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【サンプル2:思い出は甘く真実は苦く】

小説十海

「待ってたわ」
 次の日、彼女の家に呼ばれた。もちろん、仕事だ。昨日、別れ際に頼まれたのだ。修理して欲しい物があるから、と。
 家に入ると、妙に落ち着かなくて、きょろきょろしてしまう。引っ越してきたばかりだからだろうか。妙に物が少なく、がらんとしている。ひと月も経っていれば、もっと物が増えていそうなものだが。
 だが、それ以上に、気になることがあった。
「どうしたの、ディー?」
「あ、いや、その、旦那さんにも挨拶しといた方がいいかなーっとか、思ったもんだから」
「夫は出かけてるの」
「あ……そう」
 そうか。留守なのか。何意識してるんだ、みっともない。
「腕のいい毛織物の職人なのよ。エルルタンタの生まれなの」
「ああ。エルルタンタの毛織りの技は、天下一品だものな!」
 壁にかかったタペストリーに手を触れる。それは、吹き込むすきま風を防ぐのみならず、簡素な部屋に鮮やかな彩りを添えていた。
 みっしりと織られた羊毛織り。地色は穏やかな砂色で縁は葡萄色。
 端から中央に向かって螺旋状に、実った麦を思わせる黄色の模様が織り込まれていた。所々に、リンゴのような赤が挿し色されているのが目を引く。見た目より軽く、しかもしなやかだ。これなら、壁から外して羽織ることもできるだろう。
「これ、旦那さんが織ったのか?」
「ええ、そうよ」
「すごいな! これだけの腕がありゃあ、どこに行っても働き口には困らないだろ?」
「……お願いしたいのは、この鍋の修理なの。ヒビが入ってしまって」
 渡されたのは、小さな手鍋。この程度の修理なら、造作ない。
「まかせとけ! 新品同様にしてみせるぜ!」
 いい所を見せたくてつい、大口を叩いてしまった。

「庭、借りるよ」
「お願いね」
 裏庭に炉を組んで、仕事を始めた。火を起こし、ふいごで吹いて、鋳鉄の欠片を溶かす。
 その間、メイガンはずっと側で見ていた。銀灰色の瞳で飽きもせずに、じっと。
 ……落ち着かない。
「この程度なら、店に持って来りゃよかったのに。外回りは、割り増し料金になるんだぜ?」
「あなたに会いたかったのよ」
 どきりとした。
(しっかりしろ。あの時の約束なんざ、彼女はとっくに忘れてる。仮に覚えていたとしても、何の意味がある? もう、他人の奥さんなんだから!)
 必死になって手を動かした。
 溶かした鋳鉄を流しこんでヒビを塞ぎ、台に乗せて小さめのハンマーで叩く。カチコチカチコチ、ひたすら叩いて、叩いて、叩いて……。
「……やべっ」
 叩き過ぎて、鍋が凹んだ。ついでに気持ちも。すかさずひっくり返して、コツコツ叩く。
(信じらんねえ、あー、信じらんねえ! こんな、初歩的な失敗やらかすなんて!)
 どうにか取り繕ったが、すっかり前と同じとは行かない。どうしても跡が残ってしまう。
 ああ、もう。いっそ野ネズミくらいになって、そこらの穴にでも潜り込みたい気分だ。これ以上しくじるな。己に言い聞かせつつ、慎重に鍋を持ち上げ、水に浸けた。
 じゅわーっと派手に蒸気が上がり、顔をなでる。
「できたの?」
「ああ。後はゆっくり冷ませばいい」
「すごい、きれいに直ってる!」
 ……一ヶ所凹んだけどな。
 言おうか言うまいか。迷っていると、いきなりひょいと前髪をかきあげられた。
「なっ」
 すぐそばに、彼女の顔があった。
「真っ赤よ、ディー?」
「あ……その……蒸気、浴びたし。火、使う仕事だから」
 しとろもどになって、目をそらす。
 柔らかな感触が額に触れる。思わず体がこわばった。ハンカチ越しに触れていたのは、彼女の手だった。指だった。
「な、何してっ」
「じっとしてて。すごい汗」
「あ……うん」
 ハンカチが額をなぞる。そのまま、こめかみから耳の後ろを通り抜け、頬へと降りて行く。
「くすぐったいよ」
「だめ、動いちゃ」
 たしなめるように、銀灰色の瞳が細められる。
「なつかしいわね。子供の頃、よくこうやって、拭いてあげたっけ」
「そうだな」
「あなたってば、しょっちゅう転んで、あちこちすりむいて。泥だらけになってもけろっとして走り回ってた……」
 そうだ、何もうろたえる事はない。幼なじみの『ねーちゃん』が、やんちゃ坊主の世話をしてるだけ。メイガンの中では、俺はいつまでたっても、泥だらけになって走り回ってた子供のまんまなんだ。何もうろたえることはない。何も。
「ねえ、ディー」
 彼女の手が、首筋に触れた。ハンカチ越しではなく、直に。
「覚えてる?」
「何を?」
 桜桃みたいに赤い、ぽってりした唇がすぼめられる。合間に閃く真珠の歯に。しなやかな舌に目が釘付けになる。
「……わかってるくせに」
「あ……その……」

