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【3-4】熱い閉ざされた箱

 
 探しているのは今じゃない。
 過去だ。

 まだ手探りなことに変わりはないが、それでも広大な湖に闇雲に釣り糸を投げ込むより、はるかに答えに近い。

「もう一度、あの公園に戻っていただけます?」
「ああ……わかった」

 公園に戻るとヨーコは車から降り、とことこと子ども用の遊具の集まる一角に歩いていった。
 
 大丈夫だろうか。また、倒れたりしないだろうか………やっぱり心配だ。

 ランドールは車を降りることにした。ドアを閉める間ほんの少しだけ、彼女から視線がそれる。
 その瞬間、やわらかな羽ばたきを聞いた。はっとして顔を上げると……信じられない光景が広がっていた。

 ヨーコの手のひらから小鳥が飛び立っている。それも一羽や二羽ではない。
 次から次へと飛び立って、上空で円を描いてから四方八方に散って行く。いったい何羽いるのだろう?

 スズメほどの大きさ、白い腹、青みがかった灰色の頭から茶色がかったグレイへと柔らかなグラデーションを描く背中、そして赤橙色の顔と胸。

 この国では滅多に自然の中で目にすることはない。しかし、母とともに開いた絵本ではそれこそ飽きるほど目にしてきた……。

「ロビン! 信じられん……どこから、こんなにたくさん?」

 最後の一羽を送り出すと、ヨーコはこちらを振り返り、ぱちくりとまばたきをした。

「まさか、今の……見えた?」

 こくん、とうなずく。

「ヨーロッパコマドリが……何故、カリフォルニアに?」

 にまっとヨーコは口角を上げて笑った。まるで絵本の魔女か、仙女、妖精……呼び名はいろいろあるが、とにかく謎めいた魔力を秘めた女そっくりの顔で。

「……バカンス、かな?」

 一見余裕たっぷりの表情でほほ笑みながら、内心ヨーコは秘かに焦っていた。

 うっかりしてた。彼の母親はヨーロッパ出身だった。
 万が一見られてもちょっと変わった鳥がいるなあ、ぐらいに思われる程度だろうと踏んだのだけれど、甘かった。しっかりばれてる。

 そう、少しばかりカンの鋭い人間なら自分の放つ『影』を目にすることは十分に考えられる。だからあまり不自然にならないよう、小鳥を選んだのだが。

「バカンスって……あんなに沢山?」
「団体旅行、かも」
 
 いっそセキセイインコにしとけば良かったか。

(こんな時、風見がいたら一発なんだけどな……)

 無い物ねだりをしてもせんない事。
 今は自分にできる最善を尽くそう。とにもかくにも『目』は放った。あとは目的のものを見つけるまで。

 じりじりと時間が過ぎて行く。1秒がやけに長く感じられる。
 ヨーコはじっと待った。
 もうじき、時間切れだ。幻の小鳥たちが、呼び出された場所に……彼女自身の無意識の奥底に還る瞬間が近づいている。
 既にかなりの気力を消耗していた。この捜索が空振りに終わっても、果たして第二陣を呼び出す余力があるかどうか……。

 わずかな焦りを覚えたその瞬間。
 ちかっと目蓋の奥に求めていた光景が閃いた。

「……あった」

 幻のコマドリの一羽が、探し物を見つけてくれたのだ。

「Mr.ランドール、車を出して。次の行き先が、わかった」
 
  
 ※ ※ ※ ※
 
 
 たどり着いた古い一軒家は、やはり公園からはいくらも離れていなかった。さほど際立った作りではない。縦に細長い構造の木造住宅。窓枠は白く、壁は薄いクリーム色。
 窓には分厚いカーテンが引かれ、扉には『売り家』の文字と不動産屋の連絡先を記した看板がかかっている。
 人の気配は、ない。

「本当に、ここでいいのか?」
「ええ。ここよ」

 門は開いていたが、裏庭に続く木戸は閉まっていた。車を降りるとヨーコはひょい、と手をかけて塀を乗りこえ、裏庭に歩いて行く。

「Missヨーコ!」

 あわててランドールは後を追いかけた。

「Missヨーコ。レディ、君は少し慎みという物を持ちたまえッ!!」
「え?」
「不用意に、あんなダイナミックな動きをして……スカートでなければ、何をしてもいい、と言うものではないのだよ?」
「あ? え? 何?」

 そう言う自分はどうなの。思ったけれど口には出さないことにした。
 あんまりに真面目で誠実そのもののランドールの態度に、ああこれは茶化してはいけない相手なのだと悟ったのだ。
 わずかにスミレ色を含んだ濃いブルーの瞳がじっと見下ろしている。主に自分の上着の裾や胸元のあたりを。

「そのジャケットの下、キャミソール一枚なのだろう? 気をつけた方がいい」

 さすが紡績企業の御曹司、衣類については詳しいようだ。
 かなり際どいことを言ってるような気もするが、下心は微塵も感じられない。もとよりゲイなのだから女性の体に性的な興味を引かれるはずがない。
 純粋に心配してくれているのだ。下手すると自分の上着を脱いで着せかけてきそうな勢いだ。
 素直に目を伏せ、謝罪の言葉を口にすることにした。

「ごめんなさい、これからは気をつけるわ……」
「ああ。そうしてくれ」

 錆びてぼろぼろになった金属の箱が転がっていた。裏庭の、伸び放題の雑草混じりの芝生の上に。
 大きさはやっと子ども一人が身をかがめて入れる程度。箱の一面は狭い格子状になっていた。おそらく、本来は犬小屋として作られたものだろう。
 
 さほど広くはない庭だが、日当りは抜群だった。わずかに西に傾いた午後の陽射しがぎらぎらと照りつけている。
 箱の周りに、強烈な太陽の光をさえぎる物は一切無い。近づいただけで金属の帯びる熱がむわっと立ちのぼり、皮膚を。毛穴をつたって染み込んで来る。

