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ローゼンベルク家の食卓

【4-1】★夜に泳げば

2008/08/17 21:58 四話十海
   
 夕方にレオンから電話があった。「今夜は遅くなる。夕飯は外で食べて帰る」と。

 夜。
 双子とヒウェルと、四人での夕食を済ませ、片付けを終えて部屋に戻る双子を見送った。

 結婚式以来、オティアの顔色が良くない。
 相変わらずあの子は表情を動かさず、大丈夫かと聞けばうなずき、事務所でもいつもと変わらず普通に働いている。
 だが、何と言えばいいのか……気配が、なあ。
 覇気がない。勢いがない。しおれている。いつもよりほんのわずかだが反応が鈍い。心無しか髪の毛にもつやがない。
 食事はとっているがペースが遅い。できるだけ消化のよさそうな、胃に負担のかからない献立を選んではいるのだが、果たしてどこまで効果があるものか……。

 もしも俺が普通の『ママ』だったら?
 血の繋がった親だったら。
 普通の里親だったら。

 もっと、あいつの側に寄り添うことができるのだろうか。ためらわずに手を差し伸べて、あいつが今、どんな状態にあるのか聞き出して、きちんとケアすることもできるのだろうか?

 色々とあり得ない可能性ばかりがぷかぷかと、浮かんで、弾けて、また浮かぶ。

 俺にはまだ覚悟が足りない。
 拒まれる事を承知でオティアにぶつかるだけの勇気がない。ただ彼の感情を必要以上にかき乱さぬよう、距離を保って見守る事しかできずにいる。

 自分が当たり前のように注がれてきた愛情、何の疑問も持たずに包まれてきた温かな手。その何百分の一でもいい……倣うことができたら。
 彼に伝えることができたら。
 思っても、焦っても、ただ空回りするだけでもどかしさに唇を噛む。

 こうして俺があれこれ悩んでるのも、オティアにしてみればプレッシャー以外の何ものでもない。癒すどころか、結局はストレスの元になっちまうんだろうな……。

「いかんな」

 ふーっと息を吐く。こんな不景気な面で出迎えたんじゃ、レオンにまでネガティブな気分を伝染させちまう。
 どうにかして気分を切り替えないと。

 時計に目をやる。時間は22時を少し回った所。プールが閉まるまでにはまだ2時間半ある。
 少し、泳いで来るか。

 寝室に行き、膝上丈の黒い水泳パンツを身につけて上からジャージの上下を着る。タオル地のネイビーブルーのバスローブと、大きめのバスタオル一本まとめて腕に抱えた。
 最近のスイムウェアは乾くのが早い。上がってからも同じ格好で戻ってくればいい。

 今住んでるマンションには、屋内にプールがある。以前は夜だろうが昼間だろうが、とにかく暇を見つけては通っていた。
 泳いでいた。

 だが………。
 背中にタトゥーを入れてからは極力、人の居ない時間を選んでひっそりと泳いでいる。
 カリフォルニアは海辺の街だ。この程度のタトゥーなんざさして珍しいもんじゃない。だが、この背中のライオンと翼は………レオン以外には見せたくない。

(乙女じみた感傷と笑わば笑え。俺は俺なりに真剣なんだ)
 
 to Leon

 お帰り。ちょいと泳いでくる。
 
 Def
 
 玄関にメモを残し、家を出た。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 泳ぐのが好きだ。
 
 むしろ泳ぐのも、と言うべきか。
 歩く、走る、馬に乗る、鉄棒、球技、その他マシンを使ったエクササイズ。種類を問わず体を動かすことがとにかく好きなんだ。

 プールサイドでローブを脱ぎ、日光浴用の椅子の背に引っ掛けた。むき出しの体が湿った空気に触れるが、寒くはない。
 注意深くストレッチをして体を解し、ゆっくりと水に入った。

 なめらかな液体に身をひたし、足を離す。
 顔を水につけ、目を開くと、プールの底に写る自分の影が見えた。

 自分の手が。足が。筋肉を形成する繊維の一本一本、細胞の一つ一つがどこまで動くのか……確かめながら、感じながら動かす。最初はゆっくりと、そのうち意識する必要すらないくらいに早く。

