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2009年7月の日記

【4-12-7】青年社長心配す

2009/07/24 0:14 四話十海
 
 12月25日の夜。カルヴィン・ランドールJrはサンフランシスコ市内の自宅で一人、渋い顔をしていた。
 両親の居る郊外の邸宅から離れて一人暮らすこの部屋は、彼の社会的地位に相応しいだけの広さと質を備えてはいるが基本的にはシンプルにまとめられていた。

 寝室とリビング、そしてバスにキッチン、家具も必要最小限。構成するパーツは一流品、されどこじんまりと、あくまでシンプルに。大会社の社長にしては慎ましいが滅多に客を招くこともないので充分に用は足りる。
 書斎を兼ねた広い寝室に置かれた水槽の中には水と水草、そして流木……彼が海岸で自分で拾ってきたものだ……が設置されているものの、魚は一匹も泳いではいない。
 スタンドにかけられた鳥かごも同様に空っぽ。
 にも関わらず時折、羽音めいた小さな音や魚のはねるような音が聞こえると、通いの家政婦からは密かに不評だった。

『坊っちゃま、お願いですから、あの薄気味悪い水槽を片付けてください』と言われたのも一度や二度ではない。

 無理もない。水槽で羽音が、鳥かごのシルエットにゆらりと魚影が重なることもあるらしい。
 その種の幽かな訪問者は彼にとって密かな楽しみであり、気晴らしにもなっていた。だが、彼らは気まぐれだ。

 こう言う時に限ってなかなか訪れてはくれない。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 昨日の夜、会社主催で行われたクリスマスパーティーでの出来事だ。
 学生時代の友人、チャールズ・デントンが話しかけてきた。カクテル片手にかなりご機嫌で。
 
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 illustrated by Kasuri  

「なあ、ランドール。お前、この間かわいい子と一緒にいたろ。黒髪の東洋系の、眼鏡をかけた」

 どうやらサリーのことを言っているらしい。

「ああ、彼は友人なんだ」

 誤解を解くべく、さりげなく『彼』を強調する。しかしチャーリーは大げさな身振りで首を振った。

「彼? おいおい、冗談キツいぜ、ランドール。俺が言ってるのは。赤いコートを着てた女の子だよ! 空港のロビーで親しげに話してただろ」

 赤いコート……ああ、ヨーコのことか!

「いいよな、さらっさらの長い黒髪」

 そう言えばこいつは黒髪の女性にめっぽう弱かった。母を紹介した後なぞはことあるごとに『お前のおふくろさん、美人だなー』っと連呼していたものだ。

「あれはシーツの白にはえるんだよな。こう、上から攻めてやるとさ、女の子が乱れるのにあわせて広がった髪も乱れてさ」

 何てことを!
 学生時代からこの男が酔っぱらうたびにあまりにオープンすぎる色談義を聞かされてきた。最近はさすがに慣れて軽く受け流すことも覚えたが。
 よりによってヨーコをそんな目で見ていたのか、こいつは!

「ちっちゃくてコンパクトなのに仕草も体のバランスもきちんと大人の女性なのもポイント高いね。胸は控えめだったけど、あの腰からお尻にかけてのラインがいい。後ろからあの腰を掴んで、思いきり貪りたいよ」

 どこを掴むって?
 貪るって、何を?

「肌もつやつやしていてなめらかそうで……何って言うか、お人形さん(Dolly)みたいだ」

 Dolly。
 そのいかにも子どもじみた言い方が鼻についた。どことなくヨーコを上から見下ろし、あなどっているようで。

「背中からぎゅっと抱きしめて、なで回してやりたいね。髪に顔うずめながらさ。あーゆー楚々としたタイプは、いざベッドの中に入ると……化けるぜ、きっと。ああ、いい声で鳴いてくれそうだなぁ…想像するだけでたまんないよ」

 何を想像してるのかこの男は。いかにも楽しげに、まるで野球かサッカーの試合でも鑑賞するような口ぶりで。

「ちょっと首筋にキスしただけでいい色に染まるだろうな……服に隠れて見えないところに思い切り跡着けたくなるね。僕のものって印をさ」

 だれのものだって?

 落ち着け、カルヴィン・ランドールJr。
 チャーリーの基準からすればいたって自然なレベルだ。標準だ。これよりあからさまな話を聞かされたこともある。

「そうそう、たっぷり攻めて身も心もトロトロになったらさ、今度はいい感じに彼女が盛り上がったところでお預けしちゃうんだ。で、こうやって」

 チャールズは両手で何かを掴んで抱き上げて、自らの腰の上に乗せるような動作をした。
 ちょっと待て、こいつ、まさか……。

「上に跨がらせてさ、自分でしてごらんって、囁いてやるのさ。東洋系の女性は慎み深いから、最初はきっと恥ずかしがって僕の上でもじもじとしているだけだろうけど。ねっちりいじめてあげれば我慢できなくなって、そのうち自分から……」

 ひくっと口の端がひきつる。一発お見舞いしたい衝動に駆られたが、長年の友情に免じてどうにか自粛した。

「乱れる女の子を下から見上げるのはいいものだよ。振り乱される黒髪、動きにあわせてゆれるバスト……は、ちょっと無理かな、彼女の場合」
 
 こいつ、いっそ穴と言う穴を縫い綴じてくれようか。もちろん、口には塩を詰めて!
 
「口を慎め、チャールズ・デントン。男子寮のばか騒ぎパーティーじゃないんだぞ?」

 震える拳を握りしめ、低い声でたしなめても一向に気にする気配はない。それどころかとんでもないリクエストを口にした。

「なあ、お前知り合いなんだろ? 紹介してくれよ」
「断る」
「………何だよ、そんなににらむことないだろ、カル?」

 ランドールはずいっと顎を上げ、鼻先からチャールズを見据えるとあからさまに右の眉を跳ね上げた。
 ネイビーブルーの瞳に炯々と意志の光がみなぎり、くっきりした顔立ちと相まってただならぬ威圧感を醸し出す。

「睨む? 誰が、私が? 君を?」

 相手の顔に『しまった』と言う表情があらわれるのを確認し、改めて顎を引いて正面から視線を合わせる。

「私に睨まれる様な事を考えたのかい、チャーリー。私の、大切な友人に対して」
「いや……その……すまん、ランドール。失言だった」

 チャーリーは素直に謝り、ランドールも謝罪を受け入れ、その後は自然と話題はヨーコのことからそれて行った。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
(いかんな……)

 深いため息がもれる。このままではネガティブ思考の堂々巡りから抜け出せそうにない。何かつまむか、飲むか。

 キッチンに向かい、戸棚を開ける。ほとんど無意識のうちに小麦粉を選び、冷蔵庫から卵と牛乳を取り出す。少し考えてから、手前に置かれたマーマレードの瓶も一緒に抜き出した。

 グレープフルーツのマーマーレードはラベルも手書き、中味も手作り。実家に顔を出すたびに母親が持たせてくれる。ビタミンサプリを飲むよりよほど気が利いているし、何より口にすると落ちつくのだ。

 柑橘類のぴりっとした刺激的な香りと酸味、果汁と砂糖の甘みがねっとり溶け合って、このいら立ちを鎮めてくれるだろう。

 小麦粉と砂糖と塩をあわせてふるい、牛乳と卵を加えてダマにならないように混ぜて。軽くこしてからラップをして室温で30分寝かせる。

 ふっと一息ついたその時、耳の奥でチャーリーの声がこだました。

『なあカルヴィン。こんどの週末ヒマか? ヒマだよな』
『よし、海に行こう!』

 どうにも一つ思い出すと後から後からあまり愉快ではない記憶が連なって引き出されてくるらしい。

 学生時代、一緒にビーチに行った時。チャーリーは最初、自分たちは2人、そっちも2人なんだからちょうどいいよね、と女の子の2人組に声をかけた。
 しかし、彼女たちが安心して打ち解けたと見るやいなやさっくり種明かし。

『ああ、こっちの彼は実はゲイなんだ。でも心配しないで、その分、僕が2倍おもてなしするよ!』

 そして両手に花を抱えてさっさと行ってしまった。波打ち際に一人ぽつん、と残されてうらめしく思ったものだ。
 やられた。体のいい見せ餌に使われた! と。

『なあ、お前知り合いなんだろ? 紹介してくれよ』

 悪気がないのはわかっている。まさにあの時と同じノリで口にした言葉であろう。
 だが。

(ヨーコは容姿に釣られて寄ってきた子たちとは違うんだ。いくら親友でも限度があるぞ、チャーリー!)

 時計を確認する。まだ30分経っていないが、これ以上待つ気にはなれない。とにかく手を動かしたい。
 浅い大きめのフライパンをコンロにかける。温まった所を見計らってキッチンペーパーで薄く油を引いた。
 生地をすくって薄く伸ばし、トンボ(木製のT字型の道具)で円を描いてくるりと伸ばす。

 焼けた瞬間を見極め、端からさっとパレットナイフではがして大皿に乗せた。
 1枚目は急ぎすぎて破れてしまった。軽く舌打ちして2枚目に取りかかる。
 
 あせってはいけない、慎重に、慎重に。

 ……そう、チャーリーは悪い男ではない。だからこそ長く友達付き合いが続いているのだが。
 責任能力もあるし、決断力もある、経済力も申し分ない。気性も陽気でさっぱりしているし、何より決して人の悪口を言わない。普段は実に気持ちの良い男だなのだが……女性に関してはうかつと言うか、明け透けと言うか、とにかく口が軽すぎる。
 酒が入っていると特にその傾向が強い。
 
 やはり駄目だ。こんな男がヨーコに近づくなんて。それも最初っからベッドに連れ込むことを目標に据えているなんて。
 とんでもない。絶対に、不許可だ。

 彼女には、もっと……。
 ヨーコの身近にいる男性を一人一人思い浮かべてみる。

 風見光一とロイ・アーバンシュタインが真っ先に浮かぶが、彼らは若すぎる。よき教え子であり頼もしいナイトではあるが、ヨーコの手綱を押さえるにはまだまだ力不足だ。
 よって除外。

 テリーくんはどうだろう?
 彼は誠実で、勇気がある。面倒見もよい、が。
 あの程度で気絶するようでは、困る。
 ヨーコと深くつきあうようになれば自ずと遭遇する『常ならぬ事態』はあんな程度ではすまされない。いざと言うときに気絶していては、彼女を守ることはできない!
 よって除外。

 ああ、でも……自分の腕の中で(と、言うか胸の下で)くったり意識喪失していた彼は実にキュートだったな。

 では蒼太くんは?
 まだネット電話越しにしか話したことはないが、真面目で気性の真っすぐな芯の強い男性と見た。彼女との付き合いも長い。
 しかし基本的に頭が上がらないようにも見受けられるし、自分のささやかな挑発にあっさり引っかかって沸騰していた。しかも彼は僧侶で、ヨーコは巫女だ。日本の神々は寛容だと聞くが、聖職者同士となると……。
 微妙だな。
 とりあえず保留。

 やはり同年代か、年上の男性の方が良いだろう。
 たとえばレオンハルト・ローゼンベルクのような男ではどうだろう? 彼本人は既に愛すべき配偶者に恵まれているが、似たタイプの男なら?
 ……だめだ。
 確かに彼は切れる男だが、頭が切れすぎて彼女と衝突するのは目に見えている。
 よって除外。

 もう一人の弁護士、そう、たとえばデイビット・A・ジーノのようなタイプは……。
 …………………………………………………………………………………無理だ。
 押しが強すぎて彼女をつぶしてしまう。あんなに華奢でほっそりした女性を相手にするには、およそあの手のタイプは不向きだ。
 よって、除外。

 ではレイモンドのような男なら?
 …………却下。
 内面的には申し分ないがサイズが違いすぎる。感極まってちょっと強くハグしたりしたら……危ない。危ない。

 案外ディフォレスト・マクラウドのような男が合うかもしれないが、いかんせん彼はいささか人がよすぎる傾向がある。
 いざと言う局面であっさり言いくるめられてしまいそうだ。それでは困る。時には断固として彼女を止められる男でないと。
 よって、除外。

 あの眼鏡の黒髪の男……メイリールはどうだろう。
 いや、だめだ。
 ヨーコの尻に敷かれてこき使われて、でも、そこまでだ。
 よって、除外。

 深々とため息をつく。
 困ったものだ。
 中々安心できそうなタイプが思いつかない。

 いつしか生地を溶いたボウルの中味は既に空になっていて、入れ違いに大皿の上には焼き上がったクレープが積み重なっていた。
 1枚ずつ丁寧にはがし、マーマレードを塗って、畳んで。塗って、畳んで。
 途中で思いついて冷蔵庫からチーズを出して、一緒に挟む。手を動かしているうちに、次第にカッカしていた頭の中がクールダウンされてきた。

 しかし、冷静になればなったで、いろいろと余計な事に考えが及んでしまう。

 なまじプレーボーイとして浮き名を流してきた(自分の場合は男専門だが)知識と経験があるだけに、理路整然と不吉な予想を導き出してしまう。
 
 サンフランシスコにはヨーコの知り合いも友人も多い。しかも今はクリスマス、街全体が華やかな空気に満ちている。人の心も浮かれ、誘惑は多い。こうしている間にも、うかつな誘いに乗ってはいまいかと思うと……。

 そっと左の肘を押さえる。昨日の午後、まとわりついていた細い腕の感触をなぞって。少し下の方から伸ばされ、適度な距離を保ちながらも委ねていた。

 コウイチもロイも未成年だ。
 酒を扱う店には入れない。
 顔見知りの気安さから男と2人きりで、腕なんか組んでそんな店に入って行ったりしたら?
 ヨーコ本人が友達のつもりでいても、相手の男がそう見ているとは限らない。しかも彼女はそのことを知らない。あまりに無防備すぎる!