 答えようとした刹那。荒々しい足音が割って入った。
「メイガン! メイガン!」
 弾かれるように彼女は立ち上り、裏口から家の中へと駆け込んだ。
「エイベル。どうしたの? 仕事は?」
「辞めてきた。もうあんな奴の下で働くのは、まっぴらだ。金輪際! 二度と!」
「あなた……お願いだから、落ち着いて」
「これが落ち着いていられるか! ちくしょう、どいつも、こいつも、俺を馬鹿にしやがって!」
「あ、やめてっ何をするのっ」
「ちょっとばかり長くここに住んでるからって、威張り腐りやがって。自分だって元を正せば同じよそ者じゃないか! 根無し草の流れ者じゃないか!」
「エイベル、やめて、お願い!」
 物の倒れる音がする。明らかに誰かが暴れる気配が伝わってくる。
「メイガン!」
 居ても立ってもいられず、飛び込んだ。
 椅子やテーブルがひっくり返った部屋の中、男がメイガンの手首を掴んでいた。なめらかな肌に指が食い込み、表面がよじれるほど強く。
「やめろ」
「うるさい、若造が!」
「その手を離せ」
 血走った目で睨まれる。だが怖くはなかった。
 拳を握る。かろうじて腕を上げるのはこらえたが、その分力がこもり、腕の筋肉がめきめきと盛り上がる。
「その手を、離せ」
 男は低く咽の奥で唸り、がちがちと歯を鳴らした。まるで犬だ。鎖につながれ、爆発する寸前まで怒りをため込んだ、犬。番犬でもない。増して羊を追う犬でもない。
 血と獲物の臭いに飢えた、凶暴な猟犬がそこに居た。
「エイベル……あなた。おねがい」
 かぼそい声でメイガンが囁く。エイベルは、長々と生臭い息を吐き……ぎこちない動きで、妻を解放した。
「ごめんなさいね、ディー。今日はもう、帰ってちょうだい」
「でも」
「お願い。修理は終わったでしょう?」
 言外に告げていた。もはや自分がこの家にとどまる理由は、ないのだと。
 代金を受けとり、道具をまとめ、すごすごと退散するしかなかった。

(ちくしょう)
(ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!)
 幸せに暮らしていると思ったのに。何なんだ、あの男は! 勝手に仕事をやめて、メイガンに八つ当たりするなんて。
 あんな奴がメイガンの夫なのか。これまでも同じことしてきたんだろうか?
 だとしたら。
(最低だ。最悪だ!)

『覚えてる?』
『……わかってるくせに』

 彼女の声がいつまでも、耳から離れなかった。

     ※

 グレンがメイガン夫婦の家を訪れている間、ハーツは行商の傍ら『壁の中の狼』の情報を集めていた。
 物騒な話が気になったし、このことを思い浮かべるたびに、右胸の印が熱くなるのだ。
 同じ『兆し』がグレンの身にも起きているはずなのだが。
(何だってあいつ、気付かねえんだ? そこまで鈍い奴じゃなかったはずだ。それとも……)
(あえて気付かないふりをしているだけなのか?)
 相棒の『らしくない』行動が気掛かりだが、今はそれ以上にやらねばならない事がある。

 脅える者はいつだって、不安を吐き出す出口を求めている。
 行商で回った先の家々で、同情心に満ちた眼差しで水を向けると、すぐに乗ってきた。
 さらに、船着き場に川船の着く頃合いを見計らって『大鍋亭』に出向き、船の客や船員が、腹ごしらえにやってきた所に話しかけた。
 ゆるっと気の抜けた笑いを浮かべて、適度な人懐っこさと愛想の良さをにじませて。
 ハーツの顔は広い。商売柄、あちこちの村や街へ出向くからだ。
 運良く、この日の船客に顔見知りが何人か交じっていた。おかげで思いの他、聞き込みははかどり、多くの情報を集めることができた。

『壁の中の狼』は、一月前にアンヘイルダールに現われた。
 最初に襲われたのは村外れの家。家畜小屋の窓を破って侵入し、一番大きな牡牛を引き裂き食い殺した。
 翌日、ただちに村のあちこちに罠が仕掛けられた。男たちは寝ずの番に立ち、番犬が放たれた。
 しかし狼は村人たちの努力をあざ笑うかのように、それから五日間に渡って殺戮を続けたのだった。
 鍛冶屋の言葉通り、家畜も番人も番犬も、手当たり次第もろとも食い殺して。
 不思議なことに、何故か六日目になって、ふっつり襲撃は止んだ。
 しかしながら、残忍極まりない狼の恐怖は色濃く残り、村人たちは必死になって備えているのだ。
 ふらりとやって来た災厄。気まぐれで残忍な獣。いつ、また戻ってこないとも限らない。

