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ローゼンベルク家の食卓

【4-20-2】★空気が重い

2010/09/12 17:03 四話十海
 
 月曜の朝、シエンは少し早めに起きた。
 昨日、ディフは一日中起きてこなかった。朝も昼も夜も、食事は全部アレックスが準備してくれた。
 アレックスの料理も、ソフィアの焼いたパンも美味しい。でもさすがに今朝は頼る訳には行かない。アレックスは仕事があるし、ソフィアだってディーンを幼稚園に送って行かなきゃいけない。
 
(昨日もらったパンをトーストして、卵を焼いて……オムレツにしようかな、目玉焼きにしようか)

 考えながらリビングに通じるドアを開けると、ばったりディフと目が合った。

「あ」
「あ……」

 起きてる。もう、具合はいいんだろうか? 珍しくきっちりとハイネックのセーターを着込んでいた。
 腕まくりもしていない。寒いのかな。

「おはよう」
「おはよう。もういいの?」
「ああ。心配かけたな」

 声がちょっとしゃがれてる。やっぱりまだ本調子じゃないんだ。
 キッチンに行くと、レオンがいつものようにミルでコーヒー豆を挽いていた。

「おはよう」
「……おはよう」

 何だろう。今、一瞬だけど妙な隙間があった。
 ディフの『おはよう』にレオンが応えるまでに、ほんの少し、間が空いてたような気がする。

「卵はオムレツ? スクランブル? フライドエッグ?」
「そうだな……スクランブルにしてみるか」
「OK」

 甲斐甲斐しく働く二人の姿を見守りながら、オティアはひそかに眉をしかめていた。

 ディフとシエンが入ってきた瞬間、レオンが一瞬、手を止めていた。直接見た訳ではないけれど、ミルの音が途切れた。すぐにコリコリとコーヒー豆を挽くリズミカルな音が再開したけれど……それに紛れてかすかにため息をつく気配がした。
 レオンが。あのレオンが、自分たちの見ている前でため息をつくなんて、今まで一度だってなかったのに!

 ディフはまだ調子が悪いらしい。昨日寝込んだ原因が何なのかは、考えたくもなかった。
 大したことじゃない。どうせ放っておいても元の鞘に収まる連中だ。あくまで何もなかった事にしているのなら、こっちもそれに付き合っていればいい。
 
 まもなくパンが焼け、コーヒーの香ばしいかおりが立ち昇る。いつもと同じ朝食の時間が始まる。
 だが食卓に漂う空気はどこかぎこちなく、重かった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 レオンが、遠い。
 物理的な意味じゃない。仕事中はともかく、家に居る時はそれこそ片時も離れちゃいない。毎日同じベッドで眠り、同じ部屋で目覚め、一緒に食卓を囲む。
 送り出す時も出迎える時もキスとハグ。今までと同じ、何ら変わりはない。

 外側から見る限りは。

「お帰り」
「ただいま」

 仕事を終えて帰ってきたレオンをいつものようにキスとハグで出迎える。
 疲れてるな。一日ずっと気を張りつめて、今も神経をピリピリ尖らせてる。ただ唇を合わせただけで、わかるよ。伝わってくる。

 一旦、キッチンに顔を出し、双子に声をかける。

「ちょっと任せていいか?」
「ん」
「いいよ」
「サンクス」

 大股でリビングを横切り、廊下を歩き、寝室に入る。レオンがネクタイをゆるめて外していた。何度見ても飽きない、大好きな仕草だ。一人でいる安心感から気が緩んだのだろう。今まで隠していた苦さと重さがにじみだし、丹精な顔立ちを憂いの影が縁取っていた。
 くっきりと、暗く。 

「……どうした、レオン」

 ためらいがちに声をかける。
 途端にレオンは笑顔になった。明るい茶色の瞳はわずかに細められ、整った唇が三日月の形を描いてつり上がる。きれいにとりつくろった、完璧な営業用のスマイル。
 大理石を削り出した、世界一美しい仮面。冷たく血の通わない石のほほ笑み。
 お前がその表情を浮かべるのを、何度となく見てきた。だけどいつだって相手は俺以外の誰かだった。
 一度だって俺にはこんな顔、向けたことがなかった。今、この瞬間までは……。

「何でもないよ」

 歯がゆい、やり切れない、切ない。
 のどが詰まる。
 込み上げる感情をどこに逃がせばいいのか、わからない。息ができない。
 咄嗟にスーツの襟を掴み、レオンを引き寄せる。驚いてるな。そうだ、それがお前の本当の『顔』だ。

