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羊さんたちの遊卓

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【6-11】グローイングアップ!

 
「しっかりつかまってください、先生……飛ばします」
「OK」

 キンと凍えた空気がびゅんびゅんと耳元を通り過ぎる。自転車の荷台をしっかり膝ではさみ、風見光一の背中にしがみついた。

「懐かしいなあ。前もこーやってお前とチャリに2人乗りしたよね?」
「しましたね……」

 あの時はまだ仲間も少なくて、2人きりで戦った。ロイはまだアメリカで、サクヤも、蒼太でさえまだ完全に『現役復帰』はしていなかったから。
 カラカラと車輪が回る。藍色に霞む夜の景色が後ろに飛びずさる。

「ところで、どこに向かって走ってるんだ?」
「海岸です。呪いの解除法の一つに『海の水を浴びる』ってのがあるんで」
「この季節に?」
「月の光を浴びるってのもあるそうです」

 空を見上げる。鉛色の分厚い雲にかくれて月は見えない。

「できればそっちに当たりたいな……む」

 吹きすぎる風の中にかすかに、肉の焼けるにおいを嗅いだ。まだ、魔女はあきらめていないようだ。

「急げ、風見」
「はい!」

 ロイがスピードを落とし、後ろに着く。
 ちらりと振り返る。ほほ笑んでうなずいた。守られてるんだ、と思った。もう自分一人できりきりと警戒しないでいいんだと。

 長い、急なこう配の坂道を下る。湿った空気に混じる濃密な潮の香りを嗅いだ。
 
 キキィッ!

 コンクリートの突堤の際自転車を止める。
 ざざざ、ざざあ、ざざざ、ざあ……。波の打ち寄せる音がすぐそばから聞こえてくる。小さな砂浜の向こうに夜の海が広がっていた。
 ぴょい、と飛び降りると風見が前のカゴに入れていた紺色のバッグから神楽鈴を取り出した。

「先生、この鈴持ってて」
「お守りデス」
「いや、お前らが持ってろ」
「ボクらは大丈夫です!」
「これがありますから」

 2人はそれぞれジャケットの内側から隠し持っていた武器を取り出し、構えた。
 風見はベルトのホルスターから小太刀を2本。ロイは内ポケットから手裏剣を。

「行って、先生」
「……すまんっ」

 階段を降りて、砂浜を走り出す。黒いガラスを削ったような波が打ち寄せる波打ち際目指して。
 背後でガキっと堅いもののぶつかる音がした。

「風見……ロイっ!」

 たまらず振り返る。
 魔女が踊っていた。半ば焼けこげた赤い長衣を翻し、歪な三日月の刃と化した両手を振りかざして。きぃっと空間を掻きむしる。
 ぱっきん、と夜空が割れて赤い傷口が開く。空間の裂け目からぼろぼろと黒い羽虫の群れがこぼれ落ちる。後から後から砂のようにぼろぼろと。

「二番煎じか! 同じ手は食わないぞ」

 風見が二本の小太刀を十字に構える。
 と、その刹那、赤い衣が触手のように伸びて風見の手首に巻きつき、動きを封じてしまった!

「くっ」
「させないよ、風使い。お前らの手の内は承知の上さ!」

 勝ち誇る魔女の背後でぽつりとつぶやいた者がいる。

「それはどうかな」
「お前! いつの間にそこに!」
「たとえ目には見えねど、某が心と技の一撃受けるでゴザルよ!」

 ロイは至近距離から無造作に掌底突きを繰り出した。右の手のひら、親指の付け根と小指の付け根の交差する手首に近い部分が魔女の脇腹に当たる。
 予想外に軽い当たりだったのか、魔女の顔に一瞬、あざけるような表情が浮かぶ。

 が。

「心威発剄!!」

 気合いとともに掌底から衝撃派が発せられ、枯れ木のように痩せた体が吹っ飛んだ。
 同時に風見の手首に絡み付いていた赤い布が力を失い、だらりと垂れ下がる。

「風よ走れ、《烈風》!」

 わき起こる風の刃が真っ向から羽虫の群れにぶち当たる。

「っ!」

 強い?
 昨夜、夢の中で戦った時の比ではない。数も。虫そのもののしぶとさも。

「教えてあげる……何で私がこんなに強いのかを………」

 魔女が顔をのけぞらせて高らかに笑った。ロイの一撃をくらって吹っ飛んだはずなのに、ほとんどダメージを受けていないようだ。

「この力は元はと言えば、お前たちの大事な大事なヨーコ先生のものなんだよ……」
「何っ」

 脳裏に閃く悪夢の記憶。紐状の影に貫かれ、先生は子どもの姿になってしまった。

「あ……あの時に!」
「そうさ。あの女の培ってきた技も術も、並外れた意志の強さが生み出す力も、今はあたしのものなんだよ……妹たちとはできが違う。こんな芸当だってできるんだ」

 じゅわじゅわと音を立てて魔女の傷が癒えて行く。焼けこげた顔も、髪も元に戻って行く。 

「どうやらヨーコ先生も使い魔を呼び寄せる力をお持ちのようだね……お前たちの言葉で何て呼ぶかは知らないけれど」

 ざわざわと新たな羽虫の群れがわき出す。さっきの群れより数が多い。

「うわ……」
「せめてもの情けだ。大好きな先生の力で葬ってあげるよ……覚悟おし!」
「笑わせるな!」

 黒雲となってざわめく毒虫の群れを前に、風見は凛とした声で言い放った。

「先生が本気出したら、こんなもんじゃない!」
「そもそも、こんな趣味の悪い式なんか呼ぶものか!」
「おお、その通りだ。いいこと言うな、ロイ」
「ふん、生意気な……その口、塞いでくれるわ!」

 不吉な唸りとともに羽虫の群れが2人の少年を飲み込んだ。

「うっ」

 目が開けられない。息をするのも苦しい。細かい針がびしびしと手を、顔を切り裂く。裂かれた場所から不吉な痛みが染み通り、皮膚を溶かし肉を侵す。

「ロイ……はな……れるな………」
「御意っ!」

「風よ舞え、旋風!」

 自分とロイの周りに風の渦を作り、羽虫の流れを遮断する。とりあえず息はつけた、だがいつまで持つだろう?

 ブゥウウン。ゴゥウンン、ブゥウウワオオオンン。

 不吉な黒い雲は一段と厚みを増している。歪み、うずまく羽音の向こうで魔女が笑っていた。
 
「ヒャハハハハハハ、キャーハハハハハハハ!」

 夜空を切り裂くけたたましい魔女の高笑いを背後に聞きながら、ヨーコは走った。湿った砂に足をとられながら、波打ち際目指して。
 本当はすぐにでも引き返したい。あいつらのそばにいたい!
 だけど。

 それは、彼らの心を無にすること。裏切ること。
 元に戻る可能性があるのなら、それに賭ける。

 ちゃぷん。
 凍える水が足首を濡らす。靴下がじっとり湿った。だが、まだ子どもの靴だ。

「まだだ……これじゃ足りない」

 がちがち鳴る奥歯を噛み締め、さらに海の中に入る。水は足首から膝に上がるがまだ解けない。思い切って腰のあたりまで海に浸かった。
 岸辺では風見の操る護りの風と、魔女の巻き起こす禍つ風がぶつかり合い、せめぎ合う。ただでさえ不安定な海辺の空気がうねり、吸い寄せられ、不意に突風が巻き起こる。

「わっ」

 ひときわ大きな波が盛り上がり、ざぶんと頭から飲み込まれる。足下をすくわれ、海中でもがいた。
 その瞬間……雲が途切れ、ほっそりとした三日月が現れる。清らかな青白い光が降り注ぎ、波頭を白く浮かび上がらせた……。

 シャリン!

「っ!」

 勝ち誇っていた魔女の体が凍り付く。

「あ……うぁ……そんな……まさか………」

 癒えたはずの顔の表面がぼろぼろと崩れ落ち、元の焼けただれた無惨な状態に戻って行く。呼び出された羽虫の群れも見る間に勢いを失い、風見の風の刃に削がれて行く。

 シャラリン!

