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2010年2月の日記

【4-16】本のお医者さん

2010/02/17 0:25 四話十海
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【4-16-0】登場人物

2010/02/17 0:28 四話十海
  • より詳しい人物紹介はこちらをご覧下さい。
 
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【結城朔也】
 通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。23歳。
 癒し系獣医。お酒を飲むとぽわっと頭にお花が咲く。
 サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
 中味はしっかり男性なのに、何故かやたらと女の子に間違えられるのが悩みの種。
 ふんわりした笑顔と細やかな心遣い、しとやかな立ち居振る舞いで無自覚にあちこちで殿方を撃墜している。
 古本屋のエドワーズさんもくらくら。

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【エドワード・エヴェン・エドワーズ/Edward-Even-Edwars】
 通称EEE、英国生まれ、カリフォルニア育ち。
 濃いめの金髪にライムグリーンの瞳。
 元サンフランシスコ市警察の内勤巡査でディフとレオンの友人。
 現在は父親から受け継いだ古書店の店主。やや引きこもり気味。
 飼い猫のリズは家族であり、よき相談相手。
 サリー先生のことが何かと気になるものの、バツイチな自分に今ひとつ自信の持てない36歳。
 テリーがサリーの彼氏だと誤解している。
 
【リズ】
 本名エリザベス。
 真っ白で瞳はブルー、手足と尻尾に薄い茶色の混じるほっそりした美人猫。
 エドワーズ古書店の本を代々ネズミから守ってきた由緒正しい書店猫で、エドワーズのよき相談相手。
 6匹の子猫がいるが、それぞれもらわれて行った。
 末娘のオーレはオティアの元へ。
 
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【テリオス・ノースウッド】
 通称テリー。熱血系おにいちゃん。
 栗色の髪にターコイズブルーの瞳。
 獣医学部の大学院生、専門はイヌ科。
 サリーの大学の友人だが周りからは彼氏と思われているらしい。
 基本的に面倒見が良く、女の子に甘い。
 早くに両親を亡くして里親の元で育ったため、血のつながらない兄弟や姉妹が大勢いる。
 
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【ミッシィ】
 本名シルバ。アルメニア系移民の娘で5歳。
 テリーの実家に里子として引き取られた。
 くりくりした黒髪に、ぱっちりしたアーモンド型の瞳、浅黒い肌。
 本の好きな物静かな女の子。
 ミッフィーが大好き。
 
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【シエン・セーブル/Sien-Sable】
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 今回、出番が無いのは、4-13〜4-15と同時期の出来事を別視点で描いたお話だから。
 
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【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 外見はほぼシエンと同じ。飼い猫のオーレはエドワーズ古書店の猫、リズの娘。
 シエンと同じく今回出番無し。
 
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【レオンハルト・ローゼンベルク/Leonhard-Rosenberg】 
 通称レオン
 弁護士。ヒウェルとは高校時代からの友人。27歳。
 ライトブラウンの髪と瞳、身長180cm、着やせするタイプで意外と筋肉質。
 一見、温厚そうな美人さん、実は腹黒。実家は金持ちだが家族への情は薄い。
 ディフの旦那で双子の『ぱぱ』。
 爽やかな笑顔の裏で実はかなりの激情家。
 ビリヤードはやるより見る方がお好きらしい。
 
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【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヒウェルとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 裏表のない直情家、世話好きでおせっかいな熱血漢、時々天然。
 レオンの嫁で双子の『まま』。
 エドワーズは昔の同僚。と言うか、10歳上の先輩のはずだが思いっきりタメ口。
 
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【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 職業はフリーのジャーナリスト。黒髪にアンバーアイ、眼鏡着用。
 最近、すっかり一人でご飯を食べるのが寂しくなった26歳。
 レオンとディフとは高校時代からの友人。
 エドワーズ古書店の常連客。
 ビリヤードが得意で、学費の半分はこれで稼いだと言うが……
 公式の試合の賞金なのか、賭けでせしめた金なのかは不明。
 
illustrated by Kasuri

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【4-16-1】ミッシィの絵本

2010/02/17 0:29 四話十海
 
 太陽に愛された浅黒い肌に、天然アイラインに縁取られたくりっとした瞳、くるくるウェーブのかかった黒い髪。

 いかにも快活そのものの外見とは裏腹に、ミッシィはおとなしい、控えめな少女だった。
 本当の名前はシルバ。だけどみんなからはミッシィと呼ばれている。
 ご飯の時も、おやつの時も、食べ始めるのは一番最後。窓際のチューリップ模様のラグの上で、お気に入りの絵本を読んですごすのが大好き。

 家族以外の人とはほとんど話さない。だけどちっとも寂しくはない。ミッシィには兄弟がたくさんいたからだ。

 お休みの日になると、たくさんのお兄ちゃんやお姉ちゃんが帰って来る。その中でも、テリーお兄ちゃんが一番大好きだった。
 初めて会ったのは去年の5月。まだお家に来てからいくらも経っていなくて、ミッシィは一人でぽつんと部屋のすみっこにうずくまっていた。

 彼女がそれまで住んでいた場所は、狭くて、暗くて、誰も彼もが不機嫌で、大声で怒鳴ってばかりいた。いつも周囲をうかがい、ちょっとでも大きな音がするたびに、逃げた。大人の入ってこられない狭い隙間に縮こまり、じっと息を潜めていた。
 だからこの家に来た時、ミッシィはすっかり怯えて自分の名前すらろくに口にできない状態だった。
 そんな彼女が本棚の絵本を見て、始めてしゃべった記念すべき瞬間に居合わせたのがテリーお兄ちゃんだった。

「……みっしぃ」
「ミッシィか」
「みっしぃ」

 久しぶりに声を出した。うまく舌がまわらず、口も動いてくれなかったけど、お兄ちゃんはちゃんとわかってくれた。

「ほら」

 黄色い太陽、オレンジ屋根の家、藍色の空、そして白いウサギ。おくちがばってん、おめめは点。大好きな絵本を本棚から持ってきてくれた。
 ディック・ブルーナーの「ミッフィー」の絵本を抱えて、ミッシィは初めて笑ったのだった。

 この白いちっちゃなウサギが少女の心を開くとわかるや、両親と兄姉たちはこぞってミッフィのグッズを集めることに奔走した。
 1コインショップにあると聞けば市の反対側にも買いに行き、フリーマーケットでは常に黄色とオレンジに反応し、懸賞プレゼントに応募する。針と糸、フェルトの布を駆使して手作りにも挑戦した。
 以来、ミッシィのあらゆる持ち物には「ミッフィー」がついている。マグカップもミッフィー。手提げバッグも、毛布もミッフィー。

 努力の甲斐あって、ミッシィは夏が終わる頃には見違えるほど表情豊かな少女になっていた。しかしながら依然として口数は少ないままだった。
 ミッフィーの絵本には、ほとんど文字がないのだ。

 だが感謝祭の里帰りでテリーは劇的な変化を目にした。

「おにいちゃん!」

 にこにこしながらミッシィが走ってきたのだ。両手にしっかりと大きな絵本をかかえて。

「これ読んで」
「OK!」

 床にあぐらをかいて座ると、ミッシィはちょこんと膝に乗って来た。明らかに慣れている。ここ数ヶ月の間、何度もこうして絵本を読んでもらったに違いない。

「竜の子ラッキーと音楽師、か……」

 その絵本はもうずっと長い間、この家の本棚にあった。だけど、文字が多く、また、絵も丹念に描き込まれていて小さな子どもが読むにはちょっと難しい。少し大きな子は『絵本なんて子どもの読むものだから』と見向きもしない。
 ひっそりと忘れられていたこの絵本が、ミッシィの心を釘付けにした。

「これ……なんて読むの? これは何?」
「どうして、この人は泣いてるの?」

 たずねる事で、家族と話すようになった。打ち解けた。文字を覚え、言葉を覚え、語彙もどんどん増えて行った。
 ミッシィにとって、その絵本は「世界の入り口」だったのだ。
 もう大丈夫。誰もがそう思い、安堵した。

 ところが、世の中そう上手くは行かないもので……。
 一月のある日、テリーは養母から電話で呼び出された。

「テリー。あなた、最近忙しい? ちょっとでいいから顔出しに来られない?」
「どうしたんだ、母さん。何かあったのか?」
「ミッシィがね。この間、庭で転んでしまって……元気がないの。あの子、あなたに懐いてるから」
「まさか、怪我したのかっ」
「いいえ、あの子は無事よ。ただ……ね……」

 大急ぎで養父母の家に飛んでいったテリーが見たものは、窓際のラグの上にうずくまるミッシィの姿だった。

「ミッシィ?」

 声をかけると、よろよろと顔をあげた。大きな黒い瞳に涙をいっぱいにためていた。
 腕にしっかりと、「竜の子ラッキーと音楽師」の絵本を抱えている。

「おにいちゃん……」

 小さな手のひらから、ぱらりと色鮮やかなページがこぼれ落ちる。
 転んだ拍子に古い絵本は地面に叩きつけられ、バラバラになってしまったのだ。

「絵本、壊れちまったのか」

 ぽろっと、黒い瞳から涙が一粒、流れた。

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【4-16-2】絵本を探して

2010/02/17 0:32 四話十海
 
 カリフォルニア大学サンフランシスコ校には学食がない。だが、周囲にそれを補って余りある数のカフェが軒を連ねている。値段も、料理の量も、学生たちに合わせてたっぷり、かつリーズナブル。
 そして、学生のみならず近所の人たちもまた、存分にこのカフェの恩恵に預かっていたのだった。
 だれしも必ず一軒か二軒はお気に入りの店がある。ふらっと気軽に訪れては、自宅から持参したマグにお気に入りの飲み物を満たしてもらうのだ。

 テリーもそうだった。
 さすがに自宅はマグを片手に歩いてくるには遠いので、もっぱら大学の研究室に置いてあるのを持ち歩くことにしている。今のお気に入りはロイからもらった漢字のプリント入りだ。取っ手はついていないがしっかりと厚みがあり、直に持っても熱くない。
 クリスマスに世話になったお礼に、と送られてきた。黒地に白で、筆で書いた漢字が一文字、どん! とプリントされている。
 なかなかにシンプルでかっこいい。
 サリーから「忍」と言う字だと教えてもらった。ニンジャを意味すると聞いて、なおさら気に入った。

 この日も行きつけのカフェに入って行き、ニンジャマグをとん、とカウンターに置いた。

「カプチーノの大一つ、エスプレッソ1ショット追加で泡少なめに」
「OK!」

 並々と注がれた泡立つラテをこぼさぬよう、慎重に歩を進める。日当たりのよいテーブルに友人がちょこんと腰かけていた。

「よっ、サリー。もういいのか、体調」
「うん……心配かけてごめんね」
「いいって、もう慣れてるし」

 毎年、年末年始に日本に帰省するたびにサリーは寝込む。アメリカに戻ってから2〜3日したあたりで電池が切れて、ばたっと倒れるのだ。
 最初の年こそ驚いたが、さすがに今では慣れてきて。だいたいそろそろだな、と思った時期にサリーのアパートに顔を出し、看病するのが休み明けの恒例行事となっていた。

「里帰りしても、ぜんぜん休んでないもんな、おまえの場合」
「一番、忙しい時期だからね。今年は風見くんやロイが手伝いに来てくれたから助かったよ」
「あー、見た見た、あの写真な! 赤いハカマ着てたやつ。あれ不思議に思ってたんだけどさ」
「何を?」
「どうしてコウイチのハカマだけ、緑なんだ?」
「それは……その……」

 サリーはそっと目をそらした。本当は男性はあっちの色なのだけれど。
 自分はともかくロイまでもが赤い袴を履いてる理由をここで説明した所で、果たしてテリーがどこまで理解してくれるかどうか。

「二種類あって、好きな方を選ぶんだ」
「なるほどー。そう言うシステムなのか」

 納得しちゃったらしい。
 ただでさえアメリカでは選ぶことが多い。水一杯飲むにしてもガス入りかガス無しか。サンドイッチは白パン、ライ麦パン、それとも全粒粉? ホットドックにフライドオニオンはつける? ケチャップは? マスタードは?
 ヨーグルトはプレーン? バニラ? それともレモンシフォン? レモンメレンゲ?
 それに比べればハカマの色の選択なんて些細なものなのだ、多分。きっと。

 そらした目線の先に、テリーのノートパソコンが置いてある。銀色の筐体の表面に誇らしげに千社札が貼られていた。

『照井』

「あ……」
「あー、これな! クリスマスに土産にもらったネームシール。かっこいいよな!」
「そ、そう……気に入ってくれてよかったよ」

 微妙に複雑な気分がしないでもない。
『照井』の千社札をパソコンに貼り、『忍』の湯飲みに満たしたラテをすするテリーの姿は、日本人から見ればものすごく……エキゾチックと言うか。
 はっきり言って、変だ。
 自分で入手したのではなく、どちらも人から贈られたものだと言うあたりが余計に、こう……。

 ……ま、いいか。
 あんなに喜んでくれてるんだから、OKってことにしておこう。

「サリー。おいサリー!」

 ぽん、と肩を叩かれ、顔をのぞきこまれた。

「大丈夫か? まだ本調子じゃないんじゃないのか?」
「大丈夫だよ」
「そっか……じゃ、ちょっと相談したいことがあるんだけど、いいか?」
「うん、俺にできることなら」
「サンキュ!」

 テリーはごそごそとポケットから携帯を引き出した。表面に引っかき傷が何本もついている。まるで鋭い歯で噛んだり、爪で引っかいたりしたような跡が。

「妹が大事にしてる絵本が壊れちゃったんだ。この本」

 携帯の画面には、ばらばらになった絵本が写っている。

「わあ、見事にばらばらだね」
「転んだ時に地面に落っことしてさ。表紙から中身が外れて、全部のページがばらけちまった」

 表紙には赤と青の服を着て、羽飾りのついたつばひろ帽子を被り、ハープを抱えた若者が紐でつないだ動物と歩いている絵が描かれていた。
 小型犬ほどの大きさだけど、翼が生えている。
 サリーは目をこらしてゆっくりと本のタイトルを読み上げた。

「竜の子ラッキーと音楽師……これ、ドラゴンなんだ」
「うん。ミッシィの……あ、妹の名前な。その子のお気に入りなんだ。どこに行くにも抱えて離さない。あの子にとってはお守りみたいなものなんだ」

 テリーの妹と言うことは、つまり、事情があって親から離れて暮らさなければいけない子どもなんだ。そんな子にとって、絵本一冊と言えどもどんなに心の支えとなることか。
 お守りを無くしたミッシィが、どれほど心細い毎日を送っているか。想像しただけで胸がきゅっと締めつけられる。

「ホッチキスで綴じても、テープで貼り付けてもどうにかなるようなレベルじゃない。新しいのを買ってやろうにも、絶版しててさ。ネットでも売り切れてるし、市内の店、どこ探しても見つからなくて」

 テリーは深い深いため息をついてうつむき、湯飲みをじっとにらんだ。まるで泡立つミルクの底に解決法が沈んでるんじゃないかとでも言わんばかりに。

「あの子、さ。壊れた絵本を離さないんだ。大事そうに抱えて、床の上にじーっとうずくまてった……」

 小さく首を左右に振り、ぞ……とラテをすすった。

 どうにかして力になりたい。テリーと、彼の小さな妹のために。
 絶版した古い絵本はどこを探せば良い?

