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ローゼンベルク家の食卓

【4-16-5】本のお医者さん

2010/02/17 0:35 四話十海
 
 その日の夕方、テリーは山ほどの本を抱えて実家へと向かった。

「ただいまー。お土産だぞー」

 勢いよく玄関を開け、広い広いリビングに足を踏み入れると、わっとちびどもが群がってきた。

「押すな押すな! いっぱいあるから安心しろ! ほら!」

 買う時にちゃんと、これはどの子が好きそうで、どの子が読みたがっているか、顔を思い浮かべて買っていた。
 だから実際、ほとんど取りあいやケンカにはならない。
 ひとしきり配本が終わると、テリーは大股で窓際のラグに歩いていった。
 しぼりたてのオレンジジュースのような夕日を浴びて、ミッシィはぽつんと座っていた。相変わらずばらばらの絵本を抱えて。
 いや、ちょっとだけ状況に変化が訪れていた。
 さすがに剥き出しではページを無くしてしまうし、持ちづらいと考えたのだろう。ミッフィーの手提げ袋に入れてある。

「ミッシィ」

 ぴくっと小さな肩が震え、黒い瞳が見上げて来る。こんなに本の好きな子なのに。真っ先に飛んできてもいいくらいなのに。お土産の本に群がる兄弟たちを見ようともせず、無反応でうずくまっているなんて。

「今日、兄ちゃんな。本屋さんに行ってきた」

 ぱちっとまばたきするが、表情は動かない。

「その絵本な、直してくれるって人がいるんだ」

 ミッシィの胸が上下する。ふるっと身を震わすと深く息を吸って手をのばし、テリーの服の裾をつかんだ。

「でも、そのためには、おまえは自分でその店まで本を持って行かなくちゃいけない」

 黒い瞳におびえの色が浮かび、小さく首を左右に振る。無理もない。幼稚園の行き帰り以外はほとんど家から出たがらない子なのだ。
 テリーは自分もラグの上に腰を降ろしてミッシィと視線を合わせた。

「それは、おまえの大切な本なんだろ? だから自分で本屋さんに持ってって、おまえが自分でお願いするんだ。直してくださいって」
「………」
「できるか?」
「……………………」

 じーっと手提げ袋に入れた絵本をにらんでる。焦ってはいけない。ここは、彼女が決めなければ意味がない。
 テリーは待った。キッチンに続くドアの陰には養父母がたたずみ、静かに見守っている。
 やがて、ウェーブのかかった黒髪がこくっと上下にゆれた。

 張りつめていた空気がゆるむ。

 ミッシィは選んだ。
 決心したのだ。見知らぬ外の世界に踏み出すことを、自分の意志で。

「よし。じゃあ今度のお休みに、兄ちゃんが連れてってやるから。一緒に行こうな!」

 テリーは顔をほころばせ、わしわしとミッシィの頭をなでた。

「あ……」
「ん? 何だ?」
「あ……りがと………」

 破顔一笑。全開の笑顔を浮かべ、テリーは小さな妹を抱きしめた。驚かせないように、そっと。手のひらに小鳥を包むように、慎重に。

「どういたしまして!」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 三日後の土曜日。サリーはテリーの運転する車でテリーの実家に向かった。
 ケーブルカーやバスでの移動は、ミッシィにはまだハードルが高い。本屋さんに行くだけでも既に大冒険なのだ。

「Hi,母さん」
「待ってたわ、テリー。こんにちは、サリー」
「こんにちは」
「今日はよろしくね」
「はい!」
「ミッシィは?」
「仕度はできてるはずなんだけど……あら?」

 窓際のチューリップ模様のラグの上に、ミッシィの姿はなかった。

「ミッシィ! テリーが来たわよ。ミッシィ?」

 きぃい……。
 キッチンに通じるドアがわずかに軋む。テリーはとことこと歩いて行き、ひょいと身をかがめた。

「ミッシィ」

 彼女はそこに居た。オレンジ色のダウンコートを着て、白い手編みのニットの帽子を被り、手にはヒヨコ色の手袋をはめて。全身すっぽり、くまなくもこもこのふわふわに覆われている。

