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ローゼンベルク家の食卓

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2009年2月の日記

【ex8】桑港悪夢狩り紀行(後編)

2009/01/30 2:09 番外十海
  • 前編はこちら
  • 番外編。2006年12月の出来事。日本の高校生二人組風見とロイ、ヨーコ先生に付き添われて(付き添って?)サンフランシスコに参上。具現化した夢の魔物『ナイトメア』と戦いこれを撃破、被害者を救出したと思われたが……。
  • 今回は番外編中の番外編、【ex-5】熱い閉ざされた箱と同じ背景世界に基づくお話で、いつもの『食卓』の世界観とはすこぉしだけ、別の世界にシフトしています。
  • 書いてる人間が変わらないので基本は同じ流れなのですが、ほとんどスピンオフ作品と言っていいかもしれません。
  • 海外ドラマで言うと、「CSI」や「フルハウス」よりはむしろ「デッドゾーン」寄りです。
  • 王道的な「退魔もの」だった前編と比べて今回のこの後編、色んな意味で異色作になっています。
 944911207_21.jpg ※月梨さん画「五人目は手乗り」
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【ex8-01】登場人物紹介

2009/02/03 18:44 番外十海
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【結城朔也】
 通称サリー。カリフォルニア大学に留学中の日本人。23歳…のはずが。
 癒し系獣医。よーこちゃんと一緒じゃなきゃ泣いちゃう。
 サクヤという名が言いづらいためにサリーと呼ばれているが、男性。
 従姉のヨーコ(羊子)とは母親同士が双子の姉妹で顔立ちがよく似ている。
 現在、魔女の呪いを受けて縮小中。
 密かに古本屋のエドワーズさんをくらくらさせている。
 実家は神社。でも袴の色は浅葱色ではなくなぜか赤色。
 魔除けのため、幼い頃は女の子として育てられた。
 
 
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【結城羊子】
 通称ヨーコ、サリー(朔也)の従姉。26歳…のはずが。
 小動物系女教師。たまに巫女さん。
 サクヤ同様、魔女の呪いで子どもにされてしまった。
 高校時代、サンフランシスコに留学していた。ディフやヒウェルとは同級生。
 現在は日本で高校教師をしている。実家は神社。
「お姉ちゃん」だから強くいられる。「お姉ちゃん」だから泣いちゃいけない。
  
 
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【風見光一】(右)
 目元涼やか若様系高校生。ヨーコの教え子でサクヤの後輩。17歳。
 家が剣道場をやっている。自身も剣術をたしなみ、幼い頃から祖父に鍛えられた。
 幼なじみのロイとは祖父同士が親友で、現在は同級生。
 後編に突入後、愛らしさが増量したような気がする。

【ロイ・アーバンシュタイン】(左)
 はにかみ暴走系留学生。ヨーコの教え子。17歳。
 金髪に青い目のアメリカ人、箸を使いこなし時代劇と歴史に精通した日本通。
 祖父は映画俳優で親日家、小さい頃に風見家にステイしていたことがある。
 現在は日本に留学中。
 愛らしさ増量の幼なじみにくらくら。いきなり2人きりになっちゃってどきどき。
 たとえ幼児でもコウイチに近づく者は断固阻止の構え。
 

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【カルヴィン・ランドールJr】
 純情系青年社長。ハンサムでゲイでお金持ち。33歳…のはずが。
 通称カル。ジーノ&ローゼンベルク法律事務所の顧客の一人。
 魔女の呪いで子どもにされてしまう。
 ちっちゃいけど中身は紳士、でもお姉ちゃんの後をのこのこ。
 世慣れた遊び人なのにどこか純真で一途に片思いなんかもしたりした。
 ヨーコとともにある事件に巻き込まれたのをきっかけに秘められた能力に目覚める。
 一肌脱ぐどころの騒ぎではない。
 

【蒼太】
 比叡山で修行を積んだ青年退魔師。
 ヨーコとサリーの後輩で、風見とロイにとっては先輩にあたる。
 豊富な知識と経験を活かしてサンフランシスコで右往左往する後輩を日本からサポート。
 
【テリオス・ノースウッド】
 通称テリー。熱血系おにいちゃん。
 獣医学部の大学院生、専門はイヌ科。
 サリーの大学の友人だが周りからは彼氏と思われているらしい。
 基本的に面倒見が良く、女の子に甘い。
 動物はなんでも好きだけれど特に犬系大好き。
 社長がサリーにちょっかい出してると信じて絶賛警戒中。

【ディフォレスト・マクラウド/Deforest-Macleod】 
 通称ディフ、もしくはマックス。
 元警察官、今は私立探偵。ヨーコとは高校時代からの友人。26歳。
 ゆるくウェーブのかかった赤毛、ヘーゼルブラウンの瞳、身長180cm、肩幅やや広め。
 マクラウド探偵事務所の所長でオティアの保護者。
 
【エドワード・エヴェン・エドワーズ/Edward-Even-Edwars】
 通称EEE、もしくはエディ。英国生まれ、カリフォルニア育ち。
 濃いめの金髪にライムグリーンの瞳。
 元サンフランシスコ市警察の内勤巡査でディフとレオンの友人。
 現在は父親から受け継いだ古書店の店主。やや引きこもり気味。
 飼い猫のリズは家族であり、よき相談相手。
 サリー先生のことが何かと気になるものの、バツイチな自分に今ひとつ自信の持てない36歳。
 
【ヒウェル・メイリール/Hywel-Maelwys】
 フリーの記者。26歳。
 黒髪、アンバーアイ、身長180cm、細身(と言うか貧弱)
 フレーム小さめの眼鏡着用。適度にスレたこずるい小悪党。
 ヨーコの高校時代の同級生、その頃から密かに「魔女」と呼んでいた。
 今でも大の苦手だが彼の「ヨーコ怖い」は誰も理解してくれない。
 
【オティア・セーブル/Otir-Sable 】 
 不思議な力を持つ双子の片割れ。17歳。
 ややくすんだ金髪、紫の瞳、身長170cm、やせ形。
 マクラウド探偵事務所の有能少年助手。
 双子の兄弟との深刻な仲違いがきっかけで精神不安定気味。
 夢魔に狙われ、サリーたちに救出された。


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【ex8-10】サッドモーニング

2009/02/03 18:48 番外十海
 白々と夜が明けて行く。明け方の寒さはあまりに厳しく、子どもたちがガタガタ震えている………そう、子どもたちだ。ついさっきまでは『大人』だった3人。
 地面に赤いケープが落ちていた。

「先生、これ……」
「あ、ありがと」

 拾い上げてヨーコの肩に被せる。さっきは上半身を覆うだけだったケープが、今は膝のすぐ上まですっぽりと包む。
 がつん、とこめかみを殴られたような気がしたが寒さがやわらぎ、ヨーコはほっとしているようだ。
 それでもまだ油断はできない。体が小さくなった分、熱が奪われる速度も早くなっているはずだ。

「ロイ」

 風見は親友の手をひっぱってぐいっと引き寄せた。

「えっ、コウイチ?」
「あっためあおう」

 きりりと引き締まった顔が間近に迫る。寒さのせいか頬が赤く、黒い瞳は真剣そのもの。ロイはぽーっとなってうなずいた。

「コウイチが……そう言うのなら」
「……よし」

 風見はヨーコとサリー、ランドールを手招きした。小さな子どもになった3人が素直に近づいて来る。
 
「ロイ」
「あ、う、うん」

 そうして子どもたちを間に入れて、風見はしっかりとロイと抱き合った。

「ほら、先生。こうするとあったかいでしょ?」
「うん……あったかい。ありがと、風見」
「どういたしまして……」

 抱擁と言うよりむしろおしくらまんじゅう。ロマンチックにはほど遠い。

(こっ、こう言うことかーっ)

 舞い上がった天国から一瞬にして現実に叩き込まれつつロイは油断なく体をさばき、巧みに風見がランドールとサリーに接触しないように角度を調整した。

(ヨーコ先生とならギリで許せる。でも、サクヤさんとランドールさんは絶対にダメ!)

 吐く息が白い。
 次第に公園の中が明るくなって行く。街路樹の向こうにぼんやりと浮かぶクリスマスのイルミネーションが、次第にぼんやりかすんで色あせる。街灯もじきに消えるだろう。

「ホテルに……もどった方がいいのかな……」

 ぽつりとヨーコが言った。

「それは、まずいデス。未成年ばっかりで動いていたら」
「そっか……ホテルの人に変に思われちゃうね」
「下手したら警察に通報されちゃいます。迷子だって」
「家出と疑われる可能性モ」
 
 ひょこっとサリーが顔をあげた。
 
「大丈夫だよ、警察の人には知り合いがいるから」
「その人が知ってるのは、大人のサクヤさんでしょ?」
「あ……」

 表情を曇らせてうつむいた。
 いきなり、できることが減って、できないことがどっと増えた。

 ぴったり身を寄せ合いながら風見は3人の服装を確認した。

 ランドールさんは濃い茶色の膝丈のツイードパンツに茶色のショートブーツ、白いハイソックスを履いている。紺色のピーコートの下に白いシャツ、赤いベルベットのリボンタイ。ズボン、靴、コートにシャツ、そしてネクタイ……身につけていた服がことごとく子ども服に置き換わってしまっている。
 ヨーコ先生もそうだった。白い小袖は白いタートルネックのセーターに。緋色の袴は水色のベルベットのジャンパースカートに。ただし、ダイブの前に脱いだケープは大人サイズのまま残った。
 サクヤさんに至っては白いとっくりのセーターに茶色のチェックのズボン、カフェオレ色のダッフルコート……これ、サイズが違うだけでそのまんま昼間着ていた服じゃないか。

 まさか。

 一抹の不安が胸を噛む。
 身につけていたものも今は失われてしまったんだろうか? 財布も、携帯も……武器も。

「どうした、風見」

 小さな指先が頬に触れる。先生がいっしょうけんめい伸び上がってなでようとしていた。
 自分が落ち込んだり、不安になっているとき、いつも手をのばしてくしゃっと髪をなでてくれた。『よしてくださいよー子どもじゃないんですから』笑いながらされるがままになってるうちに、ああ、何とかなるかもしれないって。
 自然とそんな風に前向きな気分になることができた。

 けれど、今は……。

「先生」
「うん?」

 小さい小さいと思ってたけど、やっぱりヨーコ先生って大人の人だったんだな……。
 こんなにちっちゃくなっちゃうなんて。
 きゅうっと胸の奥が締め付けられる。

「持ち物、確認しましょう」
「そうだな」

 こくっとうなずき、ポケットの中をごそごそと探っている。

「………ハンカチとティッシュと、ばんそーこ」
「俺も、同じ」

 しかもサリーとヨーコのハンカチは色ちがいのおそろいだった。

「ランドールさんは?」
「……ハンカチと………25セント」

 進歩があったと言うべきか。

「何で、25セント」
「何かあったらこれでお家に電話しなさいって、ママが」
「しっかりしたお母さまデス」
「でもさすがに今電話するわけに行かないよなぁ……」

 たぶん、この25セントはランドールさんの携帯が変換されたものなんだろう。車のキーも失われてしまった。

「あと……これは元々身に付けていたものが、残った」

 するりとランドールはシャツの胸元からキラキラ光るものを取り出した。
 チリン……。
 鎖の先で少し変わった形の十字架と銀色の鈴がゆれている。風見とロイはほぼ同時に指差していた。

「それだ!」
「ママがくれたんだ。いつも身につけてるようにって」

(ああ。ランドールさん、また、ママって言ってる。いつもは母って言うのに)

 たぶん無意識のうちに子どもの頃の言い方に戻ってしまっているのだろう。
 ごそごそとコートのポケットをまさぐっていたサリーがぱっと顔を輝かせた。

「あ、携帯あった!」
「……本当ですかっ!」
「ほら!」

 高々と掲げるサリーの携帯には赤い組紐のストラップがついている。先端の金色の鈴がちりん、と鳴った。

「あ、その鈴……」
「アパートのカギも!」

 こっちのキーホルダーには緑の組紐の鈴がついていた。 

「やっぱり、お守りつけてたから無事だったんだ!」
「ランドールさんの十字架と同じだネ!」

「先生は? 何かお守りの鈴つけたもの持ってませんか?」
「ない。でも……」

 きょろきょろと周囲を見回していたヨーコがひょい、と灌木の枝を指差した。

「あれ、とってきて、ロイ」

 そこには回転木馬の模様をプリントした紺色のバッグがかかっていた。

「ああっ!」
「そうか、女の人はバッグに入れて持ち歩くから!」

 ヨーコの持ち物は無事だった。財布も。携帯も。パスポートも。彼女の倒れていた灌木の茂みから神楽鈴も見つかった。

「やっぱり神聖な品物には呪いの力が及ばないんだ……」

 少なくとも魔女の呪いは全てを奪った訳ではない。少しずつ風見の心に希望の火が戻ってきた。まだほんの小さなものだったけれど。

「よし。今のうちにどこか落ち着ける場所に移動しよう。寒くなくて、電源の確保できる場所に移動して……日本の蒼太さんたちと連絡をとるんだ」
「そうだネ。魔女は光が苦手だから、昼間は襲ってこナイ!」
「そう言うこと。安心して移動できるってことだ!」

 ロイと風見はにんまり微笑みかわし、ぱしっと互いの手のひらを打ち合わせた。

「それじゃ、俺のアパートに行こう?」
「サクヤさんの?」
「うん。パソコンがあるから、skaypeも使える。アドレスも設定してあるし」
「よし。じゃ、出発だ」

 すっかり明るくなった公園の中を歩き出した。
 子どもになってしまったヨーコの体に、紺色のバッグは大きすぎた。

「先生、俺が持ちます」
「うん……お願い」

 肩にかけようとしたが、自分の腕を通すには少し窮屈だったので手で持つことにする。やっぱり女の人の持ち物って華奢なんだな……。
 それさえも持て余すほど、今の先生は小さい。
 つくん、と胸の奥がうずく。

「コウイチ」

 ぽん、とロイが肩を叩いた。

「心配ないよ、ボクがついてる」
「うん……ありがとな、ロイ」

 くいっと顔を上げると風見は歩き出した。ケーブルカーの駅を目指して。
 けれどいくらも歩かないうちにヨーコの足取りが鈍りはじめる。うつむき加減にへろへろと。サクヤも、ランドールも心無しか元気がない。

「どうしました?」
「……すいた」
「え?」
「おなかすいたぁ」

 世にも情けない声だった。

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【ex8-11】カルシウム

2009/02/03 18:51 番外十海
「おなか……すい……た」
「シマッタ」
「戦闘で消耗しちゃったからなあ………」

 ドリームダイブの後、ヨーコはとにかく食べて消耗した分を回復する。さもなきゃ寝るか、だ。ここで寝られちゃったら一大事。
 風見はダウンジャケットのポケットからアメを取り出した。

「はい、これ」
「わーい、アメちゃんだ、アメちゃんだ」
「サクヤさんもどうぞ。はい、これはランドールさんの分」
「ありがとう……」
「おいしー」

 頬をぷっくりさせてアメをなめる子どもたちを見ながら風見はつぶやいた。

「先に買い物しなきゃな」
「そうダネ。移動するまえにもーちょっと食べさせておかないと」

 アメリカのスーパーマーケットは基本的に24時間営業の店が多い。
 こんな朝早くにも開いてた。

「たすかった……」

 白地に赤い文字でSAFEWAYと書かれた看板のかかった店に入る。入り口の警備員の視線が何となく気になる……いや、落ち着け、気にしすぎだ。

「ここならよく知ってるヨ。ワシントンにも支店がある」
「そっか」
「任せて。だいたいチェーン店の作りはフォーマットが似ているし、置いてある商品も共通してるから……」

 慣れた動きでロイはカゴを取り、ゲートを抜けて先に立って中に入って行く。広々とした通路の両側に、天上近くまで商品の詰まった棚が並んでいる。当然のことながら商品名も、品質表示も全て英語だ。見慣れたロゴの商品も日本にあるのとは微妙にパッケージが異なっていた。
 たまに漢字があったな、と思うとそこはかとなくニュアンスが違っていて、読み直すと中国語だとわかる。
 さすがにお客はあまりいないかと思いきや、それなりに人が入っている。朝食の買い物だろうか?
 うっかり上ばかり見上げていると、くいくいと上着のすそをひっぱられた。

「クッキーたべるークッキー」

 ヨーコが両手で上着のすそを握って見上げていた。

「はいはい、クッキーですね」
「チョコチップー」

 その隣でサリーがかぱっと口をあけてさえずった。

「ナッツいりー」

 やや遅れてランドールがぽそりと控えめにつぶやく。

「ヒマワリの種……食べたい……」

「うーむ、これは……」
「見事に好みがばらばらですネ」
「三箱買わないとだめ……か?」
「お菓子類はこっちだヨ」

 パスタとシリアル、スパイスのコーナーを抜けると急に両側の棚がカラフルになった。クッキーにビスケット、チョコレート、キャンディ。袋に入ったの、箱に入ったの、見たことのあるもの、見たことのないもの。
 ぎっしりと棚につまっている。
 並んでいる。
 ぱああっとちびっ子たちの顔が輝いた。

「あっ、ヨーコ先生っ」

 ちょこまかと先頭切って走りだすと、ヨーコはんしょっとのびあがって茶色と白に塗り分けられた箱を手にとった。

「これがいい! どーぶつビスケット!」

 すかさずロイがおや? と首をかしげた。

「でもそれチョコチップじゃなくてナッツ入りですヨ?」
「サクヤちゃんナッツがいいんだよね?」
「………うん」

 風見とロイは顔を見合わせた。
 その箱は日本で売っているお菓子とくらべてかなり大きかった。一箱買えば、全員に十分に行き渡る。三箱買わずにすむように、ヨーコなりに考えた結果らしい。

「さっき三箱買わないと、って言ったからか……」
「ヨーコ先生っ、予算は気にせず、好きな物を選んでくだサイッ!」

 うるるっと青い瞳をうるませて(あいにくと長い前髪にかくれてほとんど見えなかったが)ロイが震える声を張り上げた。

「ボク、このお店の会員カード持ってますからちょっとは節約できますっ」
「で、でも」
「それにっ、アメリカの買い物システムではまとめ買いした方がお得なんでスっ! だから……」
「わかった、それじゃあ……」

 もじもじしながらちらっと棚に並ぶクッキーに視線を走らせるヨーコの隣では、ランドールがきょろきょろと辺りを見回していた。

「ヒマワリの種ないよ、ヒマワリの種……」

「あ」
 
 棚の一角に見慣れた青い袋があった。コバルトブルーの袋に白い太文字、黒と白のクッキーの写真。

「先生の好きなオレオがありますよ? ほら」
「それ苦いからヤ」
「えっ?」
「ええっ?」

(そっかー、子どもの頃ってこんな好みだったんだ……)

 ぽかーんとあっけにとられながら風見はぼんやりと頭のすみで考えていた。

「これがいい」

 結局、ヨーコが選んだのはオレオでもチョコチップ入りでもなく、ちっちゃな袋に入ったストロベリークリームを挟んだクッキーだった。
 
「最初に言ってたのと全然違うし……」
「女の子っテ……謎デス」
「このころから苺好きだったんだな」

 ため息をつく二人の足下では、ランドールが初心貫徹。あきらめずにヒマワリの種を探し求めていた。

「ヒマワリの種ないよ、ヒマワリの種」
「……どこに売ってるのかな」
「園芸コーナー?」
「ペットコーナーかも?」

 律儀にちびっこ3人のリクエストに応えようと奮闘するうち、何だか保父さんみたいな気分になってきた二人だった。

「ランドールさん、ヒマワリの種、ここにはないみたいだから……」

 うるるっとネイビーブルーの瞳がうるむ。風見はあわてて付け加えた。

「歩きながらさがしましょう」

 こっくりとうなずき、とことこと歩き出した。

「あ、また先生の後くっついてるし。サクヤさんはわかるんだけど、何でランドールさんまで?」
「もしかして末っ子?」
「いや、確か一人っ子だった、はず。やっぱり同い年だと女の子の方が大人っぽいってことなのかな……」
「サイズに関係なく?」
「うん。サイズ関係なし」

 ちょこまか、とことこと歩くうち、飲み物の並んだ一角にやってきた。牛乳やチョコレートミルクに果汁100%のジュース。日本でもおなじみの豆乳やヨーグルトドリンクもあった。
 少し離れた所にはコーラやミネラルウォーター、ソーダのペットボトルがぎっしり並んでいる。バラのと6本パック入りのと。 

「ヨーコ先生、何飲みますか?」
「牛乳」
「はいはい、牛乳ですね……あった」

 青と白の紙パック入り牛乳を一本とってカゴに入れる。日本でもよく見かけるデザインだが色の塗り方がかなり大雑把だ。背景の青がかなり牛のイラストを浸食している。

「いや、そのちっちゃいのじゃなくて」

 ヨーコはぷるぷると首を横に振り、棚の下段にぎっしり並ぶ大ボトルを指差した。

「こっちのおっきいのがいい」
「無茶言わないでください、そんなでっかいボトルっ! って言うかこんなのあるんだ」
「2ガロンサイズだネ。アメリカではスタンダードだよ」
「そうなんだ……」

 ヨーコはお徳用液体洗剤と見まごうようなボトルにたっぷり入った牛乳を、ひしっと両手で抱えこみ、真剣なまなざしで訴えてきた。

「だって、せっかく成長期前に戻ったんだよ? ここでカルシウムたっぷり補給しとけば、元に戻った時ちょっとは効果があるんじゃないかと思うの!」
「お腹こわしちゃいますよ」
「やーの、やーの、こっちのがいいのーっ」

 首をぶんぶん横に振って足をばたばたさせている。予想外の駄々っ子攻撃にピンチに陥る保父さん風見。
『そんなに大量に牛乳飲んでも、背は伸びませんよ?』思っても怖くて言えない。ほとほと困りはてていると……

「……ヨーコ」
「カル?」

 すっと進みでたランドールがヨーコの肩に手を置き、しみじみと語りかけた。
 ちっちゃくても中味は紳士なのだ。

「君のその、ささやかな胸も十分にチャーミングだよ」

 途端にヨーコは口をへの字に引き結ぶと牛乳を棚に戻し、それからランドールの方に向き直り……だんっと足を踏んだ。

「いったーいっ」
「こらヨーコ先生っ! 友だちをいじめちゃだめじゃないですかっ」
「ふんっ」

 頬ほふくらませてそっぽを向いてしまったが、ちらっ、ちらっと横目でこっちをうかがっている。そこはかとなく『いけないことを』をした自覚はあるらしい。

「はあ………何が悲しくて担任教師に『こらっ』とか『めっ』とか言わなきゃいけないんだろう、俺」
「コウイチ。ボクが着いてるよっ。今の先生たちは子どもの体に大人の心が宿っている。アンバランスな状態なんだ……ボクたち二人で立派にお育てしよう。ねっ?」
「そうだな。俺たちがしっかりしないと!」

 気を取り直して顔を上げると、今度はサリーが『んしょっ』とのびあがって2ガロン入りのミルクに手を伸ばしていた。

「ああっ、サクヤさんまでっ」
「何てことだ、二人とも発想が子どもに戻ってる! 恐るべし、ナイトメア……」
「……いや、ヨーコ先生の場合はあんまし関係ない気がしてきた……」

「これがいい」

 ひしっとぬいぐるみのように2ガロン入りのミルクをかかえるサリーに近づくと、風見はかがみこんで目線を合わせ、話しかけた。

「わかった、わかりました。じゃあ、この大きいのを1本買ってみんなで分けましょう」
「うん」

 ほわっとサクヤの顔がほころんだ。

「コップも買わないと……紙コップとプラスチックのコップ、どっちの方がお得だろう」
「プラスチック。紙は圧倒的に量が多い」
「うわ、24個入りか。さすがにこれは使いきれないなあ……こっちにしよう」

 プラスチックのコップをカゴに入れ、ふと視線を足下に向けると一名足りない。

「ああっ、ランドールさんがいないーっ」
 
 さっと顔から血の気が引いた。前後左右を見回すが、いない。子どもの足だ、移動力はたかがしれてる。でもいつから姿を消していたんだろう?
 ああ………だめだ。思考がぐるぐるうずを巻く。思い出せない。
 
「ランドールさんっ、どこですかっ」

 大声で叫んでいた。

「ラーンドールさん! 返事してください!」
「Hey,コウイチ!」

 ついっとロイが後ろから袖をひっぱる。

「ここでMr.ランドールの名前を連呼するのはまずいよ。どう見ても迷子になったのがボクらの方に見える」
「そっか………そうだよな……よし!」

 すたすたと大股で店内を歩きながら風見は再び呼びかけを開始した。

「カルヴィーン! カル! おーい」

(しぃまったあ!)

