▼ 【4-20】★倦怠期?
一見相思相愛、何ら問題ないように見える『ぱぱ』と『まま』。
ですがこの二人実は奥深い所にずっしり重たい問題を抱えています。
「俺の中に獣がいる。常に愛する人を貪り、食い尽くそうと目を光らせる獣が」
ディフは薄々気付いている。声や表情、触れ合う肌身で、体で知っている。
レオンが望んでいる、ただそれだけで彼は破滅への道を受け入れてしまう。
この組み合わせはとても危険。
強い愛情で結びついている、互いに互いを必要としているからさらに危険。
それでも一緒にいたい。だから真剣に悩む。傍から見ればとてもこっけいなことかも知れない。
ガタイのいい男二人のゲイカップルが、夫婦生活がぎくしゃくしちゃって必死こいて悩んだ揚げ句、ずれた方向に突っ走たりする……それが今回のテーマです。
【attenntion!】タイトルに『★』もしくは『★★』の入っている章は直接的な描写はありませんが、男性同士の恋愛描写があります。『★★★』の入っている章には男性同士のベッドシーンが含まれています。十八歳未満の方、および男性同士の恋愛描写がNGの方は閲覧をお控えください。
記事リスト
- 【4-20-0】登場人物 (2010-09-12)
- 【4-20-1】★★レオン落ち込む (2010-09-12)
- 【4-20-2】★空気が重い (2010-09-12)
- 【4-20-3】★ままは上の空 (2010-09-12)
- 【4-20-4】いたたまれず飲み会 (2010-09-12)
- 【4-20-5】★★これが倦怠期って奴か? (2010-09-12)
- 【4-20-6】金髪ハリケーン (2010-09-12)
- 【4-20-7】★★★目をそらすな (2010-09-12)
- 【4-20-7-2】★★★目をそらすな (2010-09-12)
- 【4-20-8】あの頃みたいに (2010-09-12)
- 【4-20-9】★★★ままがんばる (2010-09-12)
▼ 【4-20-0】登場人物
- より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】
通称レオン、弁護士、27歳。
ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
爽やかな笑顔の裏で実はかなりの激情家。嫁に近づく不埒な輩には容赦無い。
自制できると思っていた。飼い馴らしたと信じていた。
愛する人を食い尽くそうとする真っ黒な獣を。それなのに……。
「どうやって君を守ればいいのだろう。他ならぬ俺自身から」
【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】
通称ディフ、もしくはマックス。
元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
レオンの嫁で双子の『まま』。大きな温かな翼を広げて迷い子を包み込む。
その大らかな包容力と母性は時として危険。
レオンが望んでいる、ただそれだけで彼は破滅への道をも受け入れてしまう。
【シエン・セーブル/Sien-Sable】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
家族の愛情に支えられ、閉ざされた心の扉を開けて少しずつ前に進みはじめる。
そんな矢先に『ぱぱ』と『まま』の様子がおかしくなった。
不吉な気配に不安定で繊細な心は怯え、揺らぎはじめる。
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】
不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
外見はほぼシエンと同じ。飼い猫のオーレはエドワーズ古書店の猫、リズの娘。
ヒウェルへの突っ込みは容赦無いが、マメに世話を焼く一面も。
ずっと二人だけで生きてきた。互いを唯一の存在として。
シエンのために。今、自分たちが必要としている『家庭』を守るために、覚悟を決める。
【オーレ/Oule】
四話めにしてようやく本編に登場したオティアの飼い猫。
白毛に青い瞳、左のお腹にすこしゆがんだカフェオーレ色の丸いぶちがある。
最愛の『おうじさま』=オティアを守る天下無敵のお姫様。
趣味はフリークライミングとトレッキング(いずれも室内)、好物はエビ。
日々性格が「女王様」化しつつある。
得意技は跳び蹴り、標的は言わずと知れたへたれ眼鏡。
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
職業はフリーのジャーナリスト。黒髪にアンバーアイ、ひょろ長猫背の不健康大王。
レオンとディフの高校時代からの友人。腹を割って話し合える間柄。
オティアにぞっこん参ってるへたれ眼鏡。
天涯孤独の彼にとってシエンは可愛い弟、大切な家族。
特技は『いらんひと言で痛い目を見る』こと。
【結城朔也】
通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。23歳。
癒し系獣医。お酒を飲むとぽわっと頭にお花が咲く。
サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
中味はしっかり男性なのに、何故かやたらと女の子に間違えられるのが悩みの種。
双子と相性が良く、たまにベビーシッターをしている。
【ソフィア/Sophia-Owen】
レオンの元執事にして現秘書アレックスの妻。
鹿の子色のくるくるカールした短い髪に濃いかっ色の瞳。30才。
最初の夫は交通事故で亡くなり、アレックスと再婚した。
イースト菌を自在に操るパン屋の看板娘。
シエンとオティアにパンの作り方を教えてくれる。
【ディーン/Dean-Owen】
ソフィアの息子。アレックスは義父にあたる。
鳶色の髪に濃い茶色の瞳、物怖じしない3歳児。
猫好きだけど、なかなかオーレに近づいてもらえない。
illustrated by Kasuri
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▼ 【4-20-1】★★レオン落ち込む
カーテンの隙間から白い光が差し込む。
朝だ。
わかってはいたが、カーテンを開ける気にはなれなかった。枕元の常夜灯を頼りにバスルームに歩いてゆき、明かりをつける。
象牙色の光が目に染みる。まぶしさに目を細めながら鏡張りの戸を開け、棚から白いプラスチックのケースをとり出した。
箱の表面には赤い十字の印……救急キットだ。この部屋でディフが暮らすようになってから、居間の他に個々のバスルームにも救急キットが備え付けられている。
過保護だな、とも思ったが、今は彼のその用心深さがありがたい。おかげで知られずに済む。双子たちにも。ヒウェルにも。
何故、それが必要となったのか。
扉を閉める。鏡に写る己の顔から反射的に目をそらしていた。
(……酷い男だ)
足早に寝室に戻ると、ディフは歯を食いしばってベッドの上に半身を起こしていた。
眉をしかめ、咽の奥からくぐもった呻きを漏らす。
ベッドから起き上がる。それだけの動作であんな顔をするなんて。駆け寄り、肩を支えた。
「…………あ」
「無理をしないで。今朝はアレックスに来てもらうから」
「そ……だな……」
救急キットをベッドの上に載せると、ディフは小さな声で「ありがとう」と囁いてきた。
ガウンの襟をずらし、髪の毛をかきあげる。左の首筋の火傷の跡。大きさといい、形といい、薔薇の花びらそっくりの傷跡の上に、くっきりと真新しい傷が刻まれている。byte-mark……レイプや虐待の証拠となり得る噛み跡だ。
弧を描いて点々と『薔薇の花びら』を横切る牙の痕。皮膚の内側は赤黒くうっ血し、表面にはうっすらと乾いた血がこびりついている。
昨年の五月、彼に刻まれた忌まわしい傷によく似ている。だが今、目の前にあるのは他ならぬ自分が。
レオンハルト・ローゼンベルクが刻んだ印だ。
ディフは淡々と傷の手当てを続けていた。腕や肩、ガウンに隠れて見えない場所。体中いたる場所に走る赤い筋に軟膏を塗っている。あれは、この爪が刻んだのだろうか。それとも、もっと尖った別の何かの痕跡なのだろうか。
………覚えていない。
だが、普段は使わないタックピンがベッドサイドのテーブルの上に転がっていた。
闇の中、おぼろげな記憶の欠片が閃く。
怯えるヘーゼルの瞳をスカーフで塞ぎ、汗ばむ白い肌に銀色に光る針を這わせ、滲む雫を執拗に舐めとった。
(あんなものまで……俺は……俺は、何て事を!)
繰り返し注射された忌まわしい薬剤。押さえ込まれ、無理やり背中に刻まれたタトゥー。
肌に針を刺されることを、彼がどんなに恐れるか知っているはずなのに………。
引っかき傷の処置を終えると、彼は最後に手探りで首筋を消毒し、軟膏を塗り、大きめの絆創膏を貼ろうとした。体をひねった拍子に顔をしかめる。
「あ」
強ばる指先の間をすり抜け、絆創膏が落ちる。拾い上げて首筋にそっと乗せた。とにかく忌まわしい歯形を視界から消したかった。
「手伝おう」
「すまん。そこ、押さえててくれるか」
「……ああ」
傷の手当てを終えると、ディフは静かに横になった。
「少し……眠るよ」
「そうだね、その方がいい」
彼はほほ笑み、目を閉じた。わずか一晩の間にげっそりとやつれてしまった。昨夜の事がよほど堪えたのだろう。手を伸ばし、頬に触れる。指先が震えた。
(……すまない)
自分をコントロールできなかった。腹の底から沸き起こる真っ黒な衝動を抑えられず、欲望の赴くまま君をねじ伏せ、甘美な肢体をむさぼった。切れ切れに漏れ聞こえる悲鳴に酔い、ひたすら己の飢えを満たす事に没頭した。溺れた。
(俺の中に獣が居る。愛する人を食い尽くそうと目を光らせ、牙を研ぐ獣が潜んでいる)
ずっと『そいつ』の存在に気付いていた。ディフへの想いを自覚したその日から。だからこそ、鋼の意志を以て飼い馴らしてきたつもりだった。制御できると信じていた。
それなのに。
俺は一線を踏み越えてしまった。彼は何も言わないけれど、あれは『過激なセックス』で済まされるレベルじゃない。明らかにDV(ドメスティックバイオレンス)だ。
同じことが男女の夫婦で起きれば即座に警察沙汰だ。
ディフもそのことはわかっているはずだ。自分が目撃したらすぐに警察に連絡するだろう。
(俺が望んだから……)
それだけの理由で、彼は全てを受け入れる。愛情故に為されたことだと知っているから。血のにじむ胸で、腕で俺を温かく包んでくれる。ほほ笑みさえ浮かべて……。
「ディ……フ……」
うっすらと開いた瞼の合間から、優しいヘーゼルブラウンが見上げてくる。
身をかがめて額に口づける。
唇を重ねることは、できなかった。
恐ろしかったのだ。
その瞬間、自分の中の真っ黒な獣が牙を剥き、今度こそディフを食い尽くしてしまうのではないかと。
(どうやって君を守れば良いのだろう? 他ならぬ、俺自身から)
次へ→【4-20-2】★空気が重い
▼ 【4-20-2】★空気が重い
月曜の朝、シエンは少し早めに起きた。
昨日、ディフは一日中起きてこなかった。朝も昼も夜も、食事は全部アレックスが準備してくれた。
アレックスの料理も、ソフィアの焼いたパンも美味しい。でもさすがに今朝は頼る訳には行かない。アレックスは仕事があるし、ソフィアだってディーンを幼稚園に送って行かなきゃいけない。
(昨日もらったパンをトーストして、卵を焼いて……オムレツにしようかな、目玉焼きにしようか)
考えながらリビングに通じるドアを開けると、ばったりディフと目が合った。
「あ」
「あ……」
起きてる。もう、具合はいいんだろうか? 珍しくきっちりとハイネックのセーターを着込んでいた。
腕まくりもしていない。寒いのかな。
「おはよう」
「おはよう。もういいの?」
「ああ。心配かけたな」
声がちょっとしゃがれてる。やっぱりまだ本調子じゃないんだ。
キッチンに行くと、レオンがいつものようにミルでコーヒー豆を挽いていた。
「おはよう」
「……おはよう」
何だろう。今、一瞬だけど妙な隙間があった。
ディフの『おはよう』にレオンが応えるまでに、ほんの少し、間が空いてたような気がする。
「卵はオムレツ? スクランブル? フライドエッグ?」
「そうだな……スクランブルにしてみるか」
「OK」
甲斐甲斐しく働く二人の姿を見守りながら、オティアはひそかに眉をしかめていた。
ディフとシエンが入ってきた瞬間、レオンが一瞬、手を止めていた。直接見た訳ではないけれど、ミルの音が途切れた。すぐにコリコリとコーヒー豆を挽くリズミカルな音が再開したけれど……それに紛れてかすかにため息をつく気配がした。
レオンが。あのレオンが、自分たちの見ている前でため息をつくなんて、今まで一度だってなかったのに!
ディフはまだ調子が悪いらしい。昨日寝込んだ原因が何なのかは、考えたくもなかった。
大したことじゃない。どうせ放っておいても元の鞘に収まる連中だ。あくまで何もなかった事にしているのなら、こっちもそれに付き合っていればいい。
まもなくパンが焼け、コーヒーの香ばしいかおりが立ち昇る。いつもと同じ朝食の時間が始まる。
だが食卓に漂う空気はどこかぎこちなく、重かった。
※ ※ ※ ※
レオンが、遠い。
物理的な意味じゃない。仕事中はともかく、家に居る時はそれこそ片時も離れちゃいない。毎日同じベッドで眠り、同じ部屋で目覚め、一緒に食卓を囲む。
送り出す時も出迎える時もキスとハグ。今までと同じ、何ら変わりはない。
外側から見る限りは。
「お帰り」
「ただいま」
仕事を終えて帰ってきたレオンをいつものようにキスとハグで出迎える。
疲れてるな。一日ずっと気を張りつめて、今も神経をピリピリ尖らせてる。ただ唇を合わせただけで、わかるよ。伝わってくる。
一旦、キッチンに顔を出し、双子に声をかける。
「ちょっと任せていいか?」
「ん」
「いいよ」
「サンクス」
大股でリビングを横切り、廊下を歩き、寝室に入る。レオンがネクタイをゆるめて外していた。何度見ても飽きない、大好きな仕草だ。一人でいる安心感から気が緩んだのだろう。今まで隠していた苦さと重さがにじみだし、丹精な顔立ちを憂いの影が縁取っていた。
くっきりと、暗く。
「……どうした、レオン」
ためらいがちに声をかける。
途端にレオンは笑顔になった。明るい茶色の瞳はわずかに細められ、整った唇が三日月の形を描いてつり上がる。きれいにとりつくろった、完璧な営業用のスマイル。
大理石を削り出した、世界一美しい仮面。冷たく血の通わない石のほほ笑み。
お前がその表情を浮かべるのを、何度となく見てきた。だけどいつだって相手は俺以外の誰かだった。
一度だって俺にはこんな顔、向けたことがなかった。今、この瞬間までは……。
「何でもないよ」
歯がゆい、やり切れない、切ない。
のどが詰まる。
込み上げる感情をどこに逃がせばいいのか、わからない。息ができない。
咄嗟にスーツの襟を掴み、レオンを引き寄せる。驚いてるな。そうだ、それがお前の本当の『顔』だ。
目を閉じて、無我夢中でキスをした。ティーンの頃に初めて女の子とキスした時だってここまで緊張はしなかった!