(コロンコローン……)

 耳の奥に穏やかなドアベルの音色が響く。白い優雅な猫のいる、砂岩作りの静かなお店。流行りの音楽も無し、派手なポップもポスターも無し。本と好きなだけ向き合える、心地よい空気と時間の約束された場所。
 だけどクリスマス以来、何となく顔を合わせるのが気まずくてエドワーズ古書店から足が遠のいている。

(彼を巻き込んでしまった)

 縦に割れ裂けた金色の瞳。闇にひらめく山羊の角。
 悪夢の一夜の明けた翌朝、頬に点々と貼り付けられた白い絆創膏が頬を過る切り傷を押さえていた。
 怪我の具合はもういいのだろうか? 心配だったけれど直接確かめに行けず………

『エドワーズさん、元気?』
『ああ、元気だよ』

 ディフにたずねるのが精いっぱいだった。何故か途中でヒウェルが割り込んできたけれど。

『グリーンティーのケーキ、喜んでたよ。なんかイブの前の夜に教会に入った強盗追っ払ったって言ってた。見かけによらずけっこう強者なんだな、彼』
『何だ、知らなかったのか。あいつ警棒持たせると署内でナンバー1だったんだぞ?』
『そう、なんだ……』

 うん、よく知ってる。押し入ったのが強盗じゃないことも。

(エドワーズさんは、あの時助けた迷子が自分だったとは想像すらしていないだろうけど……)

「ちょっと待ってね」

 サリーは携帯を取り出した。

「ヨーコさんに聞いてみる」
「え、ヨーコに?」
「アメリカでは見つからなくても、日本だと見つかるかもしれないし……そう言うの、詳しいから、彼女」
「そうか」

 電話をかけると、果たしてすぐに出てくれた。まるで待ちかまえてたんじゃないかと言うくらいのタイミングで、可及的速やかに。

竜の子ラッキーと音楽師? 確かに岩波書店から翻訳が出てたけど……こっちでも絶版してるんだわ」

 即答。

「そっか……」
「ねえ、サクヤちゃん。エドワーズさんとこ行ってみたら? あそこ絶版本の宝庫だよ」
「うん……そうだね」

 何でわざわざヨーコちゃんに相談したりしたんだろう? どんな答えが返ってくるのか、わかり切ってたはずなのに。

「行ってみるよ。ありがと」

 電話を切り、携帯を閉じる。

「テリー」
「やっぱ、日本でもダメだったか?」
「うん。でも、市内で見つかりそうなお店……心当たり、あるんだ」
「ほんとか! どこだ?」
「エドワーズ古書店。オーレのお母さんのいる所」
 
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【4-16-3】薔薇の名はサリー

2010/02/17 0:33 四話十海
 
 とろりとした水の中でもがく。浮かびかけてはまた沈み、沈んではもがいてまた浮かぶ、その繰り返し。
 いったい自分は底に潜りたいのか、水面に浮かびたいのか。どちらにも行けず、ひきつれた苦々しさの中、徐々に視界が明るくなって行く。
 ちっともやすらげぬまま、眠りが終わろうとしていた。

「む……」

 まぶたの裏に、白い光が当たっている。どうしたことだろう。今の季節、まだ朝の五時には日が昇らないはずなのに。この明るさは、まるで……
 うっすらと目をあける。壁にかかった時計に焦点が合った瞬間、エドワード・エヴェン・エドワーズはがばっと跳ね起きた。

「7時!?」

 胸のあたりに寄りそっていた柔らかな温もりがもぞりと身動きし、にゅっと顔を挙げる。

「ああ、リズ、すまない。驚かせてしまったね……」

 何と言うことだ。よりによって居間のソファで寝てしまったのか。服も着替えず、タイをゆるめただけで。
 しかもローテーブルの上には、昨夜飲んでいたグラスとウィスキーの瓶が出しっぱなしになっている。
 冷え込みの厳しい夜だった。最初の一杯は、体を暖めて寝つきをよくするためにお湯で割っていたはずなのだが。
 一杯が二杯になり、三杯、四杯目あたりからはストレートで流し込んでいた。

「だめな飲み方だな……」

 起き上がると体の節々がきしんだ。
 やれやれ、飲んだくれてソファで雑魚寝とは。だが思ったより寒くなかった。リズがずっとあたためていてくれたのか。

「心配かけてしまったね、リズ」
「み」
「ありがとう」

 手のひらにすり寄せられる、華奢な三角形の顔をなでる。鼻から目、額、耳、そして首筋へとなめらかに指がすべる。
 テーブルの上のコップにはオレンジ色の薔薇が一輪、白い冬の朝日を浴びている。
 バーナード父子の顔を見に立ち寄った花屋で見つけてしまった小さな薔薇。品種と値段を記した手書きの札に目が釘付けになり、店を出る時、一輪だけ買い求めた。
 コップに活けた薔薇を眺めつつ、グラスを傾けているうちについ、杯が進み……
 意識が混濁するまで飲み続けてしまったのだった。

 薔薇の名を「サリー」と言う。

 今日で何日、あの人に会っていないだろう? 去年の秋に一度この店を訪れて以来、週に一度は顔を見せてくれていたのに。
 それがクリスマスを過ぎて以来、ふっつりと足が途絶えた。新年は日本に帰っているのだとマックスから聞かされた。実家の家業が忙しいから、手伝うために。

『サリーとヨーコの実家はジンジャなんだ。正月は戦争なんだと』
『ハロウィンの警察といい勝負らしい』

 ジンジャが新年に何をするのか、具体的にはよくわからないが、とにかく忙しいと言うのは察しがついた。
 しかし、一月に入ってもはや二週間目。さすがにそろそろサンフランシスコに戻って来ているのではないか……。
 思い巡らせつつシャワーを浴びて、ヒゲを剃る。洗面所の鏡に映る自分と目が合った。
 
(……ひどい顔だ)

 どこに押し付けたものか、顔にくっきりと線状の痕がついている。肌も張りを失い、たるんでるように見えた。
 たかだか一晩、酔いつぶれて転た寝しただけでこうもくっきり顔に出るとは。認めたくはないが、歳月の重みは確実に体のそこかしこに影を落とし始めている。

(もう若くはない。己の体力を過信してはいけないと言うことか……)

 バスローブを羽織ったまま三階の寝室に上がり、下着からシャツまで全て、洗いたてのものに取り換えた。
 ぱりっと糊の利いたシャツに支えられ、背筋が伸びる。身支度を整えるとキッチンに降りて、リズの朝食を用意する。

(そう、これは何を置いても最優先!)

 ローテーブルの上の酒盛りの残骸を撤去し、今度は自分の朝食の準備にとりかかる。
 まずは湯を沸かし、熱い紅茶を入れる。いつもより濃いめに。
 イングリッシュマフィンにバターとメープルシロップをたっぷりつけてこんがり焼いた。卵とベーコンは……さすがに胃にもたれそうなので省略。
 うれしいことに、腹に物が入ると霞のかかっていた意識がしゃっきりしてきた。まだこの程度の体力は残っていてくれたらしい。
 ひそかに感謝しつつ、庭に出て霜や氷の被害が出ていないかチェックした。
 いつもの年なら、思い出したようにぽつり、ぽつりと花をつける株もあるのだが、さすがに今年は見当たらない。
 寒さに強いはずの椿さえ、霜に打たれて花びらが茶色く変色していた。
 今年の寒波は異常だ。レモンが木になったまま凍りついたと言う話も聞く。それに比べればまだ、己の庭の被害は微々たるものだ。
 黒く朽ちてしまった葉を丁寧に取り除き、中に戻って開店準備にとりかかる。

 よろい戸を開け、扉の札を「Open」に。ノートパソコンを開く……前にまず携帯を開き、写真を一枚呼び出した。
 これで何度目だろう。もう、何回ボタンを押せばいいか指がすっかり覚えてしまった。
 
 
 ※ ※ ※
 
 
 先週、マックスが差し入れを持ってやってきた。献立はしっかり中味の詰まったミートパイ。赤みのひき肉を使い、野菜もきちんと練り込まれている。

「すっかり料理の腕が上がったね」
「食ってもいない内から言うな。慣れだよ、慣れ!」

 ぶっきらぼうな物言いでぷいとそっぽを向き、わずかに頬を染めて髪の毛をくしゃくしゃかきあげる。照れた時のお決まりの仕草だ。

「それと、こっちはオーレの写真な」
「ははっ、いい顔をしてるね」
「何故か本棚に潜り込むの好きなんだよな、あいつ。本屋育ちだからか?」
「ああ、ちっちゃい頃は六匹そろって本棚に詰まっていたよ」
「……こんな風に?」
「ああ、ちょうどそんな感じだね」
「こっちはもっとすごい格好してるぞ」
「……っ!」

 がっしりした手の中の携帯電話。その画面にずらりと並ぶ画像の一枚に目が吸い寄せられてしまった。

(サリー先生が、二人っ?)

「マックス……その写真……」
「ああ、これか。ヨーコからもらったんだ。ジンジャの正月の写真だと」

 サムネイル表示から大きな画像へと切り替わる。
 白い着物と赤いハカマを身に付けたサリー先生が映っていた。同じような服装の少年、少女たちと一緒に。

「あ、ああ……こっちはMiss.ヨーコか……」
「傑作だろ? こうして見ると双子みたいだよな、この二人」
「そうだな……何とも愛らしい人だ」
「え?」
「い、いや、愛らしい人たちだね、うん。それで、その、マックス」
「何だ?」
「よかったら、その、転送してもらえるかい?」
 
 意を決して頼んでみた。
 ちょっとの間マックスはきょとんとしていたが、すぐに納得したらしい。

(そうだよな、EEEはヨーコともサリーとも知りあいだ。コウイチやロイとも面識がある)
(それに最近、やけに日本の文化に興味があるみたいだし……)

「ああ、ちょっと待ってろ」

 その場でMiss.ヨーコに電話をしてくれた。

「ハロー、ヨーコ? うん、元気だよ。実は君が正月に送ってくれた写真な。あれ、EEEが欲しいって言ってるんだ」

 直球すぎる言い方に一瞬、心臓が冷えた。
 写真が欲しいって、マックス、そんな、ストレートに! さすがに変に思われないだろうか?
 だが、彼女は快く承諾してくれた。

『エドワーズさんが? OKOK。問題ないよ』

 かくして、青い瞳の白い子猫の写真と一緒にサリー先生の写真が彼の携帯に転送され、大事に保存されたのである。

 改めて手の中の携帯に見入る。
 確かにこの二人はよく似ている。サムネイル画像を目にした瞬間、サリー先生が二人いるのかと思ったくらいだ。
 だが、それは写真だから感じることだ。実際に二人並んでいる所を見れば、たとえ同じ服装、髪形でもすぐにわかる。
 声の奏でる旋律、まとう空気のカラー、まなざしの柔らかさ。確かに似てはいるが、サリー先生を見分ける自信はあった。
 
 ときめいちゃった相手が男でした。
 そっくりの従姉がいます。乗り換えますか?

 そんな単純な問題ではないのだ、断じて。

 とん!
 しなやかな白い体がカウンターに飛び乗ってきたと思ったら、冷たい鼻がにゅっと手首に押し当てられる。
 リズだ。
 はっと我に返る。
 携帯を閉じるか、閉じないかのうちドアベルが鳴った。

 コロロンコローン……。

 慌てて背筋を伸ばす。朝一番のお客さまだ。気を引きしめてお迎えしなくては。

「いらっしゃいませ」

 ドアをくぐって入ってきたのは……

「こんにちは、エドワーズさん」
「サリー先生!」
 
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【4-16-4】若気の至り

2010/02/17 0:34 四話十海
 
 つややかな黒髪、おだやかな光をたたえた黒い瞳、そしてなめらかな琥珀色の肌。ついさっきまでは小さな写真でしかなかった人が今、目の前にいる。
 エドワーズの心臓は文字通り「どっくん!」と音を立てて跳ね上がった。
 一瞬、胸がいっぱいになって言葉が出てこない。ただ頬が緩み、目を細めていた。あふれ出すあたたかな感情を、隠さねばと考えることすら忘れていた。ふさふさと豊かなまつ毛が一瞬下がり、また上がる。そしてサリー先生は……

 ほほ笑みを返してくれた。
 カリフォルニアらしからぬ凍てつく冬をつかの間忘れる。
 デイジー、ポピー、ワイルド・マスタード。土の温もりを吸い込み花開く、春の野にも似た温もりに包まれる。

「…………」
「…………」

 心地よい静寂の中、ただ見つめあう。たっぷり2秒ほど。

「にゃー」

 優雅に身をくねらせ、リズが横切った。その瞬間、凍っていた時間が溶けた。

「こんにちは、リズ」
「みゅ」
「あー……その……サリー先生」
「はい?」
「新年おめでとうございます」
「……おめでとうございます」

 ああ、何を間の抜けたことを言ってるんだ。もう今日は17日じゃないか! とっくに新年のお祭り気分なんか抜けている。

「今日は、お早いお越しですね」
「勤務は午後からのシフトなので……」
「うー、寒かったぁっ」

 サリー先生に続いて、背の高い若者が入ってくる。褐色の髪に、ターコイズブルーの瞳。

『俺たち付きあってます!』

 ……彼だ。名前は確か

「あ、彼は大学の友達で、テリーって言います。テリー、こちらがエドワーズさんだよ」
「ども」
「こんにちは、テリーさん」

 丁寧に挨拶し、控えめに問いかける。

「今日は何をお探しですか?」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 店に入った瞬間、サリーはとっさにエドワーズの頬の怪我を確かめていた。もう絆創膏は貼っていない。うっすらと線が残っているだけだ。じきにそれも消えるだろう。

(良かった……)

 出迎えてくれた瞬間の笑顔。いつも控えめで物静かな紳士が、まるで子どものように素直に、顔いっぱいに笑み崩していた。ちらりと口元から白い歯までのぞかせて。

(今日は機嫌がいいんだ)

 ごく自然に笑み返していた。ずっと胸の中に居座っていたわだかまりが、日の光に溶ける雪玉のようにすうっと小さくなった。
 どうしてためらっていたのだろう?
 もっと早くに来ていれば良かった。

「にゃー」

 リズの声に我に返る。

「うー、寒かったぁっ」

 そうだ、テリー。今日は彼のために来たんだった。

「あ、彼は大学の友達で、テリーって言います。テリー、こちらがエドワーズさんだよ」
「ども」
「こんにちは、テリーさん……今日は何をお探しですか?」
「絵本を探してるんです。竜の子ラッキーと音楽師って言う」
「竜の子ラッキーと音楽師……」

 カチャカチャとパソコンのキーに指を走らせている。

「ローズマリー・サトクリフの絵本ですね。あれは美しい本です。残念ながら絶版ですが」
「そう、そうなんだ! あるのか、この店にっ!」
「あいにくと、当店の在庫はありませんが、知りあいの店に尋ねれば手に入るかもしれません」
「頼む。妹の大事な本なんだ。落っことした拍子に壊れちまって!」

 テリーはぐっと身を乗り出した。ターコイズブルーの瞳に真摯な光がみなぎっている。

(なるほど、そう言う事情があったのか)

 エドワーズはうなずいた。

(おそらくまだ小さな女の子なのだろう。よい兄さんだな。妹のためにこんなに一生懸命になって……)

「テリーさん。その、壊れた絵本なのですが、破けたり、濡れたり、焦げたりしてしまったのですか?」
「いや……こんな状態なんだ」

 開いた携帯には、ばらばらになった絵本が写っていた。顔を寄せ、つぶさに状態を観察する。この小さな写真では詳細はわからないが、どうやら綴じ糸が切れてしまったらしい。
 このレベルの破損なら、修復できる。

「これなら、直せますよ」
「ほんとかっ?」
「ええ、装丁のしっかりした本ですし。小さなお子さんにとってのお気に入りの一冊なのでしょう? でしたら、新しい本では代わりになれないものです」
「そう、そうなんだよっ」

 カウンター越しにさらに身を乗り出し、ぎゅっと両手でエドワーズの手を握った。あまりの熱血ぶりに気圧され、握られた強さに体が揺れる。

(おっと)

「その方が、ミッシィも絶対喜ぶ! あの子が大事にしてるのは、正にこの一冊なんだ!」

(これが若さか……)

 さすが二十代。熱い。

「では一度、店に持ってきていただけますか?」
「わかった。持ってくる!」
「……テリー……」
「あ……」

 ようやく、自分のしていることに気付いたらしい。顔を真っ赤にして手を離し、乗り出していた姿勢を元に戻している。

「す、すみません、つい」
「いいえ……」
「あのっ、他にも子ども用の本とかあったら買ってきたいんですけどっ」
「こちらの棚が児童書コーナーになっております」
「おー。ちょっと見せてもらっていいですか?」
「どうぞ、ごゆっくり」

 そんな二人を、サリーはにこにこしながら見守った。

(良かった、二人とも気が合うみたいだ……あれ?)