「一匹だけ、番犬が生き残ったんだけどよ。怪我が酷くて、三日後に死んじまった」
「ほう」
「亡骸はすぐに燃やしたそうだ」
「そこの家のばあさんが言ったんだとさ。『壁の中に出る獣に噛まれて死んだ者の亡骸は、必ず焼かなきゃいけない』ってね。理由を聞いても『そうしなきゃいけない』の一点張りで。しまいにゃ泣くはわめくはで大変だった」
「どこまで信用したもんか、迷っていたら、そら、エルフィンの治療師の先生がいるだろ? あの人が言ったんだよ。『そうした方がいい』って。だから、さ。燃やした」
 賢明な処置だ。焼かれた死体は起き上がらない。何があっても、二度と。

     ※

 これは、ただの偶然だろうか?
 あらゆる情報が一つの方向を指し示している。
 メイガンと夫が引っ越してきたのは一ヶ月前。『壁の中の狼』がアンヘイルダールを襲ったのも一ヶ月前。
 しかもこの夫婦ときたら、半年の間にあちこちの村や街を点々としていたのだ。
 だいたいひと月経つか経たないかのうちに次の村へ移住して、アンヘイルダールで六回目。
 単に引っ越しが好きなのか。あるいは、そうせざるを得ない状況に陥っているのか。
 ひと月に一度、来るもの……もしくは、起きる事のせいで。
「あーっ、くそ、焦れってぇ! ここまで出かかってんのになぁ!」
 頭をかきむしった所で、一度記憶の底に沈んだ答えはなかなか浮かんではくれない。
 気掛かりなことがもう一つあった。
『壁の中の狼』もまた、いくつもの村や街を点々としていた。
 エルルタンタに始まり、ユーリモレ、オレインベギ、メンディリラ、そしてサガルロンドにアンヘイルダール。
 メイガン夫妻の転居先と、狼の出現場所は……ことごとく一致していたのだ。

次へ→【シナリオ3:敵は人狼屍鬼】

【サンプル1:再会】

小説十海
 日に日に空気が冷えて行く。風が乾くほど空の藍は澄み渡り、日の入りは早く、日の出は遅く。
 赤毛の鍛冶屋、”蹄鉄打ちの”グレンがアンヘイルダールの村を訪れたのは、天藍月も半ばにさし掛かろうと言う頃だった。
 きっかけは一通の手紙。乗り合い馬車の御者に託され、村の鍛冶屋から頼まれた。
 朝な夕なの厳しい冷え込みがこたえたか、夏に傷めた膝が滅法うずく。しばらくの間、外回りを……馬の蹄鉄打ちや、細々とした道具の修理、鍋の鋳掛け等。そう言った「客の家に」出向く類いの仕事を手伝ってくれないか、と。
 断る理由はなかった。
 相棒の薬草屋、ハーツことハーティアルも、ちょうどアンヘイルダールに行商に出る頃合いだった。
 そんな訳で腐れ縁の野郎が二人、はるばるサガルロンドの街から乗り合い馬車に揺られ、半日がかりで大荒野を横切ってきたのだった。

 久々に訪れた村は、しかし重苦しい空気に包まれていた。
 鍛冶屋に入る注文も、物騒な代物ばかり。
 窓に取り付ける鉄格子、塀の上に取り付ける槍状のトゲ。ぶっとい鎖にごっつい錠前、ドアを塞ぐと言うより、もはや殴るに適したつっかえ棒、柱に巻き付ける茨を模した針金等々。
 鎌や斧、小刀と言った普段遣いの道具さえ妙に鋭く研ぎ上げられて、見てるだけで指先がすぱっと切れそうだ。
「いったい全体どうしたってんだい。やけに物々しいじゃねえか」
 尋ねても村の鍛冶屋はのらりくらりと話をそらすばかり。

 ようやく答えてくれたのは、昼食を振る舞われた『大鍋亭』の席上での事だった。
「狼だよ」
「っはあ、狼? 壁の中に?」
 グレンとハーツは顔を見合わせ、そろって同じ言葉を口にした。
「ありえねえ!」
「あるんだ」
「ったって、お前さん、この村はぐるっと壁に囲まれてるんだぜ?」
「だよ、な。夜は門が閉ざされるし。あと考えられるのは……川か」
「幅10ルット(30m)もある夜の川を、狼が泳いで渡って来たってか?」
「わからん。とにかく出るんだよ。壁の、中に!」
 もはや狼、と言う言葉を口にするのも恐ろしいらしい。
 それどころか他の客まで声を潜め、ジョッキの影からこそこそとこっちを伺っている。
「人も家畜も見境なしだ。番犬を置けば犬もろとも、番人を置けば番人もろとも、もりもり食っちまう」
「もりもりって、そんな……」
「飯時にする話じゃねえよな」
「アンヘイルの角笛にかけて、あれは、獣の形をした、災厄だ!」
「やれやれ」
 ハーツは肩をすくめた。
「何だって、そんな話をここでするかね?」
「だってお前、家で話したらカカアやガキどもが怖がるじゃねえか」
「ここでも充分、怖がってる子がいるようなんだが……」
 ハーツの視線の先で、煮込み料理をたっぷり盛りつけた皿を手に、ココペリの娘ががたがた震えていた。スミレ色の瞳に、いっぱい涙をためて。
「ああっ、ごめん、ごめんな、ネイネイっ」