ガチっと歯がぶつかりそうな勢いだったが、かろうじてそれだけは回避した。襟を掴む手がぶるぶる震える。
どうする。勢いでキスしちまったが、ここからどうする。もっと深く重ねるか。舌入れるか? ああ、でも仕掛けた瞬間、逃げられたら! 引くことも前に出ることもできずに震えていると……
背中に腕が回され、抱き寄せられた。
(あ)
唇が動く。
やわらかく、そっと、羽根でくすぐるみたいに俺の唇をついばみ、ちゅっと軽やかな音を立てて後ろに引く。離れてはいない。触れるか触れないかの微妙な距離。
かわされた。
凍てつく糸がきりきりと心臓をからめ捕り、締めつける。
後先考えずに行き詰まり、追いつめられ、必死になって全力で仕掛けたキスを……
なかったことに、された。
響きあう心と、絡み合う体と。どちらが欠けても『愛してる』は成立しない。
この一週間と言うもの、俺たちの間には片方しか通じていない! 俺を優しく受け止めているように見えるけど、お前は決して深く触れようとしない。ただ表面を優しくなでるだけだ。通り過ぎるだけだ。
(ちがう。ちがうぞ、レオン。俺が欲しいのは、こんな優しいキスじゃない!)
(もっと強く吸えよ。舌つっこんでこいよ。俺が欲しがってる時は、求める前にいつだってそうしてくれるじゃないか!)
(伝わってないのか? わかってて気付かないふりしてるのか?)
嗚呼、やり切れない。
いたたまれない。
手のひらを胸に当て、ぐい、と押しのけた。
「………お前は、全然わかってない」
口が歪み、声が揺れる。レオンはほんの少し悲しそうな顔をして、目を伏せた。背を向けて部屋を出る。
とてもじゃないけど、それ以上彼の顔を見ていられなかった。
みっともない。情けない。自分からかまってくれとすり寄っておいて、拗ねてかんしゃく起こして逃げるなんて。
俺は子どもか?
荒々しくリビングに通じるドアを開ける。
ソファの上で、オーレがびょくっと四つ足で飛び上がった。白いしっぽがぼわぼわに膨らんでいる。
「っと………」
よほどびっくりしたんだろう。耳を伏せ、背中を丸め、とっとっとっと斜めに後じさる。真っ赤な口が開き、しゃーっっと威嚇の声と、圧縮された空気を吹きつけられた。
「すまん」
「ぅるにーう!」
ぴしゃり、としっぽがしなり、ソファを叩く。半月型になった青い瞳が、上目遣いにじとーっとねめつけてくる。とんでもなく目つきが悪い。
「美人が台無しだぞ、オーレ……」
そろーっと指を差し出す。オーレは耳を元に戻して、ふん、ふん、とにおいをかぎ、くしっと顔をすり寄せた。
いかん。
ため息が漏れる。
いかん、いかん。キッチンに戻るまでに、持ち直さなければ。
親が不安になれば、子も心細くなる。シエンは今、少しずつ外に出ようとしている。勇気を振り絞ってやっと自分から踏み出した所なんだ。余計な心配をかけちゃいけない。
すうっと息を吸い込む。
白い子猫を抱き寄せ、ふかふかの毛皮に顔をうずめた。ごろごろとのどを鳴らす音が響く。ああ、天上の音楽だ。
「にゅ?」
「……ありがとな」
とん、とオーレは身軽に床に飛び降りた。俺の足の間をすり抜け、ととと、と前に進んでからこっちを振り向き、ひゅんっとしっぽを振った。
「ああ、今行くよ」
顔を上げ、口角を上げ、キッチンに向かった。
「待たせたな!」
※ ※ ※ ※
ドアが閉まり、重たい足音が遠ざかる。いつもより早いリズムを刻んで。
レオンは深いため息をついた。
危ない所だった。
叩きつけられた情熱をかわすのに、凄まじい努力と鋼鉄の意志を振り絞らなければならなかった。
(わかっているさ……)
小刻みに震える熱い体の感触が、手のひらにまとわりついて離れない。
あんなにいっぱいいっぱいになって、追いつめられて。必死ですがりついていた。求めていた。
できるものならば、この場でベッドに押し倒したかった。
だけど。
拳を握る。手のひらに爪が食い込む。
(今触れたら、きっと君を壊してしまう)
愛しい君。最愛の君。
愛しくて、可愛くて……引き裂かずにはいられない。
次へ→【4-20-3】★ままは上の空
▼ 【4-20-3】★ままは上の空
あれからずっと、レオンは俺に触れようとしない。
二人きりになった瞬間にお互いに距離をとってしまう。抱きあうことも、手さえ握らず……隣に居るだけ。ベッドの中でも。外でも。
おやすみのキスとおはようのキスは、唇ではなく額だ。
「どうした? ヒゲが当たってくすぐったいか?」
空元気を振り絞って笑いかけるとレオンは眉根を寄せて目を細め、ぎこちない笑みを返してきた。
しなやかな手のひらが二の腕にまきつき、肘へと滑り降りる。そのまま腕から指先へとすり抜け、離れて行った。遠ざかる愛しい指先を追いかけることも、すがることもできず、そのまま黙って背を向けた。
だが、子供たちの前ではいつもと同じように振る舞う。悟られてはいけない。知られてはいけないと、平常を装う。
胸の内側はきりきりと、絶えず刃物で切りつけられるように痛い。眉をしかめたくなるレベルの不快感が絶え間なく続き、ふとした拍子にのたうち回ってもまだ足りぬくらいの激痛へと変わる。
こうしている間にも、見えない傷が増えてゆく。傷口が広がってゆくのをはっきりと感じる。
薬を飲んでも、塗っても効かない。効くはずがない。
こんな事、今まで無かった。まだ親友だった頃から今に至るまで、一度もだ。
どうすればいいのか、わからない。
だが、幸いにして理由は察しがつく。
『壊れる君が、見たい』
『いいよ。好きなだけ、俺を壊せ』
何もかも、あの一夜から始まった。
俺にあんな性癖があると分かってしまったから……いたぶられて悦ぶ浅ましい男だと知られたから、軽蔑されているのだろうか。
避けられてるのだろうか?
『誰でもいいんだろう? お前の穴を埋めてくれる男なら、誰でも!』
(ちがう……)
『力づくで犯されて、よがり狂いやがって。たまらねえって顔してるぜ。心底呆れた奴だ……』
(ちがう!)
『この姿……ローゼンベルクに見せてやりたいよ』
「っ!」
歯を食いしばり、両手で肩を押さえ込んでも止まらない。体内に深く穿たれた穴の奥から沸き起こる、不規則な震えが。
『いいよ。好きなだけ、俺を壊せ』
何故、あんな姿をお前に見せてしまったのか。
ああ、できるものなら、時間を巻き戻して無かったことにしてしまいたい……
そうできたら、どんなにいいか。
扉の開く音にびくっとすくみ上がる。
心臓が縮み、一瞬置いて激しく脈動する。すさまじい勢いで内側から肋が押し広げられ、きしむ。
落ち着け。
口を開けて深く息を吸い、吐き出した。もうじき彼が入ってくる。それまでに持ち直せ。笑顔を作れ。何としてでも!
「ただいま」
「お帰り」
どうにか間に合った。
今夜もまた、何事もないように抱きあい、キスをする。固く目を閉じたまま、手探りで腕を回して。
唇が触れる。思い切って目を開けると、ほほ笑む明るい褐色の瞳の奥に陰りが見えた。
何てことだ。
レオン……お前、全然力を抜いてない。
一度気付いてしまうと、もういけない。仕草や眼差し、声の端々に、嫌な強張りが見えてしまう。
この感じ、前にも一度見たことがある。初めてルームメイトとして出会ったあの時だ。
こいつには、何か欠けているものがあると思った。
親友としての日々に終わりを告げ、初めて恋人のキスを交わした夜、欠けたピースがかちりとはまるのを感じた。そのはずだった。
置いてきぼりにされた子どものような、寂しげな気配。拗ねてる、なんて可愛いげのあるものじゃない。膝を抱えてうずくまり、絶えず周囲の気配に耳をそばだてている。研ぎ澄まされた刃物を全身にまとって。
まるで、回りを全て敵に囲まれてた兵士のように身構えている。
ここはお前の家なのに。帰ってくる場所のはずなのに!
(俺のせいだ……ずっと子供たちに。シエンにかかりっきりで。レオンは大丈夫だって。ただ隣にいればいいと勝手に安心していた!)
「シャワーを浴びてくるよ」
「……ああ」
だからなのか、レオン。
だから、あんなにも激しく俺を求めたのか。すがりついたのか。それなのに、俺は……俺は………
「ごめん……レオン。ごめん……」
かすれた声はガラスのドアと水音に遮られ、愛しい人には届かない。
※ ※ ※ ※
夜。
何気なく寝返りを打った拍子に、右の肩がレオンの背中に触れた。その瞬間、彼がわずかに身を固くする気配が伝わってきた。
起こしてしまったのか。それとも眠っていなかったのか。
レオンは動かない。俺も、動けない。しんと静まり返った空間に、ただ互いの息の音だけが響く。
不自然に穏やかに、規則正しく。からからに乾いた口内に唾液が溜まる。こくっと飲み込むのどの鳴る音にさえ心臓が縮み上がる。
(何やってんだ、俺は)
声をかけることもできず、彼を抱き寄せることもできず。寝返りを打つふりをして、離れた。
ついさっきまで肩に触れていたレオンの背中の温もりが遠ざかる。それを寂しいと思うよりむしろ安堵している自分に気付き……泣きたくなった。
※ ※ ※ ※
互いに背を向け、息を潜めたままひたすら夜が明けるのを待った。
朝は何事もなくいつも通りの時間に起きて、おはようのキスを額に受けた。
優しいな、レオン。
だけど今はお前の優しさが、つらい。切ない。
「行ってくるよ」
「ああ、気を付けてな」
彼を送り出し、サリーに後を託して事務所に向かう。
一人になると、いやでも意識が昨夜の記憶に引っ張られちまう。
……いかんな。
がしがしと頭をかき回し、まとわりつく重苦しさを振り払う。今はこの事務所には俺しかいないんだ。自分の代わりは誰にもできない。逃げ場はない。
勢いよく上着を羽織り、デスクから立ち上がる。
俺はプロの探偵だ。訓練を受けた調査の専門家だ。
迷ってる場合じゃない。報酬に見合った結果を届けろ、責任を持って。
外にいる間は意識が上手い具合に切り替わってくれた。ぴしっと気が張りつめ、夕方には滞りなく任務完了。残っているのはデスクワークだけだ。
さて、どうしたものか。仕上げてから帰るか、家に持ち帰るか……基本、仕事は家に持ち込まない主義だが。
「っと」
携帯が震える。シエンからのメールだ。
『ソイ・ソースが終わっちゃった。まだ事務所にいるなら、買ってきて』
……抜かった。少なくなっていたが、まだしばらくは持つと思ったんだが。
今日のランチはサリーが作ってくれた。日本の料理ってのは、ソイ・ソースをメインに使うんだよな。
ノートパソコンを閉じて鞄に突っ込む。残りは家でやろう。
スーパーで買い物カートを押して歩く。いい加減、一人で買い物するのにも慣れてきたな……
冷凍食品のコーナーを通りかかると、レンジミールの試食が配られていた。新商品らしい。
何だか奇妙な懐かしさを感じた。
以前はあの家の冷蔵庫の中にこいつが常駐していた。一昨年の冬、俺が入院してる間。アレックスが忙しい時、レオンとオティアとシエンはこいつをあっためて食っていた。
見かねたヒウェルが朝飯を作り始めて、そのうちシエンとオティアが手伝い始めて……今では当たり前のように三人でキッチンに立っている。
その前の年は台所に立つのは俺一人で、食卓で待っていたのはレオン一人だった。たまにヒウェルが混じることはあったが……。
それより前は?
もっと前は?
始まりは?
『飯、できたぞ』
『君が作ったのか?』
『ああ、一人分も二人分も大して変わんないからな。そら、冷めないうちに食え』
高校の寮の部屋。スクランブルエッグと焼いたベーコン、トーストが二枚。それまで何を食っても無反応だったレオンが初めて顔をほころばせた。
『君は料理が上手いんだな』
俺は無くしてしまったのだろうか。あの時、確かに分かち合っていたはずの欠片を。
※ ※ ※ ※
「ただいま……シエン? オティア?」
「にゃーう」
「ああ、そっちか」
子猫の声に導かれてダイニングルームに向かう。
双子は食卓で向かい合わせに座ってホームスクーリングの課題をしていた。オティアの目の前には、ノートパソコンが置かれている。なるほど、パソコンと教科書や参考書、ノートを広げるのに自分の部屋の机では狭かったか。
「お帰りなさい」
「ただいま」
食卓に歩み寄り、無造作に買い物袋とパソコンの入った鞄を空いている場所に載せた。
そのつもりだったんだが。
「あ」
袋を置いたその真下。
あるはずの天板が、半分しか無かった。
生成りの布袋がゆっくりと内側に向かって崩壊する。まるで古いビルの爆破を見ているようだった。支えを失った布地がくたんと折れて、中に詰まったオレンジとリンゴがこぼれ落ちる。
「っと!」
慌てて差し伸べた手の上で、ぴたり、と袋の崩壊が止まった。オレンジもリンゴも、一時停止をかけたみたいに空中で静止していた。
オティアか。シエンか。それとも二人で一緒にやったか?