「ここに……彼は入っていたんだ。夏の陽射しが容赦無く照りつける昼に。凍えるような冬の夜に」

 ランドールが眉をしかめて首を横に振る。それは出会ってから初めて目にした、心底不快そうな表情だった。 

「とんでもない話だ」

 お茶の記憶は、ひもじさと渇きの中でおそらくあの子が飲みたいと願ったもの。こんな所に好き好んで入る訳がない。何より鍵は外側についている。

「いったい、誰がそんなマネを」
「さあて……実の親か、あるいは里親か……いずれにせよ、酷い親であることに変わりはない」

 確かなのは、あの憎悪と殺意の対象が自分をここに閉じ込めた相手だと言うこと。
 この箱が放置されていると言うことは、おそらく警察の捜査は行われていない。だれも通報する者はいなかったのだ。事件は巧みにもみ消され、箱の用途は明らかにされぬまま、月日が流れた。

 そして、今に至る。

 ヨーコの口の中に苦いツバがわき起こる。ぎりっと奥歯を噛みしめ、飲み込んだ。

 子どもを虐待するようなクズがどうなろうと知ったことじゃない。けれど、彼が加害者になるのは見過ごせない。
 あの憎悪と殺意は行動にシフトする寸前だった。

 どうする?
 既に公園で一度攻撃されている。向こうは自分の存在に気づいている。
 危険は高い。けれど今やらないと……朝、接触してから既に数時間が経過している。今この瞬間にも、彼は『親』を殺そうとしているかもしれない。
 急がなければ。

(あの子を犯罪者にさせちゃいけない。それ以上に悪いモノに堕ちるのを放っておけない!)

 ヨーコは一瞬で腹をくくった。

「Mr.ランドール。もし私が倒れたら、マックスかレオンに連絡してください。『ヨーコが倒れた』って言えばわかるはずだから」

 息を飲むと彼は一歩、近づいてきた。

「また、倒れるような事をするのか? さっきみたいに」
「万が一の用心にね。慎重なんです」
 
 芝生に膝をついた。

「あ、そうだもう一つ大事なことが……何があっても、決して私に触れちゃだめですよ?」
「君に失礼なマネはしない。誓うよ」

(あー、もー、どこまで紳士なんだろ、この人は!)

「そーゆー意味じゃないんだけどなあ……ま、いっか」

 思わず日本語で呟いていた。幸い、彼には意味が通じなかったらしく、きょとんとして首をかしげている。

 屈み込むとヨーコは手を伸ばし、熱い金属の表面に触れた。意識を開くまでもなかった。
 箱の中に、子どもがうずくまっている。よほど強い思念が焼き付いているのだろう。そのまま彼の意識につながったようだ。
 子どもが顔を上げる。骨の輪郭が透けて見えるほど痩せ細り、鳶色の瞳ばかりがぎょろりと目立つ。
 胸が締めつけられた。

 ぎくしゃくと少年が手を伸ばして来た。
 やはりつながっている。向こうもこっちを見てる!

「そこから……出よう。ね? ほら、こっちにおいで」

 ヨーコは手を伸ばした。
 少年はさらにおずおずと手を伸ばし、すがるように握りしめてきた。

「……おいで」

 ほほ笑みかける。
 すると、少年はわずかに口の端をつり上げ…………………にまあっと笑った。

(やられた?)

 あっと思った時は既に遅かった。がっと口が耳まで裂け、鳶色の瞳がくるりと白目を剥く。か細い腕にはぞろりと棘のような剛毛が生えそろい、爪は鋭く、ナイフさながらに尖り……ヨーコの腕をがっちりと捕まえた。

「くっ……離せっ」

 必死でもがいたが、すさまじい力で引きずり込まれる。鋭い爪が腕に食い込む。皮膚を切り裂き、血が流れた。

(いけない、このままでは取り込まれる!)

 足元をささえる地面の感触が消えた。腹の底を冷たい恐怖が満たす。

(常に奈落の底から自分を付け狙い、隙あらば引きずり込もうと待ち構える影がいる)
(そいつとまっこうから向き合おうと決意したのは十六の時だった。以来、ずっと闘い続けてきた……霧の中で答えを探し、必死になってもがきながら)

 捕まった。
 逃げられない。
 落ちる。
 底知れぬ闇の中に……
 
次へ→【3-5】混在する夢
 

【3-3】甘く香しいお茶の記憶

 
 ランドールは首をかしげながらも目の前にたたずむヨーコを見守った。
 住宅街の中の公園。
 広々とした敷地の中には緑の芝生が敷きつめられ、背の高い木々が日光をさえぎらない程度に適度な間隔で生えている。

 芝生には何組かの家族連れ、あるいは気の合う仲間同士が飲み物や食べ物を片手にゆったりとくつろいでいた。
 折りたたみ式のテーブルや椅子、あるいはレジャーシートを広げ、大きなピクニックバスケットを傍らに置いて。

 肉の焼ける香ばしいにおいがするなと思ったら、バーベキューをしている連中もいた。
 犬を散歩させる人、のんびりとジョギングやウォーキングを楽しむ人。サイクリングコースを時折自転車が走って行く。

 日曜の公園の、ありふれた幸せの風景。いかにもサンフランシスコらしく、Tシャツにジーンズのラフな服装からシフォンのサマードレスまでさまざまな服装の人間が入り交じっている。中には革ジャケットを羽織ったものもいる。
 しかし、さすがに黒のスーツ姿の自分は浮いていた。(これでも仕事用にくらべればだいぶラフに着てはいるのだが)

 彼女に指示されるまま車を走らせ、「あ、ちょっと停めて」と言われて停まったのが20分ほど前のこと。
 すれ違う人々に笑顔で手を振り、挨拶しながらヨーコはさりげなく子ども用の遊具の並ぶ一角へと歩いていった。
 すべり台にジャングルジム、ブランコ、砂場、鉄道、シーソー、バネ仕掛けでゆらゆら動くプラスチックのロッキンホース。
 一通り見て歩くと、ヨーコはブランコのひとつに腰をかけ、目を閉じた。

 その姿勢のまま、動かない。子ども用の遊具なだけに小ぶりに作られているのだが、彼女はさして窮屈な風もなくすっぽり収まっている。
 ブランコをこぐのでもなく、いかにもベンチ代わりにひと休みしているような格好のヨーコに注意を払う者は誰もいない。