 自分で提案しておきながらロイは焦った。

(コウイチにランドールさんのファーストネームを連呼させるなんて! ばか、ばか、ボクのばかっ)

「風見、風見」

 ちょい、ちょい、と服の裾をひっぱられる。サリーとヨーコがじっと見上げていた。一瞬、奇妙な既視感に捕われる。
 この光景、いつかの夢にそっくりだ。

「どうしました?」
「……いた」
「あそこ」

 二人の指差す先を見ると、そこにはヒマワリの種を抱えてうれしそうににこにこするカルの姿があった。

「あったー」
「……そうか……ナッツのコーナーにあったんだ……」
「カル、それ好きだもんね」
「うん!」
「良かった……」

 へなへなと膝の力が抜ける。風見とロイは互いに支え合ってかろうじて床にへたりこむのをこらえた。

「半分くらい、迷子の呼び出しアナウンスをお願いするための原稿まとめてたヨ、頭の中で……」
「……俺も」

『迷子のお知らせです。カルヴィン・ランドールくん、黒髪に青い目、服装は紺色のコートに茶色のズボン……』

 想像するだに改めて冷や汗がにじむ。
 
「このままでは危険だ。危険すぎる!」

 立ち上がるやいなや、風見はきゅっとヨーコの手をにぎった。

「迷子になったら大変だ。手をつなぎましょう。さあ、ランドールさんも!」
「Nooooooo!」

 電光石火でロイが割り込み、サリーとランドールとさっさと手をつないでしまった。

(たとえテリーさんと言う彼氏が居ても……コウイチと手をつなぐのはダメ。絶対にダメ!)
(ヨーコ先生となら、ギリで許せマス)

 途端にサリーがくしゃっと顔をゆがめ、ぐすぐす泣き出した。

「よーこちゃんといっしょじゃなきゃやーっ!」
「あ」
「……なんか、そこはかとなく不吉な予感がしマス」

 子どもは一人が泣き出すと他の子も泣き出すのがお約束。じきにランドールの青い瞳にうるっと涙が盛り上がり……

「ママーっ」
「……伝染った」
「なるほど、これが幼児期の感情同調。予防注射の順番待ちで他の子が泣いてるのを聞いて泣き出すと言う伝説のアレですネ」
「冷静に分析してる場合かっ」

 思わず親友につっこんだ拍子に、風見はヨーコの手を離してしまった。
 するとヨーコはわんわん泣いてる男の子二人にちょこまか近づき、サリーの頭をなでた。

「サクヤちゃん。泣かないで。ほら、涙ふいて……おはな、ちーんして」
「よーこちゃーん」

 ポケットティッシュで鼻をかませ、ハンカチで涙を拭っている。いかにも慣れっこと言う感じの仕草だった。

「カルもお顔ふこうね。ハンサムさんが台無しですよ?」
「うん……」
 
 自力でポケットからハンカチをとりだして顔を拭うランドールの頭を、うなずきながらヨーコはなでた。

「えらい、えらい」
「あ。『お姉ちゃん』だ」
「『お姉ちゃん』がいる」

 結局、風見とヨーコが手をつなぎ、さらにヨーコとサリーが手をつなぎ、さらにサリーとランドールが手をつないでその先にロイ。
 はないちもんめか、マイムマイムのように数珠つなぎで歩くことにした。

(これなら……これなら……どうにか……許せるレベル……か?)

 ため息をつきながらロイはサリーとランドールを観察した。まだ目が赤い。ぽわぽわと火照ったちっちゃな手のひらが、きゅっとにぎってくる。

(本当に……子どもになっちゃったんだなあ……)

 ふと不穏な光がロイの瞳に宿った。

(勝てる……今なら、勝てるっ)

 びくっとランドールがすくみあがる。にっこり笑ってごまかした。

(ああ、それにしても、コウイチが無事でよかった……)
(もし、コウイチが……ちびっ子にされてしまったら……………ああ、なんてキュートなっ……見たい…)
(はっ!)
(ボクは、ボクは何てことをーっ)

 沈黙のうちに百面相を繰り広げるロイに風見が声をかける。

「大丈夫だよ、ロイ。心配するな、俺がついてる!」
「う……うん………ありがとう、コウイチ!」

 一方で風見は必死で考えていた。とりあえず手はつないだ。けれど、いつまでもこのままではいられない。

 会計のときは財布を取り出すために手を離さなければいけない。いつ、どんなタイミングで迷子になるかわからない。
 一応、安全策をとっておこう………でも、どうやって?

 レジを目指して歩くうちに、髪飾りやヘアブラシ、ティーンズや子ども用のお手軽なアクセサリーの並ぶコーナーにやってきた。

「あ」

 その瞬間、閃いた。シンプルなチェーンタイプのネックレスを2本とってカゴに入れる。

「さ、会計しよっか」

 アメリカのスーパーの会計は日本とだいぶ様相が違っている。細く伸びたベルトコンベアーの上に自分でカゴから商品を取り出して一列に並べるのだ。前後の人の買ったものと混ざらないよう、境目には三角柱の仕切りプレートを置く。
 がーっとコンベアーに乗って流れてくる商品をレジでチェックして行くと言う訳だ。

 ベルトコンベアーの動きはレジでコントロールされ、きわめてゆっくり、時々止まる。だから慌てる必要は無いのだが、動くものを相手にしていると思うと自然と気が急いてくる。
 このときビニール袋も一緒にコンベアーに乗せて流して会計する。
 ……有料なのだ。

 何もかも風見にとっては初めての経験で、ちらっ、ちらっとロイの顔を見てしまう。そのたびにロイはにっこり笑ってうなずいてくれた。

(やっぱりロイは頼りになるな。俺よりずっと冷静で、落ち着いてるし。こいつが居てくれて本当に良かった……)
(ああ、コウイチ、なんってキュートなんだ! 君のその表情を見るためならボクは、アメリカ中のスーパーでお買い物してもいいっ)


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【ex8-12】長い道のり

2009/02/03 18:52 番外十海
「はああ、緊張したーっ!」

 会計を終えると風見は思いっきりのびをした。店内にはテーブルと椅子の置かれたレストスペースが設けられ、デリで買ったばかりのおかずやサンドイッチを食べられるようになっていた。
 お子様3人を椅子にすわらせ、自分たちも座る。

「はい、これコップ」
「わーい、牛さん、牛さんー」
「はい、先生、牛乳」
「ぎゅうにゅうー」

 店内は暖房が効いていて十分に温かい。冷たいミルクがかえって乾燥したのどに心地よい。それにカルシウムは心を落ち着けてくれる。
 両手でコップを抱えて牛乳をんくんく飲み、クッキーをかじる(約一名、ヒマワリの種)お子様3人を見てほっと一息。
 これでサクヤさんのアパートにたどり着くまでどうにかもちこたえてくれるだろう。
 さて、ケーブルカーに乗り込む前にもう一仕事。
 ネックレスを取り出し、まずはぶらさがっていたプラスチックのハートを取り外した。

「それ、どうするんだい、コウイチ」
「こうするんだ」

 風見はジャケットのポケットから勾玉に鈴のついたファスナーチャームを取り出した。

「おお。『夢守りの鈴』勾玉つき、ファスナーチャームバージョン」
「こんなこともあろうかと思って多めに持ってきたんだ」
「さすがダネ」

 ナスカンを開いてチェーンにとりつければ勾玉&鈴のペンダント、一丁上がり。

「はい、ヨーコ先生、これつけて」
「えー、ピンクー?」
「……好きな色でしょ?」
「ん……まあ、ね」

 微妙な表情をしている。
 実はヨーコがピンクを好きになったのは大人になってからで、子どもの頃はむしろ青や緑の方が好きだったのだ。

「こっちのグリーンのはサクヤさんに」
「……よーこちゃんと同じがいい」
「……わかりました、はい、ピンク」

 ピンクの勾玉をつけてもらってサリーはごきげんだ。うれしそうに自分のと、ヨーコのを見比べている。

「なんか……こーゆー子ども時代だったんですネ、二人とも」
「過去が見えた気がする」
「さてと、ランドールさんは……やっぱり青かな。十字架のペンダント見せてくれますか?」
「うん」

 素直にランドールはコートの中から十字架を引っ張り出した。

「素敵なクロスですね……はい、これ」

 鈴のついた青い勾玉をクロスの横にかちゃり、ととりつけた。
 鈴と鈴は響き合い、呼び合う。そして、魔女は神聖なものが苦手。これは二重の防護策だった。

「神様同士で喧嘩しないかな……」
「ダイジョウブ、日本のカミサマは心が広いから!」
「そうだな、八百万もいるくらいだし」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「ふう………」
「やっと着いたぁ………」

 サンフランシスコ北部の海沿い、マリーナ地区の一角にあるアパートの二階、南東の角。サリーの部屋にたどり着いた瞬間、風見とロイは玄関にへたりこんだ。

「大丈夫?」

 にゅにゅっととお子様3人がのぞきこんでくる。ちいさな手で頭をなでられた。

「えらかったね……風見。えらかったね、ロイ」

 答えようにも言葉が出なくて、うなずくのが精一杯だった。果たしてちゃんと笑顔を作ることができたのか、あまり自信がない。

 ここまでの道のり、決して短くはなかったし平坦でもなかった。物理的にも、精神的にもあらゆる意味で。
 
 パウエル-ハイド線(Powell-Hyde Line)に乗って北上し、終点手前のフランシスコ通り(Francisco.St)まで。サンフランシスコに来たからには一度はケーブルカーに乗りたいと思っていたけれど、まさかこんな形で乗るなんて。
 緊張感に押しつぶされて息をするのも一苦労、景色を楽しむ余裕はほとんどなかった。
 フランシスコ通りからミュニバスに乗り換える時もちびっこがいつ走り出すか逃げ出すかと気が気ではなく、神経を張りつめていた。
 バスを待つ間はずっと小さな声で「30番、30番」と呪文のように乗るべき路線の番号を唱え続け、目的のバスがやってきた時は思わず「よしっ」とつぶやいてしまった。
 つい日本の感覚で後ろから乗ろうとしていたが、よく見ると後ろからは降りる人ばかり。しまった! と寸でのところで方向転換、ばくばく言う心臓を抱えながら前方のドアに向かってぎくしゃく歩く。
 どこから見ても立派なおのぼりさん。だがその時の風見には、はずかしいと思う余裕すらなかった。
 
 幸い、ケーブルカーとバスは共通のミュニパスポートと言う1日乗車券で乗ることができたのでチケットを買うのは一回で済んだけれど……。日本と違ってバスの停留所の名前はアナウンスされず、必死になって電光掲示板に表示される名前をにらんだ。
 一分一秒たりとも気が抜けず、まるで小学生のようにびくびくして、何かするたびに最後尾にいるロイの方を振り返らずにはいられなかった。
 実際には3人の子どもたちはきわめておとなしかったのだが。
 サリーはおどおどしていて急に人が乗り降りするたびにこそこそとヨーコの背後に隠れていたし、ランドールはぽーっとした夢見がちな表情で外の景色を眺めていた。
 ヨーコはと言うと、サリーの手をぎゅっと握って常に油断なく周囲を見回していた。きりっと口をへの字に結んだその表情はどこか張りつめて痛々しく。目に入るもの、聞こえるもの触れるもの全てを積極的に楽しむいつものヨーコ先生の姿とはあまりにかけ離れていた。

(マクラウドさんが言ってたのは、このことだったんだな……)

 バスの中でサリーは座席に座ったままうとうとしていたが、降りるべき停留所の手前に来るとぱちりと眼を覚まして手をのばし、しきりと窓枠の上をつかもうとした。当然のことながら届かず、ちっちゃな手のひらがわきわきと宙をつかむばかり。

「あれ? えっと……」

 不思議そうに首をかしげる。寝起きでぼんやりしているらしい。

「サクヤさん?」
「これだよ、コウイチ」

 ロイがくっと窓枠の上に張られた紐をひっぱった。ピンポン、とチャイムが鳴り、バスが停まった。

「そっか……ボタンじゃなくて紐なんだ」
 
 アパートにたどり着くと、サリーはポケットからカギを取り出してんしょっとのびあがった……が、ドアノブが高すぎて届かない。
 もともと日本のドアより位置が高いのだが、今は子どもになっているからなおさらだ。

「サクヤさん、俺がやりますから」
「うん……ありがとう」

 カギに下がった鈴がチリン、と手の中で小さく澄んだ音を立てた。

 淡いベージュやグリーン、クリーム色。中間色でまとめられ、背の低い家具をそろえたサリーの部屋は居心地がよく、一歩入るなりほんわりと清々しくもやわらかな空気に包まれた。

「あ……もしかしてこの部屋、結界がある?」
「うん。まいあさお水あげてお参りしてる」
「あ、鹿島神宮のお札」

 本棚の一番上にさりげなく神社のお札が置かれていた。結城神社は鹿島神宮の系列なのだ。
 ダイブ用に急造したものと異なり、ここはお札を核にして時間をかけて練り上げられた結界だ。維持してきた巫女=サリーの力は弱くなってしまったけれど、結界そのものは消えずに残ったのだろう。

「ここに居ればひと安心ってことか……」
「そうだネ」
 
 すっくとロイが立ち上がる。
 
「サクヤさん、台所おかりしマス」
「うん」
「エプロンも」
「うん」

 いそいそとエプロンをつけ、台所に立った。

「えーっと、ミルクパンは……」
「これじゃないかな」
「サンキュ、コウイチ」

 風見が渡してくれたのは実はゆきひら鍋だったりするのだがこの際細かいことは気にしない。
 スーパーで飲みきれなかった2ガロン入りのミルクを鍋にそそぎ、弱火でとろとろとあっためる。本来なら何も入れずに飲みたい所だが、今は風見も、自分も子ども3人も消耗している。
 少しでもエネルギーを補給しておこう。
 砂糖をほんの少し加えておたまでかき混ぜた。

「コウイチ、マグカップ出してくれる?」
「わかった……えーっと……」

 見つけたカップの種類は微妙にばらばら。大学の校章入りのどっしりしたマグカップ。地元のスターバックスの地域限定マグ。ぽってり丸い白いコーヒーカップが2つ……食器棚の一番手前にあったからいつも使っているものなのだろう。
 だれかからもらったのか、あるいは自分で買ったのか、やたらと可愛らしいクマの模様のカップもあった。

「これで5つ、っと。ロイ、準備できたぞ」
「OK。こっちももう少しでできあがるヨ」

 いそいそとこじんまりとしたキッチンで立ち働くロイの心臓は幸せでいっぱいだった。それこそ目一杯ふくらませた風船のように、今にもぱっちんと行きそうなくらいに。

(ああ、まるで新婚家庭のようダ……)

 牛乳を注ぐ手がわずかに震える。既に3人の子持ちだったりするのは気にしない。

「できました……さあ、ドウゾ」
「ぎゅうにゅうー」
「ぎゅうにゅうー」
「ミルクー」

 5人で顔をよせあってあっためたミルクを飲んだ。

「ふは……」
「美味いなぁ……」
「あ、眼鏡くもった」

 口からのどを通って温かさが流れ込み、ひろがるのがわかった。体の真ん中までじんわりと。
 ほんの少し砂糖の甘さが加わっただけで、張りつめた気持ちがほんわりなごんでゆくのが不思議だった。

「ごちそうさまー」

 飲み終わると、まずサクヤが小さくあくびをして目をこすった。続いてランドールも。眠いのだ。考えてみれば結局、昨日の夜は一睡もしていないし夜があけてからはずっと歩き通しだった。

「少し休んでください。日本への連絡は俺らがやっときますから」
「うん……パソコンは……デスクの上だから、つかって………」

 言ってるそばから、かくっと首が揺らぐ。

「サクヤちゃん、ベッド行こうね?」
「うん、ヨーコちゃん」
「カルもおいで」
「うん……」

『お姉ちゃん』に手をひかれて二人はとことことベッドへと歩いて行く。

「……上がれるかな」
「あ」

 アメリカサイズのシングルベッドは日本の物に比べて高さがある。よじ登ろうと苦戦するサクヤを後ろから支えて抱き上げた。

「ありがとう」
「どういたしまして」

 その間に、ロイが素早くランドールをベッドの上に放り上げていた。

「わ」

 ころんとひっくりかえってじたばたするランドールの隣にヨーコがぴょん、と自力で飛び上がる。
 ヨーコを中心に川の字になって布団の中に潜り込む3人を、風見とロイはじっと見守った。何だかおがくずの中にもぐりこむハムスターみたいだ。
 サクヤがもふもふとヨーコにしがみついて胸に顔をうずめ、目をとじた。

「おやすみ、サクヤちゃん」

 ヨーコはサクヤが眠るまで左手でずっと頭をなでていた。そしてもう片方の手はと言うと、反対側からしがみつくランドールの手をしっかりにぎっていたのだった。
 
「先生」
「ん?」
「眼鏡、はずしますね」
「あ……うん、ありがとう………」

 赤い眼鏡を両手でそっと外す。

「先生ってちっちゃい頃から眼鏡かけてたんですね。サクヤさんはまだなのに」
「…………」
「先生?」

 すやすやと眠っていた。風見は小さな眼鏡を注意深くたたむとベッドサイドのテーブルに乗せた。
 何だか時間の経過とともにどんどん精神まで『子ども』になって行くようだ。果たして目をさましたとき、ヨーコ先生はちゃんと答えてくれるだろうか? 
 いつものように『先生』と呼びかける、自分たちの声に。

 最初に夢の力に目覚めたときから、ずっと自分を教え、導いてくれた。いつでも、どんな時でも。

『あたしは戦闘はからっきしアウトだからさ。荒事は任せたぞ、風見』
『怪我したらいつでも治してやる。気にせずばんばん行け!』

 ずっと、守ってきたつもりだった。自分なりに、精一杯に。だけど………今は………。
 堅く握った拳が細かく震える。
 守っていたつもりで守られていた。支えてきたつもりで支えられていた。ヨーコ先生がこのまま元に戻らなかったらどうすればいいんだ? 俺は何を頼りにして前に進めばいい?

「……コウイチ」

 ぽん、と肩を叩かれた。

「ロイ………」

 いつもと変わらない、青い瞳が見つめていた。ロイの手のひらが肩を包み込む。伝わるぬくもりが教えてくれる……自分は一人ではないのだと。

「……日本に連絡しよう。蒼太さんに報告を」
「OK。和尚じゃなくて?」
「あの人パソコン持ってないんだ。ケータイは使いこなしてるんだけどね」
「意外デシタ。何にでもとりあえずチャレンジする人なのに」
「あ、でもデジカメは持ってたかな? やたらと高性能のやつ」
「謎な基準デス……」
 

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【ex8-13】呪いの法則

2009/02/03 18:53 番外十海
 子どもたちを寝かしつけてしまうと、風見はそっと自分の携帯を開いた。海外でも使える機種だ。日本に電話をかける際の番号もあらかじめ登録しておいた。
 電話帳から『NH』のカテゴリに分けられたリストを呼び出し、一人を選んでかけた。
 今は朝10時、しかし日本は早朝3時。これを遅いと見るべきか早いと見るべきか、少々微妙な所だが……相手は1コールで出てくれた。

「蒼太さん?」
「………何があった」

 海外通話独特のタイムラグの後、挨拶の言葉も。非常識な時間に電話をかけたことへの文句もなく開口一番、本題に切り込んできた。

「逃げられました」
「仕損じたか」
「はい。犠牲者の解放には成功しましたが、その後で……」 
「待った。今、どこだ?」
「サクヤさんのアパートです」
「ってことはパソが使えるな? そらぺで話そう。長くなるだろう」
「そらぺって?」
「skypeだよ」

 やはりこの人にかけて正解だったな、と思った。和尚が相手ではこうは行かない。
 サクヤのデスク前に立ち、スリープ状態になっていたノートパソコンを立ち上げる。skypeのショートカットはすぐにわかった。

「何でお前が電話を? 羊子さんはどうした」
「それが……ちょっと今、電話に出られない状態で」
「寝てるのか?」
「………はい」
「遅くまで大変だな」

 何のことだろう?
 首をひねってるうちにskype……ネット電話が繋がった。
 小さなウィンドウを通してパソコンの画面の向こうに蒼太の顔が。スピーカーから声が流れて来る。こっちの映像も向こうに流れていることだろう。

「お、来たな……よし、こっち切るぞ」 

 言われるまま、携帯を切る。

「さて。改めて話してもらおうか。何があった」
「ダイブして、夢魔ビビと戦って……倒したと思ったんです。だけど、犠牲者が解放されたのを見届けて安心してる所を不意打ちされて。羊子先生と、サクヤさん、ランドールさんが……呪われて」

 口の中がからからだ。こくっとつばを飲み込み、ともすればのどの奥に縮こまりそうになる言葉を引きずり出した。

「子どもにされてしまいました」
「そうか。だからお前たちだけなんだな」
「はい」

 画面の中の『先輩』は、意外なことに笑っていた。ほんの少し眉をよせて、困ったような顔だったけれど、とにかく笑っていた。

「羊子さんだって無敵じゃないさ。むしろ命の無事を喜ぶべきだろうな」
「は……い……」

 そうだ。仕掛けられるタイミングが明け方だったからあの場で離脱できたのだ。もし夜中に呪いを受けていたらと思うと。
 背筋を冷たいものが走り抜ける。自分たちだけなら満身創痍になってもどうにか切り抜けられるだろう。だが無力な3人の子どもを守るとなると事態は違ってくる。
 逃げ切ったところで傷ついた体を癒してくれるはずの人はちっちゃくなっちゃってるし。おそらく治癒能力も弱くなっているはずだ。

(俺たちが安心して無茶できたのは……先生がいたからなんだなあ)

「どうした、風見。シケた面して」

 しまった。こっちがどんな顔してるか、向こうにも全部見えてしまうんだった!
 あわててくっと顔を上げ、モニターの向こうの蒼太と眼を合わせる。

「大丈夫です! 一人じゃないし。ロイも一緒だし」
「そうだったな……それじゃ、改めて作戦タイムと行こうか」
「はい!」

 画面の向こうで蒼太がせわしなく手を動かしている。「ビビ」のデータを呼び出しているのだろう。

「最初にお前たちが倒したのは、おそらく使い魔の化けた囮だろう」

 はっとして風見はロイと顔を見合わせた。

「使い魔……山羊か!」
「文字通りのスケープゴートだったんだ!」
「そう言うことだな。まず敵の能力を見極めて、苦手な相手から優先して呪いをかけたんだ」
「苦手?」
「うむ。ここから先は俺の推測だがな。左道のルールは概ね万国共通の筈だ……一度に一体の魔女が呪いをかけられる相手は一人だけなんだろう。まずは狼と、電光使いと、巫女さんを無力化したって訳だ」
「そうか……」

 ぎりっと奥歯を噛む。昨夜のあの最初の快進撃も、全て敵の策略のうちだったんだ。
 改めて悔しさと苦さがわき起こる。

「かけられた呪いなら、解くまでだ」

 淡々とした声で告げられる。悔しさと不安、後悔でざわついていた胸の中にすうっと一筋の光がさした気がした。

「記録によるとな、呪いをかけた段階で1人につき1つ、必ず一定の法則に基づく個別の解除法が設定されるらしいんだ。解除のための条件さえ判明すれば」
「先生たちを元に戻すことができるんですね!」
「理屈では、な」
「一定の法則……か……」
「よく、おとぎ話にあるだろう。乙女のキスとか」

 ちらっとベッドの方を振り返る。

「乙女のキス……」
「羊子先生にキスしてもらえばっ」
「あ、ちなみに当人が呪われてる場合は無効だ」
「……ダメかぁ」

 がっくりと肩を落とす後輩二人に、相変わらず淡々と蒼太は伝えるべき情報を伝えてゆく。

「俺はこれから過去の記録を当たって調べてみる。お前らもいろいろ組み合わせを探せ。誰かの応援をあてにするな」
「……はい」
「お前たちだけが頼りだ………羊子さんたちを頼む。」

 ふと、言葉が途切れた。

「蒼太さん?」
「もし何かあったら………」

 やや間を置いて流れてきた声は、先ほどまでの冷静な声とは明らかに質が違っていた。必要な事を伝えて思わず気がゆるんだか。押さえきれない熱い感情の揺らぎが、冷たい殻を割って吹き出したようだった。
 表情こそ穏やかなままだったがさりげなく組まれた手が小刻みに揺れている。小さな画面を通してさえはっきりとわかるほど。
 短い、しかし重苦しい沈黙。
 やがて、きりっと歯を食いしばると蒼太は拳を握った。

