あの………レオン、これ」

 おどおどしながらシエンが問いかける。

「十七歳だからね。そろそろこれぐらいの物を使ってもいいと思うんだ」

 さらりと言いやがった。

「信頼のおけるメーカーのクォーツ時計としては十分、標準的な値段だよ。堂々と使いなさい」
「……はい」

 気負いもなければ嫌みもない。もちろん、自慢する素振りはかけらほども感じられない。彼の基準からしてみりゃ極めてスタンダードなレベルの贈物なのだろう。

 つくづく育ちのいい男だ。のみならず、品格がある。だからこそ『姫』なのだ。
 贈物を開けている間、アレックスがさくさくと手際よくタルトを切り分けてくれていた。
 
 さあ、誕生日のご馳走をいただこう。

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「サリー、この赤いの何なんだ?」
「それは紅ショウガ。ジンジャーのピクルスみたいなものかな、ぴりっとしますよ」
「そうか」
「………わ、ヒウェル、それ真っ赤!」
「入れ過ぎじゃないか?」
「ピリっとしたのが好きなんだよ……」
「お前、なんかものすごいスパイシーなにおいがしてるぞ?」
「あったまったからだろ、大げさに騒ぐな」
「……………」
「レオン、次はどれがいい?」
「そうだな、じゃあ、エビを」
「わかった」
「さっきのホタテも美味しかったな」
「そうか。両方入れてみるか?」
「君に任せるよ」
「パンケーキみたいで面白いね」
「そうだな、具が多いから、焼くのにコツがいるけど」
「日本だとお祭りの時に屋台で売ってるんだよ。麺を入れたり、卵をたっぷり使うレシピもあるね」
「食べごたえありそうだな」
「う"」
「ヒウェル大丈夫?」
「けっこう……効いたぜ………ベニショウガ」
「どうぞ、お水を」
「さんきゅ、アレックス」
「………舌がバカなんじゃね?」
「何だと?」

 切り返してから、あ、と思った。
 こいつ、今、自分から俺に話しかけた?

 改めてオティアの方を見る。
 素知らぬ顔してスープを口に運んでいた。

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【4-4-9】おひめさまどこ?

2008/09/29 23:50 四話十海
 
 食事が終わってから、オティアがきょろきょろと周囲を見回している。最初はテーブルの周り、次に下に潜り込んで。

「どうした、オティア?」

 ディフが声をかけると、心配そうな声でひとこと。

「オーレが……」
「あ、そう言えばエビがあるのに出てこなかったな。包み紙のカサカサにも無反応だったし」
「猫、その手の音大好きですものね……どこに行っちゃったのかな」
「部屋に戻ってないか?」
「見てくる」

 後片付けもそこそこに、総出で子猫探し開始。
 食堂、キッチン、リビング。主寝室への扉は閉まっていたので除外。ソファの下、テーブルの下、その他家具のすき間。およそ考えられる場所をのぞきこんだがいずれも空振り。

「いないなぁ……」

 自分たちの部屋を見に行った双子が戻ってきた。

「こっちにもいなかった」
「よし、オティア、お前呼んでみろ」

 ディフに言われて、オティアは迷った。何て呼ぼう。あの子猫はずっとモニークと呼ばれていた。この家に来てからオーレになったけれど……。
 レオンの目の前でディフの昔のガールフレンドの名前なんか呼んでもいいんだろうか?

(彼のことだ、きっと覚えてる)

「大丈夫だよ。あの子は君の声に応えてくれるから」

 サリーの言葉にうなずき、ためらいながらも呼びかけた。

「……………オーレ?」

 しばしの沈黙。
 か細い声で「にぅー」と返事がかえってきた。

「キッチンだ!」

 一斉に移動する。

「でも、ここ一通り調べたはずなんだけどなあ」
「冷蔵庫の裏は見たかい?」
「あ」

 まさか、こんな所に入れるはずがないなんて。そんな固定観念は通じない。相手が冒険好きな子猫の時は、なおさらに。
 ディフとアレックスとレオンとヒウェル。四人掛かりで冷蔵庫を動かし、裏にうずくまっていた真っ白な子猫を無事、回収した。

「まったく度胸のあるおちびさんだ」
「みゃ……」

 オーレはよじよじとオティアの肩によじ上り、たしっと前足を頭の上に乗せた。

「にゃーっ!」
「……得意げだな」
「ああ、得意げだね」
「重い」
「お前、女の子にその一言は禁句だよ?」

 やれやれ、困ったもんだ。
 オティアは小さくため息をついた。だけどまた隅っこに潜られるよりは、そこにいてくれた方がいい。
 子猫を頭の上に乗せたまま、オティアは食べ終わった皿をキッチンに運んだ。オーレは器用にバランスを取り、ちょこんと頭の上で安定している。
 まるでずっと前からそこに居たみたいに。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「OK、確認するぞ」

 ヒウェルは眼鏡の位置を整えると、手にしたメモ用紙をおもむろに読み上げた。

「爪研ぎ、猫用の飯皿と水入れ、猫トイレ、キャリーバッグ、散歩用リード、猫じゃらし、ブラシ、ドライフードと猫カン、トイレ用の砂。当座はこんな所でいいか?」
「ああ。後は店に行って思いついたらそこで追加して行こう」
「OK、臨機応変だな。それじゃ、行きますか」

 これから、オーレのための猫用品の買い出しにホームセンターに出かけるのである。
 少し郊外まで車で出れば、夜遅くまで開いている店がけっこうあるのだ。

「すまんな、サリー、お客さんに留守番お願いしちまって」
「いえ、いえ。オーレ可愛いし」
「行って来るよ」
「行ってらっしゃいませ」

 買い物に出かける主人一家を見送りながら、アレックスは顔をほころばせた。

(この家で、よもや誕生日のお祝いを……それもサプライズパーティを開く日が来ようとは)
(オティア様とシエン様、お二人が来てからの一年は驚きの連続だ)

「それでは、私はキッチンにおりますので、何かありましたらいつでもお呼びください」
「はい、ありがとうございます」
 
 アレックスが行ってしまうと、サリーはリビングでオーレと『二人っきり』になった。
 ここぞとばかりにオーレはサリーの膝によじのぼり、ピンクの口をかぱっと開けてしゃべり始めた。
 静かなエドワーズ古書店からいきなり人の多い家にやってきて、ほんの少し緊張していたのだ。

 あたしは今日からオーレなのね。およめいりしたからなまえがかわるのね!

「うんうん」

 おうじさまといっしょにくらせるのね……

「あんまりいたずらしちゃだめだよ?」

 サリーは得意げな子猫の背中をなでた。白い毛皮がつやつやと指の間をすり抜ける。なめらかで、温かい。オーレはうっとりと目を細めて喉を鳴らし、ぴんと立てた尻尾を小さく震わせた。

 あたしいいこになる。だって今日からおひめさまだもの。

「うん。良かった。……ホントに。エドワーズさんは寂しいだろうけど」

 ……えどわーずさん……まま………。

 くたん、と尻尾がたれる。今まで王子様に会えた嬉しさでわすれかけていたホームシックがしくしくと、ちっちゃな胸の奥を噛み始める。

「また会えるよ。ずっと会えないわけじゃい……」

 うん……

 兄弟たちがもらわれていっても、ママが一緒だった。魚屋さんでも優しくしてもらった。可愛がってもらった。いっぱいなでてもらったけれど、王子様に会いたくて逃げ出した。

 何となくわかっていた。バスケットにゆられて、車に乗って、運ばれて。
 このお家はエドワーズさんの家からはすごく遠い。魚屋さんより、ずっと遠いのだと。
 急に寂しくなってくる。
 オーレは前足でふにふにとサリーの上着をもみしだき、もふっと顔をつっこんだ。

「大丈夫だよ、王子様がいるんだろ?」

 うん。おうじさま、だいすき!

 王子様。その一言でモニは……いや、オーレは元気百倍。四つ足を踏ん張って仁王立ち。くいっと胸を張った。

 わるものがきたら、あたしが退治するの!

「はは、よろしくお願いします」
「にゃ!」

 サリーはちょっと考えてから、ポケットから小さな鈴を取り出した。携帯のストラップに着けているのと同じ、赤い組紐の先に下がった金色の鈴。
 昔から言う。猫は人に見えないモノを見ると……。

「じゃあ、これ、あげるね。お守り……無くさないでね?」

 きれい、きれい! ぴかぴかしてきれい! サリー先生、ありがとー。

「しっかりね」
「みう!」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 やがて、大荷物を抱えた買い出し部隊が帰還すると、オーレはとくいげに出迎えた。
 ずいっと胸をそらせて、尻尾を高々と掲げて。

「みう!」

 オティアが抱き上げると、ちりーんと澄んだ音がした。あれ、と首をかしげる。
 青い首輪には金色の鈴が光っていた。横合いからヒウェルがひょいとのぞきこむ。

「お、鈴つけたのか、オーレ。よかったなー、これでどこに潜り込んでも大丈夫だぞー」
「これ……日本の鈴だな。サリー、ありがとな」

 にこにこしながらサリーがうなずく。

「実家で売ってるんですよ」
「へー、アクセサリーでも売ってるのか?」
「……神社だ」
「あー、はいはい、ジンジャね、ジンジャ!」
「本当は売ってるって言っちゃいけないんだけどね。お守りだから」
「オマモリ?」
「日本の伝統的なタリスマンだ」
「ふうん……きれいだね」

 穏やかに言葉を交わしながら双子の部屋へと向かう五人を見送りつつ、レオンは一人居間に残った。
 双子の手首には真新しい銀色の腕時計が巻かれていた。居間のテーブルには、猫用品と一緒に購入してきたフードプロセッサーの箱が乗っている。
 
「……ん?」

 手の甲にわずかな違和感を感じた。念のため、洗ってきた方がよさそうだ。


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【4-4-10】★まま、反省する

2008/09/29 23:51 四話十海
「ただ今!」
「お帰り」

 サリーをアパートに送たディフは家に戻り、いつものように出迎えたレオンと抱擁を交わし、お帰りのキスを受けた。
 
 日常茶飯事、いつもの習慣。だが、わずかな。ほんのわずかな違和感を覚えた。
 
 首をかしげながらも抱擁を解き、じっとレオンを観察する。
 部屋着からのぞく滑らかな腕に異変が起きていた。温室の薔薇の花びらのように傷一つない肌が、あろうことか赤く腫れ、ぽつぽつと発疹ができている!

