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羊さんたちの遊卓

【6-11】グローイングアップ!

 
「しっかりつかまってください、先生……飛ばします」
「OK」

 キンと凍えた空気がびゅんびゅんと耳元を通り過ぎる。自転車の荷台をしっかり膝ではさみ、風見光一の背中にしがみついた。

「懐かしいなあ。前もこーやってお前とチャリに2人乗りしたよね?」
「しましたね……」

 あの時はまだ仲間も少なくて、2人きりで戦った。ロイはまだアメリカで、サクヤも、蒼太でさえまだ完全に『現役復帰』はしていなかったから。
 カラカラと車輪が回る。藍色に霞む夜の景色が後ろに飛びずさる。

「ところで、どこに向かって走ってるんだ?」
「海岸です。呪いの解除法の一つに『海の水を浴びる』ってのがあるんで」
「この季節に?」
「月の光を浴びるってのもあるそうです」

 空を見上げる。鉛色の分厚い雲にかくれて月は見えない。

「できればそっちに当たりたいな……む」

 吹きすぎる風の中にかすかに、肉の焼けるにおいを嗅いだ。まだ、魔女はあきらめていないようだ。

「急げ、風見」
「はい!」

 ロイがスピードを落とし、後ろに着く。
 ちらりと振り返る。ほほ笑んでうなずいた。守られてるんだ、と思った。もう自分一人できりきりと警戒しないでいいんだと。

 長い、急なこう配の坂道を下る。湿った空気に混じる濃密な潮の香りを嗅いだ。
 
 キキィッ!

 コンクリートの突堤の際自転車を止める。
 ざざざ、ざざあ、ざざざ、ざあ……。波の打ち寄せる音がすぐそばから聞こえてくる。小さな砂浜の向こうに夜の海が広がっていた。
 ぴょい、と飛び降りると風見が前のカゴに入れていた紺色のバッグから神楽鈴を取り出した。

「先生、この鈴持ってて」
「お守りデス」
「いや、お前らが持ってろ」
「ボクらは大丈夫です!」
「これがありますから」

 2人はそれぞれジャケットの内側から隠し持っていた武器を取り出し、構えた。
 風見はベルトのホルスターから小太刀を2本。ロイは内ポケットから手裏剣を。

「行って、先生」
「……すまんっ」

 階段を降りて、砂浜を走り出す。黒いガラスを削ったような波が打ち寄せる波打ち際目指して。
 背後でガキっと堅いもののぶつかる音がした。

「風見……ロイっ!」

 たまらず振り返る。
 魔女が踊っていた。半ば焼けこげた赤い長衣を翻し、歪な三日月の刃と化した両手を振りかざして。きぃっと空間を掻きむしる。
 ぱっきん、と夜空が割れて赤い傷口が開く。空間の裂け目からぼろぼろと黒い羽虫の群れがこぼれ落ちる。後から後から砂のようにぼろぼろと。

「二番煎じか! 同じ手は食わないぞ」

 風見が二本の小太刀を十字に構える。
 と、その刹那、赤い衣が触手のように伸びて風見の手首に巻きつき、動きを封じてしまった!

「くっ」
「させないよ、風使い。お前らの手の内は承知の上さ!」

 勝ち誇る魔女の背後でぽつりとつぶやいた者がいる。

「それはどうかな」
「お前! いつの間にそこに!」
「たとえ目には見えねど、某が心と技の一撃受けるでゴザルよ!」

 ロイは至近距離から無造作に掌底突きを繰り出した。右の手のひら、親指の付け根と小指の付け根の交差する手首に近い部分が魔女の脇腹に当たる。
 予想外に軽い当たりだったのか、魔女の顔に一瞬、あざけるような表情が浮かぶ。

 が。

「心威発剄!!」

 気合いとともに掌底から衝撃派が発せられ、枯れ木のように痩せた体が吹っ飛んだ。
 同時に風見の手首に絡み付いていた赤い布が力を失い、だらりと垂れ下がる。

「風よ走れ、《烈風》!」

 わき起こる風の刃が真っ向から羽虫の群れにぶち当たる。

「っ!」

 強い?
 昨夜、夢の中で戦った時の比ではない。数も。虫そのもののしぶとさも。

「教えてあげる……何で私がこんなに強いのかを………」

 魔女が顔をのけぞらせて高らかに笑った。ロイの一撃をくらって吹っ飛んだはずなのに、ほとんどダメージを受けていないようだ。

「この力は元はと言えば、お前たちの大事な大事なヨーコ先生のものなんだよ……」
「何っ」

 脳裏に閃く悪夢の記憶。紐状の影に貫かれ、先生は子どもの姿になってしまった。

「あ……あの時に!」
「そうさ。あの女の培ってきた技も術も、並外れた意志の強さが生み出す力も、今はあたしのものなんだよ……妹たちとはできが違う。こんな芸当だってできるんだ」

