ようこそゲストさん

羊さんたちの遊卓

【サンプル2:思い出は甘く真実は苦く】


「待ってたわ」
 次の日、彼女の家に呼ばれた。もちろん、仕事だ。昨日、別れ際に頼まれたのだ。修理して欲しい物があるから、と。
 家に入ると、妙に落ち着かなくて、きょろきょろしてしまう。引っ越してきたばかりだからだろうか。妙に物が少なく、がらんとしている。ひと月も経っていれば、もっと物が増えていそうなものだが。
 だが、それ以上に、気になることがあった。
「どうしたの、ディー?」
「あ、いや、その、旦那さんにも挨拶しといた方がいいかなーっとか、思ったもんだから」
「夫は出かけてるの」
「あ……そう」
 そうか。留守なのか。何意識してるんだ、みっともない。
「腕のいい毛織物の職人なのよ。エルルタンタの生まれなの」
「ああ。エルルタンタの毛織りの技は、天下一品だものな!」
 壁にかかったタペストリーに手を触れる。それは、吹き込むすきま風を防ぐのみならず、簡素な部屋に鮮やかな彩りを添えていた。
 みっしりと織られた羊毛織り。地色は穏やかな砂色で縁は葡萄色。
 端から中央に向かって螺旋状に、実った麦を思わせる黄色の模様が織り込まれていた。所々に、リンゴのような赤が挿し色されているのが目を引く。見た目より軽く、しかもしなやかだ。これなら、壁から外して羽織ることもできるだろう。
「これ、旦那さんが織ったのか?」
「ええ、そうよ」
「すごいな! これだけの腕がありゃあ、どこに行っても働き口には困らないだろ?」
「……お願いしたいのは、この鍋の修理なの。ヒビが入ってしまって」
 渡されたのは、小さな手鍋。この程度の修理なら、造作ない。
「まかせとけ! 新品同様にしてみせるぜ!」
 いい所を見せたくてつい、大口を叩いてしまった。

「庭、借りるよ」
「お願いね」
 裏庭に炉を組んで、仕事を始めた。火を起こし、ふいごで吹いて、鋳鉄の欠片を溶かす。
 その間、メイガンはずっと側で見ていた。銀灰色の瞳で飽きもせずに、じっと。
 ……落ち着かない。
「この程度なら、店に持って来りゃよかったのに。外回りは、割り増し料金になるんだぜ?」
「あなたに会いたかったのよ」
 どきりとした。
(しっかりしろ。あの時の約束なんざ、彼女はとっくに忘れてる。仮に覚えていたとしても、何の意味がある? もう、他人の奥さんなんだから!)
 必死になって手を動かした。
 溶かした鋳鉄を流しこんでヒビを塞ぎ、台に乗せて小さめのハンマーで叩く。カチコチカチコチ、ひたすら叩いて、叩いて、叩いて……。
「……やべっ」
 叩き過ぎて、鍋が凹んだ。ついでに気持ちも。すかさずひっくり返して、コツコツ叩く。
(信じらんねえ、あー、信じらんねえ! こんな、初歩的な失敗やらかすなんて!)
 どうにか取り繕ったが、すっかり前と同じとは行かない。どうしても跡が残ってしまう。
 ああ、もう。いっそ野ネズミくらいになって、そこらの穴にでも潜り込みたい気分だ。これ以上しくじるな。己に言い聞かせつつ、慎重に鍋を持ち上げ、水に浸けた。
 じゅわーっと派手に蒸気が上がり、顔をなでる。
「できたの?」
「ああ。後はゆっくり冷ませばいい」
「すごい、きれいに直ってる!」
 ……一ヶ所凹んだけどな。
 言おうか言うまいか。迷っていると、いきなりひょいと前髪をかきあげられた。
「なっ」
 すぐそばに、彼女の顔があった。
「真っ赤よ、ディー?」
「あ……その……蒸気、浴びたし。火、使う仕事だから」
 しとろもどになって、目をそらす。
 柔らかな感触が額に触れる。思わず体がこわばった。ハンカチ越しに触れていたのは、彼女の手だった。指だった。
「な、何してっ」
「じっとしてて。すごい汗」
「あ……うん」
 ハンカチが額をなぞる。そのまま、こめかみから耳の後ろを通り抜け、頬へと降りて行く。
「くすぐったいよ」
「だめ、動いちゃ」
 たしなめるように、銀灰色の瞳が細められる。
「なつかしいわね。子供の頃、よくこうやって、拭いてあげたっけ」
「そうだな」
「あなたってば、しょっちゅう転んで、あちこちすりむいて。泥だらけになってもけろっとして走り回ってた……」
 そうだ、何もうろたえる事はない。幼なじみの『ねーちゃん』が、やんちゃ坊主の世話をしてるだけ。メイガンの中では、俺はいつまでたっても、泥だらけになって走り回ってた子供のまんまなんだ。何もうろたえることはない。何も。
「ねえ、ディー」
 彼女の手が、首筋に触れた。ハンカチ越しではなく、直に。
「覚えてる?」
「何を?」
 桜桃みたいに赤い、ぽってりした唇がすぼめられる。合間に閃く真珠の歯に。しなやかな舌に目が釘付けになる。
「……わかってるくせに」
「あ……その……」

