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ローゼンベルク家の食卓

【4-20-5】★★これが倦怠期って奴か?

2010/09/12 17:07 四話十海
 
 目が腫れぼったい。のどの奥が塩辛い。結局、二時近くまでヒウェルと飲んだくれてしまった。

「も、いい加減寝とけ」
「ん……」
「立てるか」
「ん……ヒウェル」
「何だ?」
「ありがとな」
「……どういたしまして」

 見慣れた猫背がドアの向こうに消えて行く。
 別れ際にひょろ長い指が、頭を撫でてったような気がしないでもないんだが……まさかな。子どもじゃあるまいし。

 ああ、でも高校生ん時はお互いに、何のためらいもなくしがみついたり、撫でたりしてたなあ……。
 ヒウェルとも。
 レオンとも。

 一体、いつから人に触れる事にこんなに身構えるようになっちまったんだろう。

 寝室のドアを開ける。部屋の中には枕元に常夜灯がともっているだけだ。ドアを閉め、淡いオレンジの光りに目が慣れるまでしばし動きを止める。

「……ん」

 レオン?
 倒れてる。服も着替えずに、うつぶせになってベッドの上に! ぎょっとして駆け寄る。とっさに首筋に指を当て、脈を確かめてしまった。
 ……生きてる。温かい。
 寝てるだけ、か。

「レオン」
「んー……」

 うっすらと目を開けてこっちを見上げた。とろんとした表情で、焦点が合ってない。俺の顔じゃなくて肩の少し上とか、頭の後ろとか……とにかく、微妙にずれた辺りを見ている感じだ。

「服ぐらい着替えろよ」
「ん……」
「……剥くぞ?」

 何か口の中でもぞもぞつぶやいて、くたりとベッドに突っ伏しちまった。駄目だ、これは。完全につぶれてる。

「本気だからな、俺は」

 抱き寄せてセーターをまくり上げ、引っこ抜く。だらんとなってされるがままだ。シャツの裾をひっぱり出し、ボタンを外す。
 こいつ、アンダーシャツ着てないし!
 そうだ、レオンは基本的に「シャツは下着」派だった。たかだか二週間、触れてないだけでもう感覚が遠のいてる。

(くそっ!)

 悔しいやら、腹立たしいやらで、ムキになって手を動かす。シャツをはぎ取り、ベルトを抜き取り、ズボンの金具を外してジッパーを降ろす。

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illustrated by Kasuri

 取り残されたパンツと靴下が、やたらと裸体のなまめかしさを引き立てる。
 また、どっちも黒いもんだから余計に。
 
(何で俺、目をそらしてるんだろう)

 靴下を抜き取り、パジャマを取ってきて着せた。レオンを仰向けに寝かせ、柔らかな布地が体を覆ったのを確認し、やっと肩の力を抜く。
 襟元が妙な具合に互い違いになっていた。超特急でボタンを閉めたもんだから、掛け違えたらしい。
 やり直すか。このまま布団の中に突っ込むか。ぼやーっといい具合に充血した頭で考えるが、ふわふわして一向に意識が定まらない。
 夢を見ているような気分で顔を寄せ……

 襟の合わせ目からのぞく滑らかなのどに、キスしていた。

「あ……」

 ぴくり、と唇の下でレオンが震える。あっと思った時には引き寄せられ、唇を塞がれていた。

「う」
「ん……」

 重ねるとか、触れるなんてかわいげのあるキスじゃない。真っ向から噛みあい、むさぼられる。
 湿った舌が唇をなぞる。ぞわぁっと細かい泡が吹き込まれ、全身に広がる。久しぶりに。本当に久しぶりに注ぎ込まれる甘美なしびれが嬉しくて、口を開いて受け入れた。
 誘い込んだ。
 ぐいぐいと押し込まれる舌にしゃぶりつき、唾液がこぼれるのも構わず吸い上げた。上あご、下あご、歯の裏、舌の付け根。ねっちりと舐め回され、心地よい温みにとろけた。

(そ……だ……これが……欲しかった……ずっと……)

「は……はぁ」
「は……ふ……あ……」

 ようやく唇が離れた時は、体中まんべんなくいじり回されたみたいに力が抜けていた。
 久しぶりのディープキスは余りに熱く、甘くて……まるでチリ食った後のココアだ。ブランクの後だから余計に刺激が強過ぎる。
 口を開けたまま、咽をならして必死で空気を吸った。
 レオンの身体からも、くたんと力が抜けた。