「何かあったら、衝撃波で空が飛べるって、その体で知ってもらう」

 ぼそりと抑揚のない声でつぶやかれる一言が、ずしりと腹に響く。

「……了解」
「御意」

 不意ににゅっと目の前にふわふわのセミロングの頭が割り込んできた。その隣には、つやつやのベリーショートの頭がもう一つ。
 着ているものと髪の長さこそ違うが後ろ姿は骨格レベルでそっくりだ。

「お願い、蒼太。しからないで」
「……………え?」

 画面の向こうで蒼太が目をまんまるにしている。
 この人でもこう言う顔するんだなあ、とか。あの目、あそこまで全開になることがあるんだ、とか頭のすみっこで思った。

「風見も、ロイも、一生けんめいなの。おねがい……」
「おねがい……」
「よーこさん……さくや…………」

 しぱしぱとまばたきして、目をこすって、それからもう一度画面を凝視すると蒼太は抑揚のない声で言った。

「……そらぺの画像保存すんのどーやるんだっけなあ」
「あー、すみません、ちょっとわかんなくって。遠藤ならそう言うの得意だと思うんですけど」
「彼、日々ネットでヒーロー情報の収集に余念がないからネ」
「しょうがない」

 ごそごそやってると思ったらデジカメを構えてきた。

「はい、チーズ」

 ヨーコとサクヤは素直に画面に写るカメラを見ている。同じ角度にちょこん、と小首をかしげて。

「いやあ、和尚から話には聞いていたけど、そういう感じだったんだなあ。まるっきり双子じゃないか。意外というか、話どおりというか……」
「え? 話通り?」
「和尚は写真とかビデオとか俗っぽい事だけ限定で、縦横無尽には使えない癖にとりあえずチャレンジする人だから………庫裏の羽目板の裏に"秘密図書館"と称する秘蔵の証拠写真があってだね」
「秘蔵、ですか」
「ああ。結城神社の巫女姉妹、とか言われてた頃の写真がね……」
「姉妹って」

 ちらりと昨夜の『ダイブ』を思い出す。そろって巫女装束に身をつつみ、手を取り合っていた二人を。

「……姉妹ダネ」
「うん、姉妹だ」

 目の前のちっちゃな二人を見て納得していると、ベッドの方から弱々しい声が聞こえてきた。

「ヨーコぉ……サリー……」
「カル?」

 目を覚ましたら一人だったのでさみしかったらしい。目をこすりながら歩いてきて、にゅっとヨーコとサリーの間に顔をつっこんできた。
 ひくっと蒼太の口元がわずかにひきつる。

「大丈夫だよ、カル。こわくないからね」
「うん……うん……」

 ちらっとランドールはパソコンの画面に視線を走らせ、かすかにほほ笑んだ。

「それじゃ、羊子さんたちの無事も確かめたし、そろそろ通信終了させてもらうぞ」

 蒼太はランドールの頭をなでるヨーコからかなり意図的に目をそらしている。口調も妙に爽やかだ。

「お前らも夜が明けるまでにもう少し休んでおけ」
「はい?」

 こんどはこっちが目を丸くする番だった。まさか……蒼太さん、時差を忘れてるんじゃあ。

「えーっと、蒼太さん。お心遣いはありがたいんですが、こっちはアメリカなんです」
「知ってる」
「時差ってありますよね」
「え」
「…………東京と比叡山で日の出の時刻違いますよね?」
「そうなんだよ。意外と違うんだよな。東京と京都って結構遠いんだよな」
「アメリカと日本はもっともっと遠いんですよ」
「ん? あ、ああ」

 微妙に何かを察したらしい。

「こっちは今、朝の10時なんです……あ、もうすぐ10時30分か」
「えええええっ」

 わあ、素で驚いてるよ。

「そーかー………真言宗カリフォルニア支部の師父が真昼間に暇つぶしのそらぺ掛けてくるのは"仕事をサボって昼間っからそらぺしてたから"じゃないんだ!! 南無」

 斜めの方角にむかってぺこぺこと頭をさげている。どうやら、サンフランシスコはそっちの方角にあるらしい。

「ちゃんと、お勤めの後でネットサーフィンしてたんだな……思いっきり誤解してたぜ……」
「あは、あはははは……」
「あー、こほん、それはそれとして、だな」
「はい」
「緊急事態だ、この際時差は無視だ。必要な時はすぐに連絡しろ。俺からもそうする。いいな?」
「はい!」
「以上。通信終了」

 窓が閉じられ、ふう、と息を吐いた。
 今頃、全力で情報を検索してるのだろう。さしあたって自分たちは……。
 安心したのか、ランドールとサクヤとヨーコはソファで身をよせあって眠っていた。

 この3人をベッドに運ぼう。
 声をかけるより早く、さっさとロイがランドールを抱き上げている。素早くベッドに運び、今度はサクヤを抱き上げた。
 本当にしっかりしてるな。てきぱき行動してるし。こいつが一緒でよかった。

 注意深くヨーコ先生を抱き上げる。腕の中にすっぽり収まる小ささを、もうさっきほど悲しいとは思わなかった。


 ※ ※ ※ ※


 サンフランシスコとの通信を終えると蒼太は口をゆがめて、ばん、と机を叩いた。

「くっそぉおお……あんのバカ社長っ! 子どもだから何しても許されると思ってんな?」

 心細そうにべそべそしながら羊子にしがみついた刹那、あいつは確かにこっちを見ていた。うるんだ無邪気そうな青い瞳の奥に一瞬、得意げな光が見えた。

 蒼太は厳しい修行の末に磨き上げた己の能力と技、そして悪夢を祓う責務に誇りを持っていた。
 それだけに昨日今日能力の使い方を覚えたばかりの新人が、古くからの盟友であり、先輩でもある羊子やサクヤと組んでいるのは、正直あまり面白くなかった。
 できれば今回だって自分も同行したかったくらいだ。押し殺した心の奥のモヤっとした葛藤を、あの男は子どもならではの勘の鋭さで見抜いたのであろう。

「あいつ、絶対わかっててやってるな……」

 しかも、目を合わせた後で人見知りを装ってこそこそと羊子さんの背後に隠れていやがった。あまつさえ肩にしがみついて……。
 女に興味はないとわかっていても。子どもの姿をしていても、腹立たしいことこの上ない。
 こうなったら、一秒でも早く呪いの解除法を探してやる……そうして、大人に戻ったら改めてシメる!
 
 ひょろ長い指がキーボードの上を踊りマウスを滑らせる。『山羊角の魔女』、ビビの情報を求めて電子の海を潜り、数多の文字と画像の間をかいくぐり。ほんの一握りの真実を求めて古今東西、虚々実々入り交じる記録の山を引っ掻き回した。まさぐった。
 もう、寝直すつもりはなかった。

「銀のステッキで撲殺……おおっと、こいつは人狼か。口にニンニク詰めて心臓に杭……は吸血鬼だな」

 蒼太は己の技と役割に誇りを持った男だった。が……まだまだ若い。たまに個人的な恨みがちらほらするのはご愛嬌。

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【ex8-14】千客万来さあどうしよう?

2009/02/03 18:55 番外十海
 ちっちゃな先生とちっちゃなサクヤさん、ちっちゃなMr.ランドール。
 大人だけど大人でなくなってしまった3人が眠っている間、子どもだけど最年長になってしまった2人は呪いの解除法を求めて情報を集めた。
 サリーのノートパソコンに集められていたデータを読み漁り、新たな情報を求めてネットを検索し……。

『ビビ』に関する記録は欧米での事例が多いため、ほとんど英語で書かれていた。そのため必然的にロイが記録を読み、風見は彼が翻訳する内容を聞く形になった。
 熱心に。それはもう熱心に。熱心なあまり、ロイがパソコンを操作している間も背後から身を乗り出して画面に見入った。
 全部はわからないけれど、一部なりとも自分で理解しようと。
 キーボードを叩くロイは気もそぞろ、落ち着かないことこの上もない。
 
(くっ、首筋に息がっ! コウイチ、近いよ……近すぎるよっ)

「なぁ、このSea-soltってなんて意味なんだろう」

 あまつさえのぞき込んで顔を寄せ、じーっと見つめてくるではないか。

「っっっっっ」

 その瞬間、体は十二月に居ながらもロイの魂は真夏の盛りに舞い上がっていた。間近に迫る光一の顔、二人の間の狭い空間をほのかな温もりが満たし、頬と頬が今にも触れ合いそうだ。

(も、もーちょっと顔つきだせば……唇にちゅーできる……かも)

「おーい、ロイ?」
 
 名前を呼ばれて、はっと我に返る。

「あっ、い、いや、これは海の水でつくった塩って意味だねっ! アメリカやヨーロッパの塩は岩塩が主流だからっ」
「そっか、日本じゃ天然塩って海水からつくるもんだから」
「そうそう、こっちで入手しようと思ったら海の水の塩って限定しないと……」
「サクヤさんは常備してそうだけどな」
「先生のバッグの中にもありそうダネ」

 さっくりいつもの会話ペースに戻る。残念なような、ほっとしたような……。

「……ぃたぁ………」
「ちょっとまっててね」

 ベッドの方で声がする。どうやらお子様たちが起きてしまわれたらしい。さよなら、二人だけのスウィートタイム。
 心の中でロイが切ないため息をついていると、とことことサリーが台所に歩いて行くのが見えた。

「あれ?」

 のびあがって冷蔵庫を開けようとしている。しかしアメリカ製の冷蔵庫は大きく頑丈で、扉を開けるのに結構な力がいる。

「う……んー」

 ただでさえ華奢な日本人、それもちっちゃな男の子ががんばった程度ではビクともしない。
 すばやく風見は台所に行き、かがみこんで声をかけた。

「サクヤさん? どうしたんですか」
「れいぞうこ。あかない……」
「あ、はいはい……どうぞ」

 かぱっと開ける。サリーはのびあがってじーっと冷蔵庫の中身を検討している。

「昨日シャケの切り身買ったからそれと……たまごと、わかめとあぶらあげと豆腐があるから味噌汁にして、それから……」

 かろうじて下の段には手が届いたものの、冷蔵庫の扉の上部、卵ケースとなると文字通りハードルが高い。むなしくちっちゃな指先が宙をかく。

「……届かない」
「…………もしかして、ご飯作ろうとしてます?」
「うん。よーこさんがおなかすいたって」
「ああ、それは緊急事態ですね。でも今のサクヤさんじゃ流しにもコンロにも届かないですよ……」

 ただでさえアメリカのキッチンは何もかも高め大きめに作られているのだ。自分たちでさえ、日本で台所に立ったときの基準より少し上にシンクの縁が来る。

「って言うか火、使うのあぶないデス」

 ばさっと白い布がひらめいた。

「かくなる上はっ、このボクがっ」

 振り向くと、ロイが割烹着を装着してお玉片手に身構えていた。

「ご飯作るのに……そんなニンジャポーズ決めなくても」
「野菜を切るのも敵を切るのも同じでござる!」
「同じじゃないって」
「忍びとは刃の下に心と書く!」
「何の関連性があるんだよ」

 2人の漫才めいたやりとりを見ながら、サリーが心底不安な面持ちでため息をついていた。

 ピンポーン。

 間ンの悪いことにちょうどその時、玄関の呼び鈴が鳴った。

「はーい」

 居留守を使おうとか静かにしようとか考えつくより早くサリーが返事をしてしまった。一方ドアの向こうではさらにドンドンと遠慮のエの字もないノックが加わった。

「サクヤいるんだろー。客来てるぞ」
「あ、テリー」
「テリーさん?」

 まずい。よりによって『大人』の3人を知ってる相手が来てしまった!

「ど、どうする?」
「どうにかごまかすしかないっ! 今更居留守使うのは不自然だし、心配して警察呼ばれたらさらにまずいし」

 その間にサリーはとてとてと玄関に歩いて行き、ドアのカギを開けている。慌てた2人は電光石火すっ飛んで、ロイがサリーを抱いて奥に下がるのと同時に風見が前に出てドアを開けた。

「ハ、ハロー」
「よぉ、お前らここに居たのか」

 ドアの外に居たのはテリー一人ではなかった。

「やあ、コウイチ」
「まっ、まっ、マクラウドさんっ!」

 まさかの探偵所長来訪。パニックを起こした風見は完全に日本語に戻っていた。

「言ったろ? 客が来たって」
「あの……そう言うテリーさんは?」
「俺は、サクヤのダチだから」
「はあ」

 曖昧な顔でうなずく風見の後ろでは、ロイが一人納得していた。

(彼氏なら確かに客では無いな!)

「えーとえーとんっと………テリーさん、何でここにいますか」

 動揺で微妙に英語変換が上手く行かないがとりあえず意味は通じたらしい。

「ああ、一緒に昼飯食いに行こうと思って」
「所長さんは?」
「クッキー焼いたんで、サリーに……後で君らんとこにも行くつもりだったんだ」
「先生に会いに?」
「センセイ?」
「あ……Missヨーコに会いに」
「うん」

 いけないいけない。油断すると日本語に戻る。

「手間が省けたな。君らがいるってことは、彼女もここにいるんだろ? ……そこにバッグが置いてあるし」

 所長の目線の先にはヨーコの紺色のバッグがころんと転がっていた。

(しぃまったあああ!)
(さすが探偵、見事な観察眼デスっ)

「コウイチ」
「何でしょうっ」
「やばいんじゃないか、あれ」
「……わーっ」

 食べるものがなければ自力で調達すればいいじゃない。
 と、ばかりにヨーコがキッチンテーブルによじのぼろうとしている所だった。目当ては置きっぱなしになってる動物クッキーナッツ入り。
 慌てて走っていって抱きとめ、床に降ろす。

「ヨーコ先生っ! あぶないじゃないですかっ」
「どなるなよーかざみー」
「……ヨーコ? 同じ名前なのか?」
「あ、マックス」
「やあ、お嬢さん………何で、俺の名前を」
「えーだって……もが」

 慌てて口にアメ玉をつっこむ。とりあえず静かになった。

(ぴーんち!)

 風見は一瞬で腹をくくった。二人とも日本語にはあまり堪能ではないはずだ……よし。

「どうする、ロイ。さすがに本人だって話すわけにはいかないしなあ……」

 精一杯平静さを装いつつ風見は日本語でロイに話しかけた。ロイもすぐ察してくれたのだろう。笑顔でさらっと答えてくれた。

「ここで変な言い訳を使うとかえって不審に思われてしまうネ」
「仕方ない、親戚の子供を預かったってことにして先生たちは出かけたことにしよう」
「OK」

 慌ただしく日本語で打ち合わせをすませると、二人は前にも増して爽やか、かつイノセントな笑顔でディフとテリーに向き直った。

「ヨーコ先生とサクヤさんは今、おでかけ中です」
「実は、親類が……遊びに来てて、シスコを案内してるんです」

 テリーがうさんくさそうに首をかしげた。

「そんな話、聞いてないぞ? こっちに親類がいるなんて」
「たっ、たまたまこっちに旅行に来ててーっ! 現地で落ち合いましたっ」
「この子たちはその家のお子様なんです。大人がのんびりできるよう子守りしてます」
「そう、ボクたちベビーシッターなんですっ」

 テリーとディフは顔を見合わせている。微妙にうさんくさそうな顔だ。

「で、この子もヨーコって言うんだな?」
「はいっ」
「まさか、こっちのそっくりなちびさんはサクヤとか言わないよな?」
「うん」
「サクヤさんっ」
「そっちも同じ名前なのか?」

(うーわー)
(素直すぎデスっ)

「日本ではよくあることですっ! 読みが同じでも漢字がちがってたりしてーっ」
「ふうん……で。そっちのすみっこの青い目のボーズは?」

 ヨーコの背後に隠れるようにしてそっとランドールが様子をうかがっていた。

「親戚の方のっ。お友達の息子さんです」
「カルっていいます」
「……そうか。かなり仲良さそうだな」
「家族ぐるみのつきあいなんでっ」

(ど、どうする……)
(なんか、まだちょっと納得しない顔してるっ)

 表情こそ笑顔だが風見とロイの背中にじっとりと冷たい汗がにじんできた。一番言い逃れの得意な人が。そして気迫で多少の無理は押し通す人が、今はちっちゃくなっている。しかも空腹状態でかなり気力も低下しているっぽい。

「……マックス……」
「ん。どうした、ヨーコ」

 ディフがかがみ込んでヨーコの顔をのぞきこんだ。絶妙のタイミングでちっちゃな体がこてん、とがっしりした胸板にうつぶせに寄りかかる。

「おなか……すいた………」

 その隣ではサリーとランドールが目をうるませる。

「おなかすいた……」
「ごはん…………」

 効果は抜群だった。ディフが腕に抱えた紙袋をごそごそとまさぐり、大振りな色の濃いクッキーを取り出した。

「……食うか?」
「たべる」

 ヨーコが鹿せんべいに食いつく鹿さながらにあぐっとディフの手にしたクッキーにかぶりついた。強烈なショウガの香りがたちのぼる。

「……うぇ」
「あんま子ども向きの味じゃなかったか。すまん」
「……へーきだもん。こどもじゃないもん」
「そうか」

 笑いをこらえるディフからクッキーを受け取ると、ヨーコはぱきぱきと三つに割ってランドールとサクヤに差し出した。
 一枚のクッキーを分け合ってしょりしょりと食べる小動物の群れを見ながらテリーが首をすくめて言った。

「わかったわかった、つくってやるよ。この部屋だったら料理はよくやってるしな」

(助かった……)
(やはり彼氏!)

「ありがとうございます。俺ら、料理てんで苦手で」
「ふつーはそうだよな、うん……」
「俺もちっちゃい子ども向きの献立は、ちょっとな」
「あー、平気平気、俺慣れてるから。日本の子どもならやっぱり和食の方がいいのかな……」

 勝手知ったる何とやら、テリーはさっさと上がり込んで台所へと歩いて行く。一方でディフはかがむのがそろそろつらくなってきたのか床にぺったりとあぐらをかいて座ってしまった。
 すかさずヨーコが膝に乗る。絶好の場所を見つけたと言わんばかりに。大きな手のひらがそっと頭を撫でてくれた。

「苦手なものあるか? ん? ピーマン食えるか?」
「OK」
「そうかえらいな……」

『お姉ちゃん』をとられてむっとしたのか。背後からランドールがよじよじとよじ上るが、所長はびくともしない。
 サリーは少し遠巻きにしておどおどしていたが、ヨーコに手招きされてそっと一緒に膝に座った。
 
「軽いなあ、君ら………あいたっ」

 手頃な長さだったので髪の毛をひっぱってみたらしい。

「こら、それは反則だぞ」

 片手でつまみおろされ、ころんと床に転がされてしまった。一方でテリーは冷蔵庫を開けて中身を確認している。

「あーあんまり入ってないな……あいつ小食だから……子供らの分だけならできそうだけど」

 テリーは手際良く米をはかってボウルに入れると、ちゃっちゃと研ぎ始めた。
 しばらく床の上でじたばたしていたランドールは起き上がるとむっとした表情でディフをにらんでいた。
 が、聞き慣れない音に好奇心をそそられたらしい。台所にちょこまかと駈けて行き、のびあがってのぞきこんだ。

「お前ら外で食う? なんか買ってきてくれてもいい。店そこらにたくさんあるぞ」

「外で?」

「ああ。それがいいんじゃないか? 気晴らしにもなるし……せっかくシスコまで来たのに子守りってのもな」

 ディフは両手でヨーコを持ち上げている。たかだかと持ち上げられた方は手足をばたつかせてきゃっきゃと上機嫌。

「俺たちが子どもら見てるから」

(OH!ふたりっきり!!)

 その瞬間、ロイは彼にだけ聞こえる天上の音楽と光に包まれていた。

(ああ神様ありがとうございますっっ! テリーさんとディフの背中に天使の羽がみえるよ!!!)

「いいのかな……」
「行ってくればー?」

(え、先生っ?)

「そこのバッグの中に携帯入ってるから、もってく。OK?」
「何だ、ヨーコ携帯も持たずに出たのか……彼女らしくないなあ」
「サクヤが持ってるから大丈夫、とか思ってるんじゃないか?」

 実際にはその『サクヤの携帯』もバッグの中に入っていたりするのだが。

「じゃあ、何かあったらヨーコの携帯にかければ連絡つくな」
「そうですね……それじゃ、お願いします」
「お願いシマス」

 まだ不安は拭いきれないが、実際に腹も減っていた。全員に行き渡るだけの食料がないのなら外に買い出しに行くしかない。
 今は昼間だ。それにこの部屋には結界もある。
 
「行ってきます」
「いってらっしゃーい」

 風見とロイはコートを羽織り、連れ立って部屋を出た。念のため、ヨーコの携帯を持って。

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【ex8-15】いただきます

2009/02/03 18:56 番外十海
「そう言やテリー。君、昼飯まだなんじゃないか?」
「ああ、うん。大丈夫だよ。米、多めに炊いたから」 
「……クッキー食うか?」
「お。さんきゅー」

 食事の仕度をしながら一枚つまむ。クリスマスの定番、ジンジャークッキー。だがおやくそく人形の形ではなくシンプルな楕円形、砂糖衣で目鼻も描かれてはいない。甘みも少なく、逆にショウガの味がしっかり効いていた。

「ああ、こりゃ確かにあんまりお子様向けじゃないかもな」
「やっぱりそう……か。うちの双子の好みに合わせちまったからなあ」
「気にすんなって。家庭の味ってそーゆーもんだろ?」 

 二人の会話を聞きつつヨーコは密かに不満だった。

(お子様じゃないのに! あたしは甘いのが好きなの。それだけなの!)