 エドワーズさんの耳たぶに、ちかっと何かが光った。

(何かついてる?)

 開店直後にこの店を訪れるのは、始めてだった。部屋の中に差し込む太陽の光線の角度が、いつもとは微妙に違う。
 今までついていたのか、それとも、光の加減で初めて気付いたのか。

(セロテープ……じゃないよね……絆創膏?)

 首をかしげつつ、ついまじまじと見てしまう。視線を感じたのか、エドワーズが振り返り、目が合ってしまった。

(あ……)

 どうしよう。じろじろ見るなんて失礼だ。わかっているのに、目がそらせない。穏やかなライムグリーンの瞳に吸い込まれそうだ。
 ふっとエドワーズが目元を和ませた。

 何故だかその時、サリーは思ったのだった。
 ああ、これでいいんだ、と。

 コロロン、コローン……

 ぎぎぃいいとドアがきしみ、ドアベルが(何故か)不気味に響く。リズが耳を立ててぴっと入り口をにらんだ。

 ゆらぁり。

 うすっぺらなトレンチコートをはためかせ、ゾンビが一体よろよろと入ってきた。
 生気の抜けた細い顔に眼鏡を引っかけて、薄汚れたレンズの奥で血走った目をしょぼつかせ、ぼさぼさの長い黒髪を首の後ろでたばねている。

「……ヒウェル?」
「あ……サリー……おはよう」

 さわやかな朝の挨拶も、地の底から響くような声で言われると何故か不気味だ。

「おはようございます」
「……よ、ヒウェル」
「やあ、テリーもいたのかー……」
「ぼろぼろだな。どーした?」
「うん……ずーっとかかりっきりになってた仕事がよーやく終わってさ……」

 眼鏡ゾンビは目をしばたかせ、ふわぁ……と生あくびを一つ。

「久しぶりに生きた人間と話したくて、上に行ってみたんだけど」
「………だれもいなかったんですね」
「うん。レオンもディフも、オティアもシエンもみんな出勤してた……」

 店内の椅子に腰をおろしてがっくりと肩を落とした。

「オーレも………」
「ああ。それは寂しいですね」

 エドワーズの言葉に、眼鏡ゾンビはがばっと顔をあげた。

「一人暮らしだと、なかなか人としゃべる機会がありませんから。私もつい、リズに話しかけてしまう」
「Mr.エドワーズ……」
「時々、だれかと話したくてつい、用事も無いのにふらりと買い物に出る事も……」
「そう、そうなんだよっ!」

 ヒウェルはしぱしぱとまばたきすると、血走った目をうるっと潤ませた。思わぬ所から同意を得られて、よほど嬉しかったらしい。

「しばらく、そこのスタバでコーヒー飲んでたんだけどさ。いくら人通りの多い所にある店でも、なんか、余計に寂しくなってきてっ」
「そうですね。一緒に入る相手がいなければ、結局は黙ってコーヒーをすするしかありませんから」
「うん……空しかった」

 そして、人との会話を求めてこの店まで流れてきた、と。
 それでも収穫はあったらしい。ヒウェルの手には、一束のペーパーバックと古雑誌がしっかりと確保されていた。
 まとめてどん、とカウンターに置く。

「これ全部ください」
「はい、かしこまりました」

 二人の視線が交叉する。さみしい独り者同士、何やら通じ合ったらしい。

「あれぇ?」

 本の値段を確認し、レジを打つエドワーズを見ていたヒウェルが、いきなり素っ頓狂な声をあげた。

「Mr.エドワーズってもしかしてピアスしてます?」

(えっ、ピアス?)

 エドワーズの手が止まる。サリーは思わずまた彼の耳たぶを凝視した。
 意識して見ないとわからないが、確かにある。
 透明なピアスが左右の耳たぶに一つずつ。

「……若い頃にね……」

 エドワーズは苦々しい思いでため息を吐いた。
 十代の頃、安全ピンで開けた耳たぶの穴。かろうじて消毒はしたものの、力まかせにぶっすりと貫き通した。医療用ピアスなど考えもせず、そのままピアスをつけてしまった。
 よく感染症を起こさなかったものだ。思いだすだに背筋が冷える。

「ふさぐにはいささか穴が大きいので、保護用をつけています」
「へえ、けっこう若い頃はやんちゃしてたんだ。意外だなー」

 そうだ、確かに若い頃はバカもやった。ピアスの穴を隠したところで、全てをなかったことにできるなんて、虫のいいことは期待していない。
 だが、よりによってサリー先生の前で言わなくても良いではないか!

「……」

 ぎろり。
 ライムグリーンの瞳が硬質の刃物にも似た鋭い光を放つ。ヒウェルの背中をつすーっと冷たい汗が滴り落ちた。

(あ、もしかして俺、地雷踏んだ?)

「お待たせしました。合計で11ドルになります」
「ちょっと細かくなるけどいい?」
「はい」

 抑揚のない、低い声。口調は丁寧だが、有無を言わさぬ威圧感にあふれている。標的はただ一人。目の前で財布から小銭を引き出している眼鏡ゾンビだ。

「それじゃ、またー」

 袋に入れられた本を抱えて、ヒウェルはすごすごと退散していった。
 ひょろりとした後ろ姿がドアの向こうに消えるのを確認し、エドワーズは本日何度目かのため息をついた。
 深いしわの刻まれた眉間に指先を当ててもみほぐし、そっとサリーの方を伺う。

「保護用、ですか」
「はい」
「じゃあ、今はアクセサリー用のはつけてないんですね」
「そうです」
「お手入れ大変じゃないですか?」
「使い捨てですから……コンタクトレンズのようなものですね」
「なるほどー」

 一向に気にしている様子はない。警戒も、蔑みも。異物を見るようなまなざしで見られることもなかった。
 安堵すると同時にエドワーズは、ひそかに感動に打ち震えた。

(何ておおらかな人だろう!)

「すんません、エドワーズさん。この本ください」
「あ……はい」

 今度はテリーがどんっと、カウンターにうずたかく本を積み上げていた。
 小さい子のための絵本のみならず、小学生向けの童話や小説、図鑑、女の子用の手芸の本もある。

「ご兄弟が多いんですね」
「うん、大所帯なんだ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 丁寧に梱包され、紙のショッピングバッグにぎっしりつまった本を両手にぶらさげて。
 古書店を出ると、テリーはうれしそうに言った。

「エドワーズさんって、いい人だな! 親身になって相談に乗ってくれて。ほんとに本を大事にしてくれる」
「うん……いい人だよ」
 
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【4-16-5】本のお医者さん

2010/02/17 0:35 四話十海
 
 その日の夕方、テリーは山ほどの本を抱えて実家へと向かった。

「ただいまー。お土産だぞー」

 勢いよく玄関を開け、広い広いリビングに足を踏み入れると、わっとちびどもが群がってきた。

「押すな押すな! いっぱいあるから安心しろ! ほら!」

 買う時にちゃんと、これはどの子が好きそうで、どの子が読みたがっているか、顔を思い浮かべて買っていた。
 だから実際、ほとんど取りあいやケンカにはならない。
 ひとしきり配本が終わると、テリーは大股で窓際のラグに歩いていった。
 しぼりたてのオレンジジュースのような夕日を浴びて、ミッシィはぽつんと座っていた。相変わらずばらばらの絵本を抱えて。
 いや、ちょっとだけ状況に変化が訪れていた。
 さすがに剥き出しではページを無くしてしまうし、持ちづらいと考えたのだろう。ミッフィーの手提げ袋に入れてある。

「ミッシィ」

 ぴくっと小さな肩が震え、黒い瞳が見上げて来る。こんなに本の好きな子なのに。真っ先に飛んできてもいいくらいなのに。お土産の本に群がる兄弟たちを見ようともせず、無反応でうずくまっているなんて。

「今日、兄ちゃんな。本屋さんに行ってきた」

 ぱちっとまばたきするが、表情は動かない。

「その絵本な、直してくれるって人がいるんだ」

 ミッシィの胸が上下する。ふるっと身を震わすと深く息を吸って手をのばし、テリーの服の裾をつかんだ。

「でも、そのためには、おまえは自分でその店まで本を持って行かなくちゃいけない」

 黒い瞳におびえの色が浮かび、小さく首を左右に振る。無理もない。幼稚園の行き帰り以外はほとんど家から出たがらない子なのだ。
 テリーは自分もラグの上に腰を降ろしてミッシィと視線を合わせた。

「それは、おまえの大切な本なんだろ? だから自分で本屋さんに持ってって、おまえが自分でお願いするんだ。直してくださいって」
「………」
「できるか?」
「……………………」

 じーっと手提げ袋に入れた絵本をにらんでる。焦ってはいけない。ここは、彼女が決めなければ意味がない。
 テリーは待った。キッチンに続くドアの陰には養父母がたたずみ、静かに見守っている。
 やがて、ウェーブのかかった黒髪がこくっと上下にゆれた。

 張りつめていた空気がゆるむ。

 ミッシィは選んだ。
 決心したのだ。見知らぬ外の世界に踏み出すことを、自分の意志で。

「よし。じゃあ今度のお休みに、兄ちゃんが連れてってやるから。一緒に行こうな!」

 テリーは顔をほころばせ、わしわしとミッシィの頭をなでた。

「あ……」
「ん? 何だ?」
「あ……りがと………」

 破顔一笑。全開の笑顔を浮かべ、テリーは小さな妹を抱きしめた。驚かせないように、そっと。手のひらに小鳥を包むように、慎重に。

「どういたしまして!」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 三日後の土曜日。サリーはテリーの運転する車でテリーの実家に向かった。
 ケーブルカーやバスでの移動は、ミッシィにはまだハードルが高い。本屋さんに行くだけでも既に大冒険なのだ。

「Hi,母さん」
「待ってたわ、テリー。こんにちは、サリー」
「こんにちは」
「今日はよろしくね」
「はい!」
「ミッシィは?」
「仕度はできてるはずなんだけど……あら?」

 窓際のチューリップ模様のラグの上に、ミッシィの姿はなかった。

「ミッシィ! テリーが来たわよ。ミッシィ?」

 きぃい……。
 キッチンに通じるドアがわずかに軋む。テリーはとことこと歩いて行き、ひょいと身をかがめた。

「ミッシィ」

 彼女はそこに居た。オレンジ色のダウンコートを着て、白い手編みのニットの帽子を被り、手にはヒヨコ色の手袋をはめて。全身すっぽり、くまなくもこもこのふわふわに覆われている。

「Hi……おにいちゃん」
「あったかそうだな」
「最近の冷え方は尋常じゃないからね!」

 テリーの母はそっと娘に歩み寄り、首に手袋とおそろいのヒヨコ色のマフラーを巻いた。

「母さん……そんな、一応、車で行くんだし」
「あなたこそ、そんな薄着で大丈夫なの? ちょっとはサリーを見習って、あったかくなさい」

 ぐずぐずしていたら、自分の分の帽子やマフラーも出てきそうな勢いだ。

「ミッシィ、おいで」

 もこもこの黄色い毛糸に包まれた手をにぎり、早々にリビングに移動する。知らない人が立っているのを見て一瞬、ミッシィの動きが止まった。

「ミッシィ、こいつはサリー。俺の友達だ」
「よろしくね、ミッシィ」
 
 ニット帽とマフラーの間から、黒いくりっとした瞳が様子を伺う。

(この人は、お兄ちゃんのお友だち)
(この人は、やわらかい。しずかなこえ)
(この人は、こわくない)

 そろっと手袋をはめた右手が上がる。

「Hi……サリー」

 ……よし。
 その瞬間、テリーと母は心の中で秘かにガッツポーズをとっていた。初対面の相手に挨拶した。快挙だ。幸先いいぞ!

「じゃ、行ってくる!」
「行ってらっしゃい」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「くっしゅん!」

 派手なクシャミにリズが飛び上がり、にゃあー、と一声鳴いた。まさに『God bless you!(お大事に!)』とでも言いたげなタイミングで。

「ああ……ありがとう」
「みゅ」

 ポケットからハンカチを取りだすと、エドワーズは慎重に口元と鼻の周囲をぬぐった。
 困ったものだ。朝からクシャミが止まらない。のどもざらざらしている。ごほんと咳き込むのも時間の問題だろう。
 理由は明白。昨日もつい、リビングでうたた寝をしてしまったからだ。
 仲むつまじいサリー先生と、テリーの姿を見て……ほほ笑ましい、お似合いだと思った。
 しかし。胸の奥に畳み込んだはずの寂しさが、店を閉めて一人になった後になってからほどけて、染み出して。
 オレンジの薔薇を見つめながら、杯を重ねる日が続いている。

 コップに活けた薔薇は、三本に増えていた。満開に咲いたのが一本、咲きかけが一本、つぼみが一本。

「くしゅっ」
「みゃっ」

 しまいかけたハンカチをまた取りだす。
 きりがない。これでは本を汚してしまう……やはり、マスクを着けておこう。使い捨てのマスクを箱から一枚引き出し、顔の下半分を覆う。
 これでよし。

 さて、お客の少ない午前中のうちに修復作業を済ませておこう。
 店の奥の作業場に入り、注意深く手袋をはめた。糊と皮、布のにおいに包まれて慣れた作業にとりかかる。
 慎重に指先を動かしているうちに、いつしか頭や胸の奥に居座っていた重苦しさが次第に薄れて行くような気がした。

 コロロン、コローン……。

 ドアベルの音に、はっと我に返る。
 お客さんだ。作業場を出てエプロンと手袋を外し、店に戻る。

「いらっしゃいませ」
「こんにちは」

 サリー先生だった。
 テリー青年ともう一人、小さな女の子が一緒だ。くりっとしたアーモンド型の黒い瞳に、カフェオレ色の肌。白いもこもこの帽子の下から、ウェーブのかかった黒い髪がのぞいている。
 女の子はこちらをひと目見るなり両の目を見開き、『ぎょっ』とした顔でこっちを見上げた。と、思ったら次の瞬間、ささっとテリーの後ろに隠れてしまった。
 驚かせてしまったらしい。
 サリー先生がちょこんと首をかしげた。

「あの、どこかお加減悪いんですか?」

 その時になって始めて気付いた。マスクをしたままだった!