 車で待てと言われたのだが、何故だか気になってついてきてしまった。今もこうして、少し離れたベンチに腰かけて見守っている。

 いったい、彼女は何をしているのだろう?
 こんなに陽射しの強い所で、帽子も被らずに……。
 少し考えるとランドールはブランコのそばに歩み寄った。自らの体が落す影がヨーコに重なるようにして。
 これで、少しは違うだろう。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 どうしたものか。
 公園に着くまでの間、ヨーコは迷っていた。

 原則としてこの手の事件を追いかける時は必ず二人以上で行動する。常ならぬ物を見通すために集中する間、自分は外敵に対してまったく無防備になる。その間、誰かにガードしてもらう必要があるからだ。
 しかし常日頃、背後を預ける教え子の風見光一ははるか日本の空の下。従弟のサクヤはサンフランシスコ市内にいるが、今はまだ勤務中だ。
 
 何よりもまず、事件が起きているかどうかすら定かではない。
 自分の目にしたヴィジョンは、見ようと思って狙いをつけた訳ではない。まったくの偶然から流れ込んできたものだ。

 それがそののまま過去の情景なのか。それとも何か別のことを象徴しているのか、今の状態ではまったく区別がつかない。
 車の中で感じた既視感を頼りにこの公園まで来たのはいいものの、その先はまだ霧の中だ。
 遊具の間を歩き回るうち、ブランコの一つに自然と引き寄せられた。
 潜在的に読み取ったヴィジョンの断片が反応しているのか、あるいは単なる偶然か……迷うより前にまず、触れてみよう。

 ヴィジョン以外のもっと『現実的』かつ『物理的』な証拠をつかんだら警察に連絡すればいいい。幸い、警察関係者の名刺は昨日のパーティで山ほどもらった。

(できればマクダネル警部補とお話したいな……)

 いささか呑気なことを考えながらヨーコはブランコに腰を降ろし、目をとじた。
 
 閉じたまぶたの下で瞳を凝らし、自分の中を流れる意識と記憶の流れと。自分の触れているブランコに貯えられた記憶と時間の流れの間の壁に小さなすき間を開ける。
 二つの流れが混じり合った刹那、両方からくいっと引き合う小さな『点』に気づいた。

(……当たり)

 あの少年は確かにこの公園の、このブランコに座っていた。
 すき間を徐々に広げて行く。それにつれて『点』は互いに反応し、活性化して行く。
 いい調子だ……もうすぐ視覚的に捕えられるレベルにまで……ああ、来た。

 点は線へ。
 線は面へ、さらには立体に。次第に色と質量を増して行き、おぼろげな像を結び始める。
 意識の狙いを定めると、一段とくっきりと浮び上がった。確かに自分は目的地の近くにいる。

 周囲の現実が歪んで希薄になり、同じ場所、別の時間がヨーコを包む。
 立っている位置が少しだけずれていた。自分はブランコから少し離れて立っている。目の前には少年が一人、うつむいてブランコに座っていた。こちらに背を向けているが、鳶色の髪は確かにあの子のものだ。

 ヨーコはためらわず足を踏み出し、少年に近づいた。しかし足元がねばつき、なかなか前に進めない。
 ぬかるんでいるのか、時間を経ているからなのか。もう少し、ほんの数歩でいい。粘つく地面から懸命に足を引き離し、尚も前に進む。

「ねえ、君……」

 声をかけた瞬間。
 少年の背がばっくり割れて、中から闇が噴き出した。とっさに両手で顔を覆う。
 凄まじい熱風と衝撃に襲われ、ヨーコはもんどりうって後ろ向きに倒れた。

「っ、はっ」
「大丈夫か、Missヨーコ?」

 がっしりした腕が自分を支えている。
 穏やかな夏の公園。笑いさざめきながら休日のひとときを楽しむ人々。そうだ、これが……現実だ。

「あ……一体、何が……」
「いきなり、後ろ向きにひっくり返って落ちそうになったんだ。間に合って良かったよ」

 そうだ、自分はブランコに座っていて、それで……。
 危なかった。
 あのまま全くの無防備な状態で落ちていたら、後頭部を打っていたことだろう。背筋を冷たいものが走る。

「ありがとう、Mr.ランドール」
「大丈夫か? 君、真っ青だ……」

 その時になってようやく、自分がどんな状態にあるか把握した。ブランコに腰かけたまま、背後からランドールに肩を抱かれて支えられている。
 はたから見れば後ろから抱きすくめているように見えるだろう。ごく自然な恋人たちの風景。


「失礼」

 言うなり、ランドールは手を伸ばしてきた。あんまり自然な仕草だったものだからつい、警戒することを忘れた。
 あれ? と思った時には彼の手のひらが喉に触れ、次いで額にぺたりと覆い被さる。

(あったかいなあ……)
 
 それはつい今しがた、ヨーコを直撃した悪意と憎悪の噴流とは対極にあるものだった。

「熱はないようだな。だが、体温が下がってる」

 くすっとヨーコの口の端に笑みが浮かぶ。
 やれやれ、自分としたことが。ほぼ初対面の相手を前にしてこうも無防備でいられるなんて……。

 自分は彼にとって恋愛の相手でもなければ性的な興味の対象でもない。加えてこの身についた紳士ぶりときたら!
 全ての女性(と、おそらくは一部の男性)は年齢を問わず彼にとっては淑女なのだ。守り、敬うべき相手。
 今、こうして自分の額を包み込む彼の手のひらからもその想いがひしひしと伝わって来る。

 足を地面に降ろし、体を支える。ブランコの鎖を握る自分の指を引きはがし、左肩を包む優しい手に重ねた。

「大丈夫……大丈夫ですから……でも」

 寒い。
 
 さっきの一撃は、ヨーコの肉体を傷つけるほどの力こそなかったが、生きるために必要な根本的な熱を削ぎ取るには十分な威力があった。
 震える奥歯を噛みしめる。

「何か……あったかいものが飲みたい」
「わかった。車に戻ろう」

 しっかりと立ち上がるまで、ランドールはずっと支えてくれた。
 車まで歩いて行く間も、助手席に乗り込む時も、手こそ触れなかったが倒れそうになったらいつでも支えられるよう、付き添ってくれた。
 まるでダンスホールか一流のレストランでエスコートするみたいに自然な仕草と間合いで。