「なぁ、サーモンはムニエルと塩焼きとホイル焼きのどれがいい?」
 
 すかさず即答。

「Solt!」
「お嬢さんは塩ね」

(だからーっ! 何で年下の君にお嬢さん、とか言われなきゃならないのっ)

 姿は子どもになっていようが風見とロイにとっては彼女はあくまで『先生』だった。が、テリーとディフにとっては見た目通りのちっちゃな女の子でしかない。
 そのことに思考が回らず、ひたすらぷんすかしているあたりが既に精神的にも子ども化してる証拠なのだが……。
 ヨーコはまだ気づいていなかった。

「そっちの2人は?」

 ランドールがぽそりとつぶやいた。

「……ムニエル……」
「おっけ、カル坊はムニエルな」

 食の細い息子に必要な栄養を摂取させるため、ランドールの母はできるだけ栄養価とカロリーの高い調理法を選んでいたのである。

「サクヤは?」
「んー……」

 サリーはぱちぱちとまばたきすると顎に手を当ててちょっとの間考えた。

「よーこちゃんといっしょがいい」
「OK」
「あ、そうだ、テリー」
「何だ?」
「ニンジンあるからムニエルにそえて?」 
「おう、まかしとけ」

 ごく自然に答えてから、テリーは『ん?』と首をかしげた。

「どうした?」
「あ、いや……今、サクヤがいたような気がして」
「いるじゃないか、そこに」
「いや、そのちびさんじゃなくって、俺の同級生の」
「似てるとこもあるんだろ。親戚だし」
「そうだ……な、うん」
「何か手伝うか?」
「いや、大丈夫。ちびどもが何かやらかさないように見ててくれ」

 ちょこまかと動き回る3人(と、言うか主に1人)をディフが監督してる間に着々とテリーは料理を仕上げて行く。
 ぐらぐら煮え立ったお湯にカツオブシをひとつかみ、ばさっと投入。惜しみなくたっぷりと景気良く。
 いつもサリーが作っているのを見ているうちに、本格的なみそ汁の作り方も自然と覚えた。初めて見よう見まねで作ったときは味も薄くて豆腐もぐずぐず、味見したサリーに微妙な顔をされたが今は完璧だ。
 
「……よし、こんなもんかな」

 白いご飯にシャケの塩焼き二人分、ムニエル一人分、小さなオムレツとほんのり甘く煮たニンジンを添えて。豆腐と油揚げとわかめのみそ汁、味噌はあわせ。
 見事に和風なご飯が並ぶ。

「こっちの二人は箸で食うとして……」
「やっぱカルはこっちだろうな」

 小振りなフォークとスプーンを選んで並べる。多めに炊いたご飯は塩をつけて三角に握った。

「よーし、できたぞー」
「ごはーん」

 ちびっこ3人が目を輝かせてテーブルにつく。一斉にがっつくかと思いきや……。

 ぱん。

 ヨーコとサリーは椅子に座ったまま深々と一礼して拍手。手を合わせたまま、何やら唱え始めた。

「たなつものもものきぐさも あまてらすひのおおかみの めぐみえてこそ」

 よどみなくきれいに声をそろえて。もちろん、日本語だ。
 
「………何の呪文だ?」

 テリーが首をかしげる。

「お祈り……じゃないか? 何となく雰囲気がそれっぽいし」

 その隣ではランドールがきちっと手を組んで、いっちょまえに食前の祈りを唱えていた。

「父よ、あなたのいつくしみに感謝して、この食事をいただきます。 ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心とからだを支える糧としてください。 父と子と聖霊の御名によって、アーメン」

「……ほら、な?」
「サクヤはもっと簡単なのだったけどな」
「イタダキマス?」
「そう、それ」

 ちょうどその時、子ども2人がきちんと一礼して言った。

「いただきまーす」
「いただきまーす」

「言ったな」
「うん」
「きっと、今のが正式版なんだろう」
「そうなのか?」
「お祈りのしめくくりの『アーメン』みたいなもんなんじゃないか?」
「なるほど……」

 サリーとヨーコの実家は神社。小さな頃の習慣が無意識のうちに出たのである。

「おいしーおいしーおいしー、すごくおいしー」
「そうか、うまいか」
「テリーりょうりじょうずー」
「はは、ありがとな」
「よいムコになるね?」
「……ムコ?」
「あ、ごめん、ヨメだった」
「ヨメ?」
「マックスは現在進行形で立派なヨメだから心配しないで?」
「そう……か。俺、ヨメだったのか……」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

「ごちそうさまー」

 ヨーコは米粒一つ残さずきっちり食べた。サリーとランドールには少し量が多かったらしくシャケとオムレツが余ったが、全てテリーが片付けた。

「男の子の方が食が細かったな……意外」
「まあ、女の子の方が成熟が早いって言うしな」

 大人2人並んで食器を洗い、きっちり水気を切って片付ける。濡れた手をふいてまくった袖を戻していると……ちょこまかと足下にヨーコが寄ってきた。

「ねーねーテリー、あれやって?」
「あれって?」
「あのね、寝る前にね、ロイがカルにやってたの」
「うん?」

 ベッドの所まで連れてゆかれる。

「こう、だっこして、ベッドの上に、ぽーんって!」
「ああ、なるほど……OK、頭きっちりかかえてろ」
「うん!」
「ほら、いくぞー」

 テリーはヨーコを両手に抱えると弾みをつけてぽいっとベッドの上に放り上げた。
 ヨーコは大喜び。きゃっきゃとはしゃぎながら両手両足をばたばたさせる。

「もいっかーい、もいっかーい」
「OK。そーら!」

 またまた大はしゃぎ。スカートがめくれあがって可愛らしいピンクの子鹿模様のパンツ(そう、ショーツとかランジェリーなんてこじゃれた呼び方など論外の、まさに直球でパンツとしか言いようのないお子様用の下着だ)が見えようがおかまい無し。
 慌てたのはランドールだ。

「ヨーコっ! 何をしてるんだ、はしたないっ」

 血相変えてベッドに飛び乗り、シーツを被せようとしたが……あいにくと相手はぴょんぴょん飛び跳ねていて振動でものすごく足場が不安定になっていた。
 もんどりうってひっくり返り、物の見事につっぷしてしまう。

「んぐっ」
「きゃっ?」

 テリーが止める暇もなかった。
 巻き添え食って押し倒されたヨーコのお尻の上に。大々的に解放されちゃったバンビパンツの上に……ばふっと顔面着地。

「…………………………」
「あ、おい、無事かっ!」

 慌ててテリーはランドールを持ち上げた。が、ある意味大惨事。ヨーコは真っ赤になってスカートの裾を押さえて目を潤ませる。

「す、すまない、ヨーコ……」

 くわっと歯をむき出し、涙目で一言。

「カルの……カルのえっち!」
「H?」
「マイアミの主任か?」
「へんたい!」
「HENTAI?」

 その言葉を耳にした瞬間、ランドールの耳元でごわわわわんっとグレース大聖堂の鐘が鳴り響いた……ただし、葬儀の鐘が。

「へんたい………わ、わたしが………へんたい………」
「おい、カル坊?」

 へなへなと床に崩れ落ちると膝をかかえ、背中を丸めてうずくまってしまった。

「へんたい………」
「おーい、しっかりしろー」

 茫然自失のランドールの頭を、ぽふぽふとサリーが撫でていた。
 がっくり落ち込むランドールに向かってなおも言葉の絨毯爆撃を繰り出そうとするヨーコを懸命にディフがなだめる。

「カルもわざとやった訳じゃない。事故だよ、ヨーコ」
「事故でも故意でも関係ないのーっ! これは、これは乙女のプライドの問題なんだからーっ」

 きぃきぃ泣きながら、ぽかぽかと両手で分厚い胸板をたたく。蚊に刺されたほども感じないが、これはこれで何やら心が痛む。

「わかったわかった……気のすむまで殴れ……」
「うーっ、うーっ、うーっ」

 子どもは瞬発力はあるものの持久力に欠ける。体力がないから、疲れるのも早い。じきにヨーコのぽかぽか連打はまばらになって行き、やがてディフにしがみついて顔を埋めてしまった。

「よしよし……」
 
 バンビのパンツは子どもっぽい、わかってるけどお気に入り。
 それを見られたのがはずかしかった。悔しかった。せめてもっと大人っぽいのなら良かったのに!

 ……その辺の微妙な乙女心を理解できる人間は、あいにくとこの場にはいなかった。
 片やHENTAI呼ばわりされたカル坊やはいまだ再起不能続行中。サリーはおろおろしながら2人の間を行ったり来たり。

「参ったな……」
「公園にでも散歩に行くか?」
「そうだな、気分転換させとくか」

 ディフは携帯を取り出し、ヨーコの携帯にあててメールを打った。
 緊急でもないし。せっかくの息抜き中に電話で煩わせることもあるまいと判断したのだ。

『ヨーコご機嫌斜め。気分転換に子どもら連れて公園に散歩に行く』

「これで、よし、と。コート着ろよ? 寒いから」
「OK」

 のそのそと紺色のコートに袖を通すランドールの後ろ姿を見ながら、おや? とディフは首をかしげた。

(何だかこの子に前に会ったことがあるような………まさかな。気のせいだ)

「着たー」
「よーし」

 ちょこまかとかけてゆくと、ヨーコはリビングのソファの上に置いたバッグを手に持った。

「それも持ってくのか?」
「うん。ヨーコおばちゃんから預かっててってゆわれた」
「そうか」

 ごく自然な動作でテリーはデスクの上の小皿に乗せてあったカギを手にとった。

「それじゃ、出かけるか」

 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「あ」
「どうしたんだい、コウイチ」
「うん、マクラウドさんからメールが……先生の携帯に」
「まさか、緊急事態?」
「それだったら電話だろ。ああ、やっぱり」

 画面にさっと目を走らせると風見は顔をほころばせた。

「先生がご機嫌ナナメだから気分転換に公園に散歩に行くってさ」
「公園って、さっき前を通ってきた、あそこかな?」
「多分そうだよ。それにしてもさあ………このメガマック、ちょっとでかすぎないか?」
「アメリカではこれが標準だヨ」

 己の懐具合と相談した結果、近所のマクドナルドにやって来た2人だった。ついつい日本の感覚で頼んでしまったのだが、出てきたのは小さめのホールケーキと見まごうような、うず高く積み上がった肉とパンの塔だったのである。

「せっかくだから写真に撮っとくか……」
「何で日本人ってすぐ撮るのカナ」
「うーん、強いて言うなら、思い出づくり、かな? 過ぎて行く時間の一瞬一瞬を記憶にとどめたいから」
「一瞬を……記憶に」
「うん。ロイ、大きさ比較したいから手、添えてくれよ」
「こう?」
「そうそう……行くよ」

 パシャリ。

(今、ボクはコウイチの時間の一部になっている……)

 自分もこの一瞬をずっと記憶にとどめておきたい。無邪気に写真を撮る風見を見ながら、しあわせを噛みしめるロイだった。

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【ex8-16】ままとテリーとお子様と

2009/02/03 18:59 番外十海
 サリーのアパートに行ったら駐車場で見覚えのある奴と出会った。

「よう、所長さん」

 以前、サリーと一緒に事務所に来たことがある。大学の友人で確か名前は……

「テリーか」
「そう、テリオス・ノースウッド。サリーんとこ行くのか?」
「ああ」

 ごく自然に階段を上って呼び鈴を押したらコウイチとロイが居た。手間が省けた、これならヨーコにも会えるなと思ったんだが。

「ヨーコ先生とサクヤさんは今、おでかけ中です」
「実は、親類が……遊びに来てて、シスコを案内してるんです」

 そいつは残念。ジンジャークッキー焼いたからお裾分け……ってのは大義名分だ。本当はいろいろ話したいことがあったんだけどな。
 留守じゃ仕方ない。また出直すか。

 部屋に居たのはコウイチとロイだけではなかった。男の子が2人に女の子が1人、ちっちゃな子どもがころころ3人。しかも腹をすかせていた。
 で、テリーと一緒にベビーシッターを買って出て、高校生2人を送り出したんだが。
 飯食ったら本来のパワーを取り戻したらしい。
 ちっちゃい子どもってのは動物並みの行動力だ。背中によじ上るわ、髪の毛ひっぱるわ……ほとんどオーレと同レベル。

「カルのえっち! へんたい!」
「ヘンタイ? わたしが………ヘンタイ?」

 挙げ句、ちょいとしたアクシデントが発生し、ちっちゃなヨーコが大むくれ、カル坊やはずどーんと落ちこみ再起不能。ちっちゃなサクヤはおろおろ。実に何って言うか、個性的な子どもたちだ。
 テリーと相談して気分転換に近くの公園に連れ出すことにした。

 公園に着くなり子どもらはころっと機嫌を直してくれた。
 ヨーコは目を輝かせて木に上り、カルはしばらく花壇の花や木を眺めていたと思ったらふっと姿を消しちまった。あわてて探すと、茶色のズボンを履いたちっちゃな尻と茶色のブーツが植え込みの下でもぞもぞ動いていた。

「あいつ、いつの間にっ」

 ズボンのベルトをひっつかんで引きずり出す。髪の毛をくしゃくしゃにしてふくれっつらで見上げてきた。

「じっとしてろ」

 そ知らぬふりして髪の毛や服にくっついた木の枝や枯れ葉を注意深く取り除く。くりくりとくせのある髪の毛をひっぱらないように。上質なコートにかぎ裂きを作らぬように、細心の注意を払って。
 
「よし、全部とれた」
「………ありがとう」
「どういたしまして」

 まだ微妙に不満げだがとにかく礼は言ったか。親御さんがしっかりした躾をしてるんだろうな。

「よーこちゃーん」
「やっほー、サクヤちゃーん」

 その間にちっちゃなヨーコはだいぶ高い所まで上っていた。サクヤが木の幹に手をついて心配そうに見上げている。テリーはさりげなく根元に立って身構えている。万が一落ちそうになったら、いつでも受け止められるように。
 俺の目線を追いかけたか。カル坊やはそっちを見るなり、血相を変えた。

「ヨーコっ! 君と言う人は、レディがスカートで木登りなんてはしたない!」
「だいじょーぶ、慣れてるからー」
「そう言う問題じゃない! 早く降りたまえ!」

 おやおや。中々にいっぱしのことを言うじゃないか、このちっちゃな紳士は。当のレディはまったく気にする風もなく、楽しそうに手なんか振っていらっしゃる。
 ちっちゃなサクヤは相変わらずおどおどしてる。お姉ちゃんにひっついてないと心細いんだろうな。
 
「わー、ゴールデンゲートブリッジが見えるー」
「ヨーコっ!」
「カルも来れば? 気持ちいいよ……っ!」

 はっとヨーコが表情を引き締める。見るとサクヤが声も出さずに硬直し、目の前の草むらを見つめていた。何事かと思えばバッタが一匹、日当りのいい草の上で足をもぞもぞさせている。もしかしてこの子、虫が苦手なのか?
 そう思った瞬間、すたん、と目の前にヨーコが降ってきた……いや、飛び降りてきたと言うべきか?
 首にかけた鈴が澄んだ音をたてる。

「わ」

 素早くバッタをひっつかみ、ぽいっと遠くに投げ捨てると、ぱんぱんと手を払って立ち上がった。

「よーこちゃん………」

 くりっとした目に涙をいっぱいにじませて、サクヤは今にも泣きそうな顔でヨーコにしがみついた。

「もう大丈夫だからね」
「うん……うん……」

 ちっちゃなヨーコはサクヤをだきしめて頭を撫でている。よく見ると、頭を撫でているのはちゃんとさっきバッタをつかんだのとは逆の手なのだった。


「…………………」
「どうした、ディフ?」
「あ、ああ、今、ヨーコがいるような気がして」
「この子だろ? 字ぃ違うけど」
「いや……俺の同級生の方の」
「親戚だから似てるんだろ」
「そうか……そうだな」

 まるっきり、飯作ってるときとは逆のパターンだな……。

「ほんと、こいつら顔もそっくりだよなー。って俺日本人の顔っていまいち見分けつかねぇ」
「ただでさえサリーとヨーコはそっくりだからな。子どもの頃はこんな感じだったんだろう……ほとんど双子だ」

 ちっちゃなヨーコはポケットからティッシュを出してサクヤの涙をふき、鼻をかませている。いかにも慣れた動作だった。
 その姿を見守りつつテリーがしみじみ言った。

「なんだか懐かしいな、以前は毎日こうやってガキどもの面倒みてた」
「……そんな感じがした。兄弟、多いのか?」
「上下あわせて30人ぐらいかな」
「………大家族だな」

 その言葉でそれとなく彼の育った環境を察することができた。

「ああ、両親が物好きなひとでね。もうけっこうな年なんだけど何年かおきに一人里子を連れてくるんだ。育ったら順番に”卒業”してくのさ。だから兄弟がたくさんできた」

 オティアとシエンと暮らすようになってから、里親(フォスターペアレンツ)の実情について知る機会が増えた。自分から情報を集めるようにもなった。
 1人か2人の里子を引き取り、普通に家庭の中で育てる人もいれば、5人から6人の子どもを手元に置いて小規模のグループで育てる人もいる。
 テリーを育てた両親は後者なのだろう。

「すごいな。尊敬に値する」

 テリーと並んで芝生に腰を降ろす。サクヤはバッタがいやしないかとびくびく見回してるので手招きして膝に乗せた。
 ちっぽけなあったかい体がとすんと乗っかってくる。

「……………………俺は……………二人でさえちゃんとこの手で受け止められずにおろおろしてるのにな……」
「そうだなぁ……母さんに言わせると、ダメなことはダメって教える。危険な時だけ叱る。他は何をしてても大丈夫、なんだそうだけどね」
「ダメなことは……ダメ、か」

 軽く拳をにぎって口もとに手を当てる。

「…それが正解なんだろうな……君を見てるとわかるよ。気持ちよくまっすぐに育ってる」
「ああでも、物壊したら自分で修理させられたよ。買い換えが大抵はできないから」
「しっかりしてるな。いいおふくろさんだ」
「ああ、感謝してる。今は卒業生になっちまったから兄貴と住んでるけど、時々ちびどもの顔見にいくんだ」
「卒業、か……」

 サクヤの頭を撫でる。この手の中に今ある小さな温もりも、いつかは離れる。頭では理解していたが、実際に里親の元を巣立った青年が目の前にいるのだと思うと……よりリアルな実感を伴ってひしひしと胸に迫ってくる。
 空っぽになった双子の部屋を思い描いてしまう。

「あの子たちもいつかは卒業するんだろうな……」

 言葉にした瞬間、不覚にも目がうるんだ。慌ててまばたきして紛らわせる。

「あの双子」
「うん?」
「いや。なんかスポーツさせるといいんじゃねぇかな」
「あ……そう言えば……ほとんど体動かしてない……な……休みも家にとじこもりっきりだし……そろそろ野外スケートリンク、始まってたか?」
「やってるよ」
「連れてってみるか。外の空気に当たるだけでもいいし」
「ああ。悩んでる時は身体動かすのが1番だ」
「……うん。ありがとな、テリー」

 背後からよじ上ってる奴がいる。多分、カルだ。ほんと、オーレと同じレベルなんだなあ、ちっちゃい子ってのは。

「……オティアが……な……ここんとこずっと書庫で寝てるんだ……夜。布団と枕を持ち込んで。誰にも見つかりたくないのか。隠れてるのかと思ったんだ……」
「ふぅん、狭いところのほうが落ち着くって子供はいるからなぁ」
「ああ……ちゃんと飼ってる猫が出入りできるようにドアは細く開けてあったし……それに、思い出したんだ」
「何を?」
「書庫は俺も使うって、前にあいつに言った。置いてあるの、ほとんど俺の本なんだ」

 両方の肩からにゅっと茶色いブーツをはいた足が突き出される。片手を添えて体を支えた。髪の毛はひっぱってくれるな、カル。

「………何てぇか、ほとんど気休めってぇか自己満足みたいなもんだが……少なくとも拒まれているのではないって、思うことにした」
「本当に隠れる気なら人のこないところにする」
「そうだな」

 くい、と髪の毛が軽く引っ張られる。首をひねるとヨーコがせっせと手を動かしていた。

「……ヨーコ……俺の髪いじるのそんなに楽しいか?」
「たのしい」

 一心不乱に三つ編みにしてる。器用だなあ……さすが女の子だ。

「なあ、ディフ」
「ん?」
「そんなに心配いらない気がする、それは。ベッドで寝ないのは……」
「うん」
「サクヤがちょっと前に、眠れてないみたいだって言ってたと思うんだが。今はちゃんと寝てるんだろう、部屋移って」
「ああ。眠ってる。何となく今朝は顔色も良かったし……表情も険しさが抜けて……」

 肩の上でもぞもぞ動いていたカルが急に大人しくなった。ヨーコが背後からにゅうっと顔をつきだし、膝の上のサリーもじっとこっちを見上げてくる。

「ここんとこずーっとまとわりついてた暗い影みたいなものが、消えたような気がした」

 ちびさん3人は互いに顔を見合わせ、にこにこ笑ってる。俺の言ってることをどこまで理解してるかもわからないが、えらく嬉しそうだ。
 つられてこっちも笑顔になる。

「ベッドだと眠れないって思い込んでるのかもしれないな。習慣づけってけっこう重要なんだ。特に入眠パターンを決めておいたほうが子供は良く寝る。夜これをしたら寝る時間ってね」
「絵本読んだり…ぬいぐるみかかえたり?」
「ああ。逆もあって、これしたら眠れないって思ったら眠れなくなる」

 シエンが部屋を出た夜、あいつは空っぽのベッドを見て打ちのめされた。

「…………………隣のベッド、見たくないのかもな」

 テリーが首をかしげてる。そうだよな、これじゃ事情が見えない。

「兄弟喧嘩。もう一人の子は今、別の部屋で寝てるんだ」
「それはありそうだ」

 うなずいてる。彼なりに納得してくれたらしい。

「また不眠で悩むようなことがあったら生活パターンをかえたほうがいいかもな」

 ヨーコがてこてことテリーのそばに歩み寄り、とすん、と膝に手をついてのびあがった。

「Good-Boyね。テリー。いいこ、いいこ」
「おう、ありがとよ」

 テリーは手を伸ばし、つやつやの黒髪をなでている。ちっちゃなヨーコはにまっと笑って目を細めた。

「ほんと、いいこ」
「……むー」

 頭の上で小さな声でうなってる奴がいるし。お前ほんっとに焼きもち焼きだね……。そんなに『お姉ちゃん』が他の奴を可愛がってるのがご不満か?
 ぷっと吹き出しそうになるが、木に上ってるヨーコに大まじめに説教たれてた姿を思い出し、こらえた。
 彼は彼なりに真剣なのだ。

「俺の場合、犬躾けるのも大差ないからな! 基本は褒める」
「君は犬の専門家だったなそういえば」
「うん。動物はみんな好きだけど、何って言っても犬がダントツだな」
「……ああ、そうだ。オティアに犬種ごとの性質や行動パターンを実地で覚えさせたいんだ。どこかいい場所、ないかな」
「いろんな犬がたくさん見たいのか?」
「うん。ジャックラッセルとプードルを同じように扱えないってことをね。体で覚えさせた方が早かろうと思ってな」
「じゃあ、ドッグランだな。単純に数だけならペットシェルターみたいなところに行くのもいいけどな。そっちは仕事でも行く機会ありそうだ」
「ああ。行方不明になったペットが保護されてる場合もあるし」

「……捨て犬も増えてるからな……最近」
「そうだな……クリスマスプレゼントにもらったはいいが飼えなくて捨てる奴もいる」
「経済状況が悪くなると最初に切られるのはペットなんだ。たぶん、もうじきもっと増える」

 くしゅんっとサクヤがくしゃみをした。話し込んでる間に空は鉛色の雲に覆われ、風も冷たさを増していた。

「そろそろ帰るか」
「そうだな。こいつらも機嫌直してくれたし……」
「カル、降りるか。それともこのまま帰るか?」
「降りる」

 するりと滑り降りた。やれやれ、やっと肩が軽くなった。
 何か打ち合わせでもしたみたいにヨーコがとことこと寄ってきてサリーと手をつなぐ。もう片方の手はカルと。

「しっかりしてんな。『お姉ちゃん』だ」
「ああ、お姉ちゃんだ」

 立ち上がって服についた葉っぱを軽く払う。帰る前にコウイチに連絡しとくか、と思ったがその前に当人たちがやって来た。

「そーら、お迎えが来たぞ」
「かざみー。ロイー」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 

 その女性はひっそりと立っていた。冬もなおみっしり枝葉を茂らせる常緑樹の木陰に隠れるようにして、子どもを遊ばせる母親たちに混じって。
 いつから彼女がそこに居たのか、だれも気づかなかった。

 寒い日だった。別に彼女が一分の隙もないほどみっしりコートを着込み、まぶかに帽子をかぶっていても、だれも不思議には思わなかった。
 真っ赤なコートに真っ赤な帽子。真っ赤な真っ赤な手袋と靴。
 鮮やかすぎてむしろ毒々しい赤づくし。

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【ex8-17】迷子

2009/02/03 19:04 番外十海
 その頃、日本では。
 蒼太が呪いの解除法を求めて不眠不休でナイトメア『ビビ』の情報を集めていた。
 しかしながらネットでの情報収集だけでははかばかしい成果は得られず、もっとアナログな手段に訴えることにした。すなわち、親戚筋に当たる和尚の元を訪れ、膨大な彼の蔵書へと調査範囲を広げたのである。
 それこそ気の遠くなるほどの外れをつかみ、さすがに気力も尽きかけた頃。ようやく亡き師匠の研究ノートの中に山羊角の魔女『ビビ』の記述を見出した。
 若い頃、アメリカに長期滞在していた師匠は彼の地の妖物にも詳しかったのである。

(BINGO!)