「さっさと拾え」
「……すまん」
オティアの言葉にぴしりと背中を叩かれた気がした。のそのそと袋を掴み、今度こそ完全にテーブルの上に載せた。
双子がふうっと息を吐き、力を抜く。
「……ありがとな」
「大丈夫?」
「ああ。荷崩れして困るようなものは入れてないし………」
買ってきたものを袋からとり出し、冷蔵庫に入れてゆく。シエンはノートを閉じて立ち上がり、手伝ってくれた。
「よし、これで全部だ」
「全部? ほんとに?」
「ああ。そら、空っぽだろ?」
空っぽになったエコバッグを逆さに振ってみせると、双子は顔を見合わせている。
「どうした?」
シエンが遠慮がちに口を開いた。
「ソイ・ソースは?」
「……忘れた」
何てこったい。そいつを買いに行ったはずなのに。
がっくりとうつむいていると、携帯をかける気配がした。
「ハロー、ソフィア。……うん、大丈夫だよ。さっきディフが帰ってきたし。それでね、ちょっとお願いしたいんだけど、ソイ・ソースの予備、ある? ……そっか、ありがとう」
そ、と顔をあげると、シエンがこっちを見ていた。
「ソフィアのとこに、一本あるって」
オティアがうなずき、パソコンを閉じて立ち上がる。白い毛皮が椅子を伝ってするすると駆け上がり、くるりと肩に巻き付いた。
チリン、と鈴が鳴る。
「下に行ってくる」
「ああ……すまん」
※ ※ ※ ※
ダイニングを出る間際に背後で深いため息を聞いた。
無視してすたすた歩き、リビングを通り抜け、玄関を出たところでオティアは感情を解放した。思う存分顔をしかめ、舌打ちする。
(ったく……)
ディフときたらここ一週間ばかりと言うもの、謝ってばかりだ。ネットワーク上にあがってくるデータも冗談みたいな凡ミス満載で、(おそらく入力の段階で間違えている)いちいち確認しなきゃいけないから能率が悪いことこの上ない。予定通りに進まない。
イライラする。理由の察しがつくだけに、余計に。はっきり言って仕事にならない。
あの二人、今回は何を手間取っているのか。いい加減、ここまで長引くとシエンも薄々、気付き始めている。
何かがおかしい、と。
そわそわと落ち着かず、さりとて直接、尋ねることもできずに悩んでいる。
『何かあったの?』
口にした瞬間、曲りなりにも小康状態を保っている「今」が崩れてしまうのではないかと、恐れている。
毎夜のように襲ってくる不気味な重苦しい夢を見なくなって、やっと落ち着き始めた所なのに。
「に?」
ふにっと頬に湿った感触が押し当てられる。オーレが鼻を寄せていた。力を抜くと、オティアはなめらかな毛皮を撫でた。
これ以上長引くようなら、こっちにも考えがある。
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▼ 【4-20-4】いたたまれず飲み会
「ごちそーさん、美味かった」
「………」
ここ数日、空気が重い。だからあえて明るく振る舞ってるんだが、ことごとく滑る。
シエンは曖昧にうなずき、オティアはまるっきりスルー。レオンは極上の笑みを顔に貼り付けたまま、ただこっちを見てる。そしてディフは……何を言っても無反応。ぼーっとして、フォークを動かし皿の上のものを口に運ぶ。
たまにつるっと落ちて汁が跳ねても無反応。
今日は特に酷い。さっきから無地のシャツに不規則な水玉模様が着々と増えている。真っ先に拭くはずの奴は、困ったような顔をして見ているだけ。中途半端な位置で手が止まっている。
何があったんだ、レオン。どうしちゃったんだ、ディフ。
食後の紅茶の後でオティアとシエンは部屋に引き上げていった。長居は無用、俺もさっさと退散するとしよう。邪魔しちゃ悪いし……。
「んじゃ、俺もそろそろ」
わざわざ、普段言わないようなセリフを口にしつつ立ち上がろうとすると。
「ヒウェル」
うわぁ。
お呼びがかかった!
「一杯付き合わないかい?」
「え、いや、でも……」
本気か、レオン。今夜は金曜だぞ? 邪魔者はとっとと失せろと、いつもにも増して無言の圧力をかけてくるくせに。いったいどんな風の吹き回しだ。熱でもあるのか?
「いい酒が手に入ったんだ。仕事も一段落したんだろう?」
いかん。退路を断たれた。
「せっかくだから、ね?」
「……つまみ作ってきます」
ああ。
つくづく意志が弱いよ、俺って。
バーカウンターに場を移し、飲み始めて三時間半。
俺はカウンターのこっち側、レオンとディフはカウンターのあっち側。いつものように並んで座っている。
最初にレオンが持ち出したボトルはとっくに空になり、既に三本目の底が見え始めている。
初めの十分ほどは俺から話題を振ってみたのだが(無難に天気の話とかな)、レオンもディフもまったく乗ってこない。黙れと言われないだけ、まだマシか。
無言でグラスの中味をあおり、空になったらさしだす。出されたグラスに注ぐ。氷も無し、水も、ソーダも無し。
しまいにゃ俺も諦めて、ひたすら飲みに徹する事にした。
ちくしょう、せっかくのいい酒を何が悲しくてこんないたたまれない空気の中で飲まなきゃいけないんだ!
(やってらんねーっ)
早いとこ酔っぱらって、この重苦しい沈黙から逃げ出そう。躍起になって杯を重ねた。
それなのに……酔えない。頭の中味はほどよく充血し、手足はそれなりに重く、アルコールが確実に肝臓を浸し、体に影響を与えているのを感じる。
だけど、酔えない。
むしろ意識は冴え渡り、いやでも感じてしまう。察してしまう。いつもぴったり寄り添っているこのバカップルどもの間に、決定的なズレが生じていることに。
一応隣に座っちゃいるが、レオンのやつ、さっきから全然ディフの方を見ようとしていない!
いつだって、目を細めてディフの一挙一動をとっくり眺めているはずなのに。
「……」
だんっとカウンターの上に空のグラスが置かれる。つげってことかよ、ディフ。お前さっきから一言も喋ってないよな。双子が部屋に戻ってから一言も、だ。
ああ、もう、焦れったい。むずむずする。何で俺がこんな目に合わなきゃいかんのだ。
ぐっとグラスの中味をのどに流し込む。アルコール度98%のスピリッツが。透明な雫の形をした炎が降りてゆく。くはーっと熱い息を吐き出した。
……酒くせぇ。
酔ってはいない。だが酔ったふりはできる。手の甲で口をぬぐい、充血した目でぎろっとにらみつけた。
「ったく。お前ら、いい加減にしろよ? 二人っきりになるのが気まずいからって、人を巻き込むんじゃないよ。こちとらいい迷惑だ!」
「……」
反応無し。俺は空気か? ああ、いいさ、だったら空気が何を言おうと構わないよな。言ってやろうじゃないか。
「こんな所でぐだぐだ飲んでないで、さっさと熱いキッスの一つや二つ、三つや四つやっちまえばいいじゃないか! 今更遠慮するよなタマでもねぇだろ。そら、ぶちゅーっとやっちまえ!」
ことり、とレオンがグラスを置き、こっちを見て………笑った。
この上もなく優しげな顔で。どんな画家でも再現できないような、美しいほほ笑みで。
「あ」
さーっと血の気が引く。背骨にドリルで穴を開け、液体窒素を流し込まれた気がした。
「ご……ごめんなさいっ」
「何故あやまるのかな」
わかってるくせに。あえて聞くか。言わせたいのか。
「いやその、あのその」
だらだらと額から脂汗が流れる。吹き出すアドレナリンの力を借りて、恐怖にちぢみあがった脳みそフルにぶん回して探した。これ以上、姫の怒りをかき立てない無難な言葉を。
「出過ぎた真似をしたかな、と」
「そうだね」
「………失言でしたっ」
がばっとカウンターに両手を着いて頭を下げる。次の一撃を予測し、腹に力を入れて踏ん張った。
が。
かすかなため息とともに、席を立つ気配が伝わってきた。
(あれ?)
恐る恐る顔を上げると……レオンは肩をすくめてひと言。
「先に休むことにするよ、おやすみ」
「…………おやすみなさい」
マジかよ。すたすた行っちまった。俺はともかく、ディフを置いたまま。
こいつは何の冗談だ。
あり得ない。
天変地異の前触れか?
「…………」
ディフはディフで、ぼーっとしたまんまちびちび酒を舐めている。レオンが行っちまったのに、後を追いかける素振りもない。
「ったく……おい、こら、そこの当事者。こっちを向け!」
「………」
ぎろっと睨まれた。
凶暴な獣さながらの眼光の鋭さに、一瞬、生命の危機を感じた。
「あ、いや、その」
途端に、俺の目の前で地獄の番犬が………子犬に化けた。
こっちを正面からにらみ付けたまま、うるっと瞳に涙が盛り上がる。
「あ……すまなかった、ごめん、も、言わないから」
「…………」
透明な雫はなおもうるうると盛り上がり、限界を超え、ぽとっとこぼれ落ちた。
「あ、ほら、泣くなよっ! グラスに落ちるっつの!」
がくっとうつむいちまった。ゆるく波打つ赤い髪がカーテンみたいにたれさがり、俺と彼の間を遮る。
泣くなと言ったところで涙が止まれば世話はない。後から後からぽたぽたと落ちて、酒の表面に波紋を走らせる。
涙だけじゃないな、この分量は。鼻水も混じってる。多分。
「泣くなよ、もー……しょうがねえな……」
ひと言も喋らないまま、ずぞっと鼻をすすりあげた。微動だにしないで泣き続けるとは、ある意味器用なやつだ。ハンカチをとりだし、ぱんっと開いてさし出す。
「ほら、拭けよ」
もっそりと受け取り、両手で広げ、ぐしゃっと顔に当てた。やれやれ、豪快なんだか、繊細なんだか。ハンカチに顔を埋める赤毛さんの背中をぱたぱたと叩く。また、ずぞ……と豪快に鼻をすすり上げる音が聞こえた。
まあいいさ。
泣ける時は泣いておいた方がいい。ため込むよりずっといい。
だけど……。
(俺にも言えないんだな、ディフ)
肝心の傷口がどこにあるのか、わからない。わからないから、もどかしい。手探りであちこち突き回していいものか、途方に暮れたまま、俺は……広い背中を撫でることしかできなかった。
※ ※ ※ ※
細く開けていたドアを閉め、オティアはひっそりと足音を忍ばせ、廊下を引き返した。
駄目だ、あいつ。使えない。
ヒウェルが口火を切った瞬間、これが突破口になるかと期待した。伊達に付き合いは長くないなと、ほんの少しだけ感心しさえもした。
だが、結局はこのざまだ。
所詮あいつはレオンに頭が上がらないし、ディフを叱咤することもできない。そもそも、あの二人の間に何があったのか、理解さえしていないのだ。おそらく単純な夫婦ゲンカぐらいにしか思っていない。
期待するだけ、時間の無駄と言うものだろう。やはり、自分でどうにかするしかあるまい。
原因はレオンにある。ヒウェルにあれだけ言われても、全然怒っていなかった。怒りと言うものを感じなかった。
ディフに原因があるのならとっくにレオンに謝っているだろうし、レオンがその謝罪を受け入れない訳がない。
言いたいことは決まってる。問題はいつ決行するか、だ。
シエンにも、ディフにも気付かれず、なおかつレオンが家にいる時でなければいけない。
さて……。
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▼ 【4-20-5】★★これが倦怠期って奴か?
目が腫れぼったい。のどの奥が塩辛い。結局、二時近くまでヒウェルと飲んだくれてしまった。
「も、いい加減寝とけ」
「ん……」
「立てるか」
「ん……ヒウェル」
「何だ?」
「ありがとな」
「……どういたしまして」
見慣れた猫背がドアの向こうに消えて行く。
別れ際にひょろ長い指が、頭を撫でてったような気がしないでもないんだが……まさかな。子どもじゃあるまいし。
ああ、でも高校生ん時はお互いに、何のためらいもなくしがみついたり、撫でたりしてたなあ……。
ヒウェルとも。
レオンとも。
一体、いつから人に触れる事にこんなに身構えるようになっちまったんだろう。
寝室のドアを開ける。部屋の中には枕元に常夜灯がともっているだけだ。ドアを閉め、淡いオレンジの光りに目が慣れるまでしばし動きを止める。
「……ん」
レオン?
倒れてる。服も着替えずに、うつぶせになってベッドの上に! ぎょっとして駆け寄る。とっさに首筋に指を当て、脈を確かめてしまった。
……生きてる。温かい。
寝てるだけ、か。
「レオン」
「んー……」
うっすらと目を開けてこっちを見上げた。とろんとした表情で、焦点が合ってない。俺の顔じゃなくて肩の少し上とか、頭の後ろとか……とにかく、微妙にずれた辺りを見ている感じだ。
「服ぐらい着替えろよ」
「ん……」
「……剥くぞ?」
何か口の中でもぞもぞつぶやいて、くたりとベッドに突っ伏しちまった。駄目だ、これは。完全につぶれてる。
「本気だからな、俺は」
抱き寄せてセーターをまくり上げ、引っこ抜く。だらんとなってされるがままだ。シャツの裾をひっぱり出し、ボタンを外す。
こいつ、アンダーシャツ着てないし!
そうだ、レオンは基本的に「シャツは下着」派だった。たかだか二週間、触れてないだけでもう感覚が遠のいてる。
(くそっ!)