 目を閉じて、無我夢中でキスをした。ティーンの頃に初めて女の子とキスした時だってここまで緊張はしなかった!
 ガチっと歯がぶつかりそうな勢いだったが、かろうじてそれだけは回避した。襟を掴む手がぶるぶる震える。
 どうする。勢いでキスしちまったが、ここからどうする。もっと深く重ねるか。舌入れるか? ああ、でも仕掛けた瞬間、逃げられたら! 引くことも前に出ることもできずに震えていると……
 背中に腕が回され、抱き寄せられた。

(あ)

 唇が動く。
 やわらかく、そっと、羽根でくすぐるみたいに俺の唇をついばみ、ちゅっと軽やかな音を立てて後ろに引く。離れてはいない。触れるか触れないかの微妙な距離。

 かわされた。

 凍てつく糸がきりきりと心臓をからめ捕り、締めつける。
 後先考えずに行き詰まり、追いつめられ、必死になって全力で仕掛けたキスを……
 なかったことに、された。

 響きあう心と、絡み合う体と。どちらが欠けても『愛してる』は成立しない。
 この一週間と言うもの、俺たちの間には片方しか通じていない! 俺を優しく受け止めているように見えるけど、お前は決して深く触れようとしない。ただ表面を優しくなでるだけだ。通り過ぎるだけだ。

(ちがう。ちがうぞ、レオン。俺が欲しいのは、こんな優しいキスじゃない!)
(もっと強く吸えよ。舌つっこんでこいよ。俺が欲しがってる時は、求める前にいつだってそうしてくれるじゃないか!)
(伝わってないのか? わかってて気付かないふりしてるのか?)

 嗚呼、やり切れない。
 いたたまれない。
 手のひらを胸に当て、ぐい、と押しのけた。

「………お前は、全然わかってない」

 口が歪み、声が揺れる。レオンはほんの少し悲しそうな顔をして、目を伏せた。背を向けて部屋を出る。
 とてもじゃないけど、それ以上彼の顔を見ていられなかった。
 みっともない。情けない。自分からかまってくれとすり寄っておいて、拗ねてかんしゃく起こして逃げるなんて。
 俺は子どもか?

 荒々しくリビングに通じるドアを開ける。
 ソファの上で、オーレがびょくっと四つ足で飛び上がった。白いしっぽがぼわぼわに膨らんでいる。

「っと………」

 よほどびっくりしたんだろう。耳を伏せ、背中を丸め、とっとっとっと斜めに後じさる。真っ赤な口が開き、しゃーっっと威嚇の声と、圧縮された空気を吹きつけられた。

「すまん」
「ぅるにーう!」

 ぴしゃり、としっぽがしなり、ソファを叩く。半月型になった青い瞳が、上目遣いにじとーっとねめつけてくる。とんでもなく目つきが悪い。

「美人が台無しだぞ、オーレ……」

 そろーっと指を差し出す。オーレは耳を元に戻して、ふん、ふん、とにおいをかぎ、くしっと顔をすり寄せた。

 いかん。
 ため息が漏れる。
 いかん、いかん。キッチンに戻るまでに、持ち直さなければ。
 親が不安になれば、子も心細くなる。シエンは今、少しずつ外に出ようとしている。勇気を振り絞ってやっと自分から踏み出した所なんだ。余計な心配をかけちゃいけない。
 すうっと息を吸い込む。
 白い子猫を抱き寄せ、ふかふかの毛皮に顔をうずめた。ごろごろとのどを鳴らす音が響く。ああ、天上の音楽だ。

「にゅ?」
「……ありがとな」
 
 とん、とオーレは身軽に床に飛び降りた。俺の足の間をすり抜け、ととと、と前に進んでからこっちを振り向き、ひゅんっとしっぽを振った。

「ああ、今行くよ」

 顔を上げ、口角を上げ、キッチンに向かった。
 
「待たせたな!」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ドアが閉まり、重たい足音が遠ざかる。いつもより早いリズムを刻んで。
 レオンは深いため息をついた。

 危ない所だった。
 叩きつけられた情熱をかわすのに、凄まじい努力と鋼鉄の意志を振り絞らなければならなかった。

(わかっているさ……)

 小刻みに震える熱い体の感触が、手のひらにまとわりついて離れない。
 あんなにいっぱいいっぱいになって、追いつめられて。必死ですがりついていた。求めていた。
 できるものならば、この場でベッドに押し倒したかった。
 だけど。

 拳を握る。手のひらに爪が食い込む。

(今触れたら、きっと君を壊してしまう)

 愛しい君。最愛の君。
 愛しくて、可愛くて……引き裂かずにはいられない。

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