 座り心地のよいシートに身を沈め、深々と息を吐く。

(ミスったなあ)

 唇を噛み、目を閉じた。

(風見にばれたら……サクヤちゃんにばれたら………怒られるだろうなあ)

 一人で突っ走るな。それこそ自分が口を酸っぱくして日頃言っていることをまさに己が実行してしまったのだから。
 
「これを」

 ふっと、やわらかく温もった空気が皮膚に触れる。
 大きな手のひらに包まれた、モスグリーンの保温タンブラーがさし出されている。やさしく霧に霞む深い、古い森の色。

「気分が落ちつく。カモミールが含まれているんだ」
「ありがとう……」

 震える手で受けとり、蓋を開ける。紅茶? いや、ハーブティかな。甘い香りがする。一口含む。
 ああ……何て優しい甘さだろう。口の中に広がり、喉を、舌を包んでくれる。目に見えない滑らかな指先が、ひりつく喉を癒してくれる。

「美味しい……あ。このにおいと味!」

 がばっとヨーコは起きあがった。心配そうにのぞき込んでいたランドールが目を丸くしている。
 エウレーカ! 大声で叫びたい気分だ。ヴィジョンの中の子どもが飲んでいたのはこのお茶だ!


「Mr.ランドール! これ、この、お茶……何?」
「あ、ああハニーバニラカモミールティー」
「そうか……バニラだったんだ」
「オーガニックなティーで体にいいんだ。カフェインも含まれていないし、パッケージも独特でね。金属の部品は一切使っていない。地元のメーカーで作ってるんだ」
「売ってるお店に行きたい。連れてっていただけます?」
「ああ。いいよ。ベルト、しめて」

 言われるままシートベルトをしめて、ふと手の中でなおも優しい温もりを発するタンブラーに目を落す。

「あなたの事だからてっきり普通の紅茶か、コーヒーだと思った。何でこれ、持ち歩いてるんですか?」
「好物なんだ。スターバックスやタリーズでは売ってないからね」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「これだよ」
 
 近くのオーガニック食品専門のスーパーで、ランドールは棚に歩み寄るとぎっしり並んだハーブティの中から迷わず一つを引き抜いた。
 ヨーコは伸び上がって彼の手の中をのぞきこむ。
 青い空。朝日に照らされた緑の野原には白と黄色のカモミールの花が咲き、花に包み込まれるようにして金色のハチミツを満たしたガラス瓶が描かれている。とろりとしたハチミツは木の杓子ですくいあげられ、その周りをミツバチが飛び回っていた。

「違う……クマじゃない」
「クマだったよ。8年前まではね。リニューアルしたんだ」
「ほんとう?」
「ああ。子どもの頃からずっと愛飲していたからね。確かだよ」

 ランドールがうなずき、サファイアブルーの瞳を細めて手の中の箱を見おろした。

「ふかふかにデフォルメされた、ぬいぐるみみたいなクマだった。茶色いツボに満たしたハチミツをこう、前足ですくいとっていてね……とても幸せそうだったな」
「そのクマ、お気に入りだったのね」
「母がね」

 かすかに頬を染めると、彼はハーブティの箱をそっと手のひらで撫でた。慣れ親しんだ友人か伴侶を愛でるような手つきで。

「小さな頃の私は胃腸が弱くてね……その上、神経質でなかなか夜は寝付けない子どもだった」
「それで、お母様がこれを?」
「うむ。普通のカモミールティーはくせが強くて飲みづらい。けれどこれなら、いくらでも飲めた」

(……参ったなあ……何でこの人、こんなに可愛いんだろう)

 小さな笑みが口元に浮かぶ。困ったもんだ。相手はどう見ても自分より年上、背も高いし大企業の社長さんだ。
 わかっているのに、思わずぎゅーっとハグして頭をくしゃくしゃになで回したくなってしまう。
 自分の教え子たちにするみたいに。あるいは、サクヤにするみたいに。

 ふと、気づいた。
 ハニーバニラカモミールティーの隣に同じメーカーの普通のカモミールティーも並んでいる。手を伸ばすと、ヨーコは指先でちょん、とカモミールティの箱をつついた。

「今は、普通のカモミールティもOK?」
「そうだな、今なら……いや、やっぱりこっちの方がいい」

 結局、ランドールはハニーバニラカモミールティーを持ったままレジに行き、会計をすませたのだった。
 二つ折りにした黒革の財布からきっちり小銭を取り出し、支払う姿はどこか、まじめにお使いをする子どものようで。つい、あたたかなまなざしで見守ってしまった。

「待たせたね、Missヨーコ……それで、次はどこに行けばいい?」
「待って。今、探すから」

 再び銀色のトヨタの助手席に乗り込み、目を閉じる。必要な情報は既に得ているはずなのだ。
 問題は『いつ』に狙いを定めるか。
 昨日? 今日? 一年と一日前?

 手がかりはついさっきランドールが与えてくれた。
 ヴィジョンの中のパッケージは過去の物。少なくとも8年前のもの。
 だったらあの少年は今は子どもじゃない。当時12歳の子どもでも、8年経てば20歳の大人になる。
 頭の中で年齢を重ねる。

「あ」

 今朝ぶつかった緑と黄色のパーカーの男。顔はちらりとしか見えなかったが、鳶色の髪をしていた。
 意識して焦点を合わせる。ほんの数時間前に自分の経験した時間を呼び覚ます。
 
 別々の二人が重なり、一つになった。

「答えはずっと目の前にあった。あの子は……私がぶつかった本人の過去の姿だったんだ!」

 てっきり、当人の視点から見た光景だと思っていた。緑と黄色のパーカーを着た、背の高い男が少年を閉じ込めた時の記憶なのだと。
 しかし、実際は彼を通して過去の情景にリンクし、その場で起きた事を第三者的に見ていたのだ!

 確かに自分の能力なら、あたかも過去の情景の中を歩く様にして視点を自由に切り替えることができる。
 だが今朝は予想外のタイミングであまりに大量のイメージが流れ込んでいた。能力のコントロールができず、誰の視点で見ているのか区別がつかなかったのだ!