『少し飲み過ぎたようだね……休んだ方がいい』
『上に部屋をとっておいた』

 いや、いや、いくらヨーコでもそこまでうかつではないと信じたい! だが最近は、化粧室と称する個室を妙に広く造ってカウチを設置している店もあると聞く。
 ガラス張りのドアがロックをかけた瞬間、電気仕掛けで不透明になり、多少の物音は派手に鳴らされるBGMと他の部屋の利用者の声にかき消され、だれも気に留めない。
 密室の中で何があろうとも……。

 何度めかのため息をつき、こめかみに手を当てる。
 いかんな。どうにも良くない方向に思考が引っ張られてしまう。こうして一人で考え込んでいても不安がつのるばかりだ。いっそ電話でもしてみようか。
 いや、しかし。

 ためらっていると、携帯が鳴った。
 発信者の名前は……

「コウイチ?」

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【4-12-8】飲み過ぎ注意

2009/07/24 0:15 四話十海
 
 バーカウンターの上で空になったカクテルグラスがきらきらと、室内の灯りを反射している。一、二、三、四……全部で五つ。そして今、まさに六杯目が飲み干された所だった。

「おい、ヨーコ、そろそろ……」
「ん……そうね、これぐらいにしとく……」

 ヒウェルはほっとした。しかしヨーコはくいと口元を行儀よくハンカチで拭うと、ぽつりと付け加えたのだ。

「……カクテルは」
「えーっと、つまり、それは……」
「次はストレートでもらおっかな」

 ああ。
 ヒウェルはこめかみに手を当てた。
 雑な飲み方する奴が一匹増えやがったか。ため息をつきながらグラスをとん、とカウンターに置いた。

「何お飲みになりますか」
「上から2番目の棚の左から4番目」
「はいはい……」

 請われるままに瓶を抜き出そうとして思わず目をむいた。

「ぶっ」
「何してんの、ほら、早く」
「ほんっとにこれでいいのか?」

 透き通った薄い緑色のボトルをかかげて見せる。まちがいであってくれと祈りつつ。

「うん、アクアビット。オールボーでしょ?」

 北欧産の、ジャガイモを原料としてキャラウェイやアニスなどのハーブエキスをブレンドした蒸留酒。見た目はとろりとわずかに黄色みを帯びた透明な液体、だがアルコール度数は……。

「何でこーゆーきーっついのばっかり飲みたがる!」
「芋焼酎に似てるんだよね」
「だったらせめてお湯で割れ!」
「やーよ」

 ずいっとグラスをさし出される。満面の笑顔がかえって怖い。

「ほら、ついで?」

 ここで飲ませていいものか。
 見た目はしゃんとしてるし、さすがに多少血色は良くなっているようだがふらついてる様子もない。だが、このちっぽけな体に入った酒の量を考えると……。
 そろそろやばいんじゃないか? イエローゾーン、それもかなりオレンジ寄り。

「なあ、ヨーコ、悪いことは言わないから」
「ヒウェル」

 声のトーンがわずかに下がる。

「つげ」
「うっ」

(ど、どうすればいいんだ……)

 魔女ににらまれ、すくみあがってるところに救いの手がさしのべられた。

「よーこちゃんどーしたの?」

(サリー!)

 しかしこの救世主、妙にほわほわしている。頬も首筋も桜色に染まっていて、そりゃもう、頭に花の一輪も咲いていそうなご機嫌っぷりだ。

 ちろっと上機嫌な従弟に目をやると、ヨーコはぼそぼそと日本語で答えた。

「………やけ酒したくっても外だとお酒飲めないから……ここで飲むの!」
「えー」

 カウンターの上に身を乗り出すと、ヨーコは再びずいっとグラスをつきつけた。

「ほら、つげ!」
「いやヨーコ、それぐらいにしといたほーが」
「つ、げ!」

 小柄な体から発せられる気迫に押され、ヒウェルは必死にサリーに目線で助けをもとめた。

(頼む、サリー、こいつを止めてくれ。俺はとてもじゃないけど魔女には逆らえねえ!)

「はいはい」

 サリはさっとヒウェルの手からボトルをとり、たぱたぱとヨーコのグラスに注いだのだった。

(ちがう、そーじゃねーっ、のますなーっ)

「ありがとー」

 こくこくと白い喉が上下して、透明な液体が消えて行く。

「あ、あ、あーあ……だからさー、そーゆー飲み方する酒じゃないんだってば……せめてライムを絞るとか……」
 
 遠慮がちにささやくアドバイスは、きっちり編み込まれた黒髪の上をさっくりスルー。ツヤがよすぎて言の葉さえも滑るのか。

(ああ、まったく!)

 ことん、と空になったグラスを置くと、ヨーコは小さく息を吐いた。キャラウェイにアニスにフェンネル。濃密なハーブの香りがたちのぼる。しっとりと熱を帯びて。

「ふう……サクヤちゃんもおかえしのむ?」
「ううん、いいや」

 ずいっとテリーが割り込み、横合いからアクアビットのボトルを取り上げた。

「お前は飲むな!」
「うん、だから飲んでないよ?」

 返事をしながらサリーはほわほわと笑っている。肌の桜色が一段と濃くなっている。明らかにさっきより酔いが進んでいた。

「おまえ、いつの間にこんなに飲んだ! ほら水飲め。まったく」
「えー、飲んでないよ」

 ディフがスコッチをあおる手を止めてのぞきこんできた。

「グレープフルーツ絞るか?」
「ああ、頼む」
「飲んでないのにー」
「いいから、こっちに来いっ」

 ディフの後をついて、否応無くテリーにひっぱられてキッチンへと連行されて行くサリーを見送りつつ、風見とロイは密かに頭を抱えた。

 そう、飲んでいるのはヨーコ。サリーは単に共鳴しているだけなのだ。

 単に外に現れていないだけで、実際には同じくらい(と言うかまったく同じレベルで)ヨーコも酔っぱらっているのだが……
 そのことに気づいているのは、この場では風見とロイの2人だけ。

「あー、アクアビット持ってっちゃった、テリー……」
「残念だったな」
「スコッチで良ければどうだい?」
「レオンっ」
「いただきます。ヒウェル、新しいグラスちょうだい?」
「う……」
「香りが混ざっちゃうものね」
「うう……」

 悔しいことに彼女は酒にきちんと敬意を払っている。味わうことを知っている。
 少なくとも、『酔えりゃー何でもいいや』とばかりに手当たり次第に飲み散らす雑なカエル野郎ではない。

 たん、と新たなグラスがカウンターの上に置かれた。

「どうぞ」

 すかさずレオンがスコッチを注ぐ。切り子細工の透明なグラスに満たされる琥珀色を、ヨーコはうっとりと眺めた。

「ん……いい香り……いただきます」

 両手で捧げて、まず一口。喉を滑り降りる熱と、体内を満たす木の芳香をじっくりと味わって……いたのは最初だけ。
 残りはこくこくとあっと言う間に飲み干した。まるでミルクでも飲むみたいにあっけなく。

「はぁ……やっぱりいいお酒は違うのね……舌触りも、香りも何もかも」
「何だヨーコ。スコッチもいけるクチか」

 ディフが戻ってきた。まくりあげた袖からかすかにグレープフルーツの香りがする。ソファの上ではテリーの監督のもと、サリーがちびちびとグレープフルーツジュースを飲まされていた。

「飲んでないのにー」
「いいから、だまってそれ飲め」

 そして、二杯目のスコッチが杯に満たされる。もはやだれも止める者はいない。
 
「まずいな」
「うん、危険ダネ……どうする、コウイチ?」
「応援を呼ぼう」

 風見はかしゃっと携帯を開き、電話をかけた。
 居るかな。いそがしいかな。昨日は会社のパーティーがあるって言ってたけど、今日はどうだろう?

「コウイチ?」

 よかった、出てくれた!

「ランドールさん」
「どうしたんだい?」
「それが……ヨーコ先生が、酔っぱらっちゃって……」
「………」

 受話器の向こう側で何か硬いものが触れ合う音がした。
 そう、まるで大型犬の顎が空振りし、ガチっと牙が空を噛んだ時のような……。

「あの、ランドールさん?」
「失礼。誰が、どうなったって?」
「ヨーコ先生が、酔っぱらっちゃったんです。もう、俺たちで止められるような状態じゃなくて……」

 語尾が震える。しっかりしろ、ちゃんと伝えなきゃ。平常心、平常心……。

「日本でも酔っ払ったのは何度か見てますけど、今日のはちょっと違うみたいで……」

 今度は深く息を吸って、吐き出す気配が伝わってくる。
 あ、深呼吸してる。びっくりしたんだろうな。

「……成る程、それは大変だ。それで、君たちは今いったいどこにいるんだ?」
「マクラウドさんの家です」
「わかった。すぐに迎えに行く」
「お願いします!」
 
 電話を切って、ほっと息をつく。これで大丈夫だ。やっぱりこう言う時は、大人の男の人じゃないとだめだ。
 幸い、ヨーコ先生はランドールさんの言うことなら素直に聞いてくれるみたいだし……。

(俺じゃ、だめなんだ)

 きりっと歯を食いしばり、せり上がるやるせなさを噛み砕く。舌の奥に実体のない苦い味が広がった。

 今までも先生がお酒を飲む姿を見た事がある。
 それは、チームの拠点である寺や、先生の実家である結城神社だったり。あくまで『ホーム』で、楽しげに缶ビールをくいっと飲む姿だった。

 こんな風に無茶な飲み方するなんて……まるで、自分が自分であることを消そうとしてるみたいに。

(先生、どうして!)
 
 
「ディフ」
「どうした、テリー?」
「こいつ、連れて帰るよ。もうだめだ、かんぺきに出来上がってる」
「ふわわ?」
「……みたいだな」
「知らなかった、彼は酒に弱いんだね」
「まったくいつの間に飲んだんだか……」

 眉をしかめるテリーの背後では、ヨーコが何杯目かのスコッチをくいくいと流し込んでいた。

 Just,now!(今、まさに!)

「それじゃ、今夜はごちそうさん。またな!」
「ああ、気をつけて」
「コウイチ。ロイ」

 すっかりふにゃふにゃになったサクヤに肩を貸して、半ばひきずりつつテリーが近づいて来る。

「お前ら、帰りは大丈夫か?」
「……大丈夫です、迎えを頼みましたから」
「そう、か」

 ちらっとテリーはバーカウンターの方を振り返った。ヨーコがにっこり笑って手を振っている。どこから見てもシラフ。この上もなくシラフ。

「明日、ホテルに迎えに行くから」
「ありがと。助かるわ」
「じゃあな。おやすみ」
「おやすみ、気をつけてね」
「おやすみなさい」

 サリーを連れて帰って行くテリーの後ろ姿を見送りながら、風見とロイはひっそりと日本語でささやき交わした。

「今は離してあげた方が早く酔いがさめるもんな」
「その方がサクヤさんのためデス」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ヨーコは相変わらず顔色も変えずに飲み続けている。そろそろ目がとろんとしてきているのだが、一向にペースの落ちる気配はない。

 ヒウェルは命じられるまま、空になるたびにグラスに新たな酒を注ぎ続けた。魔女に逆らうことなどできるはずもない。

「つげ」
「……どうぞ」

 さすがにレオンも何やらただならぬ気配を察し、積極的に酒を勧めるのは控えることにした。しかしあくまでそれだけで、止める気はさらさらなかった。

(飲みたいだけの理由があるんだろう。だったら止める必要もない)

「ヨーコ」

 さすがにやばいと感じたのか、ディフが立ち上がってキッチンからピッチャーを取ってきた。グレープフルーツジュース、100%のフレッシュ。さっきサリーに飲ませた分の残りだ。

「こっちにしておけ」
「ジュースにはまだ早いわ」

 眉をしかめた。

 話しかけるとその瞬間だけシャンとする。パトロール巡査をしていた時分に何度もお目にかかったことがある。
 やれやれ、こいつは困った酔っぱらいだぞ。
 さすがにこのままバーカウンターの高い椅子に座らせておくのは危ないな。ちっちゃいから足がつかないし、ぐらっとひっくり返って頭でも打ったらおおごとだ。

「とりあえず、そこから降りた方がいい。ソファで飲もう、な?」

 さりげなく腕を支えようとしたが、するりとかわされた。手のひらにしなやかな手触りだけ残して……まるで猫だ!

「自分で歩けるってば」
「足つかないだろ!」
「これぐらい……」

 椅子の上で向きを変え、飛び降りようとしている。
 しかし足にも腕にも力が入らない。支えきれずにかっくん、と体勢が崩れた。

 危ない!

 もし、ディフたち3人が注意深く見ていればその時、高校生2人組の姿が一瞬ぼやけたように見えただろう。

 チリン。

 鈴が鳴る。彼女の胸元でちいさな金色が閃き、澄んだ音を響かせる。

 常識的に考えれば、到底間に合うような距離ではなかった。にもかかわらず風見とロイはまばたきよりも早く部屋を横切り、バランスを崩したヨーコを両脇から支えていた。

「ほぇ?」

 かろうじて落下は食い止めた。しかし、それが精一杯。自分より背の高い少年2人に腕をひっぱられたまま、ヨーコはへたりと床に座りこんでしまった。

 ぶらーんとつり下げられるその姿は、さながら『つかまった宇宙人』。

「大丈夫ですか、先生」
「んー、ありがと……も、へーきだから」

 にゅるりと教え子たちの腕から抜け出すと、ヨーコはカウンターに寄りかかってぺったりと足を投げ出した。
 さらに、手を伸ばしてもぞもぞとカウンターの上をまさぐっている。
 どうやらグラスを探しているらしい。

「ったく、この飲んべえ羊めが」

 ヒウェルはため息をつくと、飲みかけのグラスをとって握らせた。

「あ、あのレオンさん! 俺たちだけでホテルに帰るのは心細いんで」
「先生のお友達に迎えを頼みました」
「ああ、ありがとう。迎えが来るならそのほうがいいね、アレックスに送らせようかと思ったが」
「いえ、とんでもない」
「これ以上お世話になる訳にはっ」
「謙虚だな」
「和の心デス」
「………おいこらそこの高校教師。ちっとは教え子を見習え」
「ヒウェルさん」
「何だ、コウイチ」
「今日のヨーコせんせは、ちょっと危なっかしいんです。だから……」
「コウイチ。おまえ何っていい子なんだ」

 ぽん、と風見の肩を叩くと、ヒウェルはせっかく回避されたばかりの地雷の起爆スイッチを自ら再起動させた。

「まったくちょっとは見習え、そこの高校教師!」
「何か……おっしゃったかしら、Mr.メイリール?」

 満面の笑顔、だが目が笑っていない。

「すみませんすみません、ワタクシが悪ぅございましたっ」

 いっぺんにすくみあがると、鎮火すべくヒウェルは慌てて新たな酒をグラスに注いだ。

 ディフはしばらく軽く握った拳を口元に当てて考え込んでいたが、やがて自分も床にぺたりと座り込んだ。いつ、ヨーコがひっくり返っても受け止められるようにすぐ隣に。
 レオンも肩をすくめると椅子から降りて、ディフの隣に座った。

 先生の周りに守りの壁が張り巡らされるのを見計らって、風見とロイはそっとバーカウンターを離れてソファに腰を降ろすのだった。

「く……」

 風見は密かに唇を噛んだ。先生をソファまで連れて行きたかった。ロイと2人掛かりでなら、できると思ったのに。

 単純に腕力だけの問題じゃないんだ……。
 もっと、しっかりと腕をからめて支えなければいけなかった。それなのに、とっさに遠慮してしまった。いや、ためらった。
 あの時と違って、大人の女性である先生に深く触れることを。

(まだまだ修行が足りないな……)

 深々とため息をつき、ソファに身を沈める。
 ポケットの中でチリン、と携帯のストラップに下げた金色の鈴が鳴った。

(あれ……)

 透き通った小さな響きが細いかすかな糸となり、意識の中にすうっと降りて行く。
 何だろう、この感じ。

 ずうっと昔、同じようなことがあった。
 怒りとも、悲しみともつかない、何かの痛みに耐えていた女の人を見たことがある。

 手のひらで丸い形を作る。
 そうだ、この形だ。

 とぷん、と手のひらにかすかな振動をが蘇る。何か液体のゆれるような感触だった。

 あの時、自分は何を持っていたのだろう? 
 