 鈴の音が、今度ははっきりと鳴り響いた。
 
「先生!」

 海の中にすっくと羊子先生が立っている。白の小袖に緋色の袴、巫女装束をまとい、高々と掲げた右手には緑、黄色、朱色、青、白の五色の布をなびかせた赤い神楽鈴を握って。

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illustrated by Kasuri
 
 海の水を満たした左の手のひらを胸の前に捧げ持つ。清らかなオレンジ色の光が結晶し幻の聖杯が顕われる。
 杯の水面に写る月に微笑みかけると、羊子はふわっと聖杯に満ちる水を空中に放った。

 降り注ぐ柔らかな光の雫が触れた瞬間、風見とロイの手足や顔に生じた無数の切り傷が癒えた。神経を直に灼いていた痛みすら薄れて消え失せる。

「ヨーコ先生!」
「……待たせたな」

 ざ、ざ、ざーっと波を蹴立てて海から上がるや、羊子は身軽に砂浜を駆け抜け、ふわり、と突堤の上に飛び上がってきた。

「お、おのれ、おのれ、おーのーれーっ」
「吸い取った所で所詮は借り物の力。あなたが使いこなすには、ちょーっとばかり荷が重かったようね、Ma'am?」

 ついさっきあんなに風見とロイを苦しめた毒虫の群れは今や風の刃に打ち倒されて跡形もない。

「ずいぶんとまあうちの子たちを可愛がってくれたじゃない?」

 にやり、とヨーコの口元に不敵な笑みが浮かぶ。

「そう言えばあなた、神聖な力が苦手だったわよね……たっぷりお見舞いしてあげるから………覚悟しろ!」

 しゃらりと鈴を鳴らす。凛とした声が空気を震わせる。

「極めて汚きも滞り無れば穢れとはあらじ」

 ひっと喉を引きつらせて魔女が後じさる。禊はついさっき海の水ですませたばかりだ。今の羊子はちょいと俗な言い方をすれば巫女さんパワー全開120%。魔女が苦手とする『神聖な力』を駆使するのに申し分のない状態にあった。

「内外の玉垣清く淨しと申す……」

 すっと手を伸ばして風見の小太刀に触れる。

「この剣をば八握生剣と為し」

 翻して今度はロイの腕に。

「この手をば蛇比禮蜂禮品品物比禮と為さん」

 触れた場所から涼やかな光が広がり、2人の体を包み込んだ。

「神通神妙神力……加持奉る!」

 しゃらり、と鈴が鳴り響く。もう、魔女の呪いは及ばない。

「行け!」
「はい!」
「御意!」

 魔女が破れかぶれの金切り声を上げて飛びかかって来る。
 勝負はすれ違い様の一瞬で決した。

 がっきん!

 砕かれた三日月の刃がくるくると円を描いて宙に飛び、ざん、と砂浜に突き立った。どぶどぶとどす黒い粘液の滴る腕を押さえて魔女はよろめき、地面に伸びる自らの影に飛び込むようにして姿を消した。

「逃げたか……気配が消えた。夢の中に引っ込んだな」
「先生、大丈夫ですかっ、ずぶぬれですよっ」
「何の、これしき。古人に曰く、心頭滅却すれば火もまた涼し!」
「センセ、それ用法間違ってマス」
「いちいち細かいなあ。要するに、気力の問題なんだよ!」
「……カイロ使います?」
「もらう」
「俺とロイの間に入っててください。風避けになります」
「……うん……あ」

 ぴくん、とヨーコは顔を跳ね上げた。

「サクヤちゃんが、戻った」
「わかるんですかっ?」
「うん……今、こっちに向かってる」
「さすが……うわっ」
「どうした?」
「荷物が……」

 風見の背負っていたリュックサックが不自然な形に膨れ上がっている。

「何入れてたんだ? これ」
「Mr.ランドールの服です」
「あー、変身した時の」
「子ども服から紳士服に戻ってる……」
「と、言うことは」

 風見の胸ポケットの中で携帯が鳴った。引っ張り出した携帯は、赤い組紐の先に金色の鈴が下がっていた。サクヤのものだ。

「ハロー?」
「やあ、コウイチ」
「ランドールさん! 元に戻れたんですね!」
「ああ。テリーくんのおかげでね」
「テリーさん……そこに居るんですか?」
「うん。彼は今、その……お休み中だ。ヨーコとサリーはそこにいるのかい?」
「先生と、サクヤさんは………」

 横合いからにゅっとヨーコが鼻先をつっこみ電話に出た。

「Hi, カル! 復活おめでとう」
「ヨーコ! その声、戻ったんだね?」
「ええ。すっかり元通り。今、どこ?」
「テリーくんの部屋に」
「ってことはサンセットか……OK、カル。すぐにこっちに飛んでらっしゃい。東に向かってほぼ真っすぐに。あたしたちが今いるのはね……」

 周囲を見回す。子どもの目線では気づかなかったことが色々と見えてくる。霞のかかっていた意識もはっきりして、記憶と場所の間に横たわる溝がすっきり埋まった。

「八月の結婚式覚えてる? あのレストランのそばの海岸なの」
「ああ。あの店か……よく、覚えているよ」
「近くまで来たら合図するわ」
「わかった」

 そっと電話越しに囁く。今なら安心して彼を呼べる……そう、今なら。

「………………………………………………待ってるよ、カル」
「すぐ行くよ。それじゃ」

 
次へ→【6-12】全員集合

ちび魔女VS角魔女

 
 禍々しい風に巻き上げられ、上も下も右も左も分からない鉛色の霞に閉じ込められた。手足をばたつかせて必死に逃げ出そうとしていると、ばちっと火花が散って、急にころりと放り出された。
 サンフランシスコの路上に。
 
 膝がすりむけ、着地の時にひねったのか足首がずきずき疼いた。ちょっとでも体重をかけると骨に、腱に響くシリアスな痛みが脳天に突き抜け、全身がすくみあがる。かろうじて悲鳴はかみ殺したが、目の縁ににじむ涙まではコントロールできなかった。

(大丈夫……これぐらい、すぐ治せる。だから)

 震える手を足首に当て、意識を集中する。
 痛くない。自分は平気。自分は泣かない。何度も言い聞かせているうちにぽうっと手のひらが熱くなり、『本当に』痛みが引いた。

 良かった、傷を癒す能力は残ってる。でも、妙に疲れる……。いつもはもっと整然と手順を踏んでいた。自分の中に眠る漠然とした力を目的に会わせて導くやり方を心得ていたはずなんだけど。
 息をするのと同じくらい自然に。
 
 いつもできるはずのことが今、できない。

「サクヤちゃん………風見……ロイ……」

 きりっと歯を食いしばる。一番呼びたかった名前に鍵をかけ、背筋を伸ばして立ち上がった。
 今、彼の名前を口にしたら、きっと涙がこぼれてしまう。
 だから、歩こう。
 目の前の道路に細い溝が走っている。どこまでもまっすぐに。ケーブルカーの線路だ。
 あのアパートにはケーブルカーに乗っていった。だから、これに沿って歩いて行けばいつかはたどり着けるはずだ。

 しかしながら実際に歩き始めるとなかなかに厄介だった。日本なら自分が一人でちょこまか歩いていようとだれも気にも留めまい。
 だがここはアメリカ。小さな子どもが危険な状況にいることを見過ごすことも罪となる。善意のみでは動かぬ者も、自らに火の粉が降り掛かるとなれば否応無く『市民の義務』を果たさざるを得ない。
 
「君、一人なの?」

 だれかに声をかけられるたびに「パパー」「ママー」と口走りながらちょこまかと人ごみに潜り込んだ。すると相手も『ああ、親がいるのだな』と勝手に納得してくれる。
 ほとぼりの冷めた頃を見計らってまた、ちょこまかと歩き出す。困った。これじゃあまりに能率が悪すぎる。魔女だけじゃなく、善意の市民の目も気にしなくちゃいけないなんて。
 思うように進めず焦りはじめた時、雑踏の中に彼を見つけた。

(ヒウェル!)

 その瞬間、ヨーコは決心していた。
 
 こいつに付き添いを頼もう。多少正体がばれた所でもともとこの男は自分を『魔女』だと思ってる。今更、恐怖エピソードの一つ二つ追加されたところでどうってことないよね。
 考えているうちにターゲットは胸ポケットをまさぐり煙草をくわえた。そして銀色のライターを取り出し、蓋を開けて……。

(あーっ! ったくあの男は歩き煙草やらかすつもりかあ?)