 家では口にできない、だが居酒屋では話せる。つまり、『壁の中の狼』の存在は村中で認識されていると言うことだ。
 口にした瞬間、居合わせ客は皆、耳をそばだてていた。
 おおっぴらにできない。だが、共通の悩み。いつ、誰にふりかかるか分からない。

        ※

 その日の午後、グレンはさっそく外回りに繰り出した。
 頼まれたのは、村外れの家と家畜小屋の窓に、頑丈な鉄格子を取り付ける事。それも、二軒続けて。
 加えて二軒目の家ではさらに、家を囲う板塀の上に、ぐるりと刺つきの針金を張り巡らせる作業が待っていた。
 骨の折れる仕事だった。取り付けるべき部品を全部、鍛冶屋から背負って行ったのだから尚更だ。
 秋とは言え、いつになく陽射しが強く、風も無く。作業を終えた頃には、汗でぐっしょりシャツが湿っていた。せめて顔と手だけでも流そうと、家の裏手の斜面を降りて、川べりの洗い場に行くと……

 女が足を洗っていた。

 スカートの裾を持ち上げて、靴を脱いだ足を川面に浸し、手で水をすくっては、かかとから足首にぱしゃぱしゃかける。
 どうってことのない、ごく当たり前の仕草なのに目が吸い寄せられた。
 気配を感じたのか、女が振り返る。
「あ」
 波打つ黒髪、くっきりとした二重の瞼と、ふさふさと豊かなまつげに縁取られた銀灰色の瞳、ぽってりとした肉感的な唇。

『ねーちゃん、オレのヨメになってくれ』
『まあうれしい』
『わらってるな? オレ、本気だぞ?』
『はいはい。あなたが大人になったら、ね……』

 遠い日の記憶。忘れ得ぬ少女の面影が、目の前の女と重なり、一つになる。
「メイガン?」
 女は怪訝そうな顔でこっちを見ている。
 険しい視線が頭から顔、肩、腰へと降りて行き、ベルトに吊るした剣に止まった。
 その瞬間、固く引き結ばれていた唇から。しかめられていた眉から強張りが抜け……ほほ笑んだ。
 大輪の薔薇が開くように、あでやかに。
「ディー!」
「メイガン! メイガン!」
 夢中になって駆け寄り、どちらからともなく手を伸ばして抱き合った。
 子供の頃の呼び名が、これほど嬉しく聞こえた事はなかった。
「すっかり大きくなちゃって! その剣、いつも背中に背負っていたのに」
 彼女の手が、すっと鞘の上から剣をなぞる。
「今は腰から吊るしてる」
 こくっと唾を飲み込んだ。からっからに乾いて引きつる咽をどうにかしたくて。
「君は……君は、その、きれいになった」
「君? やあね、水臭い。あなた私のこと『ねーちゃん』って呼んでたはずよ。そうでしょ?」
 確かにその通り。
 だが今更呼べるか? もともと三つしか歳は離れていなかった。増して今は、背丈も肩幅も、おそらくは目方も、自分の方が上なのだ。
「いつからアンヘイルダールに?」
「先月からよ。引っ越してきたの。夫と一緒にね」
「結婚………したのか」
「ええ。去年の春にね」

 ああ。

 そりゃあそうだ。最後に会ってから、6年、いや7年経っているのだから。
 キンポウゲの咲く野っ原で交わした約束を、律義に守ってるはずがない。自分も。彼女も。
「おめでとう」
「ありがとう」
 他に何が言えるだろう。
 彼女を置いて行ったのは他ならぬ自分。13の歳に家を出て、以来一度も故郷(くに)には帰っていない。
 帰ったところで、果たして家族が今もそこに暮らしているかどうか。
 牧場から牧場へ、町から町へ。渡り歩く雇われ羊飼いの生活じゃ、一つの土地にどっしり腰を据えるなど夢のまた夢。
「あなたに会えたのはきっと、水の聖霊{ウル}のお導きね」
 メイガンが笑う。きらめく日の光が川面に踊り、波打つ黒髪にゆらゆらと、光の波を映し出す。
「嬉しいわ」
「うん。俺も」
 君にまた会えて、嬉しい。
 そして……寂しい。
次へ→【シナリオ2:壁の中の狼】

#2「奥津城より」

小説十海
  
 友だちが病気になった。高校は別だけど、小学校から中学校までずっと一緒だった女の子。
 学校帰りに倒れているのが見つかって、それきり目を覚まさない。

 放課後、お見舞いに行った。彼女の好きな白い百合の花を持って。
 花屋に寄っていたら少し遅くなったので、近道をすることにした。

 竹やぶの脇の細い道を通り、崩れ落ちた家の横を抜ける………家と言っても、ずっと昔に火事で焼け落ちて、今は黒く煤けた柱と平べったい石がいくつか、残っているだけなんだけど。
 夏の盛りでも、ここには草一本生えない。芽吹いたそばから黒く干涸びねじくれて、後に残るのは燃えかすみたいな草の亡きがら。
 犬も、猫も、スズメもカラスも。虫さえもここには入ろうとしない。まるで目に見えない線が引かれてるみたいに。

