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羊さんたちの遊卓

【3-7】夜を疾走る者

 
 切り離された影は消えていなかった。形を失い、溶けて流れるかと思ったが……じゅくじゅくと周囲の闇を吸収している。
 焼けた鉄の箱は消え、暗い夜の森に変わっていた。

(そうか、こいつ、今度はMr.ランドールの記憶を吸収しているんだ!)

 ゆらり、と黒い影が立ち上がる。二本の後足で直立した巨大な狼。半ば人の形を留めながらも体表は全て黒々とした剛毛に覆われ、ぞろりと割れ裂けた口には白い牙が生えそろう。尖った牙の合間から、だらだらとよだれが滴り落ちた。
 むわっと濃密な獣の匂いが漂う。
 今や天井は高々と上がり星ひとつない夜空に変わり、煌煌たる満月の冷たい光が空間を満たしていた。

 視界を圧倒するばかりに巨大な、蒼白い月。現実ではあり得ない。地平線にかかるほどのサイズの満月なんて。

「う……わ」

 ヨーコは思わず一歩、後じさる。ランドールが首を横に振り、かすれた声でつぶやいた。

「ル・ガルー(人狼)……」

 人狼はぶるっと体を揺すると満月を仰ぎ、吼えた。

 ルゥルルルルルルルル………ワ、ワゥオオオオォオオオオオン、オン!

 頑丈な後足が地面を蹴る。ずざざざっと土を蹴立てて宙に飛び、人狼が飛びかかってきた。

「く……棒の9番……いや、全部来い!」

 ランドールと、少年と、自分を護る壁を思い描く。『棒の9番』を核にして、手持ちのカードを全て自分たちの周囲に張り巡らせた。
 核にしたカードの絵では、敵の襲撃に備えて棒を組んで高い防護壁を築いていた。
 しかし何分とっさにしたことだ、期待通りのイメージを導き出せるかどうか……果たして、カードの1枚1枚が鳥の形に変わり、円を描いてぐるぐると飛び回る。
 昨日の浜辺での記憶が残っていたらしい。

「しまった!」

 力強い羽ばたきに遮られ、かろうじて人狼の進行は阻まれた。が、牙と爪が閃くたびに一羽、一羽とたたき落とされ、消えて行く。その度にヨーコの腕や肘、胸、着ている服に微かな切り傷が走り、裂けてゆく。

 やはり壁が薄い。柔らかすぎた! だが今さら集中を解くことはできない。
 鳥の数は78羽。果たしていつまで持ちこたえられるだろう?

 びしっとまた一羽、鳥が消えた。ジャケットが大きく引き裂かれ、肩から胸にかけてすうっと浅い切り傷ができた。

「Missヨーコ、傷が!」
「平気。この程度の傷、いつでも治せる!」

 今の内に対抗手段を見つけなければ……3人とも、喰われる。

 あれが利用しているのはランドールの記憶。ならば、鍵を握るのは彼だ。意を決してヨーコは語りかけた。
 日本語ではなく英語で。
 彼の母国語で。より真っすぐに、ランドールの心に届く様に願いを込めて、揺らぎのない意志で、きっぱりと。

「思い出してランドール。あなたは確かにお母様からルーマニアの血を受け継いでいるけれど、育ったのはアメリカだ」

 あえて言葉を選ぶ。人狼(ル・ガルー)はなく、狼男(ウルフマン)と言い換える。ヨーロッパの伝承ではなく、アメリカの伝統になぞられて。

「あなたは知ってるはず。狼男の弱点は……何?」
「弱点……狼男の……」
「そうよ。あなたの事は私が守る。だから……あなたも、私を守って!」

 その一言が、ランドールの気高き『紳士の魂』を奮い立たせた。

(彼女を。この少年を、守らなければ!)

 握りしめた赤いリボンが手のひらの中で形を変えて行く。小さくて堅い物に。指の間から清らかな白い光があふれ出す。
 そっと手のひらを開いた。涼やかな光をたたえた、銀の弾丸が出現していた。

「ヨーコ、これを!」

 これがどこから来たのか、そんなことはどうでもいい。大切なのはこれが今、必要なのだと言う事実。

 とっさにヨーコに向かって投げた。彼女は迷いのない動きで左手で受けとめ、ジャケットの胸ポケットから何かを引き出した。
 二連式の銃身、ほとんど装飾のないシンプルな外観。女性の手にすっぽり収まるほどの、中折れ式の小さな拳銃。だがそのちっぽけな外観に反して引き金を引くにはかなりの力を必要とする。あるいは熟練の技を。

 ハイスタンダード・デリンジャーだ。

 慣れた手つきで弾丸を装着すると、ヨーコは人さし指で銃身を支えて構え、中指を引き金にかけて……射った。
 ちかっとガンファイアが閃く。しかし、音は聞こえなかった。

 銀色の流星が一筋、銃口からほとばしり、鳥の羽ばたきが左右に分かれる。流星は一直線に狼男の口の中に吸い込まれ、牙を砕き、その頭部を貫いた。
 
 影が散る。
 厚みも重さももろとも失いほろほろと、塵より儚く崩れ去る。
 にやっと白い歯を見せてヨーコが誇らしげにほほ笑み、こちらを向いた。傷だらけになりながらもすっくと立って、右の拳を握り、ぐいっと親指を立てた。
 ほほ笑み、同じ様にサムズアップを返す。
 同時にランドールの腕の中の少年は、淡い光の粒となって消えて行った。