悔しいやら、腹立たしいやらで、ムキになって手を動かす。シャツをはぎ取り、ベルトを抜き取り、ズボンの金具を外してジッパーを降ろす。
illustrated by Kasuri
取り残されたパンツと靴下が、やたらと裸体のなまめかしさを引き立てる。
また、どっちも黒いもんだから余計に。
(何で俺、目をそらしてるんだろう)
靴下を抜き取り、パジャマを取ってきて着せた。レオンを仰向けに寝かせ、柔らかな布地が体を覆ったのを確認し、やっと肩の力を抜く。
襟元が妙な具合に互い違いになっていた。超特急でボタンを閉めたもんだから、掛け違えたらしい。
やり直すか。このまま布団の中に突っ込むか。ぼやーっといい具合に充血した頭で考えるが、ふわふわして一向に意識が定まらない。
夢を見ているような気分で顔を寄せ……
襟の合わせ目からのぞく滑らかなのどに、キスしていた。
「あ……」
ぴくり、と唇の下でレオンが震える。あっと思った時には引き寄せられ、唇を塞がれていた。
「う」
「ん……」
重ねるとか、触れるなんてかわいげのあるキスじゃない。真っ向から噛みあい、むさぼられる。
湿った舌が唇をなぞる。ぞわぁっと細かい泡が吹き込まれ、全身に広がる。久しぶりに。本当に久しぶりに注ぎ込まれる甘美なしびれが嬉しくて、口を開いて受け入れた。
誘い込んだ。
ぐいぐいと押し込まれる舌にしゃぶりつき、唾液がこぼれるのも構わず吸い上げた。上あご、下あご、歯の裏、舌の付け根。ねっちりと舐め回され、心地よい温みにとろけた。
(そ……だ……これが……欲しかった……ずっと……)
「は……はぁ」
「は……ふ……あ……」
ようやく唇が離れた時は、体中まんべんなくいじり回されたみたいに力が抜けていた。
久しぶりのディープキスは余りに熱く、甘くて……まるでチリ食った後のココアだ。ブランクの後だから余計に刺激が強過ぎる。
口を開けたまま、咽をならして必死で空気を吸った。
レオンの身体からも、くたんと力が抜けた。
「レオン?」
返事はない。完全に寝ちまった。俺にしがみついたまま……胸元に顔を埋めて。
困った。
がしっとシャツをつかまれてる。これじゃ、脱げない。
仕方がないのでスリッパだけ脱いで、体をあちこち折り曲げて、どうにか掛け布団を引っぱり上げる。せめてジーンズだけでも脱げないもんか……
ベルトをゆるめようとまさぐるが、なぜか一向に金具が見当たらない。自分がどこに触っているのかもわからない。
目的を果たせぬまま、もそもそしてるうちに上のまぶたと下のまぶたが引き寄せられ………
…………ブラックアウト。
※ ※ ※ ※
白い光がまぶたに当たる。カーテンは閉めたはずだ。どこかに隙間があるらしい。
うっすらと目を開ける。
すぐそばに、ディフがいた。ほんの少し口を開け、目を閉じて眠っている。ふわふわの赤い髪が枕に広がり、頬を、うなじを覆っている。合間からのぞく『薔薇の花びら』は、今は穏やかな薄紅色をしている。
あまりに無防備で、いとけない寝顔に手を伸ばす。
……これは賭けだ。
指先が頬に触れる。しっとりと滑らかな肌が吸い付いてきた。
もう少し。もう少し。手のひらで頬を包み込む。
「ん………レオン……」
目を閉じたまま、にこっとほほ笑んだ。
まだ君は夢の中にいるんだね。
そろり、そろりともう片方の手を背に回し……ためらいながら抱き寄せる。
彼の体を、布地の下の熱さを腕の中に感じる。ほのかに立ち昇る肌のにおいが鼻孔をくすぐる。目に見えない指先で、そっと。生きてそこにいる、生身の体のにおい。丁寧に洗い上げた布と日の光、昨夜の料理と、ブランデーの混じる汗のにおい。
溶け合って君の香りになる。ねっとりと甘く、やわらかで、吸い込むとぴりっと咽の奥に小さな光の粒が弾けた。
「……レオン」
ディフは自分からしがみつき、胸元に顔を埋めてきた。
『俺のクマどこ?』
『……あった』
がっしりした骨組みを覆う、みっしりと張りつめた丈夫な筋肉。布越しに彼の体を。肌を。熱さを感じた。
柔らかな髪にキスをして、目を閉じる。
今、この瞬間、自分が求めているのは血の味でもなければ悲鳴でもない。涙でもない。君と一緒にいたい……もう少しでいいから。
激しい衝動は依然として俺の中にある。だが獣は巣穴の中に横たわり、息を潜めていた。
そう、今の所は。
※ ※ ※ ※
久しぶりに、いい夢を見た。あったかくてふわふわした大好きな何かに包まれて、ヒリヒリと疼く胸の奥の穴がちょっぴり。
そう、ほんのちょっぴり、柔らかな皮にくるまれたような気がした。
だけど目覚めてみればそこは現実。着たまま寝ちまって、くしゃくしゃになった服を洗濯機に放り込んでる間にレオンは仕事に行っちまった。休日出勤なんて珍しいことじゃない。今まで何度もあった。
その度に寂しい思いをしたが、今日は正直ほっとしてる。彼も今ごろ、同じように感じているんだろうか。
職業柄、もっと些細な理由で別れる夫婦を何組も見てきた。増して俺達が別れるのに、わざわざ離婚届を出す必要はない。ネバダに四週間滞在する手間も掛からない。
荷物をまとめて出て行けば、それで終りだ。
(馬鹿な。何を考えてるんだ、俺は!)
レオンと離れ離れになるなんて。彼のいない日々なんて、想像したくもない!
沸き起こる衝動が手を動かし、読みかけの朝刊をテーブルに叩きつけていた。ばさりと広がった紙面の見出しに目が引き寄せられる。
『最近、夫がメイクラブしてくれない』
つい、拾い上げて読みふける。悩み相談のコーナーだった。相談者の置かれてる状況が、あまりに今の自分によく似ていた。(原因はまったく違うけれど)
「………」
この相談者は女性で、夫は男性。必ずしも全てが俺たちのケースにあてはまるとは限らない。
だが、些細な行き違いが原因で「この頃はキスも避けられている」「二人きりでいると息苦しくてたまらない」状況に陥っていると言う。
「日に日に夫との距離が離れて行くようで、心細くてたまりません。それでも子どもたちの前では何事もなかったように振る舞ってしまいます」
うわ、そっくりだ。
ここまで似てると、いやでも回答が気にかかる。
彼女の悩みに対する回答は、いたって即物的でわかりやすかった。
『気分を変えてみましょう。思い切って夜の営みに、ラブトーイやセクシーランジェリーを取り入れるのもいいですよ』
ラブトーイに……セクシーランジェリーか……。
試してみるか?
まさか。
冗談じゃない。
ああ、だけど、それでレオンとの間に張り巡らされた、この見えない壁を取り払うことができるのなら!
(買うとしたら、やっぱり通販か?)
何、真面目に考えてるのか……相当テンパってるなあ、俺。
※ ※ ※ ※
午後からはソフィアが来てくれることになっていた。
シエンとオティアに、パンの作り方を教えてくれると言う。以前、ボーディン・ベーカリーの工場で、シエンがパンの作られる過程を夢中になって見ていたのを思いだし、頼んでみたのだ。
ソフィアを手伝い、五階から道具や材料を運び上げる。
「すまん。助かるよ」
「いいのよ。今日はアレックスも休日出勤だし……ディーンも喜ぶわ」
「そっか……」
こねて、形を作って焼く。小麦粘土で練習してきた技の数々を、今は本物で実践しているらしい。
「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「にゃー」
ソフィアと子供たち、オーレに見送られて部屋を出る。行き先はスーパーマーケット。
改めて確認してみると、ソイ・ソース以外にも飼い忘れていたものがいくつもいくつも、ぼろぼろと出てきたのだ。
ゴミ袋とか、キッチンペーパーとか、買い置きが無いと微妙に困るものばかりが。
いったい俺はここ数日、どこまでぼんやりしてたのか……。
調味料のコーナーで今度こそ、ソイ・ソースを2本買う。1本は予備、もう1本はソフィアに返すために。
赤トウガラシも買っとくか。台所にはガラス瓶に入れて、オリーブオイルに漬けたのが常備してある。オティアの好物なのだ。
五香粉も少なくなってたな。桂皮(シナモン)、丁香(クローブ)、花椒(サンショウ)、小茴(ウイキョウ)、大茴(八角)、陳皮(チンピ)……こればっかりは、ベランダのハーブ園では賄えない。
よし、調子が出てきたぞ!
と、思ったんだが。レジに並んで初めて気付いた。エコバッグを忘れてたってことに。やむなくビニール袋を二枚とってカゴに入れる。(※アメリカのスーパーではレジ袋は有料)
………だめだ。
帰り道。
どうせ買うものは少ないのだから、と今日は歩きで来た。オティアとシエンが一緒だとなかなかこうは行かないが、一人で歩く分には余裕の距離だ。体を動かすのは気分転換にもなるし……もうちょっと歩いてみるか。
あえて横道にそれて遠回りする。
この道を歩くのも久しぶりだ。ぱっと見ただけで店が何件か入れ替わっている。新しい店があるなってのはわかるんだが、たまに前に何の店が入っていたのか思いだせない。それだけ出入りが激しいのだ。
「……ん?」
今日も新しい店がオープンしていた。
くすんだ灰色だった建物が、目の覚めるような白とパステルピンクに塗り替えられている。しかも、下品じゃない。オーガニック素材の砂糖菓子みたいに愛らしい。香りも色も全て自然物由来、食べても舌や唇が派手な色に染まらないような……。
窓も大きく作り替えられ、ガラスを通して店内いっぱいに日の光が差し込んでいた。女の子向けの洋服屋か何かだろうか?
店の名前は『ピンクパール』。愛らしい店名に寄り添い、流れるような書体で店の説明が添えられていた。
「ドールのラブトーイ・ブティック」
………マジか。
明るくて、おしゃれで、開放的で。女性でも気軽に中に入れそうだ。
ちらっと覗いてみる。ショーケースに並ぶ商品は想像したようないかがわしい雰囲気はほど遠く、まるでキャンディみたいなカラフルでポップな色と形が並んでいた。
こんな風に堂々と売ってると、かえっていやらしさを感じない。楽しそうにさえ見える。
ってな事を考えているうちに足が動き、ふらふらと中に入っていた。
セクシーなジョークのプリントされたTシャツとか。ラメやエナメルの下着、透明なアヒル型のボトルに入ったローションやマッサージオイル。ゼリービーンズみたいなバスオイルに、とろみのつくピンク色の入浴剤。
ふわふわしたファーの首輪やカフス、アイマスクなんてのもある。
なるほど、これなら怖くない。
「……ねえ、こんなのどう?」
「大胆だね、ハニー」
「ふふっ」
通りすがりに耳にした会話の断片に、はたと我に返る。見回せば店内で買い物してるのはほとんどがカップルだ。
男女もいれば、男性二人とか、女性二人の組み合わせも居る。いずれも楽しげに笑いながらパートナーと語り合い、手をつないだり、腕を組んだり……。
何だか、妙に悲しくなってきた。
(俺、何してんだろう)
(こんな店で、スーパーの買い物袋抱えて……)
ため息一つ、深々と吐きだし、きらびやかなトーイの群に背を向ける。
とっとと出よう。ここは俺なんかのいる場所じゃない。だが正に足を踏みだそうとした瞬間、声をかけられちまった。
「いらっしゃい。何かおさがし?」
「いや、その、俺は……」
振り向くと、大柄なアフリカ系の美女が立っていた。誘うように前にせり出したぽってりとした唇、白い歯。むっちりと肉付きのよい胸元はプレイメイト程ではないもののバランスがとれていて、正にゴージャスのひと言に尽きる。
肩幅が広く背が高く、ほぼ同じ高さで目線が合った。ほとんど虹彩と瞳孔が区別できないほど黒い瞳が俺の顔を見つめ、きょろっと見開かれた。
「あら、まあ」
声が一段と高くなる。
「誰かと思えばマックスじゃない! 元気?」
「え、あ、お、俺?」
職業柄、人の顔は忘れない方だ。だが……知りあいに居ただろうか? こんなビッグでゴージャスな美人。
「えーっと、君は、その……」
「んー、わからない? 無理ないわよねぇ」
謎の美女はそっと耳元に顔を寄せてきた。甘い中にピリっとスパイスの効いた香水がふわりと漂う。思わずぼうっとした瞬間、響きの良いバリトンが囁いた。
「ドリューだよ」
聞き覚えのある声が記憶呼び覚ます。結い上げられた黒髪と、丁寧に施されたメイクの下に懐かしい面影を見つけた。
「ドリュー…………アンドリュー・ナイジェル!?」
「当たり! 久しぶりねー」
「あー……うん……君も、その………すっかりキレイになったな」
「ありがとう。今はドールって呼んでくれる?」
「あ、ああ」
警察学校の同期でも一、二を争う猛者だった男は、誇らしげに腰に手を当て、胸を張った。
ドール。確かに今の彼には、その名前の方がふさわしい。
「ってことはここ、君の店なのか?」
「ええ。雇われだけどね、店長やってるの」
「そうか。がんばってるんだな」
「ありがと」
ふふっと唇をすぼめて笑うと、ドールは俺の左手に視線を落とした。
「その指輪……結婚したの? おめでとう!」
「あ、うん、君にも招待状出そうと思ったんだ。だけど……」
「音信不通だったでしょ? 警察も辞めちゃったし、実家には出入り禁止になってるしネ!」
白い歯を見せて豪快に笑ってる。だが仕草はあくまで女性のものだった。
「あたしとまともに付き合ってくれるのは、今じゃ姉さんぐらいなものよ」
「そうか……」
「それで。今日は何をお探しなの?」
「………」
ごくり、と咽を鳴らす。
これはチャンスなのかも知れない。
見ず知らずの女性が相手なら言いづらいことも、気心の知れたかつての同期になら、言える。こいつなら、笑ったり茶化したりせずに真剣に答えてくれる。アンドリュー・ナイジェルはそう言う男だ。(あ、いや今は女か)
「結婚生活の、夜の……気分を変えたいんだ……」
「ええ、よくある事ね」
「そうなのか?」
「ここを訪れるお客さんのほとんどはそうよ? 刺激と、気分転換と、ちょっとした遊び心。甘いだけじゃ物足りなくなっちゃうのよね。たまにはスパイスも必要」
「そ、そうか……」
「それで。何がお好み? トーイ? ビデオ? 入浴剤? それともウェア?」
「………………初心者にはどれがおすすめなんだろう」
「そうね、抵抗が少ないのは、やっぱり日常の延長かしら。ちょっぴりセクシーな下着とか、ナイトウェアに挑戦してみる、とか」
セクシーな下着に、ナイトウェア。朝刊の悩み相談の回答にもあった。表に面したコーナーにあるのは、いずれも女性用ばかり。だがドールが店長をやっているのだ。おそらく、彼女の着られるサイズもそろっているはずだ。
「………………」
ちょい、ちょい、と手招きして顔を寄せる。今度は俺が囁く番だった。
「俺でも着られるのって、あるか?」
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▼ 【4-20-6】金髪ハリケーン
親の様子がおかしくなれば、子どもは自ずと不安になる。
怖い経験、悲しい経験でショックを受けたばかりの状態ならなおさらだ。包み込み、守ってくれるはずの大きな翼が震えれば、身を委ねた小さな心もまたゆらぐ。徐々に回復しているとは言え……いや、回復している途中だからこそ、些細なきっかけでいつ、再びダークゾーンに引きずり込まれるかわからない。
この家は、偶然一緒に暮らしているだけの他人の集まりだ。血のつながりや本能に頼ることはできないし、法によって外側から束縛されることもない。
意識して「親」の役目を、あるいは「子ども」の役目を果たさなければ成り立たないのだ。
一ヶ所に小さな穴が開くだけで、いとも簡単にばらばらに壊れてしまう。オティアも、シエンも、おぼろげではあるがその可能性に気付いていた。だからこそ怯え、不安になっているのかもしれない。
『自分たちはここに居ていいのだろうか?』
『この暮らしが、不意に壊れてしまうのではないか』
『いつか、追い出されるんじゃないか。捨てられるんじゃないか』
今、この「家庭」が壊れたら、寄る辺を失ったシエンはどうなってしまうのか。ひきこもろうにも、逃げ込む部屋さえないのだ。
ディフがああなった理由は考えたくない。だがヒウェルが当てにならない以上、自分が解決するしかない。
オティアは秘かにプランを練っていた。それは家族愛と呼ぶにはあまりに打算的で、かつ、計算された思考に基づく行動だった。
『ぱぱ』と『まま』が仲むつまじく、家庭が平穏であること。
それが、シエンにとって今一番、必要なこと。
ただそれだけの為に、彼はヒウェルが踏み込むことのできなかった領域に、単身で切り込もうとしていた。
一緒に暮らしている『家族』だから。『親』の庇護の元に生きる『子』だからこそ許されることであり、そうする権利があるのだとは……ちらりとも意識せずに。
※ ※ ※ ※
ドアを開けた途端、焼き立てのパンの香りが押し寄せてきた。
居間を入った所でソフィアとばったり出会う。歩きながら、くるくるカールした鹿の子色の髪の毛をまとめる三角巾をほどいていた。後片づけをすませて、ちょうど帰る所だったらしい。
「ただいま」
「お帰りなさい」
「ディフー」
「よっ、ディーン」
足下に転がってきた三歳児を抱き上げる。
「いいにおいだな」
「うん、パンいっぱいつくった!」
「がんばったな!」
「うん! オティアとシエンも一緒につくったよ」
「そうか……」
「三人で夢中になってパンをこねてたわ。オティアは物の形を正確に表現するのが上手ね!」
「あ、うん、あの子はそう言うのが得意だ」
「焼いたら膨らんで形が変わってしまって、ちょっと残念そうだったけど」
くいくいっと髪の毛を引っ張られる。OK、ディーン。ちゃんと君も忘れてないよ。
褐色の瞳に目線を合わせる。
「パンは、焼くともこっとするから!」
「うん、もこっとするな」
「シンプルな形がいちばん」
「そうか」
「シエンは上手」
「そうだな。シエンは料理するのが好きだから……」
ソフィアがうなずき、ころころと笑った。
「手つきを見ればわかるわ。どんどん慣れて、上達してる。二人とも素直で吸収が早いから、教えてると楽しくなっちゃう」
ああ。
この笑顔にどれだけ救われていることか。やっぱり本物の「ママ」にはかなわない。
さしあたって、『まま』にできるのは……。
片手でディーンを抱え、もう片方の手でソファに載せたエコバッグから、黒いボトルを引っ張り出す。
「ソフィア、これ」
「あら、ソイ・ソース」
「うん。昨日はありがとう。すげえ助かった。君んとこのストック分使っちまったから、代わりに……」
「んー、気にしなくっていいのに……って言いたいとこだけど」
ソフィアは人さし指を顎に当て、小さく首をかしげた。
「家でもいつ、買い忘れるかわからないし。いただいておくわ」
ひょい、とソイ・ソースを両手に抱え、にこっと笑った。
「ありがとう、ディフ」
「……どういたしまして」
くしゃくしゃとディーンの髪の毛をなで回して床に降ろす。二人を玄関から送り出し、改めてキッチンに向かった。
「ただいま」
食卓の上には、もこもこのきつね色。バスケットに入ったパンが山盛りになっていた。丸いの、うずを巻いてるの、細長いの。うずくまった猫の形をしているのまである……
チリチリと足下で鈴が鳴る。
「にーっ」
なるほど、確かにちょっと実物より膨らんでるな。
「あ、ディフ、お帰りー」
キッチンカウンターの上では、シエンがせっせとパン種をこねていた。
「まだ焼くのか?」
「んー。ちょっとタネを作りすぎちゃったから……再利用?」
「ほう?」
「ホットビスケット焼こうと思って。イーストが入ってるから、ちょっぴり柔らかめになるけど大丈夫! ってソフィアが教えてくれたし」
「そう……か……」
ソフィアらしい言い方だ。
「オティアは納得行かないみたい。分量通り、きちっと正確に作る方が好きだから」
「そうなのか?」
こくっとうなずいた。確かにこの子は調味料も、材料も、レシピ通りにきちっと計量スプーンやカップで量る。
どこか科学の実験っぽい。
「あ、ソイソース買ってきたんだ」
「ああ。そら、五香粉もなくなりかけてたろ」
「うん! ありがとう!」
買ってきたものを冷蔵庫に入れていると、シエンが声をかけてきた。
「ディフ、ついでにレモン出してくれる?」
「OK。一個でいいか」
「うん」
取りだしたレモンを何となく洗ったはいいが……これ、何に使うんだろう?