 答えようとした刹那。荒々しい足音が割って入った。
「メイガン! メイガン!」
 弾かれるように彼女は立ち上り、裏口から家の中へと駆け込んだ。
「エイベル。どうしたの? 仕事は?」
「辞めてきた。もうあんな奴の下で働くのは、まっぴらだ。金輪際! 二度と!」
「あなた……お願いだから、落ち着いて」
「これが落ち着いていられるか! ちくしょう、どいつも、こいつも、俺を馬鹿にしやがって!」
「あ、やめてっ何をするのっ」
「ちょっとばかり長くここに住んでるからって、威張り腐りやがって。自分だって元を正せば同じよそ者じゃないか! 根無し草の流れ者じゃないか!」
「エイベル、やめて、お願い!」
 物の倒れる音がする。明らかに誰かが暴れる気配が伝わってくる。
「メイガン!」
 居ても立ってもいられず、飛び込んだ。
 椅子やテーブルがひっくり返った部屋の中、男がメイガンの手首を掴んでいた。なめらかな肌に指が食い込み、表面がよじれるほど強く。
「やめろ」
「うるさい、若造が!」
「その手を離せ」
 血走った目で睨まれる。だが怖くはなかった。
 拳を握る。かろうじて腕を上げるのはこらえたが、その分力がこもり、腕の筋肉がめきめきと盛り上がる。
「その手を、離せ」
 男は低く咽の奥で唸り、がちがちと歯を鳴らした。まるで犬だ。鎖につながれ、爆発する寸前まで怒りをため込んだ、犬。番犬でもない。増して羊を追う犬でもない。
 血と獲物の臭いに飢えた、凶暴な猟犬がそこに居た。
「エイベル……あなた。おねがい」
 かぼそい声でメイガンが囁く。エイベルは、長々と生臭い息を吐き……ぎこちない動きで、妻を解放した。
「ごめんなさいね、ディー。今日はもう、帰ってちょうだい」
「でも」
「お願い。修理は終わったでしょう?」
 言外に告げていた。もはや自分がこの家にとどまる理由は、ないのだと。
 代金を受けとり、道具をまとめ、すごすごと退散するしかなかった。

(ちくしょう)
(ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!)
 幸せに暮らしていると思ったのに。何なんだ、あの男は! 勝手に仕事をやめて、メイガンに八つ当たりするなんて。
 あんな奴がメイガンの夫なのか。これまでも同じことしてきたんだろうか?
 だとしたら。
(最低だ。最悪だ!)