「あ……あ……レオン、それっ」

 途端に頭の中で赤、白、青の三色のランプがくるくる回転し、血管の中の血は一気に沸点へ。噴き上がった思考がぐるぐる渦を巻く。

 大変だ、大変だ、大変だ!
 何が原因だ?
 いったい、どうして?

「病院、いや、救急車呼ぶかっ」
「平気だよ。原因はわかってる」
「あ…………」

 その瞬間、一つの単語が鮮やかに脳裏に浮かびあがった。

 Allergy

「あ……オーレ……か?」
「毛に触ったんだろう。ほおっておいてもすぐになおるよ」
「でも………う………ごめ………………ん……………薬……つけたほうが」

 そうだったのか。だから、犬や猫が苦手だったんだ。
 それなのに、俺は……無理言って………猫を飼わせてしまった。

 胸が一杯になる。もう、謝罪の言葉さえ出てこない。

「アレルギー用の薬はあったかな」
「アレックスに聞いてくるっ」

 慌てて部屋を飛び出し、ばたばたと廊下を駆け出した。

「アレックス!」

 血相を変えて駆け込んできた奥様から事情を聞くと、忠実なる執事は慌てず騒がず速やかに軟膏を取り出した。

「こちらをどうぞ」
「ありがとう……感謝するっ」
「ここではほとんど見ませんのでお話していませんでしたが、レオンさまは小動物のアレルギーを持っておられます。対象は、鼠やハムスター等の齧歯類、一部の猫、一部の犬などですね」
「そうだったのか……………」
「特定の種類だけなのであまり問題ありません。特に犬と猫については軽度です」
「だから俺が警察犬とじゃれてるとあまりいい顔しなかったんだな」

 ぴくっとアレックスは片眉を動かした。

(いいえ、マクラウドさま。それだけではないと思いますよ)

 思っても口には出さない。それが執事たるものの勤め。

「今回発疹が出たのも、おそらく慣れると出なくなると思います。ただ、寝室には猫はいれないようにしてください」
「わかった。気をつける」
「それと猫の爪と牙には細菌がいますから、傷をつくらないように」
「絶対、触らせないようにする」

 ディフはがっくりと肩を落し、軟膏のチューブを両手で包み込み、胸に押し当てた。まるでロザリオのように。

「自分が平気なもんだからそっちに頭が回らなかった……」
「皆様アレルギーはお持ちでないようで、何よりです」
「あ……レオン、食べ物は平気なのかっ?」
「ええ、そちらは特に」
「そうか………よかった……」
「軽度ですから、噛みつかれたりしない限りは大丈夫ですよ。ご安心ください」
「うん………ありがとな、アレックス」
「おそれ入ります」

 家に戻るとディフはまず、自分の衣服に念入りにブラシをかけ、コロコロを走らせた。

「レオン、ちょっと来い」
「何だい?」
「じっとしてろ」

 口を一文字に引き結び、真剣な表情でレオンの服にも同じ様にコロコロをかける。目を皿のように見開いて、白いふかふかの毛の一本も見逃すまいと。さらにリビング、キッチン、食堂と、オーレの歩いた場所にことごとく掃除機をかけ、仕上げにコロコロを走らせる。

「そこまで神経質にならなくてもいいんだが」
「念のためだ」

 掃除が終わると手を洗い、念のため服を着替えてから軟膏を塗った。
 薬が塗り広げられると、発疹はますます赤みを増して浮び上がるように見えた。

(ごめん。レオン、ごめん………)

 ディフは両手でレオンの手を包み込むようにして握り、目を閉じてぴったりと寄り添っていた。まるで祈りを捧げるような仕草で。

「大丈夫だよ、ディフ。すぐに収まるから」

 ぐいっとディフは愛する人を抱きしめて、背中を撫でた。髪を撫でた。頭を撫でた。
 何も言わずに、ただずっと。

 レオンは思った。

 こんな風に君がつきっきりになってくれるなら、アレルギーも悪くないな。

 そっと広い背中に手を回し、なであげて。ゆるやかに波打つ赤い髪に指をからめる。

 さて。
 朝までは君を独り占めだ………。

「レオン?」

 手のひらで頬を包み込み、顔を寄せる。
 それが単なるおやすみのキスなんかで終わらない事は、二人ともよくわかっていた。

(双子の誕生日当日編/了)

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【4-5】火難水難女難男難

2008/10/08 2:40 四話十海
  • 誕生日が終わってまもなく、ヒウェルに降り掛かった地道に不幸な出来事の数々。
  • なぜか彼の場合、こう言う情けないシチュエーションがとてつもなく似合うように思えるのは…気のせいでしょうか?

【4-5-0】登場人物紹介

2008/10/08 2:41 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 フリーの記者。26歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
 オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
 最近、夕飯の時にしか出番の無くなってきた本編の主な語り手。
 今回、不幸てんこ盛り。
 
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
 告白の際に著しく心を傷つけられ、今はひたすら『空気』扱い。
 観察力に優れ、また記憶力は驚異的に良い。
 ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。
 ディフの探偵事務所で助手をしている。とても有能。
 最近、猫を飼い始めた。定位置はもっぱら頭の上。

【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 外見はオティアとほぼ同じ。
 オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
 また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
 ディフになついている。
 自覚のないままヒウェルに片想いしている。
 その一方で、オティアとのこじれた仲を取り持とうとする複雑な立ち位置に。
 レオンの法律事務所で秘書見習いをしている。
 こう見えて実はけっこうドライな子。あきらめが早いとも言う。
 
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフと双子に害為す者に対しては穂高の槍の穂先並みに心が狭い。
 ヒウェルに対してはとことん容赦無い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 嫁の愛情を横取りする者はたとえ犬猫でも容赦しない。

【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 頑丈そうな体格だが無自覚に色気をふりまく困った体質(ゲイ相手限定)。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 アレルギー持ちの旦那のために最近超強力な掃除機を購入した。

【オーレ/Oule】
 四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
 白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
 最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
 趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
 エドワーズ古書店の看板猫リズの末娘。
 
【エドワード・エヴェン・エドワーズ/Edward-Even-Edwars】
 通称EEE、もしくはエディ。英国生まれ、カリフォルニア育ち。
 濃いめの金髪にライムグリーンの瞳。
 元サンフランシスコ市警察の内勤巡査でディフとレオンの友人。
 現在は父親から受け継いだ古書店の店主。やや引きこもり気味。
 飼い猫のリズは家族であり、よき相談相手。
 獣医のサリー先生のことが何かと気になる36歳。

【リズ/Liz】
 本名エリザベス。
 真っ白で瞳はブルー、手足と尻尾が薄い茶色のほっそりした美人猫。
 エドワーズ古書店の本を代々ネズミから守ってきた由緒正しい書店猫。
 6匹の子猫たちはめでたく里親に引き取られていった。
 エドワーズのよき相談相手。

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【4-5-1】予言なんて気にしない

2008/10/08 2:44 四話十海
「んがぁっ」

 その瞬間、真っ白に燃え尽きた。
 がくん、と顎が落ちる。ついでに手にしたメモ帳とペンも床に落ち、静まり返った会場にカツーンと乾いた音を響かせた。
 目の前には時計を使ったオブジェ。大人の背丈ほどの高さの柱時計の振り子の部分には、ぎっしりと青い目覚まし時計が詰まっている。
 丸い文字盤、上部に二つのベルとハンマー、色はつやつやした青。そう、忘れもしない9/10に必死になって俺とサリーがシスコ中をさがし回ったあの時計が………。
 
clock.jpg※月梨さん画「燃え尽きるへたれ眼鏡」
 
 現場はサンフランシスコ現代美術館。赤レンガの外壁に斜めに傾いだ巨大な円形の天窓、中味にも外見にもモダンな芸術の香りあふれるこの建物にやってきたのはひとえに仕事のためだった。
 顔馴染みの編集者に頼まれて、ピンチヒッターで新進気鋭の若きアーティストたちの作品を展示した特別展の取材にやって来て、問題の一品に出くわしちまったのである。
 
 ソニックウェーブ級の最初の衝撃が通りすぎると、ようやく口元に引きつった笑みが浮かんだ。
 そりゃあもう、出て来る途中で喉にひっかかりそうなかっさかさに乾いた笑みが。

「は、はは、そうか……どっかのアーティストがオブジェの素材にするために買い占めてやがったんだな……」

 落ち着けヒウェル。今は仕事中だ。いい年こいた社会人がここで暴れて芸術作品をたたき壊したらそれなりに問題だ。
 所詮は大量生産品、まあこんな事もあるよなと無理矢理自分を落ち着かせつつ屈み込んで床に落ちたメモ帳とペンを拾い上げる。
 ふと、タイトルが目に入った。

『the Maternity』

「そうか、これが『女難』ってやつか……」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 遡ること前日。
 いつものように中華街をうろうろしていると、知り合いのお茶屋の亭主に呼び止められた。
 別に珍しいことじゃない。よくある事だ。