「失礼、うっかりしていました。本の修復作業中だったものですから」

 マスクをはずし、もごもごと取り繕う。
 
「今日は、何をお探しですか?」
「絵本、持ってきたんだ。ミッシィ!」

 ああ。やっぱりそうだったのか。この少女がテリーの妹なのだ。ここはアメリカだ。肌や瞳、髪の色、人種の異なる親子や兄弟はそれほど珍しくはない。

 そろり、とミッシィと呼ばれた少女がテリーの背後から顔をのぞかせる。

「いらっしゃいませ、Miss.ミッシィ」
「エドワーズさんだ。この人が、本を直してくれるんだぞ」
「……本のお医者さん?」
「お、うまいこと言うな! うん、そうだよ。本のお医者さんだ」

 テリーはミッシィの背に手を当てて、ゆっくりと前に進む。しっかりとテリーにしがみついたまま、オレンジのコートを着たちっちゃな体が近づいてくる。
 彼らは紛れもなく、信頼しあっている兄と妹だ。互いを大切に思っている。
 一歩。また一歩。もう少し……。
 ひょい、とリズが顔を出した。ミッシィは目をまんまるにしてテリーから手を離し、とことこと前に進む。
 リズは少女の手に鼻をよせ、ちょん、とご挨拶。

「に」
「……ねこさん」
「リズです」
「はろー、リズ?」
「にゃー」

 ほわっとミッシィは顔をほころばせた。返事がかえってきたのが嬉しかったようだ。
 リズはぴたりとミッシィの足もとに寄り添い、長い尻尾を少女の足に巻き付けた。そのまま寄り添い、歩みを進める。
 ついに、エドワーズの目の前までやってきた。
 
 ミッシィは手提げ袋に入れた大事な絵本を両手でささげ持ち、差し出した。

 100217_0214~01.JPG
 illustrated by Kasuri

「おねがい、本のお医者さん。このえほん、直してください」

 本のお医者さん。
 少女のたどたどしい物言いに、きゅっと胸がしめつけられる。このひと言を言うために、いったいどれほどの勇気を振り絞っているのだろう?

「はい。まずは、その本を拝見してもよろしいですか?」

 こくっとうなずいた。
 受け取り、注意深くカウンターに載せる。鮮やかなオレンジ色の手提げ袋から本を取り出し、ページの一枚一枚をつぶさに調べる。
 思った通り、綴じ糸が切れただけだ。中味そのものは破れていない。
 エドワーズはうなずき、ほほ笑んだ。

「製本用の綴じ糸が切れてしまったんですね……何度も読んだ、お気に入りの本にはよくあることです。大丈夫、直せますよ」
「本当かっ!」
「はい。最善を尽くします」

 ぱあっとミッシィは顔を輝かせた。彼女がどんなにこの絵本を大事にしているのか、わかった。

「あ……りがと……」
「どういたしまして」
「よかったね」

 こくこくとうなずくたびに、白い帽子がゆれる。よく見ると帽子の先端は長く伸びて二つに分かれ、ウサギの耳そっくりの形に作られていた。

(ああ!)

 ミッシィはおそらく通称だ。この子はおそらく、ブルーナーの絵本の主人公、あの小さなウサギが大のお気に入りなのだろう。(手さげ袋もそうだった)口がうまく回らず、ミッフィーがミッシィになったのだ。

 ウサギの帽子は明らかに手作りだった。
 常に周囲を警戒し、手をあげると反射的にびくっと身をすくめる。大きな音に過剰に反応する一方で、ほとんど『自分』を主張しようとしない。いずれも虐待の経験があることを伺わせるが……今、この子は愛されている。大切にされている。
 守られている。

「それでは、お預かりいたします」

 エドワーズはさらさらと預かり証をしたためた。絵本一冊、ローズマリー・サトクリフ著、「竜の子ラッキーと音楽師」。
 依頼人、Miss.ミッシィ。

「どうぞ……預かり証です」
「ありがとう。よろしくお願いします! あ、修理費全部、俺が出しますんで!」
「かしこまりました。それでは、できあがったらお知らせいたしますので、こちらに電話番号を」
「携帯でいいっすか? あ、病院にいるとたまに電源切ってるから、そん時はメールで。アドレス書いときますんで」
「わかりました。では、私のアドレスをこちらに……」

 二人がアドレスを交換している間、サリーはリズと話していた。

「エドワーズさん、どこか具合悪いの?」
「にぃ……」
「え、リビングで?」
「にゅ」
「しかも、二回目? 最近、冷え込み厳しいのに……」

 ここのお店の建物は、石造りで古い。明け方はさぞ冷え込むだろう。風邪を引くのも無理はない。

「にゃ、にゃ、みゃう、にゃぅう」
「うん……そうだね。時々、様子を見に来るよ」
「みぃ!」

 そうだ。ためらう必要はない。わだかまりは、もう存在しないのだから。

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【4-16-6】★紳士の社交場

2010/02/17 0:36 四話十海
 
 ビリヤード(pocket billiard)は自宅でするに限る。
 少なくともレオンハルト・ローゼンベルクはそう思っていた。
 このマンションに越してきた当初は、遊戯室なんて使うこともないだろうと思っていた。だが、今ではアレックスの差配に感謝している。

 ビリヤード台にポーカーテーブル、果ては自動計算機能付きのダーツボードまで一式揃えた本格的な遊戯室は、しばしば夕食後に大人三人が気軽に遊べる紳士の社交場として多いに役立っている。
 特にビリヤードだ。

 その性質上、どうしてもプレイする時はキューを構えて前かがみになる。マッセやジャンプショットを狙う時はそれほどでもないが、オーソドックスに構えようものなら、自ずと尻を突きだす格好になってしまう。
 そして、ディフは滅多に奇をてらうことはなく、正統派に構えるのが常だった。

 緑色のラシャ布を貼ったテーブルの上に左手をつき、中指、薬指、小指で支えて高さを調節。人さし指と親指で輪をつくり、右手で握ったキューの先端をくぐらせる。
 右足を45度身体の外側に開き、反対側の足を斜め前に出して身体を安定させる。体重を両足に均等にかけて上体を前に倒し、頭をキューの真上に。
 必然的に無防備にさらけ出された広い背中を。引き締まった腰、張りのある尻を、レオンはじっくりと目を細めて味わった。

「……」
 
 何人たりともこの姿を見ることなど許さない。無論、ヒウェルもだ。
 ナインボールは一対一。対戦相手とは基本的に向かい合うか並ぶかで、背中を見る機会は滅多にない。
 従って、こうして自宅の遊戯室でプレイしている限り、レオン以外の人間がプレイ中のディフを背後から眺めるチャンスは無くなる。

(うん。やはりビリヤードは家でするに限るね)

 数度弾みをつけてから、ディフはおもむろに勢いよくキューを繰り出した。

 がごん!

 勢いがよすぎたようだ。
 白い手球はわずかに宙に浮き、狙ったはずのカラーボールの手前で水切りの石よろしくバウンド。テーブルの縁すれすれにすっ飛び、放物線を描いて床に落ちた。
 そのまま壁際までころころと転がり、かこんと跳ね返る。

「……っあれ?」
「おいおい、ジャンプショットにも程があるぜ。部屋の壁狙ってどーすんだ」

 ひゅうっとヒウェルが口笛を吹き、足下に転がった手球を拾い上げた。

「っかしいなあ……6番を狙ったはずなのに」

 角度は正しかった。しかしながらディフが考えている以上に彼の力は強かった。スピンがかかりすぎて、まっすぐ転がるべき球が跳ねてしまったのだ。

(熟した桃をつぶさず皮を剥ける君が、どうしてこうなるのかな……)

 そこが可愛い。愛おしい。レオンは密やかにほほ笑み、ディフに歩み寄った。

「この距離ならもっと優しく打たないと」
「優しく……か」

 手のひらを握ったり、開いたりしながら首をかしげている。背後から手をまわし、両肩を包み込む。

「ほら、深呼吸………ゆっくり息を吸って」
「深呼吸……か」

 素直にすー、はー、と深く息をする彼の横顔を飽きることなく眺めた。
 その間にヒウェルはサイコロ型の青いチョークを手のひらにとり、くいくいと自分のキューの先端にすり付ける。
 
(やれやれ、こいつらと来たらもう遠慮もへったくれもあったもんじゃないや)

 とにもかくにも、自分の手番だ。さしあたっては拾った球をどこに置くか、だが。

「んじゃま……さっきとだいたい同じ位置に置かせていただきますかね」
「いいのか?」
「ああ。じーっと見てたからね。この方がやりやすい」

 そっと指先で白い球を支えて緑色の布張りの上に載せる。口の端にくわえたタバコには火はついていない。この家は全面禁煙だし、そもそもビリヤード台のそばでタバコを吸うのは紳士らしからぬ行為とされている。
 しかしながら火がついてるついてないは問題じゃない。
 要はくわえていることが大事なのだ。こいつがないと調子が出ない。

 ヒウェルは片目を細めて頭の中に球の軌道を描いた。
 ナインボールゲームで今残っているのは6、7、8、9。最初に手球が接触するのは、一番小さい数字……すなわち6番でなければいけない。
 上体を倒し、左手の人さし指と親指で作ったVの字の上にキューを載せ、弾く。子猫の前足の一撃のように、こつ……と軽く。
 狙いたがわず、転がった手球は6番に当たる。
 そして6番はコロコロと転がり、カツンと当たって……カコン、と球が穴に落ちる。

「ほい、9番ポケット」
「まだ6までしか行ってないぞ?」
「うん、だから6に当てて、6で9を弾いた」

 ナインボールでは、先に9番ボールを落とした方が勝者となる。
 かくしてセット終了、次のターンへ。

「…………さすがだね」
「大学の学費の半分はコレで稼いだようなもんですから?」

 ディフは軽く肩をすくめると三角形の木枠を置き、てきぱきと9つのボールをひし形に組み始めた。1番を手前に、9番を真ん中に。パイの上にベリーを並べるように慎重に、隙間なくぴっちりと。

「……っし」

 前後左右から確認し、うなずいて枠を持ち上げ、台から下がる。

「んじゃま、失礼して……」

 ヒウェルは再び手球を置き、無造作に突いた。
 カコン、ころころころ……ポコン。

「え」
「ごめん、入っちゃった」

 悪びれもせずキューの先端にチョークをすり付け、構え直した。

「……やってろ」

 ディフはひらひらと手を振り、レオンの傍らに寄り添った。
 ヒウェルは余裕綽々と言った体で軽快に白い球を弾き、狙った球を落として行く。

「1番ポケット。お次は……2はもう入っちゃってるから3っと」

 ディフはため息をつき、キューをラックに立て掛けた。
 今日はヒウェルの奴はいつもにも増して調子がいいようだ。こうなると、果たして自分の番が回ってくるかどうか、はなはだ疑問だ。
 まあ、いいか。
 夕食後のひととき、酒を飲むか、ビリヤードかダーツにするかの三択で選んだ結果だ。この際、ゆるっとヒウェルの技の冴えを見物するのも悪くない。

 今度は上体を起こして台の脇に立ち、キューをほぼ垂直に構え下ろしている。
 やんわりとレオンがたしなめた。

「台を破らないでくれよ?」
「今まで破ったことあります?」

 カコン!
 
 狙いたがわず、キューの先端が手球の中心からわずかに端にそれた部分を弾く。強烈にスピンしながら白い球がカーブを描き、手前の7番と5番を回避して3番に当たる。
 ゴトリ。

「ほい、いっちょあがり」
「お見事」

 にまっと笑ってヒウェルは青いチョークを取り、きゅっきゅとキューの先端をこすった。

「Mr.エドワーズってさ。ピアスしてるんだな」

 本来は相手の手番中にみだりに話しかけるのはマナー違反だ。しかし、当人から話しかけてきたとなれば別。
 まして酒盛り代わりのお遊びだ。興が乗ってくれば自ずと無駄話に花が咲く。

「ああ。見たのか?」
「うん。透明の保護用のがキラっとね。若い頃に開けたんだって?」
「んむ、自分でやったそうだ。消毒した安全ピンで、こう、ぶすっと……」
「意外だね」
「うーわーやめて、聞きたくないーっ」

 ヒウェルは耳を押さえてじたばたしている。

「自分から話題振っといて……」
「ヒウェルらしいね」

 それでも次のショットはきちんと決めていた。

「EEEは、若い頃はけっこうやんちゃしてたらしい」
「マジ?」
「うん。イギリスから移住してきたばかりで、こっちに中々馴染めなくて。ケンカ三昧で尖ってたのが、マクダネル警部補にとっつかまって説教食らったそうだ」
「もしかして、グレてたってこと?」
「そうとも言う。バンドもやってたって聞いたな。署内でチャリティーコンサートやった時も、ギター弾いてたし」
「ジャズ? ビートルズ?」
「ハードロック」
「えー」
「意外だね……やっぱりブリティッシュ?」
「いや、ガンズ
「世代だなあ……曲は?」
「Paradise City」
「……あ」

 カコ……。
 話の合間に弾いた球は、狙った的にも、台のクッションにも当たらず、半端な位置で止まっていた。

「……珍しいな」
「ま、ね、たまにはね」
 
 
 ※ ※ ※ ※

 
 結局、2セット目はヒウェルの腕はいまいち振るわずディフの勝利となり、互いに一勝一敗になったところでキリよくお開きとなった。
 寝室に引き上げ、服を脱ぐ途中でディフは手を止めて何気なくレオンに問いかけてみた。

「なあ、レオン。ピアスしてる男って、どう思う?」
「どうしたんだい、いきなり」
「EEEのこと思いだして、な。あと、右の耳に一つだけピアスつけるのは、ゲイの印だって言うから、その、気になって」
「ずいぶんと古風なことを言うね……」

 レオンはさりげなく広い肩に手を置き、顔を寄せた。

(君は、積極的にゲイだと意思表示をするつもりか? この街で?)