「それ、皮すり下ろしちゃって」
「え?」
「生地に加えるとさっぱりするって、前に教えてくれたじゃない」
「あ、ああ、そうだったな」
そうだった。
一昨年の十一月、倉庫の下敷きになった時の怪我から回復して……退院した次の日。一緒に買い物に出かけたショッピングモールのカフェで食べた、ホットビスケット。一緒に飲んだコーラは口に合わなかったようだが、ビスケットは残さず食べた。だから、家に帰ってからレシピを調べた。
焼き菓子の作り方を自分から覚える日が来るなんて夢にも思わなかったのに、今じゃ当たり前のようにクッキーやケーキを焼いている。
髪の毛を首の後ろで一つにくくる。腕まくりをして、エプロンをつけて、レモンの皮をすり下ろした。
酸っぱい。
舌の上にじわっと唾液がにじむ。その感触が軽やかな指先となり、記憶のページをめくる。
(あの後、初めて一緒に作ったんだっけな……ホットビスケット)
あの時は、後ろでじっと俺が作るのを見ていた。だが、今はシエンの方が手際がいい。
「できた? じゃ、ここに入れて」
「うん。これぐらいでいいか?」
「んー、生地がこれぐらいだから……もうちょっと」
「わかった」
確かにソフィアの言う通りだ。水を吸うようにどんどん、覚えている。
一方で、オティアはさっさと手を洗ってエプロンを外していた。ディフが戻ってきたから自分はこれにてお役御免。もう手伝いは必要ないだろう、って事らしい。
「本、とってくる」
「ああ」
「ぐるにゃおう」
居間に通じるドアを開けると、オティアは後をとことこと追いかけたオーレを、ひょい、と抱えてこっちに降ろし、ぱたりと閉めた。
オーレはさして異議を唱えるでもなく、しっぽをひゅんっと振ってから毛繕いを始めた。
※ ※ ※ ※
オティアは一直線にレオンの書斎に向かった。走り出したいのを押さえて、早足で。
シエンとディフは当分、キッチンから動かない。夕食には間があるから、ヒウェルもまだ来ない。今がチャンスだ。
今なら二人きりで話ができる。
ノックをして、返事も待たずに中に入る。
レオンが仕事の手を止め、驚いたような、途方に暮れたような顔でこっちを見た。まさか自分が来るとは思わなかったのだろう。こんな入り方をするのはディフ以外に有り得ない。そもそも自分とシエンはレオンがいる時は呼ばれでもしない限り、ここには足を踏み入れない。
滅多にないことだが、レオンの意表をついたようだ。扉を閉めるなり開口一番切り出した。
「話がある」
「いいよ、聞こうか」
言外に勧められた椅子の前を素通りし、つかつかとデスクに歩み寄る。
「理由はどうでもいいし知りたくもないが。今すぐアレをなんとかしろ」
レオンはわずかに眉根に皺を寄せたまま、ぎこちなく口角を吊り上げた。
「シエンも薄々気付いてる。これ以上長引かせるな。用はそれだけだ」
机に手をつき、わずかに身を乗り出す。褐色の瞳を正面から見据えてぴしりと言ってやった。
「何か言うことはあるか?」
「ないよ……シエンはまだ彼に何も言っていないのかな」
「今のところは」
「わかったよ。ただ、今すぐは難しいね」
「早くしろ」
「努力する」
適当な本を書棚から一冊抜き取り、挨拶もなく部屋を出る。
言うべき事は全て言った。後は結果を待つだけだ。
※ ※ ※ ※
ドアが閉まる。レオンはふっと息を吐き、肩をすくめた。
参ったな、まるでハリケーンだ。来た、言った、帰った。
てっきりディフだと思って身構えた。返事が一瞬、遅れた隙に入って来たのはオティア。
(困ったな、もっと厄介な相手が来てしまった)
不意の闖入者は前置きも無しにズバリ。
『今すぐアレを何とかしろ』
核心の中の、さらに小さな核だけ言って出て行った。アレが何のことなのか。どうして自分に要求するのか。ひと言も言わなかったが、いちいち説明される必要はない。
(やれやれ、無茶を言う子だ)
何とかしたいのは山々だが、まだやっと昼の三時を回った所じゃないか。『今すぐ』は無理だよ、オティア。
金髪ハリケーンの通り抜けた後にはかすかに、菓子の焼けるにおいが残っていた。
さしあたって自分にできるのは……
午後のお茶を入れることぐらいかな。
※ ※ ※ ※
その頃、キッチンでは。ディフが三角に切って形を整えたホットビスケットを天板に並べ、オーブンをスタートさせていた。
キッチンナイフを洗いながら何気なくちらりと見た瞬間、シエンは思わず声をあげた。
「ディフ、オーブンの温度がちがってるよ!」
「え? あれ? しまった………」
ディフは目をぱちくりさせて、温度設定を見直した。華氏392度(摂氏200度)……ミートパイを焼く時の温度だ! 慌ててスイッチを一旦切り、改めて設定しなおす。ホットビスケットは374度(摂氏190度)。
危うく黒焦げになる所だった!
「だいじょうぶ?」
眉を寄せてシエンが見上げてくる。わずかに首をかしげ、紫の瞳でじっと、心配そうに。見えない手できゅっと、エプロンの裾をつかまれた気がした。
「あー、うん、大丈夫、大丈夫!」
(この子を今、不安にさせちゃいけない!)
急いで表情を切り替える。まだちょっと困ったような色合いが残ったが、とにかく笑いかけた。
「今日、ちょっと意外なとこで昔の知りあいに会ったもんだからな。そっちに気をとられてた」
「そっか……昔の知りあいって、やっぱり警察の人?」
「ああ。警察学校の同期生に、な。一緒に訓練受けてた頃は彼だったんだが……再会したら『彼女』になってた」
「それは………びっくりだね」
「うん、びっくりした」
インパクトは絶大だった。解決にはならなかったが、とにかく空気の流れは変わった。
「いいにおいだね」
「ああ。シエンが作ったんだ」
やがてビスケットが焼き上がり、書斎から出てきたレオンが紅茶を入れ、いつもより少し遅めの午後のお茶が始まった。
こんがり焼けたビスケットをさくっと一口かじる。シエンが見守る中、ディフはしみじみと今、自分が食べたビスケットを見つめた。
「……美味い。上達したな、シエン」
「うん」
はにかみながらほほ笑むシエンを見て、ディフも自然と笑顔になる。それは、自分以外の誰かを守るために。或いは、自分の中にある悲しい何かを隠すために繕った笑顔とは明らかに違う。
内側からにじみだす喜びが、そのまま形になったほほ笑みだった。
そんな二人をさりげなく視界の隅にとらえつつ、オティアとレオンは何食わぬ顔で紅茶をすすっていた。
ついさっき、書斎で交わされたやりとりなんか存在しなかったように。
オティアは言ったことで気が済んでいたし、レオンには反論する意志はなかった。もちろん、根に持つ事も。
レオンハルト・ローゼンベルクは心は狭いが、決して独善的な男ではない。正論を吐けば、ちゃんと話は通じるのだ。
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▼ 【4-20-7】★★★目をそらすな
何とかしろと言われてしまった。自分でも何とかしたい。だがどうすればいい。
思い悩んでいるうちに時間は過ぎて、夜になってしまった。だが夕食後、仕事と称して書斎に引っ込むのは自重することにした。
本来なら一秒でも惜しい二人きりの時間が、妙にそらぞらしく息苦しい。ディフもそわそわと落ち着かない。
何てことだ。互いに逃げ出さないでいるだけで精一杯じゃないか。
「先にバスルームを使っていいかな」
「あ……うん、構わないぞ」
憶病者め。ここでひと言「一緒に入ろうか」と誘えたら、ごく自然に触れ合う事ができただろうに……。
以前なら意識することもなく言えたひと言が、今、言えない。
一人浴室に入り、蛇口をひねる。もうもうと立ちこめる湯気の中、うつむいてシャワーを浴びた。
いつになくゆっくりと湯に浸かり、寝室に戻るとディフが立っていた。腕組みして両足を踏ん張り、まっすぐにこっちを見て。
口を引き結び、奥歯を噛み、真剣そのものの表情だ。頬はうっすらと赤く染まり、ヘーゼルの瞳の奥に緑色が混じっている。視線は鋭く、まっすぐに。ほとんどにらみ付けていると言ってもいい。
一方で、身に付けたものはゆるい。頭からすっぽりシーツを被っているのだ……さながらジェダイのローブみたいに。
「……」
何のつもりだろう? 何を考えているのだろう?
一瞬、呆気にとられる。
「いいか、俺を見ろ。目をそらすな。絶対だぞ!」
「な……」
はらり、とシーツが落ちるとその下からは……がっちりした体を包む、網タイツが現れた。
実物を見るのは初めてだ。ボディストッキングと言う奴だろうか。
左右のつま先から始まり足首、膝、太ももにみっちりと貼り付いた、細い肩ひもで支えられたモスグリーンのメッシュの布地。
生地の隙間からのぞく肌の白さが際立ち、なまじ全裸でいるより何倍もくっきりと『裸』を見せつける。
しかも下半身はガーターベルト状になっていて、内またと股間の部分がそこだけえぐり取られたように肌が露出していた。
かろうじてそろいの生地でできたパンツを身に着けてはいるが……三角の布を、紐で吊っただけの頼りない代物でしかない。その紐でさえ左右に引っ張られ、ディフの体に食い込んでいる。
湯上がりに目にするには、あまりに刺激的な光景だった。
同じ格好をプレイメイトがグラビアでしていても、露ほども感じない。男性モデルでも同様。だが着ているのがディフとなると……。
(目をそらすな? わざわざ言う必要なんかない。そらせる訳がないじゃないか!)