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【4-12-9】お迎え参上

2009/07/24 0:17 四話十海
 
 グラスの中味をちびちびと、舐めるように飲みながらヨーコはため息をついた。

「男に生まれればよかった……」

 げ、と小さくつぶやくと、ヒウェルはぐんにゃりと口をゆがませた。
 中学生の女の子みたいなボディで既にこの気迫なのだ。これが男だったらと思うと。

(サリーっぽくなる……か? いや、それで済むとは思えない!)

「それ以上男らしくなってどーすんだ、お前!」

 ディフもうなずいた。

「十分だぞ、ヨーコ」
「ちがうのー! そーゆー意味じゃなーいー」

 ぶんぶんと首を左右に振って足をじたばたさせる。目はとろんと充血し、もはや言動ともに誰が見ても立派な酔っぱらいだ。

「やばいな。飲ませすぎた……かな」
「酔いが顔に出ないタイプらしいね、彼女は」
「そうみたいだな」

 その時、インターフォンが鳴った。すっとディフが立ち上がり、応対に出る。

「Hello?」
「あー、その、夜分に恐れ入る。ランドールだ」
「Mr.ランドール?」

 レオンの依頼人が何故ここに?
 クリスマスの挨拶にしては、いささか遅い時刻だ。緊急事態か? いや、だとしたらまず電話が来るだろう。

「そちらにMissヨーコ・ユウキがお邪魔しているはずなんだが」
「……何故、あなたが彼女を?」
「コウイチから電話をもらってね。迎えに来た」

 ちらっと振り返る。コウイチがうなずいている。

「どうぞ。上がってきてください」
「すまないね」
「お待ちしてます」

 インターフォンのスイッチを切り、ソファに近づいた。

「迎えに来る友だちってのはMr.ランドールだったのか」
「ハイ」
「つかぬこと聞くが、どこで知り合ったんだ?」
「お二人の結婚式で……」
「なるほど」

 やがて、玄関の呼び鈴が鳴った。ランドールはジーノ&ローゼンベルク法律事務所の顧客だ。今度はレオン自らドアを開けて出迎えた。

「やあ、こんばんわ」
「こんばんわ。どうぞ、中へ」

 リビングに通された瞬間、ランドールは一瞬困惑し、続いて渋い顔になった。

 ここが良識ある一般家庭の居間であることに感謝しよう。もしもどこかのバーで同じことが起きていたらと思うと!
 それに比べれば遥かに危険度は低い。しかし、床に座りこんで飲むとはいかがなものか?
 これではほとんど、男友達の寄り集まった飲み会の末期ではないか! 実際、彼らの間の空気は極めてそれに近いのだが。

 一番分別のありそうなレオンを睨むべきか、一番良識のありそうなディフを睨むべきか。迷ってから2人いっぺんに睨みつける。赤毛の探偵は申し訳なさそうに肩をすくめ、端整な顔立ちの弁護士は何食わぬ顔で受け流した。

(やれやれ、こまった大人たちだ)

 軽くコウイチとロイに目配せし、持参した荷物と脱いだコートをひとまとめにしてソファの空いた場所に置く。
 そのまま大股に部屋を横切り、すとんとヨーコの隣に腰を下ろした。紳士に相応しく、慎み深い距離を保って。振動が伝わっているはずだが、一向にこちらに気づく様子がない。

 ひょいと手を伸ばして彼女の手の中からグラスを奪い取る。その時になって初めて彼の存在に気づいたようだった。

「え……カル?」

(何てことだ、そこまで酔っているのか!)

 奪い取ったグラスを飲み干したい衝動にかられるが、かろうじて自制し、カウンターの上に置くにとどめる。

「……こちらのご婦人にペリエを」

 ぱきっと緑色のガラスボトルの蓋が開けられ、背の高いグラスに注がれ、カウンターに乗せられた。

「どうぞ」

 この調子で命じられるままにほいほいと酒を渡してきたのだな、彼は。容易に想像がつく。もはやにらむ気にすらなれない。

(やはり彼には無理だな……)

 水を受け取りヨーコに渡すと、じとーっとすわった目つきで見上げられた。

「持ってきたんでしょ? 渡せば?」
「そう言う所は鈍らないんだね……」

 コートの下に隠されたオモチャ屋の包み。その存在を彼女はちゃんと見抜いているのか。
 やれやれ、私が部屋に入ってきたのにも気づかなかったくせに。

 とりあえず意識ははっきりしている。予想していた最悪の事態は免れたようだ。
 もうしばらく、ここに置いておいても大丈夫だろう。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 それから間もなく、オーウェン家の呼び鈴が鳴った。

「これは……ランドールさま」
「やあ、アレックス。近くまで来たものだからね」

 部屋の奥から、ディーンが飛んできた。いつもならとっくに寝ているはずの時間だが、パーティーの興奮がまださめやらず、もらったばかりのプレゼントを抱えてころころはしゃいでいたのだ。

「Mr.ランドールーっ」
「やあ、ディーン」
「メリークリスマスっ」
「ああ、メリークリスマス」

 コートの下から持参したプレゼントを取り出し、手渡した。

「わ……ああ……」

 クリスマスプレゼントはもうおしまいだと思っていたところに降ってわいた予想外のもう一つ。
 ディーンは目をまるくしたまま、ぎゅっと抱えて立ち尽くしていた。

「ディーン?」
「ありがとーっ」

 ぴょん、と飛びついて、ぐりぐりと全身をすりよせてくる。

「これ、なに? フリスビー?」
「フラットボールだよ。ちょっと失礼」

 包みを開けて取り出し、少し離れてから、軽く放り投げた。

「そら、ディーン」
「わ」

 フリスビーは空中でかしゃっと形を変えて。ディーンの腕の中に転がり込んだ。
 そう、ボールになって。

「トランスフォームしたーっっ! すごい、フラトボールすごいっ」

 どうやら、喜んでもらえたらしい。

「見て、この絵、見て!」

 その後、ディーン画伯の作品をじっくりと拝見し、アレックスとソフィアと挨拶を交わしてから上に戻った。

「おやすみ。よいクリスマスを」
「おやすみなさいませ」
「よいクリスマスを……ありがとうございました」

 エレベーターの中で、ふうっと深いため息をつく。
 アレックス一家と対面しても思ったより平静でいられる自分にほっとするような、寂しいような気がした。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 その間、ヨーコはランドールに押し付けられた水をちびりちびりと大人しく飲んでいた。
 むっと言うような顔をして。けれど静かに。

 ヒウェルは薄い薔薇色の液体を満たしたフルートグラスを二つ、手に持ってソファに歩いて行き、ロイと風見に手渡した。
 細かい泡の中に一切れ、レモンスライスが浮かんでいる。

「……お疲れさん」
「あ、ありがとうございます」
「ノンアルコールだよ。遠慮なく飲んでくれ」
「はい、いただきます」

 ひょろりとした手がぽん、とロイの肩を叩き、早口で囁いた。

「がんばれよ、少年」
「っ!」
「片思い。切ないよな」

 ぱちっとウィンクすると、眼鏡男は何事もなかったようにバーカウンターに戻って行った。
 ロイはぽやーっとしてヒウェルを見送り、それからぐびっとグラスの中味を飲み干した。
 
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 illustrated by Kasuri
 
(………いい人デス)

 酔っぱらったヨーコ先生にお酌を要求されても嫌な顔一つせずに優しく付き合って。
 一昨日の出来事も、それとなく真相を察しながらも沈黙を守っていてくれている。何て懐の広い人なんだ!

 長く伸ばした前髪の影から、ロイは惜しみなく尊敬のまなざしを送るのだった……ひょろりとしたヒウェルの背に向けて。

 一方でヨーコは片手で結ったお下げの先に指を巻き付け、くるくるいじりまわしている。かと思うと玄関の方をうかがっては切なげにため息をつき、とうとう目を伏せてしまった。

(なるほど。原因はMr.ランドールか)

 レオンは軽く既視感を覚えた。

(決して手の届かない相手を想っている。だれよりもそのことを知っているのに、想いは消えない。いっそ友だちのままで居られたら楽なのに………だけど、気づいてしまった)

 立場は微妙に異なるものの、かつての自分に似ているような気がした。ほんの少しだけ
 報われない片思い。自分はゲイで、ストレートの男性へ。彼女の場合は本人が女性で、相手がゲイ。

 誰も代わりにはなれない。
 代わりのもので満たそうとしても、かえって虚しくなるばかり。いっそ嫌いになれたらどんなに楽か……。

「お」

 再び呼び鈴が鳴った。
 立ち上がろうとすると、ディフがそっと肩に触れた。

「いい、俺が出る」
「ああ」

 のっそりと立ち上がり、玄関に向かって歩いて行く。ヨーコとの間にあった『生きた壁』が無くなるのを見計らってから、声をかけた。
 明日の天気でも話すように、何気ない口調でさらりと。

「君が何を悩んでいるかはしらないけどね、ヨーコ。男でも女でもやる事はそう変わらないものだよ」

 赤いフレームの眼鏡の向こうから、ぽやーっとした濃い褐色の瞳が見上げてくる。

「……」

 ふさふさとした睫毛が瞳の上にかぶさり、再び開いた。
 まだ潤みは抜けていないものの、視線は定まっている。どうやら自分の言葉は届いたようだ。

「サンクス、レオン」
「どういたしまして」
 
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【4-12-10】★酔っぱらい羊

2009/07/24 0:19 四話十海
 
 ローゼンベルク家に戻ると、相変わらずヨーコは床に座り込んでいる。しかし手にしたグラスの中味はさっき自分が渡した水だ。やれやれ。おとなしくしていてくれたらしい。

 コウイチから電話をもらった瞬間は、チャーリーとの会話や頭の中で渦巻いていた。さらによからぬ推測を巻き込んで、雷鳴轟く空の下でブリザードが吹き荒れる心境だったが……。
 下に行き、ディーンやソフィア、アレックスと会ったことがいい具合に鎮静効果をもたらしてくれたようだ。
 ようやく、頭が回るようになってきた。

「マクラウドくん」
「はい?」
「その、パーティにはいささか遅いが良かったらこれを」

 タッパーにきちっとつめた大量のクレープを渡した。

「……ありがとう。これ、中味はマーマレードですか」
「ああ。グレープフルーツの」
「ハンドメイド?」
「ああ、母のお手製だ」

 ちらっと視線を走らせてからディフは言った。

「でも、これを焼いたのはあなたですね?」
「……何故わかったんだい?」
「シャツの袖に、小麦粉が」

 言われて見ると、確かに。右の袖口に一雫ぶん、小麦粉が乾いて固着している。水で溶いたクレープ生地の、飛沫の形をくっきりと残して。

「自分で混ぜたのでなけりゃ、そんな風には着かない」
「さすが、自分でも作る人ならではの目線だね……」
「面白い香りだな。グレープフルーツだけじゃない」
「ああ。レモンと桃が入ってる。よければ後でレシピを送ろうか?」
「是非に!」

 厳つい顔がほころび、人なつこい笑顔が広がる。

 そうだ、結婚式の時もこんな顔をしていた。
 今まで、自分の中の彼のイメージと、ヨーコやサリーから伝え聞いていたそれとがどうにも合致しなかったのだが……。
 ずれていた二つの人物像がすうっと重なり、一つになった。

「FAXで送ろうか。それともメールの方が?」
「FAXの方がいいな。実際に見ながら作れるし……」

 さらさらとメモ用紙に番号を書いて渡してくれた。

「この番号に」
「OK」

 メモを胸ポケットにしまいながらバーカウンターに歩み寄り、軽く顧問弁護士に目礼する。
 静かにほほ笑み返すとレオンは立ち上がり、場所を空けてくれた。

 確かにローゼンベルク弁護士は愛すべき伴侶と巡り会ったのだ。おそらくは彼にとって欠けていた全てを満たしてくれる相手と。

 ひざまずいて声をかける。

「さあ、おいでヨーコ。帰ろう」
「まだ飲む!」

 くいっと水を飲み干し、手の甲で口元をぬぐうと空のグラスを持ったまま、じろっとヒウェルをにらみつけた。
 にらまれた方はぷるぷると首を横に振って後じさり。
 ひょいとグラスを取り上げ、カウンターの上に置いた。

「いけないよ、もうおいとましないと」
「………おやすみのキスしてくれたら、帰ってもいいけど?」
 
 拗ねた顔でそっぽを向き、ちらっと横目使いに見上げてくる。はん、と鼻で笑って顔を近づけてやった。

「どこにしてほしい?」
「………」

 彼女はにゅうっと顔を寄せて……キスしてきた。不言実行、実に速やかに。

(くっ、口で言いたまえっ)

 確かに言葉より行動は雄弁だが、まさかこう来るとは!

