▼ 【4-20-3】★ままは上の空
あれからずっと、レオンは俺に触れようとしない。
二人きりになった瞬間にお互いに距離をとってしまう。抱きあうことも、手さえ握らず……隣に居るだけ。ベッドの中でも。外でも。
おやすみのキスとおはようのキスは、唇ではなく額だ。
「どうした? ヒゲが当たってくすぐったいか?」
空元気を振り絞って笑いかけるとレオンは眉根を寄せて目を細め、ぎこちない笑みを返してきた。
しなやかな手のひらが二の腕にまきつき、肘へと滑り降りる。そのまま腕から指先へとすり抜け、離れて行った。遠ざかる愛しい指先を追いかけることも、すがることもできず、そのまま黙って背を向けた。
だが、子供たちの前ではいつもと同じように振る舞う。悟られてはいけない。知られてはいけないと、平常を装う。
胸の内側はきりきりと、絶えず刃物で切りつけられるように痛い。眉をしかめたくなるレベルの不快感が絶え間なく続き、ふとした拍子にのたうち回ってもまだ足りぬくらいの激痛へと変わる。
こうしている間にも、見えない傷が増えてゆく。傷口が広がってゆくのをはっきりと感じる。
薬を飲んでも、塗っても効かない。効くはずがない。
こんな事、今まで無かった。まだ親友だった頃から今に至るまで、一度もだ。
どうすればいいのか、わからない。
だが、幸いにして理由は察しがつく。
『壊れる君が、見たい』
『いいよ。好きなだけ、俺を壊せ』
何もかも、あの一夜から始まった。
俺にあんな性癖があると分かってしまったから……いたぶられて悦ぶ浅ましい男だと知られたから、軽蔑されているのだろうか。
避けられてるのだろうか?
『誰でもいいんだろう? お前の穴を埋めてくれる男なら、誰でも!』
(ちがう……)
『力づくで犯されて、よがり狂いやがって。たまらねえって顔してるぜ。心底呆れた奴だ……』
(ちがう!)
『この姿……ローゼンベルクに見せてやりたいよ』
「っ!」
歯を食いしばり、両手で肩を押さえ込んでも止まらない。体内に深く穿たれた穴の奥から沸き起こる、不規則な震えが。
『いいよ。好きなだけ、俺を壊せ』
何故、あんな姿をお前に見せてしまったのか。
ああ、できるものなら、時間を巻き戻して無かったことにしてしまいたい……
そうできたら、どんなにいいか。
扉の開く音にびくっとすくみ上がる。
心臓が縮み、一瞬置いて激しく脈動する。すさまじい勢いで内側から肋が押し広げられ、きしむ。
落ち着け。
口を開けて深く息を吸い、吐き出した。もうじき彼が入ってくる。それまでに持ち直せ。笑顔を作れ。何としてでも!
「ただいま」
「お帰り」
どうにか間に合った。
今夜もまた、何事もないように抱きあい、キスをする。固く目を閉じたまま、手探りで腕を回して。
唇が触れる。思い切って目を開けると、ほほ笑む明るい褐色の瞳の奥に陰りが見えた。
何てことだ。
レオン……お前、全然力を抜いてない。
一度気付いてしまうと、もういけない。仕草や眼差し、声の端々に、嫌な強張りが見えてしまう。
この感じ、前にも一度見たことがある。初めてルームメイトとして出会ったあの時だ。
こいつには、何か欠けているものがあると思った。
親友としての日々に終わりを告げ、初めて恋人のキスを交わした夜、欠けたピースがかちりとはまるのを感じた。そのはずだった。
置いてきぼりにされた子どものような、寂しげな気配。拗ねてる、なんて可愛いげのあるものじゃない。膝を抱えてうずくまり、絶えず周囲の気配に耳をそばだてている。研ぎ澄まされた刃物を全身にまとって。
まるで、回りを全て敵に囲まれてた兵士のように身構えている。
ここはお前の家なのに。帰ってくる場所のはずなのに!