 最初は肩ならしにクロールで数回往復する。
 心臓が力強く脈打ち、体のすみずみまで血液を巡らせるのを感じながら動く。
 次第に自分の体を操り、どこまで行けるのか挑むことに意識が集中する。それしか考えられなくなって来る。

 思い切って2往復ほどバタフライで泳いでみた。
 静まり返った屋内プールの中に派手に水音を響かせて、イルカを真似た動きで泳ぐのはなかなかに楽しい。
 それから一転して平泳ぎに切り替えて、ゆったりと水をかいた。水面に顔を出し、深く息を吸ってから、潜った。底までは行かずに、水面と水底の真ん中辺りをキープして何回も往復をくり返す。

 ターンの際に頭を下にくるりと水中で回転してみた。水面と水底が入れ替わり、透明な水の中で重力の向きが真逆になり、また元に戻る。
 地上では落下のリスクが大きい動作だが、水中では余裕たっぷりに重力の推移を味わうことができる。

 ひたすら泳いだ。
 自分と、水と、青い光、そして夜の空気の境目が揺らいで薄れるその瞬間目指して。

 青い、月の光にも似た薄明かりに照らされたしーんと静まり返った水の中をくぐっていると、上も、下も、重さすら忘れてしまう。
 プールの底に写る自分の影を見ていると、まるで何もない空間に浮かんでいるかのような錯覚を覚えて……。
 実際はそんなことなどありはしない。透き通った水の中を動いているだけなのだとわかっちゃいるんだが。

 そのうち、考えてる事だの周りの景色がぐるぐると混ざり合って、バターになった虎みたいに溶け落ちて………待ちかねた時間がやってきた。

 これからどうすればいいのか。
 どこに行けばいいのか。
 何があるのか。
 一秒先、一分先、一日、一ヶ月、一年……十年先。うだうだと悩んでいたことが磨りガラスみたいに透けて行き、目の前にぽつっと『今の自分』が浮いていた。

 何とちっぽけで、無力な子ども。図体ばかりでかくなって……だが、それが今の俺だ。

 以前からおぼろげに感じてはいた。
 自分にはどこか女性的な性質があると。
 世話好きで、料理好きで、家事が得意。本来なら女の役割だ。だが別に苦にならないし、楽しいと思うことさえある。
 ずっと目をそらしてきた。俺の生まれ育ったテキサスの文化とは相容れないものだとわかっていたから。
 いそいそとキッチンで立ち働きながら後ろめたさを感じていた。それは、ほんの微かな物ではあったけれど常にまとわりつき、決してゼロになってはくれなかった。

 もう、逃げまい。
 認めよう。
 受け入れよう。

 たとえ、それが子どもじみた我がままでしかなくても。
 あやふやな保護欲に根ざしているだけのものなのだとしても……俺にとって、オティアとシエンが大切な存在であるって事は揺らがぬ事実なんだ。
 
 まるで我が子を愛でる母親みたいに、理屈抜きで愛おしい。女々しいにもほどがある。テキサス男児にあるまじき失態、だが後悔はしない。後戻りするつもりもない。

 それが、俺なのだ。

 今、この瞬間、レオンを愛しているように。

「………ディフ!」

(あれ?)

 泳ぐのを止め、プールの底に足をつき、立った。水の支えを失った上半身がずっしりと重い。肌にへばりつく髪の毛をかきあげ、声のする方を振り向いた。

「……レオン!」

 プールサイドに立ち、こっちを見下ろしてる。いつ来ていたのだろう? スーツの上着だけ脱いでる所を見ると、一度家に帰ってからこっちに降りてきたらしい。

 再びぱしゃりと水につかり、すーっと泳いで近づいて、体を浮かせながらプールの縁に手をかけた。この辺りはけっこう深いのだ。

「早かったな」
「そうでもないよ」

 腕の時計を見る。
 日付が変わっていた。既に2時間近く泳いでいたらしい。

「あ……もうこんな時間か」

 あと30分ほどでプールが閉まる頃合いだ。そろそろ上がるか?
 