「あ」
「い」
「おいっ」

 背中に視線が突き刺さる。がたっと立ち上がる気配もするようだが、服の胸元にしがみつかれて動くに動けない。
 ちゅっとキスして素早く逃げて。そんな可愛げのあるイタズラでは終らなかった。それどころか舌先でちょん、と重ねた唇をつついて来た。

(これはっ?)

 昨日までと明らかに反応が違う? 堅いつぼみが花開いている……まだまだぎこちないが、しかし確実に。
 昨日の今日でいったい何があったのか。

 チャーリーとの会話が脳裏をよぎる。

『なあ、ランドール。お前、この間かわいい子と一緒にいたろ。黒髪の東洋系の、眼鏡をかけた』
『紹介してくれよ』
『あーゆー楚々としたタイプは、いざベッドの中に入ると……化けるぜ、きっと』

 遅まきながら気づいた。ストレート志向の男がどんな目でヨーコを見ているのか。
 皿の上のステーキか、ケーキを見るみたいに目をぎらつかせ、狙いを定める輩も存在するのだ。確実に。そんな男どもの目の前で、こんな風に無防備に振る舞っているのか、君は?

 想像しただけで胸の奥がざわめき、波立つ。

 いったいだれが彼女を変えたのか………。
 サンフランシスコには彼女の知り合いも多い。昔のボーイフレンドと会いでもしたのか?
 気に入らないような。悔しいような。
 何なんだ、このもやっとしたいら立ちは。

(つまらない男に引っかかるな、ヨーコ)

 誘われるまま、自分からも突つき返す。
 互いの舌先が触れ合うとぴくっと震えて逃げようとする。その動きに乗じて彼女の中に滑り込んだ。

「う……っんっ」
 
 可愛い声だ。でもまだ勘弁してあげる訳には行かない。
 背中に腕を回して逃げ道を封じる。

 どうやら君にはお仕置きが必要だね。うかつにこんなことをしたらどうなるか、しっかり教えてあげよう。
 
 
 ※ ※ ※ ※ 
 
 
「……着いたぞ、サクヤ。鍵は?」
「んー」

 チリン、と鈴の音とともに手渡された鍵を、当然のようにドアにさしこんで回す。
 灯りのスイッチの位置も、家具の場所も勝手知ったる他人の家だ。
 相変わらずほわほわとご機嫌なサリーをベッドに放り上げ、てきぱきと服を脱がせる。

「っと……パジャマはどこだ?」

 あいにくと上しか見つからなかった。まあしっかり布団被せておけば大丈夫だろう。

「眼鏡外すぞ」
「んー」

 すっかり目を閉じてお休みモードに入ったサリーの顔に手を伸ばし、両手で慎重に眼鏡を外す。
 
「飲んで……ないのに……」
「そーかそーか」

 眼鏡をたたんでテーブルに乗せた。

「毛布借りるぞ」
「んー」
 
 
 テリーの声が聞こえてくる。
 結局、また世話になっちゃったなあ。後でしっかりお礼言っておかなくちゃ……。

(……あれ?)

 夢うつつの中、口の中に何かが滑り込んでくる。舌にからみつき、差し込んで下からすくいあげるようにしてなであげられる。
 くすぐったい。むずがゆい。身悶えしても逃げられず、先端を吸いあげられた。

「んっ」

 こくっと細い喉を震わせ、口の中にあふれる何かを飲み下す。
 何だろう……。ああ、体がじわじわ熱い。お酒のせいかな。皮膚の表面がピリピリする。布がこすれるのもつらい!

「は……あぁ……」

 身をよじり、足をばたつかせる。

(熱……い……)

 荒い息をつきながら布団の外に投げ出す。その動きに鋭敏になった体中の皮膚が布でこすられ、微細な刺激が押し寄せる。

(やめて、もう限界。それ以上触っちゃだめだ!)

 だれかの指が首筋をなであげ、髪をかきあげる。さらさらした髪の先端がうなじをくすぐる。

「あ」

 頭の中で白い火花が散った。

「んっ、ううんっ」
「サクヤ?」


 友人の異変に、慌ててテリーは枕元に駆け寄った。何やらしきりとため息ついたり、もじもじしたりしていると思ったら、はあはあと呼吸が荒くなってきた。
 身じろぎした拍子に布団がめくれ、にゅっと素足が放り出される。

「おい、しっかりしろ」

 無造作につかんで布団の中に収納したが、まだもじもじしている。

「あ、もしかして……吐くのか!」

 あわててバスルームに駆け込み、黄色い洗面器を手に引き返す。
 そのまましばし枕元で待機していたが、嘔吐の兆しは見られない。やがてすーすーと寝息を立てて眠ってしまった。

「……やれやれ。ったく、酒強くないのにぽんぽん飲むからだぞ」

 シャツのボタンを外し、ごろりとソフアに横になる。借り物の毛布をかぶり、クッションを枕代わりに目を閉じた。
 
「………の……ばか……」
「何か言ったか?」
「…………………」
「おやすみ」
 
 
 ※ ※ ※ ※


「う……」

 なめらかな肌が酒の酔い以外のものでほんのり桜色に染まり、くってりと力が抜けるのを確認してからようやく唇を離す。

(これで、リセットだ)
(つまらない男に……君を嫁にやるものか。絶対に!)

 それはある意味、花嫁の父にも似たいら立ちでしかなかった。

「ふ……ぁ……はぁ……」

 乱れた息の合間に、腕の中でか細い声がつぶやく。

「ずるいよ、カル……こんなことしても………どうせ、テリーの方が好みなんでしょ?」
「そうだよ」
「っ!」

 ぽこっと小さな拳が胸板を叩く。ほとんど痛みも衝撃もない。
 もともとそれほど腕力のある娘ではない。加えて酔っぱらっているから力が入らないのだろうけれど。

「私は君に、嘘は言わないよ」

 赤いフレームの向こう側で、濃い褐色の瞳に透き通った雫がにじむ。見つめ返し、きっぱりと告げた。

「優しい嘘なんか、ついてあげない」
「うーっ」

 両手の拳でぽこぽこと胸を叩かれる。つぶやく言葉は、完全に日本語に戻っていた。

「ばか、ばか、ばか、カルのばかっ」

 何となく言われたことの意味は察しがつく。

「そうだね……君の言う通りだ……」
「うー、うー、うーっ」

 動いたせいで酔いが回ったのだろうか。こてん、と胸の中につっぷして、酔っぱらい羊は静かになってしまった。
 髪をなでて、うなじから滑らせた手で頬を支えて顔を上げさせる。
 完全に意識を無くしているようだ。赤いフレームの眼鏡に手をかけて、注意深く外した。

「…………」

 何だか支えを無くして急に小さくなってしまったように見える。そっと指先で乱れた黒髪を整えた。
 今しがた自分の仕掛けた濃厚なキスを思い出し、小さな子どもに悪戯をしたようなバツの悪さを覚える。

 ため息一つつくと、ランドールはくってりと目を閉じたヨーコの顔から視線を逸らし、頭を撫でた。
 
 その時になってようやく背後から注がれる視線に気づく。
 振り向くと……風見とロイがじっとこっちを見ていた。
 ロイは柊の実さながらに耳まで真っ赤になって、硬直していた。頭のてっぺんから指先までつっぱらせて、まるで石像だ。

 ややぎこちない動きで風見が進み出る。相棒よりほんの少し早くフリーズから脱したらしい。

「これを」
「ああ、ありがとう」

 さし出されたケースに眼鏡を収めるとコウイチは受け取り、紺色のバッグにしまった。回転木馬がプリントされたころんとした丸い形のバッグ。
 一昨日、ずっと彼が持ち運んでいたものだ……小さくなってしまったヨーコの代わりに。

「む……」

 すぐそばで大型犬のうなり声みたいな音がした。振り向くと、赤毛のいかつい主夫が渋い顔で腕組みをして睨んでいる。

 
(キスしたのはヨーコの方だし……いやそれ以前にMr.ランドールのが挑発してるが……)

『男に生まれればよかった……』

 万事において基本的にポジティブなヨーコが、珍しくもらしたネガティブな一言。その後ろに隠された意味がわかった。
 カル=カルヴィン。
 ディーンが似顔絵を見せた時の、あの何とも微妙な反応も合点が行く。結婚式で友人同士が親しくなるってのもよくある話だが、それにしてもこの2人いつの間にそんなに親密になっていたのか。
 ファーストネームはおろか、愛称で呼ぶようになっていたなんて……。

 サリーたちは知ってたのか?
 知ってたんだろうな。だからあんなに気まずそうな顔をしてたんだ。

「むむむ……」

 少なくともMr.ランドールは嘘をついていないし、ごまかしもしていない。ヨーコ・ユウキと言う人間が、最も厭うことだけはしていない。彼女を傷つけることも。

 それを差し引いても、友だちが目の前で濃厚なキスをされたと言う事実は確かに存在する訳で……。

(どうする? 一応、合意の上だし……でも舌入れるのはやり過ぎだろう!)

 その隣では、何故か眼鏡男が称賛のまなざしを向けていた。

(すげえよMr.ランドール! 魔女がキス一つであんなにおとなしくーっ!)
(ってか徹底してる……潔いぜ!)

 この瞬間ヒウェルの中でMr.ランドール=救世主の位置づけが確定した。

(すまなかった! 金巻き上げたりウォッカ三倍のカクテルで酔いつぶしたりして……)

 じりっとディフが一歩前に出る。その肩に背後からレオンが手を乗せた。

「ディフ」 
「……わかってるよ」

 ぐしゃっと髪の毛をかきあげると、深呼吸。

「明日の夕方の便で帰るんだろう? 空港まで送ろうか」
「いや、それには及ばないよ」

 ヨーコを抱きかかえると、ランドールはすっと優雅な仕草で立ち上がり、きっぱりと言い切った。断固たる意志で。

「私が送る」

(おやおや……)

 レオンは静かにほほ笑み、うなずいた。

 あくまで『面倒見のよい年上の友人』としてのポジションを貫くつもりなのかな、Mr.ランドール。
 懐かしいね。俺もかつてそう在ろうとしたものだよ。

 優しい嘘はつかない、か。確かに今はそうだろう。だが……

 傍らで、腕組みをしてまだ渋い顔をしているディフに目を向ける。
 波うつ赤い髪の合間から、ちらりと薔薇の花びらがのぞいている。

「騒がせてしまったね……それじゃ、よいクリスマスを」

 酔っぱらい羊を抱えてランドールは悠然と退場していった。後に風見とロイが続く。
 見送りながらレオンは密かに思った。

(あれは将来、宗旨替えするかもしれないな……)
 
 そして全ての招待客が退場し、パーティーは完全におひらきになった。
 
 
 ※ ※ ※ ※


「ふはぁ………」

 自分の部屋に戻ってからどーっと力が抜けたね。
 あんなににぎやかなホームパーティは久しぶりだった。あんなに心臓が地道に辛かったのも。
 いや、それにしても滅多に見られないものを立て続けに見ちまったような気がする。さすがクリスマス、奇跡の起きる夜だぜ。

 冷蔵庫にディフから持たされた料理の残りをさっさと収める。明日の朝と昼はこれで事足りるだろう。
 スライスした七面鳥、春巻き、抹茶のスティックケーキにグレープフルーツのマーマレードのクレープ、ちょっぴりつぶれた巻き寿司にジンジャーブレッド。

 それ、と……。

 赤いクリスマスブーツから、ほわっと甘い香りが立ちのぼる。
 さんざん飲み食いした後だけど、一つぐらいならいいよな。

 小粒のピーナッツ入りのチョコを選んでぱりぱり包み紙を開ける。
 おお、この香り。

 ふかぶかと吸い込み、頬張った。

「ん……うまい」

 ぽりぽりやりながらネクタイをゆるめて(元からゆるんでるって?)外し、シャツを脱いでソファの上に放り出す。
 寝間着用のシャツ出すのもめんどくさいし……今夜はこのTシャツ着て寝ちまうか?
 少なくとも新品だ。

 寝室に引き上げようとして、ふと思い出す。

『食べたら歯磨きする。これお約束!』

「………」

 洗面所に行き、もそもそと歯を磨いた。ディーンとの約束じゃ、守らない訳には行かないよな。
 
 
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【4-12-11】★★★誕生日の贈り物

2009/07/24 0:21 四話十海
 
 宴の後は、すがすがしい寂しさとちょっぴりの気だるさが残る。
 招待客が帰り、本来、この家にいる人間が残った。なのに急にがらんとしたように感じられる。

「おつかれさま」
「……そっちこそ」

 くしゃりと柔らかな明るい茶色の髪を撫でる。目を閉じて、すりよって……

「んっ」

 手のひらにキスして来やがった。大胆だな、まだヨーコたちが帰ってから2分も経ってないんだぞ?
 悪戯にも程が有る。ドアこそ閉めたが、下手すりゃまだ廊下にいるかもしれないタイミングでこんなこと仕掛けてくるなんて。
 こっち見て笑ってやがる。わざとだな。絶対わざとだな?

「書斎にいるよ」
「ああ」

 今しがたのキスなんか忘れたように涼しい顔をして、レオンはリビングを出て行った。
 まだ仕事しようってのか? こんな日まで……まったく、お前は働き過ぎだ。

「さてっと、ざっと片付ける……か」

 七面鳥のローストは、ヒウェルに押し付けてもまだだいぶ肉が残っている。明日はこれでシチューにできるな。
 春巻きに小エビのサラダにミートローフ。常温で置いとくとやばそうなものから優先して冷蔵庫にしまう。
 サリーから預かったスティックケーキもキッチンへ。明日あたりEEEの店に持ってくか。
 汚れたグラスと皿をざっとすすいで食器洗い機にセットしてスイッチを入れる。明日まで放っておいたら汚れがこびりついちまうからな。
 
 ざっと片付けてリビングを見回す。まだまだ通常営業にはほど遠い状態だが、残りは明日やるとしよう。
 動いた後で何となく甘いものが欲しくなった。サリーのスティックケーキを一本とって口に入れる。
 グリーンティーのほろ苦さと、上に乗った甘く煮た豆が口の中で結びついて溶けて行く。

「ん……美味い」

 灯りを消してリビングを出た。
 歯、磨いておくか。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 寝室に入って行くと、かすかに水音と人の気配がした。

「レオン?」

 浴室に通じるドアがほんの少し開いている。音の発生源はそこか。椅子の背にはさっきまであいつの着てた服がかかっている。まさか全部脱いでから風呂まで歩いてったのか?

