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ローゼンベルク家の食卓

【4-16-8】一番幸せなランチ

2010/02/17 0:39 四話十海
 
「そこの階段を上がってください」
「はい」
「狭いから気をつけて」

 とん、とん、とん。ほんのりと薄暗い壁に、床に、足音が響く。
 手すりのついた階段は途中で角度を変え、白いドアの前にある踊り場に行き当たる。ドアの下部には、猫専用の出入り口が開いていた。
 しかしリズは行儀良く踊り場に座り、じっとドアが開くのを待っている。

「どうぞ」
「にゃ……」
「おじゃまします」

 扉の向こうには、居心地の良さそうな居間があった。
 壁はカボチャのスープのような柔らかな黄色。古い建物の常として窓は小さめだが、壁の色のおかげで十分に明るく、あたたかく感じる。
 中央にソファとローテーブルの応接セットが置かれ、壁際の一角には食事用のテーブルと椅子が四脚。いずれも磨き抜かれた木製。そして食卓のすぐ横にはキッチンに通じるドアがあった。ちょうど猫いっぴきぶん、通り抜けられるように開けてある。

 深みのある焦げ茶色の食卓の上には、ガラスコップにいけられたオレンジ色の薔薇が三本。みずみずしい香りを漂わせている。

「コートはそちらに掛けてください。食事に使うのは、どちらのテーブルがよろしいでしょう?」
「そーだな、ちっちゃい子もいるし……低い方がいいか」
「そうですね。では、少々お待ちください」

 その間にもこもことミッシィはコートを脱いだ。白い帽子も。ヒヨコ色のマフラーも手袋も。ゆっくりと、自分で脱いだ。
 テリーは妹の脱いだものを受け取り、マフラーと手袋はちゃっちゃと畳み、オレンジのダウンコートはラックに掛けた。

「お待たせしました」

 エドワーズがキッチンから木の踏み台を持ってきた。
 角度を調整し、ローテーブルの前に置く。

「どうぞ、お座りください」

 ミッシィは真面目な顔でちょこん、と踏み台に……いや、自分用の椅子に座った。

「さんくす」

 高さも幅もぴったりだった。

「では失礼してお茶を入れて来ますので、ごゆっくり」
「はい、ありがとうございます」

 エドワーズはキッチンに移動し、冷蔵庫の前まで来て……ふーっと息を吐き、脱力した。

(ああ、緊張する!)

 とにかくお茶の準備だ。ヤカンに水をたっぷり入れて火にかけ、ポットと紅茶を用意する。ミルクと砂糖も忘れずに。
 お湯が沸くまでの間に、自分の分の昼食をこしらえることにする。
 食パン二枚、耳を落とさずそのままバターを塗り、マスタードを塗り、レタスとハム、チーズ、スライスしたトマトとピクルスを載せて。ペーパーナプキンで軽くくるんでぎゅうっと圧縮。上下のパンがぺったりと密着したのを確認してから、さっくりと四つに切り分ける。
 これでできあがり。

 しゅんしゅんと沸いたヤカンのお湯をティーポットとカップに注いでしばらく温めて。
 ポットに紅茶を1、2、3、4、5杯。こんなに多く入れるなんて、実に久しぶりだ。
 お湯を注いで、懐中時計できっちりと時間を計る。自分一人で飲む時は大抵、4分。だが今日はお客様も一緒なのだ。3分で切り上げ、カップに注いだ。
 慎重に。自分一人で飲む時とは比べ物にならないくらい。本を扱う時のように慎重にお茶を注ぐ。

「お待たせしました」

 できあがったものをトレイに載せて居間に戻った。

「どうぞ」
「ありがとうございます」
「砂糖とミルクはお使いになりますか?」
「あ、ミルクください」
「かしこまりました」

 テリーはミッシィの分にミルクをたっぷりと注いだ。

「ミッシィ、砂糖も入れるか?」

 返事はない。
 ローテーブルの上にはランチボックスが三つ。子供用の小さな箱が一つに大人用が二つ並んでいる。
 そして今、まさにミッシィが小さな蓋を開け、食い入るように現れた中味に見入っている所だった。

「………………」

 ひと言もしゃべらずに細かく震えている。
 何気なく彼女の手元に目をやり、エドワーズは驚愕した。
 何と言うことだろう! 
 オレンジの屋根の家、深い緑色の庭に咲く赤い花、黄色いワンピースを来た小さな白ウサギ。
 小さな子供用のランチボックスの中に、ブルーナーの絵本の1ページのような世界が広がっている。

