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ローゼンベルク家の食卓

Stay here,anytime…

2009/02/03 19:34 番外十海
 午前中にヨーコたちは買い物に行った。何でも知り合いの古書店にどうしても行かなければいけない用事があると言う。
 何故かサリーは猫に変身して彼女のコートの中に入っていった。

 終わってから待ち合わせたユニオン・スクエアのコーヒースタンドでヨーコが言った。

「ゴールデンゲートブリッジ公園に行きたいな」

 サンフランシスコの典型的な観光名所の一つだ。ある意味ベタなお約束の土地。

「いいですよ。俺らも自転車返却しに行かなきゃなんないし」
「あ、でもさすがにもう2人乗りする訳には行かないデスね……」

 幸い、会社主催のクリスマスパーティーが始まるのは夕方だ。まだ時間がある。ごく自然に申し出た。

「私が送って行こう。君たちは自転車で行くといい」

 そしてサリーをアパートに送り届け、その後ゴールデンゲートブリッジ公園でコウイチたちと待ち合わせ、四人で公園を歩き回った。
 赤い吊り橋を背に写真も写した。

「うわーっ、フルハウスとおんなじだ、ね、先生、ほら!」
「……う、うん、そうだね」

 妙だな。彼女、さっきから元気がない。確かに楽しそうではあるのだが……。
 カリフォルニアの青空は今日も鉛色の雲に覆われている。魔女を倒し本来の年齢に戻った今、もう恐ろしいとは思わない。が……午後から急に冷え込んできた。
 昨夜あんなに冷えたばかりなのに大丈夫だろうか。ただでさえヨーコは小さい。脂肪の付き方も少ないから体温が奪われるのも早いはずだ。
 
「……冷えてきたね。そろそろ降りようか」
「待って」

 展望台を降りようとするランドールをヨーコが呼び止めた。風見とロイは5分ほど前に貸し自転車の返却時間が迫っているから、と先に走って行った。

 今、この場所に残っているのは2人だけ。
 サファイアブルーの瞳が怪訝そうに見下ろしてくる。

 ……できるものなら。このまま言わずに秘めておきたい。そうして友人とも家族ともつかない曖昧な位置をキープして、この心地よい絆を続けて行けたらいいのに。
 でも、もう引き返せない。

 ヨーコは無意識のうちに首にかけた勾玉を握りしめた。

「ヨーコ?」

 優しい人。あたたかい人。あなたへのこの気持ちが恋なのか、愛なのか自分でもわからない。だけど、大切で愛おしい。

(自分はこの人を求めているのだろうか? 欲しがっているのだろうか?)

 濃い、深い青い瞳をまっすぐに見つめて言い切った。耳まで真っ赤になって、小刻みに震えながら。

「あなたが好きです、カルヴィン・ランドールJr。あなたが男でも女でも。私が男でも女でも、それ以外の存在だとしても、この気持ちは変わらない」

 ああ、言ってしまった。とうとう言っちゃった。今すぐにでも回れ右して逃亡したい!
 でも足がすくんで動けない。

「嬉しいよ、ヨーコ」

 彼はうなずいた。少年のように無邪気な笑顔で、心の底からうれしそうに。

(え?)

 とくん、と心臓が高鳴る。冷たい空気を押しのけて、ほんの少し頬の表面が熱くなった。

「私もヨウコ・ユウキと言う生き物を愛している」
「本当?」
「ああ。君は私にとって大切な人だ」
「………………」

 あぁ。英語のloveって罪な言葉だ。根本的に日本語のloveとはまるで意味が違うもの。友人への愛も、家族への愛も、全部love。
 たかだか四文字の言葉にはかない望みを抱いてしまう……それ故に真実が見えた瞬間、言葉にこめられた想いの差が、際立つ。
 自分の察しの良さが。勘の鋭さが恨めしい。

(ただ無邪気に、あなたの言葉を文字通りに受け取めることができたら良かったのに……)

 顔が、上手く動かせない。微笑むことも泣くこともできず曖昧な形のままゆらゆら定まらない。

「ヨーコ? どうしたんだい」

 首をかしげてる。やっぱりわかってないんだね。
 どうしよう……これ幸いと笑ってごまかそうか。それとも、いっそ自分で自分にとどめを刺してしまおうか。
 決めかねたまま、戸惑う彼をちょい、ちょい、と手招きした。素直に近づいてくる。

