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ローゼンベルク家の食卓

【4-16-4】若気の至り

2010/02/17 0:34 四話十海
 
 つややかな黒髪、おだやかな光をたたえた黒い瞳、そしてなめらかな琥珀色の肌。ついさっきまでは小さな写真でしかなかった人が今、目の前にいる。
 エドワーズの心臓は文字通り「どっくん!」と音を立てて跳ね上がった。
 一瞬、胸がいっぱいになって言葉が出てこない。ただ頬が緩み、目を細めていた。あふれ出すあたたかな感情を、隠さねばと考えることすら忘れていた。ふさふさと豊かなまつ毛が一瞬下がり、また上がる。そしてサリー先生は……

 ほほ笑みを返してくれた。
 カリフォルニアらしからぬ凍てつく冬をつかの間忘れる。
 デイジー、ポピー、ワイルド・マスタード。土の温もりを吸い込み花開く、春の野にも似た温もりに包まれる。

「…………」
「…………」

 心地よい静寂の中、ただ見つめあう。たっぷり2秒ほど。

「にゃー」

 優雅に身をくねらせ、リズが横切った。その瞬間、凍っていた時間が溶けた。

「こんにちは、リズ」
「みゅ」
「あー……その……サリー先生」
「はい?」
「新年おめでとうございます」
「……おめでとうございます」

 ああ、何を間の抜けたことを言ってるんだ。もう今日は17日じゃないか! とっくに新年のお祭り気分なんか抜けている。

「今日は、お早いお越しですね」
「勤務は午後からのシフトなので……」
「うー、寒かったぁっ」

 サリー先生に続いて、背の高い若者が入ってくる。褐色の髪に、ターコイズブルーの瞳。

『俺たち付きあってます!』

 ……彼だ。名前は確か

「あ、彼は大学の友達で、テリーって言います。テリー、こちらがエドワーズさんだよ」
「ども」
「こんにちは、テリーさん」

 丁寧に挨拶し、控えめに問いかける。

「今日は何をお探しですか?」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 店に入った瞬間、サリーはとっさにエドワーズの頬の怪我を確かめていた。もう絆創膏は貼っていない。うっすらと線が残っているだけだ。じきにそれも消えるだろう。

(良かった……)

 出迎えてくれた瞬間の笑顔。いつも控えめで物静かな紳士が、まるで子どものように素直に、顔いっぱいに笑み崩していた。ちらりと口元から白い歯までのぞかせて。

(今日は機嫌がいいんだ)

 ごく自然に笑み返していた。ずっと胸の中に居座っていたわだかまりが、日の光に溶ける雪玉のようにすうっと小さくなった。
 どうしてためらっていたのだろう?
 もっと早くに来ていれば良かった。

「にゃー」

 リズの声に我に返る。

「うー、寒かったぁっ」

 そうだ、テリー。今日は彼のために来たんだった。

「あ、彼は大学の友達で、テリーって言います。テリー、こちらがエドワーズさんだよ」
「ども」
「こんにちは、テリーさん……今日は何をお探しですか?」
「絵本を探してるんです。竜の子ラッキーと音楽師って言う」
「竜の子ラッキーと音楽師……」

 カチャカチャとパソコンのキーに指を走らせている。

「ローズマリー・サトクリフの絵本ですね。あれは美しい本です。残念ながら絶版ですが」
「そう、そうなんだ! あるのか、この店にっ!」
「あいにくと、当店の在庫はありませんが、知りあいの店に尋ねれば手に入るかもしれません」
「頼む。妹の大事な本なんだ。落っことした拍子に壊れちまって!」

 テリーはぐっと身を乗り出した。ターコイズブルーの瞳に真摯な光がみなぎっている。

(なるほど、そう言う事情があったのか)

 エドワーズはうなずいた。

(おそらくまだ小さな女の子なのだろう。よい兄さんだな。妹のためにこんなに一生懸命になって……)

