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羊さんたちの遊卓

【4-5】青年社長の帰還

 
 月曜日の朝。ランドール紡績の社長秘書、シンディはいつに無くいらいらと社長室の中を歩き回っていた。ふかふかの絨毯がヒールの踵をやさしく包み込み、音は響かない。

 ちらり、とかっ色の手首に巻かれた銀色の時計に目を落す。そろそろ社長の出勤時間だ。しかし、彼は本当に来るのだろうか?
 

 土曜日の午後、一週間前から失踪(そう、失踪だ!)していた社長からようやく電話があった。さすがにFBIに通報しようかと考えていた矢先に。
 しかも当の社長と来たら、妙にさばさばした明るい口調でひとこと「今から戻る」と告げて、それからまた、連絡が途切れた。現在位置も告げずに、さっくりと。

 いよいよFBIに通報か。それとも警察か。
 まんじりともせずに迎えた日曜日の朝に再び電話があった。

「やあ、シンディ。実は車がエンストしてしまってね。迎えに来てもらえないだろうか」

 とるものもとりあえず車をすっ飛ばして(かろうじてハンドルを握るのは運転手に任せた。とてもじゃないが自分で運転できる精神状態ではなかったのだ)電話のあった場所に駆けつけてみると、これがさびれた田舎町のこれまたさびれたドライブイン。

 片隅のテーブルでにこやかに手を振る社長は髪の毛はぼうぼうに乱れに乱れ、無精髭は伸ばしっぱなし。
 シャツはくしゃくしゃ、ジーンズは土ぼこりにまみれていい具合にうっすらベージュに染まっていた。
 しかも所々に小さな穴が開いている。まるで大型犬にでも噛まれたように……。そして目の前のテーブルには空っぽの皿が積み上がり、ボウリングのピンみたいにころころとミネラルウォーターの空き瓶が転がっていた。

「いったい何があったんですか!」
「うん、岩漠地帯の真ん中で車がエンストしてしまって」
「それは聞きました。私が知りたいのは、その後です」
「しかたないからここまで歩いて来たんだ」
「ここまで? 歩いて?」
「電話をかけようにも圏外だったしね」

 思わず声が裏返った。社長が常日頃体を鍛えているのは知っている。だが、それはあくまで都会に暮らすエグゼクティブな成人男性として見苦しくない程度の筋肉と体型を維持するためのものだ。アウトドア向けではない。

 この人に、ほとんど飲まず食わずで土ぼこりにまみれて延々と石ころだらけの道を歩いて来るような体力があったなんて!
 信じられないわ。

 さらに信じられないことに、カルヴィン・ランドール・Jrは何故か裸足だった。

「靴はどうしたんですか」
「うっかり落したらしい」
「落す? どうやって?」
「歩きにくいから脱いだんだ。くわえていたらぽろりとね」
「くわえて?」
「あ、いや、抱えて、だ。混乱してるみたいだね……」
「そのようですね……」

 素早くシンディはランドールの顔をのぞきこみ、傷の有無を確かめる。
 さすがに疲れているようだが顔色はむしろ健康的。怪我もしていないようだ。ほうっと安堵がわきおこる。

「社長。貴方の取り柄はそのハンサムな顔ぐらいなんです」
「うん」
「プライベートで何をしても構いませんが……顔に傷を作ったら……許しませんわよ?」

 はっとした表情で社長は額に手をやった。

「どうかしましたか?」
「あ、いや、何でもない」
 
 その後、帰りの車の後部座席でランドールはすやすやと熟睡していた。
 かろうじて意識を無くす前にエンストした場所を聞き出し、回収の手配を整えた。
 そしてつい先ほど、ココアブラウンの70年型のシボレーインパラを発見、回収したと言う報告を確認したのだが……これが何と件のドライブインから60マイル(およそ100キロ)以上も離れた岩漠地帯のど真ん中だった。

 いったい、何があったと言うのか。

 社長の放浪癖にはさすがに慣れたが、今回のはあまりにもミステリアス。謎が多過ぎる。
 あの後自宅まで送り届けたが、果たしてあのまま寝かせてしまって良かったものか。今日は大事な取引先の重役との会食が控えている。
 迎えに行くべきだろうか? いや、いや、いくらなんでも小学生じゃあるまいし。ここはせめて電話を……。

 携帯を開いた瞬間、ドアが開いた。

「おはよう、シンディ」
「社長」
 
 081125_0126~01.JPG ※月梨さん画「社長と美人秘書」
 
 素早く社長の周りを歩き回り、前後左右からくまなく身なりをチェックする。

 いつもの黒を基調としたスーツに細いストライプのシャツ、きちんとダークブルーのネクタイをしめ、黒い髪は生来の柔らかなウェーブを崩さない程度に見栄えよく整えられている。
 伸びていた無精髭もきれいに剃られ、さらに足元は磨き上げられた革靴を履いていた。