 足早に通り過ぎようとしたその時。

 カラ……カラ……カサリ。

 空気がゆらいだ。真っ黒に干涸びた枯れ草が互いにこすれ合い、かすかな音を立てる。

 カラ、カラ、カサリ。

「あ………」

 誰かいる。
 白いワンピースの裾と、肩まで伸びた髪の毛を風になびかせて……彼女だ。

「すずちゃん」

 名前を呼ぶと、すうっとこっちを振り返り、ぼんやりと見つめてきた。まばたき一つせずに。

「こうちゃん?」
「うん……病気になったって言うから、心配した」

 すずちゃんは俺の抱えた花束を見てふわっとほほ笑んだ。

「きれい……それ、あたしに?」
「うん。お見舞い」
「うれしいな……」

 雲の中を歩くような足どりで近づいて来る。

「すずちゃん、君、靴はいてない!」
「うん、わすれちゃった」

 よく見ると着ているのもワンピースじゃなくて寝間着……ネグリジェだった。いったいどうしたんだ、すずちゃん。

「こんなとこで、何やってるの?」
「……よばれたの」
「呼ばれた?」

 こくっとうなずいた。

「知ってる? ここで昔、火事があったの」
「うん……聞いたことある」
「みんな燃えて……」

 ぶわっと視界が赤く染まる。夕陽よりもなお赤く。頬がじりじりと焼ける。熱い!
 燃えている。
 辺り一面、火の海だ!

「すずちゃん?」

 いない。どこに行った?
 
「うわ……ああ」

 すぐそばまで炎が迫っている。
 髪の毛の焦げるにおいを嗅いだ。

 早く逃げなければ!
 走っても、走っても炎が追って来る。それどころか近づいて来る。

 ……違う。
 燃えているのは、俺だ!

 手が燃えている。足が、髪が、体が。ごうごうと炎をあげて燃えている。
 熱い。熱い。熱い!

「うわぁっ」

 口の中が焼けただれる。目の前で手が炎に包まれ、皮膚が焼け落ち、肉が爛れる。血は流れない。じゅわじゅわと泡立ち、沸騰して蒸発してしまうから。

『みんな燃えて……死んだの』
             『死んだの』
『死』
                『死』
『死』
          『死』

 赤い炎がくねって伸びて、手に、足に絡み付く……動けない。はっきりと悪意を感じた。憎しみを感じた。

『 あ な た も こ こ で 死 ぬ の 』

(いやだ!)

 叫ぶ喉の奥に熱気が流れ込み、はらわたが焼ける。
 このまま焼けてしまうのか、俺は。骨まで残さず燃え尽きて、先祖代々の奥津城に眠ることさえ叶わずに。
 いやだ、いやだ、いやだ!
 恐ろしい。恐ろしい!

 炎が笑う。
 声の無い声で。

 胸が、喉が、顔が、皮膚も肉も一塊にごぞりと崩れ落ちる。
 ああ、それでも意識が消えない。
 ぱちん、と片方の眼球が弾けてどろりと溶け落ちた。

 炎が笑う。
 幼い子どもみたいに甲高い、調子の外れた無邪気な声で。
 笑いさざめきひらひらと、空ろになった目の玉の、くぼみの中で踊っている。

 左手はもう、ほとんど筋一本で繋がってるだけだ。
 鼻が崩れ、耳が落ちる。
 それでもまだ倒れない。立ったままぼうぼうと、松明みたいに燃えている。

 俺はいつまで燃えてるんだろう……。

「惑わされるな!」

 シャリン!

 鈴が鳴る。
 月の光が薄く結晶し、しん、と冷えた夜の空気の真ん中で触れあうような澄んだ音。

 さらり。

 緑の枝が揺れた。
 葉っぱの先から水晶みたいな雫が散って、ざあっと降り注ぐ。
 優しい雨が染み通る。

「………み…………」

 だれかがよんでる。

「しっかりしろ……お前は燃えてなんかいない………」

 本当だ。
 手も、足も、顔も髪も胴体も、燃えてなんかいない。

「………ざ……み……」

 りん、とした呼び声。とても良く知っているだれかの声が俺の名前を呼ぶ。
 その瞬間、風が走った。俺を中心にうずを巻き、迫る炎を押し戻す。
 
 そうだ……。
 風よ、走れ。もっと早く、もっと強く。こんな、憎しみに満ちた炎なんか………

「消してやる!」

 意志が力となり、形を成す。

「行けぇっ」

 降り注ぐ雨が風の螺旋に乗って広がり、紅蓮の炎を鎮めた。
 
「風見!」
「はっ」

 目蓋を上げる。
 焼け跡にいた。

「大丈夫か?」

 情けないことに俺は地面に仰向けにのびていて、小柄な女性がそばにいた。
 ハーフアップにした長い髪。赤い縁の眼鏡の奥から、黒目の大きなくりっとした瞳がのぞきこんでいる。

「え? 羊子先生? 何で、ここに?」
「お前のことがちょいと気になってな。後、ついてきた」
「………先生、それ、ちょっとストーカーっぽい……」
「おばか」

 こん、と握った拳でおでこを軽く小突かれる。

「一人で突っ走るなっつっただろ?」
「すみません」
「そら、これ」

 さし出された百合の花束を受けとった。花びらも、茎も、葉も、しゃんとしてる……よかった。

「あ……そうだ、すずちゃん!」

 起きあがり、慌てて見回すが……いない。どこに? 

