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羊さんたちの遊卓

【5-1】兆シノ夢

 
 夢を見た。

 足にまとわりつく湿った砂。打ち寄せる波。手足が冷える。でも、それがここちよい。
 ばしゃりと散った波頭が鳥になる。白い翼の海鳥が周囲を円を描いて飛び回る……手をのばした瞬間、足下の暗闇に引きずり込まれた。
 窓のない暗い部屋。たちこめる獣の臭いに息が詰まる。まとわりつく手、手、手……。

 肌を這いずりまわるじっとり湿った指に悪寒が走る。振り払うのはいつでもできる。だが今はまだ早い。こらえるんだ。真実が見えてくるまで。
 意識の周囲に透明な薄い壁を張り巡らすのにとどめる。生々しい感触が少しだけ弱まり、考える余裕ができた。

(この夢、だれが見ているか……わかった)

 周囲の闇がすうっと引いて行く。夢を見ている者と自分の物理的な距離に気づいたからだろうか。

(どこ……? どこにいるの?)

 チリ……。
 かすかな鈴の音。意識を向けると、その方角に闇がわだかまっていた。
 もやもやとした闇色の霧の中心で、胎児のように丸まって眠っている子どもがいる。乾涸びた根がしゅるしゅるとまとわりついてゆく。今の彼に振り払う力はない。

 チリン!

 鈴が鳴った。さっきより強く。
 ちいさな白い猫がうなる。乾涸びた根は一瞬ひるんで後退するがまた別の根が影のようにからみつき、決してゼロにはならない。

 乾涸びた根は既に、少年の身近な人々にも狙いを定めていた。少年を拠点に現実の世界に結びつきを強めようとうごめいていた。
 今はまだ薄い、だがこのままではいつか、彼は捕まってしまう。
 急がなければ。

 高い場所にある寝室の窓の外、灯りに群がる虫のように『よからぬもの』どもが飛び回っている。何て数。

(でもあいつらは小物)

 本体は別にいる。瞳を凝らし、横たわる距離と時間の向こうに揺らぐ真実を見据える。
 フィルムの逆回しのように景色が巻き戻り、やがて見えてきた。最初にこの場所にやってきた『モノ』の面影が……。

 飛び回るちっぽけな魔物どもの中に、ひっそりと立つ影三つ。頭上にゆるく螺旋を描く頂く二対の角をいただき、やせ衰え枯れ木のように背が高い。裾がぼろぼろになった赤い長衣をまとっている。華奢な体格、腰はふっくらと丸みを帯び、胸元が盛り上がっていた。

(見つけた)

 いきなりくんっと視界が後退した。現(うつつ)の光に包まれて、ほの暗い夜の夢がみるみる希薄になって行く。夢の終わる間際に、坂の多い海辺の街が見えた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ぱちりと目を開けると、結城羊子はベッドの上に半身を起こした。

「シスコか……」

 寝間着がじっとりと湿っている。獣くさい息のにおい、肌の上を這いずる指……わずかに身震いすると羊子は頭をゆすって忌まわしい夢の名残を払いのけた。
 普段は滅多にこんな風に海の向こうの異変を感知することはない。だが、サンフランシスコは彼女にとっては特別だ。わずか一年だったけど自分はあの町に暮らしていた。住んでいた。思春期の多感なひとときを確かにあの町で過ごした。
 友人も多いし、今は従弟のサクヤが住んでいる。

 どこで、何が起きているのかは知ることができた。

 何者かがあの子を狙っている。過去の傷を足がかりに彼の心を浸食しようとしている。なまじ人にはない能力を持っている子なだけに、支配されてしまったら取り返しのつかないことになる!
 しかも今回の相手は宿主を拠点にしてその家族を狙う性質を持っているようだ。このままでは、もう一人の少年や赤毛の気さくな友人、それに彼の愛する伴侶にも危害が及ぶ。狙われた少年にぞっこん参ってるへたれ眼鏡にも。

 元々あの子はああいったモノを引きつけやすい傾向がある。これまではサクヤとカルが対応してきたし、身近に『お守り』もある。
 ……だが、今度ばかりはいつになく強力な奴が寄って来たようだ。
 
 枕元でメール受信を知らせる携帯のライトがチカチカと点滅していた。だれからのメールか、見なくてもわかっていた。
 

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