『元気かい?』『お茶でも飲んでく?』『これ試供品だけどよかったら試してみる?』そんな所だろう。さして深くも考えずに近づいて行った。

「メイリールさんちょっとちょっと! うちのひいおじいちゃんが話があるって」
「何だい?」

 お茶屋の亭主の顔からいつものふくふくした愛想笑いが消える。細い目をいっそう細くして声を潜めて囁いてきた。

「あなた良くない相が出てるから気をつけた方がいいって」
「良くない相ねえ……どんな?」
「水難と、火難と、あと女難の相が出てるって」

 真剣なまなざしの亭主の隣では、白いヒゲをたくわえた爺様(彼は英語があまり得意ではなかった)が厳かにうなずいている。
 へっと鼻で笑っちまった。

「水難火難はともかく俺はゲイだぜ? 女難はお呼びじゃないよ」

 すると爺様は亭主に向かって何やら中国語で話しかけた。

「……男難も」
「マジ? どーすりゃ回避できる」
「これあげる」
「……お守り?」
「いや、お菓子。落ち込んだ時には甘いもの食って元気出して」
「………………………落ち込むような状況に陥ることは既に確定な訳ね」

 手渡された四角い包みをポケットに突っ込み、手を振って歩き出す。白ヒゲの爺様とお茶屋の亭主の妙に慈愛に満ちたまなざしに見送られて……。
 そーいやあの爺さん、今でこそ引退しちゃいるが、良く当たる占い師としてあの近辺じゃ有名だったな。あれ、それとも風水師だったっけか?
 いまいち違いがわからんが、どのみち予言なんざ気にしない。

 でも、ちょいと場所は変えてみようかな。
 
 ※ ※ ※ ※
 
 カランコロンと穏やかな響きのドアベルに迎えられ、やってきたのはエドワーズ古書店。古い本のにおいに静かな空気、そして美人の看板猫。
 長い尻尾をくねらせて足元にすり寄るリズを静かになでる。

「よう、リズ。元気?」
「にゃ……」
「オーレは元気だよ。最近はカーテンをよじのぼってレールの上を走るのがお気に入りだ」

 なごやかに挨拶をしていると、目の前にぬっと磨かれた革靴が突き出された。ぴしっと折り目のついたダークグレイに細いストライプの入ったズボン、その上には黒のベストに白いシャツ、さらにその上には金髪にライムグリーンの瞳の店主の顔。

「ども、Mr.エドワーズ」
「これはこれはMr.メイリール。いらっしゃい」

 いつもの営業スマイル、だが、なんつーか、こう……微妙に棘生えてるように感じるのは気のせいだろうか?
 
「オーレ、元気っすよ」
「……そうですか」

 お、ふっと穏やかな目になった。やっぱ気のせいだったかな。

「この間、サリーんとこで無事マイクロチップも入れてきて。昼間はオティアと一緒に探偵事務所に出勤してるし」
「そうですか」

 あれ。また、棘が生えたような……何で?
 まさかこれが男難? いやいやいや。気のせいだ、そうに決まってる。俺は二十一世紀に生きる健全なアメリカ市民だ。中国の歴史と文化に敬意は払うが基本的には科学を信望している。

 予言なんざ知ったこっちゃない!

「このペーパーバック、こっからここまで全部ください」
「ありがとうございます」

 吟味もそこそこに、がばっと興味ありそうな一角をまとめてレジに持ってって。会計をすますのもそこそこに店を出た。
 っかしいなあ。俺、あの人に、何か、したか?
 
 ※ ※ ※ ※
 
 家に帰ってから収穫を確認する。やっぱり確かめずに買って来るもんじゃない。既に持ってる本とだぶってるのがあった……しかも3冊も。
 せめて出版社なり、カバーが違うなりすればまだバリエーションと割り切ることもできたのだが、あいにくと社も一緒、カバーも同じ。
 まあこんな事もあらあな。読書用と保存用が確保できたと思うか。しかしこれだから本が増えるんだよなあ。

 ぶつくさぼやきつつページをめくっていると、はらりと一枚の切り抜きが落ちる。
 何だこれ。新聞か? 拾い上げると、料理のレシピだった。『スイートポテト入りコーンブレッド』。何だかやたらと腹にたまりそうなレシピだ。
 本の前の持ち主は一家の台所を仕切る母親だったのだろうか。それも食べ盛りの息子を抱えた……。
 ディフに持ってってやろうかな。だがこの手のレシピは既に奴のお袋さんから伝授されていそうな気がしないでもない。いかにもあの人の好みそうな献立だし。
 くすっと笑いながら何気なく切り抜きをひっくり返すと、裏面はスポーツ欄らしかった。
 氷の上でのびやかに踊る一組の男女の写真。フィギュアスケートか。
 モノクロだが女性の髪の毛の色は明るい。おそらくは金髪か。短いスカートを翻し、細い足を伸ばした彼女の顔にふと、目が引き寄せられた。
 
 …………………似ている。

 この目、口元、鼻、唇の形、そして顎のライン。オティアとシエンにそっくりだ!
 ただの他人のそら似なんてもんじゃない。遺伝子レベルでの相似性を感じる。(って別にDNA鑑定したわけじゃないが!)
 食い入るように記事を読む。あいにくと一部分しかない。いつ、どこの大会なのかはわからなかったが、それでも写真のペアの名前はわかった。
 ヒース・ガーランドとメリッサ・サラエフ。それが二人の名前。

 オティアとシエンの両親の名前は確か、ヒース・ガーランドとメリッサ・ガーランド……間違いない。あの二人の両親の、若い頃の写真だ。
 そうか、フィギュアの選手だったんだ。お袋さん、美人だな。ロシア系か? 良く見ると親父さんも似てるな……意志の強そうな表情がオティアにそっくりだ。

 俺の両親の遺品はほとんど残っていない。
 名前と年齢を記した事務的な書類と古いブローチぐらいなもんだ。写真は一枚も残ってはいない。
 死に別れたのは五歳の時だった。俺は両親の顔も声も覚えちゃいない。二人が生前何をしていたのか。どこからサンフランシスコにやって来たのかは……今となっては確かめる術もない。

 もし親の写真や映像、声が残っていたら。俺ならどんなかすかな痕跡でも見たいと思う。
 だけどあいつらはどうだろう?
 オティアはどうなんだろう?
 自分にそっくりの母親の写真を見てさえ凄まじい過去に結びついたりしないか。よかれと思ってやったことでもあいつに嫌な思いをさせちまったら意味はない。

 最近は医者通いの成果が徐々に出ているのか、イライラする頻度も下がって来ているようだが、まだまだ油断は禁物だ。

 一枚の薄っぺらな新聞の切り抜きは、長い年月を経て劣化していたが、それでも比較的きれいな状態に保たれていた。
 表面を指でなぞる。

 オティアは扱いづらい子どもだ。
 彼に近づく者は少ない。増して内側にまで踏み込もうとする人間に至っては……。

 最初のうちは不憫と思い手を伸ばしてほほ笑みかけても、いつかは忍耐がすり切れる。
 何を言っても。何をしても。奴の心には届かない。何か一つアクションを起こしても、表情を変えずに淡々としている。さもなくば無視するか、いら立つか。
 表面さえかすりはしない。それどころか苦しめているだけなのだと知った時の絶望や苛立ちは決して小さなものでは終わらない。
 口を開けば出る言葉は極めて攻撃的。自分自身にさえ隠しておきたい、己の最も後ろ暗い本質をずきりと抉る鋭い言葉。
 そんなはずがない。
 否定しながら腹の奥底で怯え、その怯えこそが思い知らせる。彼の言葉は、真実なのだと。そのことに気づいた瞬間、今まで優しくしていた人間は手のひらを返したように冷たく無慈悲になり、容赦無く彼を切り捨てる。

 はい、ここまで。そこでおしまい。そうやって、ずっとあちこちさまよってきたのだろう。

 俺にしたって何度思ったことか。
 放り出して背を向けて、二度と関わらないのが奴にとっても俺にとっても「たったひとつの冴えたやり方」なんじゃないかって。
 だが、そいつを選ぶ予定も意志も一切無い。絶対御免。そんな事するぐらいなら最初っから手なんか伸ばしちゃいねえ。

(……馬鹿だな、俺)

 時折ふと、ろくでもない幻想にとりつかれる瞬間がある。
 何処か遠く高い場所から、何もかも見通すだれかが俺を指さしあざけり、腹をかかえて笑っているんじゃないかって。
 
(ただ一度、弱々しく手を握られたあの瞬間。あれだけで、一生を投げ出してもいいと思った。俺にとってオティアはそれだけの価値があると)

 その気持ちは今も変わらない。だから動く。嫌な顔されようが。うざがられようが。

 いっそレオンのように割り切ることができたら………無理だ。ディフのようにお袋みたいな愛情で包み込む、なんてぇのは初っ端から範疇の外。
 だから俺は俺のやり方で動く。それしかない。

 また、余計な真似をしようとしているのかも知れない。だけど。

 進め、進め、前に進め。
 決して後ろを振り向くな。
 
 せめてこの新聞記事を完全な状態で見つけたい。あいつらに見せてやりたい。
 これがお前たちの両親なんだよって……教えてやりたいと思った。無味乾燥な書類に書かれた名前以上の事実を知らせてやりたいって。

「写真がまずけりゃ、見せなきゃいいんだ」

 よし、決めた。
 探すぞ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 フィギュアスケートもアイスダンスもアメリカでは人気の高い競技だ。人々の関心が高けりゃ自ずと情報も記録もそれだけ多く記される。
 おそらくスケート連盟に問い合わせれば詳しい記録が残っているだろう。だが、あいにくと俺はスポーツ面へのツテは……薄かった。
 一応、これでも社会派で通してるからな。(地域密着型だけど)

 少なくとも、いきなりアポ無しで押しかけて「この人とこの人のことについて教えてくださーい」と気軽に声をかけられるレベルではない。
 こう言う時は、あれだな。『餅は餅屋』、そっち方面に得意な奴に任せるに限る。

 そんな訳で馴染みの出版社に足を運び、我が盟友にして穏やかな口当たりの割には情け容赦なく原稿を取り立てる敏腕編集者、ジョーイ・グレシャムを訪ねることにした。

「よう、ジョーイ。元気か?」
「あれ、ヒウェル。どしたの、確か、今はお前さんに依頼してるお仕事はなかったはずだけど?」
「うん……ちょっとね、頼みたいことがあって」