 やっと呪いの解除法の手がかりをつかんだかと思いきや。とある不吉な一文に目が引き寄せられた。

『ビビは三人の姉妹であるとの説がある』
『末の妹は姉二人ほど強く暗闇に呪縛されてはおらず……』
『曇りの日や霧の深い日に赤い外套をまとった女の姿で出現すると伝えられている』

 ぎょっとして持参したノートパソコンを開き、ネットでサンフランシスコの天気を確認する。
 結果、『曇り』

「……南無三!」

 迷わず懐の携帯を引き出して開き、かけた。呼び出しのコール音がやけに間延びして聞こえる。海外にかけるせいか、それとも気が急いているからなのか。

「早く出ろよ……風見……出てくれ……」
「蒼太さん?」
「風見! 用心しろ」

 言い終える前にぷつりと切れた。すぐさまかけ直す。が、答えるのは無機質な録音アナウンスのみ。

『おかけになった電話は電源が入れられていないか、あるいは電波の届かない所に………』

「くそっ!」
 
 
 ※ ※ ※ ※


「風見! よ………」

 蒼太の声がぷつりと切れた。

「あれ。切れちゃった。電波状態悪いのかな、海外だし」

 口ではそう言ったものの、漠然とした不安が胸の中に広がる。池に投げ込んだ小石から広がる波紋のように。

「……急ごう」
「うん」

 足早に公園へと向かう。太陽は分厚い鉛色の雲の後ろに隠れ、だいぶ肌寒くなっていた。
 公園で遊ぶ親子連れは多かったがさすがに男2人が子守りと言うケースは珍しく。すぐにテリーと赤毛の探偵所長は見つかった。

「かざみー。ロイー」
「ヨーコ先生!」

 ほっとして駆け寄る。よかった、やっぱりさっきの嫌な感じは気のせいだったんだ。早くアパートに戻ろう。サクヤさんの部屋に行けば結界もあるし……。ああ、そうだ、蒼太さんにも電話しとかなきゃ。

「よう、戻ったか」
「もっとゆっくりして来ればよかったのに」
「いえ、十分ゆっくりしました」
「お手数おかけしました」
「いや。こっちも有意義な体験させてもらった」
「そう、ですか……」
「いい子にしてたぞ」
「……」

 ちらっとヨーコ先生を見る。そ知らぬ顔で明後日の方角を見ていた。
 あー、なんっかやらかしてるな? ピンと来た風見の脇腹をちょいちょいとロイがつつく。

「コウイチ、所長さんの髪の毛……」
「あ……」

 2人は無言のうちに目を合わせ、全てを察した。

(三つ編みだ)
(やらかしたか……)

「そうだ、忘れないうちにこれ、渡しておく」
「ありがとうございます」

 ディフから紺色のバッグを受け取った。髪の毛は特に気にしていないらしい。サイドからすくいあげた一房を編んでるだけだから当人にしてみればそれほど差は感じないのかもしれないけれど、傍から見れば一目瞭然。
 指摘した方がいいのかな。どうしようかな。

「んじゃ、俺そろそろ帰るわ。サクヤが帰ったらよろしくな」
「俺もおいとまするよ。ヨーコに話したいことがあったんだが……」

 ぽふっとディフは大きな手のひらでヨーコの頭を包み込み、なでた。
 あ、あ、あ、子ども扱いしちゃって……むくれるかな? と思ったが先生は目を細めて素直になでられている。

「何となく、用事は済んだって気がするんだ。2人が帰ったら俺からもよろしく伝えてくれ」
「はい、伝えておきます」

 連れ立って公園を出て、アパートの駐車場でディフとテリーと別れた。
 探偵所長の運転する四輪駆動車が遠ざかり、徒歩で帰って行くテリーの後ろ姿が小さくなった所でヨーコがぽつりと言った。

「オティア、元気になったって」
「そうですか……」
「ヨカッタ」
「うん。よかった」

 昨夜、戦った意味はあるのだ。
 ほんの少し勇気づけられた気がした。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 女は歯をカチカチさせて凝視していた。昼食から戻った風見とロイが子どもたちと合流し、アパートに戻る有様を。

 狼も、電光使いも、神聖な力を帯びた女も今は無力。さて次はどいつに呪いをかけようか……。
 
 
 eye.jpg ※月梨さん画「邪眼」
 

 金色の虹彩に横たわる三日月型の黒い裂け目。山羊の瞳がまばたきもせずに風見とロイを見比べる。
 よし、決めた。あっちの黒髪の奴にしよう。

「マクラウドさん、三つ編みのまんま帰っちゃいましたね」
「別にゴムで留めてある訳じゃなし、そのうちとれるよ」
「かなりきっちり編まれてるようでしたガ?」
「いいじゃん、似合ってるんだから」

 狙われてるともしらず、いい具合に油断している。あの嫌な部屋に入られる前にさっさと片付けてしまおう……。
 
「くしゅんっ」

 サクヤが小さなくしゃみをした。

「寒い?」
「ちょっと」
「部屋、入ろうか」
「うん」

 不意に町のざわめきが遠ざかる。かすかな海鳴り、どこからか聞こえるクリスマスのBGM、通りを走る車の音。全て掻き消え、不自然な沈黙の中に放り込まれる。
 はっと身構えた瞬間。

 ブゥフゥーーーーーーーーーーーウゥ。

 悪い風が吹く。生臭い臭気とともに、断末魔の獣の息にも似た音を立てて。
 とっさにロイは懐から手裏剣を抜き出し、投げた。

 カキン!

 堅い物に当たって弾かれる。
 奇妙に色あせた風景の中、行く手に魔女が立っていた。赤い長衣をなびかせて……。頭上にそそり立つ山羊の角に一筋、今しがた手裏剣の当たったとおぼしき傷が入っている。

「お前は!」

 素早く風見はベルトのホルスターから小太刀を引き抜き、両手に構える。何故、こいつがいるのか。気にしている暇はない。重要なのは今、敵が目の前に居ることだ。

「先生たちは下がって!」
「おのれナイトメア! 真っ昼間に出てくるとはいい度胸でござる!」

 2人の少年は子どもたちを守って前に進み出た。
 どさりと風見の肩からバッグが落ちて地面に転がる。中の神楽鈴がシャラリと鳴った。魔女がわずかに顔をしかめ、後じさった
 その機を逃さず風見が切り掛かる。

「飛燕……十字斬!!」

 鋭気一閃ほとばしり、白光二筋右に下に。十字を描いて切り結び、ぱっと真っ赤な花が散る。
 切ったか? 
 いや、手応えがない。ふわふわと漂っているのは真っ赤なコートだけ……本体は?

 背後で女が笑った。

 しまった、謀られた!

『四つ足のモノになれ。地面を這いずり回れ』

 その言葉は音ではなく直接、脳裏に響いた。背後で禍々しい気配が膨れ上がる。逃げる暇はない。こうなったら、せめて一太刀なりとも浴びせてやる!
 振り向き様斬りつけようとしたそのときだ。

 何かが猛烈な勢いでどんっとぶつかってきた。膝の辺りを強く押され、横向きにつんのめる。同時に禍々しい波動が放たれた。

「きゃんっ!」
「……ランドールさんっ!」

 ちっぽけな狼が、脇腹を真っ黒な稲妻に貫かれていた。衝撃で地面に叩き付けられる。

「ランドールさん、しっかり!」
「ぐ……うぅう」

 けなげにも足を踏ん張って立ち上がり、魔女に向かって牙をむく。喉の奥から低いうなり声が漏れた。

「ちぃっ」

 魔女が忌々しげに舌打ちする。縮んだとは言えやはり天敵。十分驚異になるようだ。

「とふかみえみため」
「とふかみえみため」

 チリン、と鈴が鳴る。ヨーコとサクヤが自分の首にかかった鈴を鳴らして、ぱんっと両手を打ち合わせた。二つの声が一つに重なり、祝詞をとなえる。握り合わせた小さな手のひらからほわっとあたたかな光があふれる。

「かんごんしんそん」
「りこんたけん」

 か弱い二つの光が溶け合い、一つになって輝きを増す。

「はらいたまひきよめいたまう…………ロイ!」
「ハイっ!」

 チリリン。ヨーコが首にかかった鈴を高々と掲げ、ロイに向かって振った。澄んだ音色とともに光の粒が降り注ぎ、彼の体を包み込む。

「行け!」
「了解!」

 ガチガチと魔女が歯がみする。忌々しい、せっかく弱体化させたはずなのに!

「そうか……そうか……わかったぞ。お前ら一緒だからいけないんだ。お前ら、一緒だから強いんだ………だったら……」

 かくっ、かくっと顎をのけぞらせて首を回す。骨張った指が宙を掻きむしり、金色の目が睨みつけてきた。

『さまよい歩け。ただ一人、孤独のうちに。霧に迷う幼子のように怯え、泣きわめくがいい!』

 危ない!
 ロイは夢中で跳んだ。

「コウイチっ」
「ロイ!」

 とっさに風見の腕をつかんだその刹那。

 どろりと不吉な風が吹く。それは風見光一の駆使する清々しい風の刃とは真逆の風だった。毒を運び、草木を枯らせ水を腐らせ、病をまき散らす魔性の風。真っ向から目に吹き込み、視界が遮られた。
 禍々しい風の渦の中、かすかな悲鳴を聞いた。

「先生! サクヤさんっ。ランドールさんっ」

 唐突に静けさが戻ってきた。

「……………先生?」

 魔女の姿は消えていた。
 そしてランドールも。サクヤも。ヨーコも。
 ただ、小さなカルの着ていた衣服だけがそっくり脱げ落ちて散らばっていた。

「そんな………」

 迷子になってしまった。
 自分たちも。
 先生たちも。

 ロイはぎりっと唇を噛んだ。

 あの瞬間、自分は清らかな光に守られていた。だから魔女の呪いも自分とコウイチを引き離すことはできなかったのだろう。
 ………だけど。

(ボクは……ボクは、先生とサクヤさんよりコウイチを優先してしまった)

 もし、離ればなれになっても。一人になっても、自分なら。コウイチなら、己の身を守ることができる。だけど小さくなってしまった先生は。サクヤさんは。
 苦い後悔が胸を噛む。それでも、ロイは思わずにはいられなかった。
 コウイチが無事でよかった、と。彼と離れずにいられて………嬉しいと。

(ボクは何てことをーっ!)

「大丈夫だよ、ロイ」
「コウイチ?」

 風見がぱちりと小太刀をベルトに納め、腕をつかむロイの手のひらに自分の手を重ねてきた。

「きっと見つかるさ。俺の能力、忘れちゃったわけじゃないだろ?」
「……Yes! モチロンだよっ!」

 急いで地面に落ちたバッグと子供服一式を拾い上げる。魔女に投げた手裏剣は近くの立ち木に刺さっていた。こちらも速やかに回収。
 サクヤの部屋に戻ると、携帯に電話がかかってきた。

「あ……蒼太さん」
「無事か! 風見」
「いえ、それが……」

 つとめて手短に、要領よくさっきの襲撃を伝える。電話の向こうでちっと舌打ちしたのが聞こえた。

「すみません」
「いや……向こうのが一枚上手だったってことだな。お前にかけられるはずだった呪いを社長が受けちまったんだな?」
「はい。一度倒れたけれど、起き上がっていました」
「ふむ。意外にタフだな」
「まあ、胸毛も生えてますシ」
「関係あるのか、それ」
「アメリカ的には」
「しかし狼に変身した所に四つ足の呪いをかけられたとなると……厄介だな。事によると、その姿で固定されちまったのかもしれない」
「固定、ですか」
「ああ。おそらく、彼は自力では元に戻れない。呪いが解けるまで、狼のまんまだ」
「そんなっ。狼の姿で迷子だなんて……電話もかけられないし、ケーブルカーにも乗れないじゃないですかっ」
「大丈夫だヨっ! 帰巣本能がある!」
「でもランドールさん箱入り息子だぞ? 今はともかく、子どもの頃は……多分」
「あー。そんな感じだったネ」

 おいおい、お前ら微妙にズレてるぞ。

 電話の向こうの会話を聞きながら蒼太は苦笑した。度胸があるのか、それともただの天然か。いずれにせよただ怯えておろおろしているよりはずっといい。

「とにかく……夜になったら連中はまた襲って来る。それまでに羊子さんたちを見つけるんだ。風見、やれるな?」
「……はい。任せてください」
「ナイトメアがからんでるとなると妨害が入る。心してかかれ」
「ハイ!」
「何かあったら連絡しろ。こっちもわかったら知らせる……以上、通信終了」

 電話を切ると早速、風見はテーブルの上にサンフランシスコの地図を広げた。ポケットから愛用の虎目石のペンデュラム(振り子)を取り出す。
 真実を見通すと言われる褐色の縞模様の石。鏃型にカットされ、銀の鎖がついている。ふと、思い出して夢守りの鈴を一つ取り出し、振り子に着けた。
 鈴と鈴は互いに呼び合い、響き合う。

「最初にだれを探すか……やっぱりサクヤさんかな」
「そうダネ。なんか、こう一番……」

 心配だから。

 同じことを考えたがあえて口には出さない。
 風見は深い呼吸を繰り返すと静かに虎目石のペンデュラムを地図の上に吊り下げた。

(サクヤさん……)

 ふらり、と振り子が揺れる。

(こっちか?)

 揺れる振り子に導かれ、ケーブルカーのラインに沿って南へと降りて行く。しかし、ある程度南下すると振り子の動きが急に頼りないものになった。
 ぐるぐると円を描くばかりで一向に進む気配がない……かと思うと不規則にジグザグを描き、まるで魚のかかった釣り糸みたいにびっくん、びっくんと跳ね上がる。

「くっ」

 やむなく風見は集中を解いた。

「やっぱり妨害されてるな」
「でも南にいるってことはわかったヨ」
「ああ。宛も無く探すよりはいい……次、ヨーコ先生を探さないと」

 ふらり、と視界が揺らぐ。自分でも気づかないうちに消耗していたらしい。

「無理しちゃダメだ、コウイチ。少し休んだ方がいい」
「でも」
「コウイチ」

 青い瞳が見つめてくる。長く伸ばした前髪を透かして、ひたと。

「ヨーコ先生も、きっとそう言う」

 ロイの一言が、すうっと冷たい清水のように染み通った。
 かなわないな。
 その通りだ。

「わかった。ちょっとだけ休むよ」
「OK。コーヒー飲む?」
「うん。もらおうかな」

 かすかにほほ笑むとロイは台所に立った。
 見た所この家にコーヒーメーカーはないようだ。やかんに水を入れて火にかける。「Coffee」と書かれたアルミ缶を開けると、中には小分けになった紙製のドリップパックが入っている。

(カップを出さないと)

 食器棚からそろいの白いカップを取り出してはたと気づく。朝、ミルクを飲むときはカップを5つ出した。けれど今は2つ。

(今、ボクはコウイチと2人っきりなんだ!)

 一度意識しちゃったらもう止まらない。ぱきーんと全身がこわばり、かくかくと指が震え始める。
 カシャン。

「あ」

 白いカップが一つ、床に落ちて割れていた。

「ロイ、大丈夫かっ」
「だ、だ、大丈夫、ノープロブレムっ」

 恥ずかしさと動揺でぎくしゃくした動きで手を伸ばす。ささっさささっと目にも留まらぬニンジャアクションで割れたカップの欠片を拾い集めて袋にまとめ、捨てようとすると。

「待つんだ、ロイ」

 ぎゅっと手首を握られた。

「えっ、コウイチ?」

 心臓が限界まで膨れ上がり、一瞬で収縮する。送り出された大量の血液がどーんと脳天までこみ上げて、顔の温度を上昇させる。

「捨てちゃいけない。サクヤさん、自分で直せるから」
「あ……そ、そうだね、そうだったネ」

 かくかくとうなずき、そっと台所の片隅に袋を置いた。

(サクヤさん、ごめんなさい……。後で新しいカップを返しマス!)

「ロイ、やかんが噴いてる」
「おおっと!」

 改めて取り出したカップを二つ並べ、ドリップパックを開いて載せる。おそろいでなくなってしまったのがちょっぴり寂しかった。
 注意深くお湯を注ぐ。香ばしいコーヒーの香りが広がり、アパートの中を満たして行く。

「いいにおいだな……何だかほっとする」
「うん……ほっとするね………牛乳入れる?」
「そうだな。ちょっとだけ」

 慎重に入れたコーヒーをひとくち含むと、風見は微笑み、小さくうなずいた。

「うん、美味いよ。ロイ、コーヒー入れるの上手いな」
「そ、そ、そ、そうかなっ」
「こう言うのって、お茶と同じでお湯の注ぎ方とかタイミングで微妙に変わってくるだろ? 上手いよ、ロイ」

 その一言で一気に気力体力MAXまで回復するロイだった。

 
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【ex8-18】拾われて

2009/02/03 19:06 番外十海
 ばらばらになったちみっこ3人。
 必死で探す高校生2人。

記事リスト

サリー編

2009/02/03 19:07 番外十海
 エドワード・エヴェン・エドワーズはクリスマスにあまり縁のない男だった。

 両親は既に亡く、アメリカ国内には親類もいない。
 クリスマスらしいイベントと言えばせいぜい英国の親類縁者とカードをやりとりするぐらいだ。
 警察のOB会のクリスマス会合なんてものもあるのだが、最初の一年目にちらりと顔を出しただけで後の二年は欠席。今年で四年目になる。
 時に友人や元の上司から招待を受けることもあったが、その都度控えめに、丁寧に辞退するのが常だった。
 クリスマスは家族と過ごすもの。自分ごときが顔を出して水をさすのも申し訳ない……なぞと言うのは大義名分、本当は単に出不精なだけなのだ。

 少なくとも自分ではそう思っている。
 この季節に常に彼が家を離れない事を見越して留守番をする猫の世話を頼んで行く友人も多い。もちろん、二つ返事で引き受けた。

 もっとも客商売を営んでいる以上、全くクリスマスらしい装飾をしない訳にも行かない。
 かと言って派手な電飾をちかちかピカピカさせるのはどうにも性に合わず、結局、毎年庭の柊を使ってシンプルなリースを作ってドアに飾ることにしている。
 そんな彼の店にもクリスマスの贈り物を買い求めに訪れる人がいる。ウェブショップにも。実店舗にも。
 そしてこの季節はまた、大事にしてきた古い本の装丁の直しを頼まれることも少なくなかった。

 ぼろぼろになってしまった大切な本を、新しく装丁し直してプレゼントに……と言う訳だ。一度引き受けて喜ばれたので控えめに張り紙とホームページでアピールしてみたところ案外好評で。
 このサービスはエドワーズ古書店の新たな目玉商品になりつつあった。
 今日は子ども用の絵本を手がけた。表紙がすり切れ、ページがばらばらになるほど繰り返し読まれた絵本はエドワーズの手で新たな装丁を施され、世界に一冊だけの本に生まれ変わった。

『ありがとうございます。あの人、喜ぶわ』

 依頼主は頬を薔薇色にしてほほ笑んで、仕上がった絵本を大事そうに胸に抱えて帰っていった。
 きっとあの絵本はクリスマスツリーの根元にそっと置かれて、25日の朝を待つのだろう。舌の奥にかすかに、母の焼いてくれたミンスミートパイの味を思い出す。
 イギリス生まれの彼にとって、たっぷりのドライフルーツとスパイスをふんだんに使ったこのパイはクリスマスに欠かせない食べ物だったのである。
 さすがに自分で作ることはできないし、今は作ってくれる人もいない。今日は店を早じまいにして近所の店に買いに行こうか……。
 
 ふにっと手首に冷たい鼻が押し付けられた。白い体に足と耳の先、そして尻尾がカフェオレ色。ほっそりした青い目の猫がカウンターに腰掛け、首をかしげている。リズだ。現実に戻り顔を上げると、カウンターの前にひょろりとした黒髪の男が立っていた。

「Mr.エドワーズ?」

 おっと。お客さんだ。
 先日仕入れたばかりの日本のペーパーバックが売れた。

「よいクリスマスを」
「あなたも。マックスとレオンにもよろしくお伝えください。オーレとMr.セーブルにも」
「ああ、伝えとくよ」
「にゃ」

 常連客のひょろながい後ろ姿を見送ってから、コートに袖を通した。

「少し出かけてくるよ、リズ」
「みゅ」

 ドアに『外出中』の札を下げ、カギをかけて外に出た。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 くるくる翻る赤と緑、柊のリース、赤い実のリース、もみの木のリース、松ぼっくりのリース、蔦のリース、葉っぱのリース、その他もっとたくさん。サンタクロースにトナカイ、金色の星。聖なる日を祝う種々の装飾と音楽。
 柄にもなくクリスマスのにぎやかさに浮かれたか、あるいは人恋しかったのか。いつもは滅多に立ち寄らないスーパーマーケットまで来てしまった。
 冷凍のパイ皮と、できあいのミンスミート(スパイスとドライフルーツを合わせて砂糖で煮込んだもの)を使えば自分でも焼けるかもしれない。
 そんなことを考えてしまったもんだから、つい、完成品ではなく材料レベルで買ってしまった。
 会計をすませてから、本当にできるのかと少しばかり不安になったが、大丈夫だ。箱に書いてある説明書き通りに実行すれば、できるはずだ……理論上は。
 万が一失敗したところで食べるのは自分一人なのだから。
 よし、問題ないな。

 ペット用品売り場でリズのために小エビ入りのキャットフードを買い求め、リカーショップでいつも飲んでいるのより少し高めのワインを買う。

 スーパーを出てずっしり重たい買い物袋を抱えて家へと向かった。心無しか、早くも道の両脇の商店のイルミネーションが輝きを増してきた。
 曇っているせいだろうか。今日は暗くなるのが早いかもしれない。

 にぎやかなメインストリートから一本横に入り、もの静かな一角……自分のテリトリーにさしかかる。ほっとして肩の力を抜く。意識していたつもりはないが、やはり緊張していたらしい。
 気がゆるんだ瞬間。

「う……」

 正面から吹き付ける風に一瞬息が詰まる。
 何だ、これは……? 生臭い、胸の悪くなるような臭いだ。明らかに有機物由来の。

 警官時代の記憶が脳裏に閃く。普通の人間には馴染みが薄いがあの頃の自分はほぼ日常的に触れていた臭い……かつて命のあった生物の体が腐敗し、崩壊して行くときに発するにおい。
 まさか。

 ぶるっと頭をゆすり、不吉な考えをふるい落とす。その拍子に小エビ入りの缶詰が袋からこぼれ落ち、コロコロと転がって行く。

「おっと」

 いけない、リズのごちそうが。
 追いかけて、さらに細い路地へと入り込む。小さな金色の缶詰はころころころころ転がって……小さな靴にぶつかり、ようやく止まった。
 
「……え?」

 小さな靴、小さな足、小さな体、小さな顔。
 茶色のチェックのズボンにダッフルコートを着た子どもがうずくまっていた。つるりとした象牙色の肌になめらかな黒い髪。東洋系か? 年は5つか6つと言うところだろうか。
 全体的に線が細くきゃしゃな体つき。黒目の大きなくりっとした瞳。可愛らしい顔立ちだ。女の子……だろうか。
 いや、見た目で決めつけるのは性急だ。ここは慎重に。
 内勤巡査時代に迷子の対応では慣れている。おだやかな低い声で話しかけた。

「君……どうしたんだい」

 子どもは顔を上げ、じいっとこっちを見て、ぱちぱちとまばたきした。

「あ……」

 堅く引き結ばれていた口元がやわらぎ、こわばっていた肩から力が抜けて行くのがわかった。どうやら第一関門はクリアしたようだ。

「やあ、こんにちは。おじさんはエドワーズ。君は?」
「………サク………」
「サク?」

 あわててサクヤは一旦口をつぐんだ。いけない、いけない、またうかつに本名を名乗ってしまうところだった。

「さ、サクラ」

 とっさに母親の名前を口にする。ああ、一文字しか違ってない!

「きれいだね。日本の名前かな?」
「う、うん」
「そうか。おじさんの友達にも日本の人がいるんだよ」

(それ、よく知ってます)

「違っていたらごめん。もしかして、君、迷子になっちゃったのかな?」

 こくっとうなずく。

 魔女の巻き起こした風に巻き込まれ、ぐるぐると振り回された。上も下も分からない空間の中でもがき、苦しみ、必死になって抜け出そうと暴れた。
 渾身の力で電撃を放ち、やっと抜け出せたと思ったらアパートから遠く離れた場所まで飛ばされていたのだ。
 周りは知らない人ばかり。子どもの視点から見上げるサンフランシスコの町はまるで別世界で、自分がどこにいるかもよくわかならい。
 自分のアパートに帰るにはケーブルカーに乗らなければいけないことだけは覚えていた。でもどっちに行けばいいんだろう?

 そもそも一人では乗れない。それどころか気をつけなければすぐに迷子として警察に『保護』されてしまう。そうなったら動けない。

「よーこちゃん……よーこちゃん……」

 よろよろと街角をさまよう。知っているはずなのに知らない場所を、あてもなく。
 怖い。
 寒い。
 手足が重い。

「よーこちゃん……」

 ぴりぴりと服の表面が毛羽立ち、髪の毛がふわっとふくらんでいる。
 ほんのわずかな量ではあったけれど、サクヤは無意識のうちに放電し続けていた。緊張と不安と拭いきれない恐怖のせいで能力がコントロールできなくなっていたのだ。
 寒さと疲れですっかり消耗し、へたりこんでいる所に、あの人が来た。
 それは、ずっとサクヤが名前を呼んでいた人ではなかったけれど………同じくらい、安心できる相手だった。

 輝く金色の髪とライムグリーンの瞳。おだやかな声、おだやかな表情。コートを着ている姿は初めて見た。と、言うかこの人が外を歩いている姿を見るのって夏以来なんじゃないだろうか。
 いつも会うときは病院か、エドワーズ古書店の店の中だから。
 屋外と部屋の中とでは、微妙に瞳のグリーンの色合いが違うんだ……。

(エドワーズさん)
 
「そうか。やっぱり君、迷子になっちゃったのか」

 どうする。ここは寒く、この子は凍えている。警察を呼ぶにしろ、パトカーが迎えに来るまでの間、もっと温かい場所に居た方がいいだろう。

「おじさんの家に来るかい? ここよりあったかいし、猫もいる。ポリスマンに電話して、お家の人に迎えに来てもらおう」
「…………うん」
「おいで」

 手を差し出すと、おずおずとすがりつくようにして握ってきた。小さな手と触れ合った瞬間。

「あっ」
「うわっ」

 かすかな衝撃とともにぱちっと青白い火花が散った。静電気か?