落ち着け。
落ち着け。
慌てるな。
深く息を吐き、肩の力を抜いた。ゆるく握った拳を口元に当て、しみじみと眺める。
「ふむ」
「………言うことは、それだけか」
「ああ、いや……」
考えて。考えて。悩んで、迷って……行き着いた場所がコスチュームプレイか。だから、あんなにそわそわしていたのか。
君って人は、どこまで一途なんだ。何て、可愛いんだ。
「愛してる」
「…………知ってる」
ディフが近づいてくる。腕が首に回され、モスグリーンの網に包まれた肢体が寄せられた。
「愛してる、だけじゃ解決できないこともある」
囁く声は、かすかに震えている。だが、そこに迷いはなかった。ヘーゼルブラウンの瞳が見つめてくる。強い意志と、揺るぎない決意を込めて。ただ自分だけを見ていた。求めていた。
「愛してるから、困るんだ。戸惑うんだ。レオン、はっきり言ってくれ。何故、俺とのセックスをためらう?」
「っ!」
彼らしい、まっすぐな言葉だった。
逃げてはいけないと思った。ここで曖昧な言い方で取り繕えば、ディフを裏切ってしまう。それだけはしたくない。
「この間は………君に………」
ともすれば目をそらしそうになるのを、懸命にこらえた。かすれて消え入りそうになる声を振り絞った。
「…………酷いことをした」
ディフは目を細めた。ほほ笑みと呼ぶにはあまりにもかすかな動きだったが、表情はあくまで穏やかで。彼の中で今、動いた感情が怒りや悲しみではないのだと教えてくれた。
「俺は、お前に酷いことをされたなんて思っちゃいない」
「……そうだろうね」
(だから困るんだ……)
「あんな性質があると、お互いわかっちまったんだ。折り合いつけなきゃやってけないぞ?」
背中に回された腕に力が入る。
「俺たち、墓に入るまで一緒に居るんだから……な」
「ディフ」
初めて彼の声が震えた。すがりつく瞳が潤んでいる。
「俺……やだよ。このままお前と距離が離れたまんまなんて。耐え切れない!」
何てことだ。俺が君を疎んじていると。遠ざけているとでも思っているのか? この数日、ずっとそんな風に考えていたのか。
「ディフ。ディフ。ちがうんだ。君は誤解している」
「え?」
「俺にとっては、性癖なんてものは問題じゃないんだ」
「じゃあ……何が問題なんだ」
「君を守ることだよ。俺自身から」
「……だったら………」
こつん、と額を寄せてきた。二人の顔の距離が限りなくゼロに近づく。ぱさりと被さる赤い髪に覆われた空間の中、囁かれる。
「守ってくれ」
「……ああ」
もう駄目だ、我慢できない。自分からも腕を伸ばし、抱き返した。
君が求めているとわかっているのに。自分が欲しているとわかっているのに。これ以上、触れずにいるなんて、耐えられない。
まさぐる指先が肌を包む編み目に触れた。馴染みのない感触に、つい、指先でつまんでしまう。
「これは、どうしたんだい?」
「………………………………買った。サイズ、なかなか見つからなくて、苦労した」
「ありがとう」
「何で、礼なんか言うんだっ」
ぎょっとした顔だ。そんなに左右に視線を走らせて、うろたえてるね。可愛いな……。
「俺のために探して、買ってきたんだろう?」
「そうだ」
すうっと深く呼吸すると、ディフは正面からじっと見つめてきた。ヘーゼルブラウンの瞳がすっかり若葉の緑に染まっている。
よほど感情が高ぶっているのだろう。
「寂しかったんだ。ひょっとして、倦怠期ってやつかと……それで……」
「……すまない」
うつむく頬を、がっしりした手のひらが包み込む。
「お前が、謝ることない。俺が勝手にその……」
優しい手に身を委ね、目を閉じた。息を飲む気配が伝わって来る。
「ど、独自判断だ、これはっ」
なるほど。俺が『何とかする』前に、君が『何とか』してしまった訳か。
震える唇が、まぶたに触れる。右に、左に、一回ずつ。小鳥が頬ずりするようなキスに誘われ、目を開ける。
「今日、オティアにも叱られたよ」
「オティアに? あの子が?」
一体どうしてしまったのだろう、俺は。よりによってこんな場で、自分から子どもたちの名前を出すなんて。
「シエンが気付く前に片付けろってね」
この家に暮らしているのは、自分とディフだけではない。オティアと、シエンも一緒だ。
俺の幸せは、ディフが幸せであること。
ディフの幸せは、双子が健やかに育つこと。
あの子たちと、ディフと、自分と。しっかりと組みあって、互いの「幸せ」を支えている。誰か一人が欠けても、バランスが崩れてしまう。必要不可欠なのだ……今となっては。
意識して繋がなければ。言葉や態度で確かめなければ、いとも簡単に崩れてしまう。もろく儚い、けれどもはや手放せない絆が、確かに存在しているのだ。
「……俺は……君をそんなに悲しませたかな……」
「いや、そんなことは………」
目を伏せている。じっと自分の内側に潜り、記憶をたぐり寄せているのだろう。真摯に向きあい、決して口当たりのいい言葉でごまかさない。
「お前は優しい。キスも忘れない。だけど、ここんとこずっと、間に透明なフィルムが挟まってるみたいで。どんなにもがいても、とれなくて……こんな事初めてで…………どうしていいか、途方に暮れてた」
「そう……だな。俺も……」
そんな君だから。
俺も自分の弱さを。未熟さを、隠さずにいられる。
「どうしたらいいのか、わからなくなってた」
「今は、わかるぞ」
「どうしたいんだい?」
返事の代わりに、唇を吸われた。はやる心を押さえながら応える。うっすらと開いて、重ねて。どちらからともなく舌をさし出し、重ねた。濡れた舌先が触れあった瞬間、ぴしり、と互いに求めるものが通じ合った。
もっと熱い場所を。もっと湿った場所を。もっと深く、もっと強くからめたい。繋がりたい。
もつれ合ってベッドに倒れ込む。
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▼ 【4-20-8】あの頃みたいに
3月の最初の土曜日。
鉛色の雲の隙間から温かな日差しがこぼれ落ち、これまでの凍てつく寒さが夢のように溶けて行く昼下がり。
「それじゃ、行ってくる。シエンとオティアを頼む」
「はい。任せてください」
午後からサリーに双子を任せ、二人きりで出かけた。行き先はレオンだけが知っている。
「知り合いの経営するジムがあるんだ。完全予約制だから、ゆっくりできるよ」
顧客の誰かがやっている会員制のスポーツクラブだろうと、軽く考えていたんだが……レオンの運転する車はビジネス街を通り抜け、高級住宅街を素通りし、どんどん郊外へと向かってゆく。
「どこまで行くんだ?」
「もうすぐだよ。そら、そこだ」
着いた所はブドウ畑のど真ん中。
専用の馬場まである、だだっぴろい建物だった。プールもある。ランニングコースも整えられている。ガラス窓の向こうには、アスレチックマシーンが備え付けられたジムも見える。だが少なくとも、会社の行き帰りにふらりと立ち寄れるような場所じゃない。目立つ看板もないし、広告もない。
「……………………えっと……これは……」
あんぐり開いた口を、ぱくぱくとかみ合わせる。声が出るまでにしばらく時間がかかった。
「どこのスポーツクラブ……なのかな」
「言ったろう? 知りあいのやっているジムがあるんだ、って」
「プライベートジムってことか……」
それならわざわざ、人を呼び寄せる必要もない訳だ。充実した設備と行き届いたサービス、人目を気にしないプライベートな時間。本来なら矛盾するはずの贅沢を両立するのに、一体どれほどの金と手間がかかるのか……ざっと計算しただけで目まいがしそうだ。
「話はつけてある。今日は俺たちだけの貸し切りだ。たまにはいいだろう?」
「何が、いいだろって……」
楽しそうだな、レオン。俺の度肝を抜いて、そんなに嬉しいか! まったく、お前って奴は……。
「それとも俺と二人きりは、いやかい?」
よせ。そんな拗ねた顔したって、ごまかされやしないからな!
「い……嫌な訳、ない」
「……行こうか」
「ああ」
差し伸べられた手をとると、くいと引き寄せられた。ごく自然に腕を組み、体を寄せる。
レオンはまっすぐに厩舎へと向かった。ちゃんとわかってるんだな。俺が、何に心引かれているのか。
中に入ると馬の声、鼻を鳴らす音、牧場のにおいが押し寄せてきた。久しぶりに。本当に久しぶりに触れる懐かしい空気に胸が高鳴る。
「いい馬だ……」
「どれでも、好きなのを選ぶといい。君ならどの馬でも乗りこなせるだろう?」
「どうかな。相性ってのがあるからな」
一頭一頭に静かに話しかける。側によってもいいかな。撫でてもいいか? 俺を乗せてくれるか?
何度も往復して、徐々に候補を絞り込み……がっしりした黒毛を選んだ。
「こいつがいい。面構えが気に入った」
「君らしいね」
レオンが選んだのは、しなやかな体つきの芦毛だった。
馬具をつけ、並んで馬を走らせる。
俺のやり方はテキサス仕込みのカウボーイ式だ。ジーンズを履いてラフにまたがればOK。礼儀作法にはこだわらず、基本的に細かいことは気にしない。守るべき掟は至ってシンプル。背筋を伸ばせ、膝を締めろ。馬と自分を危険に晒さない。傷つけない。ただそれだけだ。
しかも嬉しいことに、レオンはきっちりと俺のテンガロンハットを持ってきてくれていた。
完璧だ!
「腕は鈍ってないようだね」
乗馬服を着たレオンは、手綱の扱い一つとっても優雅で気品にあふれていて。まるでヨーロッパの貴族か、王族だ。(見たことないけど)
「……そっちこそ」
『かっこいいぞ、レオン。まるで王子様だ』
『君はカウボーイみたいだね』
少年の頃、こんな風に並んで馬を駆けさせた。夏休みに、俺のバイト先の農場で。少しでも早くお前に会いたくて、帰省を途中で切り上げた……。
レオンの表情が柔らかくなる。手に取るように伝わってくる。本当に、楽しそうだ。
嬉しかった。
ふと、コース上にジャンプ用の障害があるのに気付く。
「こいつ、飛べるかな」
「どうだろう?」
「多分……飛べるな。飛びたがってる」
「ディフ?」
馬場を軽く回って助走をつける。障害に向かって走り出したが、黒毛はまったく怯える素振りを見せない。
うん、大丈夫だ。むしろ、喜んでる。体を伏せて、馬と自分の動きを同調させる。
……今だ。
「そらっ」
待ってましたとばかりに黒毛は地を蹴り、ふわりと浮いた。湿った土と青草の香る風が吹き抜ける。重力から解き放たれ、髪が後ろへとたなびく。
軽々と柵を越え、流れるような動きで前足が着地し、後足が続く。ほとんど余計な揺れや衝撃を感じなかった。しなやかな筋肉が。丈夫な骨組みが、全て受け流し、前へ進むより大きな力へと変換していた。
余韻を楽しみながら駆け足から早足へ。徐々に歩調をゆるめて行き、馬が止まったところで首筋をなでた。
「よしよし。いい馬だ」
「ディフ」
背後から声をかけられ、はた、と気付く。
『今度からは、やる前に言ってくれ』
昔、勢いに任せて牧場の柵を飛び越えた時の記憶がよみがえる。むすっと眉をしかめて、険しい目つきで睨まれた。
おそるおそる振り返る。
……笑ってる。
「お見事」
「……ありがとう」
馬を降りてから、室内プールで泳ぐことにした。ロッカールームにいるのは二人きり。本当に貸し切りなんだな。
広々とした部屋で隣り合わせたロッカーを開け、並んで着替える。背中にレオンの視線を感じながら、贈られたばかりのスイムスーツに身を包む。膝上丈のパンツの上から、半袖のスーツを被る。背中のタトゥーは、ぴったりフィットした黒い布地の下に隠された。
試しに腕を回してみる。ほとんど違和感はない。
「サイズ、ぴったりだ」
「似合ってるよ」
ストレッチで体をほぐす間も、彼の視線がまとわりついてくる。見られていると思うと妙に緊張する。
遠慮のエの字もありゃしない。こいつ、二人きりだと思って……そりゃ確かに客は俺たちしかいないがな。スタッフはいるんだぞ!
「どうしたんだい?」
「……いや、何でもない」
にこにこ笑って、首なんかかしげてやがる。
直に手は出していないから、たしなめる訳にも行かない。仮に触られたところで、拒むのはもとより、文句を言うつもりもないが……。
わかってるんだろうな。多分。
くやしいやら、照れ臭いやらで、初っぱなから飛ばした。水に入るなりバタフライで二往復、続いてクロールで一往復。
(……俺、何やってるんだろう)
ふと我に返ってプールの真ん中で動きを止める。仰向けになって、ぽっかり浮いて息を整えていると。すうっとしなやかな影が近づいてきて……水の中に引き込まれた。
(う)
泡立つ水の向こうに、笑っているレオンがちらりと見えた。
あの時のお返しか?