 事の次第を聞くとジョーイの奴は話半分も聞かないうちに目をうるうるさせ始め、しまいにゃハンカチでぐしぐしと目元をぬぐっていた。
 そう言やこいつは人一倍、涙もろい男だった。

「そうか……ちっちゃい頃に死に別れた両親の面影を探して、ねえ。いいとこあるじゃないか、ヒウェル!」
「まあ、な……」
「常日頃思ってたんだよ、お前さんのその人に知られたくない後ろ暗い事実をことごとく追いかける執念をさあ、たまには世の為人の為に使えって!」
「えらい言われようだね、おい」
「だって、事実だし?」

 派手な音を立てて鼻をかむとジョーイはシステム手帳をとりだし、ぺらぺらとめくり始めた。

「OK、そう言うことなら及ばずながらお力添えしましょう! でもその代わりといっちゃ何だけど、ちょーっと手ぇ貸してもらえる? そうすりゃ時間取れるんだけどな、俺も!」
「いいぜ? 話せよ。何をすればいい」
「さっすが話が早いね。実はさ、一件取材に行って記事まとめて欲しいんだ。アポも段取りもつけてあるんだけど、担当者が急に行けなくなっちゃってねえ」
「おやまあ。風邪でもひいたか、それともダブルブッキングか?」
「いや、ぎっくり腰。さっき病院にかつぎこまれたトコ」

 腰痛、眼精疲労、頭痛。いずれも記者の職業病だ。人ごとじゃないやね、いやはや気の毒に……。

「わかった、引き受けましょう。その代わり、ガーランド夫妻の件はよろしくたのむよ」
「OK、そっちは任せてちょうだい! 双子ちゃんのためにもね……料金はいつもの相場でよろしい?」
「OK、いつもの相場で」

 人懐っこい笑みを浮かべるジョーイと堅い堅い握手を交わす。これにて商談成立。

「それで、俺はどこに行けばいい?」

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【4-5-2】ブルーな気分でスプラッシュ

2008/10/08 2:46 四話十海
 
 そして取材にやってきた展示会の会場で、こうして大量の青い目覚まし時計と対面しちまったのである。
 ああ、まったく忌々しい。これがせめて1コインショップの店先なら、ひらきなおって予備の1つ2つも買っておけるものを……
 芸術作品じゃあ、手出しもできやしない!

 それでも仕事はしたさ、プロだから。

 真面目にキュレーターの話を聞き、メモを取り、許可をもらって写真を写す。悔しいことに例の柱時計のオブジェはすばらしく画面映えがして、撮らずにはいられなかった。

(ああ、まったくもってこのご婦人ときたら!)

 加えてたまたま会場に顔を出していた作者のインタビューをする幸運にまで恵まれちまった。
 実に快活で気持ちのいいお嬢さんだった。

(くそ、これじゃ逆恨みもできやしない!)

「ありがとうございました。それじゃ、雑誌が出たら見本誌送りますんで!」

 展示会場を出て3m歩いた所でへばーっと盛大にため息をつき、ブルーな時計にブルーな気分になりつつ美術館を出る。
 かっとまぶしい陽射しが降り注ぐ。石畳の照り返しがじわじわ熱い。
 よく晴れた日だった。九月とは言えそこそこ気温は高い。エントランス前の噴水が勢い良く噴き上がり、白い水しぶきが散っている。水気をふくんだ空気がひんやりとして心地よい。
 よし、験直しだ。近くのコンビニに入り、アイスを買い求める。ひらべったいボート型の、バニラアイスをチョコでコーティングしたスティックつきのアイス。ラクトアイスとかアイスミルクとか呼ばれる種類のチープな味わいのやつ……好物なんだ、これが。
 
 袋を両手でつまんで、べりっと破った。
 景気よく………いや、良すぎた。ロケットみたいに飛び出したアイスは俺の手のひらからあっさり離脱。つるりん、べしゃり、と石畳の上へ。
 
 ice.jpg

「あ………」

 2秒ほど時間が停止した。
 この期に及んで、まだ食べられるかなと未練がましいことを考えていると、びよおおおと強風が吹いて、噴水の水がじゃばーっと飛んできた。
 ぱらぱらと細かい水滴がカーテンみたいに降り注ぎ、ちっぽけな虹が現れる。みとれる暇もあらばこそ、俺は半端に濡れ鼠。アイスはもちろん水びたし。

「来やがったよ、水難が……」

 ひきつり笑顔でへっと口をゆがめて吐き出した。ポケットから引っぱり出したハンカチはやっぱり半端に濡れていたが、とりあえず大雑把に眼鏡のレンズを拭い、肩をそびやかして歩き出す。

 いいさ。かえって踏ん切りがついたってもんだぜ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ただ今、ジョーイ」
「どーしたのヒウェル。水びたしじゃない。俺が頼んだのは確か美術館の取材だったんだけどね?」
「美術館の前には何がある?」
「噴水。まさか暑さにぷっつんして水浴びしてきたんじゃないよね?」
「笑えない冗談だぜ、Ha,Ha,Ha!」

 乾いた声を震わせ笑っていると、ばさっと上からバスタオルをかけられた。ありがたくごしごしと顔を拭う。終わったところで絶妙のタイミングでティッシュの箱が出てきた。

「サンキュ、ジョーイ」

 きゅっと眼鏡のレンズを拭う。よし、だいぶすっきりしたぞ。タオルを返すと、ジョーイは目をぱちぱちさせてちょこんと首をかしげ、人懐っこい笑みを浮かべた。

「ついでだからさあ、ヒウェル。ここで記事書いてっちゃいなよ」

 そらおいでなすったぞ!
 その手は食うか。基本的に文章を書く時は自分の家で、自分のペースでと決めてるんだ!

「いや、俺、Mac派だし。速攻、帰ったら記事起こすからさ。できたらメールで送るよ」

 そそくさと出口に向かおうとしたが、素早く回り込まれて退路を塞がれる。ったくカートゥーンから抜け出したようなのどかな面してるくせに抜け目ないぜ。

「だいじょーぶ! うちの社には両方そろってるから。ね? ね? ね?」

 背中をとんとん押されて有無を言わさずiMacの前に連れてゆかれ、肩を押されて強制的に着席。あれよあれよと言う間にぽんっとスイッチが入れられて、ファーンっとおなじみの起動音が鳴り響く。

「さあ、どうぞ。テキストエディタでも、ワープロソフトでも、お好きなのを使ってちょうだい?」

 もはや観念するしかなかった。

「わーった、書くよ、書きますよ」
「そう言ってくれると思ったんだ。資料集めにはもうちょっと時間かかりそうだから」
「OK、そっちはよろしく頼むよ」

 ったく、つくづく人を使うのが上手いよ、お前さんは。
 こきこきと指を鳴らすとボイスレコーダーを取り出し、イヤホンを耳にはめた。

 まずは聞き取ったインタビューを片っ端から文字に落す。重要な所は巻き戻して聞き直し、聞きながらネタにできそうな部分に意識のアンカーを落して行く。
 テープ起こしが終わったらふるいにかけるように使いたいネタだけを残して行く。手書きのメモと照らし合わせながらざりざり削る。
 それでも実際の記事に使うのはほんの一部だ。
 記録は記録、記事は記事。混ぜちゃいけない。記録の言葉を整頓しても記事には成らない。
 記録を読み返して記事の大筋を練って……ここまで来て、ようやく記事の下書きに取りかかる準備ができた。
 もっともテープを起こしてる段階で何を書くか、何を書けばいいのかはいい具合に脳みそに染みてるからほとんどメモを見る必要はない。
 細部や数字の確認ぐらいなもんだね。

 下書きができたら綴りを確認しつつ、記事の文字組みと字数に合わせて微調整。最後に三回読み返して作業終了。

「……よし、できあがり」

 デジカメで写した写真のうちから記事に使えそうなのをピックアップして、書き上げた記事もろとも一つの圧縮ファイルにまとめた頃には、ランチタイムをとっくに回っておやつタイムに突入していた。
 何のかんのと言いつつ、集中していたらしい……昼飯食うのも、コーヒー飲むのも忘れるほど。
 ひっさびさに社内の緊張感の中で仕事したなあ。

 んーっとのびをして、がちがちに強ばった腕、肩、首筋を順繰りに伸ばした。

「調子はどうよ、ヒウェル?」
「終わったよ、ジョーイ。お前さんのパソに送っといた」
「ご苦労さん。資料集めといたよ、そこ机の上に」
「さんきゅ……………おわ」

 机の上には、どーんっとファイルが山積みになっていた。一冊一年と見てざっと十年分って所だろうか……あ、もう一個箱があったか。

「デジタル化、されてなかったんだ」
「結構アナログなのよ、この手の記録って。年代は絞っておいたから、後は自分で探してね……あ、これ差し入れ」

 呆然とする俺の前にジョーイはコーヒーを満たした紙コップとドーナッツを置いて、入れ違いに自分のデスクへと戻って行った。
 何、何、あてもなく探すよりはマシだ……。
 もそもそとドーナッツをかじり、コーヒーで流し込みながら大会記録に目を通して行く。

 一つ目のドーナッツを食べ終わり、二つ目が半分消えた所でペアの名前が変わっているのに気づいた。
 ヒース・ガーランドとメリッサ・ガーランドに。

「ああ……この辺で結婚したのか……ってことは、例の新聞記事はこれより前だな」

 年代を絞り込みながら、もっと細かい資料まで読み込んで行く。母親が亡命ロシア人の娘だと言うこともわかった。その愛らしい姿から『銀盤の妖精』と呼ばれていたことも。
 カラーの写真も何枚かあった。双子の金髪は母親ゆずり、紫の瞳はどうやら父親から受け継いだらしい。
 借り物の資料にヤニだの焦げだのをつける訳にも行かない。だから煙草は自粛した。その代わりコーヒーを流し込む。何杯も、何杯も……。
 途中でジョーイに肩をたたかれ、記事はOKだったと言われたような気がしないでもないが記憶が定かじゃない。