「Hi……おにいちゃん」
「あったかそうだな」
「最近の冷え方は尋常じゃないからね!」

 テリーの母はそっと娘に歩み寄り、首に手袋とおそろいのヒヨコ色のマフラーを巻いた。

「母さん……そんな、一応、車で行くんだし」
「あなたこそ、そんな薄着で大丈夫なの? ちょっとはサリーを見習って、あったかくなさい」

 ぐずぐずしていたら、自分の分の帽子やマフラーも出てきそうな勢いだ。

「ミッシィ、おいで」

 もこもこの黄色い毛糸に包まれた手をにぎり、早々にリビングに移動する。知らない人が立っているのを見て一瞬、ミッシィの動きが止まった。

「ミッシィ、こいつはサリー。俺の友達だ」
「よろしくね、ミッシィ」
 
 ニット帽とマフラーの間から、黒いくりっとした瞳が様子を伺う。

(この人は、お兄ちゃんのお友だち)
(この人は、やわらかい。しずかなこえ)
(この人は、こわくない)

 そろっと手袋をはめた右手が上がる。

「Hi……サリー」

 ……よし。
 その瞬間、テリーと母は心の中で秘かにガッツポーズをとっていた。初対面の相手に挨拶した。快挙だ。幸先いいぞ!

「じゃ、行ってくる!」
「行ってらっしゃい」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「くっしゅん!」

 派手なクシャミにリズが飛び上がり、にゃあー、と一声鳴いた。まさに『God bless you!(お大事に!)』とでも言いたげなタイミングで。

「ああ……ありがとう」
「みゅ」

 ポケットからハンカチを取りだすと、エドワーズは慎重に口元と鼻の周囲をぬぐった。
 困ったものだ。朝からクシャミが止まらない。のどもざらざらしている。ごほんと咳き込むのも時間の問題だろう。
 理由は明白。昨日もつい、リビングでうたた寝をしてしまったからだ。
 仲むつまじいサリー先生と、テリーの姿を見て……ほほ笑ましい、お似合いだと思った。
 しかし。胸の奥に畳み込んだはずの寂しさが、店を閉めて一人になった後になってからほどけて、染み出して。
 オレンジの薔薇を見つめながら、杯を重ねる日が続いている。

 コップに活けた薔薇は、三本に増えていた。満開に咲いたのが一本、咲きかけが一本、つぼみが一本。

「くしゅっ」
「みゃっ」

 しまいかけたハンカチをまた取りだす。
 きりがない。これでは本を汚してしまう……やはり、マスクを着けておこう。使い捨てのマスクを箱から一枚引き出し、顔の下半分を覆う。
 これでよし。

 さて、お客の少ない午前中のうちに修復作業を済ませておこう。
 店の奥の作業場に入り、注意深く手袋をはめた。糊と皮、布のにおいに包まれて慣れた作業にとりかかる。
 慎重に指先を動かしているうちに、いつしか頭や胸の奥に居座っていた重苦しさが次第に薄れて行くような気がした。

 コロロン、コローン……。

 ドアベルの音に、はっと我に返る。
 お客さんだ。作業場を出てエプロンと手袋を外し、店に戻る。

「いらっしゃいませ」
「こんにちは」

 サリー先生だった。
 テリー青年ともう一人、小さな女の子が一緒だ。くりっとしたアーモンド型の黒い瞳に、カフェオレ色の肌。白いもこもこの帽子の下から、ウェーブのかかった黒い髪がのぞいている。
 女の子はこちらをひと目見るなり両の目を見開き、『ぎょっ』とした顔でこっちを見上げた。と、思ったら次の瞬間、ささっとテリーの後ろに隠れてしまった。
 驚かせてしまったらしい。
 サリー先生がちょこんと首をかしげた。

「あの、どこかお加減悪いんですか?」

 その時になって始めて気付いた。マスクをしたままだった!