(惑わされた。見えすぎるのも考えものだなぁ……)

 もう一つ、確かなことがある。公園で過去を見た時、邪魔が入った。事の真相を探ろうとする自分に向けられた、明確な悪意を感じた。
 これ以上近づくな、手を引け、と。

 あれは脅しだ。と、言うことは……つまり、彼は『一人』ではない。
 
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【3-2】巻き込まれて追跡

 
 カルヴィン・ランドールJr.はとまどっていた。

 詳細は忘れたが、何やら妙に息苦しい夢を見て目覚めた日曜日の朝。じっとりと嫌な汗をかいていた。
 冷水のシャワーを浴びても重苦しい感覚は抜けず、気分転換にふらりと一人で買い物に出た。

 たまたま空いたパーキングスペースに停めようとした瞬間、名前を呼ばれた。まるで学校の先生みたいな、迷いのないクリアな声で。

 言われるままについ、走り出してしまったが、何だって自分はこんな女学生みたいな子に言い負かされて知らない車を追跡してるんだ?

 と、言うかそもそもこの子は誰だ?

 上手い具合に丁度その時、追いかけている車が信号で停止した。2台ほど間を開けて停まり、助手席に目を向けると、彼女が控えめな笑みを浮かべた。

「ごめんなさいね、Mr.ランドール。一刻を争う事態なの」
「君は誰だ? 何故、私の名前を知っているんだ」
「一度お会いしてるんですよ。極めて最近……そう、昨日!」

 昨日。
 土曜日。
 顧問弁護士の結婚式に招かれた。海を見下ろすレストランで。かちり、と記憶の中の一片が目の前の女性に重なった。

「ああ……昨日の……キモノガール」
「Yes.」

 基本的に女性は興味の対象外なのだが、着ていた着物が珍しくて職業柄目を引かれた。星を散らしたような藍色の布に、刺繍で桜の花をあしらった美しい生地だった。
 新品ではない。アンティークと言うほどではないがそれなりの年月を経ていて、それがまたいい風合いを醸し出していた。材質はおそらく絹だろう。
 しかし、何と言う違いだろう。昨日と比べて8歳は若返ったように見えるぞ?
 いや、それどころか下手すればティーンエイジャーと言っても通じそうだ。

「改めて自己紹介しますね。あたしはユウキ・ヨーコ、ディフォレスト・マクラウドとは高校時代の同級生なんです」

 彼女が口にしたのは顧問弁護士の結婚相手の名前だった。なるほど、彼の友人だったのだな。同級生と言うことは……えっ?
 頭の中で年齢を計算して思わず目が丸くなる。
 同級生? 後輩じゃなくて?

「東洋人ってのは、こっちでは若く見えるみたいですね」
「あ、ああ、うん、そうだね。それで、何故、君はあの車を追えと?」
「後で説明します。ほら、信号青ですよ?」
「……そ、そうか」

 言われるまま、車をスタートさせる。追いかけている理由は結局、聞けなかった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

(まあ何が言いたいかはおおよそ見当つくよ、うん)

 物問いたげなランドールの顔を見ながら、ヨーコは秘かにうなずいた。
 きっと自分とマックスが同級だと聞いて驚いているのだろう。昨日の和装用のしっかりした化粧に比べて今日はナチュラル淡めのメイク。しかも髪型はポニーテールなんだから。
 おそらく20歳そこそこと思ったに違いない。さすがにティーンエイジャーには見られなかったと信じたい。

 信号が変わり、車が走り出す。目当ての車は左へと曲がり、急な坂道を登って行く。店やオフィスビルの立ち並ぶ一角を外れ、住宅街へとさしかかった。
 
「あ」

 何だろう。この景色、見覚えがある。目眩にも似た感触に襲われる。もちろんサンフランシスコに住んでいたことがあるのだから見覚えのある場所はそこら中にある。
 だが、あきらかにその感覚とは違っていた。

 これは、自分の記憶ではない!
 
 肩が触れあった際に流れ込んできたヴィジョンがぐうっとせり上がる。あの中に、合致する記憶が埋もれているのだ。
 その事実に気をとられ、追っていた車から一瞬意識が逸れた。

 グ、グォオン!

 低く轟くエンジン音にはっと顔を上げる。自分の乗っている車は停まっていた。だがその一方で追っている車は……。

「えっ?

 猛スピードで角を曲がり、遠ざかって行くではないか!

「ちょ、ちょっと、何で停まってるの!」
「いや、だって信号が赤だし」
「あちゃ………」

 そう、あくまで一般車両なのだ。パトカーではない。サイレン鳴らしてライトを回し、赤信号を無視してぶっちぎる訳には行かないのである。
 増してこんな高級車が派手な道交法違反なんかやらからしたら……目立つだろうな。一発で本物のパトカーが飛んで来る。
 さすがに社会的地位のある、しかも善意で協力してくれているランドールに違反チケットを切らせたくはない。

 緑のパーカーの男を乗せた車はあっと言う間に遠ざかり、視界から消えた。
 軽く指先で額を抑え、左右に首を振った。

「そもそも最初から無理があったか……」
「すまん、逃げられた」

 申し訳なさそうな顔をしている。心からすまないと思っているのだろう。
 何て誠実な人だろう! ほとんど見ず知らずの女が車に乗り込んできたのに放り出しもせず、素直に言うことに従ってここまで来てくれた。

「問題ありません。既に必要なだけの手がかりは手に入れたから……」
「そうか……あー、その、Missヨーコ。いくつか聞きたいことがあるんだが」
「いいですよ。とりあえず車、そのへんに停めましょうか」

 言われるまま、ランドールは車を路肩に寄せて停めた。
 最初の質問は既に決まっていた。

「君は、もしかして………」

 馬鹿げたことを口にしようとしている。だが、彼女の行動を説明するのに一番しっくりくる言葉を探したらここに行き着いた。おそらくヨーコは真面目に答えてくれるだろう。

「サイキックなのか?」
「だったらどうします?」

 質問に質問で返されてしまった。
 ちょこん、と小さく首をかしげてこっちを見ている。濃いかっ色の瞳は日陰になって黒く、ほとんど瞳孔と虹彩の区別がつかない。
 あどけない。だがその反面、底深い井戸をのぞきこむような錯覚にとらわれる。

