▼ 【4-20-1】★★レオン落ち込む
カーテンの隙間から白い光が差し込む。
朝だ。
わかってはいたが、カーテンを開ける気にはなれなかった。枕元の常夜灯を頼りにバスルームに歩いてゆき、明かりをつける。
象牙色の光が目に染みる。まぶしさに目を細めながら鏡張りの戸を開け、棚から白いプラスチックのケースをとり出した。
箱の表面には赤い十字の印……救急キットだ。この部屋でディフが暮らすようになってから、居間の他に個々のバスルームにも救急キットが備え付けられている。
過保護だな、とも思ったが、今は彼のその用心深さがありがたい。おかげで知られずに済む。双子たちにも。ヒウェルにも。
何故、それが必要となったのか。
扉を閉める。鏡に写る己の顔から反射的に目をそらしていた。
(……酷い男だ)
足早に寝室に戻ると、ディフは歯を食いしばってベッドの上に半身を起こしていた。
眉をしかめ、咽の奥からくぐもった呻きを漏らす。
ベッドから起き上がる。それだけの動作であんな顔をするなんて。駆け寄り、肩を支えた。
「…………あ」
「無理をしないで。今朝はアレックスに来てもらうから」
「そ……だな……」
救急キットをベッドの上に載せると、ディフは小さな声で「ありがとう」と囁いてきた。
ガウンの襟をずらし、髪の毛をかきあげる。左の首筋の火傷の跡。大きさといい、形といい、薔薇の花びらそっくりの傷跡の上に、くっきりと真新しい傷が刻まれている。byte-mark……レイプや虐待の証拠となり得る噛み跡だ。
弧を描いて点々と『薔薇の花びら』を横切る牙の痕。皮膚の内側は赤黒くうっ血し、表面にはうっすらと乾いた血がこびりついている。
昨年の五月、彼に刻まれた忌まわしい傷によく似ている。だが今、目の前にあるのは他ならぬ自分が。
レオンハルト・ローゼンベルクが刻んだ印だ。
ディフは淡々と傷の手当てを続けていた。腕や肩、ガウンに隠れて見えない場所。体中いたる場所に走る赤い筋に軟膏を塗っている。あれは、この爪が刻んだのだろうか。それとも、もっと尖った別の何かの痕跡なのだろうか。
………覚えていない。
だが、普段は使わないタックピンがベッドサイドのテーブルの上に転がっていた。
闇の中、おぼろげな記憶の欠片が閃く。
怯えるヘーゼルの瞳をスカーフで塞ぎ、汗ばむ白い肌に銀色に光る針を這わせ、滲む雫を執拗に舐めとった。
(あんなものまで……俺は……俺は、何て事を!)
繰り返し注射された忌まわしい薬剤。押さえ込まれ、無理やり背中に刻まれたタトゥー。
肌に針を刺されることを、彼がどんなに恐れるか知っているはずなのに………。
引っかき傷の処置を終えると、彼は最後に手探りで首筋を消毒し、軟膏を塗り、大きめの絆創膏を貼ろうとした。体をひねった拍子に顔をしかめる。
「あ」
強ばる指先の間をすり抜け、絆創膏が落ちる。拾い上げて首筋にそっと乗せた。とにかく忌まわしい歯形を視界から消したかった。
「手伝おう」
「すまん。そこ、押さえててくれるか」
「……ああ」
傷の手当てを終えると、ディフは静かに横になった。
「少し……眠るよ」
「そうだね、その方がいい」
彼はほほ笑み、目を閉じた。わずか一晩の間にげっそりとやつれてしまった。昨夜の事がよほど堪えたのだろう。手を伸ばし、頬に触れる。指先が震えた。
(……すまない)
自分をコントロールできなかった。腹の底から沸き起こる真っ黒な衝動を抑えられず、欲望の赴くまま君をねじ伏せ、甘美な肢体をむさぼった。切れ切れに漏れ聞こえる悲鳴に酔い、ひたすら己の飢えを満たす事に没頭した。溺れた。
(俺の中に獣が居る。愛する人を食い尽くそうと目を光らせ、牙を研ぐ獣が潜んでいる)
ずっと『そいつ』の存在に気付いていた。ディフへの想いを自覚したその日から。だからこそ、鋼の意志を以て飼い馴らしてきたつもりだった。制御できると信じていた。
それなのに。
俺は一線を踏み越えてしまった。彼は何も言わないけれど、あれは『過激なセックス』で済まされるレベルじゃない。明らかにDV(ドメスティックバイオレンス)だ。
同じことが男女の夫婦で起きれば即座に警察沙汰だ。
ディフもそのことはわかっているはずだ。自分が目撃したらすぐに警察に連絡するだろう。
(俺が望んだから……)
それだけの理由で、彼は全てを受け入れる。愛情故に為されたことだと知っているから。血のにじむ胸で、腕で俺を温かく包んでくれる。ほほ笑みさえ浮かべて……。
「ディ……フ……」
うっすらと開いた瞼の合間から、優しいヘーゼルブラウンが見上げてくる。
身をかがめて額に口づける。
唇を重ねることは、できなかった。
恐ろしかったのだ。
その瞬間、自分の中の真っ黒な獣が牙を剥き、今度こそディフを食い尽くしてしまうのではないかと。
(どうやって君を守れば良いのだろう? 他ならぬ、俺自身から)
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