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ローゼンベルク家の食卓

【4-20-6】金髪ハリケーン

2010/09/12 17:08 四話十海
  
 親の様子がおかしくなれば、子どもは自ずと不安になる。
 
 怖い経験、悲しい経験でショックを受けたばかりの状態ならなおさらだ。包み込み、守ってくれるはずの大きな翼が震えれば、身を委ねた小さな心もまたゆらぐ。徐々に回復しているとは言え……いや、回復している途中だからこそ、些細なきっかけでいつ、再びダークゾーンに引きずり込まれるかわからない。

 この家は、偶然一緒に暮らしているだけの他人の集まりだ。血のつながりや本能に頼ることはできないし、法によって外側から束縛されることもない。
 意識して「親」の役目を、あるいは「子ども」の役目を果たさなければ成り立たないのだ。
 一ヶ所に小さな穴が開くだけで、いとも簡単にばらばらに壊れてしまう。オティアも、シエンも、おぼろげではあるがその可能性に気付いていた。だからこそ怯え、不安になっているのかもしれない。

『自分たちはここに居ていいのだろうか?』
『この暮らしが、不意に壊れてしまうのではないか』
『いつか、追い出されるんじゃないか。捨てられるんじゃないか』
 
 今、この「家庭」が壊れたら、寄る辺を失ったシエンはどうなってしまうのか。ひきこもろうにも、逃げ込む部屋さえないのだ。
 ディフがああなった理由は考えたくない。だがヒウェルが当てにならない以上、自分が解決するしかない。
 オティアは秘かにプランを練っていた。それは家族愛と呼ぶにはあまりに打算的で、かつ、計算された思考に基づく行動だった。

『ぱぱ』と『まま』が仲むつまじく、家庭が平穏であること。
 それが、シエンにとって今一番、必要なこと。

 ただそれだけの為に、彼はヒウェルが踏み込むことのできなかった領域に、単身で切り込もうとしていた。
 一緒に暮らしている『家族』だから。『親』の庇護の元に生きる『子』だからこそ許されることであり、そうする権利があるのだとは……ちらりとも意識せずに。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 ドアを開けた途端、焼き立てのパンの香りが押し寄せてきた。
 居間を入った所でソフィアとばったり出会う。歩きながら、くるくるカールした鹿の子色の髪の毛をまとめる三角巾をほどいていた。後片づけをすませて、ちょうど帰る所だったらしい。
 
「ただいま」
「お帰りなさい」
「ディフー」
「よっ、ディーン」

 足下に転がってきた三歳児を抱き上げる。

「いいにおいだな」
「うん、パンいっぱいつくった!」
「がんばったな!」
「うん! オティアとシエンも一緒につくったよ」
「そうか……」

「三人で夢中になってパンをこねてたわ。オティアは物の形を正確に表現するのが上手ね!」
「あ、うん、あの子はそう言うのが得意だ」
「焼いたら膨らんで形が変わってしまって、ちょっと残念そうだったけど」

 くいくいっと髪の毛を引っ張られる。OK、ディーン。ちゃんと君も忘れてないよ。
 褐色の瞳に目線を合わせる。

「パンは、焼くともこっとするから!」
「うん、もこっとするな」
「シンプルな形がいちばん」
「そうか」
「シエンは上手」
「そうだな。シエンは料理するのが好きだから……」

 ソフィアがうなずき、ころころと笑った。

「手つきを見ればわかるわ。どんどん慣れて、上達してる。二人とも素直で吸収が早いから、教えてると楽しくなっちゃう」
 
 ああ。
 この笑顔にどれだけ救われていることか。やっぱり本物の「ママ」にはかなわない。
 さしあたって、『まま』にできるのは……。
 片手でディーンを抱え、もう片方の手でソファに載せたエコバッグから、黒いボトルを引っ張り出す。

「ソフィア、これ」
「あら、ソイ・ソース」
「うん。昨日はありがとう。すげえ助かった。君んとこのストック分使っちまったから、代わりに……」
「んー、気にしなくっていいのに……って言いたいとこだけど」

 ソフィアは人さし指を顎に当て、小さく首をかしげた。

「家でもいつ、買い忘れるかわからないし。いただいておくわ」

 ひょい、とソイ・ソースを両手に抱え、にこっと笑った。

「ありがとう、ディフ」
「……どういたしまして」

 くしゃくしゃとディーンの髪の毛をなで回して床に降ろす。二人を玄関から送り出し、改めてキッチンに向かった。

「ただいま」

 食卓の上には、もこもこのきつね色。バスケットに入ったパンが山盛りになっていた。丸いの、うずを巻いてるの、細長いの。うずくまった猫の形をしているのまである……
 チリチリと足下で鈴が鳴る。