 ※ ※ ※ ※


 家に帰ると出迎えが無く、玄関にメモが残されていた。上着だけ脱いですぐに下に降りた。
 人気のない屋内プールはライトに照らされて青く霞み、規則正しい水音が響いていた。

 彼は泳ぐのが好きだ。
 だが今は人前では決して水には入らない。

『見せるのは、お前だけだ……』

 忌わしい刻印の上に新たにライオンと翼を刻んで封印し、事件の後、初めて愛を交わした夜。
 一糸まとわぬ背を見せながら誓ったあの言葉を、忠実に守っているのだ。

 子どものように純真に。激しく、一途に、真っすぐに。そうする事が彼自身の支えにもなっているのだろう。
 だから何も言わず、こうして見守る。

(わかってる。単なる大義名分、言い訳だ。自分はただディフを独占したいだけだ)

 呼びかけると彼は泳ぐのを止め、立ち上がった。水中ではあたかもたてがみのように広がっていた長い赤い髪がぺしゃりと潰れ、肩に、首筋にまとわりつく。
 髪の毛の含んでいた水が重力に引かれてなめらかな背中を滴り落ちてゆく。
 濡れた背中に浮かぶライオンと翼。ほんのわずかな筋肉の動きにさえ、表面を覆う水が流動し、つやつやと光る。
 
 あやうく喉が鳴る所だった。
 こんな色っぽい姿、他の奴には到底見せられない。
 
 無造作に髪をかきあげるとディフはこちらを振り返り、次の瞬間。

「レオン!」

 もぎたてのオレンジみたいな笑顔が顔全体に広がる。あどけなくて、無防備で。さっきまでのしたたるような色気が嘘みたいだ。
 ああ、まったく可愛いな、君って人は……本当に。

「早かったな」
「そうでもないよ」
「あ……もうこんな時間か」

 ボールをくわえて泳ぐ犬みたいに嬉しそうな顔をして、すーっと泳いできたと思ったら、手を伸ばしてきた。

「レオン、レオン」
「なんだい」
「手、貸してくれるか」

 素直に近づき、彼の手を握ったその瞬間、にまっと口の端が上がった。

 しまった!

 思った時は既に遅く、ぐいっと引っぱられて水に落ちる。頭の上で、くぐもった水しぶきの音が聞こえた。
 服が手足に絡み付き、動きを奪う。しかし不安はなかった。力強い腕がしっかりと支えていてくれたからだ。

 水の中で目を開くと、立ちのぼる泡と揺れる水の向こうで彼がにこにこ笑っているのが見えた。

 うれしそうな顔してるね、ディフ。
 人魚に引きずり込まれるのって、こんな感じなんだろうか?

 
 ※ ※ ※ ※

 
 水面に浮び上がると、レオンはむっとした顔でにらみつけてきた。口をへの字に曲げて、眉をしかめてる。
 怒ったか?

 怒ったろうな。でもお前のその顔、好きだよ。きれいな男が子どもっぽい表情してるのって、反則級に可愛い。

「……ごめん」

 濡れたシャツが。ズボンが体にぴったりはりついている。髪の毛は言わずもがな、だ。
 濡れた布ってのはくせ者だな。
 体のラインを際立たせ、かえって服を着てない時より『裸』を意識させる。
 張り付いた布をよじらせ、動く手足が。わずかにほの見える肌の色が、直接触れた時の記憶を強烈に呼び覚ます。

 レオンを支える腕に力が入った。単なる安全の確保のためだけなんかじゃない。
 こんな色っぽい姿、とてもじゃないが他の奴には見せられない。見せてたまるか、絶対に!