 じゅわじゅわと音を立てて魔女の傷が癒えて行く。焼けこげた顔も、髪も元に戻って行く。 

「どうやらヨーコ先生も使い魔を呼び寄せる力をお持ちのようだね……お前たちの言葉で何て呼ぶかは知らないけれど」

 ざわざわと新たな羽虫の群れがわき出す。さっきの群れより数が多い。

「うわ……」
「せめてもの情けだ。大好きな先生の力で葬ってあげるよ……覚悟おし!」
「笑わせるな!」

 黒雲となってざわめく毒虫の群れを前に、風見は凛とした声で言い放った。

「先生が本気出したら、こんなもんじゃない!」
「そもそも、こんな趣味の悪い式なんか呼ぶものか!」
「おお、その通りだ。いいこと言うな、ロイ」
「ふん、生意気な……その口、塞いでくれるわ!」

 不吉な唸りとともに羽虫の群れが2人の少年を飲み込んだ。

「うっ」

 目が開けられない。息をするのも苦しい。細かい針がびしびしと手を、顔を切り裂く。裂かれた場所から不吉な痛みが染み通り、皮膚を溶かし肉を侵す。

「ロイ……はな……れるな………」
「御意っ!」

「風よ舞え、旋風!」

 自分とロイの周りに風の渦を作り、羽虫の流れを遮断する。とりあえず息はつけた、だがいつまで持つだろう?

 ブゥウウン。ゴゥウンン、ブゥウウワオオオンン。

 不吉な黒い雲は一段と厚みを増している。歪み、うずまく羽音の向こうで魔女が笑っていた。
 
「ヒャハハハハハハ、キャーハハハハハハハ!」

 夜空を切り裂くけたたましい魔女の高笑いを背後に聞きながら、ヨーコは走った。湿った砂に足をとられながら、波打ち際目指して。
 本当はすぐにでも引き返したい。あいつらのそばにいたい!
 だけど。

 それは、彼らの心を無にすること。裏切ること。
 元に戻る可能性があるのなら、それに賭ける。

 ちゃぷん。
 凍える水が足首を濡らす。靴下がじっとり湿った。だが、まだ子どもの靴だ。

「まだだ……これじゃ足りない」

 がちがち鳴る奥歯を噛み締め、さらに海の中に入る。水は足首から膝に上がるがまだ解けない。思い切って腰のあたりまで海に浸かった。
 岸辺では風見の操る護りの風と、魔女の巻き起こす禍つ風がぶつかり合い、せめぎ合う。ただでさえ不安定な海辺の空気がうねり、吸い寄せられ、不意に突風が巻き起こる。

「わっ」

 ひときわ大きな波が盛り上がり、ざぶんと頭から飲み込まれる。足下をすくわれ、海中でもがいた。
 その瞬間……雲が途切れ、ほっそりとした三日月が現れる。清らかな青白い光が降り注ぎ、波頭を白く浮かび上がらせた……。

 シャリン!

「っ!」

 勝ち誇っていた魔女の体が凍り付く。

「あ……うぁ……そんな……まさか………」

 癒えたはずの顔の表面がぼろぼろと崩れ落ち、元の焼けただれた無惨な状態に戻って行く。呼び出された羽虫の群れも見る間に勢いを失い、風見の風の刃に削がれて行く。

 シャラリン!

 鈴の音が、今度ははっきりと鳴り響いた。
 
「先生!」

 海の中にすっくと羊子先生が立っている。白の小袖に緋色の袴、巫女装束をまとい、高々と掲げた右手には緑、黄色、朱色、青、白の五色の布をなびかせた赤い神楽鈴を握って。

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illustrated by Kasuri
 
 海の水を満たした左の手のひらを胸の前に捧げ持つ。清らかなオレンジ色の光が結晶し幻の聖杯が顕われる。
 杯の水面に写る月に微笑みかけると、羊子はふわっと聖杯に満ちる水を空中に放った。