「レオン?」

返事はない。完全に寝ちまった。俺にしがみついたまま……胸元に顔を埋めて。
 困った。
 がしっとシャツをつかまれてる。これじゃ、脱げない。
 仕方がないのでスリッパだけ脱いで、体をあちこち折り曲げて、どうにか掛け布団を引っぱり上げる。せめてジーンズだけでも脱げないもんか……
 ベルトをゆるめようとまさぐるが、なぜか一向に金具が見当たらない。自分がどこに触っているのかもわからない。
 目的を果たせぬまま、もそもそしてるうちに上のまぶたと下のまぶたが引き寄せられ………

 …………ブラックアウト。
 
 
 ※ ※ ※ ※

 
 白い光がまぶたに当たる。カーテンは閉めたはずだ。どこかに隙間があるらしい。
 うっすらと目を開ける。
 すぐそばに、ディフがいた。ほんの少し口を開け、目を閉じて眠っている。ふわふわの赤い髪が枕に広がり、頬を、うなじを覆っている。合間からのぞく『薔薇の花びら』は、今は穏やかな薄紅色をしている。
 あまりに無防備で、いとけない寝顔に手を伸ばす。

 ……これは賭けだ。
 
 指先が頬に触れる。しっとりと滑らかな肌が吸い付いてきた。
 もう少し。もう少し。手のひらで頬を包み込む。

「ん………レオン……」

 目を閉じたまま、にこっとほほ笑んだ。
 まだ君は夢の中にいるんだね。

 そろり、そろりともう片方の手を背に回し……ためらいながら抱き寄せる。
 彼の体を、布地の下の熱さを腕の中に感じる。ほのかに立ち昇る肌のにおいが鼻孔をくすぐる。目に見えない指先で、そっと。生きてそこにいる、生身の体のにおい。丁寧に洗い上げた布と日の光、昨夜の料理と、ブランデーの混じる汗のにおい。
 溶け合って君の香りになる。ねっとりと甘く、やわらかで、吸い込むとぴりっと咽の奥に小さな光の粒が弾けた。

「……レオン」

 ディフは自分からしがみつき、胸元に顔を埋めてきた。
 
『俺のクマどこ?』
『……あった』

 がっしりした骨組みを覆う、みっしりと張りつめた丈夫な筋肉。布越しに彼の体を。肌を。熱さを感じた。
 柔らかな髪にキスをして、目を閉じる。
 今、この瞬間、自分が求めているのは血の味でもなければ悲鳴でもない。涙でもない。君と一緒にいたい……もう少しでいいから。
 激しい衝動は依然として俺の中にある。だが獣は巣穴の中に横たわり、息を潜めていた。
 
 そう、今の所は。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 久しぶりに、いい夢を見た。あったかくてふわふわした大好きな何かに包まれて、ヒリヒリと疼く胸の奥の穴がちょっぴり。
 そう、ほんのちょっぴり、柔らかな皮にくるまれたような気がした。

 だけど目覚めてみればそこは現実。着たまま寝ちまって、くしゃくしゃになった服を洗濯機に放り込んでる間にレオンは仕事に行っちまった。休日出勤なんて珍しいことじゃない。今まで何度もあった。
 その度に寂しい思いをしたが、今日は正直ほっとしてる。彼も今ごろ、同じように感じているんだろうか。

 職業柄、もっと些細な理由で別れる夫婦を何組も見てきた。増して俺達が別れるのに、わざわざ離婚届を出す必要はない。ネバダに四週間滞在する手間も掛からない。
 荷物をまとめて出て行けば、それで終りだ。

(馬鹿な。何を考えてるんだ、俺は!)

 レオンと離れ離れになるなんて。彼のいない日々なんて、想像したくもない!
 沸き起こる衝動が手を動かし、読みかけの朝刊をテーブルに叩きつけていた。ばさりと広がった紙面の見出しに目が引き寄せられる。

『最近、夫がメイクラブしてくれない』

 つい、拾い上げて読みふける。悩み相談のコーナーだった。相談者の置かれてる状況が、あまりに今の自分によく似ていた。(原因はまったく違うけれど)

「………」

 この相談者は女性で、夫は男性。必ずしも全てが俺たちのケースにあてはまるとは限らない。
 だが、些細な行き違いが原因で「この頃はキスも避けられている」「二人きりでいると息苦しくてたまらない」状況に陥っていると言う。

「日に日に夫との距離が離れて行くようで、心細くてたまりません。それでも子どもたちの前では何事もなかったように振る舞ってしまいます」
 
 うわ、そっくりだ。
 ここまで似てると、いやでも回答が気にかかる。
 彼女の悩みに対する回答は、いたって即物的でわかりやすかった。

『気分を変えてみましょう。思い切って夜の営みに、ラブトーイやセクシーランジェリーを取り入れるのもいいですよ』

 ラブトーイに……セクシーランジェリーか……。
 試してみるか?
 まさか。
 冗談じゃない。
 ああ、だけど、それでレオンとの間に張り巡らされた、この見えない壁を取り払うことができるのなら!