「ご、ごめんなさい」
「大丈夫だよ。今日は空気が乾燥しているからね……行こうか、サクヤ」
「え?」
「あ、いや、す、すまない……知ってる人に似てる名前だから……ま、まちがえてしまったんだ、うん」

 何故だろう。この子の顔を見た瞬間、サリー先生と会ったような気がしたのだ。
 サクラの手を引いて歩き出す。ここから自分の店までは、ほんの目と鼻の先だ。

「ついたよ。ここだ」

 ドアのカギを開け、『外出中』の札をひっくり返して『OPEN』に戻す。店の中に入るとサクラはほっと安堵の息をついた。

「にゃーっ」

 尻尾を高々とと上げてリズが駆けてくる。もともとお客には愛想のいい猫だが、今日は格別だ。

「にゃっ? にゃっ? にゃっ?」

 しきりにサクラに話しかけながらすりすりと足の間をすり抜けている。サクラはちょっと困ったような顔をしてしゃがみこむと手を伸ばした。

 ぱちっ!

「んにゃっ」

 全身の毛をもわもわに逆立ててリズが飛び上がる。珍しいものを見てしまった。滅多に動揺しない猫なのだ。

「あ……ご、ごめんね」
「静電気か。大丈夫だよ、冬にはよくあることだからね。しばらくリズの相手をしていてくれるかい?」
「うん」

 素直な子だ。リズとも気が合うらしい。今のうちに電話をかけておこう。携帯を取り出し、開いた。

「おや?」

 電源が落ちている。変だな、スイッチを切った覚えはないのに。改めて再起動を試みるが、うんともスンとも言わない。
 もしかして、さっきの静電気か? 精密機械はデリケートだからな……。苦笑しつつ固定電話に手を伸ばす。

 ばちっ!

「うわっ」

 どうやら、自分もかなり静電気をためこんでいたらしい。まさか、と思ったが、やはり……電源が落ちている。
 参ったな。文明の利器とは便利なようで不便なものだ。たかだか静電気で通信不能になるとは。
 ふと思い立ってパソコンに手を伸ばす。多少は時間がかかるかもしれないが、メールを送ろう。さっきあれだけ放電したんだ、もう大丈夫だろうから……。

 ばっちん!

「………………………」

 まだ、残っていたらしい。そして当然のことながらパソコンも沈黙してしまった。考えてみればこれが一番、静電気には弱い機械なのだった。
 さて、困ったぞ。こうなったら自分が直接、最寄りの分署にこの子を送って行くしかなさそうだ。
 だが、その前に……何かあったかいものを与えておこう。ここに来るまでの間、握っていたあの子の手は冷えきっていたから。

 サクラはリズをしっかり抱きしめて、白い毛皮に顔をうずめている。外を車が通り過ぎたり、風で看板や窓がガタンと鳴るたびにびくっとすくみあがっている。
 かわいそうに、親とはぐれて心細くてたまらないのだ。それとも、何かよほど怖い目にあったのだろうか。
 ただの迷子ならいいんだが……。

 キッチンに行き、ミルクを小鍋に入れてあたためる。沸騰させないように注意しながら弱火でとろとろと。母のレシピを思い出し、砂糖を少しとナツメグを入れて、また蒸らす。
 世話好きの友人が持ってきたジンジャークッキーを数枚小皿にとり、カップに注いだミルクと一緒にトレイに載せた。

「サクラ」
「…………」
「サクラ?」
「あ、は、はい」
「これを飲みなさい。あったまるよ。クッキーもある」
「ありがとうございます……いただきます」

 礼儀正しい子だ。親御さんがしっかりと教育しているのだろう。どんなにか心配していることだろう……早く会わせてあげたい。

「食べ終わったら、一緒に警察に行こう。お家の人も、君を探しているだろうし」

(探してるだろうなあ。風見くんも、ロイも……よーこちゃんも)

「心配ないよ。警察にはおじさんのお友達がいるからね。きっと君の力になってくれる」

 こくっとうなずき、ミルクを口に含んだ。

「あったかい……」

 冷えきった体に、よい香りのする甘いミルクがしみ込んで行く。体に残っていた、怖くてつらくて寒かった記憶が少しずつ和らいで行く。

「ふぁ……」

 いけない……また眠くなってきた……力、使い過ぎたかな。ちっちゃい子の体って、どうしてこんなにすぐ眠くなるんだろう。不便だな。
 このままだとエドワーズさんに迷惑をかけてしまう。隙を見て抜け出した方がいいんだろうか。それともいっそ警察に保護されちゃおうか。
 ……いや、だめだ。
 魔女はどこまでも追いかけてくる。人間の作った秩序や建物の壁などおかまい無しに。

 やはり、こっそり抜け出した方がよさそうだ。ああ、でも……力が抜ける。ちょっとだけ、休んで行こう。
 ほんの少しだけ……。

「サクラ?」

 おやおや。カウンターに突っ伏したまま眠っている。よほど疲れていたのだろう。起こすのにはしのびない。署に連れて行くのはもう少し後にしよう。
 すやすやと眠るサクラを抱き上げた。奥のソフアに寝かせ、ブランケットでくるむ。リズがもそっと中にもぐりこんだ。

「しばらくこの子を頼んだよ、リズ」
「にゃう」

 窓の外は刻一刻と暗くなり、青くかすむ夕闇の中、クリスマスのイルミネーションがちかちかと瞬き始める。電飾も仕込んでいない、柊の枝と赤いリボンだけで作ったリースはかなり寂しげに見えることだろう。

 さて……電話が使えるかどうかもう一度確かめてみるとしようか。それにしても本当に不便だな。電化製品が使えなくなった、ただそれだけのことで、連絡手段が全て断たれてしまうなんて。おまけに近所の家は軒並みクリスマス休暇で留守と来ている。電話を借りに行くこともできやしない。
 一番近い公衆電話は4ブロックも先だ……携帯が普及して以来、めっきり数が減ってしまった。
 困ったもんだ。
 またMr.メイリールあたりがふらっと立ち寄ってくれないだろうか?
 
 その時になって初めて買ってきた食料品を出しっ放しにしていたことに気づく。やれやれ、根本的に料理に向いてないようだ、自分は。
 苦笑しながら買い物袋を持ち上げた。

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カル編

2009/02/03 19:08 番外十海
 サクヤのアパートを出た後、テリーはぶらぶらと所在なげに近所をぶらついていた。

 久しぶりにちっちゃい子と遊ぶのは、大変だが楽しかった。しかし名前が同じだと顔や性格も似てくるのかな。それと、あの青い目のちび……こっちをにらんでたなあ。
 嫌われたわけじゃなさそうだが、何が気に食わなかったんだろう。

 さて、これからどうしたもんか。兄貴は恋人とクリスマスのデート、帰った所で今日は一人だ。
 帰る前に軽く何か食ってくか? ……だったら学校近くの店がいい。学生相手だから安くて量も多い。
 そんなことを考えながら歩いていると。

「きゃいんっ」
「ん?」

 犬だ。それも子犬の悲鳴。きょろきょろと見回すと、道ばたのゴミ捨て場に転がる段ボール箱の一つがもぞもぞ動いている。
 近づくと、にゅっと短い鼻面がつきだされた。
 やっぱり子犬だ。体毛は黒っぽい灰色、ピンとたった大きな耳、がっしり太い足に尻尾。シェパードかハスキー犬だろうか?

「くぅうん……」

 箱のふちに前足をかけて見上げてくる。濃いネイビーブルーの瞳いっぱいに嬉しさをにじませて。

「お前、迷子か? それとも捨て犬か?」

 膝をついてそっと下から手をさしのべる。顔を寄せてぺろぺろなめてきた。人懐っこいやつだ。用心しながら触れてみる。顎、背中、そして頭。
 ……よし、警戒しないな。
 首輪はないがネックレスを下げていた。長めのチェーンの先端に十字架と銀色の鈴、そして奇妙な形の青いアクセサリーと金色の鈴が下がっている。こっちの鈴は、何となく見覚えがあるな。どこで見たんだっけ。
 とにかく、こんなものを身につけてるってことは飼い犬らしい。注意深く全身を調べる。脇腹の毛が一カ所、チリチリにこげて堅くなっている。触れると「きゃん!」と鳴いてすくみあがった。

「おっと、ごめんよ。火傷かな」

 そっと抱き上げる。傷に触れないよう、細心の注意を払って。

「運がいいな。俺、獣医なんだ……まだ見習いだけどな」

 子犬は尻尾をふって顔をなめてきた。本当に人懐っこいやつだ。もし捨て犬だったら……飼い主は容赦しねえ。絶対に、シメる!

「待ってろ。すぐ手当してやるからな」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 クリスマス休暇中の大学は人も少なく、がらんとしている。
 幸い、拾った子犬の火傷は軽そうだ。これぐらいなら、動物病院まで行かなくても研究室で十分手当できそうだ。
 カギを開けて中に入る。

 片手に抱えたもこもこの体をそっと台の上に降ろした。

「じっとしてろよ。すぐすむからな?」

 むにっと唇をめくりあげると予想外に鋭い歯が現れた。頑丈な顎にがっつり根を張って、根元は太く、先端は尖っている。子犬のくせに何て立派な牙だ。まるで、犬と言うよりは……。
 はっと気づいて全身の骨格を確かめる。胸、頭の形、背骨、足。ついでに尻尾を持ち上げてお尻の穴をチェックしようとしたら……

「きゃうんっ!」
「あ、こら、暴れるな」

 いきなり後足で蹴ってきたので断念。
 仕方が無いので肉球を調べてみる。傷は、無し。腫れてもいない。もう片方もOK。続いて左右の前足も異常なし。
 まぶたをめくって充血していないかどうか確かめて、仕上げに耳の中をチェックする。うん、申し分のない健康体だ。

 だが、こいつは……。

「お前、もしかして狼?」
「きゅ?」

 ちょこん、と首をかしげて無邪気な目で見上げてくる。尻尾をぱたぱたと左右に振って。

「………まさかな。ウルフドッグだよな。うん、そうに決まってる」
「くぅうん」

 ウルフドッグ。狼と犬の交配種でペットとして飼育するのは普通の犬より困難だ。運動能力がとんでもなく優れていて知能も高い。
 忠誠心が高いことで知られるがその反面野生の本能も強く、飼い主がリーダーシップをとってびしっと監督しなければ御するのは容易ではない。
 サンフランシスコのような都会で飼うにはあまり向いていない犬種だ。

 狼に憧れて飼ってみたのは良いが、躾に手こずって捨てたのだろうか。
 
「よしよし……心配すんな。お前の面倒は俺が見てやる」
「きゅっ」

 お湯でしぼったタオルで全身を軽く拭き、脇腹のこげた毛をはさみでちょきちょきとカットする。
 体毛がみっしり生えていて、やせ形ではあるが筋肉がしっかりついているのがわかる。かなり狼の血が濃そうだ。
 傷の方は軽い火傷ってとこか。ヒーターにでも触ったかな。消毒し、薬を塗って、上からワセリンで軽く保護する。
 包帯は……いいか。
 活発そうなちびだ。きっとすぐとれてしまう。絆創膏はかえってストレスになりそうだし。

「ほい、これでおしまい。よくがんばったな、ちび」

 ごほうび用のクッキーを取り出し、顔の前にかかげる。何も言わないうちにきちっと座った。それなりにきちんと躾られているらしい。
 やっぱり迷子か?

「OK。食べていいぞ」

 わっさわっさと尻尾を振ってこりこり食べている。あっと言う間にたいらげて、『もっと』って顔して見上げてきた。

「だーめ。食いすぎると胴体にくびれがなくなっちまうぞ? いいのか? 狼の子孫」
「きゅーううううう」

 ころんとひっくり返してうりうり、となで回しながら考える。
 今日は土曜日。アニマルポリスもペットシェルターももう閉まっている時刻だ。病院に預けて行こうかとも思ったが、この時期は旅行で留守にする飼い主から預かるペットがたくさん来ているはずだ。

 ごそごそと戸棚をひっかきまわし、パピー用のフードを取り出して鞄に入れる。手作りしてやってもいいがこの年頃の子犬の栄養管理は難しい。
 総合栄養食が一番安心できる。

「よし、来い、ちびウルフ。今夜は俺んとこにお泊まりだ」

 両手で抱き上げ、懐につっこんだ。ジャケットの襟元から顔を出し、ちょこんと前足をかけて体を支えている。
 頭をなでるとビロードのような耳がぱたぱたと動き、ジャケットの中で太い尻尾がもぞもぞと揺れた。

 何となく嬉しかった。今夜は一人ぼっちじゃない。

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風見&ロイ編

2009/02/03 19:10 番外十海
 明日はイブ。ユニオン・ストリートはいつになくごった返している。クリスマスの贈り物、あるいはパーティーのごちそう、装うための服やアクセサリーを買い求める人々が、ゆるやかな波となり、あるいは動く壁となり流れて行く。
 目的を定めて一目散に、あるいは道すがら目に入るものを楽しむようにしてゆったりと。

 大手デパートの壁面には一面、クリスマスのイルミネーションがきらめいていた。リボンの着いたベル、星、十字架、サンタクロースにトナカイ。おなじみのモチーフを点滅するライトが次々に描き出す。
 そして、広場には巨大なクリスマスツリーがそびえていた。木の先端は二階建ての家の屋根に届くのではなかろうか。ここまでのサイズには日本ではなかなかお目にかかれない。

 ロイ・アーバンシュタインは雑踏の中に立ち、背筋を伸ばした。
 本来なら座禅を組みたいところだがさすがにそれは目立つ。目を閉じて、精神をとぎすまし……普段は眠らせているもう一つの感覚を呼び覚ます。

 探すのは子どもの声。
 不安に震え、泣いている声。

 周囲を行き交う人や物の発する音、クリスマスのBGM、車のエンジン音、クラクション、ケーブルカーの音。耳に入る音が、分厚い壁を一枚通したように鋭さを失い、拡散する。
 本当は急ぎたい。だが焦りは心を曇らせる。海原に釣り糸を流すようにゆるりと感覚の波を広げた。

 風見はすぐ隣に立ち、油断なく辺りに目を配り耳をすませる。空は厚い雲に閉ざされている。いつ、また魔女が襲ってくるかわからない。
 視界の中にちらりと走る赤い色に身を堅くする。

「ホーッホッホッホ、メリー・クリスマス!」

 ……なんだ、サンタクロースか。考えてみれば今、この界隈に流れているクリスマスソングのうちほとんどはもともと賛美歌だ。クリスマスの飾り付けのモチーフで十字架もたくさんかかっている。ビビの苦手とするものが今、町の中にあふれているのだ。

 どれほどの効果があるのかわからないけれど。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 090128_1220~01.JPG ※月梨さん画「探索者2人」
 
 
 2人は互いの能力を合わせていなくなった3人の子どもたちを探していた。
 風見がまず、ダウジングで大まかな位置を割り出す。魔女の妨害のせいで詳しい場所はわからないが、それでもおよその検討はつく。
 後はロイが頼りだ。少しずつ探査を繰り返しながら移動して行く。

 移動にはレンタルサイクル(アメリカではレンタルバイクと言う呼び方が一般的だった)を使った。フィッシャーマンズ・ワーフの近くで自転車を一台ずつ。レンタル料は24時間で28ドル。
 ほとんどの利用客がゴールデンゲートブリッジを目指す中、2人は市内に向かった。

 途中で日本の蒼太からメールが送られてきた。呪いの解除法をリストにしてくれたのだ。自転車を止め、2人で風見の携帯をのぞきこむ。
 寄せ合う顔の近さにロイの心臓は否が応でも高鳴ったが……多大な努力を払って意識をメールに向けた。

 解除法候補、その一。『熱い鉄に触れる』

「……火傷しちゃうよ」

 その二、『鉄のナイフで指先から血を流させる』

「小太刀でもいいのかな」
「これも痛そうだネ」

 その三、『海の水を浴びる』

「この季節はつらいだろうな……」
「でも海辺の町でよかったよ。内陸部だったらと思うト」

 その四、『月の光を浴びる』

「これは、夜になれば試せるね」
「偶然浴びることもありそうだネ。でも……」

 夜は魔女の活動時間でもある。呪いが解けるのと、魔女が襲って来るの、どちらが早いだろう?

 その五、『王子様のキス』

「アメリカのどこに王子がいると……」
「いきなりハードル高くなったなあ」
「どこかの王子様が留学してたりしないカナ。カリフォルニア大学あたりに」

 以下、『教会の祭壇に触れる』『トネリコの樹液を額に塗る』『四葉のクローバーに触れる』。
 一通りの条件の後、末尾に備考が添えられていた。

『複合条件も有り。とにかくできそうなものを片っ端から試してみろ』

「一気に条件が増えたネ」
「……がんばろう」

 何はなくとも本人を見つけ出さないことには始まらない。
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
「……あ」

 ぴくっとロイが顔を上げ、耳をすました。

「どうした、ロイ」
「ちっちゃな子が……泣いてる」
「よし、行ってみよう」
「こっちだヨ」

 駐輪所に自転車を止め、ショッピングセンターの中に入った。

「ママーッ!」

 確かに子どもが泣いていた。ショッピングセンターの雑踏の中で途方に暮れて。褐色の肌にくりくりにカールした黒い髪の女の子。

 また、別の子だった。これで何人目だろう?

 なだめすかして店のサービスカウンターに連れて行き、迎えに来たその子の両親にはとてもとても感謝された。
 しっかりと父親の腕に抱かれて帰って行く道すがら、女の子はまだ赤い目でこっちを振り返り、ほてほてと手を振った。
 ほっとして笑みを返して手を振った。

 探し人ではなかったけれど、無駄ではなかった。
 
「なあ……ロイ」
「何だい、コウイチ?」
「サクヤさんが今、泣いてるとしたら、『よーこちゃん』だよ、な」
「そうだネ」
「ランドールさんなら、『ママ』……あ、でも今は『くぅ〜ん』、か」
「子狼だからネ」
「でも、ヨーコ先生は…………だれを呼ぶんだろう」
「あ………」

 ちょっと、想像がつかない。あの人はチームの中で最も戦歴の長いハンターで、ちっちゃくなってさえ『お姉ちゃん』だった。
 
 09128_238_Ed.JPG ※月梨さん画「お姉ちゃんだから」
 
 一人になっても歯を食いしばって歩いてるんだろうか……。

「コウイチ」
「何だい、ロイ?」
「このまんまじゃボクら、シスコ中の迷子をお助けしてしまうヨ」
「あー、そうだね……」
「到底、日没までには間に合わない。だから……」

 ロイはポケットから携帯を取り出し、軽くゆすった。ストラップの先端で金色の鈴がちりん、と鳴った。

「ターゲットを『これ』に絞ろうと思うんだ」
「あ………あ……あーっ!」

 ぺちっと風見は己の額を叩いた。

「そうだ。そうだよ、何のために『夢守の鈴』を持たせたんだっ! うっかりしてたーっ」
「Calm down,落ち着いて、コウイチ!」

 頭を抱えておろおろする風見の背中をぱふぱふとロイが叩く。

「鈴を持たせてあったからこそ、ここまで捜査範囲が絞り込めたのかもしれないしっ」
「そ、そうかな」
「ソウダヨ! きっと! 次からは鈴を探す。さっきよりずっと精度が上がるはずだ。きっと見つかるよ」

 そうだ。まだ遅くはない。目標が定まったことで新たな気力がわいてくる。

「……行こう」
「うん」

 自転車にまたがり、ふたたび走り出す。上り坂はきつい。だが、ペダルにこめる力を緩めるつもりはなかった。

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ヨーコ編

2009/02/03 19:12 番外十海
 十字路には魔が潜むと言う。
 かつて偉大なギタリストが悪魔との契約と引き換えに比類なきギターの腕を得たとか何とかそんな伝説もあるくらいだ。
 
 クリスマスを二日後に控えた十二月の夕方、ストックトン通り(Stockton.St)の交差点で俺が出くわした『魔』はちっちゃな女の子の姿をしていた。
 しかもそいつは皮肉なことに俺が密かに『魔女』と呼んでる同級生と同じ名前だったんだ。
 こいつをただの偶然で片付けちまっていいものなんだろうか?

 その日、行き着けの古本屋で珍しい物を見つけた。見慣れない絵柄の表紙だったが描かれてるのはおなじみの奴だった。
 まるまる太ったグリフィン、名前はフィフニア、趣味は火を吹くこと、食べる事、そして昼寝……「オオブタクサの呪い」のペーパーバック、しかも日本語版。読めやしないがついコレクター魂がうずいてお買い上げした。
 看板猫と店主に挨拶して店を出る。

「よいクリスマスを」
「あなたも。マックスとレオンにもよろしくお伝えください。オーレとMr.セーブルにも」
「ああ、伝えとくよ」
「にゃ」

 その後、何ぞよきものはないかとシスコの町をぶらつき行き着けのリンゴ印のコンピューターストアにまで足をのばした。
 9月に発売されたばかりの色鮮やかなアルミ筐体の携帯音楽プレイヤーなんか物色してみたりして。

『あなたの親しい方に音楽を贈りませんか?』
『無料でお好きなメッセージやお名前を刻印します』

 薄いし平べったいし機能的、初期型の発売当初に比べりゃ価格もお手頃になってきた。あいつの好きそうな色もある。この際、売り手の販売戦略に乗ってみるのも一つの手か。
 あいつ音楽、聞くのかな。
 あれば聞くかもしれないな。
 そーいやオーディオブックも読めるんだっけ、これ……どうかな。それとも携帯ゲーム機のが向いてるか? 料理のレシピソフトも出ていたし。

 ……。
 この期に及んで俺はまだ、シエンにもいい顔しようとしてるのか。悩んだ挙げ句結局、手ぶらで店を出て、メトロの降り口から吐き出された人並みをやり過ごす。
 歩きで帰るか、それともケーブルカーにしようか、どーすっかなあ……。
 ぼんやりしながら胸ポケットから煙草を一本引き抜き、くわえて。ライターを取り出そうとしたそのときだ。

「こらっ」

 ぺちっと手の甲をひっぱたかれた。ちっぽけな手、力は大してこもっちゃいない。だが痛みがどうとか言うのよりまず叩かれたことそのものにビクっとした。

「何?」
「歩き煙草、いけない。ちっちゃい子が火傷したらどーすんの?」

 もしもし?
 思わず目が点になる。こいつぁ何の冗談だ。えらそうに言ってる当人がその『ちっちゃい子』なんですが。
 白いとっくりのセーターに水色のジャンパースカート、左胸に白い羊のアップリケ。赤い眼鏡に赤い靴、胸元でアルファベットのgみたいなqみたいな形のピンクのペンダントがゆれている。横についてる金色の鈴はどっかで見たようなことがある。
 つやのあるふわっとした黒髪に濃い茶色の瞳、象牙色の肌……東洋系か。年の頃は5つか6つ、えっらい気の強そうな女の子。
 口をへの字に結んできっとこっちをにらんでる。

「あー、その……お嬢ちゃん」
「しまいなさい。それとも水ぶっかけられたい?」

 やりかねん、この子なら。
 渋々ライターをしまいこんだ。

「えーっと……お家の方はどこかな? もしかして迷子?」
「迷子よ」
「そっか、じゃあポリスマンに」
「だめ」
「何で」
「聞きたい?」
「説明してほしいね」
「OK、それじゃあ」

 女の子はくいっとすぐそばのホットドックの屋台を指差した。

「………情報料ってことですね、はいはい……」

 ちゃっかりしてるぜ。

「Hey,Mr! ホットドッグ一つ、ケチャップとオニオンはたっぷりピクルスとマスタードはちょっぴりね。お願い!」
「OK、お嬢ちゃん。そっちの兄ちゃんは?」
「ヒウェル、何食べる?」
「んー、ああ、コーヒーだけでいいよ」
「コーヒーだって。クリームも砂糖もいれないブラックで死ぬほど濃いやつね」
「兄ちゃん体壊すぞ?」
「……お心遣いどーも……」

 苦笑いしつつ金を払い、コーヒーを受け取ってはたと気づく。
 何でこの子は知ってるんだ?
 俺の名前はおろかコーヒーの好みまで!

「いっただっきまーす」

 改めて足下を見下ろし、一心不乱にホットドックにかぶりついてるちび魔女を観察する。
 あむあむと山盛りのオニオンをこぼしもせず器用に口に入れて行く。このちっこい体のどこに入るのやら。

(あれ?)