「にーっ」

 なるほど、確かにちょっと実物より膨らんでるな。

「あ、ディフ、お帰りー」

 キッチンカウンターの上では、シエンがせっせとパン種をこねていた。

「まだ焼くのか?」
「んー。ちょっとタネを作りすぎちゃったから……再利用?」
「ほう?」
「ホットビスケット焼こうと思って。イーストが入ってるから、ちょっぴり柔らかめになるけど大丈夫! ってソフィアが教えてくれたし」
「そう……か……」

 ソフィアらしい言い方だ。

「オティアは納得行かないみたい。分量通り、きちっと正確に作る方が好きだから」
「そうなのか?」

 こくっとうなずいた。確かにこの子は調味料も、材料も、レシピ通りにきちっと計量スプーンやカップで量る。
 どこか科学の実験っぽい。

「あ、ソイソース買ってきたんだ」
「ああ。そら、五香粉もなくなりかけてたろ」
「うん! ありがとう!」

 買ってきたものを冷蔵庫に入れていると、シエンが声をかけてきた。

「ディフ、ついでにレモン出してくれる?」
「OK。一個でいいか」
「うん」

 取りだしたレモンを何となく洗ったはいいが……これ、何に使うんだろう?

「それ、皮すり下ろしちゃって」
「え?」
「生地に加えるとさっぱりするって、前に教えてくれたじゃない」
「あ、ああ、そうだったな」

 そうだった。
 一昨年の十一月、倉庫の下敷きになった時の怪我から回復して……退院した次の日。一緒に買い物に出かけたショッピングモールのカフェで食べた、ホットビスケット。一緒に飲んだコーラは口に合わなかったようだが、ビスケットは残さず食べた。だから、家に帰ってからレシピを調べた。
 焼き菓子の作り方を自分から覚える日が来るなんて夢にも思わなかったのに、今じゃ当たり前のようにクッキーやケーキを焼いている。
 髪の毛を首の後ろで一つにくくる。腕まくりをして、エプロンをつけて、レモンの皮をすり下ろした。
 酸っぱい。
 舌の上にじわっと唾液がにじむ。その感触が軽やかな指先となり、記憶のページをめくる。

(あの後、初めて一緒に作ったんだっけな……ホットビスケット)

 あの時は、後ろでじっと俺が作るのを見ていた。だが、今はシエンの方が手際がいい。

「できた? じゃ、ここに入れて」
「うん。これぐらいでいいか?」
「んー、生地がこれぐらいだから……もうちょっと」
「わかった」

 確かにソフィアの言う通りだ。水を吸うようにどんどん、覚えている。
 一方で、オティアはさっさと手を洗ってエプロンを外していた。ディフが戻ってきたから自分はこれにてお役御免。もう手伝いは必要ないだろう、って事らしい。

「本、とってくる」
「ああ」
「ぐるにゃおう」

 居間に通じるドアを開けると、オティアは後をとことこと追いかけたオーレを、ひょい、と抱えてこっちに降ろし、ぱたりと閉めた。
 オーレはさして異議を唱えるでもなく、しっぽをひゅんっと振ってから毛繕いを始めた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 オティアは一直線にレオンの書斎に向かった。走り出したいのを押さえて、早足で。
 シエンとディフは当分、キッチンから動かない。夕食には間があるから、ヒウェルもまだ来ない。今がチャンスだ。
 今なら二人きりで話ができる。

 ノックをして、返事も待たずに中に入る。
 レオンが仕事の手を止め、驚いたような、途方に暮れたような顔でこっちを見た。まさか自分が来るとは思わなかったのだろう。こんな入り方をするのはディフ以外に有り得ない。そもそも自分とシエンはレオンがいる時は呼ばれでもしない限り、ここには足を踏み入れない。
 滅多にないことだが、レオンの意表をついたようだ。扉を閉めるなり開口一番切り出した。
 