 つかつかと近づき、手の甲をひっぱたいてやった。

「こらっ」
「何?」
「歩き煙草、いけない。ちっちゃい子が火傷したらどーすんの?」

 そして今。

「ヒウェル、ヒウェル、早く!」
「待ってろって……ったく子ども料金払うの何年ぶりだ? けっこう値上がりしてんなー」

 ヒウェルが乗車券を買う間、ヨーコは彼のダウンジャケットのすそをつかんで油断なく周囲を見回していた。

「来ーたー!」

 ジャケットのすそを引っぱり、近づいて来るケーブルカーに走りよる。
 空は分厚い鉛色の雲が立ちこめ、太陽は雲の向こうから弱々しい光を投げかけるのみ。しかもだいぶ西に傾いている。
 既に木陰物陰、路地裏には灰色の薄闇がわだかまり始めていた。
 ぽわぽわとかすむオレンジの灯り。街のネオンとクリスマスのイルミネーションが余計に周囲の暗がりを際立たせる。

 黄昏時は不安をさそう。胸の奥にぼんやりと、理由の知れない心細さがかき立てられる。だけど今、ヨーコの胸の奥をじりじり焦がすあせりと不安にはっきりとした原因があった。

 魔女が来る。山羊角の魔女が追って来る。

 一刻も早くマリーナに戻り、風見たちと合流しなければ……一緒になった所で今の自分がどこまであの子たちの役に立てるかわからないけれど。

 ギイギイ、ガタガタ……ゴトトン。
 ケーブルカーが止まる。怪獣のような声を立てて四角い金属の巨体をゆすって。さあ、早く乗り込もう。

 手すりをつかみ、入り口のステップに足をかけ、次の一歩を……………
 踏み出す前に動きが止まる。その場でくるりと方向転換、ヒウェルの横をすりぬけてすたすたと歩き出す。

「お、おい、どこ行くんだ!」
「……やっぱ乗るのやめた」
「何で! もうチケット買っちまったぞ?」
「気が変わった」
「ったく。せめて買うまえに言え、買う前に!」

 歯ぎしりするヒウェルからついっと目をそらし、走り去るケーブルカーを見据える。
 赤いコートに赤い帽子の女が乗っていた。悔しげに歯をガチガチ鳴らしてこっちをにらんでいる。
 待ち伏せしていたのだ。

「しょうがねぇ。バスで行くか?」
「やだ。酔うから」
「じゃあ、メトロ」
「ぜっっっったい、イヤ」

 閉ざされた空間。地下の暗闇。それこそ魔女の思うツボだ。乗り物に乗るのは危険すぎる。襲ってこられたら逃げられない。何より他の乗客を巻き込んでしまう……だが、ヒウェル一人ならどうにか庇い通せる。
 できるかどうかわからないけど、やらなきゃいけない。
 それに何のかのと言いつつこの男、逃げ足だけは早いもの。

「それじゃどうしろってんだ。タクシーか?」
「車は酔うんだってば」

 停めたタクシーの後部座席に赤い女、なんてことになったらシャレにならないし、ドアが閉まった途端に運転者が角生やしてにんまり、って可能性もある。

「ったく、世話の焼ける……それじゃ、あれだ。いっそ、歩くか?」

 歩く? さすがにそれは困るな。大人の時ならいざしらず、今の自分には時間がかかりすぎる。
 きょろきょろと周囲を見渡し、問題を解決してくれる絶好の手段を見つけた。適度に速度があり、しかも自由度が高い。
 ずいっと指差す。

「あれがいい」

 ヨーコの指差す先には『レンタルバイク』(貸し自転車屋)の看板があった。

「こっちにもあるんだ……レンタルバイク屋っつーたらフィシャーマンズ・ワーフ周辺、ゴールデンゲートブリッジ巡りが定番かと思ったぜ」
「市内に乗ってきて、返却したい人のための『支店』なんじゃない? あるいは市内で借りたい人のための」
「まー規模からすりゃそんなもんだろうな……どれ」

 店員との交渉の末、ヒウェルはComfort Mountainとキッズ用のTag-a-longs(子ども用の後輪と座席、ペダルのついたオプション。大人用自転車の後ろに連結する)を借りた。二台合わせてしめて24時間レンタルで48ドル也。
 
「キッズ用の自転車とTag-a-longsとシートがどれも同じ値段ってどーも納得行かないんだよなあ。しかもキッズ用は24時間レンタルしかねーし」
「シートにすればよかったのに」
「そうは行くか!」

 自分用の自転車にまたがると、ヒウェルはくいっと後ろの子供用を指差した。

「お前もこげ」
「ぶー」

 2人でペダルをきーこきーこ。二つの力を一つに合わせて走り出す。海岸までは下り坂が大部分だがたまには平地もある。いくらもたたないうちにヒウェルが早々と音を上げた。

「くっそー、腰に来る、腰にっ」
「はやっ」
「デリケートなんだよ……お前さんはタフだねえ」
「鍛えてるから」

 信号待ちで止まっていると、背後からちっちゃな手が伸ばされ、腰を撫でた。

「うわっ、くすぐった……あ、あれ? 何か楽になったような気がする……」
「うふ」

 ちらりと背後を振り返る。眼鏡ごしににまっと笑いかけてきた。口元から歯並びのきれいな白い歯がのぞく。

(やっぱりこいつ、あのヨーコなんじゃないか?)

 あり得ない。いくらちっこくてもヨーコ・ユウキはれっきとした大人だ。自分と同い年だ。
 馬鹿げた想像を払拭すべくムキになってきーこきーこと走っていると、かすかにチリンと鈴の音がした。
 
「ストーップ!」
「はいはい……」

 きぃいい、とブレーキをかけて一旦停止。ふりむくと、ヨーコがちっちゃな手を伸ばして右に曲がる細い道を指差していた。

「そこ、曲がって」
「マリーナへは遠回りだぞ?」
「いいから、曲がって」
「へいへい」

 何故だか逆らえず、素直に曲がった。
 表通りから内側に入り、住宅街にさしかかる。道に沿ってしつらえられたクリスマスのイルミネーション。庭木にまめランプを巻いただけのものからトナカイにサンタクロースの姿をどんとかたどったもの。
 雪だるま。カートゥーンのキャラクター。お決まりのクリスマスツリー。
 刻一刻と暗くなって行く景色の中で、ぽわぽわとあったかそうに灯っていた灯りが、いきなり消えた。

「え?」

 電球が切れたとか。あるいは配線が途切れたとか。そう言った常識内の消え方とは明らかに違っている。
 自転車を走らせる自分たちの背後から目に見えない何かが追いかけてくるみたいにぽつりぽつりと消えて行く。黄昏の暗闇が広がって行く。

 暗闇が、追って来る。

「……何だ? これ」
「追いつかれた……ヒウェル、止めて!」

 切羽詰まった声に即座にブレーキをかけた。その刹那。

 ブゥフゥーーーーーーーーーーーーーウゥウウウウウウ。

 風が吹く。断末魔の獣の呻きにも似た音を立て、生臭く不吉な風が駆け抜ける。濃密な腐敗と崩壊の瘴気をまき散らして。

「来る! 走って!」

 いつからそいつが居たのかヒウェルはわからなかった。足音も聞こえず、近づいてくる姿も見えなかった。

 不意に空中からわき出したとしか思えない。赤い服をなびかせた背の高い女。枯れ木みたいにガリガリに痩せ、指先にぞろりと鋭い爪を伸ばして……いや、爪なんて生易しいレベルじゃないぞ、あれは。
 指先に生えたナイフが5本、まるで古いホラー映画の殺人鬼だ。あんなんで掴み掛かられたらひとたまりもない!
 とっさにヨーコを抱えて伏せた。ガシャン、と自転車が路面にひっくり返る。

 ざん!