 妙だな。何か、俺もこの子を知ってるような気がする……。

「……一口食べる?」
「いや、お気になさらず」

 ホットドックを残さず平らげると、女の子はペーパーナプキンで口をふいてまんぞくげにため息をついた。

「ふぅ……ごちそーさま」
「どーいたしまして。んで、君のご家族はどこにいるのかな。まさか日本ってこたぁないよな?」
「何で、ジャパニーズだってわかった?」
「イタダキマスっつったろ、食う前に」
「さすが。いいカンしてる」
「ありがとさん……で?」

 さりげなく質問の答えをうながしてみる。女の子はしぱしぱとまばたきしてからちょこんと首をかしげた。

「ねえ、マリーナへはどう行けばいいの?」
「そーだな、こっからだとパウエル-ハイド線でずーっと北上してフランシスコ通りでバスに乗り換えかな。そこに居るのか? 家族」
「うん」
「はぐれたのか」
「まあね」
「こっちは南だぞ?」
「ちょっとまちがえた」

 体のサイズの割にスケールがでかいっつーか、大雑把なお嬢さんだ。なーんか、そこはかとなーくだれかを思い出すなあ。

「名前は?」
「ヨーコ」

 ぞわわっと鳥肌が立った。額にじっとりいやぁな汗がにじみ出す。
 落ち着け、落ち着け、日本人にはよくある名前だ。ジョン・レノンのカミさんだってヨーコじゃないか。偶然だ。ただの偶然に決まってる!

「そ……そうか……じゃあヨーコ、ポリスマンに迷子になっちゃったから助けてってお願いしにゆこっか」
「ダメ」

 またかよ!

「何で?」
「わたしね、こう見えても繊細なの」

 どーだか。見ず知らずの男にホットドッグおごらせといてペロリと平らげたお子様が、どの面下げて繊細とかおっしゃいますか。ええ?

「お巡りさんの前に出たらむちゃくちゃ緊張しちゃって……何言おうとしてるのかわかんなくなっちゃうかもしれない」

 ちろりと斜めに俺の顔を見上げると、ヨーコはこの上もなくあどけない表情でにっこり笑った。

「よくわかんないけど、気がついたらこの人といっしょにあるいてましたー、とか……言っちゃうかもよ?」

 このっ、このガキは、イノセントな顔してさらっととんでもないこと口走りやがったよ!

「俺を犯罪者にする気かーっ!」
「た、と、え、ば、の話よ? できればそう言う不幸な結果は避けたいよね、ヒウェル?」

 ぞわわっと背筋に冷たいモノが走った。この女……やっぱり魔女だ。

「OK……君は俺にどうして欲しいんだ?」
「マリーナまでつれてって」
「わかった」
「できれば携帯も貸してほしいな」
「それは、ダメ」
「何で?」
「見ず知らずのお子様に、携帯いじらすほど俺は不用心な男じゃないんだよ……壊されたらコトだし、どこに電話されるかわかったもんじゃねーしな」
「むー」

 ふくれっつらでにらんで来た。どうする? 愛想つかして走ってくかそれとも大人しく条件を飲むか?

「OK」

 ……よし。

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【ex8-19】黄昏に魔女が来る

2009/02/03 19:13 番外十海
狙われるお子様たち。
それぞれ拾われた先でピンチです。

記事リスト

サリーちゃん狙われる

2009/02/03 19:14 番外十海
 その客はひっそりとドアの前に立っていた。

 赤い帽子を目深にかぶった、これまた赤いコートの女性。足音は聞こえなかった。どの方角から来ても、大抵店に来る客はまずウィンドウ越しに姿が見える。それなのに気づかなかったとは。いつからそこに居たのだろう? 

「エドワーズさん。本屋さん。両手が荷物で塞がっているの。開けてくださらない?」
「少々お待ちを……どうぞ」

 ドアを開けて招き入れる。おやおや、柊のリースがすっかりしおれてしまっている……寒さのせいだろうか。後で取り替えておこう。

 赤いコートの婦人はうっすらと微笑み、入ってきた。カツコツと足音を響かせて。けっこう背が高いな。ヒールのせいだろうか。
 なるほど、両手に大きな布の手提げ袋を下げている。エコバッグだろうか。近頃は買い物袋を持参するお客も増えた。
 
「助かったわ……」
「何かおさがしですか?」
「ええ、探しておりますの……子どもを」
「子ども?」
「息子がね、この近くで迷子になってしまったの。あなたご存知ない?」
「さて……参考までにお聞きしますが、いなくなった時の息子さんの服装は?」

 確かに迷子なら一人、奥で眠っている。だがそう簡単に信用するのは性急だ。まずは確認をとらなければ。

「白いセーターに茶色のチェックのズボン、薄い茶色のコート。黒髪で肌は象牙色、目は濃い茶色よ。女の子とまちがえそうなくらい可愛い子なの……ねえ、本屋さん、あなたご存知なんでしょう?」

 にいっと薄い唇を引きつらせて女がほほ笑む。乱杭になった歯がのぞいた。嫌な笑顔だ。それによく見ると爪も長く、尖っている。小さな子どもと日常的に触れ合う人間にしては、いささか不自然ではないか?
 百歩ゆずって付け爪だとしても、子どものことを第一に考える母親があんな物を身に着けるとは思えない。アクセサリーにしろ、ネイルアートにしろ、我が子に怪我をさせる可能性のあるものは……極力、避けるはずだ。

 エドワーズの胸の奥で密かに警報が鳴り始めた。

「あの子、ここにいるのよね? そうでしょう? ね、エドワーズさん」
「Ma'am、まだ肝心なことをうかがっていません」

 油断なく距離を取りつつ身構える。さりげなく店の奥に通じる扉と女の間を遮るようにして

「息子さんの名前は、何と言うのですか?」
「名前?」

 女は立ち止まり、ぎくしゃくと首をかしげる。

「そうです。息子さんの名前です」
「息子は……私の息子は……」
「答えてください。あなたの息子さんは、何と言う名前なのですか」
「な……ま……え……は……」

 女はぐいっと頭をのけぞらせる。ばさりと被っていた帽子が床に落ち、乱れた長い後ろ髪が広がった。そして額のあたりには2本、堅く結い上げた髪がそそり立っている。

「Ma'am?」

 その瞬間、店内の電気が全て消えた。

「っ!」

 停電か? だが向かいの店の灯りは着いたままだ。この家の電源だけが意図的に落とされたのだ!

「あの子を渡せぇええっ」

 びょっくん、と女が身を起こし、爪の長い腕を伸ばしてつかみかかってくる。とっさに身を沈め、逆に手首をとってひねり上げた。ありがたいことに警察仕込みの体術はまだ残っていてくれた。

「しゃぎゃああああっ」

 歯をむき出し、至近距離から睨みつけてくる。横に割れ裂けた金色の瞳……これは、人間の目ではない!
 気をとられた一瞬、思い切り向こうずねを蹴り着けられる。堅いかかとで強烈な一撃。たまらず吹っ飛ばされてカウンターに倒れ込む。
 ばさばさと本棚の本が落ちた。

「エドワーズさん……危ないっ」
「サクラ? いけない、下がって!」

 ばっちん!

 闇に閉ざされた店の中に、青白い光が弾けた。

「ぎゃあっ」

 赤いコートの女は両目を押さえて悶絶し、ぎゅるぎゅるぐるりとのたうち回り……消えた。一迅のつむじ風とともに。

 今のは、一体?
 閃光の中、ひるがえるコートの裾の奥に見えたあの足は、ハイヒールなんかじゃなかった。二つに割れた山羊の蹄だった。
 それにあの瞳。
 帽子の下から現れたあれは、高く結い上げた髪の毛だったのだろうか。それとも……。
 手のひらに一筋、傷ができていた。まるで尖ったもので引っ掻いたような。もみ合った際にやられたのだろう。

「まさか……角?」
「にゃーっ」

 リズの声にはっとしてカウンターの後ろに走る。小さな体がうずくまっていた。

「サクヤ! 大丈夫ですか?」
「だい……じょうぶ……」

 意識がもうろうとしているらしい。一瞬でエドワーズは腹をくくった。ソファの上からコートをとってきて着せて、自分もコートを羽織る。

 この子は狙われている。
 さっきの女がいつ、また襲って来るかもしれない。これ以上、ここに置いておくのは危険だ。一刻も早く保護してくれる場所に連れて行かないと……ただし、警察ではない。
 エドワード・エヴェン・エドワーズは英国で育った。そして本の好きな少年だった。子どもを攫いに来る魔物の存在は、幼い頃から知識として身近にあった。それに対抗する手段もまた、彼の中に自然に息づいていたのである。

「おいで、リズ」
「みゅ」

 愛猫とサクラをもろとも抱き上げる。
 
「少し走ります。ゆれるから、しっかりつかまっていてください」
「どこ……へ?」
「教会です。近くの」

 聖域にいたる道は狭く、車を出すより走った方が早い。外は既に暗いが、幸い今はクリスマスシーズンだ。家々の窓にも門口にも聖なる印が飾られ、賛美歌が流れている。
 守ってくれるはずだ。

「行きますよ」

 こくっとうなずき、しがみついてくる。
 小さな体を抱えてエドワーズは走った。
 教会へ。
 聖域目指して。

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ちび狼奮戦す

2009/02/03 19:16 番外十海
「さあ着いたぞ。ここが俺の家だ。つっても兄貴んとこに居候してんだけどな」

 サンフランシスコの西側、サンセット地区で路面電車を降りて数ブロック歩く。太平洋から吹く湿った風が山地に遮られるこの地区は年間を通じて曇りの日が多く、同じ海沿いでも心無しかマリーナ地区より肌寒い。サンセット……文字通り陽の沈む海に面した街。
 半地下のガレージと二階建て、えんぴつさながらに縦に細長い家が横に連結する一角にテリーの家があった。
 玄関を入ると幅の狭い廊下が奥へと続き、二階に通じる階段、リビングに通じるドアがある。

 拾ったもこもこの小さな客を、まずテリーは台所へと案内した。

「のど乾いたろ。ほれ、水だ」

 ぴしゃぴしゃと水を飲みながら様子をうかがう。
 見た所(そして嗅いだ所)この家に動物は飼われていない。それなのにすっと犬用の皿が出てくるのがちょっと不思議。もしかしてしょっちゅう犬を拾ってるのだろうか?

 それにしても……困ったことになった。
 変身したきり、人間に戻れない。いつもは意識しなくても時間が経過すれば自然と元の姿に戻ることができた。かえって変身が解けないように集中が必要だったくらいだ。
 あのとき、魔女はコウイチを動物に変えようとしていた。そのせいだろう。このまま元に戻れなくなったらどうしよう。

「どうしたー。元気ないな……そうか、腹減ってるんだな?」

 テリーは冷蔵庫を開けると紙パックの牛乳を取り出し、パックから直に飲んだ。
 くいっと口元をぬぐい、やかんに水を入れてお湯をわかしはじめる。

「待ってろ。すぐ飯にしてやるからな………」

 お湯でふやかしたドッグフードに、犬用の粉ミルクをたっぷり混ぜたご飯はとてもおいしかった。
 ぽんぽんにふくらんだお腹がちょっぴり重たい。食事が終わると、テリーに抱き上げられて二階に上がった。階段を挟んで二つある寝室のうち、一つが彼の部屋だった。

「こっちは兄貴の部屋だから入っちゃだめだぞ。お前はこっち」

 床に降ろされ、ちょこまかとテリーの後をついてまわる。興味もあったが別に目的があった。そう、彼のジーンズのポケットに入っている携帯だ。
 テリーはサリーの友達だ。きっと、携帯の番号も登録されている。リストから選んでかけるのなら、今の自分にもできるかもしれない。
 電話したからって話せるわけじゃないけれど、コウイチとロイに自分がここにいると伝えることはできる。
 
 ぴょん、と飛びつく。
 ……おしい、鼻先をかすめた。もう一回! 床に伏せて身構えていると、またひょいっと抱き上げられた。

「ここがお前の寝床だぞ」

 段ボール箱の中に使い古した毛布が敷かれている。先客が残したらしいかみ傷があちこちにあってぼろぼろだけど、清潔であったかい。
 つい、我を忘れてもふもふ潜り込む。その間に箱の外でカシャカシャと金属音がした。

(何だろう?)

 しまった! ペット用のサークルで周りを囲まれてしまった。床の一角にはトイレシートをセットした犬用のトイレも置かれている。

「トイレはそこな。庭でしたくなったら教えろよ?」

 慣れてる。やっぱりしょっちゅう犬を拾ってるんだ。優しい青年だな。しかもきちんと適切な世話をしている。
 この場合はそれでかえって困ったことになってるんだけど!

「くぅうんん…………」
「いい子にしてろよ」

 ぱたぱたと頭を撫でるとテリーはクローゼットから着替えをひっぱりだし、部屋を出ていった。ぴん、と耳を立てる。
 せっけんのにおいとシャワーの音……風呂か。

 携帯はジャケットと一緒に無造作にベッドの上に放り出されたまま。
 これはチャンスだ。
 低く体を伏せる。全身の筋肉に力を込めて……ジャンプ!

 狼の脚力は同じサイズの犬より格段に強い。ほとんど後足の力だけでサークルの上端まで達することができた。軽く前足をひっかけて体を前に送り出す。

 成功!

 チリリン、チリン。二つの鈴がクロスと触れ合い堅い、透き通った音色を奏で、晴れてカルは自由の身となった。
 さあ、次は携帯だ。やすやすとベッドに飛び上がり、携帯をくわえたが。

 つるりん。牙の間をすり抜けて床に落ちてしまった。

(あ)

 慌てて床に降りて、注意深く(自分ではそのつもりだった)前足で開こうとするが……がりがりとむなしく引っ掻くばかり。
 しかたがないのでストラップを前足で押さえて固定して、口でくわえてそろそろと持ち上げる。よし、隙間ができぞ。素早くもう片方の前足を突っ込む。
 うう、やっぱり滑るなあ………あっ。

 また滑った。あきらめずにくわえる。じりじり上にひっぱって……あっ、また。
 夢中になってがしがしやっていると、頭の上から声が降って来た。

「こら!」
「きゅっ!」
 
 999091422_238.jpg ※月梨さん画「わるいパピー」
 

(ち、ちがうんだ、テリーくん、これはイタズラしてるんじゃなくてちょっと借りようとしただけでっ)

 必死になって上目遣いに訴えるが、どう見ても『携帯をいたずらしているわるいパピー』にしか見えない。問答無用でとりあげられてしまった。

「あーあ、傷だらけじゃねぇか」

 舌打ちするとテリーは携帯をデスクの引き出しに入れてしまった。

(あああ、さすがにそれは出せないーっ)

「お前、サークル飛び越えたのか! すごい脚力だな。さすがウルフドッグだ」

 ひょい、とだきあげられ、全身なでまわされる。その時になってようやく、相手がトランクス一丁に首にタオルをかけただけと言う誠に魅惑的な姿をしていることに気づいた。

「うーん、やっぱ筋肉の着き方が普通の犬と全然ちがうなー。全身バネだな……」
「くぅうん」
「この牙でがしがしやったのか? んん? 俺の携帯美味かったか?」

 めりっと唇をめくりあげられる。

(ちがうんだ、食べようとしたんじゃなくて、連絡したかったんだよ!)

 目で訴えたところで通じるはずもない。

「待てよ、携帯……あ、そーか、お前のそのアクセサリー、サクヤの携帯のストラップと同じなんだ。ひょっとして飼い主、知り合いか?」

 よくぞ気づいてくれた! 尻尾をばたばた振って喜びをアピールしてみる。

「わう!」
「お、いっちょまえに返事するか。かしこいなあ……サクヤに電話してみるか……」

 チャンス到来。きっとコウイチかロイが出るはずだ。後ろで吠えれば気づいてくれる!
 
 テリーは立ち上がり、デスクに向かって歩いて行く。とことこと足下をついて行く。引き出しに手をかけた、その瞬間。

「……う」

 窓の外にあの女が立っていた。ここは二階なのに。
 赤い色が閃いたと思ったら、壁も窓ガラスもすり抜けていきなり部屋の中に入ってきたではないか!
 魔女には人間の壁など関係ないのか?

「見つけたよ。こんな所にいたんだね……」
「うわっ、お前、何だ? どっから入ってきた?」
「……邪魔だよ。おどき」

 くわっと金色の目が見開かれる。テリーの体が宙に飛び、床に叩き付けられた。

「ぐっ、う……くっそぉ!」

(彼に手を出すな!)

 倒れたテリーの前に踏ん張り、牙を剥く。魔女は甲高い声で笑うと軽く手を一振り。
 ちいさな狼は勢い良く飛ばされ、壁に激突した。

「きゃんっ」
「ちび! くっそぉおお、女だからって容赦しねえぞっ」

 テリーはがむしゃらに飛びかかった。こいつがどこのだれで、何をしにこの家に侵入したかはわからない。ただ、無力な動物を楽しんでいたぶる姿に体中の血が煮えくり返った。

「うっ、こ、このっ、お放しっ!」

 痩せた肩をつかんで床に押し倒す。女はきぃきぃわめいて引っ掻いてきた。無我夢中で押さえ込む。

「ええい……まずお前から片付けてやる!」

 びきっと女の額の皮膚が裂け、尖ったものが生えてきた。まさか、これは……角?
 ぎょっとした瞬間、虚をつかれて逆に押し倒される。女はのしかかり、見せつけるように鋭い切っ先を目の前に突きつけてきた。

「さあてどこから引き裂いてやろうか。目か? 鼻か? それとも……生意気なこの口から?」
「ぐっう、ううっ」
「ゆっくりねじこんで、内側からびきびき裂いてやろうね。痛みが全身に行き渡るよう、じっくりと………」
「や……め……ろ……」

 尖った角の先端が口の端に押し当てられる。得体の知れぬ恐怖が境目を越え、現実のものとなろうとしていた。

「ぐわおう!」

 地の底から轟く低い声。地獄の番犬もかくやと言ううなりを上げて、ちっぽけな体が宙を飛ぶ。
 閃く白い牙ががっつりと、痩せた肩に突き立った。

「ぎゃああああああああっ」

 顎の力も牙のサイズも、大人の時に比べれば微々たるものだった。けれどカルが魔女にかぶりついた瞬間、首にかかった魔除けの十字架が痩せ細った肩に押し付けられたのだ。
 純粋な鉄で作られた、聖なる印が魔女を焼く。直接触れただけに効果は絶大だった。

「ひぎぃいっ」

 よろめきながら魔女は壁に突進し、自らの影にとけ込むようにして姿を消した。

「くぅうん」

 テリーに近づき、引っ掻かれた腕や顔の傷を舐める。

「あ……ありがとな………」
「わうう?」

 テリーは目をうるませてちび犬を抱き上げた。
 こいつが俺を助けてくれた。命の恩人だ! 何て勇敢な奴なんだ。

「ちび。すごいぞ、お前。ガッツがあるな……」

 パピー特有の丸みのある鼻面に顔をよせると、キスをした。限りない感謝と純粋な賞賛の意をこめて。
 その瞬間。
 ぽうん、とふくらませた紙袋の割れるような間の抜けた音がした。と思ったらいきなり床に押し倒される。

「え? え? ええっ?」

 だれかが上にのしかかっていた。ちょっぴり困ったような顔をして。癖のある黒い髪、ネイビーブルーの瞳。眉の印象的な東欧系のハンサムな男。

「………やあ、テリーくん」
「おおおおおおおおおおおおお、お前はーっっっっっ!」

 しかもそいつは裸だった。
 全裸だった。
 何も着ていなかった。
 至近距離に、ふさふさの胸毛に覆われたたくましい胸板が。その下は……ああ考えたくない!

「ランドール……なんで……ここに……」
「助けてくれて、ありがとう」

 顔をよせられ、ちゅうっと頬のあたりで不吉な音が。しかも何だか妙にあったかいしめった感触が……。

(俺、キスされた)
(全裸の男に)
(はだかのほもに)

(  は  だ  か  の  ほ  も  に  )

 ぐるぐると目に映る全てのものが渦を巻き、テリーの意識は暗闇に飲み込まれた。

「テリーくん?」

 ひたひたと軽く頬をたたいてみたが、無反応。やれやれ、よほど驚いたらしい。無理もないな……。
 自分でも信じられないくらいだ。こんなに急に元の姿に戻れるなんて。詳しい理由はわからないが、きっかけが彼のキスだったことはまちがいない。

 恩人をいつまでもこんな格好で床に寝かせておく訳にも行くまい。抱き上げてベッドに寝かせ、毛布をかけた。
 さて、今度こそ連絡するとしよう。ああ、五本の指が自由に動かせるのがこれほどありがたいとは。
 デスクの引き出しから携帯を取り出し、サリーの番号を選んでかけた。

「ハロー?」
「やあ、コウイチ」
「ランドールさん! 元に戻れたんですね!」
「ああ。テリーくんのおかげでね」
「テリーさん……そこに居るんですか?」
「うん。彼は今、その……お休み中だ。ヨーコとサリーはそこにいるのかい?」
「先生と、サクヤさんは…………」

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戦う本屋さん

2009/02/03 19:21 番外十海
 カツ、コツ、カツ、コツ、カツ、コツ、カツ……。

 蹄の音が追って来る。
 蹴られた足が疼く。

 はあっ、は、はぁっ、はっ、はっ、はっ……。

 自分の吐く息の音がやけに耳に響く。もう息があがってきたのか……日頃の運動不足がたたったか。だが悔いてる暇はない。今はただ、走れ。

 教会の周囲に空白地帯があった。その一角は近代的なアパートが立ち並び、住んでいるのは一人暮らしの若者がほとんど。この季節は見事に留守ぞろい、クリスマスイルミネーションも飾られてはいない。
 さしかかった途端、腕の中でリズが「ふぅう……」と押し殺したうなりを上げ、ほぼ同時に背後から蹄の音が聞こえてきた。
 
 妙だ。
 目に見えるものが、何もかも薄紙を一枚挟んだように色あせて立体感を失い、くしゃりと歪んで見える。すぐそこの表通りを走っているはずの車の音が聞こえないのはどう言う訳だ?
 ともすれば悪夢の中に迷い込んだような錯覚に飲み込まれそうになるが、腕の中のサクラとリズの温もりが教えてくれる。
 これは確かに現実なのだ、と。

 足音が近づいて来る。だが、教会もまた近い。
 サクラの手がコートの胸元をつかむ。小さく息を飲むのが伝わってきた。あの女を見たのだ。

「大……丈夫……」
「はい」

 本当に大丈夫なのかどうか、自分でもわからない。この子も薄々気づいているはずだ……それなのに。
 健気な言葉に、枯れたと思った力がまた湧いてくる。
 守りたい。
 守らなければ。

 歯を食いしばり、エドワーズは走った。
 教会の門を潜り、芝生の中、まっすぐ伸びる石畳の通路を走る。子どもの頃から日曜ごとに通い慣れた道筋を、これほど長く感じたことはない。

 門の手前で蹄の音が躊躇する。ほんの少しだけ。選択は正しかった。やはり聖域は苦手なのだ。
 一気に入り口の階段を駆け上がる。聖堂の扉はいつも開いていた。

 玄関ホールに入ると震える手でエドワーズはサクラを下に降ろした。不安に濡れる黒い瞳。まるで磨かれた黒曜石のようだ。
 こんなに切羽詰まった(そして現実離れした)状況の中でも、美しいと思った。こみ上げる愛おしさがひたひたと胸を打つ。

「……走れますね? 振り向かないで。祭壇の後ろに隠れていなさい」
「はい」

 寒さと緊張でこわばった頬に笑みが浮かぶ。それは豪快な勇者の笑みにはほど遠く、店の中で彼が時折見せる、おだやかな微笑みよりほんの少し固かったけれど。
 サクヤには何よりも安心できる笑顔だった。

「リズをお願いします」

 小さな腕に愛猫を抱かせ、そっと背中を押して送り出した。
 開け放たれた両開きの扉を抜け、サクラが礼拝堂の中に走って行くのを見届けると、エドワーズは入り口の脇に置いてあった燭台を手にとった。
 大人の背丈ほどの長さの燭台は十分な重さがあり、武器として使えそうだ。バランスもいい。警棒の扱いは警察学校でも得意な科目だった。

 ほぼ同時に外に通じる扉がばんっと乱暴に蹴り開けられる。

「来たな」

 エドワーズは礼拝堂の扉を背に身構えた。

「これが最後のお願いよ。あの子を渡して……エドワーズさん」
「お断りします」
「だったら………」

 ざわざわと女の髪が広がり瞳が金色に輝く。額にそそり立つ二本の突起は、もはや髪の毛とは見間違えようがなかった。
 あれは、角だ。
 ねじれて弧を描く、山羊の角。

「お前の心臓をもらうよ!」

 赤い衣をひらめかせ、山羊の角、山羊の足、山羊の瞳の魔女が襲ってきた。
 だが動きが大振りで、無駄が多い。油断しているのだ。たかだか本屋、引き裂くのは容易いと。エドワーズは冷静に燭台を構え、突進してくる魔女に向かって強烈な突きを見舞った。
 金属が肉を打つ鈍い音が響く。皮肉なことに魔女自身の勢いがエドワーズの一撃をさらに強めていた。

「ぐぇっ、こ、このっ、古本屋風情がっ」

 魔女が腹を抱えてあとじさる。
 手応え有り。こいつは現実の武器で渡り合える相手なのだ。店の中で見せたあの厄介な力も教会の中では弱まるらしい。
 だが、まだ立っている。並の人間なら骨が折れ、倒れていてもおかしくない打撃を受けているにも関わらず。

 べっと血の混じった唾を吐き捨てると、魔女はガチガチと歯を鳴らした。右手のかぎ爪が伸びて、ねじれて腕そのものと融合し、いびつな形の刃物を形成して行く。三日月の刃、さながら死神の大鎌。

「ケーッ!」

 甲高い声で叫ぶと魔女は右手の大鎌を振り上げ、飛びかかって来る。もうさっきまでのような大雑把な動きではない。俊敏にして冷徹、獲物を狙う狩人の動き。かろうじて受け止めたが切っ先が頬をかすめる。
 堅い刃物のくせに妙に生暖かい……こいつは確かに生き物の一部なのだ。
 
 09129_1133_Ed.JPG ※月梨さん画「戦う本屋さん」
 

「くっ」
「少しは楽しませてくれるわよね? エドワーズさん」

 獣の息が頬を撫でる。
 乱杭の歯をのぞかせて、至近距離で女がにたりと笑った。 
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 サクヤは走った。子どもの体、子どもの足では思うほどの半分の速度も出せない。両脇に並ぶ木製のベンチはまるでそそり立つ壁。どこまで行ってもきりがない。
 腕に抱いたリズのしなやかさ、温かさにすがりつき、必死で足を前に運ぶ。

 祭壇へ。
 祭壇へ……。

「にう」
「うん……もうちょっと」

 膝がかくかく震える。足がもつれる。よろめきながら祭壇前のわずかな段差をよじ上り、後ろに回り込んだその時だ。
 がつっと、金属と金属のぶつかる音がした。

「エドワーズさんっ」

 冷たい指でぎゅっと心臓を握りつぶされた気がした。
 魔女が大きな歪な刃を振りかざして切り掛かっている。エドワーズは懸命に燭台で受け流しているが、手や頬に切り傷ができていた。
 彼は元警察官だ。人間が相手なら取り押さえることもできたろう。だが、今の相手は異界の魔物、人の世の理の通じる相手ではない。

 このままじゃエドワーズさんが危ない。自分が何とかしなければ。あの魔女は神聖なものが苦手だ。何か、何か使えるものは! 
 祭壇の上には、杯に十字架、香炉、聖餅を収めた器……ミサに使うための神聖な道具が並んでいる。

(あれだ!)