「いささか興味があるね。君には、私は……どう見える?」
「そう……ね」

 くい、と眼鏡に手をかけるとヨーコはフレームを軽く押し下げ、直に自分の目でこっちを見上げてきた。黒目がちの瞳の奥でゆるりと……何かがうねる。
 深い水の底で、姿の見えない魚が身をくねらせるように。

「お母様は東欧……ルーマニアの方ですね。あなたに良く似て、とてもお美しい方。ああ、その魅惑的な黒髪とサファイアブルーの瞳はお母様から受け継いだのね。ポケットの奥のヒマワリの種も」
「えっ? 何故、それを?」
「カリカリに炒ったのを、小さめのジップロックに入れて持ち歩いてるでしょ? 小学生の子がおやつを入れてるような、模様付きのやつ」

 無意識に上衣のポケットを押さえた。

「今日の袋は………水玉ね」

 その通り。母親の容姿のことは多少の知識があればわかることだ。しかしヒマワリの種は。袋の模様は!
 すっとヨーコは目を細める。ふさふさと豊かなまつ毛が瞳に被さり、何とも優しげな表情を醸し出す。まるで子どもを見守る母親か、保育士のようだ。

「……恋をしてらっしゃいますね? 秘めたる想い。片想い。とてもピュアで、切ない」

 こめかみの内側で、独立記念日の花火と中華街の爆竹がいっぺんに炸裂した。
 まちがいない。彼女は……本物だ!

「驚いた、本当にサイキックなのか?」

 ぱちぱちとまばたきすると、ヨーコはすっと手をのばし、ちょん、と頬を突いてきた。右手の人さし指で。
 ほぼ初対面の相手だと言うのに、不思議といやな感じはしなかった。学校の先生か、友だちに触れられたような、そんな感覚。
 自分はゲイだ。女性には惹かれない。まるでその事を心得ているかのようなごく自然な触れ方だった。

「そう簡単に信じちゃだめよ、Mr.ランドール? この程度のこと、あなたのプロフィールをちょっと調べればすぐにわかる」
「でも……私が片想いしてるって」
「ああ、それはもっと簡単」

 くいっと彼女は赤いフレームに手を触れ、眼鏡の位置を整えた。

「観ればわかりますもの。観れば、ね」
「そ、そうか……」
「すぐに片付くと思ったのだけれど、どうやら長期戦になりそう。もう少しだけおつきあい願えるかしら……Mr.ランドール」

 つやつやした唇の合間に白い歯が閃く。半ば夢見るような心持ちでランドールは彼女の言葉に耳を傾けていた。

「私、何としてもあの子を助けたいの」
「……ああ」

 うなずいていた。
 彼女の言う『あの子』が誰なのか。さっきまで追いかけていた車とどんな繋がりがあるのかわからぬまま。
 それでも感じたのだ。彼女の言葉は真実なのだと……。

「ありがとう、Mr.ランドール。あなたの勇気に感謝します」

 ヨーコは満面の笑みを浮かべてうなずいた。
 自信家故に彼は猜疑心を持たない。育ちの良さ故に『学校の先生』の言うことは、素直に聞いてしまう。
 そして、彼は紳士だった。か弱き者を見捨てるなんて事は、最初から選択肢に入ってはいないのだ。
 
 この人を捕まえられた幸運に感謝しよう。追跡のパートナーとして、これ以上に頼もしい相手はいない。
 
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【3-1】はじまりの夢

 
 熱い。熱い。
 喉が焼ける。狭い箱の中でもがいても扉は開かない。叫ぶ声も枯れて、ぜいぜいと荒い息がもれるだけ。 
 
(声が出たところでどうなると言うのか。だれも助けてはくれない。母も。兄弟も)

 箱が揺れる。熱く焼けた鉄板が、腕に、足に押し付けられる。

『お前は犬だ。役立たずの犬なんだよ。最低のクズだ』
『さあ、せいぜい泣け、わめけ!』
『みじめに泣きわめいて許しを乞え。そうやって俺の気晴らしになるぐらいしかお前の使い道なんて存在しないんだよ……』
『ほら、もっと声を出せ、この役立たずの野良犬めが!』

(助けて)
(助けて)
(だれか、ここから出して!)
 
 キィ、ギィ、ギギギギ………。

 さびた蝶番がきしむ。
 扉が開いた。

 喜んで走り出す、その足が焼ける。悲鳴をあげてうずくまり、おそるおそる見上げる。
 頭上には見渡す限り、真っ赤に焼けた鉄の板が広がっていた。どこまでも、どこまでも限りなく。
 天井だけではない。壁も、床も、何もかも熱い鉄。鉄。鉄。吹き抜ける風にのどが灼ける。

 真っ黒な絶望が心臓を塗りつぶして行く。

(まだ、ここは箱の中なんだ……)
 
 心臓を塗りつぶした闇の色があふれ出し、ひしひしと広がり始めていた。
  
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 まぶたを開けた瞬間、携帯のアラームが鳴り始める。
 お気に入りの着うたが1フレーズ鳴り終わるまで布団の中で聞き入ってから、ヨーコこと結城羊子はむくっと起きあがった。

 昨日は高校時代の同級生の結婚式だった。まさか彼に先を越されるとは思ってもみなかったが、輝くばかりの笑顔を見て嬉しく思うと同時に心から安堵した。
 披露宴のあとの二次会であれほどはしゃいだはずなのに、いつもと同じ6時30分きっちりに目が覚めるなんて……。
 まったく規則正しい生活習慣ってのはある意味こまったもんだ。休みの日でも抜けちゃくれない。

 しかも、着物はちゃんと脱いで持参した衣紋掛けにかかってるし、寝間着用の綿のキャミソールとショートパンツに着替えている。化粧も落し、コンタクトも外してある。髪の毛をほどいているのは言わずもがな。
 
 えらいぞ、自分。
 のそのそと起きあがってからふと大事なことに気づいた。

 私、今アメリカにいるんだってば!

