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羊さんたちの遊卓

【6-14】go-go-go-ahead!

 
 昼の光、夜の光、何もない光。
 ゆらぎ、瞬き、ひらめいて、今と過去との隙間を照らす。

 宵闇、薄闇、木の下闇。
 明け闇、夕闇、星間の闇。
 漆黒、暗黒、真の黒。 時の障壁(かべ)すら飲み込んで。

 瀝青(ピッチ)のように青黒く、タールのように真っ黒で。
 見ることは見られること。
 闇の深淵をのぞくとき、向こうも私を見ているのだ。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 静かだ。
 見えるものは全て青い磨りガラスを通したみたいにうっすらと青みを帯びている。それなのに色も、形も見分けることができた。振り仰ぐ空にはぽっかりと丸い月。
 満月をほんの少し通り過ぎた十六夜の月。
 ああ、きれいだな……。

 手をかざして月の光に触れてみる。

「え?」

 白衣じゃない。洋服の袖だ。紺色の袖に白いセーラーカラー、リボンの色はえんじ色。

 これ……高校の制服じゃない!

 何で、こんな格好を?

 慌てて周囲を見回す。だれもいない。確かに、他にも居たはずなのに。年下の男の子が2人一緒だった。ああ、でもあれはだれだったんだろう?
 サクヤちゃん……?
 蒼太?
 それとも……。

 ああ、だめだ、めまいがしそう。何でこんなに寒いのだろう。何で、こんなに。
 煌煌と照らす月の光は金の色。だけど熱のない冷たい光。手先指先足の先、体の先端からしんしんと染み通り、温もりを奪って行く。

「羊子」
「……え?」

 低いおだやかな声が名前を呼ぶ。
 ひとめ会いたいと願い続けた、夢の中で面影さえ追うことすら許されなかった人がそこに居た。足下に長く彩のない銀色の影を引いて。皺の寄った目元に優しい光を宿し、ほほ笑んで腕を広げている。

「羊子。探したよ」
「上原………さん………」

 抱きしめる腕をどうして拒むことができるだろう? 自分を見守り、導き、悪夢に立ち向かう術を教えてくれた人。
 いつからだろう。この人を師としてではなく、先輩としてでもなく、一人の男性として慕っていたのは……。
 いつから、なんて関係ない。私は、この人が好き。バレンタインのチョコを渡すとか、手をつないで歩くとか、2人だけにしか通じない暗号を駆使してメールをやりとりするとか……
 そんな、同年代の男子と交わすささやかな恋心なんかじゃ追いつかないほど、彼を求めていた。親子ほど年が離れていても、この想いは止められない。
 たとえ子どもと思われていても、彼のそばにいられるだけで胸が高鳴った。一緒に戦えるだけで十分だった。『よくやった』ただその一言で心臓が喜びにうち震えた。

 切ないけれど幸せな時間がずっと続いて行くって信じていた……信じていたのに。
 背に回された腕に力がこもり、ぐいっと引き寄せられた。足も腰も胸もあますところなく密着し、引き締まった体を。肌の熱さを直に感じた。
 彼の指が髪を撫でる。くすぐったい。

「あ……」
「可愛いな」

 背中、肩、腰。まんべんなくなで回され、そのたびに密着した体がよじれてこね回される。
 上気した肌から少女の肢体には不釣り合いな、成熟した女の香りがにおいたつ。
 首筋に顔が寄せられた。
 
「ああ、いいにおいだ」

 ささやかれる吐息にびくん、と全身がすくみあがる。
 逃げようとするとさらに強く抱きすくめられ、なでられた。

 どうしよう。
 熱いよ。
 熱くて、もどかしくて、じれったくて。ああ、いっそこのまま、溶けてしまえたらいいのに。

 耳もとに口がよせられ、優しいささやきが耳をくすぐる。 

「ずっと、一緒に居よう。もう一人で泣くこともない」

 閉じかけたまぶたをぱちりと見開く。

「ずっとお前を愛してあげるよ」
「うれしい……な……」

 すうっと目を細めた。

「でも、それは聞けない」

 ターン、と響く銃声一発。
『彼』が胸をおさえてよろよろと後じさる。苦痛に顔を歪めている。指の間から真っ赤な血が吹き出し、こぼれ落ちる。
 わき起こる後悔の念をねじ伏せ、右手を伸ばした。

 ヨーコの手の中に小さな拳銃が光っていた。縦に連なる中折れ式の二本の銃身、ハイスタンダードデリンジャー。表面は摩滅しているがぴかぴかに磨き上げられ、グリップに一筋斜めの傷が走る。
 上部の銃口からうっすらと煙がたちのぼっていた。

「お前はあの人じゃない。あの人はもういない。この銃が私の手の中にあることがその証」

 油断なく狙いをつける。弾はもう一発残っている。もとより夢の中では装填数など問題ではないのだが……
 彼は言った。
 二発しか撃てないが故に威嚇の余裕も外す猶予もない。常に真剣勝負、確実に当てねばならない。そんなギリギリの空気が恋しくてこの銃を使うのだと。