 調べているうちに、何やら不思議な気分になってくる。
 俺は今、双子の生まれる前の時間に触れているんだな………。今はもういない二人の面影を追いかけて。

「あった。これだ」

 山と積まれたファイルの中の、新聞記事のスクラップの中からとうとうたどり着いたぞ。古本の間に挟まれていた、記事の欠片のオリジナルに。
 ポケットから切り抜きを取り出し、見比べる。まちがいない、同じだ。

「ジョーイ、これ、コピーとってもいいかな」
「どうぞ。そのために探してたんでしょ?」

 いい奴だ。
 
 慎重にコピーをとる。できるだけ鮮明に、読みやすい文字が出るように濃さを調節して。
 そうしてできあがった最良の一枚から、注意深く写真を切り抜いた。

「あれ、写真はいいの?」
「ああ……文字だけでいい。ありがとな、ジョーイ」
「こっちこそ。いい記事だったよ。なあ、ヒウェル。お前さんさえ良ければ」
「おおっと、その話は無しだ。俺、会社勤めってどうにも性に合わないんだよね?」
「OK、ヒウェル。わかったよ、もう言わない」

 ジョーイは残念そうな顔をして肩をすくめると、未開封の煙草を投げてきた。

「こいつはおまけ。どーせ買い置きの奴は湿気っちゃってるでしょ?」
「お、さんきゅ」

 気が利いてるね。いつも俺が吸ってる奴だ。
 すまんね。毎月決まった給料をもらえる。〆切りはあるがあくまで会社の枠の中。有給休暇有り、ボーナスあり、社会保障制度あり。
 心惹かれないと言えば嘘になるが、しかし……自由(フリー)に勝るものなし。

「ギャラはいつもんトコに振り込んどいてくれ。それじゃ、またご用の節はよしなに」

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【4-5-3】君だけの優しい俺

2008/10/08 2:47 四話十海
 夕暮れの帰り道。歩いているうちに次第に仕事明けの高揚感が冷めてきた。
 それにつれて物悲しい風景に誘われでもしたか、今日一日の不運の連鎖が次第にひしひしと胸に迫ってきた。

 まったくもってついてない一日だった。

 女難、水難と来たが次は何だ? 男難か? せいぜいオティアにそっぽ向れるぐらいだろうか。なまじ両親のことなんか調べたのが裏目に出て嫌われるかもしれないが、いいさ。慣れてる。

 帰り際にジョーイからもらった煙草を一本取り出し、くわえて火をつけた。
 深々と吸い込む。メンソールの香りが体内を満たして行く。
 ふーっと吐き出し、気づいた。ああ、まだ火難があったな、と。

 一応、携帯灰皿は持ち歩いちゃいるが、やっぱ歩き煙草はやばいか。消した方がいいのかな。ああ、でも、この一本だけ。
 つけちゃったものはしょうがないし。

 言い訳しながら、ぽぽぽぽっと煙を輪っかにして吐き出していると……。

「ヒウェル!」

 いきなり背後から声をかけられた。聞き覚えのある声だ。

「メンソールのにおいがするから、ひょっとしたらと思ったんだ……」

 振り向くと、ウェーブのかかった赤みを帯びたブロンドに鮮やかな忘れな草色の瞳。ほっそりした腰にすんなりとした手足。雌鹿のような青年が立っていた。
 石膏の彫刻さながらのなめらかな喉が美しい。
 
「フィル…………」
「うれしいな。覚えていてくれたんだ」

 忘れもしない十一月生まれのフィル。
 去年の秋、電話越しにさよならを言われたのが最後だった。俺は双子の事件を追いかけるのに夢中になって、君の誕生日すら忘れていた。

 指先で白い喉をくすぐるたびに可愛い声をたてて笑っていたね。唇を這わせると微かに吐息をもらし、軽く歯を立てると小さく震えた。甘えん坊で、気まぐれで、そのくせ寂しがり。
 腕を組んでぴったり寄り添って来る君の体はしなやかで、あったかくて……。
 しみじみ思ったもんだ。他人に触れるのはこんなに嬉しいことなんだと。

「元気か?」
「うん、元気」

 とことこと近づいてくると、フィルは俺の腕にそっと触れてきた。忘れな草色の瞳がすがるように見上げてきた。

「ねえ、ヒウェル」
「何だい?」
「俺たち、もう終わっちゃった……のかな……」
 
 ああ、君って人は相変わらずだな。予想外のタイミングでいきなり、核心をついてくる。こっちの心構えや精神状態なんかおかまい無しに。

 君が今、何を思い何を望んでいるか……よくわかるよ。
 こんな言い方をするときは、否定を期待してるんだ。引き留めてほしいのだ。察するに今の彼氏と喧嘩でもしたのかい?
 君と別れてからそろそろ1年。程よく思い出が熟成している頃合いだ。楽しいことは鮮明に浮び上がり、悲しいこと、腹立たしいことは曖昧な記憶の薄やみに沈む。

 あさましいとは思わない。自然なことだ。さみしくてすがりたい、けれどプライドを捨てられない。
 だからこうして俺から引き出そうとする。
 自分の望む答えを。
 
『そんなことないよ』

 そう言って、抱きしめて欲しいんだよな。
 わかってる。よくわかってるよ、フィル。1年前の俺なら喜んで君を抱きしめたろう。その白くなめらかな頬を手のひらで包み込んで、煙草なんか放り出してキスしていただろう。

 でも……なぁ。

 今、俺の心に住んでいるのはただ一人。紫の瞳にややくすんだ金髪の少年。猫よりも猫らしく、口を開けば棘が出る。
 その棘さえも愛おしい。
 ちらとでもこっちを見てくれれば幸せ、言葉を返してくれれば幸せ、話しかけてくれたらそれだけで、生きている喜びを噛みしめたくなる。柄にもなくひたひたと、胸の奥を温かな波が満たして行く。

「うん。終わりだね」

 ガツン!

 揺れた。

 頬から顎にかけて衝撃が走り、目から火花が散った。
 遠心力で眼鏡がずれる。
 思いっきりグーで殴られた。まあしょうがないさ、それだけのことはした。

「ひどい人! だいっきらい!」

 鮮やかなブルーの瞳に透明な雫が盛り上がり、ぽろりとこぼれる。後から、後から、とめどなく。
 一瞬、目を奪われた。
 が。

「あ"ぢぃっ」

 じわじわと二の腕から焦げ臭いにおいが立ちのぼる。
 殴られた拍子に煙草が飛んで、腕に落ちたんだ。
 シャツが焦げてその下の皮膚も真っ赤に腫れている。ついてない。このタイミングで火難が来やがったか。
 元カレの涙を拭いてやることすらできぬまま、大慌てで煙草を払い除けた。むき出しになった右腕の火傷に夕暮れの冷たい風が針金みたいにつき刺さる。顔をしかめ、かろうじて悲鳴の第二段をかみ殺した。

(しまらねぇなあ……)

 この期に及んでもまだ、可能性は残ってる。

『ごめんよ、さっきのは嘘だ』

 そう言って抱き寄せて、キスで涙を拭ってやればいい。おそらく向こうもわずかだがそいつを期待している。
 ずれた眼鏡を整えて、じりっと足元の吸い殻を踏み消し、拾い上げて携帯灰皿に突っ込んだ。
 ぼろぼろ涙をこぼしながら、フィルは呆然として俺の動きを目で追っていた。
 くしゃっと顔が歪み、白鳥のような喉が震え………押し殺した嗚咽が漏れる。自分より吸い殻を優先されたのがよっぽどショックだったらしい。

 ごめんな。俺はもう、君だけの優しいヒウェルにはなれないんだ。おそらくはもう、二度と。

 肩をすくめて歩き出し、三歩進んで振り返る。
 彼は泣きながら電話をかけていた。おそらく相手は今の恋人。
 そうだ、それでいい。
 思う存分泣きつき、抱きつけ。君がすがるべき相手をまちがえちゃいけない。

 男難、これだったのか。

(さあ、これで一通り全部来たぞ。次は何だ?)

 そのまま2ブロック歩き続け、角二つ曲がってフィルの姿が見えなくなった所でようやく立ち止まる。
 ごそごそとポケットをまさぐり、煙草を取り出しかけてやっぱりやめた。代わりに昨日、中華街でもらった菓子を取り出してみる。
 落ち込んでる時は甘い物が一番って言ってたよな……今こそこれを食うのにふさわしい時だ。

 ぺりぺりとセロファンの包み紙を剥がした。炸其馬。蜜をからめたしっとりやわらかい中華風のライスクッキーだった。キャラメルポップコーンを四角く固めたような感じだが、元が米だけにもっと小粒でしっとりしている。

「あー、甘いな……なんか、ほっとする……」

 一口食って、二口目を食おうとしたらぽろりと崩れて手からこぼれおちた。
 まあ、相当ハードな一日だったからなあ。もろくなってても仕方ない。

 グルッポー。グルッポー。

 足元には、せわしなく頭を上下させながら地面を歩く奴らが待ち構えていた。
 地面に落ちた菓子の欠片は、ばさばさ寄って来た鳩どもが、あっと言う間にひとかけらも残さずついばんでくれた。

 まあ、一口は食えた……さ。アイスよりはマシだ。

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【4-5-4】やっぱり予言なんて…

2008/10/08 2:48 四話十海
 家に帰るとちょうど飯の時間だった。
 タイをほどいて引き抜き、焼けこげたシャツを脱いでゴミ箱に放りもうとして、ふと思いとどまる。
 さすがに外には着てけないが、部屋の中でなら問題ないよな。よし、決定。こいつは今日から寝間着用。
 クローゼットから替えのシャツを出して羽織る。袖が左の二の腕に触れた瞬間、ちりっと肌に鋭い痛みが走った。火傷のサイズそのものは大したもんじゃないが、皮膚をひっぺがして直に肉の表面をなでられたような感じだ。冷やしとくか? いや、時間が惜しい。