「……佐藤さんなら入院中だぞ。今朝、お前が言ってたじゃないか」
「あれ……そうでしたっけ」
「しっかりしろ」

 ぱふぱふと背中を叩かれた。
 あんな事があった直後なのに、落ち着いてるなあ……見かけは俺よりちっちゃいのに、やっぱり大人なんだ。
 羊子先生はとことこと歩いて行くと、煤けた石を見下ろし、小さくうなずいた。
 さっきまですずちゃんが立っていた場所だ。

「どうしたんです?」
「うん……ちょっと……ね……」

 先生は肩にかけたバッグから手帳を取り出し、ぱらりと開いて中に挟んであったものを手にとった。
 白い紙……和紙かな。何となく、人の形に切り抜かれているように見える。
 羊子先生は人型の紙で、ちょい、ちょい、と石を撫でるとまた元のように手帳に挟み込んだ。

「さてと……ここの近くに、お墓とか、ないか?」

 何で知ってるんだろう。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 竹やぶの手前で道を右に曲がり、まっすぐ進むと墓地がある。畑と住宅地の間にぽっかりと思い出したように墓石の並ぶ空間が広がっているのだ。
 羊子先生はしばらくちょこまかと墓地の中を歩き回っていたが、やがて一つのお墓の前で立ち止まった。

 四角柱の形の墓石。これは、まあ普通だ。けれど先端がピラミッドみたいに尖っているのは珍しい。
 墓石の前に、線香立てじゃなくて小さな棚があるのも変わってる。

「変わった形ですよね、これ」
「神道式の墓だよ。奥津城(おくつき)って言うんだ……そら」
「ほんとだ」

 墓石には確かに『佐藤家之奥津城』と刻まれていた。

「佐藤さんが倒れてたのって、もしかしてここじゃない?」
「……そうです」

 墓石の台座の部分にわずかに開いたすき間を指さす。

「そこをのぞきこむようにしてうずくまってたって」
「だろうね」
「何なんです、それ」
「ああ、ここは、床下収納庫みたく開くようになっていてね」
「……収納庫って……何、しまうんですか」
「お骨」

 そうだよ……な。お墓なんだし。

「さて、と」

 羊子先生は手帳に挟んであった人型の紙を取り出すと、墓石のすき間に押し込み、とん、と軽く押した。
 すう………すとん。
 まるで吸い込まれるみたいに落ちて行った。それがそこにあったことすら、夢だったみたいにあっけなく。

「……帰りたかったんだね……」
「でも、こんなに近くにあったのに、何で?」
「縛られてたんだよ。あの場所でずっと」
「あ」

 手足に絡み付いた炎を思い出す。

「あいつか……」
「そう言うこと。さてと、病院に行こうか? たぶん、彼女も目を覚ましてるよ」
「はい……あ、ちょっと待って」

 花束から一輪、白い百合を取り出し、墓前に手向けた。

「OK。行きましょうか」
「ん……」

 羊子先生は満足げにうなずくと目元をなごませ、笑いかけてきた。

「優しいな、風見」
「何も無いのも寂しいし、幼馴染の家のお墓ですから。」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 病院に行くと、佐藤さんはすっかり元気になっていて……
 ただ、「すっごくのどが乾くの」と言って水をごくごく飲んでいた。

 それは悪夢のかすかな名残り。
 時の流れとともに消えてゆくだろう。

 そう、祈りたい。


(奥津城より/了)

inspired from "The Tomb" (by H.P.Lovecraft)
 
次へ→#3「熱い閉ざされた箱」

NHD小説

小説十海
 
  • #1と#2、#8は短編、#3と#7は中編、#4は短いエピソードの連作。
  • #5、#6は長編です。

#1「ひとすじの光」

小説十海
 
 青い森。月光の森。
 熱のない金色の光、彩(いろ)のない銀の影。

『君は一緒に来てはいけない。残って後に続く者を導け』
『いいね……羊子』

 ちょっぴり皺の寄った、骨組みのがっしりした手が頬を包む。間近に見上げた面影に胸が高鳴った。
 唇が……温かい。
 瞳を閉じた。
 
 背に回された腕が優しく髪を撫でる。
 ずるい人。とっくに気づいてたんだね? 私の想いに。ちゃんと、見ていてくれたんだね……女として。隠していたんだ。すっかりだまされてた。
 あの時も。あの時も。
 嬉しい。悔しい。

 やっぱり嬉しい。

『行きなさい。さあ』

 優しい腕が放される。ついさっきまで私を包んでくれた胸が。肩が。唇が、遠ざかる。
 残されたのはただ一つ、手の中にずしりと、小さな中折れ式の拳銃。

『振り向いてはいけないよ。いいね、羊子』

 うなずいて、一歩踏み出した。

『……いい子だ』

 走る。
 走る。
 息を乱し、声を殺して前へ、前へ、ひたすら前へと地を蹴って。吹き付ける風に飛ばされて、あの人に抱かれたあたたかさも、重ねた唇のぬくもりすら散り散りになって消えて行く。
 冷たい炎に灼かれて灰になって……