「テリーさん。その、壊れた絵本なのですが、破けたり、濡れたり、焦げたりしてしまったのですか?」
「いや……こんな状態なんだ」

 開いた携帯には、ばらばらになった絵本が写っていた。顔を寄せ、つぶさに状態を観察する。この小さな写真では詳細はわからないが、どうやら綴じ糸が切れてしまったらしい。
 このレベルの破損なら、修復できる。

「これなら、直せますよ」
「ほんとかっ?」
「ええ、装丁のしっかりした本ですし。小さなお子さんにとってのお気に入りの一冊なのでしょう? でしたら、新しい本では代わりになれないものです」
「そう、そうなんだよっ」

 カウンター越しにさらに身を乗り出し、ぎゅっと両手でエドワーズの手を握った。あまりの熱血ぶりに気圧され、握られた強さに体が揺れる。

(おっと)

「その方が、ミッシィも絶対喜ぶ! あの子が大事にしてるのは、正にこの一冊なんだ!」

(これが若さか……)

 さすが二十代。熱い。

「では一度、店に持ってきていただけますか?」
「わかった。持ってくる!」
「……テリー……」
「あ……」

 ようやく、自分のしていることに気付いたらしい。顔を真っ赤にして手を離し、乗り出していた姿勢を元に戻している。

「す、すみません、つい」
「いいえ……」
「あのっ、他にも子ども用の本とかあったら買ってきたいんですけどっ」
「こちらの棚が児童書コーナーになっております」
「おー。ちょっと見せてもらっていいですか?」
「どうぞ、ごゆっくり」

 そんな二人を、サリーはにこにこしながら見守った。

(良かった、二人とも気が合うみたいだ……あれ?)

 エドワーズさんの耳たぶに、ちかっと何かが光った。

(何かついてる?)

 開店直後にこの店を訪れるのは、始めてだった。部屋の中に差し込む太陽の光線の角度が、いつもとは微妙に違う。
 今までついていたのか、それとも、光の加減で初めて気付いたのか。

(セロテープ……じゃないよね……絆創膏?)

 首をかしげつつ、ついまじまじと見てしまう。視線を感じたのか、エドワーズが振り返り、目が合ってしまった。

(あ……)

 どうしよう。じろじろ見るなんて失礼だ。わかっているのに、目がそらせない。穏やかなライムグリーンの瞳に吸い込まれそうだ。
 ふっとエドワーズが目元を和ませた。

 何故だかその時、サリーは思ったのだった。
 ああ、これでいいんだ、と。

 コロロン、コローン……

 ぎぎぃいいとドアがきしみ、ドアベルが(何故か)不気味に響く。リズが耳を立ててぴっと入り口をにらんだ。

 ゆらぁり。

 うすっぺらなトレンチコートをはためかせ、ゾンビが一体よろよろと入ってきた。
 生気の抜けた細い顔に眼鏡を引っかけて、薄汚れたレンズの奥で血走った目をしょぼつかせ、ぼさぼさの長い黒髪を首の後ろでたばねている。

「……ヒウェル?」
「あ……サリー……おはよう」

 さわやかな朝の挨拶も、地の底から響くような声で言われると何故か不気味だ。

「おはようございます」
「……よ、ヒウェル」
「やあ、テリーもいたのかー……」
「ぼろぼろだな。どーした?」
「うん……ずーっとかかりっきりになってた仕事がよーやく終わってさ……」

 眼鏡ゾンビは目をしばたかせ、ふわぁ……と生あくびを一つ。

「久しぶりに生きた人間と話したくて、上に行ってみたんだけど」
「………だれもいなかったんですね」
「うん。レオンもディフも、オティアもシエンもみんな出勤してた……」

 店内の椅子に腰をおろしてがっくりと肩を落とした。

「オーレも………」
「ああ。それは寂しいですね」

 エドワーズの言葉に、眼鏡ゾンビはがばっと顔をあげた。

「一人暮らしだと、なかなか人としゃべる機会がありませんから。私もつい、リズに話しかけてしまう」
「Mr.エドワーズ……」
「時々、だれかと話したくてつい、用事も無いのにふらりと買い物に出る事も……」
「そう、そうなんだよっ!」

