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ローゼンベルク家の食卓

【4-16-3】薔薇の名はサリー

2010/02/17 0:33 四話十海
 
 とろりとした水の中でもがく。浮かびかけてはまた沈み、沈んではもがいてまた浮かぶ、その繰り返し。
 いったい自分は底に潜りたいのか、水面に浮かびたいのか。どちらにも行けず、ひきつれた苦々しさの中、徐々に視界が明るくなって行く。
 ちっともやすらげぬまま、眠りが終わろうとしていた。

「む……」

 まぶたの裏に、白い光が当たっている。どうしたことだろう。今の季節、まだ朝の五時には日が昇らないはずなのに。この明るさは、まるで……
 うっすらと目をあける。壁にかかった時計に焦点が合った瞬間、エドワード・エヴェン・エドワーズはがばっと跳ね起きた。

「7時!?」

 胸のあたりに寄りそっていた柔らかな温もりがもぞりと身動きし、にゅっと顔を挙げる。

「ああ、リズ、すまない。驚かせてしまったね……」

 何と言うことだ。よりによって居間のソファで寝てしまったのか。服も着替えず、タイをゆるめただけで。
 しかもローテーブルの上には、昨夜飲んでいたグラスとウィスキーの瓶が出しっぱなしになっている。
 冷え込みの厳しい夜だった。最初の一杯は、体を暖めて寝つきをよくするためにお湯で割っていたはずなのだが。
 一杯が二杯になり、三杯、四杯目あたりからはストレートで流し込んでいた。

「だめな飲み方だな……」

 起き上がると体の節々がきしんだ。
 やれやれ、飲んだくれてソファで雑魚寝とは。だが思ったより寒くなかった。リズがずっとあたためていてくれたのか。

「心配かけてしまったね、リズ」
「み」
「ありがとう」

 手のひらにすり寄せられる、華奢な三角形の顔をなでる。鼻から目、額、耳、そして首筋へとなめらかに指がすべる。
 テーブルの上のコップにはオレンジ色の薔薇が一輪、白い冬の朝日を浴びている。
 バーナード父子の顔を見に立ち寄った花屋で見つけてしまった小さな薔薇。品種と値段を記した手書きの札に目が釘付けになり、店を出る時、一輪だけ買い求めた。
 コップに活けた薔薇を眺めつつ、グラスを傾けているうちについ、杯が進み……
 意識が混濁するまで飲み続けてしまったのだった。

 薔薇の名を「サリー」と言う。

 今日で何日、あの人に会っていないだろう? 去年の秋に一度この店を訪れて以来、週に一度は顔を見せてくれていたのに。
 それがクリスマスを過ぎて以来、ふっつりと足が途絶えた。新年は日本に帰っているのだとマックスから聞かされた。実家の家業が忙しいから、手伝うために。

『サリーとヨーコの実家はジンジャなんだ。正月は戦争なんだと』
『ハロウィンの警察といい勝負らしい』

 ジンジャが新年に何をするのか、具体的にはよくわからないが、とにかく忙しいと言うのは察しがついた。
 しかし、一月に入ってもはや二週間目。さすがにそろそろサンフランシスコに戻って来ているのではないか……。
 思い巡らせつつシャワーを浴びて、ヒゲを剃る。洗面所の鏡に映る自分と目が合った。
 
(……ひどい顔だ)

 どこに押し付けたものか、顔にくっきりと線状の痕がついている。肌も張りを失い、たるんでるように見えた。
 たかだか一晩、酔いつぶれて転た寝しただけでこうもくっきり顔に出るとは。認めたくはないが、歳月の重みは確実に体のそこかしこに影を落とし始めている。

(もう若くはない。己の体力を過信してはいけないと言うことか……)

 バスローブを羽織ったまま三階の寝室に上がり、下着からシャツまで全て、洗いたてのものに取り換えた。
 ぱりっと糊の利いたシャツに支えられ、背筋が伸びる。身支度を整えるとキッチンに降りて、リズの朝食を用意する。

(そう、これは何を置いても最優先!)