 降り注ぐ柔らかな光の雫が触れた瞬間、風見とロイの手足や顔に生じた無数の切り傷が癒えた。神経を直に灼いていた痛みすら薄れて消え失せる。

「ヨーコ先生!」
「……待たせたな」

 ざ、ざ、ざーっと波を蹴立てて海から上がるや、羊子は身軽に砂浜を駆け抜け、ふわり、と突堤の上に飛び上がってきた。

「お、おのれ、おのれ、おーのーれーっ」
「吸い取った所で所詮は借り物の力。あなたが使いこなすには、ちょーっとばかり荷が重かったようね、Ma'am?」

 ついさっきあんなに風見とロイを苦しめた毒虫の群れは今や風の刃に打ち倒されて跡形もない。

「ずいぶんとまあうちの子たちを可愛がってくれたじゃない?」

 にやり、とヨーコの口元に不敵な笑みが浮かぶ。

「そう言えばあなた、神聖な力が苦手だったわよね……たっぷりお見舞いしてあげるから………覚悟しろ!」

 しゃらりと鈴を鳴らす。凛とした声が空気を震わせる。

「極めて汚きも滞り無れば穢れとはあらじ」

 ひっと喉を引きつらせて魔女が後じさる。禊はついさっき海の水ですませたばかりだ。今の羊子はちょいと俗な言い方をすれば巫女さんパワー全開120%。魔女が苦手とする『神聖な力』を駆使するのに申し分のない状態にあった。

「内外の玉垣清く淨しと申す……」

 すっと手を伸ばして風見の小太刀に触れる。

「この剣をば八握生剣と為し」

 翻して今度はロイの腕に。

「この手をば蛇比禮蜂禮品品物比禮と為さん」

 触れた場所から涼やかな光が広がり、2人の体を包み込んだ。

「神通神妙神力……加持奉る!」

 しゃらり、と鈴が鳴り響く。もう、魔女の呪いは及ばない。

「行け!」
「はい!」
「御意!」

 魔女が破れかぶれの金切り声を上げて飛びかかって来る。
 勝負はすれ違い様の一瞬で決した。

 がっきん!

 砕かれた三日月の刃がくるくると円を描いて宙に飛び、ざん、と砂浜に突き立った。どぶどぶとどす黒い粘液の滴る腕を押さえて魔女はよろめき、地面に伸びる自らの影に飛び込むようにして姿を消した。

「逃げたか……気配が消えた。夢の中に引っ込んだな」
「先生、大丈夫ですかっ、ずぶぬれですよっ」
「何の、これしき。古人に曰く、心頭滅却すれば火もまた涼し!」
「センセ、それ用法間違ってマス」
「いちいち細かいなあ。要するに、気力の問題なんだよ!」
「……カイロ使います?」
「もらう」
「俺とロイの間に入っててください。風避けになります」
「……うん……あ」

 ぴくん、とヨーコは顔を跳ね上げた。

「サクヤちゃんが、戻った」
「わかるんですかっ?」
「うん……今、こっちに向かってる」
「さすが……うわっ」
「どうした?」
「荷物が……」

 風見の背負っていたリュックサックが不自然な形に膨れ上がっている。

「何入れてたんだ? これ」
「Mr.ランドールの服です」
「あー、変身した時の」
「子ども服から紳士服に戻ってる……」
「と、言うことは」

 風見の胸ポケットの中で携帯が鳴った。引っ張り出した携帯は、赤い組紐の先に金色の鈴が下がっていた。サクヤのものだ。

「ハロー?」
「やあ、コウイチ」
「ランドールさん! 元に戻れたんですね!」
「ああ。テリーくんのおかげでね」
「テリーさん……そこに居るんですか?」
「うん。彼は今、その……お休み中だ。ヨーコとサリーはそこにいるのかい?」
「先生と、サクヤさんは………」

 横合いからにゅっとヨーコが鼻先をつっこみ電話に出た。

「Hi, カル! 復活おめでとう」
「ヨーコ! その声、戻ったんだね?」
「ええ。すっかり元通り。今、どこ?」
「テリーくんの部屋に」
「ってことはサンセットか……OK、カル。すぐにこっちに飛んでらっしゃい。東に向かってほぼ真っすぐに。あたしたちが今いるのはね……」

 周囲を見回す。子どもの目線では気づかなかったことが色々と見えてくる。霞のかかっていた意識もはっきりして、記憶と場所の間に横たわる溝がすっきり埋まった。

「八月の結婚式覚えてる? あのレストランのそばの海岸なの」
「ああ。あの店か……よく、覚えているよ」
「近くまで来たら合図するわ」
「わかった」

 そっと電話越しに囁く。今なら安心して彼を呼べる……そう、今なら。

「………………………………………………待ってるよ、カル」
「すぐ行くよ。それじゃ」

 
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