「ちょっとかがんでくれる?」
「こうかい?」
「……OK、それでいい」

 ヨーコはのびあがり、波撃つ黒い髪をかきあげて……唇を重ねた。
 触れるだけのキス。でも今までとは明らかに違う。家族でもない。友達にでもない。切なさと愛しさをこめて恋しい人に贈る口づけ。
 流れる涙が伝わり、甘いはずのキスにぴりっと海の味を添える。

(ヨーコ……泣いて? でも、何故?)

 小さな手のひらが頬を包み、耳元にささやく。

「アリガトウ」

 これは日本語だ。彼女の生まれた国の言葉。
 
 冷たい空気が頬に触れる。ヨーコが離れて行く。赤いコートが翻り、海からの風がさらりとした黒髪を容赦なく吹き乱す。

 舌にかすかに残る涙の味。
 その刹那、ただ一つの事実が晴れた空から降り注ぐ稲妻となりカルヴィン・ランドールの意識を照らし出した。
 まばゆい光が埋もれていた事実を浮かび上がらせる……明るい場所も、陰となる場所も、何もかもくっきりと。残酷なほど鮮やかに。

 ぱしぱしと音を立てて頭の中で、つい今しがた贈られた言葉が崩壊する。見えない指先で組み替えられ、瞬く間に全く別の意味を作り上げた。
 そして、真実が顕われる。

 そうだったのか!

(彼女は私に恋している)
(友でもなく。兄でも、弟でもなく、男として)
(一人の男として慕っている。想っている)

 チリン!
 鈴の音に我に返る。ヨーコが背を向け、走り出していた。

「ヨーコ!」

 追いかけるが、なかなか距離が縮まらない。まったく、小さいくせに何て足が早いんだ! 羽根でも生えてるのか、君は。
 だが私も普段から体を鍛えているんだ。そう簡単には振り切られない。
 展望台を降りきる前に、ひらひら逃げる赤ずきんをつかまえた。

「おばかっ! 何で、ここで追っかけてくるか!」

 怒っているのか。
 泣いているのか。
 うつむいたまま、彼女は声を振り絞った。叫びと呼ぶにはあまりにか細く、切れ切れに。

「せめて、一人で静かに泣かせてあげようとか……ちょっとは、気を利かせてくれてもいいじゃない……」
 
 無茶を言うな。こんな君を、一人にできるわけがない。

 自分は何をしたいのか。何を言おうとしているのか。相手を傷つけずに思う所を伝え、なめらかに事を運ぶ。息をするのと同じくらい自然にできたはずの駆け引きが、できない。
 湯水のように湧き出し、巧みに操れるはずの相手を慰める言葉が……今、全く出てこない。

 焦り、戸惑い、途方にくれた挙げ句、ようやく口をついて出た言葉はあまりに少ない。ただ自分の中に渦巻く気持ちを紡ぎもせず、織りもせず、染めることすらできずに生(き)のまま吐き出しただけだった。

「……君を抱きしめる手を………私は、失くしてしまったのかな………」
「……失くしちゃったの?」

 やっと、顔を上げてくれた。眼鏡の後ろで濃い茶色の瞳が濡れていた。うっすら施していた化粧も全て流れてしまったのか。
 目の前の彼女はまるで幼い少女のようだ。

 ぽろり、と涙が一筋こぼれる。
 かすかに……ほんのかすかにヨーコはほほ笑んだ。べそをかいていた少女の面影が薄れてかすみ、まぎれも無く成熟した女の笑みにとってかわる。
 彼女は細い腕を広げて、抱きしめてくれた。ぴょん、と飛びつく元気なハグではない。広げた親鳥の翼で包み込むような静かな抱擁だった。

「失くしてなんかいない。失いたくない。もしも、もしもそうなっても……私が、あなたを抱きしめるから……」

 澱みのない声音できっぱり言い切る。背に回された手のひらがすがりつくようにコートを握りしめるのがわかった。

「………いいよ……ね?」

 消え入りそうに小さな声で懇願された。

(すまない………)