(買うとしたら、やっぱり通販か?)

 何、真面目に考えてるのか……相当テンパってるなあ、俺。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 午後からはソフィアが来てくれることになっていた。
 シエンとオティアに、パンの作り方を教えてくれると言う。以前、ボーディン・ベーカリーの工場で、シエンがパンの作られる過程を夢中になって見ていたのを思いだし、頼んでみたのだ。
 
 ソフィアを手伝い、五階から道具や材料を運び上げる。

「すまん。助かるよ」
「いいのよ。今日はアレックスも休日出勤だし……ディーンも喜ぶわ」
「そっか……」

 こねて、形を作って焼く。小麦粘土で練習してきた技の数々を、今は本物で実践しているらしい。

「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「にゃー」

 ソフィアと子供たち、オーレに見送られて部屋を出る。行き先はスーパーマーケット。
 改めて確認してみると、ソイ・ソース以外にも飼い忘れていたものがいくつもいくつも、ぼろぼろと出てきたのだ。
 ゴミ袋とか、キッチンペーパーとか、買い置きが無いと微妙に困るものばかりが。
 いったい俺はここ数日、どこまでぼんやりしてたのか……。

 調味料のコーナーで今度こそ、ソイ・ソースを2本買う。1本は予備、もう1本はソフィアに返すために。
 赤トウガラシも買っとくか。台所にはガラス瓶に入れて、オリーブオイルに漬けたのが常備してある。オティアの好物なのだ。
 五香粉も少なくなってたな。桂皮(シナモン)、丁香(クローブ)、花椒(サンショウ)、小茴(ウイキョウ)、大茴(八角)、陳皮(チンピ)……こればっかりは、ベランダのハーブ園では賄えない。

 よし、調子が出てきたぞ!
 と、思ったんだが。レジに並んで初めて気付いた。エコバッグを忘れてたってことに。やむなくビニール袋を二枚とってカゴに入れる。(※アメリカのスーパーではレジ袋は有料)
 ………だめだ。

 帰り道。
 どうせ買うものは少ないのだから、と今日は歩きで来た。オティアとシエンが一緒だとなかなかこうは行かないが、一人で歩く分には余裕の距離だ。体を動かすのは気分転換にもなるし……もうちょっと歩いてみるか。
 あえて横道にそれて遠回りする。
 この道を歩くのも久しぶりだ。ぱっと見ただけで店が何件か入れ替わっている。新しい店があるなってのはわかるんだが、たまに前に何の店が入っていたのか思いだせない。それだけ出入りが激しいのだ。
 
「……ん?」

 今日も新しい店がオープンしていた。
 くすんだ灰色だった建物が、目の覚めるような白とパステルピンクに塗り替えられている。しかも、下品じゃない。オーガニック素材の砂糖菓子みたいに愛らしい。香りも色も全て自然物由来、食べても舌や唇が派手な色に染まらないような……。
 窓も大きく作り替えられ、ガラスを通して店内いっぱいに日の光が差し込んでいた。女の子向けの洋服屋か何かだろうか?
 店の名前は『ピンクパール』。愛らしい店名に寄り添い、流れるような書体で店の説明が添えられていた。

「ドールのラブトーイ・ブティック」

 ………マジか。
 明るくて、おしゃれで、開放的で。女性でも気軽に中に入れそうだ。
ちらっと覗いてみる。ショーケースに並ぶ商品は想像したようないかがわしい雰囲気はほど遠く、まるでキャンディみたいなカラフルでポップな色と形が並んでいた。
 こんな風に堂々と売ってると、かえっていやらしさを感じない。楽しそうにさえ見える。
 ってな事を考えているうちに足が動き、ふらふらと中に入っていた。

 セクシーなジョークのプリントされたTシャツとか。ラメやエナメルの下着、透明なアヒル型のボトルに入ったローションやマッサージオイル。ゼリービーンズみたいなバスオイルに、とろみのつくピンク色の入浴剤。
 ふわふわしたファーの首輪やカフス、アイマスクなんてのもある。
 なるほど、これなら怖くない。