 いかん、つい想像してしまう。煌煌と灯りのついた部屋の中を一糸まとわぬ姿で歩いて行くレオンの後ろ姿を……。

 あ、くそ、顔熱くなってきた。飲み過ぎたかな、いくら何でも。
 椅子の背にかかったシャツやセーターを畳み、ズボンをハンガーにひっかけてほこりを払う。
 珍しいこともあったもんだ、あいつまで床に座り込んで飲むなんて。

「っと……」

 肝心なことを思い出す。浴室のタオルとボディーソープ、切らしてたんだった! まさか補給するまえにレオンが風呂に入るとは思わなかったもんだから。
 うっかりしてたぞ。
 洗濯室に飛んでって洗いたてのを抱えてとって返す。ついでに物置からボディーソープのボトルも。大急ぎで寝室に戻り、浴室のドアを開けた。

「……レオン」
「どうしたんだい?」
「タオルと……石けん。切れてたろ」
「ああ、そう言えばなかったね」
 
 のん気すぎるぞ、お前!
 どうやって風呂から上がるつもりだったんだ?
 バスタブに近づき、タオルかけにばさりと白い大きな布をひっかける。

「そら、ここに置いて……」

 ざばっと水のしたたる音がした。と思ったらいきなり背後から抱きすくめられた。
 濡れた布と濡れた腕にすっぽり包み込まれて自由を奪われる。
 
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「おい、レオンっ」

 何てこった、こいつ、シャワーカーテンごと抱きついてきやがった!
 じっとりとお湯が染みてくる。寒くはないが、濡れた衣服が肌に張り付く。

「じっとして……」
「ぅ」

 もとより動けるはずがない。奴の腕が体に巻き付き、もう片方の手のひらが、がっちりと顎を押さえている。

「素直に大人しくしてられるか! くそ、せめて服を脱がせろ、濡れる!」
「もう……濡れてる」
「このっ!」
 
 じたばたもがいていると、耳にキスされた。

「あ」

 静かに柔らかく湿った唇が耳たぶを挟み込む。

「あぁ……」

 目がそらせない。水滴がしたたり、お湯の熱でほんのり上気したレオンの体から。何も、着ていない。風呂に入ってるんだから当然だ、だけど俺は違う!

 今までこんなことは一度だってなかった。こいつがヌードで俺がきっちり服着たままなんて……

「は……あぁ……」

 かすかにほほ笑む気配がした。
 唇が滑って行く。
 耳から頬へ。首筋へ。じりじりと熱が広がる。風呂場にいるせいか。蒸気で蒸されてるせいか、いつもより比べものにならないくらいに速やかに、体の隅々まで行き渡る。

「きれいだ……」

 左の首筋。皮膚の薄くなった火傷跡の上に吸い付かれた。何本もの微細な刺激の糸が皮膚を貫き、浸食してくる。

「ん、んっ」

 いけねえ、声が漏れちまった!
 そんなに大きな声を出したつもりはない。だが浴室の中では声が響く。ああ、なんか焦れてるみたいで、いたたまれない。
 それなのにまだ吸うのか、レオン!

「う、く、あぅ」

 舌まで這わせてやがる……。

「ふ、うぅ」

 かろうじて動く左手を口に当てる。出口を塞がれた声の音程が下がり……
 余計に響いた。

「くぅう……」

 これじゃ、逆効果だ。身をよじった瞬間。

「あ」

 戒めがほどかれ、あっさりと解放された。

「はあっ、はあっ、はあっ、はあ………」

 レオンの奴は何事もなかったようにバスタブに戻り、すました顔で浸かってる。
 今、自分のしたことなんか気にもかけてないってぇ表情だなおい。
  
「この……濡れたじゃねえかっ」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 息をはずませ、首筋を押さえてこっちをにらんでる。ああ、可愛いな。
 指のすき間からきれいな薔薇色がのぞいている。瞳の中にペリドットの粉末を散りばめたような緑色がゆれている。いい具合に熱が入っているね……。
 さて、どうするのかな?

 勢いよく服を脱ぐ気配が伝わって来る。
 一緒に入ってくるだろうか。それとも拗ねて出て行くか。

 ざっかざっかと大股で出て行き、寝室に戻ってしまった。
 ばたん、とドアが閉められる。

「そう来たか」

 こまったな、どうにもくすくす笑いが止まらない。
 ちらりと見えたディフの後ろ姿は、完全に裸になっていた。赤い髪、金色の翼、そして中央で護るライオン。かろうじてバスタブに引きずり込みたくなる衝動と戦った。

 ここで焦ったら、全てが水の泡だ。ゆっくりと時間をかけて入浴の続きに専念するとしよう。

 楽しみは後になるほど悦びが増す。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 風呂から上がり、寝室に戻ると部屋の照明が落とされていた。かろうじてベッドサイドのスタンドが一つだけ。
 それも一番、弱い明るさで灯されている。
 ベッドに横たわる人物は、首筋はおろか顔まですっぽりと布団をかぶって隠れていた。
 枕の上に広がる、波打つ赤い髪をのぞいて。

「……ディフ」

 返事はない。
 ベッドに近づき、布団をめくってみた。

「…………」

 小さなオレンジの灯りに照らされて、ほの白く裸身が浮かび上がる。
 何も身につけてはいなかった。左手の薬指にはめた指輪と………左手首の赤と緑のリボン以外は。
 つややかな光沢を帯びた細長い布。おそらく絹だ。どこかで見たような気がするが、今はそれどころじゃない。

「これは?」
「………誕生日のプレゼントだ」

 ぶっきらぼうな言い方をして、目をそらす。照れてる時の君のお決まりの仕草だ。

「うれしいね」
「何……見てる」
「リボンだけでもかなり違うんだなあと思ってね。なまじ一糸まとわぬ姿でいるより、刺激的だ。どうして手首に?」
「首とか脚だと………なんかプレイメイトみたいで気恥ずかしいから……な」

 手をとり、リボンに口づける。ああ、やっぱりこれは絹だな。

「なに……リボンになんか……………気に入ったのか?」

 ゆっくりとバスローブを脱ぎ、ベッドに上がった。

「お前だって裸じゃないか」
「俺の裸なんか見慣れているだろう?」
「そう言う問題じゃない!」

 ぷいと顔をそらすのを顎をとらえてのしかかり、唇を重ねた。
 肌と肌が触れ合う。皮膚の表面、細胞の一つ一つに至るまでが互いに呼び合い、引きつけ合う。
 舌が絡み合うのにいくらもかからなかった。
 互いの口内にあふれる唾液がこぼれるのも構わず、夢中になって貪った。貪られた。
 からめた腕で、指で、まさぐり合った。触れられる全ての場所に。

「きれいだな……」
「俺にとっては君の体の方が、よっぽどきれいだ」

 外見の美しさなんて、俺にとっては何の意味も為さなかった。母からゆずり受けたこの容姿を、むしろ厭わしいとさえ思っていた。
 だけど君が美しいと言ってくれたその時から、意味のあるものになったんだ。

「あれ、もう堅くなっているね? まだろくに触ってもいないのに」
「お前が……見るからだ」
「OK、それじゃこれから触るよ」
「いちいち声に出すなっ! あ、あ、あぁ」

 初めてベッドを共にしたとき、ディフはほとんど声を出そうとしなかった。必死になって歯を食いしばってこらえていた。
 しかし今は違う。触れられるたびに素直に声を挙げ、伝えてくれる。

(俺と君が育んできた全てを……奴らは無惨に引き裂き、食い荒らした)
(自分を責めないでくれ)
(お願いだから)

「ん、そこ、もっと……」
「ここかい?」
「あっ、い、いいっ」
「気持ちいい?」
「あ……う……ん……。気持ち……いい……」

 ちろりと舌先を這わせると、喉をそらして可愛い声で鳴いた。
 念入りに口で愛撫する。これから待ち受ける儀式を少しでも潤滑に行うために……。もっとも、ほとんどその必要も無かった。
 既にキスする前から彼のペニスは堅く張りつめ、先端からとろとろと透明な蜜をあふれさせていたのだから。

「う、あぁう、レオンっ」

 太ももに手をかけ、先端を口に含む。ぎっちりシーツを握り、体を強ばらせた。

「く」
「大丈夫だよ、ディフ。大丈夫だから」
「う、うん」

 引き締まった腰をまたいでのしかかる。さりげなく後ろに手を回して入り口を広げ、すっかり蕩けた先端に押し当てて……

「は……あぁ……」

 息を吐きながら腰を落とした。

「う……ぁ……えっ? レオンっっ?」

 ぎょっとして半身を起こしてきた。予想外のタイミングで抉られ、全身が引きつった。

「あうっ」
「なんで……おまえ……あ…き……つっっ」
「……ごめん、ひさしぶり……だから……俺も、きつい……」

 ゆっくりお湯につかりながら指で広げて、中にローションも塗り込めてきたはずだった。それでも、やはりきつい。

 押し入って来る灼熱の塊が内蔵を圧迫する。のどもとまでせり上がってきそうだ。一方でアヌスは限界まで押し広げられ、わずかな動きにもぴりぴりと反応してしまう。

「君のが……大きすぎるんだ……」
「そんなこと言うなっ」

 ああ、俺の中で小刻みに震えているじゃないか。君は恥じらってるのか? むしろ自慢げに誇示する男も多いと言うのに。

「もうすぐ……全部入るから……」
「う……んん……」

 背中に腕が回され、支えられた。
 押しのけようだなんて微塵も考えつかないんだね………つくづく可愛い人だ。

「言ったろう……君は俺の全てで………俺の全ては……君のものなんだよ」
「レオン……」

 目の縁にうかぶ透き通った雫に口づけた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「あ……あったかい」

 それは未知の感覚だった。女性との結合とはまるで違っていた。
 最も強烈に締めつけられるのはむしろ入り口で、奥に行くにつれて弾力のある肉のひだが優しくまとわりつき、包まれるのを感じた。

(レオンに包み込まれてる……すごく……安心できる)

「も……少し……」

 ずぶっと一気に奥まで飲み込まれた。

「あ、うぅっ」
「くぅ」

 俺の上でレオンがわずかに眉をしかめる。

「…………レオン……すごく可愛いよ……おまえって最高にセクシーだ」

 見下ろすとうっすらと微笑み、髪をなでてきた。
 
 090207_2251~01.JPG
 illustrated by Kasuri
 
「どうやって……すればいいんだ? 男相手に入れるの……初めてだから………わからない」
「心のおもむくままに……というか、そうだな……。普段、俺がしてるようにすれば、いい、かな」

 そう言ってレオンは俺の手をとり、キスしてきた。

「うあっ」

 悶える動きがそのまま彼を突き上げてしまう。それだけで、俺を包み込む熱い壁がびくりと蠢いた。

「……そういう顔も……いいね」
「何……見て……ぅうっ」

 睨んだつもりでも、目もとににじむ涙は隠せない。動くたびに盛り上がってゆく。

「はっ、はっ、はっ、はぁっ、う、んっ」

 導かれるまま、小刻みに早いペースで突きあげた。鞭のようにしなる汗ばんだ背に腕を回して。
 支えているのか、すがりついているのか。
 彼を突き上げているのか、それとも絶え間なく襲って来る未知の快楽に悶えているのか。自分でもわからない、区別がつかない。

「ぁ……っ、ぁ、ディフ……まっ」
「ぁ、あ、あ、レオン、かわいいよ……おまえの声聞いてるだけで……んっ、たまらないっ」

 揺さぶるたびに漏れるレオンの声が。息が、次第に乱れてきた。

「おまえの中……ぬるぬるしてて、すげえ気持ちいい……体が勝手に動いちまうっ」
「あ、う、ディフっ」
「きれいだな……そんな表情もするんだな、おまえって……」

 すぐ目の前で、肉色の真珠が尖り、ゆれている。たまらず顔をすり寄せ、吸い付いた。

「う、んんっ」

 しなやかに包み込んでいた肉の抱擁が、一転して強烈な締め付けに変わる。

「あ、だめだ、レオン、そんなにされたらっ、あ、もう、がまん、できなっ」
「いいんだ……君のしたいように、すればいい」

 今度ははっきりと意図的に締め上げてきた。しかも、自分から腰をくねらせている。
 根元から絞り上げられ、そのまま容赦なくしごかれた。

「あ、う、あう、レオン、レオンっ」

 もう、我慢できない。限界だ!
 しなやかな腰を抱え込んだまま、夢中になってレオンを押し倒した。深々と彼を貫いたまま。

「んっ、ディフっ」

 そのままのしかかり、本能の求めるまま動いた。荒い息を吐き、獣みたいに腰をゆすり、打ち付ける。背中を反らして貫いた。突き上げた。
 にじみ出す汗がこぼれ落ち、レオンの肌に滴り濡らす。枕元の小さな灯りを反射してきらきらと光った。
 ああ、何てきれいなんだ。

「レオン……レオン……レオンっ」

 三度まで果てたのは覚えてる。だけどその先は覚えていない。
 ただ彼の中に深く包み込まれ、抱きしめられて。そこから出ることなくひたすら貪った。

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「んっ」

 深々と押し入った彼がびくりと震えた。どくどくと脈動し、熱い奔流が迸る。既に俺の中は最初に塗り込めたローションよりも彼の放った精でいっぱいだ。
 おかげでだいぶ滑りがよくなった。

 これで……何度目だろう? 三回めから先はよく覚えていない。
 
 ほんの二日前、悪夢に怯えて震えていた君を今夜無理に抱くことはできなかった。だからと言ってベッドを共にすることを諦めたくはない。考えた末の決断だ。

 まったく君ときたら最初は俺を気遣うばかりでろくに動こうとしなかった。
 他の女性たちを抱いた時も同じ様にしていたのだろうか?
 これではだめだ。物足りない。体を張った意味がない