(俺のせいだ……ずっと子供たちに。シエンにかかりっきりで。レオンは大丈夫だって。ただ隣にいればいいと勝手に安心していた!)
「シャワーを浴びてくるよ」
「……ああ」
だからなのか、レオン。
だから、あんなにも激しく俺を求めたのか。すがりついたのか。それなのに、俺は……俺は………
「ごめん……レオン。ごめん……」
かすれた声はガラスのドアと水音に遮られ、愛しい人には届かない。
※ ※ ※ ※
夜。
何気なく寝返りを打った拍子に、右の肩がレオンの背中に触れた。その瞬間、彼がわずかに身を固くする気配が伝わってきた。
起こしてしまったのか。それとも眠っていなかったのか。
レオンは動かない。俺も、動けない。しんと静まり返った空間に、ただ互いの息の音だけが響く。
不自然に穏やかに、規則正しく。からからに乾いた口内に唾液が溜まる。こくっと飲み込むのどの鳴る音にさえ心臓が縮み上がる。
(何やってんだ、俺は)
声をかけることもできず、彼を抱き寄せることもできず。寝返りを打つふりをして、離れた。
ついさっきまで肩に触れていたレオンの背中の温もりが遠ざかる。それを寂しいと思うよりむしろ安堵している自分に気付き……泣きたくなった。
※ ※ ※ ※
互いに背を向け、息を潜めたままひたすら夜が明けるのを待った。
朝は何事もなくいつも通りの時間に起きて、おはようのキスを額に受けた。
優しいな、レオン。
だけど今はお前の優しさが、つらい。切ない。
「行ってくるよ」
「ああ、気を付けてな」
彼を送り出し、サリーに後を託して事務所に向かう。
一人になると、いやでも意識が昨夜の記憶に引っ張られちまう。
……いかんな。
がしがしと頭をかき回し、まとわりつく重苦しさを振り払う。今はこの事務所には俺しかいないんだ。自分の代わりは誰にもできない。逃げ場はない。
勢いよく上着を羽織り、デスクから立ち上がる。
俺はプロの探偵だ。訓練を受けた調査の専門家だ。
迷ってる場合じゃない。報酬に見合った結果を届けろ、責任を持って。
外にいる間は意識が上手い具合に切り替わってくれた。ぴしっと気が張りつめ、夕方には滞りなく任務完了。残っているのはデスクワークだけだ。
さて、どうしたものか。仕上げてから帰るか、家に持ち帰るか……基本、仕事は家に持ち込まない主義だが。
「っと」
携帯が震える。シエンからのメールだ。
『ソイ・ソースが終わっちゃった。まだ事務所にいるなら、買ってきて』
……抜かった。少なくなっていたが、まだしばらくは持つと思ったんだが。
今日のランチはサリーが作ってくれた。日本の料理ってのは、ソイ・ソースをメインに使うんだよな。
ノートパソコンを閉じて鞄に突っ込む。残りは家でやろう。
スーパーで買い物カートを押して歩く。いい加減、一人で買い物するのにも慣れてきたな……
冷凍食品のコーナーを通りかかると、レンジミールの試食が配られていた。新商品らしい。
何だか奇妙な懐かしさを感じた。
以前はあの家の冷蔵庫の中にこいつが常駐していた。一昨年の冬、俺が入院してる間。アレックスが忙しい時、レオンとオティアとシエンはこいつをあっためて食っていた。
見かねたヒウェルが朝飯を作り始めて、そのうちシエンとオティアが手伝い始めて……今では当たり前のように三人でキッチンに立っている。
その前の年は台所に立つのは俺一人で、食卓で待っていたのはレオン一人だった。たまにヒウェルが混じることはあったが……。
それより前は?
もっと前は?
始まりは?