「……ねえ、こんなのどう?」
「大胆だね、ハニー」
「ふふっ」

 通りすがりに耳にした会話の断片に、はたと我に返る。見回せば店内で買い物してるのはほとんどがカップルだ。
 男女もいれば、男性二人とか、女性二人の組み合わせも居る。いずれも楽しげに笑いながらパートナーと語り合い、手をつないだり、腕を組んだり……。

 何だか、妙に悲しくなってきた。

(俺、何してんだろう)
(こんな店で、スーパーの買い物袋抱えて……)

 ため息一つ、深々と吐きだし、きらびやかなトーイの群に背を向ける。
 とっとと出よう。ここは俺なんかのいる場所じゃない。だが正に足を踏みだそうとした瞬間、声をかけられちまった。

「いらっしゃい。何かおさがし?」
「いや、その、俺は……」

 振り向くと、大柄なアフリカ系の美女が立っていた。誘うように前にせり出したぽってりとした唇、白い歯。むっちりと肉付きのよい胸元はプレイメイト程ではないもののバランスがとれていて、正にゴージャスのひと言に尽きる。
 肩幅が広く背が高く、ほぼ同じ高さで目線が合った。ほとんど虹彩と瞳孔が区別できないほど黒い瞳が俺の顔を見つめ、きょろっと見開かれた。

「あら、まあ」

 声が一段と高くなる。

「誰かと思えばマックスじゃない! 元気?」
「え、あ、お、俺?」

 職業柄、人の顔は忘れない方だ。だが……知りあいに居ただろうか? こんなビッグでゴージャスな美人。

「えーっと、君は、その……」
「んー、わからない? 無理ないわよねぇ」

 謎の美女はそっと耳元に顔を寄せてきた。甘い中にピリっとスパイスの効いた香水がふわりと漂う。思わずぼうっとした瞬間、響きの良いバリトンが囁いた。

「ドリューだよ」

聞き覚えのある声が記憶呼び覚ます。結い上げられた黒髪と、丁寧に施されたメイクの下に懐かしい面影を見つけた。

「ドリュー…………アンドリュー・ナイジェル!?」
「当たり! 久しぶりねー」
「あー……うん……君も、その………すっかりキレイになったな」
「ありがとう。今はドールって呼んでくれる?」
「あ、ああ」
 
 警察学校の同期でも一、二を争う猛者だった男は、誇らしげに腰に手を当て、胸を張った。
 ドール。確かに今の彼には、その名前の方がふさわしい。

「ってことはここ、君の店なのか?」
「ええ。雇われだけどね、店長やってるの」
「そうか。がんばってるんだな」
「ありがと」

 ふふっと唇をすぼめて笑うと、ドールは俺の左手に視線を落とした。

「その指輪……結婚したの? おめでとう!」
「あ、うん、君にも招待状出そうと思ったんだ。だけど……」
「音信不通だったでしょ? 警察も辞めちゃったし、実家には出入り禁止になってるしネ!」

 白い歯を見せて豪快に笑ってる。だが仕草はあくまで女性のものだった。

「あたしとまともに付き合ってくれるのは、今じゃ姉さんぐらいなものよ」
「そうか……」
「それで。今日は何をお探しなの?」
「………」

 ごくり、と咽を鳴らす。
 これはチャンスなのかも知れない。

 見ず知らずの女性が相手なら言いづらいことも、気心の知れたかつての同期になら、言える。こいつなら、笑ったり茶化したりせずに真剣に答えてくれる。アンドリュー・ナイジェルはそう言う男だ。(あ、いや今は女か)

「結婚生活の、夜の……気分を変えたいんだ……」
「ええ、よくある事ね」
「そうなのか?」
「ここを訪れるお客さんのほとんどはそうよ? 刺激と、気分転換と、ちょっとした遊び心。甘いだけじゃ物足りなくなっちゃうのよね。たまにはスパイスも必要」
「そ、そうか……」
「それで。何がお好み? トーイ? ビデオ? 入浴剤? それともウェア?」
「………………初心者にはどれがおすすめなんだろう」
「そうね、抵抗が少ないのは、やっぱり日常の延長かしら。ちょっぴりセクシーな下着とか、ナイトウェアに挑戦してみる、とか」

 セクシーな下着に、ナイトウェア。朝刊の悩み相談の回答にもあった。表に面したコーナーにあるのは、いずれも女性用ばかり。だがドールが店長をやっているのだ。おそらく、彼女の着られるサイズもそろっているはずだ。

「………………」

 ちょい、ちょい、と手招きして顔を寄せる。今度は俺が囁く番だった。

「俺でも着られるのって、あるか?」

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