 君を愛している。

 君は大切な人だ。とても、とても愛しい人だけど、こうして抱き合っていてもただ愛しいだけで、狂おしい劣情は伴わない。
 君が私を望んでも、この身が君を求めることがない限り……私は願わなくてはいけないんだ。
 いつかこの手が他のだれかを抱く日が来ることを。

 ええい、焦れったい。
 プレイボーイを気取っていても大事な局面では何も言えなくなるなんて。過去に星の数ほど吐いた甘ったるい台詞の幾千分の一でいい、役に立ってはくれないものか。
 彼女の心を包んではくれないのか。

(あまりに大切な人だから、手練手管が使えない。使おうと言う気にすらならない)

「………………ありがとう、ヨーコ」

 赤いコートの下で震える彼女の体に腕を回して抱き寄せる。
 肩が震え、かすかなすすり泣きが聞こえてきた。

 すまない。昨日から私は君を泣かせてばかりだ。

 つややかな黒髪の上にひらりと白い花びらのようなものが散り落ちる。触れるそばから溶けて雫となってこぼれ落ちる。

 冷たい。

 ぼんやりとヨーコは思った。
 カリフォルニアにも雪が降ることってあるんだ……どこからか飛んできたのかな……風花。淡雪よりもなお儚い。

 抱き寄せられた時、ほのかに感じた。「ありがとう」を聞いた瞬間、わかってしまった。
 彼の『愛してる』と私の『好き』は同じなのだと。
 だけど彼が恋しい人に求めるのはそれだけじゃない……。ベッドの中で身を寄せ合った時でさえ彼を欲しいとは思わなかった。ただ触れ合う肌の伝える温もりが心地よくて。包み込む優しい腕に身を委ね、安らいだ。

(同じ……なんだ)

 いっそ男に生まれていたのなら、あなたを求めることができたの……かな……。
 あなたが望んだように。

(悔シイ)
(悲シイ)
(ヤルセナイ)

「好きだよ……カル。あなたが、好き……」
「うん。それは、よく、わかってる」
 
 
 
 
(切ない)
 
 

 
「だから……お願い」

 刻まれた記憶が喉を震わせる。深く息を吸い、かろうじて漏れかけた嗚咽を封じ込めた。

「私を置いて行かないで。君は残れ、なんてまちがっても言わないで……お願いだから」

 かすかに身じろぎする気配がした。うなずいたのだろうか。それとも……。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 自転車を返却してもどってきたら、先生とランドールさんはもう展望台から降りていた。
 さっきまでちらちら降っていた雪は既にやんでいる。やっぱり風花だったんだな。

「お待たせしましたー……あれ、先生?」
「どうかシタんですか?」
「な、何でもない……何でもない」

 嘘だ。
 目が赤い。

 何があったんだろう。
 気になる、けれど言葉にしてはいけないような気がして……ロイと顔を見合わせ、口をつぐむ。

「帰ろうか。ホテルまで送らせてくれ。いいね?」

 こくっとヨーコ先生がうなずいた。

 ホテルに戻るまでの間、ヨーコ先生は助手席でだまってうつむいていた。
 ランドールさんもほとんどしゃべらない。
 後部座席の自分とロイも自然と無口になる。静まり返った車の中に、ラジオから流れるクリスマスの歌だけが響く。高いきれいな声の女性シンガー。歌詞は英語だけど最近はそこそこわかるようになってきた。
 
 
 I don't want a lot for Christmas(私はクリスマスには多くは望まない)
 There is just one thing I need(必要なのはただ一つ)
 
 〜All I Want For Chritmas Is You(恋人たちのクリスマス)/マライア・キャリー/より〜
 
 ユニオン・スクエアにさしかかったところでヨーコ先生がぽつりと言った。

「止めて」
「どうしたんだい?」
「少し、歩きたい……」

 手を伸ばして、そっとランドールさんの袖を握った。

「OK……」
「そこのパーキング、今、空くから」

 確かにその通りだった。
 道路脇のパーキングスペースに車を止めて、歩き出す。クリスマスイブのにぎわいの中、腕を組んで歩く先生とランドールさんの姿はとても穏やかで……。
 何故かはわからないけれど、今朝、ベッドの中でぴったり身を寄せ合ってる姿を思い出し、あわてて頭から振り払った。
 自分には兄も姉もいないけれど。姉さんのデートを目撃しちゃった弟の気分って、こんな感じかな。