 サンフランシスコでそんな真似をしようものなら、今まで見るだけで済ませていた奴らがここぞとばかりに声をかけてくる。
 とんでもない。
 断じて却下だ。

「つけてみたくなった?」

 ゆるめたシャツの襟の内側に息を吹き込むと、ディフはぴくっと身をすくめた。

「いや、別にそう言う意味じゃ……」

 右の耳たぶにキスをして、口に含む。

「っ、あ、何をっ」
「こんな風に……耳たぶに穴を……」
「くっ、よせっ、んんっ」
「軽く噛んだだけでこんなに震えてるのに……」
「わかった、わかったからっ」

 身もだえする腰に腕を巻き付け、しっかりと抱きすくめる。どうやら、じっくり教え込む必要がありそうだ。
 言葉よりも雄弁に。奥深い所までじっくりと。
 
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【4-16-7】エドワーズがんばる

2010/02/17 0:37 四話十海
 
 一週間後。待ちかねたメールがテリーの携帯に入った。

「サリー、見てくれ、これ!」

 彼は読むのもそこそこにサリーの所に飛んで行き、満面の笑顔で画面を開いて見せたのだった。

「できたんだ、絵本!」
「おめでとう!」
「うん……サンキュ。明日、とりに行こうと思う」
「そうだね、今日はもう、こんな時間だし」

 時刻は午後四時を回っていた。
 大人二人ならともかく、なかなか家から出たがらない、怖がりの小さな女の子を連れ出すのには遅すぎる。
 
「それで……さ。ちょっと頼みがあるんだけど、いいかな」
「うん、何?」
「おまえ、この間、えらく可愛いランチ作ってたろ。絵本みたいに、ライスとかソーセージで形作ってた」
「ああ、キャラ弁?」
「そう、それ」

 アメリカでも日本のアニメやコミック、ゲームは人気がある。普通に日本の書店やゲームショップと変わりないラインナップで英語版が並んでいるし、テレビでは毎日のように英語で吹き替えられたジャパニメーション……日本のアニメが放映されていた。

 その中に出てくる『お弁当』はアメリカでの『ランチ』の概念とはまったく違っていた。
 パンにピーナッツバターとジェリー(ジャム)を挟んで、リンゴやバナナを丸ごとジップロックにごろん。これがアメリカの定番ランチ。
 日本のお弁当を見てみたい、食べてみたい、と言う友人のリクエストに答えてサリーは何度か『ジャパニーズランチ』を披露したことがあった。
 もともと手先が器用で料理上手な事もあり、最近ではマンガや絵本のキャラクターをかたどる『キャラ弁』にまでレパートリーを広げていた。

「いいよ。何かリクエストある?」
「ミッフィー」
「ミッシィ用?」
「うん」

 幼稚園以外の外出、そして外で食事をする。ミッシィを社会に適応させる訓練の一環なのだ。外に行くのは楽しいことなのだと条件づけるための。

「いいよ。作っておく。明日、何時に出発する?」

 テリーに答えながら、サリーはすでに頭の中で献立を考えていた。自分とテリーの分は、簡単におにぎりで済ませるとして……
 おかずは何にしよう。
 ブルーナーの黄色とオレンジ、濃いめのグリーンをどうやって再現しようか? オレンジはニンジン、パプリカ、カボチャ。
 黄色はチーズ、卵、やっぱりパプリカ。
 グリーンはアスパラ、ブロッコリー、ピーマンにホウレンソウかな。

「あ、ミッシィって苦手な食べ物とか、アレルギーはある?」
「いや。好き嫌いはない」
「ピーマンは平気?」
「うん。えらいだろ! 大人になっても食えない奴いるのにな!」

 ああ、言っちゃった。
 今ごろ、クシャミしてるだろうな、ヒウェル。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 コロロン、コローン……。
 真鍮のドアベルが奏でる優しい音色に迎えられ、ミッシィは震える足でお店にはいっていった。
 静かで、どっしりとした空気に包まれる。ウサギの帽子ともこもこのヒヨコ色のマフラーの間から、奥のカウンターをまっすぐに見つめた。

「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」

 いた。本のお医者さんだ! 今日はマスクはしていない。手に白い手袋をはめて、薄紙に包まれた四角いものを大事そうに抱えている。
 あの大きさ。あの形。うっすら透けて見える、青と赤、そして小さな緑色。

「に」
「Hi,リズ」

 白い猫さんが迎えに来てくれた。
 ミッシィはかがんで猫を撫でて、それから一緒に前に進んだ。
 心臓がどきどきして、途中で足が止まってしまう。リズがちらりと振り返り、「にゃ」と鳴いた。

『大丈夫。いらっしゃい』

 こくっとうなずき、また歩き出す。
 カウンターにたどり着くと、ミッシィは勇気を振り絞って口をひらいた。

「おはようございます。わたしの本、お迎えにきました」
「はい。こちらにお持ちしてあります」

 本のお医者さんは床にひざまずき、薄紙を開いた。

「どうぞ、ご確認ください」

 うやうやしく本が差し出される。
 
「……………」

 震える手で受け取った。全部くっついてる。ぱらぱらとページをめくる。まるでおろしたての本のように、ぱりぱりと音がした。
 直ってる。すっかり元通りになっている。卵を拾うページも。卵が割れて竜がうまれるページも!

「今度は落としても壊れないように、しっかりと補強しておきました。最初のうちは少し、開きづらいかもしれませんが」
「あ……あ………」

 ぱくぱくと口を開け閉めする。ちいさな口の中、ちっちゃな歯の間から朗らかな声がこぼれ落ちる。小鳥がさえずるように明るく、喜びにあふれていた。

「ありがとう……本のお医者さん、ありがとう!」

 ミッシィは笑っていた。白い歯を見せてにこにこと、しぼりたてのオレンジジュースみたいに。はちみつみたいに笑っていた。
 その笑顔を取り戻すために、自分の手が役立った。そう思うと、エドワーズは嬉しかった。

「よかったね」
「うん」

 サリー先生がミッシィの隣にかがみこみ、頭をなでている。
 ああ、何と言う美しさ。温かさだろう。まるでラファエロの聖母子像のようだ。
 
「ありがとうございました、エドワーズさんっ」

 ……おっと。
 テリーの声に我に返り、立ち上がる。

「あの子が、あんな風に笑うの、すげえ久しぶりでっ! 両親も安心します。ほんと、ありがとうございますっ」

 真剣な顔で、頬を紅潮させ、勢い良く言葉を繰り出す。その朴訥さ、純粋さに胸を打たれた。
 そして気付いてしまう。
 サリー先生の恋人だと言うのに、自分はこの青年を欠片ほどもねたましく思っていない。むしろ好ましいと感じていることに。
 さすがに手放しで祝福、とまではできないが……。(ああ、我ながら何て心の狭い!)

「いえ……私は、自分の仕事をしただけですから」

 少女の笑顔を取り戻せた事を。家族の心に平和をもたらすことができた事を、誇らしく思った。
 エドワーズは胸に手を当てて背筋を伸ばし、きちんと一礼した。

「お気に召して、何よりです」

 テリーは勢い良くぶんっと頭を下げて礼を返した。

「また、何かありましたらいつでもお越しください」
「はいっ」

 修理代の支払いを済ませている間、ミッシィは絵本を抱きしめてほおずりし、じっと目を閉じていた。幸せそうなほほ笑みを浮かべて。

「テリー、これからどうする?」

 サリー先生は肩にかけたトートバッグを軽く叩いた。ぴくっとリズが耳を立て、ヒゲを前に突き出した。
 ほのかなにおいが穏やかに、優しく鼻腔を伝い、胃袋をくすぐる。食べ物のにおいだ。それもお菓子ではなく、れっきとした食事(meal)の。

「頼まれたもの、持ってきたけど」
「お、さんきゅー」
「外で食べるには、寒いよね……」

 どうやら手製のランチを持参したらしい。帰りに三人でどこかで食べる予定だったのだろう。

「そうだな……公園行こうかと思ったけど、無理か」
「あの、よろしかったら……私もそろそろ昼食ですので……」

 ごくっとのどが鳴る。自分は何を言おうとしているのだろう。だが、こんなチャンス、今を逃したらおそらく二度と無い!
 ゴールデンゲートブリッジからバンジージャンプをする覚悟で、エドワーズは申し出た。

「奥で紅茶をごいっしょにいかがですか?」
「ありがとうございます、でも……」

 サリー先生はちらっと、ミッシィの方をうかがっている。
 そうだった。
 他所の家で食事をするなど、彼女にとってはどれほど勇気が必要か! 私としたことが、そんな基本的な事に気が回らなかったなんて……。

「ミッシィ、サリーがランチボックスもってきてくれたんだ。ここで一緒に食べてくか?」
「ランチ?」
「うん。おまえ、今日がんばったからな。ごほうびだ。母さんにはちゃんと言ってある。どうする?」
「ここで……」

 ミッシィはテリーをみあげて。それからエドワーズを見て。店の中ぐるっと見回した。

(ここはしずか)
(この人は本のお医者さん。絵本を直してくれた人。しずかな気持ちのいい声で話す人。ゆっくり動いてくれる人)

 大切な絵本をそっと手のひらで撫で、すぐそばの床で優雅に座る白い猫に目を向ける。
 リズは立ち上がってひゅうんと尻尾を振り、奥に通じるドアに向かってとことこと歩いて行った。
 そして手前で振り返り、「にゃー」っときれいな声で鳴いた。

(ねこさん、おいでってゆった!)

 ミッシィはテリーの手をきゅっとにぎり、うなずいた。ウサギの帽子がこくりと揺れる。

「では、こちらへ……」

 エドワーズは精一杯平静を装いつつ、住居部分に通じるドアを開けた。

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【4-16-8】一番幸せなランチ

2010/02/17 0:39 四話十海
 
「そこの階段を上がってください」
「はい」
「狭いから気をつけて」

 とん、とん、とん。ほんのりと薄暗い壁に、床に、足音が響く。
 手すりのついた階段は途中で角度を変え、白いドアの前にある踊り場に行き当たる。ドアの下部には、猫専用の出入り口が開いていた。
 しかしリズは行儀良く踊り場に座り、じっとドアが開くのを待っている。

「どうぞ」
「にゃ……」
「おじゃまします」

 扉の向こうには、居心地の良さそうな居間があった。
 壁はカボチャのスープのような柔らかな黄色。古い建物の常として窓は小さめだが、壁の色のおかげで十分に明るく、あたたかく感じる。
 中央にソファとローテーブルの応接セットが置かれ、壁際の一角には食事用のテーブルと椅子が四脚。いずれも磨き抜かれた木製。そして食卓のすぐ横にはキッチンに通じるドアがあった。ちょうど猫いっぴきぶん、通り抜けられるように開けてある。

 深みのある焦げ茶色の食卓の上には、ガラスコップにいけられたオレンジ色の薔薇が三本。みずみずしい香りを漂わせている。

「コートはそちらに掛けてください。食事に使うのは、どちらのテーブルがよろしいでしょう?」
「そーだな、ちっちゃい子もいるし……低い方がいいか」
「そうですね。では、少々お待ちください」

 その間にもこもことミッシィはコートを脱いだ。白い帽子も。ヒヨコ色のマフラーも手袋も。ゆっくりと、自分で脱いだ。
 テリーは妹の脱いだものを受け取り、マフラーと手袋はちゃっちゃと畳み、オレンジのダウンコートはラックに掛けた。

「お待たせしました」

 エドワーズがキッチンから木の踏み台を持ってきた。
 角度を調整し、ローテーブルの前に置く。

「どうぞ、お座りください」

 ミッシィは真面目な顔でちょこん、と踏み台に……いや、自分用の椅子に座った。

「さんくす」

 高さも幅もぴったりだった。

「では失礼してお茶を入れて来ますので、ごゆっくり」
「はい、ありがとうございます」

 エドワーズはキッチンに移動し、冷蔵庫の前まで来て……ふーっと息を吐き、脱力した。

(ああ、緊張する!)

 とにかくお茶の準備だ。ヤカンに水をたっぷり入れて火にかけ、ポットと紅茶を用意する。ミルクと砂糖も忘れずに。
 お湯が沸くまでの間に、自分の分の昼食をこしらえることにする。
 食パン二枚、耳を落とさずそのままバターを塗り、マスタードを塗り、レタスとハム、チーズ、スライスしたトマトとピクルスを載せて。ペーパーナプキンで軽くくるんでぎゅうっと圧縮。上下のパンがぺったりと密着したのを確認してから、さっくりと四つに切り分ける。
 これでできあがり。

 しゅんしゅんと沸いたヤカンのお湯をティーポットとカップに注いでしばらく温めて。
 ポットに紅茶を1、2、3、4、5杯。こんなに多く入れるなんて、実に久しぶりだ。
 お湯を注いで、懐中時計できっちりと時間を計る。自分一人で飲む時は大抵、4分。だが今日はお客様も一緒なのだ。3分で切り上げ、カップに注いだ。
 慎重に。自分一人で飲む時とは比べ物にならないくらい。本を扱う時のように慎重にお茶を注ぐ。

「お待たせしました」

 できあがったものをトレイに載せて居間に戻った。

「どうぞ」
「ありがとうございます」
「砂糖とミルクはお使いになりますか?」
「あ、ミルクください」
「かしこまりました」

 テリーはミッシィの分にミルクをたっぷりと注いだ。

「ミッシィ、砂糖も入れるか?」

 返事はない。
 ローテーブルの上にはランチボックスが三つ。子供用の小さな箱が一つに大人用が二つ並んでいる。
 そして今、まさにミッシィが小さな蓋を開け、食い入るように現れた中味に見入っている所だった。

「………………」

 ひと言もしゃべらずに細かく震えている。
 何気なく彼女の手元に目をやり、エドワーズは驚愕した。
 何と言うことだろう! 
 オレンジの屋根の家、深い緑色の庭に咲く赤い花、黄色いワンピースを来た小さな白ウサギ。
 小さな子供用のランチボックスの中に、ブルーナーの絵本の1ページのような世界が広がっている。

 家の壁は四角く整えたライス。細く切った黒いシートで窓まで描かれている。三角の屋根はスライスしたニンジン。
 あの濃い緑色の庭は茹でたアスパラとブロッコリー。
 ちっちゃなウサギの服はオムレツ、目は黒いゴマ。口はおそらく窓と同じ。顔の部分はにおいから察するにシーフード系の素材でできているようだ。
 そして花はウィンナーソーセージとミートボール。ウィンナーの端には切れ込みが入れられ、くるんと美しく巻いている。
 あまりの細工の精密さ、緻密さにもはやため息しか出てこない。

「おはな……」

 ミッシィはふるふると震えたままのびあがり、テリーのシャツをきゅっと握った。

「おにーちゃん、これ、ぱしゃっとやって。ぱしゃっって」
「OK」

 テリーは携帯をとりだして、ぱしゃっとブルーナーのランチを写した。

「さんくす、さりー、さんくす」

(よかった、気に入ってくれて)