 朽ち果てた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 張り巡らされた罠と追いすがる敵をどうやってかいくぐったのか。ひたすら撃った。走った。彼との約束を果たす、ただそれだけを拠り所に。
 私に戦う能力はない。手の中に握り閉めた小さな拳銃だけが頼り。見通す力と癒す力を駆使して生き延びた。

 もう一度会いたい人を背後に残して。

 一蹴りごとにあの人から遠ざかる。自分の意志で遠ざかる。涙は出ない……出さない。出すものか。

 地面に落ちた影が不意に盛り上がり、正面に、敵が立ちはだかる。ぞろりと身の丈を遥かに越えた黒い刃を振りかざして。
 撃つ間もなく斬りつけられた一撃を、かろうじて銃のグリップで受ける。衝撃に腕の骨が痺れてきしみ、あっと言う間に押し切られた。
 
 服が切り裂かれ、皮膚が、肉が裂ける。吹き出す真っ赤な血を見ながら仰向けに倒れた。

 家族の顔は浮かばなかった。父も、母も、叔母も。
 だれよりも近しい子。ずっと守り、慈しんできたはずの従弟のサクヤさえ……酷い奴だ、私は。
 ちっちゃいころからいつも私の後をついてきた。癒す力が初めて目覚めたのも、あの子の怪我を治そうとしたときだった。
 
 あの子には今、心を許せる友達はいないのに。少なくとも人間の中には。

 黒い剣を構えた男(そう、多分男だ)がのしかかってくる。下卑た嘲りの笑いを浮かべた口元から、生臭い息がふきつけられる。

『さあて、どこから切り刻んであげようかな、お嬢ちゃん』

 切っ先が胸に押し当てられる。死を覚悟したが、鋭い刃が裂いたのは身につけた衣服だけだった。
 無造作にかきわけられ、素肌が風さらされる。まとわりつくねっとりとした視線に怖気がたった。

『きれいだねえ……まだだれの手も触れていないんだろう。においでわかる。いいねえ、たっぷり時間をかけて刻んであげよう』

 舌なめずりをしながらのしかかってくる。そうだ、もっと近づいて来い。
 こわばる指先に意識を集中する。

『その体から全ての血が流れ尽くすまで……愛してあげるよ』

 無造作に胸をつかまれた。その瞬間、銃口を押しつけ引き金を引いた。
 反動で男の体がのけぞり、吹き飛び、倒れた。

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「当たりに来てくれて……ありが……と……」

 くっと口の端がつり上がる。だが、そこまでだった。
 肌を刺す鋭い草の刃の間に横たわったまま、ぼんやりと知覚した。一つ心臓が脈打つごとに体内の温もりが流れ出し、冷たい地面に吸い取られて行くのを。
 このまま永遠の眠りに落ちればあの人にまた会えるのかな。叱られるかな。ああ、でもできることなら生きてもう一度……。

 声が聞きたい。
 顔が見たい。
 少しゆっくりと間延びした低い声で呼んで欲しい……『羊子』って。

 空しく願いながら灰色の霧に飲み込まれた。

『羊子くん!』

 意識を失う刹那、聞き覚えのある声で呼ばれたような気がした。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 目を開けた瞬間、思った。

 あ、起きちゃった。
 もう、目を覚ますことなんかないって覚悟してたのに。

 広い、静かな畳の部屋に寝かされていた。清潔な寝間着を着せられ、怪我は手当されていた。高い天井、太い柱。
 自分の家に似ている、でも違う。

 ここは、どこだろう?

 右の手のひらがこわばっている。拳銃をにぎりしめた形のまま、固まってしまったみたい。起き上がろうとすると、体の節々が悲鳴を上げた。
 胸部を斜めに走る衝撃に思い出す。
 そうだ、私、斬られたんだ。

「う……」
「じっとしていなさい」
「あ……風見先生?」
「もう大丈夫だ、羊子くん。結城神社には知らせておいた。安心していい。少し、眠りなさい」
「は……い………」

 あの人がどうなったのかは、聞けなかった。
 聞く必要もなかった。

 とろとろと眠り、また覚める。焼け付くようにのどが乾いていた。水が欲しかった。よろめきながら半身を布団の上に起こす。枕元に水差しと湯のみが置かれている。
 腕を伸ばそうとして、右手の動かなかった訳を知った。包帯でぐるぐる巻かれてる……さらに左手にはでかい絆創膏。こまったな。これじゃ飲めない。

 ちょっと眠って回復もしたし、手だけでも治しておこうか。
 意識を集中するが……何も起きない。
 完全な空振り。今まで普通にあったものが、ない。根元からごっそりえぐりとられたように消えてしまっている。

(そんな、まさか?)

 単なる失敗だ。こう言うこともあるよ、落ち着いて、もう一度……あ、そうだ、別に自分で飲む必要もないよね。式ちゃん呼ぼう、式ちゃん。
 首にかけた守りの鈴に手を触れて、りん、と鳴らす。

「出ておいで」



 りん。



「出て………おいで………」


 りん。
 りん。
 りん。
 りん。

「出てきて……お願い…………っっ」

 りんっ!