 ヒウェルはしぱしぱとまばたきすると、血走った目をうるっと潤ませた。思わぬ所から同意を得られて、よほど嬉しかったらしい。

「しばらく、そこのスタバでコーヒー飲んでたんだけどさ。いくら人通りの多い所にある店でも、なんか、余計に寂しくなってきてっ」
「そうですね。一緒に入る相手がいなければ、結局は黙ってコーヒーをすするしかありませんから」
「うん……空しかった」

 そして、人との会話を求めてこの店まで流れてきた、と。
 それでも収穫はあったらしい。ヒウェルの手には、一束のペーパーバックと古雑誌がしっかりと確保されていた。
 まとめてどん、とカウンターに置く。

「これ全部ください」
「はい、かしこまりました」

 二人の視線が交叉する。さみしい独り者同士、何やら通じ合ったらしい。

「あれぇ?」

 本の値段を確認し、レジを打つエドワーズを見ていたヒウェルが、いきなり素っ頓狂な声をあげた。

「Mr.エドワーズってもしかしてピアスしてます?」

(えっ、ピアス?)

 エドワーズの手が止まる。サリーは思わずまた彼の耳たぶを凝視した。
 意識して見ないとわからないが、確かにある。
 透明なピアスが左右の耳たぶに一つずつ。

「……若い頃にね……」

 エドワーズは苦々しい思いでため息を吐いた。
 十代の頃、安全ピンで開けた耳たぶの穴。かろうじて消毒はしたものの、力まかせにぶっすりと貫き通した。医療用ピアスなど考えもせず、そのままピアスをつけてしまった。
 よく感染症を起こさなかったものだ。思いだすだに背筋が冷える。

「ふさぐにはいささか穴が大きいので、保護用をつけています」
「へえ、けっこう若い頃はやんちゃしてたんだ。意外だなー」

 そうだ、確かに若い頃はバカもやった。ピアスの穴を隠したところで、全てをなかったことにできるなんて、虫のいいことは期待していない。
 だが、よりによってサリー先生の前で言わなくても良いではないか!

「……」

 ぎろり。
 ライムグリーンの瞳が硬質の刃物にも似た鋭い光を放つ。ヒウェルの背中をつすーっと冷たい汗が滴り落ちた。

(あ、もしかして俺、地雷踏んだ?)

「お待たせしました。合計で11ドルになります」
「ちょっと細かくなるけどいい?」
「はい」

 抑揚のない、低い声。口調は丁寧だが、有無を言わさぬ威圧感にあふれている。標的はただ一人。目の前で財布から小銭を引き出している眼鏡ゾンビだ。

「それじゃ、またー」

 袋に入れられた本を抱えて、ヒウェルはすごすごと退散していった。
 ひょろりとした後ろ姿がドアの向こうに消えるのを確認し、エドワーズは本日何度目かのため息をついた。
 深いしわの刻まれた眉間に指先を当ててもみほぐし、そっとサリーの方を伺う。

「保護用、ですか」
「はい」
「じゃあ、今はアクセサリー用のはつけてないんですね」
「そうです」
「お手入れ大変じゃないですか?」
「使い捨てですから……コンタクトレンズのようなものですね」
「なるほどー」

 一向に気にしている様子はない。警戒も、蔑みも。異物を見るようなまなざしで見られることもなかった。
 安堵すると同時にエドワーズは、ひそかに感動に打ち震えた。

(何ておおらかな人だろう!)

「すんません、エドワーズさん。この本ください」
「あ……はい」

 今度はテリーがどんっと、カウンターにうずたかく本を積み上げていた。
 小さい子のための絵本のみならず、小学生向けの童話や小説、図鑑、女の子用の手芸の本もある。

「ご兄弟が多いんですね」
「うん、大所帯なんだ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 丁寧に梱包され、紙のショッピングバッグにぎっしりつまった本を両手にぶらさげて。
 古書店を出ると、テリーはうれしそうに言った。

「エドワーズさんって、いい人だな! 親身になって相談に乗ってくれて。ほんとに本を大事にしてくれる」
「うん……いい人だよ」
 
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