 例の新聞記事を収めたA5版のクリアファイルを持って部屋を出た。

「腹減った、今日の飯、何?」
「ヒウェル」

 ドアを開けたシエンの笑顔が、途中から強ばり、ぎょっとした表情に変わる。やっぱ目立つか、殴られた跡。

「どうしたの?」
「ちょっと帰りがけにトラブルに巻き込まれてね」

 リビングのソファの上から落ち着き払った声が飛んでくる。

「ああ、いつものことだよ。心配ない、彼は慣れてる」
「ご親切に、どーも!」

 どんな類いのトラブルかお見通しですか、レオン。
 シエンはおずおずと俺の顔に手を伸ばしかけたが、途中で動きを止めた。何やらためらっているらしい。

「冷やしとけば治る。大丈夫だよ、シエン」
「うん……」

 そんなことを話していると、ディフがキッチンからのしのし歩いて来て、冷凍コーンの袋をぐいっと俺の顔面に押し付けた。

「あ、つめたい」
「ついでだ。解凍しとけ」
「サンクス」

 どんな類いのトラブルか、多分、こいつも薄々感づいてる。ざらざらした粒粒の入った袋は、いい具合に殴られた頬にフィットしてくれた。
 ちなみにオティアは相変わらずノーリアクション、ノーコメント……ちらっとこっちを見たけど、それだけ。うん、まあ想定内だよ。

 その夜、食卓に上がったタマネギ入りのコーンプディングはいつもよりちょっとばかり塩っぱい……ような気がした。
 そしてメインは鳥肉。

「これ、鳩じゃないよな?」
「チキンだ」

 食事が終わって、後片付けも一段落したところでリビングで双子を呼び止める。

「オティア。シエン」

 部屋に戻りかけた二人が足を止め、振り返ってきた。オティアがいぶかしげにこっちを見てる。何の用だ? と言わんばかりだ。
 ええい、しおらしく迷ってる暇もありゃしない。ここで渡さなけりゃさっさとこいつは部屋に戻ってしまう。

「お前たちに見てほしいものがあるんだ。これ……」

 不幸てんこ盛りの一日の収穫を居間のテーブルの上に置いて、そっと双子に向けて滑らせる。紫の瞳が4つ、クリアファイルの表面を走り、透明なケースの中の文字を読みとってゆくのがわかった。

 さっと一通り読み終えたのだろう。シエンが小さく声をあげ、目を見開いた。

「え、これ俺たちの親?」

(そうだよ、お前たちのママはお前たちそっくりの美人だった……)

 思っても言わない。ただうなずいて、記事の書かれた大会より後に起きたことを捕捉するに留める。

「サラエフってのは、お前たちのママの結婚前の苗字だよ。この大会の3年後に結婚したんだ」

 オティアは何も言わず熱心に記事を読んでいる。クリアファイルごと手にとって、隅から隅まで。目にした文字は何でも読むってか。ああまったく本の虫だね、お前ってやつは!

「俺こんなの全然知らない」
「そうだな……直接知ってる人でなきゃ教えようがないし。書類には名前と生年月日ぐらいしか残らないからな」
「……うん。これ、どうしたの?」
「たまたま買った古雑誌に切り抜きの一部がはさまってたんだ。見覚えのある名前だなって思って、それで、知り合いの雑誌社で探したら、あった」

 嘘は言っちゃいない。間にあった紆余曲折を省いただけだ。

「ありがと、ヒウェル」

 ああ、良かった、笑ってくれたな、シエン……だけど、瞳の奥に、仕草の端々に、わずかに戸惑う気配がある。
 どうやら、説明を聞いてもぴんと来ないらしい。目の前の新聞記事に書かれた「ヒース・ガーランドとメリッサ・サラエフのペア」が自分たちの両親だと。
 無理もない。両親が亡くなった時、二人ともまだ三歳だった。施設から里親、また施設へ。あちこちを転々としたせいで、自分達の親のことなんか教えてくれる人がいなかったんだろう。

 生まれた場所から遠ざかるにつれて、縁ある人々との繋がりも微かなものとなり、苗字も変わって……そして親と言う単語の意味が、自分の体を構成する物質と、書類上の文字に縮小されて行った。
 改めて、思う。
 ただ親子と言うだけで無条件にあたたかな翼の下に守られ、愛された記憶はこいつらにはほとんどないのだ。

「覚えてる?」

 シエンに聞かれて、オティアが小さな声で答えた。

「……いや」

 シエンは何か言いたそうな顔をしたが、結局、何も言わなかった。
 
「にゃー!」

 頭上から甲高い澄んだ声が降って来る。

「どこだ?」
「あそこ」

 カーテンレールの上で、白いお姫様が四つ足を踏ん張って得意げな顔をしていらっしゃる。どうやらオティアが食堂から出てくるのを待つ間、フリークライミングにいそしんでおられたらしい。

 だだだだ、どどどどど。

 オーレはカーテンレールの上を全力疾走、端にたどりつくとくるりとUターンしてまたどどどどっと走る。尻尾をぴーんと立てて、目をきらきら輝かせて、ものすごく楽しそうだ。
 首輪に下げた金色の鈴がちりちりと鳴る。まるでサンタクロースのトナカイだ。かなり賑やかなはずなのだが、不思議なことにちっともうるさいとか、耳障りだ、とは感じなかった。

 しかしこれ、今はちっちゃな子猫だからいいけれど、大人になってもこの調子で走り回られたら、たまらんだろうなあ。

「そのうちキャットウォーク取り付けた方がいいんじゃね、まま?」
「考えとく」
「……オーレ」

 オティアに呼ばれた瞬間、オーレは耳を立て、勢い良く助走をつけてジャンプ! リーン、と鈴が鳴ったと思ったら、鮮やかにオティアの肩に飛び移っていた。
 …………俺を踏み台にして。

「痛っ」
「大げさなやつだな、たかだか子猫にキックされた程度で」
「デリケートなんだよ……」

 あの位置からなら俺よりディフのが近いのに、何故に俺を踏み台にするのかオーレよ。
 加えて故意か偶然か、はたまたこれも女難の一部か。彼女が踏み切ったのはジャスト火傷の上だった。
 ぷにぷにの柔らかな子猫の足の裏とは言え、ちっぽけな足先に体重がかけられていた。しかも踏切りの強いことといったら、一流のアスリートばりだぜ、このお姫様は……。
 部屋に帰ったら救急箱開けるか。これじゃシャワーもおちおち浴びられねえ。

 顔をしかめながらテーブルの上に視線を落すと、記事を入れたクリアファイルが消えていた。
 あれ、どこだ?

 あった。オティアが持ってる。しっかりと手に持っている。
 ふうっと安堵の息がこぼれる。夕方からずっと、肩からこめかみにかけて張りつめていた嫌な強ばりが、抜けた。

 オティアはオーレを頭に乗せたまま、すたすたと歩いて行く。にやつきそうになる奥歯を噛みしめて見ていると……

「…………」

 すれ違いざまにびしっと容赦無く腕を叩かれた。ご丁寧に火傷してる方を。

「いでえええっ!」
「邪魔」

 ぼそっとつぶやくと、振り向きもせず行ってしまった。
 ああ、まったく報われねえなあ、おい! 一日の締めくくりぐらい綺麗に終わらせてくれたっていいだろうにっ!
 額に手をやって、ふと気づく。
 
「………あれ? 痛く……ない?」

 フィルに殴られた後も。踏み切った瞬間にぷっつり刺さったオーレの爪痕も、そして腕の火傷も、全然痛くない!
 半ば夢見ているような気持ちで頬を撫でる。腫れが完全に引いていた。試しにシャツの左袖をめくってみる。
 …………………………火傷が、消えてる。
 治してくれたんだ。

(せめてありがとうぐらい、言わせてほしかったなあ、オティア)

 散々な一日だったけど、最後が幸せなら問題ない。
 やっぱり予言なんざアテにならないもんだよ、うん。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 浮かれるヒウェルの背後で、シエンが微妙な表情を浮かべていた。戸惑い、困惑、驚き、そしてほんの少しの苦みが入り交じる。
 すれ違い様、明らかにオティアは持てる力を全開にしてヒウェルを治して行ったから………。

 一方、部屋に戻ったオティアは改めて新聞記事に目を通した。

 冷たい氷のほとりで白い頬を真っ赤に染めてにこにこ笑っていた人がいた。
 リンクサイドでいつも青い手袋をしていた。自分とシエンの頬をかわるがわる青い手袋をはめた手でつつみこんで、ほおずりをして、キスをしてくれた。

『これ、おねがいね』

 手袋をはずして、自分たちに片方ずつ渡して……それからくるりと身を翻し、氷の上に駆けて行った。まるで空を飛ぶように軽やかな足どりで。
 シエンが後を追いかけようとすると、いつもこう言っていた。

『今はまだ早いわ。いつかもう少し大きくなって、スケート靴を一人で履けるようになったらね』

 その『いつか』が来ないまま、自分たちは二人きりになってしまった……。
 昔のことだ。
 もう過ぎたことだ。今の自分には関係ない。

 左の手を開き、また握る。手のひらが火照っている。全力で力を出した瞬間の余波がまだ残っているような気がした。

 ヒウェルの傷を治したのは、飼い主の責任だ。少しはお礼の意味もあるけれど。
 迷子のオーレを探していた時に助けてもらったこと。
 青い目覚まし時計。
 そして両親の新聞記事と。
 まとめて清算したまでのこと。

「みゅ……」

 くしくしとオーレが頬に顔を掏り寄せている。肩に手を回して撫でた。

 これで、すっきりした。


(火難水難女難男難/了)

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【4-6】有能執事**する

2008/10/18 2:06 四話十海
  • 2006年9月の出来事。今回のメインは有能執事アレックス。なお、諸般の事情につきタイトルは伏せ字とさせていただきます。
  • 大したことじゃないんですが……最後にはちゃんと判明しますのでご安心ください。