 サリーはほっと胸をなでおろした。

「これは……もはやアートですね。素晴らしい。日本のランチは、みんなこんな風に作られているのですか?」
「みんなじゃないけど、けっこう工夫して作りますよ。可愛く作るとちっちゃな子が喜ぶから、お母さんたちががんばるんです。苦手な野菜も、好きなキャラクターの絵になってると食べられたりするし」
「なるほど。色彩がたいへん美しい……ブルーナーの絵ですね……」
「みっしぃ!」

 エドワーズは真面目な表情でうなずいた。

「確かに。Missミッシィは、ブルーナーの本がお気に入りなのですね」
「Yes!」

 もう、ミッシィは怯えてもいないし、緊張してもいなかった。
 サリーとテリーは顔を見合わせ、安心して自分たちの分の弁当を開いた。
 現れたのは白と黒、モノトーンの完ぺきな三角形の群れ。エドワーズは思わず感嘆の声をもらした。

「何と! どうやったらコメがこんなきっちりとした形に!」
「そんなに難しくないですよ……慣れれば」

 エドワーズは自分の作った武骨なサンドイッチを見下ろし、小さく首を横に振った。

「私にとっては魔法に見えます」
「オニギリって言うんだ。俺もできるぜ!」

 テリーが得意げに胸を張った。

「それは素晴らしい」
「あ、よかったらひとつどうぞ」

 サリーはほほ笑み、三角のおにぎりを手にとり、すすめていた。

「ありがとうございます……では、よろしければこれを」

 それは何の気負いもためらいもない、とても自然な所作だった。だからエドワーズも当たり前のように答えることができたのだった。
 二人が互いにランチを交換する隣では、ミッシィがテリーに自分のおかずを分けていた。

「おにいちゃん、おはな」
「お、くれるのか。さんきゅ。じゃあにいちゃんのおにぎり、一口やろうな!」
「さんくす」

 全員にお茶と、ランチが行き渡ったところでサリーはきちっと手を合わせた。

「いただきます」
「イタダキマス」

 テリーも真面目に復唱。ミッシィはきょとんとして首をかしげたが、すぐに真似して手を合わせる。

(はて、どこかで聞いたようなお祈りだ……)

 ミッシィは一口ずつ、大事に、大事にお弁当を食べた。サリーの作ってくれた絵本のランチをしっかりと食べた。
 エドワーズもまた、初めて食べる『おにぎり』の造形の美しさと、シンプルな味わいに静かに感激していた。

「こんなライスの食べ方もあるのですね。実に味わい深い。私は、スシよりこっちの方が好きです」
「ありがとうございます」

 ミッシィも、エドワーズさんも、静かだけどとても喜んでくれている。
 くすぐったいような気持ちでサリーは交換したサンドイッチを噛みしめ、こくん、と熱い紅茶で流し込んだ。

(しっかり作られたサンドイッチだな。丈夫で、きっちりして、何だか、安心する)

 ケチャップは入っていない。コショウもマスタードも、あくまで素材の味を引き立てるために添えられているだけ。

〔エドワーズさんって、こう言う味付けが好きなんだ……)

 最後の一口まで崩れず、きれいに食べることができた。
 紅茶と、サンドイッチとおにぎり、お花のウィンナー。
 ちょっぴり風変わりなランチを、ソファに座ったリズが優雅に見守っていた。青い瞳を細めて、ごろごろとのどを鳴らす彼女はどことなく安堵しているように見えた。

「はぁ……ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさんっ」
「ごちそー……さ、ま?」
 
 帰り際、サリーはコップにいけられた薔薇に軽く触れた。

「きれいな薔薇ですね。オレンジ色って珍しいな」
「え、ええ。今の季節は、庭に花がないので…………」

(あなたも居なかった)

「さみしくて、つい買い求めてしまいました」
「そうですね……」

 以前、エドワーズさんからもらった薔薇は夜明けの空のようなピンク色と、クリーム色をしていた。
 今は冬。庭の薔薇はひっそりと眠っている。

「そうですね。確かにちょっとさみしいかな」

 顔を寄せ、あふれ出す香りをかいだ。

「こう言う明るい色は、見ていて楽しくなれる……」
「うん。きれいなニンジン色だよな!」
「みっしぃ」
「そうだな、ミッフィーの色だな」
「ミッシィのコートも同じ色だね」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「ありがとうございました。それじゃ、また……」
「お気を付けてお帰りください。いつでもお待ちしております」

 エドワーズは自らドアを開け、大切なお客様を送りだした。

「Miffy,Miffy,Miffy,run! With her friends she's having fun!」

 小さな女の子の歌声がかすかに聞こえる。初めて店に来た時は、ひと言しゃべるのにも勇気を振り絞っていたのに。
 すっかり元気になったようだ。

 サリー先生とテリー、そして小さなミッシィ。三人が帰ってしまうと、店の中が急にがらんと静まり返ってしまったような気がした。
 妙な話だ。これこそが本来の在り方なのに。
 リズがごろごろとのどを鳴らして身を寄せてくる。そっと手を伸ばし、なめらかな温もりを撫でた。

「……ありがとう、リズ」
「にゅ」

 猫以外のだれかと一緒に食事をしたのは、本当に久しぶりだった。話しながら食べることが、あれほど楽しいなんて……すっかり忘れていた。

「あ」

 今さらながら重要な事実に気付いた。
 自分は、サリー先生と一緒にランチを食べたのだ。しかも、先生の作った料理を食べた。自分の作ったサンドイッチと交換して。
 
 もはや一緒にお茶を、どころではない。

(わ、私は……私は………何て大それたことを!) 
 
 かあっと頬が内側から火照る。頭を抱えそうになる手を意志の力で食い止める。
 何を焦っている。二人きりではなかったではないか。だからこそ、思いきって声をかけたのだ。

 ああ、それでも……今日の昼食は、生まれてから一番、幸せなランチだった。

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 太陽に愛された浅黒い肌に、天然アイラインに縁取られたくりっとした瞳、くるくるウェーブのかかった黒い髪。
 さんさんとお日さまの振りそそぐ窓際の、チューリップ模様のラグの上で、ミッシィは今日も大好きな絵本を読んでいる。

 大きな音がして、怖いことのたくさんあった家。だけど、ミッシィの生まれた家。
 ある日、父さんと母さんがいくら待っても帰って来なかった。ひとりぼっちで震えていたら知らない女の人がやってきて、ミッシィをこのお家に連れてきた。
 これからどうなってしまうんだろう。この人たちはいったいだれなんだろう。
 知らないもの、知らない人ばかりで怖かった。ただ一つ、知っていた絵本を見つけた時はうれしかった。

 一瞬だけ『怖い』から『うれしい』に大きく揺れた心の振り子は、少しずつ。少しずつ安定していった。
 やがて、ミッシィは強ばっていた手足を伸ばし、初めて自分から新しいことに挑戦した。
 ミッフィーよりもずっと文字の多い、きれいな絵本に手をのばし、開いたのだ。最初は絵を見て、ぽつぽつとわかる単語を読んだだけ。
 ほとんど意味がわからない。でも知りたい。どうしても知りたくて……新しい「おかあさん」に、初めて自分から話しかけた。

『これ、よんで』

 親からはぐれた竜の子が、旅の音楽師に出会い、大切に育てられる。いっしょに旅をする。そのお話を読んで、ミッシィは安心した。
 自分も、同じなんだと思った。

 この本がばらばらになった時、やっと開きかけた扉は閉ざされ、ミッシィの世界もばらばらに引き裂かれてしまった。
 だけど、もう怖くない。
 本のお医者さんがいるから、大丈夫。 
 
(本のお医者さん/了)

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留守番おひめさま

2010/02/17 0:51 短編十海
 
 
 あたしは猫。
 名前はオーレ。
 
 ママゆずりの真っ白な毛皮に青い瞳、左のお腹のカフェオーレ色のぶちがチャームポイント。
 本屋さんで生まれて、今は王子様とお城に住んでいる。

 今日はおやすみの日。王子様とずーっと一緒に過ごせる日。うれしいな。うれしいな。
 ……って思ってたんだけど。

「……うん、いい男だ。カリフォルニアで一番、いや、世界一いい男だ」

 あれれ? レオンがきちんとスーツ着てる。お仕事に行く日とおんなじだわ。
 ちょっと恥ずかしそうにほほえんで、所長さんと抱きあってキスしてる。これもお仕事の日と同じ。

「行ってくるよ」
「行ってこい。レイによろしくな」

 見送ったあとの所長さんはちょっぴりさみしそう。あたしがいるわ、元気出して。

「……ありがとな、オーレ」

 大きな手でなでてくれた。でも、ちょっとだけ。
 朝ご飯のお片づけもみんなテキパキ、何となく急いでる。
 
「そろそろ出かけるか。支度してこい」
「うん」
「冷えるからしっかり着込めよ」
「わかった」

 わかった、今日はみんなお仕事の日なのね! あたしもお支度しなきゃ。
 ぺろぺろ、ぺろぺろ、毛づくろい。
 尻尾の先までつやつや、完ぺき。さあ、王子様。いつでも出勤OKよ。後はキャリーバッグに入るだけ。

「………」

 あれ? 朝ご飯はさっき食べたばっかりなのに、何でもうカリカリ出してるの? あれ? お水も、猫用ミルクまで。

「いい子にしてろよ。行ってくる」

 ええーっ!
 バタン、とドアが閉まる。 お家の中はしーんと静かになってしまった。
 所長さんも、シエンも行っちゃった。あたし一人お留守番ってこと?

 ……………………………………………ずるい。

 耳を伏せて、ぺしたん、ぺしたん。尻尾で床を、ぺしたん、ぺしたん。

「んみゃ」

 鳴いても一人、ひっくり返っても一人。エビを前足で放り上げて、ジャンプしてキャッチ。
 でも、一人。

 しかたがないから、お留守番。
 王子様の建てたあたしのお城でお留守番。

 一人は退屈。まあるくなってうとうと眠ってると……ドアがきぃって開いたの。

(おうじさまっ?)

「よっ、お姫さま。ごきげんいか………ぐぇっ」

 大外れ。
 狙いすましてお城の上から急降下、キック一発、すとんと床に。

「……元気だな……うん」

 ひゅっと尻尾を振ってにらみつける。
 あたしが待ってるのはオティアよ。あんたじゃないの!

 ヒウェルはあっさり降参。こそこそとトイレを掃除して、小エビの缶詰めを置いて逃げてった。戦利品ね、いただきます。
 
 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ。
 小エビのスープはおいしいけれど、一人で食べるとちょっぴりさみしい。
 食べ終わって念入りに毛づくろい。前足をぺろぺろなめて、おくちからヒゲの先まで丁寧にくしくし、くしくし。
 
 お腹いっぱいになったら、何だか眠くなって来ちゃった……。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ドアの開く音で目がさめたの。のっし、のっしと重たい足音が一つ。ぱたぱたと軽い足音が二つ。
 つぴーん、とヒゲが前ならい。耳をぴんと立てる。
 
「……ただいま」

 おうじさまーっ!
 一直線に境目のドアを駆け抜けて、玄関までお出迎え。

 待ってたの、待ってたの、ずーっと待ってたのよ!
 足下にかけより、顔をすりすり………しようとして途中でフリーズ。何、このにおい!

 くんくんくん。
 くんくんくん。
 王子様にも、シエンにも、所長さんにも、嗅いだことのないにおいがみっしりしみついてる。しかも、大きくて騒がしい生き物のにおいが。
 ぴりぴしと背中の毛がさかだって、尻尾がぶわっとブラシ状態。
 
 oule_2.jpg
 
「なーっ、なーっ、なーっ」

 変なにおいする! 変なにおいする!

「何か……猛烈に抗議されてる気がする」
「みゃーっ!」
「手、洗ってくるか」
「み」

 そんなんじゃ足りないんです!

 あーもう、まったくこの人たちわかってないんだから。
 耳をふせて、しっぽでぴしぱし。三人の足を順番にぴしぱし。

「……シャワー浴びた方が良さそうだな」
「ん」

 王子様がお風呂に入ってる間、あたしはずっと待ってたの。ドアの外できちっと座って。
 水の音が止んで、王子様が出てくるまで。

「………」

 やがてガラスのドアが開く。
 王子様!

 くんくん、くんくん。
 ああ良かった、変なにおいがやっと消えた。安心して今度こそ思いっきり顔をすりよせる、王子様は手をのばしてあたしを抱っこして、何度も何度もなでてくれた。

 ごろ、ごろ、ごろ。
 のどからあふれる、しあわせの音。

(おうじさま、すき、すき、だいすき)
 
 ole2_2.jpg
 
 
(留守番おひめさま/了)

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【side11】ポテトは野菜、コーンも野菜

2010/02/26 21:14 番外十海
  • 週末の夜、一人さびしく自宅にこもるランドールの元に、学生時代からの親友チャーリーが押しかけてきた。
  • ポテトチップをぼりぼりかじりながらグラスを傾けるうちに、話はクリスマスの一件へと誘導されて行く。
    「ずるいや、カル」「ずるくない!」
  • 【4-16-6】★紳士の社交場と同じ日の出来事。当初は【4-15】犬の日【4-16】本のお医者さんと合わせてオムニバス形式にまとめる予定が個々のエピソードが膨らんで一本におさまりきれず、三分割しました。
 

記事リスト

【side11-1】やっほー!

2010/02/26 21:15 番外十海
 
『やっほー、カルー。カールヴィーン。居るんだろ? 一緒に飲もうぜ!』

 カルヴィン・ランドール・Jrは目まいを覚えた。
 インターフォンから流れる声は、学生時代からの友人チャールズ・デントンにまちがいない。かなりご機嫌だ。
 一瞬、居留守を使ってやろうかとも思ったが、この時間にこれ以上騒がれては、マンションの他の住民の迷惑になる。
 間違いなく、自分が答えるまで彼は騒ぐのをやめないだろう。
 そう言う男だ。

「わかった、チャーリー。上がって来てくれ」

 手元のスイッチでマンション入り口のオートロックを解除し、部屋を見回す。
 飲もうぜ、と言うからには自分好みの酒を持参しているはずだ。おそらくはつまみも。
 キッチンに行き、グラスとソーダと氷を準備した。

 学生時代はしょっちゅう、ビール片手にジャンクフードをほお張りつつ、テレビを見ながら無駄話に明け暮れた。
 スポーツ中継、ドラマ、クイズ番組、内容は何でもかまわなかった。
 ほとんどBGM代わり。時折、話題にしたり、突っ込んだりする。

 大人になってからは、それなりに週末は忙しい身になったはずだが……。時折、こうして押しかけてくる。
 さすがに30を超えた今となってはビールよりもっぱら、ウィスキーやブランデー、ウォッカの出番が多い。
 ワインとカクテルは、あくまでデート用だ。

 ピンポーン!