 律儀に7時30分までに起きたところで、ボウケンジャーが見られるわけじゃないんだってば……パワーレンジャーならともかく。

 試しにベッドにひっくり返ったままテレビをつけてみたが、子どもむけのカートゥーンしかやっていなかった。何か見覚えがあるなと思ったら日本のコンピューターゲームをアメコミ調にした物だったりして。
 ああ、これなら純アメリカ産の方がどんなによかったか。なまじ元ネタを知ってるだけに、見続けるのがつらい。

 他にもいくつかチャンネルを回してみて、結局消した。
 まだぼーっとしている頭では、母国語以外の番組を理解するのは少々きつかった。 

 どうしよう。
 もう一眠りしちゃおっかな……でも、ここで寝たら最後、午前中いっぱい行動不可能になるのは目に見えている。
 それだけは避けたい。時間がもったいない。明日の飛行機で日本に帰るんだし……。

 よし、動くぞ。

 意を決してヨーコはぴょんっとベッドから飛び起きた。
 バスルームに入り、バスタブに熱いお湯を満たす。
 とにかく、まずはお風呂に入ろう。体温と血圧が上昇すれば少しは頭がすっきりする。仕上げに朝ご飯をしっかり食べてっと……。

 アメリカ人用の設備は何もかもゆったり大きめに作られていて、狭苦しいはずのホテルのバスタブも小柄なヨーコにはかなりゆとりがある。
 たっぷり温まってから湯につかったまま体を洗い、シャワーを浴びた。
 風呂から上がり、備え付けのバスローブを羽織る頃にはだいぶ頭がはっきりしてきた。

 さーて、今日は一日フリーだ。どこにゆこっかな……。
 のんびりショッピングに行くか。
 ベタにゴールデンゲートブリッジ公園あたりまで足伸ばすか……Zeumのあのでっかい回転木馬にも久々に乗ってみたいなー。

 冷蔵庫から取り出したボトルウォーターを喉に流し込んでいると、きゅるるぅ……と腹の虫が鳴いた。

「その前に、ご飯食べなきゃね」

 バスローブを脱ぎ、衣服を身につける。
 薄手のデニム地のクロップドパンツに赤い木綿のキャミソール、上から白のシャツジャケットを羽織る。
 髪の毛はポニーテールにするかシニョンにするか……いっそツーテイル……いやいやそれはいくらなんでも。

 ポニーにしよう。たまにはいいよね。

 学校では滅多にやらない。生まれついての童顔との相乗効果で、それこそ生徒の中にまぎれこんでしまうから。
 勤務中はメイクも控えめだし、下手すると自分よりしっかりお化粧している生徒もいるし。
 髪の先が襟足につかない程度の位置に結い上げ、軽く黒のゴムで留めてからキャミソールと同じ赤いリボンを結わえた。
 うん、これでよし、と。

 プライベートにつき本日はコンタクトは封印、愛用の赤いフレームの眼鏡をかける。
 ライムグリーンのバッグを肩にかけ、素足をクロックスのメリージェーンタイプのサンダルに突っ込んだ。
 旅行で歩き回る時はこれに限る。適度におしゃれでしかも足を圧迫せず、歩きやすい。
 軽快な足どりでヨーコはホテルの部屋を出た。

 さあ、休日の始まりだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 トーストにコーヒー、卵はスクランブルかサニーサイド、オムレツから選択可、ベーコンはかりかり。サラダからフレッシュなジュース、フルーツまできっちりそろったホテルのレストランの朝食も悪くない。
 けれど今日はもっとカジュアルでボリュームのあるものをざっくりと食べたかった。(ボリュームの点で言えばホテルの朝食もかなりの分量があったが)

 そこで近くのカフェまで足を伸ばし、ライ麦パンにレタスとトマト、ベーコン、卵を挟んだサンドイッチとカフェラッテのVサイズで朝食を取った。

 食べ終えてからビタミンが足りないなと思い返し、追加で小粒のリンゴを一個買い求めてかじりながら歩き出す。
 さすがにこれは日本では無理。そもそも歩きながら食べるのを前提とした丸ごとのフルーツがカフェやコンビニで売ってること自体ほとんどない。

 売ってるリンゴの種類も違う。
 こちらでもっぱら出回っているのは手のひらにすっぽり収まるほどの小粒で果肉のしまった酸味の強いリンゴ。一個丸かじりするのにちょうどいい。
 新鮮な果肉に歯を当てるたびに、ぷしっと果汁が口の中にあふれる。
 他にもいい大人が何人もごく自然に歩きながらリンゴをかじったり、アイスクリームやドーナッツ、ホットドッグを頬張っているから、目立つこともない。
 
 日本人の目から見ればいささか行儀が悪いが、ヨーコはこのアメリカらしい大らかさが気に入っていた。

 そろそろ、リンゴが芯だけになってきた。さて、どこかにゴミ箱はないか、あるいはティッシュで包んでバッグにつっこむか……。
 ちろっと指を舐めながら思案していると。

「あっ」

 横合いの路地からからぬっと出てきた男とぶつかった。こっちも前をよく見ていなかったが向こうは前『しか』見ていなかったらしい。
 要するに相手の方がかなり背が高く、完ぺきに視線がヨーコの頭の上を素通りしていたのだ。
 ちらっと緑の地にレモンイエローの模様か文字が目に入ったと思ったら、がつんと衝撃が来て視界が揺らぐ。
 とっさに足を踏ん張った瞬間、彼女の目は現実から異界へとスライドした。

(やばい)

 ぐにゃりと周囲の景色が。音が。色が歪んで溶け落ちる。全て混じり合い、渦を巻く。

 何が起きたかはすぐにわかった。己の能力に振り回されない様、常に自分をコントロールするやり方を身につけていた。
 だが、これは……あまりに情報の密度が濃すぎる! 自分で読み取る時は意識して観たい時間に焦点を合わせているのだ。
 こんな風に接触した瞬間に洪水みたいに流れてくるのは極めてイレギュラー。許容量を越えている!