腕の間をすりぬけ、一段と深く潜る。互いに互いをつかまえようと、水の中でムキになって追いかけた。追いかけられた。
派手な水しぶきが上がり、次第に距離が近づいて行く。
(逃げるなよ、レオン)
水をかいて一気に距離をつめた瞬間。彼はくるりと振り返り、自分からしがみついてきた。
「っ!」
「……つかまえた」
ああ。
つかまった。
逃げるつもりは、ない。
※ ※ ※ ※
プールから上がった後、備え付けのサウナに入った。もちろん二人きりだ。
うつぶせに横たわるディフの背に手を伸ばす。
「……ん」
髪の毛をかきあげ、背骨を中心に広がる翼に沿って手のひらを滑らせた。彼は気持ちよさそうに目を閉じたまま小さく息を吐き、自分から体をすり寄せてきた。
(可愛いな)
こうして二人きりになってみると、改めて気付く。いかに自宅でリラックスできなくなっていたか……
ドアや壁で隔てられていても、どうしても子どもたちに遠慮してしまう。ディフも常に心のどこかで、子どもたちに異変がないかと、気にかけていた。何かあったら、すぐに駆けつけられるように。
家を離れて、別の建物に来たことで、ベッドの中でも。浴室でも。無意識にかけていた鎖から解き放たれたようだ。
さすがに係員の手前、あまり濃密に絡み合うことはできなかったが……実に清々しい気分だ。
できればこのまま一晩泊まりたいくらいだが、さすがに今はまだ難しいだろう。
これからは時々、二人きりの休暇を過ごそう。
そうだ、週末を過ごすためのセカンドハウスを用意するのもいいな。日帰りでもかまわない。誰の目も気にせずに、二人きりで過ごせる場所を……。
ぱちり、とディフが目を開けた。
「……楽しそうだな、レオン」
うなずくと、彼は目を細めて白い歯を見せ、ほほ笑んだ。
※ ※ ※ ※
「ただいま……おわ?」
「おや」
居間に入ると、ローテーブルの上にずらりと紙が並んでいた。それも、ただの紙ではない。きちんと折られて、半ば立体的な形に整えられている。しかも鳥や船、花、カエル、人形っぽい形になってるやつもある。
「おかえり!」
「これ……どうしたんだ」
「オリガミ。サリーが教えてくれたんだ。これ便利だよ」
そう言ってシエンは紙で折った箱を手に取った。
「チラシとかコピー用紙で簡単に折れるんだ。クリップとか、ピーナッツの皮とか、いろいろ入れられるでしょ?」
「なるほど、実用的だな」
「うん」
とても嬉しそうだ。自分の手が、役に立つものを作り出すのが楽しくてしかたないのだろう。
「こっちのトンガリ帽子みたいなのは何だ?」
「カブト。サムライの被るヘルメットなんだって」
「ああ……なるほど」
言われてみれば、そんな形に見えてきた。
「お帰りなさい。夕食の準備、できてるよ」
白いかっぽう着を着たサリーがキッチンから出てきた。その後からはブルーのストライプのエプロンをつけたオティアと、いっちょうらの白い毛皮のドレスをまとったオーレ。しっぽをピーンと立てて、しゃなりしゃなりと歩いている。
「すっかり任せちまったな、サリー。世話になった」
「ううん、楽しかったし。こう言う料理って一人だと作らないからね」
「腹減ったー。今日の飯、何?」
のっそりとへたれ眼鏡がやってきた。
「……いいタイミングで来たな」
「おわ、何だ、このオリガミの山は!」
一目でわかる辺りはさすが物書き、この手の知識量はハンパなく多い。
そして食卓の一角には、オリガミで作った人形らしきものが一対、並べられていた。キモノを着た男女のペアで、ご丁寧に顔まで描いてある。居間にあったのとは別格らしい。
「これも、オリガミか」
「うん。おひなさま」
「オヒナサマ?」
「今日は3月3日だからね」
サリーの言葉に、ヒウェルがごく自然に頷く。
「ああ、ヒナマツリ」
オティアとシエン、サリーとヒウェル、そしてレオンとディフ。
6人で食卓を囲み、ひな祭りのディナーが始まる。メニューはシーザーサラダにナスとトマトのマリネ、メインの押し寿司は型から抜いて、一番上にスモークサーモンや茹でたエビ、スライスした卵とアスパラをトッピングしてきれいに飾り付けてある。
「ケーキみたいだな。何だか食べるのがもったいない」
「日本でもクラムチャウダー食べるの?」
「本当は、塩味でうすく味付けただけのシンプルなスープなんだけど。ここはサンフランシスコ式にチャウダーにしてみました」
「オシズシに、ハマグリのスープ。なるほど、見事にヒナマツリの料理だな! でも、もう一つあったんじゃないか? ほら、White-Sakeとか言うアレ」
くいっとヒウェルがグラスをあおる動作をする。
「白ワインじゃ代わりにならないかな?」
「それだ!」
「せっかくサリーが来てることだし、日本茶も入れるか」
「お湯沸かしてくるね」
もう、そこには息詰まるような重苦しさも、いたたまれない尖った空気もなかった。
(これで……いい……)
オティアは秘かに安堵の息をついた。
シエンの表情は作り物じゃない。帰ってきたディフとレオンの空気は、明らかに家を出る時にくらべてリラックスしていた。
すっかり、いつもの『ぱぱとまま』に戻っていた。これでようやく、シエンも自分も安心して『子ども』のポジションに居ることができる。
次へ→【4-20-9】★★★ままがんばる
▼ 【4-20-9】★★★ままがんばる
その夜。
「力……抜いてろ。今夜は俺が全部、してやるから」
「ああ」
一糸まとわぬ姿でディフはレオンに口付けし、ゆっくりとベッドに横たえた。
レオンの中にある凶暴な衝動の存在。
己の中にある、逃れようのない被虐性は時に彼の中の獣を誘い、暴走を誘発してしまう。だからと言って、自分が本気で抵抗したら、ベッドルームでバトルが繰り広げられるのは目に見えている。
自分もレオンも体を鍛えているし、身を守る術も、相手を倒す技も心得ている。争えば争うほど、頭に血が上ってどんどんエスカレートしそうだ。
それでは意味がない。
逆効果だ。
だから発想を転換した。レオンが落ち着くまで、『ポジション』を入れ替えることにしたのだ。
「きれいだな……とても」
ベッドに手をつき、腕の下に横たわるしなやかな裸身を眺める。いつまでも見ていたくなる。
……いや、やっぱり見てるだけじゃ我慢できない。
のしかかり、唇をついばむ。頬から顎、耳、うなじに小刻みにキスを降らせる。下に滑らせて行くにつれ、レオンのうめく声が増えて行き、しきりと体をよじりはじめる。
「くすぐったいのか?」
「あ、いや、そうじゃないよ」
(困ったな)
そう、レオンは困惑していた。自分が受け身に回れば、破壊的な衝動を恐れることなく愛を交わせると思っていた。
ところが、今。うなじや背中を無防備にさらけだし、夢中になって触れてくるディフを目の前に、手を出さずにいるのは……
けっこうな忍耐力が必要だった。
(だが、君を遠ざけるのに比べたら、ずっといい)
俺の中に入る時、君はどんな顔を見せてくれるのだろう。ふるふると快楽に身を震わせ、一心不乱に俺にしがみついて、がっついてくれるのだろうな。隠そうともせず、取り繕おうともせず、まるで十代の少年みたいに夢中になって。
想像しただけで、胸が高鳴るよ。
「どうした、レオン?」
「抱いてくれ。もっと強く。君に包まれたいんだ」
「……わかった」
温かな胸に。がっしりた腕の中にすっぽりと包み込まれる。目をとじて、すがりついた。
「俺にとっても、ここが一番安心できるよ……ディフ」
「可愛いな、レオン」
頬にキスされた。ベッドの中で裸で抱き合っているのに、まるで小鳥が木陰で交わすような軽やかなキスをしてくるなんて。
「可愛いのは、君の方だ」
「……言ったな?」
むっとしたような顔になると、彼はがばっと覆いかぶさり、むしゃぶりついてきた。
「あ……あ……ディフ……ディフっ」
道義的に、法律的に正しい方向に持って行くのが目的じゃない。スタイリッシュに、きれいにまとめる必要もない。
ずっと寄り添っていたいから、ずっと向き合う。彼も自分も生きている。怒り、悩み、時に挫折もする生身の人間だ。魔法のステッキを振って何もかも上手くいくような、そんな劇的な解決なんてあり得ない。だからゆるやかに変えてゆこう。
セクシーなランジェリーも、プライベートジムでのデートも。今回のポジションチェンジも、それぞれ一つの段階でしかない。
俺たちはどうしようもなくお互いに惚れ込んでいる。大切にしたいと思っているし、同時に男として欲情もする。
手をとってほほ笑みあう日常のささやかな触れ合い、食卓ですごす一時、隣に座って軽くじゃれあったり、毎日のいってらっしゃい、ただいまのキス、狂おしく求めあう夜の営みまで全部欠かさずにいたい。
セックスしたいし、触りたいし、キスしたい。体の欲求を無視するなんてあり得ない。
だから、続けて行ける道を摸索するのだ。手探りで、あちこちぶつかりながら。
「ん……レオン……レオン……お前ん中すげえ気持ちい…ずっと入っていたくなる…」
「ずっとは……こまる、な……」
「……うん……だからこの一秒一秒を味わいたい」
そう言ってディフは、とろけそうな表情でほほ笑んだ。
「……愛してる」
「……愛してるよ……」
(倦怠期?/了)
次へ→【4-21】テイクアウトpart1
▼ サリー先生のわすれもの
- 拍手お礼用短編の再録。番外編【ex11】ぽち参上!直後の出来事。
- ランドール社長の愛犬サンダー、正式におひろめです。
ぼくはサンダー。
意外とタフな子犬だ。
昔の名前はもう忘れた。荒々しく怒鳴る声や重たくて固い靴、雨あられと降り注ぐ、ささくれた四角い棒切れと一緒に。
大事なのは今。新しい家と新しいボス、そして新しい群のなかまたち。
ボスは優しくて、サイコーにいかしてる男さ。最初に会ったときは心底ビビってしっぽ巻いたけど……
(わお、何なの! このど迫力! こんな生き物見たことないよ!)
ケージの奥で歯を剥いて縮こまっていたら、ボスはかがんで体を低くして。そっと手をさしのべてくれたんだ。
今ではぞっこん。ぼくらはサイコーのコンビだ。ちゃんと毎日、大好物のトマトを食べさせてくれるしね。皮のパリっとしたフレッシュな奴を。ハッスルしながらトマトをくわえて、皿にもどして、また持ち上げる。
(遊んでるんじゃないぞ。味わってるんだ!)
そんなぼくを見守りながら、ボスは大きな手のひらで優しく頭をなでてくれる。
「リコピンは老化防止………君にはまだ、あまり関係のない栄養素かな?」
「わふっ?」
トマト美味い! もーサイコー!
もっとも、これはサリー先生のおかげだ。
「この子、トマトケチャップが気に入ってるそうです。でもケチャップは刺激が強すぎるから、生のトマトをあげてください」
サリー先生はすごいよ。ちゃんとぼくの言いたいことを理解してくれるんだ。
テリー先生もかなりのもんだね。彼は犬って生き物の扱いを知りつくしてる。その分こっちの手の内もばれちゃうんだけど……安心できる。信頼できる。二人とも大好きだ。ボスの次にね!
今週はとってもうれしいことがあった。サリー先生が泊まりに来たんだ。
すごく大事なお仕事があるから、邪魔しちゃいけないよって言われたんで、寝床(もちろん、ぼく専用!)に座ってじっと待っていた。待ってるうちに、うとうと眠ってしまった。
目が覚めたら終っていた。ボスもサリー先生もすごく疲れてるみたいだった。
「この部屋を使ってくれ……中にあるものは自由に……」
「はい……おやすみなさい」
先生はゲストルームへ。ボスは自分のベッドにばたんきゅう。どうしよう。サリー先生のとこに行っちゃおうかな。
でも、がまんがまん。ゲストルームには入っちゃいけない事になっている。いつものように、ボスの部屋で寝ることにする。ベッドの下のふかふかの毛布がぼくの場所。でもボスはすぐにぐっすり眠っちゃったから、こっそり布団に潜り込んで一緒に眠った。
(あったかいな。あったかいな。お母さんってこんな感じ?)
次の日の朝早く、海岸まで散歩に行った。二月の海はすごく寒かったけど、サリー先生といっしょ! ボスといっしょ!
力いっぱい走り回って、しょっぱい波をばしゃばしゃ飛び越えた。
先生とさよならして、家に戻ると……。
あれ、何だろうこれ。
見たことのないものが落ちてる。形はソーセージに似てる。でもぼくの好みからすればちょっと細過ぎるし、第一固くてちっても美味しそうじゃない。試しにかじってみたけど、やっぱり美味しくない。歯の間からつるっと滑って床に落ちた。
ヘンテコなソーセージ。食べられないソーセージ。
だけど、サリー先生のにおいがした。
これはしまっておこう。
大事に寝床に持ち帰った。
土曜日の午後、テリー先生がやってきた。
ビリーも一緒だ。
(よう、おれのこぶん!)
さあワニを投げろ。ボールを投げろ。次はフリスビーだ。かみかみロープも忘れるな!
「今度はこれ投げろってか? さっき持ってきたやつと違ってるぞおい」
のどが渇いた、水もってこい。くみたてのやつ、ぬるいのは却下。
「はあはあ言ってるな、そろそろ水やっとくか……え、何で飲まない?」
おやつ持ってるだろ、においでわかるぞ。とっととよこせ、さあ!
「座れ、サンダー、座れ……こら、す、わ、れ、って、うわ、よせやめっ」
どんっと体当たり、芝生に転がった子分から、あっさりおやつを没収した。
最初っから素直に渡せばよかったのに。
得意満面でおやつを食べてたら、テリー先生とボスにしかられた。
……ごめんなさい。次は手加減します。
※ ※ ※ ※
「すまなかったね、ビリー。中で洗ってくるといい」
「そーする」
遠慮なく洗面所で顔と手を洗い、ふかふかのやたらと上等そうなタオルで芝生にまみれた服をぬぐった。
どーせ洗うのは俺じゃないし。
庭に戻る途中、居間の犬用ベッドの上で何かがチカっと光った。
「何だ……これ……」
ボールペンだ。つやつやの茶色で、ちょっぴり歯形がついている。
「あいつ、いたずらしやがって! しょうがねぇなあ」
即座に回収。上着の胸ポケットに突っ込んだ。
後で返しておこう。
しかしながらその後のサンダーとの攻防戦は一段と激しさを極め、ビリーは拾ったペンのことはころっと忘れて家に帰ってしまったのだった。
※ ※ ※ ※
ペン、ペン、つやつやのボールペン。一本で赤と青、黒と三色書ける素敵なペン。
チョコレートみたいにこっくりした茶色に、オレンジ色で文字が描いてある。「カリフォルニア大学動物病院」って読むんだとテリーお兄ちゃんが教えてくれた。
文字の横には、かわいい足跡。
子犬かな。
子猫かな。
でもこのボールペン、何でこんなところにあるんだろう。
テリーお兄ちゃんがいっぱいお土産に持ってきてくれたから、一本迷子になっちゃったのかな?