「やっほー」

 ……来たな。
 ドアを開け放つ。四角い酒の瓶と、膨らんだスーパーの買い物袋を抱えた友人が立っていた。

「やあ、チャーリー」
「やあ、カル!」
「適当に座っててくれ、今グラスを持ってくる」
「OKOK!」

 そしてキッチンから戻ってくると、リビングでは既にTVが着けられ、ローテーブルにはごろごろと大入り袋のスナックが転がっていた。
 ポテトチップにポップコーン、ビーフジャーキーにタコス。その他名前すら見当のつかない色鮮やかな袋。
 あまりのジャンクな品揃えにため息が出る。

「少しは野菜もとった方がいいぞ、チャーリー」
「とってるじゃないか。ほら、『ポテト』チップスに、ポップ『コーン』!」
「……ちょっと待っててくれ」

 予想すべき答えだった。
 めまいを覚えつつカルはキッチンに引き返し、冷蔵庫からキュウリとニンジンを取りだした。
 細くスティック状にカットして、大振りのグラスに入れる。ディップは……必要ないか。
 塩気はもう、十分すぎるくらいに揃っている。

「そら。つまみの追加だ」
「お、サンキュ」

 チャーリーは野菜が嫌いと言う訳ではないのだ。単に自分からは積極的に持参しないだけで……現に今も、美味そうにコリコリとニンジンをかじっている。
 テーブルの上には既に、飲むばかりになったグラスが二つ。わずかに琥珀色を帯びた液体に氷が浮かべられていた。

「ほい、これ」
「ありがとう」

 グラスを手に、ソファに腰を降ろす。どちらからともなく掲げてカチリ、と軽く触れ合わせた。

「おお……これは確かに美味い」
「だろ?」
「スコッチかい?」
「いや、ジャパニーズ。ショウチューって言うんだ」
「そうか、日本のスピリッツなのか」

 SAKEとはちょっと違う。芳醇な香りと穀物由来の酸味が一瞬、舌を刺激するが、味わいそのものはさらりとして心地よい。
 口に含んだ瞬間はパンチがあるのに、後味がいい。

「取引先からもらったんだ。日本から取り寄せしてるんだってさ!」

 海の向こうからやってきたショウチューは、アメリカのスナックにも負けない、しっかりした酒だった。
 杯を重ね、ポリポリとつまみを噛みつつ、とりとめのない話をした。思いつくまま、つらつらと。脈絡もなくひょいと新しい話題が顔を出し、しばらく続けて、また別の流れに分岐する。その繰り返し。

「ビリヤードやってる女の子ってさ、最高に色っぽいと思うんだよねー」
「そうかい?」
「こう、台にうつぶせになって、お尻をきゅっと突きだしてるとこがさ!」
「ああ……なるほど」
「無防備な背中に、さらっと長い髪の毛が広がってるとことか。こぼれたのをかきあげて、キューを構えるとことか、もうたまんないよ!」

 くぴっとグラスの中味を煽り、バリバリとチップスをほお張る。髪の毛の色はお互いに、口にしなくてもわかっている。

「前から見て、ブラウスの襟元から白い胸がチラってのもいいね」
「まさか、のぞいたりしてないだろうね?」
「もちろん。たまたま、チラッてのがいいんだよ。こう、お得って言うか、ラッキーって気分になるし」

 頭の中で対象を置き換えてみる。女性から男性へ。

「うん……まあ、それは、わかる気がするな」
「だろっ! だからさ、思わず言っちゃったんだ……こう、背後に回って、腰に手をからめて引き寄せて」
 
 チャーリーは大入り袋のポテトチップスを抱えて頬を寄せた。

「僕のキューも、握ってくれないかって」
「…………」

 ランドールはグラスを握ったまま、たっぷり5秒ほど沈黙した。

「もっと熱い玉突きをしないかい、ハニー……って」
「チャーリー……そんな………」

 こめかみに手を当てて、左右に首を振る。

「妙なマニュアルを読んだティーンズじゃないんだから……」

 むうっとチャーリーは頬を膨らませ、親友をにらみつけた。

「マニュアルなんか読んでないって! ロマンス小説のマネしただけだ」

(それをマニュアルって言うんだよ、チャーリー……)

「で。お相手の女性は何と返事を?」
「笑ってた。『可愛い人ね』って言って………頬をなでてキスしてくれた」
「…………」
「その場でベッドに直行して、続きをしたって寸法さ!」
「……………そりゃ良かった」

 目的は果たせたと言うことか。彼の狙った通りの効果が得られたかどうかは別として。
 ある意味、得な男だ、チャーリー。大まじめに、一途に、恥ずかしくなるような台詞をささやく。あくまで楽しそうに。そう言う所が女性に好かれるのだろう。

「それで、さ。君はどうなんだい、カル」
「どうって、何が?」

 不意に話題を振られ、どきりとしながら平静を取りつくろった。
 実際には空港でヨーコと別れて以来、遊びに出かけても誰も誘う気になれず、一人で飲んで一人で帰る日が続いている。

「珍しいよね、週末、家でおとなしくしてるなんてさ? てっきり留守だと思ったんだ」

 呆れた奴だ。いないと思ったのにあんなに大騒ぎしたのか!

「その言葉は、そっくり君に返したいね。私なんかより、ビリヤードの彼女と一緒にいるべきなんじゃないか?」
「たまには、お休みしとかないとね。休肝日みたいなもの?」

 すまして答えるチャーリーのグラスには、すでに氷もソーダも入っていない。純粋な酒だけ。その口で休肝日とは、説得力が無いことこの上ない。

「何か悩みでもあるのかい?」
「別に……悩んでなんか」

 ついっと目をそらす。

「カル。他の人はともかく、僕の目はごまかせないよ」
「む……」

 かなわない。チャーリーとの付きあいは、長い。
 今よりもっと若くて、うれしいことも、悲しいことも、ダイレクトに吐きだしていた日々を共有しているのだ。
 気取ったり、取り繕うような間柄ではない。どんな些細な悩みでも、決して馬鹿にせず、真摯に受け止めると互いに知っている。

「話してごらんよ」

 彼は女性相手の経験が豊富だ。女心には自分より、よほど詳しいはずだ。いい知恵を貸してくれるかもしれない。

「実は………告白されたんだ」
「別に、初めてじゃないだろ?」
「初めてだよ。相手は女性なんだ」
「わお! あ……ちょっと待て、もしかして」

 チャーリーは目をぱちくりさせて、ぽいっとチップスの袋を放り投げた。

「あの黒髪の眼鏡の子?」
「…………そうだ」
「赤いコートの」
「そうだ」
「ぷりっとしたお尻の可愛い……」
「チャーリー!」
「ごめん」

 首をすくめ、さらりと付け加えてきた。

「それじゃ、彼女のこと何て呼べばいいのか教えてよ」
「ヨーコだ」
「日本人?」
「ああ」
「いつ知り合ったの」
「去年の八月………顧問弁護士の結婚式で………」
「あー、はぁ。よくあるよね、結婚式で招待客同士が知り合うってケース。うらやましいなあ、ゲイのくせに、あんなに可愛い子とお近づきになるなんて!」
「……」
「だいたい、君は男にもてるんだからさあ、女の子は我々ストレートの男性のために譲るのが筋ってもんじゃないか。まったくもってけしからん!」
「チャーリー。私は、真剣に悩んでるんだ!」
「ごめんごめん。それで、彼女とはどこまでの仲? 手、握った? ハグした?」
「……キス」
「頬? 額?」
「……………唇」

 べしっ! いきなり平手で後ろ頭を張り倒された。
 目から火花が散り、視界が揺れる。

「痛いじゃないか」
「ずるいや、カル」
「ずるくない」
「ずるいよ。僕のことは睨んだくせに、自分はちゃっかりキスしてたなんて。しかも唇に!」
「冗談言うな!」
「冗談? とんでもない。僕はいつだって真剣だよ! 女の子に関しては、特に!」

 しばらく真剣ににらみあってから、ふーっとため息をついた。

「私にとって、彼女はよき友人で……妹みたいなものなんだ」
「ふーん、妹ねえ……あ、グラス空いてるよ」

 トクトクと酒が注がれる。もはやソーダの追加は無し。氷も無し。

「ありがとう」

 ぐいっと一気にあおった。とにかく、胸の奥にわだかまる、もやっとした苛立ちを洗い流したかった。
 実は裸で(かろうじてヨーコは寝巻きは着てたけど)一緒に寝た仲だなんて。言えない。言えやしないよ、チャーリー。

「ほい、もう一杯」
「ああ、すまないね……」
「大丈夫、大丈夫。お酒もつまみも、まだまだ沢山あるからね!」
 
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【side11-2】酔ってるね?

2010/02/26 21:17 番外十海
 
 酒でいい具合に理性がほどけたところで、何気なく聞かれた。

「どんな感じだった?」
「え」
「初めてだったんだろ、女の子相手にキスするのは。どんな感じだった?」
「そ、それは、その………」

 腕の中に収まっていた小さな、華奢な体の感触を思いだす。

「ちいさかった」
「うん、そりゃそうだね」
「骨格からして、華奢で。頬もなめらかで、唇もぷるんとして柔らかくて……」

 無意識に舌で口の中をまさぐる。舌先にむずむずと走るこそばゆさを紛らわせようと。

「歯も、顎の骨も、舌も圧倒的にサイズが違っていて。油断したらそれこそ、彼女を丸ごと食べてしまいそうだった」
「……舌、入れたんだ」
「………………………………………ああ、入れた」

 べちっと衝撃が走り、視界が揺れる。
 額がひりひりしている。今度は正面から叩かれたらしい。

「痛いじゃないか」
「ずるいや、カル!」
「ずるくない」
「妹相手に、舌は入れないだろ」
「……………」

 正論だ。だが、ここで素直に認めるのも何やら悔しい。

「私は……ゲイだ。女性に興味はない。君も知ってるだろう」
「うん、知ってるよ? でもね、カル。世の中には男も女も愛せる人間ってのが存在するんだよ?」
「だから違う! 何でそう言う論法になるんだ」
「女性を愛せることに……いや、女性『も』愛せることに、何か問題があるのかい?」

 チャーリーはペリペリとポテトチップスの袋を開け、差し出してきた。
 腹立ち間切れに無造作につかみ取り、ぼりぼりと噛み砕く。

「べろちゅーは性行為だよ。君は女の子相手に性行為をしたんだ、しかも自分から……」
「性行為、性行為と連呼するな! 私は断じてヨーコ相手に性行為なんかしていない」
「勝った、カルのが一回多い」
「え?」
「僕は二回しか言ってないのに、カルは三回も言ったじゃないか……」

 チャーリーは胸を張って高らかに言い放った。

「 性 行 為 と!」
「黙れーっ」

 ぼふっとクッションを投げつけ、ひるんだ所に腕をまきつけ、ヘッドロックをかける。

「むきゅー、ぎ、ぎぶあっぷ、ぎぶあっぷ」

 グラスが倒れ、メガサイズのポテトチップスが花びらのように舞い散った。

「っと……」
「しまった」

 一時休戦。
 二人していそいそとポテトチップスを拾い上げ、こぼれた酒をふき取る。
 片づけが終わってから、カルは言った。

「いいかい、チャーリー。舌を入れたのは確かにやり過ぎだったけれどね……それは少し先走り過ぎだろう」

 酒の勢いを借りて反論の余地を与えず、一気呵成に畳み込む。

「例えばここに、ゲイを忌み嫌うストレートの男性が居るとする。では彼には同性の友人は居ないのか?学生時代、バスケットの試合でチームメイトと抱き合って喜んだりしなかったのか?答えは否だ」
「親愛の情を示すのにキスしまくるイタリアンマフィアは皆、ゲイの素養があるのか? 否だ! 頭に血が上ったのは認めるがね……そこに性的興奮は無かった。それだけは言える」

 チャーリーはソファに座ったまま、大人しく聞いていた。言葉が途切れた所でさりげなく酒を満たしたグラスを差し出し、受け取る親友の肩を叩く。

「カルヴィン、カルヴィン、落ち着け、ランドール」
「ああ……ありがとう」

 ぽふ、ぽふ、と手のひらで肩を叩きながら、ゆったりとした口調で言葉を続けた。

「同性の友人も、シチリアの伊達者も、カモッラも、『べろちゅー』はしないんだよ。前提が間違ってる。上下が違うだけで、内容同じなの、わかってないでしょ。べろちゅーは、性交渉だよ」

 ぎろっとにらみつける青い瞳をひたと見返し、チャールズ・デントンはきっぱりと言い切った。

「君は、好きでもない相手とほいほい性交渉に及ぶような男じゃない。そのことは、僕がよく知っている」

 あまりにもまっすぐな言葉に、一瞬燃え上がったカルの憤りは、すうっと立ち消えてしまったのだった。

「いや……その……だから……」

 気恥ずかしさを持て余しつつ、ぽつり、ぽつりと言葉をつづる。

「好感を持ったからした、のではないよチャーリー。好感を持っているから出来た、が正しい。第一、私は舌を入れたキスを性交渉とは思ってないんだ………」
「えー。柔らかいとこをこすりあって気持ちよくなるんだよ? 体液だって混ざり合うし……根本的に同じじゃん!」

 言われて真剣に想像し、うっかり納得しそうになってしまった。
 0.5秒後には『そんな訳ないだろう!』と我に返ったが……。
 危ない、危ない。色事になるとチャーリーは雄弁だ。うかうかしているとすぐに言いくるめられてしまう。
 気をしっかり持たねば。

「そもそも、どういう心理状態でヨーコにべろちゅーする気になったのか、詳しく聞きたいね」
「ああ……どう言うって……」

 じとーっとチャーリーをにらみつける。

「……そう……あの時、彼女にキスを仕掛けられて………君の事を考えていたよ、チャールズ」
「…………」

 チャールズは何も言わずに酒瓶を取り、親友のグラスを満たした。
 土産に持参したショウチュウはとっくに飲み尽くし、サイドボードから勝手に持ち出したウォッカの瓶に取って代わっていた。
 かちっと歯から火花が散れば、炎の一つ二つは吐けそうなぐらいに強烈な、無色透明の液体に。
 両者にらみあったまま、同時にくぴっとグラスの中味をあおり、ぶはーっと生暖かい息を吐きだした。

「うまい……」
「うん、いい酒だね……」
「あのさ、カル」
「何だい?」

 手の中のグラスをもてあそびながら、チャーリーがもごもごと口の中でつぶやいた。
 珍しいこともあったもんだ。

「気持ちはうれしいんだけど、さっきも言ったように僕は、女の子専門で……」
「勘違いするな。そう言う意味じゃない」

 ひらひらと手を振って答える。

「わかってるって! 冗談だよ、冗談っ」
 
 とってつけたような明るいリアクションに、むすっとしてにらみ返す。

「笑えない冗談だ」
「ごめん……あ、グラス空いたよ」
「君もな」

 二杯目は少しずつ、味わうようにして口に含んだ。

「……あー、そっか」
「どうしたんだい?」
「キスして初めてわかることも、あるってことだよ。彼女に変化があって、焦ったんだね?」
「なっ、何を薮から棒に!」
「クリスマスパーティーで言ったよね。あーゆー楚々としたタイプは、いざとなったら化けるぞって……」
「くっ」

 図星を指されて言葉の接ぎ穂に困る。チャーリーはしてやったり、と言わんばかりに勝ち誇った笑みを浮かべている。
 ええい、腹立たしい!