 ダウンジャケットが切り裂かれ、細かな白い羽が宙に舞う。肩から背中にかけてざっくりやられたか。妙にすーすーするなあ。
 皮膚に直に風が当たってるんだ……多分、もっと奥にも。そのときになってようやく、体に加えられた衝撃の結果が脳みそに到達した。

「痛ぇ……」
「おばか! 何で逃げなかった!」
「俺の方が厚着だ。アーマークラスが低い奴が前に出るのが鉄則だろ……それに」

 カツン、と少し離れた所で地面に降り立つ気配がした。えらい滞空時間が長かったな。あちらさん空中浮揚の心得でもあるのか。

「恩人にその言い草はないだろ、お嬢ちゃん?」
「自分で恩人とか言うな!」

 カツコツカツコツ……
 足音が聞こえてくる。早いとこ起き上がらないとやばいぞ。あと一撃もちこたえられるかどうか自信がないが、とにかくこの子を逃がさないと。せめてそこの家の戸口まで。
 ああ、まったくこれだけ騒いでんのに何だって野次馬の一人も出て来ない? 市民の義務はどーした。早いとこだれかポリスを呼んでくれ。赤い服着た女が刃物振り回して暴れてますって!

 よれよれと立ち上がる。切り裂かれたジャケットから平べったいものがこぼれ落ちた。ポケットにつっこんであったペーパーバックだ。

「この本………」
「ああ、日本の本だな。君の国の本だ」

 この期に及んでのんきなもんだ。だが、こう言う時って得てして頭の回転が猛烈に早くなってんだよなあ。アドレナリン、万歳。
 しかし何なんだ、このカチカチ鳴ってんのは。歯ぎしりか。あー、なんかヤだなあ。この不自然なリズム。

「ヒウェルっ立ってっ!」

 信じられないくらいの力で引っ張られ、よれよれと前につんのめる。少し離れた所に一件だけ、まだイルミネーションの灯ってる家があった。
 そう、何故かそこだけ灯りが残っていたのだ。

 玄関前の芝生に小さなジオラマが設置してあった。馬小屋の聖母マリアと幼子イエス、そして救い主の誕生を祝う三博士……教会なんかじゃよく見るが、一般家庭の庭先に置かれているのはちと珍しい。
 問答無用でジオラマのそばに座らされる。

「ここに居て。動かないで。命が惜しければ」

 真剣な表情に気圧され、うなずいた。もっとも歩く力はほとんど残っていなかった。傷口からあふれる血が切り裂かれたダウンジャケットを赤く、ずっしりと染め上げていた。

「これ、借りるよ」

 ペーパーバックを手にヨーコはたっと駆け出した。
 魔女は焦らなかった。
 ひとっとびに飛びかかれる間合いを保ったまま、待ち受けていた。首を不自然な角度にのけぞらせ、カチカチと歯を鳴らして。

 ちっぽけな獲物が聖母子像の加護を離れる。
 今だ。
 ゆらりと赤い衣が翻り、やせ細った体が滑るように前に出る。
 正面から魔女をきっとにらみつけると、ヨーコは本を開いた。

 ぱらららら………
 小さな手の中で本のページが勝手にめくれ出し、中から赤い生き物が飛び出した。

「え? フィフ?」

 ヒウェルが目を丸くする。鷲の上半身と翼、獅子の体。ちょっぴり太めで色は赤。そいつはどっから見ても表紙に描かれていたグリフィンそのものだった。色も、形も……大きさも。
 やっと大人の手のひらに乗る程度のちっぽけな。

 魔女はけたたましい声をあげてけらけらと笑い出した。

「おやおや、可愛らしい助っ人だこと………お子様にはお似合いだわね!」

 吐き捨てるや角を振り立てて地面を蹴り、びょうんっと宙に飛び上がる。かと思うと空中で不自然な角度に方向転換、右手にぞろりとはえそろった5本のかぎ爪を振り上げ急降下。
 ヨーコは奇妙なデジャビュを覚えた。
 あの時は……角だったかな。

「真っ赤なドレスを着せてあげるわ、お嬢ちゃん!」

 無論、今度も避けるつもりはない。逃げるなんてもっての他。
 真っ向から逃れようのない一撃を受ける一瞬は、同時にこちらから狙い澄ました一撃を放つ絶好のチャンスでもある。
 一声鋭く命じる。

「フィフ! やっちゃえ!」

 もわっと手のりグリフィンの体が膨れ上がり、次の瞬間。

 びゅーっ!

 口から一筋、真っ赤な炎がほとばしり、真っ向から魔女の顔を焼いた。

「ぎぃゃあああっっ」

 肉の焦げる臭いをまき散らし、顔を押さえてのたうち回る。自らのかぎ爪で顔をかきむしり、指の間から真っ赤な血が滴り落ちるのもかまわずに。
 
「マジかよ……本当に火ぃ吹きやがった」

 そう、この本に出てくるグリフィンは炎を吐くのだ。
 
「いっけえ!」

 続いて拳大の緑の火の玉一発、追い打ちで。ぼわんと弾け、魔女の上半身が炎に包まれる。髪の毛の焼ける胸の悪くなるようなにおいが強烈に立ちこめた。

「あああっ、熱いっ、熱いぃいっっ!」

 角の生えた魔女とちび魔女。黄昏の対決はちび魔女に軍配があがった。
 きりきりともだえ苦しみながら角魔女は姿を消した。生臭いつむじ風とともに、夜の暗がりにとけ込むようにして。

 その途端、周囲のイルミネーションが輝きを取り戻した。
 そしてちび魔女がぱしん、と本を閉じると赤いグリフィンもぽんっと消えたのだった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 角の生えた金の目の女はもういない。どうやって? どこへ? 知ったことか。ようやく現実が戻って来たんだこれ以上、得体のしれない女のことなんざ考えたかねぇ。

 あー、なんかくらくらしてきたぞ……くそ、俺としたことが逃げ時を見失うなんて。ついでにこの傷も夢になってくんねぇかな。

 心中密かに悪態をついていると、何やら弾力のあるあったかいものに包まれた。それはあまりにも小さくて、到底俺の全身を包み込むには足りなかったけれど……。
 背中に回された手はとてもあたたかくて。すり寄せられた頬からは子ども特有のほのかに甘い香りがした。

「ヒウェル……ありがとう」

 ヨーコがちっちゃな手を広げて抱きしめてくれていた。あーあ、そんなにひっつくなよ、服が汚れちまうぜ。
 口の端を引っ張り上げて笑いかける。

「どーいたしまして……そんな面すんなよ。大丈夫、これぐらいの傷、痛くもかゆくもないさ」
「うそ」

 すうっと傷の上をなでられた。

(このちび魔女は! Sか。絶対どSだろお前!)

 襲って来るであろう痛みと皮膚の内側をこすられる感触を覚悟して身構えた。が。
 
「う……え? あれ?」

 痛くない?
 おそるおそる手を触れる。
 傷が……ほとんど塞がっていた。皮膚にうっすら引っ掻き傷が残っているけれど、それだけだ。あんなに血が出てたのに。

「ふぅ……」

 ふらっとヨーコの体がゆれる。慌てて抱きとめた。

「おい、しっかりしろ!」
「お願い……携帯……貸して……一刻を争うの」

 息も絶え絶えにささやかれる。慌てて携帯をひっぱりだし、血で汚れた小さな手に握らせた。

「ああ、わかったよ、携帯でも何でも使えってんだ、そら!」
「さんきゅ」

 いきなり目をぱっちり開き、あっと思ったらもう慣れた手つきでぷちぷちやってやがる。
 
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 もっしもーし、お嬢さーん。さっきまでぐったりしてたくせにやけに元気じゃねーか。

「……もしもし? そう、あたし。今どこ? ……OK。けっこう近いね。じゃ、このまま動かずにいるから」

 日本語でしゃべってる。くそ、これじゃ何話してんだかほとんどわかりゃしねえ。

「ロイ、わかった? うん。待ってる」

 ぷちっと切って、しばらくいじくってから差し出してきた。

「サンキュ、ヒウェル。助かった」

 確認したらしっかり発信履歴は消してある。これじゃだれにかけたかわかりゃしねえや。
 だが、逆にこの抜け目のなさ故に一層、とある確信を強めた。

「やっぱりお前ヨーコか? ヨーコなんだなっ」
「え? 何のこと?」

 小首かしげてイノセントに笑いやがって。だがもうごまかされないぞ。

「ホットドックのレシピが同じだった。それにさっき君、俺の怪我治したろう。高校ん時、マックスの傷を治したのと同じだ……」
「あー、そんなこともあったねえ」
「やっぱり! 同姓同名の別人じゃなくてヨーコ・ユウキ本人なんだな?」

 ついっと顎をなでられた。サクランボみたいな唇をすぼめて何とも艶めいた表情を見せる。
 参ったね。もし、俺が女に恋するタイプの男だったら……全身を貫く甘美な期待にうち震えていたことだろう。婉然とほほ笑むそのちっぽけな唇が、ごほうびにキスの一つもしてくれるんじゃないかって。
 ったく、シャレにならんぞ、こんな年端も行かぬ少女に手玉にとられるなんて。
 何とも背徳的じゃないか。ええ?