 彼女たちと同じじゃいけない。がまんできないんだよ、ディフ。

 だから煽った。駆り立てた。本来、彼の中に潜む荒々しい本能を呼び覚ました。
 結果として、予想をはるかに上回る猛々しい獣を相手にする羽目になってしまったが……。

「は……あ……レオ……ン……」

 ああ、それにしてもいい顔をしてるね、ディフ……実に気持ち良さそうだ。俺に抱かれる時とはまた違う。けれどやはり君は君だ。
 可愛くて、たまらない。

「う、んっ」
「ん」

 繋がりあったまま、唇を重ねて舌を絡める。
 言葉になる前の『愛してる』が互いの口の中で蕩けて混ざり合う。

 これで全てが解決するとは思えないけれど、せめて今は君の心を曇らせる憂い事を忘れて……俺に溺れてくれ。

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【4-12-12】★★今日は君をひとりじめ

2009/07/24 0:24 四話十海
 
 次の日の朝。
 ディフとレオンはなかなか寝室から出て来なかった。俺もオティアも起きたのはゆっくりめ。
 パーティーの後だし、お休みの日だし。
 人がいっぱい来て、ちょっと疲れていたし。

 ぼーっとしながらキッチンに行き、冷蔵庫を開けて中味を確かめる。ちゃんと昨日の料理の残りがラップで包まれて入っていた。

「ミートパイあっためようかな……あとは……サラダの残りと……スープあっためて」

 ディフにはちょっと足りないかもしれない。パンも焼いた方がいいかな。
 その瞬間、思い出す。

『オプティマス・プライム!』

 得意げなディーンの顔。粘土で作られたロボットのようなパン。

「ふふっ」

 可愛かったな……でも、あのパンは食べるのには、あまり向いてないような気がする。
 ふと、背後に人の気配を感じた。だれかがキッチンに入ってきたんだ。オティアじゃない。このずっしりした足音は……

「ディフ?」
「あ………その……」

 恥ずかしそうな顔してる。寝坊したからかな。くしゃくしゃと赤い髪の毛をかき回しながら小さな声で

「おはよう」と言ってきた。

「おはよう」
「寝坊しちまったな……すぐ、飯の仕度するから」
「ん」

 ミートパイをあっためて、スープとサラダと野菜ジュース。俺とオティア、2人分の食事を用意すると、ディフはスープだけ別にとりわけて。パンをあっためて、トレイに載せた。

「先に食っててくれ。俺はこれ、レオンに食わせてくる」
「わかった」

 レオン、起きられないってことなのかな。珍しいな。

「レオン、どこか具合悪いの?」
「う……ん、まあ、そんなとこだ」
「?」

 食事を載せたトレイを持ってそそくさと歩いて行く。

「あ」

 ちょうどキッチンに入ってきたオティアと鉢合わせしたその瞬間、ディフはさっと目をそらしてしまった。

「…………」
「あ……その……」

 ちらっと横目でオティアを見て、また小さな声でぽそっとつぶやいた。

「おはよう」
「ん」

 逃げるように寝室に向かうディフを、オティアはむすっとした顔で見送っていた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 寝室に戻り、サイドテーブルに食事を載せたトレイを置いた。
 枕の上に広がる乱れた明るい褐色の髪を撫で、囁きかける。

「……レオン?」
「あぁ……」
 
 うっすらと目を開けた。声がすっかりかすれちまってる。理由は俺が一番良く知っている。

「飯……持ってきた。食えるか?」
「ん……」

 ちらっとトレイの上の食事を見て、ゆるく首を振った。
 横に。

「ごめん……」

 さあっと血の気が引いた。そんなに弱ってるのか。ああ、俺って奴は、夢中になってがっついて何てことをーっ!
 おまえの誕生日だったってのに、自分がプレゼントもらっちまった。限度も知らずに攻めまくって……しかも終ったらそのまんま爆睡。
 ああ。
 ごめん、レオン。
 穴があったら入りたい。

「何か……口に入るもの……あるか?」
「……ああ………水をくれないかな」
「わかったっ」

 キッチンにすっ飛んでって、ボトルウォーターとコップをつかんでとって返す。

「水、持ってきたぞ。一人で飲めるか?」
「ん……」

 ベッドの上に身体を起こそうとして、途中で止まっちまった。

「待ってろ」

 隣に腰かけ、背中に腕を回して支える。腕にも、背中にも、腰にも、全身に妙な具合に力が入ってる……きついんだろうな。体中がきしむ痛みを思い起こし、胸が詰まった。
 背骨を突き抜ける鈍痛、ほんのちょっと動いただけで衝撃の余波が骨を噛む。甘い夜の名残と呼ぶにはあまりにも大きすぎる。

 片手に持ったペットボトルの蓋を歯でくわえてこじ開け、中味を口に含む。そのまま唇を重ねて、静かに注ぎ入れた。
 レオンのペースに合わせて少しずつ。喉がこくん、と鳴るのを確かめながら、むせないように、溺れないように。
 ほんの少し震えたけれど、受け入れてくれた。

 こぼれた水を指でぬぐうと、かすかにほほ笑んだ。

「今日は寝てろ……ずっと着いててやるから」
「わかったよ……」

 うなずくレオンをベッドに横たえる。静かに静かに、そっと……軽やかな羽毛を扱うように。ガラス細工を扱うように注意深く。

「新聞持ってきてやろうか。それとも絵本でも読むか、ん?」
「いや……もう少し……眠るよ」
「……そうか」

 かがみ込んで額に口づける。

「おやすみ」

 結局、持ってきたスープとパンと水の残りは俺の朝飯になった。食べ終わった頃に携帯が鳴る。アレックスからだ。

「よう、アレックス。おはよう」
「おはようございます。昨夜の後片付けをしにうかがいたいのですが、よろしいでしょうか」
「ああ、来てくれ。それで、その、あー、えっと……」

 ちらっとベッドをうかがう。
 もう眠っているようだ。

「レオンが寝込んでる。あ、いや、心配しないでいい。病気とかそう言うんじゃない、ただ、その……疲れただけで」

 我ながら苦しいいい訳だ。

「さようでございますか」

 それでも多くを聞かずに受け入れてくれる。何て懐の広い男なんだ、アレックス。

「わがまま言っていいかな。俺、ずっと付き添っていたいんだ」
「……それがよろしいかと存じます。後片付けは私の方でやっておきますので」
「すまん。恩に着る」

 電話を切って、ふーっと一息。
 食べ終わった食器を持ってキッチンに行くと、シエンが皿を洗っていた。

「あ、そっちも終ったんだ?」
「うん……それで、な」
「ん?」

 すーっと深く息を吸う。

「レオン、起きられそうにないから付き添っていたい」

 金髪の頭がこくっとうなずいた。

「わかった」
「すまん。もうすぐアレックスが来るから……」

 ちょうどその時、呼び鈴が鳴った。
 シエンはとことこと玄関に向かって歩いてゆき、ちらっとこっちを振り返った。

「レオン、待ってるよ?」
「あ……うん、行ってくる」

 寝室に戻り、ベッドの枕元に椅子を持ってきて腰掛ける。
 さてと。
 今日はここが俺のポジションだ。
  
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 レオンは静かに眠っている。読みたかったけど読めずにいた本をとってきて、寝顔を見守りながらつらつら目を通した。
 こんなに穏やかな時間をすごすのは久しぶりだ……。
 
 しばらく文字を追うのに夢中になっていると、ふと気配を感じた。顔を上げると、レオンが目を開けてこっちを見ていた。

「何だ、起きてたのか」
「あぁ」
「いつから?」
「さあ、いつから……かな」

 朝よりはだいぶ声がしっかりしている。ほっとして頬に手を当てると、自分から顔をすり寄せて来た。
 珍しいな、こんな風にこいつが素直に甘えてくるなんて……。参ったな。胸の奥がきゅっとなったぞ、くそ、十代のガキじゃあるまいし!

「あー、その、何か、してほしいこと、あるか?」
「うん、そうだね……風呂に入りたいな」
「わかった」

 バスルームに行き、バスタブに湯を入れる。熱すぎないように、ぬるすぎないように湯加減を調節して、タオルも着替えも全て準備万端整えてから寝室に戻った。

「風呂、準備できたぞ」
「ああ」

 ベッドの上にかがみ込み、注意深くレオンの身体に腕を巻き付ける。

「え、ディフ?」
「俺も一緒に入る。いいな?」

 ちょっとの間レオンは目を伏せて、左右に視線を泳がせたが、やがて俺の目を見返してうなずいてくれた。

「……………わかったよ」

 昼間のバスルームはやたらと明るくて。お湯に濡れたしなやかな肢体に、昨夜の痕跡がくっきりと浮かび上がっているのが見てとれた。

「こんなに俺……激しくしちまったんだな………」

 ひときわ赤々と浮かぶ跡を手のひらで覆う。

「ごめん」
「謝ることはないさ……」
「じっとしてろ。後は全部俺が洗ってやるから」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ディフは今日はずっとレオンにつきっきり。だから昼ご飯は俺が作ることにした。

「何がいいかな……」

 冷凍庫に緑色の塊がある。よく見たらエンドウ豆だった。きっと時間のある時に大量にサヤをとって、煮ておいたんだろうな。
 これを解凍して……あ、トマトがある。ニンニクも。
 パスタの買い置きはたっぷりある。
 豆の種類がちょっと違うけど、「Pasta e Fagioli(パスタ エ ファジョーリ)」にしようかな。
 本当は白いんげん豆を使うんだけど……エンドウ豆も同じ豆だから大丈夫だよね。
 
 凍ったエンドウ豆を鍋に入れて、水を加えてコトコトあたためる。ベランダのプランターからセージを摘んできて、ざっと洗って刻んで加えた。後はオリーブオイルとニンニクを入れて。
 豆を煮ている間にパスタをぱきぱきと短く折る。本当はショートパスタを使うんだけど、元々は折れたパスタを美味しく食べるための料理だったって言うし、これも有りだよね。
 それに、これならきっとレオンも食べやすい。

 豆が煮えたらつぶしたトマトを入れて一煮立ち。少しさましてから、ブレンダーでガーっと混ぜる。本当は丁寧につぶして裏ごしするんだけど、豆のスープを作る時はいつもこうだし……うん、きれいに混ざってる。大丈夫。

 鍋に戻してあたため直して、黒こしょうと塩で味付け。柔らかく茹でたパスタを加えてしばらく火にかけて馴染ませる。

 やっぱり料理作るのは楽しい。自分の好きなものを自由に作れるから。

 お皿に盛りつけて、仕上げに粉チーズを散らした。後は並べるだけだ。
 オティアがだまってキッチンに入ってきて、お皿を運んで行く。

 ディフとレオンは……どうしようかな。呼びに行った方がいいのかな。それとも携帯、鳴らそうか。
 リビングまで行ったものの、それ以上踏み込めず迷っていると。ドアが開いて、ひょこっと赤いふさふさした頭がのぞいた。

「遅くなってすまん、昼飯の仕度………」
「もうできてるよ」
「え」

 目をぱちくりさせてる。

「おまえが作ったのか?」
「うん。レオンのぶん、持ってく?」
「ああ、その方がいいな……俺も寝室で食うよ」
「わかった」

 パスタ エ ファジョーリ2人分、トレイに載せた。
   
「ありがとな、シエン」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 ベッドからほとんど動けないものの、レオンはすごぶる機嫌が良かった。
 ディフがずっと自分の目の届く場所に居て。彼の声だけを聞いて、彼だけに触れていたからだ。

 湯上がりの気だるさに浸りながらディフの腕に抱かれ、うっとりと赤い髪に指をからめる。

(今日は一歩もこの部屋から出ずにいよう。そうすれば、君もずっとここに居てくれる)

 昼食の準備があるから、とディフが寝室を出た時はしぶしぶ見送ったが、何と言う幸運。すぐに戻ってきてくれた。

「レオン。飯持ってきたぞ……食えるか?」
「ずいぶんと早かったね」
「シエンが作ってくれたんだ」
「……そうか」

 笑みがこぼれる。
 後でアレックスに電話をして、夕飯は彼に頼んでおこう。

 これで心置きなくディフをひとりじめできる。

(いいね。最高のプレゼントだ……)


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【4-12-13】お届けものです

2009/07/24 0:25 四話十海
 
「うー……」 
 
 ごそごそと起き上がり、最初にはて、と首をかしげる。
 俺、こんなシャツ持ってたっけ?
 
 頭がはっきりするにつれてすぐに記憶と目の前の現実が一致した。そうだ、これ昨日もらったんだよな。日本からの土産。真ん中に書かれた日本語は、俺の頭文字なんだとかなんとか。

 時計を見ると午前11時。パーティーの翌日にしては珍しく、昼前に目が覚めたらしい。

 もっとも昨夜はもっぱら作るか注ぐばかりで、自分ではほとんど酒を口にしていない。なかなか起きられなかったのは、日頃の不規則な生活リズムを引きずっているのと、妙に気づかれしたせいだ。

 まったく、あの魔女ときたら、人を顎でこき使いやがって! Mr.ランドールのキス一つでさっくり大人しくなったのを見た瞬間は、寸での所でひざまずいて祈るとこだったぜ。

 まあいいさ、夕方の便でヨーコは国に帰る。
 しばらく面ぁ会わせることもないだろう。(って八月の結婚式の後も思ったんだよなあ……)

 一風呂浴びて、酒の臭いやその他もろもろの汚れ疲れを洗い落として。サッパリしたところで携帯が鳴った。

「……ディフ?」
「よう、起きてたか」
「ん、まあな。どうした、そんなに俺の声聞きたくなったのか?」
「……ひょっとしておまえ、アホだろ」
「しみじみ言うなよ、何か悲しくなってくる……」
「すまん。実は頼みたいことがあるんだ。上に来てもらえるか?」
「ああ、いいけど」
「昨日、サリーから届け物を頼まれたんだけどな。今日、部屋を……いや、家を出られそうにないんだ。代わりに届けてくれないか?」
「どこに?」
「EEEの店だ。届け物はキッチンカウンターの上に置いてある」
「中味は?」
「スティックケーキ。グリーンティーの」
「ああ、昨日食ったあれか」
「そう、あれだ」

 部屋から出られない理由は敢えて聞かない事にしておこう。昨日はレオンの誕生日、その辺を追求するのは野暮ってもんだろ。

 6階に上がり、呼び鈴を鳴らす。ドアが開くなり、目の高さより少し下で白い子猫がにゃーっと鳴いた。

「へ?」
 
 オティアだ。肩には相変わらずオーレが陣取っている。
 黙ってくいっと顎をしゃくった。入れってことらしい。

「へいへい、おじゃましまーす」

 何となくそわそわしながらキッチンに向かう。
 シエンの姿は無かった。

 思わずほっとした自分に自己嫌悪。

 ……だめだ、俺。
 
『私は君に、嘘は言わないよ』
『優しい嘘なんか、ついてあげない』

(畜生)
(あんたがうらやましいよ、Mr.ランドール)
(せめてあんたの半分でいい、潔くできたなら)

 ぶるっと頭をゆすってネガティブな思考を振り払う。勢いつけすぎて眼鏡がずれて、こそっとかけ直した。

 カウンターの上の紙袋……これだな。念のため中を確認する。パラフィン紙に包まれた緑のスティックケーキが入っていた。
 うん、間違いない。

 抱えてリビングに戻ると、オティアが立っていた。相変わらず白い生きた襟巻きを肩に乗せて。

「どうした? ん?」
「……これ」

 ずい、とさし出されたのは白い封筒。きちっとした字で宛名が書いてある。

『Mr.エドワード・エヴェン・エドワーズ&Ms.エリザベス・エドワーズへ』

 ああ……そう言うことか!