 暗い森に朝が来る。白い光が木々の合間をくぐり抜け、朝露がきらめく。

 ああ、もう大丈夫だ。
 自分は、彼らを守ることができたのだ。
 清々しい充足感を抱いたまま、ランドールはあふれる光を受け入れた。

 
 ※ ※ ※ ※ 
 
 
「……あ………」

 やわらかな午後の風が頬を撫でる。
 足の下に、伸びた芝生の感触。

「ここは……………」

 裏庭だ。とっさに腕の時計を確かめる。最初にこの空き家に足を踏み入れてから、やっと10分経過したところだった。

 10分……たったの?
 信じられない。

 あわてて服装を確かめる。吸血鬼の衣装じゃない……元に戻っていた。

「そうだ、ヨーコ!」
「ここよ……」

 彼女は金属の箱から手を離し、立ち上がった。
 血は出ていない。怪我はしていない。だが……ジャケットに裂け目がある。やはり、あれはただの夢ではなかったのだ。

「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫」

 にっと笑う。
 夢が終わる直前、ヨーコは見ていた。
 閃いたイメージはかなり圧縮されていたけれど、大事なことは全て見得た。

 今、現在。
 父親の住んでいる、こことは別の家の裏口で、銃を懐に明らかに尋常ではない訪問を行おうとしていたかつての少年が動きを止めた。
 薄汚れた窓から中をのぞく。
 ゴミの散らばる部屋にうずくまる、老いて小さく縮んだかつての親。点滅するテレビの画面をのぞきこんでいる。
 床にも、テーブルの上にも、ビールの空き缶やピザの空き箱、テイクアウトの中華の空き箱、ありとあらゆるジャンクフードの箱や袋が散乱していた。

 じっと見て………ドアには手を触れずに立ち去る。
 緑の布に黄色のロゴマークのパーカーを羽織った背中が遠ざかる。

 彼は二度と振り返らない。

「……良かった……」

 ほう、と安堵の息を吐く。
 熱い閉ざされた箱の中には、もう誰もいない。

「何だったんだ………あれは」
 
 ランドールが首をかしげている。真摯な目だ。
 
(そうね、彼には知らせなければいけない。助けてもらった恩義もあるし、何より母上から受け継いだ資質がある)

 慎重に言葉を選びながらヨーコは話した。
 ネイビーブルーの瞳を見据えて、静かな声で。

「全ての虐待の被害者が加害者になるとは限らない……その理由の一つにアレの存在がある。心の闇に巣食って恐怖を煽り、憎しみに変える。そう言う存在が確かに在るの」

「悪事の原因は全て自分の外側にある、か? あまり好きじゃないな、そう言う考えは」

「気が合うなあ。あたしもそう! 何でもかんでも他人の所為にしたがる奴。俺は悪くないと言い張り、反省のカケラもない……そんな奴の成れの果て、なのかもね」

「君はいつもこんな事をしているのか?」
「何故、そう思うの?」
「慣れていた」
「まあ、ね。初めてじゃないことは確か」
「………怖くないのか?」

 参った。痛い所を突かれたな……。
 しばらしの間、ヨーコは言葉に詰まった。

(……いっか。彼は少なくとも私より年上だ。教え子でもないし弟でもないのだから、敢えて強がる必要もない)

 素直にうなずいた。

「怖いよ。余裕なんてない、いつだってギリギリ。こんなこと辞めたい、絶対無理だって、いつも内心、泣きべそかきながら思ってるの。生きて戻ったら、こんなこともう二度とやるもんか! って」
「でも、辞めないんだろう? 君はそう言う人だ」
「それ、直感?」
「いいや。経験に基づく確信だよ」
「………ありがとう…………」

 急に力が抜けてしまった。んーっと伸び上がり、あくびを一つ。
 日が陰っていて、上手い具合に芝生の一角が日陰になっていた。とことこ歩いて行ってぺたりと座り込み、ころんと横になる。

「ごめん、ちょっと寝かせて」
「ヨーコっ?」
「私、眠いの……話の続きは……起きてからね」

 小さなあくびをもう一つ。目を閉じたと思ったら、もう寝ていた。
 せめて寝る前にホテルの場所を教えて欲しかった。

 いつまでも芝生の上に寝かせておく訳にも行かない。そっと抱き上げて裏口から抜け出し、車に運んだ。
 意外に軽かった。
 助手席をリクライニングさせて寝かせるその間も、ヨーコはぴくりとも動かず、やすらかに寝息を立てていた。

 まったく、無防備にもほどがある。若い娘が、男の前でこんな風にすやすやと眠りこけてしまうなんて。
 いったい、どうすればいいのか。自分がゲイだと知って安心しきってるのだろうか。

 ……いつ、彼女は知ったのだろう。

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