「……ヒウェル。これは夢だよ。ぐっすり眠って、朝起きたらすぐ忘れなさい。OK?」
「……」

 素直にうなずく。ゲイで良かったよ、つくづく。

「あ、おむかえがきたー。それじゃね!」

 キィイ、とタイヤのきしる音に顔を上げる。高校生ぐらいの男の子が2人、自転車に乗って走ってきた。金髪のと、黒髪のと。
 息せき切って駆けつたって感じだな。吐き出す息がぽわぽわと白い。

「先生!」
「ご無事でしたカ!」

 ヨーコはてててっと走って行くと、黒髪の方の後ろにちょこんとまたがり、手を振って来た。

「Bye、ヒウェル! よいクリスマスを!」

 ぽかーんとして手を振り返した。
 ちび魔女を載せた自転車が遠ざかる。黄昏の闇の中、徐々に藍色にとけ込み霞んで行く。やがて角を曲がって見えなくなった。

 ああ、まったく夢を見てる気分だ。早いとこ帰ろう。その前に、濃いブラックコーヒーを一杯やりたい気分だ。
 本は無事……フィフもちゃんと表紙に居る。
 だがダウンジャケットは引き裂かれ、中身がはみ出し見るも無惨な有様に。おまけに血を吸ってずっしり重たい。やれやれ、買ったばかりの新品なのに。

 ひっくり返った自転車を起こしてまたがった。何てこったい、帰りは上り坂だ。
 よれよれとペダルを踏みながら考える。
 一日分の料金を払ってこいつを借りた訳だが、もう用済みな訳で。早めに返却したらレンタル料金……返してくれるだろうか?

次へ→【6-11】グローイングアップ!

戦う本屋さん

 
 カツ、コツ、カツ、コツ、カツ、コツ、カツ……。

 蹄の音が追って来る。
 蹴られた足が疼く。

 はあっ、は、はぁっ、はっ、はっ、はっ……。

 自分の吐く息の音がやけに耳に響く。もう息があがってきたのか……日頃の運動不足がたたったか。だが悔いてる暇はない。今はただ、走れ。

 教会の周囲に空白地帯があった。その一角は近代的なアパートが立ち並び、住んでいるのは一人暮らしの若者がほとんど。この季節は見事に留守ぞろい、クリスマスイルミネーションも飾られてはいない。
 さしかかった途端、腕の中でリズが「ふぅう……」と押し殺したうなりを上げ、ほぼ同時に背後から蹄の音が聞こえてきた。
 
 妙だ。
 目に見えるものが、何もかも薄紙を一枚挟んだように色あせて立体感を失い、くしゃりと歪んで見える。すぐそこの表通りを走っているはずの車の音が聞こえないのはどう言う訳だ?
 ともすれば悪夢の中に迷い込んだような錯覚に飲み込まれそうになるが、腕の中のサクラとリズの温もりが教えてくれる。
 これは確かに現実なのだ、と。

 足音が近づいて来る。だが、教会もまた近い。
 サクラの手がコートの胸元をつかむ。小さく息を飲むのが伝わってきた。あの女を見たのだ。

「大……丈夫……」
「はい」

 本当に大丈夫なのかどうか、自分でもわからない。この子も薄々気づいているはずだ……それなのに。
 健気な言葉に、枯れたと思った力がまた湧いてくる。
 守りたい。
 守らなければ。

 歯を食いしばり、エドワーズは走った。
 教会の門を潜り、芝生の中、まっすぐ伸びる石畳の通路を走る。子どもの頃から日曜ごとに通い慣れた道筋を、これほど長く感じたことはない。

 門の手前で蹄の音が躊躇する。ほんの少しだけ。選択は正しかった。やはり聖域は苦手なのだ。
 一気に入り口の階段を駆け上がる。聖堂の扉はいつも開いていた。

 玄関ホールに入ると震える手でエドワーズはサクラを下に降ろした。不安に濡れる黒い瞳。まるで磨かれた黒曜石のようだ。
 こんなに切羽詰まった(そして現実離れした)状況の中でも、美しいと思った。こみ上げる愛おしさがひたひたと胸を打つ。

「……走れますね? 振り向かないで。祭壇の後ろに隠れていなさい」
「はい」

 寒さと緊張でこわばった頬に笑みが浮かぶ。それは豪快な勇者の笑みにはほど遠く、店の中で彼が時折見せる、おだやかな微笑みよりほんの少し固かったけれど。
 サクヤには何よりも安心できる笑顔だった。

「リズをお願いします」

 小さな腕に愛猫を抱かせ、そっと背中を押して送り出した。
 開け放たれた両開きの扉を抜け、サクラが礼拝堂の中に走って行くのを見届けると、エドワーズは入り口の脇に置いてあった燭台を手にとった。
 大人の背丈ほどの長さの燭台は十分な重さがあり、武器として使えそうだ。バランスもいい。警棒の扱いは警察学校でも得意な科目だった。

 ほぼ同時に外に通じる扉がばんっと乱暴に蹴り開けられる。

「来たな」

 エドワーズは礼拝堂の扉を背に身構えた。

「これが最後のお願いよ。あの子を渡して……エドワーズさん」
「お断りします」
「だったら………」

 ざわざわと女の髪が広がり瞳が金色に輝く。額にそそり立つ二本の突起は、もはや髪の毛とは見間違えようがなかった。
 あれは、角だ。
 ねじれて弧を描く、山羊の角。

「お前の心臓をもらうよ!」

 赤い衣をひらめかせ、山羊の角、山羊の足、山羊の瞳の魔女が襲ってきた。
 だが動きが大振りで、無駄が多い。油断しているのだ。たかだか本屋、引き裂くのは容易いと。エドワーズは冷静に燭台を構え、突進してくる魔女に向かって強烈な突きを見舞った。
 金属が肉を打つ鈍い音が響く。皮肉なことに魔女自身の勢いがエドワーズの一撃をさらに強めていた。

「ぐぇっ、こ、このっ、古本屋風情がっ」

 魔女が腹を抱えてあとじさる。
 手応え有り。こいつは現実の武器で渡り合える相手なのだ。店の中で見せたあの厄介な力も教会の中では弱まるらしい。
 だが、まだ立っている。並の人間なら骨が折れ、倒れていてもおかしくない打撃を受けているにも関わらず。

 べっと血の混じった唾を吐き捨てると、魔女はガチガチと歯を鳴らした。右手のかぎ爪が伸びて、ねじれて腕そのものと融合し、いびつな形の刃物を形成して行く。三日月の刃、さながら死神の大鎌。

「ケーッ!」

 甲高い声で叫ぶと魔女は右手の大鎌を振り上げ、飛びかかって来る。もうさっきまでのような大雑把な動きではない。俊敏にして冷徹、獲物を狙う狩人の動き。かろうじて受け止めたが切っ先が頬をかすめる。
 堅い刃物のくせに妙に生暖かい……こいつは確かに生き物の一部なのだ。
 
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「くっ」
「少しは楽しませてくれるわよね? エドワーズさん」

 獣の息が頬を撫でる。
 乱杭の歯をのぞかせて、至近距離で女がにたりと笑った。 
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 サクヤは走った。子どもの体、子どもの足では思うほどの半分の速度も出せない。両脇に並ぶ木製のベンチはまるでそそり立つ壁。どこまで行ってもきりがない。
 腕に抱いたリズのしなやかさ、温かさにすがりつき、必死で足を前に運ぶ。

 祭壇へ。
 祭壇へ……。

「にう」
「うん……もうちょっと」

 膝がかくかく震える。足がもつれる。よろめきながら祭壇前のわずかな段差をよじ上り、後ろに回り込んだその時だ。
 がつっと、金属と金属のぶつかる音がした。

「エドワーズさんっ」

 冷たい指でぎゅっと心臓を握りつぶされた気がした。
 魔女が大きな歪な刃を振りかざして切り掛かっている。エドワーズは懸命に燭台で受け流しているが、手や頬に切り傷ができていた。
 彼は元警察官だ。人間が相手なら取り押さえることもできたろう。だが、今の相手は異界の魔物、人の世の理の通じる相手ではない。

 このままじゃエドワーズさんが危ない。自分が何とかしなければ。あの魔女は神聖なものが苦手だ。何か、何か使えるものは! 
 祭壇の上には、杯に十字架、香炉、聖餅を収めた器……ミサに使うための神聖な道具が並んでいる。

(あれだ!)