ちっちゃな手を伸ばすとミッシィは、ソファの上に転がるチョコレート色のペンを拾い上げた。
「……ケガしてる?」
ちょっぴりベタベタしてる。ぽつぽつと傷もついている。
洗ってこよう。
洗面所で丁寧にペンを洗って、拭いて、大事に大事にポーチにしまった。お口をばってんにした、白いウサギの顔の形をしたポーチに。
※ ※ ※ ※
「こんちわー、Mr.エドワーズ」
「おや、こんにちは、テリー」
「ハロー」
「やあ、Missミッシィも。お会いできて光栄です」
「にゃっ」
エドワーズは穏やかな笑みを浮かべて兄と妹を迎え入れた。リズも上品に尾をくねらせ、するり、するりとミッシィの足に身体をすりよせる。
「Hi,リズ」
「みーう」
「本日は何をお探しでしょう?」
ミッシィはアーモンド型の黒い瞳でじーっとエドワーズを見上げ、はっきりした声で告げた。
「絵本をください」
「かしこまりました。ご予算はいかほどですか?」
「2ドルです」
うやうやしく、児童書と絵本のコーナーに案内する。
「こちらの棚は、どれも2ドル以下となっております」
「サンクス!」
「よろしければ、こちらの踏み台をお使いください」
「はーい!」
アーモンド型の目をぱっちり開いて、ミッシィは後ろに手を組み、絵本の棚を調べ始めた。
その隣では、きちんと床に座ったリズが一緒になって本棚を眺めつつ、ぱったぱったとしっぽを振っていた。
「しっかりしたお嬢さんだ。ちゃんとお金の価値を理解している。お母様から預かってきたのですか?」
「いや、トゥースフェアリーに1ドルもらった」
「なるほど」
夜、抜けた乳歯を枕の下に入れておくと、トゥースフェアリーがやってきて、1ドルと取り換えてくれる。
子どもの頃を思いだし、エドワーズはふっと目元を和ませた。
「先月と今月で、2本分、貯金してたんだ。前に来た時、どれでも2ドルっての覚えてたんだな」
「それは……とても、光栄です」
じっくり考えてから、ミッシィは一冊の本を選んで持ってきた。
「これをください」
「ライオンと魔女、ですね。かしこまりました」
少し彼女には難しいのではないか? とも思ったが、考えてみれば「竜の子ラッキーと音楽師」が読めるのだ。
わからない所は、家族に聞いて覚えて行くだろう。
「ちょうど2ドルになります」
ミッシィは、肩からさげたポーチのジッパーを開けて、中から1ドル札を二枚とり出した。
「はい!」
「……はい、確かに」
きっちりと本を袋にいれて、レシートと一緒に渡そうとすると……
ミッシィはさらにポシェットの中からペンをとり出し、かちっと芯を出した。
「……おや?」
「あー……その……ほら、荷物が届いた時よくやるだろ、受取書にサインをって」
ペンを片手にそわそわしている妹を横目で見ながら、テリーは照れ臭そうにくしゃくしゃと頭をかいた。
「最近こいつ、自分の名前書けるようになったばかりなんだ」
ああ! なるほど、そう言うことか。
「それでは、こちらにサインをお願いします」
エドワーズはレシートの控えをとり出し、余白に指を走らせた。
「そら、よっと」
テリーはミッシィを抱き上げ、カウンター前のイスに座らせてやった。
ミッシィは真剣そのものの表情でペンを動かし、一文字、一文字、名前を書いた。
M , i , s , s ,y
書き上がったサインをじっくりと見直して、満足げにうなずく。
「はい!」
「ありがとうございます……おや?」
「おや?」
エドワーズのライムグリーンの瞳と、テリーのターコイズブルーの瞳が、小さな手の中のペンに吸い寄せられる。
チョコレートみたいにこっくりした茶色に、もぎたての果実みたいなオレンジ色。見慣れた動物病院のロゴマーク、そして肉球の1ポイント。
「これは……」
「動物病院の……」
クリスマスの挨拶用に、職員や畜主や出入りの業者、学生に配っている品だ。
テリーはおもむろに胸ポケットから。エドワーズはレジ横のペン立てから同じペンをとり出した。
ひと目見るなりミッシィは大喜び。
「おなじ!」
「うん、そうだな」
「おそろいですね」
「エドワーズさんと、おにいちゃんと、おそろい!」
とん、とリズはカウンターに飛び乗り、ふんふん、とミッシィの手の中のペンのにおいを嗅いだ。
「んにゅぅ」
子犬と、男の子のにおいのついたペン。ちょっぴり歯形のついたそのペンが、サリー先生の忘れ物だと言うことは……
リズだけが知っている。
(サリー先生の忘れ物/了)
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▼ 【4-20-7-2】★★★目をそらすな
ディフの指が、手が、パジャマの間に潜り込み、慌ただしくボタンを外す。自分からも手を添え、取り去った。二人の間を隔てるしなやかな布地を脱ぎ捨てた。
続いてディフの体を覆うボディストッキングをはがしにかかり、ふと手が止まった。
「これは………どうやって脱がせればいいのかな」
「あー……その……お、俺もどうやって着たのか、頭がわやでっ」
説明書と首っ引きで、四苦八苦しながら着ている姿を思い浮かべる。
(ああ、やはり君は可愛いよ)
腰骨の上を横切る細い紐をひっぱった。
「この部分は、別になっているのかな?」
「っ!」
びくっと体をすくませている。まさぐると、後ろはほとんど丸出しだ。わずか紐一本が、尻の頬肉の間に通されているだけだった。
「別に脱がせる必要もなさそうだね。これをずらせば、このまま……」
「あぅっ、む、無茶言うなっ! 前が……きつくてっ」
もぞもぞと体をよじり、パンツに手をかけている。
「い、今脱ぐから、待ってろ」
「わかったよ」
こんな薄い布地だ。ちょっと力を入れてひっぱれば簡単に破れるだろう。だが、身に付けたものを破るのは。どこか暴力的な行為に興じるには、まだためらいがあった。
「え、あ、しまった」
めり、と布の裂ける気配がした。
おや。
パンツを脱ぐ時に引っかけたのか。太ももに一ヶ所、大きな穴が開いている。
モスグリーンの中に開いた白い穴。ああ、何てきれいなんだろう。口を寄せ、歯を立てたらどんな声が出るのかな………
いや、待て。
いけない。
落ち着け。
暴れかけた獣の首根っこを押さえつけた。
冷静になれ。彼が自分で脱ぐのを待つんだ。
「何で……そんな、冷めた目で……見る……」
ディフが手を止めた。眉根を寄せている。当惑している。
気付かれてはいけない。ふ、と軽く笑って言葉を返した。
「そのほうが、感じるみたいだしね」
「っ」
くしゃっと顔をゆがめ、小刻みに体を震わせている。片方の目から涙が一粒、ぽろりとこぼれた。
「お前だって、誤解してるじゃないか」
「ああ……すまない、今のは本気じゃない」
頬にキスすると、しがみついてきた。
「その冷たい目で見てるのは俺か? それともお前自身か?」
「……すまない、もう少し我慢してくれ」
涙をためた瞳がのぞきこんで来る。戸惑いながらも、懸命に言葉をつづった。
「自分でも今は直せない……と思う」
(うかつに欲情に溺れる訳には行かないんだ。君を守るために。俺の中の獣を、押さえ込んだと確信が持てるまでは……)
ディフはそっと俺の頬に手を当てて……にこっと笑った。
彼には通じている。わかっているのだ!
「……君を悲しませるのは不本意なんだが……」
「俺が悲しいのは、お前が苦しんでるのに何もできないからだ」
「できてるさ」
「……そうなのかな」
頬を包む彼の手に、自分の手のひらを重ねた。互いの薬指が絡み合い、そろいの指輪が触れ合う。
「最初は、君にこうして触れることすら恐ろしかった」
「……驚いたろうな」
ディフが顔を寄せてきた。互いに見交わしたまま、唇を重ねる。短い、けれど密度の濃いキスの後、わずかに唇が離された。
「こんな風に俺にキスされて」
「そうだね。少し……油断してたかな」
友ではなく、一人の男として俺を見ていると告げる、君の言葉に胸が震えた。単語の一つ一つをかみ砕き、夢ではないのだと確かめている間に唇が重なっていた。
動くことを忘れ、視線をそらすこともできず、一部始終を見届けた。
「必死だったんだ。あんなに長い間一緒にいたのに……俺は………。お前への気持ちに気付いた途端、あれ以上待てなかった」
おや。また目線を左右に泳がせている。照れているのか。恥じらっているのか。
「そのおかげで、こうしている」
左胸が熱い。ディフの手のひらが当てられていた。ゆっくりと、円を描いてなでられる。その内側で心臓が踊り、鋭敏な感覚がぽつりと立ち上がる。
「そんなに恐れていたのか? あの夜、始めてこの部屋で……俺に触れた時も」
「手が震えるのをおさえるのに、必死だったよ。すぐに夢中になったけれどね」
「……俺は、どうやって力抜いたらいいかわからなくて。でもすぐにお前の手が。指が。唇が……余計な物を全部とっぱらっちまった」
「君は変わらないね」
ゆるく波打つ長い髪。少年の頃よりもふさふさと伸び、首筋を……肩を覆い背に広がる。時に獅子のように気高く、時に親鳥の翼のように優しく包む赤い髪に指を絡めて、撫でた。
しなやかな波が指の間を通り抜ける。触れるたびに、教えてくれる。手の皮膚から伝わる悦びがあるのだ、と。
「少し、髪は伸びたけれど。いつも正直に俺に話してくれる」
「他に、愛しかたを知らない」
「俺にとっては、嬉しいことだね。この上もなく」
「……そ、そう言う恥ずかしいことをはっきりと………」
しばらくディフは口の中でもごもごとつぶやいていたが、やがて力抜いて、身を委ねてきた。
「世界で一番安心するのは、ここだ、レオン。お前の腕の中だ」
「………ありがとう」
抱きしめる。ひゅう、と息を吸う気配がして、胸にぺたりと顔を埋めてきた。
「お前は、違うよ」
ためらいを振り払うように、彼は静かに。だが、きっぱりと言い切った。
「俺を引き裂き、むさぼり食った奴らとは……違う」
「今はまだ……ね」
「これからも、だ」
ディフは顔を上げた。視線に実体があるのなら、俺の心臓は間違いなく射貫かれていた。若葉色のペリドットと、透き通る黄褐色のトパーズを掛け合わせた、一対の真摯な瞳に。
「俺はお前を愛してる。それが最大の違いだ。覚えとけ」
(ああ)
「忘れたことはないよ……」
もう、冷たい仮面をまとう必要はない。喜び、悲しみ、怒り。全てあるがままに解き放ち、簡潔な言葉で伝えよう。
一番大切なことを。
「愛してる」
ディフは歯を食いしばり、身を震わせた。
「もういちど……言ってくれ……あいしてるって……」
「愛してるよ。もうずっと昔からだ。そして、これからも」
ディフの体から力が抜けて行く。うっすらと涙を浮かべた目が細められ、口元が上がり、白い歯がのぞいて……弾けるような笑顔が花開く。
同じだ。高校の寮の一室で、初めて出会ったあの時と。
何も含まず、何も隠さない。偽らない。何の見返りも求めない。
ただ俺を慕い、ほほ笑み、迷いのない声で告げる。
「愛してるぞ、レオン」
心臓が震えた。ここ数日、胸の奥でずっと疼いていた小さな刺し傷を、やわらかな羽根が包む。
ひりつく痛みを。
焼けつく冷たさを和らげる。
君を想う時、胸を満たす温かさが蘇る。
「俺は、いつも君に救われてるよ……」
「その言葉、そっくりお前に返す」
頬を両手で包み込み、そっと唇を重ねた。羽毛でくすぐるような軽やかなキスが、ねっとりと水音を響かせる淫らな舐め合いに変わるまでにいくらもかからなかった。
「レオン……レオン……」
絡み合い、溶け合いながら何度も呼ばれた。
繰り返し囁かれた。
愛していると。
求めあう心と絡み合う体。
どちらが欠けても、俺たちの間に『愛してる』は成立しない。
熱く熟れ溶けた彼に呑み込まれ、体中くまなく抱きしめられて。猛り立つ肉の楔を奥深く打ち込み、叩きつけ、無我夢中でほとばしらせた。注ぎ込んだ。
「ぅう、あ……あぁ……」
歓喜の声を挙げてディフはぶるりと身を震わせ、精を放った。男として最も無防備な瞬間を俺の前にさらけ出した。ほんの少し恥じらいながら、かすかなほほ笑みを浮かべて……
飛び散る雫を舐めとり、首筋に赤々と浮かぶ『薔薇の花びら』に口づける。何度も何度も繰り返し。燃え盛る欲情が次第に穏やかになり、ゆるやかなさざ波になるまで、ずっと。
温かな腕が背に回される。汗ばんだ肌に顔を寄せ、包まれるまま身を委ねた。
「レオン……」
ディフは髪に顔を埋め、乱れた息が治まるのも待たずに囁いてきた。
「お前の中に在る全てを愛してる。解き放つのをお前が恐れるのなら……俺が引き止める」
そのひと言で、彼の中に横たわり、余韻に浸りまどろんでいたはずの『息子』がむくり、と起き上がった。
「……ディフ」
「っ、お前、何、また固くして……あっ、こら、せめて一度抜けっ」
「いやだ」
肩ひもを外し、ボディストッキングを一気に引き下ろした。
「う、あ、あっ」
ディフは背を反らし、水からあげた魚みたいにびくん、びくん、と不規則に震えた。肌に鳥肌が立っている。布地が思ったより食い込んでいたらしい。解放された胸の中央で、ぷっくり膨らみ揺れる乳首を口に含んだ。
「んぅっ」
咽が鳴った。丁寧に舌で包み、吸い上げる。その動きに合わせて彼の後ろが収縮し、吸い上げるように動く。
「く、う、あ、んんっ」
「う……んっ」
たまらず、突き上げた。はあはあと口から熱い息を吐き、本能の命じるまま腰を振りたて、抉った。
すぐにディフは自分から足をからめ、俺の動きに合わせて体をくねらせる。さっき放ったばかりの精がかき回され、いやらしい水音を響かせる。
モスグリーンのストッキングに包まれた足を持ち上げ、破れ目からのぞく肌を指先でなぞった。
「っ、どこ、触ってっ」
「きれいだな……」
開かせた足を引き寄せ、わずかに角度を変える。彼が左右に身をよじり、赤い髪が乱れて広がる。一度、入り口近くまで引いてから、改めて深く交わった。
「レ……オ……ンっ」
ああ、君って人は。愛でれば愛でるほど昂ぶり、どこまでも昇りつめる。どれほど俺を感じているか、求めているか、余さず伝えてくれる。
「可愛いよ……愛してる」
すっかり君を裸にするまでに後何回、愛し合えるかな……。
※ ※ ※ ※
汗ばむ体を寄せ合い、ベッドに横たわる。レオンも俺も、何も身に付けていない。左手の薬指にはめた揃いの指輪以外は。
全力疾走した時よりも。プールを何度も泳ぎ渡った時よりも、けだるい。けれど頭の中はさっぱりしていた。
ぬるい海の波間を漂うのにも似たふわふわした心地よさの中、首筋をなめられた。
「よせよ、くすぐったい」
笑いながら顔をすりよせる。わざと髪の毛がレオンの肌に触れるようにして。
「そっちの方がくすぐったいよ」
「この……可愛い奴め」
ひとしきりじゃれ合っていると、レオンに言われた。
「一緒にジムに行かないか?」
「え……ここの、下の、か?」
「いや。知り合いの経営してるクラブへ。本格的な設備の整った所で、ゆっくりと過ごすのもいいだろう?」
「いいな。でも……」
マンションの付属のジムなら、同じ建物の中だ。だが外に出るとなると……。オティアとシエンを置いてかなきゃいけない。
言い淀んでいると。
「子どもたちは、アレックスに任せればいいじゃないか。また、サリーに来てもらってもいい」
「そう……だな」
「サリーには、あの子たちも懐いてるし」
確かにその通りだ。この間、彼が来た後はオティアもシエンも、目に見えて元気を取り戻していた……。
「あっ」
不意に耳にキスされ、やんわりと噛まれた。すくみ上がった瞬間、低い声が囁く。ひと言、ひと言、吹き込まれる言葉が耳の穴を通り抜け、甘美なしびれが染み透る。
「たまには、君を独占させてくれ」
「俺は、いつだってお前の!」
「君は、この所ずっとシエンとオティアにかかりきりじゃないか」
「う」
拗ねた声だ。拗ねた顔だ。つくん、と胸が疼く。
「心配なのはわかる。この一月と言うもの、二人とも不安定な状態にあるからね。シエンは特に。だが幸い、回復してきているだろう?」
「……そうだな」
「家族だけじゃない、外の人間と接触する機会を増やして行くことも必要なんじゃないかな」
「ああ……」
「君にも必要だよ。あの子たちの『まま』を休む時間が」
「……わかった」
うなずくディフを見て、レオンはようやく満足した。すっかり桃色に染まった耳にふっと息を吹きかけ、顔を離す。
(これでいい)
ぴくり、とすくむ肩を手のひらで包む。
「一緒にシャワーを浴びようか」
「………うん」
今度はためらわずに言えた。
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