 いくつものイメージと思念が練り合わさり、団子になって押し寄せる。濁流に飲み込まれ、なす術もなくもがいた。このままでは沈む。何かにつかまらなければ!
 必死にもがいて浮び上がり、新鮮な空気を呼吸して……手に触れた枝にしがみつく。
 濁流となって荒れ狂う幻想(ヴィジョン)の一つに焦点が合った。

 まず感じたのは強烈な殺意。腑がねじれ、喉から咆哮となってあふれんばかりの憎しみ。

『殺してやる』
『お前の命を断ってやる。存在を抹消してやる!』

 そして怯える少年の姿……白い肌に鳶色の髪と瞳。やせ細り、顔や手、足にぶたれた痣がある。目ばかりがぎょろりと大きく、皮膚を通して頭がい骨の輪郭が透けて見えた。
 怯えた目。苦痛に歪む顔。
 閉じ込められている……出口のない、熱い金属の箱に。もがいても、足掻いても抜け出せない。
 外側からだれかが箱を蹴り着ける。

『お前は犬だ。役立たずの犬なんだよ。このクズが!』

 閉ざされた箱が揺れる。ぐらぐらと。叩き付けられ、手が、足が熱い。喉が焼け、目がくらむ。

 熱い。
 痛い。
 怖い。
 助けて!

 恐怖と嘆き、悲しみ、ありとあらゆる負の感情。それを発する人間そのものをぶつ切りにして放り込み、骨も肉も皮もぐずぐずに崩れるまで煮込んだどろりとした悪夢のスープ。
 一時に流れ込んでくる。視覚、嗅覚、聴覚、触覚、あらゆる感覚を蹂躙し、処理しきれずむせ返る。

(苦し……い……)

 思わず喘いでいた。

(喉が……灼ける………)

 熱い閉ざされた箱が掻き消え、別のヴィジョンが流れ込む。
 優しい甘さが舌の上に広がり、焼けつく乾きを癒してゆく。クマがほほ笑んでる。むくむくの、ぬいぐるみみたいなデフォルメ化されたクマ。
 前足でとろりとした黄金色の液体をたっぷりすくいとっている。

(これは……はちみつ? でもそれだけじゃない。何だろう、やはり甘いもの……)
(アイスクリーム……かな。でも、もっと淡くて、もっと、かすかで……)

 ぽとり、とリンゴの芯が落ちる。
 車の音、自転車のベル、行き交う人の声、ケーブルカーの車輪がレールにこすれる独特の音。サンフランシスコの表通りのざわめきが戻ってきた。

 さよなら、幻想。お帰り、現実。
 あれはおそらく絶望と苦痛の奥底で彼が求めた救いのイメージ。助けを求める少年と同調したのだろう。

「あ……」

 慌てて周囲を見回す。どれぐらいの間、ヴィジョンに飲み込まれていたのだろう?

(一分? それとも数秒?)

 自分に見えるのは過ぎた時間の落す影。既にあれは起きた事だ。どこかに閉じ込められた子どもがいる。
 間に合うだろうか。あの子を、熱い閉ざされた箱から救い出すのに。

(やったのは誰だ?)

 疑わしい人物が一人いる。
 通りすぎる雑踏の向こう側に、緑色のパーカーが遠ざかる。背中に黄色のロゴが印刷されていた。

「ちょっと失礼!」

 運の悪いことに、路上の人の流れはちょうど、ヨーコの進行方向とは逆だった。自分よりはるかに高くそびえ立つ肩やら頭の間をすり抜け、必死に前に進む。
 ようやく逆行する『動く森』を抜けた出した時には息切れがしていた。
 一方、緑と黄のパーカーの男は路肩のパーキングスペースに停めてあった車に乗り込んでいる。
 車が走り出す。 
 さすがにこれは走って追いかける訳には行かない!
 どうする? タクシーでも拾うか?

 その時。
 空いたスペースに一台の車が滑り込んできた。ほどよくマットのかかった上品な銀色、ロゴマークは見慣れたトヨタ、かなりの高級車に入る部類の車種だ。
 運転席のドアが開いて、中から黒いスーツをきちんと着こなした黒髪の男がひょっこり顔を出す。
 ゆるくウェーブのかかった黒髪、ネイビーブルーの瞳。眉のラインの印象的な東欧系のハンサム。

 ヨーコにとっては幸運なことに……そして彼にとっては不運なことに、彼女はこの青年に見覚えがあった。

「Hey,Mr.ランドール!」

 名前を呼ばれて青年が顔を上げる。
 怪訝そうに見返す青い瞳を見つめた。

(そう、そうよ、それでいい……)

 見えない腕を伸ばし、彼の心を捕まえる。手応えを感じた瞬間、きっぱりと言い切った。揺らぎのない意志をこめて、授業をする時と同じくらい、クリアで、迷いのない声で。

「乗せていただける? 緊急事態なの」

 彼はぱちぱちとまばたきをして、助手席のドアを開けてくれた。
 OK。素直な子って大好き。
 するりと乗り込み、シートベルトをしめる。

「あの車を追って!」
「……わかった」

 ランドールは運転席のドアを閉めると再びシートに座り直し、ベルトをしめ……ハンドルを握った。
 銀色の高級車が走り出す。

 ほんと、素直な子って大好き。
 
次へ→【3-2】巻き込まれて追跡

#3「熱い閉ざされた箱」

 
 雑踏の中、予想外のタイミングで背の高い男とぶつかった。がつんと衝撃が来て視界が揺らぐ。
 とっさに足を踏ん張った瞬間、彼女の目は現実から異界へとスライドした。
 ぐにゃりと周囲の景色が。音が。色が歪んで溶け落ちる。全て混じり合い、渦を巻く。
 逃げることはできない。逃げるつもりもない。

 さあ、狩りの始まりだ。

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 illustrated by Kasuri
  • 2006年8月、アメリカ、サンフランシスコでの出来事。
  • ヨーコ先生こと結城羊子が、旅先で巻き込まれた悪夢事件。それは、覚醒前のもう一人との出会いでもあった。
  • 時系列が前後しますが、これが初めて書いたNHD小説です。まだまだ文章が堅いし登場人物の口調も定まっていませんな……。
  • 登場するハンターは(覚醒前の一人を含めて)四人。