「話がある」
「いいよ、聞こうか」

 言外に勧められた椅子の前を素通りし、つかつかとデスクに歩み寄る。

「理由はどうでもいいし知りたくもないが。今すぐアレをなんとかしろ」

 レオンはわずかに眉根に皺を寄せたまま、ぎこちなく口角を吊り上げた。

「シエンも薄々気付いてる。これ以上長引かせるな。用はそれだけだ」

 机に手をつき、わずかに身を乗り出す。褐色の瞳を正面から見据えてぴしりと言ってやった。

「何か言うことはあるか?」
「ないよ……シエンはまだ彼に何も言っていないのかな」
「今のところは」 
「わかったよ。ただ、今すぐは難しいね」
「早くしろ」
「努力する」

 適当な本を書棚から一冊抜き取り、挨拶もなく部屋を出る。
 言うべき事は全て言った。後は結果を待つだけだ。

 ※ ※ ※ ※

 ドアが閉まる。レオンはふっと息を吐き、肩をすくめた。
  参ったな、まるでハリケーンだ。来た、言った、帰った。
 てっきりディフだと思って身構えた。返事が一瞬、遅れた隙に入って来たのはオティア。

(困ったな、もっと厄介な相手が来てしまった)

 不意の闖入者は前置きも無しにズバリ。

『今すぐアレを何とかしろ』

 核心の中の、さらに小さな核だけ言って出て行った。アレが何のことなのか。どうして自分に要求するのか。ひと言も言わなかったが、いちいち説明される必要はない。

(やれやれ、無茶を言う子だ)

 何とかしたいのは山々だが、まだやっと昼の三時を回った所じゃないか。『今すぐ』は無理だよ、オティア。

 金髪ハリケーンの通り抜けた後にはかすかに、菓子の焼けるにおいが残っていた。

 さしあたって自分にできるのは……
 午後のお茶を入れることぐらいかな。
 

 ※ ※ ※ ※
 
 
 その頃、キッチンでは。ディフが三角に切って形を整えたホットビスケットを天板に並べ、オーブンをスタートさせていた。
 キッチンナイフを洗いながら何気なくちらりと見た瞬間、シエンは思わず声をあげた。

「ディフ、オーブンの温度がちがってるよ!」
「え? あれ? しまった………」

 ディフは目をぱちくりさせて、温度設定を見直した。華氏392度(摂氏200度)……ミートパイを焼く時の温度だ! 慌ててスイッチを一旦切り、改めて設定しなおす。ホットビスケットは374度(摂氏190度)。
 危うく黒焦げになる所だった!

「だいじょうぶ?」

 眉を寄せてシエンが見上げてくる。わずかに首をかしげ、紫の瞳でじっと、心配そうに。見えない手できゅっと、エプロンの裾をつかまれた気がした。

「あー、うん、大丈夫、大丈夫!」

(この子を今、不安にさせちゃいけない!)

 急いで表情を切り替える。まだちょっと困ったような色合いが残ったが、とにかく笑いかけた。

「今日、ちょっと意外なとこで昔の知りあいに会ったもんだからな。そっちに気をとられてた」
「そっか……昔の知りあいって、やっぱり警察の人?」
「ああ。警察学校の同期生に、な。一緒に訓練受けてた頃は彼だったんだが……再会したら『彼女』になってた」
「それは………びっくりだね」
「うん、びっくりした」

 インパクトは絶大だった。解決にはならなかったが、とにかく空気の流れは変わった。

「いいにおいだね」
「ああ。シエンが作ったんだ」

 やがてビスケットが焼き上がり、書斎から出てきたレオンが紅茶を入れ、いつもより少し遅めの午後のお茶が始まった。
 こんがり焼けたビスケットをさくっと一口かじる。シエンが見守る中、ディフはしみじみと今、自分が食べたビスケットを見つめた。

「……美味い。上達したな、シエン」
「うん」

 はにかみながらほほ笑むシエンを見て、ディフも自然と笑顔になる。それは、自分以外の誰かを守るために。或いは、自分の中にある悲しい何かを隠すために繕った笑顔とは明らかに違う。
 内側からにじみだす喜びが、そのまま形になったほほ笑みだった。

 そんな二人をさりげなく視界の隅にとらえつつ、オティアとレオンは何食わぬ顔で紅茶をすすっていた。
 ついさっき、書斎で交わされたやりとりなんか存在しなかったように。
 オティアは言ったことで気が済んでいたし、レオンには反論する意志はなかった。もちろん、根に持つ事も。

 レオンハルト・ローゼンベルクは心は狭いが、決して独善的な男ではない。正論を吐けば、ちゃんと話は通じるのだ。
 
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