「OK。お任せあれ」

 うやうやしく受け取った。

「一命にかけましても、必ずやお届けいたしましょう」
「阿呆か」
「本気だよ。お前の頼みだからな。オーレのあれも忘れず入れとくよ」
「……」
「じゃ、行ってくる」
「ん」

 ドアを出てから、こっそり封筒にキスをする。オティアの目の前でやらかすのは自制したんだ。これぐらい役得ってもんだろ、役得!
 
 途中で自分の部屋に寄って、オーレの写真を封筒に入れてから改めて封をした。さて、ホリデイ・シーズンど真ん中だけど開いてるかな、エドワーズ古書店。
 
 
 
 ※ ※ ※ ※
  
 
 コロン、コロロン……
 年代物のドアベルが穏やかな音色を響かせる。

「やあ、Mr.エドワーズ」
「いらっしゃい、Mr.メイリール」

 クリスマスの翌日だってのにエドワーズ古書店は開いていた。
 毎年そうなんだよな、ここ。先代の店主の時代からずっとそうだった。むしろ閉まってるのを見た覚えがない。

「……あれ、どうしたんです、その怪我」
「ああ、これですか」

 濃いめの金髪にライムグリーンの瞳、皺ひとつないシャツと黒いベスト、ダークグレイのズボンを着こなした英国紳士は、頬を斜めに走る絆創膏に手を触れた。

「ちょっと、昔を思い出しまして」
「はあ」
「強盗と格闘などを」
「ええっ、この店に強盗がーっ?」
「いえ、近所の教会に」
「あー、あー、あー、あれですか、ニュースでやってた! それじゃ強盗を撃退した元警察官って」
「ただもみ合ってるうちに向こうが逃げただけですよ」
「は、はは、そうなんだ……」

 刃物持って押し入った強盗が逃げたくなるよーなことしたんだ、この人は……。

「それで、今日は何をお探しですか?」
「うん、実は俺、今日は配達人なんです」
「はい?」

 穏やかな笑みを浮かべたまま怪訝そうに首をかしげている。カウンターにひょいっと白いしなやかな猫が飛び上がり、先端に薄茶の混じった長いしっぽを優雅にくねらせた。

「Hi,リズ。本日もご機嫌うるわしゅう」
「み」
「えーっと……失礼ですが、何か配達のアルバイトでも始められたので?」
「んー、幸いまだそこまで食いっぱぐれちゃいないよ。言うなれば無料奉仕、ボランティアだね、まずはこいつ」

 とさ、と紙袋をカウンターに載せた。

「サリーから、あなたへ、スティックケーキ一袋」
「え………わ、私にっ?」

 お、お、お。今、声が裏返ったぞMr.エドワーズ! うーわー、頬染めちゃって……そんなにケーキが好きなのか、それとも気になるのはケーキを焼いた本人か?

 人の好みをどうこう言うつもりはないが、いい度胸だMr.エドワーズ。そりゃ確かにサリーはほんわか穏やかな気性で付き合いやすい奴だが、あの女の従弟なんだぞ。
 同じ遺伝子持ってるんだぞ!
 ああ、でも、そもそも俺の「ヨーコ怖い」ってほとんどの人に理解されないんだよなあ……。

 気を取り直して、行くぞ。
 まだ大事な任務が残っている。

 うやうやしく胸ポケットから封筒を取り出した。

「こちらはMr.エドワーズならびにレディ・エリザベスに……Mr.オティア・セーブルとプリンセス・オーレから」

 なにげに猫のが格が上だが、気にするような奴はこの場にいやしない。

「ありがとうございます」

 Mr.エドワーズは厳かに封筒を両手で受け取り、カウンターからレターオープナーを取ると慣れた手つきですっと封を開けた。

「おお、これは……」

 ツリーに興味津々のオーレの写真を見て、古書店の主は顔全体を笑み崩した。にゅっとリズが鼻を寄せてのぞきこむ。

「すっかり大きくなって。幸せそうだ」
「ああ、美人さんになったよ。探偵事務所にも出勤してる」
「事務所にも?」
「うん。毎日、オティアと一緒に通ってる」
「そうですか……あの小さなモニークが……失礼、今はオーレでしたね」
「あの子が来てから、オティアはずいぶん……落ちついた。彼女は救いの天使だよ」

 ごろごろとのどを鳴らしてリズがカードに顔をすり寄せる。
 折り畳まれたカードがぱたりと開き、中に書かれた文字があらわれる。

 それは、以前俺が見たオティアの字とは少しばかり違っていた。もちろん筆跡は変わらない。同じ人間が書いてるんだから当然だ。
 だけどその文字は、落ちついた安定した手で書かれていた。涙がにじんでもいないし、ペン先が潰れるほど力任せに叩き付けられてもいない。
 歪んでもいないし、書き殴られてもいない。

 何よりも嬉しいのは、そこにつづられていたのが壮絶な記憶の吐露ではなく……
 心からの祝福の言葉だったってことだ。

 何て書けばいいのか迷ってる間にクリスマスは過ぎてしまった。だから一文書き加えたのだろう。

『メリー・クリスマス&ハッピー・ニューイヤー』
 
 
(ホリデイ・シーズン2/了)
 
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大富豪

2009/07/24 0:28 短編十海
 
  • 拍手御礼用短編の再録。23日夕食前の日本組、ホテルでのできごと。
  • どんなに広い部屋でも隅っこに集まっちゃうのは日本人のサガと言うものでして……(ロイもいるけど)

「仕事が終わったらまた来るよ。詳しいことはそのときに打ち合わせよう」
「OK。部屋に来る?」
「いや、ホテルのレストランに席を取った。ディナーをとりながら話そう。6時に迎えに来るよ」

 そして時計が夕方5時30分をさそうかと言う頃。
 サリー、風見、ロイの3人はホテルの居間に顔をそろえていた。

「先生、まだかな」
「来るよ。ほら」

 サリーの言葉が終わるか終わらないかのうちに寝室のドアが開き、ヨーコが出てきた。
 赤いドレスの裾をなびかせ、真珠色のハイヒールで颯爽と歩いてくると、一同を見回して腰に手を当て、くいっと首をかしげた。

「みんな、仕度が終るの早すぎ」
「余裕を持って行動するのが習慣になっちゃって……」

 ちらっと風見光一はむき出しの細い肩に目をやった。

「先生、寒くないんですか、それ」
「この部屋、暖房効いてるからね。外に出る時は上着羽織るよ?」
「そ、そうですか……よかった」

 試着の時は、白いボレロを羽織っていてわからなかった。
 クローゼットいっぱいのドレスの中から先生が選んだのは、ノースリーブのワンピースだったのだ。
 首に巻いた黒いベルベットのリボンが余計にうなじの白さと肩の露出を際立たせている。もちろん、これだけでも十分、フォーマルな服装なのだと頭ではわかっているのだが、どうにも落ちつかない。

 きっと、滅多に間近で見る機会がないせいだ。十二月にノースリーブのドレスを着てる姿なんて……。
 テレビの映像や写真じゃなくて、生きている人間。それも、よく知ってる人が。

「どーした、風見。暖房強いか?」
「え、いや、大丈夫です」
「そーだよな、君ら、スーツだものな」

 これから食事に行くレストランはホテルの最上階。男性はタイ着用が義務づけられている。故に風見も、ロイも、サリーも、それぞれネクタイを締め、白いシャツを着て、きちんと折り目のついたスーツを身につけていた。

「OK、あたしも上着羽織っておこう。ロイ、暖房の設定温度下げて?」
「御意」

 すべすべした肩は白いふわふわのボレロの下に封印され、風見光一はひそかにほっと息をついた。

「んー、お迎えが来るまでにまだ時間余ってるな……微妙に手持ち無沙汰」
「そうだね」
「トランプでもしようか?」
「カードあるの?」
「あるよ」

 ヨーコはバッグの中から可愛らしい紙箱を取り出した。手のひらにのる程のピンク色の中では、黄緑、黄色、赤、青とポップなハートが飛び回り、中央には子ども向けのアニメの絵がプリントされている。

「どうしたの、それ」
「んー、飛行機の中でもらった」
「それって、まさか……」
「優しい青い目のCAさんがね、『飛行機のミニチュアとどっちがいいですか』って……」
「あー、やっぱり」

 ちょっと考えてから、サリーはあれっと首をひねった。
 
「でも、もらっちゃったんだ?」
「うん、せっかくだから!」

 笑顔でうなずくヨーコちゃん(26さい)。

「いいですね、トランプ」
「何して遊びまショウ?」

 神経衰弱、7並べ、ババ抜き、ナポレオン、ポーカー。
 いろいろ候補が出たが結局、大富豪をすることになった。

 最初は全員平民で。1ゲームして順位を決める。

「それでは、下僕めが配らせていただきます……」
「うむ」
「よろしい」
「え、光一くん、どうしたの?」
「ああ、ほら、ゲーム中は最下位になった人が配るでしょ?」
「学校でやる時はいつもこんな感じに、それっぽくお芝居してるんです」
「遊び心デス」
「そ、そうなんだ……」
「雰囲気出るでしょ?」

(高校生って、おもしろいこと考えつくなあ)

 1巡目の結果、大富豪は風見、大貧民がロイ、そして残る2人は平民に決まった。狙ったような順位にサリーは首をかしげた。

「ヨーコさん……何もしてないよね?」
「まーさーかー。『ナニか』したらサクヤちゃんたちにもわかっちゃうでしょ?」
「う、それはまあ、確かに」

 あっけらかんと言ってるけど、ヨーコさんは普段からタロットカードをたしなんでいる。
 そしてトランプは元を辿ればタロットの小アルカナだ。

(超能力なんか使わなくても、コントロールできちゃいそうな……いや、まさかね)

「それでは、下僕めが配らせていただきマス……」

 うやうやしくロイが2巡目のカードを配り、各自手札を確かめる。続いてカードの交換タイムへ。
 まず大貧民ロイがひざまずき、風見に手持ちのカードから一番強いのを2枚、献上する。

「どうぞ、おおさめください」
「うむ」

 風見は大富豪にふさわしく横柄な態度でカードを受け取り、確かめた。クラブのAとハートのA。大富豪における最強のカード「2」は手札になかったらしい。

「ふん、まあ、こんなものだろう」

 鼻で笑い飛ばして自分の手持ちから弱い札を二枚引き抜き、下げ渡した。

「そら、これでも使うがいい」
「ありがたき幸せ……」

 あごをそらして斜に見下ろす風見から下げ渡されたカードを、ロイはうやうやしく両手で受け取った。

(ああっコウイチ。そのふてぶてしい態度。上から目線。まるで悪代官のようだ!)
 
 スペードの3とダイヤの3、どちらも文字通り『最弱』の札を胸に抱きしめ、幸せに打ち震える。

(君になら、ボクは帯をくるくるされてもいい!)

 芝居っけたっぷりにカードをやりとりする大富豪と大貧民を、平民ふたりが見守っていた。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 午後5時55分。カルヴィン・ランドール・Jrはヒルトンホテルのプレジデンシャルスイートのドアの前に立ち、ベルを押した。カチャリと鍵の回る気配がして、ドアが開く。

「ん?」

 出迎えたのは身長20cmほどの小さな女の子だった。空中をふわふわと飛び回り、普通の人間の目には見えない。せいぜいおぼろな影として認識される程度の幻にも似た存在。
 白い小袖に緋色の袴、巫女装束をまとい、顔は呼び出した当人そっくりだ。

「やあ、ヨーコ」

 ヨーコの分身に案内されて部屋に入って行くと、これはどうしたことか。
 広々としたリビングの隅っこに集まって、きちんとスーツを着た男子三名とドレスの女子一名。みしっと顔をつきあわせ、何故かスーツケースをテーブルにしてカードに興じている。

 しかもこっちを振り向くや、打ち合わせでもしたみたいにそろって同じ言葉を口にした。

「あ、本物だ」
「本物の大富豪が来た」
「本物だね」
「本物デスネ」

 首をかしげながらも空中で鈴に戻った小巫女をひょいと片手で掬いとり、ヨーコに渡した。

「どうぞ」
「サンクス、カル」
「どういたしまして。ところで……本物ってどう言う意味なんだい?」
「ああ、今やってるこのゲームね、大富豪って言うの」
「……なるほど」

 うなずき、彼女の服装をじっと見る。

 髪の毛はハーフアップにしてラインストーンのついたコームでまとめられ、赤いワンピースの上から白いボレロを羽織っている。首に巻いたベルベットのリボンにアメジストをあしらったチョーカーは、おそらく日本から持参したものだろう。

 程よく慎み深く肌を隠し、華やかで何より彼女に良く似合っている。
 うん、これでいい。満足してうなずき、手を差し伸べた。

「え?」

 ヨーコは一瞬、きょとんとした。

(何でカル、手、出してるの? お手? それとも何かちょーだい、のサイン?)

「どうぞ」

 その言葉に、はたと思い当たる。ここはアメリカ、レディ・ファーストをよしとするお国柄。そして、彼は紳士なのだ。

(エスコートされてるんだ!)