 のびあがって手を伸ばす。が、届かない。

「リズ、お願い!」
「みゃっ」

 ほっそりした白と薄茶の体がしなり、祭壇の上に飛び上がる。リズはまず杯に狙いを定めた。前足で器用に倒し、転がして下に落とす。
 金色の杯が落ちて来る。サクヤは手を伸ばし、受け止めようとした。
 指先が杯に触れる。
 その瞬間。

「みぃっ?」

 リズは見ていた。その青い瞳で。
 小さな子どもの姿だった『サクラ』が淡い光に包まれ、大人の姿に。本来の23歳の『サリー先生』に戻る有様を……。

「……戻った」

 手のひらを握りしめた瞬間、鈍い音が響いた。

「ぐっ」

 はっと礼拝堂の入り口に目を向ける。エドワーズが床に組敷かれている。魔女は勝ち誇った顔でのしかかり、今にも大鎌を振り下ろそうとしていた。

(エドワーズさん!)

 すうっと息を吸い込む。ここは聖域。崇める神は違えども、礼拝堂に満ちる清らかな空気が力を貸してくれるはずだ。

(今度は俺があなたを……守ります)

 甲高い澄んだ音を立て、サクヤの周辺に青白い火花が散る。金属の十字架に、聖杯に、ステンドグラスの枠にぴりぴりと細かな光のラインが走る。

「神通神妙神力……加持奉る!」

 ぱしん、と両手を打ち合わせ、身の内に宿る全ての力を振り絞り、雷に変えて解き放った。

 その瞬間、礼拝堂はまばゆい閃光に満たされた。
 祭壇から扉に向かって一筋白い稲妻がほとばしり、天上近くの壁にしつらえられた天に通じる円形のステンドグラス。薔薇窓から目もくらむ光があふれだす。

 エドワーズの首を撥ねようと振りかぶった魔女は、サクヤの渾身の雷光を真っ正面から食らった。

「ぐぅええええぉあああああああっっっ」

 びょっくん、と背筋をのけぞらせ、衝撃で壁に叩き付けられる。エドワーズはよろりと起き上がり、燭台を構え……不規則に痙攣する魔女ののど元めがけ、貫き通せと繰り出した。

 がつ……ん。

 燭台の切っ先が壁に食い込み、金属の震える独特の音が耳に響き手を震わせる。
 魔女の姿は消えていた。
 まるでそこに存在したことすら夢だったように、あっけなく。

「え……?」

 車のブレーキ音。ざわざわと近づく人の足音、声。
 音が。
 色が、戻っていた。

「あ……サクラ!」

 壁に、椅子に手をつき、よろめく体を支えながら礼拝堂の中に歩み入る。白と薄茶のほっそりした猫が駆け寄って来た。瞳孔が開き、瞳がほとんど濃いネイビーブルーに塗りつぶされている。しなやかな長い尻尾がほんの少し、ぽわぽわに逆立っていた。

「リズ………あの子は?」
「にゃおう」
「そう……か……無事なんだね」

 きぃ……とドアのきしむ音がする。顔を上げると、眼鏡をかけた白髪の男性が立っていた。

「どうしたのですか、エドワード?」
「あ……神父様」
「にー」
「おや、リズも一緒でしたか……む」

 神父が顔をしかめる。

「怪我をしていますね、エドワード? 何があったのです」

 頬がちりちりと引き連れ、生暖かい雫がシャツに滴り落ちている。強烈な鉄サビの臭い……これは、汗ではない。やはりあれは現実だったのだ。

「それが……怪しい人物が侵入しようとしていて……泥棒かと思いまして」

 神父はぐるりと礼拝堂の中を見回し、次いで格闘の後の生々しく残る入り口に目をやった。

「どうやらそのようですね。ありがとう、エドワード。教会を守ってくれたのですね?」
「ええ……まあ……そんな所です」

 本当は、守りたかった人は別にいるのだけれど。

「あなたの勇気に感謝します。ですが、危ないことは、ほどほどに……もう警察官ではないのですから」
「はい、神父様」

 リズがおだやかな目をして足にすりよってくる。細長い尻尾をくるりと巻き付けて。
 それ故、わかるのだ。自分は、あの人を守り抜くことができたのだと。

「いらっしゃい。怪我の手当をしましょう……」
「はい、神父様」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 エドワーズとリズが神父とともに奥に入って行く。扉が閉まるのと入れ違いに、礼拝堂の椅子の下から小さな影がちょろちょろと走り出した。
 白と茶色と黒、三色の毛皮の小さな猫、尻尾はうさぎのように丸い。開け放たれた扉から外に飛び出し、集まってきた野次馬の足下をすり抜け外へ。
 この界隈、猫を飼っている家は少なくない。増して今は教会からまばゆい光の放たれた『奇跡』にだれもが夢中。たかだか小さな猫一匹に注意を払う者は一人もいやしない。
 今、まさにこの瞬間、音もなく一つの『奇跡』が進行していることに気づく者も。
 暗がりを走りながら猫の姿が変わって行く。金色の瞳はそのままに前足が宙に浮き、毛皮が羽毛へと変わる。

 すっかり細く、指の長くなった後足が地面を蹴る。
 白い柔らかな翼が広がり、フクロウが一羽。音も無く夜空に舞い上がり、一直線に飛んでゆく。
 自分がこれからどこに行けばいいのか、全て心得ているようだった。
 
次へ→ちび魔女VS角魔女

ちび狼奮戦す

 
「さあ着いたぞ。ここが俺の家だ。つっても兄貴んとこに居候してんだけどな」

 サンフランシスコの西側、サンセット地区で路面電車を降りて数ブロック歩く。太平洋から吹く湿った風が山地に遮られるこの地区は年間を通じて曇りの日が多く、同じ海沿いでも心無しかマリーナ地区より肌寒い。サンセット……文字通り陽の沈む海に面した街。
 半地下のガレージと二階建て、えんぴつさながらに縦に細長い家が横に連結する一角にテリーの家があった。
 玄関を入ると幅の狭い廊下が奥へと続き、二階に通じる階段、リビングに通じるドアがある。

 拾ったもこもこの小さな客を、まずテリーは台所へと案内した。

「のど乾いたろ。ほれ、水だ」

 ぴしゃぴしゃと水を飲みながら様子をうかがう。
 見た所(そして嗅いだ所)この家に動物は飼われていない。それなのにすっと犬用の皿が出てくるのがちょっと不思議。もしかしてしょっちゅう犬を拾ってるのだろうか?