「きれいだぞ、レオン。人魚みたいだ」
「しょうがないな、まったく」

 彼は濡れた髪をかきあげ、笑いかけてきた。
 やばいぞ、もう限界だ。
 素早く周囲を見回す。プールサイドにはレオンと俺以外は誰もいない。……よし。

 片手をレオンの腰に巻き付けて支えると、もう片方の手のひらで頬を包み込み、唇を重ねた。
 彼の手が背中に回る。

 そのまましっかりと抱き合った。月の光にも似た青い光に照らされた、透明な水に浸って。

 うっすらと開けた瞼のすき間から濡れた服をまとうレオンの姿をつぶさに眺める。
 目を閉じると、濡れた体に挟まれた布に二人分の体熱がこもって……より強く感じられるような気がした。
 レオンと抱き合ってる。肌と肌が触れている。キスが深くなるたびに、ぴくりと震えるのは俺の体なのだろうか。それとも彼か?

 互いの体をまさぐりながらキスをした。何度も角度を変えて、時には舌を差し入れて。入れられて。
 深く重ねようとすると、するりと逃げられる。
 切なくなって、追いかける。求めた刹那にするりと舌が差し入れられた。すがるようにして吸い付くと、重ねた唇の奥から小さく呻く声が聞こえた。

 何て……可愛いんだろう。

 水が、揺れている。
 水が、鳴っている。
 体の内側で。
 外側で。
 俺と彼の間で。

 人魚とキスするのって、こんな感じなんだろうか……。

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 唇を離すとレオンはうっすらとほほ笑み、言った。

「いきなり着衣水泳は勘弁してほしいね」
「……ごめん」

 レオンに手を貸し、水から上がった。

「ところで、ディフ」
「なんだ?」
「部屋から着替えをとってきてくれ」
「あ…………そうだな、すまん」

 レオンの全身からぽたぽたと水が滴り落ちる。シャツもズボンもネクタイも、靴下もまんべんなくぐしょ濡れ。たぶん下着も濡れている。
 白いデッキチェアの背からバスローブをとり、さし出した。

「すぐ、とってくる。それまではこれでも羽織ってろ」
「君が歩くのに困るだろ、それじゃ」
「っと……そうか」

 ばふっとタオルを頭から被せて。自分はあらためてバスローブを羽織り、更衣室まで並んで歩く。

「すぐ戻る。待ってろ」

 部屋から着替えをとってくると、その間にレオンはシャワー使っていた。
 水から上がって服を着てる段階で徐々に頭が冷えてきてはいたんだが……。
 シャワー室の仕切りの中で一糸まとわぬ姿でシャツを絞る彼の姿を見て、急に気づいた。

 やっちまった! と。

「……レオン……服……持ってきたぞ」
「ああ、ありがとう」

 そろそろと着替えをさし出す。
 ああ、まったく、俺ってやつは、勢いに任せて何てマネを!
 おそらくシャツもズボンも台無しだ。なまじ上質な品なだけに、こんな風に水浸しになったらデリケートな布の表面が傷んでしまう。乾かしてもごわごわに毛羽だって、まず完全復活は難しい。クリーニングした所で果たして使い物になるかどうか………。
 革靴に至っては、もう完全にアウトだな、これ。乾かしたらきっと、表面に細かくヒビが入る。

 うなだれて、小さな声で謝罪の言葉をつぶやいた。

「…………………………ごめん、レオン。ごめん」
「どうしたんだい、急に? 大丈夫だよ、怒ってないから」
「いや……その……つい……ガキみたいなマネしたなって、その……」
「たまにはいいさ」
「お前ってさ。服着てても脱いでも色っぽいな」
「そうかな」
「……そうだよ」

 額にキスして耳元に囁く。

「さっさと服着ろ。見ていて落ちつかない」

 小さく笑うとレオンは体を拭いて、新しい服を身につけ始めた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ところでディフ」
「何だ?」
「その格好で部屋まで往復したのかい?」
「何か、問題あるか?」
「……いや、別に」

 なるほど、確かに下はジャージのズボンを履いている。だが上はバスローブを羽織っただけだ。
 急いでいたのだろうけれど。あわてていたのだろうけれど。
 髪の毛は濡れたまま、ほとんど風呂上がりと見まごうようなその姿。

 この時間だ。
 誰にも見られなかったと信じたい。
 もし見た者がいたとしたら………鹿にでも変えられてしまうがいい。子犬座の飼い主。女神の水浴を目撃してしまった、あの不運な若い狩人みたいに。
 

(夜に泳げば/了)

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