【4-6-0】登場人物紹介

2008/10/18 2:07 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
【アレックス・J・オーウェン/Alex-J-Owen】
 レオンの秘書。もともとは執事をしていた。
 有能。万能。
 灰色の髪に空色の瞳、故郷には両親と弟がいる。
 20歳の時からずっとレオンぼっちゃま一筋の人生。
 今はレオンさまと奥様と双子のためにがんばる日々。
 好物はほうれん草入りクロワッサン。
 毎日焼きたてを行き着けのベーカリーで買う。
 41歳、独身。

【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフと双子に害為す者に対しては穂高の槍の穂先並みに心が狭い。
 ヒウェルに対してはとことん容赦無い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 彼にとってアレックスはほとんど親代わりだった。
 
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 頑丈そうな体格だが無自覚に色気をふりまく困った体質(ゲイ相手限定)。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 結婚当初、アレックスから
「奥様とお呼びしたほうがよろしいのでしょうか」と聞かれて全力で却下したらしい。
 
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 極度の人間不信だがヒウェルには徐々に心を開きつつあった、が。
 告白の際に著しく心を傷つけられ、今はひたすら『空気』扱い。
 観察力に優れ、また記憶力は驚異的に良い。
 ポーカーフェイスの裏側で実は意外に心揺れ動いている。
 ディフの探偵事務所で助手をしている。とても有能。
 拾われた時アレックスに世話されて以来、結構懐いていたりする。

【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 外見はオティアとほぼ同じ。
 オティアより穏やかだが、臆病でもろい所がある。
 また素直そうに見えて巧みに本心を隠してしまう一面も。
 ディフになついている。
 自覚のないままヒウェルに片想いしている。
 その一方で、オティアとのこじれた仲を取り持とうとする複雑な立ち位置に。
 レオンの法律事務所でアレックスに着いて秘書見習いをしている。
 料理やお菓子のレシピも教わっている。
 
【オーレ/Oule】
 四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
 白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
 最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
 趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
 エドワーズ古書店の看板猫リズの末娘。

【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 フリーの記者。26歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
 オティアに想いを寄せるが告白段階で激しく自爆。
 とうとう猫以下の扱いになっちゃった本編の主な語り手。

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【4-6-1】人はパンのみにて

2008/10/18 2:16 四話十海
 人はパンのみにて生きるに非ず。
 しかし、毎日の食生活においてパンの占める役割は大きい。何と言っても主食なのだから。

 自らの仕える主人、レオンハルト・ローゼンベルクが高校を卒業し、寮を出た後もサンフランシスコに居を構えると決めた時。
 忠実なる執事アレックス・J・オーウェンは衣食住、全てにおいて完ぺきに準備を整えた。
 
 中でも食生活においてことに気を配ったのが、如何にして良質なパンを確保するか、だった。
 本家で暮らしていた時分には毎食のパンは屋敷の厨房で焼かれていたが、さすがにここではそれは難しい。

(ならば自分の目と舌で確かめて納得の行くパン屋を探すしかあるまい)

 そんな訳でアレックスは、主人の住むノブヒルのマンションの近辺のパン屋を全てピックアップし、材料から製法、味、店内の清潔さから従業員の気質、勤務態度に至るまでことごとくチェックしたのである。
 まずはサンプルを入手すべく店に並べられた商品を順番に購入し、食べ比べる。比較検討の結果、一定の基準を満たしたものを実際に食卓に並べてレオンぼっちゃまの反応を確認する。

 口に合わない時はちょっと顔をしかめる。気に入った時は何も言わずに食べる。
 それはほんの些細な変化でしかなかった。幼い頃からレオンに付き従ってきたアレックスにしかわからない程度の。

 ルーセント・ベーカリーはアレックスの綿密かつ厳しいチェックをくぐり抜けた『最良クラスの』一軒だった。
 家族経営の小さな店だったが、質の良い材料を使い、丁寧な仕事をした。味も申し分なかった。
 以来、ローゼンベルク家の食卓に上るパンは可能な限りルーセント・ベーカリーの商品と決められている。そして、レオンの結婚後もその伝統は継承された。
 と、言うのも、親友時代から恋人期を経て現在に至るまで、レオンの伴侶たるディフもアレックスと同じ意見だったからだ。

「このパン美味いな。どこの店で買ったんだ?」
「ルーセント・ベーカリーでございます」
「いいな。気に入った」
「さようでございますか」

 控えめな笑みで答えながらアレックスは秘かに嬉しかった。

 レオンは基本的に食事の味と言うものへの関心が薄い人間だった。口に合おうが合うまいが、出されたものはきちんと食べる。子どもの頃、万が一彼が料理を残せば即座に使用人の責任問題につながった。
 だから食べる。とにかくきちんと食べる。
 レオンハルト・ローゼンベルクにとって食事とは単に栄養を補給するための行為であり、そこには何ら感情の動く余地はなかった。
 ゆるやかに波打つ赤毛にハシバミ色の瞳のルームメイトと出会うまでは。

『これ、美味いな。初めて食った!』

 彼のその一言が、レオンの意識に食べる事への関心を呼び覚ました。人の生きて行く時間を彩るあらゆる喜びも。

(本当に、マクラウドさまはレオンさまの救い主だ……天使とお呼びするには、いささか頑強すぎるかもしれないが)
 
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 9年前に初めて店を訪れた時、アレックスを出迎えたのは店のオーナーの一人娘ソフィアだった。

「いらっしゃいませ」

 短めのカールした髪の毛をきちんと三角巾の下に包み込み、オレンジと白のストライプのユニフォームに白いエプロンを着けて朗らかに笑う彼女を見て、直感で思ったものだった。

 ああ、この店なら信頼できる。きっと良いパンを焼く、と。
 事実、その勘は正しかった。

 人はパンのみにて生きるに非ず。さりとてパンは主食なり。
 何度も足蹴く通ううち、自然とソフィアと言葉を交わす機会は増えて行った。彼女の結婚が決まった時は一抹の寂しさを覚えたものの、兄にも似た温かな気持ちで

「おめでとう」と祝福の言葉を贈ったものだった。

 ソフィアの結婚後もアレックスはルーセント・ベイカリーでパンを買い続けた。
 店員の話からその後サクラメントへと移り、息子が生まれた事を知った。
 しかし彼女の幸せな結婚生活は長くは続かなかった。突然の交通事故で夫を失い、再び両親の元へと戻って来たのだ。
 店先でソフィアに再会した時。彼女に再び会えたことを心のどこかで嬉しく思う自分に気づき、アレックスは慌てて自らをたしなめたものだった。

 ほぼ時を同じくして、レオンとディフの長い長い親友時代は終わりを告げ、二人は晴れて恋人同士となった。レオンの食生活はほぼ完全にディフの手に委ねられ、アレックスが主人のためにパンを調達する機会も減った。
 にも関わらず、彼は依然としてルーセント・ベイカリーに通い続けた。そこが信用のおける美味いパン屋であることに変わりはなかったし、ソフィアと彼女の息子の元気な姿を確かめずにはいられなかったのだ。
 
 その間もローゼンベルク家の食卓を囲む人数は刻々と変化していた。
 主人とその恋人、さらにその友人、そして金髪に紫の瞳の双子。食卓を囲む人数が増えて行くにつれ、アレックスがルーセント・ベイカリーで買い求めるパンの量も、種類も少しずつ変わって行った。

 そして、その変化をソフィアは敏感に感じ取っていたのだった。

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【4-6-2】ソフィアは見ていた

2008/10/18 2:17 四話十海
 その人が初めて店に来た時のことを、ソフィアは今でもはっきり覚えている。
 灰色の髪に薄い空色の瞳。ダークグレイの皺一つないズボンにベストに上着、真っ白なシャツ、襟元にきりっと締めたアスコットタイ。背筋を伸ばして、無駄のない動作できびきびと歩く。
 まるで映画に出てくる執事のようだと思った。

「いらっしゃいませ」
 
 ほほ笑みながら出迎えると、深みのある品のある声でこう言った。

「こちらにあるパンを、ここからここまで1種類につき1つずつ、全部いただけますか?」
「全部、ですか?」
「はい……あ……少々お待ちください」

 甘い香りの漂う菓子パンと、温まった肉と野菜の香ばしいにおいのたちこめる調理パンのコーナーに歩いて行くと、しばらく考え込んでいた。

「………こちらのコーナーの商品は除いて」
「はい、かしこまりました」

 山のようなパンを抱えてその人は、来た時と同じ様にきびきびした足どりで帰って行った。
 
(あんなにたくさんのパンを、どうするのかしら?)

 3日後、彼は再び店にやってきた。
 黒い革表紙の手帳を片手に慎重にパンを選び、厳かにカウンターに運ぶ。ベイカリーのプラスチックのトレイがまるで銀のお盆のように見えた。

「これをください」

(あれは試食だったのね! 好みのパンを見つけるための)

 以来、その人はお店の常連さんになった。買って行くパンはだいたい決まっていた。
 ライ麦パンとクロワッサン、イギリス式の山形の食パン。サンドイッチ用のしっかりめの生地の食パン、時たまバケット。いずれもプレーンなパンばかりで、野菜や果物を混ぜたものは好評ではなかったらしい。
 一人にしては多く、三人にしては少なめの量だった。

(きっと家族がいるのね。でも、小さな子どもではない)

 ごく自然に『お嬢様』と言う言葉が浮かんできた。忠実な執事が、お仕えするお嬢様のためにパンを買う。

(ふふっ、まるでロマンス小説みたい)
(まさか……ね)
(でも、ひょっとしたら?)