『覚えてる?』
『……わかってるくせに』

 彼女の声がいつまでも、耳から離れなかった。

     ※

 グレンがメイガン夫婦の家を訪れている間、ハーツは行商の傍ら『壁の中の狼』の情報を集めていた。
 物騒な話が気になったし、このことを思い浮かべるたびに、右胸の印が熱くなるのだ。
 同じ『兆し』がグレンの身にも起きているはずなのだが。
(何だってあいつ、気付かねえんだ? そこまで鈍い奴じゃなかったはずだ。それとも……)
(あえて気付かないふりをしているだけなのか?)
 相棒の『らしくない』行動が気掛かりだが、今はそれ以上にやらねばならない事がある。

 脅える者はいつだって、不安を吐き出す出口を求めている。
 行商で回った先の家々で、同情心に満ちた眼差しで水を向けると、すぐに乗ってきた。
 さらに、船着き場に川船の着く頃合いを見計らって『大鍋亭』に出向き、船の客や船員が、腹ごしらえにやってきた所に話しかけた。
 ゆるっと気の抜けた笑いを浮かべて、適度な人懐っこさと愛想の良さをにじませて。
 ハーツの顔は広い。商売柄、あちこちの村や街へ出向くからだ。
 運良く、この日の船客に顔見知りが何人か交じっていた。おかげで思いの他、聞き込みははかどり、多くの情報を集めることができた。

『壁の中の狼』は、一月前にアンヘイルダールに現われた。
 最初に襲われたのは村外れの家。家畜小屋の窓を破って侵入し、一番大きな牡牛を引き裂き食い殺した。
 翌日、ただちに村のあちこちに罠が仕掛けられた。男たちは寝ずの番に立ち、番犬が放たれた。
 しかし狼は村人たちの努力をあざ笑うかのように、それから五日間に渡って殺戮を続けたのだった。
 鍛冶屋の言葉通り、家畜も番人も番犬も、手当たり次第もろとも食い殺して。
 不思議なことに、何故か六日目になって、ふっつり襲撃は止んだ。
 しかしながら、残忍極まりない狼の恐怖は色濃く残り、村人たちは必死になって備えているのだ。
 ふらりとやって来た災厄。気まぐれで残忍な獣。いつ、また戻ってこないとも限らない。

「一匹だけ、番犬が生き残ったんだけどよ。怪我が酷くて、三日後に死んじまった」
「ほう」
「亡骸はすぐに燃やしたそうだ」
「そこの家のばあさんが言ったんだとさ。『壁の中に出る獣に噛まれて死んだ者の亡骸は、必ず焼かなきゃいけない』ってね。理由を聞いても『そうしなきゃいけない』の一点張りで。しまいにゃ泣くはわめくはで大変だった」
「どこまで信用したもんか、迷っていたら、そら、エルフィンの治療師の先生がいるだろ? あの人が言ったんだよ。『そうした方がいい』って。だから、さ。燃やした」
 賢明な処置だ。焼かれた死体は起き上がらない。何があっても、二度と。

     ※

 これは、ただの偶然だろうか?
 あらゆる情報が一つの方向を指し示している。
 メイガンと夫が引っ越してきたのは一ヶ月前。『壁の中の狼』がアンヘイルダールを襲ったのも一ヶ月前。
 しかもこの夫婦ときたら、半年の間にあちこちの村や街を点々としていたのだ。
 だいたいひと月経つか経たないかのうちに次の村へ移住して、アンヘイルダールで六回目。
 単に引っ越しが好きなのか。あるいは、そうせざるを得ない状況に陥っているのか。
 ひと月に一度、来るもの……もしくは、起きる事のせいで。
「あーっ、くそ、焦れってぇ! ここまで出かかってんのになぁ!」
 頭をかきむしった所で、一度記憶の底に沈んだ答えはなかなか浮かんではくれない。
 気掛かりなことがもう一つあった。
『壁の中の狼』もまた、いくつもの村や街を点々としていた。
 エルルタンタに始まり、ユーリモレ、オレインベギ、メンディリラ、そしてサガルロンドにアンヘイルダール。
 メイガン夫妻の転居先と、狼の出現場所は……ことごとく一致していたのだ。

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