 服には穴も空いていないし皺も寄っていない。ちゃんと靴も履いている。顔にはクマもなし、傷もなし、瞳は濁りのないサファイア・ブルー……よし、完ぺき。

 2、3歩後ろに下がり、小さくうなずく。

「どうかしたかい?」
「いいえ。ただ、思っただけです」

 珊瑚色のぽってりとした唇に艶っぽい笑みが浮かぶ。

「貴方が女ならもっと楽しめるのに……」
「光栄だね」

 さらりとランドールは受け流した。

 彼女の基準からすれば最大級のほめ言葉だ。シンディの恋愛対象は全て女性に限られているのだから。
 二代目社長の代になってからランドール紡績はセクシャルマイノリティ雇用への垣根がかなり下がっていた。
 元々の従業員のカミングアウト率も高い。社長自らがゲイである事実を公表しているからだ。両親、親族、友人知人にいたるまで……。

「では本日のスケジュールをご説明いたします」

 てきぱきとスケジュール表を読み上げる美人秘書の傍らで、若社長はふと耳をそばだてた。スーツの胸ポケットから短い着信音が聞こえる。どうやらメールが届いたらしい。ポケットから携帯を引き出し、ディスプレイに表示される名前を確かめる。

 送信者はカザミ・コウイチ、ヨーコの教え子であり、住んでいる場所こそ離れているが彼の『チームメイト』だ。仲間からの連絡は何を置いても真っ先に確認することにしている。

 今、日本は夜中のはずだ。こんな時間にどうしたのだろう。緊急事態でなければ良いのだが……。

 携帯を開いて画面を確かめる。
 彼の英会話の鍛錬を兼ねて、コウイチとのメールのやりとりは全て英語で行っている。最近はアメリカから留学中の友だちに教えてもらいながら打っているらしく、だいぶ表現がこなれてきた。

『とっておきのレアな画像をお届けします。学校の文化祭の衣装合わせの写真です。サクヤさんにも送ったけど、せっかくだからランドールさんにも』

 添付された写真を開いた瞬間、思わず口元がほころんだ。
 ああ、確かにこれは滅多に見られないな。良いものを見せてもらった。

「……社長?」
「ん?」

 ふと我に帰ると、秘書が手元をのぞきこんでいた。彼女の黒い瞳はじっとランドールが手にした携帯の画面に注がれている。

 普段結い上げている黒髪をおろし、風船みたいなパフスリーブにぽんっとパラソルみたいにふくらんだスカートの水色のワンピースに白いフリルのたっぷりついたエプロンを身につけたヨーコの写真に。

 しまった!

 きらりとシンディの目が光る。獲物を狙うハンター、いや女豹の目つきをしていた。

「まあ、愛らしい。アリスですね」
「あっ、こら、人のメールを勝手に……」
「このチャーミングな女性はどなたです?」

 慌ててランドールは携帯を閉じて胸ポケットに突っ込んだ。シンディは可愛いもの、きれいなものに目が無いのだ。
 果たして、愛想のいいスマイル全開でこっちを見ている。この笑顔に騙されてはいけない。女豹は確実に狙いをつけている。一見優雅に立っているだけ、しかしその実、いつでも飛びかかれるよう、秘かにしなやかな四肢に力を貯えている。

「社長? ……どなたですの?」
「うっ……。……わ、私の大切な友人だ。だから駄目だぞ、絶対駄目だ」
「まだ何も言ってませんわ……。残念…お友達では、ね」

 やれやれ、と胸をなでおろす。危ない所だった。
 ゲイの社長とレズビアンの秘書、性的嗜好こそ異なるものの互いの趣味主張を尊重し、なおかつ堅い信頼関係で結ばれた二人の間には協定が結ばれていた。
 いわく、お互いの友人、親族にはちょっかいを出さない、と。

「それ……で。何か、君、私に何かたずねたい事があったんじゃなかったかな?」

 ひと呼吸置いて付け加える。

「ビジネス上のことで」
「ええ、午後からの会食の件ですが」
「…………あれ。今日だったかな?」

 ああ、やっぱり忘れていた。しかもこの人ときたら、あの東洋のアリスに見とれて私の話を聞いていなかったのね!

「社長」
「何だい?」
「何度も申し上げますが、貴方の取り柄は顔。そのハンサムな顔なんです」

 腰に手を当てると彼女はくいっと顎をそらし、斜向かいから雇い主の顔をねめつけた。

「社交くらい真面目にやって下さい」

 しまった。
 薮をつついてヘビを出したか。
 ランドールは本日二度目の舌打ちをした。あくまで心の中で。くれぐれも美人秘書には聞こえぬように、悟られぬように。
 そして素直に首を縦に振る。

「OK、シンディ……真面目に仕事するよ」

 シンディは艶やかにほほ笑むと、どさりと。デスクの上に大量の書類を積み上げたのだった。

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