 むしりとって叩き付けた。
 消えてしまった。何もかも無くしてしまった!

「あ……あ……」

 来てはいけないとあの人は言った。残って後に続く者を導けと。

「う……ぐ…………………………」

 それすらかなわない。

「あぁっ」

 共に散ることが叶わないのなら、せめてあの人に託された願いを果たしたかった。それだけを支えに生き延びたのに。
 これじゃ、何もできないよ……何も……。

(ナニモナイ)
(ナニモ残ラナカッタ
(全テ消エテシマッタ)

 おしまい。

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 哭いた。
 溶けたはらわたを喉の底から絞り出して、身をよじり、吠えた。意識の片隅で今、同じ苦しみをサクヤにも伝えてしまうのだろうかと憂いながら。

 感じたのだ。力を失っても、何故か……そのつながりだけは絶たれてはいないと。
 喉が枯れる。泣くのって、けっこう体力使うんだな………もう声すら出ない。悲しみも痛みもちっとも減らない、なのにうずくまって震えるのが精一杯だ。
 その分、じりじりと内側が灼けて行く。冷たい炎に灼かれて行く。ぎりっと歯を食いしばる。口の端にかすかに鉄さびの味がした。

 ちりん。

 かすかに鈴の音色を聞いた。

「……え?」

 顔を上げると、小さな男の子がそこにいた。小学生ぐらいだろうか? 目元の涼やかな、幼いながらも凛とした男の子。風見先生によく似てる。
 お孫さんが一緒に住んでるって前に聞いたことがあった。
 この子が?

「おねえさん、これ」

 手のひらには、さっき自分が投げ捨てたはずの鈴が握られていた。

「だいじなものなんだよね。はい……」

 少年はとことこと歩み寄ると鈴を手のひらに載せてくれた。

「あ……」

 ありがとう、って言いたかった。けれど声が枯れきってて音にならない。少年はちょこんと首をかしげると水差しの水を湯のみに注ぎ、両手で捧げもった。
 
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 illustrated by Kasuri

「おねえさん、手、けがしてるから……どうぞ」
「うん……」

 目をとじて口をつけた。
 水が、流れて行く。しゃがれた喉を通り抜け、燃え尽きた心臓を潤して、私の中に、染み通る。ちりっと口の端の傷に染みる、その痛みすら生きている印なのだと思うと愛おしい。

「おいしい?」
「うん、おいしい………」

 それは、何の変哲もないただの水。けれど真っ黒に塗りつぶされて、乾涸びて、これっきり終わりだと思った心に一筋の光をくれた。

「ありがとう」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 やがて時は流れて………。
 結城羊子は教師になった。生まれた町から私鉄の駅二つ分離れた高校で歴史を教えている。

『君は一緒に来てはいけない。残って後に続く者を導け』

 あの人と交わした約束を守って。
 力は失われたがタロットカードを使った鍛錬は未だに続けている。カードを使うとぼんやりと波動を読み取ることはできるのだ。
 全てが失われた訳じゃない。教え子たちからはこっそり『魔女先生』なぞと呼ばれているらしい。

(魔女、かぁ……)

 そう言や昔、高校の同級生にそんな風に呼ばれてたなあ。あいつ今、どうしてるんだろう?

 今日は入学式。教職についてから三年目で初めてクラス担任を受け持つことになった。
 ほんの少し緊張しながら教室に入る。

 うわ……やっぱりみんな、背が高い。
 ちょこまかと歩いて教壇に立つが、だれも気づいてはくれない。身長154cm、童顔でぺったんとした体型の彼女は教師として認識されないらしい。『あー、だれか女子が前に立ってるか?』と思われるのがせいぜいか。

 OK、想定内。よくあることだ。

 深く息を吸い、ぱしぃん、と両手を打ち鳴らす。
 これでも神社の娘だ、柏手は打ち慣れている。年季の入った鋭い音に、しん、と教室が静まり返った。視線が一斉に向けられるその瞬間をつかまえる。

「はい、みんな席について。予鈴はとっくに鳴ったぞ?」

 ざわざわと席に座る生徒の一人に目が吸い寄せられた。ぴしりと伸びた背筋、涼しげな目鼻立ち、どこか若様然とした凛とした風貌。

(まさか……あの子は……)

 歳月を経てあの時の小さな男の子は今はもう自分より背が高い。こっちを見て、にこっとほほ笑んだ。その笑顔はあの時と変わらない。

(……覚えてないんだろうなあ)

 にまっとほほ笑み返し、壇上から教室を見回した。

「諸君、入学おめでとう。私は結城羊子、今日からこのクラスの担任だ。以後、よろしく……それじゃ自己紹介してもらおうか。まずはそこの君から」
「はい。風見光一です」

 伝説【レジェンド】を識る者と深き路【ディープ・ルート】を辿る者。再び巡り会ったこの時から、新たな夢が始まる。


(ひとすじの光/了)
  • この師弟コンビのこの後の活躍は…こちらをご参照ください。
  • ORIDEさん主催のTRPGリプレイのページに移動します。
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