 家の壁は四角く整えたライス。細く切った黒いシートで窓まで描かれている。三角の屋根はスライスしたニンジン。
 あの濃い緑色の庭は茹でたアスパラとブロッコリー。
 ちっちゃなウサギの服はオムレツ、目は黒いゴマ。口はおそらく窓と同じ。顔の部分はにおいから察するにシーフード系の素材でできているようだ。
 そして花はウィンナーソーセージとミートボール。ウィンナーの端には切れ込みが入れられ、くるんと美しく巻いている。
 あまりの細工の精密さ、緻密さにもはやため息しか出てこない。

「おはな……」

 ミッシィはふるふると震えたままのびあがり、テリーのシャツをきゅっと握った。

「おにーちゃん、これ、ぱしゃっとやって。ぱしゃっって」
「OK」

 テリーは携帯をとりだして、ぱしゃっとブルーナーのランチを写した。

「さんくす、さりー、さんくす」

(よかった、気に入ってくれて)

 サリーはほっと胸をなでおろした。

「これは……もはやアートですね。素晴らしい。日本のランチは、みんなこんな風に作られているのですか?」
「みんなじゃないけど、けっこう工夫して作りますよ。可愛く作るとちっちゃな子が喜ぶから、お母さんたちががんばるんです。苦手な野菜も、好きなキャラクターの絵になってると食べられたりするし」
「なるほど。色彩がたいへん美しい……ブルーナーの絵ですね……」
「みっしぃ!」

 エドワーズは真面目な表情でうなずいた。

「確かに。Missミッシィは、ブルーナーの本がお気に入りなのですね」
「Yes!」

 もう、ミッシィは怯えてもいないし、緊張してもいなかった。
 サリーとテリーは顔を見合わせ、安心して自分たちの分の弁当を開いた。
 現れたのは白と黒、モノトーンの完ぺきな三角形の群れ。エドワーズは思わず感嘆の声をもらした。

「何と! どうやったらコメがこんなきっちりとした形に!」
「そんなに難しくないですよ……慣れれば」

 エドワーズは自分の作った武骨なサンドイッチを見下ろし、小さく首を横に振った。

「私にとっては魔法に見えます」
「オニギリって言うんだ。俺もできるぜ!」

 テリーが得意げに胸を張った。

「それは素晴らしい」
「あ、よかったらひとつどうぞ」

 サリーはほほ笑み、三角のおにぎりを手にとり、すすめていた。

「ありがとうございます……では、よろしければこれを」

 それは何の気負いもためらいもない、とても自然な所作だった。だからエドワーズも当たり前のように答えることができたのだった。
 二人が互いにランチを交換する隣では、ミッシィがテリーに自分のおかずを分けていた。

「おにいちゃん、おはな」
「お、くれるのか。さんきゅ。じゃあにいちゃんのおにぎり、一口やろうな!」
「さんくす」

 全員にお茶と、ランチが行き渡ったところでサリーはきちっと手を合わせた。

「いただきます」
「イタダキマス」

 テリーも真面目に復唱。ミッシィはきょとんとして首をかしげたが、すぐに真似して手を合わせる。

(はて、どこかで聞いたようなお祈りだ……)

 ミッシィは一口ずつ、大事に、大事にお弁当を食べた。サリーの作ってくれた絵本のランチをしっかりと食べた。
 エドワーズもまた、初めて食べる『おにぎり』の造形の美しさと、シンプルな味わいに静かに感激していた。

「こんなライスの食べ方もあるのですね。実に味わい深い。私は、スシよりこっちの方が好きです」
「ありがとうございます」

 ミッシィも、エドワーズさんも、静かだけどとても喜んでくれている。
 くすぐったいような気持ちでサリーは交換したサンドイッチを噛みしめ、こくん、と熱い紅茶で流し込んだ。

(しっかり作られたサンドイッチだな。丈夫で、きっちりして、何だか、安心する)

 ケチャップは入っていない。コショウもマスタードも、あくまで素材の味を引き立てるために添えられているだけ。

〔エドワーズさんって、こう言う味付けが好きなんだ……)

 最後の一口まで崩れず、きれいに食べることができた。
 紅茶と、サンドイッチとおにぎり、お花のウィンナー。
 ちょっぴり風変わりなランチを、ソファに座ったリズが優雅に見守っていた。青い瞳を細めて、ごろごろとのどを鳴らす彼女はどことなく安堵しているように見えた。