 紺色の制服が崩れ落ち、つかの間なめらかな裸身が露になる。
 白い小袖に緋色の袴の巫女装束、さらにふわりと薄い白布の上衣……千早がヨーコの身を包む。神楽を奉納する時などにまとう、巫女の盛装。身に着けるとそれだけで心が研ぎすまされる。

「それにね……あなた、あの人なら決して言わないことを言ったもの」

 一緒に来るなと彼は言った。
 残って後に続く者を導けと。
 女として想われることが叶わぬのなら、せめて戦友として共に散ろうとした自分にただ一度の口づけで報いて。

 だから私はここに在る。

「バカな娘だね。せっかくいい夢を見せてあげようと思ったのに」

 口をゆがめて吐き出すと、『あの人』の姿は歪んで引きつれ、赤い衣をまとった背の高い痩せた女に変わった。顔は焼けただれ、片方の腕は半ばで切断されている。生々しい傷口からはタールのような黒い粘つく液が滴っていた。

「まんざらでもなかったみたいじゃないか。ええ? 私でよければたっぷり可愛がってあげるよ?」
「はい、ストーップ!」

 びしっと魔女の左の角に銃弾が当たり、上半分を木っ端みじんと吹き飛ばす。ぱらぱらと欠片が飛び散り、魔女は口をぱくぱく、白目をむいてへたりこむ。

「それ以上は青少年の教育上、好ましくなくってよ?」

 デリンジャーをかまえたまま、ヨーコはこの上もなくにこやかに笑いかけた。

「風見! ロイ!」
「はい!」
「おそばに」

 音もなく浅葱色の陣羽織を羽織った若武者と、青装束の金髪ニンジャが現れる。

「お、お前たち、何故ここに! 夢の入り口でばらばらに分断したはずなのに。どうやってここまで入り込んだんだ!」
「ダイブのタイミングをずらしたのでござるよ!」
「何ぃ?」
「あの時、拙者たちは夢には入らず現実に留まったのでござる」
「お前がヨーコ先生たちに罠を仕掛けたのを見計らってから、改めて先生の夢に入ったんだ」

 ロイと風見が夢に入った時、3人の魔女は既にサリーとランドール、ヨーコにかかり切りだった。
 5人全員、一度に入っていれば最初の段階でかく乱することもできたろうが、新たにダイブしてきたハンターたちに手を回す余裕はなかったのである。

「悪夢の気配がぷんぷんにおってござった。探すまでもない。悪夢狩人にとって初歩中の初歩でござる」
「そんなバカな……この女の意識には、そんなことは欠片も……」
「ええ、そうでしょうね。これは私の指示じゃない。この子らが独自に判断して動いた結果ですもの」

 ヨーコは誇らしげに。そして愛おしげに教え子たちを見やった。

「この子らと今、共に在ること。それが私が戦い続ける意味。生きてきた時間の証。お前ごときに消せはしない……」

 手の中のデリンジャーに視線を落とす。ほんの一瞬だけ。
 きっと顔を上げるとヨーコはかすかな笑みすら浮かべて魔女を正面から見据えた。

「奪えはしない」
「っけええええ、ばかばかしい、くだらないっ! そんなにそのガキどもが大事か、そんなにそんなにそんなに!」

 魔女は口角から泡を飛ばしてわめき散らした。手も足も真っ黒に染まり、歪んで引き延ばされてゆく。
 不健康ながらも美しかった女の面影が消え失せ、いびつな影に欠けた角、金の瞳、鎌状の腕を振り回すおぞましいながらもどこかこっけいな妖物と成り果てる。

「だったら3人まとめて引き裂いてやる、食ってやるうう!」

 ぐわっと大口開けて飛びかかる化け物をびしっと指差し、ヨーコは命じた。

「成敗!」

 風見が滑るように走り出し、ロイが弧を描いて宙に飛ぶ。オーバーアクション気味のニンジャに妖物が気を取られた瞬間、間合いを詰めた風見が大小二本の太刀を抜き放つ。

 鞘から太刀を抜く動きがそのまま斬撃へとつながり、右に下に二筋の銀光が走る。

「飛燕十字斬!!」
「ぎぇっ」

 ざん、ざざんっと影の化け物に十字架の印が刻まれる。刻印された聖なる印にじりじり灼かれてもだえ苦しむ『ビビ』にさらに止めの一撃。

「忍び(それがし)の心の刃受けるでゴザル……」

 至近距離からロイが両手で放った衝撃波が魔女の全身を内側から押し広げて、膨張させる。

「心威発剄!」

 ほとばしる鋭気一閃。ぶわっと風船が破裂するように散り散りに、木っ端みじんと吹き飛ばした。青く霞む月光の森に、魔女の断末魔の絶叫が響く。
 ほんのしばらくの間、落ち葉が舞い散るようにはらはらと切れ切れになった黒い影が漂っていたが。
 シャリン、と鳴らされた鈴の音に追われ祓われ浄められ、跡形もなく掻き消える。