『飯、できたぞ』
『君が作ったのか?』
『ああ、一人分も二人分も大して変わんないからな。そら、冷めないうちに食え』
高校の寮の部屋。スクランブルエッグと焼いたベーコン、トーストが二枚。それまで何を食っても無反応だったレオンが初めて顔をほころばせた。
『君は料理が上手いんだな』
俺は無くしてしまったのだろうか。あの時、確かに分かち合っていたはずの欠片を。
※ ※ ※ ※
「ただいま……シエン? オティア?」
「にゃーう」
「ああ、そっちか」
子猫の声に導かれてダイニングルームに向かう。
双子は食卓で向かい合わせに座ってホームスクーリングの課題をしていた。オティアの目の前には、ノートパソコンが置かれている。なるほど、パソコンと教科書や参考書、ノートを広げるのに自分の部屋の机では狭かったか。
「お帰りなさい」
「ただいま」
食卓に歩み寄り、無造作に買い物袋とパソコンの入った鞄を空いている場所に載せた。
そのつもりだったんだが。
「あ」
袋を置いたその真下。
あるはずの天板が、半分しか無かった。
生成りの布袋がゆっくりと内側に向かって崩壊する。まるで古いビルの爆破を見ているようだった。支えを失った布地がくたんと折れて、中に詰まったオレンジとリンゴがこぼれ落ちる。
「っと!」
慌てて差し伸べた手の上で、ぴたり、と袋の崩壊が止まった。オレンジもリンゴも、一時停止をかけたみたいに空中で静止していた。
オティアか。シエンか。それとも二人で一緒にやったか?
「さっさと拾え」
「……すまん」
オティアの言葉にぴしりと背中を叩かれた気がした。のそのそと袋を掴み、今度こそ完全にテーブルの上に載せた。
双子がふうっと息を吐き、力を抜く。
「……ありがとな」
「大丈夫?」
「ああ。荷崩れして困るようなものは入れてないし………」
買ってきたものを袋からとり出し、冷蔵庫に入れてゆく。シエンはノートを閉じて立ち上がり、手伝ってくれた。
「よし、これで全部だ」
「全部? ほんとに?」
「ああ。そら、空っぽだろ?」
空っぽになったエコバッグを逆さに振ってみせると、双子は顔を見合わせている。
「どうした?」
シエンが遠慮がちに口を開いた。
「ソイ・ソースは?」
「……忘れた」
何てこったい。そいつを買いに行ったはずなのに。
がっくりとうつむいていると、携帯をかける気配がした。
「ハロー、ソフィア。……うん、大丈夫だよ。さっきディフが帰ってきたし。それでね、ちょっとお願いしたいんだけど、ソイ・ソースの予備、ある? ……そっか、ありがとう」
そ、と顔をあげると、シエンがこっちを見ていた。
「ソフィアのとこに、一本あるって」
オティアがうなずき、パソコンを閉じて立ち上がる。白い毛皮が椅子を伝ってするすると駆け上がり、くるりと肩に巻き付いた。
チリン、と鈴が鳴る。
「下に行ってくる」
「ああ……すまん」
※ ※ ※ ※
ダイニングを出る間際に背後で深いため息を聞いた。
無視してすたすた歩き、リビングを通り抜け、玄関を出たところでオティアは感情を解放した。思う存分顔をしかめ、舌打ちする。
(ったく……)
ディフときたらここ一週間ばかりと言うもの、謝ってばかりだ。ネットワーク上にあがってくるデータも冗談みたいな凡ミス満載で、(おそらく入力の段階で間違えている)いちいち確認しなきゃいけないから能率が悪いことこの上ない。予定通りに進まない。
イライラする。理由の察しがつくだけに、余計に。はっきり言って仕事にならない。
あの二人、今回は何を手間取っているのか。いい加減、ここまで長引くとシエンも薄々、気付き始めている。
何かがおかしい、と。
そわそわと落ち着かず、さりとて直接、尋ねることもできずに悩んでいる。
『何かあったの?』
口にした瞬間、曲りなりにも小康状態を保っている「今」が崩れてしまうのではないかと、恐れている。
毎夜のように襲ってくる不気味な重苦しい夢を見なくなって、やっと落ち着き始めた所なのに。
「に?」
ふにっと頬に湿った感触が押し当てられる。オーレが鼻を寄せていた。力を抜くと、オティアはなめらかな毛皮を撫でた。
これ以上長引くようなら、こっちにも考えがある。
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