 のびあがって手を伸ばす。が、届かない。

「リズ、お願い!」
「みゃっ」

 ほっそりした白と薄茶の体がしなり、祭壇の上に飛び上がる。リズはまず杯に狙いを定めた。前足で器用に倒し、転がして下に落とす。
 金色の杯が落ちて来る。サクヤは手を伸ばし、受け止めようとした。
 指先が杯に触れる。
 その瞬間。

「みぃっ?」

 リズは見ていた。その青い瞳で。
 小さな子どもの姿だった『サクラ』が淡い光に包まれ、大人の姿に。本来の23歳の『サリー先生』に戻る有様を……。

「……戻った」

 手のひらを握りしめた瞬間、鈍い音が響いた。

「ぐっ」

 はっと礼拝堂の入り口に目を向ける。エドワーズが床に組敷かれている。魔女は勝ち誇った顔でのしかかり、今にも大鎌を振り下ろそうとしていた。

(エドワーズさん!)

 すうっと息を吸い込む。ここは聖域。崇める神は違えども、礼拝堂に満ちる清らかな空気が力を貸してくれるはずだ。

(今度は俺があなたを……守ります)

 甲高い澄んだ音を立て、サクヤの周辺に青白い火花が散る。金属の十字架に、聖杯に、ステンドグラスの枠にぴりぴりと細かな光のラインが走る。

「神通神妙神力……加持奉る!」

 ぱしん、と両手を打ち合わせ、身の内に宿る全ての力を振り絞り、雷に変えて解き放った。

 その瞬間、礼拝堂はまばゆい閃光に満たされた。
 祭壇から扉に向かって一筋白い稲妻がほとばしり、天上近くの壁にしつらえられた天に通じる円形のステンドグラス……薔薇窓から目もくらむ光があふれだす。

 エドワーズの首を撥ねようと振りかぶった魔女は、サクヤの渾身の雷光を真っ正面から食らった。

「ぐぅええええぉあああああああっっっ」

 びょっくん、と背筋をのけぞらせ、衝撃で壁に叩き付けられる。エドワーズはよろりと起き上がり、燭台を構え……不規則に痙攣する魔女ののど元めがけ、貫き通せと繰り出した。

 がつ……ん。

 燭台の切っ先が壁に食い込み、金属の震える独特の音が耳に響き手を震わせる。
 魔女の姿は消えていた。
 まるでそこに存在したことすら夢だったように、あっけなく。

「え……?」

 車のブレーキ音。ざわざわと近づく人の足音、声。
 音が。
 色が、戻っていた。

「あ……サクラ!」

 壁に、椅子に手をつき、よろめく体を支えながら礼拝堂の中に歩み入る。白と薄茶のほっそりした猫が駆け寄って来た。瞳孔が開き、瞳がほとんど濃いネイビーブルーに塗りつぶされている。しなやかな長い尻尾がほんの少し、ぽわぽわに逆立っていた。

「リズ………あの子は?」
「にゃおう」
「そう……か……無事なんだね」

 きぃ……とドアのきしむ音がする。顔を上げると、眼鏡をかけた白髪の男性が立っていた。

「どうしたのですか、エドワード?」
「あ……神父様」
「にー」
「おや、リズも一緒でしたか……む」

 神父が顔をしかめる。

「怪我をしていますね、エドワード? 何があったのです」

 頬がちりちりと引き連れ、生暖かい雫がシャツに滴り落ちている。強烈な鉄サビの臭い……これは、汗ではない。やはりあれは現実だったのだ。

「それが……怪しい人物が侵入しようとしていて……泥棒かと思いまして」

 神父はぐるりと礼拝堂の中を見回し、次いで格闘の後の生々しく残る入り口に目をやった。

「どうやらそのようですね。ありがとう、エドワード。教会を守ってくれたのですね?」
「ええ……まあ……そんな所です」

 本当は、守りたかった人は別にいるのだけれど。

「あなたの勇気に感謝します。ですが、危ないことは、ほどほどに……もう警察官ではないのですから」
「はい、神父様」

 リズがおだやかな目をして足にすりよってくる。細長い尻尾をくるりと巻き付けて。
 それ故、わかるのだ。自分は、あの人を守り抜くことができたのだと。

「いらっしゃい。怪我の手当をしましょう……」
「はい、神父様」
 
 
 ※ ※ ※ ※
 
 
 エドワーズとリズが神父とともに奥に入って行く。扉が閉まるのと入れ違いに、礼拝堂の椅子の下から小さな影がちょろちょろと走り出した。
 白と茶色と黒、三色の毛皮の小さな猫、尻尾はうさぎのように丸い。開け放たれた扉から外に飛び出し、集まってきた野次馬の足下をすり抜け外へ。
 この界隈、猫を飼っている家は少なくない。増して今は教会からまばゆい光の放たれた『奇跡』にだれもが夢中。たかだか小さな猫一匹に注意を払う者は一人もいやしない。
 今、まさにこの瞬間、音もなく一つの『奇跡』が進行していることに気づく者も。
 暗がりを走りながら猫の姿が変わって行く。金色の瞳はそのままに前足が宙に浮き、毛皮が羽毛へと変わる。

 すっかり細く、指の長くなった後足が地面を蹴る。
 白い柔らかな翼が広がり、フクロウが一羽。音も無く夜空に舞い上がり、一直線に飛んでゆく。
 自分がこれからどこに行けばいいのか、全て心得ているようだった。
 
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ちび魔女VS角魔女

2009/02/03 19:22 番外十海
 
 禍々しい風に巻き上げられ、上も下も右も左も分からない鉛色の霞に閉じ込められた。手足をばたつかせて必死に逃げ出そうとしていると、ばちっと火花が散って、急にころりと放り出された。
 サンフランシスコの路上に。
 
 膝がすりむけ、着地の時にひねったのか足首がずきずき疼いた。ちょっとでも体重をかけると骨に、腱に響くシリアスな痛みが脳天に突き抜け、全身がすくみあがる。かろうじて悲鳴はかみ殺したが、目の縁ににじむ涙まではコントロールできなかった。

(大丈夫……これぐらい、すぐ治せる。だから)

 震える手を足首に当て、意識を集中する。
 痛くない。自分は平気。自分は泣かない。何度も言い聞かせているうちにぽうっと手のひらが熱くなり、『本当に』痛みが引いた。

 良かった、傷を癒す能力は残ってる。でも、妙に疲れる……。いつもはもっと整然と手順を踏んでいた。自分の中に眠る漠然とした力を目的に会わせて導くやり方を心得ていたはずなんだけど。
 息をするのと同じくらい自然に。
 
 いつもできるはずのことが今、できない。

「サクヤちゃん………風見……ロイ……」

 きりっと歯を食いしばる。一番呼びたかった名前に鍵をかけ、背筋を伸ばして立ち上がった。
 今、彼の名前を口にしたら、きっと涙がこぼれてしまう。
 だから、歩こう。
 目の前の道路に細い溝が走っている。どこまでもまっすぐに。ケーブルカーの線路だ。
 あのアパートにはケーブルカーに乗っていった。だから、これに沿って歩いて行けばいつかはたどり着けるはずだ。

 しかしながら実際に歩き始めるとなかなかに厄介だった。日本なら自分が一人でちょこまか歩いていようとだれも気にも留めまい。
 だがここはアメリカ。小さな子どもが危険な状況にいることを見過ごすことも罪となる。善意のみでは動かぬ者も、自らに火の粉が降り掛かるとなれば否応無く『市民の義務』を果たさざるを得ない。
 
「君、一人なの?」

 だれかに声をかけられるたびに「パパー」「ママー」と口走りながらちょこまかと人ごみに潜り込んだ。すると相手も『ああ、親がいるのだな』と勝手に納得してくれる。
 ほとぼりの冷めた頃を見計らってまた、ちょこまかと歩き出す。困った。これじゃあまりに能率が悪すぎる。魔女だけじゃなく、善意の市民の目も気にしなくちゃいけないなんて。
 思うように進めず焦りはじめた時、雑踏の中に彼を見つけた。

(ヒウェル!)

 その瞬間、ヨーコは決心していた。
 
 こいつに付き添いを頼もう。多少正体がばれた所でもともとこの男は自分を『魔女』だと思ってる。今更、恐怖エピソードの一つ二つ追加されたところでどうってことないよね。
 考えているうちにターゲットは胸ポケットをまさぐり煙草をくわえた。そして銀色のライターを取り出し、蓋を開けて……。

(あーっ! ったくあの男は歩き煙草やらかすつもりかあ?)

 つかつかと近づき、手の甲をひっぱたいてやった。

「こらっ」
「何?」
「歩き煙草、いけない。ちっちゃい子が火傷したらどーすんの?」

 そして今。

「ヒウェル、ヒウェル、早く!」
「待ってろって……ったく子ども料金払うの何年ぶりだ? けっこう値上がりしてんなー」

 ヒウェルが乗車券を買う間、ヨーコは彼のダウンジャケットのすそをつかんで油断なく周囲を見回していた。

「来ーたー!」

 ジャケットのすそを引っぱり、近づいて来るケーブルカーに走りよる。
 空は分厚い鉛色の雲が立ちこめ、太陽は雲の向こうから弱々しい光を投げかけるのみ。しかもだいぶ西に傾いている。
 既に木陰物陰、路地裏には灰色の薄闇がわだかまり始めていた。
 ぽわぽわとかすむオレンジの灯り。街のネオンとクリスマスのイルミネーションが余計に周囲の暗がりを際立たせる。
 黄昏時は不安をさそう。胸の奥にぼんやりと、理由の知れない心細さがかき立てられる。だけど今、ヨーコの胸の奥をじりじり焦がすあせりと不安にははっきりとした原因があった。

 魔女が来る。山羊角の魔女が追って来る。

 一刻も早くマリーナに戻り、風見たちと合流しなければ……一緒になった所で今の自分がどこまであの子たちの役に立てるかわからないけれど。

 ギイギイ、ガタガタ……ゴトトン。
 ケーブルカーが止まる。怪獣のような声を立てて四角い金属の巨体をゆすって。さあ、早く乗り込もう。

 手すりをつかみ、入り口のステップに足をかけ、次の一歩を……………
 踏み出す前に動きが止まる。その場でくるりと方向転換、ヒウェルの横をすりぬけてすたすたと歩き出す。

「お、おい、どこ行くんだ!」
「……やっぱ乗るのやめた」
「何で! もうチケット買っちまったぞ?」
「気が変わった」
「ったく。せめて買うまえに言え、買う前に!」

 歯ぎしりするヒウェルからついっと目をそらし、走り去るケーブルカーを見据える。
 赤いコートに赤い帽子の女が乗っていた。悔しげに歯をガチガチ鳴らしてこっちをにらんでいる。
 待ち伏せしていたのだ。

「しょうがねぇ。バスで行くか?」
「やだ。酔うから」
「じゃあ、メトロ」
「ぜっっっったい、イヤ」

 閉ざされた空間。地下の暗闇。それこそ魔女の思うツボだ。乗り物に乗るのは危険すぎる。襲ってこられたら逃げられない。何より他の乗客を巻き込んでしまう……だが、ヒウェル一人ならどうにか庇い通せる。
 できるかどうかわからないけど、やらなきゃいけない。
 それに何のかのと言いつつこの男、逃げ足だけは早いもの。

「それじゃどうしろってんだ。タクシーか?」
「車は酔うんだってば」

 停めたタクシーの後部座席に赤い女、なんてことになったらシャレにならないし、ドアが閉まった途端に運転者が角生やしてにんまり、って可能性もある。

「ったく、世話の焼ける……それじゃ、あれだ。いっそ、歩くか?」

 歩く? さすがにそれは困るな。大人の時ならいざしらず、今の自分には時間がかかりすぎる。
 きょろきょろと周囲を見渡し、問題を解決してくれる絶好の手段を見つけた。適度に速度があり、しかも自由度が高い。
 ずいっと指差す。

「あれがいい」

 ヨーコの指差す先には『レンタルバイク』(貸し自転車屋)の看板があった。

「こっちにもあるんだ……レンタルバイク屋っつーたらフィシャーマンズ・ワーフ周辺、ゴールデンゲートブリッジ巡りが定番かと思ったぜ」
「市内に乗ってきて、返却したい人のための『支店』なんじゃない? あるいは市内で借りたい人のための」
「まー規模からすりゃそんなもんだろうな……どれ」

 店員との交渉の末、ヒウェルはComfort Mountainとキッズ用のTag-a-longs(子ども用の後輪と座席、ペダルのついたオプション。大人用自転車の後ろに連結する)を借りた。二台合わせてしめて24時間レンタルで48ドル也。
 
「キッズ用の自転車とTag-a-longsとシートがどれも同じ値段ってどーも納得行かないんだよなあ。しかもキッズ用は24時間レンタルしかねーし」
「シートにすればよかったのに」
「そうは行くか!」

 自分用の自転車にまたがると、ヒウェルはくいっと後ろの子供用を指差した。

「お前もこげ」
「ぶー」

 2人でペダルをきーこきーこ。二つの力を一つに合わせて走り出す。海岸までは下り坂が大部分だがたまには平地もある。いくらもたたないうちにヒウェルが早々と音を上げた。

「くっそー、腰に来る、腰にっ」
「はやっ」
「デリケートなんだよ……お前さんはタフだねえ」
「鍛えてるから」

 信号待ちで止まっていると、背後からちっちゃな手が伸ばされ、腰を撫でた。

「うわっ、くすぐった……あ、あれ? 何か楽になったような気がする……」
「うふ」

 ちらりと背後を振り返る。眼鏡ごしににまっと笑いかけてきた。口元から歯並びのきれいな白い歯がのぞく。

(やっぱりこいつ、あのヨーコなんじゃないか?)

 あり得ない。いくらちっこくてもヨーコ・ユウキはれっきとした大人だ。自分と同い年だ。
 馬鹿げた想像を払拭すべくムキになってきーこきーこと走っていると、かすかにチリンと鈴の音がした。
 
「ストーップ!」
「はいはい……」

 きぃいい、とブレーキをかけて一旦停止。ふりむくと、ヨーコがちっちゃな手を伸ばして右に曲がる細い道を指差していた。

「そこ、曲がって」
「マリーナへは遠回りだぞ?」
「いいから、曲がって」
「へいへい」

 何故だか逆らえず、素直に曲がった。
 表通りから内側に入り、住宅街にさしかかる。道に沿ってしつらえられたクリスマスのイルミネーション。庭木にまめランプを巻いただけのものからトナカイにサンタクロースの姿をどんとかたどったもの。
 雪だるま。カートゥーンのキャラクター。お決まりのクリスマスツリー。
 刻一刻と暗くなって行く景色の中で、ぽわぽわとあったかそうに灯っていた灯りが、いきなり消えた。

「え?」

 電球が切れたとか。あるいは配線が途切れたとか。そう言った常識内の消え方とは明らかに違っている。
 自転車を走らせる自分たちの背後から目に見えない何かが追いかけてくるみたいにぽつりぽつりと消えて行く。黄昏の暗闇が広がって行く。

 暗闇が、追って来る。

「……何だ? これ」
「追いつかれた……ヒウェル、止めて!」

 切羽詰まった声に即座にブレーキをかけた。その刹那。

 ブゥフゥーーーーーーーーーーーーーウゥウウウウウウ。

 風が吹く。断末魔の獣の呻きにも似た音を立て、生臭く不吉な風が駆け抜ける。濃密な腐敗と崩壊の瘴気をまき散らして。

「来る! 走って!」

 いつからそいつが居たのかヒウェルはわからなかった。足音も聞こえず、近づいてくる姿も見えなかった。

 不意に空中からわき出したとしか思えない。赤い服をなびかせた背の高い女。枯れ木みたいにガリガリに痩せ、指先にぞろりと鋭い爪を伸ばして……いや、爪なんて生易しいレベルじゃないぞ、あれは。
 指先に生えたナイフが5本、まるで古いホラー映画の殺人鬼だ。あんなんで掴み掛かられたらひとたまりもない!
 とっさにヨーコを抱えて伏せた。ガシャン、と自転車が路面にひっくり返る。

 ざん!

 ダウンジャケットが切り裂かれ、細かな白い羽が宙に舞う。肩から背中にかけてざっくりやられたか。妙にすーすーするなあ。
 皮膚に直に風が当たってるんだ……多分、もっと奥にも。そのときになってようやく、体に加えられた衝撃の結果が脳みそに到達した。

「痛ぇ……」
「おばか! 何で逃げなかった!」
「俺の方が厚着だ。アーマークラスが低い奴が前に出るのが鉄則だろ……それに」

 カツン、と少し離れた所で地面に降り立つ気配がした。えらい滞空時間が長かったな。あちらさん空中浮揚の心得でもあるのか。

「恩人にその言い草はないだろ、お嬢ちゃん?」
「自分で恩人とか言うな!」

 カツコツカツコツ……
 足音が聞こえてくる。早いとこ起き上がらないとやばいぞ。あと一撃もちこたえられるかどうか自信がないが、とにかくこの子を逃がさないと。せめてそこの家の戸口まで。
 ああ、まったくこれだけ騒いでんのに何だって野次馬の一人も出て来ない? 市民の義務はどーした。早いとこだれかポリスを呼んでくれ。赤い服着た女が刃物振り回して暴れてますって!

 よれよれと立ち上がる。切り裂かれたジャケットから平べったいものがこぼれ落ちた。ポケットにつっこんであったペーパーバックだ。

「この本………」
「ああ、日本の本だな。君の国の本だ」

 この期に及んでのんきなもんだ。だが、こう言う時って得てして頭の回転が猛烈に早くなってんだよなあ。アドレナリン、万歳。
 しかし何なんだ、このカチカチ鳴ってんのは。歯ぎしりか。あー、なんかヤだなあ。この不自然なリズム。

「ヒウェルっ立ってっ!」

 信じられないくらいの力で引っ張られ、よれよれと前につんのめる。少し離れた所に一軒だけ、まだイルミネーションの灯ってる家があった。
 そう、何故かそこだけ灯りが残っていたのだ。

 玄関前の芝生に小さなジオラマが設置してあった。馬小屋の聖母マリアと幼子イエス、そして救い主の誕生を祝う三博士……教会なんかじゃよく見るが、一般家庭の庭先に置かれているのはちと珍しい。
 問答無用でジオラマのそばに座らされる。

「ここに居て。動かないで。命が惜しければ」

 真剣な表情に気圧され、うなずいた。もっとも歩く力はほとんど残っていなかった。傷口からあふれる血が切り裂かれたダウンジャケットを赤く、ずっしりと染め上げていた。

「これ、借りるよ」

 ペーパーバックを手にヨーコはたっと駆け出した。
 魔女は焦らなかった。
 ひとっとびに飛びかかれる間合いを保ったまま、待ち受けていた。首を不自然な角度にのけぞらせ、カチカチと歯を鳴らして。

 ちっぽけな獲物が聖母子像の加護を離れる。
 今だ。
 ゆらりと赤い衣が翻り、やせ細った体が滑るように前に出る。
 正面から魔女をきっとにらみつけると、ヨーコは本を開いた。

 ぱらららら………
 小さな手の中で本のページが勝手にめくれ出し、中から赤い生き物が飛び出した。

「え? フィフ?」

 ヒウェルが目を丸くする。鷲の上半身と翼、獅子の体。ちょっぴり太めで色は赤。そいつはどっから見ても表紙に描かれていたグリフィンそのものだった。色も、形も……大きさも。
 やっと大人の手のひらに乗る程度のちっぽけな。

 魔女はけたたましい声をあげてけらけらと笑い出した。

「おやおや、可愛らしい助っ人だこと………お子様にはお似合いだわね!」

 吐き捨てるや角を振り立てて地面を蹴り、びょうんっと宙に飛び上がる。かと思うと空中で不自然な角度に方向転換、右手にぞろりとはえそろった5本のかぎ爪を振り上げ急降下。
 ヨーコは奇妙なデジャビュを覚えた。
 あの時は……角だったかな。

「真っ赤なドレスを着せてあげるわ、お嬢ちゃん!」

 無論、今度も避けるつもりはない。逃げるなんてもっての他。
 真っ向から逃れようのない一撃を受ける一瞬は、同時にこちらから狙い澄ました一撃を放つ絶好のチャンスでもある。
 一声鋭く命じる。

「フィフ! やっちゃえ!」

 もわっと手のりグリフィンの体が膨れ上がり、次の瞬間。

 びゅーっ!

 口から一筋、真っ赤な炎がほとばしり、真っ向から魔女の顔を焼いた。

「ぎぃゃあああっっ」

 肉の焦げる臭いをまき散らし、顔を押さえてのたうち回る。自らのかぎ爪で顔をかきむしり、指の間から真っ赤な血が滴り落ちるのもかまわずに。
 
「マジかよ……本当に火ぃ吹きやがった」

 そう、この本に出てくるグリフィンは炎を吐くのだ。
 
「いっけえ!」

 続いて拳大の緑の火の玉一発、追い打ちで。ぼわんと弾け、魔女の上半身が炎に包まれる。髪の毛の焼ける胸の悪くなるようなにおいが強烈に立ちこめた。

「あああっ、熱いっ、熱いぃいっっ!」

 角の生えた魔女とちび魔女。黄昏の対決はちび魔女に軍配があがった。
 きりきりともだえ苦しみながら角魔女は姿を消した。生臭いつむじ風とともに、夜の暗がりにとけ込むようにして。

 その途端、周囲のイルミネーションが輝きを取り戻した。
 そしてちび魔女がぱしん、と本を閉じると赤いグリフィンもぽんっと消えたのだった。
 
 
次へ→やっぱ魔女だ…