「お見事」
「先生!」
「先生っ」

 ヨーコはちょこまかと教え子たちに歩み寄り、ぽん、ぽん、と背中を叩いた。

「よくやったな、風見。えらかったぞ、ロイ」

 満面の笑みを浮かべてつやつやとした黒髪を。柔らかな金色の髪をくしゃくしゃとなで回す。あの時立ち止まっていたら、この子たちには会えなかった。こうして肩を並べて戦うこともなかった。

 彼と出会うこともなかった。

 自分たちが救ってきた人たちも、未だ悪夢に苦しめられたまま。命さえ落としていたかもしれない。
 悔しいけど。ほんっと、心底シャクだけど。『あの人』の言うことは正しかったのだ……。

 がさっと青い木々が揺れ、巫女姿のサクヤと黒尽くめのランドールが姿を現した。
 
「よーこさん」
「あ、サクヤちゃん」
「銃声聞こえたから……心配した」
「うん、もう、大丈夫」

 青い光。青い木、青い地面。夢魔の紡いだ幻が希薄になり、形を失ってゆく。

 ああ。月光の森が消えて行く。
 あの人と最後に会った場所。
 最初で最後のキスを交わした場所が……。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「あ」

 湿った風。海のにおい。波の音。現実が戻ってきた……いや、現実『に』戻ったのか。
 藍色の空には星が輝き、ほっそりした三日月は既に西の地平に沈んでいる。

「今、何時?」
「23時デス」
「ふむ。ダイブしたのが20時ごろだから、そんなもんか」

 うずく右手を抱えながら、ランドールはひっそりと立っていた。ヨーコから少し離れて……けれどあくまで顔の見える位置をキープしつつ。
 子どもになっていた時の記憶は鮮明に残っている。思い返すだに己の不甲斐なさにはらわたが焼ける思いだ。

 君を守りたかった。
 それなのに、私のしたことと言ったら……べそべそ泣きながら『お姉ちゃん』の後をついて回っただけ。
 
 情けないにもほどが有る。
 うつむき、苦い笑みを噛み潰した瞬間、風に乗って小さなつぶやきが聞こえた。

「寒……ぃ……」

 はっとして顔を上げる。
 何てこった。彼女、ずぶ濡れじゃないか!

 白いキモノも、赤いハカマも濡れそぼり、ぺったりと体に張り付いている。背筋こそぴんと伸ばしているが青ざめ、ガタガタ震えている……。
 
 自分が何をしようとしているのか。
 意識するより早く走り寄っていた。

「ヨーコ」
「どしたの、カル……わぷっ」

 自らのコートの前を開いて包み込み、抱きしめた。

「ふぇ……?」
 
 ヨーコは一瞬体を堅くしたが、目をぱちくりさせてじーっと見上げてきた。
 髪を撫でる。ああ、やっぱりぐしょ濡れだ。いったい何があったんだ。まさか海水浴でもしたんじゃあるまいね、君?
 腕の中の彼女がぴくんと震える。寒さのせいだけではなさそうだ。

「カル……」

 すっぽりと包まれてしまった。
 自分の体とはまるでつくりが違う。がっしりとした骨格も。引き締まった筋肉も、何もかも。
 もう、小さなカル坊やじゃないんだ。

「私が子どもだったとき、君は私を守ってくれた。ちゃんと覚えているよ……ありがとう」

 参ったな。このタイミングでそれ、言うか? ああ、まったくこの人は。

(守られていたのはむしろ私)
(頼ってくれる弟がいたから『お姉ちゃん』でいられた)

 震える手でランドールの服を握った。ずっと折り畳んでリュックに入れてあったからすっかりしわくちゃだ。でも。

「あったかい。あったかいなぁ……」

 それだけ言うと、ヨーコはランドールの胸に顔をうずめた。
 見られるのが恥ずかしかったのだ。
 とめどなくあふれる涙を、風見やロイ、サクヤに見られてしまうのが。
 大きな手のひらが頬を包む。優しい指先が涙を拭ってくれる。繰り返されたばかりの喪失の痛みがふわっと溶けて、拡散して行った。

「っつっ」
「………」

 怪我してる!
 この人ってば……。

 赤く爛れた右手に顔をよせ、口づける。
 ただ願うだけで良かった。彼の痛みを癒したい、と。

「……えらかったね、カル」
「ありがとう」

 心の底から愛おしいと思った。自分を包んでくれる温もり、今、この瞬間ほほ笑みかけてくるサファイアブルーの瞳、波打つ黒い髪。
 その身に宿る弱さ、強ささえも、全て。

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