 ローテーブルの上の酒盛りの残骸を撤去し、今度は自分の朝食の準備にとりかかる。
 まずは湯を沸かし、熱い紅茶を入れる。いつもより濃いめに。
 イングリッシュマフィンにバターとメープルシロップをたっぷりつけてこんがり焼いた。卵とベーコンは……さすがに胃にもたれそうなので省略。
 うれしいことに、腹に物が入ると霞のかかっていた意識がしゃっきりしてきた。まだこの程度の体力は残っていてくれたらしい。
 ひそかに感謝しつつ、庭に出て霜や氷の被害が出ていないかチェックした。
 いつもの年なら、思い出したようにぽつり、ぽつりと花をつける株もあるのだが、さすがに今年は見当たらない。
 寒さに強いはずの椿さえ、霜に打たれて花びらが茶色く変色していた。
 今年の寒波は異常だ。レモンが木になったまま凍りついたと言う話も聞く。それに比べればまだ、己の庭の被害は微々たるものだ。
 黒く朽ちてしまった葉を丁寧に取り除き、中に戻って開店準備にとりかかる。

 よろい戸を開け、扉の札を「Open」に。ノートパソコンを開く……前にまず携帯を開き、写真を一枚呼び出した。
 これで何度目だろう。もう、何回ボタンを押せばいいか指がすっかり覚えてしまった。
 
 
 ※ ※ ※
 
 
 先週、マックスが差し入れを持ってやってきた。献立はしっかり中味の詰まったミートパイ。赤みのひき肉を使い、野菜もきちんと練り込まれている。

「すっかり料理の腕が上がったね」
「食ってもいない内から言うな。慣れだよ、慣れ!」

 ぶっきらぼうな物言いでぷいとそっぽを向き、わずかに頬を染めて髪の毛をくしゃくしゃかきあげる。照れた時のお決まりの仕草だ。

「それと、こっちはオーレの写真な」
「ははっ、いい顔をしてるね」
「何故か本棚に潜り込むの好きなんだよな、あいつ。本屋育ちだからか?」
「ああ、ちっちゃい頃は六匹そろって本棚に詰まっていたよ」
「……こんな風に?」
「ああ、ちょうどそんな感じだね」
「こっちはもっとすごい格好してるぞ」
「……っ!」

 がっしりした手の中の携帯電話。その画面にずらりと並ぶ画像の一枚に目が吸い寄せられてしまった。

(サリー先生が、二人っ?)

「マックス……その写真……」
「ああ、これか。ヨーコからもらったんだ。ジンジャの正月の写真だと」

 サムネイル表示から大きな画像へと切り替わる。
 白い着物と赤いハカマを身に付けたサリー先生が映っていた。同じような服装の少年、少女たちと一緒に。

「あ、ああ……こっちはMiss.ヨーコか……」
「傑作だろ? こうして見ると双子みたいだよな、この二人」
「そうだな……何とも愛らしい人だ」
「え?」
「い、いや、愛らしい人たちだね、うん。それで、その、マックス」
「何だ?」
「よかったら、その、転送してもらえるかい?」
 
 意を決して頼んでみた。
 ちょっとの間マックスはきょとんとしていたが、すぐに納得したらしい。

(そうだよな、EEEはヨーコともサリーとも知りあいだ。コウイチやロイとも面識がある)
(それに最近、やけに日本の文化に興味があるみたいだし……)

「ああ、ちょっと待ってろ」

 その場でMiss.ヨーコに電話をしてくれた。

「ハロー、ヨーコ? うん、元気だよ。実は君が正月に送ってくれた写真な。あれ、EEEが欲しいって言ってるんだ」

 直球すぎる言い方に一瞬、心臓が冷えた。
 写真が欲しいって、マックス、そんな、ストレートに! さすがに変に思われないだろうか?
 だが、彼女は快く承諾してくれた。

『エドワーズさんが? OKOK。問題ないよ』

 かくして、青い瞳の白い子猫の写真と一緒にサリー先生の写真が彼の携帯に転送され、大事に保存されたのである。

 改めて手の中の携帯に見入る。
 確かにこの二人はよく似ている。サムネイル画像を目にした瞬間、サリー先生が二人いるのかと思ったくらいだ。
 だが、それは写真だから感じることだ。実際に二人並んでいる所を見れば、たとえ同じ服装、髪形でもすぐにわかる。
 声の奏でる旋律、まとう空気のカラー、まなざしの柔らかさ。確かに似てはいるが、サリー先生を見分ける自信はあった。
 
 ときめいちゃった相手が男でした。
 そっくりの従姉がいます。乗り換えますか?

 そんな単純な問題ではないのだ、断じて。

 とん!
 しなやかな白い体がカウンターに飛び乗ってきたと思ったら、冷たい鼻がにゅっと手首に押し当てられる。
 リズだ。
 はっと我に返る。
 携帯を閉じるか、閉じないかのうちドアベルが鳴った。

 コロロンコローン……。

 慌てて背筋を伸ばす。朝一番のお客さまだ。気を引きしめてお迎えしなくては。

「いらっしゃいませ」

 ドアをくぐって入ってきたのは……

「こんにちは、エドワーズさん」
「サリー先生!」
 
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