 そんなことを考えながら、ソフィアは彼が店に訪れるのをいつしか楽しみにするようになっていた。

 やがて月日が流れ、ソフィアが結婚して、家を離れて。
 短いけれど幸せな日々の後に息子を連れてサンフランシスコに戻ってきた時も彼は変わらずそこに居た。
 いつまでも悲しみに沈んではいられない。勇気を出して店に立った最初の日にパンを買いに来てくれたのだ。
 ソフィアを見つけて、ほんのかすかに、ほほ笑んでくれた。春先の空のような、温かい瞳をして。
 その瞬間、ぽわっと小さな、タンポポの綿毛みたいな温かい灯りが胸の奥に灯った。
 ぽわぽわと白いちっちゃな灯りが、空っぽになっていた自分の中に広がって……気がつくと、ほほ笑み返していた。
 それまでは人前で、泣かずにいられるのが精一杯だったのに。

「いらっしゃいませ」
「こんにちわ」
 
 再会からしばらくして、彼の買うパンの量が減った。

 二人分から一人分に。何となく寂しそうな、ほっとしたような様子だった。
 自分一人分のパンを買うようになってから、彼は……その頃には「オーウェンさん」「ソフィアさん」と呼び合うくらいに親しくなっていた……ほんの少し冒険するようになった。
 野菜を生地に練り込んだパンやドライフルーツやナッツを混ぜたパンに挑戦し、一通り試した結果、ほうれん草入りのクロワッサンが気に入ったようだった。

 食パンを一斤とほうれん草入りのクロワッサンを二つ。それがオーウェン氏のお買い物の定番。
 ほぼ同じ頃から赤い髪の毛の青年が頻繁に店に来るようになった。彼の買って行くものは、何故かオーウェンさんが以前買っていたものを引き継いだようにそっくり同じだった。
 よく笑う気さくな人で、冒険心も好奇心も旺盛。これは何? どうやって食べるの? 何が入っているの? まるで子犬のように目をきらきらさせて楽しそうに聞いてきた。

 去年の秋ごろからだろうか。赤毛さんの買い物が変化した。
 大きくて堅いパンから、小振りで柔らかいパンへ。量も増えた。小さな手で、ちまちまとやわらかいパンを食べる人が食卓に加わったのだと思った。そう、きっと子どもだ。
 
 そう思った矢先に、ふっつりと赤毛さんは姿を見せなくなった。
 心配していると、入れ替わりにまたオーウェンさんの買い物が増えた。小さめのロールパン、やわらかい食パン。まるでバトンタッチしたみたい。

(あの二人、ひょっとして知り合いなのかしら?)

「ソフィアさん、一つ教えていただきたいことがあるのですが……」

 ある日、オーウェンさんが真剣な顔で尋ねてきた。

「はい、何でしょう」
「息子さんは、いったいどのような料理を喜んで召し上がりますか?」
「息子が、ですか?」
「はい……実は今、育ち盛りの男の子を二人、お世話しているのですが、どうにも私の作る献立は……何と申しますか、微妙に喜ばれていないようなのです」

 こんなに途方に暮れたオーウェンさんを見るのは初めてだった。よほど悩んでいるらしい。

「お子さんを持つ母親として、あなたのご意見を参考にさせていただきたいのです」
「そうですね。ディーンは私の作ったものは何でも喜んで食べてくれますけど……一番好きなのは、マカロニ&チーズかしら」
「マカロニ&チーズ……ですか」
「はい。タマネギのコンソメスープも好きですね」
「タマネギのコンソメスープ……なるほど。大変参考になりました」

 うなずくと、彼は心底ほっとした様子で晴れやかな笑みを浮かべた。

「ありがとうございます、ソフィアさん」
「いいえ。お役に立てて良かったわ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「メイリールさま」
「おう、どーしたアレックス」
「一つご相談があるのですが」
「何、改まって」

 検討に検討を重ねた上での人選だった。
 女性相手の経験、と言う点ではマクラウドさまに聞くのが一番なのだろうが、レオンさまが良い顔をなさならいだろう。
 レイモンドさまは、ご自分からご婦人にアプローチする方ではない。実際、トレイシー嬢が冗談めかして言っていたことがある。『私ね、レイをひっかけたのよ』と。
 
「ご婦人に感謝の気持ちを伝える時は、どのような物を贈ればよいのか、ご意見をお聞かせ願いたいのです」
「何で、俺にそーゆー事聞くわけ?」
「レオンさまはあの通りのお方ですし、マクラウドさまは入院中ですし」
「Mr.ジーノは?」
「………」

 デイビットさまは……あの方の好みは独特だ。いささか派手になりすぎる傾向がある。慎み深く口をつぐみ、目を伏せた。

「あー、うん、気持ちはわかる。で、相手のご婦人ってのは独身?」
「いえ、ご家族と一緒に住んでいらっしゃいます」
「ああ……そう。だったら、チョコの詰め合わせかな。あとちっさめの花束」
「チョコレートと花束……ですか」
「クッキーとかパイとかケーキなら自分ちでも手作りできるけどさ。チョコはそうは行かないだろ? ダイエット中でも家族が食べるだろうから誰かしらには喜ばれるよ。それに高級な店のは箱もリボンも上等だから食べ終わってからも楽しみがあるし」

 よどみのない口調で述べてから、メイリールさまはぱちっとウィンクをして、芝居がかった動作で一礼した。

「んでもって花束は……あなただけの為に」
「……その、胸に手を当てる仕草とウィンクも実行しなければいけませんか?」
「や、無理しないでいいから。気分の問題だし、これ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 花束。
 花束。
 ピンクのバラの蕾を集めた、ちっちゃな花束。片手にすっぽりおさまるぐらいの。
 こんな可愛いブーケをもらったのは久しぶり。
 何だか胸が時めく。

「先日のお礼です」とオーウェンさんは言っていた。マカロニ&チーズは喜んで食べてもらえたのね。
 よかった。
 とても嬉しい。

「ママ、チョコレートもっと食べたい」
「あらあら、そんなにいっぺんに食べちゃいけないわ、ディーン。ちょっとずつ、長く楽しみましょう? 残りは明日ね」
「……OK、ママ」
 
 チョコレートの箱についていた青いサテンのリボンをくるくる巻いて引き出しにしまった。花束が色あせても。チョコを食べ終わっても、このリボンは残る。
  
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 十二月に入って、赤毛さんが帰ってきた。少し色が白くなって髪の毛が伸びていた。

「ちょっとね、ケガで入院してたんだ」

 事も無げに言って、笑っていた。
 次にお店に来た時、彼は一人ではなかった。金髪の男の子が二人一緒に居た。まるで鏡に映したようにそっくりの双子の兄弟。
 親鳥の後をついて歩くひな鳥のようにちょこまかと店の中を歩き回り、三人で相談しながらパンを選んでいた。
 まず二人で相談して、それから双子のうちの一人が赤毛さんと話す。
 兄弟の間ではほとんど言葉は交わされない、それでもちゃんと意志が通じているようだった。

 年が明け、冬から春へ季節が移り変わってゆく間に金髪の双子と赤毛さんはすっかりおなじみの顔になって行った。
 いったい彼らはどんな関係なのだろう?
 親子にしては年が近すぎる。兄弟と言うには離れ過ぎ。けれど一緒に暮らして、一緒にご飯を食べていることは確かだった。

 そして……五月が終わり六月の足音が聞こえる頃。
 オーウェンさんがやってきた。
 金髪の双子と一緒に。

(この子たちだったのね……マカロニ&チーズを喜んでくれたのは)

 いつも赤毛さんが買っている食パンを買って帰っていった。

『生地がしっかりしていて、サンドイッチを作る時に何はさんでもOKだからな。こいつが一番なんだ』

 以前、彼がそんな風に言っていたのを思い出した。
 金髪の双子と、赤毛さんとオーウエンさん。ソフィアの中でいつも店に訪れる四人が繋がった。

 けれど気にかかる。三人とも、どこかやつれていて元気がなかった。
 どうしたのだろう。
 何があったのだろう?
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 それから一ヶ月近くの間、三人は連れ立って何度もパンを買いに訪れた。何があったか聞けぬまま、それでもパンの量が以前と変わらないことにソフィアは秘かに安堵していた。

 そして六月も終わりに近づいた頃………オーウェンさんに代わって赤毛さんが再び双子を連れてやって来た。
 パンの袋を渡す時、左手の指輪に気づいた。プラチナのしっかりしたリングの中央には青いライオンが刻印されている。以前は無かった物だ。

「おめでとうございます」
「…………ありがとう」

 かすかに頬を赤らめて、うれしそうにほほ笑んでくれた。

 オーウェンさんと、赤毛さんと金髪の双子ちゃんはとても親しい。けれど、最初にオーウェンさんがパンを買っていた相手は多分この中にはいない。
 もう一人居るのね。その人は、今は赤毛さんと、双子ちゃんと一緒に暮らしている。

 どんな人なのかしら。オーウェンさんが心をこめてお世話しているお嬢様。
 おそらくそれが、赤毛さんと指輪を交わしたお相手なのだわ。
 もしかして、金髪の双子ちゃんのママさん?
 
 ソフィアの頭の中でくるくると、今まで見聞きした出来事の欠片が融け合って一つの物語に固まって行く。

 若いうちに結婚して、そして双子の息子が生まれて。でも旦那さんとは別れて一人暮らしになって、それでオーウェンさんがお世話をしていた。
 赤毛さんと恋人同士になって、双子の息子を呼び寄せて一緒に暮らすようになって、六月に結婚したんだわ。

 きっと、きれいな方ね……いつか、お店に来てくれないかしら。

 まだ見ぬ『お嬢様』を思い描いて、ソフィアは秘かにわくわくしていた。

 ああ、それとも、もしかしたら家の外に出られない訳があるのかも。ものすごく病弱だったり、体がどこか不自由だったり。

 ふと、ソフィアの脳裏に鮮やかにある光景が浮かんだ。
 窓際の長椅子に体を預けた深窓の令嬢。細い肩を薄い柔らかなショールが包み、白い手が丸い木の枠に収められた布に細やかな刺繍を施している。
 双子の息子と愛する旦那様、そして忠実な執事に守られて……。

 そうよ、きっとそうなのだわ!
 赤毛さんはずっとつきっきりでお嬢様の看病をしていて、その間、オーウェンさんが双子ちゃんと家事をしていたのね。

 よかった、幸せになれて……。
 本当に、よかった。

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