「やっぱりそれって彼女の相手への嫉妬じゃないの? 俺の知らない色に染まるなー、みたいな」
「…………どう言えば伝わるのかな…」

 額に手を当てて考えることしばし。

「なぁチャーリー。私は……もし、例えばこれが彼女でなく君だったとしても……そう違わない対応をしていたと思うよ」
「へえ?」
「君がいつものノリでゲイパブを冷やかしに行くとか言い出したとして、尻を撫でられるくらい平気さ! とかなんとか言い出したら。君の掛かり付けの歯医者くらいには、君の歯並びに詳しくなるようなのもお見舞いするよ」
「わお。そりゃ強烈だね」
「だけどそれは、私がゲイで君が男だから平気という事じゃない。私にも好みはあるからね。いくら君が股間に突起物をぶら下げた性別だからって、君の下半身に興味は無いし、君とキスしても性的興奮は無いだろう」

 チャーリーは真面目腐った表情でしみじみと己の股間を見下ろした。それからカルの顔を見上げて、ふはっと一気に噴き出した。

「カル、言ってることが変だよ。酔ってるね」
「……君もな………」
「グラス空いてるよ」
「ああ、ありがとう」

 とくとくと注がれた酒に返杯し、同時に一息に飲み干す。かぁっと熱い空気がのどから鼻腔へと駆け抜ける。
 そろそろ、ウォッカの瓶も底が見えてきた。いや、そもそも透明なんだから最初から底は見えてるが。

「とにかく……」

 ともすれば、あらぬ方向にそれてしまう視線をどうにかチャーリーの顔に定める。
 にらみつけてやりたいはずなのに、中々狙いが定まらない……やっと目が合ったと思えば、向こうがふらりとよろけて外れてしまった。

「とにかく。ディープキスは性行為なんかじゃない」
「えー。柔らかいとこをこすりあって気持ちよくなるんだよ? 体液だって混ざり合うし……根本的に同じだよ……」
「全然違う!」
「そうかなー」

 おや? さっきも同じことを言ったような……聞いたような……。ぐるっと一回転して、また元に戻ってしまったんだろうか。

「第一、キスするのと、ベッドを共にするのとは別問題だ!」
「よーし、わかった」

 いきなり、チャーリーはがばっとセーターを脱ぎ、シャツのボタンを外し始めた。
 酔っているはずなのに、信じられないくらいに速やかに。

「そこまで言うのなら、確かめてみようじゃないか」

 潔くシャツを脱ぎ捨て、上半身裸になると、のしかかって両肩をつかんできた。

「君と僕とで、Hできるかどうか!」
「うわ、よせ、チャーリー!」

 もつれあってソファに倒れ込む。

「んがぁ……」
「……まったく」

 そのまま、チャーリーはがくりと突っ伏し、いびきをかいて寝てしまった。
 気持ちよさそうに眠りこける親友の口をむにーっと引っ張りながら、カルはまゆ根を寄せてほほ笑んだ……わずかに口元を引きつらせて。

「君の、そう言う所が好きだよ、チャーリー……」

 さて。どうやってここから抜け出そうか?
 
(ポテトは野菜、コーンも野菜/了)

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サワディーカ!3皿目

2010/02/26 21:27 短編十海
 
 
 コロロン、コローン……。
 
「エドワーズさんって、いい人だな! 親身になって相談に乗ってくれて。ほんとに本を大事にしてくれる」
「うん……いい人だよ」

 ずっしり重たい紙袋を抱え、テリーとサリーはエドワーズ古書店を後にした。
 袋の中には絵本に童話、小説、図鑑、はては手芸の本や、お菓子のレシピ本まで。テリーが弟や妹のために買った本がぎっしり詰まっている。

「さすがに買いすぎたかなー」
「衝動買いしすぎだよ」
「この本、あいつが欲しがってたなーとか、この本、あの子が好きそうーとか思ったらさ、つい」

 二人並んで石畳の道を歩きだす。両脇には絵はがきに出てくるような古い造りの建物が並んでいる。端が細く、中央がぷっくりと膨らんだ柱はヨーロッパの洋館を思わせる。

「ちゃんと読みたがる相手の顔を思い浮かべて買ってるんだ。無駄遣いじゃない!」
「でもお財布の中味は有限だよ?」
「うう……」
「ランチ食べる分、残ってる?」
「ケ……ケーブルカーのチケット代は、どうにか」
「やっぱり!」

 冷たい乾燥した空気の中に、ふわりと花の香りが混じる。
 赤いレンガ造りの店先に、細長い金属のバケツにいけられた色とりどりの花が並んでいた。

「あ、バーナードのお店だ」
「バーナード?」
「うん。リズの子猫と旦那さんがここに居て、どっちもバーナードって名前で……あれ?」

 店の前に、見覚えのあるトレンチコートがうずくまっている。
 手元には黒い縞模様の猫が仰向けにひっくり返り、ふかふかの腹をおしげもなく撫でさせていた。

「おまえって、ほんとにおだやかな猫だよな、バーナードJr……」
「なーう」
「よしよし……猫ってこんなにじっくり撫でられる生き物だったんだな……」
「なー」

 サリーとテリーは足を止めた。

「あれ」
「お」

 むくっとバーナードJrが起き上がり、とことことサリーの足下に歩み寄る。

「な〜」
「こんにちは、バーナードJr。寒いのに元気だね」
「なーお」
「そっか、君はお父さんゆずりでふかふかしてるものね」
「何だ、おまえらも今帰りか」

 ヒウェルは顔をあげ、まぶしさに目をしぱしぱさせると、ゆらーっと立ち上がった。トレンチコートがぺらりと風にたなびく。

「頼みがある」
「何でしょう?」
「俺と一緒に………飯を食ってくれ。おごるから……」

 サリーとテリーは思わず顔を見合わせる。確かにそろそろランチタイムだ。でも、何で?

「一人で食事すると、さみしいんだよ……」
「あー……」

 なるほど。確かにさっきもエドワーズさんとそんなことを話してた。

「助かる、実は本買いすぎて!」
「わかるわかる。こう、脳みその回路がぱーっと開いちまうんだよな!」

 サリーが返事をする前に、ヒウェルとテリーはすっかり意気投合してしまったようだった。(どっちも本屋の紙袋を抱えてるし)

「……うん、じゃあ行きましょうか」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 中華街の小さなタイ料理屋。10人も入れば満杯になる店内に入って行くと、黒髪をきりっとポニーテールに結い上げた、アーモンド型の瞳の看板娘が出迎えてくれる。

「サワディーカ!」
「やあ、タリサ」
「こんにちは」
「……こんにちは」
「あれ、今日は三人?」
「うん。席空いてる?」
「空いてるよ。どうぞ、こっちへ!」

 青いギンガムチェックのビニールクロスのかかった四角いテーブルに腰をおろす。
 すかさず、どんっと、白いポットに入ったレモングラスのお茶が出てきた。続いて薄い磁器の湯飲みが三つ。
 三人で三杯ずつ、たっぷり余裕で飲めそうだ。

「ほい、メニュー。何食う?」
「パッタイ」
「じゃ、俺も同じの」
「はい、パッタイ二つね。メイリールさんは?」
「カオトム」
「え、お粥? カレーもトムヤンクンも無し?」
「うん。徹夜明けだから胃がもたれるしね」

 まじまじとヒウェルの顔をのぞきこむと、タリサは腕組みしてうなずいた。

「あー、確かに。いつもにも増して不健康そうな顔してる!」
「トッピングは卵と揚げニンニク。味付けはトウガラシとナンプラーで」
「やっぱり辛くするんですね」
「うん、辛いの大好きだから」
「胃は大丈夫なのか?」
「……タピオカのココナッツミルクがけも追加で」

 胃壁に防護壁を張る作戦に出たらしい。
 タリサは注文をさらさらとメモすると厨房に向かい、まもなく何か白いものを持って引き返してきた。

「メイリールさん、はいこれ!」
「何?」
「蒸しタオル。顔に当てると、だいぶ違うよ」
「……俺、そんなにボロボロですか」
「うん。ゾンビって感じ」
「わあ、容赦ない」

 苦笑しながらもヒウェルは素直に眼鏡を外して上を向き、湯気の立つタオルを顔にかけた。

「っあああ……効くなあ………」

 うん、うん、とうなずくと、タリサはサリーに向き直り、にこにことほほ笑みかけた。

「サリーせんせって、いつもお化粧してないよね。やっぱり動物相手だから?」

 サリーもにこやかに返事をかえす。

「やだなぁ。男に化粧すすめないでくださいよ」
「えっ」
「えっ」

 その瞬間、空気が凍った。たっぷり2秒ほど。

「サリーせんせって……ごめんなさい、てっきり、その、女の人かと……」
「あー……はは、は……」

 乾いた笑いで答えるサリーの脳裏に、今までこの店に来るたびに交わした会話の断片がフィードバックする。

『寒くなると、手あれがひどくなるよねー』
『だったら、馬油のハンドクリーム使うといいよ』
『こっちのシャンプーは、何か髪質に合わないみたいで。パサパサになっちゃった』
『中華街でいいの売ってたよ!』

 今まで何の疑問も抱かなかったけれど、考えてみればあれ、全部女の子同士の会話だった……な……。

「よく言われます………」
「きゃーっ、ごめんなさいっ、わたしったら!」

 ばっとエプロンで顔を覆うと、タリサはダッシュで厨房に飛び込んで行った。
 
(ばか、ばか、わたしのばかーっ)

 ちらっとヒウェルが蒸しタオルをもちあげる。

「どーしたんだ、タリサ」
「いえ……ちょっとね……」
「……………」

 サリーは力なく笑い、テリーはぽーっと厨房の方を見つめていた。つい今し方、タリサが消えた方角を。

(おやあ? これは、ひょっとして、ひょっとする、かな?)

「お待たせしましたっ」

 数分後、運ばれてきたパッタイは、サリーの分がちょっとだけ盛りが多かった。
 おわびのつもりらしい。一緒についてきた看板猫がサリーに顔をすり寄せ、ひゅうんと細い、長い尻尾で彼の手と足を撫でていた。

「み、み、み」
「……うん……ありがと」
「みゃおう」
「よくあることだから」

 慣れた手つきでトッピングを粥に投入し、かきまぜるとヒウェルは背中をまるめてずぞーっとすすった。

「そいや、君ら、何で本屋にいたんだ? あの時間に、珍しいよな」
「あー、たまたま午前中が空いてたし。絵本をさがしてて」
「絵本?」
「うん、テリーの妹が大事にしてる絵本が壊れちゃって……」
「なるほど、それで新しいのさがしに来たのか」
「ええ。でも直してもらえることになったんです」
「そうか! うん、Mr.エドワーズならきっとそう言うと思ったよ。で、何てタイトルの本なんだ?」
「竜の子ラッキーと音楽師」
「へぇ……あれ、それってけっこう文字の多い本じゃないか。その、テリーの妹ってのはいくつなんだ?」
「確か、5歳」
「そりゃ大したもんだ!」
「最初は読んでもらってたみたいですけどね」

 変だな。
 サリーはかすかな違和感を感じた。さっきから自分とヒウェルがしゃべっているばかりで、テリーの反応がない。
 いつもの彼なら『まだ5歳なんだぜ』『すごいだろ! かしこい子なんだぞー』とミッシィの自慢話に花を咲かせるはずなのに……

「テリー?」

 箸を持ったまま、動かない。コマドリの卵色の瞳はぽやーっとあらぬ方角をさまよっている。

「てりー?」
「おーい、テリーくーん」

 さすがに二方向から同時に名前を呼ばれ、我に返ったようだ。

「あ……俺……」
「……まあ、飲め」

 ヒウェルはぽん、とテリーの肩を叩き、たぱたぱとレモングラスのお茶を注いだ。

「ああ、うん」

 ごきゅごきゅと一息に飲み干すと、テリーは猛然と皿の中味を口に運んだ。山盛りのパッタイがみるみる消えて行く。
 あっと言う間に皿が空っぽになった。

「そんなに腹減ってたのか、君は」
「うまいなーこれ!」
「うん、うまいだろ。何か追加で食うか?」
「さんきゅ!」

 テリーは伸び上がって奥で控えるタリサに向かって手を振った。

「すいません、グリーンカレー追加で!」
「はい、グリーンカレーねっ!」

 ポニーテールをなびかせてさっと飛んで来て、伝票に追加分を記入している。

「おい、平気か? ここのカレー、結構辛いぞ?」
「平気、平気、俺、辛いの好きだからっ」
「わあ。さすがメイリールさんのお友だちね」

 タリサは目を細めて白い歯を見せ、ころころと笑った。まだほんの少し、眉の間に困ったような皺が残っていたけれど、それでも笑った。
 テリーはまた、ぽやーっとその笑顔に見入り……

「あ、あのっ」

 ぎゅっと拳を握り、タリサに向かってわずかに身を乗り出した。

「はい?」
「………空心菜のニンニク炒めも追加で」
「はい空心菜のニンニク炒めねっ!」

 そんなテリーを、ヒウェルは眼鏡の奥からつぶさに観察していた。

(何てわかりやすい奴なんだ……)

「なあ、テリー。ここの空心菜は、きっちりトウガラシが入ってるから……」
「俺、辛いの好きだしっ」
「うん、それはわかる、けど。何か甘いもん頼んでおいた方がいいぞ?」
「……じゃあ、ジンジャーチャイ」

 ダメだこりゃ。
 辛い料理食ったとこに、熱々のチャイ飲んでどうするよ、テリーくん。

「……タリサちゃん」
「はい?」
「タップティムグロープ(クワイのココナッツシロップがけ)も頼むわ」

 予想通りひんやりしたデザートは、テリーの救い主となった。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 店を出ると、ヒウェルはんーっと大きくのびをして目をしばたかせた。

「んじゃ、俺、そろそろ帰って寝るから」
「あー、うん、その方がいいですよ……」
「飯、ごっそーさん、うまかった」
「いや、いや、こっちこそ。つきあってくれてありがとな。楽しかったよ」

 ぱちっと片目をつぶるとひらひらと手を振り、ヒウェルは歩き出した。

「それじゃ、な」
「お気を付けて……」

 ひょろりとした背を見送り、サリーとテリーも歩き出す。
 入り乱れる朱色と黄色。適度にごっちゃりした中華街の雑踏を歩きながら、テリーがぽつりとつぶやいた。

「今の子、かわいかったなぁ」
「あ、うん、そうだね………」

 答えたものの、サリーはてんで上の空。

(半年近くあのお店に食べに行ってたのに。ずーっと女の子だって思われてたんだ……)
(アメリカ人ならともかく、同じ東洋人のタリサにまで女の子にまちがえられるなんてっ!)

 テリーもやはり上の空。
 頭の回りにピヨピヨと、コマドリが輪になって飛んでいた。一羽残らずちっちゃなくちばしに、ピンクのハートをくわえて。
 互いの温度差に気付かぬまま、二人はとことこと歩いてケーブルカーに乗り込んだ。

(若いってのは、いいねぇ。実に率直で、わかりやすい!)

 一方でヒウェルは軽くなった財布を懐に、何となくふっくら幸せな気分で帰路に着いたのだった。
 

(サワディーカ!3皿目/了)
 
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