 それにしても……困ったことになった。
 変身したきり、人間に戻れない。いつもは意識しなくても時間が経過すれば自然と元の姿に戻ることができた。かえって変身が解けないように集中が必要だったくらいだ。
 あのとき、魔女はコウイチを動物に変えようとしていた。そのせいだろう。このまま元に戻れなくなったらどうしよう。

「どうしたー。元気ないな……そうか、腹減ってるんだな?」

 テリーは冷蔵庫を開けると紙パックの牛乳を取り出し、パックから直に飲んだ。
 くいっと口元をぬぐい、やかんに水を入れてお湯をわかしはじめる。

「待ってろ。すぐ飯にしてやるからな………」

 お湯でふやかしたドッグフードに、犬用の粉ミルクをたっぷり混ぜたご飯はとてもおいしかった。
 ぽんぽんにふくらんだお腹がちょっぴり重たい。食事が終わると、テリーに抱き上げられて二階に上がった。階段を挟んで二つある寝室のうち、一つが彼の部屋だった。

「こっちは兄貴の部屋だから入っちゃだめだぞ。お前はこっち」

 床に降ろされ、ちょこまかとテリーの後をついてまわる。興味もあったが別に目的があった。そう、彼のジーンズのポケットに入っている携帯だ。
 テリーはサリーの友達だ。きっと、携帯の番号も登録されている。リストから選んでかけるのなら、今の自分にもできるかもしれない。
 電話したからって話せるわけじゃないけれど、コウイチとロイに自分がここにいると伝えることはできる。
 
 ぴょん、と飛びつく。
 ……おしい、鼻先をかすめた。もう一回! 床に伏せて身構えていると、またひょいっと抱き上げられた。

「ここがお前の寝床だぞ」

 段ボール箱の中に使い古した毛布が敷かれている。先客が残したらしいかみ傷があちこちにあってぼろぼろだけど、清潔であったかい。
 つい、我を忘れてもふもふ潜り込む。その間に箱の外でカシャカシャと金属音がした。

(何だろう?)

 しまった! ペット用のサークルで周りを囲まれてしまった。床の一角にはトイレシートをセットした犬用のトイレも置かれている。

「トイレはそこな。庭でしたくなったら教えろよ?」

 慣れてる。やっぱりしょっちゅう犬を拾ってるんだ。優しい青年だな。しかもきちんと適切な世話をしている。
 この場合はそれでかえって困ったことになってるんだけど!

「くぅうんん…………」
「いい子にしてろよ」

 ぱたぱたと頭を撫でるとテリーはクローゼットから着替えをひっぱりだし、部屋を出ていった。ぴん、と耳を立てる。
 せっけんのにおいとシャワーの音……風呂か。

 携帯はジャケットと一緒に無造作にベッドの上に放り出されたまま。
 これはチャンスだ。
 低く体を伏せる。全身の筋肉に力を込めて……ジャンプ!

 狼の脚力は同じサイズの犬より格段に強い。ほとんど後足の力だけでサークルの上端まで達することができた。軽く前足をひっかけて体を前に送り出す。

 成功!

 チリリン、チリン。二つの鈴がクロスと触れ合い堅い、透き通った音色を奏で、晴れてカルは自由の身となった。
 さあ、次は携帯だ。やすやすとベッドに飛び上がり、携帯をくわえたが。

 つるりん。牙の間をすり抜けて床に落ちてしまった。

(あ)

 慌てて床に降りて、注意深く(自分ではそのつもりだった)前足で開こうとするが……がりがりとむなしく引っ掻くばかり。
 しかたがないのでストラップを前足で押さえて固定して、口でくわえてそろそろと持ち上げる。よし、隙間ができぞ。素早くもう片方の前足を突っ込む。
 うう、やっぱり滑るなあ………あっ。

 また滑った。あきらめずにくわえる。じりじり上にひっぱって……あっ、また。
 夢中になってがしがしやっていると、頭の上から声が降って来た。

「こら!」
「きゅっ!」
 
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(ち、ちがうんだ、テリーくん、これはイタズラしてるんじゃなくてちょっと借りようとしただけでっ)

 必死になって上目遣いに訴えるが、どう見ても『携帯をいたずらしているわるいパピー』にしか見えない。問答無用でとりあげられてしまった。

「あーあ、傷だらけじゃねぇか」

 舌打ちするとテリーは携帯をデスクの引き出しに入れてしまった。

(あああ、さすがにそれは出せないーっ)

「お前、サークル飛び越えたのか! すごい脚力だな。さすがウルフドッグだ」

 ひょい、とだきあげられ、全身なでまわされる。その時になってようやく、相手がトランクス一丁に首にタオルをかけただけと言う誠に魅惑的な姿をしていることに気づいた。

「うーん、やっぱ筋肉の着き方が普通の犬と全然ちがうなー。全身バネだな……」
「くぅうん」
「この牙でがしがしやったのか? んん? 俺の携帯美味かったか?」

 めりっと唇をめくりあげられる。

(ちがうんだ、食べようとしたんじゃなくて、連絡したかったんだよ!)

 目で訴えたところで通じるはずもない。

「待てよ、携帯……あ、そーか、お前のそのアクセサリー、サクヤの携帯のストラップと同じなんだ。ひょっとして飼い主、知り合いか?」

 よくぞ気づいてくれた! 尻尾をばたばた振って喜びをアピールしてみる。

「わう!」
「お、いっちょまえに返事するか。かしこいなあ……サクヤに電話してみるか……」

 チャンス到来。きっとコウイチかロイが出るはずだ。後ろで吠えれば気づいてくれる!
 
 テリーは立ち上がり、デスクに向かって歩いて行く。とことこと足下をついて行く。引き出しに手をかけた、その瞬間。

「……う」

 窓の外にあの女が立っていた。ここは二階なのに。
 赤い色が閃いたと思ったら、壁も窓ガラスもすり抜けていきなり部屋の中に入ってきたではないか!
 魔女には人間の壁など関係ないのか?

「見つけたよ。こんな所にいたんだね……」
「うわっ、お前、何だ? どっから入ってきた?」
「……邪魔だよ。おどき」

 くわっと金色の目が見開かれる。テリーの体が宙に飛び、床に叩き付けられた。

「ぐっ、う……くっそぉ!」

(彼に手を出すな!)

 倒れたテリーの前に踏ん張り、牙を剥く。魔女は甲高い声で笑うと軽く手を一振り。
 ちいさな狼は勢い良く飛ばされ、壁に激突した。

「きゃんっ」
「ちび! くっそぉおお、女だからって容赦しねえぞっ」

 テリーはがむしゃらに飛びかかった。こいつがどこのだれで、何をしにこの家に侵入したかはわからない。ただ、無力な動物を楽しんでいたぶる姿に体中の血が煮えくり返った。

「うっ、こ、このっ、お放しっ!」

 痩せた肩をつかんで床に押し倒す。女はきぃきぃわめいて引っ掻いてきた。無我夢中で押さえ込む。

「ええい……まずお前から片付けてやる!」

 びきっと女の額の皮膚が裂け、尖ったものが生えてきた。まさか、これは……角?
 ぎょっとした瞬間、虚をつかれて逆に押し倒される。女はのしかかり、見せつけるように鋭い切っ先を目の前に突きつけてきた。

「さあてどこから引き裂いてやろうか。目か? 鼻か? それとも……生意気なこの口から?」
「ぐっう、ううっ」
「ゆっくりねじこんで、内側からびきびき裂いてやろうね。痛みが全身に行き渡るよう、じっくりと………」
「や……め……ろ……」

 尖った角の先端が口の端に押し当てられる。得体の知れぬ恐怖が境目を越え、現実のものとなろうとしていた。

「ぐわおう!」

 地の底から轟く低い声。地獄の番犬もかくやと言ううなりを上げて、ちっぽけな体が宙を飛ぶ。
 閃く白い牙ががっつりと、痩せた肩に突き立った。

「ぎゃああああああああっ」

 顎の力も牙のサイズも、大人の時に比べれば微々たるものだった。けれどカルが魔女にかぶりついた瞬間、首にかかった魔除けの十字架が痩せ細った肩に押し付けられたのだ。
 純粋な鉄で作られた、聖なる印が魔女を焼く。直接触れただけに効果は絶大だった。

「ひぎぃいっ」

 よろめきながら魔女は壁に突進し、自らの影にとけ込むようにして姿を消した。

「くぅうん」

 テリーに近づき、引っ掻かれた腕や顔の傷を舐める。

「あ……ありがとな………」
「わうう?」

 テリーは目をうるませてちび犬を抱き上げた。
 こいつが俺を助けてくれた。命の恩人だ! 何て勇敢な奴なんだ。

「ちび。すごいぞ、お前。ガッツがあるな……」

 パピー特有の丸みのある鼻面に顔をよせると、キスをした。限りない感謝と純粋な賞賛の意をこめて。
 その瞬間。
 ぽうん、とふくらませた紙袋の割れるような間の抜けた音がした。と思ったらいきなり床に押し倒される。

「え? え? ええっ?」

 だれかが上にのしかかっていた。ちょっぴり困ったような顔をして。癖のある黒い髪、ネイビーブルーの瞳。眉の印象的な東欧系のハンサムな男。

「………やあ、テリーくん」
「おおおおおおおおおおおおお、お前はーっっっっっ!」

 しかもそいつは裸だった。
 全裸だった。
 何も着ていなかった。
 至近距離に、ふさふさの胸毛に覆われたたくましい胸板が。その下は……ああ考えたくない!