 差し伸べられた手をとり、立ち上がる。靴を履き直す間、さりげなく支えていてくれた。
 ちょい、とドレスの裾をととのえ、歩き出す。導かれるまま、ごく自然に手を取り合って。

 その姿を少し離れて見守りながら風見とロイはうなずき合った。

「……さすが、本物だ」
「うん、本物ダネ」
「懐が深いって言うか、器が大きいって言うか」

 風見はくしゃっと髪の毛をかきあげ、照れくさそうに笑った。

「俺もまだまだ修行が足りないな」

(でも、ボクにとっては君が唯一の大富豪がダヨ、コウイチ。君のためなら、2枚でも3枚でも貢ぐ!)

 実は風見から下げ渡された2枚の『3』で、ロイの手札の中には『3』が4枚そろっていたのだが…… 
 革命を起こす、なんて発想は欠片ほどもないロイだった。
 
 
(大富豪/了)

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その頃の日本組

2009/07/24 1:06 四話十海
 
『諸人(もろびと)こぞりて 迎えまつれ』
 
 市内観光を終えてホテルの部屋に戻ってきた時、風見光一は正直ほっとした。

「ただいま」
「おかえり!」

 羊子先生が笑顔で迎えてくれたからだ。
 午前中、自分とロイを送り出した時も笑顔ではあったのだけど、どことなく勢いが無くて。ほてほてと力なく手を振っていた。

『あー、あたしは大丈夫だから。ホテルのスパに予約入れてるし。ゆっくり観光楽しんできて……』
『でも』
『コウイチ』

 ためらっていると、そっとロイにそでを引かれた。
 言葉の他に青い瞳が語っていた。今は一人でそっとしておいてあげた方がいいのかもしれないよ、と。
 
 先生とランドールさんの間にあるものは、もう昨日までと同じじゃない。どんな変化が起きたのかはわからないけれど……。
 あんな風に、桁違いの我がままを口にしたり、無防備に泣いたり、人目もはばからずに表通りで抱き合ったりするなんて。
 ただならぬ出来事があったのは確かなんだ。

『でも、先生』

 口にした瞬間、はっと自分の言葉に胸を突かれた。

(俺たちと一緒だと、羊子先生はずっと『先生』のままなんだ!)

 心配だけど。気がかりだけど。やはり一人にしてあげた方がいいんだ……。『先生』の役割から解放されて、普通の女の子でいられるように。

『わかりました、行ってきます』
『気をつけてなー』

 素直にロイと街に出かけ、サンフランシスコのクリスマスを満喫することにした。

「コウイチ、どこに行く?」
「うん、明日の夕方、帰国だからその前に……お土産、買いたいな」
「OK!」
「コテコテの観光土産もいいけど、地元の人が普通に買い物するようなお店にも行ってみたいし」
「まかせて」

 サンフランシスコとワシントン、州こそ違うがロイにとってここは母国だ。やはりこう言う時は頼りになる。
 ショッピングモールで祖父母と妹の美雪あての土産を無事に購入し、少しばかりほっとした。家族の土産を選ぶのは楽しいと同時に気をつかうのだ、それなりに。

「お二人にはお世話になってるから……」

 そう言って、ロイは45分も迷ってから、風見の家族にあてたお土産を自分でも購入していた。

「コウイチのおじいさまとおばあさまには、これなんかどうかな」

 彼が選んだのは、カントリー風の白木造りのフォトフレームだった。

「玄関に、お二人でサイドカーに相乗りしてる若い頃の写真が飾ってあったよネ? あれを入れるのにちょうどいいかなって思って……」
「ああ、ぴったりだ! よく覚えてたな」
「コウイチの家族はボクにとっても大事なファミリーだもの」
「こいつ、泣かせること言いやがって!」

 風見はがしっと背後から腕を回して軽くヘッドロックをかませ、ロイの金髪をくしゃくしゃかき回す。
 その間、ロイのピュアな心臓はよろこびにうちふるえていた。

(ああ、ありがとうサンタさん。今、この瞬間が最高のクリスマスプレゼントだ!)

 ひとしきりじゃれあってから、興奮もさめやらぬままロイは次に薔薇が一輪、型押しされたポストカードを選んだ。

「ミユキには、シンプルだけどこれがイイかナ」
「うん、いいと思うよ。だけど、ロイ……」

 風見は遠慮しながらもそっとカードに書かれた文字を指先でなぞる。

 曰く、『BIRTHDAY GREETINGS』

「ああっ」

 耳まで真っ赤になりながらロイは文字の入っていないカードを選び直すのだった。
 
  
『久しく待ちにし 主は来ませり』
 
 
「いやあ、おかげで良いもの買えたよ、サンキューなロイ。一番うるさい美雪もこれなら喜んでくれるよ」
「うんうんヨカッタネ」

 一段落した所で、次は友だちや先輩あての土産を探すことにする。こちらはある程度気楽と言うか、遊び心が混じって来るもので。
 
「遠藤にはアメコミの雑誌がいいかな、あいつヒーロー好きだし」
「ソウダネ」
「蒼太さんには何がいいかな……やっぱり食べ物かな」
「あ、ボクも三上さんや砂吹さんに何か買ってこうかな、お世話になってるし」
「さすが礼儀正しいな、ロイは」

 まず2人が訪れたのは食料品店だった。すたすたとロイが歩いていったのは、赤や緑のカラフルなパッケージのひしめく一角……ただし、クリスマスカラーではない。

「三上さんは確か辛いモノが好きだから……これがいいかな」
「すごい色のポテトチップスだな。でも飛行機で持ち帰るのに割れちゃわないか?」
「Oh! そうだった……よし、こっちにしよう」

 ラベルにでかでかと髑髏の印刷された瓶入りのトウガラシのソースには、おまけで髑髏型のストラップがついてきた。

「あ、さっきのポテトチップと同じロゴだ」
「うん。このソースを使って味付けしてあるんだ。ブレア社のソースは、アメリカの辛いもの好きにはこたえられない定番の味なんだヨ」

 次に雑貨屋の前を通りかかった時、ロイがふと足を止めた。

「Oh?」
「どうした、ロイ」
「アレ、イイネ」
「ん?」

 指差す先を見ると、いかにも海辺の街らしい土産物が並ぶ中に、マラカスが一組転がっていた。つやつやした表面には、赤いゴールデンゲートブリッジがプリントされている。

「いいんじゃないかな、砂吹さん、ミュージシャンだし、いかにもサンフランシスコ土産って感じがする」
「うん!」

 しゃかしゃかと鳴る袋を抱えて店を出た所で、今度は風見がはたと手を叩く。

「あ、そうだ、千秋にも何か買ってきたいな」
「あー……そう、藤島サンにも……ね」
「うん」

 藤島千秋は中学時代からの同級生で、今は同じクラス。部活は合唱部だけど、しょっちゅう自分たちの所属する民俗学研究部の部室にも顔を出している。
 彼女の名前を口にした時、ロイが一瞬、神妙な顔つきで考え込んでいた。
 女の子宛だとやはり緊張するのだろう。
 男友達とちがってネタやシャレに走る訳にも行かないし。

「女の子って何を喜んでくれるんだろう……」

 ふと、昨日、目にしたばかりの光景が脳裏をよぎる。ブローチにイヤリング、ピアスに指輪にブレスレット。きらびやかなショーウィンドーの中に並ぶアクセサリーを、うっとりと眺めていた先生の横顔を。

「やっぱりアクセサリーがいいかな……あいつ、あんましキラキラしたもの持ってなさそうだし」
「ソウダネ」

 とは言え、自分たちの手の出そうな値段のものとなると、やたらごっつい金属製か、砂糖菓子みたいに可愛いプラスチックやアクリルのものばかりで今一つ、千秋のイメージにそぐわない。
 何軒かアクセサリーショップをのぞいてみたものの、なかなか気に入ったものが見つからず、諦めて他の品物にしようかと外に出たそのときだ。

「……あ」

 路面に布を敷いた露店の中にそれを見つけた。お決まりの太いチェーンやドクロや剣といったごっつい系の光り物に混じり、銀色の翼がひっそりとたたずんでいたのだ。
 そう、確かにそれは翼だった。
 流れるような流線型が収束し、羽ばたく鳥の片翼を横から見た形を作り上げている。
 そして翼の先端には一粒、透き通った青い石がはめこまれていた。

「すいません、その羽根の形のブローチを見せてください」
「Hey,ミスター、お目が高いね! こいつは俺の妹が作った新作なんだ!」

 露店の主は、黒い目のぱっちりした、浅黒い肌のイタリア系の青年だった。嬉しそうにブローチを両手でささげもち、うやうやしくさし出してくれた。

「妹はアートスクールで彫金の勉強をしてるのサ。その青い石は本物のアクアマリンなんだぜ! ちょいとインクルージョンが入ってるんでグレードは落ちるが、そいつも味のうちだろう?」

「うん、そうですね……」

(いいな。これにしよう。お守り代わりにもなりそうだし)

「これをください」
「OK」

 会計をすませると、露店の主はぱちっとウィンクした。

「ひょっとしてガールフレンドへのプレゼントかな?」

 かっとほお骨のあたりに熱が噴き出した。
 英語の「Girlfriend」に大して深い意味はない。ただの『女の子の友だち』それだけだ。懸命に自分に言い聞かせる。
 日本みたいに『彼女』とか『つきあってる子』とか……そう言う意味はないはずだ。
 ないんだってば。

 なんてことを考えてる間に、翼のブローチは薄紙でつつまれ、虹色のシフォンの袋におさめられ、仕上げにリボンできゅっと口が結ばれていた。
 どこからどうみても、土産と言うよりプレゼントだ。

「はい、どうぞ。ラッピングはサービスだ」
「……あ、ありがとうございます」

 動揺のあまり、日本語でお礼を言う風見を笑顔で見守りつつ、ロイの心は複雑さの極みにあった。

(まだ………まだ負けた訳ではーっ)

 そう自分に言い聞かせてる辺りが既に敗北の兆しと言えなくもなく。

(いいんだ。コウイチのそばにいられるだけでボクは幸せだ……)

 今年のクリスマスはコウイチと一緒。クリスマスはコウイチと一緒。ひたすら目の前の幸福に意識を集中するロイだった。


「ただいま」
「おかえり!」


 そして夕方。買い物から帰ってみたら先生の笑顔が本物になっていた。
 ロイと顔を見合わせ、ほっと胸をなで下ろした。
 
「あれ、その服初めて見るような」
「うん、クローゼットの中にあった」
「そんなのまであったんだ……」
「バリエーション豊富です」

 先生は落ちついた深みのある緑色のベルベットのスーツを身につけていた。
 大きめの襟に、白い幅広のリボンを胸元に結び、下はスカートではなく膝上丈のズボン。どことなく小公子かフランス人形(ただし男の子)を連想させる。白い長靴下と、ぺたんとした黒のメリージェーンの革靴も、人形めいた雰囲気を漂わせている。

 大人の女の華やかさにはいささか欠けるものの、動きやすそうだ。

「赤いドレスは着ないんですか?」
「うん、お友達の家でのホームパーティーだからね。あまりきちっとした服装だと堅苦しいし……」

 にっぱーっと先生は顔全体で笑い、両手をにぎってぱたぱたと足踏みした。まるで準備運動でもするみたいに小刻みに。

「アレックスの息子で、3歳になる男の子が来るんだって!」
「ああ」

 風見とロイは顔を見合わせ、うなずいた。
 羊子先生、全力で遊ぶ構えだ。

「機動性を重視したんデスネ」
「そゆこと」

 ばさりと赤いケープコートを羽織ると、羊子先生は先頭に立ってさっそうと歩き出した。

「さっ、行こうか!」

 今夜はクリスマスパーティー。
 ローゼンベルク家にお呼ばれ。
 
 
『主は来ませり 主は、主は来ませり』
 
 
 その頃、サリーはマリーナ地区のアパートでオーブンをフル稼働していた。
 焼いているのはケーキ。小麦粉とベーキングパウダー、調味料、卵にバター、ミルクを混ぜて。日本から届いたばかりの抹茶を入れて。
 生地を四角いバットに流しこみ、オーブンで焼き上げ、柔らかいうちに前の日に煮込んで下味をつけた黒豆を等間隔で上に乗せる。
 黒豆の味付けは甘めに。生地の甘みは逆に控えめに。本当は抹茶クリームもつけたかったけれど、日持ちがしなくなるし、食べ慣れない人もいるだろうから諦めた。

 冷めたら細長く切ってパラフィン紙で包みキャンディみたいにきゅっと両端をひねる。
 その繰り返し。
 ひたすら焼いた。大量に抹茶スティックケーキを生産し続けた。これなら、パーティーの席でも気軽に手を汚さずに食べられる。

 作業の合間に、ふっとため息一つ。

 どうもここ数日、ヨーコさんとのシンクロが強くなっている。
 消耗し切った状態で互いに支え合い、補った時の影響がまだ残っているのだろう。2人とも回復した今は少しずつ元に戻りつつあるようだけど……。

 油断すると、まだ強い感情の動きに引っ張られてしまう。昨日は特にすごかった。
 今夜はパーティーだ。お酒も入るだろう。風見くんたちが一緒だからそれほどハメは外さないだろうと思うけど。
 今のヨーコさんは、はっきり言って不安定だ。自分がしっかりしなければ。 
 決意を新たにしつつ、大量のスティックケーキを袋に入れた。大きな袋に一つ、そして、小さめの袋にもう一つ。
 
 一つめの袋詰めが終ったところで呼び鈴が鳴った。

「おーい、サクヤ。迎えにきたぞー」
「やあ、テリー」
「おっ、うまそうなにおいだな」
「うん、ケーキを焼いてたんだ」

 まだ包んでいないスティックケーキを一本とって手渡した。

「はい、これ」
「サンキュー」

 テリーは無造作に緑色のスティックケーキを頬張り、顔をほころばせた。

「ん、んまいな。グリーンティーか」
「うん」
「このつぶつぶは何だ? 干しぶどう……じゃないよな」
「黒豆だよ」
「どっちも日本の食材だな」
「うん」

 話す間に二つめの袋を詰め終わる。最初の袋に比べれば量は控えめ。成人男性一人用だからこんなものかな。

 これは、エドワーズさんの分。今回は色々助けてもらった。それこそ命も救ってもらった。(本人は知らないだろうけれど)
 せめてもの感謝の印を贈りたい。

(ディフに頼めば、きっと届けてくれるはず)

「準備終ったか?」
「うん」
「よし、それじゃ出かけるか!」

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