「あ」

 きらびやかなショーウィンドウの前で先生が足を止める。
 ガラスの向こう側に作られた、雪山に見立てた白いベルベットのスロープの中にカメオのブローチが並んでいた。

「……すてき………」

 先生はガラスに顔をよせてうっとりと目を細めている。すっと手を伸ばして、縦長の六角形のブローチを指差した。濃いサファイアブルーのメノウにほの白く、ドレスをまというずくまる女性の姿が浮き彫りにされていた。

「アルフォンス・ミュシャの絵をモチーフにしてるのね。初めて見た」

 そっとガラスを撫でると、先生はランドールさんの腕にもたれかかって。信じられないようなことを口にした!

「あれ、ほしい」

 冗談だろっ?
 アイス買ってきてとかメロンパン食べたいとか、そんな可愛らしいレベルじゃないよこれはっ。
 俺の知ってる先生は、そんな、無茶なわがまま言うような人じゃなかったはずだ!
 一体何があったんだ、ヨーコ先生……。

(あー、風見びっくりしてるなあ)

 ちらっとヨーコは教え子の顔をうかがい、それからランドールの顔を見上げた。

(わかってる。私は、ずるい)
(あなたの弱みにつけ込んでる)
(これは、わがまま)

 あなたを困らせたいのか。振られた記念が欲しいのか。
 ううん。多分、違うな。この絵でなければ欲しいとは思わなかった。

「この絵のタイトル、知ってる?」
「……いや。何て、言うのかな」

 妙だ。

 確かに今の自分には負い目がある。プレゼントの一つで少しでも回復できるのなら迷わずそうしたい所だが。
 こんなに高価なものを自分からねだるなんてヨーコらしくない。その危うさが不安をかき立てる。胸の奥に埋まる棘のようにひしひしと、不吉な予感を引き寄せる。

「夜のやすらぎ」

 絵のタイトルを聞いた瞬間、ランドールの躊躇いは一つの意志に固まった。

「なら………私からは、贈れない」

 その時、彼の目には彼女しか写らなかった。少しとまどった表情を浮かべて、まだ赤みの残る瞳で見上げてくる。自分だけを、ただまっすぐに。

「ヨーコ……怖いんだ。これを君に与えたら、私は………君を、失ってしまう気がする」

 それは、嫌だ。
 かすかに笑いかける。

「君を失いたくないと……私が言うのは、卑怯だね。でも……」

 彼女の顔から全ての表情が消える。見開かれた瞳をのぞきこみ、低い声でささやいた。

「これは贈らない」
「カ……ル………」

 小さく口の端が震えている。また、泣かせてしまうのだろうか。怒るのだろうか。それとも?
  
「カル!」

 ヨーコは顔いっぱいに屈託のない笑みを浮かべて、ランドールに飛びつき、抱きついた。

「大好き。大好き。大好き」

 何の見返りも求めず、ただ一途に、真っすぐに。太陽の光、オレンジの実、赤いハイビスカスの花。冬の街角にあざやかな真夏の色と輝きが弾ける。彼女の中からあふれ出す。

「……愛してる」

 あたたかな雫があふれ出す。あとから、あとから、ほほえみと共に。
 求めたのは安らぎの思い出。
 返されたのは『今』と『これから』。

 透き通った雫をたたえたネイビーブルーの瞳が教えてくれる。答えてくれる。

 支えてくれる優しい腕は、これからも傍にあると。


(桑港悪夢狩り紀行/了)



「……あーのぉ……」

 頃合いを見計らって風見光一は遠慮しながらもつとめて普通に、なにげなーく普通に声をかけた。

「ヨーコ先生、ランドールさん。ちょーっと早いけど何か食べに行きませんかー?若人としては、出来れば日本食でお米食べたいとこなんですが?」

「……あ」
「ラーメンでも、可」
「あるんだ」
「はい」


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