「ランドール……なんで……ここに……」
「助けてくれて、ありがとう」

 顔をよせられ、ちゅうっと頬のあたりで不吉な音が。しかも何だか妙にあったかいしめった感触が……。

(俺、キスされた)
(全裸の男に)
(はだかのほもに)

(  は  だ  か  の  ほ  も  に  )

 ぐるぐると目に映る全てのものが渦を巻き、テリーの意識は暗闇に飲み込まれた。

「テリーくん?」

 ひたひたと軽く頬をたたいてみたが、無反応。やれやれ、よほど驚いたらしい。無理もないな……。
 自分でも信じられないくらいだ。こんなに急に元の姿に戻れるなんて。詳しい理由はわからないが、きっかけが彼のキスだったことはまちがいない。

 恩人をいつまでもこんな格好で床に寝かせておく訳にも行くまい。抱き上げてベッドに寝かせ、毛布をかけた。
 さて、今度こそ連絡するとしよう。ああ、五本の指が自由に動かせるのがこれほどありがたいとは。
 デスクの引き出しから携帯を取り出し、サリーの番号を選んでかけた。

「ハロー?」
「やあ、コウイチ」
「ランドールさん! 元に戻れたんですね!」
「ああ。テリーくんのおかげでね」
「テリーさん……そこに居るんですか?」
「うん。彼は今、その……お休み中だ。ヨーコとサリーはそこにいるのかい?」
「先生と、サクヤさんは…………」

次へ→戦う本屋さん

サリーちゃん狙われる

 
 その客はひっそりとドアの前に立っていた。

 赤い帽子を目深にかぶった、これまた赤いコートの女性。足音は聞こえなかった。どの方角から来ても、大抵店に来る客はまずウィンドウ越しに姿が見える。それなのに気づかなかったとは。いつからそこに居たのだろう? 

「エドワーズさん。本屋さん。両手が荷物で塞がっているの。開けてくださらない?」
「少々お待ちを……どうぞ」

 ドアを開けて招き入れる。おやおや、柊のリースがすっかりしおれてしまっている……寒さのせいだろうか。後で取り替えておこう。

 赤いコートの婦人はうっすらと微笑み、入ってきた。カツコツと足音を響かせて。けっこう背が高いな。ヒールのせいだろうか。
 なるほど、両手に大きな布の手提げ袋を下げている。エコバッグだろうか。近頃は買い物袋を持参するお客も増えた。
 
「助かったわ……」
「何かおさがしですか?」
「ええ、探しておりますの……子どもを」
「子ども?」
「息子がね、この近くで迷子になってしまったの。あなたご存知ない?」
「さて……参考までにお聞きしますが、いなくなった時の息子さんの服装は?」

 確かに迷子なら一人、奥で眠っている。だがそう簡単に信用するのは性急だ。まずは確認をとらなければ。

「白いセーターに茶色のチェックのズボン、薄い茶色のコート。黒髪で肌は象牙色、目は濃い茶色よ。女の子とまちがえそうなくらい可愛い子なの……ねえ、本屋さん、あなたご存知なんでしょう?」

 にいっと薄い唇を引きつらせて女がほほ笑む。乱杭になった歯がのぞいた。嫌な笑顔だ。それによく見ると爪も長く、尖っている。小さな子どもと日常的に触れ合う人間にしては、いささか不自然ではないか?
 百歩ゆずって付け爪だとしても、子どものことを第一に考える母親があんな物を身に着けるとは思えない。アクセサリーにしろ、ネイルアートにしろ、我が子に怪我をさせる可能性のあるものは……極力、避けるはずだ。

 エドワーズの胸の奥で密かに警報が鳴り始めた。

「あの子、ここにいるのよね? そうでしょう? ね、エドワーズさん」
「Ma'am、まだ肝心なことをうかがっていません」

 油断なく距離を取りつつ身構える。さりげなく店の奥に通じる扉と女の間を遮るようにして

「息子さんの名前は、何と言うのですか?」
「名前?」

 女は立ち止まり、ぎくしゃくと首をかしげる。

「そうです。息子さんの名前です」
「息子は……私の息子は……」
「答えてください。あなたの息子さんは、何と言う名前なのですか」
「な……ま……え……は……」

 女はぐいっと頭をのけぞらせる。ばさりと被っていた帽子が床に落ち、乱れた長い後ろ髪が広がった。そして額のあたりには2本、堅く結い上げた髪がそそり立っている。

「Ma'am?」

 その瞬間、店内の電気が全て消えた。

「っ!」

 停電か? だが向かいの店の灯りは着いたままだ。この家の電源だけが意図的に落とされたのだ!

「あの子を渡せぇええっ」

 びょっくん、と女が身を起こし、爪の長い腕を伸ばしてつかみかかってくる。とっさに身を沈め、逆に手首をとってひねり上げた。ありがたいことに警察仕込みの体術はまだ残っていてくれた。

「しゃぎゃああああっ」

 歯をむき出し、至近距離から睨みつけてくる。横に割れ避けた金色の瞳……これは、人間の目ではない!
 気をとられた一瞬、思い切り向こうずねを蹴り着けられる。堅いかかとで強烈な一撃。たまらず吹っ飛ばされてカウンターに倒れ込む。
 ばさばさと本棚の本が落ちた。

「エドワーズさん……危ないっ」
「サクラ? いけない、下がって!」

 ばっちん!

 闇に閉ざされた店の中に、青白い光が弾けた。

「ぎゃあっ」

 赤いコートの女は両目を押さえて悶絶し、ぎゅるぎゅるぐるりとのたうち回り……消えた。一迅のつむじ風とともに。

 今のは、一体?
 閃光の中、ひるがえるコートの裾の奥に見えたあの足は、ハイヒールなんかじゃなかった。二つに割れた山羊の蹄だった。
 それにあの瞳。
 帽子の下から現れたあれは、高く結い上げた髪の毛だったのだろうか。それとも……。
 手のひらに一筋、傷ができていた。まるで尖ったもので引っ掻いたような。もみ合った際にやられたのだろう。

「まさか……角?」
「にゃーっ」

 リズの声にはっとしてカウンターの後ろに走る。小さな体がうずくまっていた。

「サクヤ! 大丈夫ですか?」
「だい……じょうぶ……」

 意識がもうろうとしているらしい。一瞬でエドワーズは腹をくくった。ソファの上からコートをとってきて着せて、自分もコートを羽織る。

 この子は狙われている。
 さっきの女がいつ、また襲って来るかもしれない。これ以上、ここに置いておくのは危険だ。一刻も早く保護してくれる場所に連れて行かないと……ただし、警察ではない。
 エドワード・エヴェン・エドワーズは英国で育った。そして本の好きな少年だった。子どもを攫いに来る魔物の存在は、幼い頃から知識として身近にあった。それに対抗する手段もまた、彼の中に自然に息づいていたのである。

「おいで、リズ」
「みゅ」

 愛猫とサクラをもろとも抱き上げる。
 
「少し走ります。ゆれるから、しっかりつかまっていてください」
「どこ……へ?」
「教会です。近くの」

 聖域にいたる道は狭く、車を出すより走った方が早い。外は既に暗いが、幸い今はクリスマスシーズンだ。家々の窓にも門口にも聖なる印が飾られ、賛美歌が流れている。
 守ってくれるはずだ。

「行きますよ」

 こくっとうなずき、しがみついてくる。
 小さな体を抱えてエドワーズは走った。
 教会へ。
 聖域目指して。

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