「失礼、うっかりしていました。本の修復作業中だったものですから」

 マスクをはずし、もごもごと取り繕う。
 
「今日は、何をお探しですか?」
「絵本、持ってきたんだ。ミッシィ!」

 ああ。やっぱりそうだったのか。この少女がテリーの妹なのだ。ここはアメリカだ。肌や瞳、髪の色、人種の異なる親子や兄弟はそれほど珍しくはない。

 そろり、とミッシィと呼ばれた少女がテリーの背後から顔をのぞかせる。

「いらっしゃいませ、Miss.ミッシィ」
「エドワーズさんだ。この人が、本を直してくれるんだぞ」
「……本のお医者さん?」
「お、うまいこと言うな! うん、そうだよ。本のお医者さんだ」

 テリーはミッシィの背に手を当てて、ゆっくりと前に進む。しっかりとテリーにしがみついたまま、オレンジのコートを着たちっちゃな体が近づいてくる。
 彼らは紛れもなく、信頼しあっている兄と妹だ。互いを大切に思っている。
 一歩。また一歩。もう少し……。
 ひょい、とリズが顔を出した。ミッシィは目をまんまるにしてテリーから手を離し、とことこと前に進む。
 リズは少女の手に鼻をよせ、ちょん、とご挨拶。

「に」
「……ねこさん」
「リズです」
「はろー、リズ?」
「にゃー」

 ほわっとミッシィは顔をほころばせた。返事がかえってきたのが嬉しかったようだ。
 リズはぴたりとミッシィの足もとに寄り添い、長い尻尾を少女の足に巻き付けた。そのまま寄り添い、歩みを進める。
 ついに、エドワーズの目の前までやってきた。
 
 ミッシィは手提げ袋に入れた大事な絵本を両手でささげ持ち、差し出した。

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 illustrated by Kasuri

「おねがい、本のお医者さん。このえほん、直してください」

 本のお医者さん。
 少女のたどたどしい物言いに、きゅっと胸がしめつけられる。このひと言を言うために、いったいどれほどの勇気を振り絞っているのだろう?

「はい。まずは、その本を拝見してもよろしいですか?」

 こくっとうなずいた。
 受け取り、注意深くカウンターに載せる。鮮やかなオレンジ色の手提げ袋から本を取り出し、ページの一枚一枚をつぶさに調べる。
 思った通り、綴じ糸が切れただけだ。中味そのものは破れていない。
 エドワーズはうなずき、ほほ笑んだ。

「製本用の綴じ糸が切れてしまったんですね……何度も読んだ、お気に入りの本にはよくあることです。大丈夫、直せますよ」
「本当かっ!」
「はい。最善を尽くします」

 ぱあっとミッシィは顔を輝かせた。彼女がどんなにこの絵本を大事にしているのか、わかった。

「あ……りがと……」
「どういたしまして」
「よかったね」

 こくこくとうなずくたびに、白い帽子がゆれる。よく見ると帽子の先端は長く伸びて二つに分かれ、ウサギの耳そっくりの形に作られていた。

(ああ!)

 ミッシィはおそらく通称だ。この子はおそらく、ブルーナーの絵本の主人公、あの小さなウサギが大のお気に入りなのだろう。(手さげ袋もそうだった)口がうまく回らず、ミッフィーがミッシィになったのだ。

 ウサギの帽子は明らかに手作りだった。
 常に周囲を警戒し、手をあげると反射的にびくっと身をすくめる。大きな音に過剰に反応する一方で、ほとんど『自分』を主張しようとしない。いずれも虐待の経験があることを伺わせるが……今、この子は愛されている。大切にされている。
 守られている。

「それでは、お預かりいたします」

 エドワーズはさらさらと預かり証をしたためた。絵本一冊、ローズマリー・サトクリフ著、「竜の子ラッキーと音楽師」。
 依頼人、Miss.ミッシィ。

「どうぞ……預かり証です」
「ありがとう。よろしくお願いします! あ、修理費全部、俺が出しますんで!」
「かしこまりました。それでは、できあがったらお知らせいたしますので、こちらに電話番号を」
「携帯でいいっすか? あ、病院にいるとたまに電源切ってるから、そん時はメールで。アドレス書いときますんで」
「わかりました。では、私のアドレスをこちらに……」

 二人がアドレスを交換している間、サリーはリズと話していた。

「エドワーズさん、どこか具合悪いの?」
「にぃ……」
「え、リビングで?」
「にゅ」
「しかも、二回目? 最近、冷え込み厳しいのに……」

 ここのお店の建物は、石造りで古い。明け方はさぞ冷え込むだろう。風邪を引くのも無理はない。

「にゃ、にゃ、みゃう、にゃぅう」
「うん……そうだね。時々、様子を見に来るよ」
「みぃ!」

 そうだ。ためらう必要はない。わだかまりは、もう存在しないのだから。

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