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羊さんたちの遊卓

【サンプル5:刻印は輝く】


 わかっていた。
 人狼屍鬼の正体が誰なのか。だからこそあの一瞬、剣を振る手が鈍った。
(丸い月に誘われて、今夜もあの男は狩りに走るだろう。血と、悲鳴と、肉を求めて)
 メイガンは、家の前に立っていた。自分が来ると、知っていたみたいだ。姿を見るなり、するすると滑るような足取りで近づいてきた。
「ディー」
 懐かしい子供の頃の呼び名が、胸元で響く。しなやかな指が服を握りしめる。
 彼女は腕の中に居た。幼ない日の淡い思い出なんかじゃない。確かな、生身の女として。
「がまんできなかったのよ」
 取りすがったまま、メイガンは震える声を振り絞った。
「仕事を求めて牧場から牧場へ、町から村へ流れ歩く暮らしが……世話する家畜も、耕す土地も、眠る小屋さえも、何一つ自分のものじゃない。ねえ、ディー、あなたなら、わかるでしょう? 同じ辛さを知っているもの。ね?」
 ぺったりと身を寄せ、体を預け、全てを委ねて来る。触れ合う体と体から、肌の熱さが。息遣いに上下する、胸の丸みが伝わってくる。
「地面にしっかりと根っこを下ろしたかった。明日の寝床を心配しないですむ暮らしがしたかったの! だから、あの人の求婚を受けたのよ……」

 誰が彼女を責められるだろう?
 よくある事だ。今までもそれこそ何人、いや何十人ものザハールの女性が同じ理由で土地の若者に嫁いできたのだ……好いた惚れた以前にまず、安定した暮らしを求めて。
「最初のうちは幸せだった。何もかもうまく行ってた。去年の冬、あの人が狼に噛まれるまでは」
「わかってる、メイガン。君のせいじゃない」
 エイベルを噛んだ狼が、人狼屍鬼だったから。彼が『食い殺されずに』生き延びてしまったから……
 エイベル自身が屍病を患い、己を噛んだ獣と同じ、不屍の怪物になってしまったから。
「ただ、運が悪かった。それだけなんだ」

 人狼屍鬼は、知性のある不屍だ。太陽を恐れず、人間に化ける。
 恐らく、エイベルは、以前と何も変わらなかったのだろう。少なくとも、メイガンにとっては。
 月が満ちるとともに感情の抑制を失い、ついには夜毎の殺戮に走る。それでも、彼女は夫を見捨てる事ができなかった。離れる事ができなかったのだ。

「あの人、決して私には牙を向けなかった。私を守るため、外で『狩り』をしていた。それだけなのよ」
 何人死のうが構わない。今の平穏な暮らしを守るためなら。
 何人殺しても構わない。彼女を守るためならば。
 そして、二人は『狩り場』を変えた。月が変わる事に転々と。
「お願い、見逃して。他所に行くわ。もう二度とこの村には戻らない。だから、お願い……」
 濡れた銀灰色の瞳が見上げている。ふっくらした桜桃の唇が、うっすらと開いている。何かを求めている。誘っている。
 そう、彼女は体全体で告げていた。『お願い』を聞いてくれれば、自分も応える用意があると。
(やばい。これ以上見たら……)
 きつく目を閉じ、顔を背ける。しかし、その程度で逃げ切れるはずがなかった。
「私のこと、まだ好きなんでしょう?」
 滴るほどの蜜を含んだ声が、追いすがる。
 できるものなら、頷いてしまいたい。惚れた女の頼みを断る道理があるか?
「………メイガン」
 つぶやいた瞬間。閉ざされた瞼の裏に、矢車菊の青が閃く。己が何者なのか。何故『ここ』に居るのか。左目に刻まれた印が告げる。
 忘れるな。見るべきものを見よ、と。

「メイガン。もう俺は、あの頃の子供じゃないんだ」
 二度目に口にした名前は、明らかに先刻の呼びかけとは違っていた。
 研ぎ澄まされた言の刃が、甘い過去を断ち切り、『今』をえぐり出す。
「ディー?」
「今の俺は……君たちを見逃せない」
 うつむいた顔をあげる。左のこめかみから頬にかけて青々と、疾駆する馬の形が燃え上がる。
 幾度生まれ変わっても、変わらずそれは、そこにある。自ら輪舞に身を投じ、戦い続ける者の印……希望の灯火{ナジャ}の刻印。
 メイガンは全てを悟ったようだった。
「そう………あなたは……」
 固い声でつぶやくと、彼女は手を離し、後ろに下がった。
「だったら、しかたないね」
 その瞳からは、一切の温かさも。親しみも消え失せていた。
 ああ、メイガン。メイガン。俺は、君の。いや、君たちの『敵』になっちまったんだな。

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