「はぁ……ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさんっ」
「ごちそー……さ、ま?」
 
 帰り際、サリーはコップにいけられた薔薇に軽く触れた。

「きれいな薔薇ですね。オレンジ色って珍しいな」
「え、ええ。今の季節は、庭に花がないので…………」

(あなたも居なかった)

「さみしくて、つい買い求めてしまいました」
「そうですね……」

 以前、エドワーズさんからもらった薔薇は夜明けの空のようなピンク色と、クリーム色をしていた。
 今は冬。庭の薔薇はひっそりと眠っている。

「そうですね。確かにちょっとさみしいかな」

 顔を寄せ、あふれ出す香りをかいだ。

「こう言う明るい色は、見ていて楽しくなれる……」
「うん。きれいなニンジン色だよな!」
「みっしぃ」
「そうだな、ミッフィーの色だな」
「ミッシィのコートも同じ色だね」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「ありがとうございました。それじゃ、また……」
「お気を付けてお帰りください。いつでもお待ちしております」

 エドワーズは自らドアを開け、大切なお客様を送りだした。

「Miffy,Miffy,Miffy,run! With her friends she's having fun!」

 小さな女の子の歌声がかすかに聞こえる。初めて店に来た時は、ひと言しゃべるのにも勇気を振り絞っていたのに。
 すっかり元気になったようだ。

 サリー先生とテリー、そして小さなミッシィ。三人が帰ってしまうと、店の中が急にがらんと静まり返ってしまったような気がした。
 妙な話だ。これこそが本来の在り方なのに。
 リズがごろごろとのどを鳴らして身を寄せてくる。そっと手を伸ばし、なめらかな温もりを撫でた。

「……ありがとう、リズ」
「にゅ」

 猫以外のだれかと一緒に食事をしたのは、本当に久しぶりだった。話しながら食べることが、あれほど楽しいなんて……すっかり忘れていた。

「あ」

 今さらながら重要な事実に気付いた。
 自分は、サリー先生と一緒にランチを食べたのだ。しかも、先生の作った料理を食べた。自分の作ったサンドイッチと交換して。
 
 もはや一緒にお茶を、どころではない。

(わ、私は……私は………何て大それたことを!) 
 
 かあっと頬が内側から火照る。頭を抱えそうになる手を意志の力で食い止める。
 何を焦っている。二人きりではなかったではないか。だからこそ、思いきって声をかけたのだ。

 ああ、それでも……今日の昼食は、生まれてから一番、幸せなランチだった。

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 太陽に愛された浅黒い肌に、天然アイラインに縁取られたくりっとした瞳、くるくるウェーブのかかった黒い髪。
 さんさんとお日さまの振りそそぐ窓際の、チューリップ模様のラグの上で、ミッシィは今日も大好きな絵本を読んでいる。

 大きな音がして、怖いことのたくさんあった家。だけど、ミッシィの生まれた家。
 ある日、父さんと母さんがいくら待っても帰って来なかった。ひとりぼっちで震えていたら知らない女の人がやってきて、ミッシィをこのお家に連れてきた。
 これからどうなってしまうんだろう。この人たちはいったいだれなんだろう。
 知らないもの、知らない人ばかりで怖かった。ただ一つ、知っていた絵本を見つけた時はうれしかった。

 一瞬だけ『怖い』から『うれしい』に大きく揺れた心の振り子は、少しずつ。少しずつ安定していった。
 やがて、ミッシィは強ばっていた手足を伸ばし、初めて自分から新しいことに挑戦した。
 ミッフィーよりもずっと文字の多い、きれいな絵本に手をのばし、開いたのだ。最初は絵を見て、ぽつぽつとわかる単語を読んだだけ。
 ほとんど意味がわからない。でも知りたい。どうしても知りたくて……新しい「おかあさん」に、初めて自分から話しかけた。

『これ、よんで』

 親からはぐれた竜の子が、旅の音楽師に出会い、大切に育てられる。いっしょに旅をする。そのお話を読んで、ミッシィは安心した。
 自分も、同じなんだと思った。

 この本がばらばらになった時、やっと開きかけた扉は閉ざされ、ミッシィの世界もばらばらに引き裂かれてしまった。
 だけど、もう怖くない。
 本のお医者さんがいるから、大丈夫。 
 
(本のお医者さん/了)

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